暗黒日記

清澤洌




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昭和十七年
  (十二月九日――十二月二十八日迄)



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昭和十七年十二月九日(水)

 近ごろのことを書き残したい気持ちから、また日記を書く。
 昨日は大東亞戰爭記念日であった。ラジオは朝の賀屋(興宣)大藏大臣の放送に始って、終始、感情的叫喚であった。夕方は僕は聞かなかったが、米国は鬼畜、英国は惡魔だといった放送で、家人でさえもスウィッチを切った。かくも感情に訴えなければ、戰爭は完遂できぬのか。
 東京でお菓子の格付けをするというので、お役人が集って有名菓子を食ったりしている。役人はいかに暇であることか。
 昨日、陸軍に感謝する会が、木挽町の歌舞伎座であって、超満員だった。

十二月十二日(土)

 右翼やゴロツキの世界だ。東京の街は赤尾敏(建国会会長・代議士)という反共屋の演説ビラでいっぱいであり、新聞は国粹党首という笹川良一(国粹大衆党総裁・代議士)なる男の大阪、東京間の往來まで、ゴジ活字でデカデカと書く。こうした人が時局を担当しているのだ。
 この戰爭の第一の失敗は、極端な議論の持主が中枢を占有し、一般識者に責任感を分担せしめぬことだ。

十二月十三日(日)

 資本家は生産増強の重荷を負わされている。それにもかかわらず法規で縛られ、統制に服して、不平満々だ。資本家側で現時の官僚を「赤」と呼ぶものが多い。小林一三氏(東宝社長・元商相)がそうであり、半沢玉城君(外交時報社長・元読売新聞編集局長)がそうだ。今日の朝日には藤山愛一郎(大日本製糖社長)が「人の機械化を排せ」といって、観念的平等主義を諷している。

十二月十五日(火)

 奧村(喜和男)情報局次長は、新聞記者会合の席上で「新聞の紙は來年からウンと少くなる。諸君は新聞記者をやめて、情報局の聖戰完遂の演説で地方でも回れ」と言ったという。それから「中央公論」などはウンと紙を少くするとて、名をあげて攻撃した。さらに堀内という中佐は、中央公論をなくしてしまうとも言ったとのことだ。言論はこれら少壯官吏の玩具になったのである。

十二月二十二日(火)

 尾崎行雄、第一審は不敬罪で八ヵ月の懲役、執行猶予一ヵ年に決す。(これは四月十二日、東京日本橋有馬国民学校その他で行った演説が、天皇の徳を批判し、不敬の行為ありたるものとして起訴されたものである。伊佐秀雄著、尾崎行雄伝、一一七二―九九頁参照)

十二月二十八日(月)

 大孝弥栄会の会長皆川治広(元司法次官)以下三十七名の大孝弥栄会員が、二十五日から三日間曉天禊行を行う。宮域前に[#「宮域前に」はママ]土下座する白衣白袴の一団。正にこれ幕末維新の光景である。中に国民学校生徒あり。風間正守という。こういう教育の結果が、日本にいかなる影響を及ぼすだろうか。
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昭和十八年



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昭和十八年一月八日(金)

 三十一日、熱海山王ホテルに至り、七日午後帰宅。
 ジャパン・タイムズがニッポン・タイムス、東京日々新聞が毎日新聞に改名。また、バタビアがジャカルタに、マレイがマライにそれぞれ改名。名を変えることが、いちばん樂な自己満足だ。
 文化は交流によって発達するか、それとも純粹を保つことによって発達するか。後者ならばナチスは最善の政策だ。ドイツはすでにドストエフスキーの文学などを禁止したとのことだ。

一月十二日(火)

 インテリの間では、奧村情報局次長が極めて不評判だ。彼を憎みはしないが軽蔑するよ、と今井登志喜帝大教授(文学部)も言っていた。学問と知惠を超越する言論に対しては、学問あるものは大体そう言う。これでは知識階級を率いることは困難だ。

一月十四日(木)

 昨日、東京市の招待あり。座に文部省の「臣民の道」を書いたという男がいた。八紘一宇の何のと低級なること夥し。国民精神研究所の所員だ。いまの日本はかかる連中の天下である。

二月四日(木)

 国民政府(南京政府)は従來青天白日旗の下に「和平、反共、建国」の黄色標識をつけていたが、今回それをやめて重慶のものと同じにした。これは何を物語るものであろう。黄色標識をつけているほうが人気があるなら、それを外さない筈である。

二月五日(金)

 東條首相は議会で「自分は日本人の誠忠を信ずるが故に、戒嚴令もしかなかった」と言った。議会は追従主義で盛んに「強権発動」を言っている。強権発動をして見たら、結果がよくなるか。実物教育のために、やってみたらいいではないか。ここまで來れば、何をやっても同じだ。しかし、彼らはどんな場合にも、経驗を教訓とする連中ではない。

二月六日(土)

 蝋山政道君、比島より帰り歓迎会をする。同君の話――
 一、比島の治安はまずあの程度だろう。問題は米逃避軍が紙幣を三千五百万ペソばかり出している。それがインフレの基礎をなしている。
 二、大東亞共栄圈なるものの具体的構想がわからず、現地でも困っている、と。

二月十日(水)

 奧村情報局次長は、日本の対外宣伝が非常に旨くいっていると言う。この人々は対手の心理を知らぬ自己満足が、すなわち対手の満足だと考えている。彼らは永遠に覚ることはあるまい。

二月十一日(木)

 正宗白鳥氏いわく、「文士はダメだ。文士の会にでるのは嫌だ。さきごろ菊池寛と自動車に同乘したが、菊池は今度の戰爭でフィリッピンが当方のものとなるだけでも、たいしたものだ。ここ三、四年の辛抱で、すっかり米英を撃碎すると言って、まるでいい気持ちになっていた。」
 三木清君いわく「文士はダメだ。彼らの見るのは、感情的側面だけである。話題は沢山あるが、何もつかんでいない」と。

二月十四日(日)

 新聞はパレンバンの落下傘部隊、それからシンガポールの戰勝などのことを、いまさらながら全面を通して書いている。ヒースという英国少將の手記ものせている。他を強制して、武功を吹聽させるのが好きのようだ。

二月十七日(水)

 昨日、ゴルフをやる。二ヵ月ぶりだ。成績あまりよくなし。ゴルフは今度打球というようになった。ゴルフ・バッグを打球錬成袋といったらどうだと、皆で笑う。小兒病的な現代思想が、ここにもある。
 ロストフが赤軍の手に落ちた。ドイツ軍の猛攻撃、赤軍敗退、といった題目が続いた後、こうした記事がでるのだ。

二月十九日(金)

 東條首相が、今秋の選挙には推薦制を用いないと言った。また、官憲が指導することもいけないといった。そこで朝日は社説で、推薦制度が公選にもとることを論じている。政府が声明すると、始めてこれについて論ずる。かつて当時は一人もこれについて、抗議するものはなかったが。
 これが日本の言論である。

二月二十二日(月)

 大東亞戰爭は浪花節文化の仇討ち思想だ。新聞は米を迷利犬といい、英を暗愚魯といい、また宋美齢のワシントン訪問に、あらゆる罵詈的報道をしている。かくすることが、戰爭完遂のために必要だと考えているのだ。

二月二十五日(木)

 正木※(「日/大」、第4水準2-13-82)(ひろし)という弁護士の「近きより」という小雜誌がある。その一月号、二月号は驚くべき反軍的、皮肉的なものである。戰爭下にこれだけのものが出せるのは驚くべし。これを書いた彼の勇気驚くべし。彼は徹底的デモクラットで、文章も非常にうまい。

三月二日(火)

 二、三日前、幣原(喜重郎)男を訪う。幣原男の話――貴族院で何人かが、谷(正之)外相に戰後案の有無を問う。谷はせっかく研究中だと言った。同じことを、青木(一男)大東亞相に問うた。色をなして「いま戰爭中だのに、戰後案とは何事か」と言ったという。

三月四日(木)

 各方面で英米を憤ることを教えている。秋田県の横手町では、チャーチルとルーズベルトの藁人形をつくり、女子供に竹槍で突かせていると、今朝の毎日新聞は報じている。封建時代の敵討思想だ。そうした思想しかない人が、国民を指導しているのである。

三月十六日(火)

 夕刊で東條首相が南京に赴いたことを知った。表面の理由は、汪精衞の來朝に対する返礼である。しかし、すでに租界を無條件返還する話がきまり、これの打合せと対支媚態外交のためであろう。もっとも重大なポイントは、東條も実際外交をやれば、この程度の讓歩をやむなくすること、また事態がここまで押してきたことである。ただ政策的に言えば、これによって支那は日本の弱点を発見するのみで、何らの効果もないことは明らかだ。
 この租界返還について、堀内謙介氏(元駐米大使)の話――陛下が東條首相に語り給うた、「有吉公使が、かつて言っていた。支那における西洋人は皿の中の御馳走を、皆な食った。しかるに日本人は皿まで食ってしまうと」。東條は恐懼して帰って來て、高等官を集め、大御心を伝え、対支政策の転換を語ったとのことだ。
 どうせ返還をやむなくするならば、現在の返還は認むべきだろう。しかし、政策の転換に陛下を引合いに出す(議会でもよくやるが)のは、極めて不穏当だ。陛下に責任を帰し奉ることになるのではないか。

三月二十日(土)

 今朝の読売に米国のユダヤ金権化の問題あり。世界をユダヤ人と非ユダヤ人との二つに分つごとき單純な頭では、なに一つ解決はできぬ。ユダヤ人問題をいうものは、世界を複雜な形で論じ得ないものだ。この連中はモーゲンソー(米国の藏相)が、米国を参戰せしめたという。こういう單純な論理だから困る。

四月七日(水)

 三月二十三日から四日までを、四国で過した。逓信省と経済クラブ講演のためだ。

四月二十一日(水)

 東條内閣改造。東條自ら文相兼任。ムッソリーニをまねて三役を兼ぬ。谷がやめ重光(葵)に、安藤(紀三郎)中將内務に、山崎(達之輔)は農林に、いずれも就任す。谷外相は少し気の毒なれど、やはりどうにも仕方なかるべし。荷が重過ぎたのは、けだし事実だろう。重光は大のオポチュニストにて、今までとても軍部の色を見ては、ロンドンとモスクワから報告を書いていた。出世主義の尤なるものである。岸(信介)が居据ったのは満州ブロックのお蔭ならん。

四月二十四日(土)

 メートル法反対の岡部長景(子爵・貴議)が文部大臣となった。東條らしい人事である。メートル法反対一本槍のところに、この人の些末主義がある。形式的であり、懷古的である。文相は近來、すべて素人だ。荒木(貞夫)大將もそうだし、橋田(邦彦・元東大医学部教授)とてもそうだ。国家のため深憂にたえず。しかし、どうにもならぬ。
 昨年四月十八日の帝都空襲の米人を死刑に処したので、米国が日本を野獸のように言っている旨、今朝の新聞は報ず。そして、抗議がきたそうである。米国その他の世論が、いかに惡化しているかは、想像に足る。この前の第一次大戰のドイツに対するように、この世論が結局戰爭遂行にどんなに大切なものであるかは、今の指導者には絶対わからぬ。力主義のみだからである。
 日本にては開戰の文書も発表されず、これら俘虜の問題などについても、一切国民に知らさない。そして、新聞は米国の祕密主義を攻撃している。日本の民衆の知識はこの程度のものだろうか。そうだとすればダメだ。
 來るべき新しい時代には、言論自由の確保ということが――個人の名誉に対する不当な毀損に対しては嚴罰を條件として――政治の基調とならなくてはならぬ。

四月三十日(金)

 朝のラジオは毎日々々低級にして愚劣なるものが多い。否、それだけの連発だ。昨朝は筧(克彦)博士(憲法学者)というのが、ノリトのようなことをやった。最初にノリトをよんで、最後に「いやさか、いやさか」と三唱してやめた。狂人じみている。精神主義には限界がある。精神に徹せよと言っても、徹した後でどうするかの具体的方法がなくては、何にもならぬ。それで今行き詰った。
世の中は星に碇に闇に顏
 馬鹿者のみが行列に立つ
という歌が流行している。
 ソ連、ポーランドに国交断絶を通告す。ソ連としては、戰爭の山も見えたし、ポーランド国境問題で束縛されることは不利である。それに英米の援助も大したものでないと考えたのだろう。これらが紛糾の理由だ。ソ連とポーランドとの関係の激化について、武藤貞一(読売編集顧問)などが既に対ソ連工作を考えている。この男は、かつてシンガポールをとって、英米を屈せしめ得ると考えたのではないか。

五月一日(土)

 徳富蘇峰と三宅雪嶺が芸術賞をもらった。そして、長谷川如是閑や馬場恒吾は今や生活に追われている。

五月三日(月)

 アリューシャンのアッツを熱田島、キスカを鳴神島と名づけたのは、名前を変えることをよろこぶ役人的考え方にもよるが、また戰爭を甘く見ている証拠だ。
 芝染太郎氏はフィリッピン行きを志望したが、中止になった。同氏がロータリー・クラブの幹事をしていたので、親米家と考えて軍部が反対したからだという。昨日、田舍から出てきた同氏の談話である。

五月二十二日(土)

 山本五十六大將戰死を昨日発表さる。
 正宗白鳥氏は「田舍の景気はいい。子供を殺しても、それを運命的に見ている。日本国民は戰爭の前途に、大した不安をもっていない」と話していた。そうだろうと思う。暗愚なるこの国民は、一種の宿命観をもっているのだ。

五月二十四日(月)

 中央公論の小説「細雪ささめゆき(谷崎潤一郎)は評判のものだったが、掲載を中止した。「決戰段階たる現下の諸要請より見て、あるいは好ましからざる影響あるやを省み、この点遺憾にたえず」だと。六月号社告にある。
 山本元帥の死は、非常なショックであった。しかし、近ごろのラジオと新聞のように、朝夕繰返していられると、少しウンザリする。近ごろの指導者たちはサイコロジーを知らぬ。もっとも一般国民には、そのほうがいいのか。

五月二十六日(水)

 小寺君という三井(高維)(現三井報恩会理事長)の親友が、「実業家は、学者の観測はまるでダメだと言っています」と話していた。学者がダメなのではなく、現在の学者らしく振舞っている者がダメなのである。

五月二十七日(木)

 時局雜誌に野村重臣(評論家)という男が、僕の外交史が英米の見解を述べていると言い、国内の思想鬪爭を展開しなくてはならぬという。彼は何故に、どこが否であるかを指摘しないのだ。彼の観方が正しいという証明がどこにあるか。僕の観方が純日本的だと言えば、それは観方の相違ではないか。問題は彼のイデオロギーをもってして、果して日本を偉大にすることができるかという点にある。戰爭の責任者はこの輩である。

五月三十一日(月)

 昨日、アッツ島の日本軍が玉碎した旨の放送あり。作戰に対する批判がないために、その反省がなく、従って凡ゆる失敗が行われるのだ。次ぎに來るものはキスカだ。ここには一個師ぐらいいると言われる。玉碎主義はこの人々の生命をも奪うであろう。それは国家のためにいいのであろうか。この点も今後かならず問題になろう。胸いたむ。

六月三日(木)

 朝、ラジオで徳富蘇峰の講演あり。ペルリが日本占領の意図あり、彼の像を建てたごときは、以っての外という。また、日露戰爭にルーズベルトの仲介したのを感謝するごときも、バカバカしいことだという。米国は好戰国民である。仁義道徳のない国だ。そうしたことが、その講演の内容だ。
 このところ徳富時代である。この曲学阿世の徒! この人が日本をあやまったこと最も大なり。

六月十二日(土)

 読売新聞に武藤貞一という男が、ミッション・スクールやキリスト教を攻撃し出した。ソ連においては礼拜を許し、宗教を自由にしている。このときに国内に不和を起そうというのか。武藤という男などは、戰爭の発頭人だ。こうした男を読売がかつぐとは何事だ。
 河村幽川の話――青山学院の商科学生がストライキを起しかけた。笹森(順造)校長の人事が、あまりにキリスト教主義に傾いているというのが原因だ。これを聞いて一応止めたが、このため商学部長は心臟マヒを起して死んだ由。――キリシタン禁止の再燃――大東亞戰爭の思想的表現。
 小林一三氏の話――大臣をやっていたとき、海軍の少佐がきて、「ぜひ君の主張を貫徹してくれ。海軍はあくまでバックする」と言った。そうした関係もあって、岸(信介・商工相)次官問題に積極的であった。ところが、問題が進捗すると、海軍は一切手を引いた。こういうことで、陸軍と正面衝突をすることは、好ましくないと考えたらしい、と。

六月十八日(金)

 昨日、三宅晴輝君(評論家)の話――
 同君の友人の一人は、わが国に革命必至なるを信じ、浅川近くに田畑、山林を買って移ることにした旨を語った。友人とは大内兵衞君に非ざるか。
 島中雄作君の話――中央公論だけが陸軍省の出入りを差止められた、と。なんでも谷崎の「細雪」を、早くとりやめなかったというようなことであったらしい、と。

六月十九日(土)

 現在、世の中で幅を利かしているものは、バカか便乘主義者である。野口米次郎、徳富蘇峰、久米正雄その他がある。鶴見祐輔、永井柳太郎もその一人であろう。室伏高信君の話に、大東亞戰爭前に情報局の間接後援で、高田保馬、本位田祥男その他の学者が集まってきた。開戰論を主張させるためである。その中に戰爭に反対したのは室伏のみ。天羽(英二)もいたが、これは反対のような口吻だった。が、役人はアテにならず、と。

六月二十日(日)

 大日本言論報国会では「日本世界観委員会」および「思想戰時対策委員会」を創造したが、前者は筑紫熊七中將が委員長、委員に山田孝雄(神宮皇学館大学長)、鹿子木員信(文博)らが選ばれ、後者の委員長には鹿子木が、委員に相川勝六、市川房枝、橋本欣五郎(代議士・陸軍大佐)、斎藤瀏(陸軍少將・歌人)らが選ばれた。さぞいいものが出來るでござんしょう。

六月二十二日(火)

 一昨日、小汀利得君に招かれて歌舞伎を見た。小汀は芝居をみると、泣けて仕方がないそうだ。彼ほどのファイターはないのに、この一面あり。
 今朝の新聞で、海軍から永野(修身)、陸軍から寺内(壽一)、杉山(元)が、元帥になったことの旨発表された。永野を先に発表したのも、東條の遠慮からではあるまいか。だが、戰爭も終らないのに、こうした累進は、果して民心にどう影響するだろう。

六月二十四日(木)

 信州の南安曇郡あたりでは、今春犬を全部殺して、その皮を軍に献納した。また、医者はみな保險医で、その代価は村役場からとるよし。村役場で値段を勘定し、適当な金を交付する。だから、医者の請求するだけを払うのではない。そして、だれも保險会員であり、支払いは租税に応じて出すのである。これらの中心は翼壯(大政翼賛壯年団)だ。
 同じ高田氏のところに壯年団がきて、レコードや本で英米的なものは、全部出せと言った。さすがに「どれどれがいけないのか」と言って、一部を保存した。銅、鉄は佛壇の燈明まで出した。土橋氏のところでは、五百貫も出したとか。いずれも実話である。老人連中は、「行き過ぎだ」と非難するが、どうにも仕方がない。青年団の勢力かくのごとし。とくに信州の青年は、かつて赤化しただけに、その行動は徹底的である。ただ知惠がないだけだ。
 中央公論、今月不発刊の旨、広告す。先ごろの陸軍省への出入り差止めに関係あらん。
 読売の高橋(雄豺)(副社長)と日本クラブで逢う。武藤貞一のことを言うと、人気がなかなかあり、新聞政策としてはよいと言っていた。但し「インテリには人気が惡いがね」と。彼の文章だけは全部校閲する由。しからば即ち官許である。

六月二十七日(日)

 翼政会より中野正剛、鳩山一郎、白鳥敏夫(代議士・元駐伊大使)ら脱会。
 中央公論社は、編集者が休職になったそうだ。軍報道部の言い分なるものを聞くと、中央公論は十の力をもっているのに、五の力しか入れていない。これはなお自由主義の残滓があるからである。あくまで反省する必要があるというのである。そこで中央公論は全部できていた雜誌を中止して、自粛の意を表し、八月再出版にしたのだそうだ。また、鹿子木とかその一派が書かされないので、それが怪しからんと憤慨、三木清とか谷崎なんかを養っておくのではないかと突っつかれる由。要するに御馳走をしないからだという。そして、乘取ってしまいたい底意であるとのことだ。

六月三十日(水)

 国民学術協会の哲学講演会が取り止めになった。それは広告に中央公論社に申込むべき旨を書いてあり、それを陸軍報道部に投書したものがあったからだ。この計画は一週間つづけて哲学の講演をする予定で、既に百余名の申込みがあったそうだ。講師の中に三木清があり、それが不埒だというのである。
 島中君の話によると、結局、中央公論が鹿子木、野村重臣らに書かせぬのが惡いというのである。八月号からは内容を全く一変する――今までは売れ過ぎたから、これからは売れない雜誌をつくる。海軍は同情するが、いま陸軍と衝突すれば雜誌の運命そのものにもかかわるから、海軍には遠慮せず、陸軍の気に入るような雜誌をつくれと言っている由。
 雜誌を休刊した影響はなかなか大きく、それが却って陸軍を硬化させたらしい。社長を替えるのも一つの目的らしいが、もし、そういう場合になれば、自爆あるのみと、島中君は決意を語っている。
 昨日、妻と軽井沢に來る。一ヵ月以前にきたときは、まだ若葉であった。いま深緑に満つ。午前、東洋経済の社論を書き、午後ゴルフを遊ぶ。このゴルフ場を提供せしむる運動、長野県翼壯団にあり。現在の悩みは労働力の不足ではないか。この草原をとりて彼らはいかにして生産せんとするや。

七月六日(火)

 有沢広巳は兄から金を出してもらって、浅川に三反の畑と山を買い、百姓家を改造して自作農をやることになった。それは來るべき混乱と革命に対する恐怖からである。

七月七日(水)

 日支事変六周年である。朝のラジオは「支那をあやつるのは米英である。蒋介石のみが取り残され、支那民衆は日本とともにある」といったことを放送した。この考え方は日支事変六周年になっても、まだ日本国民の頭を去らないのである。米英を撃破したら、支那民衆は直ちに親日的になるのか。支那人には自己というものは全然ないのか。
 この朝また例によって、満州国、汪精衞、比島のバルガスその他の要人をして、日本の政策を讃美せしめて放送した。かかる小兒病的自己満足をやっている以上は、世界の笑いものになるだけである。
 H・G・ウエルズの The shape of things to come を読む。ウエルズは満州事変を出発点として、日本と支那は全面的戰爭になる。日本は支那に三度勝って、ナポレオンのごとく敗れる。それから日本は一九四〇年に米国と戰爭をするといった筋書きだ。ウエルズの予言は実によく当る。日米戰爭の勃発も一ヵ年の相違である。そして、ウエルズは「將來の歴史家は日本が正気であったか、どうかを疑うだろう」と言っている。

七月九日(金)

 八日、軽井沢から帰京。この夜、芦田均君の主催にて、正木※(「日/大」、第4水準2-13-82)君を中心とする会あり。集まるものは芦田、馬場、島中、名川侃市(弁護士)、安藤正純、佐佐木茂索の諸君である。
 正木君の話によると、今年の「近きより」は、二月号と六月号とが発禁であった由。自分が弁護士である関係から、官憲から呼び出されなかったとのことである。
 鶴見祐輔君は戰爭の前途を樂観す。永井(柳太郎・元拓相)や鶴見には美文はあるが、思想なし。
 帰ってみると、安藤正純君の「政界を歩みて」という一書の贈らるるを発見。非常にいい人であるが、筆力、思想、遺憾ながら大したものでない。
 日本に革命は必至である。その革命は封建主義的コンミュニズムであろう。それは他の持つものを奪いとるのである。創造ではなくて破壞である。

七月十日(土)

 昨夜、国民学術協会評議員会あり。席上、島中理事より哲学講演会を中止した事情につき陳述す。
 陸軍報道部より学術協会の講演会の顏触れが、怪しからんといわれた。そこで中止したのだが、これには中央公論との関係がある。中央公論は谷崎の細雪が有閑マダムを主題としたもので、時局を知らぬと非難されていた。二回でやめたが、その頃から感情を害したらしい。そこへ京都派の哲学者の座談会があって、それが気に入らず、また清水幾太郎のアメリカニズムの研究その他が惡い。中央公論をつぶすというようなところまで行った。情報局も内務省も、殊に海軍などがあまり気にしないことが、益々感情を害したようだ。それに編集者が一応の弁解をしたことも、却って結果を惡くした。七月号の目次を見ると、これでは少しも自粛していないではないかと言ったので、そこで思い切って休刊にしたのである。その後、直ちに国民学術協会の広告が出て、それが彼らの感情を刺※[#「卓+戈」、U+39B8、31-10]した。内容ではなしに、單に顏触れを見ての上だけである。性格が惡いというのだ。
 右が大体島中君の報告である。そして、もし自分の存在が学術協会に迷惑であれば、辞任してもよいと申し出た。

七月十二日(月)

 鶴見祐輔君の話――先ごろ或る会で、元民政党の有力政治家が、鶴見君のところに來て「米国はまだ頭を下げぬかのう」と聞いた。とっさのことに、何とも答えられなかった。無暗なことを言えば誤解されるし、と。
 政治家の不勉強と無知ここに至る。大東亞戰が無知人の指導による危險さ。

七月十四日(水)

 物を知らぬ者が、物を知っている者を嘲笑軽視するところに、必ず誤算が起る。太平洋戰爭前に、国際事情に精通している専門家は、相談されなかったのみではなく、一切口を封じ込められた。信州の翼壯が軽井沢のゴルフ場閉鎖を主張するのは、近衞(文麿)や後藤(文夫・国務相・翼賛会副総裁)がそんなことをしていたんでは、増産も何も出來ぬというにある由。彼らは知識人が休息の要あるを知らぬほど無知であり、その根柢に破壞と嫉妬あるを見る。

七月十五日(木)

 僕はかつて田中義一内閣のときに、対支強硬政策というものは最後だろうと書いたことがあった。田中の無茶な失敗によって、国民の眼が覚めたと考えたからである。しかし、国民はさように反省的なものでないことを知った。
 地方では、米国が戰爭に勝てば、財産は取り上げられ、国民は殺されると固く信じている由。無知はこの程度である。

七月十七日(土)

 昨夜、久しぶりで二六会をやった。僕の幹事役だ。谷川徹三君を主賓として、長谷川如是閑、馬場恒吾、正宗白鳥、上司小劍、島中雄作、阿部眞之助参集。いずれも時局向きならざる顏だ。
 防空演習で空襲警報が発せられると、丸ビルでは便所の中でも腹這いになって、顏を床につけさせられる。その非常識は沙汰の限りだ。そして、二十歳前後のものが得意気に命令して歩いている。

七月十九日(月)

 朝、佐藤日史君(外務省官吏)きたる。「陸軍省へ行くと、ガアガア大きな声で怒鳴っている。あれでいい国策が考えられますか」という。

七月二十一日(水)

 朝のラジオは、李王殿下が航空司令官に就任のよしを伝う。皇族が重要ポストにつかれることが、ラジオの宣伝するごとく健全な証拠であろうか。その部の失敗は、すなわちその長たるものの失敗になるのではないか。また、国民は、実力ではなく皇族なるが故に、重要ポストに就任したのだという感じを抱くのではなかろうか。

七月二十二日(木)

 議会とは、現地派遣軍に感謝決議を行うところである。

七月二十五日(日)

 今日の教育による日本人は、断じて時局に関し反省せざるべし。日本人はあきらめにあり、しかし積極的建設は不可能である。馬鹿な国民ではないが、偉大な国民ではない。ドイツ人が同じことを繰返すように、日本人も必ず今後同じことを繰返すだろう。
 田村幸策君(法博)の話――毎日新聞の大東亞調査会で、学者たちが戰爭責任に関する研究を進めていた。秋田中佐というのが來て、「そんなことはわかっているではないか。チャーチルとルーズベルトにあるよ。いまさら戰爭責任なんてオカしい」と。学者先生ペチャンコとなったそうだ。

七月二十七日(火)

 ムッソリーニついに辞職す。
 中野正剛、秋田清(元厚生・拓務大臣)、白鳥敏夫らが一緒になっているとのこと、これに永井柳太郎が参加していると噂さる。一部において東條の政策が、妥協的でダメだというので、可成りの反対あるよし。それらが東條打倒運動になる可能性あり。

七月二十八日(水)

 イタリアの政変が、断片的な電報を通じて、ようやく明らかになってきている。注目すべきは、戒嚴令が布かれたこと、電報・電話が通じないこと、ファシスト民軍が解体され、国家保安義勇軍をつくったことである。以上の事実から次のような結論が出よう。
 (一) ムッソリーニおよびファシストに対する反感が起り、暴動化したこと、(二) その暴動はある意味では、革命的な深度に達していること、(三) イタリアは降伏の一歩手前であること、である。

