古代生活に見えた恋愛

折口信夫




     一

今日伺ひまして、お話を聴かして頂かうと思ひました処が、かへつて私がお話をせなければならない事になりました。恋愛の話は、只今の私には、最不似合な話であります。しかし、歴史的な話でもといふので、何かさせていたゞきます。
此恋愛といふものは、段々進化して、知識的になつて来て居りまして、大分、そこに遊びが這入つて来て居る。或は、知識的に誤解が這入つて来て居る。若い時分の経験を顧みますと、男と女とで気持が違ふ、感じが違ふといふ事を、良く聞かされて居りますが、恋愛では殊にそれが多い様であります。吾々の気持から考へて見ますと、どうも男と女とは別々の触覚を持つて居つて、別々に違つた感じ方をして居るといふ事がありませう。誤解――どうも恋愛の感じ方といふものが男と女と違つたものがあるやうに存じます。――其出発点から、知識的の遊びが入り込んで来て居るのだらうと思ひますが、さういふ知識的の遊びを知らない時代の、日本人の昔の恋愛のお話をして見ます。此はまことに私の身分相応の事と思ひますから……。
恋愛そのものが、まだ出来ない時代かも知れませぬ。純粋な性欲時代かも知れませぬ。けれどもそこは、皆さんのお考へにお委せすると致しまして、……古代日本人の恋愛の歌と称するものは、ずゐぶん沢山伝はり残つて居ります。古事記・日本紀あたりから、万葉集に到るまで、其から其後にも沢山伝はり残つて居ります。併し、さういふ恋愛の歌といふものは、多くはほんとうの恋愛を歌つたり、或は恋愛の実感を以て歌つたものではないのであります。又さういふ生活があつて、其生活の上に成り立つて来た一種の芸術でもない。むしろ、芸術にならうとする空想であります。其空想で実感を持たしたものであります。だから吾々が、恋愛の歌だと思つて居るものに、存外ほんとうのものでない、其をなぞつて、内容を持つて来たといふやうなものが、沢山あるやうに思ひます。日本の古代の恋愛――古い時代の万葉集、或は其よりもつと古い日本紀に載つてゐる恋愛の歌といふものは、多くはほんとうの恋愛の歌ではありませぬ。かう申しますと、万葉集愛好者等が非常に失望するかも知れませぬが、事実は、ほんとうの恋愛の歌ではないのです。其に就て話をして見たいと思ひます。
前述の様に、多くの人々は、其らを一種の恋愛の実感として見たのですが、実は皆一つの空想、いや空想といふより、寧、生活から生れて来た一つの形式に過ぎないのです。たとへて見ますれば、三角関係といふ様なものは、沢山ある。万葉にも沢山あります。或は二人の男が、一人の処女を争ふ。或は多くの男が一人の処女を争ふ。或は二人の処女が一人の男を争つたらしい歌もあります。また沢山の男の争ひに堪へられないで、死んでしまふ処女もあります。併し、中には、下総の真間マヽ手児奈テコナといふ様な女がありますが、――あの辺はもと/\さう言ふ女が多かつたと見えまして、只今も其話が残つて居りますが――無限に男の要求を受け容れて居る。さういふ様な女もあります。併し、後に伝はつて、皆の感激を誘うたのは、男の競争に堪へられないで死んだ処女で、大抵は純潔な処女の生活を遂げて居ります。そこで、昔の日本の処女は、そんな風な純潔な女が多かつた様に、昔から信じられて居りますが、此は実は、或種類の処女の生活を現したゞけに過ぎないのであります。
一体、日本の処女の中で、歴史的に後世に残る処女といふものは、たつた一つしかない。其女といふのは神に仕へて居る処女だけであります。昔から叙事詩に伝へられて残つて居る処女といふものは、皆神に仕へた女だけであります。今で言へば巫女といふものであります。其巫女といふものは、男に会はないのが原則であります。併し、日本にも処女には三種類ありまして、第一の処女は私共が考へてゐるやうに、全く男を知らない女、第二の処女は夫を過去に持つた事はあるが、現在は持つて居ないで、処女の生活をして居る。つまり寡婦です。それからもう一つがあります。其は臨時の処女なのです。新約聖書を読みましても訣ります様に、家庭の母親なるまりあが処女の生活をすると言ふ事があります。或時期だけ夫を近寄らせないと言ふ事、其だけでも処女と言はれるのであります。つまり、全然男を知らない処女と、過去に男を持つたけれども、現在は処女の生活をして居るものと、それからもう一つは、ある時期だけ処女の生活を保つて居るものと、此三種類であります。

