國文學の發生(第三稿)

まれびと[#「まれびと」に傍線]の意義

折口信夫




      一 まれびと

客をまれびとと訓ずることは、我が國に文獻の始まつた最初からの事である。從來の語原説では「稀に來る人」の意義から、珍客の意を含んで、まれびとと言うたものとし、其音韻變化が、まらひとまらうどとなつたものと考へて來てゐる。形成の上から言へば、確かに正しい。けれども、内容――古代人の持つてゐた用語例――は、此語原の含蓄を擴げて見なくては、釋かれないものがある。
我が國の古代、まれの用語例には、「稀」又は「rare」の如く、半否定は含まれては居なかつた。江戸期の戲作類にすら、まれ男など言ふ用法はあるのに、當時の學者既に「珍客」の意と見て、一種の誇張修辭と感じて居た。
うづは尊貴であつて、珍重せられるものゝ義を含む語根であるが、まれは數量・度數に於て、更に少いことを示す同義語である。單に少いばかりでなく、唯一・孤獨などの義が第一のものではあるまいか。「あだなりと名にこそたてれ、櫻花、年にまれなる人も待ちけり(古今集)」など言ふ表現は、平安初期の創意ではあるまい。
まれびとの内容の弛んで居た時代に拘らず、此まれには「唯一」と「尊重」との意義が見えてゐる。「年に」と言ふ語がある爲に、此まれは、つきつめた範圍に狹められて、一囘きりの意になるのである。此「年にまれなり」と言ふ句は、文章上の慣用句を利用したものと見てさしつかへはない樣である。
上代皇族の名に、まろまりなどついたものゝあるのは、まれとおなじく、尊・珍の名義を含んでゐるのかと思ふ。繼體天皇の皇子で、倭媛の腹に椀子マリコ皇子があり、欽明天皇の皇子にも椀子マリコ皇子がある。又、用明天皇の皇子にも當麻公の祖麻呂子マロコ皇子がある(以上日本紀)。而も繼體天皇は皇太子マガリ大兄を呼んで「朕が子麻呂古マロコ」と言うて居られる(紀)。此から考へると、子に對して親しみと尊敬とを持つて呼ぶ、まれ系統の語であつたのが、固有名詞化したものであることが考へられる。まれびとも珍客などを言ふよりは、一時的の光來者の義を主にして居るのが古いのである。
くすり師は常のもあれど、マラ人のイマのくすり師 たふとかりけり。メグしかりけり(佛足石の歌)
つねは、普通・通常などを意味するものと見るよりも、此場合は、常住、或は不斷の義で、新奇の一時的渡來者の對立として用ゐられてゐるのである。まらは、まれの形容屈折である。尊・珍・新などの聯想を伴ふ語であつたことは、此歌によく現れてゐる。
まれと言ふ語の溯れる限りの古い意義に於て、最少の度數の出現又は訪問を示すものであつた事は言はれる。ひとと言ふ語も、人間の意味に固定する前は、神及び繼承者の義があつたらしい。其側から見れば、まれひとは來訪する神と言ふことになる。ひとに就て今一段推測し易い考へは、人にして神なるものを表すことがあつたとするのである。人の扮した神なるが故にひとと稱したとするのである。
私は此章で、まれびとは古くは、神をす語であつて、とこよから時を定めて來り訪ふことがあると思はれて居たことを説かうとするのである。幸にして、此神を迎へる儀禮が、民間傳承となつて、賓客をあしらふ方式を胎んで來た次第まで説き及ぼすことが出來れば、望外の欣びである。
てつとりばやく、私の考へるまれびとの原の姿を言へば、神であつた。第一義に於ては古代の村々に、海のあなたから時あつて來り臨んで、其村人どもの生活を幸福にして還る靈物を意味して居た。
まれびとが神であつた時代を溯つて考へる爲に、平安朝以後、近世に到る賓客饗應の風習を追憶して見ようと思ふ。第一に、近世「キヤク」なる語が濫用せられて、其訓なるまれびとの内容をさへ、極めてありふれたものに變化させて來たことを思はねばならぬ。大正の今日にも到る處の田舍では、ゐろりの縁の正座なるよこざ(横座)を主人の座とし、其次に位する脇の側を「客座キヤクザ」と稱へて居る。此は客を重んじ慣れた都會の人々には、會得のいかぬことである。併し田舍屋の日常生活に訪ふものと言へば、近隣の同格或は以下の人たちばかりである。若したまに同等以上の客の來た時には、主人は、横座を其客に讓るのが常である。だから、第二位の座に客は坐るものと考へられたことは、農村の家々に、眞の賓客と稱してよい者の、容易には來るものでなかつた事を示して居る。
正當に賓客と稱すべき貴人の光來の榮に接することになつたのは、凡、武家時代以後、次第に盛んになつたことゝ觀察せられる。武家は、久しい地方生活によつて、親方・子方の感情が、極めて緻密であつた。中央には、傳承が作法を生んで、久しい後までも、わりあひ自由に親密を露すことが出來た。其で、武家が勢力を獲た頃になると、中央であつたら大事件と目せられねばならない樣な臣家訪問の事實が、急に目につき出したのである。下尅上の恐怖が感じられる樣になると、懷柔の手段と言ふ意味も含められて、愈流行した。其結果、賓客と連帶して來たまれびとなる語は、到底、上代から傳へた内容を持ちこたへることが出來なくなつたのである。六國史を見ても、さうである。天子の臣家に臨まれた史實は、數へる程しかない。公式と非公式とでは違ふであらうが、内容にも屡あり得べきことではなかつた。
上官下僚の關係で見ても、さうだ。非公式には多少の往來を交して居さうな人々の間にも、公式となると、こと/″\しい形式を履まねばならぬことになつてゐた。「大臣大饗」は、此適切な例である。新しく右大臣に任ぜられた人が、先輩なる現左大臣を正客として、他の公卿を招く饗宴であるが、此は公家生活の上に於ける非常に重大な行事とせられて居た。だから、正客なる左大臣の一擧一動は、滿座の公卿の注視の的となつた。新大臣にとつては、單に次には自分の行はねばならぬ儀式の手本を見とつて置く爲の目的から、故らに行うたやうな形があつた。先輩大臣は、其だけに故實を糺して、先例を遺して置かうと言ふ氣ぐみを持つてゐた。

      二 門入り

凡、大饗と名のつく饗宴には、すべて此正客をば「尊者」と稱へて居た。壽・徳・福を備へた長老を「尊者」と言ふと説明して來て居るが、違ふ樣である。私は此には二とほりの考へを持つて居る。一つはまれびとの直譯とするのである。今一つは寺院生活の用語を應用したものと見るのである。食堂ジキダウの正席は必、空座なのが常である。此は、尊者の座席として、あけて置くのである。尊者は、賓頭盧ビンヅル尊者の略號なのである。だから、食事を主とする饗宴の正客を尊者と稱すると考へるのも、不自然な想像ではない樣である。尊者の來臨に當つて、まづ喧ましいのは門入りの儀式である。次に設けの席に就くと、列座の衆の拍手するのが、本式だつた樣である。饗膳にも亦特殊な爲來シキタりがあつた。此中、支那風・佛教風の饗宴樣式をとり除いて考へて行きたい。
奈良朝の記録には、神護景雲元年八月乙酉、參河國に慶雲が現れたので、西宮寢殿に、僧六百人を招いて齋を設けた。
是の日、緇侶の進退、復法門の趣なし。手を拍つて歡喜すること、もはら俗人に同じ。(續紀)
とある。此拍手が純國風であつたことは、延暦十八年朝賀の樣の記述を見ても察せられる。
文武官九品以上、蕃客等、各位に陪す。四拜を減じて再拜と爲し、拍手せず。渤海國の使あるを以てなり。(日本後紀)
とあるのは、天子を禮拜することの、極めて鄭重であつた國風を、蠻風と見られまいとして、恥ぢて避けたのである。だが、此も亦宴式に臨んだ正客を拜した古風の存して居たのである。手を拍つ事は、酒宴の興に乘つて拍子をとり、囃すものと思はれて來たが、後世の宴會の風から測つた誤解である。正客即尊者は拜むべきものであつた。其故、手を拍つて拜したのである。
二つの引用文は天子に關したものであるが、拍手禮拜の儀は、天子に限らない。うたげは「拍ち上げ」の融合なることは、まづ疑ひはない。併し、宴はじまつて後の手拍子をすのでなく、宴に先だつての禮拜を言ふ語であつたのである。其が饗宴全體を現し、遂には饗宴の主要部と考へられる樣になつた酒宴を示す樣に移つて來たものと思はれる。後に言ふ朝覲行幸・おめでたごとと同じ系統の壻入りをうちゃげ(宛て字宇茶下ウチヤゲ)と美濃國で稱へてゐたと言ふのは、疑ひもなく拍上ウタげである。併し、壻入りの宴會をすものでなく、壻が舅を禮拜する義から出てゐるのは疑ひがない。
後世、饗宴の風、其宴席の爲に正客を設け、名望ある長老を迎へる事を誇りとする樣になつたが、古代には尊者の爲の饗宴であつて、饗宴の爲の正客ではなかつたのである。だから、尊者は、饗宴の唯一の對象であり、中心であつた。他の列座の客人・宴席の飾り物・食膳の樣子・酒席の餘興などの起原に就ては、自ら説明する機會があるであらう。
尊者の「門入り」の今一つ古い式は、平安の宮廷に遺つて居た。大殿祭の日の明け方、神人たち群行グンギヤウして延政門に訪れ、門の開かれるを待つて、宮廷の巫女なる御巫ミカムコ等を隨へて、主上日常起居の殿舍を祓うて※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)るのであつた。此神人――中臣・齋部の官人を尊者と稱することはせなかつたけれど、祓へをすました後、事に與つた人々は、それ/″\饗應せられて別れる定めであつた。かくて貴族の家々に中門チユウモンの構造が必須條件となり、中門廊に宿直人トノヰビトを置いて、主人の居處を守ることになる。平安中期以後の家屋は皆此樣式で、極めて尊い訪客は、中門から車を牽き入れて、寢殿の階に轅を卸すことが許されて居た。武家の時代になると、中門が塀重門と名稱・構造を變へて來たが、尚、普通には、母屋の前庭に出る門を中門チユウモンと稱へて來た。
田樂師デンガクシの演奏種目の中、古くからあつて、今に傳へて居る重要な「中門口チユウモングチ」と言ふのは、此「門入り」の儀の藝術化したものなのであつた。田樂法師と千秋萬歳法師との間には、どちらから影響したか問題であるが、類似が澤山ある。服裝・舞ひぶりは勿論だが、此「中門口」に到つては、殊に著しい。後世風に考へれば、「中門口」は寧、千秋萬歳の方に屬するものと見える。併し、單にカドぼめを「中門口チユウモングチ」の主體と見ることは出來ぬ。くちを、今も「語り」の意に使うてゐる所から見ると、「中門口」の動作と言ふよりも、中門での語りを意味すると見る方が、聊かでも眞實に近い樣だ。ともかくも、尊者系統の訪れ人が、中門におとなふ民間傳承から出たものに相違はないと思ふ。此が門ぼめの形式に移つて行つたので、寧、庭中・屋内のほめの儀が重んぜられて居たものと見るべきである。何故、此樣に「門入り」の式を問題にしたものであらうか。奈良朝或は其以前に溯つても、實際の民俗にも、其傳説化した物語にも、同樣の風のあつたのがありありと見られる。
にほどりの葛飾早稻カツシカワセにへすとも、可愛カナしきをに立てめやも
タレぞ。此家のオソふる。にふなみに、我がりて、イハふ此戸を
此二首の東歌(萬葉集卷十四)は、東國の「刈り上げ祭り」の夜の樣を傳へてゐるのである。にへは神及び神なる人の天子の食物の總稱なる「ニヘ」と一つ語であつて、刈り上げの穀物をクウずる所作をこめて表す方に分化してゐる。此行事に關した物忌みが、にへのいみ、即にふなみにひなめと稱せられて、新甞と言ふ民間語原説を古くから持つて居る。此宛て字を信じるとすれば、なめといふ語の含蓄は、極めて深いものとせなければならぬ。
大甞オホムベは大新甞、相甞アヒムベは相新甞で、なめが獨立して居ないことは、おほなめあひなめと正確に發音した文獻のないことからも知れる。鳥取地方には、今も「刈り上げ祝ひ」の若衆の宴をにへと稱へて居る。羽前庄内邊で「にはないギヤウ(?)」と言ふのは、新甞のニヘと見るより寧、にへなみの方に近い。にへする夜の物忌みに、家人は出拂うて、特定の女だけが殘つて居る。處女であることも、主婦であることもあつたであらう。家人の外に避けて居るのは、神の來訪あるが爲である。
此等の民謠は、新甞の夜の民間傳承が信仰的色彩を失ひ始めた頃に、民謠特有の戀愛情趣にとりなして、其樣子を潤色したのである。來訪者を懸想人としたのは、民謠なるが爲であるに過ぎないが、かうしたおとづれ人を豫期する心は、深い傳承に根ざして居たのである。かうした夜の眞のおとづれ人は誰か。其は刈り上げの供を享ける神である。其神に扮した神人である。
「戸おそふる」と言ひ、「に立つ」と謠うたのは、戸を叩いて其來訪を告げた印象が、深く記憶せられて居たからである。とふこたふの對で、言ひかけるであり、たづぬさぐるを原義として居る。人の家を訪問する義を持つた語としては、おとなふおとづるがある。音を語根とした「音を立てる」を本義とする語が、戸の音にばかり聯想が偏倚して、訪問する義を持つ樣になつたのは、長い民間傳承を背景に持つて居たからである。祭りの夜に神の來て、ほと/\と叩くおとなひに、豐かな期待を下に抱きながら、恐怖と畏敬とに縮みあがつた邑落幾代の生活が、産んだ語であつた。だから、訪問する義の語自體が、神を外にして出來なかつたことが知れるのである。新甞の夜に神のおとづれを聽いた證據は、歌に止まらないで、東の古物語にも殘つて居た。母神(御祖神ミオヤガミ)が地上に降つたのは、偶然にも新甞の夜であつた。姉は、人を拒む夜の故に、母を宿さなかつた。妹は、母には替へられぬと、物忌みの夜にも拘らずとめることにした(常陸風土記)。物語の半分は「しんどれら型」にとり込まれて居るが、前半は民間傳承が民譚化したものである。新甞の夜に來る神が、一方に分離して、御祖神の形をとることになつたのだ。
おなじく神の來る夜の民俗は、武塔フタフ神を拒み、或は宿した巨旦コタン將來・蘇民ソミン將來の民譚(備後風土記逸文)をも生んで居る。此は新甞の夜とは傳へて居ない。事實、刈り上げ祭り以外にも、神の來臨はあつたのである。此武塔神の場合に、御子ミコ神を隨へて居られるのは注意せねばならぬ。此神をすさのをの命と同じ神とする見解も古くからあるが、此は日本紀の一書に似た型の神話を止めて居るからであらう。命、高天原を逐はれた時に長雨が降つて居た。青草を以て簑笠として、宿を衆神に乞うたが、罪ある故にとめる者がなかつた。其以來、簑笠を著て他人の家に入り、又、束草を背負うて這入ることを諱んだ。犯す者には祓へを課したのが、奈良朝の現行民俗であつた。此神話は、武塔神の件との似よりから觀ると、やはり神來訪の民俗の神話化したものに違ひない。

