一 客とまれびとと
客をまれびとと訓ずることは、我が國に文獻の始まつた最初からの事である。從來の語原説では「稀に來る人」の意義から、珍客の意を含んで、まれびとと言うたものとし、其音韻變化が、まらひと・まらうどとなつたものと考へて來てゐる。形成の上から言へば、確かに正しい。けれども、内容――古代人の持つてゐた用語例――は、此語原の含蓄を擴げて見なくては、釋かれないものがある。
我が國の古代、まれの用語例には、「稀」又は「rare」の如く、半否定は含まれては居なかつた。江戸期の戲作類にすら、まれ男など言ふ用法はあるのに、當時の學者既に「珍客」の意と見て、一種の誇張修辭と感じて居た。
うづは尊貴であつて、珍重せられるものゝ義を含む語根であるが、まれは數量・度數に於て、更に少いことを示す同義語である。單に少いばかりでなく、唯一・孤獨などの義が第一のものではあるまいか。「あだなりと名にこそたてれ、櫻花、年にまれなる人も待ちけり(古今集)」など言ふ表現は、平安初期の創意ではあるまい。
まれびとの内容の弛んで居た時代に拘らず、此まれには「唯一」と「尊重」との意義が見えてゐる。「年に」と言ふ語がある爲に、此まれは、つきつめた範圍に狹められて、一囘きりの意になるのである。此「年にまれなり」と言ふ句は、文章上の慣用句を利用したものと見てさしつかへはない樣である。
上代皇族の名に、まろ・まりなどついたものゝあるのは、まれとおなじく、尊・珍の名義を含んでゐるのかと思ふ。繼體天皇の皇子で、倭媛の腹に
くすり師は常のもあれど、珍 人の新 のくすり師 たふとかりけり。珍 しかりけり(佛足石の歌)
つねは、普通・通常などを意味するものと見るよりも、此場合は、常住、或は不斷の義で、新奇の一時的渡來者の對立として用ゐられてゐるのである。まらは、まれの形容屈折である。尊・珍・新などの聯想を伴ふ語であつたことは、此歌によく現れてゐる。まれと言ふ語の溯れる限りの古い意義に於て、最少の度數の出現又は訪問を示すものであつた事は言はれる。ひとと言ふ語も、人間の意味に固定する前は、神及び繼承者の義があつたらしい。其側から見れば、まれひとは來訪する神と言ふことになる。ひとに就て今一段推測し易い考へは、人にして神なるものを表すことがあつたとするのである。人の扮した神なるが故にひとと稱したとするのである。
私は此章で、まれびとは古くは、神を
てつとりばやく、私の考へるまれびとの原の姿を言へば、神であつた。第一義に於ては古代の村々に、海のあなたから時あつて來り臨んで、其村人どもの生活を幸福にして還る靈物を意味して居た。
まれびとが神であつた時代を溯つて考へる爲に、平安朝以後、近世に到る賓客饗應の風習を追憶して見ようと思ふ。第一に、近世「
正當に賓客と稱すべき貴人の光來の榮に接することになつたのは、凡、武家時代以後、次第に盛んになつたことゝ觀察せられる。武家は、久しい地方生活によつて、親方・子方の感情が、極めて緻密であつた。中央には、傳承が作法を生んで、久しい後までも、わりあひ自由に親密を露すことが出來た。其で、武家が勢力を獲た頃になると、中央であつたら大事件と目せられねばならない樣な臣家訪問の事實が、急に目につき出したのである。下尅上の恐怖が感じられる樣になると、懷柔の手段と言ふ意味も含められて、愈流行した。其結果、賓客と連帶して來たまれびとなる語は、到底、上代から傳へた内容を持ちこたへることが出來なくなつたのである。六國史を見ても、さうである。天子の臣家に臨まれた史實は、數へる程しかない。公式と非公式とでは違ふであらうが、内容にも屡あり得べきことではなかつた。
上官下僚の關係で見ても、さうだ。非公式には多少の往來を交して居さうな人々の間にも、公式となると、こと/″\しい形式を履まねばならぬことになつてゐた。「大臣大饗」は、此適切な例である。新しく右大臣に任ぜられた人が、先輩なる現左大臣を正客として、他の公卿を招く饗宴であるが、此は公家生活の上に於ける非常に重大な行事とせられて居た。だから、正客なる左大臣の一擧一動は、滿座の公卿の注視の的となつた。新大臣にとつては、單に次には自分の行はねばならぬ儀式の手本を見とつて置く爲の目的から、故らに行うたやうな形があつた。先輩大臣は、其だけに故實を糺して、先例を遺して置かうと言ふ氣ぐみを持つてゐた。
二 門入り
凡、大饗と名のつく饗宴には、すべて此正客をば「尊者」と稱へて居た。壽・徳・福を備へた長老を「尊者」と言ふと説明して來て居るが、違ふ樣である。私は此には二とほりの考へを持つて居る。一つはまれびとの直譯とするのである。今一つは寺院生活の用語を應用したものと見るのである。
奈良朝の記録には、神護景雲元年八月乙酉、參河國に慶雲が現れたので、西宮寢殿に、僧六百人を招いて齋を設けた。
是の日、緇侶の進退、復法門の趣なし。手を拍つて歡喜すること、もはら俗人に同じ。(續紀)
とある。此拍手が純國風であつたことは、延暦十八年朝賀の樣の記述を見ても察せられる。
文武官九品以上、蕃客等、各位に陪す。四拜を減じて再拜と爲し、拍手せず。渤海國の使あるを以てなり。(日本後紀)
とあるのは、天子を禮拜することの、極めて鄭重であつた國風を、蠻風と見られまいとして、恥ぢて避けたのである。だが、此も亦宴式に臨んだ正客を拜した古風の存して居たのである。手を拍つ事は、酒宴の興に乘つて拍子をとり、囃すものと思はれて來たが、後世の宴會の風から測つた誤解である。正客即尊者は拜むべきものであつた。其故、手を拍つて拜したのである。二つの引用文は天子に關したものであるが、拍手禮拜の儀は、天子に限らない。うたげは「拍ち上げ」の融合なることは、まづ疑ひはない。併し、宴はじまつて後の手拍子を
後世、饗宴の風、其宴席の爲に正客を設け、名望ある長老を迎へる事を誇りとする樣になつたが、古代には尊者の爲の饗宴であつて、饗宴の爲の正客ではなかつたのである。だから、尊者は、饗宴の唯一の對象であり、中心であつた。他の列座の客人・宴席の飾り物・食膳の樣子・酒席の餘興などの起原に就ては、自ら説明する機會があるであらう。
尊者の「門入り」の今一つ古い式は、平安の宮廷に遺つて居た。大殿祭の日の明け方、神人たち
にほどりの葛飾早稻 をにへすとも、彼 の可愛 しきを外 に立てめやも
誰 ぞ。此家の戸 押 ふる。にふなみに、我が夫 を行 りて、齋 ふ此戸を
