一
千年あまりも前に、我々の祖先の口馴れた「ある」と言ふ
語がある。「産る」の敬語だと其意味を
釈き棄てたのは、古学者の
不念であつた。私は、ある必要から、万葉集に現れたゞけの「ある」の意味をば、一々考へて見た処、どれも此も、存在の始まり、或は続きといふ用語例に籠つて了うて、一つとして「産る」と
飜さねば不都合だと言ふ場合には、出くはさずにすんだ。かの語を「産る」と説くのは、主に賀茂の
みあれに惹かれた考へであるが、実の処
みあれ其物が、存在を明らかに認める、即、出現と言ふ意に胚胎せられた語だと信じられる。
此事は柳田国男先生も既に考へて(山島民譚集)居られる。尤、神或は神なる人にかけて、常に使ひ馴れた為、自然敬意を離れては用ゐる事は無くなつてゐた。其一類の語に「たつ」と言ふのがある。現在完了形をとつたものは、「向ひの山に月たゝり見ゆ(万葉巻七)」など言ふ文例を止めて居る。此語は単に、今か以前かに標準を据ゑて、進行動作を言ふだけのものではなく、確かに「出現」の用語例を持つて居た。文献時代に入つては、
月たち・
春たつなどに纔かに、俤を見せて居たばかりで、敬語の意識は夙くに失はれてゐる。
諏訪上社の神木に、
桜たゝい木・
檀たゝい木・
ひくさたゝい木・
橡の木たゝい木・
岑たゝい木・
柳たゝい木・
神殿松たゝい木があり、
たゝいは「湛」の字を宛てる由、尾芝古樟氏(郷土研究三の九)は述べられた。此等七木は、桜なり、柳なりの
神たゝりの木と言ふ義が忘れられた物である。大空より
天降る神が、
目的と定めた木に憑りゐるのが、
たゝるである。即、示現して居られるのである。神の
現り木・
現りの
場は、人
相戒めて、近づいて神の咎めを蒙るのを避けた。其為に、
たゝりのつみとも言ふべき内容を持つた語が、今も使ふ
たゝり(祟)の形で、久しい間、人々の心に生きて来たのである。
神に手芸の道具を献る事は、別に不思議でも無いが、
線柱の一品だけは、後世臼が神座となり易い様に、ひよつとすれば、神の
たゝりのよすがとなつた物かも知れぬ。
絡・
臥機が夢に神
憑りを現ずる事、
姫社の由来(肥前風土記)にある。機は、同じ機道具の縁に引かれたのかと思ふ。
神の
あれのよすがとなる物が、阿礼・
みあれと呼ばれた事は、説明は要すまい。今日阿礼の事を書いた物は、すべて此語に言語情調の推移のあつた、後期王朝に出来てゐる。
賀茂祭りに、
みあれに(としての意)立てた奥山の榊は、かなり大きな立ち木を採り(賀茂旧記)用ゐた根こじの物であつたらう。そして、
種々の
染め
木綿を
垂でる事が、
あれとしての一つの条件であつたらしい。此際、内蔵寮から上社・下社へ、阿礼の料として、五色の帛六疋、阿礼を盛る筥八合並びに、布の綱十二条を作る料として、
調布一丈四尺を出す(内蔵式)ことになつてゐる。其綱は
みあれを舁ぐ時に、其傾く事を調節する為に、つけたものと思はれぬでも無いが、やはり祭りの終りにわが方へ引き倒して、一年の田畑の幸福を占はうとしたのが、一種の歌枕として固定するまでの、
みあれひきの実際なのであらう。「大幣の引く手あまた」など言ふのも、引き綱がやはり、
みあれの五色の帛の長くなつた物なる事を示してゐるので、木綿のさがつた小枝を引き折る事ではなかつた様である。後期王朝の人々の見た
みあれの引き綱には、鈴がつけてあつたと見えて、
われ引かむ、みあれにつけて祷ること、なる/\鈴のまづ聞ゆなり(順集)
とあるのは、西行の
思ふこと みあれのしめに引く鈴の かなはずばよもならじとぞ思ふ
と言ふ歌を註釈にすれば、まづ納得は行く様である。但、二人の間には、かなりの時の隔たりはあるが、要点はまづ変化の無かつたものと見られる。
