恨なき殺人

宮嶋資夫





 七月初めの日が頭の上でカンカン照りはじめると、山の中は一しきり、ソヨリとした風もなくなっていた。マンゴク網を辷り落る鉱石の響きも、トロッコのきしる音も、すべてが物憂くだらけ切っていた。草木の葉はぐんなりと萎れて、ただ山中一杯にころがっている岩のかけらや硅石の破片かけが、燃えるような日の光りに焦がされてチカチカと、勢いよく輝いているばかりであった。
 坑外で働いている者は、掘子も選鉱女も、歌一つ謳う元気もなくなっていた。時折坑内から起る爆発の轟きが思い出したようにだらけた空気の中に響き渡った。けれども、それも直ぐ、この烈しい光りと熱に気圧されて消えて了うと、四辺はまた妙にひっそりかんとして了った。
 この時麓の方から、太い松丸太を馬の脊に積んで来た馬子が見張りの前に来て、
「留木を持って来たから調べておくんなんしょ」と言った。
 肌脱ぎになって調べ物をしていた池田は、すぐに巻尺を持って外に出た。太い松丸太を担って、焼けるような日に照りつけられて山道を登って来た馬は、浴びるように汗をかいて、木蔭の草を食っていた。池田が尺を当て、杭木を調べて了うと、馬子は思い出したように、
「事務所からこれを頼まれて来やした」と、一通の手紙を渡した。
 それは東京の鉱主から、池田に宛てたものであった。
 鉱主から直接に来る手紙に碌なことのあったためしはないので、池田は妙な顔をして、ポケットに入れてしまった。杭木の領収書を受け取った馬子が、再び熱い日中を麓の方へ下って行ってから、彼は一人で廃坑の前に登って行った。其処には涼しい蔭と、坑内から吹いて来る冷たい風が絶えずあった。彼は其処に寝転ぶと、ポケットから手紙を出して、封を切って読み始めた。中には、
 ――君はこの二三日前に病気と称して現場を休んで、村の茶屋で遊んでいたそうだが、何の理由にせよ、そう言う行動は甚だ怪しからん事に思う。直ぐにも解雇すべきところだが、縁類にもなっていることだから、一応君の母親を呼んで注意だけして置いた。今後は断じて謹慎するか、然らざれば此の際辞職する方が、君の名を傷けないことになるであろう――と、こんな事が書いてあった。
 碌でもないことだろうと予想はしていたが、池田はこの手紙を読むと、最初は怒るよりも呆れて了った。一週間ほど前に、病気で現場を休んだことは事実であった。尤もその原因は飲み過ぎや遊び過ぎにあったかも知れないが、その日は終日事務所で神妙に書類の整理をやっていた。夜も稀らしいほど早く寝た。
 事実はこれだけのことであるのを、誰かが嘘を造って東京へ報告したものであろう。尤も彼がこんな目に会ったのは、これがはじめての事ではなかった。今までにもこう言う手段に乗せられて、自分の係長をなぐってしまってから、後で罪はその人にないのが解って、きまりの悪いのをこらえて謝罪あやまったこともあった。妙な風説を立てられた為めに、飯場頭に切られ損ねたことも、坑夫と喧嘩して、鍛冶場の火の中へ重なり合って転げ落ちたこともあった。
 今度のことも恐らく誰かが、何かのためにこんな事を言ってやったのであろう。鉱主の怒るのも無理はないが自分のした事のために、年老いた母親まで引合いに出さなくとも好いことと思った。それは甚だしい侮辱だと思った。
 その瞬間に彼は、辞職してすぐ東京へ帰ろうと思った。こんな小さな山の中で、仲間のアラを探し合ったり、中傷したり、それで足りずに嘘まで造って報告するような手合の中で、狭苦しい退屈な日を送っていることは、馬鹿げたことだと考えたからであった。
 けれどもそれは、ただこの山の煩わしさから逃れるだけで、前途に何の望みもありはしない。職業に餓えて、あの砂埃りのひどい東京の街を痩犬のようにさまよって、哀訴したり嘆願したりしなければならないのは、今から考えてもぞっとするほど解り切った事である。それで何かにあり附けば、やっぱり同じような厭やな気持ちを繰り返すだけの事だ。すべて世の中が、そんな風に出来ている――と思うと、彼れは又た妙に心細くなってしまった。
 旧坑の奥から吹いて来る陰気な風に吹かれながら、彼れはじっと目をつぶって了った。
 午過ぎの交替時間に、事務員はみんな見張りのテーブルの周囲に集った。その時池田は真中のテーブルの上に手紙を投げ出して、
「まあ読んでみてくれ給え。誰か妙なことを言ってやったとみえるよ」と平気らしく装うて言った。
 手紙は手から手に取られた。彼はそれを読む人の顔から、何物も逃すまいと、ジッと次から次に見詰めて行った。
 最初に読んだ鈴木は、
「また誰か妙なことを言ってやったんだな」と言った。
 次に読んだ測量係の男は、黙って「フフン」と笑った。
 一度池田を中傷して、後で彼から散々罵られた阿部という若い男は、読み終ると顔を赤くして黙っていた。その他の誰も、余り多くを言わなかった。
「この中で誰かこんな事を言ってやった人があるなら、自分だって言ってくれないか、でないと僕はいろんな邪推をしなきゃならないから」と、池田は妙に温和しく言った。
 けれども誰も黙っていた。
「君達でなきゃあ、やっぱり所長かな」と、池田は独り言のように言った。所長というのは、鉱主の妻君の兄で石山と言う男であった。三月ほど前にこの山の所長として来たのであったが、何時でもブツブツと見当違いの小言を言って歩いては、事務員の反感を買っていた。終には義理の弟に使われる低能児として、誰でもかげでは彼のことを低能と呼ぶようになって了った。
 多くの人が集って暮している処には、誰か一人、侮蔑か憎悪の的になるものがなければならない。池田は今まで幾度かその的になって来た。けれども石山が来てからは、事務員の反感が石山に向った代りに、石山からは憎まれ者として目指されるようになった事を彼れはよく知っていた。
 今度のことも恐らく石山の仕業だろうと思うと、彼は早く村に帰って何かしてみたくなっていた。
 五時になると、彼は誰よりも先きに見張りを出て馳け下った。選鉱場の前まで来ると、彼は中を覗いて、
「オイ、おやじ、少し話があるから一緒に行こう」と、帰り支度をしている沼田を急き立てた。沼田は池田の一番親しい仲間であった。真黒な顔に濃い髯を生やしているので、誰もおやじ、おやじと呼んでいた。
 沼田がアタフタと、包みと帽子を抱えて出て来ると、二人は急いで山を下った。谷間を過ぎて雑木林の中に来た時、池田はフト後を振り返ったが、誰の姿も見えないので、彼はやっと足をゆるめた。日はすでに高い山のかげにかくれたが、空はまだ昼のように明るかった。林の中からは、漸く涼しい風が吹き初めていた。
「ねえ、オイ、俺はひょっとすると止めなきゃならないかも知れないんだ」と、池田は突然言い出した。沼田は、
「そんな話だろうと思っていた」と、言ったが、
「それでどうするってのよ」と、問い返した。
「別にどうってアテもないんだけど」と言ったが、池田は沼田に何か済まないような気になった。
 二人はよくいろいろな不平を語り合った。そんな時に沼田は、この山に来る前に、千島の方で密猟船に乗っていた時のことをよく話した。
「海の方がおっかねえことも多いけど、陽気で好いぞ、ボートの中に寝そべって、大きな浪にこうユタリーユタリとゆられてよ、空を眺めてると下らないことは忘れてしまわあ。半年猟に出て、半年は女郎屋で暮すんだ。駆逐艦より少し速力の早い船が一艘あれば、大丈夫だ。どうかして二人でもう一度北海道へ行こうや」と言った。この前池田が山を止すと言った時にも、
「人殺しをすりゃすぐ捕るような陸の上じゃ何処へ行ったって同じことよ。まあもう少し我慢して、千島へでも行ってみろ、日露戦争の時脱営したまんまの奴もいりゃ、人殺しをして逃げて来た奴もいら。茶屋の亭主をしている奴だって何か曰くのある奴ばかりだ。奴等はみんな無籍者だから生きたって死んだって解りゃしないんだ。喧嘩して人殺しをする奴があったって下らない蔭で仕事をする奴なんかありゃしない。なんでもかんでも妙にちゃんとしちまった陸の上は何処へ行ったって同じこった。お前がいなくなると話の相手もなくなってしまうんだ、もう少し我慢しろよ」
 何時かしら池田も、いつかは千島に行きたいと思うようになった。法律もなければ警察もない世界では、人が人を殺して平気でいることがあるかも知れない。けれども殺すものは、殺し損えば殺されるのだ。それだけの覚悟さえあれば、何をしたって差支えのない事だ。殺すほどの気になってから、人は人の生命が大切になるんだ。卑怯な奴にはそんなことの解りようはないと思うと、早く千島に行きたいと思った。
 沼田は酒を飲まなかった。けれども、宿直の晩などに、池田が酒を飲んでいると、
「一つ聞かしてやるか」と、二上りなんかをよく謳った。錆のある通った声が、人気のない夜の山に静かに響いた。
 時には池田があまり遊び過ぎると、
「お前、鋳掛の松が海坊主の清吉に、人間は余り女ばかりこさえていると、根性骨が腐っちまうって、言ったことを知ってるか」と、砕けて意見をすることもあった。池田よりは二月ほどもおくれて、沼田が来てからの日を思うと、ただ二人丈けで暮して来たように思われる。沼田を置いて自分だけ出て行くと言うことは、池田の心を苦しめた。
 林の外れに出ると、四辺はまた明るくなった。草原にはまだ温いいきれが残って、ほてった土が、黙って歩いて行く足元に軽く立ち上った。
「あんな馬鹿につつかれて出て行くな、下らないこったな」と沼田は思い出したように言った。
「下らないことだよ。然しあんな馬鹿はなぐりでもしなけりゃ此方の気持が解らないんだからな、なぐりゃ止さなきゃならないし、詰らない話さ」
 二人はそれきり黙ってしまった。村境の峠を登った時は、空は赤くなっていた。涼しい夕風が吹き初めたので、木々の葉は蘇ったように、サラサラと鳴っていた。
 峠の下の茶屋の前に来た時に、池田は、
「ともかく俺は此処で飲んで行くよ、帰ったって喧嘩も出来ないで、ふくれていたってつまらないから」と言って立ち止った。
「今夜飲めば、それこそ何か言われる種だぞ」
 沼田は気遣わしそうに言った。
「種でもいいさ、奴等が何か言ったら、それをきっかけに此方だって何かやるさ」と池田が笑ったので、
「それもそうだな、まあ遊んで行け、俺も後から来るかも知れない」と言って、沼田は左の方の畑を登って行った。
 池田は茶屋の二階に登ると、無暗に酒を飲んだ。
 其処からは、事務所の屋根や障子もよく見えた。彼は少し酔うと、大きな声で歌をうたった。燈火のつく頃には、彼の周囲で手足の太い女たちが、踊ったり笑ったりしていた。