七月二十九日(木)

 水野広徳氏(予備海軍大佐・「此一戰」の著者)から手紙あり。盲腸炎手術の経過にいわく――
 老齢に加うるに栄養物絶無の折柄とて、体力の回復遅々として捗らぬは、じれったくてなりません。産めや殖せよの赤ン坊第一時代のこととて、われわれ老人は一合の牛乳を得るにも、医者、隣組、町会、区役所の証明を得て、ようやく三日に一度か、五日に一度の配給さえも、三度に一度は腐敗しているという有樣にて、全く以って「生けるしるし」ある世の中です。
 時局の前途もいよいよ以って暗澹、ああ。日本は何処に行く。開戰当時、国家の異端者か非国民のごとく、感情的に白眼視したる高校学生に対する、軍当局の現在の媚態こそ、腕力に対する知性の勝利、科学に対する大和魂の降伏であります。人類は暗默の中にも、一歩々々前進しつつあることを感じさせられます。目先きのきくムッソリーニの逃げ出しこそ、桐一葉の感なくんばあらずでありませんか。鼎足いまや一を欠く。三国同盟危いかな。
 老生らは最早やいくばくもなく、このまま朽ち果ててこそ、国のためでありますが、貴兄らはなお春秋に富まれる身とて、更生日本のため御奮鬪あらんことを。
 以上が水野氏の手紙だ。同級の小林躋造(海軍大將・前台湾総督)、野村吉三郎(海軍大將・前外相・前駐米大使)らは世にときめくのに、それ以上の英才をもって気の毒である。
 武藤貞一が翼壯会の何かの職につく。そこで害毒を流すだろうが、新聞からその論文が消えたことは慶すべし。

八月一日(日)

 鶴見祐輔君の話では、ムッソリーニは監禁され、ファシスト幹部八十名、同じく監禁された。軍部のクー・デ・ターだとのことである。はじめ東條首相はこの報を得て、握りつぶさんとしたが、天羽情報局総裁が強言して発表せしめたのだと。
 同君またいわく――日本の大学生は、ムッソリーニの失脚を知って、大量に転向しつつありと。また、思想の波は十三年一期で転換するのが歴史的事実だから、一九四六年あたりから転換すると。
 鶴見君は目前の事象にあまり感動し過ぎ、独断的なことが多すぎる。演説家が大向うの動きを注意しすぎるような癖をもつ。しかし、転換期を左樣に考えても、もとより宜しからんか。
 朝、鶴見、島中とゴルフをやり、成績よからず。僕は日記をつけていると言うと、島中君「危いぞ」という。中央公論社の出版物を警視庁で持っていったが、その中に馬場恒吾君や僕のものもあったと。僕、この日記をつけながら、そうした危惧を感ぜざるを得ず。ただ、僕の場合は「現代史」を後日書くために記録をとどめ置かんとするに過ぎず。

八月二日(月)

 柳沢(健)(元駐葡公使)、來訪す。タイ国で文化事業をやるために努力している。五百万円ぐらい集める予定とか。二、三週間以前、重光外相と午餐を食ったとき、外相は「欧州のほうが先きに和平を講じて、東亞が残るようなことはない。御安心あれ」と言ったという。
 來栖(三郎)大使はフィリッピンに大使として赴任するやの噂さがあるが、当人は世界の大勢はマニラで決定するものではない。東京で御用に立つ以上、マニラには行かないと言ったそうだ。

八月三日(火)

 片岡鉄兵君(作家)を交えてゴルフをなす。ファシスト崩壞で、日本の自由主義者に対する圧迫加わらんという点で、僕と同感。
 片岡君の話――情報局や檢閲方面では、文学に志を立てて、失敗した連中がやっているので、とても我らにいいはずはないと。嫉妬と憎惡が時代的特徴である。ヒンデンブルグの「わが生涯より」の中に、「アジア人は復讐以外の美徳はない」という意味のことあり。

八月四日(水)

 ラジオその他で鼓吹するのは、満州事変以來、高山彦九郎や吉田松陰や、西郷隆盛である。彼らはいずれも反逆者で、刑に処された人々だ。多くの水戸人もしかり。天下を握っている者が、反逆精神を鼓吹することは、自らの位置を脅かすことである。
 晩、北田君きたる。帝大教授の家に寄留している由。
 彼の学ぶ上智大学は、ドイツ人が主だが、カソリックだから、ナチスおよびヒトラーには寧ろ反対である。それで予備大佐の配属將校が殆んど独裁的で、校長にもドイツ人教師にもネジこんだり、抗議したりしている。ドイツ人教師が出てくると「お前には用はないんだ」と言って叱り飛ばすという有樣。キリスト教はユダヤ思想と同じで、日本のためにならぬと確信し、生徒にも説いているという。

八月五日(木)

 久しぶりに雨。
 先ごろの軽井沢の予の家に來た労働者いわく、「戰爭なんかどうしてやるんだろう。こんな戰爭を始めさせたルーズベルトや蒋介石は怪しからん野郎だ。あの二人をなんとかして殺してしまえないか」と。戰爭勃発がこの二人の責任だと確信している一般の日本人の考えの代表的なものである。

八月十六日(月)

 八月九日に東京出発。十五日軽井沢に帰る。逓信省の依頼により、福島、仙台、米沢、山形を巡講したのだ。
 ローマ市が非武裝宣言をした。イタリアはすでに全国を戰鬪区と指令したが、それらのことは米英のイタリア本土への上陸が切迫したのを示すものであろう。同時に新政府が焦土的政策をとらぬことをも示すものであろう。

八月十八日(水)

 島中君の話では、中央公論社発行の書籍を、さきに警視庁で檢査のため持って行ったが、その結果、僕の本――どの本かは不明――は一部削除、馬場恒吾君のものは「立上る政治家」その他、殆んど全部断截(廃棄)を命ぜられ、下村千秋のルンペン小説のごときも禁止されたと。

八月十九日(木)

 昨日、平川唯一君、子供の純雄君をつれてきたる。例によって庭の仕事などを、すっかりやってくれる。米国で教育をうけた連中が、眞面目で誠実さがあるのは、著しい特色である。恩を感ずるもの、この人のごときはない。僕の知っている者の中、もっとも眞面目なグループだ。彼らは必ず成功するだろう。米国教育の中に、そうした誠実を教うる空気があるのだろう。

八月二十日(金)

 管理工場の社長を応徴士ということになった。応徴士服務規定によれば、
 事業主たる応徴士は、生産遂行の全責任を負荷せしめられたるの自覚に徹し‥‥戰力増強の責を果すべし
とある。政治もここまでくれば、滑稽を通り越して、子供の玩具である。彼らは社長を役人化して宣誓させれば、それで能率があがると考えているのである。新聞ではその会社を報ずるのに○○会社としている。防牒のためであろう。その宣誓なるものは次の通りだ。
      宣誓
 本日以後、吾等一同応徴士たる身分を以って、軍需生産事業の経営に従事するの命を受けたり。日本生産能率の挙ると挙らざるとは、一に工場経営者の認識と気魄と努力に基く全従業者の士気如何に存するを以って、大東亞戰爭開始以來、吾等は全力を傾けて生産増強に努めつつありしが、最近日を逐うて戰局苛烈を極め、戰産一如の体制確立ますます緊切なるに及び、茲に吾等一同徴用せらる。乃ち我等一同は、国家の吾等に対する期待の重大なるに鑑み、強烈なる責任感の下、各自の工場内に従業する多数の応徴士を率い、眞に総員一体の団結を固うし、相倶に粉骨碎心、以って生産の飛躍的増強に邁進せんことを誓う。
右宣誓す
 昭和十八年八月十九日
      管理工業事業を代表
         理研工業株式会社取締役会長   大河内正敏
 例のウエルズの書の中に「日本の当局者の頭脳は、狂人に近いもの」と言った意味のことあり。いかにも鋭く穿っていると感ぜざるを得ない。社長徴用令のラジオを聞いては。

八月二十一日(土)

 二十日、日泰間に領土編入八條約が調印された。日本占領下にある北部マライのペルリス、ケダー、ケランタン、トレンガスおよびシヤン連邦中ケントン、モンパン二州を、泰領土に編入することを承認したのである。
 これらの領土は日本の占領下にあるが、なお最終的に決定を見ないものである。米英はなんと批判するであろう(泥棒の下分けとでもいうか)

八月二十三日(月)

 日本兵キスカから撤收す。無用の戰死者を増すのを避くるためには結構なことだとして、その発表の仕方が「神霊の加護」「アッツ島玉碎部隊英霊の加護」など、例によって奇々怪々、国民を愚弄するかと腹だたしい。
 小汀利得いわく、近ごろの泥棒はいずれも戰鬪帽と国民服だ。闇の犯罪が非常に多いが、軍属か、軍工場員だと、警察も裁判所もこれを追及しないのが普通だ。つまり、そこは全く治外法権である、と。

八月二十九日(日)

 アッツ島の山崎大佐が二階級とんで、中將になる。昨夜のラジオも新聞もそれで一杯、他の記事は全然ない。軍の命令であることは明らかだ。「鬼神も哭く」式の英雄は、もう結構である。願くば今後「玉碎的美談」出ずるなかれ。そして、作戰をして左樣な悲劇を繰返すごとき方途をとらしむるなかれ。
 それにしても国民は「責任の処在」を考えないのだろうか。イグノランスの深淵は測りがたい。

八月三十日(月)

 東洋経済新報に出社。伊藤正徳君も來る。
 石橋(湛山)君の話――山中湖で有田(八郎)(元外相・現代議士)と会談したが、有田君も極端に時局を悲観しているそうだ。東條首相以下はまだ樂観しているとのこと。恐らくはその地位にいると樂観するものであろう、と。
 伊藤君の説では、米国はラヴアルに全力をつくしているようだ。ラヴアルが落されれば、第一線にクサビを打ち込まれるものである。比島にくれば日本はダメであろう、と。
「昭和外交片鱗史」を読む。いちおう読んだが、再読しているのである。有田氏が書いたものとして、後に残るものだ。ただし、有田の「大東亞共栄圈」思想は半熟であり、時代の思潮を代表しているだけで、論理的ではない。有田は頭がよくない。ただ人間が生一本で、屈しないところがあるのが取柄だ。眞面目である。
 ドイツはデンマークに戒嚴令を布いた。英国の敵前上陸が迫ったものと思われる。ドイツはいつまでもつか。ドイツが「国際法に準拠する云々」と言ったのは注目すべし。今まで国際法などは頭になかった。

八月三十一日(火)

 島崎藤村氏遺族宅を訪問。夫人靜子さんは疲労のため入院中とはさもあろう。床の間に、あの藤村氏の透きとおった目が光っていた。しかし、叱るような目ではなかった。下向きの反省的眼光であった。
 駿河台の文化学院を文部省が閉鎖。自由主義的だからとのことだ。役人の一存で、こうした刑罰的なことができる組織は恐ろしい。日本には憲法存せず。島中君の二女が行っていて、とてもよい学校だと言っていたが。

九月一日(水)

 勧業銀行に借金に行く。富士アイスの新株払込みに充当するためである。借りるとなると、大した金でもないのに、いかに面倒であるかがわかる。僕などには余程よくやってくれているのだが。
 米機多数、南鳥島に來襲。ために警戒警報発せらる。

九月二日(木)

 戰爭の深化とともに、右翼がどう動くか興味がある。彼らは常に戰爭を求め、そして戰爭を得た。
 近ごろは必ず「樂観に流れず、悲観に陷らず」といい、また「敵を侮らず、恐れず」という。この中間の心境とは何だろう。研究すれば必ずどちらかになる。有耶無耶にすごすことが戰時心構えか。
 土地および家屋を抵当に入れ、勧業銀行から借金するため手続きを始めたのが、一ヵ月ばかり前である。印鑑証明だの、それ謄本だのと、面倒なこと夥し。本日も家屋の建築証明がないというので、区役所と裁判所の間を往復し、午後をつぶす。「明日來られても、一日のつもりでなくてはいけませんよ」と代書はいう。裁判事務がいかに煩雜であるかがわかる。形式主義がこの辺にもっともよく出ている。

九月四日(土)

 反枢軸軍は、イタリア本土に二日夜上陸作戰を開始した。伯林電報によると上陸兵力一個師というが、その程度の兵力をどうにも出來なくては、枢軸軍悲観のほかなし。デンマークにも反乱があった。東部戰線も惡く、スモレンスク方面に激戰つづく。世界大戰四周年において、勝負は明瞭化した。
 わが陸軍は兵隊は強いし負けないが、鉄が不足するが故に勝利が握れないという宣伝になってきた。本日の毎日に、「皇軍の精鋭は戰鬪に勝ちつつも、これら醜類の擁する鉄量と飛行機のために圧倒されているのである。慨嘆に堪えないではないか」という社説あり。

九月五日(日)

 坂本直道君に逢う。同君は満鉄パリ出張所長たりし人、見識のある人である。同君の話――
 重臣会議で東條首相が、「ドイツ、イタリアが不勢になるというが如きは、全く意外にて、見透しを誤った」とだけ言った。重臣も唖然たり。
 重光が広田(弘毅)のところに行き、対ソ関係打開に助力を乞うた。広田は自分はダメだから、東郷(茂徳)を起用せよと言った。が、東條に相談すると承知しない。以前の問題(外相辞職)から、センチメンタルに排撃している、と。
 国際関係がいちばん大切なときに、新聞雜誌には国際関係の記事が殆んどない。精神的説教のみがまだ幅をきかしている。
 谷萩(那華雄)陸軍報道部長が、宇都宮で講演し、例によって新聞は大々的に報じている。陸海軍の少中佐の演説が、外国において首相程度の取扱いをうけているのは、近頃の特徴だ。誰が新聞雜誌を動かしているかも知れよう。注意すべきことは、「米国にしても、東亞侵略の非望を放棄するにおいては、彼我の間に何ら死鬪すべき理由がない」云々といっている箇処だ。これはバロン・デセー(観測気球)か。米国ではさような論議がなかろうことは、やや明らかだと思う。またいわく、「米国内の情勢は長期戰を許さぬ」と。これは外国に知れたら笑われるであろう。米国はこれからだと考えている。

九月六日(月)

 東洋経済に行く。戰後問題に関する研究をなすように、石橋君から頼まれる。公然書けない問題なので困る。しかし、日本もあらゆる場合を考えて、自由に研究するような空気が出來なければ、国家は危い。

九月七日(火)

 新聞はいずれも一面に秋山(邦雄)中佐の昨夜のラジオの演説を載せている。秋山中佐は印度と濠州を落せば、それで敵が参ると考えている。この結論はどこから出るのであろう。

九月八日(水)

 今朝の読売に池崎忠孝(代議士)の「ドイツは不敗なり」との長論文あり。(一) 軍力、(二) 軍需品生産力、(三) 食糧自給力、(四) 戰爭の犠牲と恐怖にたえ得る国民の精神力、との四つに分け、いずれもドイツのほうが優れていると論断しているのである。

九月九日(木)

 お晝に日本倶樂部で田中都吉君(日本新聞会会長)から、イタリアが無條件降伏した旨をきく。夕刊でそのことが発表された。丸ビルで人々は長い行列をつくって、その新聞を買うために一生懸命だった。よほどのショックを与えたようだ。バドリオ政権は戰爭継続の点では、ムッソリーニと同じだと宣伝した直後だったからだ。こうした見え透いた嘘宣伝の連続で、しかもその間違いが続くのだが、相変らずそれを繰返している。困ったものだ。

九月十日(金)

 バドリオ政権の降伏から、日本の新聞はイタリアへの惡口が始った。例によって例のごとしである。
 白鳥などが新聞で談話を発表している。しゃあしゃあとして、「イタリアの任務終る」などという。言う者も、言わせる者も、健忘、驚くの他なし。
 毎日の論説には、「イタリアの降伏は、第一に今後戰線の整理がドイツの都合次第で行われる便があり、第二に足手まといのイタリア軍を計算に入れて作戰をたてる必要がなくなり、第三に貧国イタリアに武器、軍需品、石炭などを供給する必要がなくなるから、これからの作戰上便が多いのではないかと考える」と言っている。しからば、こんな国と同盟條約を結んだのは何人か。またそれを喜んで放送したのは何人か。

九月十一日(土)

 各新聞のイタリア攻撃ますます猛烈。昨日まで「イタリア、イタリア」と言っていたのが、今日文芸欄まで動員しての惡口だ。日本の新聞は小学校の子供の常識と論理もないらしい。

九月十二日(日)

 イタリアの悲劇は、大帝国になる実力なくして、大帝国になろうとしたためだ。日本の各紙は盛んにイタリアの裏切りを痛憤する。だが、独ソ協定を破ったのは、盟邦ドイツではなかったか。少し気をつけろ。
 上田辰之助という商大教授は、「ファシズムの救国の原理は永遠」という。しかし、ファシズムはベスト・ブレーンをもたらし得ない必然性をもつ組織なのだ。
 昨夜の話に、芸術院から島崎家に手紙がついたが、あにはからんや、それは島崎家から芸術院に提出した藤村の死亡届だった。つまり、藤村は自己の死を、自分に通知したのである。その芸術院の課長が、中央公論の篠田君に「とう村」の「とう」という字は、「藤」か「東」かと聞いたそうだ。
 現下において一番の苦痛は、低劣なる議論に対して、何らの批判が加えられないことである。それがますます世論を堕落させる。
 小汀利得君いわく「参謀本部あたりでは、東條の陸相兼任をやめさせ、専任陸相を置くことを希望している。しかし、東條はなかなかやめまいよ」と。

九月十四日(火)

 晩、有樂座で「ボース」という芝居を見る。相馬愛藏氏(新宿・中村屋店主)から切符を送られたからだ。役者はなかなかよいが、セリフに説教が多すぎ面白くなきこと夥し。頭山満が妻君とともに見物にきていた。この默々たる老翁、そして勉強もせず、見識もなき男が、ともかく多数の人の信仰を有することは、どこかに「熱」をもっているからであろう。

九月十五日(水)

 軽井沢に來る。
 先ごろ丸ビルの横浜植木会社で種子を買った。公定だそうで、五十銭買うと、十数種ある。普通市場なら三、四円はするものである。公定制度は強い信用あるものをいじめ、闇を奬励する制度である。しかも、若い事務官が全権を有している現在では、統制経済に対する批判は、まったく許されないのである。批判を殺して、衆人に関係ある経済を行うというのだから、弊害百出するのは当然だ。

九月十六日(木)

 市原君(島中君の親類でアッツ通いの船の機関長だった人)とともに、旧軽井沢に赴く。同君の乘っていた太洋丸は総員千数百名の内、二十数名しか助からなかった。輸送船の場合には陸軍の中佐が司令官であるが、この司令の下に船長が置かれる。ところが、彼らは船のことは知らない。船に異変ある場合、陸軍中佐が命令するのである。太洋丸の場合にも処置について爭ったらしい。船長も司令官も死んでしまい、眞相を知るよしもないが、この命令系統については、海事裁判のときにも、一切触れてはならぬと命ぜられている。船長は海軍大尉相当官だが、陸軍軍属として、すべて陸軍の支配下にある。そうしたことから不必要な犠牲も出るらしい。また沈沒した事情は、全然口外することを禁ぜられている。そういう誤りが正される機会は全くないのである。

九月十八日(土)

 今月は満州事変十二周年で、マニラの斎藤報道部長とかの比島人に対し放送したという要旨を報じている。その要旨は満州事変が大東亞戰爭の第一歩であり、これまた他民族解放のための第一歩であった。この日本の誠意を比島人が認めることを要望する、といったようなものだ。
 軍人たちは、そんなこと言って比島人が感心するものと思っているらしい。普通ならば満州事変などは默って他の記憶を喚び起さないのが常識だろう。それを態々いっているのだから、その愚かさは想像以上である。

九月十九日(日)

 日清戰爭の論功行賞は、戰爭終了後まず審議会を設け、それから八月五日はじめて賞を行った。日支事変以來は解決しないのに、すでに四十数回の行賞だ。
 午後四時、約に従って近衞公を訪問。一時間半ばかり日米交渉の経緯をきく。目下の時局については施す道なしという。「無責任のようだが」と附言して。また、近衞公は、戰爭が激化するに従って、軍部がひどい彈圧政策に出るのではありませんか、と言っていた。

九月二十三日(木)

 昨夜、ラジオで東條首相が、行政の刷新について演説をした。その具体策が今朝の新聞で発表された。が、学生の徴兵猶予の撤廃、十七等種の就業に四十歳未満の男子を禁止、官庁人員の整理、官庁と家屋店舗の整理など、かなり思い切ったものだ。官庁の整理はどうせ出來まい。そこで結局、民間だけが犠牲を払うことになろう。
 中央公論の問題は、谷萩(那華雄)報道部長が島中君と会見し解決した由。近ごろ取締りが大体情報局一本となってきたとのこと。谷萩は部内でやや批難あり。たとえば東京都の人口疎開の問題は、彼が考え出したのだが、今の場合交通機関にさような余裕なく、やむを得ず城を枕とする案に逆もどり。谷萩は東條に叱られたとか。

九月二十四日(金)

 日本の宣伝につき加地(幸一)君の話では、「蒋介石沒落」というポスターがあるが、これは支那語では「蒋介石落ちない」という意味である。そんな例はまだいくらでもある、と。
 台湾に徴兵令を布く。

九月二十五日(土)

 関戸君の話――名古屋辺では女が竹槍の練習をしており、妻君も娘も毎日やっている。県も市もあまり賛成しないのだが、師団の責任者がそれをやらしている。どこの家も防空壕を家の中に掘り、そのために家が傾いているところがある、と。形式主義一例は、この軽井沢の山莊にムシロを用意させている。

九月二十六日(日)

 軽井沢町の大運動会。宇垣(一成)大將に逢うために行ってみると、ちょうど近衞一家もきた。一緒に見る。宇垣大將と会見。外相当時のことを聞かんがためだ。非常に若々しいし、目標もよい。国家を救うのはこの人かも知れない。近衞は聰明だが、勇気と迫力なく、他の軍人もダメだ。彼は果して立ち得る機会ありや。もっとも誰がやっても手遅れではあるが。

九月二十七日(月)

 早朝、東京に帰る。晩、二七会あり。みな一致して空襲の不可避を言っている。一回大規模な空襲があると、十五、六万の死傷があるといわれる。
 ムッソリーニのファシスト政権を承認した。

九月二十八日(火)

 外政協会で加瀬俊一という外務省役人の米国に関する話をきく。米国は短期戰を狙っていること、戰意はなお旺んであることなど話した。短期戰を狙うというのは、国内の問題であるよりも、むしろ日独という敵を見くびってのことであろう。

九月二十九日(水)

 今日、軍需省ができて、商工省と企画院が廃された。
 先日、汪精衞が來日したのは、日本が蒋介石に働きかけ、條件を提出した。それが宋子文を通じて、米国で新聞に発表された。汪はこれをみて怪しからん、重慶工作は自分を通じてという約束の違反ではないか、という抗議のためであるとのことだ。
 三井物産の山西省における支店が、統制違反をしたというので、支店長は十年の懲役、向井(忠晴)会長は謝罪に支那まで出向いた。帰国後、辞職するとのことだ。そのままにして置いて増産に挺身させる気持ちになれず、国民だけをいじめている。現地における商業人の苦心は、想像にあまりある。
 この間の東條の演説の中には「大稜威の下」という言葉は例によりあったが、「赫々たる戰果」という枕言葉はなかったと、ある人が話していた。

十月二日(土)

 鮎沢巖君、世界経済調査会を辞めた。聞けば鮎沢君の部下が左翼で引張られ、その証人として横浜の警察に呼ばれたが、同君が英米人と交渉があったとか、国際労働支局長だったとか、こんなことから過去一年半ぐらい注意されていたからだという。警察で三人の警部補および巡査から取調べられたが、何回なぐられかけたか知れなかったとのことだ。ずいぶんひどい言葉で罵倒され、隣室ではピシャリ/\なぐっている音が聞えた、と。
 鮎沢君は若いときから外国にいて、日本人のサイコロジーを知らない。極めて善意をもって――憂国的動機から、外人と交際していた。それが疑いを買ったのである。気の毒である。

十月四日(月)

 今朝の朝日と読売に、重慶が早く猛省せよ、という社論がある。汪精衞の「抗日戰の理由は既に解消した」と声明したのを、敷衍したものだ。ビルマに重慶軍が出たことに対するプロテストの意味もある。だが、すべて手遅れだ。目前の問題にのみ気を奪われている者の必然的にたどりつく立場である。
 大本教が、現在の情勢を予言したとかで、また信者が増えて來たという。根柢のない信仰だから、そんなことがあるかも知れず。

十月五日(火)

 先頃、重臣が東條を招待した。そのとき岡田啓介(海軍大將、二・二六事件当時の首相)が「戰爭はどこもパッとしないようだが」というと、東條は興奮して、「あなたは必勝の信念がないんですか」とプッと立ったという。
 また、若槻礼次郎(元首相・元民政党総裁)が、「作柄が心配だ」というと、東條は、「われら閣員は何を食わなくても、一死奉公やるつもりだ」と、これまた興奮したという。彼は議会でも、どこでも、興奮ばかりしている男だ。イエス・マンだけを周囲に集めるのは、そうした性格だからだ。

十月六日(水)

 晝、日本倶樂部で「捕虜について」という講演を、小田島(薫)大佐(捕虜管理局課長)に聞く。その話――
 京城、青森、神戸あたりで「敵が憎い」と群集の中から踊り出て、捕虜に乱暴するものがあった。台湾で、ある兵士が、ウエンライトのところに行き、「こん畜生、同胞の仇だ」と言って、ポカポカ殴ったという。
 日露戰爭では捕虜を優待した。が、今回の戰爭では従來の捕虜に関する規則は御破算にして、「国際法に反せざる限り」嚴格に取締ることにした。日本は捕虜に関する條約は、「国体に合わざるもの」として御批准を得なかった。
 敵の捕虜はみな必勝の信念をもっている。イタリアの敗北は、よほど前に予言していたものが多かった。ドイツも直き敗れるだろうと言っている。日本は始め彼らを教化する方針だったが、彼らの必勝の信念が確かなので、教化は断念した。
 彼らは実によく働く。ある阪神間の重工業会社のごときは、捕虜がいなくなれば潰れると言っている。能率も非常にいい。彼らに丸鋸の目立てをさせると、一日に十三、四個つくる。これに対し、日本人職工は二十ぐらいつくる。ところが、試驗の結果は日本人のつくったのは合格は四分の一、彼らは全部合格する。またリベットをつくらせると、彼らは一日百五十、日本人職工は五十ぐらいだと。
 要するに、小田島大佐は捕虜にかなり敬意を表しているようだ。だが、彼は捕虜たちの「考え方」というものを、全然諒解し得ないのである。たとえばアッツ島の玉碎というような高貴なことが、彼らが理解しないことを「天下の不思議」と考えている。彼――つまり軍部は他国人の感情、考え方を一歩退いて客観的に見ることができないのである。話をきいて、そんな感じをもった。

十月九日(土)

 東西文化圈という名の雜誌が届けられた。その発行所からである。中央公論、改造、東洋経済などが、痩せおとろえたのに、誰も読みそうもないこうした雜誌が、ページ数も多い。内容は右翼的極端主義である。秋山中佐などが座談会に出席しているから、軍部のバックでやっているのだろう。

十月十三日(水)

 バドリオ政府、十日に対独宣戰布告。
 横田喜三郎君の論文が満場一致で東大教授会を通過。学位請求のために文部省に回ったが、一ヵ年近くを経過するも許可しない由。早稻田の藤井(新一・米国憲法学者)という人の学位請求は、却下されたそうだ。かりに僕の論文が教授会を通っても、同樣の運命にあうだろう。

十月十六日(土)

 十四日に比島が独立した。これについて林房雄がマニラから通信をかいている。が、彼の本当の狙いは、比島を独立させることではなく、それを日本領土にすることである。三木清も話していたが、小説家の多くのものが無知である。

十月二十日(水)

 軽井沢に來る。碓氷峠の紅葉は、満山紅というには早過ぎるが、緑中に紅葉の点在が却って趣きを添える。
 新聞は行政機構改革を中心問題として、毎日のように論じている。号令をかけさえすれば人間が動くと考えていること、機構をいじれば好い結果を生むと考えること、戰爭がいくら苛烈になっても、この考え方は直らない。

十月二十六日(火)

 正午、軽井沢発、帰京す。中野正剛君が警視庁に捕われたことを聞く。倒閣運動の故とか。

十月二十七日(水)

 夕刊で中野正剛の自殺を知る。僕は非常なショックをうけた。彼の自殺の原因は不明である。彼は生一本であった。開戰すれば、米国は直ちに屈服するとも公言した。が、それは謬りであった。その自省の気持ちが、自殺の一因であったのだろうか。それならば立派だが。
 僕は彼に二回ご馳走になった。「英国を対手にするつもりなら、とにかくシッカリ研究してからやってくれ」と言うと、彼は「なか/\強敵だ。カイゼルも、ナポレオンもやられたんだからネ」と言った。しかし、彼は英国に行かなかった。英国に行くと、英国流の考え方に堕するからというのである。一つのイデオロギーをまもるために、他の説を聞かないようにするのが、彼の心的弱点である。彼の態度はつねに宗教的であった。彼は「眞」を恐れた。そして、とうとう自殺したのであった。

