一 田遊び・田ひ・田楽
日本には、田に関する演芸が、略三種類ある。第一は、田遊びである。此行事は、余程、古くから行はれたものと思ふ。次は田ひで、此も、奈良朝以前既にあつた。第三は、平安朝の末に見え出して、鎌倉に栄え、室町に復活した、田楽である。
田遊びは又、春田打ちとも言ふ。所によつては、此を暮れに行ふ事もあるが、多くは正月に行ふので、現在でも、新旧の正月に此を行ふ地方が、まだ方々にある。勿論現在行はれて居るものは、いろ/\形が変つて了うたものが多いが、東京附近では、赤塚村の諏訪神社で行はれるものが、一つの典型的な形と見られる。
田ひに就いては、古い文献もある。日本紀に、天智天皇の十年五月、群臣と西ノ小殿に宴して、此を御覧ぜられた事が出て居る。田ひの名が、ものゝ上に見えて居るのは、此が最初であるが、実際はもつと、古くからあつたに相違ない。
しかし、此田ひは、早く民間を離れて、宮廷のものになつて了うた様だ。少し後れては、雅楽寮の諸師の員数を定めた中に、田師幾人を置く、と規定した官符などが見られるほどで、其頃になつては、最早、民間の行事ではなくなつて了うて居たと思はれるが、やはり此は、元は五月の田植ゑに関したものが、いつか宮廷に採り入れられて、舞ひぶりで、変化させられたのだと思ふ。
田歌を、田ひの歌詞であつたと見るのには、問題がある様だが、此二者には、どうも関係があるらしい。其を見ると、三四月の候に行はれる、鎮花祭の歌と殆、同じものだ。尠くとも、田ひは、それの行はれた時期から見ても、五月の田植ゑから出た事が考へられる。それの雅楽化したものだ、と見ていゝ様だ。
二 田遊びと田楽との関係
田楽は、此後に出て来たので、平安朝の末頃から、田遊びと田楽とが、並行して行はれて居る。此問題では、親友・畏友達の間にも、賛成して貰へない様な点があるのであるが、栄華物語の中に、田遊びの事が出て居る。此も、解釈がいろ/\に岐れて居る。
またでむがくといひて、あやしき様なるつゞみ、こしにゆひつけて、笛ふき、佐々良といふ物つき、さま/″\の舞ひして、あやしの男ども歌うたひ、ゑひて心地よげにほこりて、十人ばかりあり云々。
とある。此でむがくは、鼓の名だとする説がある。尤、鼓にもあつて、其は田つゞみとも言ふが、此場合の文章では、此は鼓の事ではない。「田遊び」に並べて、「また田楽といつて、人員十人ばかりが、さま/″\の舞ひを舞うた」ので、「田遊び」と「田楽」とが、同時に並んで行はれた、一つの例と見られるのである。一口に言へば、五月田植ゑの際に行はれた、田遊び(
田楽はさうして、元の形からは変つたものが出来たのであるが、田遊びは、元のまゝのものが残つたのだ。前の栄華物語を見ても、
三 田遊びの意味
田遊びのあそぶは、古い用語例では、鎮魂を行ふ為の舞踊を言うたのだが、其後、意味が段々変つて、主としては、楽器を用ゐるものに就いて言ふ様になり、後には、野山に狩りをする事をまで、此語で言ふ様になつたが、元来は、鎮魂の為の舞踊を意味した語で、田遊びとは、とりも直さず、田の鎮魂術を行ふ事だつたのである。此考へは、恐らく間違ひがない、と今の自分は信じて居る。
田遊びは、余程古くからあつたが、古くは、此を行ふ時期はいつであつたか。普通には、五月田植ゑの時と云ふが、私は、さうは思はない。此式の行はれたのは、年の始めか、旧年の暮れに取り越して置いたのである。其が、其だけでは、効果が薄い様に考へて、さなへを植ゑる時に、もう一度此を行ふ様になつた。だから、元来は田植ゑの時にはなかつたものだ。此には、証拠がある。
