立札

――近代伝説――

豊島与志雄




 揚子江の岸の、或る港町に、張という旧家がありました。この旧家に、朱文という男が仕えていました。
 伝えるところに依りますと、或る年の初夏の頃、この張家の屋敷の一隅にある大きな楠をじっと眺めて、半日も佇んでいる、背の高い男がありました。それを、張家の主人の一滄が見咎めて、何をしているのかと尋ねました。
「楠を見ているのです。」と背の高い男は答えました。
「それは分っているが、なぜそんなに見ているのか。」
「珍らしい大きな木だから、見ているのです。」
 実際、それはみごとな大木でした。山地の方へ行けば、そのような木はいくらでもありますが、この辺の平野には至って珍らしいもので、根本は四抱えも五抱えもあるほどにまるくふくらみ、それから少し細って、すくすくと幹が伸び、上にこんもりと枝葉の茂みをなしています。張家の自慢の木でありました。それを誉められて、張一滄が大きな鼻をうごめかしていますと、背の高い男はほーっと溜息をついていいました。
「珍らしい大きな木だが、可哀そうなことをしましたね。」
「ほう、可哀そうなこととは、どういうことかね。」
「あんなに、蓑虫がたくさんついています。」
「ああ、あの虫には、私も困っているのだ。何かよい工夫はあるまいか。」
「私に任せて下されば、すっかり取り除いてあげましょう。」
「それが、君には出来るかね。」
「出来ます。」
「うむ。君は何という者かね。」
「朱文という者です。」
 そういうわけで、この背の高い朱文が張家に仕えることになったそうであります。その時彼は、三十歳だったといわれています。
 朱文は張家の一房を与えられ、自ら奥地へ行って秘密な鉱石の粉末を求めて来、繩梯子を拵えて、楠の蓑虫駆除にかかり、遂にそれをやりとげてしまったそうでありますが、その詳細なことは分りかねます。ただ、これまで蓑虫に食い荒されていた楠の葉が、青々と艶々と茂るようになったのを、やがて、町の人たちは見て取りました。
 ところで、楠の方の仕事に、朱文は一日のうち二三時間だけかかるきりで、大抵はぶらぶら遊んでいたようであります。殊に港の船着場に、彼の姿がよく見かけられました。
 大河を上下する汽船や帆船が、種々の貨物をこの港に降してゆきました。赤濁りした河水が満々と流れているのを見るだけでも、なかなか面白いものですが、汽船や帆船の航行を見るのは、更に面白いものですし、それらの船から遠い土地の荷物が降されるのを見るのは、何より面白いものです。いつも多少の見物人がありました。その中に交って、背の高い朱文が、人一倍長そうに思われる両腕を、手先だけ袖口につっこんで腹のところで輪になし、ぼんやり佇んでいる姿は、妙に人目につきました。それがまた他の見物人を誘って、いつも、彼のいるところには人立がふえました。
 船から河岸へ荷役のあるたびごとに、朱文は大抵その近くに出て来ましたし、背が高く腕が長そうだというただそれだけで、妙に人目につくその姿が、だんだん見馴れられて珍らしくもなくなります頃、もう既に朱文のことは、荷役の苦力たちには固より、寄港する船の水夫たちにまで、よく知られてしまっていました。殊に、彼が奉公してる張一滄は、港に商館や倉庫を持っていましたので、その信用が彼の上にまで拡ったことも見逃してはなりません。
 彼はただぼんやり港の荷役の光景を眺めてるだけのようでありましたが、一年ばかりたつうちには、その間に徐々にではありましょうが、荷役人夫の組合を拵えてしまって、その元締の地位にしっかと腰を下していたのであります。殊に張家の荷役は全く彼の手中に握られていました。後になってこのことに気付いて喫驚した人も少くありません。
 彼が率いていた苦力人夫は、腕に青色の布片を縫いつけていました。大体苦力たちの服が、きたなく褪せてはいては青っぽいものなので、その青色の布片は初めは殆んど人目につきませんでしたが、いつしか船員たちにも町の商人たちにも知れ渡り、その布片が次第に数をますにつれて、それがないと幅も利かないし仕事も少いというような状態になってゆきました。
