落雷のあと
――近代説話――
豊島与志雄
雷が近くに落ちたからといって、人の心は俄に変るものではありますまい。けれど、なにか心機一転のきっかけとなることはありましょう。そういうことが、立川一郎に起りました。
暑い日、というよりは寧ろ、乾燥した日でした。午後、流れ雲が空のあちこちに浮んでいたのが夕方になって、消え去ったり寄り集まったりしているうちに、更にその上方高く、入道雲が出てきまして、両方が重り合い乱れ合って、急に暗くなってゆきました。そしてそのまま夜となりました。少しの風もなく、大気は重く淀んでいました。遠くに、稲光りと雷鳴とがありました。それから、冷やかな風が来て、間もなく止み、また風が来ました。大粒の雨がまばらに降りだしました。だが、雨はひどくならず、雷鳴だけが激しくなってゆきました。そして瞬間、万物が息をひそめた気配のなかに、天と地が激突したような光焔と音響とが起り、あとはしんしんと、闇黒の底に沈んだ感じでした。
立川の家からすぐ近くの、矢野さんの庭の大きな欅に、雷が落ちたのでした。
中空に聳え立っていた欅の大木は、伸びきった幹の上部でまっ二つに裂かれて、片方の数本の枝が地上に叩き落され、そこから、樹皮の亀裂が一直線に幹を走り下っていました。その姿を、翌朝、青空のもと、晴れやかな陽光のなかに、立川一郎は仰ぎ見ました。
彼は瞑想に耽りながら、焼け跡を逍遥し、もはや人込みが少くなった頃、電車に乗り、正午近くなって会社へ出ました。そしてそのまま自席に就き、ぼんやり考えこんでいますと、専務の水町周造から呼びつけられました。
「君は、この会社の規律を、忘れたのではあるまいね。」
一語一語に力をこめて、水町はじっと立川を眺めました。その視線が、以前は金槌のようだったのに今では木槌のようだと、立川はへんなことを感じました。
会社の規律というのは、立川も鵜呑みにしていました。遅刻したり、外出したり、早退したりする場合、つまり勤務時間に在社しない場合、その理由を一々専務に報告して了解を得なければならない、そういうことでした。戦時中に厳守されてきたその規律は、終戦後、会社の事務が殆んど無くなった後まで、やはり残存していました。
「何を考えてるんだ。」
水町は相手の注意を促す時の癖で、卓上をこつこつと叩きました。
立川は眼を挙げました。そしてうっかり、社長矢野さんの家の欅に雷が落ちたことを言いだそうとして、唾をのみこみましたが、思い返して、また眼を伏せました。
「遅刻の理由を、はっきり説明したまえ。」と水町は太い声を出しました。
立川は没表情な顔で言いました。
「あとで始末書を書いて差出すことにします。どうせ仕事はありませんから……。」
水町は太い眉をぴくりと動かしましたが、何とも言いませんでした。その隙に、立川はお辞儀をしてその室から出ました。
彼は自席に戻って、紙と筆墨を用意しました。ぺンよりは毛筆で書くべきだと考えたのです。そして墨をすってるうちに、先ず弁当を食べることにしました。
同僚たちはなんだか不審そうな眼を彼に向けながら、弁当を食べていました。事務が殆んど無くなってから、新聞や雑誌や図書を読むのは自由でしたが、高声での無駄話はやはり禁ぜられていました。
立川の弁当には珍らしく米飯がはいっていました。それを箸でつっつきながら、彼の心を領している一種の哀感は更に深まるばかりでした。
あの、前夜の落雷の前から、彼はその哀感に浸っていました。哀感を以て見れば、周囲も自己もすべてが、硝子張りの中にでもあるかのように、或る距りを置いて眺められました。
その日、妹は矢野さんの家に手伝いに行きました。空襲があるようになってから、矢野さんのところでも人手が少くなり、母がちょいちょい手伝いに行っていましたが、その母が急に弱ってきてから、自然と妹が代りをするようになっていたのです。矢野さんのところには、事業関係の来客が数人あって、大した饗応だとのことでした。夜になって、妹は米飯と野菜の煮物をもらって帰ってきました。残りものだけれどお母さんにと、そういうことでした。その残飯を、粉飯ばかりの折柄に珍らしく美味しく、母と妹と彼と三人で食べました。母の配慮で、翌日の彼の弁当の量だけ取り除けられていました。食事をしながら、話は食物のことに向いがちでした。