この犬は名を附けて人に呼ばれたことはない。永い冬の間、何処にどうして居るか、何を食べて居るか、誰も知らぬ。暖かそうな小屋に近づけば、其処に飼われて居る犬が、これも同じように饑渇に
たった一度人が彼に
「シュッチュカ」とその男は叫んだ。これは
シュッチュカは行っても好いと思った。そこで尻尾を振って居たが、いよいよ行くというまでに決心がつかなかった。百姓は掌で自分の膝を叩いて、また呼んだ。「来いといったら来い。シュッチュカ奴。馬鹿な奴だ。己れはどうもしやしない。」
そこで犬は小股に歩いて、百姓の側へ行掛かった。しかしその間に百姓の考が少し変って来た。それは今まで自分の良い人だと思った人が、自分に種々迷惑をかけたり、自分を侮辱したりした事があると思い出したのだ、それで心持が悪くなって訳もなく腹を立って来た。シュッチュカは次第に側へ寄って来た。その時百姓は
「ええ。畜生奴、うぬまで己の側へ来やがるか。」犬は悲しげに啼いた。これはさ程痛かったためではないが、余り不意であったために泣いたのだ。さて百姓は
それからこの犬は人間というものを信用しなくなって、人が呼んで
冬の夜は永い。明別荘の黒い窓はさびしげに物音の絶えた、土の凍た庭を見出して居る。その内春になった。春と共に静かであった別荘に賑が来た。別荘の持主は都会から引越して来た。その人々は大人も子供も大人になり掛かった子供も、皆空気と温度と光線とに酔って居る人達で、叫んだり歌を謡ったり笑ったりして居る。
その中でこの犬と初めて近づきになったのは、ふと庭へ走り出た美しい小娘であった。その娘は何でも目に見えるものを皆優しい両手で掻き抱き、自分の胸に押しつけたいと思うような気分で、まず晴れ渡った空を仰いで見て、桜の木の赤味を帯びた枝の方を見て、それから庭の草の上に寝ころんで顔を熱く照らす日に向けて居た。しかしそれも退屈だと見えて、直ぐに飛び上がって手を広げて、赤い唇で春の空気に接吻して「まあ好い心持だ事」といった。
その時何と思ったか、犬は音のしないように娘の側へ這い寄ったと思うと、着物の裾を
夜になって犬は人々の寝静まった別荘の側に這い寄って、そうして声を立てずにいつも寝る土の上に寝た。いつもと違って人間の香がする。熱いので明けてある窓からは人の呼吸が静かに漏れる。人は皆な寝て居るのだ。犬は羨ましく思いながら番をして居る。犬は左右の眼で交る交る寝た。そうして何か物音がする度に頭を上げて、燐のように輝く眼を
この別荘に来た人たちは皆好い人であった。その好い人が町を離れて此処で清い空気を吸って、緑色な草木を見て、平日よりも好い人になって居るのだ。初の内は子供を驚かした犬を逐い出してしまおうという人もあり、中には拳銃で打ち殺そうなどという人もあった。その内に段々夜吠える声に聞き馴れて、しまいには夜が明けると犬のことを思い出して「クサカは何処に居るかしらん」などと話し合うようになった。
このクサカという名がこういう風に初めてこの犬に附けられた。稀には昼間も木立の茂った中にクサカの姿が見える。しかし人が
「クサチュカ、私と一しょにおいで」と犬を呼んで来た。「クサチュカ、好い子だね。お砂糖をあげようか。おいでといったらおいでよ」といった。
しかしクサカは来なかった。まだ人間を怖れて居る。レリヤは平手で膝を打って出来るだけ優しい声で呼んだ。それでも来ないので、自分が犬の方へ寄って来た。しかし迂濶に側までは来ない。人間の方でも噛まれてはならぬという
「クサチュカ、どうもするのじゃないよ。お前は可哀い眼付をして居る。お前の鼻梁も中々美しいよ。可哀がって遣るから、もっと此方へおいで」といった。
レリヤはこういって顔を振り上げた。犬を誉めた
クサカは生れてから、二度目に人間の側へ寄って、どうせられるか、打たれるか、摩られるかと思いながら目を
レリヤは別荘の方に向いて、「お母あさんも皆も来て御覧。私今クサカを摩って居るのだから」といった。
子供たち大勢がわやわやいって走り寄った。クサカの方ではやや恐怖心を起して様子を見て居た。クサカの怖れは打たれる怖れではない。最早鋭い牙を、よしや打たれてもこの人たちに立てることが出来ぬようになったのを怖れるのだ。平生の人間に対する憤りと恨みとが、消えたために、自ら危んだのだ。どの子もどの子も手を出して摩るのだ。摩られる度に、犬はびくびくした。この犬のためにはまだ摩られるのが、打たれるように苦痛なのであった。