 そして数年のうちに、彼は張家の腹心の番頭格になり、また町の労働者間に確固たる地位を築きましたが、彼自身は、背が高いのと腕が長そうだという感じを与えるだけで、一向人目につかない粗服をまとい、どんな用件も至極簡単な言葉ですまし、無駄口は殆んど利かず、喧嘩口論などは全くせず、そして始終にやにや笑っているだけでした。
 なお、伝えるところによりますと、彼は相当な収入があった筈ですが、いつも金はあまり持っていなかったそうであります。何に金を使ったかというと、酒と女の衣裳にだということです。その港町にもやはりちょっとした遊里がありまして、そこに彼の愛する妓女があり、彼はその女を、蘇州の刺繍[#「刺繍」は底本では「剌繍」]物や日本の刺繍[#「刺繍」は底本では「剌繍」]物や北京の毛皮などで、人形のように装わせたがっていたそうであります。また、支那ばかりでなく世界各地のさまざまな高価な酒瓶を、彼女の室に並べるのを彼は無上の楽しみとしていたそうであります。但しその真偽のほどは定かでありません。
 さて、事もなく年月は流れて、朱文がこの町にきてから七年目の晩冬初春のことでありました。何かしら険悪な空気のなかに、さまざまな風説が伝わって来、それが次第にはっきりした形を取ってきました――。或は反政府軍ともいい、或は暴徒ともいい、或は流賊ともいいますが、とにかく完全に武装した強力な一隊の軍勢が、村々町々を魔風の如く席捲しつつ、今明日にもこの町に迫って来るとのことでありました。そのためかどうか、港に来る筈の船も姿を見せず、長江の流れも荒ら立って見え、町中の人々が戦々兢々たる有様でありました。
 その不安なさなかで、張家では、ささやかな小人数ながら、豪奢な宴席が張られました。張一滄の一人娘の幼明の誕生日を祝うためでありました。
 張一滄に自慢のものが三つありました。一つは、前に申しました楠の大木でありました。も一つは娘の幼明でありました。今年十八歳になるところの、評判の美人で、楊柳の趣きを持った楚々たる風姿、そのしなやかな細そりした腰部と円熟してきた臀部の肉附とは、見る人の眼をうっとりさせるものがありました。他のも一つは、張一滄自身の食欲でありました。多食と美食とで豚のように肥え太りながら、老来ますます健啖で、二三日に亘る長夜の宴にも、最後まで踏み止まるだけの力を持っていました。
 珍らしい大雪のあとで、楠の大木の梢からは、雪なだれが時々、地響きをさせて落ちていましたが、そして危急な風説は次第に確実なものとなっていましたが、張一滄は何か信ずるところあるらしく、幼明の祝宴を張ったのであります。
 張家は旧家で大家でありますから、同じ屋敷内に住んでる家族も多く、町の有力者や幼明の友だちが、身辺のことに慴えて大抵早めに辞し去った後も、そして内々のささやかなものとして催された宴ではありましたけれど、なお相当な賑かさで、二日目の夜まで続きまして、幼明の母親が二年前に病歿して席にいない淋しさも、殆んど目立たないほどでありました。
 食卓の料理の皿はいくら食い荒らされても、また次々に運ばれてきました。鹿鞭ろくべんの汁の甘美さや、銀茸ぎんこのなめらかな感触や、杏仁湯の香気などが、くり返し味われまして、七面鳥や家鴨や熊掌ゆうしょうなどは、もう箸をつける者もなく冷たくなっていました。本場紹興酒の大彫たあちあんが、汲めども尽きぬ霊泉となりました。
 男の人たちはけんの勝負に夢中になってるのもあり、女の人たちはうとうとしてるのもあり、ただ一滄だけがいつまでも杯を手にしていました。幼明はただ朗かな様子で、宴席から出たりはいったり、小鳥のようにまた王女のように自由自在な振舞をしていました。

 張一滄の様子には、初めの泰然たるさまにも拘らず、次第になにか苛立たしい憂鬱の曇りがかけてきました。下僕の一人が、一枚の紙片を持って来ました時、それを読み下した彼の手は、明らかに震えました。彼はその下僕にいいました。
「朱文が帰ったかどうか、見て来い。帰っていたら、すぐ連れてくるんだ。」
 その朱文は、前日の宴席の初めにちょっと列したきりで、一滄になにか囁いて退席してから、そのまま姿を見せなかったのです。そのことから、誰も皆、内心では異常なものを感じ取りながら、素知らぬ様子をしているのでありました。
 だいぶたってから、先程の下僕が現われて、朱文が帰ってきたことを告げると、張一滄はいくらか眉根を開いたようでしたけれど、朱文自身がなかなかやって来ませんので、その眉根には或る激しい色が濃く漂ってきました。