 泥のように酔いつぶれて、寝かされたのは何時のことか、彼は覚えがなかった。明方に眼が覚めた時は、腹の中が火のように熱くなって、汗はダクダク湧くように流れていた。
 部屋の隅にかけたランプのホヤは曲って、中の火が赤黒く見えるほどすすけていた。風通しの悪い綿蚊帳の中には、酒臭い息がこもって、鈍い焔の光りが、彼の側に寝ている女の姿をどんよりと照していた。起き上ると汗がダラダラと顔を流れて、頭が石のように重くなっていた。何もかも彼には気持の悪いものばかりであった。彼は急いで蚊帳を出ると、ソッと現場着を着て茶屋を出た。
 真夏の朝は白く明けて、涼しい山風が小暗い木蔭から吹いていた。
 彼はフト事務所の方を見たが、縁の戸はまだ閉っていた。裏屋根から立ち上る白い煙が裏手の黒い森の中へ流れ込んでいた。池田はその家の中に眠っている人のことを思うと、冷たい笑いが胸に浮んだ。そして何か勝ち誇ったような気になって、現場の方へさっさと歩き出した。
 けれども、ものの十足と歩かない中に、彼の頭はうなだれてしまった。それは一つにはまだ醒め切らない酒のために、頭の後ろの方がズキズキと痛んだからであった。然しそれよりも、低能と罵っている人間に反抗するために、酒を飲んで唄を謳って、宿酔ふつかえいで苦しんでいる自分のしたことが、馬鹿らしく思われたからであった。なおそれよりも、今朝自分の傍に寝ていた女のことを思うと、彼は自分に愛想がつきて、何もかも考えるのすらいやになった。女は久しい前から、野口と言う坑夫の情婦いろになっていることを、彼は知っていたのであった。
 すべてが馬鹿気て話にならないと思うと、彼は、昨夜からの勇気も、一遍に抜けそうになってしまった。けれども、世の中はこんな風に馬鹿げたものに出来ているんだ、悄気たって何になる――と思い返した。それよりも汗でも絞って頭を軽くして、今日一日を気持よく暮したいと思うと、彼はすぐに馳けはじめた。
 彼は何事も思う暇のないほど馳け通した。酒臭い汗は滝のように流れ出て、上衣や脚袢までズクズクに濡れてしまった。
 池田が見張りに着いた時は、宿直の者はまだ起きていなかった。
 彼はソッと中に入って、自分の棚から着替えの現場着を出すと、汗に濡れた着物を脱ぎ捨てて、前の清水で手拭を絞っては、べとつく汗を拭きとった。
 爽やかな朝の大気が、赤くなった彼の肌に心地よくしみ渡った。まだ日の出ない夏の空は、白く美しく輝いていた。彼は大きな口を開けて、その澄み切った大気を惜しむように、幾度か深く吸い込んだ。
 草鞋や脚袢まではき替えると、池田は何時ものように、物置きから莚を引き出して、坑口の上にそれを敷いて静かに寝ころんで、ジッと空を見上げていた。空は物思う種すら与えないほど、涯しなく深く澄んでいた。
 その時彼はフト、「自分がこの山に来てからもう八ヵ月になる」と思った。が、それと同時に、また例の癖が出た――と自分で嘲笑うような気になった。
 実際彼が就職してからの月を数えると言うことは、今日に始まったことではなかった。十三の時に小僧に出て、二十四の秋までに十四五度も職業を取り替えた彼は、何処に行っても一年と続いたことは稀れであった。
 彼の行く先々には、必ず馬鹿気た不愉快なことがつきまとっていた。
「何のために生きてるんだか解らない世の中に、何だってこんな嫌な事を辛抱しなきゃならないんだ」
 こんな事を考えて、折角探し当てた仕事を休んで寝転んでいたために、職業を失ったことも幾度かあった。そんな時に彼は、「死んだっても構うもんか」と言うような気にもなっていた。けれども差し迫るひもじさは、矢張り彼を働かせずには措かなかった。彼はまた職業を探し廻った。そしてやっと尋ね当てると、同じようなことを考えたり喧嘩をしたりして、また失うのが例であった。
 何時かしら彼は、新らしい職業にありつくと、一月経った、二月経ったと、何の事はない、丁度囚人が刑期の明けるのを待つように、過ぎ行く月日を数えることが癖になった。そしてたまたま一年も同じ処に落ちついていると、限りない退屈をさえ感ずるのであった。然し、囚人に刑期の明ける楽しい日の望みはあっても、彼を待つものは、何時も失職の暗い苦しい日ばかりである。それでも彼は、その馬鹿気た無為で退屈な時よりも、苦しい自由の日が堪らなく恋しくなる時があった。人生には苦痛か退屈の日より外には何もない。ただ時々に、自分の好きな何かを選ぶだけのことだと、彼は考えるようになっていた。
 八月もこんな山の中で、不自由な思いをして暮して来たんだと思うと、今更らにその月日のすべてが、ただ屈辱の堆積を語っているようにも思われる。わけても昨日からの事を考えると、たしかに何物かが屈辱を強いている。――「やっぱり止めるより外に途はないんだ」と彼は思った。
 この山を止して何処に行くと言うアテもない。今までにも幾度か苦しんだ失職――飢餓に襲われることも解り切っている。けれどもそれは自分の感情を蹂躙される、堪え難く不愉快な日を送るのと、何の違いもないことだ。失職してさまよっている中は、苦しい中にも何か夢を描くことも出来るが、この退屈な屈辱な日の先きには、暗い不安があるばかりだ。まして、今まで自分を虐げた奴等に、思い切り何の遠慮もなく復讐する瞬間の快さは、恐らく何物にも換え難いことだ――と、彼は強いて自分を鼓舞してみた。