十月二十九日(金)

 晩、国際関係研究会あり。蝋山(政道)君は同会をやめたいという。やめても差支なかろう。どうせ研究なんか歓迎されぬ時代だからね。

十一月一日(月)

 今日から軍需省、運輸通信省、農商省が新設された。これを機会に「首相の権限を劃期的に強化した」という。同じことが何回新聞に繰り返されてきたことか。
 晩に国民学術協会の理事会に出席す。どこに行っても中野正剛の死が、問題にされる。如是閑は、中野は非常な負け嫌いだったから、自分の意思の通りにならぬことを悲観したのだろうという。

十一月二日(火)

 三十日の夕刊に報ぜられた日支同盟條約のことを書く。元來、同盟條約とは攻守同盟のことだ。しかるに今回のは戰後基本條約である。その目的は重慶工作だ。この政策を二年前に実施していたらと思う。
 大陸からの撤兵を、何と言っても承知しなかったのは東條ではないか。その東條がいま率先して承諾している。東條はグルーのいわゆるフランクリイ・オポチュニストという男だ。だが、現下の政策として当然のことで、あえて非難する気になれぬ。

十一月三日(水)

 小汀夫妻、お茶のみにくる。正ちゃんを戰爭に出して、母親は毎日泣いているよし。「日本の母親と、米国の母親とが話し合ったら、戰爭が早く片づきはせぬか」という。その通りである。

十一月八日(月)

 英国に復興省が近く出來るという。同盟通信に載っている。英国はすでに戰爭に勝ったと考えて、戰後経営にのりだしたのである。英国において「最も必要なことは何か」というアンケートに対して、その二割が第二戰線だと答えたが、大東亞戰爭だと言ったものは一人もなかった。米国においては多少事情が異るが、それでも大同小異である。かつて中野正剛その他は、「日本が加担する方が勝つ」と言った。この自惚れが現在の不幸をもたらしたのである。
 日本は英国を東亞の舞台から引揚げさすべきではなかった。英国が居れば東亞で相共に米国を牽制することができた。英国は恐ろしくない。しかるにこれを追ったために、英米が握手してしまった。排英運動は、素人の外交運動の最惡の見本であった。
 汽車の中や、道路の目星しいところに警官が出張り、一々荷物を檢査する。富山県では米二升のために、自殺したものもあったとか。警官の仕事は、泥棒をとらえるよりも、良民をとらえるものになった。事実、その方が樂でもあろう。

十一月九日(火)

 企業整備が盛んに進行中である。交易業者六千商社を一割の六百程度に、また出版業者は同じく約一割といった調子である。が、どんなことをやっても、もう手遅れである。
 従來の軍人あがりの首相が、比較的にボロを出さなかったのは、相当長期間にわたって中央にいて、ともかく政治を知っていたからだ。東條首相の悲劇は、彼が田舍まわりから直ちに要路に立ったことである。

十一月十四日(日)

 支那にいる日本人は、みな買手さえあれば財産を売って、日本に引き揚げたいと考えているそうだ。それも古い支那通がそうなのである。この戰爭の結果、北米、南米、支那、その他あらゆる方面に、営々として築いた努力が、根こそぎに失われるのだ。

十一月十五日(月)

 床屋に行くと、かつて七人でやっていたのが、今は主人をいれて二人になっている。しかもその一人に徴用令が來た由。主人は「つぶすつもりでなければ、一人ぐらいは残してくれ」と談判し、結局、出征家族として特別な考慮をして貰うことになったとか。富士アイスの笠原という男も徴用、神戸の出張所長にも徴用。今度の徴用は非常に広範だ。こんなに徴用して、一般産業は運転できるか。この辺についても、経済観念に暗愚な連中がやっているからムリがある。徴用工では能率もあがるまいし、恐らくは厭戰的気分を煽り、その集団から不平的爆発が起きはしないだろうか。
 晩に前進座を見る。最初の時局劇の愚劣さ。軍事保護院の推薦で、情報局の後援だ。平凡無味な論文を、役者が読むようだ。石橋君いわく「あれで効果があると思っているのだろうか」と。これで軍事思想を宣伝しようというのだから、低劣驚くべし。
 その次ぎの忠臣藏は眞山青果の脚色で、これはさすがに立派である。後世にのこるものであろう。

十一月十六日(火)

 講演のために東北に出発。相変らず混む。が、前方に二等車あり。そこで坐ることができた。女中を長いあいだ待たせて、やっとの思いで席をとったのである。改札一時間前に來たのでは乘車もできぬ。隣席の紳士の話では、九州からくる手紙は多く開封されると。国内で相互に疑い合って、果して戰爭ができるか。
 飯坂温泉の花水館に宿す。

十一月十七日(水)

 東京からの汽車中では、白柳秀湖氏の「安曇族の研究」を読む。よく研究してあるが、僕にはこうしたものには興味が持てない。そこで今日はシーレーの「英国膨脹論」を読む。これはさすがに面白い。英国のクラシックは僕にピーンとくるのである。
 英国の膨脹はつねに戰爭の圈外に立ったからである。日本が日清、日露――少くも日露の戰爭をしないで、バランス・オヴ・パワーをにぎり、英国的海洋政策にのり出していたならば、どうであったろう。
 フランスの失敗は、大陸と海洋の二兎を追ったからだ。そして、現状の日本の状態も、まさに然りである。
 横手に出車、出迎えの人多し、講演す。

十一月十八日(木)

 朝早く秋田にたつ。
 秋田駅に西野幸八郎氏と魁新報の人見君あり。西野氏はかつて共に満州を旅行せる人で経済倶樂部の幹事だ。石橋旅館に鞄をおき、秋田銀行の沢木淳吉氏の午餐に招かる。田舍のほうが御馳走がある。
 秋田人士は開放的である。彼らはなんら軍需的に利益していないので、時局に対して冷靜である。講演後の個人的な話に、軍需景気の均霑化に対する要望もあった。ただ供出だ、徴用だ、と取られるばかりで、なんの反対給付もないからである。
 そこでの話――さきごろ武藤貞一がきて、独ソは握手する。英ソは衝突する。そして、日本は大勝利をおさめる。そうした樂観論を振りまいていったそうだ。田舍の人もわらっている。この連中の愚や及ぶべからず。
 夕飯をご馳走になり、さらに料亭で酒をのむ。さすがに酒どころ、酒がいくらでもあるのに驚く。

十一月十九日(金)

 雪ふる。秋田方面には以前にも降ったそうだが、僕には初雪だ。とても寒い。新潟に向う。
 汽車ですこしスチームを出す。文明人はこの地方では生存競爭ができぬ。秋田の旅館でも炬燵をなんといっても出さない。それは不親切というよりも、彼らはさほど寒いと感じていないからだ。スチームで車内が少々温まると、彼らは天井の窓を開けるのだ。おかげで風邪をひいたようである。
 新潟での講演、相変らず私服が來て、一人は速記、一人は監督をする。こんな小学生みたいな男が監督するのだから、ろくな政治や言論ができるはずはない。官僚政治の打破は必要だが、さて国民が自らをガバーンする能力があるか、どうか。

十一月二十日(土)

 新潟を早く出た。長岡で汽車を乘り換える。東京への直通列車は、一日に一、二回しかないとか、その混雜は殺人的である。
 午後七時近く、軽井沢山莊につく。

十一月二十四日(水)

 小汀君より、青木大東亞相との会食あり、出でずや、とのことに帰京することにする。汽車混み、二等切符をもって、三等車に腰をおろす。

十一月二十五日(木)

 青木大東亞相に招かる。小汀、高橋(亀吉)、石橋、石山(賢吉)、長谷川如是閑、布施勝治(毎日取締役)、阿部賢一(経博・毎日主幹)らの顏ぶれだ。官邸はもと高島小金治(故人―元大倉組副頭取)のやしきだったという。とても立派なものである。
 青木氏は善良な官吏である。しかし、政治家といったところはない。たとえば、大東亞宣言はあれで行く。日本のような大国、しかも戰勝国が、あの宣言をしたところに、日本の偉大さがあるなどと言う。彼は形式をつくって、その通りに信じ得る人のようだ。御馳走になってすまないが、たいした人物ではない。まだ、重光のほうがいくらかマシである。
 このような最高知識の会合でも、だれもかれもがウソを言っている。これでは国民に確信をもたせることは困難である。

十一月二十七日(土)

 今日は防空演習日だ。が、それが全く形式的である。われわれもその必要は感ずるが、実際やってみてバカ/\しくなる。だれも「仕方がない」という観念で、「いざというときには役に立たないよ」と言っている。

十一月二十八日(日)

 革命はすでに目前にある。若い巡査や民衆の金持ちに対する深刻な反感もその現われだ。
 島中君の話――新橋の料理屋街においた自動車が、二十台以上もタイヤーを切られたそうだ。
 また、家内が信州上田に行く汽車の中で、制服の巡査が隣席の人に、「人足が別莊の草とりに行くなんて、時局がら怪しからん」と憤慨していたという。
 二十二、二十三の両日および二十六日に英機がベルリンを爆撃。その被害は甚大で、英国側はドイツの無條件降伏を宣伝している。シュミット独情報部長負傷、朝日、毎日の両支局は燒失、ベルリンにおいては劇場も地下室に設けられている。
 イタリアのムッソリーニ主宰の政府を Facist Republican Gov. of Italian Social Republic と呼ぶことに、十一月二十六日に決定した。これは邦字新聞には出ていない。「イタリア社会主義共和国」が盟邦というのでは、ちょっと困るからな。

十一月二十九日(月)

 読売の夕刊にフォーチュン誌の大東亞戰爭開戰当時の記事と称するものが載っている。それはまず野村、來栖両大使がハルを往訪し最後通牒を手渡し、それから戰爭になったように書いてある。こうした大ウソをどうして書かなくてはならぬのだろう。そのまま発表できず、ウソを書かねばならぬところに、この戰爭の道徳的弱点がある。

十一月三十日(火)

 島中君の二男の出征を見送ろうとしていると、岩波茂雄氏が店員とともに來る。小村俊三郎氏の遺族を訪問にきたが、僕のところが近くだときいて來たのだという。お晝を一緒に食べて、鶴見総持寺の小村氏墓にお詣りをする。
 節を屈しなかった人には余徳あり。この人を詣でる岩波氏も特志なり。一個の志士を岩波氏に見る。東洋経済に学術研究会議のことを書く。

十二月一日(水)

 朝早く島中晨也君を見送りに行ったが、人混みで見えなかった。学徒が日の丸を肩から胴に卷いて元気よく征く。その無邪気さを見よ。この人々が学問や知識のためではなく、銃砲をもって起つのだ。感慨禁じ得ず。
 戰爭を世界から絶滅するために、敢然と起つ志士、果して何人あるか。われ少くもその一端を担わん。
 出征する人には必らず「お目出とう」といわねばならない。また、戰死した人の遺族にも「お目出とう」というのだそうだ。住田正一君(国際汽船取締)の話に、「二人の男子を戰爭に出したが、お目出とうといわれると白々しい気がする」と。こうした感情と表現の不一致から、いろいろの問題が出てくるのだ。

十二月二日(木)

 ルーズベルト、チャーチル、蒋介石が、カイロで十一月二十三日から二十七日まで、五日間に亙つて会談した。この重大ニュースを朝日も、毎日も至極簡單に伝えている。

十二月四日(土)

 学徒徴兵檢査で海軍志願のものが、圧倒的に多かったそうだ。檢査官が「なぜか」と聞くと、「服裝が好きだ」「海が好きだ」といったものもあるが、ただ「気分がよい」と言ったものもあったという。彼らはハッキリとは答えないのである。ただ学問をしたものには、日本陸軍の雰囲気には堪えられぬのだ。
 銀星の丸君にも徴用令がきたよし。すべての者が徴用される。二、三日前、四十五歳まで徴用年令が引き上げられた。
 午後、銀行、富士アイスに行く。日本評論社で、僕の出版がダメらしい。原稿を持って帰る。

十二月五日(日)

 軍人は教育を嫌う。教育あるものはとかく批判的に見るからである。ところが、自分自身は陸大、銀時計というようなことを誇りとする。一見矛盾のようだが、これは教育の異質性が原因である。
 しかるに、軍がいままで軽蔑していた学徒を、掌をかえしたように讃めだしたのはどういうものか。だが、学者に対しては相変らず排斥する。つまり、学問も極めるとダメになるということらしい。

十二月六日(月)

 政治家に必要なのは心のフレキシビリティである。あの屈伸性を近ごろの政治家、軍人は、まったく欠いている。だから、時に応じて対策をたてることが出來ないのだ。
 毎日の新聞は松村(透逸)、栗原(悦藏)両報道部長の対談とか談話だけを載せている。そして、戰局のただならざることを警告している。
 日本人が宣伝下手だということは自ら認めている弱味だ。他はすべて日本人が優れていると思っているのに。だが、僕から見れば、日本人ほど自己宣伝の好きな人種も少いようだ。

十二月八日(水)

 大戰爭二周年である。新聞もラジオも過去の追憶やら鼓舞でいっぱいだ。
 十二月号の中央公論に「赴難の学」という座談会がある。この出席者は京都帝大の教授連だが、はなはだ妙なものだ。「征韓論はアメリカの謀略だ」といった調子だ。また、小牧(実繁)という教授は、「大東亞戰爭は天祐神助だ」と繰返している。中央公論を通して全部こういう風である。
 戰爭二年で気のつくことは、コソ泥の横行である。物を盜まれぬ家とてはない有樣だ。玄関に置いた靴、外套はすぐ盜まれる。
 この日の新聞はルーズベルト、チャーチル、スターリンの三名のテヘラン会議の公報を発表した。それは、「世界の全民族が圧制をうけることなく、かつそれぞれの決意と良心に基き、自由なる生活を営み得る日の到來を待望す」といっている。「ロンドン電報」とかいてなければ、大東亞宣言と間違いそうだ。

十二月九日(木)

 東條首相が昨夜のラジオでやった講演が、今朝の新聞に満載されている。相変らず「赫々たる戰勝」といったことである。だれもかれもいうことは「アメリカに戰爭目的がない」ということだ。陸海軍報道部長も、外から帰った連中も、みな口を揃えたように、米国の戰爭目的の欠如をいうのは、恐らく当局者の指導によるものだろう。東條の演説にもそれがある。
 朝日新聞で白鳥敏夫が米英いずれもユダヤで動かされているというようなことを言っている。毎日は八日の記念日の感想を本多熊太郎(元駐支大使)と鹿子木員信をして語らしめている。
 正宗白鳥氏の話では、新潟で僕の行った後で、白鳥敏夫と斎藤忠が行って、ドイツはイタリアという荷厄介なものを捨て、磐石の体制ができたと言ったそうだ。そして、地方では僕の話よりも彼らの話を信じているそうである。

十二月十一日(土)

 経済倶樂部で「焦る敵米国」という題で、高瀬中佐の講演があった。出るつもりであったが、僕は行かなかった。近ごろアメリカの攻勢を「焦って短期戰を狙う結果だ」と言うものが多い。そして、それがアメリカの弱点の露出だというのである。これまた自慰である。アメリカは最初から一九四三年の暮から攻勢を開始すると言っていたではないか。
 若杉要君逝く。彼がニューヨーク総領事、サンフランシスコ総領事のとき、ずいぶん世話になった。知人に死ぬ人多し。勝田女史(石井満君(東京合同タクシー取締)の姉)も逝く。
 松村報道部長は「郷軍に寄す」と題して講演。英米の阿片戰爭や比島に対する残虐を叫ぶ。阿片戰爭はもう古いことだ。
 兵務局長が小学校教育を指導しているが、国民学校に配属將校をつけるとなると、まったく軍国政治である。
 賀川豊彦、高良(富子)女史が憲兵隊に呼ばれ、彼らが英国の平和団体の会員であるというので、「英国謀略にかかって入会したが、断然脱会する」という手紙を出せ、しかもそれを憲兵隊から発送せよと言われたという。

十二月十二日(日)

 重光外相がラジオ演説をした。十一日が日独伊軍事同盟の記念日だからだ。ペルリが日本にきたのは征服のためだという。こんなことをいうのは敵の侮りをうけるだけだ。バカなことは言わぬがよい。

十二月十三日(月)

 今日の朝日に風邪続出という記事あり。どこのビルでも暖房裝置はいっさいとってしまった。銀行の窓も、橋の欄干も撒回した。戰後にも金具の一切ない国となろう。この復興は大変だ。いわんやこの上に空襲でもあったらばと思う。

十二月十四日(火)

 ドイツ大使シュターマーが、しばしば重光に会見する。そして「日本がソ連に開戰しなければ、ドイツは英国と和を講ずるかもしれぬ」と迫っているよし。これはありそうなことである。今になってもまだソ連と開戰せよという議論をするものがあるのだから、一般民衆というものはどれだけ無知かわからぬものである。
 腸をこわして具合惡し。寢ながら中央公論を読み直したが、中央公論もまったく驚くべきものになった。例の京大教授の出ている座談会「赴難の学」で、西洋の学は西戎学、学問奉還論、学問は日本書紀、古事記だけを読めば総べてのことが書いてある、国際法は英米の謀略法とか、たいへんなものだ。
 奇説もここまでくると面白い。僕は名前と肩書きをみくらべながら、卷をおくにたえなかった。

十二月十六日(木)

 東大の田中耕太郎博士の外国行きが取消された。彼はカトリックで日本精神に徹しないからというのだ。近ごろ外国に行くのは、神風連的な右翼連中に限られている。彼らは無知でありながら、恐ろしく自信がある。そして、東亞諸国に行って、それ錬成だ、それ儀礼だという。こんな連中に彼らが敬服するはずがない。戰後、東亞諸国の識者から、日本に関する評判を聞きたいものである。
 日タイ文化会館の主催で、タイの新大使ウィシエットの歓迎会があった。その席上で萩原徹という大東亞省書記官の話。
 ――東條という人は、反対する人を好まない。今のところ重光さんが少し忠告したりしているが、あれが続くと放り出されるだろう、と。

十二月十八日(土)

 近ごろの新聞文章には必ず一つの型がある。「戰力増強に邁進しなければならぬ」「銃後の責を果たさなければならぬ」といった言葉を最後につけ加えることだ。これは説教好きな国民性を示すひとつの現われだが、言い放しにすると何か不安を感ずるのだろう。
 英軍は十六日ベルリンに千五百トンの爆彈を投下したよし。日本にも同じ戰法をとるだろうが、そうなると東京で残存するのは極めて少い建物だろう。
 古本市場を見に行く。稻垣満次郎氏の「外交と外征」を買う。明治二十九年の発行だ。日清戰爭の勝利の結果として、日英同盟を予言しているのは偉い。
 朝鮮において、東亞諸国を独立させながら何故われらに独立を与えぬか、という運動が起っているという。また、義勇兵の壯行会の席上などで、野次がとんだり、混乱があったりするとか。

十二月二十日(月)

 日本新聞会で、僕と阿部眞之助君の対談会を行う。同社の会報のためである。聞くと情報局で現役でない人の説がよいとて、引張り出したのだそうだ。阿部君いわく、「われわれを引き出したのは、彼らが自信がなくなった証拠だよ」と。

十二月二十一日(火)

 ギルバート島のマキン、タラワ両島を敵に奪われ、三千余名殲滅されたことを、けさの新聞は発表した。これは先ごろからアメリカの被害が非常に多いことを予報しながら、小出しにしていたものである。ニュー・ブリテン島のマーカス岬といい、これといい、国民もかなりのショックをうけよう。
 同盟の岡村君の話では、部内でアメリカは個人主義、自由主義の国で戰爭が嫌いだから、戰爭も結局妥協に終るだろうと話し合っているよし。青年の知識はこの程度である。
 末次大將、斎藤忠その他は、なお時代の寵兒である。山田(秀雄)(東洋経済新報社)いわく、斎藤忠は依然として愛読者をもっていますよ、と。

十二月二十二日(水)

 小汀利得君が河相達夫君(前駐豪公使)を主賓として、僕を常盤に招待した。小汀君は日米戰爭はいい加減なところで妥協するという。この事情通をもって、この程度の樂観である。その意はギルバート海戰において敵に打撃を加えたから、それでヘトヘトになるというのである。彼は東京の空襲すら疑問に思っているのである。

十二月二十四日(金)

 今朝の新聞により昭和十九年度から徴兵適齢を一年引下げたことが発表された。陸軍省の発表によると、米英の適齢は十八歳、独ソは十七歳だという。果してそうか。戰後において研究の要あり。
 小汀君の話――ルーズベルトに対し、支那は賄賂を二百数十万ドルやったが、日本はやらなかった。それが彼が反日的な原因だ、と。反駁する気にもなれなかった。困ったものである。
 夜、二六会に出席。鈴木文史朗君(朝日新聞常務)は、食糧事情を樂観している。料理屋で切符をもたずに食べられるのが逼迫してない証拠だという。また、戰爭もうまくいくだろうと言う。
 鈴木といい、小汀といい、政府関係者と会談の機会の多いものは、非常に樂観的だ。考える機会もないからでもあろう。活動家の周囲に思想家の顧問の要る一つの例である。

十二月二十六日(日)

九地方長官(いわゆる大知事)が、毎日新聞の座談会で、統制と価格の無茶振りについて、農商省を攻撃している。役人の役人攻撃で、その点偉観である。
 馬揚恒吾君の話――千葉県で、ある妻君が米五升のために巡査にいじめられた。そこで夫が怒つてその巡査を毒害した事件があった。それを枢密院で南弘(枢密顧問官・元逓相)が発表したところが、東條首相はすでに知っていたそうである。

十二月二十八日(火)

 小汀君の話――支那人は亀を嫌う。その嫌う「半十亀」が儲備銀行券の意匠にあった。普通では見えないが、檢微鏡では見える。この意味は「半十亀」はセパケと発音し、それが日本鬼に通ずるのである。つまり、日本を呪う意味だ。このデザイナーは死刑に処せられた、と。
 こうした民衆の反抗にあっては、日支関係は失望あるのみ。

十二月三十日(木)

 今朝の毎日新聞の社説に「赤化する北阿」とあり。北阿にユダヤ勢力が浸潤することを述べた結論に、
「一体北阿を舞台とする米英系の資本主義とソ連系の共産主義はどうなるかの疑問さえも成立しないのだ。両者を支配するものは、これまたユダヤ民族である。資本主義と共産主義は両極ではない。火と水でない。ユダヤ民族の両翼をなすものなのである。ここがわからなければ米英の名において描かれる世界制覇の筋書も背景もわかるはずがない。」
 資本主義と共産主義はユダヤ人活動の両翼をなすものである! これが毎日新聞――日本二大新聞の一つの社説である。日本のインテリの低劣なことを見よ。そして、彼らの知ったかぶりを見よ。
 外交は自国民に確信がなければできぬものだ。ソ連勢力の伸びるところ赤化あり(前掲社説)というのでは、ソ連との外交はできない。また、米英をユダヤ人とみたのでは、これと永遠に交渉はできない。英国外交はなぜいいかといえば、自国民は赤化などしないと確信するからだ。

十二月三十一日(金)

 熱海に行こうとしたが、切符が買えず。なんでも昨夜の八時ごろから立って買ったものがあった由。近ごろは切符を売る商売があり、たいがい十円ぐらい余計にやればよいとのことだ。外交年表の訂正をしながら年を送る。
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昭和十九年



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昭和十九年一月一日(土)

 重大な年、歴史を決する年きたる。玄米の餅を食う。
 朝、切符が買えたので熱海に赴き、山王ホテルに宿す。寒い非常に寒い。火の気がすこしもないのである。
「ペリー前の日米関係」という英書を読む。面白い。

一月二日(日)

 夜、土屋計左右氏(第一ホテル社長)のところで、東郷安(男爵・貴族院議員)、犬養健の四人で話す。犬養氏は例の尾崎秀実事件で告発され、無罪になったのである。犬養氏の話――
 かつて近衞内閣のとき、一週間に一回官邸で話をする会があった。風見章は司法大臣をやっていたので、支那問題は自然尾崎が中心になった。犬養君などが近衞に話すと、尾崎君に言っておいてくれといった調子だった。そのグループのうち尾崎君が、いちばん穏健であった。
 西園寺公一(故西園寺公の孫・近衞内閣嘱託)は対米交渉に興味をもっていた。近衞メッセージのドラフトが西園寺の家から出たりして、それが訴訟に不利だった。
 中野正剛の葬式のときに、緒方(竹虎)(朝日新聞主筆)が言っていた。「中野君を馬にたとえるのは失礼だが、サラブレッドの馬は汚ない馬小屋につながれると、やがて自ら死ぬそうである。中野は生一本で、刑事の手などで恥ずかしめられたので、自ら死んだのだろう、と。頭山満のところにも遺書は送っておらぬ。これは頭山秀三の話である。
 支那との交渉に役人はキチンと証書みたいにしないと承知しない。それでは支那側では呑まない。日支交渉でいちばん有望なときは、トラウトマンの仲介のころであった。蒋介石は英雄として死にたいと考えている。

一月三日(月)

 植原悦二郎氏の家に敬意を表しに行く。彼は宇垣大將に望みを託したが、中野自殺に関し風評が立ったので、宇垣の首相説は見込みがないという。
 午後、高木陸郎氏(支那問題研究家)を訪う。外交史研究所の相談をすると、満鉄の小日山(直登・満鉄総裁)に話せという。なるほどよい知惠だ。
 帰りに岩波茂雄氏を訪問。紅茶にウィスキーを入れたのを飮みながら、気焔を吐く。岩波氏は至誠を何よりも高く評価する人だ。僕はその結果を評価する。僕は大久保、木戸を好み、彼は西郷を好む。岩波君の二男が僕と同感である。

一月四日(火)

 夕刊に政府が戰時官吏服務令を決定したとて、それについて東條首相がまた訓示をしている。戰時官吏服務令は恐ろしく抽象的である。「不撓不屈、努力と工夫を画して、その責務を貫徹すべし」といった調子だ。これをまた東條が例の説教をやっている。
 東條は官吏を昔の士族だと心得ている。従って民間を一歩下の被統治階級と心得ているらしい。大東亞戰爭、満州事変いらいの政情は、軍部と官僚の握手である。戰爭を職業とするものと、一部しか見ない事務屋、しかも支配意識の旺盛な連中が、妥協苟合した結果、この事態をしでかしたのである。
 毎年の例と異って、熱海は死んだような靜けさである。みかん一つ店に出ていない。これは全部統制するからである。むろん、魚もない。

一月六日(木)

 川崎克氏(代議士)、僕の部屋にきたる。昨夜たのんだ画帳をかいてくれる。趣味の豊かな紳士だ。話しているうちに、外交問題についてはそれほど素養もないことがわかる。
 午後三時発、東京に帰る。

一月七日(金)

 政府は盛んに人口疎開をやっている。かつては東京を去るものは、非国民のように言われた。また先ごろは毎日新聞がそれを提唱したが、政府はそれを押えたのである。
 重光とシュターマーが、さかんに会見する。昨日も逢った。リッペントロップが目下スペインに行っているそうだ。和平工作ではないかとも思われる。
 今朝、陸軍大將がまた出來た。安藤利吉である。現大將は二十二人、百二十四人目の大將だ。

一月九日(日)

 加藤武雄君を訪う。加藤君は朝鮮関係者の一人である。朝鮮では銀製の食器その他のものを取上げ、代りの陶器も与えないので、板で食べているとのことだ。すでに我慢できる頂点に達しているという。
 リッペントロップのスペイン訪問はデマであるよし。しかし、ドイツがきわめて困難な立場にあることは疑うべからず。

一月十一日(火)

 赤軍、旧ポーランド国境突破す。同時に第二戰線が説かれている。が、ドイツ側論者はなお樂観しているようだ。
 米国がイタリア管理委員に親独派を任命した。これは日本では諒解できぬ人事だろう。
 チアノ元伊外相ら死刑確定。

一月十二日(水)

 読売、朝日などが大東亞宣言を、やたらに書きたてている。執筆者は斎藤忠、中野登美雄(早大総長)らだが、これら極端な右翼どもが「大東亞宣言」をいっても、恐らく日本以外のものは信じまい。

一月十四日(金)

 昨日、ゴルフに出る。近藤浩一路君とともに回る。近藤画伯の長男は横須賀の海軍に入っているが、非常な秀才である。海軍でも盛んになぐるよしにて、爪先にて一時間も立たされたりするという。これが最高学府出身者に対する訓練なのだ。

一月十六日(日)

 お晝に等々力君(長野県安曇の人)を招待。第二回の交換船でアメリカから帰ってきた人である。同君の話――
 日本がアメリカ飛行士を銃殺したことは、非常な反響を米国でひきおこした。ルーズベルトはこれを利用して、国債を募集した。その成績は遙かに予定額を突破したという。

一月二十日(木)