 そこへ、幼明がやって来て、静かにいいました。
「お父さま、なにか御心配なことでもありますの。」
 一滄は酔眼をぱっと開いて、泣くような笑顔をして、掌で上唇の髭をなでました。
「いやなんでもないよ。少し酔いすぎたようだ。」
 その顔を、幼明はじっと眺めて、また静かにいいました。
「朱文さんを、あまりお叱りなすってはいけませんわ。」
 一滄の眼に、ぽつりと涙が浮んで、彼はただ、無言のうちに幾度もうなずきました。それからまた酒杯を手にしました。

 朱文が、平素は身装に無頓着なのにも拘らず、前日と同様粗末ながら服装をととのえて現われてきますと、一座はなにか期待の緊張のうちに、眼がさめたようになりました。
 朱文は[#「 朱文は」は底本では「朱文は」]ちょっと張幼明の方に会釈をして、それから張一滄の方へやって行きました。
「遅くなりました。」
 張一滄の方は、もう、一座の空気を顧慮する余裕もなかったようであります。いきなり朱文を片隅の席へ引張って行きました。
 そして、張一滄はそこの椅子にどっかり腰をおろして、酒杯を手にし、朱文はその前に恭しくつっ立ったまま、時々一滄の杯に酒を酌しながら、何をいわれても安らかな微笑を顔に湛えていたのであります。
「どうだった、うまくいったか。」と張一滄は尋ねました。
「一時間ばかり前に戻って参りました。」と朱文は別な返事をしました。
「なぜすぐに来なかったのか。」
「馬の匂いが身体についていましたから……。」
「なに、なに、馬の匂い……。」
「馬に乗っていきました。それで、馬の匂いをおとすため、身体をふき、服を着換えたのであります。」
 張一滄は驚いたらしく、眼と口を打開き、相手の顔を眺めましたが、突然、眉根に怒気を現わしました。
「お前は、一体、何処へ行ったんだ。」
「十里ほど彼方へ行きました。そして、どうやら、妥協の方法をつけてきました。」
「なに、あの盗賊どもとか。」
「左様です。」
「怪しからん。」
 張一滄は握り拳で机を叩いて、立上りましたが、またすぐ椅子にかけました。
「然し、俺がいいつけたことは、俺との約束は、あれはどうしたんだ。」
「何のお話でございますか。」
「なに、何をいうのだ。俺たちの苦力を、お前の青布の連中を、結束して立たせる、ということではなかったか。」
「それには武器がいります。然し武器は少しもありません。」
「たとい銃がなくても、刃物や鉄棒や石はある筈だ。」
「そのような物では役に立ちますまい。」
「身体でぶつかってゆくのだ。今になってお前は、何ということをいうんだ。あの連中はどうしてるんだ。」
「日頃の通りにさしておきました。匪賊どもがやって来ても、ただ素知らぬ風をしているようにいいつけておきました。」
「全然話が違う。お前は、この町を、盗賊どもに踏み荒させて、それでよいと思うのか。」
「さほど踏み荒しもしますまい。こちらではただ、わきを向いておればよろしいでしょう。」
「そして、俺の倉庫はどうなるのだ。俺の物貨はどうなるのだ。」
「まあ大丈夫のつもりであります。穀物の類と毛織物の類がおもなものですから……。」
「それだ。俺が買い込むつもりだったのは、鑵詰類と綿布類だった。それを、穀物と毛織物に切替えたのは、お前の仕業だな。」
「いえ、初めからそういう御註文だったのではございませんか。匪賊どもは、鑵詰は便利だから掠奪しますが、穀物は調理に手数がかかりますから、あまり沢山は持ち去りませんし、また、毛織物は本能的にきらって、綿布に執着するものだと、そういうお考えのように存じておりましたから、お考え通りに取計らいましたのです。」
「誰が考えたんだ。お前一人の考えだろう。俺が註文したのは、鑵詰類と綿布類で、外の品物ではないんだ。それが、倉庫の中には何がつまっているんだ。」
 それらの対話の模様では、すべてが矛盾してるようでした。買入れ品目が全く違っているし、匪賊への対策も全く違っていました。その違いはどうやら、朱文が独断で勝手に取計ったもののようでありました。
 張一滄がいきり立てば立つほど、朱文は落着き払って、微笑のうちに逆な返事ばかりしましたので、張一滄はもう我を取失うほどになり、憤り且つ歎きました。