次第にクサカの心持が優しくなった。「クサカ」と名を呼ばれる度に何の心配もなく庭に走り出るようになった。クサカは人の持物になった。クサカは人に仕えるようになった。犬の身にとっては
この犬は年来主人がなくて饑渇に馴れて居るので、今食物を貰うようになっても余り多くは喰べない。しかしその少しの食物が犬の様子を大相に変えた。今までは処々に
しかし犬が気持ちよく思うのはこの時もただ独り居る時だけであった。人に摩られる時はまだ何だか苦痛を覚える。何か己の享けるはずでない事を享けるというような心持であった。クサカはまだ人に
クサカの芸当は精々ごろりと寝て背中を下にして、目を瞑って声を出すより外はない。しかしそれだけでは自分の喜びと、自分の恩に感ずる心とを表わすことが出来ぬと思った。それでふいと思い出したことがある。それは昔余所の犬のするのを見て、今までは永く忘れて居たことであった。クサカはそれをやる気になって、飛びあがって、
レリヤはそれを見て吹き出して、「お母あさんも皆も御覧よ。クサカが芸をするよ。クサカもう一反やって御覧。それでいい、それでいい」といった。
人々は馳せ集ってこれを見て笑った。クサカは相変らず翻筋斗をしたり、後脚を軸にしてくるくる廻ったりして居るのだ、しかし誰もこの犬の目に表われて居る哀願するような気色を見るものはない。大人でも子供でも「クサチュカ、またやって御覧」という度に、犬は翻筋斗をしてくるくる廻って、しまいには皆に笑われながら
次第にクサカは食物の心配などもないようになった。別荘の女中が毎日時分が来れば食物を持って来る。何時も寝る処に今は威張って寝て、時々は人に摩られに自分から側へ寄るようになった。そうしてクサカは太った。時々は子供たちが森へ連て行く。その時は尾を振って付いて行って、途中で何処か往ってしまう。しかし夜になれば、別荘の人々には外で番をして吠える声が聞えるのである。
その内秋になった。雨の日が続いた。次第に処々の別荘から人が都会へ帰るようになった。
この別荘の中でも評議が初まった。レリヤが、「クサカはどうしましょうね」といった。この娘は両手で膝を
母は娘の顔を見て、「レリヤや。何だってそんな行儀の悪い腰の掛けようをして居るのだえ。そうさね。クサカは置いて行くより外あるまいよ」といった。「可哀そうね」とレリヤは眩いた。「可哀そうだって、どうも
その内別荘へ知らぬ人が来て、荷車の軋る音がした。床の上を重そうな足で踏む響がした。クサカは知らぬ人の顔を怖れ、また何か身の上に不幸の来るらしい感じがするので、小さくなって、庭の隅に行って、木立の隙間から別荘を見て居た。
其処へレリヤは旅行の時に着る着物に着更えて出て来た。その着物は春の頃クサカが喰い裂いた茶色の着物であった。「可哀相にここに居たのかい。こっちへ一しょにおいで」とレリヤがいった。そして犬を連れて街道に出た。街道の傍は穀物を刈った、刈株の残って居る畠であった。所々丘のように高まって居る。また低い木立や
「一銭おくれ」と馬鹿は大儀そうな声でいった。「ふうむ薪でも割ってくれれば好いけれど、手前にはそれも出来まい」と憎げに百姓はいった。馬鹿は卑しい、卑褻な詞で返事をした。
レリヤは、「此処は厭な処だから、もう帰りましょうね」と犬に向かっていって、後ろも見ずに引き返した。
レリヤは皆と別荘を離れて停車場にいって、初めてクサカに
クサカは別荘の人々の後について停車場まで行って、ぐっしょり沾れて別荘の処に帰って来た。その時クサカは前と変った芸当を一つしたが、それは誰も見る人がなかった。芸当というのは、別荘の側で、後脚で立ち上がって、爪で入口の戸をかりかりと掻いたのであった。最早別荘は空屋になって居る。雨は次第に強くふって来る。秋の夜長の闇が、この辺を
その内全く夜になった。犬は悲しげに長く吠えた。その声はさも希望のなさそうな、単調な声であった。その声を聞くものは、譬えば闇の夜が吐く溜息を聞くかと思った。その声を聞けば、何となく暖かい家が慕わしくなる。愛想のある女の胸が慕わしくなる。犬は吠え続けた。
(明治四十三年一月)