此二首の東歌(萬葉集卷十四)は、東國の「刈り上げ祭り」の夜の樣を傳へてゐるのである。にへは神及び神なる人の天子の食物の總稱なる「此等の民謠は、新甞の夜の民間傳承が信仰的色彩を失ひ始めた頃に、民謠特有の戀愛情趣にとりなして、其樣子を潤色したのである。來訪者を懸想人としたのは、民謠なるが爲であるに過ぎないが、かうしたおとづれ人を豫期する心は、深い傳承に根ざして居たのである。かうした夜の眞のおとづれ人は誰か。其は刈り上げの供を享ける神である。其神に扮した神人である。
「戸おそふる」と言ひ、「
おなじく神の來る夜の民俗は、
三 簑笠の信仰
而も尚一つ、簑笠に關する禁忌の起原を説く點である。私の考へる所では、簑笠を著て家に入つたからとて、祓へを課する訣はない。孝徳朝に民間に行はれた祓へを見ても、家を涜し村を穢したものとする樣々な口實を以てして、科料を課して居る樣子が見える。だから、束草などは説明の途のつかない間は、姑く家を汚すものと見ることも出來るが、簑笠を着てづゝと這入ることは、別途の説明をすることが出來る。婚禮の水祝ひも、實は孝徳紀によると、祓へから出發して居るのである。巫女と婚する形式になるところから婚前に祓ふべきを、事後に行うたのである。
此と同じで、簑笠を著たまゝで、他家の中に入るのは特定のおとづれ人に限る事であるのに、其を犯したから祓ふのである。が此は、一段の變化を經て居る。祓へをして簑笠を着たおとづれ人を待つ風があつたのを、其條件に叶はぬ人の闖入に對して、逆に此方法をとつたものである。決して農村生活に文化式施設を試みようとの考へから出たのではない。簑笠は、後世農人の常用品と專ら考へられて居るが、古代人にとつては、一つの變相服裝でもある。笠を頂き簑を纏ふ事が、人格を離れて神格に入る手段であつたと見るべき痕跡がある。
神武紀戊午の年九月の條に、敵の邑落を幾つも通らねば行けぬ天ノ
此事は、尚ほ及びうらの條に詳しく解説をする。隱れ簑・隱れ笠は、正確には外來のものではない。在り來りの信仰に、佛教傳來の空想の、隱形の帽衣の觀念をとりこんで發達させたまでゞある。人間の姿がなくなつて、神と替るといふことゝ、人間の姿を隱すと言ふことゝだけの違ひに過ぎない。
又、笠神の形態及び信仰の由來する所も、其大部分は、此おとづれ人の姿から出てゐるものと見られる。今も民間信仰に、田の神或は其系統の社の神の、簑笠を著けたのが多いのは、理由のあることである。遠い國から旅をして來る神なるが故に、風雨・潮水を凌ぐ爲の約束的の服裝だと考へられ、それから簑笠を神のしるしとする樣になり、此を著ることが神格を得る所以だと思ふ樣になつたのである。簑笠で表された神と、
大晦日・節分・小正月・立春などに、農村の家々を訪れた樣々のまれびとは、皆、簑笠姿を原則として居た。夜の暗闇まぎれに來て、家の門から直にひき還す者が、此服裝を略する事になり、漸く神としての資格を忘れる樣になつたのである。近世に於ては、春・冬の交替に當つておとづれる者を、神だと知らなくなつて了うた。或地方では一種の妖怪と感じ、又或地方では祝言を唱へる人間としか考へなくなつた。其にも二通りあつて、一つは、若い衆でなければ、子ども仲間の年中行事の一部と見た。他は、專門の祝言職に任せると言ふ形をとるに到つた。さうして、祝言職の固定して、神人として最下級に位する樣に考へられてから、乞食者なる階級を生じることになつた。
┌妖怪
おとづれ人┤
└祝言職――乞食
だから、かういふ風に變化推移した痕が見られるのである。門におとづれて更に屋内に入りこむ者、門前から還る者、そして其形態・爲事が雜多に分化してしまうたが、結局、門前での儀が重大な意義を持つて居たことだけは窺はれる。此樣に各戸訪問が、門前で其目的を達する風に考へられたものもあり、又、家の内部深く入りこまねばならぬものとせられたのもある。古代には家の内に入る者が多く、近世にも其形が遺つて居るが、門口から引き返す者程、卑しく見られて居た樣である。つまりは、單に形式を學ぶだけだといふ處から出るのであらう。おとづれ人┤
└祝言職――乞食
四 初春のまれびと
乞食者はすべて、門藝人の過程を經て居ることは、前に述べた。歳暮に近づくと、來む春のめでたからむことを豫言に來る類の神人・藝人・乞食者のいづれにも屬する者が來る。「鹿島のことふれ」がり、次いで
此中、
大晦日は前にも述べたとほり、節分・立春前夜・十四日年越しと共通の意味を持つた日と考へられて居た爲、かうした點にも同樣の事が行はれた。「厄拂ひ」は、右のいづれの日にか行はれるもので、節分には限らない。奈良では、「富み/\」と唱へて驅け歩く
寶船を賣りに來るのも、除夜或は節分の夜である。正月二日に賣り歩くのは、變態である。元旦未明から若えびす賣りが來る事は、やはり江戸中期まではあつたことである。其からは
鳥追ひの女太夫ばかりでなく、室町・聚樂の頃までは、年頭祝言に出る者に
かうした職業者以外で言ふと、十月から既に來春を豫祝する意で、玄猪の行事がある。此夜は、村の子どもが群をなして、屋敷に自由に入つて來て、地を打ち固める形式をするが、共通の樣である。多くの地方で、海鼠を以て、※[#「鼬」の「由」にかえて「偃」のつくり、18-5]鼠を逐ふ儀式と信じて居る。大晦日・節分の厄拂ひも、若い衆が行ふ地方はまだある。而も、厄拂ひに似て居て、意義不明なほと/\・とのへい・こと/\など言ふ簡單な唱へ言をして、家々の門戸を歴訪し、中には餅錢などを貰ひ受け、或は不意の水祝ひを受けて、還るのもある。皆恐らくおとづれる戸の音の聲色を使ふのであつて、ほと/\と言つた古言で、おとなひを表した時代から固定した唱文であり、儀式であつたのであらう。
小正月或は元日に、妖怪の出て來るのは、主として奥羽地方である。なもみはげたか・なまはげ・がんぼう・もうこなど言ふ名で、通有點は簑を著て、恐しい面を被つて、名稱に負うた通りの唱へ言、或は、唸り聲を發して家々に踊りこんで、農村生活に於ける不徳を懲す形をして行くのである。私は、地方々々の民間語原説はどうあらうとも、なま・なもみは、玄猪の「海鼠」と語原を一つにしたもので、おとづれ人の名でなくば、其目的として懲らさうとする者の稱呼ではないかと思ふ。さうでなくば、尠くとも、我が古代の村々の、來向ふ春の祝言の必須文言であつたとだけは言はれよう。此妖怪、實は村の若い衆の假裝なのである。村の若者が人外の者に扮して、年頭の行事として、村の家々を歴訪すると言ふのは、どう言ふ意味であらうか。何にしても、不得要領なほと/\と同じ系統で、まだ其程に固定して居ないものだと言ふ事は知れる。