 坑夫の入坑近くなって、彼は見張所に入って行った。係長や測量係は其処に揃っていたが、彼はただ「お早う」と言った切りで、黙って掘子の仕事場を割振っていた。彼の仲間も、何時ものように昨夜のことを冷笑ひやかしもせずに鹿爪らしい顔をしていた。恐らくこの山に執着のなくなった彼と親しくすることは、不得策だと考えているのだろうと池田は思っていた。
 午近くなると、毎日山の中は一しきり風が途絶えた。ジリジリと焼くように照りつける日の力に、草叢からは生温いいきれが立つばかりで、乾き切った岩石の破片は、チカチカと光って火のように熱くなっていた。坑内から一輪車やトロッコを押して来る掘子等は、下帯一つの素裸になっていた。彼等は一しきり岩片を運び出すと、坑口の冷たい風の来るところに身を寄せて、馬のようにハッハッと息を吐いていた。銅色をしたその身体も、汗と泥にまみれて、獣の斑のようになっていた。
 坑内で起る爆発の響きも、マンゴク網を辷り落ちる鉱石の音も、けだるく聞えて来るばかりであった。
 杉皮で屋根を葺いて、四方を硝子で張った見張りの中は、わけても熱かった。池田は砂だらけのテーブルに頬杖を突いて、フルスカップに書いた坑夫の賃金表を調べていたが、ジッと見詰めている中に、人の名も数字もただ一本の線になって、見直しても見直しても、うるんだ目からは涙ばかりが滲み出した。
 彼は、こんなことは何うでもいい、せめて今日一日だけでも、涼しいところで静かに過したいと思った。そして二三日前に、隣りの山で旧坑を掘り始めたと言うことを、誰かから聞いたのを思い出した。
 隣りの山とこの山との間には、鉱区のことでの争いがまだ続いている。今度掘り始めた旧坑と言うのは、何んなものか一度見ておきたいとも彼は思った。
 昼飯の時に、池田は係長の鈴木に、
「押野の方で、旧坑を掘り始めたって言うから見て来たいと思うんだけれど」と、言った。
 鈴木は、
「見て来給え、岩屋へでも行って休んで来たら気持が好くなるだろう」と、笑いながら言った。
 池田は直ぐ小使に、
「二号の頭に、誰か隣りの山へ行った者を連れて来てくれと言え」と言いつけた。
 間もなく飯場頭の萩野は、三田という坑夫を連れて見張りへ来た。萩野は別に何の教養もない男であったが、胆の据った、判断の好い男であった。池田は自分の仲間とより、萩野とは親しく暮していた。
「隣りの山を見に行くんですかね」
 萩野は見張りに来るとすぐ訊ねた。
「やりはじめたって言うから、見に行こうじゃないか。三田が場所は知ってるのかね」
「三田の兄弟が二三日前に見たって言うんで連れて来たんですが、下らないものだって言う話ですぜ」
「まあいいや、行ってみよう」
 池田は大きな麦稈帽子を冠って外に出た。

 外には午少し過ぎの強い日の光りが、息も吐けないほど漲っていた。その烈しい光りを全身に浴びると、まだ酒に爛れている池田の神経は、ズキズキと痛んだ。けれども彼は、無理に棒切れを振って山を馳け下りた。
 山裾の通洞の前には、裸になった坑夫や、選鉱の女達が、地面に腹をつけ洞の奥から来る煙臭い風に吹かれて寝ころんでいた。
 隣りの山に行くには、深い沢を一つ越さなければならなかった。其処には身の丈けほども高い茅や薄が茂っていた。足下のジクジクと湿けた大地は、湯のように温くなって、ぐんなりとした草の葉が吐く生温いいきれが、息苦しいほど立てこめていた。
 誰もこの中で口を利くものはなかった。絶えず流れて来る額の汗を拭きながら、黙って草を分けて進んだ。谷を越すと漸く雑木林の山路になった。けれども低い木立は、涼むに足るような蔭をつくっていなかった。
 嶺に登り詰めた時には、今朝着替えた池田のズボンも脚袢も、また絞るように濡れていた。
「酷い暑さだね」と彼は、やっと言った。
「何しろ岩屋まで行きましょうや、あすこなら涼しいから」と萩野が言ったので、彼等はまた山を下りはじめた。
 山を真中からそぎとったように、高い岩が両側に聳えていた。真中の崖の上からは、清水の集ったのが、滝のように流れ落ちている。右側の切立った岩の中腹には、洞を掘った中に、観音の堂が造ってあるので、此処のことを窟の観音と言うのであった。崖の下の平地には梢の暗い杉の木が茂っているので、焼くような日の光りも根方までは通らないので、薄暗い木の間には、しんめりとした冷たい大気が漂って、あたりは夜のように静寂であった。
 池田は崖の下の小さな滝壺に手拭を浸しては、汗になった身体を拭いた。身内に残っていた酒精が汗と共にすっかり出切って了ったように、頭も身体も軽くなった。
 綺麗そうな平らな岩をよって、彼等はてんでんに寝ころんだ。少時経ってから池田は突然、
「萩野君、僕はひょっとしたら止めるかも知れないよ」と言い出した。萩野は驚いたような顔をして、
「何うしたんです、又何かはじまったんですか」と言いながら起き上った。
「また何時かみたいなことさ。僕が酒を飲んだり女を買ったりすることが悪いんだよ。人を小学校の教師みたいな者だと思ってやがる。そんな馬鹿げて堅苦しい奴が、こんな山ん中へ流れ込んで来るもんか。なあ君」
「それで止めろって言って来たんですかね」
「そればかりじゃないんだよ。こないだ僕が病気で休んだろ、それを作病けびょうで村で遊んでたって東京へ報告した奴があるんだ。それで君、昨日僕のところへ小言の手紙が来て、酒を止めるかよすかしろって言うんだ、癪に触るから、昨夜村の茶屋で酔っぱらって、事務所へ聞えるように歌をうたってやった。きっと石山の奴が怒って今夜は何とかなるだろう」
「じゃ石山が報告したんですかね、あいつあお前さん、この間、飯場の前の山で、ピストルを二三発ドンドン打っていたから、何うしたんですって訊いたら、当るかと思ってやってみたんだって言っていましたっけ、畜生、坑夫を脅すつもりだと思ったから、そんなもんじゃ死にませんぜって、私の足の傷を見せたら、いやな顔をして行っちまいましたっけ」と言ってから、
「あいつあ馬鹿だ、あんな奴はどうだって好いじゃありませんか」と、慰めるように言った。
「馬鹿だって、向うがえらけりゃ仕方がないよ。僕あこんな下らない月給取りはほんとにいやになった。今度東京へ帰って、甘く行かなかったら坑夫になろう、その時は君頼むぜ」
「馬鹿な、お前さんなんか坑夫にならなくったって好いじゃありませんか」と萩野は取り合わなかった。
「まったくだよ。坑夫の方がよっぽど好いよ、八時間黙って石さえはたいていりゃあ好いんじゃないか。お世辞を言うこともなきゃ、何にもありゃしない。働いた丈け取って食って、いやになったら浪人して歩きゃ好いんだ。どんなに呑気だか知れやしない。今までにだって、随分働いた身体だもの、身体で稼ぐのは平気だから」
「全く何をしたって同じこったね、俺も嫌えな奴にお辞儀するなあ一番いやだ」と言ってから、
「だけどお前さんが坑夫になったら、随分理窟を言ったり、暴れたりするでしょう」と言って笑った。
「そう言や、此頃あ余り鬼踊りをやりませんね」と三田が傍から言ったので、池田も萩野もふき出した。この山に池田がはじめて来た頃には、月に二三度はきっと誰かと殴り合いの喧嘩をした。坑夫は彼の顔を見ると、
「池田さんの鬼踊りはなかなかうまいもんだね」と言ってよくひやかした。――
「帰りがおそくなるといけないから出掛けましょう」と萩野が言ったので、彼等はまたその森を出た。
 旧坑と言うのは、低い小山の中腹にあった。長い間人目にふれなかったものらしく、坑口の周囲には灌木が一杯に生い茂って、坑内にはまだ入口から水が沢山たまっていた。彼等は黙って少時其処に立っていた。やがて奥の方で、カンテラの光りがチラチラとして、水を踏む音がジャブジャブと聞えると、土を盛ったもっこ[#「畚」の「田」に代えて「由」、U+2161E、76-上-15]を担いだ泥だらけの男が二人出て来た。山裾の方へ土をはねてから、二人は見馴れない者が立っているのを、けげんらしく眺めてまた奥に入って行った。
「入ってみべえ」と萩野は三田を顎でしゃくった。けれども池田は、その古臭い水の溜っているのを見ると、中に入る気にはならなかった。
「どんなだか見て来てくれないか」と萩野に言って、坑口の側の小高い草叢にまた寝ころんだ。彼はいつ止す事か解らないと思うと、こうして少しの安息をでも得たがっていた。
 萩野は先きに立って、坑内に入って行った。暗になれた彼等は、カンテラもなしで奥の方へ進んで行った。けれども直ぐに帰って来て、
「噂ほどのものはありゃしない。※(「金+二点しんにょうの通」、第4水準2-91-29)のうちなんて、てんで見えやしねえ」と萩野は、濡れた草履を叢にバタバタさせながら言った。
 坑内で水の音がジャブジャブと激しくしたと思うと、先きの男が二人揃ってまた出て来たが、今度は土は担いでいなかった。
 前に立った男は天秤をしっかりと持って、萩野の前に突っ立って、
「お前さん方は何処から来なすった」と詰るように訊ねた。
「おら隣りの山から来たのよ」と萩野は落ちついて答えた。
「隣り山といや、お前さんも坑夫だろ」と、今度はややかさにかかるようになって云った。
「坑夫よ、俺、高田の萩野ってえもんだ」
 萩野の肩はもう少し怒っていた。
「坑夫がお前、よその坑内へ挨拶もなしに入えるって法があるか」
「挨拶も何も、お前達や中に入っていたじゃねえか、へえっていけなきゃいけねえて言うが好いんだ」
 萩野は拳を振わせてジリジリ進み寄った。
 相手は四十に近い頑丈な身体をした男であった。頬髯をモジャモジャと生やしてはいたが、何処か人の好さ相な顔をしていた。
「おれの言うことが解らねえのか、坑夫の癖によその坑内へ黙って入るって作法があるかって言うんだ」
 その男は一こくらしく問い詰めた。
「何い作法だ、おら餓鬼の時から坑夫になって、今日まで作法を知らねえなんて、ひぼをつけられたこたあねえんだ、うぬが作法を知らねえんだ」
「よし、お前がそう言うなら、俺もこんだ高田の坑内を黙って歩いてやるからそう思え」
「なにをっ、うぬらの雁首で歩けるものなら歩いてみろっ」と萩野は又一歩踏み出した。
「何っ」と先きの男の天秤を持った手が、ピクッと震えた。面白半分に二人の口論を聞いていた池田は其の時中に入った。
「よせっ、おい萩野君、こんな事で仲間と喧嘩して何になるんだ、止せよ」と萩野をとめてから、先きの男に、
「君、今日は僕がこの山を見に来るって出て来たんだから、此処で喧嘩をされると僕が済まないことになる、まあ一寸したことの行き違いだから勘弁してくれ給え」と頭を下げた。
「なにお前さん、同職の癖に小山だと思って馬鹿にしやがるから癪にさわるんだ」
 その男はまだ萩野を睨めていた。
「なにっ」と萩野がまた出ようとするのを、
「好いから行こうよ、喧嘩するほどのことじゃないさ」と池田は萩野を無理に引っ張って、山を下った。
 三田は黙って後からつづいた。彼等が二三十間も下ったかと思う頃、「モシモシ」と呼ぶ者があった。池田は振り返えってみると、追いかけて来た別の坑夫が、
「今わしの山の現場の衆が来て、一寸あなたに会いたいって言うから、来ておくんなさい」と言った。
 池田は、用があるなら自分で来るが好いと思った。けれども、何か言い出せば又うるさいと思ったので彼は黙ってその男の後について行った。
 旧坑の上には、身体にそぐわない洋服を着た若い男が立っていた。池田の顔を見ると、妙に肩を聳やかして、
「私は今度この山の事務員になった阿久津という者です」
と、手に持った名刺を出した。
 池田はその態度の、何となくわざとらしいのが可笑しかった。けれども同じように名刺を出してから、
「今日はどうも大変失敬しました」と挨拶をした。
「イヤ、丁度私が昼飯に行っていていなかったものですから、然し行き違いは何処にもある事ですから、気にしないで又遊びにお出で下さい」
 笑いながら言ってはいたが、その眼には何となく陰険なものが潜んでいた。
「君もどうかちっと」と言ってから、「山が退けるといけないから、僕は失敬します」と頭を下げて、池田はその道を下って行った。
 萩野と三田は、何時の間にかすぐ下の灌木の蔭にかくれていた。池田の顔をみると、
「何か文句でも言いましたかね」萩野が尋ねた。池田が、
「阿久津という若い男が、名刺を出して遊びに来てくれって言った丈けだった」と言うと、
「ああ、彼奴あ塩子の宿屋の息子ですよ。事務員になったから洋服を着たのが見せたかったんだろ」と言って三田が笑った。
「僕はもうどうでも好いと思っていたから、一寸あやまって来た。事務員より坑夫が好いよ」
 池田はクサクサしたように言った。