山家集の作者の目には、其引き綱が、今日我々の見馴れてゐる鰐口の緒同様に映つて居たらしいが、殺伐な年占が、
引くと言ふ語の他の用語例を使うて、緩やかな祈願に移つて行つたものと見るべきであらう。昔も今も、歌よみなどは、大ざつぱな事を言ふ者で、語通りに信ずるのは愚かしくも思はれるが、今一つ引くと
あれひきに行き連れてこそ 千早ぶる賀茂の川波立ち渡りつれ(古今六帖)
の「行き連れ」は、行きずりの物見人が、偶然一つの方角へ行く、と解かれさうであるが、共同の幸福を願ふ人々の行く様と見るのが、時代の古いだけに、適当な様に思はれる。
大嘗祭の儀式に、八人の舞人がてん
手に執つた阿礼木(貞観儀式)は、
既く
とりものの枝を、直ちに
然呼ぶまで変つて居たのか、其ともまだ、此古い祭りには、古風な
みあれ木が宮中に樹てられ、其木綿とり
垂でた枝を折り用ゐたのか判然せぬ。賀茂或は松尾の阿礼ばかりが名高くなつたおとつ世の歴史家は、此を山祇系統の神の
依代と見るかも知れぬ。併しこゝにまだ一つ、宮中の阿礼がある。
二
正月十七日の
射礼に、
豊楽殿の庭上、
射手を呼び出す人の控へる座の南一丈の処に、其日、夜の引き明けから樹てられる二種の立て物がある。すべて今日からは想像に能はぬ事だらけではあるが、一つは烏羅(
からすあみ又は
となみと訓むか)と言ふ物十二旒。各二株の竹の間に、二条の、長さ八尺・幅八寸の帛に鈴二つづゝつけて張り渡したらしく、色は
縹と緋とが六旒づゝであつた。其外に、今一つあるのが
阿礼幡である。右に六旒、左に六旒、紫・深緑・緋・緑・黄・浅緑と言ふ順序で、柄がつけてある。其外、花槍廿口・幡廿旒を樹てる(掃部式・兵庫式)。
烏羅と言ひ、阿礼幡と言ひ、他に見えぬ語であるが、此処の阿礼も、射礼の
場に神を
招ぎ下した古風と見られよう。尚かの兵庫式の文の後に、羅と幡とを樹てるに入用の
木綿や
黒葛は、大蔵の方で請ひ受けて来た様に書いてゐる。黒葛は物を
纏く為であり、木綿はとり垂でゝ神に献る物である。
阿礼其他の立て物の竿頭の
だし(郷土研究三の九)として、榊葉・木綿が括られたと見るか、竿の神聖を示す為に、其根方を樒の葉と
葛蔓で
纏き
厳る
野間権現の神霊を移す木(三国神社伝記)と同じ意味あひに使はれた物か、即決は出来る事でないが、阿礼幡が神の出現を待つ、やはり一つの
あれであつた事を証するだけには、役だつてくれる様である。さすれば、十二旒の阿礼幡を元は、一本の竿頭から長く垂れたあまたの染め
木綿が、十二本の柄の
尖に別れる様になつたと考へるのは順当な想像であらう。
花時には花を以て祭り、
鼓吹・
幡旗を
用つて
歌舞して祭る(紀一書)とある
花の
窟の祭りは、記録の
ぺいぢの順序を、其儘時間の順序と見る事が出来れば幡旗と言ふ語の、見えた初めである。此花と幡とは、縄で以て作つた(熊野三巻書)との古伝がある。縄で蓆旗をこしらへたとも見えぬ文面であるから、やはり竿頭から幾筋もの縄を垂れた物と見る外は無い。上代から然りと信ずる事は出来ぬにしても、尚江戸よりは古くの
為来りと考へられる。
われ/\は、疑ひ深い科学者と肩を並べて生きて居るのだから、布よりも縄の
ゆふしでを、無条件に古い物と速断する事はためらふが、竿頭から縄或は木綿を長く垂れた物を
はたと言うてゐた事は、認めない訣には行かぬ。われ/\の国語が、不変の内容を持つたまゝで、無窮の祖先から罔極の子孫に語り伝へられるものと考へるのは、
やまとたけるや義経も、石の
槨の口さへあければ、現代人と直ちに対話をまじへる事が出来ると信じる事である。
記・紀の叙述と、其に書記せられなかつた以前の語部の