 朝、東大の高柳賢三教授から電話あり。行ってみると、同君は外務省の嘱託になって海外の知識階級に対する宣伝をやることになったが、その委員になってくれと言う。僕と板倉卓造氏とが委員に選ばれることになったのである。僕は出來るならやろうという。囑託という名前がうるさいので、委員としたとか。板倉博士は福沢諭吉伝だとかの仕事の問題があるので、來週返事するという。
 外政協会で牛場(信彦)書記官のドイツの話をきく。ドイツがすべて有利なような話である。ドイツからくるものは、いずれもドイツを樂観しているのを見ると、内部は案外いいのだろう。但し、問題は英、米、ソの実力と比較してどうかということだ。同君は右翼だという。

一月二十二日(土)

 読売に風邪もユダヤ人の謀略であるという記事がのっている。それは秋田重季子爵の談だが、それには、「私の担当はユダヤの医学講演で、ユダヤ人医師は次から次へと病気をつくって、世界にバラまいている。こんどのイギリス風邪とか、チャーチル風邪も、ユダヤの製造に相違なく、彼らは現在借家人のくせに、大家の米英も毒殺し、あわせて世界中をやっつけてユダヤの天下を築こうという魂胆だ。これを断固として叩きつぶすのは、日本人の強さあるのみである」という。噴飯ものだが、これが現代日本の知的標準である。
 太田三郎氏(外務省課長)から「ピース・アンド・ワー」を送ってもらう。「極祕」とある。なぜ極祕か。国民に対する不信任か。自己の政策に対し自信がないからか。それとも若い官吏たちが面白半分にやっているのか。
 これに対する來栖三郎氏の批評を読む。やはり傑出した頭脳である。

一月二十六日(水)

 議会で英語のリーダーが、なお英国的だという質問があった。皇道主義の岡部は、これには恐れ入って、直ちにその場で変更を言明した。
 アメリカで日米交渉に関する出版あり。それを帰国者が持ってきた。近衞がそれを高松宮樣に申し上げると、読みたいとの仰せで、牛場に飜訳させた。ところが、そのタイピストがスパイで、憲兵隊を通じて取調べられた。どこへやったかといったら、高松宮樣、近衞のところに差上げたという。その一つが馬場恒吾のところにも行っているそうだ。これは近衞が与えたのである。こういう事情が判明して起訴だけは免れたそうだ。
 半沢玉城君は舌禍事件で謹愼中だ。だれが行っても逢わぬ。外交時報や外交研究会と縁を切れと圧迫されているという。小室誠君を時報の社長にするという案をもって行ったら、それでは半沢がやっているのと同じでないかと、ひどく憲兵隊に脅かされた。
 後宮(淳)大將(中部軍司令官)が大阪朝日と毎日の合併も、時の問題でしょう、といったそうだ。これは小林一三氏の話。

一月二十七日(木)

 アルゼンチンが、二十五日に日本とドイツに対し、国交を断絶した。新聞はアメリカの圧迫によるものだと論じている。一国の行動を背後勢力にのみ帰すること、例によって例のごとし。
 久しぶりにて「廿七日会」あり。これは徳田秋声君を偲ぶ会である。今夜の会場は偕樂園であったが、全部の会員が集まった。

一月二十九日(土)

 鈴木文史朗君に逢う。同室に朝日の記者某君あり。その話――
 支那人は皇軍といわず、それに虫へんをつけるという。蝗軍のきたるところ一物も残さずという意味だとのことだ。

一月三十日(日)

 毎日新聞に「断乎として行うべし」との社説あり。米軍が病院船を攻撃したから、これに報復せよというのである。俘虜でも死刑にせよというのか。

二月三日(木)

 朝、箱根に赴く。雪ふる。富士屋ホテルの冷たきこと。高柳、小畑らと対外宣伝のことにつき談ず。食はよいが分量少し。

二月五日(土)

 午前中にドラフト完成。僕の原案を基礎とし出來あがったものだ。もし、これが具体化すれば、僕も戰爭遂行に一役演じたことになる。
 午後二時の電車で帰る。マーシャル島に敵が上陸した旨発表。石橋湛山君の二男和彦君がクェゼリンにいるはず。石橋君の心配に同情する。

二月六日(日)

 マーシャル島の米軍來襲を、どの新聞も元寇以來の大問題として、ページを埋めている。朝日は頭山満をかつぎ、毎日は徳富をかついでいる。
 頭山は朝日に次のようなことを言っている。
「米英の狐狸どもをやッつけるのを、商売のようにしてきたワシじゃ。向うはあり余る機械力という奴で、泥棒根性丸出しに刄向って來る。飛行機も軍艦も沢山みよがしにやって來たのじゃろうが、ワシら日本人はこの機械力に人雷をもって、ぶつかればよいのじゃ。人雷のほかに神雷もある。人雷、神雷で微塵に引導をわたすのじゃ。これだけでよい。もう後は言わんでもよい。そうじゃろう。」
 ひどいものである。
 府県に食糧対策部隊――大隊を編成する。また、国民学校に軍事教育をやるのだそうだ。

二月七日(月)

 今朝の新聞は、いずれも英米に対する敵愾心の高揚をめがける記事を掲げている。恐らく軍部や情報局あたりで作ったものを載せたのであろう。ことに朝日のものが強い。アメリカで「日本人を殺せ」と絶叫しているというのである。問題はこうした仇討ち思想で世界の同情を集め、また戰意高揚に役立つかどうかである。

二月十日(木)

 外務省に赴く。聞くとわれらがつくった案は、加瀬祕書官がダメだと言い、太田、松平二課長にも異見ありと。こんなふうに案をつくっても、握りつぶされてはどうにもならず。
 日本がかりに敗戰するごときことあらば、日本は被告の位置に立つだろう。その場合、日本は日本の行為を弁解しなければならない。が、そうした準備は外務省でも出來ていない。また、不必要だと考えている。いわんや戰後の世界新秩序など考えても見ないらしい。これではとてもダメである。
 晩、柳沢健君の日泰文化会館の会に赴く。どこでも問題になることは、食物の話だ。腹いっぱいにならぬというのである。桑木(嚴翼)博士も今日は家に米が一粒もないと言っていた。
 柳沢君の娘が学校に行くのに弁当をもたせてやるが、女中がその中から盜んで食う。それを叱れば、出て行かれるだろうし、どうにもならぬと言う。うちの英子の青山学院では弁当をストーヴであたためるのを中止した。どんどん盜まれるからである。いずれも食糧問題の窮迫を言わざるはなく、これから悲観論が現われている。
 東京に、本年の六月二十八日に戰爭が日本の勝利に終るという占いがあるそうだ。今日まではよく当った売卜者だという。いま売卜者が大流行であって、それに望みをかけているという状態だ。

二月十三日(日)

 ウォター・リップマンの米国外交史を読む。日本とドイツを強国より抹殺し、米、英、ソ、支が戰後世界秩序の責任者たるべきことなどを説いている。結局、地域主義を主張することになるが、果してアメリカが従來の孤立主義に閉じこもっていられるかどうか。
 石橋君の話によると、敵艦がクェゼリン島の眞只中にやってきたよし。全滅を疑う余地なし。
「どうして家内を狂乱に陷れないかが問題だ」と石橋君はいう。愛兒の悲報を淡々として語る彼の態度は、けだし驚異の至りである。

二月十四日(月)

 敵の俘虜虐待宣伝は、習慣の相違にもよろう。日本では罪人などを殴ったり蹴ったりすることは何でもないことだが、向うでは大変な人権問題だ。日露戰爭、第一次大戰のころは俘虜虐待ということはなかったようだが、いまや復古調で、英米俘虜優待を「英米的」というのだから、自然極端に走るのである。いつか俘虜管理官の小田島大佐が「日露戰爭のころは西洋崇拜的であったが、現在は日本主義的にした」と言っていた。ここにも今回の戰爭の復古主義的性格が見られよう。

二月十七日(木)

 運通省より電話あり。十九日より四、五日青函連絡船がストップするので、十八日に樺太へ出発してくれという。郵便局員練成のための講演である。
 その後、同省の東川属が來訪して、切符が買えぬかも知れぬという。運通省の公用のために行くのに切符が買えぬとは妙な話だが、なんでも彼は陸軍の友人にたのんで都合して貰う予定とか。もって、一般を察すべし。鉄道省と逓信省を無理に一緒にすることが、いかに結果が惡いか、これも形式主義の一弊である。

三月八日(水)

 昨日、樺太より帰る。出発より帰宅までの出來事を左に記す。
 二月十九日朝、上野を出発す。汽車三時間遅る。急行列車がおくれるのは普通の現象であるが、このために指定の青函連絡船の第一便に間に合わなかった。たまたま運輸整備のために一般乘客は一日一便ぐらいしか運ばないので、僕は午前二時半より午後一時半まで、青森で次便を待たざるを得なかった。幸い近くに二等郵便局があったので、随行の東川君とともにストーヴにあたる。青森も林檎なく、死都のごとし。
 函館に午後六時近く到着、直ちに講演会場に赴く。青森でも函館でも停車場の職員の気荒く、乘客と盛んに喧嘩す。
 二十一日、小樽経済倶樂部、二十二日、小樽郵便局、二十三日、札幌逓信局、二十四日、旭川にてそれぞれ講演す。二十五日、稚内を発し大泊に向う。その晩、クェゼリンの勇士の玉碎のラジオをきく。石橋和彦君もその中にあるはず。実に好い青年だったが、同情にたえず。船外の吹雪をききながら、明朗な青年の最期を追悼す。
 二十七日、敷香郵便局、二十八日、豊原王子製紙クラブ、三月一日、大泊にて講演す。一日夜、乘船し稚内に二日午後三時到着。樺太は東京にくらべて物資豊富、汽車弁当も買える。
 三月三日朝、札幌着、晩講演。四日朝、札幌発、日高浦河につき座談会を催す。六日、函館発、帰京す。

三月九日(木)

 帰って約二十日の間に、東京も事態一変している。松尾晴見(南満州物産代表取締)氏の二女の結婚披露も中止となった。帝国ホテルの洋食部が閉鎖されたためである。経済倶樂部も会員外の食事はお断わりである。
 島中君を訪問、昨年から問題続出で、ほとんど苦しみ通したという。同社の藤田、畑中、沢その他の数人が、左翼関係で引っぱられているそうだ。
 政府は戒嚴令を考えているとか。あるいは本当かも知れない。

三月十日(金)

 今日は陸軍記念日ということで、新聞もラジオも陸軍礼讃をやっている。朝も井上(幾太郎)大將の講演だったが、例によって例のごとく、北條時宗が出てくる。
 戰爭責任者の一つであるジンゴイスト・ペーパー毎日新聞は、本多熊太郎の談話を掲げている。その中で彼は蘇峰とまったく同一意見だと言っている。
 本多は鋭い観察者である。しかし、最初から一つの結論をもっていて、その角度からすべてを解決する。戰爭を引きおこした責任者が、少くも責任を感ぜず、運命論とか先見を誇っている。僕は將來こうした無責任なる論者を指彈すべき責任をもつ。
 世界において、かくのごとき幼稚愚眛な指導者が、国家の重大時に国家を率いたることありや。僕は毎日こうした嘆声を洩らすのを常とする。
 帝大の辰野隆氏いわく、「東條首相というのは中学生ぐらいの頭脳ですね。あれぐらいのは中学生の中に沢山ありますよ」と。
 日曜休日を三月五日から全廃した。学校も日曜を授業し得るよう法令を改正する。よけい時間をかけることが能率をあげることだと考えるのが、時代精神である。
 米、英が鬼畜であるとの宣伝が行き渡っているようだ。先日、浦河から苫小牧までの汽車中で、挺身隊が乘ったが、その隊長なるものが「大西洋憲章というものをチャーチルとルーズベルトがつくったが、日本人を皆殺しにすると決議した。男も女も殺してしまうのだと声明した。きゃつらに殺されてなるものか」と演説した。また、日本人が子供を生まぬよう※(「澤のつくり」、第4水準2-82-7)丸をとるとか、あるいは孤島に追いやられるというようなことも、一般に信じられているようだ。
 家の棕櫚の皮を町会から取りにきたから提供した。

三月十一日(土)

 先日、樺太での話――
 樺太の北部にギリヤーク族でウィノコルフというものがいた。非常な気焔家だが、「日本人は大陸発展といいながら、ギリヤーク語一つ学んでいるものがない。俺は日章旗をもって案内するよ」と言っていた。かれの住居は敷香からあまり遠くないオタッスの森の中だ。この男が憲兵に連れられて豊原にきたが、その後の消息はない。かれの娘は「豊原で死んだよ」と淋しい顏をしているという。
 午後、雨宮庸藏君(中央公論編集長)、先頃の講演の礼をもってくる。かつてはこんな收入は珍らしくもなく、顧みてもみなかった。近頃は五十円が有難い。生活の決戰期も目前にきたのである。

三月十二日(日)

 アメリカの「日本抹殺」の内容が、新聞に公然とあらわれてきた。これについて情報局井口(貞夫)第三部長も放送し、例の本多熊太郎もそれを言っている。彼らは「日本帝国抹殺」と「日本民族抹殺」を混淆している。
 アドミラルティーのロスネグロス島に敵が上陸したと発表。海軍に優秀な青年が爭って入隊した。その優秀な学徒が、いまや全滅の悲運に瀕している。日本は彼らに待つべきものが多かった。戰後の社会は恐らく人間の断層に苦しむであろう。これが今回の戰爭のもたらした最大の損害だ。

三月十三日(月)

 太平洋戰爭の思想的背景は極端なる封建思想だ。西郷隆盛、宮本武藏、四十七士などの流行が、今日のごとく極端だったときはない。
 午後、東洋経済の評議員会に出席。蝋山政道君、久しぶりに出席す。自由に話し得るのはこの会くらいなものである。他では二、三人の会でも断じて正直は言えぬ。そこにはつねにスパイがいるからだ――さればとて、われわれの話は、つねに国家の安危を忘れず、これにいかに対処すべきかを研究討議しているのではあるが‥‥

三月十四日(火)

 石橋君が東洋経済の社論で、「強力政治実現の要諦として、首相はまず爭臣を求めよ」という意味のことを書いた。これが当局から注意があったそうである。情報局はこんなことばかりやっているのだ。
 直言を当局者が好まぬ例はあまりに多い。ある代議士が東條に忠告した。会合は二人だけであったが、帰りに憲兵隊に呼ばれて、ひどく虐められたという話がある。蝋山君いわく、こんな国に生れたのは不幸だったと。知識人としては、こんな低劣な空気と干渉には堪え得まい。
 東條首相は参謀総長就任につき、その言葉を極度に警戒しているそうだ。例の肩章をかけているときには参諜総長東條大將であり、断じて総理大臣ではない。さきごろ伊勢神宮に行ったときは参謀総長の資格であったそうで、この点嚴格である。なんでも右翼方面から突込まれて以來のこととか。

三月十五日(水)

 汽車乘客制限をなし、今後百キロ以上は警察が証明を出すことになった。寢台車、食堂車も全廃、ひどい制限である。
 ドイツでも矢張り制限しているのは、運通省の長崎(惣之助)という鉄道総局長官の談でも明らかだ。さきごろの高級料理店の閉鎖も、ドイツの眞似であろう。むろん必要に押されてでもあるが。長崎長官の談をみても、弁当の問題その他について具体案なくして実行したのだ。対策のない「断行」が、今回の汽車制限にも見られる。
 戰爭は文化の母とか、百年戰爭といって、戰爭を讃美したものが多かった。いま、その人々はどこにいる! しかし、新聞は相変らず、斎藤忠とか、鹿子木員信とか、野村重臣とかいった連中で賑わっている。この国民の愚や及ぶべからず。

三月十六日(木)

 高級料理店を閉鎖したのは、労働者や徴用者の反対が激しく、そういうものを閉鎖しなければ治安の責任がもてぬと、警視庁が言い出したからだという。それはさもあるべきことだ。徴用士たちの寄宿舍では、「おれらが働いていても、重役や軍人が待合に行っているではないか」と不平をいっていると、銀星にいた小林が話した。
 高級料理店に対する労働者の反感と同時に、東調布警察署あたりの常会係りの刑事が、さかんに「奧樣」や「物持ち」を反撃し、女中階級を扇動しているとのことだ。これは若い下級官吏には特に通有することである。
 三、四日前、白柳秀湖が手紙をよこした。彼は、「徳義がすたれれば、戰爭に勝っても国が亡びる。国家永遠のためには、敗戰したほうがいいかも知れぬ」という。ここで彼は誤謬を犯している。第一に戰爭は何よりも道義心を破壞するものだということだ。第二はその戰爭の責任者は誰なのだ。彼や徳富蘇峰などが、最も大きなその一人ではないか。日本歴史や日本精神をムヤミに誇張し、相手の力を計らなかったのは彼らではないか。
 今日は興味深い話をきいた。
 今年二月二十三日の毎日新聞は「勝利か滅亡か」と題し、特別活字の記事を一面に出した。その中に「太平洋の攻防の決戰は、日米の本土沿岸で行われるものではなくして、教千海里を[#「教千海里を」はママ]隔てた基地の爭奪をめぐって戰われるのである。本土沿岸に敵が進攻し來るに至っては、もはや万事休すである」との字句があった。そして、この記事は、だから竹槍では間に合わぬ。飛行機だ。海洋航空機をつくれという論に続くものである。
 この記事を東條首相が、その日の午後三時ごろ読んで怒った。沿岸に敵が進攻し來るに至っては万事休す、とは何事だ。東京が焦土と化しても、国民はあくまで敵を滅ぼすために戰うのだと。
 情報局はあわてて午後三時半ごろ毎日新聞の発売を禁止すると同時に、翌日都下の新聞社の編集長を招致して、今後こうしたことのないように訓示した。また、陸軍省は毎日新聞に鋭い警告を発し、かつその筆者(新名丈夫)が何人であるかを問うてきた。毎日新聞では筆者を出すことを謝絶し、編集局長の吉岡文六君が辞職した。
 これで問題は解決したものと思われた。事実、筆者の目的としたのは飛行機増産の急務を説いたのだし、その書き方もいかにジンゴイストの毎日新聞でも酷すぎるくらいだった。ところが、二、三日して、その筆者に突然徴兵令の赤紙が來た。同人は海軍省の出入り記者で四十一、二の男、兵役関係のない国民兵である。この人が徴兵されたのである。彼は丸亀に入隊した。これを聞いた海軍は怒った。海軍報道部員を無断で徴兵するとは怪しからんというので、丸亀に交渉して除隊させた。海軍の意思としては、彼を飛行機で南方につれて行く手筈をしていた。しかるに、その男は除隊された翌日、また徴兵された。いま丸亀にいるということである。
 この話ほど、東條の性格、陸軍のやりかた、陸海軍の関係を、いみじくも画き出したエピソードはあるまい。
 伊藤正徳君の夫人死去、お悔みに行き、帰りに加藤武雄君の家に寄る。加藤君の話――
 鶴岡で石原莞爾將軍と会見せんとしたら、特高が何人も來て、最後に都合が惡いからと断わったという。石原に対し余程警戒している証拠である。

三月十七日(金)

 日本はその地理的條件から、バランス・オヴ・パワーの上に立たねばならぬ。英国が大陸に対してとったように、アジア大陸に対しては、そこに必然に起る列強の衝突に対処して、勢力均衡政策をとることが賢明である。自ら大陸の一にならんとしたところに、日本の失敗があった。
「玉碎」という文字は使わなくなったそうだ。山根(眞治郎)君が松村報道部長に、「そんな文字を使うのはオカしいではないか」と言ったからだと話していた。また「一機でも多く」も標語としなくなったという。必要が彼らの道徳を変える。

三月十九日(日)

 積雪五寸に近し。
 暸の話――吉田大尉の話では、勅使が第一線に行って、日ソ戰爭をしないように、先方が乱暴しても当方では忍耐するようにと説いたそうだ。
 今朝の新聞では「勤労昂揚方策」と「女子挺身隊制度強化」という二つの要綱が閣議を通過し、デカデカと発表されている。見ると最高勤労能率を発揮するため、軍隊的規律による職階制を確立するというのだ。まるで生かじりの中学生の作文みたいなものである。彼らはまだ観念いじりに終始している。能率的には軍隊ほど非能率なところはなかろうではないか。
 人間は自分の経驗以外はわからないものである。工場に軍隊式を徹底させることが、最善だと考えているのだから面白い。彼らには、競爭主義の味がわからないのだ。確信のみあって知識なき徒。

三月二十日(月)

 けさの新聞は恐る恐るではあるが、「形式主義の否」(毎日)とか、「必要なのは書くことではなく物をつくること」(読売)といったことを書いている。政府のやりかたの馬鹿らしさ加減が、少しずつわかるからであろう。もっとも新聞といっても、若いイデオロギー張りの連中には、それもわからず、軍部とともに形式主義の推進力となっているのであろうが。

三月二十一日(火)

 さきごろ避難荷物の檢査があった。その檢査官は、出入りの大工松村である。われらの隣組長を従えて挙手の礼をして、「よく出來ました」とほめて行ったそうだ。ワイフは、「いままでは勝手口から出入りするにも遠慮してましたのにね」という。
 ここに問題は二つある。一つは大震災のときもそうであったが、秩序維持の責任が、大工、植木屋、魚屋などに帰したことだ。彼らはちょうどいい知識と行動主義の所有者だ。第二は個人の持物をも、警察の代表者によって檢査させるという干渉主義の現われだ。新聞には疎開荷物の中にカンカン帽があったとか、ピアノがあったとか、そんなことばかり書いてある。荷物の分量をきめて、何をもって行くかは、その人の裁量に任せればよいではないか。その人によって最も大切なものの観念が違うのである。

三月二十三日(木)

 新聞社は陸海軍の軋轢のため、どちらのことも書けぬといっているとか。日本はこの問題においても末期的症状を呈している。この間の毎日新聞の発売禁止も、内実は同紙が海軍の提灯をもちすぎたからだという。「竹槍はダメだ」とか、「海軍航空機増産」を強調したのが、陸軍の疳にさわったのである。恐らくそうであろう。

三月二十四日(金)

 午後、外政協会で佐々木克巳中佐より「最近の戰況」をきく。独ソ戰線については、ソ連に損害多く、ドイツが有利なるかのごとく説いた。表面的にそういっているのか。また、そう信じているのか。そう信じているとすれば、まさに愚である。もっとも今までもこの人はつねに見通しを誤ってきているが。
 驚くのは、この三十五、六歳の青年が、依然として大胆で、断定的で、自信のあることである。この教育はどこから來たのであろう。
 小汀君と銀星でお茶を飮んで別る。

三月二十七日(月)

 午後、樺太紀行を草す。僕の原稿を出すところは東洋経済のみである。小汀君も日本産業経済にのせるのを断ってきた。恐らくは例の方面への遠慮からだ。
 東條首相などについて、巷間いろいろの噂がある。床屋での話だというのをきくと、東條は敵産の一万円ばかりするピアノを五十円で買ったとか。敵産を安く買ったものの中に、大藏省や内務省の役人が沢山あるとのことだ。まるでメチャクチャに安いよし。將來、問題になるときがあろう。

三月二十九日(水)

 梅、満開。
 毎日新聞に地方の別莊などを徴用せよとの投書あり。近ごろは個人の所有権をとりあげることを、当然のように考えている。
 土橋のところに警官七名がきて、土藏に入って、品物を全部提供せよと命令したよし。商品の私有を許さぬのである。

三月三十日(木)

 百々正雄君死す。惜しい人であった。これくらい米国の事情を知り、英文のうまい人はなかった。

四月一日(土)

 銀座を通ってみる。半分近くは戸を閉じ、どの食物屋の前を通っても、百人前後に達する長蛇の列である。腹にたまらぬ飯を食うのにこの騷ぎ。
 穂積重遠博士の話――
 ある男が配給の石鹸をもって風呂に行った。洗場での泥棒が多いことを聞いていたので、その石鹸を湯つぼの傍において警戒していた。突然熱い湯がかかった。ふと背後をふりかえって、いま一度正面を見ると、その石鹸がなくなっていた。熱い湯と石鹸の紛失と、どんな因果関係があるかと、その男は考え込んでいる。
 長谷川如是閑氏は自分で飯を炊いている。同居の妹がひょうそうかなにかできて働けないからである。長谷川氏いわく、
 七十歳にして始めて米を炊くことを覚えた。昨日も紙で炊いていると、人が來て火が消え、またつけたらまるで食えぬものができた。ただ勉強できないでこまる、と。
 牧野英一博士がカーキ色の戰鬪帽をかぶってきた。「外の帽子は非常に高くて、これが安かったから買ってきたが、これをかぶっていると、君、あまり尊敬されんね」という。
 陸軍と海軍の感情対立は、すでに沸騰点に達している。日本の前途はこれに表徴されるところが多い。

四月二日(日)

 東洋経済に家族会があったが、平川唯一君が電気器具の修繕にきてくれる約束があったので行かなかった。平川君という米国大学の出身者が、日本の電気屋さんが修繕できぬものを直してくれるのだ。冷藏庫、ワッフルのアイロン、その他ことごとく然り。形式主義の日本教育と、考えることを教える教育との相違ここにあり。

四月三日(月)

 近ごろの配給は一人一日一銭のよし。わが家の配給は六人家族三日分で十八銭払った。葉山で配給だけで食っている人がある。感心なこととある栄養学者が、その家族をたずねて行った。すると、みな鳥目になっていたそうだ。これはどうも実話らしい。
 日本人は戰爭に信仰をもっていた。日支事変いらい僕の周囲のインテリ層さえ、ことごとく戰爭論者であった。小汀利得君も、太田永福君(富士アイス専務)も、そうであった。事実、これに反対したものは、石橋湛山、馬場恒吾両君ぐらいのものではなかったかと思う。今後の戰爭は戰爭信者に対する何よりの実物教育であろう。だが、余りに高すぎる教育である。
 この四月一日から百円の月給とりが、源泉課税を七円五十銭差引かれることになった。九十二円五十銭で、家族五、六人の生活をしなければならぬものはザラにある。砂糖一貫目百二十円は安いという時代に。戰爭というものが何を意味するかを納得することは、將來の日本のために大切である。

四月四日(火)

 ある会で陸軍報道部の矢野(志加三)大佐が演説したが、そこで、「眞珠湾を攻撃したことは、米国という眠れる獅子を搖り起したと考えた、といったら当時僕は気狂いのように言われたものだ。この責任はわれらが負わねばならない」と言ったそうだ。こんなことをいう人が軍部にいるとは意外である。
(後記、あとで矢野大佐は海軍と知った。道理で!)
 汽車、電車は殺人的な混雜である。電車から出てきたら、赤ン坊が死んでいたという例は少くない。
 毎日の今日の社説によると、イタリアの裏切りはユダヤ勢力の働いた結果だ、とある。毎日という大新聞の主筆上原(虎重)という人が、ユダヤ陰謀の一本槍だとのことだ。まさに軽蔑に値する。
 東條首相が、ある飛行機工場を突然訪問した。おみやげに卵と酒肴料をもって行った。かれは日本国民全体に卵と酒肴料をもって行けるか。

四月五日(水)

 新聞が印度作戰について書きたてている。相変らず「至妙なる作戰」と謳っている。軍部の連中は朝から晩まで讃められていないと、一日が過ごせないのである。が、印度作戰は大きな政策から見ると、悲しむべき結果を生ずることは明瞭である。かりにインパールをとったらどうするというのだ。それ以上は進めず、さればとて退けぬ。戰局の釘づけなのである。そして、犠牲は非常に多いであろう。

四月七日(金)

 インパールへ日本軍は進出しつつあり。これは東條大將が参謀総長になってから、最初の大きな作戰だ。これによって印度が動搖し、反英運動が起る可能性をねらったものだ。東條の見通しが正しいかどうかは、やがて明らかになろう。
 畠をやっていたら、妙齢の婦人が野菜をわけてくれないかと言った。毎日の新聞は野菜のことばかりだ。
 ところが、その増産の奬励にかかわらず、馬鈴薯のタネイモも、ニラも何も配給されぬのである。宣伝だけで何もしない。これを官僚統制という。国民は愚劣だから、まだわからない。なにか行き詰まると、統制の不足にもってくる――始終、同じことを繰返すようだが。

四月八日(土)

 中央公論を読む。その中の「必勝日本と世界戰局」という座談会で、帝大の矢部貞治教授はドイツが非常に有利だといっている。ウクライナをとられ、八方ふさがりの現在、東大の先生がこう言っているのだ。もって一般を知るべし。その中で外務省の加瀬俊一君は流石に事情に通じている。
 また、その中の寺田稻次郎の「日本革新史論」は、大久保をひどくけなし、西郷を讃美し、また暗殺者を讃美している。大隈を襲った來島恒喜や、森有礼を殺した行動をほめているのである。また征韓論を実行しておれば、條約改正なども二十年早くできようなどと言っている。
 これらの人々は国際関係がまるでわからない。さらにその偉いはずの西郷が失脚し、大久保がともかく最後まで中心になったかの大きな流れがわからない。こういう連中――右翼天下の世の中で、この重大時局が乘り切れるはずがない。