 池田は見張りに帰ると、鈴木に今日のことを話してから、
「所長は来たの」と訊ねた。
「今日はまだ来ないよ。昨日も来なかったのに」と変に笑ってから、
「来たからって坑内へ入るわけじゃなし、事務所で女の小言でも言ってる方が無事だんべ」と、わざと奥州訛りを出して言った。
 その日も退けどきになると、池田は一番先きに山を下って、選鉱場の外から沼田を呼んだ。沼田は何時ものように包みを抱えて、ノシノシと出て来た。
「昨夜石山は何か言ってたかい」と池田はすぐに訊ねた。
「ううん、何とも言わねえ。奴さんまた碁を打とうってから、三番つづけて負かしてやった。時々お前の調子っ外れの声が聞えても、知らんふりをしてたっけ」
「でも今夜は何うかなるだろう。それで何とも言わなきゃ、彼奴もよっぽど唐変木だ」と、池田は沼田の意見を促すように言った。
「でも何とも解らんぞ。あんな耻知らずは、いざとなるとひっ腰が弱いから」と沼田は嘲るように言った。それでも池田は、今夜はどうにかなるものと、無理に考えてみた。

 村境いの峠を越して、事務所の屋根が見えた時、池田の心は何となく緊張した。石山が何と言い出すだろうと色々に考えてみた。そして若し生意気なことを言ったら、足腰の立たなくなるほど打ちのめしてやろうとも考えていた。けれども、彼はまた、この位のことを大事らしく、くよくよ考える自分をケチ臭い奴だと思う気も起っていた。
 事務所といっても、この村の旧家を借りた百姓家であった。茅葺きのダダッ広い家の、薄暗い台所の隅には、馬小舎も出来ていた。夏になると、蠅は真黒になるほど群り飛んでいた。この辺にはめずらしく、座敷には天井が張ってあったが、それすら木地も見えないほど真黒に煤けていた。縁側の柱についている刀傷は、水戸の天狗組が暴れた時つけたものだと言うのが、家主の婆さんの唯一の自慢であったが、それほど古い家であった。ただ、小高い畑の上に建っているだけに、向うの山に月の出た夜などは、山村らしい眺めがあった。
 二人が帰って来た時は、石山は湯に入っていた。池田は縁側で草鞋を脱ぐとごろりと寝転んで空を仰いで、湯のあくのを待っていた。
 西の空は赤くなって、黒くなった山影との色彩がクッキリと分れていた。畑の向うの崖下を流れる川面から立つ靄が、川向いの山裾をうっすらと廻っていた。
 池田は包みを縁に投り出したまま、前の広場をブラブラ歩きながら、夕やけの空を仰いでいた。
 石山が湯から上って来ると、沼田は、
「ヤ、ただいま」と挨拶をしたが、池田は黙って湯に入ってしまった。沼田も直ぐに後から来た。
 二人が湯から上るころ、大谷や阿部が帰って来た。一人者の事務員だけ事務所に泊ることになっていたのであった。
 湯から上ると、池田は縁側に寝ころんでいた。石山は黙って現場の報告書を見ていたが、何時ものように次の間には出て来なかった。石山は毎日定って晩酌をやった。みんなの食事が終ったころに、丁度その酔いの廻りはじめるのも毎日同じようであった。食い散らした膳を前においたまま、左の手に報告書を持って、酔ってドロンとした眼でちょいちょい見ながら、
「オイ、君、一寸」と誰かを呼んで、訳けのわからない質問をはじめるのが定りであった。池田はそんな時にはよく議論をした。
 けれどもその晩は、晩酌がすんでも石山は黙っていた。
 ランプをつけると、前の畑や、向うの山の葉蔭から、小さな虫が雲のように集って来た。若い事務員はその虫を防ぐために、又た面白半分に縁側の前でかがり火をたいた。風の加減で煙が座敷一杯に舞い込んで来ると、誰も外に出てしまった。夜はさすがに、山奥らしい涼しい風が吹いていた。空には夏らしく星が光って、山は黒く立っていた。
 池田は広場の隅に積んである鉱石の俵に身をもたせて、空を仰いでいた。沼田がその傍で細い声で鼻唄をうたっていると、
「沼田君、昨夜のかたきを打とう」と、しまりのない声で石山が呼んだ。
「やりますかな」と云ってから、「よし、又小っぴどく負かしてやろう」と呟いた。
「この容子じゃ駄目だな」と池田が囁くと、
「黙っているなら打っちゃっとけよ」と言って沼田は座敷の方へ行って了った。
 阿部も大谷も、仲間の家へでも行ったのか、姿が見えなかった。
 池田は話し相手もなくなったので、暗い道をソロソロ歩きながら、下の方の仙太という酒店さかみせに行った。
 村の娘を相手にして、少しばかりの酒を飲んで、夜風に吹かれて帰って来た時には、石山はもう寝てしまっていた。池田はホッと安心したような、好い機会を失ったのを惜しむような妙な気持ちになっていた。
 明る朝、何時ものように現場に出かける時、池田は、
「これでもう済みかなあ」と沼田に言った。
「すみさ、どうせ奴等のするこたあこんなものよ」と沼田はうそぶいていた。
 期待していたほどにもなく済む事のために、自分の生活を動揺させられるのは、随分馬鹿らしいことだと思った。けれどもそれと共に、このことが、何か長い退屈を忘れさせてくれたとも思っていた。そして彼は現場に出ると、何時ものように真暗な坑内を歩いたり、帳面をつけたりしていた。
 萩野は彼の顔を見ると、
「別に騒ぎにもなりませんでしたか」と、嬉し相に言っていた。


