嫉みの話

折口信夫




 憎しみは人間の根本的な感情とされているが、時代の推移とともに変わってきている。
 次に、嫉妬について少し考えてみる。嫉妬も人間の根本的な感情で、わずかな時間では変わりもせぬし、地方や民族の間で変わりはせぬはずであるが、実は、日本人だけでは、すくなくとも変わってきているのである。これまでは、あまり心意現象にばかり拘泥していたから、習慣のほうへもっていって話そうと思う。
 われわれが、嫉妬というものが男の間にもあると考えたのはごく近代のことで、女だけがもっているものと長く考えてきている。それが男にも延長されて、誰も不思議に思うておらぬ。しかしこれは、「へんねし」などの方言で表わされる。いこじな、片意地な、意地の悪い感情で、そこへ羨む心持がはいる。これは羨望、意地悪、頑固などの心持をもっている。へんねし、へんねちと表わされ、ねたみという語では表現されていなかったであろう。語は型だから、語によってその一つの内容へわれわれははいってゆくので、それを男のうえにも感じるのである。語というものの支配権は、たいしたものである。女のねたみについては、この間、柳田先生の話を引いたように、われわれ男女の間へ、他物を介在させまいとする感情である、ということは動くまい、と言うておいた。
「うはなりねたみ」は、普通のねたみではない。昔の族人生活は、家単位のようであって、いくつもの家族に別れていることがあるので、妻が外に住んでいることもかなりある。うわなりとは、この族人生活の間において、後からできてきた妻のことで、後妻と書き、前からの妻は先妻と書いて、こなみと言うている。他に書きようがないので、そういう字を当てたのである。この語は大昔から使うていて、うわなりねたみというのは、第二夫人を夫のそばに近づけまい、近づけるのを嫌う心と説明しているが、うわなりねたみは、近代になって非常に抑圧せられた。ねたみは、女のもつ不道徳だと考えられ、教化(道徳と政治との結びつき)のほう、宗教のほうから、これを排斥している。だから、だんだんと家族の中の私事になってゆき、外へもって出ぬことになって、「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」などと言うて、他人はこの間に介入すべきでないと考え、相手にしなかった。
 しかし、昔はしばしば他人が間にはいって、「うはなりうち」ということが行なわれた。自分の夫に新しい愛人ができたとき、その家へ、元からの妻が自分の身内をかたろうて攻めかけて行き、家へ乱入し、その家の道具をめちゃめちゃにしてくる。これは、別に相手を傷つけるためではない。何のためにするのかというと、根本は、自分らの面目を立てるためで、それをせぬと顔が立たぬのである。つまり、一つの形式化した低い道徳で、道徳に足をかけかけた、もう少しで道徳になるものと言うべきであろう。
 自分の女房を犯した男があったとき、その男を殺すことを「めがたきうち」と言うが、これは道徳になっている。このほうは、密通した男と妻とを一度に討つことを条件と考えているようだが、妻の意志であっても、また強いられたにしても、その男を討つのが根本で、世間の制裁がはげしくなるにつれて変わったのだ。めがたきうちは、下級の者のもっていた低い道徳であったのが、武士の階級の道徳にはいっていったのである。その過渡期には、男らしくないことだ、という新しい見解で、だんだん有識階級から退けられ、軽んぜられた例もたくさんある。
 近世では、水戸烈公の話や、西鶴の『武道伝来記』にも書かれている。これは武士階級特有のものでなく、逆に下からあがってきたのだとも思われる。武士が純化せぬうちに、下からはいって体面を保ったものであったのだろう。つまり、敵討ちの根本は、世の中で許されぬような行為を犯した者を、この世からほうり出すのには、もっとも関係の近い者、その汚れに触れたものが出て行く、ということから出ている。だから、一つの誇りと道徳感とがはいっている。
