一
私の此短い論文は、日本人の自然美観の発生から、ある固定を示す時期までを、とり扱ふのであるから、自然同行の諸前輩の文章の序説とも、概論ともなる順序である。其等大方の中には、全く私と考へ方を異にしてゐられる向きもあることは、書かない前から知れて居る。其だけ、此話は私に即して居る。私一人でまだ他人の異見を聴いてもない考へなのである。が、是非私の考へ方の様に、文学意識なり、民族精神の展開の順序なりを置き換へて貰はねば、訣らない部分が、古代は勿論、近代の自然美観のうへにも出て来ることゝ信じる。
国民性を論ずる人が、発生的の見地に立たない為、人の世はじまつてから直ぐに、今のまゝの国民性が出来あがつてゐた、と思はれて居る。江戸の犬儒や、鍛錬主義者の合理化を経た士道・武士道が、そつくり戦国どころか、源平頃の武家にも、其精神の内容として見ることが出来る、といふ風に思はれ勝ちである。もつと溯つて「額に矢は立つとも
これは、研究法はよくても、態度に間違ひがあるからだ。日本の唯今までの辞書や註釈書が、どの時代に通じても数個の意義に共通し、其用語例の間を浮動して居るもの、と見て居るやり口に酷似して居る。此言語解釈法が根柢から
二
畝傍山 昼は雲と
仁徳の菘菜の御製の方は、叙景の部分は僅かであるが、此方は自然に興味を持つた初期のものと見てもよい程、単純で、印象を強く出して居る。此も寧、抒情詩の一部であるが、畝傍山の歌よりは却つて古いものと思はれる。だが此とて、必しも仁徳御宇のものともきまらない。此位の自然観は、大体記録の順序通りに、此天皇の頃の物と見てもよろしい様だが、仁徳天皇に関係した歌謡は、全体として雄略・顕宗朝頃のものよりも、表現にも、形にも、理会程度からも、新しみを持つて居ると見られる。
後飛鳥期の歌で見ると、
山川に鴛鴦 二つ居て 並 ひよく 並 へる妹を 誰か率行 けむ(野中川原史満――日本紀)
新漢 なる小丘 が傍 に雲だにも 著 くし彷彿 ば、何か嘆かむ(斉明天皇――同)
飛鳥川 みなぎらひつゝ行く水の 間もなくも思ほゆるかも(同)
山の端 に鴨群 騒ぎ行くなれど、我は寂 しゑ。君にしあらねば(同――万葉巻四)
其外、此時代の歌と伝へる物を日本紀で見ると、飛鳥川 みなぎらひつゝ行く水の 間もなくも思ほゆるかも(同)
山の
はろ/″\に琴ぞ聞ゆる。島の藪原。
をち方のあは野 の雉子 とよもさず……
小林 に我を引入 れて姦 し人の面も知らず……(巫女の諷謡)
被射鹿 をつなぐ川辺の若草の……(斉明天皇)
と言ふやうに、極めて部分的ではあるが、単なる口拍子に乗つた連ね文句ではなく、外界を掴む客観力の確かさがある。だから主題に入つても、其修飾部分の効果が、深く気分にはたらきかけるだけの鮮明と、斬新とがある。をち方のあは
かうした序歌の断篇の中、始終くり返される様になつた流行文句は、皆さう言ふ印象深い客観描写の物であつた。「いゆしゝを」の句は、万葉にも使はれて居る。「をちかたの」はある地物の隔てを越して、向うを指す句で、景色が目に浮くところから、奈良朝に入つても「をちかたの……(地名)」と言ふ風に、融通自在に用ゐられる民謡の常用句であつた。又、万葉に繰り返される「わがせこを我が……松原……」なども、抒情的で居て、印象のきはやかさのある為であつた。
後飛鳥期(舒明――天武)の歌を疑へば、万葉の第一のめどなる柿本人麻呂の歌さへ信じる事が出来なくなる。万葉集にも、此時代をば、大体に於て巻頭にすゑる傾向のあるのは、記・紀記載の末に接して、ある確実さを感じて居たからであらう。
仁徳・雄略朝の歌などを、不調和に冒頭に据ゑたのは、古典・古歌集としての権威を感じさせる為であつたらう。だから、内容から言へば、後飛鳥期を以て、時代の起しとしたものと見てよい。
大人物・大事件を伝へる叙事詩から、脱落した歌と思はれるものは、大体に理解し易い文脈と、発想法とを持つて居る。