春の初めに、其年の一年中の田の出来栄えを見せて置く。此が、此行事の起りである。其出来栄えは、誰が見せたか。神――遠来の神――であつたとも、其神の命令に従ふ土地の神であつたとも、或は、さうした遠来の神の命令があるので、為方なしに土地の精霊が、誓約のしるしに、此を行うて見せたのだとも考へられる。あちこちの地方で行はれて居るものを見ると、此が殆、混同して行はれて居る。しかし、大体に於いて、かういふ風にしろと見せて行くのと、私の方では、かういふ風に致しますとして見せるのと、此二つの様である。勿論、さう論理に合ふ様には、どこでだつて行うて居ない。
とにかく、この行事は、神或は神の資格を有するものによつて行はれる。その神は、尉と姥との形をして来るのが普通であるが、ところによつては、違うた形のものもある。東北地方では、妖怪の姿に変つて居る。大黒・夷の出る地方などもある。神楽では、この尉と姥とが、猿田彦と鈿女とに変つて居るが、この二人に変つたのには、訣がある。それは、此二人が擁き合ふところがあるからだ。此二人の役の主たるところは、其点にある。昔の人は、其を見て、ほがらかな喜びを感じたのだと思ふ。
四 田遊びに出る翁と媼と
歴史の上では、この尉と姥とに就いて、たつた一つだけ、似た例のあるのが、見られるやうである。近世まで跡を引いた、民間に伝承せられた民俗の方では、爺婆の出て来るのは、殆普通の事になつて居るのに、文献では、たつた一つしか例がないのだ。神武紀に書き残された、
田遊びの行事は、この翁媼の二人が、中心となつて行はれる。代かきの真似をする。雪をならして、松葉を植ゑる。処によつては、「もう穂が出た」などゝ、褒め言葉を言ふ。かうして刈り入れまでの所作の演ぜられるのがほんとうなのだが、其一部だけを行うても、効果はあると信じた。
此春田打ちは、田の精霊を鎮める為に行うた。其鎮魂術の舞踊が、後世に残り、五月、早苗を植ゑる時に、もう一度、これを行うた。もう一度翁が出て来て、踏み鎮めの舞ひを舞うた――或は、踊りを踊つた。翁に対して、
地方を歩いて見ると、田楽と称するものにも、いろ/\なものがある。円陣を作り、
田楽には、念仏の要素が、多分にある。踏歌の節会の姿も具へて居る。此が宗教化して、念仏宗の発達する、非常に大きなものになつて居るので、念仏宗の恍惚状態は、田楽と共通して居る。併し此には、長い説明を要するので、今は省く。
五 田遊び行事の種々
かまけわざ
田遊びには、いろ/\な行事が行はれるが、その中心になつて居るものは、翁・媼の所作である。それから、田畑の行事には、性的の聯想が出て来るので、
此さをとめに対しては、性的の行事を伴うて居るところが多い。地方によつては、此中の主なるものを、田の泥にまみれさすのがある。田の神への犠牲として、生埋めにした名残りだ、と言ふ説があるが、私はまだ、其は信じられないで居る。
さをとめの出ない処では、子守りが出る。初めの所作を略して、結果だけを見せるのだと考へると、解釈はつくと思ふ(赤塚の田遊びでは、よねぼと言ふのが持ち出される。男子の生殖器に、手足が出来たのだと信じられてゐる様だが、生殖器に、手足の出来るのは、をかしい。やはり子守りの形だと思ふ。勿論、此が生殖器に変化したには、理由はあるのだ)。
かけひ
田楽の方では、此らの行事が芸能化されて居る。狂言になつて行くので、其もとが、田遊びにあるのだ。此だけの事は、今も方々に残つて居るものから、断言出来る。実際に其証拠の残つて居る事は、書物の上に、たつた一箇所出て居る事よりも、確かだと言へる。書物は、総てのものを記録して居るわけではない。殊に、田舎のものなどは、見逃し勝ちである。
狂言になつて行くものを、かけひとなづける。
鬼と天狗と
