手紙

慶応元年九月九日 坂本乙女、おやべあて

坂本龍馬




私共とともニ致し候て、盛なるハ二丁目赤づら馬之助、水道通横町の長次郎、高松太郎、望月ハ死タリ。此者ら廿人斗の同志引つれ、今長崎の方ニ出、稽古方仕リ候。御国より(いで)しものゝ内一人西洋イギリス学問所ニいりおり候。日本よりハ三十斗(人)も渡り候て、共ニ稽古致し候よし。実ニ盛なる事なり。
私しハ一人天下をへめぐり、よろしき時ハ諸国人数を引つれ、一時ニはたあげ(旗挙)すべしとて、今京ニありけれども五六日の内又西に行つもりなり。然共下さるゝものなれバ、ふしみ宝来橋寺田や伊助まで下され候よふ御ねん(念)じなり。
じつにおくにのよふな所ニて、何の志ざしもなき所ニぐず/\して日を送ハ、実ニ大馬鹿ものなり。

かへす/″\も今日ハ九月節句とて、おやべがこんぺいとふ(金米糖)いがた(鋳型)が、おしろいにてふさがり候こと察いり候。ねこおいだき西のをくのゑんニて、ひなたぼつこふ大口斗ヘヽラ/\さつしいり候。
乙大姉ニ申奉ル。
扨、先日文さしあげ候。
よろしく御らん可遣候。
○ちかごろおんめんどふ(御面倒)ニ候得ども、実におねがいニ候間、御聞込つかハされかし。
あのわたくしがをりし茶ざしきの西のをしこみ書物箱がありし、其中ニいかにも(こげしかきがみか)ひよふし(表紙)かゝり候、小笠原流諸礼の書十本斗、ほんのあつ(厚)さハ一分二分斗の本のあつさニて候。此頃あるかたより諸礼の書求くれよとあり候得ども、どふもこれなく、あれでなけれバどふもなり不申候。かならず/\めんどふとうちすておかずニ御こしつかハされたくねんじ候。
是よりおやべどんニもふす。
近頃御めんどふおんねがいニ候。どふぞ御きゝこみねんじいり候。扨、わたしがお国ニおりし頃ニハ、吉村三太と申もの頭のはげたわかいしゆ(若衆)これあり候。これがもち候哥本、新葉集とて南朝(楠木正成公などのころよしのニて出来しうたのほん也。)にてできし本あり。これがほしくて京都にて色※(二の字点、1-2-22)求候得ども、一向手ニいらず候間、かの吉村より御かりもとめなされ、おまへのだんな(旦那)さんにおんうつさせ、おんねがい被成、何卒急ニ御こし可下候。
(うへに)申上候乙大姉えの御頼の本、又おやべより被下候本ハ、入道盈進までおんこし被成候時ハ私までとゞき候。
もし入道盈進ヱイシムがおくにニかへり候時ハ、伏見ニておやしきのそバニ宝来ハシと申へんに船やどニて寺田や伊助、又其へんニ京橋有、日野屋孫兵衛と申ものあり。これハはたごやニて候。
此両家なれバちよふど私がお国ニて安田順蔵さんのうちニおるよふな、こゝろもちニており候事ニ候て、又あちらよりもおゝいにかわいがりくれ候間、此方へ薩州様西郷伊三郎と御あてのて(ママ)、品ものニても、手がみニてもおんこし被遣候時ハ、私ニとゞき候。かしこ。
九月九日
おやべさん
京のはなし然ニ内※(二の字点、1-2-22)ナリ
とし先年(頼)(樹)三郎、梅田源二郎、梁川星巖、春日(潜庵)などの、名のきこへし諸生太夫が朝廷の御為に世のなん(難)おかふむりしものありけり。其頃其同志にてありし楢崎(将作)と申医師、夫も近頃病死なりけるに、其妻とむすめ三人、男子二人、其男子太郎ハすこしさしきれなり。次郎ハ五歳、むすめ惣領ハ二十三、次ハ十六歳、次ハ十二なりしが、本十分大家にてくらし候ものゆへ、花いけ、香をきゝ、茶の湯おしなどハ致し候得ども、一向かしぎぼふこふ(炊ぎ奉公)する事ハできず、いつたい医者いしやというものハ一代きりのものゆへ、おやがしんでハ、しんるい(親類)というものもなし。たま/\あるハそのきよ(虚)じよふ(乗)じて、家道具などめい/\ぬすみてかへりたる位にて、そのとふじ(当時)ハ家やしきおはじめどふぐ(道具)じぶんのきりもの(着物)などうりて、母やいもふとやしないありしよしなれども、ついにせん(詮)かたなく、めい/\とりわかり、ほふこふ(奉公)致し候てありしに、十三歳の女ハ殊の外の美人なれバ、悪者これおすかし島原の里へまい子(舞妓)にうり、十六ニなる女ハだまして母にいゝふくめさせ、大坂に下し女郎ニうりしなり。