一
われ/\の
祖たちが、まだ、青雲のふる郷を夢みて居た昔から、此話ははじまる。
而も、とんぼう髷を頂に据ゑた
祖父・
曾祖父の代まで、萌えては朽ち、絶えては
えして、思へば、長い年月を、民族の心の波の
畦りに連れて、起伏して来た感情ではある。開化の光りは、わたつみの胸を、一挙にあさましい干潟とした。
併し見よ。
そこりに揺るゝなごりには、既に
業に、波の穂うつ
明日の兆しを浮べて居るではないか。われ/\の考へは、
竟に我々の考へである。誠に、人やりならぬ我が心である。けれども、見ぬ世の
祖々の考へを、今の見方に引き入れて調節すると言ふことは、其が譬ひ、よい事であるにしても、
尠くとも真実ではない。幾多の祖先
精霊をとまどひさせた明治の御代の
伴大納言殿は、見飽きる程見て来た。せめて、心の世界だけでなりと、知らぬ間の
とてつもない出世に、苔の下の
長夜の
熟睡を驚したくないものである。
われ/\の文献時代の初めに、既に見えて居た
語に、
ひとぐに・
ひとの国と言ふのがある。自分たちのと、寸分違はぬ生活条件を持つた人々の住んで居ると考へられる
他国・
他郷を
斥したのである。「ひと」を他人と言ふ義に使ふことは、用語例の分化である。此と幾分の似よりを持つ不定代名詞の一固りがある。「た(誰)」・「いつ(=いづ)」・「なに(何)」など言ふ語は、未経験な物事に冠せる疑ひである。ついでに、其否定を伴うた形を考へて見るがよい。「たれならなくに」・「いづこはあれど(=あらずあれど)」・「何ならぬ……」などになると、経験も経験、知り過ぎる程知つた場合になつて来る。言ひ換へれば、疑ひもない目前の事実、
われ・
これ・
こゝの事を斥すのである。
たれ・
いつ・
なにが、其の否定文から引き出されて示す肯定法の古い用語例は、
寧、超経験の空想を対象にして居る様にも見える。
われ・
これ・
こゝで類推を拡充してゆける
ひとぐに即、他国・他郷の対照として
何その国・
知らぬ国或は、異国・異郷とも言ふべき土地を、昔の人々も考へて居た。われ/\が現に知つて居る
姿の、日本中の何れの国も、万国地図に載つたどの島々も皆、異国・異郷ではないのである。
唯、まる/\の夢語りの国土は、勿論の事であるが、現実の国であつても、空想の
緯糸の織り交ぜてある場合には、異国・異郷の名で、喚んでさし支へがないのである。
われ/\の祖々が持つて居た二元様の世界観は、あまり飽気なく、吾々の代に霧散した。夢多く見た人々の魂をあくがらした国々の記録を作つて、見はてぬ夢の跡を逐ふのも、一つは末の世のわれ/\が、亡き祖々への心づくしである。
心身共に、あらゆる制約で縛られて居る人間の、せめて一歩でも寛ぎたい、一あがきのゆとりでも開きたい、と言ふ解脱に対する
が、芸術の動機の一つだとすれば、異国・異郷に焦るゝ心持ちと似すぎる程に似て居る。過ぎ難い世を、少しでも善くしようと言ふのは、宗教や道徳の
為事であつても、凡人の浄土は、今少し手近な処になければならなかつた。
われ/\の
祖たちの、此の国に移り住んだ大昔は、其を聴きついだ
語部の物語の上でも、やはり大昔の出来事として語られて居る。其本つ国については、先史考古学者や、比較言語学者や、古代史研究家が、若干の旁証を提供することがあるのに過ぎぬ。其子・其孫は、
祖の渡らぬ先の国を、
纔かに聞き知つて居たであらう。併し、其さへ直ぐに忘られて、唯残るは、父祖の口から吹き込まれた、本つ国に関する恋慕の心である。その千年・二千年前の祖々を動して居た力は、今も尚、われ/\の心に生きて居ると信じる。
十年前、熊野に旅して、光り充つ真昼の海に突き出た大王个崎の尽端に立つた時、遥かな波路の果に、わが魂の