 二三日経ってから、池田は東京にいる母親から、鉱主に呼ばれて、お前の不品行を散々聞かされた。年とった母親に、もう余り心配させてくれるな――と、クドクドと書いた手紙を受取った。
 けれども彼は、下の茶屋へ出掛けて行って、村の娘にからかうことは止めなかった。休みの日に当直をした時には、坑夫と一緒に酔っ払って、飯場や長屋を騒ぎ廻って歩いていたが、石山も阿部も報告をしなくなったとみえて、鉱主からは再び何とも言って来なかった。
 石山と池田との間は、段々にこじれて行くばかりであった。事務所にいる間は、二人とも滅多に口を利くことはなかった。石山が現場の見廻りに来て、掘進や鉱量のことで何か言い出すと、池田はきっと反対をした。
 夏になって、鉱産量がめっきり増して来たのに、坑夫の賃金が増さないと言うので、坑夫の中からは苦情を言うものが出て来た。石山は池田が坑夫を煽動するように思い込んでいるらしく、山に来る時は、きっとピストルを離さなかった。
 事務所に帰って、石山と睨み合いをしているような、不愉快な日を過すより、見張りに宿直する方が池田には好もしいことであった。彼は仲間の分まで代って山に宿るようになった。
 四時になって、選鉱場の人夫や女工が帰ると、事務員はワイワイ騒ぎながら山から帰って行った。見張りに残った池田は、急いで判座帳の整理をして了うと、直ぐに坑内を一巡した。坑夫や掘子に注意する丈けのことをしてしまうと、それからは、自分一人の世界だと思うのであった。
 山番に焚かせた風呂に入って、浴衣に着替えてしまうと、彼はよく裏の山に登って行った。その山の頂からは眼の下に起伏する幾重の山が、遠く北国の高い山で劃られるまで、数限りなくつづいていた。
 夏の夕日が西の空に燃えて、夕靄が谷間や山蔭の村の上に漂って、青葉に包まれた小山の頂きが、浮ぶように見えているのは、全く平和な姿らしくも眺められた。けれども彼は、その狭苦しい山村で、単調な生活をしている人々のことを思わずにはいられなかった。

 若葉の萌える春のころだった。午休みの時に、彼がこの頂きに登って来たとき、鍛冶屋をしている竹という若い男が、後からついて登って来た。その男は少し馬鹿のようではあったが、正直で優しい気質きだてを有っていた。池田が頂きの三角点の石に腰を下している傍に立って、
「東京はどっちの方でやすべえ」と訊いた。
 はるかに遠く、水戸の海が霞の奥にどんよりと光っていた。
「あすこが水戸だから、もっと此方の方だろう」と池田は右の方を指した。竹は、
「俺も東京さ行って暮してえな」と嘆くように言った。
 東京に行けば、面白い生活が出来ると思っているこの男は、まだ幸福だと思った。池田はこの山に登ると、何時も竹の言ったことを思い出した。自分なんかは何処へ行くアテもなく、唯この山で、不愉快な生活の中に、僅かな安逸を貪っているのだと思うと、限りなく退屈になって来た。
「もう長いことはあるまい、その中に打ち壊れる時が来るだろう」と思ったが、すぐその後から自分で進んで壊すことも出来ないのかと思うと、自分の無力と卑怯を、悲しんだり嘲笑ったりする気も起っていた。
 夕暗が、この高い峰の上まで襲って来るようになってから、彼は見張りに下って行くのであった。
 見張りの中には、山番が灯してくれるランプが一つ、薄暗く光っていた。外の暗が硝子を通して押し寄せるので、ランプの光りは何となく淋し気だった。時々、坑内から起るハッパの轟きと、鉱山歌を謳いながら掘子が押して来るトロッコの響きが絶えると、高山の夜は恐ろしいほど静かになった。
 彼はランプの下に腰をかけてジッとして、夜更けまで空しく考え込んでいることがあった。
 盆の賞与を貰うと、事務員はみんな交替で東京へ遊びに行った。けれども彼は行こうとも思わなかった。東京に行けば、再び此処へ帰って来る気はなくなるだろう。と言って、東京にも別に自分の生活を新らしくさせてくれるものがあるとは思えなかった。三日に一度位ずつ村に帰ると、池田は下の茶屋に行って泥のように酔っ払ってから、事務所へ帰って蚊帳の中へもぐり込んだ。
「あんまり無茶をして、身体をおやしちまっちゃいけないぞ」と、沼田が気遣わし相に言うと、
「丈夫で暮してりゃ何うなるんだい」と反抗的に言うこともあった。その癖彼は、冷水摩擦をやったり、山の上で深呼吸をやったりしていた。それはただ、ヨボヨボして死にたくないと思っていたからであった。
 七月の末であった。池田は山に宿直をして、夕暮に、湯を使っていると、一の番から上った坑夫や掘子が、揃いの浴衣や袢天を着て、ゾロゾロと見張りの前を通って行った。
「オイ、何処へ行くんだ」と風呂の中から彼は尋ねた。
「塩子の山の直り祝いだって弁天様のお祭りがあるってから、行って娘子でも押し廻してやるべえと思って」と小林と言う掘子が笑いながら言った。
「山の直り祝いに弁天様のお祭りか」と池田が笑うと、
「なんで鉱石なんかてんで出やしねえんでやんすよ。奴等箪笥の金掘りだってから、こんな騒ぎでもやって、金でも出させるんでやすべえ」と言ってから、
「何でもいいや、早く行って押し廻すべえ」と大きな声で笑いながら、村境いの峰の方へ登って行った。白地や紺の袢天が、青葉の中に見えかくれして、やがてみんな峰を越した。
 翌朝池田は早く起きて、何時ものように山の峰を散歩して、深呼吸をしたり、冷水摩擦をやった。
 朝明けの澄み切った空気を吸ったり、皮膚の赤くなるほどになったりすると、一時に健康を増すように思われる。日毎にしきたったその事の終らない中は、彼は何となく気が落ちつかなかった。それが終ると、やがて彼は判座を受けつけるまで窓際に腰を下して、坑夫や掘子の来るのを待つのであった。
 山の峰は朝陽に輝いて、空は美しく晴れていた。まだ人の足に汚されない坑内から出る水は、綺麗に澄んで麓の方へ、チロチロと優しい音を立てて流れていた。物凄い響きの起らない間の、鉱山の朝は静かに美しかった。
 やがて選鉱の人夫が、二三人ずつ、「おはよう」と判座帳を投げ込んで下の方へ下って行ったが、すぐ眼の下のマンゴク網の下で、輪をつくって、煙草をプカプカ吸っていた。澄み切った大気の中に、紫色の煙が鮮やかに立ち上った。四五人目に来たのは塩子から来る老人であった。ゴホゴホ咳をしながら判座帳を出して、
「旦那昨夜、塩子の祭りで人殺しがありやした」と言った。喧嘩や怪我には慣れ切った池田も、人殺しには一寸驚いて、
「殺されたって誰が」と訊ねた。
 老人は、
「選鉱の一輪車押しをしていた寅吉でやさ」と答えた。
 池田は、体格の好い、獰猛な顔をした男をふと思い出したが、
「寅吉って、あの名幡目かい」と念を押すと、
「そうでやんすよ、奴、酒食いで性の悪い奴でやんしたが、殺されちゃ、ハア、あかねえ」
「で、殺したのは」
「わからねえんでやんすよ。死骸は検視の済まねえうちは、片附けてなんねえって言う事で、まだ弁天堂の後ろに蓆をかけてほったらかしてありやすが、この温気じゃ直ぐ腐りやすべえ、寅吉も後生の悪い奴だ」と言ったが、下の方から上って来たものがあったので、老人は、
「ご免なんしょ」と言って下って行ってしまった。