矢野さんのところの御馳走には、鯛の刺身[#「刺身」は底本では「剌身」]や車蝦の煮附や鰻の蒲焼やにぎり鮨などがあったとのことでした。その鮨に母はひっかかりました。何が食べたいといって、お鮨にこしたものはなく、お鮨さえ充分食べたらもう本望だと、淋しそうに言いました。妹はそれを笑って、ショートケーキが一番食べたいと言いました。カステーラよりもっとふわふわして、はるかに甘く、とろりとしたクリームがかかっていて、苺や林檎や桃があしらってある、あれが一番よいと述べ立てました。鮨やショートケーキなら、戦死した弟も好きでした。或は母と妹は、弟が好きなことを意識して言ってるのかも知れませんでした。二郎もそれが好きだったよと、彼がうっかり言いますと、母と妹はちょっと話を途切らしました。
遠くに稲妻と雷鳴とがあるだけで、夜気は静まり返り、狭い庭の隅には、秋を思わせるような虫の声がしていました。母と妹はまた食物のことを話しだしました。母はもうだいぶ弱っていました。白髪染めをやめたせいか、頭髪に白いのが目立ち、腰が曲ってきたせいか、背丈が縮んだようでした。頬のたるんでる色白の顔が、却っていたいたしく見えました。以前は何事も手早く取り片付けていたのに、この頃では、長い間かかって抽出の中などをかきまわしてることがありました。食事の後も暫くは坐りこんだままで、立つのが大儀そうでした。妹も母に似た顔立で、色が白く頬がふっくらしていて、そして背が低く小柄でした。食事の後も、母と調子を合して容易に立とうとしませんでした。
風が吹きだして、雨が来そうな気配に母と妹は戸外へ注意を向けて、暫し黙りこみました。その二人とも、へんに淋しく頼りなさそうでした。良人を亡くしてから貧しい生活を続けてきた五十歳過ぎの母、いずれはどこかへ縁づかなければならない二十四歳の妹、二人とも、気力も体力も弱そうで、そして家庭には、戦死した弟の占めていた場所が新たな空虚を拵えていました。その淋しく頼りない存在の母と妹が、粉食ばかりに弱っていて、矢野さんところの残飯を有難がり、そして昔の夢を追って、鮨やショートケーキの架空な話を楽しんでるのでした。
そこへ、いよいよ雨が来て、雷鳴が激しくなり、それから、近くに雷が落ちました。
落雷の衝撃は、母と妹の心身を打ち拉ぎ、次で昂奮さしたかも知れませんが、一郎にとっては、その哀感を深めるだけでした。彼は自分自身をも、哀感の硝子張りの中に眺めました。雷に裂かれたあの欅を悲哀に似た決意で眺めた自分自身も、残飯の弁当をつっついてる自分自身も、そこにありましたし、更に、会社の謂わば残飯を貪ってる自分自身も、そこにありました。
この金網工場は、社長矢野専之助のいろいろな事業の僅かな一部に過ぎず、経営万端は殆んど専務水町周造に一任されていました。終戦後、一年にもなるのに、生産はまだ休止されて、職工たちはただ遊んでいました。新たな仕事が計画されている様子もありませんでした。時々、いろいろな資材、殊に針金の類が、密閉されてる倉庫から運び出されて、闇売買の種になってるようでした。そして事務関係の人員も、まだ大部分残って、仕事がないのをよいことにして少い給与に甘んじていました。ただ不思議なことに、勤務時間だけは厳格でした。その時間中、会社の中に拘禁されてるのと同じでした。読書とひそかな無駄話が時間つぶしでした。小さな文庫がありまして、政治経済文学などの書物が雑居していました。軍国主義の書物もまだそのまま残っており、童話の書物も交っていました。社員たちは勝手に濫読し、或は無意味にただ眼を活字に曝しました。それらの書物のなかに、立川一郎は読みたいものも見出さず、少数の古雑誌にも倦きると、新聞で時間をつぶしました。新聞紙の隅から隅まで広告の最後の一行まで、丹念に見てゆくと、僅か二頁の新聞でも相当な時間がかかりました。
会社がこれからどうなるものやら、そのようなことは誰にも分りませんでした。ただそこで無為な時間をつぶしさえすれば、多少とも生活の足しになるのでした。労務員の方には、仕事はないのに組合だけ出来ていましたが、事務員の方にはそれさえありませんでした。空白な日々が同じように過ぎてゆきました。屈辱なほどの佗びしい生活でした。