     二

一体、神に仕へる女といふのは、皆「神の嫁」になります。「神の嫁」といふ形で、神に会うて、神のお告げを聴き出すのであります。だから神の妻になる資格がなければならない。即、処女でなければならない。人妻であつてはならない。そこで第三類の処女と言ふものが出来てくる。人妻であつても、ある時期だけ処女の生活をする。さういふ処女の生活が、吾々の祖先の頭には、深く這入つて居たのであります。
譬へば、景行天皇或は雄略天皇などいふお方の時には、かういふ事が多かつた。――これは景行天皇・雄略天皇などいふ方々は、非常に有力な天子であつて、非常に有力な叙事詩がたま/\沢山後世に残つたといふ事に過ぎないのでありますが、――其天子が処女に接せられた話をして見ませう。景行天皇が日本武尊のお母であられます播磨の印南イナミといふ所の印南大郎女といふ御方に迫られた時に、姫は逃げ廻つた。逃げ廻つて印南イナミ島といふ島に逃げ込んだ。「否む」といふ言葉が「隠れる」といふ意味であるのは、其印南イナミ島に隠れて居つたからといふ伝説がある位であります。其を犬が其島の方を向いて吠えたので、そこへ迎へに行つて、始めて自分のものにせられたといふ事があります。此は昔の女は男を嫌つて、逃げ廻つたものだといふ風に、解釈されて居ります。それから又同じ景行天皇が美濃の国の姫・オト姫、其姫を手に入れようとせられたが、兄姫は弟姫を自分の代りとして召されるやうにと言うて、弟姫をさし上げた。かういふ様に、其に似た話が沢山ありますが、此は、処女が男を嫌つたのではない。たゞ、古事記・日本紀に書かれた解釈が違つて居るのです。実は其らの処女は、みな神に仕へて居る処女なのです。
先に申しました通り、或国、或は或村の家の歴史なり、叙事詩なりに残されてゐる其国・其村の頭の家の処女の場合は、皆吾々の考へる普通の処女の様なものではなく、大抵皆神に仕へて居る処女、即巫女である。そして、其処女が神に仕へる力を利用して、其処女の兄なり、親なりが、国を治め、村を治めて居る。此が国を治める原則である。処女が神に仕へて、其兄なり、父なり、叔父なりが、神から引き出した知識を以て、此国を治めて居るといふのが、日本の昔の政治の一般的な遣り方であります。其でなければ、又国々・村々の者が承知をしないのであります。さういふ処女の場合ですから、天子に許さないで、夫なる神の為に逃げ廻つたのです。かういふ風で、昔の処女はなか/\男に許さなかつたといふ形になつて居る。此例は幾らも伝はつて居ります。それは叙事詩に伝はる処女で、多数の人の争ひに依つて、遂に其に堪へられないで死ぬ。さういふ生活をする処女があつた。其が奈良朝の初め、或はもう少し前から、さういふ生活は段々記憶から薄らいで参りまして、非常に美しい哀れな物語といふ風に感じる様になり、皆其に憧れたのであります。
現在でも、沖縄へ行つて見ますと、さういふ事があります。結婚の盃を済ますと同時に、花嫁は其家を逃げ出してしまふ所がある。此外又沖縄一帯の風習では、結婚の最初の晩は、新しい夫と新しい妻とは、決して室を一つにしませぬ。女房は其処に泊つて居るが、男は自分の友達を連れて花街へ行つてしまふ。是は男が男女の結婚方法を知らないといけないから、第一夜は花街へ行つて習つて来るのだといふ解釈をして居りますが、非常に間違つた解釈であります。