      三 簑笠の信仰

而も尚一つ、簑笠に關する禁忌の起原を説く點である。私の考へる所では、簑笠を著て家に入つたからとて、祓へを課する訣はない。孝徳朝に民間に行はれた祓へを見ても、家を涜し村を穢したものとする樣々な口實を以てして、科料を課して居る樣子が見える。だから、束草などは説明の途のつかない間は、姑く家を汚すものと見ることも出來るが、簑笠を着てづゝと這入ることは、別途の説明をすることが出來る。婚禮の水祝ひも、實は孝徳紀によると、祓へから出發して居るのである。巫女と婚する形式になるところから婚前に祓ふべきを、事後に行うたのである。
此と同じで、簑笠を著たまゝで、他家の中に入るのは特定のおとづれ人に限る事であるのに、其を犯したから祓ふのである。が此は、一段の變化を經て居る。祓へをして簑笠を着たおとづれ人を待つ風があつたのを、其條件に叶はぬ人の闖入に對して、逆に此方法をとつたものである。決して農村生活に文化式施設を試みようとの考へから出たのではない。簑笠は、後世農人の常用品と專ら考へられて居るが、古代人にとつては、一つの變相服裝でもある。笠を頂き簑を纏ふ事が、人格を離れて神格に入る手段であつたと見るべき痕跡がある。
神武紀戊午の年九月の條に、敵の邑落を幾つも通らねば行けぬ天香山カグヤマの埴土を盜みに遣るのに、椎根津彦シヒネツヒコに弊れた衣に簑笠を著せて、老爺に爲立て、弟猾オトウカシに箕を被かせて、老媼の姿に扮せしめたことが出て居る。此は二段の合理化を經た書き方で、簑笠で身を隱すと言ふより、姿が豹變するものとした考へ、第二に二人が夫婦神の姿に扮した――と言ふよりも、夫婦のおとづれ人の姿の印象が、此傳説を形づくつたと見る方が正しい――ので、神の服裝には簑笠が必須條件になつて居たことを示すものである。
此事は、尚及びうらの條に詳しく解説をする。隱れ簑・隱れ笠は、正確には外來のものではない。在り來りの信仰に、佛教傳來の空想の、隱形の帽衣の觀念をとりこんで發達させたまでゞある。人間の姿がなくなつて、神と替るといふことゝ、人間の姿を隱すと言ふことゝだけの違ひに過ぎない。
又、笠神の形態及び信仰の由來する所も、其大部分は、此おとづれ人の姿から出てゐるものと見られる。今も民間信仰に、田の神或は其系統の社の神の、簑笠を著けたのが多いのは、理由のあることである。遠い國から旅をして來る神なるが故に、風雨・潮水を凌ぐ爲の約束的の服裝だと考へられ、それから簑笠を神のしるしとする樣になり、此を著ることが神格を得る所以だと思ふ樣になつたのである。簑笠で表された神と、オスヒ※(「ころもへん+畢」、第4水準2-88-32)チハヤを以て示された神との、二種の信仰對象があつて、次第に前者は神祕の色彩を薄めて來たものと思はれる。神社・邸内神は後者で表されたものである。後には、簑よりも笠を主な目じるしとする樣になつて行つた。此は然るべきことで、顏を蓋ふといふ方にばかり、注意が傾いて行つたので、神事と笠との關係は、極めて深いものであつた。
大晦日・節分・小正月・立春などに、農村の家々を訪れた樣々のまれびとは、皆、簑笠姿を原則として居た。夜の暗闇まぎれに來て、家の門から直にひき還す者が、此服裝を略する事になり、漸く神としての資格を忘れる樣になつたのである。近世に於ては、春・冬の交替に當つておとづれる者を、神だと知らなくなつて了うた。或地方では一種の妖怪と感じ、又或地方では祝言を唱へる人間としか考へなくなつた。其にも二通りあつて、一つは、若い衆でなければ、子ども仲間の年中行事の一部と見た。他は、專門の祝言職に任せると言ふ形をとるに到つた。さうして、祝言職の固定して、神人として最下級に位する樣に考へられてから、乞食者なる階級を生じることになつた。
     ┌妖怪
おとづれ人┤
     └祝言職――乞食
だから、かういふ風に變化推移した痕が見られるのである。門におとづれて更に屋内に入りこむ者、門前から還る者、そして其形態・爲事が雜多に分化してしまうたが、結局、門前での儀が重大な意義を持つて居たことだけは窺はれる。此樣に各戸訪問が、門前で其目的を達する風に考へられたものもあり、又、家の内部深く入りこまねばならぬものとせられたのもある。古代には家の内に入る者が多く、近世にも其形が遺つて居るが、門口から引き返す者程、卑しく見られて居た樣である。つまりは、單に形式を學ぶだけだといふ處から出るのであらう。

      四 初春のまれびと

乞食者はすべて、門藝人の過程を經て居ることは、前に述べた。歳暮に近づくと、來む春のめでたからむことを豫言に來る類の神人・藝人・乞食者のいづれにも屬する者が來る。「鹿島のことふれ」が※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り、次いで節季候セキゾロ正月さしが來る。「正月さし」は神事舞太夫の爲事で、ことふれは鹿島の神人だと稱した者なのだ。
此中、節季候セキゾロは、それ等より形式の自由なだけ、古いものと言はれる。其姿からして、笠に約束的の形を殘してゐた。此は、近世京都ではたゝきと言ふ非人のすることになつて居た。たゝきの原形だと言はれてゐる胸叩ムネタヽきと言ふ乞食者は、顏だけ編み笠で隱して、裸で胸を叩きながら「春參らむ」と言うたとあるから、「節季に候」と「春參らむ」とは、一續きの唱へ言であつたことが知れる。さうしてたゝきの正統は、誓文拂ひ位から出たすた/\坊主に接續して居る。而も、其常用文句は「すた/\坊主の來る時は、世の中よいと申します」と言ふ、元來、明年の好望なることを豫約するものであつた。
大晦日は前にも述べたとほり、節分・立春前夜・十四日年越しと共通の意味を持つた日と考へられて居た爲、かうした點にも同樣の事が行はれた。「厄拂ひ」は、右のいづれの日にか行はれるもので、節分には限らない。奈良では、「富み/\」と唱へて驅け歩くシユクの者の出たのが、大晦日である。たゝきと言ふ悲田院の者も、實は此夜門戸を叩いて唱へ言をして歩いたからであらう。徒然草の「つごもりの夜いたう暗きに松どもともして、夜半すぐるまで人の門たゝきはしりありきて、何ごとにかあらむ、こと/″\しくのゝしりて足を空にまどふ」とあるのゝ職業化したもので、元祿時代までも非人以外に、町内の子どもゝして歩いた樣である。而も、兼好は、東國風として、大晦日の夜に、靈祭りをする國あるを傳へて居る。
寶船を賣りに來るのも、除夜或は節分の夜である。正月二日に賣り歩くのは、變態である。元旦未明から若えびす賣りが來る事は、やはり江戸中期まではあつたことである。其からは物吉モノヨシ・萬歳が來て、門をほめ、柱をほめ、屋敷・廐・井戸をほめて※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)る。猿※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しの來るのも正月で、主として廐祈祷の意を持つてゐる。京ではたゝき、江戸では非人の女太夫が鳥追ひに來るのも、小正月までの事である。又、同期間に亙つて、江戸の中頃までは、懸想文うりが出た。此は、祇園の犬神人イヌジンニンの專業であつた樣だから、常陸帶同樣、當年一杯に行はるべき氏人の結婚の豫言と見るのが適當である。さすれば、鹿島の「言觸コトフれ」の原義も辿る事が出來よう。其外にも生計上の豫言が含まれて居る。
鳥追ひの女太夫ばかりでなく、室町・聚樂の頃までは、年頭祝言に出る者に桂女カツラメがあつた。將軍家の婚禮にも、戰爭の首途にも、祝言を唱へに來た。桂女カツラメは、巫女から出て、本義は失ひながら、まだ乞食者にも藝人にも落ちきつて居ないものである。女で尚、ある時期を主とする乞食者に「姥等ウバラ」がある。此は、白河に居た者で、師走に專ら出る者であつた。上に列擧した者は、大抵門口から還るのだが、萬歳・桂女は、深く屋敷に入り、座敷までも上つて居る。
かうした職業者以外で言ふと、十月から既に來春を豫祝する意で、玄猪の行事がある。此夜は、村の子どもが群をなして、屋敷に自由に入つて來て、地を打ち固める形式をするが、共通の樣である。多くの地方で、海鼠を以て、※[#「鼬」の「由」にかえて「偃」のつくり、18-5]鼠を逐ふ儀式と信じて居る。大晦日・節分の厄拂ひも、若い衆が行ふ地方はまだある。而も、厄拂ひに似て居て、意義不明なほと/\とのへいこと/\など言ふ簡單な唱へ言をして、家々の門戸を歴訪し、中には餅錢などを貰ひ受け、或は不意の水祝ひを受けて、還るのもある。皆恐らくおとづれる戸の音の聲色を使ふのであつて、ほと/\と言つた古言で、おとなひを表した時代から固定した唱文であり、儀式であつたのであらう。
小正月或は元日に、妖怪の出て來るのは、主として奥羽地方である。なもみはげたかなまはげがんぼうもうこなど言ふ名で、通有點は簑を著て、恐しい面を被つて、名稱に負うた通りの唱へ言、或は、唸り聲を發して家々に踊りこんで、農村生活に於ける不徳を懲す形をして行くのである。私は、地方々々の民間語原説はどうあらうとも、なまなもみは、玄猪の「海鼠」と語原を一つにしたもので、おとづれ人の名でなくば、其目的として懲らさうとする者の稱呼ではないかと思ふ。さうでなくば、尠くとも、我が古代の村々の、來向ふ春の祝言の必須文言であつたとだけは言はれよう。此妖怪、實は村の若い衆の假裝なのである。村の若者が人外の者に扮して、年頭の行事として、村の家々を歴訪すると言ふのは、どう言ふ意味であらうか。何にしても、不得要領なほと/\と同じ系統で、まだ其程に固定して居ないものだと言ふ事は知れる。