その上、秘書主任の三宅弘子に、立川一郎は特別な引け目を感じていました。眼鼻立の尋常ないくらか長めの顔が、すらりとした体躯に比べて、へんに大きく見える女で、戦時中も終戦後も、いつも香水の匂いをさせていました。その秘書主任が、どうしたわけか、時折、映画や芝居の切符を彼にくれました。彼が便所に行く時、彼女は素知らぬ風で後からついて来て、にっこり笑みながら切符をくれました。彼女は専務水町周造と愛慾関係があるとかいうことでしたが、真偽のほどは分りませんでした。或る同僚は立川に、彼女の機嫌を損じてはいけないよと、仔細らしく注意したことがありました。そのため、というほど意識的ではありませんでしたが、彼は彼女がくれる切符を受け取りました。便所の室の手洗所のところで、何度か切符を貰いました。
その手洗所のところで、或る土曜日、明日彼女のアパートへ遊びに来てくれと彼は誘われました。郷里から鯛の浜焼というおいしいものが送って来たし、うまいウイスキーもあるから、御馳走するというのでした。彼はそこで長く立ち話をするのが嫌でしたから、曖昧な返事をして逃げだしました。そして翌日は彼女を訪れず、月曜日は会社を休みました。火曜日に、便所で彼女につかまると、病気だったと言い訳をしました。彼女はじっと彼の顔を見て、次の日曜日に一緒に郊外散歩をしないかと誘いました。彼はうっかり、専務にわるいからと洩らしました。とたんに、彼女は彼の肩を捉え、抱きかかえんばかりに顔をすりよせて、おばかさんね、とただ一言、彼の耳許に囁き、怒ったように立ち去りました。だが、彼女は怒ったのでもなさそうで、やはり時々、映画や芝居の切符をくれました。
それからは、彼女の眼付きが変ってきました。揶揄するような甘やかすような、そしてこちらでちょっと極り悪く思うような眼差しで、人中も構わず、彼女はじっと彼を眺めました。彼はその眼差しが気になり、彼女の方へ却って心が惹き寄せられました。彼は嘗て、恋愛の気持ちで女を想ったこともあり、商売女のところへ通ったこともありましたが、そういう過去の事柄も影が薄らいで、彼女の姿と香水の匂いだけが、彼の前に大きく立ち塞がってきました。そして彼は、その秘書主任の独身の三十女を、ひそかに想いあらわに恐れながら、便所で映画や芝居の切符を彼女から貰いました。それはもう屈辱や佗びしさを通りこして、滑稽でさえありました。
そういう会社の、社長の宅の、あの大きな欅に雷が落ちて、欅はまっ二つに裂かれました。それがまざまざと、立川一郎の眼に残っていました。しんしんとした感じで、悲哀に似ていました。
彼はゆっくりと墨をすり、更にゆっくりと辞職願を書きました。一身上の都合に依り考慮する所ありてと、一字一字、墨色を眺めながら書きました。書き終ると、封筒に収めました。それから、一時間ばかりぼんやりして煙草をふかしました。
社内にはもう話し声もせず、十数名の者が、並べ据えられた長卓のあちこちに散らばって、居配りをしたり、印刷物を読んだりしていました。
立川一郎は静かに立ち上って、衝立の向うの一廓になってる、秘書主任三宅弘子のところへ行きました。彼女は或る捕物帳の本をもう何度目か繰返し読んでいました。
立川は眼を伏せて封筒を差出しました。
「これを、専務のところへ届けて下さい。」
彼女の眼がきらきらと光るように彼は皮膚に感じました。が見返しもせず、そのまま足を返しました。
帽子を右手でくるくる廻しながら、廊下を歩いていますと、彼女が追っかけて来ました。
「立川さん、これ、何ですの。」
彼の封筒を彼女は指先で器用に丁寧に持っていました。
その顔を、彼はじっと見つめました。大きく見える彼女の顔は、今はなんだか細そりして、小皺がたくさんあり、反り返った睫毛の奥に瞳が白痴めいていました。
「僕のことを書いたものです。専務が見たら、あなたもあとで見て下さい。」
その自分の声を、彼は他人のもののように聞きました。
彼女は小首をかしげて、殆んど無心に人形のような笑顔をしました。
「専務さんより、先に見るわ。ね……。」
念を押されたのをそのままにして、彼も機械的に笑顔をしました。そしてくるりと向き直って、階段を降りてゆきました。
すべてが、何事もなかったかのように静穏に決行されました。雷に打たれた欅の大木が、痛ましい姿とは観ぜられず、ただ静かに静かに、水中ででもあるかのように、一瞬間、彼の眼に浮びました。