四月十日(月)

 国際関係研究会の常務理事の任務を押しつけられた。これは蝋山君がやっていたものだが、衆議院の仕事もあるので、彼はかねて辞意を表していたのだ。外交史の研究を進めることを條件として引受けることにした。

四月十三日(木)

 重臣と東條首相が十二日懇談した。従來、東條首相は質問封じのため各大臣を同伴したが、今回は一人で出た。重臣たちは「戰爭はどうだ」と質問した場合、「あなたはそんなこと聞いて、何になさる」と反問される可能性あり、その返事を予め用意しているということである。東條には誰も手こずっているようだ。
 平川君の話では、放送局はまだ完全な第二、第三放送準備がないそうだ。放送局が空襲されたときでも、対外短波があれば日本の健在を示し得るのだが、それが止れば国内事情の混乱が推測されよう。それなのに第二予備局は愛宕山、第三は第一生命保險の地下室、それから信州小諸だと言っているが――そういうだけで設備は何もしていないとのことである。何人も責任を負わない官僚組織の結果である。朝日、毎日の両新聞のごときは、かなり疎開の準備をしたらしい。これは責任者があるからだ。

四月十五日(土)

 また閣議で配給機構が変った。閣議というところは、魚の小売りや、切符のことばかり相談しているところらしい。とにかく役人は他に用がないのだ。統制の面白さに図面ばかり引いている。小汀利得は常に言う、「役人というやつは、どうしたら国をつぶすことができるかと、そればかり苦労している」と。奇警な言だが眞理あり。
 いま悲観論をやっている連中が、眞珠湾攻撃当時はあの一撃で米国が屈すると考えていた連中だ。三宅晴輝のごときもその一人で、僕にひどく食ってかかったものだ。木曜会においては東京日日新聞の西野入(愛一)君が、得々として戰爭が東日(毎日)によって指導、勃発したことを演説したものである。
 渡辺銕藏博士が流言による海軍刑法違反の容疑で、十四日起訴された。大阪で話した内容が惡かったとのこと、渡辺君は大胆な言説をしていた人である。
 業者は統制関係の法令や命令を読んでいるだけでも大変だ。それを覚えた頃は、また新しいのが出る。

四月二十一日(金)

 秋山高君(山王ホテル取締)の話に、出入りの職人が荻窪のほうからくるが、同方面では東條の評判がひどく惡いそうだ。なぜそんなに人気が惡いかときくと、「配給が惡いからです」と。
 久しぶりに改造を読む。蘇峰の巻頭論文あり。時局を樂観も悲観もせず正視するという。それから日本の近情を不親切で形式主義だと攻撃している。この人の頭には二つの日本が劃然として存在している。それは神国日本と堕落日本だ。そして日本が堕落したのは西洋個人主義の影響だと考えているのである。いま彼が望むごとく戰爭に入って、いわゆる日本主義が全盛になったのに、なぜ日本がよくならぬのか。
 日本には不敬罪がいくつもある。一、皇室、二、東條、三、軍部、四、徳富蘇峰――これらについては、一切の批判は許されない。
 午後、国際関係研究会のことで、蝋山君と会見した。事務所を決定。そこへ朝日の記者來る。東條と重臣の会見で、東條が一時間半ばかり演説したよし。重臣の側で動いているのは、阿部信行と岡田啓介である。東條はいまのところ止めそうもないと。

四月二十三日(日)

 インパール攻撃は、最初は祕密にし、印緬国境突破も新聞社に対して押えたのである。ところが、その国境突破の反響がよく、西アジアのほうからもそうしたニュースがあったというので、今度は東條自身が乘気になり、陣頭に立って宣伝を命令しているとか。知識をもたず、目前の現象で動いている、東條らしい話だ。

四月二十四日(月)

 医者の話――彼は徴兵檢査官だが、適齢者の九八%まではとれとの命令だという。僕らからみれば、こんな身体はとても働けないというのもとる。家に居れば多少なりとも増産に役立つ。徴兵されれば病気になるのは必然だが、そのため国の費用が一ヵ年一千円はいる。命令だから仕方なくやっているが、何をやっているのかわからないよ、と。

四月二十五日(火)

 さいきんキリスト教主義学校にまつわる悲劇が多い。同志社大学の湯浅(八郎)総長の辞職は勅語の読みちがいといったことであり、立教大学の木村校長も勅語を読むとき、壇の中段でしたとか、なんとかいったことであった。先ごろの青山学院の笹森院長の事件も、愛国心に結びつけたものであった。それから立教大学の図書館長はカーネギー財団と何らかの関係があったが、官憲のひどい迫害があって自殺したそうだ。

四月二十六日(水)

 二六会の主催者小林一三氏來らず。同人だけでやる。馬場恒吾氏、暫らく見ぬ間に老いたり。今夜の会は米と炭をもって行き、すっぽん料理を食ったのだ。近ごろはどこに行っても飯を出すところなし。

四月二十七日(木)

 ハルが四月九日に演説したものの中で、「日本が盜んだ領土を取戻し、ふたたび隣国を攻めぬようにすること、支那の領土を支那に返し、朝鮮に独立を与える」といっている。またチャーチルが三月二十六日にやった演説では、「下等な奇襲によって、米国の隠れた力を発揮させた日本の指導階級は、なんというバカものだろう」といい、さらに、「戰爭は予定より一年早く終結する」と見通し、戰後の住宅問題を約束している。彼は戰いを勝ちとみて、すでに戰後問題にのり出したのだ。

四月二十八日(金)

 鈴木文史朗氏の話では、大阪の富田屋とかいう最高級の料理屋に「海軍クラブ」という看板をかかげたそうだ。芸者などもそのまま利用するのだろう。海軍は人気があるのに、こうしたことをやるのは不利だと、土地の識者が言っているよし。石橋湛山君の話――栃木県の高級料理屋が中島飛行機に買收され、芸者がそこで働いている。
 ある人いわく、ちょうど帝政ロシアが崩れ落ちる以前が、こうしたモラルだったと。
 ニューギニアのホランデアー両面に敵が上陸したよし。敵の放送では、日本軍は全部逃げ、捕虜二十何名とか。
 兵隊の逃げたのは新しい指令によるか、それとも現地の自主的処置によるか。僕はかつて玉碎主義を最初に反省し、これを変更するものは軍人だといった。彼ら自身が最大の被害者だからだ。今回のような事態は、こんごも必ず現われ、そこから少くもこの点の封建思想は崩壞するだろう。

四月三十日(日)

 日本がこの興亡の大戰爭を始めるのに、幾人がこれを知り、指導し、考え、交渉に当ったろう。恐らく数十人を出まい。祕密主義、官僚主義、指導者原理というものが、いかに危險であるかが、これでもわかる。
 來るべき組織においては、言論の自由は絶対に確保しなければならぬ。議員選挙干渉の排除も法律で明定しなければならない。官吏はその責任を、天皇でなく民衆に負うのでなければ、行政の改善は望まれない。
 今日も畠をなす。葱の植えかえである。

五月一日(月)

 東洋経済評議会に行く。石橋君の話――徴用者がむやみに多すぎ、どの工場も人間が遊んでいる。ここ半年ぐらい徴用をいっさい打ち切れと言ったら、大藏省の役人も賛成したという。
 晩に学術協会理事会あり。この会はわが国最高の学者を網羅している会だ。しかるに誰に聞いても、学問なんてものは実につまらなく見えるという。今夜の集会者は、桑木嚴翼、牧野英一、高橋誠一郎、長谷川如是閑、正宗白鳥、僕などである。昔から戰爭は文化を重んずるに至らしめなかったのは事実だが、しかしナポレオンでもカイゼルでも、これに十分な敬意を払ったことも事実だ。日本の指導者は学問などというものの価値を、まったく解しない。無学の指導者と、局部しか見ない官僚とのコンビから何が生れる!
 その会での話――練馬あたりで馬鈴薯を植えた。タネイモがどんどん盜まれる。また、ある百姓のところに自転車に乘った二人の青年が來て、知人が病気だからぜひ馬鈴薯をわけてくれという。七、八貫だすと、もっとくれというので、地下室に梯子をかけて取りに行くと、青年たちは梯子を引上げて逃げてしまったそうだ。
 欧州の第二戰線――大陸上陸が切迫したように伝えられ、欧州からのニュースはそれで一杯だ。

五月二日(火)

 畠をやる。馬鈴薯に追肥をやって中耕す。「土地」というものが、こう誘惑するとは思わなかった。將來、三、四町歩をもって、晴耕雨読できたらばと思う――それまで生命あらば。
 近ごろは生命の限度を考える。「早く仕事をしてしまわねば」といった焦慮がある。

五月五日(金)

 学生――学徒といっている――は、労働に駆り出されている。大学生が土木工事の土を運んだり、物を積み卸ししているのである。閣議でその要綱が決定したが、学科は一週間六時間以上、毎日の勤労は十時間が原則といった具合だ。
 外務省の人事課長が話していたが、高文試驗の成績が非常に惡いという。学問とか、將來というものを考えないのか。

五月七日(日)

 軽井沢にきた。汽車は空いていた。何年ぶりのゆるやかさであろう。そう言えば最近は東海道を走っている汽車もガラ空きだ。そして鉄道の役人はこれを誇っている。これが役人的考え方の代表的なもので、それだけいわゆる戰力増強が阻害されているのに気がつかないのである。

五月十日(水)

 ラジオも新聞も、近ごろの人心が不親切で、不愉快であることを説く。西洋的なものをすべて放逐し、ローマ字を漢字に変え、惡の根源は全部なくしてしまったはずではないか。それだのにどうして好ましくないことが、国内にあるのだろう。

五月十一日(木)

 世界新秩序のことについて研究するため、まず中央公論社の「東亞共栄圈の諸問題」を読む。蝋山、東畑(精一)両君のを読み、また細川嘉六のものを読む。
 蝋山君は驚くべき頭脳であるに拘らず、筆力なし。書いたものは平板である。細川君のものは面白し。が、問題を提起しているだけだ。
 細川という人はマルクス主義者だというので、ずうっと横浜の留置場に入れて置かれているとのことだ。中央公論社の何の関係もなさそうな連中が、やはり引張られて半歳になる。そして、取調べに当るものは若い巡査だ。
 日本人は今度の戰爭で教えられるところがあるかどうか。恐らく臥薪嘗胆といったことで、復讐心を養成するくらいなもので、ほんとに賢くはならないであろう。

五月十四日(日)

 鮎沢つゆ子さんの話に、近ごろ生れる子に畸形兒が多いという。家内いわく、植原さんのお嫁さんの家は小兒科の大家だが、その人の話に乳を吸わない赤ン坊が多い。乳を吸う力がないのである。ドイツにおいて第一次戰爭に同じことがあった。日本でこれだけ栄養不足なのに、そうしたことがないのが、むしろ不思議である。

五月十五日(月)

 三笠宮樣にお輿入れがあった。お道具が沢山運ばれた。その運転手が、「俺たちは飯も食えないのに」と不平をいっていたという話を聞いた。

五月十七日(水)

 外務省に行く。高柳君の話では、僕が祕密の消息話しを外部に洩らすというので、憲兵隊のブラック・リストに載っているという。僕は機密のことなんか一切しらぬのだが、講演会などで英字紙にあるようなことを話すのを、物知らぬ連中が「祕密」と考えて、そう報告するのだろう。しかし、今後はいっそう注意するつもりだ。
 なんでも外務省では嘱託が二人さいきん二ヵ月の間に、憲兵隊に引張られたという。一人はその家庭で女学校に行っている子供に話したのを、その子供が海軍軍人の娘に話し、その娘が家庭で話したのを、憲兵隊に通告したのだと言われる。太平洋方面の戰況についてである。
 三井君の話――同君が学校に使っている別莊を、軍部が無償で貸せと盛んに言ってくるよし。すでに半分はとられたが、後の半分もいろいろの部局が手をかえ品をかえて言ってくる。それも堂々と正面からやって來ないで、謀略でケチをつけ、ただ取りしようとしている。三井君の兄――三井本家の主人――の家も、しばしば供出しろと言ってきている。軍需大臣の官邸にするとか、迎賓館にするとか、趣向を凝して供出を迫ってきているが、いまのところ頑張り通していると。
 経済倶樂部で脇村義太郎氏の話あり。石油問題につき、この人ほど権威ある研究者はない。世界石油産額の九五%まで反枢軸国側にあることを説明す。近代戰と石油の関係を知る人にとって、これほどハッキリこの戰爭の結果を予想させるものはなかろう。

五月二十日(土)

 午後、経済倶樂部中央会の評議員会に赴く。この会は東洋経済の別働隊だが、かつて評議員の名を情報局に提出した。当時はこうしたものの人選は、大小となく情報局――つまり軍部に相談したものである。しかるに、そのころ絶対権を握っていた鈴木(庫三)という少佐が、僕の名を除いたそうだ。この鈴木という少佐はその頃の日本思想界の独裁者で、出版関係は何ひとつとしてこの人の許諾によらぬものなく、講談社あたりでは同人の書を出版して、多額の印税を贈ったと言われる。
 行政と政治が若い連中に渡っては、大東亞戰爭は必然であった。下克上の風潮が、国家を冒險に赴かしめたのである。政治と外交が中央部を通れば、よほどのわからずやでも愼重である。

五月二十一日(日)

「米鬼」に対して盛んに宣伝をしているが、どうも対敵憎惡心が出ないようである。もっともこれは知識階級の間のみなのかも知れず。
 岡部文相が自由学園に行って、「日本人は善意の惡政をやり、英国人は惡意の善政をやる」と言ったそうだ。支那やフィリピンの治安がはなはだ惡いというのである。そして、干渉が過ぎるのを認めたという。文相の皇道精神も善意の惡政というのであろう。

五月二十二日(月)

 瀬川君に招かれて、上野公園内の明月という料亭に赴く。明月園で人を待つ間、街に立つ。前に大黒天をまつる神社あり。そこを通る学生が、一々きわめて丁寧に頭を下ぐ。しかも決して形式主義にならず、よくこれだけ教育が届いたものだと感心する。だが、これらの若者たちは、いったい何に頭を下げるのだろう。

五月二十七日(土)

 青木得三氏(庶民金庫理事長)の話――渡辺銕藏博士が懲役一年(執行猶予三年)の判決をうけたが、罪状は二つあり。ひとつは「大本営発表にも誤りあり。相手の損失を誇大に言い、当方のそれを余りに発表せず」と言ったこと、第二には「ドイツが敗ける」と言ったことである。前者は海軍刑法の何條かに該当し、後者は昨年か発表の言論法だかに牴触するとかいう。弁護士岩田宙造博士は上告しても勝てぬといっているそうだ。
 今朝、九州方面の経済倶樂部で講演のため東京を発す。

六月十二日(月)

 旅行より帰りて――この日記帳は持って行かなかった。荷物になることもその一つの理由であるが、それよりもどこで舌禍にかかり、これを取調べられるかも知れないからだ。六月十一日午後八時、東京に帰り、旅行の印象を書く。
 長崎では芸者はなくなったが、酌婦と女郎のあいの子のようなものが沢山いる。そういうものがいないと、「産業戰士」が落ちつかぬというのである。昔の丸山町の一帶がそれだ。支那人の家、個人の立派な邸宅、それらがみんな産業戰士の寄宿舍となっている。
 佐世保は海軍の天下だ。料理屋でも税金を払わない。税務署がグズグズいうと「海軍を見殺しにする気か」と逆ねじを食わせるのだそうだ。そこでの話だが、海軍で新兵をぶんなぐることが多い。ことに学徒に対するものが極端で、こん棒でなぐって腰骨を折ったものも少くないよし。
 極端な祕密主義の世の中だ。佐世保では人口数も「祕」となっている。そういえば、どこにも日本地図も九州地図もない、あるものはビルマや蘭領の地図ばかりだ。
 汽車の二等の椅子がすり切れて、臟物が現われている。日本も物資の面では最後的段階にきたことを思わしめる。また、旅館などで便所の鍵や取手がない。考えられる金属製のものは、すべて供出したのである。地方人は正直であるから、後にほとんど何も残らない。
 鹿兒島は西郷の崇拜者に満ち、その写眞でいっぱいだ。大久保はダメである。経済会の理事いわく「今日の会は知識階級が多いから、大久保をほめても差支えありませんよ」と。もって一般を察すべし。
 英雄は郷土と相容れずが正しくば、大西郷は英雄ならず。
「中央のやりかたは、あれでいいんですか」と宮崎でマジメに聞かれた。東條およびその政府は、地方の指導階級から見限られている。中央があまりに神経質だというのである。

六月十四日(水)

 外務省に行くと、高柳君よりお礼として一千円与えらる。重光外相から機密費として受取ったのだと。
 国際関係研究会に赴く。高橋亀吉君の講演あり。大東亞共栄圈の構想であるが、矛盾にみちている。こうした問題は、やはり彼はダメである。

六月十六日(金)

 朝のラジオで米機二十機が北九州方面を襲ったことを知った。同時にサイパン島に敵が上陸を企図したことも放送された。

六月十七日(土)

 空襲が北九州というだけで、どこに來たかは全く不明。しかし、八幡の被害が少かったことだけは事実らしい。この祕密主義では、いざというとき種々のデマが乱れ飛ぶだろう。
 新聞は相変らず頭山満翁談話だ。

六月二十日(火)

 山本清君(海軍中佐・貴議)の話――新聞に海軍機増産のことをかいて陸軍に徴兵された毎日の某君は、山本君とは親友である。彼は三ヵ月丸亀にいたが、三ヵ月の終りに連隊で、「これで君の○○事件は解決した」といって、退営を許されたそうだ。同君は林毅陸の甥に当るとのこと。
 日銀理事荒川(昌二)氏いわく、「三年ばかり日本を留守にして驚いたことは、日本の指導者たちが他の人のいうことをきかない心的状態になっていることだ。たまによく耳を傾ける人があれば、それは全く勢力圈から退いている人である。私も役人ではあったが、これではダメだと考えた」と。これは経済倶樂部中央会での話である。新聞が信用できなくなったので、こうした会は非常に人気がある。
 僕が憲兵隊に引張られたという流言は、すでに何十回も出ている。島中君が電話で問い合わせてきたこともあった。きよう[#「きよう」はママ]荒川氏は、「そう聞きましたが、そうではなかったのですか」といった。
 事実、僕はまだそういう意味では、一回も呼ばれたことはない。石橋君いわく、「僕や君がやられぬのは貧乏だからだよ」と。肩書きのないことが、怪我のない理由であるかも知れない。

六月二十二日(木)

 何か事件があると、「日曜返還」「休日取消し」といったことをやる。彼らは生理上のことを考えないのである。北九州空襲後、ことにこの傾向つよし。
 徴兵、徴用、無限につづく。
 総領事千葉皓君(石橋湛山女婿)、二等兵で入隊。早口のため「上等兵殿」という「ドノ」が明瞭でないので、だいぶ虐められたよし。恐らく殴られたのであろう。総領事が無知な上等兵になぐられるのだ。

六月二十三日(金)

 英国のリットルトン(英国生産相)が、日米の衝突はアメリカが日本を圧迫した結果だといった。ことの当否は別として、そんなことを自由にいえる空気が羨しい。

六月二十四日(土)

 サイパン附近の海戰では、日本は主力艦を繰り出したが、一戰の後逃げ出したと米国の放送はいっているよし。いわゆる「物量」の相違だが、日本では物量ということを「物質的」と解して、バカにする言葉に使っている。
 樺太、北海道を旅行したときもそうだったが、こんど九州を旅行したときも、「日本は戰爭で勝つだろうか」という質問を発したものは、一人もいなかった。第一にはそうしたことを考えるだけの前途観をもたぬことがその理由だが、第二にはそんな質問をすれば大変なことになる可能性があるからだ。質問だけでも拘引されるだろう。
 吉田茂(前大使)が大磯あたりで話したものが、録音されて憲兵隊か警察にとってあるとか。誰かと外交問題について話したのを、部屋に機械を据えつけて録音されたのである――これは島中君の話。

六月二十五日(日)

 隣家の天明郁夫という四十三歳の人応召。農会にて調査部長、企画部長として極めて有能な人である。ここにも相手選ばず徴集する方針を見る。隣家だから朝送る。隣組のもの何十名かが送る。けだし、恒例であるが精力消費の一例だ。昨夜も八幡樣で壯行会をやった。

六月二十八日(水)

 尾崎行雄、大審院で無罪になる。例の不敬罪に対する判決であるが、三宅(正太郎)裁判長の名文が光る。
 サイパン島に敵の大勢力上陸。上下に悲観の色ようやく現わる。鶴見君もサイパンへの敵進攻で「愕然として驚いた」という。彼は戰爭樂観者で、かつて軽井沢で僕の悲観論に対し「將來に見ましょう」と別れたのだ。
 昨夜、国際関係研究会で、「戰後の日本の外交政策」を研究するはずであった。しかるに、この信ずべき人々の間でも、「日本がもし敗れたならば」という前提の下には、何人も話さない。三人以上いるところで話したことは、必ず憲兵隊に洩れるそうだ。重臣と閣僚の間でも、眞実を話さない。日本には正直に政治を語る機会は、全くないのである。これが戰爭以前からの日本の特徴だ。

六月二十九日(木)

 東條内閣が危機に瀕しているよし。連合艦隊の豊田(副武)は、海軍大臣が軍令部長を兼ねていてはやれないと言っている。そんなことで横槍はまず海軍から入ってきた。それに安藤内務大臣が内閣改造を宣伝しているので、警察のほうも取締る方法がないと言っている。東條は依然としてヒステリックで、先ごろも閣議で内田農相が、食糧増産につき玄米よりも白米が小糠の利用その他で有利だと言うと、「そんなこと今ごろ言っているのか」と眞赤になって怒鳴りつけた。内田も「ダメだよ」といっているとか。
 しかし、東條はやめるつもりは全くないらしい。だが、情勢がこうなっては果してやって行けるかどうかである。

六月三十日(金)

 サイパンは放棄するに決したという。ただ問題はそれをどういう形式で新聞に発表するかである。情報局の中には、「いままでのように一々指定せずに、自由に書かせたらどうか」という意見もあったという。現在では、一々記事の段数を指定する。たとえばローマ陷落の場合、三段にしようか四段にしようかと評議して、結局二段にきめたとか。新聞が中央で統制されたこと現時のごときはない。
 正宗白鳥氏きたる。彼の話――
 先ごろ海軍報道部長に招かれたが、その中に長谷川如是閑、馬場恒吾もいた。かなりアケスケにものを言ったとのことだが、栗原部長いわく、「これは憲兵隊に報告しませんよ」と。
 また、いわく「文学報国会などでも、四角張ったことばかり言う。文学者という奴は愚劣だ」と。日本に関する限り、まさにその通りだ。

七月一日(土)

 島中君が南胃腸病院に入院中である。見舞う。いよいよ中央公論をやめるよし。中央公論に対する圧迫、言語に絶するものありとのことだ。
 久しぶりで国民学術協会理事会に出席す。席上、牧野英一氏の話によると、尾崎行雄に対する裁判は法律の正当なる解釈である。尾崎の言が不謹愼ではあるが、彼の忠誠については疑わない。出版法だと客観的影響その他が問題になるが、不敬罪は然らず、と。
 また、長谷川如是閑いわく、「この間も富塚清氏(東大工学部教授)の話をきいたが、日本の飛行機の性能の劣惡さはお話にならぬ。戰爭開始当時の日本の武器はまるでなっていなかったが、それを劣っているというような学者はどんどん追い出してしまった。そして、役人の言うとおりのことを口眞似するものを重用するのである。これでは知識導入の方法があるわけでない。明治時代は当局者がワイワイ連中を抑えた。今は反対だ」と。
 国防上の意見が二つに分れている。一つはサイパン、比島が生命線だと考えているもの。他はそこを取られても、支那大陸を経由して、必要な物資を南洋から入れ得ると考えるもの。前者が海軍で、後者が陸軍だ。そこへ御用学者があって「支那には苦力が沢山いるから、肩から肩へで日本に運び得る」と献策している――これは脇村義太郎氏の話だ。
 陸軍は盛んに衡陽攻撃を大書し、例により「至妙な作戰」「有史以來の壯絶」といつた[#「いつた」はママ]最大形容語をならべたてている。これは海軍に対する当てつけらしい。

七月二日(日)

 有樂町の駅の前の家屋が取り去られ、それを大学生の勤労隊がとりかたづけている。学生は気の毒だ。鮎沢君の長男は、浅草で家のとりこわしに働き、身体一面ノミに食われたという。

七月三日(月)

 朝早く軽井沢に來る。偶然、高崎から蝋山君の乘り込むに逢う。蝋山君から島中君の中央公論社長辞職問題をきく。
一、蝋山君に代行社長になってくれと交渉があったが辞退した。
二、神奈川の特高課長が島中君の訊問が終ったとき、「結果はいずれにしても、社長はやめてもらいたい」と申し込んだ。その後、一週間に一回くらいずつ呼出す。病気だと言っても、「病気だって構うもんか」といった調子。もし、呼出しに応じなければ檢挙するといった模樣である。
三、島中君が南病院に入院したときに、夫人が祕書の藤田君を伴って、その旨を神奈川県警察へ釈明に行った。
四、島中君は、杉森孝次郎(早大教授)、大熊信行(評論家)、蝋山政道、馬場恒吾の諸君を病院に招いて、その前日かに警察に社長をやめたことを申出たことを話して、善後策を相談したとのことである。
五、これは政府権力を利用して、三十台の青年官吏を中心に、中央公論乘取り策をやっているのだ。はじめ島中君は自分がやめて、代理社長をあげるつもりであったが、それでは「政府」が承知しない。官選社長を出し、彼ら自ら言論機関をやりたいのである。現に「改造」の山本実彦が「改造」廃刊届を出したが、政府はこれを認めないといっているとのことだ。
六、彼らがこうした出版界に干渉することになったのは、内務官吏が飮む機会をつくる目的にあるらしい。大藏省、農商省などはそうした外郭団体を沢山もっている。が、内務省にはそれがない。そこで出版界に目をつけたのだ。彼らは直接に干渉し得るところに、利権をもって割込むのである。通信院が放送局や電気事業界に、外務省がニッポン・タイムスや外政協会というようにである。彼らはこの目的のために問題を起しておいては人を変え、自分の都合のよいような人物をあげて飮む機会を作ったり、友人に恩を売るのだ。かくしてその外郭団体はますます拡張される。目的がこれだから、彼らは統制の必要のないところでも、無理に統制をやる。
七、内務省の特高あたりが、そういうことをやり始めると、現代においてこれを是正する方法がない。中央公論のごときは、その信用から言っても立派なものであり、交友範囲も広く高い。しかるにそれをもってしても、下級刑事の獸のごとき訊問、呼出し、圧迫をどうすることもできない。勝田君という人のよい祕書をもってしても、「人間ではありません、獸です」と言っていた。ここに完全に堕落し切った末世日本がある。

七月四日(火)

 鮎沢君のところに招かる。三井、蝋山および僕が客である。三井君の話に、中学校、女学校の三年以上は、ことごとく軍需工場に出て働かなくてはならぬ。学徒動員だ。学習は一週間六時間つまり一日一時間である。いわんや大学生は全然学習の時間がないのである。国防国家という軍人の理想がここに実現したわけだ。が、それにしても彼らのいうことを唯々諾々ときく岡部文相は、何という腰のぬけた男だろう。

七月八日(土)

 きょうもまた百姓する。
 蝋山君の話では、東條は近衞を檢挙しようと、いろいろやってみたそうだ。つまり東條の対戰態度を知っているのは近衞であるから、彼を圧迫し去ろうとする意思であったというのである。そういうことがあり得るかも知れず。

七月九日(日)

 この日記は軽井沢に置いて帰る。実はいつこれを見られるかも知れぬ懸念があって、日記帳にすら遠慮とカモフラージュせねばならなかった。
 先ごろ書いた正宗白鳥氏の話――先般、海軍報道部長の招待で、馬場恒吾氏らが出席したときの課題は、「如何にして国民の戰意を高揚せしむるか」であった。海軍が自由主義者を招くことが珍しいことの一つ。それから当局としては国民の戰意が高揚していないと考えていることが第二。

七月十日(月)