 順序に並べて、親、兄弟、主君の敵討ちのうち、主君の敵討ちを道徳的に高いものとみている。兄弟のは、伊賀越えなどがその例で、これになると、根本は軽いように思われるが、昔の人は同様にみていた。「めんばれ」という語があって、汚された名誉を回復することに感心している。うわなりうち、めがたきうち、かたきうちと三つ並べると、ずっとひとつづきである。だから、道徳的な考えがはいってないとは言えぬ。つまり、われわれが道徳化して言うのではなく、昔の人は、その行為のなかに道徳を見出すのである。
 近代でも、めがたきうちを行のうた階級と思われる武家には、不思議な習慣があった。妻の供がたくさんつく。たとえば、近衛家から輿入れがあると、それに身分の高い上臈がついて行く。御簾中が正妻だが、ついてきた上臈たちとも、将軍は夫婦関係を結んだ。これは、てかけ、めかけとは言えぬ。てかけというと安っぽいが、正月に挨拶のために親方筋に行くと、三宝が出る、それに手をかけるのが、てかけである。これは合理的だが、ともかく、庇護の下に置かれる、という意味が、てかけ、めかけである。てをかける、めをかけるに特別に意味をもたすが、てかけは、下の者が上の者に保護を仰ぐことを言うらしい。物質的保護を受けることで、そのうち、女だけに、てかけという語が広く行なわれたのである。めかけのほうはまだ問題が残っている。
 御簾中は、上臈に対して、女だから腹を立てるべきだのに、むしろ喜んでいる。つまり、自分のすべきことを身近い者が代わってしてくれるのだと考えた。夫婦関係を長く持続することは、迷惑だと考えることが根本にある。それにはまた、他の理由がある。
 日本紀には、「ことさかのめやつこ」という語が出ている。夫に対して自分が妻であることを辞退するとき、その代わりに夫に与える女の奴隷のことである。ことさかとは、ものを判断することであり、離別するときにも使う。そんなことの裏に、神事関係がはいっていることがわかる。ことさかのめやっこは、一つの贖罪のために出すもので、出すのは夫である。あがないを受けるのは普通は神であるが、神が人間に代わってくることはある。あるいは、仲介者がとることもある。祓えをする者がとるのが普通であるから、謝礼とも考えられる。
 夫婦関係には宗教的観念がはいっている。妻が離別されるわけではないが、女が相当な年になると夫から離れる。これを、「しとね遠慮」と言い、夫の坐っている所から去るのである。そのあとには控えの人たちが用意してある。もしそれをせず長く添いとげると、大名間では、あの奥方は色深いとて笑いものにされ、早く別れねばならぬことになる。これが中世だと、仏教的に解釈し、女は罪が深いから早く仏道にはいらねばならぬ、尼にならねばならぬと考えた。
 紀有常の妻は、妻でいて尼になっている。伊勢物語のなかでも特に小説的な話だが、われわれから考えるとあわれは少なくなる。そんな尼は離別しても出て行くのではなく、夫婦関係をつづけながら尼になっているのである。有常は次の妻と結婚する。これは当たり前の形式であって、貧乏だから尼になったのではなく、尼になる年齢になったから尼になったのである。だが、それを一概に笑うておらぬ証拠は、源氏物語にもある。紫の上を死ぬまで尼にせぬ。早く入道したいと頼むが、終わりまでせぬ。源氏の作者は、その点を、利己的だと、源氏が反省するふうにして書いている。泣かんばかりに訴えている。平安朝あたりでは、宗教的に去るところは、仏教の考えが普通の形になるのだが、仏教が社会の根底にならぬうちは、そうではなく、仏教は生活の規範になっておらぬ。その頃は、神のために夫から去るのだと考えている。平安朝では、去る方法として尼になるが、その以前は、神の要求のためだとしている。
 わが国の文学史に現われる女は、上の階級の者か、神に仕えている女に限られている。そういう女は、神に仕えるか、または、神のものであった。だいたい、この推測は外れておらぬと思う。一時、人間の夫をもっていて、また神の所有に帰る。普通の人は、前後は神のもので、中だけが人間のものと考えられる。だから、早く神のものに帰らねばならぬ。それで、夫婦関係のつづいてゆく年限は非常に短かった。