「お前がそういう男だとは、俺は今日まで知らなかった。俺のところに来て七年間、七回の夏や冬は、決して短くはない。その間お前は、随分働いてくれたし、一度も俺のいいつけに背いたことはなかった。それが今度に限って、危急存亡の瀬戸際に臨んで、俺の言葉を全く無視するどころか、悉く反対なことばかり仕出来してしまった。お前は卑怯者だ、裏切り者だ、馬鹿者だ。俺は娘の幼明に対しても恥しい。婚期を延して、独りでおいたのも、お前に見所があるので、もしこの眼に間違いがなかったら、お前にめあわしてもよいと考えていたからだ。その幼明の誕生の祝いに、おう、俺の眼は開けた。もうお前のような男は、家に置いておけない。町の遊女のところへでも、行ってしまえ。匪賊の仲間にでも、はいってしまえ。出て行け。」
 張一滄がいきりたって怒鳴りつけ、上唇の髭に鼻汁を垂らしかけてるのを、朱文は静かにうち眺めながら、やはり恭しくつっ立ったまま、微笑の影さえ頬に浮べていました。それが更に癇にさわってか、張一滄は飛び上りました。
「出て行け。出て行かないか。」
 張一滄は朱文の胸を突きとばそうとしましたが、相手の平静さに気圧されたようで、ちょっとたじろいだのが、更に憤激を破裂さして、拳を振上げるなり、朱文の頬を殴りつけ、続けざまにまた二三回殴りつけました。
 朱文は少しぐらつきましたが、微笑の影のすーっと消えた緊張した顔付で、恭しく頭をさげて、そして平静な足取りで室から出て行きました。
 一座の人々も手の出しようがなく、咄嗟の出来事を見て駆け寄りましたが、それらの人々の腕の中に、張一滄はぐったりと倒れかけました。

 匪賊の襲来は急速でありました。その翌日の夕闇迫る頃、百五十名ばかりの武装隊が町を占領しました。というよりも寧ろ、町に案内されて屯ろしました。
 町の人たちは皆、家屋の奥に逃げこみ、閉じ籠っていましたが、多数の逞ましい苦力たちが、宛も友人をでも迎えるような調子で、にこにこした態度で町中をうろついていましたので、これには匪賊の方で勝手が違って、急に和らいだ気勢になってしまいました。朱文と賊の首領との間に、何か連絡があったのだとも、一説では伝えられています。
 そうして、匪賊たちは苦力たちに話しかけ、苦力たちの方でも匪賊たちに話しかけました。
 そして河岸の広場に、互にまじり合って集り、火が焚かれ、豚や鶏が灸られ、酒甕の口が開かれ、賑かな夜宴が、寒夜野天の下で始まりました。苦力たちがみな、腕に小さな青布をつけているのが、何か底気味悪い感じを匪賊たちに与えたようでもありました。彼等はいわるるままに導かれて、町家には殆んど乱暴をせずに終りました。夜遅く、その夜宴を垣間見に、起き出してきた町人さえありました。
 とはいえ、この事件は、町にとっては何よりも大きな衝撃だったのであります。町中がその一夜、眠りもせず戸を閉めきって、息をひそめていました。
 そしてまだ未明の頃、河の面がほんのりと白んできますと、匪賊たちを満載した数隻の荷船が、苦力たちに漕がれて、揚子江を対岸の荒蕪地へと渡りました。一隻の船には、酒甕や綿布類や鑵詰類や若干の金銭が積まれていました。
 それらの荷船が、空になって戻って来ます頃には、夜はもう明け放れて、町人たちは河岸に駆け出し、漕ぎ手の苦力たちを歓呼して迎えました。
 匪賊たちが進路を対岸へ取ったのも、討伐隊の待伏せを恐れた故もありましょうが、朱文の意見に従ったからだという説もあります。
 斯くして、町は僅かな被害だけで難を免れました。
 ただ、茲に特記しておきたい一事は、張家の倉庫の前に、二名の武装匪賊の死体が横たわっていたことであります。鋭利な刃物で顔面や胸部を抉られて、血に染んで倒れていました。そしてその銃と弾薬だけは誰かに奪われて、どこにも見出されませんでした。死体はすぐさま、ひそかに町外れの野原に埋められてしまいましたが、そのことがいつしか町人たちの間に拡まって、奇怪な印象を与えることになりました。
 それはとにかく、町にとっての大事件は、朱文を遙か高いところへ持上げ、彼に英雄めいた風格を与えることとなりました。彼の姿を探し求める眼差が、町の至る所に光っていました。