 軽井沢から朝の列車で帰京。蝋山君と島中君を病床に訪う。ちょうど情報局より言渡しありたるところなりとて、中央公論社をいよいよ解散することになった旨を語る。いままで共産党事件などで社員を引張ったのは、中央公論うちこわしを計画しての一貫した策動であると島中君はいう。従來、島中君は上層部に接し極めて理解ある態度を示され、この人々の判断に信頼してきたのであるが、若い警察部方面の策動は、そうした最高方面を皆目無力ならしめたのである。中央公論問題は、神奈川警察でとった調書(ウソ八百で固められたものだと島中君はいう)とともに、閣議の問題となった。岸だけが「解散命令というのは不穏だから」といい、重光がこれに和した結果、「命令」ではなしに「自発的」ということになったのだ。紙も割当その他は沒收された。改造社の山本も呼び出されて同樣である。
 東洋経済の佐藤編集長も警視庁に呼ばれて、警告を与えられた。
 東京鉄工所に対し、軍需会社法を適用し、日産に依託したのは興味がある。これについて軍需省航空兵器総局長官大西(滝治郎)海軍中將は、国亡びて何の商法ぞと明言した。いわく、
「国亡んで何の会社の株か、何の商法かである。弁護士に頼んで商法や軍需会社法の研究をやっているときではない。ここにわが国最大の悩みと隘路を発見する。わが国各層の者は、このさいサイパン同胞の頭の中に、南洋開発や南洋拓殖の株のことが往來したかどうかということを、深く考えてみる必要がある。いま直ちに頭の切り替えができれば、軍需生産はたちまち二倍、三倍となり、また神兵神將も陸続と出てくること疑いない」と。
 国が亡びないために商法も憲法もあるのではないか。また、ここでも責任を銃後にもってきている。
 ある人の実話――農商省の若い役人から、靴だの鞄などを貰った。そして、こちらは砂糖をもって行った。その役人は証明書を渡し、「香港にて訓練用として使用」と。それで帳面は少しも不思議はないのである。役人、警官、軍人の腐敗堕落、言語に絶す。

七月十一日(火)

 中央公論、改造の廃棄が発表された。情報局橋本(政実)第二部長の談によれば、両社の営業方針中に、戰時下国民の思想指導上許し得ない事実のあることが明らかになったので、自発的廃棄を慫慂したという。これで「現代」「公論」の右翼一本槍の雜誌だけになってしまった。

七月十二日(水)

 中央公論の藤村君の話――羽仁説子さんが藤田(雄藏)海軍中佐の伝記を書いた。飛行士として非常に優秀な成績をのこした人である。それが「子供の科学」で評判になったので、手を入れて一冊にまとめて届出た。同社では推薦図書にでもなると考えていたのである。ところが「出版不承認」と却下された。印刷がすべて出來ていたのに。聞いて見ると、中佐が熱心なクリスチャンだと書いてある個所が不許可になったのだという。藤田中佐が聞いたら、こんな愚劣な人々のために生命を捨てたのは惜しかったと言っているかも知れぬ。クリスチャンでも、国のために立派に生命を捨てるのだ――そう考えてキリスト教に対する認識を改めずに、反対にイデオロギーで事実を抹殺しようというのだ。
 大本営は「サイパン北端のマツビ山附近で白刄を揮って凄絶なる肉迫攻撃を敢行中」なる旨を発表。まだサイパンが敵手に落ちたことを発表していない。

七月十三日(木)

 芳賀という高等学校の教授が、言論報国会で正宗白鳥氏に、「この戰爭は敗けますよ」と言った。その理由は、現在の当局者は衆智をあつめることが嫌いである。さきごろ海軍省に行ったら「おれたちの知惠にあまった。君ら各々が考えてくれたまえ」という。そこで陸軍省に行ったとき、自分の意見を言ったら「君らが何を知っている。生意気だ」と怒鳴りつけられたという。「こんな連中では仕事ができません」と。
 食用油の配給あり、一合二十三銭。これをヤミで買えば七円なるよし。

七月十四日(金)

 鳩山一郎君が刑事に護られて召喚されたという説あり。この前にもそういう噂を聞く。この次は蝋山君の番だと、だれかが言ったそうだ。
 隣組にウィスキーと葡萄酒の配給があった。それを公平に分配したので、わが家でも少し貰う、不二屋主人の話では、アスパラガスの配給をうけた職工が、味噌汁の中に入れたら溶けてしまったし、そのまま食べても味がない。「あんな高くてつまらないものはありませんよ」と言っていたという。

七月十五日(土)

 昨日、三井より來書あり、二千五百円ずつ日本外交史研究所のためにくれると。三菱も同額と決定。とにかく五千円の收入あることになる。小汀君の話では、三井では二千円といったのを、三菱では加藤武男氏の口入れで二千五百円に決ったと言ったら、それでは三井もそうしようということになったのだという。來年度もなお財閥が存在しうる事態だろうか。
 中央公論、改造をいじめて廃刊させたのは、やはり軍部であった。情報局の第一部は海軍、第二部は陸軍、第三部は外務省である。このうち中央公論事件を主になってやったのは、第二部である。ここから命令がでるので神奈川警察部などが、無茶に強いのである。軍部少壯派と官僚の末輩が天下を左右している一例。

七月十六日(日)

 東條の参謀は津雲(国利・代議士)だとのこと。この男は最も下等な陰謀政治家だ。これに官僚としては内務次官の唐沢(俊樹)が一枚加わっている。このほうはいい官吏だと思われるが。
 戰時警備法が一昨日とかから発布されたそうだ。新聞には書かせず、ただ官報にだけ発表するのが近頃の手口である。
 近衞の家の前を憲兵隊が借り受け、これに近衞家の電話線を引込み、盜聽しているそうだ。

七月十七日(月)

 どの新聞も、国民総蹶起せよといった意味のことを、特大ミダシで書いている。が、これが知識のないことを暴露している。たとえば読売の「国内戰場総突破の秋――奔騰す一億の戰意――鉄桶防衞と徹底持久の確立へ」という記事の中で、「政治経済も内線の利」というのがある。政治経済も内線の利とは、いったいどういうことなのだ。
 東洋経済が七月一日号に「サイパン島は全力固守に値するものと認めて差支えない」と書いたら、警視庁で「注意」を言ってきた。かりにサイパンをとられない前に「サイパンは全力固守に値せず」と書けば、発行禁止ものであろう。言論は当局者の御都合主義である。
 今日、われわれには必ずしもニュースではないところのサイパン失陷の発表あり。東條首相の談に、陛下に対し奉り恐懼にたえず、という言句あり。東條がこうした文字を使ったのは最初のことである。いままではアッツのときさえ「戰史に稀なる絶妙の転進」といった意味のことを言ったのである。
 太平洋諸島に何十万、支那に百万近くの軍隊を置く。この人々の運命を考えて、夜眠れぬときが、何度となくあった。支那におけるわが軍は後方を断たれて帰国する能わず、またその上に武器彈藥も尽くる日あらん。われわれは大戰勃発のとき、すでに在支部隊に重大関心を有したのであった。
 日本における革命は、もはや必至だ。これに先行する暴動が、われらの胆を寒くする。かりに革命があっても、それは多分に破壞的、反動的なもので、これによってこの国がよくなる見込みはない。

七月二十日(木)

 東條内閣総辞職す。さるにても、これほど乱暴、無知をつくした内閣は日本になかった。夜七時のラジオで大命が小磯(国昭)と米内(光政)に下ったことを知った。陸海の感情衝突は、もはや国民の常識だ。この協力を要請する最後の試みが、ここでなされたのである。陸海軍一方の代表者では、他方がきかぬことを示すものだ。

七月二十一日(金)

 東條は百方居据りを策したが、とうとう意を得なかった。そのことは挂冠の理由に明らかである。
 情報局発表――大戰勃発以來、政府は大本営と緊密一体の下に、戰爭遂行上あらゆる努力を重ね來りしが、現下非常の決戰期に際し、愈々人心を新にし、強力に戰爭完遂に邁進するの要急なるを痛感し、広く人材を求めて内閣を強化せんことを期し、百方手段を尽し之が実現に努めたるも、遂にその目的を達成するに至らず、茲に於て政府は愈々人心を一新し、挙国戰爭完遂に邁進する為には、内閣の総辞職を行うを適当なりと認め、東條内閣総理大臣は閣員の辞表を取纒め、十八日十一時四十分拜謁を仰付けられたる上、之を闕下に捧呈せり。
 決戰下、事茲に至れるは、上宸襟を悩まし奉り、恐懼に堪えず、また前線銃後に於て必勝に邁進を続けつつある一億国民諸君に対し、政府の微力を謝すると共に、戰爭完遂の為機を失せず、更に強力なる内閣の出現を期待してやまず。
 挂冠理由の最初の原稿には、閣員に裏切り者あり、重臣が協力せずといった意味の文句があったそうだ。軍部は東條閥で固まっているので、こんどの辞職には反対でいろいろの行き悩みがあったという。鈴木文史朗君の第一の報告(午後七時)には、阿部信行が陸軍大臣となるとあり、鶴見祐輔君の第二の報告(八時半ごろ)には、後宮大將が就任確定したとあった。情報局総裁に緒方竹虎君が擬せられたが辞したと。
 加藤武雄、近藤浩一路の両君いわく、「東條はやめただけでよいのかしら、他人の子弟をたくさん殺して、あれで責任が解除されるのか知ら」と。

七月二十二日(土)

 国際関係研究会に赴き、帰りの頃は内閣の顏触れ判る。新味は緒方君が国務大臣となり、情報局総裁を兼務したことだ。これは兎に角一つの進歩である。
 源川栄二君の話――先頃、滋賀県の親戚で、ひとり息子を兵隊として失った家を見舞いに行った。靖国神社に祀られて光栄でしょう、と言ったら、そこの主婦がムキになって、「大切な子供を失ったものが靖国神社に行くと、乞食のように白砂利の上に坐らせられ、いつまでも頭を下げさせられる。そんなバカなところへ行くものですか」と、ひどい見幕だった。
 同君の話――滋賀県の草津方面では、警察署長が農村の区長を集め、六月二十日までに田植せよ、そうしなければひっくくるぞと命令した。「他県ではみんなやっていることではないか」というのだ。こうした警察の態度は今の代表的なものである。

七月二十四日(月)

 小磯(国昭)は二・二六事件の黒幕であり、有名な南進論者だ。昭和十五年八月、近衞内閣に蘭印特派の交渉をうけ、小磯も一挙に南方問題を解決せんとしたが、時の政府の容るるところとならず、小林商相が代って特派された。当時、松岡外相は、「鬼の面をオカメの面にかえただけだ」と説明している。小磯というのはこうした男である。ただ問題はその後すこし利口になったかどうか。恐らくそうではあるまい。
 新聞の軍へのオベンチャラ世辞の代表的なもの――
「やがてこれが終ると、杉山元帥ともども新聞社のカメラに收ったが、つと立上った杉山元帥は『身体を大事にして呉れ給え』と犒う。『いや、大丈夫』東條さんは破顏一笑『さあ行こう』と赤松大佐をうながして大臣室を辞した。いたわる杉山元帥、元気な東條さん、そこに無敵陸軍の崇高な精神の流れが、ひしと感ぜられる」
 挨拶をすることが「崇高な精神」なのである。
 東條は対支政策において、支那共産党(延安政府)と提携して、重慶に対抗せんとの策を言い出した由。蝋山君の話である。いかに外交を謀略に取扱っているかがわかる。

七月二十六日(水)

 ヒトラーは健在だという。しかし、ゲッペルスを全面的戰爭動員総監に任命して緊急令には、「ヒトラー総統は、国防協議議長ゲーリングの国家元帥の指示に基き‥‥」とある。ドイツでは従來ヒトラーが絶対無二の存在だった。彼が「指示」されることは、全く初めてだ。何か内情がある。前後の事情から革命はよほど進んでいるらしい。陰謀の主は軍部のベック元帥であるともいうし、彼は「他の命令に服するな」という布告も出している。ナチスの命運がいよいよ尽きるときがきた。
 東條が改造を企てたとき、岸が辞表を出さなかった。憲兵隊は岸をひっくくることを考慮したそうだ。現に、その運転手は檢束された。緒方などが、あることを強く主張すれば「引っぱられる」恐れあり、それがわが国の現状である。

七月二十七日(木)

 鈴木文史朗君いわく、情報局から新聞へくる指令をみると、極端な侮辱を感ずる。まるで子供に対する指図のごときものである。しかもこれが新聞社にもはいれないような若い下級官吏によって、決定指令されるのである。政治、外交の見識が低下するのは、そうした下級官吏によって事実上の国政が左右されているからだと。
 オリエンタル・エコノミストの編集会議。参謀本部で五部買上げ、さる筋に送ることにしたそうだ。官製ならざる言論は、外交にも信用があるということを、結果において知りながら、総合的に考えることが出來ないのだ。それにしても、この言論圧迫時代に孤城を守りとおしてきたのは、石橋君の東洋経済だけである。たしかに將來、特筆に値する。

七月二十九日(土)

 無裝荷ケーブル、電波兵器の権威として知られる通信院工務局長・工博・松前重義氏はこのほど一兵士として応召入隊した。こうした例は無数にある。戰力増強の中枢人物を一兵士として召集するのだ。
 世の中に思想ほど恐くないものはない。それはその人の納得なしでは入って來ないから。これに反し暴力ほど恐いものはない。それは自分でどうにもならないから。

七月三十一日(月)

 伊勢詣りをした小磯首相が、新聞記者に感想を語っている。さきごろの就任当時の話も愚劣だったが、今度のものも下士官的感想だ。これではやっぱりダメだ。陰にいるときは「大物」だとか「首相級」だとか言っているが、小磯のようにしゃべらせて見ると、見識がよくわかる。

八月二日(水)

 朝早く上野発、軽井沢に來る。学童疎開などの関係あり、汽車頗る混む。

八月三日(木)

 軽井沢もなかなか暑し。室内二十八度。
 蒙古国の財政が困難である。同国は阿片の産地だから、これを国営にすれば切り拔けることができる。それを大橋忠一(蒙古政府最高顧問)が進言したが、そのため首になった。聞くと、その独占権を有しているのが某という男で、その利益金を東條、星野などにやったという噂あり。北京にある佐野という司法官がそれを調査したが、転勤を命ぜられた。彼は屈せず二十日も命令をきかなかったとか――恐らくは噂ならん。しかし、政府の最高首脳が、そうした噂をたてられること、すでに面白からず。
 緒方情報局総裁は、宮中方面に信用がある。東條内閣を倒すために、かなり運動をした。東久邇宮樣が「俺が出る」と乘り出したのには弱った。この方を断念させるのに骨が折れたとの話である。

八月六日(日)

 新聞は東京で購読していたという切符を出さねば買えず。ここではラジオのみがたよりだ。
 日本兵の頭蓋骨をアメリカの少女が机の上に置いている――そんなことを高田市太郎君(毎日新聞記者)が米国の鬼畜として放送した。近ごろ盛んに対米敵愾心を煽っている。敵愾心が思う通りに出ないのか。それとも内部への注意を外に向けんとするのか。

八月七日(月)

 東京に帰る。一日雨降る。
 頭山満に対する非難、その方面の陣営から聞く。いわく、巨額の金を東條に与えていたとか、その長男秀三は特殊技能者ということで、徴兵をまぬがれているとかいうのである。頭山自身も憂国者顏などできた義理でなく、軍部にもおべんちゃらを言っているというのである。ゴロツキ万歳の世の中だ。笹川良一とかいう国粹同盟の親分は、何千万円の財産家だという。右翼で金のうならぬ男なし。これだから戰爭はやめられない!

八月八日(火)

 小磯首相、ラジオで放送。何を言っているかわからぬ。「天皇に帰一し奉る」というのが結論だが、それは何を意味するものだ。これぐらい判ったようで、わからない文字はない。

八月十日(木)

 近ごろの新聞は盛んに「日本人の頭蓋骨」云々の記事を書き、「米獸」といった表現を使う。「米獸屠殺の部署につけ」といった強い言い方である。戰爭には勝たねばならぬが、外国への反響がどうか。

八月十一日(金)

 午後、軽井沢に赴く。途中、大島博光君という詩人と逢う。先ごろ帰りの汽車で老海軍少佐と同席したが、米軍は結局毒ガスをまいて、日本人全部を抹殺してしまうだろうと、眞面目に話していた由である。そうしたのが現在の宣伝方針である。八日付読売に「日本人皆殺しを狙う米鬼を断乎滅せ!」という十段の記事あり。

八月十二日(土)

 午後、坂本直道君(満鉄参与)を訪問し、ともに鳩山一郎氏を訪う。一度しか逢ったことがなかったが、名のると直ぐ想い出したようだ。
 鳩山は自から將來の時局收拾の衝に当る抱負をもっているようである。また、事実、いままで一切の便乘組に背をむけ來たり、翼政会からは脱退して自由の立場を持してきたので、立場はハッキリしている。重臣――とくに近衞などが目をつけて協力しているようだ。
 鳩山は人なつこい、開放的で、好感がもてる。知的でもある。いつかはこの人の舞台がくるであろう。また、大胆で度胸もある。右翼に対し「戰爭は勝てると思わん」と平気で言っているらしい。植原その他がついている。場合によれば、百人ぐらい集まるだろうという人もあると、自から言っていた。

八月十三日(日)

 朝早く出発、帰京す。

八月十七日(金)

 晩に黒木時太郎氏に招かる。西村伊作氏および鈴木文史朗氏あり。西村はかつて文化学院の経営者。不敬罪と言論取締法にて、八ヵ月の禁錮の宣告をうけた人である。開けっ放しで面白し。しかし、誤解される恐れは十分ある人だ。

八月二十一日(月)

 翼壯会の団長に建川美次中將、副団長に橋本欣五郎大佐と、それから小林順一郎大佐が就任。いずれも二・二六事件や、五・一五事件の本尊であり、戰爭放火者である。この人事だけが小磯が自分でやったものの由で、彼がいかなる人物であるかを知るに足る。

八月二十三日(水)

 朝鮮総督の阿部とても、このごろは小学生程度である。朝鮮人のインテリ帰国頻々。東洋経済の平山君(鮮人)いわく、日本が勝っても負けても、この戰爭は朝鮮にいいと。
 なるほどその通りだ。

八月二十四日(木)

 サイパンの玉碎について、各新聞ともに外国がこれに非常に感心しているように書いている。幕末の武士があの服裝をして海外に赴き、外人が感心したと書いているのと同じ心理だ。
 宇都宮に講演に赴く。汽車切符を買うのは、とても大変で十分の一ぐらいしか買えないが、汽車の中はガラ空きだ。聽衆は七、八十人である。ドイツの危いことを婉曲に話す。パリは一週間くらいの間に落ちるだろうと言った。

八月二十五日(金)

 ルーマニア国、二十三日、ソ連と休戰し、枢軸国より脱す。
 新聞で、早くも小磯内閣がスロモーであるというような攻撃を始めた。軍部および憲兵隊が、小磯内閣攻撃を奬励しているらしい。今朝の朝日には「統制弱化を戒む」という論文あり、東京新聞にもスロモーに対する攻撃あり。新日本同盟という団体に憲兵がきて、少し現内閣の批判講演会をやったらどうかと、水を向けたそうだ。東條一派が軍部を抑えて、そして憲兵を使っているのである。

八月二十八日(月)

 東洋経済の評議員会に赴く。平貞藏君(評論家)、岸本誠二郎君、本日より評議員会に來る。
 軍部は「政府は言論を明朗化すると言っているが、こちらはこちらでやるんだ」と。そこで前東條内閣を攻撃するようなことは、いっさい彈圧するのである。こうした「注意」とか「削除」は、一週間ぐらい経って來る。それは命令の出どころが、情報局や内務省ではなしに、陸軍報道部である証拠だ。
 言論檢閲を情報局、内務省、警視庁、陸海軍報道部と、いずれも独立の権限を有して、競爭でやるのである。

八月二十九日(火)

 外務省で嘱託の辞令でる。提出書類が写眞、戸籍謄本など、とても大変だ。お役所的である。
 議会で外交問題に対し、質問、応答の形式で、日本の條件を発表するのに、やや決定した模樣である。

八月三十日(水)

 いよいよパリ陷落。これは敵側の放送で、二十五日に無條件で明渡したということである。ドイツ側も二十九日に発表。
 各方面に戰勝祈祷が行われる。その知的程度が元寇の乱の当時に大差ないことが判る。

九月一日(金)

 震災記念日、鶴見に詣でる。墓場の鉄柵は全部取去らる。総持寺の銅像もなし、いずれも徴用されたのである。橋には擬宝珠なく、窓には金具なし。戰爭は根こそぎ金属を日本から奪ってしまった。
 欧州戰爭が始って満五年になる。かつて僕は五年が戰爭の峠だと言ったが、ドイツの降伏はもう目の前にある。

九月二日(土)

 日本外交史研究所のために封筒その他を注文す。日本外交史研究所といえば、先日も大倉喜七郎氏に手紙を出し、また祕書をも訪問したが、返事さえせぬ。実際あたって見て、お金というものは、そう簡單に出さぬものであることを知った。大倉男のごときは、もっとこうしたことには同情があると思ったが。
 東條靴店に久し振りにて行く。靴屋は統合してしまったそうで、同店は営業権を失っている。そして、銀座のどこかに統制会社ができた。「これでは絶対に物もふえず、いい品物もできませんよ。誰も責任をもたないのですから」という。

九月三日(日)

 軽井沢に來る。庭前の芝、また延び放題である。別莊管理人の井出君、近ごろ鼻息すこぶる荒し。都市のものが余り煽て上げるからである。

九月四日(月)

 お晝のラジオで、フィンランドがソ連と和平交渉を行い、ドイツ軍に退去を要求し、ドイツがこれを承認したことを放送した。
 さきごろ誰かの話に、大島(浩)大使の報告が一報ごとに悲観的で、警戒を要求してきている由。この男が今ごろ何だと言いたくなる。この先生の報告や行動が、国家をあやまった一原因だ。

九月十日(日)

 支那料理が食えるはずと、正宗白鳥氏を誘ったが、休みである。集め上手の支那人でも、さすがに近ごろはどうにもならないと見ゆ。

九月十二日(火)

 早朝、軽井沢出発。晝、経済倶樂部中央会で、津島(壽一)氏の北支開発に関する話をきく。いろいろ計画することが「戰爭に勝つ」という前提の下に進めている。しかも、指導者階級は何人も「勝てない」ことを知っている。形式主義、精神主義の弊が、ここにも現われている。

九月十六日(土)

 先ごろ太田永福君(富士アイスクリーム専務)と、鈴木文史朗君と、金井清君(太平洋協会参与)とで、元の満州クラブで晝食を共にした。そこで話したことが問題になり、憲兵隊に召喚された。鈴木君は四日間、金井君は二日、太田君は一日留め置かれた。何でもない雜談だ。
 疑問なのは、その附近に何人もいなかったことである。隣室で聞いたか、聽音機でも据えつけてあったかだ。

九月十七日(日)

 サイパンが陷落する前、閣議で青木大東亞相が、「シビリアンは死なせないで、生命を全うさすべきだ。この旨、司令官に政府から訓電するように」と強硬に主張した。東條も殺しても仕方がないということで、打電することになった。ところで、さて打電するとなると、いかなる言葉でもってすべきやが問題になった。説明すればわかるが、あまり説明できぬ、誤解される恐れもある。そこで結局は軍司令官の常識に任せることになった。軍人の常識に任せれば、つまりあのような結果になろう。この話は石渡莊太郎(藏相)が「困ったものです」と、石橋君の説に同じての内輪話である。

九月二十一日(木)

「航空日本」に関して、日本劇場の前に掲げられた大ポスターが非常に不評だ。それは勝ち誇れるがごとき堂々たるルーズベルトの肖像に、「日本人を皆殺しにせよ」などという敵の宣伝文句を書き入れたものである。当局者にいわせると尤もらしい説明をするだろうが、見る者が受ける感じは敵の威力誇示であり、ルーズベルトの人気を立てるための選挙宣伝みたいである。いまに始ったことではないが、当局者は人情の機微を知らず、宣伝の効果はつねに逆行している。

九月二十四日(日)

 朝日新聞がフィンランドを呪う記事を書く。イタリアが降伏したときも、ブルガリア、ルーマニアが屈したときも、日本の新聞は、「裏切り」「背信者」「卑怯者」といった言辞を使い、現にバドリオといえば「裏切り」という意味に通ずる。彼らはこれらの国が戰いつくして、刀折れ矢つきて屈服したことを考えない。「自分たちから離れたのだ」という一方的見解しかないのである。

九月二十八日(木)

 自由学園男子部学生の卒業式に連なる。岡部前文相が祝辞を述べた。
「今度の戰爭の後は、米英も今までのように教えてもくれなければ、あらゆる方面で迫害をうけよう。戰後は大いに科学を準備して緒戰から勝つようにしなければならぬ」
 岡部は例によって盛んに日本的世界観といったようなことを言った。人柄はいいようだが、この先生は戰爭の教訓を少しも掴めていない。自由学園の生徒の純眞さには、本当に涙ぐましい気持ちがした。彼らはこの岡部の話を、吸いとり紙がインキを吸いとるように、脇目もふらずに聞いているのだ。

十月一日(日)

 久しぶりの雨で畠を休む。大宮島、テニアン島の軍民全員戰死の報、今朝の新聞に詳報さる。
 緒方君は、個人としては玉碎主義に反対で、困ったことだと、早稻田の教員連中を集めて話した由。
 この悲報に接し、各新聞は例により特集。毎日は末次信正、読売は鹿子木員信、匝瑳胤次(海軍少將)を出し、いずれも玉碎を礼讃している。

十月三日(火)

 石橋君の主催で、大内兵衞、有沢広巳、脇村義太郎の三君の共産党事件で無罪になったのを祝う晩餐会開かる。かつて文筆社会に華やかに躍った人々である。
 戰後どうなるかを、われらは議論した。私有財産がなくなるだろうかの問題につき、私有財産は存するだろう。ただそれは国家のために非常な制限をうけるだろうというに、大体意見一致した。ナチス的なもの出現せんと。大内兵衞氏はマルキストといわれるにかかわらず、案外にその観方が客観的である。公式的ではない。

十月四日(水)

 さきごろ農業に関する随筆を書いたが、その反響十数通に達す。かつて人が集まると食い物の話をした。いまやその食い物がなくなって、話しは素人農業の問題になってきた。赤松克麿君(元社会民衆党代議士)もやり、松岡駒吉君もやる。長谷川如是閑君も馬鈴薯を植えて、收穫が親いも一つしかなかったそうだ。

十月五日(木)

 雨宮君(中央公論編集長)、伊藤(安二)君をつれてくる。伊藤君は早稻田の教授だが、ぼくの日本外交史研究所を助けてくれるはずだ。いい人のようだ。
 彼は杉森孝次郎氏の弟子である。杉森氏がこんど早稻田をやめたのは、個人的な理由ではなく、中野登美雄氏に反対だからだ。早稻田の総長をきめたとき、増田義一(実業之日本社長)などの名誉理事を動かして、内部工作をやったのが、気に入らなかったからだという。
 郵便局でハガキがないのは、よほど前からである。切手もない。それでハガキと切手を買う行列ができた。ハガキがなくなるという噂がたつと、すぐ行列が生れるのである。
 ドイツの無條件降伏を前提とし、ドイツを三分し米、英、ソで占領する案が、欧州諮問委員会で決定した旨、ストックホルム電は伝う。

十月六日(金)

 頭山満が死んだそうだ。愛国心の名の下に、最も多くの罪惡を行った男だ。同時にまた最もよく日本人の弱点を代表していた男でもあった。

十月十四日(土)

 晩、白柳秀湖氏夫妻きたる。夕飯をだすと、こんなにご馳走があっては交際できぬという。彼は若いとき苦労してきただけに、生活のことを非常に気にする。また「有名」とか「人気」のことも、案外神経質である。
 台湾に十二、十三、十四日と引続いて空襲あり。

十月十五日(月)

 今日は一日家に在り。日英同盟の研究をなす。
 小村壽太郎は宮崎県の出身。好戰的である。仲裁裁判の如きには、絶対に賛成しなかった。これが伊藤博文などと、意見を異にした点ではなかったか。小村に対しては研究し直す要あり。
 要するに加藤高明とか小村というような強硬外交が珍重されたので、軟弱外交は幣原だけということになったのだろう。

十月十六日(月)

 行列が街にえんえんとつづいている。新聞を買うためである。とくに今日ながいのは、十二日夜半、十三日薄暮、十四日晝間、同薄暮の三日間にわたる戰果の詳報を知らんがためだ。街の人がいかに捷報に飢えているかがわかる。

十月十七日(火)

 神嘗祭である。各新聞は台湾沖の戰果を伝え、大本営も十六日十五時これを発表す。この戰果につき、小磯首相は談話を発表し、「ことに今回の戰鬪に陸軍の雷撃機隊も参加し、この戰果をあげたことは、特筆大書さるべきことである」といっている。国家存亡のときに当り、陸海軍が一緒に戰爭をすることが、どうして特筆大書すべきことなのか。こんなことを総理大臣が言わねばならぬことが、特筆大書すべきことであろう。
 この戰果につき問題は、(一)日本側の損害は、発表に一切ふれていない。(二)敵の発表は日本側の損害を巨大に伝えていることである。將來、この辺の事情が明らかになろう。

十月十九日(木)

 三井本社から二千五百円を、日本外交史研究所のために貰う。三井本社総務部長大谷津氏の話では、ある軍人が三井幹部の前で、「三井ぐらい僕の力でも潰してしまえる」と言ったという。同氏いわく、「三井の金はいくらありましょうか。十二、三億かも知れませんが、そんな金は数日の戰費にも当らない。三井にはなにも力はありませんよ」と。日本においては三井財閥の力を過信するのは、マルキスト的公式論である。