五 遠處の精靈
村から遠い處に居る靈的な者が、春の初めに、村人の間にある豫祝と教訓とを垂れる爲に來るのだ、と想像することは出來ぬだらうか。簑笠を著けた神、農作の初めに村及び家をおとづれる類例は、沖繩縣の八重山列島にもあちこちに行はれてゐる。
此おとづれ人の名をまやの神と言ふ。まやは元來は國の名で、海のあなたにある樂土を表す語らしい。臺灣土民の中にも、阿里山蕃人は、神話の上に此樂土の名を傳へて居る。而も沖繩本島の西北の洋中にある
此は勿論、其村の擇ばれた若者が假裝した神なのである。村人の中、女及び成年式を經ない子供には絶對に知らせない祕密で、同時に状を知つた男たちでも、まやの神來訪の瞬間は眞實の神と感じ、まやの神自身も神としての自覺の上に活いて居る樣である。此樣に大切な神にも拘らず、村によつては猫の怪物と聯想して居ると言ふ風に、どこかに純化しきつた神とは言はれぬ點を交へて居る。かうして見ると、なもみはげたかとの隔りは、極めて纔かなものになつて來るのである。
おなじ八重山群島の中には、まやの神の代りににいる
にいるすくと言ふ處が、巨人の本處であると考へて、多くの人は海底にあると説く。にいるは奈落で、すくは底だと言ふが、にいるは明らかに別の語である。にこらい・ねふすきい氏の考へでは、すくも底ではなく、此群島地方で、底をすくと言ふ事はない。やはり壘・村・國を意味して居るさうだ。つまり、にいる國と言ふ事になる。ぴつは人であるが、一種の敬意を持つた言ひ方で、靈的なものなる事を示して居るのである。
にいる人の行ふ事は、一年中の作物の豫祝から、今年中の心得、又は昨年中、村人の行動に對する批評などもある。村人の集つて居る廣場に出て踊り、其後で家々を歴訪すること、及び其に對する村人の心持ちは、まやの神と同樣である。
にいる人の出る地方の青年には、又、酉年毎に成年式が執り行はれる。一日だけではあるが、かなりの苦行を命じられる儘にせなければならない。まやの國から來る神と、にいるすくから來る靈物との間に違ふ點は、形態の差異だけしかない訣であるが、にいる人の方が、村の生活・村の運命との交渉が緻密である樣に見える。此巨人も、擇ばれた若者たちが、一體につき二人づゝ交替に這入ることになつて居る。其を男たちは知つて居て、而も敬虔感は失はないのである。
にいるすくは、海底か洋上か、其所在、頗、曖昧であるが、此は後に説くとして、先島の人々は、にいるすくを恐しい處と考へて居ることは、事實である。暴風もにいるすくから吹くと考へて居る。此は洞窟を以て、風伯の居る所とし、其海岸にあるものは、黄泉への通路として居る世界的信仰と脈絡があるのである。風とにいるとの關係に就ては、沖繩本島でも、風
にらいかないは、言ふまでもなく、にいると同じ語で、かないは對句表現である。にらいかない・じらいかない・
沖繩本島のにらいかないは、琉球神道に於ける樂土であつて、海のあなたにあるものと信じて居る地だ。さうして人間死して、稀に至ることもあると考へられた樣である。神は時あつて、此處から船に乘つて、人間の村に來ると信じた。其が海岸から稍入りこんだ地方にも及してゐる。だから、沖繩の村は海岸から發達したことは知れる。方言では多く、其神を「にれい
琉球王朝では、遠方より來る神を地神の上に位せしめて居た樣である。さうして、天神と海神とに區分して居る。
琉球神道の上のにらいかないは光明的な淨土である。にも拘らず、多少の暗影の伴うて居るのは、何故であらう。今一度、八重山群島の民間傳承から話をほぐして行きたい。
六 祖靈の群行
村々の多くは、今も盂蘭盆に、祖先の靈を迎へて居る。此をあんがまあと言ふ。
盆の三日間夜に入ると、村中をつて迎へられる家に入つて、座敷に上つて饗應を受ける。勿論、若い衆連の假裝で、顏は絶對に露さない。元は、芭蕉の葉を頭から垂れて、葉の裂け目から目を出して居たと言ふが、今は木綿を以て頭顏を包んで、其に眉目を畫き、鼻を作つて、假面の樣にして居る。
あんがまあは「
そしると言ふ語は、古くさゝやくと言ふ内容を持つたに過ぎぬが、人の惡口を耳うちすると言ふ風に替つたのは、此邊に理由があるのではないか。そしるは日・琉に通じる古語で、託宣する事である。託宣はさゝやかれるのが本式であつた。ところが、一方へ分化したのは、託宣の形を以て、人の過ち・手落ちを誹謗することが一般に行はれた處から、そしるの現用々語例が出來たものであらう。
八重山の村々で見ても、今こそ一村一族と言ふものはなくなつて、大抵、數個の門中からなつて居るが、古い形は大體一つの門中を以て、村を組織して居たのであるから、一つのあんがまあが、村中のどこの家にも迎へられることの出來る訣はわかる。さうした
内地の祭禮の夜にあくたいの伴ふ事があるのは、悠遠な祖先の邑落生活時代に村の死者の靈の來臨する日の古俗を止めて居るのである。勿論、我が國農村に近世まで盛んに行はれた村どうしの競技に、相手の村を屈服させることが、おのが村の農作を豐かにするとしたかけあひ・かけ踊りの側の形式をとり込んでゐるのであらうが、主としての流れは、祖靈のそしりにある事と思ふ。一村が一族であるとしたら、子孫の正系が村君である。祖靈が、村の神人の口に託して、村君のやり口を難ずる事があつたとしたら、此を咎める事も出來ないはずである。かう言ふ風に、神人の爲事が、村の幸福と政治との矛盾した點に觸れることが多くなつて來るに連れて、姿は愈、隱され、聲は益、作られて、其誰とも知れない樣に努める樣になつて來るのは、當然である。「千葉笑ひ」の如きは、神人の意識的のそしりが含まれて來る訣である。ざつとなは家々を訪問する點に於てあんがまあに近い者である。
祖靈が夙く神と考へられ、神人の假裝によつて、其意思も表現せられる樣になつたのが、日本の神道の上の事實である。而も尚、神の屬性に含まれない部分を殘して居るのは、「みたまをがみ」の民間傳承である。古代日本人の靈魂に對する考へは、人の生死に拘らず生存して居るものであつて、而も同時に游離し易い状態にあるものとしてゐた。特に生きて居る人の物と言ふ事を示す爲に、いきみたまと修飾語を置く。靈祭りは、單に死者にあるばかりではなかつた。生者のいきみたまに對して行うたのであつた。さうして其時期も大體同時であつたらしい。