 朱文はそれを避けてか、青布の苦力たちをねぎらってから、張家の小房に閉じ籠っていましたが、その日の夜、ひそかに外出の仕度をしたところを、張一滄につかまりました。
 張一滄はひどく面窶れがして、その肥え太った身体は、骨ぬきのぶよぶよの肉ばかりのようでありました。上唇の髭がしょんぼりと垂れて、頬のへんにぴくぴくした震えが見えていました。
 彼は朱文の小房の外に、だいぶ長い間佇んでいたらしく、朱文が外に踏み出すや否や、ひどく慌てて、眼をしばたたき、一足あとに退り、そのままそこに跪かんばかりの様子で、急に両手を差出しました。
「おう朱文、待ってくれ、待ってくれ。何処にも行かないでくれ。」
 朱文はいつもの通りの冷静な態度で、恭しくお辞儀をしました。
「あなたにお目にかかりたいと思っておりました。」
「ああそうか、それはよかった。私もお前に逢いたいと思ったが、何しろあの騒ぎで、それに……とんでもない思い違いをしたり……なあ勘弁してくれや。」
 朱文は彼の手を執って、そこの横手の腰掛に彼を坐らせ、自分は慇懃にその前に直立しました。
「なあ朱文、もう何にもいわないでくれ。」と張一滄は息をついていいました。「みな私の思い違いだった。お前の考えが正しかった。お蔭で町中が助かったよ。」
「私はただおいいつけ通りにしたつもりでございますが……。」
「いいつけ……いやいや、もういわないでくれ。まったく……お前は偉い男だ。私の眼に狂いはなかった。町でも大変な評判だ。何でも望み通りのことをしてあげよう。町を救った神さまも同様だからな。娘の幼明もあげよう。何でもあげよう。望み通りのことをしてあげるよ。」
「本当でございますか。」
「ああ、誓って本当だ。」
「それでは、私に一つ望みのものがございます。お嬢さんなどは、私の妻には勿体ないから、お断り致しますが、あの……楠を、私に下さいませんでしょうか。」
「え、楠、珍らしい望みものだの。よいとも、お前が蓑虫を退治てくれたあの楠、あげるとも。だが、何にするんだね。」
「ただお貰い申しておけば、それでよろしいのです。あの楠が元気に茂ってる限りは、永久に私の思い出になります。」
「永久に……思い出に……。」
 その言葉にひっかかって、張一滄が考えこんでいますひまに、朱文は急に頭を下げて、ちょっと外出の急用があるのでまた後刻に……といいすて、身を飜えして出かけてしまいました。
 張一滄はそこに暫くぼんやりしていました。すると、幼明が駆けてきて、今そこで朱文に逢ったが、いつになく大変取急いでる様子だったと、眼をまるくしていました。
「お互に心に傷を受けないでよかった…… 楠のことをお頼みします……とそうあの人はいいましたが、何のことか私にはよく分りませんわ。」
 張一滄はその朱文の言葉を幼明に繰返さして、じっと考えこみましてから、急に騒ぎだしました。朱文は何処かへ行ってしまうのかも知れない、早く引止めなければいけないと、召使たちを四方へ走らせました。
 けれども、朱文の行方をつきとめることは出来ませんでした。彼が愛してるとかいう妓女の家へも尋ねさせましたが、彼もその女もいませんとのことでした。夜遅くなって、召使たちはすごすごと四方から戻ってきました。
 実は、その頃、朱文はその愛する妓女の彩紅の奥室で、一切の人を避けて、酒を飲んでいました。
 彩紅は二十三歳の、体躯も肉附も豊かな、明朗な美人で、一点、清澄な瞳の奥に深い悲しみを宿したようなところが、時あって仄見えるのでありました。今夜はどういうのか、その一点の悲しみが、刷毛ではいたように拡がって、彼女を淡く包んでるようでした。彼女は空色の服をまとって、長椅子の上に、朱文の腕によりかかっていました。
 室の片隅の衣裳箪笥の前の小卓には、脱ぎすてられたままのものらしく、雲竜の華麗な刺繍[#「刺繍」は底本では「剌繍」]のある衣裳や、艶やかな銀狐の毛皮の襟巻や、その他の絹類が投げ出されていました。そしてその箪笥の横に、二挺の銃が立てかけてあるのが、異様に目立っていました。
 二人の前の卓上には、いろいろな色の紙を貼りつめた硝子の瓶や、くすんだ色の陶器の瓶などが並んでいて、グラスが四つほど、とろりとした緑色の液や透明の液を、一杯湛えていました。
 彩紅はそのグラスの一つを一息に飲み干して、いいました。
「いつ、お発ちになるの。」