十月二十日(金)

「米鬼」に対する宣伝各方面に起る。その中心は米国に居った人々である。海老名一雄、武藤省吾その他の人々が中心だ。先ごろ武藤君から僕のところに、「米鬼」の惡虐無道の写眞があるかと質ねてきた。

十月二十一日(土)

 台湾沖の海戰で勝利を得たというので、酒の特配があった。それを新聞は攻撃する。つまり、こんな誰にもわかることになると、攻撃するのである。
 国際関係研究会で上田辰之助博士の中共に関する講演会あり。中国共産党は「日本解放委員会」という特別の部門をもっており、日本の軍国主義を打破するスローガンを掲げている。また北支の日本軍に現実に働きかけているという。
 朝鮮人が脱出して中共に投ずるものも、かなり多いと。

十月二十六日(木)

 朝、足利の経済倶樂部に講演に赴く。車中から見れば、稻の取り入れの最中だ。それが女だけであるのが目立つ。
 町に「殺せ、米鬼」という立看板がある。落下傘で降りたものを殺せというのであろう。日露戰爭の頃の武士道はもうない。国民が何ら近代的な考えも教わらず、古い伝統も失ったことを示すものである。

十月二十七日(金)

 レイテに決戰的大戰鬪が行われている。米、英、ソ連は、二十三日ドゴール政権、二十五日ボノミ伊政権を承認した。
 日本の新聞は、つねに米国の選挙と戰爭を結びつける。比島戰は選挙対策だというのである。各所でそういう質問をうけるから、僕はルーズベルトの下には党員もあり、専門軍人もある。ルーズベルトの意思通りには行かない。政治と戰爭を結びつけるところに、日本人が米国の政治を解さない事実があるのだと説明するのが常である。

十月二十九日(日)

 千葉豊治氏の追悼会をやる。そこで石黒忠篤氏(貴議)の話――
 後藤新平伯は、朝鮮人がロシア国境内に数十万いることを知って、これはどうかせねばならぬと言った。当時、新聞は鮮人というと「不逞」という文字を冠したものだが、伯は沢山の中には赤がいるかも知れぬが、とにかく日本人という名をもっているものが外国にいる以上は、それを保護し、利用しなくてはならん、と言って、その案を千葉豊治君に起草させた、と。後藤伯がロシアに行ったのは、そんな関係もあった。
 大藏公望男(貴議・前東亞研究所副総裁)いわく、「自分も後藤伯と前後してロシアに行った。後藤伯の任務の中には、たしかに朝鮮人および日本人の移民問題があり、先方の諒解を得て帰ったが、帰ってきて直ぐ伯は死んでしまった」と。

十月三十一日(火)

 晝、石橋君に招かる。石橋君は前夜柴山(兼四郎)陸軍次官と会食した。柴山は、軍人を工場やその他のところから引き揚げたいと考えているが、却って今では工場のほうが放さないと。

十一月四日(日)

 朝、畠をやっていると、工場に行く職工の一団が、軍歌をうたいながら通っている。指導者が歌うと、一同がそれを繰り返すのである。「大和男子と生れなば‥‥散兵線の華と散れ」といった文句だ。肉彈戰を信じ、青年は国家のために死んで行くのである。

十一月六日(月)

 満鉄総裁小日山直登氏に逢う。同君いわく、「なんでもありませんよ。空襲? あんなものは直ぐ修繕工事ができますよ。米国なんかやっつけることは何でもないさ。なに、勝てますよ」といった調子。松岡流にて、とても強気である。

十一月八日(水)

 午前四時というのに、町会の人々が八幡樣にお参りするというので家内が行った。晩おそく演習したり、午前四時に起したり、人間を疲労させることばかり考えている。が、それが現在の世相だ。

十一月九日(木)

 大統領選挙にルーズベルト圧倒的に勝つ。
 牧野英一博士の話――平塚の別莊で、垣根の棒を拔くものがある。そこで番人がとがめると、「空襲がくれば、誰のもの、彼のものも、なくなるではないか。そんなことを一々いう奴があるか」と平気でいう。「空襲がくれば掠奪などが公然行われる下地はできている」と博士は言った。

十一月十一日(土)

 大正大学教授浜田という人、参諜本部に「五、六十万の決死隊を米国に送り、パナマやアラスカをやっつける。そして、その半分は全国の佛教信者から募集する」と提議した由。一高、帝大を卒業した大学教授が、この程度の常識しかなし。
 われらの交遊の範囲では問題のないことが、異なる職域にある連中にとっては問題である。その無知驚くべきものあり。これでは前途なかなか遠し。それでもB29が東京を飛んだのに対し、これをどうにもできなかった日本空軍力に失望していた。日本の教育がいかに偏しているか、その中でも佛教徒というものが最も観念的である。

十一月十二日(日)

 汪兆銘、名古屋にて死去。

十一月十三日(月)

 尾崎秀実は十一月七日に死刑を執行されたそうだ。彼をソ連外交に利用しようというような噂もあったが、嘘であった。
 ソ連に広田元首相あたりを送って――民間から久原(房之助)を送るという噂もある――何か工作をしようとして、モロトフに伺いを立てると、モスクワには佐藤(尚武)大使がいるから、ほかに誰もいらないと言ったといわれる。かつて有田が行くという噂もあった。その目的は日ソ同盟だという。まさか重光がそのようなことを考えるとは思わぬが。

十一月十四日(火)

 朝、みぞれふる。
 いわゆる体当りの記事が、新聞やラジオの大半を占めている。陸軍と海軍とが競爭で特攻隊の吹聽である。陸軍は万朶飛行隊、それから時宗隊、聖武隊、桜花隊など。海軍は神風隊、大和隊、朝日隊、山桜隊、菊水隊、若桜隊、初桜隊、彗星隊、梅花隊、左近隊だ。名の懷古的なことと考え方の單純なことが目につく。
 国際関係研究会での話――近ごろ軍人があまり新聞に書いたり、ラジオで放送しなくなった。新陸軍大臣の方針らしいと。

十一月十五日(水)

 今日は東洋経済の五十周年記念日である。英国ならば石橋君はこの機会に Sir ぐらいにはなっていよう。日本では知識や文化に対する評価は極めて軽い。ことにジャーナリズムに対して。

十一月十七日(金)

 日本を侵略者と呼んだスターリンの演説に対し、政府は新聞雜誌に一切の批評を許さない。外務省あたりでは、スターリンがブルガリアに対するように、日本に宣戰布告するかに考えているそうだ。それに脅えて何事も言わぬのである。もっとも言わぬのも一つの外交である。が、強そうなことを言わぬのは、開戰以來今回が初めてであろう。

十一月二十日(月)

 朝、幣原男を訪問。いつまでベルを押しても出ない。あけたのは夫人であった。女中がいないとのことで、茶も出ない。二階の書斎に通さる。日本外交史研究所の講演を頼む。快諾す。顧問についても然り。だが、講演の速記をとることを嫌がる。どういう理由か。
 小磯内閣の改造説有力。軍需相の藤原(銀次郎)、運通相の前田(米藏)はいずれも困難な局面だが、不思議なのは重光外相が変り、広田や有田が候補にあがっているということだ。
 重光についてはスターリン演説が祟っているという。翼政会あたりでワンワン言っている。この前の議会で重光が「ソ連の態度が非常に親日的だ」と言ったのを、スターリン演説いらい、「そんな見方は間違いで、外相はダメだ」というわけらしい。重光は重光で、「ソ連と戰爭できなければ、ああ言うよりほかはないではないか」と言えばよいのを、「日本は防共協定以來、ソ連にいい感情を示したことがあるか。今ロシアより好意を示されることは期待できない」というようなことを言ったので、それが翼政会の無知な代議士連を怒らせたのだそうだ。
 代議士で外交問題がわかるものは、きわめて僅かしかない。外務委員会には殆んど人が來ない。薯の問題などになると二百人もくるのに――蝋山君の話。

十一月二十四日(金)

 正午すぎ警戒警報についで空襲警報発令。後の発表によると七十機マリアナ方面より帝都にきたという。
 毎日新聞のミダシに「典型的戰爭屋スプルーアンス」と米人を攻撃している。「戰爭屋」はそこいらにうじゃうじゃしているのに。

十二月一日(金)

 東京の制空権は完全に敵手に渡った。敵はいつでも日本を襲うことができる。しかも、きわめて安全だ。
 米機連日の來襲で、横須賀翼壯では憤激大会最終日の來る十二月八日を期して、浦賀湾内久里浜のペルリ上陸記念碑を撤去することに決定し、差し当りこの碑の前面に「天誅」と書いた立札をたてることになった。

十二月二日(土)

 日本人が良心的でないのは、どこに原因があるのだろうか。考えていることと、まるで反対のことを言うのである。丸山国雄君の「ペリー侵略史」もそうであり、伊藤道夫君の米人鬼畜呼ばわりもそうである。また、海老名一雄君(元日米新聞主筆)がラジオや講演会での米人惨虐説の宣伝もそうだ。僕の周囲でこれをやらないものは、殆んどない。僕などが沈默を守っている唯一の存在だ。
 これは国家を最大絶対の存在と考え、その国策の線に沿うことが義務だという考え方、それと共にそうするほうが利益だという利益主義からであろう。外国ではそうした立場をとらない人々が少くない。そのアティチュードをつくることが、今後の教育の義務だ。

十二月五日(火)

 日本外交史研究所の発会式を挙ぐ。参加者二十二名、たまたま小野塚(喜平次)博士(前東大総長)の告別式あり。穂積博士、蝋山君などはそのため欠席。
 出席者。幣原喜重郎男、桑木嚴翼、松田道一、柳沢健、鈴木文史朗、伊藤正徳、高橋雄豺、小汀利得、飯田清三、石橋湛山、田村幸策、植原悦二郎、高柳賢三、松本烝治、高木陸郎、宮川三郎、芦田均、馬場恒吾、三井高維、信夫淳平、鮎沢巖
 僕および芦田均君の挨拶後、幣原男の日露戰及びワシントン会議当時の話あり。

十二月七日(木)

 高柳君とともに正金の加納久朗子を訪問。例によって気※(「火+稻のつくり」、第4水準2-79-88)高し。同子の話――同子の所に憲兵を四人つけていた。そして、女中を買收してスパイにした。同子は女中がどうもおかしいと思って、とうとう実を吐かせた。そこで直ちに憲兵隊に電話をかけ、「これから行く」と言ったら、「こちらから参ります」といい、押問答の末、少尉がきた。彼は「手不足の際、四人なんて無用だ。一人を専任にし給え。その代り一日中どこにでもつれて行く」と言った。スパイ女中は「東條をどう思う」といったことを聞くので、「東條がルーズベルトやチャーチルと同等以上の人間とは思わぬが、お前もそう思わぬか」とあけすけに言ってやったという。
 同子の話によると、吉田茂(元大使)のところにも、憲兵隊からスパイを書生に住み込ませたとのことである。

十二月八日(金)

 本日は戰爭勃発の三周年である。朝、小磯首相の放送があったが、例により低劣、口調も東條より遙かに下手で、紋切り型である。こうした指導者しかもたぬ日本は憐れというべし。
 今曉七時ごろ警報。この日に來るだろうというので、多くの平和産業は休んでいるとのこと。当局者も必ず來るだろうと予測している由。「仇討ち」思想だ。これらの事実は日本人がいかに米国を「日本的」に解しているかを示している。

十二月九日(土)

 午前三時ごろ警戒警報。起きて服裝を整う。これでは一般人は神経衰弱になろう。
 七日に高柳君より今日外務次官官邸で、幣原男と会談するから、來てくれとの話あり。ところが今朝、外務次官より代理電話あり、遠慮してくれというのである。僕というジャーナリストを入れたくないのであろう。沢田廉三(次官)という男はコチコチの官僚型であるが、その眼からはわれらは一市井人にしか見えぬのであろう。実は僕は国民学術協会の会合があり、不承々々に承諾したのだが、こう先方から出られては不愉快である。
 その代り国民学術協会に出る。松本烝治、牧野英一、芦田均、杉森孝次郎、阿部賢一、藤木武一、小泉信三、長谷川如是閑の諸氏出席。
 小泉信三氏は慶応義塾長で内閣顧問だ。痩せて、五貫目ほど減ったというが、それでも最近一貫五百匁ほどふえたという。驚いたことには、全く右翼的になっている。「戰爭がどうなっても、米国の奴隷になるよりいい」と彼はいう。「奴隷になるということは、どういうことでしょうか」というと、「講和條件にもよるが」と言う。「この戰爭が二年も続いたらどうなるか」と聞けば、「生活程度が低くなるだけで、戰爭はやれる」と答える。戰爭終結の処理というようなことは、以っての外だという態度であり、そういうことは考えても罪惡だというのである。
 僕は淋しくなった。小泉氏のごときは、最も強靱なリベラリストだと思った。しかるに今これが全く反対であることを発見した。杉森氏に帰途「小泉氏は変った」というと、「自己の地位のプロテクションもあろうが」と言う。それにしても大臣待遇とか、塾長になれば、こうも変るものだろうか。日本人がそうなのか、学者は時の問題に諒解をもたぬのか。
 この間、伊藤正徳が松本氏に「小泉君は誰にも評判がいい」と言った。松本博士は義兄である。が、「誰にも評判がよくない。現に家では、あんな最右翼みたいなことを言ってと、評判が惡い。清沢さんのようになってくれるとよいがと言っていますよ」と言ったそうだ。
 小泉氏に惡意はもたぬが「この人が」と淋しいことは事実である。
 政府およびその関係者、識者は、まだ非常に強気である。最後までのことを突き進んで考えることを恐れているようだ。

十二月十一日(日)

 東洋経済の評議員会に出る。諸氏の談話によって、中部日本の地震が戰力に極めて重大な影響を与えたことを知った。日本の飛行機生産の少くも四割は名古屋附近にあり、その外に造船、重工業がその方面に多い。しかもそれらは海辺の埋立地に多いから、被害も多かったろうという。
 震災のことを新聞は殆んど書かない。ラジオでは全く放送しなかった。
 今日、午後一時二十二分、国内をあげて伊勢神宮に必勝祈願をした。首相のかねてからの提唱によるものだ。神風を吹かせるようにというのだろう。二十世紀の科学戰を指導する日本の首相は、神風をまき起す祈願を眞面目にやる人なのである。

十二月十三日(水)

 外交問題処理には屈伸性のある心的姿態が必要だ。これが日本人にはない。ユダヤ人問題を説く連中――現在、日本の中心になっている連中――に、とくに然り。
「現代」十一月に座談会あり、「神州憤激して起つ」というのである。その中で御手洗辰雄は、米英的なるものを一掃すべきことを強調する。「それは何を措いても、国民の思想や精神に影響を与える立場にある指導者にして、親米的人物乃至は過去においてそういう傾向のあった人間は、たとえ政府の要路にあろうと、あるいは軍人であろうと、悉く危險人物と見て差支えない。そんな危險人物に先達してもらわなくても、眞に日本精神に徹しているものをもって、指導者の入れ替えを断行する。これが国民の憤激を沸きたたせる第一の先決問題と思います」と。無知燐れむべし。

十二月十四日(木)

 陸軍軍務局長に眞田(穰一郎)少將就任し、例の佐藤賢了は他に転出した。前議会から問題だったが、「軍の面目」があって一時とり止め、ほとぼりのさめたとき発表したのである。

十二月十六日(土)

 昨夜は空襲警報鳴らず。非常によく眠れた。なんだか落し物をしたような気持ちである。
 夕方清野道之君が遊びに來る。同君の話――
 松本の駅長がスパイだというので大騷ぎをした。駅長のところへ色々の物が届けられる。駅員が不思議に思っていた。あるとき彼の留守にするめが届いた。そこで駅員がこれを灸ると、英字が現われた。それがスパイの通信だというので捕われた。そして銃殺されたという噂がある。眞偽はともかく、彼が駅からいなくなったことは事実である。
 このほかにも、もう一人松本にスパイがいるということを、女学生までが噂しているというのである。船があまり沈められるので、スパイの仕業に違いないと騷ぐのである。
 大本教の予言が当ったとかで、信者がまたふえたそうだ。

十二月十七日(日)

 ミンドロ島に敵の一個師団が上陸したと新聞発表。マニラの鼻ッ先だ。
 チャーチルが議会で、ソ連にカーゾン線以東を与うることを発表。イタリア、ギリシアに英国のフリー・ハンドを与うる代りに、ソ連にポーランドを与うる取引だ。これで今回の戰爭が世界に平和をもたらすものでないことが、いよいよ明らかになった。ふたたびパワー・ポリテックスへの幕が開いたのである。

十二月二十日(水)

 一日中、東洋経済の社説を書く。欧州が勢力範囲に分割さるる問題についてである。各国とも戰爭最中に、第三次戰爭のために準備しつつある旨を論ずる。ソ連の実利外交は果して將來ソ連に幸いするや。ポーランド問題のごときは、ソ連に禍いを残すものではないだろうか。

十二月二十三日(土)

 軍需大臣藤原銀次郎辞し、十九日、後任として吉田茂(福岡県知事・現首相と別人)親任。重光外相が辞する噂があったが、これは小磯が大東亞相に政党人(二宮文相との説もあり)をもって行きたく、重光に交渉したところ、重光は外交の二元化には反対で、もしその兼任を廃止するならば、外相を辞任するほかなしと強硬に出たため、沙汰やみになったのだと。
 高柳君の話では、重光は重臣方面に信用がある。軍部はソ連を利用せよというのに対し、重光はダメだという。「当って見なくてダメだというやつがあるか」と軍部は不満だったらしい。がスターリン演説で軍部もあきらめたらしく、やりよくなったとのことである。
 小磯が近衞のところに行き、枢密院議長になってくれといったが、近衞はこれを断ったそうだ。小磯は押しがきかぬとの評判。
 伊東巳代治の「翠雨莊の記」を読む。シベリア出兵に関する外交調査会の審議に関するものだ。寺内、後藤、伊東などが、革命のどさくさに乘じてシベリアをどうかしようとの意図があった。これに対し最も反対したのが牧野、次ぎが原敬だ。伊東は一個陰性の政治家で嫌な男である。
 外交調査会のようなものがあるほうが、外交について大きな失敗をしないためによい。外交は遅すぎるほうがよいので、早すぎるのが困る。また、外交は老人がいい。第一に気がながい。第二に総合的知識がある。第三に判断が常識的である。牧野がなぜ軍人に睨まれたかの理由が、牧野の思想を知ることにより明らかになる。彼はそのときも辞職しようとしたのであった。

十二月二十五日(月)

 大正天皇祭、外国ではクリスマスである。毎晩、一、二機帝都を襲わざるなし。しかも、それで帝都および近県を不寢に陷らしむ。
 長谷川如是閑、馬場恒吾、黒木時太郎および綿貫ドクトルを招く。馬場および長谷川両氏はもう六十歳の老齢。この戰爭を生き拔けるや否やも疑わしく、午餐招待はそんな気持ちもあった。しかし二人ながら極めて健康。
 馬場氏は意気軒昂だ。政府と国民に良心なきを痛憤す。マッチを二十本つかっても火が点かぬ。しかもラジオでは一日二本つかえと放送している、何事か。という。

十二月三十日(土)

 片岡鉄兵君、和歌山の知人宅で死亡。その内輪の葬式をやるとのことにて赴く。生命保險を十万円つけてあったとのことで、未亡人は路頭にまず迷うまじ。
 末次信正海軍大將死すとの報あり。彼は日米戰爭論者の巨頭である。徳富と末次に対しては、この戰爭が日本にどういう結果をもたらすかという事実を見せてやりたかったが。
 家妻が鮎沢君を訪問した帰りの電車の中の出來事――ある妻君が「今夜あたり、またアメリカのお客樣がくるだろう」と言った。これを聞いていた憲兵が、横手でひどくこの婦人をなぐりとばして負傷させた。「電車の中ではどんなことも言えません」という。
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昭和二十年
 (一月一日――五月三日迄)



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昭和二十年一月一日(月)

 昨夜から今曉にかけて、三回空襲警報鳴る。燒夷彈を落したところもある。
 配給の餅を食って、おめでとうをいうと、やはり新年らしくなる。曇天。
 日本国民は、いま初めて戰爭というものを経驗している。戰爭は文化の母だとか、百年戰爭だとか言って、戰爭を讃美してきたのは、ながいことだった。僕が迫害されたのは、反戰主義という理由からであった。戰爭はそんなに遊山に行くようなものなのか。それをいま彼らは味っているのだ。だが、それでも彼らが本当に戰爭に懲りるか、どうかは疑問だ。結果はむしろ反対なのではないかと思う。
 彼らは第一に戰爭は不可避なものと考えている。第二に彼らは戰爭の英雄的であることに醉う。第三に彼らは国際知識がない。知識の欠乏は驚くべきものがある。
 当分は戰爭を嫌う気持が起ろうから、その間に正しい教育をしなくてはならぬ。それから婦人の地位をあげることも必要だ。

一月二日(火)

 新聞には「日本兵が強い」「日本は敗れない」というような電報ばかり載せている。米国海軍長官フォレスタルがそう言ったとか、海軍次官がそう報告したとか――今日はロイテルのキムテという記者が、日本はまだ強いから戰爭建直しをせよと言ったことを特筆す。昔から讃められてばかりいなければ安心しないのが、日本人の特徴、とくに軍人の特徴だ。敵がこのような言を吐く心情なり、考え方なり、いっさい知ろうとしない。

一月八日(月)

 東洋経済の評議員会あり。そこへ作田(高太郎)(衆議院議員)きたる。
 同君は戰爭そのものについては、非常に樂観的だ。ドイツがうんと頑張る。すでに米軍の損害は大だ。比島で戰爭をグッとやっつければ、米国の人種構成上の弱点がでるというのである。彼らはそれで参るというのだ。
 この樂観は、なお日本の最大多数の認識だ。洩れ承れば、皇室のお方々も極めて樂観的であられる由。何人もそういう風にしか申上げないのである。

一月九日(火)

 外務省で高柳君に逢い、帝国ホテルで夕飯を共にす。
 沢田外務次官が高柳君に言った。東洋経済に外相と首相が仲が惡いように書いてある。清沢君が書いたらしいが、そんなこと書かれて、大臣が迷惑している。外務省に関係あるものが、そんなことを書かれては困ると。
 これは恐らく蝋山君の書いた「外交の在り方」というのを指すのだろう。僕は憤慨して、「僕は外相も次官も批判しようと考えていたところだ。国家のために是なりと考えることを書いて、なぜ惡いのだ。重光がプテー・ビューロクラットを採用するところを見て、彼の外交家としての度量が疑われる」と少し激しく言った。

一月十一日(木)

 大熊君の遺物整理中、重光の書いたタイプの本あり。ロンドンで書いたものとのことだ。こんなことが好きと見ゆ。一応の見識がある。ただ、つとめてポイントに触れぬところが能吏か。

一月十二日(金)

 毎晩、空襲の來ない日とてはない。最初は防空壕に入った近所のものも、いまや誰しも入るものがない。馴れたのと、また一つはそんなことばかりやっておられないのである。
 新聞は盛んに「強力政治」ということを言い出した。ドイツのように「根こそぎ動員」をやれといったようなことである。ただ動員すればよいと思っているらしい。何を言っているか自分でもわからぬことを、意味もなくワン/\言っているのが近頃の新聞だ。

一月十四日(日)

 片岡鉄兵氏の告別式に出て、帰りに蝋山政道氏のところに寄る。実は蝋山君とドイツが昭和十九年いっぱいで参るか、どうかを賭けて当方が敗けたので、罐詰を少し持って行ったのだ。
 それから伊東治正君のところに行く。若い伯爵だ。翠雨莊日記(同君の父、巳代治伯の筆)を出版しないかとの相談である。夕飯を御馳走になる。「戰爭がすめば、われわれはこうしておられますまい」という。いかにも非常に贅沢だ。伊東巳代治が、あの慾ばりで金を儲けたのである。彼は政党あたりからの賄賂で、どうにでもなったようである。
 しかし、治正君は、いい青年のようだ。これから為すところがあろうと思われる。この三十歳そこそこの青年が、一千万近くの財産の主人なのだ。社会主義も現われよう。戰爭の結果について、金持ちが一番不安である。
 軍隊の鉄拳は、もういうだけ野暮である。それが工場でも行われている。日本は暴力世界だ。

一月十五日(月)

 今朝の新聞で、伊勢の豊受大神宮が敵機のために爆撃されたことを知った。新聞は「不倶戴天敵を滅ぼさん」「神域冒涜に一億の怒り爆発」とか、「畜生今に見ろ」とか、紙面の半分以上をこれに使っている。読売には伊勢大廟に国民が土の上に平伏している写眞を掲げている。朝日は白ぬき文字で「米鬼鏖殺のみ」と米人の野蛮ぶりを書き、また例によって蘇峰をもちだしている。題して「人には人の道あり」敵は人にあらずと。当局者の意をうけたものであろう。が、問題は当局が目的とするように、国民が果して憤激するか、どうかである。そこいらの妻君が、「工場のほうが神宮より大切ではありませんか」と言ったそうだ。

一月十七日(水)

 強力政治、強力政治と新聞が言っている。そして、同時に官僚の無責任を攻撃している。強力政治を主張して、とうとう官僚政治を誘致したではないか。新聞記者の無知にも困る。
 電車が滅茶々々にこわれている。窓ガラスはなく、腰掛けの布がない。窓は乘客がわざとこわすのであり、布は盜んでいくのである。電車が遅いといっては、やけくそに窓を破壞するといった調子。敵に対する怒りが、まず内に向っているのである。

一月二十二日(月)

 議会が昨日から開会されたが、首相、外相、藏相、いずれも眞実のことを言っていない。昭和二十年の議会――この年で戰爭が片づくといわれるとき、大臣からは一切の憂慮すべき事態は発表されぬのである。

一月二十三日(火)

 隣組の小島さんの母親が死んだ。その棺桶を返還することを條件として、融通してもらったそうだ。死体が燒けないということは、よほど前から言われていた。が、棺がなくてそれを何回も使うというのは、いよいよ時局を反映する。
 青柳篤恒「極東外交史概論」をよみ終る。早稻田の教授だが、支那語ができるだけ、文章もよく面白し。他のものより公平だが、大隈の乾分として二十一ヵ條要求の弁護などは、自家撞着である。
 宮崎滔天の「三十三年の夢」を読む。日支関係が浪人によって始められたのは、不幸であった。宮崎の純な気持ちは十分にわかるけれども。

一月二十五日(木)

 昨日、技術院総裁八木秀次博士、議会で答弁して言った。
 ――最近、必死必中ということが言われるけれども、必死ではなくて、必中であるという兵器を生みだすことが、われわれかねての念願なのである。が、これが十分に活躍する前に、戰局は必死必中の神風特攻隊を必要とするに至ったことは、技術当局として誠に慚愧にたえず。申し訳けないことと考える。
 この答弁は議会で非常な感激を生んだ。泣いているものもあったという。これは封建的なる愛国観(死ぬことを高調する道徳)に対するインテリの反撥の発露だ。誰かが言ってくれればいいと考えていたところだ。それを八木博士が言ったのだ。

一月二十八日(日)

 この間、議会で蝋山君の質問中に演壇から引きずり落されたとか。そう言えば新聞に「妨害」といった文字があった。重光に対し批判的なことをいうとか、多少ともピース・オフ※[#小書き片仮名ヱ、216-7]ンシヴ的なことを言えば、そんなことをやりかねない議員である。日本国民の低調であると同時に、議員も低調だ。政党対立のときなら、一方の政党が許さないのだが。

一月二十九日(月)

 山崎靖純君(経済評論家)が、三浦老人(東洋経済新報社会長)に言った話――
 ある重臣が陛下にお目にかかって、講和の御意思はありませんか、とお伺い申上げた。陛下は、無條件だろうな、と仰せられた。やや暫らくして、「それぐらいなら、朕も第一線に出て生命を投げだす」と仰せられた由。恐れ多いことだと。
 ある人いわく、「なぜその重臣は、そのお考えは失礼ながら正しくないこと、一億の死ぬことのお手本を示し給うよりも、彼らをいかにして生かすかを、お教え遊ばすことが御義務であることを申し上げなかったか」と。

二月二日(金)

 今朝の新聞でいくつかの軍管区ができた旨発表。米軍の上陸に備うるためだという。磯谷(廉介)中將に逢う。同中將の話――
 一億玉碎というが、玉碎とはわれわれ軍人が言うことで、一億を玉碎させぬために軍人の玉碎が必要なのだと。
 僕は、そうした説が軍の内部から生れるようにしていただきたいと言った。
 ある右翼のいったという話によると、彼らは皇軍さえ存続させてくれたら、米国の條件は受諾していいと言っているとのこと。どんな右翼やら。

二月七日(水)

 もう学業は全くないといってよい。誰も勉強しているものはない。学生はみんな工場だ。いよいよ三日に米軍マニラに侵入す。先頃からマニラは軍事価値なしと宣伝していた。ドイツと同じ宣伝ぶりである。

二月八日(木)

