変る

豊島与志雄




 壁と天井が白く塗ってあるので、狭い屋内は妙に明るく見えるが、数個の電灯の燭光はさほど強くない。柱の籠に投げ入れてある桃の蕾と菜の花の色も、季節に早いせいばかりでなく、へんに淡い。だが、木下大五郎の存在は目立った。帽子と外套の襟及び袖の折返しに、薄茶色の絨毛がもりあがっている。その色ではなく、そうした服装が、季節後れというよりも、なんだか場違いなのだ。ひいては、彼の存在そのものまでが場違いなのである。
 その場違いなものを、大五郎はかすかに感じながら、また誇りともしていた。眼には穏かな光があった。残り少ない銚子の酒を、小さな盃で一杯ぐっと飲んで、隣席の男の横顔をじっと眺めた。
 長髪に眼鏡、可なりいたんだ背広と外套の痩せた中年の男だった。新聞か雑誌に関係の者らしい。
「君の顔は立派ですな。中高で、何より、鼻が高く、ギリシャ型というんですか……。そこにいくと、僕の顔なんか、どうも……。」
 大五郎は、帽子の絨毛と同じ色の手袋を、呑み台の上に投げ出していたのへ、ちょっと手をやり、その手ですぐ、日焼けのした頬を撫でた。
 相手の男は、ちらと見返しただけで、煙草をふかしながら、ちびりちびり飲んでいる。
「立派なギリシャ型の顔ですな。」
 こんどは、何の反応もなく、その横顔の筋肉一つ動かなかった。大五郎のことを全く無視してる態度である。
 だが[#「 だが」は底本では「だが」]、斜後ろの方から、しゃがれた女の声が飛んできた。
「お酒は一本きりですから、すんだら帰って下さいね。ここは、酒をのむところで、お饒舌りをするところではありませんからね。」
 それぐらいの女の声には、大五郎は何の痛痒も感じない。彼はゆっくり椅子から立上って、その方を向いた。そこの、土間から低い框になって、畳の敷いてあるところに、鮨の盆をのせた餉台をかこんで、商人風の二人の男と、三十四五歳の丸髷の女が坐っていた。
 しばらく、大五郎は女の方を眺めた。
「君が、お上さんかね。え、お上さんかい。」
 女はつんと彼方を向いて、何の返事もなかった。誰も黙っている。
 大五郎は屋内を見渡して、また椅子に腰を下した。呑み台の向うの女中が、隣席の男に酌をしながら、にやりと笑った。大五郎はつきだしの小魚を一匹つまんで、銚子をあけた。
「お酒がすんだら、帰って下さいね。」
 また、女の声がした。
 彼女は立上っていた。小紋錦紗のすらりとした姿で、重ね着の淡色の襟を二枚、白縮緬の半襟の上にのぞかせ、臙脂矢羽根の帯締に小さな銀鍵をさげている。それが、着附のうまさにすらりと見えるが、贅肉が多く、首筋が太く、声はしゃがれていた。
「ほんとは、お断りしたかったんですよ。やたらにほかのお客さんに話しかけると、気分をわるくしますからね。満洲の写真だの、そんなものは、新聞じゃあるまいし、ここには不向きですよ。いきなりいろいろなことを並べられたら、誰だっていい気持はしませんからね。ほんとはお断りしたかったんですよ。お酒は一本きりですから、すんだら帰って下さいよ。」
 彼女は云いたてながら、畳敷きのところから、狭い板廊下を通って、青布の暖簾の彼方へ消えた。暖簾の向うは、広い板の間で、相当な料理屋の勝手許になっていて、この酒場はつまり、その料理屋の宣伝機関の一つなのである。それから見れば別に不似合でもなく、畳敷きの上手の半間の置床には、青銅の薄端うすばたに水仙の花の一茎がすっきりと活けてある。
 大五郎はその水仙の花をぼんやり見ていた。客が二人はいって来て、畳敷きの下手の方の餉台につき、女中が酒と小皿物を運んでいったが、大五郎はまだぼんやりと、水仙の方に酔眼を向けていた。
 丸髷の女がまた暖簾から出て来て、元の席へ行きながら、彼の方へいいたてた。
「もうお酒はおすみでしょう。一本きりですからね、帰って下さいな。初めから、ほんとにお断りしたかったんですよ。ずいぶん酔っていらっしゃるんでしょう。帰って下さいよ。まだお飲みになりたかったら、このへんに、飲ませるところはいくらもありますよ。ついこの先にもありますよ。うちでは、一本がきまりですからね。満洲のようにはいきませんよ。どなたにも同じですからね。どなたにも気持よく飲んで頂きたいんですからね。酒がすんだら、帰って下さいよ。」
 その時、盃をやりとりしていた新来の二人連れから、大きな声が響いた。