僞經だと言ふ「盂蘭盆經」には、盂蘭盆を年中六囘と定めて居る。「魂祭り」は中元に限るものでなかつたことを示してゐるのであらう。「魂祭り」類似の形式が「節の祭り」と融合して殘つて居る痕が見える。七夕も盆棚と違はぬ拵への地方があり、沖繩では盆・七夕を混同してゐる。八朔にも、端午にも、上巳にも、同樣な意味を示す棚飾りと、異風を殘した地方がある。正月の喰ひ積み、
七 生きみ靈
生き御靈の方で言はう。中世、七夕の翌日から、盂蘭盆の前日までを、いきみたま、或は、おめでたごとなる行事のある期間としてゐた。恐らく武家に盛んであつたのが、公家にも感染して行つた風俗と思はれるが、宗家の主人の息災を祝ふ爲に、
おめでたごとから引いて説くべきは、正月の常用語「おめでたう」は、現状の讚美ではなく、祝福すべき未然を招致しようとする壽詞であると言ふことである。生き盆のおめでたごとと同じ事が、宮廷で行はれてゐた。春秋の朝覲行幸が其である。天子、其父母を拜する儀であつて、上皇・皇太后が、天子の拜を受け給ふのであつた。單に其ばかりでなく、群臣の拜賀も同じ意味から出たものであつた。
奈良朝以前は、各氏ノ上――恐らくは氏々の神の神主の資格に於て――が、天子に「
古代に於ける
泊瀬の中流に下り、三諸 ノ岳に面し、水に漱ぎ、盟ひて曰はく……若し盟に違はば、天地の諸神、及び天皇の靈、臣が種を絶滅さむ。
とあるのは、恐らく文飾ではあるまい。正月、生き御靈を拜する時の呪言が「おめでたう」であつたとすれば、正月と生き盆との關係は明らかである。生き盆と盂蘭盆との接近を思へば、正月に魂祭りを行つたものと見ることも、不都合とは言はれない。柳田國男先生は、やはり此點に早くから眼を著けて居られる。
私は、みたまの飯の飯は、
鏡餅の如きも、神に供へる形式をとつては居ない。大黒柱の根本に此を据ゑて、年神の本體とする風、又、名高い長崎の柱餅などの傳承を見ると、どうしても供物ではなく、神體に近いものである。盆棚の供物と似た「食ひつみ」を設ける地方では、餅・飯を以て靈代とする必要がなかつた。他の農作物或は山の樹木を以て表すことが出來た。其故、固陋に舊風を墨守した村又は家では、正月餅を搗かぬ傳承を形づくつたのである(民族第一卷第二號)。
八 ことほぎとそしりと
ことほぐ神と、そしる神とに就ては、既に述べた。さうして、藝術の芽生えがおとづれ人の手で培はれた事を斷篇的には述べて置いた。此に就て、今少し話を進める方が、靈とおとづれ人との關係を明らかにするであらう。
先島列島のあんがまあ(沖繩の村芝居)に似た風習が、沖繩本島にある。田畠のはじめの清明の節に行はれることで「村をどり」と言ふのが、此である。此は、若い衆多人數を以て組織せられた團體で、村の寄り場から、勢揃ひをして、樂器を鳴らしながら練つて來るのは、あんがまあ同樣で、此は日中であるだけが違ふ。踊り衆もあり、唐手使ひ・棒踊りの連中もこめて、一組になつて來る。順番によつて、それ/″\藝を演ずるのであるが、其「村をどり」になくてはならぬ定式の演藝がある。其は、第一「
長者の
多くの土地では、
此解説は、同時によごとの起原にも觸れて行く。我が國の演劇の中、長者の大主の形式と同じ形の殘つて居るものは、能樂である。翁の「神歌」を見ても、翁は農作を祝福する神の、藝術化して行く途中にある者だと言ふことは訣る。長者の大主は「翁の起原」を示して居るし、そして儀來の大主は「翁の意味」を説いてゐる。而も後者は、單に翁が二重になつて居るだけでなく、三番叟の起原をも示して居るのである。
三番叟は、おなじ老體を表して居るが、
此は疑ひもなく、我が國の原始状態の演劇に缺く事の出來ない要素であつた。して方と此もどき狂言との問答が、古い程重要で、此が輕んじられるに隨つて、わき役が獨立する樣になつたのである。神樂で言へば、人長に對する「
此事は、既に詳しく述べた。つまりは、して方は神、もどきは精靈であつた宗教儀式から出たからであるのだ。精靈が神に逆らひながら、遂に屈從する過程を實演して、其效果を以て一年間を祝福したのである。黒尉が狂言方の持ち役ときまつて居るのは、翁と三番叟との關係が、神と精靈との對立から出て來たものなることを示してゐるのである。
能樂師は翁を神聖視して居るが、どうしても神社に祀つてある神ではない。たとひ、翁が「春日若宮祭り」の一の松の行事に出發したと見ても、春日の神でない事は説明が出來る。況んや、これは春日の祭りとは關係のない古い宗教演劇だと言ふことが出來るのだ。思ふに、我が國の村々の宗教演劇に於て、皆かうした翁の出現して、土地の精靈を屈服させる筋を演出して居たのが、神樂には「才の男の態」となり、春日神社の猿樂師が保存した翁となつたのであらう。
翁一人でなく、高砂の尉と姥との樣な、夫婦神の來臨を言ふ事も多い。近世は、大抵、猿田彦・鈿女ノ命と説明する樣であるが、此は、やはり
沖繩の民間傳承から見ると、稀に農村を訪れ、其生活を祝福する者は、祖靈であつた。さうしてある過程に於ては妖怪であつた。更に次の徑路を見れば、海のあなたの樂土の神となつてゐる。我が國に於ても、古今に亙り、東西を見渡して考へて見ると、微かながら、祖靈であり、妖怪であり、さうして多く神となつて了うてゐる事が見られるのである。かうした村の成年者によつて、持ち傳へられ、成年者によつて假裝せられて持續せられた信仰の當體、其來り臨む事の極めて珍らしく、而も尊まれ、畏れられ、待たれした感情をまれびとなる語を以て表したものと思ふ。私の考へるまれびとの原始的なものは、此であつた。
祖先であつたことが忘れられては、妖怪・鬼物と怖れられた事もある。一方に神として高い位置に昇せられたものもある。我が國のまれびとの雜多な内容を單純化して、人間の上に飜譯すると、驚くべく歡ぶべき光來を忝うした貴人の上に移される。賓客をまれびとと言ひ、賓客のとり扱ひ方の、人としての待遇以上であるのも、久しい歴史ある所と頷かれるであらう。
九 あるじの原義
主人をあるじと言ふのは原義ではない。あるじする人なるが故に言ふのである。あるじとは、饗應の事である。まれびとを迎へて、あるじするから轉じて、主客を表す名詞の生じたのもおもしろい。此に暫く、あるじ側の説明をして置く必要を感じる。
たまだれの小甕 を中に据ゑて、あるじはもや。さかなまぎに、さかなとりに、小淘綾 の磯のわかめ刈り上げに(風俗)