素の物語の語りはじめとでは、其昔と言ひ、今と言ふにも、非常な隔たりがある。記・紀に「ある」と書いてゐる事は、既に幾十百年以前に「ない」ときまつた事であるかも知れぬ。わりあひに変動の尠かるべきはずだからと言ふので、名詞の内容を千年・二千年に亘つて変らぬと考へる人は、
通弁なしに古塚に出かけて、祖先と応対が出来る訣である。
物に驚くこと、猶今日の我々の如くであつた祖先は、明治・大正の子孫が日傘・あげものと言はずに直ちに、
ぱらそる・
ふらいと言ふ様な、智慧ある無雑作は持ち合せなかつた。物と物とを比べて、似よりの点を見つけては、舶来の四角な字に国語の訓みをつけて置いた。其中に四角な文字其儘の事物が渡つて勢力を得る様になれば、国語の軒端を貸した固有の事物は、どん/″\と取りかへられて、母屋には何時の間にか、殆ど見知りのなかつた新しい事物が座りこんでゐると言ふ、直訳に伴うて起り勝ちの事実が、
はたと言ふ語及び品物の上にもあつた。
三
語部が語り始めた頃の
はたは、今の日の丸の国旗の様な形と用途とを持つて居なかつたかも知れぬ。斉明天皇の四年、蝦夷渟代
ノ郡
ノ大領
沙尼具那以下に鮹旗廿頭、津軽
ノ郡
ノ大領馬武以下にも鮹旗廿頭を授けられた(紀)のは、同族の反乱に当てる為であらうが、鮹と言ひ、頭と言ふのは、其旗の形容を髣髴させて、三巻書の縄の幡に近づかしめる。
字面通りに想像すれば、竿頭には円く束ねた物があつて、其から四方八方へ蛸の足の様に、布なり縄なりが垂れて居る形で、今日地方によつては、葬式の先頭に髯長く編んだ竹籠を、逆に竿頭につけて、紙花を飾つてふつて行く花籠なども、其に引かれて思ひ浮べられる。今日旗の竿
尖につく金の
球や、五月幟の籠玉の源になる
髯籠(髯籠の話参照)の筋を引いた物に相違ないのである。まさかに縄の
ゆふしでや、竹の髯籠や、花籠を下されたものとも思はれぬが、今の日の丸の旗などゝは大分遠い、却つて
ばれんなどに似よつた形の物ではなかつたらうか。
もつと異風な幡は、前にあげた肥前風土記
基肄ノ郡
姫社ノ社の由緒に見える。姫社郷の
山途川の
門(川口か)の西に、荒ぶる神が居て、道行く人をとり殺すので、其訣を占ふと、筑前宗像郡の人
珂是胡に、自分を
斎はせれば、穏かにならうとあつた。
珂是胡、幡を捧げて祈るには「実際私に祀られようとの思召しなら、どなた様であるかお示し下さい。其には、其本処のお社に、此幡が風に乗つて行つて落ちます様に」と言うて、幡を挙げて、風に順うて放つた処が、御原郡の姫社之社に墜ち、再飛び返つて、山途川の辺の田村に来て落ちたので、神の
在処が知れたとある。此幡、今日の人の考へに這入つてゐる旗の様な物ではなく、形は違うてゐるとしても、幣束と同じ用をした物である事だけは、否定が出来ぬ。
小子部ノ栖軽が
三諸山の神を捉へに行つた時は、
朱蘿をつけ、
朱幢を立てゝ馬を馳せた(霊異記)と言ふ。神を捉へたと言ふのは、後期王朝の初めの人の解釈で、実は
あかはたを立てゝ、神を迎へた事を示して居るのである。神功皇后が小山田
ノ邑の斎宮に入つて、自ら斎主となり、武内
ノ宿禰に琴を
撫らさせ、
烏賊津ノ使主を
審神者として、琴の頭・琴の尾に
千高を置いて、七日七夜の間神意を問はれた(神功紀)とあるのは、沢山の
長の高い幣束で琴の周りをとり捲いて、
神依り板に、早く神のより来る様に、との用意と見る外はない。
外国語学校の蒙古語科の夜学に通うた頃、満洲人
羅氏から、蒙古語で幣束を Hatak と言ふよしを習うた。其後、三省堂の外来語辞典が出たのを見ると、鳥居龍蔵氏が、
はたの語原を、蒙古の