「さあ、いつでもいいが……。」と朱文は言葉を濁しました。
「でも、夜ね。」
「なぜ。」
「あれがあるから。」と彩紅は二挺の銃の方を視線で指しました。
 その時、朱文はふいに彩紅の方へ振向いて、じっとその顔を見ながらいいました。
「どう、も一度考えなおして見ないかい。」
「なにをなの。」
「僕と一緒に行ってしまうということだよ。」
「だめ。此処でならいいけれど、どうせ私は、あなたの邪魔になるばかりだこと、はっきり分ってるわ。此処で…… もう五年にもなるのね。あたし、五年の間に、一生を生きてしまったと思えば、それでいいの。」
「然し、僕が発ってしまった後は、どうするつもりだい。」
「どうするって、もう一生を生きてしまったんですもの。」
「だってまだ君は……。」
「もう生きてしまったの。」
 ぽつりといって、彩紅は朱文の胸に顔を埋めました。
 朱文はじっと宙に視線を据えていましたが、ふいに、その顔から血の気が引いて、崇高ともいえるほどの蒼ざめた顔になりました。
 彼は静かにいいました。
「僕は、どうあっても、君を連れて行くよ。」
 彩紅は黙っていました。
「君はさっき、僕が此処から出発するのは、張幼明さんをもてあましたか、あの楠がもう嫌になったか、どちらかだろうといったね。だが、僕自身にもよく分らなかったが、そうではないんだ。張幼明さんのことは、父親の意向がどうであろうと、僕たち当人同志の間が、なんでもないのだから、問題にはならない。ただ楠のことは、本当に僕の心にかかるものなんだが、あれが嫌いになったんではないよ。ただなんとなく、あれを持てあますような気持になってきただけだ。あの大きい樹を見ていると、胸に抱いていると、こちらが、自由に身動きできないような気持になってくる。あれを張一滄さんから今日貰い受けてしまったのも、打捨てようとどうしようとこちらの勝手だと、まあ自分に自由がほしかったんだね。考えてみると、僕はまだ弱かった。ところが、君は楠とは違うんだ。君なら、生涯荷って歩いても、胸に抱いて歩いても、大丈夫だとの自信がもてる。僕にはそれくらいの力はあるよ。だから、どうだい、一緒に行こう。」
 彩紅は朱文の眼の中を覗きこんで、いいました。
「あなたの気持、あたしにも分るわ。だけど、あたしにはとても、あなたと同じような力が持てそうにないの。」
「だから僕が生涯、おぶったり抱いたりしてあげると、いってるんだよ。」
「でも、あたしの方に、おぶさったり抱っこしたりする力も、なかったとしたら……。」
「なぜそんなことをいうんだい。」
「もう、ほんとに生きてしまったの。有難いわ。」
 彩紅が急に涙ぐんでよりかかってくるのを、朱文は胸に受けとめて、じっとしていましたが、俄に涙をはらはらと流して、彼女を力一杯に抱きしめたのでありました。

 朱文のことは、それきり、この土地では行方不明に終って、その消息の片鱗さえも伝わっていません。
 ただ、右のことから翌々日の朝、彩紅の溺死体が、河の岸近くに発見されました。張氏へあてた簡単な遺書がその居室にありましたので、自殺だということが分りました。遺書の文句は不明でありますが、それに随ってとかいうことで、彼女の死体は、張家の楠の根本に、鄭重な楠材の棺に納めて葬られ、漆喰でぬり固められました。
 それから、その楠のそばに、立札が一つ立てられました。「永代伐採を禁ず、朱文の所有也、」という文句でありました。
 町の人たちは、朱文がまたいつか戻ってくるものと期待しておりました。立札の文字が風雨に曝されて消えてしまっても、その期待は長く続き、こうした伝説となって伝わっております。





底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」未来社
   1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「日本評論」
   1941(昭和16)年1月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月13日作成
2008年1月15日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について