此等になると、あるじ云々は、主人はと物色する心持ちか、馳走は何と待つ心か、兩樣にはたらく樣で、平安朝末までもあるじの用語例は動搖し、漸くあるじぶりなど言ふ風の傾きを生じかけて居る。我が國の記録には、第一義のまれびとに關しては、敍述が乏しくして、痕跡の窺はれるものがあるに過ぎないが、此方面からでなくては説けない史實が多くある。藤原氏の氏ノ長者が持ち傳へたと言ふので、皇室の三種の神器に次ぐ樣な貴重な感情を起させた朱器・臺盤と言ふ重器は、何の爲に尊いのか、何をする物であつたか、私はまだ其説明を聞いたことがない。併し、朱器は朱の漆で塗つた盃であつたらうと言ふ事は、他の用例を見れば知れる。臺盤は食膳である。此が何の爲に、重器として傳へられる資格を持つのか。傳説では藤原冬嗣の時に新造した物と言ふ。氏ノ長者の重器とするには、歴史淺いかの觀がある。私は恐らく使用に堪へなくなつた爲に、更めて新しく造つた事を言ふのではないかと思ふ。其にしても、食器が氏ノ長者の標識となる理由は、私の此考へ方に由る外は、説明はつくまい。つまり氏ノ長者としては、是非設けねばならぬあるじを執り行ふに必要なる品で、由緒ある物なのであらう。
單純に説明すれば、氏ノ長者を繼ぐと、其披露の饗宴を催さねばならぬ。其時に名譽の歴史ある傳來品を用ゐると考へて見ることが出來る。眞に右から左へである。使ふ爲に讓られ、次に用ゐる時は、氏ノ長者は自分の手から、他に移つて居ると言ふ事になると見るのである。此見地からしても、饗宴が如何に大切であり、氏ノ長者披露のあるじが一世一代であるかゞ想像出來る。
而も、私は尚一般の推論を立てゝ居る。氏ノ上・氏ノ長者の稱は藤原氏のみの事ではない。藤原氏の勢力の陰に隱れて、他氏の氏ノ上は問題にならなくなつたが、氏ノ上披露の饗宴の器具なる故と言ふ處に力點を置いて見るならば、他氏の氏ノ上にも、早くから此と似よりの事が言はれて居るはずである。其が一つも傳はらないのは、記録の湮滅と言ふよりも、藤原氏特有の重器と言ふ事に意味が生じたのではあるまいか。
藤原氏は宮廷神の最高級の神職であつた中臣から出て、政權に與る爲に、教權を大中臣氏に委ねた家柄である。だから、其家の重器としては、宮廷神の祭祀或は中臣の祖神の爲の祭祀に關聯した器具を持ち傳へる事はあるべき事である。教權は大中臣氏に繼がせても、氏ノ長者の權威を保つ爲には、祖宗以來の重器としての祭器を傳へたことも想像出來る。私は宮廷の公祭、中臣の私祭に來り臨むまれびとの爲のあるじまうけの器具であつて、其爲に極めて貴重な物として繼承せられた事と思ふ。さうした朱器・臺盤も、果して平安朝に入つて幾度使はれたらうか。記録も其事を傳へない。藤原氏にとつて神聖な祕事であつたに違ひない。
此推論を強める一つの民間傳承がある。それは各地方に分布してゐる椀貸し塚・椀貸し穴の傳説である。多數の客を招くのに、木具のない時、ある穴の前に行つて、何人前の木具を貸し賜はれと書き付けをして還ると、翌日其だけの數が穴の前に出されてゐた。ところが、或時、狡猾な人間が一つをごまかした爲に、二度と出さなかつたと言ふ形式の話が、可なり廣く擴がつて行はれて居る。かうした物語の分布は、其處に久しい年月のあることを考へさせる。私は、まれびとを迎ふるあるじの苦勞の幾代の印象が、かうした傳説となつたので、椀貸し塚から出した木具が皆塗り物であつた點が、とりわけ朱器・臺盤との脈絡を思はせるものがある。
一〇 神來訪の時期
繰り返へして言ふ。我が國の古代には、人間の賓客の來ることを知らず、唯、神としてのまれびとの來る事あるをのみ知つて居た。だから、甚稀に賓客が來ることがあると、まれびとを遇する方法を以てした。此が近世になつても、賓客の待遇が、神に對するとおなじであつた理由である。だが、かう言うては、眞實とは大分距離のある言ひ方になる。まれびとが賓客化して來た爲、賓客に對して神迎への方式を用ゐるのだと言ふ方が正しいであらう。まれびととして村内の貴人を迎へることが、段々意識化して來た爲に、そんな事が行はれたのだ。今までの敍述は、まれびとの輪廓ばかりであつた。此からは其内容を細かに書いて見たい。
まれびとの來る時期はいつか。私は定期のおとづれを古く、臨時のおとなひを新しいと見てゐる。不時に來臨するのは、天神或は地物の精靈の神としての資格が十分固定した後に、其等の神々の間にあつたことである。其がまれびとの方に反映したものと思はれるから、まづ春の初めに來ると考へたであらう。まれびとの來ることによつて年が改まり、村の生産がはじまるのであつた。我が國では、年の暮れ・始めにおとづれ來る者のなごりは、前に述べたとほり數へきれないほどありながら、其形式は變り過ぎる程に變化した。抽象的な畏ればかりは妖怪となり、現實のまゝ若い衆自身々々を露はにする樣な行事にもなり、其が職業化し、藝術化した。さうして、其神祕な分子は、神となつて跡の辿られぬまでになつてゐる。此は歳徳神と陰陽道風に言ひ表されてゐる年神なのである。此神は、神道以外――寧、神道以前――の神である爲、記・紀其他に其名も見えない。大年神・御年神を此だとする説はあるが、まだ定らない。私は寧、出雲系統の創造神らしい形に見えるかぶろぎ・かぶろみの神々が、此に當るのではないかと考へて居る位である。此事は後に述べる。
年神の前身である春のおとづれをするまれびとは、老人であつて、簑笠を着た姿の、謂はゞ椎根津彦・乙猾とおなじ風で來り臨んだらうと云ふ推定は出來る。これが社々の年頭の祭事にとりこまれて、猿田彦・鈿女ノ命の田植ゑ神事となつて居る。老人を一體と見たのは、翁の系統であるが、二體とするのも、段々ある。まやの神・ともまや・赤また・黒また・大主前・あつぱあの如きは、陰陽の觀念がある樣である。現今も考へてゐる年神の中には、地方によつては一體のもあるが、老夫婦二體の者として居るのも多い。柳田先生はまた、盂蘭盆に「とも
さすれば、にう木或は
おめでたごとに、必、
此等の神は、恐らく沖繩のまれびとと同樣、村を祝福し、家の堅固を祝福し、家人の健康を祝福し、生産を祝福し、今年行ふべき樣々の注意教訓を與へたものであらう。民間傳承を通じて見れば、悉く其要素を具へて居るが、書物の上で明らかに言ふ事の出來る個處は、家長の健康・建築物の堅固・生産の豐饒の祝福が主になつてゐた樣である事は後に述べる。奈良朝の史書も、やはり村人の生活よりも村君・國造の生活を述べるのに急であつた爲に、まれびとの爲事の細目は傳へなかつたのであろう。而も、外來である事の證據の到底あげられない所の、古くして且、地方生活を固く結合した民間傳承の含む不明の原義を探ると、まれびとの行動の微細な點までも考へることが出來るのである。