ふるさとのある様な気がしてならなかつた。此をはかない詩人気どりの感傷と卑下する気には、今以てなれない。此は是、
曾ては祖々の胸を煽り立てた懐郷心(のすたるぢい)の、間歇遺伝(あたゐずむ)として、現れたものではなからうか。
すさのをのみことが、青山を
枯山なす迄慕ひ歎き、
いなひのみことが、波の穂を踏んで渡られた「
妣が国」は、われ/\の祖たちの恋慕した魂のふる郷であつたのであらう。
いざなみのみこと・
たまよりひめの還りいます国なるからの名と言ふのは、世々の語部の解釈で、誠は、かの本つ国に関する万人共通の憧れ心をこめた語なのであつた。
而も、其国土を、父の国と喚ばなかつたには、
訣があると思ふ。第一の想像は、母権時代の
俤を見せて居るものと見る。即、母の家に別れて来た若者たちの、此島国を北へ/\移つて行くに連れて、
愈強くなつて来た懐郷心とするのである。併し今では、第二の想像の方を、力強く考へて居る。其は、異族結婚(えきぞがみい)によく見る悲劇風な結末が、若い心に強く印象した為に、其母の帰つた異族の村を思ひやる心から出たもの、と見るのである。かう言つた離縁を目に見た多くの人々の経験の積み重ねは、どうしても行かれぬ国に、
値ひ難い母の名を冠らせるのは、当然である。
二
民族の違うた遠い村は、譬ひ、母の国であつても、生活条件を一つにして居るものと考へなかつたのが、大昔の人心であらう。さればこそ、
とよたまひめの「ことゞわたし」にも、
いはながひめ等の「とこひ」にも、八尋鰐や、木の花の様な族霊崇拝(とうてみずむ)の俤が、ちらついて居るのだと思ふ。此方は、かう言ふ事実が、此島での生活が始つてからも、やはり行はれて居て、其に根ざして出て来たもの、と見ても構はぬ。
又、右の二つの想像を、都合よく融合させて、さし障りのない語原説を立てることも出来る。
ともかく、妣が国は、本つ
国土に関する民族一列の
から生れ出て、空想化された回顧の感情の的である。母と言ふ名に囚はれては、
ねのかたすくになり、
わたつみのみやなりがあり、至り難い国であり、自分たちの住む国の俗の姿をした処と考へて居なかつた事は一つである。此は、妣が国の内容が、一段進んで来た形と見るべきで、語部の物語は、此形ばかりを説いて居る。
いなひの命と前後して、波の穂を踏んで
みけぬの命の渡られた国の名は、
常世と言うた。
過ぎ来た方をふり返る
妣が国の考へに関して、別な意味の、
常世の国のあくがれが出て来た。ほんとうの異郷趣味(えきぞちしずむ)が、始まるのである。気候がよくて、物資の豊かな、住みよい国を求め/\て移らうと言ふ心ばかりが、彼らの生活を善くして行く力の泉であつた。彼らの歩みは、富みの予期に
牽かれて、東へ/\と進んで行つた。彼らの行くてには、いつ迄も/\
未知之国が
横つて居た。其空想の国を、
祖たちの語では、
常世と言うて居た。
過去し方の西の国からおむがしき
東の土への運動は、歴史に現れたよりも、更に多くの下積みに埋れた事実があるのである。大嘗会のをりの悠紀・主基の国が、ほゞ民族移動の方向と一致して、行くてと過ぎ来し方とに、大体当つて居るのも、わたしの想像を強めさせる。東への行き足が、久しく常陸ぎりで喰ひ止められて延びなかつたことは事実である。祖たちの敢てせなかつたことを、為遂げたのは、毛の国から更に移り住んだ帰化人の力が多い。此は、飛鳥・藤原から、奈良の都へかけての大為事であつた。
祖たちが、みかど八洲の中なる常陸の居まはりに、
常世並びに、
日高見の国を考へたのも、此処に越え難い
みちのおくとの境があつて、空想を煽り立てたからであつた。