さすれば外的には、叙景の手法が既に発生して居り、内的には、抒情詩にも客観性がほの見えて来た理由が訣る。「小林に」などの、情景のかつきりして居るのも、其為である。
三
江戸の浄瑠璃類の初期には、必須条件として、一曲の中に必一場は欠かれなかつた――時としては二場・三場すら含むものもあつた――道行き
私は此を、遠処の神の、時を定めて、邑落の生活を見舞うた古代の神事の神群行の形式が残つて、演劇にも、叙事詩にも、旅行者の風姿をうつす風が固定したものと考へて居る。記・紀の歌謡を見ても、道行きぶりの文章の極めて多いのは、神事に絡んで発達した為で、人間の時代を語る物も、道行きぶりが到る処に顔を出す事になつたのである。
だが今一方に、発想法の上から来る理由がある。其は、古代の律文が予め計画を以て発想せられるのでなく、行き当りばつたりに語をつけて、ある長さの文章をはこぶうちに、気分が統一し、主題に到着すると言つた態度のものばかりであつた事から起る。目のあたりにあるものは、或感覚に触れるものからまづ語を起して、決して予期を以てする表現ではなかつたのである。
神風の 伊勢の海の大石 に 這ひ廻 ろふ細螺 の い這 ひ廻 り、伐ちてしやまむ(神武天皇――記)
主題の「伐ちてしやまむ」に達する為に、修辞効果を予想して、
みつみつし久米の子等が 粟生 には韮 ひと茎 。其根 がもと 其根芽 つなぎて、伐ちてしやまむ(神武天皇――記)
みつみつし久米の子等が 垣下に植ゑし薑 。口ひゞく 我は忘れじ。伐ちてしやまむ(同)
此歌なども、久米部の民の家の矚目を順々に、みつみつし久米の子等が 垣下に植ゑし
……群鳥の わが群れ行 なば 引け鳥の 我が牽け行 なば、哭かじとは 汝は云ふとも、山門 の一本薄 頸 傾 し 汝が哭かさまく、朝雨の さ霧に彷彿 むぞ。……(八千矛神――記)
群鳥のわたるを仰いで、群れ行かうとする事を言ひ、其間に次の発想が考へ浮ばないから、ゆとりを持つ為に、対句として引け鳥を据ゑて、誘ひ立てられて、行かうとする事を述べ、やつと別れた後の女の悲しみに想到して、気強く寂しさに堪へようと云ふ女に反省させる様な心持ちを続けて来てゐる。そして目前の此は一つには、時代として即興的にかけあひ文句を
いざ吾君 。野 に蒜 つみに 蒜つみに 我が行く道に、香ぐはし花橘。下枝 らは人みな取り、秀枝 は鳥棲 枯し みつぐりの 中つ枝の 含隠 り 赤 れる処女 。いざ。さかはえな(応神天皇――日本紀)
此などは全く、案を立てたものでない事が明らかだ。「いざあぎ」は語頭の囃し語で「いざ人々よ、謡ひはじむるぞ。聴け」と言ふ程の想を持つたのが固定して、あちこちの謡につくのである。野で逢うた処女に言ひかけた歌であらう。――酒宴の節、髪長媛をおほさゞきの命に与へようとの意を、ほのめかされたのだとする記・紀の伝来説明は、歌にあはない。此は、さうした事実に、此歌の成立を思ひよそへた
野に見た処女の羞らうて家も名もあかさぬのに言ひかける文句をまづ、
此に答へたおほさゞきの歌も、必しも赤れる処女を貰うた礼心の表されたものとは云はれぬ。
水たまる 依網 の池に 蓴 くり 延 へけく知らに 堰杭 つく川俣 の江の 菱殻 の刺しけく知らに、我が心し いや愚癡 にして(大鷦鷯命――日本紀)
歌から見ると、危険が待ちかまへて居たのも知らないで、ひどい目に遭うた自分の愚かさを、自嘲する様な発想と気分とを持つてゐる。
哭きそぼち行くも。かげ媛 あはれ(かげ媛――日本紀)
と、極めて簡単な解決に落着してゐる。この中の「かげ媛あはれ」は、囃し語として這入つたもので、元来の文句は「哭きそぼち行くも」で終つて居るのである。これも実際は、かげ媛の自作ではなくて、平群氏に関聯した叙事詩の中の断篇か、或は他の人の唯の葬式の歌かゞ、かうした伝説を伴ふやうになつたのであらう。ともかくも、口に任せて述べて行く歌の極端な一例である。似た例がいはの媛にもある。