      五 遠處の精靈

村から遠い處に居る靈的な者が、春の初めに、村人の間にある豫祝と教訓とを垂れる爲に來るのだ、と想像することは出來ぬだらうか。簑笠を著けた神、農作の初めに村及び家をおとづれる類例は、沖繩縣の八重山列島にもあちこちに行はれてゐる。
おとづれ人の名をまやの神と言ふ。まやは元來は國の名で、海のあなたにある樂土を表す語らしい。臺灣土民の中にも、阿里山蕃人は、神話の上に此樂土の名を傳へて居る。而も沖繩本島の西北の洋中にある伊平屋イヘヤ列島にも、古く此樂土の名を傳へてゐたことを思へば、偶發したものとは考へられない。まやを沖繩語「猫」に用ゐるところから、猫の形をした神と考へて居る村もあるのは、却つて逆で、まやの國から來た畜類と言ふ事なのであらう。蒲葵クバの葉の簑笠で顏姿を隱し、杖を手にしたまやの神ともまやの神の二體が、船に乘つて海岸の村に渡り來る。さうして家々の門を歴訪して、家人の畏怖して頭もえあげぬのを前にして、今年の農作關係の事、或は家人の心を引き立てる樣な詞を陳べて※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)る。さうした上で、又、洋上遙かに去る形をする。つまりは、初春の祝言を述べて歩くのである。
此は勿論、其村の擇ばれた若者が假裝した神なのである。村人の中、女及び成年式を經ない子供には絶對に知らせない祕密で、同時に状を知つた男たちでも、まやの神來訪の瞬間は眞實の神と感じ、まやの神自身も神としての自覺の上に活いて居る樣である。此樣に大切な神にも拘らず、村によつては猫の怪物と聯想して居ると言ふ風に、どこかに純化しきつた神とは言はれぬ點を交へて居る。かうして見ると、なもみはげたかとの隔りは、極めて纔かなものになつて來るのである。
おなじ八重山群島の中には、まやの神の代りににいるピツを持つて居る地方も、澤山ある。蛇の一種の赤また、其から類推した黒またと言ふのと一對の巨人の樣な怪物が、穗利フウリイ祭に出て來る。處によつては、黒またの代りに、青またと稱する巨人が、赤またの對に現れるのもある。此怪物の出る地方では、皆、海岸になびんづうと稱へる岩窟の、神聖視せられて居る地があつて、其處から出現するものと信じて居る。なびんづうは、巨人等の通路になつて居るのだ。
にいるすくと言ふ處が、巨人の本處であると考へて、多くの人は海底にあると説く。にいるは奈落で、すくは底だと言ふが、にいるは明らかに別の語である。にこらい・ねふすきい氏の考へでは、すくも底ではなく、此群島地方で、底をすくと言ふ事はない。やはり壘・村・國を意味して居るさうだ。つまり、にいる國と言ふ事になる。ぴつは人であるが、一種の敬意を持つた言ひ方で、靈的なものなる事を示して居るのである。
にいる人の行ふ事は、一年中の作物の豫祝から、今年中の心得、又は昨年中、村人の行動に對する批評などもある。村人の集つて居る廣場に出て踊り、其後で家々を歴訪すること、及び其に對する村人の心持ちは、まやの神と同樣である。
にいる人の出る地方の青年には、又、酉年毎に成年式が執り行はれる。一日だけではあるが、かなりの苦行を命じられる儘にせなければならない。まやの國から來る神と、にいるすくから來る靈物との間に違ふ點は、形態の差異だけしかない訣であるが、にいる人の方が、村の生活・村の運命との交渉が緻密である樣に見える。此巨人も、擇ばれた若者たちが、一體につき二人づゝ交替に這入ることになつて居る。其を男たちは知つて居て、而も敬虔感は失はないのである。
にいるすくは、海底か洋上か、其所在、頗、曖昧であるが、此は後に説くとして、先島の人々は、にいるすくを恐しい處と考へて居ることは、事實である。暴風もにいるすくから吹くと考へて居る。此は洞窟を以て、風伯の居る所とし、其海岸にあるものは、黄泉への通路として居る世界的信仰と脈絡があるのである。風とにいるとの關係に就ては、沖繩本島でも、風ぎを祈るのに、にらいかないへ去れと唱へるので訣る。にいるを風の本據と見て居る證である。
にらいかないは、言ふまでもなく、にいると同じ語で、かないは對句表現である。にらいかないじらいかない儀來河内ギライカナイけらいかないなど、沖繩本島の文獻には見えて居る。本島には、にらいかないから、初夏になると、蚤が麥稈の舟に麥稈の棹をさしてやつて來るといふ信仰から來た諺がある。
沖繩本島のにらいかないは、琉球神道に於ける樂土であつて、海のあなたにあるものと信じて居る地だ。さうして人間死して、稀に至ることもあると考へられた樣である。神は時あつて、此處から船に乘つて、人間の村に來ると信じた。其が海岸から稍入りこんだ地方にも及してゐる。だから、沖繩の村は海岸から發達したことは知れる。方言では多く、其神を「にれいカンがなし」と稱して居る。到る處の村々の祭りに海上から來る神である。
琉球王朝では、遠方より來る神を地神の上に位せしめて居た樣である。さうして、天神と海神とに區分して居る。儀來河内ギライカナイの神は、海神に屬するのである。さうして其所在地は、東方の海上に觀じて居たらしく見える。あがり大主ウフヌシと言ふのが、一名儀來の大主ウフヌシなのである。あがりは東である。今實在の島である大東島ウフアガリジマは、實は舊制廢止以後までも、空想の島であつた。更に古くは、本島東岸の久高クタカ津堅ツケンの二島の如きも、樂土として容易に近づき難い處と考へられた時代もあつた樣である。
琉球神道の上のにらいかないは光明的な淨土である。にも拘らず、多少の暗影の伴うて居るのは、何故であらう。今一度、八重山群島の民間傳承から話をほぐして行きたい。

      六 祖靈の群行

村々の多くは、今も盂蘭盆に、祖先の靈を迎へて居る。此をあんがまあと言ふ。考位ヲトコカタの祖先の代表を謂ふ大主前オシユマイ妣位ヲンナカタの代表と傳へる祖母アツパアと言ふ一對の老人が中心になつて、眷屬の精靈を大勢引き連れて、盆の月夜のまつ白な光の下を練り出して來る。どこから來るとも訣らないが、墓地から來るとは言はぬらしい。小濱島では、オホやまとから來ると言うて居るから、海上の國をすのであらう。あんがまあと言ふ名稱も、私は其練り物の名ではなく、まやにいる同樣、其本據の國の稱へであらうと思ふよしは、後に言ふ。
盆の三日間夜に入ると、村中を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて迎へられる家に入つて、座敷に上つて饗應を受ける。勿論、若い衆連の假裝で、顏は絶對に露さない。元は、芭蕉の葉を頭から垂れて、葉の裂け目から目を出して居たと言ふが、今は木綿を以て頭顏を包んで、其に眉目を畫き、鼻を作つて、假面の樣にして居る。大主前オシユマイが、時に起つて家人に色々な教訓や批難或は慰撫・激勵をするが、輕口まじりに人を笑はせることが多い。時には、隨分恥をかゝせる樣なことも言ふさうである。大主前オシユマイの默つて居る間は、眷屬たちが携へて來た樂器を鳴して、舞ひつ謠ひつ藝づくしをして歡を恣にする。家の主人・主婦等は、ひたすら、あんがまあの心に添はうと努めて居る。大主前オシユマイは、色々な食物の註文をして催促することもある。
あんがまあは「母小アモガマ」で、がまは最小賞美辭である。而も、沖繩語普通の倒置修飾格と考へる事が出來るから、「親しい母」と言ふ位の意を持つ。即、我が古代語の「ハヽが國」に適切に當るのである。此も後に説くが、「ハヽが國」も、海のあなたにあるものとして居たことは疑ひがない。我が國に多い「あくたい祭り」、即、有名な千葉笑ひ・京五條天神の「ウケラ祭り」の惡口・陸前鹽竈のざっとな・河内野崎觀音詣での水陸の口論の風習の起りは、此處にあるのである。
そしると言ふ語は、古くさゝやくと言ふ内容を持つたに過ぎぬが、人の惡口を耳うちすると言ふ風に替つたのは、此邊に理由があるのではないか。そしるは日・琉に通じる古語で、託宣する事である。託宣はさゝやかれるのが本式であつた。ところが、一方へ分化したのは、託宣の形を以て、人の過ち・手落ちを誹謗することが一般に行はれた處から、そしるの現用々語例が出來たものであらう。
八重山の村々で見ても、今こそ一村一族と言ふものはなくなつて、大抵、數個の門中からなつて居るが、古い形は大體一つの門中を以て、村を組織して居たのであるから、一つのあんがまあが、村中のどこの家にも迎へられることの出來る訣はわかる。さうしたオヤの精靈の、時あつて子孫の村屋に臨み、新しい祝福の辭を述べると共に、教訓・批難などをして行つた古代の民間傳承が、段々神事の内容を持つて來る事も考へにくゝはない。
内地の祭禮の夜にあくたいの伴ふ事があるのは、悠遠な祖先の邑落生活時代に村の死者の靈の來臨する日の古俗を止めて居るのである。勿論、我が國農村に近世まで盛んに行はれた村どうしの競技に、相手の村を屈服させることが、おのが村の農作を豐かにするとしたかけあひかけ踊りの側の形式をとり込んでゐるのであらうが、主としての流れは、祖靈のそしりにある事と思ふ。一村が一族であるとしたら、子孫の正系が村君である。祖靈が、村の神人の口に託して、村君のやり口を難ずる事があつたとしたら、此を咎める事も出來ないはずである。かう言ふ風に、神人の爲事が、村の幸福と政治との矛盾した點に觸れることが多くなつて來るに連れて、姿は愈、隱され、聲は益、作られて、其誰とも知れない樣に努める樣になつて來るのは、當然である。「千葉笑ひ」の如きは、神人の意識的のそしりが含まれて來る訣である。ざつとなは家々を訪問する點に於てあんがまあに近い者である。
祖靈が夙く神と考へられ、神人の假裝によつて、其意思も表現せられる樣になつたのが、日本の神道の上の事實である。而も尚、神の屬性に含まれない部分を殘して居るのは、「みたまをがみ」の民間傳承である。古代日本人の靈魂に對する考へは、人の生死に拘らず生存して居るものであつて、而も同時に游離し易い状態にあるものとしてゐた。特に生きて居る人の物と言ふ事を示す爲に、いきみたまと修飾語を置く。靈祭りは、單に死者にあるばかりではなかつた。生者のいきみたまに對して行うたのであつた。さうして其時期も大體同時であつたらしい。
僞經だと言ふ「盂蘭盆經」には、盂蘭盆を年中六囘と定めて居る。「魂祭り」は中元に限るものでなかつたことを示してゐるのであらう。「魂祭り」類似の形式が「節の祭り」と融合して殘つて居る痕が見える。七夕も盆棚と違はぬ拵への地方があり、沖繩では盆・七夕を混同してゐる。八朔にも、端午にも、上巳にも、同樣な意味を示す棚飾りと、異風を殘した地方がある。正月の喰ひ積み、幸木サイハヒギ系統の飾り物には、盆棚と共通の意味が見られる。大晦日を靈の來る夜とした兼好の記述から見ても、正月に來り臨む者の特別な靈物であつたことが考へられる。