はた即幣束に関係あるものとして居られた。此は恐らく、子音kを聴きおとされたのでは無からうかと思ふ。又、白木屋の二階であつた同氏の個人展覧会で、右の
はたっくの実物を見る事が出来た。柄はすべて一本の矢で、矢弭の処に、小さな銅鏡をつけ、五色の帛が幣束を思はせる具合に括りつけてあつた。東歌の
山鳥の尾ろの秀尾に 羅摩かけ、捉ふべみこそ、汝によそりけめ(万葉巻十四)
と言ふ歌は、依然として、謎の様に辿られるのみであるが、根本には、山鳥の
秀尾を矧いだ矢に、鏡をかけたと言ふ幣束が、古い日本にも行はれて居た事実を、潜めて居る様な気がしてならぬ。
賀茂祭りや、射礼の
あれに、
染め
木綿をつかうたのも、右の
はたっくと似よつてゐる。
白和栲・
青和栲の物さびしい色を神々しい物として、五色の
しでを遥か後れて世に出た物と思ふのは、却つてくすんだ色あひを喜ぶ、後世の廃頽した趣味からわり出して、物喜びをした、幼い昔の神におしあてたものと言はねばならぬ。
処が又、
然る古代こがれでない人々から、近代風に謬られ相な、葬式の赤幡・青幡、降参の
素幡がある。
四
お互にせはしない世の中に生れ合せて、
紙魚の住みかにおち/\と、見ぬ代の
祖々と話し交しても居られなくなつた。其為に、心の底から古なぢみの様な気のせぬ物は、夙かれ遅かれ何時かの昔に、海のあなたから渡つて来た迄、影も形も、此土にはなかつたもの、と早合点にきめられて来た。和順の心を示す白旗の如きも、人によつては、とてつもない
新舶来の代物と考へてゐるかも知れぬ。併し此は寧、純朴な物忘れであつて、二三、学問を享楽する事を知つた、譬へば、名ある者とし言へば、巾着切りの
生国迄も、自分の里にひきつけねば措かぬ物識りたちに、鼻のさきであひしらはるべきものではない。
古く、白旗を樹てゝ和順・降伏の意を現した、と見える事実はある。周防の
娑の魁師
神夏磯媛は、天子の使ひ来ると知つて、
磯津山の
賢木を根こじにし、
上枝に
八握ノ劔、
中枝に
八咫ノ鏡、
下枝には、八尺瓊を掛けた上に、
素幡を船の
舳に樹てゝ、
参向うた(景行紀)。又、新羅王は、素旆
而自服、素組以面縛、封
二図籍
一、降
二於王船之前
一といふ風で、念の入つた誓ひを立てた(神功紀)。後の方は、漢文の筆拍子に乗つたとも言へようが、前のもの迄、牛酒・三刄矛の一類と見るのは、聊か気の毒である。
唐ぶりとも見えぬ白旗は、此外にもある。
行方郡
当麻郷の国栖の
寸津毘古が、倭武天皇に斬り殺された時、
寸津毘売の懼悚心愁、表
二挙白幡
一迎
レ道奉
レ拝(常陸風土記)とある話は、幼稚な詞藻をひねり廻した此書物ではあるが、出来心で筆が反れたものとは思はれぬ。
とにかく、前期王朝の頃には、戦争をやめる心を、てつとりばやく示す手段として白旗を竪てる風習を認めて居た事は、確からしい。だからと言うて、直様降服の意志表示と見るのは、早計であるかも知れぬ。何にしろ其処に歩みよる道順として、かう言ふ階段は経てゐよう。其は、
汚き心なき由を、白幡立て、神を
招ぎ下した場所で誓ふと言ふ、古い信仰形式の片われである。
思ふに、恐らく、語部の物語創作の際には、まだ明らかに、降服形式と迄は考へて居なかつたであらう。此白幡も疑ひなく、幣束の部に入るべき用途と形式とを、具へて居た物と考へる。神
招ぎ
代の幣束なる幣が、神の依り
現す
場の
標となり、次いでは、人或は神自身が、神占有の物と定めた
標ともなり、又更に、神の象徴とさへ考へられる様になつたのである。私の話の順序から言へば、とりわけて白幡を用ゐずとも、よさ相に思はれる。けれども片方、故らに
染め
木綿でない事を示したのは、