 池田は、隣村で人を殺したのは、この山の坑夫ではないかと思った。一の番から上った坑夫ばかりが遊びに行ったのであるからと、彼はその日の、坑夫の入坑数をよく調べて見た。けれども欠勤している者は一人もなかった。係長の鈴木が出て来ると、彼はそのことを話した。
「飯場のもんがやったんなら、内密で逃がしてやった方が好い。ちっぽけな山ん中へもぐり込んじまえば、解るもんでありゃしねえ」
 若い時は、坑夫をしてぐず東という綽名まで取った鈴木は、平気で言った。池田も、もしそうなら、うまく逃がしてやりたいと思っていた。作業が始まってから、彼はくまなく坑内を歩いて、坑夫の容子を見た。然し彼等は何時もと変ることもなく、カンテラの灯かげでよく働いていた。
 その中に池田は、下手人のことよりも、死骸の方が余計に気になり出した。この焦げつくような日に照りつけられたら、死骸は一たまりもなく腐って了うだろうと思った。
 河原でよく見る蛇の死骸に、蠅のたかった姿や臭いを思い浮べた。世の中には、役にも立たない人の死骸を保存するために、酒精アルコールだの朱につける事もあるのに、死骸の腐るまで検視が来ないのは、随分馬鹿げたことだと思った。
 翌朝も現場に出ると、彼はすぐ昨日の老人に、
「検視はまだ来ないか」と訊いた。老人は、
「どうして、まだ二三日はかかりやすべえ」と言った。
 彼はもう死骸は臭くなったろうと思った。そして腐った傷口の色などを想っては気持ちを悪くしていた。毎朝彼は老人に同じようなことを訊ねた。
「昨夜やっと検視が来ましただ。えら臭くって困ったって、村の衆がこぼしていやした」と老人が言ったのは、四日目の朝であった。
 池田は、頭の中にこびりついていた、黒いものが除れたような、快さを感じたのであった。
 翌日の午後であった。商人風の男や、髯を生やした男の四五人連れが、村境の峰の方から見張所へやって来た。
 彼等はみんな、白い股引に脚袢草鞋をつけていたが、焦げるような日に照りつけられて、汗をダラダラ垂らしていた。
 見張りの中へは髯を生やした男が一人入って来た。残ったものは、清水で汗を洗ったり木蔭で扇子を動かして休んでいた。池田は最初この山を見に来た鉱山師かと思っていた。が、髯を生やした男が、「一寸ごめん下さい」と言って出した名刺をみると、茨城県巡査という肩書があった。
「私は孫根の駐在所に居るものですが」と挨拶をしてから、
「実は今日、一寸取調べたいことがあって来たのですが、坑夫はみんなおりますかしら」と叮嚀に訊ねた。外に残ったものは、見張りの戸口に立って、ジロジロ四辺を見廻わしていた。
「取調べって、何のことですか」と池田が訊ねると、
「塩子の殺人事件に就てなんですが」と言って、まだ立っているので、
「まあお掛けなさい」と椅子をすすめてから、
「どうも、この山の坑夫は殺したような様子はありませんが」と言った。
「いや、それでも一寸、その調べたいことがあるのですが――坑夫はみんなおりますかしら」と、巡査は気掛りらしく訊ねた。
 池田は、その事があって以来、坑夫に何の変りもないことを思った。
 丁度其処へ、坑内の見廻りをしていた鈴木が、カンテラをぶら下げて泥だらけになって帰って来た。池田はすぐ、
「鈴木さん、これは孫根の駐在所の方だそうだけど、塩子のことで、坑夫を調べに来られたんだそうだ」と引き合せた。
「アア、そうか」と鈴木は一寸会釈をしてから、
「坑夫は今坑内と飯場に半分ずついますが。作業中のものはみんな呼ぶわけに行きませんから、御用だったら坑内でも飯場でも調べたら好いでしょう」と、無愛想な顔をして言った。
「坑内と飯場ですか、それは困りましたな、実はその三田という坑夫を一寸呼んでいただきたいのですが」と、巡査は四周を憚るような声で言った。
「三田がどうかしたんですか」と池田が口を出した。
「イヤ、一寸参考に聞きたいことがある丈けで、三田は別に――」と巡査は、何事もないように言った。
 池田は三田と聞くとギョッとした。それはこの前、隣りの山で萩野が喧嘩をした時に、三田が傍にいたことを考え出したからであった。けれども、今三田の女房は身持になっている。女房子のことを忘れてまで、喧嘩をしはしまいと無理にも考えてみたりした。
「イヤ、あの男がどうしたと言う訳ではないのですが、塩子のもので、三田という坑夫の顔を覚えていたものがあるものですから」
 巡査は強いて安心させるように言った。
「仕方がない、呼んだら好いだろう」と鈴木は投げ出すように言って、外に出てしまった。
「じゃ僕が呼んで来ましょう」と言って、池田はカンテラをぶら下げて見張りを出た。彼はブラブラと三号坑の坑口に来てから、そこにいた掘子に、
「オイ、三田を呼んで来てくれ」と言いつけて、入口から四五間奥の竪坑たてあなの上に立っていた。その竪坑は、下の通洞に通じていた。それを伝って逃げれば、逃げられないこともないと考えていた。
 間もなく真暗な奥の方から、カンテラの焔をチラチラさせて、三田はかがむようにしてやって来た。池田の顔をみると、
「何か御用ですか」と訊いた。
「今刑事がやって来て、塩子のことで一寸聞きたいことがあるって言うんだ。何かやったのか」と訊ねると、
「いえ、あっしは何もやらねえんだけど」と、三田はギョッとしたように言った。
「誰だかお前の顔を覚えてた奴があるって言うんだ。逃げるつもりなら、此処から逃げたら好いだろう」と、池田は眼で竪坑を知らせた。
「いつかの宿屋の伜ですよ、あっしの顔を覚えてるっていうなあ、畜生っ」と言ったが、
「やったなあっしじゃないんですから、行きましょう」と言って、三田はさっさと歩き出した。

 二人が見張りに帰って来た時は、見張りの中は、事務員や刑事で一杯になっていた。その中には、現場の見廻りに来た石山の姿も見えた。何時聞き伝えたのか、坑夫は見張りを遠巻きにして立っていた。見張りにいた刑事は、
「此処では何ですから、一寸何処かを拝借したいんですが」と言うと、石山はすぐ、
「製図室があいてます」と口を出した。
「僕が行きましょう」と、池田は刑事と三田を、見張りの下の製図室に案内した。彼は事の真相のわかるまで、刑事の傍を離れたくないと思っていた。
 ガランとした湿気臭い製図室に入ると、
「君もかけ給え」と、商人風をした刑事が、三田にも椅子を与えた。
 三田は悪びれた風もなく、腰を下すと、後ろには、三人の刑事が囲むように立ってしまった。その中での上役らしい男が、三田の前に腰を下して、
「君は塩子で喧嘩をした相だね」と問い始めた。
「ええ、やりました」と、東京で植木屋や八百屋をしたこともあると言う三田は、威勢よく答えた。
「どうして喧嘩をしたんだ」
「なに、あっしが祭りを見ている中から、あの宿屋の伜が人を引っ張って来ちゃ喧嘩を吹っかけるんです。うるせえから帰ろうと思って森んとこまで来ると、高田の坑夫を一人も帰すなあっと誰か怒鳴ったと思うと、あっしの周りをグルッと取り巻いて、寅の奴が一番先きに飛び出して来たんです」
「その時お前は短刀を抜いたろ」
「寅は匕首を抜いて切りかけて来たんですが、あっしは短刀がないから、煙管を出してこうやって――」と三田は煙管を逆手に持って、身構えをして見せた。
「フン、それで」
 刑事が合槌を打った。
「すると寅が、アッと言って倒れたと思うと、周りにいた奴等が逃げ出したから、わしも急いで逃げて来ちまったんで、ええ」と、三田は独りでうなずいた。
「そうか」と調べていた男も点頭うなずいたが、
「お前は喧嘩するつもりで出掛けたんじゃないのか」とまた訊ねた。
「かかあの腹がでけえのに、喧嘩どこの騒ぎじゃありませんや、気晴らしに祭りを見に行ったら、宿屋の伜が音頭を取ってやった事でさ、畜生っ」と三田は口を尖らした。
「然しお前は、誰が寅を殺したんだか知っているだろう」
「寅が死んだっていうのは、明る朝聞いたこってさ、誰が切ったか知るもんですか」とキッパリ言い放った。
「ではそれでよしとして、一寸塩子まで同行してくれ、検事もまた来ておられるから」
「ええ、行きましょう。だけど、一寸着物を着かえさせておくんなさい」と言った。三田の後ろには、刑事が三人附き添って、製図室を出て行った。

 宿屋の伜というのを聞いてから、池田の頭はカッとしてしまった。矢張り彼奴がこの間のことを根に持ってした事だと思うと、全身の血が逆にめぐるような気持ちがした。
 卑怯な奴は、何事も自分でしないで人を煽てるのだ。ふだんから塩子の村の者は、この山が発見されたために蒙る利益が、こちらの村にばかり落ることをそねんでいた。その感情を利用して、寅吉をそそのかしたに違いないと思った。何も知らない坑夫なんかに喧嘩を売って、人を殺したり、罪に陥したりして夫れが何になるのだと思うと、彼はその宿屋の伜を、八つ裂きにしてやりたいような気になっていた。
「若し三田が殺したとすると、喧嘩を売らせた宿屋の伜はどうなるんですか」と、池田は取調べをした男に訊いた。
「さあどうなるか、調べた上でなければ分りますまい」とその男は、冷然として答えた。池田は勝手にしろと思った。二人は黙って睨み合っていた。
「お待遠さまでした」と、しばらくしてから三田は涼しそうな単衣ものをきて、洋傘を手にして入って来た。
「では」と刑事等は起ち上って、
「一寸拝借して行きます、が、何この人は大丈夫です」と念を押すように言って、三田を真中にして上って行った。
 岩片ずり捨て場の崖の上には、坑夫や掘子が、ズラリと並んで、眼を光らせていた。
 誰か飛び出して、三田を取り返すようなことにならないかしらと、池田は心の中に望んでみた。けれども、それは矢張り無駄であった。やがて彼等の姿は、峰の向うに消えてしまった。