      七 生きみ靈

生き御靈の方で言はう。中世、七夕の翌日から、盂蘭盆の前日までを、いきみたま、或は、おめでたごとなる行事のある期間としてゐた。恐らく武家に盛んであつたのが、公家にも感染して行つた風俗と思はれるが、宗家の主人の息災を祝ふ爲に、サバを手土産に訪問する風が行はれた。家人が主人に對してすることもあり、農村では子方から親方の家に祝ひ出ることもあつた。此は一族の長者を拜する式だつたのが、複雜になつたものらしい。おめでたごとと言ふのは、主公の齡のめでたからむことを祝福しに行くから出た語である。いきみたまと稱へる訣は、主公の體内の靈を拜して、其に「めでたくあれ」と祈つて來るからである。盂蘭盆に對して、今も之を生き盆と稱して行ふ地方もある。畢竟、元は生者死者に拘らず、此頃、靈を拜したなごりに違ひない。結局、鎭魂祭は生き御靈の爲に行はれたのが、漸次、意義を分化して、互に交渉のない祭日となつて了うたものであらう。だから、節供に靈祭りの要素のあることも納得出來る。季節の替り目にいきたまの邪氣に觸れることを避けようとしたのである。
おめでたごとから引いて説くべきは、正月の常用語「おめでたう」は、現状の讚美ではなく、祝福すべき未然を招致しようとする壽詞であると言ふことである。生き盆のおめでたごとと同じ事が、宮廷で行はれてゐた。春秋の朝覲行幸が其である。天子、其父母を拜する儀であつて、上皇・皇太后が、天子の拜を受け給ふのであつた。單に其ばかりでなく、群臣の拜賀も同じ意味から出たものであつた。
奈良朝以前は、各氏上――恐らくは氏々の神の神主の資格に於て――が、天子に「賀正事ヨゴト」を奏上することになつてゐた。賀正事ヨゴトは意義から出た宛て字で、壽詞ヨゴトと同じである。古い程、すべての氏々の賀正事ヨゴトを奏したのであらうが、後は漸く代表として一氏或は數氏から出るに止めた樣である。此も家長に對する家人としての禮を以て、天子に對したのである。だから、壽詞を奏することが、服從の意を明らかに示すことになつて居たとも見られる。
古代に於ける呪言ヨゴトは、必、其對象たる神・精靈の存在を豫定して居たものである。賀正事ヨゴトに影響せられる者は、天子の身體といふよりも、生き御靈であつたと見るのが適當である。天子の生き御靈の威力を信じて居たのは、敏達天皇紀十年閏二月蝦夷綾糟エミシアヤカス等の盟ひの條に
泊瀬の中流に下り、三諸ミモロ岳に面し、水に漱ぎ、盟ひて曰はく……若し盟に違はば、天地の諸神、及び天皇の靈、臣が種を絶滅さむ。
とあるのは、恐らく文飾ではあるまい。
正月、生き御靈を拜する時の呪言が「おめでたう」であつたとすれば、正月と生き盆との關係は明らかである。生き盆と盂蘭盆との接近を思へば、正月に魂祭りを行つたものと見ることも、不都合とは言はれない。柳田國男先生は、やはり此點に早くから眼を著けて居られる。
私は、みたまの飯は、供物クモツと言ふよりも、神靈及び其眷屬の靈代だと見ようとするのである。此點に於て、みたまの飯とは同じ意味のものである。白鳥が屡から化したと傳へられる點から推して、靈魂と關係あるものと考へて居る。なぜなら、白鳥が靈魂の象徴であることは、世界的の信仰であるから。みたまを象徴するものだから、それが白鳥に變じると言ふのは、極めて自然である。みたまの飯とは、おなじ意味の物である。我々は、を供物と考へて來てゐたが、實はやはり靈代であつたのだ。
鏡餅の如きも、神に供へる形式をとつては居ない。大黒柱の根本に此を据ゑて、年神の本體とする風、又、名高い長崎の柱餅などの傳承を見ると、どうしても供物ではなく、神體に近いものである。盆棚の供物と似た「食ひつみ」を設ける地方では、餅・飯を以て靈代とする必要がなかつた。他の農作物或は山の樹木を以て表すことが出來た。其故、固陋に舊風を墨守した村又は家では、正月餅を搗かぬ傳承を形づくつたのである(民族第一卷第二號)。

      八 ことほぎそしり

ことほぐ神と、そしる神とに就ては、既に述べた。さうして、藝術の芽生えがおとづれ人の手で培はれた事を斷篇的には述べて置いた。此に就て、今少し話を進める方が、靈とおとづれ人との關係を明らかにするであらう。
先島列島のあんがまあ(沖繩の村芝居)に似た風習が、沖繩本島にある。田畠のはじめの清明の節に行はれることで「村をどり」と言ふのが、此である。此は、若い衆多人數を以て組織せられた團體で、村の寄り場から、勢揃ひをして、樂器を鳴らしながら練つて來るのは、あんがまあ同樣で、此は日中であるだけが違ふ。踊り衆もあり、唐手使ひ・棒踊りの連中もこめて、一組になつて來る。順番によつて、それ/″\藝を演ずるのであるが、其「村をどり」になくてはならぬ定式の演藝がある。其は、第一「長者チヤウジヤ大主ウフツシユ」の作法と、第二「狂言」とである。
長者の大主ウフツシユは、其村の祖先と考へられて居るもので、白髯の老翁に扮してゐる。此が村をどりの先導に立つ一行の頭である。此頭が舞臺に上ると、役名を親雲上ペイチンと稱する者が迎へてもてなすのである。此は、正統の子孫の族長たる有位の人と言ふ考へに依つてゐるのである。さすれば、長者の大主に隨ふ人々は、あんがまあの眷屬と同一の者でなければならぬ。さうして、其演ずる藝もまたあんがまあの場合と同樣に見てよい。だから、琉球の演劇の萌芽なる村をどりは、遠方から來臨する祖靈及び眷屬の遊びに、其源を發して居るのである(島袋源七氏の報告に據る)。
多くの土地では、親雲上ペイチン大主ウフツシユを迎へて後、扇をあげて招くと、儀來ギライ大主ウフヌシが登場して、五穀の種を親雲上に授けて去る。其後、狂言が始まるのだが、村によつて、皆、別々の筋を持つて居る。他の演藝は殆、同樣であるが、狂言だけは、村固有のもので、共通な處はない。茶番狂言に類する喜劇で、輕口・口眞似などを主として居る(比嘉春潮氏報告)。
此解説は、同時によごとの起原にも觸れて行く。我が國の演劇の中、長者の大主の形式と同じ形の殘つて居るものは、能樂である。翁の「神歌」を見ても、翁は農作を祝福する神の、藝術化して行く途中にある者だと言ふことは訣る。長者の大主は「翁の起原」を示して居るし、そして儀來の大主は「翁の意味」を説いてゐる。而も後者は、單に翁が二重になつて居るだけでなく、三番叟の起原をも示して居るのである。
三番叟は、おなじ老體を表して居るが、黒尉クロジヨウと稱へて黒いおもてを被つて居る。さうして必、狂言師の役にきまつてゐる。能樂に於ける狂言或は「をかし」の役者は、田樂で言へばもどきに相當する者で、「牾き」と言ふ名義どほり、して方の言語動作をまぜかへし、口眞似・身ぶりをして、ぢり/″\させながら、滑稽感を唆るものである。
此は疑ひもなく、我が國の原始状態の演劇に缺く事の出來ない要素であつた。して方と此もどき狂言との問答が、古い程重要で、此が輕んじられるに隨つて、わき役が獨立する樣になつたのである。神樂で言へば、人長に對する「サイ」である。して方にかうしたもどきの對立する訣は、日本の演劇が、かけあひから出發してゐるからである。
此事は、既に詳しく述べた。つまりは、して方は神、もどきは精靈であつた宗教儀式から出たからであるのだ。精靈が神に逆らひながら、遂に屈從する過程を實演して、其效果を以て一年間を祝福したのである。黒尉が狂言方の持ち役ときまつて居るのは、翁と三番叟との關係が、神と精靈との對立から出て來たものなることを示してゐるのである。
能樂師は翁を神聖視して居るが、どうしても神社に祀つてある神ではない。たとひ、翁が「春日若宮祭り」の一の松の行事に出發したと見ても、春日の神でない事は説明が出來る。況んや、これは春日の祭りとは關係のない古い宗教演劇だと言ふことが出來るのだ。思ふに、我が國の村々の宗教演劇に於て、皆かうした翁の出現して、土地の精靈を屈服させる筋を演出して居たのが、神樂には「才の男の態」となり、春日神社の猿樂師が保存した翁となつたのであらう。
翁一人でなく、高砂の尉と姥との樣な、夫婦神の來臨を言ふ事も多い。近世は、大抵、猿田彦・鈿女命と説明する樣であるが、此は、やはり大主前オシユマイ祖母アツパアの對立を以て説明すべき者であり、翁は長者の大主とおなじ起りを持つたものと見ることが出來る。さうすると、椎根津彦シヒネツヒコ乙猾オトウカシの翁嫗姿の原意も、やはり遠くより來るおとづれ人を表す者であつたことに思ひ當るであらう。
沖繩の民間傳承から見ると、稀に農村を訪れ、其生活を祝福する者は、祖靈であつた。さうしてある過程に於ては妖怪であつた。更に次の徑路を見れば、海のあなたの樂土の神となつてゐる。我が國に於ても、古今に亙り、東西を見渡して考へて見ると、微かながら、祖靈であり、妖怪であり、さうして多く神となつて了うてゐる事が見られるのである。かうした村の成年者によつて、持ち傳へられ、成年者によつて假裝せられて持續せられた信仰の當體、其來り臨む事の極めて珍らしく、而も尊まれ、畏れられ、待たれした感情をまれびとなる語を以て表したものと思ふ。私の考へるまれびとの原始的なものは、此であつた。
祖先であつたことが忘れられては、妖怪・鬼物と怖れられた事もある。一方に神として高い位置に昇せられたものもある。我が國のまれびとの雜多な内容を單純化して、人間の上に飜譯すると、驚くべく歡ぶべき光來を忝うした貴人の上に移される。賓客をまれびとと言ひ、賓客のとり扱ひ方の、人としての待遇以上であるのも、久しい歴史ある所と頷かれるであらう。

      九 あるじの原義

主人をあるじと言ふのは原義ではない。あるじする人なるが故に言ふのである。あるじとは、饗應の事である。まれびとを迎へて、あるじするから轉じて、主客を表す名詞の生じたのもおもしろい。此に暫く、あるじ側の説明をして置く必要を感じる。
たまだれの小甕ヲガメを中に据ゑて、あるじはもや。さかなまぎに、さかなとりに、小淘綾コヨロギの磯のわかめ刈り上げに(風俗)
此等になると、あるじ云々は、主人はと物色する心持ちか、馳走は何と待つ心か、兩樣にはたらく樣で、平安朝末までもあるじの用語例は動搖し、漸くあるじぶりなど言ふ風の傾きを生じかけて居る。我が國の記録には、第一義のまれびとに關しては、敍述が乏しくして、痕跡の窺はれるものがあるに過ぎないが、此方面からでなくては説けない史實が多くある。
藤原氏の氏長者が持ち傳へたと言ふので、皇室の三種の神器に次ぐ樣な貴重な感情を起させた朱器・臺盤と言ふ重器は、何の爲に尊いのか、何をする物であつたか、私はまだ其説明を聞いたことがない。併し、朱器は朱の漆で塗つた盃であつたらうと言ふ事は、他の用例を見れば知れる。臺盤は食膳である。此が何の爲に、重器として傳へられる資格を持つのか。傳説では藤原冬嗣の時に新造した物と言ふ。氏長者の重器とするには、歴史淺いかの觀がある。私は恐らく使用に堪へなくなつた爲に、更めて新しく造つた事を言ふのではないかと思ふ。其にしても、食器が氏長者の標識となる理由は、私の此考へ方に由る外は、説明はつくまい。つまり氏長者としては、是非設けねばならぬあるじを執り行ふに必要なる品で、由緒ある物なのであらう。
單純に説明すれば、氏長者を繼ぐと、其披露の饗宴を催さねばならぬ。其時に名譽の歴史ある傳來品を用ゐると考へて見ることが出來る。眞に右から左へである。使ふ爲に讓られ、次に用ゐる時は、氏長者は自分の手から、他に移つて居ると言ふ事になると見るのである。此見地からしても、饗宴が如何に大切であり、氏長者披露のあるじが一世一代であるかゞ想像出來る。
而も、私は尚一般の推論を立てゝ居る。氏上・氏長者の稱は藤原氏のみの事ではない。藤原氏の勢力の陰に隱れて、他氏の氏上は問題にならなくなつたが、氏上披露の饗宴の器具なる故と言ふ處に力點を置いて見るならば、他氏の氏上にも、早くから此と似よりの事が言はれて居るはずである。其が一つも傳はらないのは、記録の湮滅と言ふよりも、藤原氏特有の重器と言ふ事に意味が生じたのではあるまいか。
藤原氏は宮廷神の最高級の神職であつた中臣から出て、政權に與る爲に、教權を大中臣氏に委ねた家柄である。だから、其家の重器としては、宮廷神の祭祀或は中臣の祖神の爲の祭祀に關聯した器具を持ち傳へる事はあるべき事である。教權は大中臣氏に繼がせても、氏長者の權威を保つ爲には、祖宗以來の重器としての祭器を傳へたことも想像出來る。私は宮廷の公祭、中臣の私祭に來り臨むまれびとの爲のあるじまうけの器具であつて、其爲に極めて貴重な物として繼承せられた事と思ふ。さうした朱器・臺盤も、果して平安朝に入つて幾度使はれたらうか。記録も其事を傳へない。藤原氏にとつて神聖な祕事であつたに違ひない。
此推論を強める一つの民間傳承がある。それは各地方に分布してゐる椀貸し塚・椀貸し穴の傳説である。多數の客を招くのに、木具のない時、ある穴の前に行つて、何人前の木具を貸し賜はれと書き付けをして還ると、翌日其だけの數が穴の前に出されてゐた。ところが、或時、狡猾な人間が一つをごまかした爲に、二度と出さなかつたと言ふ形式の話が、可なり廣く擴がつて行はれて居る。かうした物語の分布は、其處に久しい年月のあることを考へさせる。私は、まれびとを迎ふるあるじの苦勞の幾代の印象が、かうした傳説となつたので、椀貸し塚から出した木具が皆塗り物であつた點が、とりわけ朱器・臺盤との脈絡を思はせるものがある。