「そうだ。お上さんのその意気だ。貧乏人も金持もねえ、みな同じだ。なあ。だからさ、お上さんを好きだってんだ。貧乏人も金持もねえさ。金でもって威張ろうたって、そうはいかねえや。ここに来ちゃあ、誰も彼も同じさ。お上さんの意気が嬉しいってことよ。」
 大五郎は椅子から立上った。そして声のした方を向くと、そこにいるのは、言葉の調子とはまるで違って、商店員風な縞の着物の若者二人だった。
 その二人は、大五郎の方をもう見向きもしないで、まあも一ついけよ、という調子で、朗かに盃をさしあっていた。
 大五郎はつっ立ったままじっと眺めた。眉根がぴくりと動いたきりで、日焼けのした厚い皮膚は深く静まり返った。
「君は片山さんに似てるね。」と彼はぽつりといった。
 片山さんというのは、自由主義的だと見られてる有名な政治家だった。
「似てますかね。」と相手の一人はおとなしく応じた。「片山さんはよく知ってますよ。懇意にしていますんでね。始終出入りしてますし、選挙の手伝いもしたことがあるんですよ。片山さんに、似てますかね。」
 こんどは、大五郎の方で返事をしなかった。むっと口を噤んで、ただじっと二人連れを見ていた。
「花ちゃん。」
 お上さんが突然、女中を呼んだ。
「勘定を貰いなさいよ。何を出したの。お酒とお通し、……八十銭、貰っておしまいなさい。」
 大五郎は彼女の方を向いて、まだじっと立っていた。彼女は女中の方にいった。
「八十銭きりだよ。どうしたの。こまかいのがなかったら、いくらでも、おつりをあげますよ。」
 大五郎はズボンの隠しをさぐった。そしてゆっくりと八十銭を探しだし、呑み台の上に静かに置き、毛糸の手袋を掴んで、表へ出た。その時すぐ、もう燗がつきすぎてる銚子を、背広の男へ女中が差出したのを、大五郎は見返りもしなかった。たといそれを見つけたとしても、彼はやはり黙って出て行ったであろう。
 何か深い思いに捉われていたのである。その深い思いの底から、酔った頭に、大きな犬の姿が、如何にも自然らしく、浮んできた。
 それは、彼の奉天の店へ、時々現われた犬である。恰好はセパードに似て、大きさや毛並は土佐犬に似た、ひどい雑種だ。往来で、何かに瞳をすえて、歯をむきだしてる姿には、ひどく猛々しいものがあった。そいつが、どういうものか、店の中へ時々はいりこんできた。はいって来ると、鳴きもせず、歯をむきだしもせず、へんに面喰ったような愚鈍な様子になって、隅っこに屈みこんでいる。料理の残りを投げやっても、食べようとしない。足をふみ鳴らして立上らせようとしても、きょとんとしている。そして酔客から酒をぶっかけられると、ぶるっと身体をふって雫をきり、のっそりと外へ出て行くのだった。それが、老犬や病犬ではなく、大きな逞ましい若犬なのである。
 何のために店へはいってくるのか、誰にも分らなかった。物も食べず、何とされても怒りもせず、のっそり出て行くのが、誰にも不思議だった。それから寒気がきて扉を閉めきるようになると、全く姿を見せず、往来にも見られなくなってしまった。
 その犬のことを、大五郎はまざまざと眼前に思い浮べた。そしてとぎれとぎれの言葉を呟いた。それは単なる言葉や想念ではなく、はっきりした犬の形態として酔眼に映じたものだ。
 ……あいつは場違いだ……場違いだから、人に勝手な真似をさした……場違いだから、怒れなかった……怒る気もない……こいつは、ちとおかしい……場違いとは、在るべきところに居ないということか……そんなら、なぜはいってくるんだ……何かがある……場違いにも何かがある……場違い、場違い……だが、しっかりした足つきで、のっそり出て行きやがる……強い足だ、強い歯だ……そうだ、馬革の靴だ……見ろ、馬革の頑丈な靴だ……。
 大五郎は馬革の重い堅い靴をはいていた。舗装路の上に、靴はかたっかたっと音を立てた。彼はそれを自ら楽しんだ。
 靴音を楽しみながら歩き続けて、殆んど無意識な予期のもとに、真鋳の横棒を二本渡した硝子戸の内にこもった明るみが、眼についた。
 彼はその中にはいった。
 数名の人影があった。正面に、白い顔の奥深い黒目が、にこりともせず冷かに頷いてくれた。
「酒を下さい。」
 いやに丁寧なのが、愚鈍なぼやけた気持となって返ってきた。彼はその気持のなかから、浮び上るようにして、春枝の姿を眺めた。割烹着の細かな花模様の赤と黄と青とが、ちかちかと眼を刺激[#「刺激」は底本では「剌激」]した。彼は眉をしかめて酒を飲んだ。