つぎねふや 山城川を 宮のぼり 我が溯れば、あをによし 奈良を過ぎ、をだて 倭邑 を過ぎ、我が見が欲 し国は、葛城 高宮 我家 のあたり(いはの媛――記)
前と違ふ点は、叙事に終止しないで、抒情に落してゐる所だけである。おなじ時に出来たと言ふ今一首は、道行きぶりの中に、稍複雑味が加つて居る。
つぎねふや 山城川を 川溯り 我がのぼれば、川の辺に生ひ立てる烏草樹 を。烏草樹 の樹 其 が下 に生ひ立てる葉広五百 つ真椿 。其 が花の 照りいまし 其 が葉の 張 りいますは 大君ろかも(同)
此歌は、日本紀の方の伝へは、断篇である。此古事記の方で見ると、道行きぶりから転化して物尽しに入つて居る。道行きぶりも畢竟は地名を並べる物尽しに過ぎない。併し既に言うたとほり尚、神群行の神歌の影響が加つて、物尽しの外に日本の歌謡の一つの型を作つたのである。四
物尽しの、古代に於て、一つの発達した形になつたものは「
ほぎの詞には、歌になつたものと、やゝ語りに近いものとがあつた。前者がほぎ歌であつて、後者は
寿詞の中、重要なものは、家に関するものである。新室ほかひ或は、在来の建て物に対しても行はれて、建て物と、主人の生命・健康とを聯絡させて、両方を同時に祝福する口頭の文章である。柱や梁や壁茅・椽・牀・寝処などの動揺・破損のないことを、家のあるじの健康のしるしとする様な発想を採る所から、更に両方同時に述べる数主並叙法が発生した。だから、天子崩御前の歌に、建て物の棟から垂れた綱を以て、直に命の長いしるしと見る寿詞の考へ方に慣れて、屋の棟を見ると、綱の垂れて居る如く、天子の生命も「天たらしたり」と祝言する様な変な表現をしてゐる。天智の御代のことである。
天の原 ふり放 け見れば、大君の御命 は長く、天たらしたり(倭媛皇后――万葉巻二)
此表現の不足も寿詞に馴れた当時の人には、よく訣つたのであらう。寿詞は、常に譬喩風に家のあるじの健康をほぐが、同時に建て物のほぎ言ともなるのである。かうした不思議な発想法から、象徴式の表現法も生れ、隠喩も発生した。勿論直喩法も発達した。併し、概して言へば直喩法は、後飛鳥期にもあつたが、藤原期の柿本人麻呂の力が、主としてはたらいて、完成した様である。
隠喩及び象徴法は、寿詞の数主並叙法から発生したと言うてよいが、尚他にも誘因があるとすれば、前の出まかせの叙述法が其である。此並叙法を寿詞が採る様になつた根本理由は、今は述べない。日本文学の発生を論ずる文章で、近く発表する心ぐみである。
顕宗天皇の伝説で見ても、室寿詞が一面享楽的な文章を派生してゐる様子が見える。神に扮した人が、神の資格に於て、自らも然う信じて新室に臨んだ風が、段々忘れられて、飛鳥朝の大和辺では、其家よりも高い階級と見られる人が
新むろを踏 静子 (?)が 手玉ならすも。玉の如 照りたる君を 内にと、まをせ(万葉集巻十一)
新室の壁草刈りに、いましたまはね。草の如嫋 へる処女は、君がまに/\(同)
此旋頭歌は、もはや厳粛一方でなく、ほかひの後に、新室の壁草刈りに、いましたまはね。草の如
五
其考へられる原因は旅行である。国家意識の盛んになつて、日本の版図の中を出来るだけ見ようとする企ては、後飛鳥期から著しくなつて来る。伝説的には遠方に旅した貴人の行蹟は語られてゐるが、多くは遠くより来り臨んだ邑落時代の神の物語の、人間に翻案せられたものである。
遠国への旅行が、わりに自由にせられる様になつたのは、国家意識の行き亘つた事を示してゐる。此は前飛鳥期からの事で、東国のある部分を除けば、西は九州の辺土も、あぶない敵国の地ではなくなつた。
併し、地方官や、臨時に派遣せられる官吏たちの見聞が、直に彼等を動かして、叙景詩を発明させたと言ふ事は出来ない。天子の行幸も段々かなり遠方に及ぶ様になつた。狩り場に仮小屋を構へても、家居の平生に見る外界よりは、刺戟の新なものがあつた。「家なる妹」を偲ぶ歌ばかり口誦して居られない様に、徐々に叙景の機運が向いて来た。