      一〇 神來訪の時期

繰り返へして言ふ。我が國の古代には、人間の賓客の來ることを知らず、唯、神としてのまれびとの來る事あるをのみ知つて居た。だから、甚稀に賓客が來ることがあると、まれびとを遇する方法を以てした。此が近世になつても、賓客の待遇が、神に對するとおなじであつた理由である。だが、かう言うては、眞實とは大分距離のある言ひ方になる。まれびとが賓客化して來た爲、賓客に對して神迎への方式を用ゐるのだと言ふ方が正しいであらう。まれびととして村内の貴人を迎へることが、段々意識化して來た爲に、そんな事が行はれたのだ。今までの敍述は、まれびとの輪廓ばかりであつた。此からは其内容を細かに書いて見たい。
まれびとの來る時期はいつか。私は定期のおとづれを古く、臨時のおとなひを新しいと見てゐる。不時に來臨するのは、天神或は地物の精靈の神としての資格が十分固定した後に、其等の神々の間にあつたことである。其がまれびとの方に反映したものと思はれるから、まづ春の初めに來ると考へたであらう。まれびとの來ることによつて年が改まり、村の生産がはじまるのであつた。我が國では、年の暮れ・始めにおとづれ來る者のなごりは、前に述べたとほり數へきれないほどありながら、其形式は變り過ぎる程に變化した。抽象的な畏ればかりは妖怪となり、現實のまゝ若い衆自身々々を露はにする樣な行事にもなり、其が職業化し、藝術化した。さうして、其神祕な分子は、神となつて跡の辿られぬまでになつてゐる。此は歳徳神と陰陽道風に言ひ表されてゐる年神なのである。此神は、神道以外――寧、神道以前――の神である爲、記・紀其他に其名も見えない。大年神・御年神を此だとする説はあるが、まだ定らない。私は寧、出雲系統の創造神らしい形に見えるかぶろぎかぶろみの神々が、此に當るのではないかと考へて居る位である。此事は後に述べる。
年神の前身である春のおとづれをするまれびとは、老人であつて、簑笠を着た姿の、謂はゞ椎根津彦・乙猾とおなじ風で來り臨んだらうと云ふ推定は出來る。これが社々の年頭の祭事にとりこまれて、猿田彦・鈿女命の田植ゑ神事となつて居る。老人を一體と見たのは、翁の系統であるが、二體とするのも、段々ある。まやの神・ともまや赤また黒また大主前あつぱあの如きは、陰陽の觀念がある樣である。現今も考へてゐる年神の中には、地方によつては一體のもあるが、老夫婦二體の者として居るのも多い。柳田先生はまた、盂蘭盆に「とも御聖靈オシヤウリヤウ」として聖靈以外の未完成のものを祀ると言ふ風習もあるから、みたまの飯として、月の數だけを握つてあげるのは、眷屬たちにまで與へるものと解して居られるらしい。先に言うた樣に、餅同樣これは靈魂の象徴である。殊に、三河南設樂郡地方では、正月、寺から笹の葉に米をくるんでおたまさまと稱へてくれる(早川孝太郎氏報告)例などを見ると、愈、供物でなかつたことが察せられる。
さすれば、にう木或は鬼打木オニウチギと稱する正月特有の立て物に、木炭で月の數だけの筋をつけるのが、全國的の風俗であることも、起原は此と一つなのではあるまいか。此を古今集三木傳のをがたまの木の正體だとする説は、容易に肯定出來ないとしても、をがたまと言ふ名義を考へると、此木の用途が古今傳授の有名な木に結びつく理由だけは訣る。タマは言ふまでもないが、をがは「ぎ」と關係あるものと見たに違ひない。さすれば、にう木まれびとを迎へる意の含まれて居ることは推せられる。其上に、此にう木に飯・粥等を載せて供へるのも、供物ではなく、靈代だつたと見れば納得出來る。
おめでたごとに、必、サバを持參した例も、恐らくさばの同音聯想から出た誤りではあるまいか。さばは「産飯」と宛て字はするが、やはり語原不明の古語で、お初穗と同義のものらしい。打ち撒きの米にのみ專ら言ふのは、後世の事らしい。さばは、他物の精靈の餌と言ふ考へで撒かれるのであるが、尚古くは、やはり靈代ではなかつたであらうか。とにもかくにも、靈代としての米のさばが、進物と考へられる樣になつて、鯖と變じたものではあるまいか。元來、米をよねと言ふのは稻と同根であらうが、神饌としての米をくまと稱する(くましねの樣に)ことは、こめの原形であらうし、其上、靈魂との關係を思はせる用例がある。供物から溯源して見た春のまれびとは、主體及び其餘の群衆を考へて居たこともあるのは明らかである。
此等の神は、恐らく沖繩のまれびとと同樣、村を祝福し、家の堅固を祝福し、家人の健康を祝福し、生産を祝福し、今年行ふべき樣々の注意教訓を與へたものであらう。民間傳承を通じて見れば、悉く其要素を具へて居るが、書物の上で明らかに言ふ事の出來る個處は、家長の健康・建築物の堅固・生産の豐饒の祝福が主になつてゐた樣である事は後に述べる。奈良朝の史書も、やはり村人の生活よりも村君・國造の生活を述べるのに急であつた爲に、まれびとの爲事の細目は傳へなかつたのであろう。而も、外來である事の證據の到底あげられない所の、古くして且、地方生活を固く結合した民間傳承の含む不明の原義を探ると、まれびとの行動の微細な點までも考へることが出來るのである。

      一一 精靈の誓約

まれびとは、呪言を以てほかひをすると共に、土地の精靈に誓言を迫つた。更に家屋によつて生ずる禍ひを防ぐ爲に、稜威に滿ちた力足を蹈んだ。其によつて地靈を抑壓しようとしたのだ。平安朝に於て陰陽道の擡頭と共に興り、武家の時代に威力を信ぜられることの深かつた「反閇ヘンバイ」は、實は支那渡來の方式ではなかつた。在來の傳承が、道教將來の方術の形式を取りこんだものに過ぎなかつたのだ。一部の「反閇ヘンバイ考」は、反閇ヘンバイの支那傳來説を述べようとして、結局、漢土に原由のないものなることを證明した結果に達して居る。字面すら支那の文獻にないものであるとすれば、我が國固有の方術を言ふ所の、元來の日本語であつたのであらう。字は「反拜」などゝ書くのを見ても、支那式に見えて、實は據り處ない宛て字なることが知れる。まれびとの力強い歩みは、自ら土地の精靈を慴伏させるのであつた。
天子出御の時、發する警蹕の聲は、平安朝では「をし/\」と呼ぶ慣ひであつた。後に、將軍に「ほうほう」、諸侯に「下に/\」を使ふ樣になつた事も事實だ。「ほう/\」は鳥獸を追ふ聲で、人拂ひをするのではなく、此語も古いのであるから、地靈を逐ふ意があつたものであらう。「をし/\」は、天子のこゝに臨ませ給ふ事を示す語であるから、逐ふつもりではあるまい。寧、天子を思ひ浮べさせる歴史的内容を持つた語なのであらう。神武天皇、倭に入られて、兄磯城エシキ弟磯城オトシキに服從を慂めにやられる處に、
時に烏、其營に到りて鳴きて曰はく、「天つ神の子汝を召す。いざわ/\」と。兄磯城忿りて曰はく、アメ壓神オシカミ至ると聞きて、吾慨憤する時……。次に、弟磯城の宅に到り……。時に、弟磯城、※[#「りっしんべん+「僕」のつくり」、39-12]然として容を改めて曰はく、臣天壓神至ると聞き……。(神武紀戊午年)
とあるのは、をしおし假名遣ひの違ひはあるが、同系の語ではなからうか。「をし/\」と警蹕を寫したのは、必しも發音を糺したものとも思へないし、第一其頃、既にの音韻の混同がはじまつてゐるのである。オシおそはくうしはくの義の「壓す」から出たものでなく、また「オホシ」に通ずるオシオシなどで宛て字するおしとも違ふ樣だ。來臨する神と言ふ程の古語ではなからうか。おしがみなる故に「をし/\」と警めるのか、「をし/\」と警めて精靈を逐ふが常の神なる故におしがみと言ふのか、いづれとも説けるが、脈絡のない語ではあるまい。
三河北設樂郡一般に行ふ、正月の「花祭り」と稱する、まれびと來臨の状を演ずる神樂類似の扮裝行列には、さかきさまと稱する鬼形の者が家々を訪れて、家人をうつ俯しに臥させて、其上を躍り越え、家の中で「へんべをふむ」と言ふ。へんべは言ふ迄もなく反閇ヘンバイである。此も春のまれびとの屋敷を踏み鎭める行儀である。陰陽師配下の千秋センズ萬歳は固より、其流なる萬歳舞も反閇ヘンバイから胚胎せられてゐるのである。千秋萬歳と通じた點のある幸若舞の太夫も反閇ヘンバイを行ふ。三番叟にも「舞ふ」と言ふよりは、寧「ふむ」と言うて居るのは、其原意を明らかに見せて居るのである。
新室を蹈靜子が手玉鳴らすも。玉の如照りたる君を、内にとまをせ(萬葉集卷十一旋頭歌)
最初の五字の訓はまだ決定して居ないが、踏んで鎭むる子の意に違ひなからう。さすれば、ふむしづめ子ふみしづめ子など言ふよりは、ふみしづむ(しづむるの意。古い連體形)と訓じてよからう。手玉を纒いた人が、新室の内の精靈を踏み鎭めて居る樣である。
新室ニヒムロほかひについて言うて置かねばならぬ事は、其が臨時のものか、定例として定期に行うたものかと言ふ事である。新室と言へば、新しく建築成つた時を言ふと思はれるが、事實はさう簡單な事ではなかつた。
宮中の大殿祭は、一年に數囘あつて、神と天子とにへを共にし給ふ時の前提條件として、必、行はれることになつて居た。大殿祭によつて淨められた殿舍において、恆例の儀式が始まる訣である。だが、此祭り自體が「ハラへ」ではなくて、ほかひであつた。祓へは勿論、ほかひから分化した作法なのは明らかであるが、大殿祭の場合、祓へを主體と見る事は出來ない。後世こそ「神人相甞」の儀が主となつて、大殿祭は獨立した祭りとは思はれない姿をとつて居るが、以前は二者一續きの行事か、或は寧、殿ほかひの方が主部をなし、にへの方は附屬部の方であつたかも知れない。まれびとを迎へる爲の洒掃と考へるのは、まれびとの本義をとり違へて居る。ほかひの結果、祓への效力を生じさせるのは、まれびとの威力である。後には專ら、さう解釋して、神を迎へる用意として執り行ふことになつた樣だが、本來の姿は、自ら分たれねばならぬ。
奈良朝の文獻をすかして見る古代の新室のほかひは、必しも嚴格に、新築の建物を對象としては居ない樣である。其が、舊室フルムロほかふ場合も屡ある樣である。舊室に對しても、新室ニヒムロと呼ぶことの出來た理由があるのだと思ふ。半永住的の建て物を造り出す樣になつた前に、毎年、新室を拵へた時代があることが推せられる。屋は苫であり、壁は竪薦タツゴモであつた。我々の國の文獻から溯れる限りの祖先生活には、岩窟住居の痕は見えない。唯一種――後世には形を止めなくなつた――の神社建築形式に、岩窟を利用するものがあつたゞけである。が、むろと言ふ語は、尠くとも穴を意味するものである。底と周壁とに堅固な地盤を擇んだことだけは證明が出來る。穴が段々淺くなつて、屋外に比べては屋内が掘り凹められてゐる冬期の作業場として、寒國の農村で毎年新しく作るむろあなぐらの形に進んで居たのが、我が國文獻時代の地方に尚存したむろであらう。牀をかいたものは、此と對立でとのと言はれた。だから、むろとのの混同はないはずである。新室と言ひでふ、苫を編み替へ、竪薦を吊り易へ、常は生きみ靈の止る處なる寢處トコを掃ふ位で新室になるのであらう。屋内各部の精靈がやゝ勢力を持ちかけるのを防ぐ爲に、此樣に一新するのである。だから、新室づくりの日は生きみ靈を鎭める必要がある。而も其が、徹頭徹尾、建て物と關聯して居る處から、新室のほかひと言へば、必、家人殊に家長の生命健康を祝福することになつたのである。同時に土地の精靈は固より、屋内各部の精靈に動搖せぬことを、誓約的に承諾せしめて置く必要があるのである。むろ式の住宅が段々とのに替つて來ると、新室と言ふ語のままに、或は大殿など言ふ語を冠したほかひとなる。眞の意味の新室でなく、舊建物のまゝほかひを繰りかへす。だから、ほかひとは言へ、ハラへの要素が勝つて來る訣である。
定期のものとして、次に生じたのは、恐らく「刈り上げ祭り」であらう。此は農村としての生活が目だつて來てからの事と思ふ。春の初めにほかひせられた結果の現じたことに對する謝禮で、ねぎと言ふ用語例に入る行事である。ねぐと言ふ動詞の内容は、單に「勞犒ネギラふ」にあるとするのでは、半分である。殘部は、新しい努力を願ふ點にある。新しいめぐみを依頼する爲にねぐのであつた。こふのむと違ふ所以である(語根に就ては、別に言ふことがある)。
刈り上げのねぎには、新しく收めた作物を、まれびとと共に喰ふ。即、新甞を行ふのである。新甞は此秋のまつりの標準語であらう。さうして、宮廷では自家のまれびとを饗應することを此語で呼び、地方に對しては「相甞アヒムベ」と稱した。相新甞の義である。而も此式は、地方の新甞の爲の豫行の儀であつて、同時に地方の村々に來るまれびとにとつては、宮廷と地方自體とから、ねぎらはれる事になる。其爲、此重複をあひを以て表したと見るのが一番適當であらう。同じ樣にして、伊勢神宮に對しては「神甞カムナメ」と言ふ。神新甞の義だ。此は神宮の最高巫女を神と見て、神どうしの新甞だからと言ふ觀念を含むのである。天照大神は最初の最高巫女だつたと見るべきであるから、天照大神自ら、神に新甞を進め給ふと見るのである。
此等の宮廷竝びに官國幣の神社の儀式は、著しく神學成立後の神道の合理化を受けて居るから、矛盾・重複などを免れない。御歳皇神ミトシスメガミ以外に、官國弊社に豐饒を祈り、感謝するのは、神の觀念が變化した爲である。いづれの神にも農産の事に與る能力があると見て居るのである。更に御歳神を以て、純然たる田の神、或は野の精靈と見る方に向つて來たことを示す。野の精靈と國土の神々と相互の協力によつて、生産が完成せられるものと考へて居るのである。
ところが、近世また現今にすら傳承する民間の信仰では、大抵、田の行事のはじまる頃から終る時分まで、山の神が里におりて田の神となると考へて居る。此には誤信を交へては居るが、生産の守護者をば、時あつては外から臨む者とし、常在する精靈と見ない處から出て居る證據である。田の精靈に祈るよりは、まづまれびとねぐことをしたのである。