それから沖縄の首里の町から二里程離れた久高クタカといふ島で、大正四年頃まで行はれて居りましたが、――非常に不便だから、其島中申し合せて、やめる事にしたのですが、――さうでなければ未だ続けて居つたでせう、――其島では、嫁さんが最初亭主の家へ行く時、非常に親娘の名残が惜しいといふ様子をして、さて亭主の家へ行つて盃ごとをする。其盃が済むと同時に、女房は家を抜け出して、岩の穴とか、森の中の様な所とか、或は他人の家へ隠れてしまふ。昼は構はないが、夜捕へられるといけないからです。だから、昼は亭主の家へ行つてゐるが、日暮れから明け方までの間は、亭主の目に触れない様な所へ行つてしまふ。亭主や友達が手分けして探しに行く。其島は、東西五町位、南北七八町位の小さな島ですから、直ぐ訣りさうでありますが、なかなか訣らない。其は女でなければ行けない、這入れない所がある。神社の森の中は、男には這入れない。さういふ中へ這入られゝば、見えて居つても駄目です。だから其間亭主はまるでお預けみたいな状態にある。
この島は漁業が盛んで、男はみな台湾とか、或はもつと遠くまで漁業に出かけます。其為に一年の内三四个月しか島には居ない。其間に結婚をしなければならぬ。其時期に女房が逃げ廻る。結婚して最初の、一週間なり二週間なり、女房が逃げて居ると、非常にはかない事になる。其で、大正四年まで続いて居つたが、如何にも可愛さうだといふので、村中申し合せて、廃めようといふ事になつて、今日はさういふ事がなくなりましたが、以前には花嫁が逃げてから早く捕へられると其村では殊に貞操観がやかましくて、結婚以前に会つて居つたといふ事になつて、非常に悪く言はれ、爪弾きをせられる。だから、夜行きたくつても、出来るだけ逃げ廻るのです。昼は平気で水を汲みに来たりして居つても、日暮れ方から隠れてしまふ。さうして朝、ほの暗いうちに、水を汲みに出て来たりして、捕つたといふやうな話もあります。今日一番長く隠れたといふ記録になつて居ります女が、まだ生きて居りまして、其女は七十五日隠れて居つた。つまり一番長く隠れて居つた女が島の最高の巫女なのであります。
沖縄の島では、村長も、巡査も、勢力がなく、さういふ巫女が一番勢力がある。其女の言葉で、下々が動いて居る。其は他人の想像では訣らぬ所です。うつかりすると、どんな目に会はされるか訣らぬ。其巫女のいふ通りに皆が動くので、下手な事を言へば殺されるかも知れないのであります。そして殺されゝば、痕跡も止めないやうな事になつてしまふのです。全体さういふ女の夫になるものは、神の呪ひに依つて、早く死ぬといふので、巫女の夫になるといふ事は非常に嫌ひます。其外、寡婦の巫女、其から亭主を持ちながら祭りの時だけ処女の生活をする巫女と、かう三つあるのです。

     三

日本内地でも奈良朝、或は其以前にさういふ事があつたと、断言出来る程の証拠があります。さういふ生活が、皆ほんとうに美しい恋物語になつて、後世に伝はつたのです。現在の吾々のみならず、既に万葉時代の人ですら、其がほんとうの事実で、さういふ生活を祖先がして居つたと信じて居たのです。併しそれは、神に仕へる処女の場合だけで、そして其処女は何もほんとうの貞操、純粋の人間としての貞操の観念から起る処女といふのでなく、神に対しての物忌みから出て居ると言ふ事を考へなければならぬ。
其にもう一つは、譬へば……深入りする様でありますが、女の人が元服をする。男の人と同じく元服をする。男の元服は、近世では普通剃刀を入れて、前髪を剃る事でありましたが、女にも元服はありました。嫁入らないでも、鉄漿をつける風もありました。昔は男でも、女でも、元服の式を二段に受ける、即二度する。近世は、子供から青年になる時一度といふ事に大抵なつて居りましたが、昔は村や町の若者仲間に入る場合と、其からもう一つ、もつと小さい時のがあつて、それが古風でした。女にも、其があります。女は普通七八つで、一度裳着といふ式をして、裳を着ける。男では其を袴着といひました。男も女も其までは、着物に隠れた腰の部分は、掩ふものが許されなかつたのです。其が裳をつけると娘の資格を認められたしるしになるのです。男になるのも、下袴を着けて、掩ふべき処を蓋ふ。其から次に、自由に異性に会ふ資格を得る成年式が来るのです。此方が世に謂ふ元服なのです。此第二回目の元服は、結婚と同じやうな……結婚の為にする式と云つても殆どさし支へないのです。