常世を海の外と考へる方が、昔びとの思想だとする人の多からうと言ふことは、私にも想像が出来る。併し今の処、左袒多かるべき此方に、説を向けることが出来ぬ。
書物の丁づけ通りに、歴史が開展して来たものと信じて居る方々には、初めから向かぬお話をして居るのである。
常世と言ふ語の、記・紀などの古書に出た順序を、
直様意義分化の順序だ、との早合点に固執して貰うて居ては、甚だお話がしにくいのである。ともあれ、海のあなたに、
常世の国を考へる様になつてからの新しい民譚が、古い人々の上にかけられて居ることが多いのだ、とさう思ふのである。海のあなたの大陸は
蒲葵の葉や、椰子の実を波うち際に見た位では、空想出来なかつたであらう。其だから、大后一族の
妣が国の実在さへ信じることが出来ないで、神の祟りを受けられた帝は、古物語を忘れられた新人として、此例からも、呪はれなされた訣になる。彼らは、もつと手近い
海阪の末に、
わたつみの国と言ふ、
常世を観ずる様になつて来た。
いろこの宮を、さながら
常世と考へることは、やはり後の事であるらしい。
鰭の
広物・
鰭の
狭物・沖の藻葉・
辺の藻葉、尽しても尽きぬ
わたつみの国は、常世と言ふにふさはしい富みの国土である。曾ては、
妣が国として、恋慕の思ひをよせた此国は、現実の悦楽に満ちた楽土として、見かはすばかりに変つて了うた。けれども、
ほをりの命の様な、たま/\択ばれた人ばかりに行かれて、凡人には、依然たる常世の国として懸つて居た。富みの国であるが故に、
貧窮を司る事も出来たのが、
わたつみの神の威力であつた。
ほをりの命の授つて来られたのは、汐の満ち干る如意宝珠ばかりでなく、おのが敵を貧窮ならしめ、失敗せしめる呪咀の力であつた。
扨又、
あめのひぼこの
齎した
八種の神宝を惜しみ護つた
出石人の
妣が国は、新羅ではなくて、南方支那であつたことは、今では、討論が終結した。其
出石人の一人で国の名を負うた
たぢまもりの、時じくの
香の
木実を取り来よとの仰せで渡つたのは、橘実る
妣が国なる南の支那であつた。
出石人の為の妣が国は、大和人には
常世の国と感ぜられて居たのである。此処に心とまることは、此常世が、なり物の富みの国であつたばかりでなく、唯一点だが、後の
浦島ノ子の物語と似通ふ筋のあることである。
八縵・
八矛の
かぐのこのみを持つて、常世から帰りついた時は、既に天子崩御の後であつた。「
命せの木の実を取つて、只今参上」と復奏した
儘、御陵の前に哭き死んだと言ふ件は、常世と、われ/\の国との間で、時間の目安が違うて居たと言ふ考へが、裏に姿をちらつかせて居る様である。極々内端に見積つても、右の話から、此だけの事は、引き出すことが出来る。地上の距離遥かな処に、
常世の国を据ゑて考へたこと、従つて、其処への行きあしは、手間どらねばならぬはず、往復に費した時間をあたまに置かないで、此土に帰りついた時の様子を、彼地に居た僅ばかりの時間にひき合せて見れば、なる程たまげる程の違ひが、向うと此方との時間の上にある。
たぢまもりの話は、一見浦島のに比べれば、理窟には適うて居る。其かと言うて、橘を玉櫛笥の一つ根ざしと見るはまだしも、此を彼の親根と考へては、辻褄が合ひ過ぎる。
常世の
中路は、時間勘定のうちには這入つて居ない。目を塞いだ間に行き尽すことが出来るのも、其為である。
粟稈の謂はゞ一弾みにも、行き着かれる。此不自然な昔人の考へを、下に持つた物語として見なければ、
香の
木実ではないが、匂ひさへも
ぎ知ることが出来ないであらう。して見れば、古人の
目の
子勘定を、今人の壺算用に換算することは、其こそ、杓子定規である。此事こそは、世界共通の長寿の国の考へに基いて居るのである。常世人に、あやかつて、其国人と均しい年をとつて居た為に、束の間と思うた間に、此世では、