 池田がぐずぐずと見張りの方へ登って行く後ろから、
「オイ、待てよ」と呼んだものがあった。
 振り返ってみると、製図室の前に、鈴木が息を切らせて、汗をダラダラ流して立っていた。池田が後へ戻ると鈴木はその室の中へ入ってから、
「切ったものが解ったよ」と小さな声で囁いた。
「じゃ、三田じゃないんだね」
「松田だ、俺あ驚いてしまった」と言ってから、
「さっきあれから飯場へ行って、萩野といろいろ相談してると、松田が仕事着のまんまでひょこっと帰って来て、三田の兄弟が引っ張られるっていうけど、切ったな私だって言うんだ。俺やまったく困ったことになった」と、鈴木は眼に一杯涙をためていた。
 松田というのは、まだこの山へ来てから、十日と経たない男であった。或る朝、見張りに事務員が揃っているところへ、坑夫浪人らしい姿をして、ひょっと入って来た、若い男があった。そして、
「鈴木さんという方はお出でですか」と訊ねた。
「俺が鈴木だ」と言って鈴木が出て行くと、その男は、
「赤木の親分から手紙を貰って来ました」と、腹掛けから出した手紙を渡した。鈴木はそのクシャクシャになった手紙を読みづらそうに眺めていたが、
「ああ、赤木の兄弟も奉加帳になってしまったのか」と悲しそうにつぶやいたが、
「お前は松田というのか」とその男に訊ねた。
「ええ、そう申します」と、若い男は坑夫の挨拶のような口調で答えた。
「何時坑夫になった」
「一昨年で、まだ未熟もんでございます」と頭を下げた。その容子が可笑しいので、見張りにいたものはみんな笑い出した。
「まあ好いや、この山は今一杯で使役どめだし、そんな腕じゃ坑夫にはなれないから、支柱手子にでもなるように相談しておいてやる。此処を下ると飯場があるから、二号の方へ挨拶をして上ったら、村の俺の家へ行って待っていろ、赤木の兄弟のことも聞きたいから」
 子供のない鈴木がなつかし相に言ったので、
「ありがとうございます」と叮嚀に辞儀をして、行李をゆすって下って行った。
 松田はその翌日から、支柱手子として働いていた。無口なおとなしい青年であった。
 池田は、松田のような男が寅吉を殺したのは不思議だと思った。
「松田が切ったって、本当かしら」と言うと、鈴木は、
「自分で切ったって言うんだから仕方がねえ。マア、君一つ行ってよく聞いておくれ、俺あ、ああ言う義理合いでどうも出ねえ方が好いと思うから」と、がっかりしたように言った。
「じゃ、行って来よう、もしそうだったら、自首でもさせるかね」
「仕方がねえな」と鈴木がうなずいたので、池田は急いで下って行った。

 飯場の中は妙にひっそりしていた。萩野は何時ものように、火の気のない炉のそばに、どっかりと安座あぐらをかいていた。その側には、裸体はだかになった坑夫が三四人、ごろごろと寝転んでいた。
「萩野君、弱ったことになったね」と、池田はいきなり言うと、
「俺も全く驚いちゃって」と笑いながら蒲団をすすめた。
「此処で話をしてる暇もないだろう」と、池田は腰もかけずに、
「松田は何処にいるの」と訊ねた。
「裏で支度をしているところでさ」と、萩野はそっと裏口の方を指した。
「じゃ、裏で話を聞いてみようじゃないか」
 池田は萩野を促して裏口の方へ廻った。
 薄暗い風呂場の中で、生温い水で手足の泥を洗い落していた松田は、二人の顔を見ると、一寸会釈をした。が、細面の顔は何となく蒼ざめていた。
 二人はその傍に腰を下して、松田の支度が済むのを待っていた。身体を洗ってから、単衣物に着かえると、松田は二人のところへ来て、
「どうも飛んだ御迷惑をかけて済みませんでした」と頭を下げた。
「迷惑も何もないが、何だって人なんか切ったんだい」と池田が訊いた。
「どうも済まないことをした。来る早々こんなことをやっちゃって、鈴木の伯父御には何とも申訳けがないもんだから、つい愚図愚図してしまって」と、若々しい顔にも、暗いくもりを見せていた。
「仕方がないさ、時のはずみだ」
 萩野はなだめるように言ってから、
「お前一体どうして寅を切ったんだか、話してみろ」とまた訊ねた。
 松田はしばらくジッと考えていたが、
「どうも頭ん中が、こんがらかって、何が先きだか忘れちゃった」と言いながら話し出した。

 祭りがあったのは、松田がこの山に来てから四日目であった。一の番から上って、飯場でブラブラ遊んでいると、飯場の一人者が、隣り村の祭りだと騒いでドンドン出かけて行ってしまった。松田はまだ馴染も少ないので茫然ぼんやりとしていたが、日が暮れてから三田が来て、
「オイ祭りに行かねえか」と誘ったので、若い彼は喜んでそのまま後について行った。
 真暗な山道を越して、二人が塩子に行った時は、村芝居も済んだ後であった。弁天堂の前に薄暗い提灯が五つ六つ、夏の夜の暗を照らしていて、ズッと下の百姓家の前には、小さな屋台店も二つ三つはあった。その僅かな明りの間を、村の若い衆や、山から行った一人者が、娘合い手にからかいながらざわついていた。
 松田は三田の後について、その群の中を通っていると、若い薄髯を生やした男が通りすがりに、三田の顔を見たと思うと、彼奴だ彼奴だと言う囁きが起った。そして、百姓らしい男が二三人、すれ違いながら、幾度も三田に打つかろうとした。けれども三田はその度に身体をかわしていたが、
「うるせえから帰ろうや」と言ったので、松田は矢張りその後について帰りかけたのであった。
 二人が弁天堂の後ろの暗い森蔭まで来た時であった。後から何か多勢の人が、バタバタ追いかけて来たと思うと、
「高田の坑夫を一人も帰すなあ」と怒鳴ったが、その時二人はもう取り囲まれてしまっていたのであった。そして最初に進んで来た大きな男が、
「この金掘め」と怒鳴ると、匕首を抜いて切ってかかった。さらしの腹巻の上に袢天一枚を被った三田も、ふところから短刀を出すと同じく抜いて身構えた。
 暗の中にも刃物の光りがキラッとしたので、周りを取り巻いていた者は、パッと遠く離れてしまった。
 けれども二人は、森の木を楯にして、容易に切ろうとはしなかった。
 其時松田は、自分の友子がこうして切り合って、怪我でもさせれば、山に帰って申訳が立たないと思った。ただそれ丈けで、他に何を考える暇も、もうなかった。彼は匕首を抜いて、暗い中を相手の後ろにそうっと廻った。前に計り気を取られている男の腹にうんとかじり附くと、素早く短刀を傍腹に突き通した。
「奴はウンって言いましたっけ」と言いながら、松田は腹掛けの丼から匕首を出して、
「赤沢にいた時分、鍛冶屋に打って貰ったんだけど、馬鹿によく切れますよ」と抜いて見せた。短かい刃渡りの中ほどがふくらんだ半月形の刃物は人の血とあぶらで、まだ薄く曇っていた。
 その匕首が柄際までズブッと通ってしまったので、抜こうと思ってもなかなか抜けなかった。仕方がないので松田は、ウンと抉って抜くと、大きな男は黙ってパッタリ倒れてしまった。
 松田は急に恐ろしくなって、滅茶苦茶に逃げ出した。その時彼の眼には、三田も、薄髯の男も、何もうつらなかった。暗い道をただ一心に馳け出したのであった。殊に彼は、この山に来たばかりなので、その辺の地理はまるで知らなかった。一時間位も馳け通したと思うと、彼はまた元の弁天堂の後ろに来た。
 暗の森の中に、カンテラが一つぶら下って、人声がガヤガヤしていた。彼は顔馴染のないのを幸いに、側まで行って見た。
 其処にはさっきの男が、血にまみれてもう冷たくなって横わっているのを、赤ずんだカンテラの焔が気味悪く照らしていた。周りを取り巻いた二三人の人は、夜明けまで番をしているのだと言っていた。
 彼はその時、自分が此の男を殺したのだとは思えなかった。唯だ薄茫然うすぼんやりとして、暗い道を探しながら飯場に帰ったのは三時頃であったと言った。