五歳の男子ハ粟田口の寺へつかハせしなり。夫おあね(姉)さとりしより、自分のきりもの(着物)をうり、其銭をもち大坂にくだり、其悪もの二人をあいてに死ぬるかくごにて、ものふところにしてけんくわ(喧嘩)致し、とふ/\あちのこちのといゝつのりけれバ、わるものうでにほりもの(刺青)したるをだしかけ、ベラボヲグチにておどしかけしに、元より此方ハ死かくごなれバ、とびかゝりて其者むなぐらつかみ、かを(顔)たか(ママ)になぐりつけ、イハク其方がだまし大坂につれ下りし妹とをかへさずバ、これきりであると申けれバ、わるもの曰ク、女のやつ殺すぞといゝけれバ「女曰ク、殺し殺サレニはる/″\大坂ニくだりてをる、(それ)ハおもしろい、殺セ/\といゝけるニ、さすが殺すというわけニハまいらず、とふ/\其いもとおうけとり、京の方へつれかへりたり。
めづらしき事なり。かの京の島原にやられし十三のいもふとハ、としもゆかねバさしつまりしきづかい(気遣)なしとて、まづさしおきたり。夫ハさておき、去年六月望月(もちづき)らが死し時、同志の者八人斗も皆望月が如戦死したりし。
そのまへ此者ら今の母むすめが大仏辺にやしないかくし、女二人してめしたきしてありしが、其さわぎの時、家の道具も皆とりでの人数が車につみとりかへりたれハハ(ママ)、今ハたつき(活計)もなく、自分ハ母と知定院(ママ)と言亡父が寺に行、やしなハれてありし。日※(二の字点、1-2-22)クウやくハずに、じつあわれなるくらしなり。
此あとハ又つぎニ申上る。
右女ハまことにおもしろき女ニて月琴おひき申候。今ハさまでふじゆう(不自由)もせずくらし候。此女私し故ありて十三のいもふと、五歳になる男子引とりて人にあづけおきすくい候。又私のあよ(危)ふき時よくすくい候事どもあり、万一命あれバどふかシテつかハし候と存候。此女乙大姉をして、しんのあねのよふニあいたがり候。乙大姉の名諸国ニあらハれおり候。龍馬よりつよいというひよふばん(評判)なり。
○なにとぞおび(帯)か、きもの(着物)か、ひとつ此者ニ御つかハし被下度、此者内※(二の字点、1-2-22)ねがいいで候。此度の願候よふじ(用事)ハ、
乙さんニ頼候ほん
おやべニ頼みしほん
夫ニ乙さんのおびか、きものかひとすぢ是非御送り、今の女ニつかハし候。今のの名(ママ)ハ龍と申、私しニにており候。早々たずねしニ、生レし時父がつれ(ママ)し名よし。
○そして早※(二の字点、1-2-22)忘れし事あり。あの私がをりし茶ざしき(座敷)の西の通りがある、其上ニ竹が渡して(絵)やら字やらなにか、とふし(唐紙)ニ記し候ものあり、其中、順蔵さんのかきしものあり。御送り、そして(冊)タンシヤク箱に(母上―父上の)(歌)、おばあさんの御哥、権兄さんのおうた、おまへさんの御うたこれありけり。なニとぞ父上母上おばあさんなど死うせたまいし時と日と、皆短尺のうらへおんしるしなされおんこし。この中ニ順蔵さんが私しニおくりし文がとふしニしるし、大てい半紙位のものあり、御こし。是ハ英太郎(高松太郎)が父の者ほしがり候間、つかハし候。
(それ)ニ此度の御ねがいハ、それ/″\おんきゝすてなく御こしねん(念)じ、かしこ。
九月九日
[#ここから2段組]
乙あねさん
おやべどん
[#改段]
御頼のもの
かず/\並ニ
おはなし
長き御返じ
下度候。
[#ここで段組終わり]





底本:「龍馬の手紙」宮地佐一郎、講談社学術文庫、講談社
   2003(平成15)年12月10日第1刷発行
   2008(平成20)年9月19日第7刷発行
※底本手紙の写真のキャプションに、(京都国立博物館蔵)とあります。
※丸括弧付きの語句は、底本編集時に付け加えられたものです。
※直筆の手紙の折り返しに合わせた改行は、省いて入力しました。
入力:Yanajin33
校正:Hanren
2010年7月24日作成
2011年6月17日修正
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