家処も、見知りごしの人もなくなる程の巌の蝕む時間が
経つて居たのである。
常世では、時間は固より、空間を測る目安も違うて居た。生活条件を異にしたものと言へば、随分長い共同生活に、可なり観察の行き届いて居るはずの家畜どもの上にすら、年数の繰り方を別にして居る。此とて、猫・犬が言ひ出したことではない。人間が勝手に、さうときめて居るのである。まして、常世の国では、時・空の尺度は、とはうもなく寸の延びたのや、時としては、恐しくつまつたのを使うて居た。
齢の
長人を、其処の住民と考へる外に、大きくも、小くも、此土の人間の脊丈と余程違うた人の住みかとも考へたらしい。前にも引き合ひに出た
すくなひこなの神なども、常世へ行つたと言ふが、実は、
蛾の皮を
全剥ぎにして衣とし、
蘿摩の
莢の船に乗る仲間の
矮人の居る国に還住したことを
斥すのであらう。
とこよなる語の用語例は、富みと長寿との空想から離れては、考へて居られない様である。即、其が、第一義かどうかは問題であるが、常住なる齢と言ふ民間語原説が、
祖々の頭に浮んで来た時代に、
長寿の国の聯想が絡みついたので、富みの国とのみ考へた時代が今一層古くはあるまいか。
飛鳥・藤原の
万葉びとの心に、まづ具体的になつたのは、仏道よりも陰陽五行説である。
幻術者の信仰である。常世と、長寿と結びついたのは、実は此頃である。記・紀・万葉に、老人・長寿・永久性など言ふ意義分化を見せて居るのも、やはり、其物語の固定が、此間にあつたことを示すのである。
浦島ノ子も、雄略朝などのつがもない昔人でなく、実はやはり、初期万葉びとの空想が、此迄あつた
わたつみの国の物語に、はなやかな衣を着せたのであらう。「春の日の霞める時に、澄
ノ江
ノ岸に出で居て、釣り舟の
とをらふ見れば」と言ふ、語部の口うつしの様な、のどかな韻律を持つたあの歌が纏り、民謡として行はれ始めたものと思ふ。燃ゆる火を袋に
裹む
幻術者どもの
しひ語りには、不老・不死の国土の夢語りが、必主な題目になつて居たであらう。
三
併しもう一代古い処では、
とこよが
常夜で、
常夜経く国、闇かき
昏す恐しい神の国と考へて居たらしい。常夜の国をさながら移した、と見える岩屋戸
隠りの後、高天原のあり様でも、其俤は知られる。常世の長鳴き鳥の「とこよ」は、常夜の義だ、と先達多く、宣長説に手をあげて居る。唯、明くる
期知らぬ長夜のあり様として居るが、而も一方、鈴
ノ屋翁は亦、雄略紀の「大漸」に「とこつくに」の訓を採用し、阪
ノ上
ノ郎女の
常呼二跡の歌をあげて、均しく
死の国と見て居るあたりから考へると、翁の判断も動揺して居たに違ひない。長鳴き鳥の常世は、異国の意であつたかも知れぬが、古くは、常暗の恐怖の国を、想像して居たと見ることは出来る。翁の説を詮じつめれば、
夜見或は、
根と言ふ名にこめられた、
よもつ大神のうしはく国は、
祖々に
常夜と呼ばれて、こはがられて居たことがある、と言ひ換へてもさし支へはない様である。
みけぬの命の常世は、別に
わたつみの宮とも思はれぬ。死の国の又の名と考へても、よい様である。
大倭の
朝廷の語部は、征服の物語に富んで居る。いたましい負け戦の記憶などは、光輝ある
後日譚に先立つものゝ外は、伝つて居ない。出雲・出石その他の語部も、あらた代の光りに逢うて、暗い、鬱陶しい陰を祓ひ捨て、裏ぎるものとては、物語の筋にさへ見えなくなつた。
天語に習合せられる為には、つみ捨てられた
国語の
辞の
葉の
腐葉が、可なりにあつたはずである。
されど、祖々の世々の跡には、異族に対する恐怖の色あひが、極めて少いわけである。
えみしも、