其又妹を偲ぶ歌も、実は純粋に自分を慰める為のものではなかつた。奈良朝も末になつて、おのれまづ娯しむ歌は出来て来たが、其までは皆相手を予想して居た。其も一人の恋人を対象とした様な作物は、後世の


一体、旅のうたげはどう言ふ時に行はれたか。私は、古代の遺風として、後飛鳥期に入つても、新室のほかひは厳重に行はれ、たとひ一泊するにしても、新しく小屋をかければ、寿詞を唱へなければ、安心してそこに仮寝の夢を見る気にはなれなかつたものと信じる。人家に宿る場合は屋敷を踏み鎮め、祓へを行ふ事によつて安らかに居つく事が出来、山野海岸に仮廬を作つた場合は、必、新室のほかひをした。さうして
私も以前は、旅の途すがら、海原を見
六
其に一つは、漢魏以後の支那文学の影響が、帰化した学者・僧侶や、留学帰朝者などから、直接に授けられた時代である。我々が考へる平安朝初期、嵯峨天皇を中心とした漢文学の盛況と比べて、文章に於てこそ、発想の自由を欠いた痕が見ゆれ、学問としては、容易に優劣をきめる事も出来ぬほどに進んで居はせなかつたかと考へられるのである。書物にしても、学者の文庫に存在を晦まして居たにしても、日本見在書目録・本朝書籍目録などの筆者の、聞きも見もしなかつた物さへ渡来して居たらう事は、空想でない証拠が、ぼつ/″\ながら挙つて来て居る。有識有位の階級には、見てくれや物ずきからも、第試の必要からも、普通知識の嚢と見なされた書物は読まれた。併し奈良朝或は其以前から、日本人の文学ずきで、硬い学問を疎にしたらう形跡は見えて居る。其が平安朝になると、目に見えて激しくなり、官吏登庸試験も課目が替り、学吏の向ふ専門の道々すらも、堅い方面は廃止になつて了うた。
晋書張文成の列伝に、朝鮮・日本の旅客が、張文成の門に到つて、片紙でも貰ひ受けようとする者の多い事を記して居る。今まで、一言半句も、文章を生む苦しみを経験せない、永い祖先以来の生活の後、
けれども読む方と知得する事には相当な発達をしてゐた事と思はれる。手に入れ易い書物の影響は勿論、後世伝はらない文学書の感化さへ見えて居て、それが万葉集にも現れて居るのである。私は人麻呂が支那の詩の影響を受けて、対句・畳句其他の修辞法を応用したといふ様な考へは、もう旧説として棄てゝもよいと思うて居る。社会の持つ響きを感じて、それから来る漢文学的影響位は出したかも知れぬが、漢学の素養があつて、あの詩形が出来たなど言ふのは、古代からの歌謡の発生の道筋に
七
支那の宮廷文学に著しいのは、荘重を尊ぶ傾向と、ともすれば淫靡に堕せむとする享楽態度とである。民間の説話なる小説には、唐以前に淫楽と華美とが現れ過ぎる程に見えてゐるが、宮廷や貴族の文学の公表する意図を以つて書いたものにすら、其が見える。性と恋愛との方面は、日本の奈良朝盛時の抒情詩に絡んで来るのであるから、今は言はぬ。
我が国のうたげと似て、宴遊を頌し、宮殿・園林を讃する何層倍も大じかけである方面は、有識の官吏に響いた。風俗を模する以外に、文学の側にも、多少の投影が意識無意識に拘らず、覊旅のうたげや、離宮や、遠国への行幸の際の宴席の即興歌の上に現れずには居なかつた。
日本人固有の表現法からして、外界を描写する態度の、そろ/\発生して来たものが、宴歌殊に旅の新室の宴席の当座詠によつて、
柿本人麻呂も既に、次の時代の暗示者たる才能の上から、意識はしなかつたらうけれども、宴歌又は旅の歌に、叙景の真髄を把握したものを作つて居た。唯意識の有無を文学の価値判断に置く時は、人麻呂はまだ渾沌時代にあつて、大きな価値をつける訣には行かない。