一一 精靈の誓約
まれびとは、呪言を以てほかひをすると共に、土地の精靈に誓言を迫つた。更に家屋によつて生ずる禍ひを防ぐ爲に、稜威に滿ちた力足を蹈んだ。其によつて地靈を抑壓しようとしたのだ。平安朝に於て陰陽道の擡頭と共に興り、武家の時代に威力を信ぜられることの深かつた「
天子出御の時、發する警蹕の聲は、平安朝では「をし/\」と呼ぶ慣ひであつた。後に、將軍に「ほうほう」、諸侯に「下に/\」を使ふ樣になつた事も事實だ。「ほう/\」は鳥獸を追ふ聲で、人拂ひをするのではなく、此語も古いのであるから、地靈を逐ふ意があつたものであらう。「をし/\」は、天子のこゝに臨ませ給ふ事を示す語であるから、逐ふつもりではあるまい。寧、天子を思ひ浮べさせる歴史的内容を持つた語なのであらう。神武天皇、倭に入られて、
時に烏、其營に到りて鳴きて曰はく、「天つ神の子汝を召す。いざわ/\」と。兄磯城忿りて曰はく、天 ノ壓神 至ると聞きて、吾慨憤する時……。次に、弟磯城の宅に到り……。時に、弟磯城、※[#「りっしんべん+「僕」のつくり」、39-12]然として容を改めて曰はく、臣天ノ壓神至ると聞き……。(神武紀戊午年)
とあるのは、をし・おし假名遣ひの違ひはあるが、同系の語ではなからうか。「をし/\」と警蹕を寫したのは、必しも發音を糺したものとも思へないし、第一其頃、既にお・をの音韻の混同がはじまつてゐるのである。三河北設樂郡一般に行ふ、正月の「花祭り」と稱する、まれびと來臨の状を演ずる神樂類似の扮裝行列には、さかきさまと稱する鬼形の者が家々を訪れて、家人をうつ俯しに臥させて、其上を躍り越え、家の中で「へんべをふむ」と言ふ。へんべは言ふ迄もなく
新室を蹈靜子が手玉鳴らすも。玉の如照りたる君を、内にとまをせ(萬葉集卷十一旋頭歌)
最初の五字の訓はまだ決定して居ないが、踏んで鎭むる子の意に違ひなからう。さすれば、ふむしづめ子・ふみしづめ子など言ふよりは、ふみしづむ(しづむるの意。古い連體形)子と訓じてよからう。手玉を纒いた人が、新室の内の精靈を踏み鎭めて居る樣である。宮中の大殿祭は、一年に數囘あつて、神と天子とにへを共にし給ふ時の前提條件として、必、行はれることになつて居た。大殿祭によつて淨められた殿舍において、恆例の儀式が始まる訣である。だが、此祭り自體が「
奈良朝の文獻をすかして見る古代の新室のほかひは、必しも嚴格に、新築の建物を對象としては居ない樣である。其が、
定期のものとして、次に生じたのは、恐らく「刈り上げ祭り」であらう。此は農村としての生活が目だつて來てからの事と思ふ。春の初めにほかひせられた結果の現じたことに對する謝禮で、ねぎと言ふ用語例に入る行事である。ねぐと言ふ動詞の内容は、單に「
刈り上げのねぎには、新しく收めた作物を、まれびとと共に喰ふ。即、新甞を行ふのである。新甞は此秋のまつりの標準語であらう。さうして、宮廷では自家のまれびとを饗應することを此語で呼び、地方に對しては「
此等の宮廷竝びに官國幣の神社の儀式は、著しく神學成立後の神道の合理化を受けて居るから、矛盾・重複などを免れない。
ところが、近世また現今にすら傳承する民間の信仰では、大抵、田の行事のはじまる頃から終る時分まで、山の神が里におりて田の神となると考へて居る。此には誤信を交へては居るが、生産の守護者をば、時あつては外から臨む者とし、常在する精靈と見ない處から出て居る證據である。田の精靈に祈るよりは、まづまれびとにねぐことをしたのである。
一二 まれびとの遠來と群行の思想
既に話した奈良時代の文獻に見えた三種の新甞の夜の信仰は、田の神に對してゞなく、遠來のまれびとに對してなることは、明らかである。而も序に引いた武塔神の神話も、再、
白髮天皇の二年冬十一月、播磨の國司山部ノ連の先祖伊與 ノ來目部 ノ小楯 、赤石郡に於て、自ら新甞の供物を辨ず。適、縮見 ノ屯倉 ノ首 、新室の縱賞 して、夜を以て晝に繼ぐに會ふ。(顯宗紀)
とあるのは、新甞にも新室が附帶する證據である。允恭紀の七年冬十二月朔日、「新室に讌す」とあるのも、時から見れば新甞の新室である。「臨時のおとづれは、更に遲れて出來たものであらう。まれびとによつて、ほかひせられたいと思ふ心の起るべき時に、おとづれする事になる訣だ。建築は今日から見れば、臨時の事らしく見えるが、前に言うた通りで、新造の時は定まつてゐたのである。私の考へる所では、婚禮の時・酒を釀す時・病氣の時の三つが擧げられると思ふ。尚一つ、不意の來臨を加へて考へることが出來よう。
婚禮にまれびとの來ることは、由來不明の祓へ、竝びに其から出た「水かけ祝ひ」で察せられたであらう。我々の國の文獻は既に、蕃風を先進國に知られるを恥ぢることを知つた時代に出來たのである。だから、殊に婚禮も性欲に關した傳承は見ることが出來ない。唯我が國にも初夜權の行はれたことは事實であるらしい。讃岐三豐郡の海上にある伊吹島では、近年まで其事實があつた。又、三河南北設樂の山中では、結婚の初夜は、夫婦まぐことを禁ぜられて居る。花嫁はともおかたと稱する同伴のかいぞへ女と寢ね、「お初穗はえびす樣にあげる」のだと言ふ。沖繩本島では、花婿は式後直に家を去つて、其夜は歸らない。都會では、式に列した友人と共に遊廓に遊ぶと言ふが、此には意味がない。花嫁を
定例のまれびとの場合を見ると、家の巫女として殘つてゐる主婦・處女はまれびとの枕席に侍るのである。これが一夜づまといふ語の、正當な用語例である。沖繩で花婿が花嫁を
女の方でも、裳着以後も、眞の成女と認められるまでは、私にも公にも結婚は出來なかつた。女の側の破戒は、多くは男の力に由るのであるから、成女以前の女――後には月事のはじまり、又は、はぢひげの調ひを以てする――を犯した者は、穢れに觸れるのである。宗教的に見れば、重大な罪科である。我が國にも此例はあつて、今も尚信じて居る地方はある。村の神が巫女として、性生活に入る事を認め許した成女の資格をまだ持たない者が、未成女である。たとひ身は成熟してゐても。女の側にかゝつたたぶうを犯すからと言ふのではなく、男の方の資格に疵が出來るからである。神として(神人として)村の祭りに與る者は、成女即巫女として神にあふ資格ある者以外に觸れてはならないのである。成女式は、村の宗教の權威者の試みを經る事であつた。我が國古代では地方の神主(最高の神職)たる國造等が、とり行うた痕が見える(此は別に述べる)。而も其外にも、村の神人たる若者が、神としての資格で、此式を擧げることもあらう。