 客はみな黙っていた。ふしぎなほど黙っていた。大五郎も黙っていた。
 奥に通ずる木の扉を静かに開いて、中年の男がはいって来た。短い口髭をはやし、和服姿の肩がまるく、でっぷり肥っている。それが村井だと、水の中のような静けさのなかで、大五郎は気付いたのだが、やはりじっとしていた。
 村井は真直に大五郎の方へやってきた。
「やあ、いらっしゃい。」
 大五郎は椅子から立上った。
「こちらがいいでしょう。」
 村井に導かれるまま、大五郎は畳の上の隅の餉台に就いた。ここもまた、呑み台のまわりの土間に並べた椅子席と、右手と入口のわきとに畳敷きの坐席がある。大五郎は馬革の靴を大事に上り框の下にそろえた。壁には、その半分ほど、ばかに大きな太平洋中心の地図が、鋲でとめてあった。
 春枝が、大五郎の銚子や小皿物を運んできた。村井はちょっと奥へはいって、暫くしてまた出てきた。
「今日は、私がお返しをしなければならない。といって、何もありませんが、一杯飲んで下さい。」
 へんに低く、囁くような調子だった。
 大五郎もふだんより低い声でいった。
「それはどうも。だが、なぜですか。」
「一昨日の晩か、春枝に十円おいてゆきなすったでしょう。すぐに追っかけたが、さっと行ってしまいなすったそうで、彼女は困っていました。まあ、そのお返しというわけですがね……。」
 笑顔だが、底意ありげな言葉だった。大五郎は怪訝な眼付をした。
「このへんでは、ああいうことははやりませんよ。」
「ほう、はやらない……変ったもんですな。」
「あなたの方が変ったのでしょう。」
「いや、僅か五六年、変るもんですか。このへんが変った…いや、日本が、何もかも変ったようですな。」
「そう見えますか。どう変りました。」
 どうといって、大五郎にははっきりいい現わせなかった。だが、おかしなことがある。先程まで、皆がふしぎに黙りこんでいたのが、大五郎の帽子や外套の絨毛が隅っこに引込んでからは、低い声があちこちに起って、春枝までが明るい笑い声をたてるのである。そちらを、大五郎はぐるりと見廻して、村井にいった。
「どうも、変りましたな。話をするにも、ひそひそ囁くような低い声だし、笑い声も、忍び笑いのようだし、いやに静かで、その上、隣りの人にも話しかけてはいけないしい[#「いけないしい」はママ]。こんなことで、東亜の大戦争がよく出来たもんですな。」
「そこが日本人のたしなみというものでしょうよ。そのたしなみがあってこそ、本当の勇ましい戦争も出来る。私などはそう考えますよ。」
「たしなみ……なるほど、そうかも知れないが、満洲では、一般にもっと元気ですぜ。飲むにも食うにも、笑うにも、話をするにも、こんな火の消えたような調子じゃありませんな。」
 そこへ、皿の物や銚子が運ばれてきた。村井が春枝になにか耳打ちすると、やがて、サントリーのウイスキー瓶まで持出された。
 大五郎は顔の厚い皮膚をほころばした。そして満洲のことを論じだし、日本にとって満洲が如何に重要な地位を占むるかを説きたて、而も日本人一般が、南方にばかり心を向けて、満洲のことを忘れるようなのを、慨歎し初めたのである。
「分りました。」
 ぷつりと村井は話の腰を折った。
「だが、あなたは一つ考え落してることがありますよ。満洲は現在、謂わば銃後の土地でしょう。われわれは皆、前線の戦地のことを考えてるのです。満洲がもし前線となったら、その時には、お望み通り、皆が皆、満洲のことを考えるようになりますよ。」
「それがいけないんだ。ふだんから考えていなければ、いざという時には間に合いません。」
「然しとにかく現在は銃後ですよ。銃後はみな一心同体、東京も札幌も鹿児島も同じだし、日本も満洲も同じですからね。その一心同体が、この大戦争を遂行しているのではありませんか。」
 大五郎には、それがはっきりしなかった。腑におちない顔付で、ウイスキーのグラスをあけた。
「然しですな、満洲は新興の国ですよ。そのことを話しかけても、なぜ誰もそっぽを向くんですか。憤慨にたえません。」
 声が大きいので、客の二三人が振向いて眺めた。村井はにやりと笑った。
「相変らずやっていますね。」
 大五郎は気勢をそがれて口を噤んだ。
「まだあちこちで、満洲をもちだしているんですね。今晩はどこで飲みました。」
 何もかも見ぬいているように、眼で笑っていた。