女の人が鉄漿をつけるのは、嫁入りしてからと考へて居りますけれども、此鉄漿といふものは、女になつた事を外部に現すだけのことであつたと思はれます。だから其済まない前は、性の方面は解放せられて居ませんでした。只今でも、地方によつては、結婚以前の者、或は成年式を経ぬ人間と、結婚以後、或は一人前の男になつた後の者とでは、其扱ひ方が別なのです。壱岐の島へ行つて見ますと、未婚の男が亡くなると、幾つになつて居ても、首に頭陀づだ袋を下げて、墓へ送る。さうして途々摘んだ花を、其袋に入れてくれる。懐しいあはれな風であります。この二段の元服の式が、後世大抵一回きりになつてしまつた様ですが、今も尚俤だけは残して居る処もあります。平安朝までは、其でもやや明らかに、二度の元服式があつた様に見えます。精通期以前の女に、男が触れるとけがれであるとして、信仰的に忌まれたものでした。只今でも、漁師などには信じて居る者があるやうです。此は宗教上の罪悪と見做すのが、ほんとうなのです。精通期を越した女には、漠然とながら、男に会ふ事を黙認してゐたのが、近世までの久しい風習でありました。此からは村の娘といふ共有観念を、村の成年式をあげた若い男が持つ様になるのです。
で、愈きまつた亭主を有つ場合は、婚姻の試みを受けました。初夜に処女に会ふのは、神のする神聖な行事でありました。実際は神が来るのではなくて、神事に与つて居る者が試みる。つまり初夜権といふので、日本でも奈良朝以前には、国々村々の神主といふ者は、其権利を持つて居つた痕跡がある。其が今でも残つて居る。瀬戸内海のある島には、最近まで其風があつた様です。此は、結婚の資格があるかどうかを試すのだといひますが、決してさういふ訣ではない。又さうした権利が、長老及び或種の宗教家にあると考へるだけでは、足りませぬ。村々の女は一度正式に神の嫁になつて来なければ、村人の妻になれない。一度神の嫁――神の巫女になつて来なければならぬといふ信仰が根本にあるのです。それの済んだ者は、自由に正式の結婚が出来た。其が済まなければ、正式の夫をもつ事が出来なかつた。
ところが後世は、其までうつちやつて置いて、愈結婚といふ時に、始めての夜に、処女の所へ来る者があるのです。其は神の名に於て、ある神人が来る。其は神事に与つて居る者が、神様になつて来る。我が国でも、中部の山の多い地方へ行きますと、其来られる神をえびす様として、空想して居る所があります。沖縄地方にも其があります。夫は遊所へ出かけてしまつて、縁女は一人初夜の家にとまる。さういふ証拠は沢山あります。
人の妻になる以前は、処女はどうであるか。厳重に貞操を守つて居つたかといふと、此は守つて居つたとも言はれ、守つて居らなかつたとも言へる。近頃まで村の娘といふものは、村中の若い衆の共有だといふ様に考へて居りました。そして外の村の者が侵入すると、ひどい目に遭はせる。処女のある家へは、自由に泊りに行き、後には隠れ忍んで行く。此は半分大びらで、夜は男が来るのを許さなければならなかつたのです。此は維新前、或は其後も田舎では続いて居たやうです。
其がどこから来たかといふと、此は神祭りの時に、村の神に扮装する男が、村の処女の家に通ふ。即、神が村の家々を訪問する。その時は、家々の男は皆出払つて、処女或は主婦が残つて神様を待つて居る。さうして神が来ると接待する。つまり臨時の巫女として、神の嫁の資格であしらふ。「一夜妻ヒトヨヅマ」といふのが、其です。決して遊女を表す古語ではなかつたのです。此は語学者が間違へて来たのも無理はありません。一夜だけ神の臨時の杖代ツヱシロとなる訣なのです。