街路には斜陽が照り、高い建築の影がくっきりと印せられていました。その日向の方を、彼は歩いてゆきました。掘割の岸に出ると、ちょっとその中に飛びこみたくなる気持ちを、それも泳いでみたいためであることを、彼は夢のように感じました。
電車にも乗らず、四十分あまり歩いて、久保辰彦のところへ行きました。
久保辰彦は、専門学絞時代の彼の同窓で、暫く交際も途絶えていましたが、終戦後に偶然出逢ってみれば、やはり距てない仲でした。空襲で半焼けになった小さな印刷工場を、どこで金を工面したか久保は買い取って、数名の同志と共同経営をしていました。印刷機械其他万般の修理復興や、急激に輻輳してきた仕事の註文などで、寸暇もない有様でした。体力と精神力を睨み合せて、働けるだけ働くというのが、彼等仲間の主義でした。立川の会社の実状を聞いて、敗戦国と戦勝国との差だと笑い、戦勝国から敗戦国へ鞍代えして来ないかと勧めました。
その久保の工場の、土間に小卓を置いた狭い薄暗い室に、立川は三十分近く待たされました。
シャツに半ズボンのみなりで、そしてシャツが真白で手が黒くよごれてる姿で、久保はゆっくり出て来ました。
「珍らしいね。今日は休みか。」
立川は笑顔もせず、何でもない当然のことをでも話すような調子で、会社に辞表を出してきたところだと言いました。
「それで、会社では受け附けたかい。」
「出しただけだ。」
「うむ、元来が、辞職願というやつは、辞職届とすべき性質のものだからね。よかろう、今日から僕等の仲間にはいれよ。」
「仕事さえあれば、結構だ。」
「仕事はしきれないほどあるよ。」
その時久保は、口を噤んで、じっと立川を眺めました。少しく長すぎるほど眺めました。
「どうしたんだ、元気がないね。」
「僕は昨日から、どう言ったらいいか……精力的な沈潜した悲哀……そんなものがあるとしたら、それに囚われてるらしい。」
「精力的な沈潜した悲哀……僕には分らんね。」
でも久保は、また口を噤んで、立川を眺めながら、考えこみました。立川は涙ぐみそうな気持ちで、頬の肉の震えを自ら感じました。
久保は気を変えるように、立川の辞職と就職との二つの祝いに一杯飲もうと言い出しました。そしてあれこれと物色した上で、立川の望みに任せた内密な店へ出かけました。
久保はよく飲み、よく食い、よく饒舌りました。印刷技術について、いつのまにか深い研究を重ねてると見えて、その方面のことをいろいろ説明してきかせました。立川にはさっぱり理解が出来ませんでした。ただ、写真と印刷とが同一の技術面で合致すべきだという久保の説を、ちょっと面白く思っただけでした。それに、彼は酒に弱く、早く酔ってしまいました。出された鮨には手をつけず、それをすっかりみやげに持ってゆくと主張しました。みやげがいるなら別に作らせると久保が言っても、彼はやはり主張をまげず、早く帰りたがりました。
大きな鮨包みを大事そうにかかえて、立川は帰ってゆきました。久保は一人で残って飲み続けました。
電車から降り、焼け跡をぬけ、以前はバスが通っていた大通りから、彼方に、矢野さんの家の欅の大木を見ると、立川はそこに立ち止って、帽子を地面に叩きつけました。それに気がついても、顔の表情を変えず、帽子を拾ってかぶり、欅に眼を据えたまま、酔った足取りで歩きだしました。
太陽はだいぶ前に沈んでいましたが、まだ中空に明るみがありました。ただ透明だという感じの明るみでした。その中に、欅の大木は影絵のように浮き出して、引き裂かれた傷口だけがなまなましく、そこだけが現実感を露呈していました。立川はそれに眼を見捉えて、それに引き寄せられるように歩いてゆきました。
中空の明るみは急速に消えてゆきそうな頼りなさでした。立川はちょっと足を早めましたが、またゆるやかな歩調に戻り、そのとたんに、涙をほろりと瞼からこぼしました。深い哀感に沈んでるのでした。だがそれは感傷ではなく、決意に満ちたもので、彼の眉は昂然と高められていました。
彼は眼を一つしばたたいて、欅から視線を引き離し、鮨の包みを胸にかかえあげて、上空に光りだしてる星を仰ぎ見ました。
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