      一二 まれびとの遠來と群行の思想

既に話した奈良時代の文獻に見えた三種の新甞の夜の信仰は、田の神に對してゞなく、遠來のまれびとに對してなることは、明らかである。而も序に引いた武塔神の神話も、再、蘇民ソミン將來の家に御子神たちを連れて來られることになつて居る。其二度目のおとづれは、秋であつた。春來たまれびとの秋再おとづれると考へられることになつたのも、古い事である。まれびとの來るを機會に、新室のほかひをすることは、刈り上げ後にも行はれたと見える。
白髮天皇の二年冬十一月、播磨の國司山部連の先祖伊與イヨ來目部クメベ小楯ヲタテ、赤石郡に於て、自ら新甞の供物を辨ず。適、縮見シヾミ屯倉ミヤケオビト、新室の縱賞ホカヒして、夜を以て晝に繼ぐに會ふ。(顯宗紀)
とあるのは、新甞にも新室が附帶する證據である。允恭紀の七年冬十二月朔日、「新室に讌す」とあるのも、時から見れば新甞の新室である。「新甞屋ニヒナベヤ」と言ふのも、別に新甞の物忌みに室を建るのではなく、新室の事を言ふのである。此點誤解し易い爲に、日本紀の舊訓も多少の間違ひをしてゐる。「當に新甞すべき時を見て、則ヒソかに新宮クソマ[#「尸+矢」、44-12]放る」(神代紀)は、にひみや或はにひみむろとでも訓むべきで、強ひてにひなめやと言ふに當らないだらう。さうして秋冬のおとづれの時にも、やはり生命健康のほかひをするのである。さすれば、定期のまれびとは、春も刈り上げにも、おなじことを繰り返すことになる。こゝに自ら時代に前後の區別が見える訣である。
臨時のおとづれは、更に遲れて出來たものであらう。まれびとによつて、ほかひせられたいと思ふ心の起るべき時に、おとづれする事になる訣だ。建築は今日から見れば、臨時の事らしく見えるが、前に言うた通りで、新造の時は定まつてゐたのである。私の考へる所では、婚禮の時・酒を釀す時・病氣の時の三つが擧げられると思ふ。尚一つ、不意の來臨を加へて考へることが出來よう。
婚禮にまれびとの來ることは、由來不明の祓へ、竝びに其から出た「水かけ祝ひ」で察せられたであらう。我々の國の文獻は既に、蕃風を先進國に知られるを恥ぢることを知つた時代に出來たのである。だから、殊に婚禮も性欲に關した傳承は見ることが出來ない。唯我が國にも初夜權の行はれたことは事實であるらしい。讃岐三豐郡の海上にある伊吹島では、近年まで其事實があつた。又、三河南北設樂の山中では、結婚の初夜は、夫婦まぐことを禁ぜられて居る。花嫁はともおかたと稱する同伴のかいぞへ女と寢ね、「お初穗はえびす樣にあげる」のだと言ふ。沖繩本島では、花婿は式後直に家を去つて、其夜は歸らない。都會では、式に列した友人と共に遊廓に遊ぶと言ふが、此には意味がない。花嫁を率寢ヰネないことは訣があるのである。
定例のまれびとの場合を見ると、家の巫女として殘つてゐる主婦・處女はまれびとの枕席に侍るのである。これが一夜づまといふ語の、正當な用語例である。沖繩で花婿が花嫁を率寢ヰネぬ第一夜の風習は、私は第二次の成女式だと考へてゐる。裳着と袴着とが、女と男と對立的に行はれるのは、實は成年式の準備儀禮であつた。男は成年の後、眞の成年式によつて、神人たる資格と共に、其重要な要素であつたところの性欲行使の解放を意味する標識を、村固有の形でもつて、からだの上にせられる。其が忘れられた後まで、若い衆入りには、性意識の訓練と、自在な發表とを與へられもし、行ひもした。
女の方でも、裳着以後も、眞の成女と認められるまでは、私にも公にも結婚は出來なかつた。女の側の破戒は、多くは男の力に由るのであるから、成女以前の女――後には月事のはじまり、又は、はぢひげの調ひを以てする――を犯した者は、穢れに觸れるのである。宗教的に見れば、重大な罪科である。我が國にも此例はあつて、今も尚信じて居る地方はある。村の神が巫女として、性生活に入る事を認め許した成女の資格をまだ持たない者が、未成女である。たとひ身は成熟してゐても。女の側にかゝつたたぶうを犯すからと言ふのではなく、男の方の資格に疵が出來るからである。神として(神人として)村の祭りに與る者は、成女即巫女として神にあふ資格ある者以外に觸れてはならないのである。成女式は、村の宗教の權威者の試みを經る事であつた。我が國古代では地方の神主(最高の神職)たる國造等が、とり行うた痕が見える(此は別に述べる)。而も其外にも、村の神人たる若者が、神としての資格で、此式を擧げることもあらう。
此第二次、或は本式の成女式が結婚の第一夜に行はれる事は、邑落生活の樣式が固定した爲であらう。成年式同樣に、きまりの年齡に達した女の、神主からの認められ樣は、結婚以前に受けて居たのを、原則とする事が出來よう。村の男の妻どひの形は、神の資格に於て、夜の闇の中に行はれた。顏も見せないで家々の娘とあふ形は、通ふ神の風が神話化した後迄も、承け繼がれた。だから、女の方の成年式は早く廢れて、痕跡を初夜權に殘し、村の繁殖の爲の身體の試驗・性教練としての合理的の意味を持つ事になつたのであらう。其以前に、祭りの夜のまれびとひと夜づまの形で卒へられたのが、事實に於ける成女式であつた。
婚禮の夜は、新しい嬬屋ツマヤが新夫婦の爲に開かれ、新しい床に魂が鎭められねばならぬのだから、神の來訪を待つことは考へられる。其爲に、新夫婦に科する「水祝ひ」なる祓へは、飛鳥朝にも既に行はれて居た。其頃から既に幾分含んでゐた村人のほふかいな嫉妬表示の固定したものではない。まれびとを迎へる當の責任者を祓へ、二人の常在所となるべき處を清めるのである。此も元は、水をかける若者が、神の資格に於てしたことゝ思はれる。
其上に家の巫女として、處女又は主婦が對すると言ふまれびと迎への式がまじり合うて、新嬬屋の第一夜が、夫の「床避トコサり」の風を生じたものであらう。床さる・片さるなど言ふ語は、元かうして出來たものらしいが、用例は多く變じて居る。此風は、古くは、全國的に行はれて居たものであらう。唯、地方的に固いしゞまが守られて、其風が氓びて了うたものと思ふ。
時としては、既に巫女の生活をしてゐる村の娘が「神」の手を離れて「人間」の男にゆくと言ふ考へから、神になごりを惜む形式を行ひ、神の怒りを避けようとすることもある。此も後に言はうが、稍、遲れた世の解釋である。村の娘全體巫女であつた時代が過ぎてからのことであらう。故らに迎へる臨時のまれびとの他の例は「酒釀サカカみ」の場合である。我が國の奈良朝までの文獻で見ると、平時にも酒を娯しむ風は大陸文明によつて解放せられた上流の、宗教生活を忘れかけて來た階級の消閑の飮料とする風から擴つたものと見ることが出來る。單に飮み嗜む爲の「酒釀サカカみ」行事は、民間にはなかつた樣である。此にも常例のものはないではない。村の祭りに先立つて、神の爲に釀して、神人たちの恍惚を誘ふ爲にした。が多くの場合、人の生命に不安を感じる時、行ふ儀式がさかほかひであつた。酒の出來ぐあひを以て、生死を占ふのである。
此一轉化したものが、粥占である。旅行者の身の上を案ずる場合にも、此方法で問うた樣である。病氣には、其酒をくしのかみとして飮ませ、旅行者無事に歸つた時は此を酌んで賀した。さうした酒宴を酒ほかひと言ふのだと考へる人もある樣であるが、釀酒の初めに行はれる式を言ふ事は疑はれぬ。此式は占ひの方に傾いた爲に、後には神の意志は、象徴として表され、本體は來臨せぬものゝ樣に見えるが、
このみは、わがみならず。クシの神、常世にいます、イハ立たす少名御神の、神壽カムホぎ狂ほし、豐壽トヨホぎ壽ぎ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)モトホし、マツり來しみぞ。アサせ。ささ(仲哀記)
など言ふところから見ると、常世の神が來て、ほかひするものと信じ、其樣子を學んで、若者が刀を振り※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)し、又は或種の神人が酒甕の※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りを踊りまはりしたものと言へると思ふ。
靈液クシカミ常世トコヨ少彦名スクナヒコナとする處から見ても、まれびとによつて酒ほかひが行はれると見たことが知れる。又、大物主オホモノヌシを以て酒ほかひの神と見たことも、少彦名・大物主の性格の共通點から見れば、等しく常世のまれびとの來臨を考へて居たのである。