先、田遊びには、鬼が出る。時には、此が同時に天狗である事もある。昔は、この二つは同じものだつたので、鬼なり天狗なりが出て来て、田遊びを助成するしぐさがあつたのだ。ところが、民間の習はしの情ないことには、鬼・天狗と言ふ名に囚はれて、却つて此を邪魔する奴だ、と解釈する様になつた為に、今では、此らのものを降伏させる儀式が生れて居る。勿論、さうなつて行つたには、神と精霊との争ひ、精霊の降伏といふ、古い事実が印象されて居る、と見られる点もある。其でも、地方によつては、鬼と呼びながら、此を大切にしてゐるところもある。結局は、鬼も天狗も、大切なものだつたので、尉と姥と、同じ形のものだつた。だから、田楽では、天狗が大切なものになつて居る。此から、高時の天狗舞ひの様な、修羅物が出来て来たのである。
獅子と駒と
次に、獅子と駒とが出る。此二者も、元は農村を護るものであつたのだが、今では両者とも、悪いもの・妨げをするものと解釈されて、降伏させる形になつて居るのが多い。
此は、
日本の芸能の上では、此が面白かつたと見えて、いろ/\なものに、其が採り入れられて居る。鹿と獅子との合同した跡は、極めてはつきりして居る。決して突然に、あんなものが出来た訣ではない。勿論、此鹿の謝罪誓約が、獅子舞ひの全部ではない。鹿の降伏する所作を持つた舞ひの上に、獅子舞ひが入つて来たとも見られる。とにかく、古く日本の芸能に、鹿の謝る所作を持つたものゝあつた事だけは、万葉集を見ても訣る。万葉集には、鹿の謝る歌が、長歌に一首、旋頭歌に一首と二首も、それがある。
駒は、獅子に対する
牛の代かき
次に牛が出る。此は、田の神――水の神と同じもの――の
神と精霊との問答
田遊びの行事は、此らのものが、掛け合ひの形をとつて行はれるのが普通であるが、此掛け合ひの代表的なものと見られ、特別なものと見られるのは、尉と姥の掛け合ひである。ところによつては、媼が出ないで、翁だけが、二人或は三人出るところもある。此は、一人は
此神と精霊との間に、神授・誓約の問答のあるのが、古い姿であつたと思ふが、今は、いろ/\に変つて居る。しかし結局、田の害物が除かれて、物成りのよくなる約束が、出来る事になるのである。
群行・練道
更に此行事で、注意しなければならぬ事の一つは、此をやる役者が、其附属して居る家は勿論、寺や社へ、其土地を褒め、田畑を褒めに、寺や社へ練り込む事である。田楽では、此が中門口となつて残つたのだが、此は、日本の宗教・芸術の発達の上では、見逃す事の出来ない、大きなものゝ一つである。
此は、服従の位置にあるものゝ、大きな為事になつて居た。此服従者は、寺の場合には、羅刹神――仏教擁護の神――と言はれて居る。大きな神社には、必附随して居るので、麻陀羅神などゝも言うた。
赤塚の諏訪の社は、相当に古い社だと思ふ。此所では、此服従者が、十羅刹女神と謂はれて居る。だから、世間からは、こゝの田遊びを、十羅刹女神の春祭りだ、と考へられて居た様だ。恐らく此行事が、十羅刹女神の祠から、練り出す形で行はれたのだらうと思ふ。勿論、今は忘れられてゐる。だが其でも、此祠の前で、天狗の吠える式があるらしい。日本の神道では、神の叱りと言ふものが、大切な事になつて居た。古い信仰の印象が、さうした形で残つたのだと思ふ。
田遊びは、初春の行事であつたのが、元の形である。其が、五月に繰り返され、更に七月にも行はれる様になつて、愈盛んになつた。五月田植ゑの時に移し行はれたのは、如何にも、実感に適するからであつた。七月に行はれる様になつたのは、稲の穂の出る時であり、また、不安の伴ふ時期であつたからだと思ふ。要するに初春の行事だつた、春田打ちの延長と見られるのである。