 すると、どうしても代わりの女がなければならぬことになる。神事ですべて解釈できるように、個人は考えられず、族人として考えねばならぬ。妻と言うてもかならず一群の妻である。垂仁天皇の皇后が亡くなられるとき、あとの皇后を推薦される。「汝の堅めたるみづのをひもは誰かも解かむ」という天皇の仰せに答えられるのであるが、これは神事である。ところが、自分とすっかり系統の違う丹波の国の道主の娘が、これをするだろうと言われた。それで、道主の娘五人を召された。記と紀とでは違うが、五人のうち二人は、嫌われて国へ帰る途中、自殺した。それで、この系統にもののけがかかる。平安朝には族人にかかる呪い、すなわち、もののけがあり、呪うて死んでいる。この道主の系統は、後に丹波の八乙女となって残っていて、宮廷と伊勢とに行くことになっている。
 こんなに何人も妃が出てきたということは、姉から妹へしとねが譲られてゆくのである。だから宮廷でも他の家でも、一族の間では、まず嫉妬とみられるものはなかった。ただ一人、允恭天皇の皇后で、天皇と衣通姫とのことを聞いて、おおいに恨まれたということがあるが、これは衣通姫を迫害しているのではなく、夫を恨んでいるだけである。自分の後を次に譲って、ねたみはない。だいたい不思議なほど、自分らが連れてきたものに譲っていっている。秩序なく考えると、一緒だと思うが、しだいしだいにあがってゆくのが順序なのであろう。
 こんな一群が幾流れかあって、この同じ流れの間では軋轢が起こらぬ。女でも腹の立つことがあろうと思うが、それはわれわれの先入見かもしれぬ。平安朝の結婚の形式ではっきりしてくることは、昔ならむかいめ(嫡妻)があって、その他に側室があるように考えられるふうに書いてあるが、平安朝では嫡妻はなく、有力なものが二人三人あり、この間の軋轢はひどい。Aの流れは共同してBにあたる。嫉妬の形が違うわけである。そう言うても安んじないが、そういう様式を守っているので、同族の中から出たもので争うのは、原始的な感情から解放されるか、あるいは新しいものに触れたのが遅いかで、その点、世間の普通の感情がこうだからとは決められぬ。
 宮廷のことをうわさするのは、おそれ多いが、本当の美しい心でせねばならぬ。宮廷には大きい二つの流れが、妻妾にある。私は、これを火と水とにたとえている。火の系統から出るお方と、水の系統から出るお方とがあって、火の系統は皇族の流れ、水の系統は民間からのお方である。どういう皇族が出るかはわからぬ。宮廷の系図ははっきりしすぎていて整理がつかぬが、水の側は整理がつきやすい。ともかく、はっきり見えるのはこの二つである。宮廷自身から出る火のほうばかりが強いわけでもない。交替に出ているわけでもない。
 ところが、水の系統のお方は、どうしても、火の系統のお方に対しては階級が低いのであろう。だから、水の系統のお方が第一位に出られるときには、いろいろと議論が起こった。水の系統の光明皇后が出られたときは、聖武天皇が宣命の中で、わけを説いておられる。だいたい、皇族から出られるのが第一位で、他氏から出られるのは第二位である。火と水との系統の争いは、ずいぶん長くつづいた。しかし、生まれた皇子たちには、区別がないと思うていたらしい。だんだん水の系統から、みめの出ることが盛んになったが、ときどき火の系統からもはいった。
 日本の民間伝承には、宮廷から出たものと、下からのぼったものとがあるが、見やすく誤りのないのは、上から出たもの、すなわち、貴族へ伝わったものである。それを下が模倣している。妻をもつ方法についても、宮廷のことから調べてかかると、確かなことがわかる。平安朝以後は、貴族のが出てくる。貴族の結婚の方式ははっきりとわかってくる。
(昭和十二年十月七日)





底本:「日本の名随筆 別巻77 嫉妬」作品社
   1997(平成9)年7月25日第1刷発行
底本の親本:「折口信夫全集 ノート編 第七巻」中央公論社
   1971(昭和46)年9月発行
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2003年12月27日作成
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