      一三 まつり

春のほかひに臨むのをまれびとのおとづれの第一次行事と見、秋の奉賽のマツツカへが第二次に出來て、春のおとづれと併せ行はれる樣になつたものと見られる。其は、秋の祭り即新甞の行事が、概して、春祭りよりは、新室ほかひを伴ふ事多く、又、其が原形だと思はれる點から言ふ事が出來る。新室ほかひは、吉事祓へとしての意味を完全に殘して居る。來年の爲の豫祝なのである。
春祭りにも新室、旅行にも新室を作るのは、神を迎へる爲の祓へに中心を移して行うた爲で、後の形であらう。併し、春祭りの樣に、今年からとなる村の男・女兒の爲の成年式は行はない。まれびと優遇の爲に、家々の巫女なる處女・家刀自の侍ることはあるが、此は別である。一年間の農業、其他家の出來事に對する批判・解説などをしたのは、春のおとづれにするよりは、刈り上げ祭りの方が適切である。
私の考へを言ふと、刈り上げ祭りと、新しい年のほかひとは、元は接續して行はれてゐたのである。譬へば、大晦日と元日、十四日年越しと小正月、節分と立春と言つた關係で、前夜から翌朝までの間に、新甞ほかひとが引き續いて行はれた。まれびとは一度ぎりのおとづれで、一年の行事を果したものであらう。其が時期を異にして二度に行はれる樣になつてからは、更に限りなく岐れて、幾囘となく繰り返される樣になり、更にまれびとなる事が忘れられて、村の行事の若い衆として、きぢの儘に考へられ、とゞのつまりは、職業者をさへ出すことになつたのである。
おとづれの度數の殖えた理由は、常世神の内容の變化して來た爲なのは勿論だが、今一つ大きな原因は、村の行事を、家の上にも移すことになつたからである。村全體の爲に來り臨み、村人すべての前に示現したまれびとが、個々の村舍ムラヤをおとづれる樣になつた。初めは、やはり村に大家オホヤケが出來た爲である。村人の心を信仰で整理した人が、大家オホヤケを作つた。此大家即村君の家に、神の來臨ある事が家屋及び家あるじの身の堅固の爲のコトほぎの風を、段々其以下の家々にもおし擴めて行つた。併し、凡下の家に到るまで果してさうであつたかどうかは疑問である。けれども此點に問題を据ゑて、大體、時代が降る程、一般の風習となつて行つたと見てよからう。だから、或廣場、後には神地に村の人々を集めて、神意を宣つた痕跡と見るべき歌垣風の春祭り――秋にも此形を採る樣になつた地方がある――の方が、女の留守をする家々に、一人々々神及び神の眷屬の臨んで、ひと夜づまの形で婚ふ秋の祭りよりも、原始的だと言ふ事が出來る。
其に尠くとも今二つ、有力な原動力が考へられる。其は、祖先の一部分が曾て住みつき、或は經由して來た土地での農業暦である。それから、新古の來住漢人が固有して居た季節觀である。我々の祖先の有力な一部分は、南島から幾度となく渡つて來た事は疑ひがない。此種族が、わが中心民族の祖先と謂はないまでも――此に對しては、私は肯定説を持つてゐる。後に述べるであらう。――其等の南方種は、二度の秋の刈り上げをした。自然、種おろし・栽ゑつけには、暖いと暑いとの二度の春を持つてゐた。十一月の新甞祭がありながら、六月の神今食ジンコンジキの行はれた理由は、まだ先達にも、假説たり得るものすらない。私は、此をかう考へる。
陰陽道に習合せられて殘つて、其が江戸期まで行はれたものと見られる「二度正月」の心理であらう。同時に、徳政や古代の商變アキカヘしなど言ふ變態な社會政策の生み出される根柢になつたものとも思はれる。大祓への如きも、單に上元・中元に先だつ季節祓へでなく、やはり一年を二年と見た傳習から出たものと見る方がよい樣だ。一年に一度刈り上げる國土に來ても、固定した信仰行事の上では、二秋フタアキの舊郷土の俤を殘したものらしい。
支那及び其影響を受けた民族の將來してゐた傳承では、めぐり神の畏怖は、まだ具體的にはなつて居ない。が、守護神の眼の屆かぬ季節交替期、所謂ゆきあひの頃を怖れる心持ちが、深く印象せられた。我が民族の中心種族の間にも、時の替り目に魂のウカれ易い事を信じて居た。其が合體して、五節供其他の形代を棄てる風が、段々成長して來た。日本に於ける陰陽道は、其道の博士たちの學問が正道を進んで居た間さへ、實行方面は歸化種の下僚の傳説的方式――必、多くの誤傳と變改とを含んだ筈の――をとり行はしめた。宮中或は豪家・官廳の在來の儀式に、方術を竝べ行ひ、又時としては佛家の呪術をさへ併せて用ゐる樣なことがあつた。其間に、呪術の目的・方法・傳説さへ混亂する樣になつた。七夕の「乞巧奠キツカウテン」の如き、「盂蘭盆會」の如き、「節折ヨヲり」の如き、皆、鎭魂・魂祭り・祓除・川祭りの固有の儀禮に、開化した解説と、文明的な――と思はれた――方式の衣を着せたものであつた。
かうした變化法・吸收法を以て、外來の傳承に融合して行つたものである。だから、季節毎の畏怖を鎭魂又は祓除によつて、散却してゐた。勿論、上巳・端午には、支那本土でも、祓除の意味があつたのだが、我が國では、節分にも、七夕にも、盂蘭盆にも、八朔にも、玄猪にも、更に又、放生會にすらも、此側から出た痕跡が明らかに見えてゐる。
鎭花祭ハナシヅメマツりには、多少外來種の色彩が出てゐるが、やはり魂ふりに努めた古風が、少分の外種を含んで出たのである。寧、歸化種の人々に及んだ影響が、あゝして現れたと見るべきであらう。二度の大祓へに伴ふ鎭魂や、上巳・端午の雛神や、盆・七夕の精靈に對してする「別れ惜しみ」の式などは、スウ靈や死靈の祭り以外に、生きみ魂の鎭魂の意味が十分に殘つてゐるのである。
名は同化せられて行つて、上邊ウハベは變化しながら、實は固有種と違つた意味に育たしめるのが、我が民族の外來文化に接觸の爲方であつた。だから、常識化し、傳説を紛らした道教の方式にたやすく結合して、傳承を伸して行つた。其で上元の外に、中元を考へ、季節の祓除・鎭魂を行ふことになつた。量り難く古い道教傳來の昔から、徐々にさうして進んで來て、祓除の根本思想を穢れの排除にあるとさへ古代に於ても考へるまでになつてゐた。吉事祓へが、凶事祓へに先だつてあつたことが考へられなかつたのは、全く道教の影響である。
神に扮し、又、神を迎へる爲の人及び家屋の齋戒や祓除をするのが元であつた。神としてのキヨさを獲むが爲の人身離脱が、祓へ・禊ぎの根本觀念であることを考へぬ人が多い。凶事祓へを原とする考へ方は、祓への起原を神にあるとした、凶事祓へが主になつた時代の古傳説に囚はれてゐるのである。吉事祓へは、畢竟たぶうの内的表現で、外的には、縵・忌み衣などを以て、しるしとした。
季節のゆきあひ毎に祓除を行ふとゝもに、其附帶條件たるまれびとおとづれを忘れなかつた。地方によつて遲速はあつても、まれびとの信仰は、ともかくも段々變化して來ずにはゐない。元々まれびとを祖先とする考へすら夙く失うて、ある地方では至上の神と考へ、又ある地方では、恐るべく、併し自分の村に對する好意は豫期することの出來る魔物とし、或は無力・孤獨な小人を神と思ひ、或は群行する神の一隊を聯想したりして來た。而も青蟲の類をすら、此神の姿とするものもあつた。行疫神をも、此神の中にこめて見る觀察も行はれて來た。
おとづれが頻繁になつて、村の公事なる祭りでなく、一家の私の祝福にも、常世神が臨む樣になる。殊に村君の大家オホヤケの力が増せば、神たちは其祝福の爲に、度々神の扮裝をせねばならぬ。其以外の小家でも、神の來臨を請ふこと頻りになつて來る。
酒は旅行者の魂に對する占ひの爲に釀されたものだが、享樂の爲に用ゐる時にも、ほかひはせねばならぬ。壽詞は昔ながらで、新釀ニヒツクりの出來のよい樣に唱へると言つた形をとつて來るわけである。家々の婚禮にも神が臨み、新室開きにも神が迎へられる。釀酒にも、新室にも、神の意識は自他倶に失はれて了うた。とようかのめにことゞふ神は、夙く大刀うち振ふ壯夫と考へられ、家あるじの齡をほぐ神は、唯の人間としての長上の尊者としてあへしらはれた。
此通りまれびとは、必しも昔の樣に、常世の國から來ると考へられた者ばかりではなくなつた。幾種類ものまれびとがあり、又、神話化し、過去のことになつたのもあると共に、知らず識らずの間に、やつした神の姿を忘れて、唯の人としてのまれびとが出來た。又、衣帶エタイの知れぬ遠處新來の神をも、まれびとに對して懷いた考へ方に容れる事になつた。一つは、新神の新にして、萎えくたびれない威力を信じ畏れた爲もある。が併し、如何なる邪神にでも、鄭重なあるじぶりと、纒綿たるなごり惜しみの情を表出して、他處へ送る風の、今も行はれて居つて、其が盂蘭盆の聖靈送りなどに似て居るのを見れば、自ら納得の行くことがあらう。其は遠來神・新渡神に對するのと、精靈に對するのとは、形の上に區別がないことである。即、常世の國から毎年新しく、稀におとづれ來る神にした通りの禮式を、色々な意味のまれびとに及したのである。決して單純に、邪神に媚び事へて、我が村に事なからしめようとするのだといふ側からばかりは、考へることが出來ないのである。