白和栲が、幣束として普通の物でなく、特殊の場合に限つて使うた物であつた故かも知れぬ。
白幡と似た
青幡と言ふ物がある。
あをはたの木幡・
あをはたの
忍阪の山・
あをはたの葛城山(万葉)など、枕詞に用ゐたのが、其である。何れも、山に関係のある処から旗の靡く様を山に準へたもの、と考へてゐる様である。枕詞成立の時代から言へば、此詞などは、中期に入れて然るべきものである。奈良の寺々に樹て並べた外国風の幢幡は、見も知らぬ飛鳥・藤原の宮人の口などから、生れたものと思はれる。白和栲・青和栲と対照せられるのから見ても、青幡の青和栲であつた事は、断言してさしつかへがなからう。而も、其ふつさりと竿頭から垂れた様を、山に見立てたものと思はれる。
黒坂命葬送の様は、赤幡・青幡入り交つて、雲虹の様に飜つて、野や路を照したので時の人、
幡垂の国と言うたのを、後人が、
信太の国と言ふ様になつた(常陸風土記逸文)とある。死人の魂の発散を防ぐ為、ある時期の間は、
殯に、野送りに、墓の上に、
常べつたりの招魂の道具として、くさ/″\の染め木綿の幡を立てたのである。
此幡が、今様の旗でないことは、
信太の国の地名譚の
しでと云ふ語から見ても知れる。神の純化が遂げられてゐなかつた頃の人々は、目に見えぬ力として、
現し
世の姿を消した人の霊をも、神と一列に幡もて、
招ぎよすべきものと信じたのである。
以上によつて、私の考へる
はたなる物の形は、略諸君の胸に、具象せられて居る事と思ふが、
ほこ(郷土研究三の八・四の九)なる棒の先に、其名の本たる
はたと言ふ、染め木綿の類が
垂つて居たのである。後期王朝の初めには、幡其物に直ちに、神格を認める様になつて居る。別雷
ノ神の
纛の神(令集解)と言ふ、山城紀伊郡
真幡寸神社などが、此である。而も、やはり「纛」の字面に拘泥してはならぬ。此神こそは、賀茂の
はたなる
みあれを祀つたものと言ふべきであらう。
何処の国でも、大将軍は必、神を
招ぎよせ、其心を問ふ事の出来た人であらう。倭建
ノ命東征の際に、父帝から下された柊の八尋矛(記)や、神功皇后の新羅王の門に、
杖ける矛を樹てゝ来られた(紀)といふのも、刄物のついた槍の類ではなく、神祭りの幡桙であつた事は、奈良の都になつて、神祭りに関係ありさうな
杠谷樹の八尋桙根が、累りに諸国から貢進せられてゐる(続紀)のを見ても、想像する事は出来ようと思ふ。尚、
杉桙別ノ命神社・
多祁富許都久和気ノ神社など、桙に関係ある社が、ざらに全国に分布してゐる(神名式)ことをも、傍証に立てる事が出来る。
比々良木八尋桙根底不附国(播磨風土記逸文)とあるのから見ても、此桙は人を斬るものでなく、地に樹てゝ、神を祈る物なる事は訣る。桙を以て戦に出るのは、随時に随処に衝き立てゝ、神意を問ふことが出来る、と言ふことなのである。戦場往来に用ゐられた旗さし物は、此方面から這入るのを順路とすべき様である。
五
学問に、常の歎きとする処は、興味の立ち遅れと言ふことである。研究の
緒口がつき始めた時分には、事実はあらゆる関係に、首尾両端を没して了うてゐる。此幡の問題の如きも、悉く外来の旗と習合を遂げた後、幾百年の花紅葉が散り過ぎて、
後世風の源氏・楠家の旗だと称する贋物類までも、手に取ればぼろ/″\と崩れる様になつた頃、やつと物になりかけて来たのである。「武備志」を見ても、四神・牙神・牙旗神及び其他の旗神の祭文と言ふものが見えて、軍陣に神を勧請するのは我国の古風ばかりでなかつた事が知られる。但、此際にも直ちに、唐土伝来と言ふ即決だけは、つけぬ様にしたいものである。軍学者などの浅まな物識りぶつた説明に縋らずとも、旗さし物の起り位は説け相に思ふ。