此第二次、或は本式の成女式が結婚の第一夜に行はれる事は、邑落生活の樣式が固定した爲であらう。成年式同樣に、きまりの年齡に達した女の、神主からの認められ樣は、結婚以前に受けて居たのを、原則とする事が出來よう。村の男の妻どひの形は、神の資格に於て、夜の闇の中に行はれた。顏も見せないで家々の娘とあふ形は、通ふ神の風が神話化した後迄も、承け繼がれた。だから、女の方の成年式は早く廢れて、痕跡を初夜權に殘し、村の繁殖の爲の身體の試驗・性教練としての合理的の意味を持つ事になつたのであらう。其以前に、祭りの夜のまれびとのひと夜づまの形で卒へられたのが、事實に於ける成女式であつた。
婚禮の夜は、新しい
其上に家の巫女として、處女又は主婦が對すると言ふまれびと迎への式がまじり合うて、新嬬屋の第一夜が、夫の「
時としては、既に巫女の生活をしてゐる村の娘が「神」の手を離れて「人間」の男にゆくと言ふ考へから、神になごりを惜む形式を行ひ、神の怒りを避けようとすることもある。此も後に言はうが、稍、遲れた世の解釋である。村の娘全體巫女であつた時代が過ぎてからのことであらう。故らに迎へる臨時のまれびとの他の例は「
此一轉化したものが、粥占である。旅行者の身の上を案ずる場合にも、此方法で問うた樣である。病氣には、其酒をくしのかみとして飮ませ、旅行者無事に歸つた時は此を酌んで賀した。さうした酒宴を酒ほかひと言ふのだと考へる人もある樣であるが、釀酒の初めに行はれる式を言ふ事は疑はれぬ。此式は占ひの方に傾いた爲に、後には神の意志は、象徴として表され、本體は來臨せぬものゝ樣に見えるが、
このみ酒 は、わがみ酒 ならず。酒 の神、常世にいます、石 立たす少名御神の、神壽 ぎ壽 ぎ狂ほし、豐壽 ぎ壽ぎ し、獻 り來しみ酒 ぞ。涸 ず飮 せ。ささ(仲哀記)
など言ふところから見ると、常世の神が來て、ほかひするものと信じ、其樣子を學んで、若者が刀を振りし、又は或種の神人が酒甕のりを踊りまはりしたものと言へると思ふ。一三 まつり
春のほかひに臨むのをまれびとのおとづれの第一次行事と見、秋の奉賽の
春祭りにも新室、旅行にも新室を作るのは、神を迎へる爲の祓へに中心を移して行うた爲で、後の形であらう。併し、春祭りの樣に、今年から人となる村の男・女兒の爲の成年式は行はない。まれびと優遇の爲に、家々の巫女なる處女・家刀自の侍ることはあるが、此は別である。一年間の農業、其他家の出來事に對する批判・解説などをしたのは、春のおとづれにするよりは、刈り上げ祭りの方が適切である。
私の考へを言ふと、刈り上げ祭りと、新しい年のほかひとは、元は接續して行はれてゐたのである。譬へば、大晦日と元日、十四日年越しと小正月、節分と立春と言つた關係で、前夜から翌朝までの間に、新甞とほかひとが引き續いて行はれた。まれびとは一度ぎりのおとづれで、一年の行事を果したものであらう。其が時期を異にして二度に行はれる樣になつてからは、更に限りなく岐れて、幾囘となく繰り返される樣になり、更にまれびとなる事が忘れられて、村の行事の若い衆として、きぢの儘に考へられ、とゞのつまりは、職業者をさへ出すことになつたのである。
おとづれの度數の殖えた理由は、常世神の内容の變化して來た爲なのは勿論だが、今一つ大きな原因は、村の行事を、家の上にも移すことになつたからである。村全體の爲に來り臨み、村人すべての前に示現したまれびとが、個々の
其に尠くとも今二つ、有力な原動力が考へられる。其は、祖先の一部分が曾て住みつき、或は經由して來た土地での農業暦である。それから、新古の來住漢人が固有して居た季節觀である。我々の祖先の有力な一部分は、南島から幾度となく渡つて來た事は疑ひがない。此種族が、わが中心民族の祖先と謂はないまでも――此に對しては、私は肯定説を持つてゐる。後に述べるであらう。――其等の南方種は、二度の秋の刈り上げをした。自然、種おろし・栽ゑつけには、暖いと暑いとの二度の春を持つてゐた。十一月の新甞祭がありながら、六月の
陰陽道に習合せられて殘つて、其が江戸期まで行はれたものと見られる「二度正月」の心理であらう。同時に、徳政や古代の
支那及び其影響を受けた民族の將來してゐた傳承では、めぐり神の畏怖は、まだ具體的にはなつて居ない。が、守護神の眼の屆かぬ季節交替期、所謂ゆきあひの頃を怖れる心持ちが、深く印象せられた。我が民族の中心種族の間にも、時の替り目に魂の
かうした變化法・吸收法を以て、外來の傳承に融合して行つたものである。だから、季節毎の畏怖を鎭魂又は祓除によつて、散却してゐた。勿論、上巳・端午には、支那本土でも、祓除の意味があつたのだが、我が國では、節分にも、七夕にも、盂蘭盆にも、八朔にも、玄猪にも、更に又、放生會にすらも、此側から出た痕跡が明らかに見えてゐる。
名は同化せられて行つて、
神に扮し、又、神を迎へる爲の人及び家屋の齋戒や祓除をするのが元であつた。神としての
季節のゆきあひ毎に祓除を行ふとゝもに、其附帶條件たるまれびとのおとづれを忘れなかつた。地方によつて遲速はあつても、まれびとの信仰は、ともかくも段々變化して來ずにはゐない。元々まれびとを祖先とする考へすら夙く失うて、ある地方では至上の神と考へ、又ある地方では、恐るべく、併し自分の村に對する好意は豫期することの出來る魔物とし、或は無力・孤獨な小人を神と思ひ、或は群行する神の一隊を聯想したりして來た。而も青蟲の類をすら、此神の姿とするものもあつた。行疫神をも、此神の中にこめて見る觀察も行はれて來た。
おとづれが頻繁になつて、村の公事なる祭りでなく、一家の私の祝福にも、常世神が臨む樣になる。殊に村君の
酒は旅行者の魂に對する占ひの爲に釀されたものだが、享樂の爲に用ゐる時にも、ほかひはせねばならぬ。壽詞は昔ながらで、
此通りまれびとは、必しも昔の樣に、常世の國から來ると考へられた者ばかりではなくなつた。幾種類ものまれびとがあり、又、神話化し、過去のことになつたのもあると共に、知らず識らずの間に、やつした神の姿を忘れて、唯の人としてのまれびとが出來た。又、