みしはせも、遠い境で騒いで居るばかりであつた。時には、一人ぼつちで出かけて脅す神はあつても、大抵は、此方から出向かねば、姿も見せないのであつた。さはつて、神の祟りを見られたのは、葛城
ノ一言主における泊瀬天皇の歌である。手児
ノ呼坂・筑紫の荒ぶる神・
姫社の神などの、人
殺る者は到る処の山中に、小さな常夜の国を構へて居たことゝ察せられる。国栖・佐伯・土蜘蛛などは、山深くのみひき籠つて居たのではなかつた。炊ぎの煙の立ち靡く里の向つ
丘にすら住んで居た。まきもくの
穴師の山びとも、空想の仙人や、
山賤ではなく、正真正銘山
蘰して祭りの
場に臨んだ謂はゞ今の世の山男の先祖に当る人々を
斥したのだ、と柳田国男先生の言はれたのは、動かない。其山人の大概は、隘勇線を要せぬ熟蕃たちであつた。寧、愛敬ある異風の民と見た。国栖・隼人の大嘗会に与り申すのも、
遠皇祖の種族展覧の興を催させ奉る為ではなかつた。彼らの異様な余興に、神人共に、異郷趣味を味はふ為であつた。
ほんとうに、祖々を怖ぢさせた常夜は、比良坂の下に底知れぬ
よみの国であり、
ねのかたす国であつた。
いざなぎの命の据ゑられた千引きの岩も、底の国への道を中絶えにすることが出来なかつた。
いざなぎの命の鎮ります
ひのわかみや(日少宮)は、実在の近江の地から、逆に天上の地を
捏ちあげたので、書紀頃の幼稚な神学者の合理癖の手が見える様である。
尤、飛鳥・藤原の知識で、皇室に限つて天上還住せしめ給ふことを考へ出した様である。
神あがりと言ふ語は、地の岩戸を開いて高天原に戻るのが、その本義らしい。浄見原天皇・崗宮天皇(日並知皇子尊)共に、此意味の神あがりをして居させられる。柿
ノ本
ノ人麻呂あたりの宮廷歌人だけの空想でなく、其頃ではもう、貴賤の来世を、さう考へなくては、満足出来ぬ程に、進んで居たのであらう。
ひのわかみやが、天上へ宮移しのあつたのも、同じく其頃の事と思ふ外はない。
飛鳥の都の始めの事、富士山の麓に、
常世神と言ふのが現れた。
秦ノ河勝の
対治に会ふ迄のはやり方は、すばらしいものであつたらしい。「貧人富みを致し、老人
少きに還らむ」と託宣した神の
御正体は、蚕の様な、橘や、
曼椒に、いくらでもやどる虫であつた。而も民共は、財宝を捨て、酒・薬・六畜を路側に陳ねて「新富入り来つ」と歓呼したとあるのは、
新舶来の神を迎へて踊り狂うたものと見える。此も、常世から渡つた神だ、と言ふのは、張本人
大生部ノ多の言明で知れて居る。「此神を祭らば富みと寿とを致さむ」とも
多は言うて居るが、どうやら、富みの方が主眼になつて居る様である。此神は、元、農桑の
蠱術の神で、異郷の富みを信徒に頒けに来たもの、と思はれて居たのであらう。
話は、又逆になるが、仏も元は、凡夫の
斎いた九州辺の常世神に過ぎなかつた。其が、公式の手続きを経ての
還り
新参が、欽明朝の事だと言ふのであらう。守屋は「とこよの神をうちきたますも(紀)」と言ふ讃め辞を酬いられずに仆れた。
唯さへ、
おほまがつび・
八十まがつびの満ち伺ふ
国内に、生々した新しい力を持つた
今来の神は、富みも寿も授ける代りに、まかり間違へば、恐しい災を撒き散す。一旦、上陸せられた以上は、機嫌にさはらぬやうにして、精々禍を福に転ずることに努めねばならぬ。併し、なるべくならば、着岸以前に逐つ払ふのが、上分別である。此ために、
塞への威力を持つた神を
ふなどと言ふことになつたのかも知れぬ。一つことが二つに分れたと見える
あめのひぼこ・
つぬがのあらしとの話を比べて見ると、其辺の事情は、はつきりと心にうつる。此外に、語部の口や、
史の筆に洩れた
今来の神で、後世、根生ひの神の様に見えて来た方々も、必、多いことゝ思はれる。