 一日中執筆。雪降る。
 本年は世界あらゆる方面で、五十年ぶりの寒気だといわれる。東京で家の中の水が全部凍るということは、三十年の東京生活で知らない。炭はなく本年の寒さは誰にもこたえる。本年の冬を通じ、先頃、一俵の木炭の配給があっただけである。

二月十四日(水)

 工場を休むものが非常に多い。一つはそうして他で稼ぐのであるが、もう一つは工場に行っても仕事がないそうだ。築比地君の話では、同君の甥が工場に行って、石炭がないので、一ヵ月に三日しか働かなかったとのことである。
 今日の新聞で米、英、ソの三頭首会談の内容を発表。二月四日からクリミアのヤルタで開いたのだが、ヤルタはチェホフの故郷でその家がある。ドイツに対する制裁が非常に苛酷だ。これではナチスは死にもの狂いで抵抗するだろう。ソ連が断然リードしているが、これが果してソ連の勝利を意味するかは疑問である。ただソ連はそのプロレタリア・イデオロギーによって、どこの国にも手兵をもっているのが強味だ。
 学生を全部工場に打ち込んでいる。これは指導階級――軍部が教育の価値を認めないことにもよるが、それよりも文部省の役人がまるで自信がないからだ。従來、文相は橋田、岡部、二宮、兒玉というように、右翼のイデオローグばかりで、軍部へのおべっかが彼らの仕事だった。十年後のことが恐ろしい。

二月二十日(火)

 午後、正木※(「日/大」、第4水準2-13-82)君の事務所を訪う。正木君は「近きより」を発行している人だ。弁護士で稀に見る鬪士だ。昨年、拷問事件に関連して警察ブロック相手に喧嘩した。警察の方では凡ゆる方法をもって圧迫したが、これと敢然戰っている人だ。
 中央公論の藤川親昌君が、一ヵ年の牢獄――実は留置場から出てきたが、警官はむやみにぶん殴る。身体がはれあがる。ぶん殴ったあとで体操をやらせる。聞いただけでも熱血沸くものがある。日本には憲法もなければ、法治国家でもない。ギャングの国である。警察でどんなことをされても仕方がないそうだ。正木君がそういうのである。正木君は死ぬつもりで鬪っているという。さもあろう。
 正木君は、また、東條前首相に対し、堂々と惡口――正当な批評をした恐らくは唯一の人であろう。

二月二十一日(火)

 黒木時太郎君のところに行く。K君(外務省の課長)がいた。K君は吉田茂と重光葵につかえた。吉田はロンドンで二十万円お金を使ったそうだ。彼は祕書として、それをうまく処理したとのことである。
 吉田は志士、重光は單なる官僚、それが彼の観察だ。もちろん重光は頭は惡くない。
 十九日、敵、硫黄島に上陸す。いよいよ切迫した。

三月六日(火)

 正午、植原悦二郎氏と山王ホテルで会見する。同氏は戰爭終結について、重臣方面に話をしている。若槻(礼次郎)とも逢い、岡田啓介とも会談した。幣原とも話したが、幣原はあくまで抵抗すべしとのみ考えているから、清沢君に機会があったら幣原を説いてくれというのである。岡田も小磯がダメであることを知り、これを何とかせねばならぬと言っている。近衞も木戸も小磯の不適任なことを知っているが、逢うと辞職を勧め得ないで別れてしまったという。植原氏は無條件降伏それ自体恐ろしくないではないか。その上で当方から條件をもちだすことも出來るのだと言っていた。植原氏はやはり愛国者である。帰りに古本屋にまわり、若干のものを買う。

三月七日(水)

 東洋経済の社論に「徳富蘇峰に与う」を書く。責任を解せず、他人のことのみを責むるを難詰したのである。石橋君が書こうではないかというので書いたわけだ。石橋君いわく、「もう紙も貰えないし、大胆に書こうや」と。

三月十日(土)

 警報でめざめる。けたたましく大砲が鳴る。B29が低空飛行をやり、探照燈に銀翼を現わし、悠々と飛んでいる。盛んに高射砲を打つが少しも当らぬ。忽ち北方の空が眞紅となる。風に燃燒の臭あり、どこか知らねど、被害が多かろうと胸いたむ。
 国民学術協会出席のため、都心に出る。新橋駅近くの左右が燒けている。銀座は三丁目から四丁目にかけ燒く。浅草、本所、深川は殆んど燒けてしまったそうだ。しかも、烈風のため、あるものは水にはいって溺死し、あるものは防空壕にはいり煙にあおられて死に、死骸が道にゴロゴロしているとのこと。惨状見るにたえないものあり。吉原も燒けてしまったと。
 小磯首相は罹災者に対し必勝の信念を説いて、敵の盲爆を攻撃した。宮内省の主馬寮が燒けたことばかり恐縮していることに対し、国民から却って反感が起ろう。
 今日の朝刊にまた陸軍大將が二人できた。万骨枯れて二將功成るもの、彼らは全く傍若無人だ。

三月十一日(日)

 科学の力、合理的心構えが必要なことを、空襲が教えるに拘らず、新聞やラジオは依然として観念的日本主義者の御説教に満ちる。葛生能久(右翼団体黒竜会長)、皆川治広(元司法次官)、横尾惣三郎(農民講道館長)、吉植庄亮(代議士・歌人)ら八名は、先手断行、統率の完全なる一体化、一億総討死の決意の急速徹底、ほか九項より成る大東亞戰必勝の具体策につき、請願の手続きをとった。一億総討死したら、その後の国家はどうなるか。しかし、それが全くのところ軍人、右翼のイデオロギーである。

三月十二日(月)

 東洋経済に赴く。誰に逢っても「政府は一体どうするつもりだろう」と話し合う。その調子には可成り昂奮した気持がある。それも無理がないので、大達(茂雄)内相の議会における報告では、東京空爆の被害は家屋二十三万余戸、死者三万二千人、行衞不明は不明だと言った。議員が「行衞不明とは何人か」と聞くと、「不明だから不明だというんだ」と答う。議員は「馬鹿野郎!」と言ったそうだ。

三月十四日(水)

 重光外相が石橋湛山、小汀利得、正金の加納、他一名の四名を招待して、戰爭を何とかしてやめたいのだが、実業家の方面から何とかできないかと相談したそうだ。
 新しい藏相津島(壽一)は、全然話しがわからないそうだ。米軍が押し寄せてくれば、これを撃退する自信が軍にあるそうだからと言って、和平論などはテンで考えようともしないという。海において撃退し得ないのを、上陸の際どうして破ることができるのだ。仮りに一応これを破ったとしても、米国を最終的に打ち破ることが、どうして可能なのか。もし、打ち破れなかったら、どうして戰爭を終結させるのか。こうした理屈はだれにもわかっていなければならぬはずなのに、インテリにわからないというのは、どういう訳なのか。第一には突きつめて考えることを好まないからであり、第二にそういうことを言うと、禍が身に及ぶことを恐れるからである。
 われらの周囲において、戰爭終結を考えているのは、芦田均君と石橋湛山君と植原悦二郎君ぐらいのものだ。そればかりではなく、大臣が樂観的な調子を見せると、みんなオベンチャラにこれ従うそうだ。そういう道徳的勇気に欠けた連中の集りだから、こんなことになったのだ。
 空爆の被害については、政府は一切発表しない。ただ敵機をいくら打ち落したというだけだ。今日の「読売」社説は「被害の報道は具体的たれ」と題して、「日付さえ変更すれば、何時の爆撃にも通用するような報道が横行しているのは、戰時下の情報宣伝の何たるかを解せぬものというべきだ」と論じている。

三月十六日(金)

 蒲田駅前で憲兵隊が紳士風の男を拉致して行った。東京駅前にも憲兵が立っている。戒嚴令施行の噂もっぱらである。いよいよ軍政が事実上來たのだ。新聞でも、議会でも「強力政治」をいうが、それは日本では軍政をいうのである。軍的秩序と軍人政治に対する迷信と見るべきである。
 各方面において敵の上陸に対し訓練をはじめている。十二日の中部日本紙は、中部太平洋岸各県民の奮起を促し、「今にして誤らんか、紙幣は一片の紙屑となり、昨日の重役は清掃人あるいは米兵の靴磨きとなり、最愛の子女を青鬼米兵に虐まれるの悲境に顛落するであろう」と論じている。いつものことながら低調なものである。

三月十八日(日)

 九州南部および東部に敵艦載機八百機來襲。
 ドイツのルントシュテット元帥は、アイゼンハワーに対し、和平條件を申込んだとの報あり。すなわちドイツはすべての條件を受諾するが、ただナチ政権の持続を條件とするというのだ。そして、対ソ戰爭をするために後援せよというのだそうだ。アイゼンハワーは無條件降伏以外は受付けぬと返事したとのこと。

三月十九日(月)

 国民学校(初等)を除き、全国授業を停止することに、昨日の閣議で決定。向う一ヵ年は学業は全部なくなったのだ。今までのような学校なら、なくなってもいいかも知れぬ。

三月二十八日(水)

 二十五日に敵、沖繩、慶良間列島に上陸と発表。
 三井高継君と逢う。靴が破れていた。財閥の巨頭三井一家の人も、衣食住が自由にならないのである。

三月三十日(金)

 同盟通信の富田君の話に、和平問題について陸海軍の中でも意見が割れているとのことだ。海軍と陸軍航空隊方面では、英国かソ連を通じて、和平工作をやろうと言っているが、陸軍の大部分が絶対抗戰説であると。そこで小磯内閣も強気で行くことになったそうだ。強硬説を主張すれば、そのほうには暗殺などがないので、当局者はつねに強硬なのだ。
 島中雄作の家が強制疎開の命令をうけた由。なにしろ五日ぐらいの楢予期日しかないので、丁寧にやっている暇がない。全部引き倒したり、柱を切断したりのぶっ壞しだ。
 戰爭というものの力を見よ。一晩のうちに何十万戸を燒きつくし、さらに残ったものを一片の命令書で取り壞すのである。米国の戰後処分をまたずして、すでに日本は日清戰爭以前の資産状態にかえりつつある。
 戰爭は文化の母なり、と軍部のパンフレットは宣伝した。それを批判したから、われらは非国民的な取扱いをうけた。
 いま、その言葉を繰返して見ろ! 戰爭は果して文化の母であるか? 恐るべき母。

三月三十一日(土)

 オリエンタル・エコノミストに空爆の惨状を描いて、米人に警告する一文を書く。
 国民の無知は想像以上である。浅草観音は震災にも燒けなかったし効顯あらたかだから、今度も燒けまいと考えて、観音にかけつけたものが多かった。それが浅草区で死んだものが多かった一因だという。また今日の朝日の投書欄によると、ラッキョウを食えば爆彈に中らぬとか、心掛けの惡いもののみが災害をうけるというような、迷信的見解が戰災地に一般的になっているとのことだ。

四月一日(日)

 松本烝治氏來訪さる。孫が数人いるが、どこかに疎開させねばならぬ。が、鎌倉の別莊も、御殿場の別莊も、取り上げられる状態にあり、使うことができぬ。軽井沢に貸してくれる別莊があるが、食糧に困るという他の忠告もあって、これもダメ。新潟にでも疎開させようかと苦慮していると。それから時局談をする。
 松本博士いわく、「考えたって仕方がないので、近頃は小説ばかり読んでいる。ディッケンスの本を読んでいるが面白いよ」と。同氏によれば斎藤内閣の商工大臣をやったが、次の内閣に居残ってくれと交渉されたが断った。また、宇垣流産内閣のときに、内務大臣を交渉されたが、司法ならばと受諾したそうだ。
 こういう有為の材を、ただ小説を読ませておくとは勿体ない。が、これが現状だ。

四月二日(月)

 駅の近くでピアノを百五十円で売りますと言っている女の子がいた。安い、ときいてみると、その日の午後三時までに取りに來なくてはダメだというのである。運輸機関がなくなった現在を語るものである。

四月三日(火)

 長谷川如是閑氏を訪問。馬場恒吾氏も來る。暫らく見ないうちに、いかにもおとろえが見える。
 馬場氏は戰爭は八月ごろすむだろうという。松本博士もそうした見通しであった。長谷川氏はそうも行くまいよという。僕も勝敗の数は明らかだが、一年ぐらいは続くだろうと言った。

四月五日(木)

 国際関係研究会あり、太田三郎君(外務省課長)の談話である。ソ連を中心とする研究である。頭はいい人のようだが、強情で、独断的で、威圧的である。ただ、意思と体力が強いから、これで押し通せば、あるいは大をなすかも知れぬ。
 小磯内閣総辞職。正午に経済倶樂部に行くと、すでに後継内閣首班に鈴木(貫太郎)が押されるだろうと噂されていた。太田君は鈴木を一億玉碎の旗頭だろうといった。が、僕のかねて聞いているところではそうでなく、かつ重臣方面の空気からみて、今ごろそうした人を出すはずはないと考えられる。鈴木文史朗君がかつて鈴木に会見し、非常に感服していたのを覚えている。彼はコチ/\の右翼派にあらず、リベラルな誠忠の士といわれている。
 ただ果して総理大臣として然るかどうかは、事実によってみるほかなし。大將という看板が、人物を擬裝せしむるものであるから。

四月七日(土)

 鈴木大將は誠忠の士のようだ。しかし、手許に大臣候補者なく、狹い範囲からの選択である。ロクなものが集まるはずはない。
 日ソ中立條約不延長に対して、惡声一つ放つものなし。元來ならば「ロシア討つべし」といった議論が飛び出すところだ。
 田村幸策君の話――日本がソ連と近づけば、米国はヤキモキして日本に手をのべてくる。そういう考えが日本人知識階級に非常に多いと。その通りだ。日本人は国際関係をみるのに極めて勢力均衡的で、それがとくに右翼や軍人に多い。それがリアリスチックでなく、自己独断的だ。

四月八日(日)

 内閣の顏ぶれが昨夜決定、発表された。要するに義理を各方面に果したという格好だ。組閣の知惠袋は岡田啓介大將で、その関係から婿の迫水久常を参謀とし、結局書記官長にした。平沼への義理立てには乾分の太田耕造を文相にもってきた。大日本政治会から岡田忠彦(厚相)と桜井兵五郎(国務相)をとった。あとは迫水の友人や自身の海軍関係の後輩である。
 外相の東郷(茂徳)は軽井沢にいて間に合わなかったので、一緒に発表されなかった。この人選は惡くない。だれか鹿兒島県人は若いときは平凡だが、老人になるとよくなる人があると言った。東郷はその一人である。小日山直登(満鉄総裁)は満州から上京しつつある。
 その構成は雜多だ。しかし、依然として右翼的つまり革新的である。やはりフォーカスが合わぬ。そこが現在の日本を表徴する。
 外務省の深井君きたり、昨日あたりまで省では広田が外相になるだろうと言っていたとのことだ。

四月九日(月)

 鈴木首相は「政治は元來嫌いだ」と新聞記者に言った。この政治嫌いな海軍大將を引き出さねばならぬところに、現代日本の悩みがある。
 蝋山君の話では、重光に一応留任の勧告があったが、重光はこれを拒絶したとのことである。
 ある人はこれを身代り内閣といった。広瀬(豊作)藏相は勝田主計の婿さんである。重臣がでる代りに、その第二世を出したのだ。
 毎日新聞の報ずるところでは、小磯が現役に復して陸相になろうとしたが、陸軍が反対したので沙汰やみになったと。
 沖繩では日本の連合艦隊が出動し、最後的な奮鬪をしたそうだ。敵側の放送によれば日本の四万五千トン級の戰艦を撃沈したとか、これは日本でも認めている。

四月十日(火)

「この国民は何という従順な国民だろう」と植原悦二郎氏がいえば、信夫(淳平)博士(国際法学者)、永井松三氏(元大使)もこれに和す。この意は強制立退きで、家をメチャクチャにこわされて、それでも默っているという意味だ。実際、電車からその両側をみれば、住宅をメチャクチャに破壞している。まるで空襲の後と同じだ。壁をこわして、繩をつけ、引き倒すのである。瓦などすっかりこわされている。この資材の不足のときに、タタミや陶器類が四散し、見るにたえないものがある。
 植原君の話では、いつかその主任技師の交詢社での話に、土地は陛下のものであり、国策によりこわすのに何の遠慮もなくドシ/\やると言った。植原氏は聞くにたえず、中座したとのことである。

四月十一日(水)

 僕は最後まで重光に人間的なものを発見せず、また政治的偉大性というものも感ぜず、單に事務官僚としか考えなかった。僕がジャポニカスに働いていることを知りながら、高柳君のみを相手としていた事実が、僕に多少の偏見を与えたかも知れぬ。それでも差支えない。僕らや蝋山君にそうした感じを与えたことが、官僚式であることを示すものだからだ。しかし、そうした感じをヌキにして公平に判断しても、僕は彼の外交がすぐれているゆえんを発見しなかった。
 近ごろ僕はくだらない本を買う。大東亞戰爭下に、いかに下劣な刊行物が横行していたかを考証せんがためだ。しかし、最も不愉快な仕事だ。こんな書籍に書棚を貸すのは嫌だ。乞食を奧座敷に寢せるような気がする。

四月十二日(水)

 小日山直登、運通相に就任。国務大臣に安井藤治という陸軍中將就任。阿南(維幾)陸相の同級の親友だというだけの理由らしい。
 眞面目なる明治研究家菊田貞雄君逝く。「征韓論」の著者である。大熊眞君を失い、またこのマジメな学者を失う。落胆にたえず。

四月十三日(金)

 ルーズベルト大統領、脳溢血にて逝去すとの報あり。

四月十四日(土)

 昨夜、敵機百七十機東京を空襲。明治神宮、宮中の一部燒かる。例によってどこが燒けたか一切不明だが、かなり広範にわたって燒失、戰爭の惨状まことに言語に絶す。

四月十七日(火)

 沖繩の戰況が絶望的であるのは、誰も知っていることだ。が、新聞はまだ「神機」を言っている。無論、軍部の発表によるものだ。しかし、国民は信じまい。だれも信じないことを書いているのが、ここ久しい間の日本の新聞だ。
 ルーズベルトの葬儀は十五日行われた。暸の話では、食事のとき学校でルーズベルトの死をきいて喝采したが、二人とか三人だけ集まったときの話になると、みんな惜しいことをしたと言ったそうだ。その翌日経済倶樂部に行ったが、戰後経営を彼にやらせたかったという意見が絶対多数だった。これだけひどい目にあっても敵を呪う気持ちが少いのは、意外というほかはない。

四月十九日(木)

 陸軍は依然として敵を本土に上陸せしめ、そこで迎え討たんとする作戰であるが、米内が頑張って沖繩の海辺で決戰することになったという。陸軍は最後までバカバカしいことを考えているものである。
 東洋経済の鎌田君という記者、爆撃で足をやられ、足先きを切断したが、それが原因で死去した。死体を入れる棺桶がないので、東洋経済の別館をこわした古材木で棺桶をつくった。燒き場を利用することも困難だが、リヤカーか何かで運ぶらしい。悲劇をそのままだ。

四月二十日(金)

 小汀君の話では、十三日の空爆の罹災者五十八万人、十五日の分は六十万人、それに三月十日のものを合わせると、二百二、三十万を突破するという。
 沖繩の戰況がよいというので各方面で樂観続出。株もぐっと高い。沖繩の敵が無條件降伏したという説を、僕もきき、暸もきいた。中にはアメリカが講和を申し込んできたというものがある。民衆がいかに無知であるかがわかる。が、この種のデマは日本中に根強く伝えられているらしい。

四月二十二日(日)

 今朝の新聞は内務省に百二十五名の異動を行ったことを報じている。これは読売によると久しく沈滯鬱積された人事を刷新するためだそうだ。が、やるものもやるものだが、新聞記者も新聞記者だ。僕の知っている町村(金五)新任警視総監をみても、開戰当時は富山県知事であったのが、警保局長、休職、新潟県知事、警視総監と代っており、安積得也君のごときも、東京府経済部長、栃木県知事、綜合計画局第三部長それから東海北陸副総監である。非常時だ非常時だと言いながら、わすか三年ばかりの間にこの頻繁な更迭である。何が久しく沈滯鬱積した人事か。
 つまり、役人中心の政治である。いわゆる革新主義――実は封建的観念主義が、まだ政治の中心をなしているのだ。さすが毎日も社説で「官吏の異動を停止せよ」という。新聞が内閣の施策を批判したのは、これが近來はじめてである。

四月二十三日(月)

 赤軍ベルリンに突入す。最後までナチはふみとどまり玉碎。かかる戰爭方法が賞讃さるべきか。無條件降伏を強制した米、英の戰法も將來批判されるであろうが、玉碎戰法もまた後世史家の論題たらん。
 東洋経済の評議員会に出席。蝋山君のいうところでは、重光は留任を運動したるよし。また彼は首相の地位を狙ったともいわれる。

四月二十四日(火)

 沓掛までの切符を二枚入手。各方面へのお礼で沓掛への切符一枚が五十円ぐらいにつく。窓口の出札掛りはこうしたお礼を公然とるよし。

四月二十五日(水)

 午前五時半、予定のごとく沓掛着。井出君の家にて朝食のご馳走にあずかり、山莊に至る。

四月二十六日(木)

 暸とともに畠に着手。井出君のところに馬鈴薯のタネイモと堆肥をもらいに行く。僕は大八車を曳いて帰る。途中で馬糞を一つ拾う。生憎く拾いとるものがないので、手でつかんで車に入れる。女学生が通るので、さすがに手づかみにするのが恥かしく、近くの紙きれを使う。だが、女学生たちも紳士の馬糞拾いは珍しくないらしく、振りかえっても見ない。
 馬糞を拾いながら、こうすることが国家や社会のためかと思う。ディヴィジョン・オヴ・レーバーがなくなり、われら自身が土方のようなことをやらせられるのである。

四月二十八日(土)

 午後、正宗白鳥氏を訪う。彼は嚴寒を高原に送って、むさ苦しい田舍労働者となり了る。「飢と寒気と戰って動物のように生きてきた」と吐き出すようにいう。彼は隣りの土地を買った。一坪二十円なにがし、東京郊外の値段だ。「働くのが嫌だ」というが、さればとて働かねば食えぬ。その土地の樂なところを開墾することを勧め、彼もそれに従うと決心したようだ。
 帰りに坂本君のところに寄る。たまたま鳩山一郎氏あり。吉田茂(前駐英大使)が、確か十五、六日ごろ憲兵隊に引張られたと話していた。樺山愛輔(貴議・千代田保險社長・後枢密顧問官)伯も家宅捜査された。また評論家の岩淵辰雄も憲兵に引張られたとのこと。「馬場恒吾はどうですか」といっていた。閣議かどこかで敗戰主義者を全部あげるという議があったが、それでは六千万人ぐらいをあげなくてはならぬからと取りやめになったと笑う。
 僕もかねてからそういうことになるだろうと考えていた。最後のもだえである。
 それにしても僕の身辺が無事なのが不思議だ。ただ一つ奇妙なことは、四月十五日の空襲の夜、二人の男が僕の家に來て、「下丸子の工場にいたが、家族を防空壕に避難させた。家は燒かれたらしい」と暫く話し込んでいった。僕は当時消火に努力しながら、この人々に対し無辜の市民を空爆する米敵を呪った。「戰爭だから住民をやるのは仕方がないが、工場が惜しい」とも言った。そう考えないでは決してないが、こういう場合に自己防衞の意味があったことは否定できぬ。
 この二人は何人であったか知らぬ。しかし、あらゆる場合に憲兵政治がスパイ行為をしていることは事実だ。
 正宗氏の話では、軽井沢の万平ホテルにソ連大使館が疎開してきたが、そのボーイは全部憲兵だと話していた。

四月二十九日(日)

 天長節、畠をやる、寒し。
 国民義勇隊なるものを組織して、本土防衞の準備を進む。ドイツの玉碎主義と同じ行き方である。
 田舍にも漸次宣伝組織が入り込み、動きがとれぬようになってきている。正宗氏のところで労働者を雇おうとすると、まず町の労務事務所に届出で、その許可をうける。労働者とともに監督がきて、どの仕事はしてもよく、どの仕事はやってはいけない、と一々干渉する。一日の公定賃金は八円だが、十円は普通であり、中には一日に八十円も請求したものがあるという。労働者三、四名に一人の監督――俸給生活者がつくわけである。

四月三十日(月)

 晩のラジオでドイツのヒムラーが米英に対して、無條件降伏を申し出たと伝う。米英はソ連を含む連合国に同樣の申し出でがなければ受付けないという。また、ムッソリーニもその一味とともにとらえられたことを報ず。

五月一日(火)

 相変らず畠をやる。花壇をつくる。生活は食うことのみにあらず。願くば困苦の間にも、多少の文化的享樂を許されよ。
 井出君がきて、町でドイツが無條件降伏したことが盛んに問題になっていることを伝う。昨日井出君がきたとき「ドイツが危いようですね」と言うから、「すでにドイツはカタがついたのだ」といった。彼は不承々々であった。が、帰って晩のラジオで無條件降伏を聞いたのだ。「どうしてドイツは頑張らなかったのだろう」と、どこでも不思議な話として話し合っているそうだ。新聞がつねに優勢らしく伝えるので、一般人にはドイツの苦境がわからなかった。そして、突如として現出した事件のように思うのだ。
 近ごろの手続きの煩雜なこと限りなし。軽井沢に到着の日、水道をあけてくれるように町役場に依頼したが翌日くる。そして「水道の口は台所と風呂場だけあける」という。水洗便所は使わないが、洗面所だけは欲しいというと、「戰爭中は我慢してもらいます」といい、「それでグズグズいうなら、全然水道を遮断します」と頭からいう。戰爭は田舍者をも不親切にするのである。

五月二日(水)

 坂本(直道)氏のところに寄る。また、たま/\鳩山一郎氏あり。ティー・タイムにご馳走になりながら、愉快に話す。そこでの話――
 鈴木内閣の出現の事情――重臣会議でまず口を開いたのが東條である。彼は、「この際、戰爭を妥協で打ち切るか、然らざれば最後まで戰い拔くか、このことを決定して置く要あり。私は絶対に戰い拔くことを主張する」といった。平沼(騏一郎)がこれに和し、鈴木も同じく、「絶対に戰い拔く」といった。近衞は、「戰爭をどうするかというようなことは、後継首相の決定すべきことで、ここで論議すべきことではない」といい、岡田大將がこれに賛成した。これに対し、若槻は、「御下問されたことは首相の人選であるから、その他のことは問題外だ」と述べた。
 それから人選に移り、鈴木は、「いちばん若い人が局に当るがよい」とて、近衞を意味する発言をしたが、これに賛成するものなく、つぎに平沼が「鈴木大將を」と述べて、これに決定したとのことである。
 これより先き、陸軍は迫水を書記官長に推薦し、内閣支持の條件とした。米内は鈴木に対し、その非を申入れたが、すでに深く食い込んで、どうすることもできなかった。軍は鈴木に三つの條件を出し、これを承諾させたが、その中には「軍部を尊重すること」という一條があった。
 坂本君は東郷茂徳君が外相になる前に立ち話をしたことがある。東郷は戰爭終結をソ連に期待しているようであった。ソ連をして口をきかせるために樺太をかえし、共産党の公認などを條件とすれば十分だろうといっていたという。
 鳩山氏はソ連が口をきいても、米英がそれによって、いくらかでも讓歩するだろうか。自分はしないと思う。自身は率直に英米に対し、日本の條件を出すのがいいではないかと思うと言った。
 僕はとにかく戰爭を終結せしむる必要がある。それがためには、(一)無條件降伏、(二)ソ連を仲介に立てるか、(三)蒋介石を立てるか、(四)英国あたりに言いだすか、いずれの道でも目的を達すれば、それをとるべきだと言った。
 談話はきわめて愉快であった。無知がいかに罪惡であるかが、三人の一致した意見である。国民を賢明にする必要がある。それには先ず言論の自由を許すのが先決問題だ。
 ヒトラー死せりとの報あり。ムッソリーニ殺害されたと伝う。
 水道洩り、森角という店に修繕をたのむ。「承って置きましょう」という。まるでお役所だ。「お引受けできません」というのである。何か人間と交渉するたびに、不愉快限りなく、神経衰弱になるおそれあり。

五月三日(木)

 ヒトラーが戰爭指揮中死せりとラジオは伝う。この梟雄はまず終りを完うしたりというべきである。ヒムラーは無條件降伏を申し出で、デニッツは徹底抗戰を声明す。ドイツ国内四分五裂した情勢を示すに足る。

(日記は五月五日で終っている)





底本:「暗黒日記 普及版」東洋経済新報社
   1954(昭和29)年6月15日第1刷発行
   1955(昭和30)年7月30日普及版第2刷発行
※( )内の小さな文字の補足・注記は、編者による加筆です。
※「ワンワン」と「ワン/\」の混在は、底本通りです。
※「「中野君を馬にたとえるのは失礼だが、・・・」で始まる文が閉じ括弧で閉じられていないのは、底本通りです。
入力:富田晶子
校正:雪森
2021年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

「卓+戈」、U+39B8    31-10
小書き片仮名ヱ    216-7


●図書カード