 大五郎は何か重大なことを思い出そうとしてるようで、自分でもそう感じて、黙っていたが、ふいに、村井へ顔を近々とさし寄せて、囁いた。
「まだ、さっぱり見当りませんよ。」
 村井が反対に声高く笑った。それから、低いが力強い調子でいった。
「それがいけないんだ。」突然ぞんざいな言葉になっていた。「あなたは、その奉天の店をやらせる女を、女房がわりの女を、酒を飲み廻って探し廻っているが、それがいけないんだ。だから、あなたの満洲の話には、酒場の匂いがするし、金儲けの匂いがする。もういい加減によしたらどうです。誰も真面目に聞く者はありませんよ。」
 村井はじっと大五郎の眼の中を見た。
「ここにしたって、春枝までが笑っている。あんな真似は、満洲ではどうだか知らないが、こちらでは通用しませんよ。これからは、もう春枝には構わないで貰いましょう。」
 ウイスキーのせいばかりではなさそうだった。春枝を誘い出そうとしたことを、村井は知ってるに違いなかった。
 それでも、大五郎はたじろがなかった。なにか鈍重な酔いかたで、そしてちょっと浮いた気分で、彼方に立っている春枝の方を、明らさまに振向いて眺めた。若々しいきゃしゃな身体つき、ういういしい尖った※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)、捉え難い黒目、それらがぼやっとぼやけて、割烹着の花模様の青と黄と赤とがちらちらした。その色合の上に、あの、威勢のいい肉附豊かなお上さんの、小紋錦紗のはでな姿が重ってきた。彼女なら、東京者という金箔をつけて、奉天の店を繁昌させるだろうと、想念がちらと掠め去ったが、あとはただ白々しい空虚が残った。
 大五郎は首を垂れた。そこに、餉台の上に、村井の大きな握り拳があった。ばかに力がありそうな大きな拳だ。
「ほほう、大きな拳ですな。ムッソリーニの拳に似てますな。」
 村井は手を引っこめて、掛時計を仰ぎ見た。
「もうそろそろ時間ですよ。だいぶ酔いましたね。」
 それから、低いそして強い声で囁くようにいった。
「あまり度々、この近所を荒し廻らないがいいですよ。飲むなら、銀座あたりに出かけたらどうですかね。」
 大五郎はふらふらと立上った。ゆっくりと丁寧に靴の紐を結んだ。会社員らしい一人の客と春枝と、くすくす笑いあっていた。その方を、大五郎はつっ立ってじっと見たが、黙って表へ出て行った。
 彼の頭に、また大きな犬の姿が浮んだ。浮んでは消え、消えてはまた浮んだ。彼はその姿を追っかけて、胸の中で、声には出さないで、犬の吠え声をまねた。ふらふらした足取りが、その吠え声に調子を合せた。
 電車通りを、宿泊してる親戚の家の方へ辿っていると、薄暗い並木の蔭に、小さな男の姿が立っていた。彼はその小男の姿と向きあって立止り、じっと睥めくらをしてるうち、ふしぎな憤りを感じて、拳をかため一撃した。
 乗合バスの標柱が音を立てて転った。
 彼はその音を耳にしなかった。相手を打倒したはずみに、よろけて、並木にもたれかかったが、そのままずるずると身体をずらして、そこに屈みこんだ。そして軽い鼾の音を立てた。
 すさまじい轟音に、彼は眼を開いた。轟音とは似もつかず、玩具のような電車が彼方へ走っていた。彼はなにか腑におちぬらしく頭を振ったが、立上って歩きだした。

 十日ばかり後、関釜連絡船の中で走り書きしたらしい手紙が、木下大五郎から村井の許に届いた。時勢を慨歎する大袈裟な文句の末に、「数々の御教訓に預り」などとお世辞をいい、最後に簡単な意向が洩らされていた。――「単身彼地に帰還致すべく、彼地には小生を待ちわびる女性も有り、彼女と結婚の上、大陸に根を下す覚悟に有之候。」
 そこの文句に、村井はちょっと眼をうるまして、彼と飲んだウイスキー半瓶のことを思い出した。その頃には既に、木下大五郎[#「木下大五郎」は底本では「大下大五郎」]のことは、その帽子や外套の絨毛と共に、この辺の数軒の小さな酒場から忘れられてしまっていた。





底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」未来社
   1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「知性」
   1942(昭和17)年4月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について