村の若い男――一定の年齢の期間にある男、前に言つた元服をした男は、神に扮装する義務と、権利とがあつた訣なのです。一年の間に其神が、村の家々に来り臨む日がある。其日に神に姿をやつして、村の家々へ行く。さうすると巫女なる女が残つて居て、即まれびとを接待して、おろそかにせないのです。つまり神が其家へ来られたのを饗応する。
ところが段々其意味が忘れられて来まして、唯の若い衆である所の男が――神の資格を持たない平生の夜にも、――処女のある家には、通ふといふ風習に変つて参りました。だから、単なる村の人口をふやさうなどゝいふ考へから出た交訪ではなくて、厳粛な宗教的の意味から出発してゐたのです。若い衆は神の使ひ人、同時にある時期には、きびしい物忌みをして神になるものといふ信仰から出た制度であります。其で、神が来臨する祭りの夜は、男は皆外へ出払つて居つて、巫女たるべき女が残つて居る。さうした家々へ神人が行く。饗応をも受ければ、床も共にして、夜の明けぬ前に戻る。さうしてしも其晩子がヤドると、言ふまでもなく神の子として、育てたのです。決して人間の胤と考へない。

     四

さうした形の外に、まだ神秘な一夜の神婚の場所がありました。神祭りの晩には、無制限に貞操が解放せられまして、娘は勿論、女房でも知らぬ男に会ふ事を黙認してゐる地方がありましたし、まだ、風習のなくなりきらない村もあるやうです。其は蛮風といへば蛮風ですが、其だけの歴史的基礎があるのです。古代信仰の変形が存してゐる訣なのです。結婚以前に、それ/″\神が処女の処に来る風が、初夜権以前に重つて来た次第です。其で、もう一度正式に神の試みがある様になつたものと思はれます。其で結婚の資格が出来るのが、原則だつた様です。此事が解せられぬと、古事記・日本紀、或は万葉集・風土記なんかをお読みになつても、訣らぬ処や、意義浅く看て過ぎる処が多いのです。
そや。このオソぶる。新嘗ニフナミに、我がりて、イハふ此戸を(万葉集巻十四)
万葉集の此歌は、女房が、巫女をする場合です。
にほとりの 葛飾早稲カツシカワセニヘすとも、カナしきを、に立てめやも(万葉集巻十四)
それから又斯ういふ風な歌は、皆前に言つた家族の出払つて、其後へ神が這入つて来ることを詠んだもので、此は非常に厳粛な宗教的年中行事でありまして、さうした夜に神の外に、男の忍んで来るといふ筈がない。併し、其習慣が少し緩んで来て、一部は記憶の領分に入つて来た頃に出来た民謡と言ふ方がほんとうです。幾分は現に行はれても居る事実で、其事実と空想を捏ち合せて、一種の妙な交錯した意味を感じた。其が、かうした、やゝ劇的な興味を含む民謡を生んだのでせう。
夫に嫁いだ上の貞操といふ事は、別問題です。縁づかぬ前の貞操と嫁入つて後の貞操とでは、根本観念が変つて居たのです。其が混乱を起すといふのは、神の為に臨時の嫁(一夜妻)になつた行事から、考へ方がこがらがつて、古代の貞操観念或は、今も庶民の夫婦関係といふ事が、いろ/\複雑になつて来たのです。此点では、尚色々とお話がありますが、際限がありませぬ。私の話は恋愛問題でなくて、恋愛前の問題に止りました訣です。
やつぱり一つ申し添へぬと、結末のつかぬ様に考へます。其は初めに申しました様に、万葉集に現れた恋愛の歌は、ことごとく恋愛の実感から叫ばれた作物と思うて来たのは、間違ひであります。此事を言ひたいのです。名高い物になつた恋愛の歌といふものは、応用的のもので、実感を湛へたものでない。