一四 とこよ
雁をとこよの鳥としたことは、海のあなたから時を定めて渡り來る鳥だからである。同じ意味に於て、更に神聖な
我が國の古俗ばかりから推しても世界的の白鳥處女傳説は、極めて明快に説明が出來るのは、此國に民間傳承の學問が、大いに興る素地を持つてゐるのだと言へようと思ふ。富みと齡の國なる常世は、元、海岸の村々で、てんでに考へて居た祖靈の駐屯所であつた。だから、定期にまれびととして來り臨む外に、常世浪に搖られつゝ、思ひがけない時に、其島から流れて、此岸に寄る小人神があるとせられたこと、のるまん人等の考へと一つ事である。更に少彦名の漂着を言ひ、大國主の許に海の彼方から波を照して奇魂・幸魂がより來つたと言ふのは、常世を魂の國と見たからである。
常世の國は、飛鳥の都の末頃には既に醇化して、多くの人々に考へられてゐた樣であるが、此には原住歸化漢人種の支那傳來の、海中仙山の幻影が重つて來て居る。藤原の都では、常世に蓬莱の要素を十分に持つて來て居る事が知れる。けれども、言語は時代の前後に拘らず、用語例の新舊を檢査して見る必要がある。新しい時代にも、土地と人格とによつては、古い意義を存してゐるのだ。
ほをりの命と浦島子との場合の常世は、
とにもかくにも最初は、死の常闇の國として畏怖せられて居たのが、其國の住者なる祖先及び眷屬の靈のみが、村の爲に好意を持つて、時あつて來臨するのだから、怖いが併し、感謝すべきおにの居る國といふことになつて、親しみを加へて來る。一方には畏しさの方面にのみ傾いて、すさまじい形相を具へた魔物の來臨する元の國と言ふ風に思うた處もある。にいるすくは其だ。奥羽地方のなもみの類の化け物、杵築のばんない等をはじめとして、おにといふ説の内容推移に從うて、初春のまれびとを惡鬼・羅刹の姿で表してゐる地方が多い。ところが、其等は年中の農作祝福に來るのであるから、佛説に導かれて變化した痕はありありと見える。節分の追儺に逐はれる鬼すら、やはり春の鬼としてのまれびとの姿を殘してゐる地方が段々ある。幸福は與へてくれるのだが、畏しいから早く去つて貰ひたいと古代人の考へたまれびと觀が、語意の展開と共に、之を逐ふ方に專らになつて來たからである。
代を經た祖先として、既に畏怖の念よりも、尊敬の方に傾いて來ると、男性・女性の祖先一統を代表する靈の姿が考へられて來る。其が祖先であると言ふ考へから、高年の翁・媼に想像せられたことが多い。だが、生殖力の壯んなことを望むところから、壯年のめをと神を思ひ浮べた例も多い。此夫婦神の樣式が神爭ひ・神
其他の場合のまれびとには、主神一柱の外は眷屬だけが隨うて、女性の神の來ないのが多かつたと思はれる。
まれびとが人間化する最初は、恐らく新室のほかひなどであらう。まれびととして迎へられた神なる人が、待遇は神にする樣式を改めなかつたけれど、段々人としての意識を主客共に持つ樣になつた。顯宗紀の
とこよが永久の齡・長壽などの用語例を持つたのは、語の方からも、祖先の靈と言ふ考への上に、よに
かうした展抒は、藤原朝以前からであつた。漢種の人々の影響が具體的になつて來ると、益、海中の三仙山の壽福の姿が、常世の國の上に重つて來て、常世・仙山を接近させる樣になつた。平安朝の初期に、「標の山」の上に仙山を作つて、夫婦神を据ゑる樣にさへなつたのは、此信仰の混淆から來たのだ。
更に常世の國に就て、日漢共通の、而も獨立發生の疑ひのないものは、神婚譚がどちらにもついてつて居ることである。漢・魏・晉・唐の間の民間説話の記録なる小説は、宮廷祕事でなければ、神仙と高貴の人との媾遇を主題とした物が多い。
更に「楚辭」にも屈原の物すら、稍、此傾向のあるものがあるが、其末流なる宋玉・登徒子等の作物は、張文成の艶話の前驅とも言ふべき自敍傳體の、仙女又は貴女との交渉を記したものが多い。文成の物になると、日本・三韓あたりの念書人の鑑賞に適切な、啓蒙的な筆致と構想とを備へてゐた。而も、夙に歡び迎へられた「遊仙窟」は、仙女との間の情痴を描寫したものである。書物よりの影響は勿論、日本の文人を動して、奈良朝に出入して、既に浦島子傳・柘枝傳に辿々しい模倣の筆つきで、我が國固有の神女・人間婚合の物語を書かしめた。而も筆を以てせぬ漢種の人々の神仙譚が、人々の耳に觸れた多くの機會を想像する事が出來る。さうした事が、如何に、常世と仙山とを分ち難いものにしたことであらう。其上、國語では、男女の交情・關係をも「よ」と言ふ音で表した。常世が戀愛の無何有郷と言ふ風にも考へられた。浦島子譚と同系と見えるほをりの命の物語も、常世の富みと戀ひとを述べて居る。「齡」の方は、此方にはなくて、前者の方に説いてゐる。其浦島子の幸福を逸した愚さを、齒痒く感じた萬葉人の詞は、すべての萬葉人の仰望をこめての歎息だつたのである。
海については、四天王寺の西門は、極樂淨土東門に向ふが故に、淨土往生疑ひなしと信じて、水に入つた鎌倉時代の人々や、南海にあると言ふ觀世音の樂土を想うて、扁舟に死ぬまでの身を乘せて、漕ぎ出した「普陀落渡海」も、皆、水葬の古風が他家の新解説を得たまでゞ、目ざす淨土は、やはり常世の形を變へたものに過ぎなかつたのである。
時勢から見ても、常世の國は忘られねばならなかつた。常世神に仕へた村人らは海との縁が尠くなつて行つた。平野から山地にまで這入つて了うては、まれびとの來る處は、自ら變つて來る。現在或は近世の神社行事の溯源的な研究の結果と、古代信仰の記録とを竝べて考へて行くと、一番單純になりきつたのは、海濱の村の生活の印象である。こゝまで行くと、我が國土の上に在つたことか、其とも主要な民族の移住以前の故土での事か、訣らなくなる部分が出て來る。此事については、別に論じたく思ふが、此だけの事は言はれる。
ともかくも、信仰を通じて見た此國土の上の生活が、かなり古くからであつたらしい事である。尠くとも、さうした生活を始めた村が、極めて古くあつた。其上、自發したものか、他の村からとり込んだかは二の次にして、相似た生活樣式の多くが、澤山な村々の上に極めての古代に見出される。平野に深く移つて後も、尚、祭りには、海から神の來る事を信じた村もある。だが多くは、段々形を變へて、山からとし、天からと考へる樣になる。元來、天上に樂土を考へた村々もあるにはあつたらしいのである。