      一四 とこよ

雁をとこよの鳥としたことは、海のあなたから時を定めて渡り來る鳥だからである。同じ意味に於て、更に神聖な牲料ニヘシロなるクヾヒは、白鳥と呼ばれて常世の鳥と考へられたのは固より、靈を持ち搬び、時としては、人間身をも表す事の出來るものとせられた。クヾヒが段々數少くなると共に、白い翼の鳥は、鶴でも、鷺でも、白鳥と稱へられ、クヾヒの持つた靈力を附與して考へられた。
我が國の古俗ばかりから推しても世界的の白鳥處女傳説は、極めて明快に説明が出來るのは、此國に民間傳承の學問が、大いに興る素地を持つてゐるのだと言へようと思ふ。富みと齡の國なる常世は、元、海岸の村々で、てんでに考へて居た祖靈の駐屯所であつた。だから、定期にまれびととして來り臨む外に、常世浪に搖られつゝ、思ひがけない時に、其島から流れて、此岸に寄る小人神があるとせられたこと、のるまん人等の考へと一つ事である。更に少彦名の漂着を言ひ、大國主の許に海の彼方から波を照して奇魂・幸魂がより來つたと言ふのは、常世を魂の國と見たからである。
常世の國は、飛鳥の都の末頃には既に醇化して、多くの人々に考へられてゐた樣であるが、此には原住歸化漢人種の支那傳來の、海中仙山の幻影が重つて來て居る。藤原の都では、常世に蓬莱の要素を十分に持つて來て居る事が知れる。けれども、言語は時代の前後に拘らず、用語例の新舊を檢査して見る必要がある。新しい時代にも、土地と人格とによつては、古い意義を存してゐるのだ。
常夜往トコヨユクと言ふ古事記の用例は、まづ一番古い姿であらう。「とこよにも我が往かなくに」とある大伴坂上サカノヘ郎女の用法は、本居宣長によれば、黄泉の意となる。此は少し確かさが足らない。が、とこよを樂土とは見て居ないやうで、舊用語例に近よつて居る。常夜・常暗トコヤミなど言ふとこは、永久よりも、恆常・不變・絶對などが、元に近い内容である。ゆくは續行・不斷絶などの用語例を持つ語だから、絶對の闇のあり樣で日を經ると言ふことであらう。而も、記・紀には、其すぐ後に海の彼方の異郷の生物を意味するとこよの長鳴鳥を出して居るから、一つゞきの物語にすら、用語例の變化した二つの時代を含んでゐることが見られる。古事記には尚、常世の二つの違うた用例を見せて居る。海龍の國を常世として、樂土を考へてゐること、浦島子の行つた常世と違はない。此は新しい意味である。たぢまもりの橘を求めた國は、實在の色彩濃いながら、やはり常世の國となつて居る。其他異色のあるのは、常陸風土記の常陸自身を常世國だと稱した事である。此は理想國の名を、如何にも地方の學者らしく、字面からこじつけ引きよせた一家言であつたのだらう。
ほをりの命と浦島子との場合の常世は、目無筐マナシカタマに入ると言ひ、魚族の居る國と傳へ(記・紀)、海中らしく見えるが、他の場合の常世の意は、すべて海の彼岸にあるらしく傳へてゐる。つまりは、古代人の空想した國、或は島であつたのだ。たぢまもりの場合は、其出自が漢種であり、現實性が多い書き方の爲に、如何にも橘を齎した國が南方支那の樣に見える。けれども、此出石イヅシ人の物語も、一種のりつぷ※(濁点付き平仮名う、1-4-84)あんゐんくる式の要素を備へてゐて、常世特有の空想の衣がかゝつてゐる。思ふに、古代人の考へた常世は、古くは、海岸の村人の眼には望み見ることも出來ぬ程、海を隔てた遙かな國で、村の祖先以來の魂の、皆行き集つてゐる處として居たであらう。そこへは船路或は海岸の洞穴から通ふことになつてゐて、死者ばかりが其處へ行くものと考へたらしい。さうしてある時代、ある地方によつては、洞穴の底の風の元の國として、常闇の荒い國と考へもしたらう。風に關係のあるすさのをの命の居る夜見の國でもある。又、ある時代、ある地方には、洞穴で海の底を潛つて出た、彼岸の國土と言ふ風にも考へたらしい。地方によつて違ふか、時代によつて異るか、其は明らかに言ふことは出來ない。なぜならば、海岸に住んだ古代の祖先らは、水葬を普通として居た樣だから、必しも海底地下の國ばかりは考へなかつたであらう。洞穴に投じたり、荒籠アラコに身がらを歛めて沈めたりした村の外は、船に乘せて浪に任せて流すこと、後世の人形船や聖靈船・蟲拂ひ船などの樣にした村々では、海上遙かに其到着する死の島、或は國土を想像したことも考へられる。事實、かういふ彼岸の常世を持つた村々が多かつたらしいのである。此二つの形が融合して、洞穴を彼岸へ到る海底の墜道の入り口と言ふ風に考へ出したものと思ふ。琉球の八重山及び小濱島のなびんづうから通ふにいるすくも、にこらいねふすきい氏の注意によれば、底の國ではなく、垣・村・壘などを意味する「城」の字を宛て慣はしたすくである事は既に述べた。此邊にすくを稱する離島は可なりにある。さすれば、にらい國は必しも海底の地ともきまらぬのである。事實、沖繩諸島では、他界を意味する島を海上にあるとする地方が多く、海底にあると言ふ處はまだ聞かない。大東島ウフアガリシマも明治以前は單なる空想上の神の島――あがるいの大主の居る――の名であつたのを、偶然其方角に發見して、實際の名としたのであつた。尖閣列島にも、舊王朝時代には神の島と眺められて居たものがあつた。
とにもかくにも最初は、死の常闇の國として畏怖せられて居たのが、其國の住者なる祖先及び眷屬の靈のみが、村の爲に好意を持つて、時あつて來臨するのだから、怖いが併し、感謝すべきおにの居る國といふことになつて、親しみを加へて來る。一方には畏しさの方面にのみ傾いて、すさまじい形相を具へた魔物の來臨する元の國と言ふ風に思うた處もある。にいるすくは其だ。奥羽地方のなもみの類の化け物、杵築のばんない等をはじめとして、おにといふ説の内容推移に從うて、初春のまれびとを惡鬼・羅刹の姿で表してゐる地方が多い。ところが、其等は年中の農作祝福に來るのであるから、佛説に導かれて變化した痕はありありと見える。節分の追儺に逐はれる鬼すら、やはり春の鬼としてのまれびとの姿を殘してゐる地方が段々ある。幸福は與へてくれるのだが、畏しいから早く去つて貰ひたいと古代人の考へたまれびと觀が、語意の展開と共に、之を逐ふ方に專らになつて來たからである。
代を經た祖先として、既に畏怖の念よりも、尊敬の方に傾いて來ると、男性・女性の祖先一統を代表する靈の姿が考へられて來る。其が祖先であると言ふ考へから、高年の翁・媼に想像せられたことが多い。だが、生殖力の壯んなことを望むところから、壯年のめをと神を思ひ浮べた例も多い。此夫婦神の樣式が神爭ひ・神逢遭ユキアヒなどの物語・行事の上にも影を落して、雙方の神を男女或は夫婦として配する風が成長して來た。農作に關係のある神來臨が、初春といひ、五月と言ひ、多く夫婦神であることは、一面、婚合の儀式を行うて、作物を感染せしめようとする呪術を伴うてゐたものかも知れぬ。
其他の場合のまれびとには、主神一柱の外は眷屬だけが隨うて、女性の神の來ないのが多かつたと思はれる。
まれびとが人間化する最初は、恐らく新室のほかひなどであらう。まれびととして迎へられた神なる人が、待遇は神にする樣式を改めなかつたけれど、段々人としての意識を主客共に持つ樣になつた。顯宗紀の室壽詞ムロノヨゴトに「いで、常世たち」と賓客たちに呼びかけてゐるのは、齡の久しい人と言ふ樣にもとれる。勿論、さうした祝福をこめた詞ではあるが、古代からまれびとに對して呼びかけた「常世の神たちよ」と言つた風の固定した常用句が、やはり殘つて居たものと見るべきである。
とこよが永久の齡・長壽などの用語例を持つたのは、語の方からも、祖先の靈と言ふ考への上に、の聯想が働いたからである。常闇の國から、段々不死の國と言ふ風に轉じて行つたのである。而もと言ふ語には、古代から近代まで、穀物或は其成熟の意味があつた。とこよは更に、豐饒或は富みの國なる聯想を伴ふ樣になつた。常世と一つに考へられ易いわたつみの國は、人間の富みの支配者であつた上に、時々潮に乘つて、彼岸の沃肥を思はせる樣な異樣な果實などの流れよることなどがある爲、空想は愈、濃くなり、色どられて行く。
かうした展抒は、藤原朝以前からであつた。漢種の人々の影響が具體的になつて來ると、益、海中の三仙山の壽福の姿が、常世の國の上に重つて來て、常世・仙山を接近させる樣になつた。平安朝の初期に、「標の山」の上に仙山を作つて、夫婦神を据ゑる樣にさへなつたのは、此信仰の混淆から來たのだ。
更に常世の國に就て、日漢共通の、而も獨立發生の疑ひのないものは、神婚譚がどちらにもついて※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて居ることである。漢・魏・晉・唐の間の民間説話の記録なる小説は、宮廷祕事でなければ、神仙と高貴の人との媾遇を主題とした物が多い。
更に「楚辭」にも屈原の物すら、稍、此傾向のあるものがあるが、其末流なる宋玉・登徒子等の作物は、張文成の艶話の前驅とも言ふべき自敍傳體の、仙女又は貴女との交渉を記したものが多い。文成の物になると、日本・三韓あたりの念書人の鑑賞に適切な、啓蒙的な筆致と構想とを備へてゐた。而も、夙に歡び迎へられた「遊仙窟」は、仙女との間の情痴を描寫したものである。書物よりの影響は勿論、日本の文人を動して、奈良朝に出入して、既に浦島子傳・柘枝傳に辿々しい模倣の筆つきで、我が國固有の神女・人間婚合の物語を書かしめた。而も筆を以てせぬ漢種の人々の神仙譚が、人々の耳に觸れた多くの機會を想像する事が出來る。さうした事が、如何に、常世と仙山とを分ち難いものにしたことであらう。其上、國語では、男女の交情・關係をも「よ」と言ふ音で表した。常世が戀愛の無何有郷と言ふ風にも考へられた。浦島子譚と同系と見えるほをりの命の物語も、常世の富みと戀ひとを述べて居る。「齡」の方は、此方にはなくて、前者の方に説いてゐる。其浦島子の幸福を逸した愚さを、齒痒く感じた萬葉人の詞は、すべての萬葉人の仰望をこめての歎息だつたのである。
覓國使クニマギツカヒの南島を求めに出た動機には、かうした樂土への憧れを含んで居たことであらう。ちようど中世紀の歐洲人が、擧つて淨土西印度の空想をあめりかに實現した樣に、此は七島・奄美・沖繩諸島を探り得たのだ。而も其島々の荒男も、おなじくさうした樂土に憧れて居たこと、今の世の子孫が尚あるが如くであつたらう。平安朝に入つては、常世の夢醒めて、唯、文學上の用語となり、雁がねに古風な情趣を添へようとする人が、時たま使ふだけになつて了うた。まことに、海の彼方に憧れの國土を觀じた祖先の夢は、ちぎれ/\になつて了うたのである。
海については、四天王寺の西門は、極樂淨土東門に向ふが故に、淨土往生疑ひなしと信じて、水に入つた鎌倉時代の人々や、南海にあると言ふ觀世音の樂土を想うて、扁舟に死ぬまでの身を乘せて、漕ぎ出した「普陀落渡海」も、皆、水葬の古風が他家の新解説を得たまでゞ、目ざす淨土は、やはり常世の形を變へたものに過ぎなかつたのである。
時勢から見ても、常世の國は忘られねばならなかつた。常世神に仕へた村人らは海との縁が尠くなつて行つた。平野から山地にまで這入つて了うては、まれびとの來る處は、自ら變つて來る。現在或は近世の神社行事の溯源的な研究の結果と、古代信仰の記録とを竝べて考へて行くと、一番單純になりきつたのは、海濱の村の生活の印象である。こゝまで行くと、我が國土の上に在つたことか、其とも主要な民族の移住以前の故土での事か、訣らなくなる部分が出て來る。此事については、別に論じたく思ふが、此だけの事は言はれる。
ともかくも、信仰を通じて見た此國土の上の生活が、かなり古くからであつたらしい事である。尠くとも、さうした生活を始めた村が、極めて古くあつた。其上、自發したものか、他の村からとり込んだかは二の次にして、相似た生活樣式の多くが、澤山な村々の上に極めての古代に見出される。平野に深く移つて後も、尚、祭りには、海から神の來る事を信じた村もある。だが多くは、段々形を變へて、山からとし、天からと考へる樣になる。元來、天上に樂土を考へた村々もあるにはあつたらしいのである。





底本:「折口信夫全集 第一卷」中央公論社
   1954(昭和29)年10月1日初版発行
   1965(昭和40)年11月20日新訂版発行
   1972(昭和47)年5月20日新訂再版発行
初出:「民俗 第四卷第二號」
   1929(昭和4年)年1月
※底本の題名の下に書かれている「昭和二年十月稿。昭和四年一月「民族」第四卷第二號」はファイル末の「初出」欄に移しました。
※図中の斜線は、罫線素片に置き換えました。
※訓点送り仮名は、底本では、本文中に小書き右寄せになっています。
※踊り字(/\、/″\)の誤用は底本の通りとしました。
入力:野口英司
校正:多羅尾伴内
2005年1月17日作成
2005年10月26日修正
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●表記について