「どうして直ぐ逃げなかったんだ」と池田が訊いた。
「鈴木の伯父御に迷惑をかけちゃ済まないと思ったし、三田の兄貴のことも気になって、逃げる気にもならなかったんでした」と、松田は覚悟したように言った。友達の為めに、恨みもない人を殺して、凡てを運命に任せている青年の顔を見ると、池田は眼に涙が滲むのを覚えた。
「さ、もうこれで行くんだから、酒でも飲んで行こう」と、三人は用度から酒を取り寄せて、大きな茶碗で飲み合った。
 萩野が足拵らえをしている間に、松田はまた、茶碗に二三杯つづけて飲んでいたが、
「ああ好い心持ちになった」と言った。
 池田は、負け惜しみにでも、まだこう言ってくれる方がありがたいと思った。すべての責任は自分にある事だ、自分があの日宿酔のために、隣りの山へ行きさえしなければ、こんな事にはならなかったのだと思うと、自分の卑怯が斯う云う犠牲者を生んだものとしか思えなかった。
「君、何か不自由な物があったら、言ってよこしてくれ、出来る丈けのことはするから」と言って、持ち合せの小遣いを渡してやると、
「私なんか、親も兄弟もない一人もんでさ、何処でどうやって暮したって同じこった。御心配には及びませんよ」と、何も知らない松田は、幾度か感謝した。
 池田は、唯だ同情ばかりで何事をもしていないように思われると、何となく後暗いような気持がした。
 やがて出掛る時分になると、長屋や飯場の坑夫達が、手拭いや紙を持って送りに来た。
「徴兵前なら大丈夫だ」と言って、強いて慰めるものもあった。
「どうせ一人もんだから、どうでも好いや」と、松田は淋しく笑ってから、
「どうもいろいろお世話になりました」と改めて挨拶をして、先きに立って歩き出した。
「大切に行って来ねえ、殺されるような事はありゃしねえ」と大きな声で誰かが言った。
 松田の後について、池田と萩野はボツボツ歩き出した。


 四時近くなった夏の日は、沢合に山の影を長く投げていた。
 三人は別々な想いに耽りながら、並んだかげを追って歩いて行った。
 池田は一月ばかり前に、自分の身の上に起ったことを思うと、夢のような気持ちがした。若しあの時に自分があんな煮え切らない真似をしないで、すぐ石山と争ったら、人も殺さず、この善良な青年を苦しめることもなく済んだのだと思うと、彼の心はまた痛んだ。けれども彼はまた、自分はこの山に来てから、なすべき丈けの事はちゃんとして来た。まだその上に、人の生活にまで立ち入って、要もない事にまで干渉したり、束縛したりする鉱主が悪いのだと思った。イヤ、それに媚びる卑怯な奴等が何時でも害を醸すのだ、その先きにも悪いことが沢山あると、罪をそれになすりつけて、ホッと気を軽くしてもみた。
 然しそれでは、矢張り彼の心は落ちつかなかった。周囲がどんなに悪かろうと、自分さえドシドシ強く進んで行ったなら、こう言う心の苦しみは受けまいと思った。そして自分の卑怯と怠惰を責めるより外に途はなかった。
 絣の着物をきて、帽子も被らずに、夕陽を背負って歩いて行く、やせぎすな松田の姿をみると、彼は妙に悲しくなった。
「気の毒だね」と、フト萩野に呟いた。
「全く気の毒でさ、俺なんか若い時から暴れて歩いて、随分切りも切られもしたけど、まだ牢屋の味は知らずに済んでるんだ。松田のようなおとなしい人間が、人を殺して懲役に行くなんて、全くはずみですよ。だけど松田が殺さなきゃ、三田が殺すか殺されるかしたんだ。どっちみち、一人は死んで、一人は行くことになってたんだ」
「全くそうだね、元はって言えば、あの阿久津が、何時かのことを根に持って、こんなことを仕出かしたんだよ、卑怯な奴だ」と、池田はまた宿屋の伜を憎んでみた。
「そう言や、俺があすこで喧嘩したのが種になったことにもなりますね」と、萩野は少し不服らしく言った。
「そりゃそうさ、一番最初は、行って見るって言った僕が悪いんだ。けれども、何も向うの坑夫だって、自分の持ってる山でもないのに、一寸見たって、怒って喧嘩するにゃあ当らないんだ。あんな事で喧嘩して、友子を一人懲役にやったって、鉱主から褒美が貰える訳でもないのに、みんな悪いんだよ。一体山と山の坑夫が意地っ張りっこをするなんて言うのが間違ってるんだ」
「だってお前さん、昔から隣山同志は、立会の時だって、意地の張りっこをするに定ったもんでさ」
「だって君達のいる山の鉱石を掘り切って、鉱主がウンと金をこさえたら坑夫にどうしてくれるんだい。矢張り浪人すりゃ友子の間を一宿一飯で歩かなきゃならないじゃないか」
「其処がしきたりと人情で、矢張り自分のいる山の肩を持つんでさ」
「君達はしきたりや人情にだまされているんだ。仲間同志、他人のために喧嘩するなんて、何が人情なもんか」
 池田が語気を荒くしたので、二人はそれきり黙ってしまった。
 村境いの峠の上に登った時、
「あすこが水戸だ、お前は明日はあすこへ送られるんだ」と、萩野は遠く東の方をゆびさした。
 山かげはすでに夕暮れらしい風が吹いていたが、広い平野の上には、まだ夕陽が黄色く輝いていた。
「水戸に監獄があるんですかね」と、松田は其時はじめて口を利いた。
「あるとも」と萩野は、よく知り切ったように答えたが、松田はそれきり黙ってしまった。
 峠の下の茶屋の前を通る時、池田は障子のかげの暗いところに、孫根の巡査だと言った男の姿をチラと見掛けた。けれども彼は、わざと知らない振りをして行き過ぎてしまった。そして仙太の茶屋の前に来た時、
「此処で何か食って行かないか」と言って先きに入った。
 彼等はまた其処で酒を飲んだ。崖下の川でとれたという鮎と玉子があったのを、せめての肴に松田にすすめたが、彼はもう其処では余り食いもしなかった。
「監獄へ行きゃ不自由だらけだ、食えるだけ食ったら好いじゃないか」と萩野がすすめると、
「山にいたって、監獄へ行ったって、大した違いはありゃしない」と松田は、憎らしいほど落着いていた。
「その気ならまあ好いや、長屋で金を集めて弁護士を頼むから、あんまりがっかりしねえようにな」と萩野が言った後について、
「僕等も出来る丈けのことはするよ、それから何処か知らせてやるところはないのか」と池田が訊ねると、
「親分だけだけど、奉加帳で何処を歩いてるか解らないんです」と云ったが、松田の眼には涙がうるんでいた。
「それじゃ、もう別に何も用はないね」と念を押してから、
「萩野君、君はあっちの茶屋に孫根の巡査がいるから、呼んで来てくれないか。どうせ彼奴は見たんだから、後から追かけて来て、逮捕するなんて言われてもつまらないから」と萩野に頼んだ。
「そうですとも、呼んで来ましょう」と言って外に出たが、萩野は間もなく巡査を連れて来た。
「先刻はどうも失礼しました」と、萩野に話を聞いたのか、巡査はニコニコしながら入って来た。
「実は塩子の犯人と言うのはこの男だそうですが、あなた方が帰って行かれてから、自首をすると言って出て来たので、附き添って来たんです。此処でお渡ししても、自首したことになりますかしら」と池田が訊くと、
「ええ、自首にします。私はあれからその、この方面を警戒するように言われて、裏山を廻って来たとこで、丁度好いところでした」
 犯人を手に入れた巡査は、嬉しそうに受け合った。
「この男は十九だそうですが、丁年未満だし、自首したとすれば、大したことはないでしょうな」
 池田は気遣わし相に訊ねた。
「ええ、そうですとも、それに初犯ではあるし、ことに先方の寅吉の素行も悪かったのですから」
「無罪にはならんでしょうか、喧嘩は向うから売ったんですから」と、役には立たない事と思いながらも、池田はなお巡査に訊いていた。
「兇器を有っていたとすれば、どうですかな、それも裁判の結果でないと解りませんが」
 巡査は要領を得ないことを答えてから、
「孫根まではまだ二里の余もありますから、それではもう行くとしましょう」と支度をしはじめた。
「それじゃ萩野君、僕はこれで失敬するからよろしく頼むよ。若し都合では今夜向うに泊っても、よく容子を見て来てくれ給え」と萩野に頼んでから、
「まあ心配しないで、身体を大事にしてい給え、弁護士もつけるから」と松田に別れを告げた。
「どうもいろいろ有り難うございました」と、松田は叮嚀に礼をして出て行った。
「大丈夫です、安心しておいでなさい」と、巡査は一人喜んで、外に出た。
 池田は門口に出て、萩野の黒い脚袢と、巡査の白股引に送られて行く松田の姿を、遠く畑の夕もやの中に消えるまで、ジッと見送っていた。が、やがてまた中に入って、新たに酒を飲みはじめた。
 彼は一人で盃を手にしながら、落着いて牢獄に行った松田の心を考えていた。そして、友達のために人を殺して牢獄に行く松田には、自分のように生煮えな卑劣から受ける苦痛がないであろうと思った。ケチな安逸を貪る自分を、独りして憎んでいた。けれども、孫根まで松田を送って行った萩野が帰って来た頃には、彼はへべれけになって、茶屋の土間に寝込んでいた。





底本:「日本プロレタリア文学集・3 初期プロレタリア文学集(三)」新日本出版社
   1985(昭和60)年6月25日初版
   1989(平成元)年3月25日第4刷
底本の親本:「宮嶋資夫著作集 第一巻」慶友社
   1983(昭和58)年4月
初出:「新日本」
   1917(大正6)年9月号
入力:林 幸雄
校正:大野裕
2017年6月25日作成
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●表記について

「畚」の「田」に代えて「由」、U+2161E    76-上-15


●図書カード