歌垣の話ですが、最後にあげました村人が神の庭に集まる神祭りの場合、村中の男と女とが、極めて放恣な――後世から見て――夜の闇に奔馳する。さうした事は、神の資格に於て、村の男が、神の巫女なる村の女に行き触れて居たのです。祭り場の空気が、そこまで有頂天に人々をさせる迄の間は、男方と女方とに立ち場処を分けて、歌のかけあひをする。男方から謡ひ出した即興歌に対して、女方からあとをつけるといふ儀式がある。此を歌垣と言ひ、方言ではかゞひをづめなどと言うたらしい。男と女のかけあひだから、性的な問答が中心になる。而も相手を言ひ伏せる様な文句が闘はされるのです。性愛の相手を求めるのでなく、ことば争ひがかうした儀式の目的なのです。だから、其間にとりかはされる恋愛問答の歌は、相手の足をすくはうとか、凌駕しようとかいふ点に、焦点を据ゑます。さうして発達した――かういふ場合が短歌を伸びさせたのです――恋愛の歌は、大抵内容のない誇張した抒情詩になる。語の上の争ひに陥る。平安朝になつても、大抵恋愛問答といふものは、さういふやうな詞の上だけで、人をたらすやうなものになつて行つた。
日本の初期の恋歌は、恋愛の実感から出て居るものではない。神の祭りの夜のかけあひ文句――いはゞ揚げ足取りのやうなもの――から出ました。それだから、其恋愛に、真実味といふものがない。あるのは無意識の性の焔と、機智の閃きとです。さうして出来た恋歌の、稍醇化せられかけた万葉集の牧歌的気分に充ちた半成の抒情詩を、人は誤解して居ます。万葉人はすべて、命がけで恋愛生活に没入して行つたといふ風に考へるのです。唯強い性の自在を欲する潜熱に、古代人の生活の激しさが見えるだけです。
けば、カヾる我が手を。今宵もか、殿トノ若子ワクゴが 取りてナゲかむ(万葉集巻十四)
奴隷の女(婢)の悲痛な恋愛の様にとられて、感激させられ易い歌です。ただし、かういふ歌は、作られた場合と、其が伝誦せられた道筋がわからない。さう言ふ歌が沢山ある。其情熱は、けれども、劇的のものであり、背景をなす生活状態に、戯曲風の感動を導くものです。かう言ふ気分を民謡に謡ひ出したといふのは、古代人の粗野な、残忍な性愛の上に、段々醇化が行はれて来た証拠なのです。
其には歌垣のかけあひといふ事が働いて居る。つまりさうした処から日本人の恋愛観は進化して来た。歌垣の秀歌が段々世間にうたひ広められて、人々の頭へしみ込んで行つた。そこで、日本人にほんとうの恋愛といふものが生れてくる。奈良朝では、末期に至つて、純粋な恋愛詩がいくらか出て来たに過ぎないと言ふ外ありませぬ。其にも、段々議論がありますが、要するに万葉集の恋愛歌を純なものとして考へて居るのは、間違ひである。遊女の作つた歌みたやうな気持ちがある。
あしびきの山のしづくに、妹待つと、我立ち濡れぬ。山の雫に(大津皇子――万葉集巻二)
我を待つと、君が濡れけむ あしびきの山の雫にならましものを(石川郎女――万葉集巻二)
かういふ唱和の歌を見ますと、後の女の歌は、如何にも人をたらす様な、篤さの尠い物だと感ぜられるでせう。かういふ様に万葉集の恋歌には、劇的な、叙事的なものが多くて、此時代は決して純粋な抒情詩の時代だとは言へませぬ。名高い恋愛の歌は、多く男女のかけあひ趣味を離れてゐないものです。さうして平安朝になるまでは、動機から見て、純粋な恋愛詩は認めにくいのです。其平安朝ですらも、遊戯化したものが、多過ぎる程多くあります。併し、さういふ道を通つた日本の恋愛詩が、段々進んで行つて、其後の人々(我々の祖先)に、物の哀れを、ほんとうにしみ/″\と思ひ知らせた。さうして、村々のあさましい惨虐な生活が、段々浄められて行つたのでした。





底本:「折口信夫全集 1」中央公論社
   1995(平成7)年2月10日初版発行
底本の親本:「『古代研究』第二部 国文学篇」大岡山書店
   1929(昭和4)年4月25日発行
初出:「人生創造 第二五号」
   1926(大正15)年6月
※底本の題名の下に書かれている「大正十五年六月「人生創造」第二五号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年8月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について