旗を造り、旗を樹て、又其持ち出す際の斎戒謹慎の有様や、又其
蝉口には、必、神符を封じ籠める(軍用記)故実も、少弐氏の旗の
横上に、
綾藺笠をつけたのは、眷属の御霊の
影向あつて、蝉口に御座あるからとの家訓がある(梅松論)といふのも、支那風模倣とは言はれぬ程、古い種を有して居るではないか。熊野の
湛増が、船に若王子の
御正体を載せ、旗の横上に金剛童子を書いて、壇の浦へおし寄せた(平家物語)といふのも、同じ影向勧請の思想である。「菊池の人々に向ひて、矢を放つ事あるべからず」とした牛王の起請文を、旗の蝉本に押して、少弐勢に見せびらかした(太平記)菊池方の皮肉も、旗に対する長い信仰の歴史の外に、勝手に
ひよつこり生れた頓作ではない。
うはべは変つても、中身はやつれたまゝに、昔の姿を遺して居た旗も、武家末期の
四半のさし物を横にした恰好の国旗となつて了うては、信仰の痕は辿られさうもなくなつた。軍人が身に換へて大事にする今の軍旗と言ふ物も、存外、信仰とは縁の離れた合理的な倫理観の対象となつてゐる様子である。併しながら、かく明治の代に、新な習合をした西洋の旗にも、実は長い信仰の連続はあつた様である。
此方面の研究は、南方先生の助力を仰がねば、容易に結論は得られ相でないが、西洋の旗幡類を大別すれば、
すたんだぁどと、
ふらっぐと、並びに其中間を行く物との三つがある様に見える。而も本は、一つの
すたんだぁどに帰着し相である。八尋桙根などを
すたんだぁどに比べて見ると、幾分の似よりは見える。唯彼に在つては、異物崇拝の対象なる族霊(とうてむ)の像を
柄頭につけるが、桙の方には其がない。尤、後世の
まとい或は
馬じるし・
自身――又、自分・自身たて物・自身さし物・自分さし物などとも言ふ。御指物揃・
馬じるし等――など言ふ類には、
とうてむから変つた物ではないかと思はれるのもある。私は、昔の
丈部(記・姓氏録・万葉)をば、支那風の仗人と見ずに、或は此
すたんだぁどに似た桙を持つて、大将の
前を
駆うた
部曲かと考へて居る。
秀吉の在世の頃から、旗さし物類の発達は目ざましいものであつた。諸士皆競うて、さし物に意匠を凝して、注目を惹く事に努めた。秀吉・家康から、単にさし物の画や字が珍らしいと言ふので、賞美せられた者も沢山ある(武徳編年集成・寛政重修諸家譜・貞享書上其他)。其故、諸侯の家には、大小二種の馬じるしや、自身・さし物から、諸士・雑兵の
番指物・袖印・腰印に至るまで、其数と種類の多いこと、驚くばかりである。さし物の多くは、元即興的に色々の物をさしたのが、却つてかやうに雑多な発達に導いたものらしい。長久手の戦ひの屏風絵には、籠を負うて、
薄などの青草をさした武者が、二三見えて居る。其が大阪攻めの絵巻になると、よくも僅かな年月の間に、かやうな変化を遂げたもの、と目が
られる程である。
薄をさしたさし物から、直ちに聯想せられるのは
一本荻と云ふさし物(大阪攻め絵巻・弘前軍符)である。此は、普通に
撓と言はれるところの、
袋乳の小幟風な旗の長く延びて末に尖りを持つた物であるが、神事の
よりましがさした一つ物・一本薄(郷土研究三の五〇〇等)などゝ縁がありさうである。
馬じるし・
さし物が、神事に交渉の深いことは、笠鋒から筋を引いた物が、諸家に多く行はれてゐる事でも知れる。
有馬直純の指物(島原御陣諸家指物図)に使うた、青杉の
酒ほてと言ふ物は、
の一種と思はれるが、
ほてと
ぼんでん(郷土研究三の三九七)と
との間の、脈絡を繋いで居るものと言ふ事が出来る。
同じく、植物を
だしにつけた物に
ばりんのさし物がある。私は話頭を一転して、
まとい(円居・纏)の話を聴いて頂く。