唯言ふべきは、離宮行幸が、全く支那の宮廷生活を模した宴遊であつた事だ。持統天皇の如きは、如何に半日もかゝらない道のりとは言へ、吉野の宮へは、日本紀に載せたゞけでも、驚く程しつきりなく出かけられた。そして、都からやつと半みちの飛鳥の神丘へ行かれた時も、人麻呂は帝王を頌する支那文学模倣とも言へば言はれさうな歌を、こと/″\しく作つてゐる。
宴遊の中、日がへりの旅にも、行つた先で宴歌を作るのは、其行事が外国の写しだけに、歌詞も支那を学んで、小屋をさへ造らぬにかゝはらず、宴歌がやはり歌はれる事になつたのだ。つまり、日本の遠来神を迎へた式が賓客歓待の風に変つても、古義だけは残つて居たのを、すつかり変へて、新しい宴会の様式がはじめられた事になる。此が日本のうたげの中途の暫らくの気まぐれな変化で、後には又元の方法に近く戻つて来た様である。でも其間にやはり、古い意義を存して、天子外出の時の方法としての警蹕・
八
日本に於て、最危い支那化の熱の昂まつてゐたのは、飛鳥時代の前後を通じての事で、殊に末に行く程激しさを加へた。中途に調和者の姿をとられた天武天皇も、実はやはり時代病から超越出来なかつた。唯其が内面に向うて行つた為に、反動運動者には歓ばれ、世間の文化も実際に高まつて来た。だから、此天子の世の文化施設の細やかな所まで、手の届いて居る事も、基く所を思はせて、有効でありさうな事に、着実な方針が秩序立つて現れて居る。
藤原の都は、国力の充実せぬのに、先進国から見くびられまいと努める表向きの繕ひや、文化の敷き写しに力を籠めてゐた時である。而も、今までの粗野で、寂しい、狭い量見を持ち合うてゐた世間観が改まつて、急に明るみへ出た様に、民族性がはなやかに張つて来て、広い心を持つて、強く歩く事を知つて来た時の様である。時代の中心勢力は空疎な概念で働いて居ても、はでやかな時代の流れが世間を浮き立たせて、快活な生を味はしめ、社会の底に自信力を動き出さしめる。此は、秀吉在世当時を見ても、綱吉在世の時代を見ても、明らかな事である。うはついた時代だからと言うて、国民生活が悪く傾くとは言はれない。却つて小さな善悪をのり超えた、張り充ちた社会意力が出て来る事が多いのである。民族なり、国民なりの側から見れば、讃美してよい時勢だと言へる。だから、持統天皇及び其周囲の豪華な生活が、俄かに、国の生活に張り合ひを感じさせ、案外に良い結果が来た。大抵、さうした場合、一等其利益を受けるのは芸術である。此時期に、人麻呂が出たのも不思議はない。でも、其時勢を、すぐに明治の鹿鳴館が象徴した世相と一つに見てはならぬ。
古代からの社会組織は、既に天智・天武の御宇の剛柔二様の努力で、ほゞ邑落生活の小国の観念が、郡制の下に国家意識に改まりかけて来たし、小国の君主たる国造は、郡領として官吏の列に加へられ、国造が兼ねて持つてゐた教権は政権と取り離され、国家生活の精神の弘通を妨げる邑落時代からの信仰は、宮廷の宗教に統一せられようといふ意図の下に、国造近親の処女は采女として宮廷に徴されて、其信仰儀礼に馴らされた。全体として見れば、新しく目をあいた宮廷生活が、豪華な気分に充ちてゐたのは、道理でもあり、よい事でもあつた。支那模倣も、よい側から見れば、新しい国家意識を叩き覚ます為の、内国へ対しての示威ともなつて居た。
此時勢に、人麻呂は恐らく大和の国の
けれども人麻呂は、様式から云へば、古来の修辞法を極端に発展させて、斬新な印象を音律から導き出して来る事に成功した。譬喩や、枕詞・序歌の上にも、最近の流行となつてゐるものを敏感に拾ひ上げて、其を更に洗ひ上げて見せた。形の上で言へば、後飛鳥期の生き生きした客観力のある譬喩法を利用して、新らしい幾多の長短の詞曲を、提供した。同時に生を享けた人々は、其歌垣のかけあひにも、或は宴席の即興にも類型を追ふばかりであつた。才に餓ゑ、智にかつゑ、情味に渇いて居た時代の仰望は、待ち設けた以上に満されたであらう。
天才の飛躍性は、後世の芸論に合ふ合はぬよりは、まづ先代から当代に亘つて、社会の行くてに仄めく暗示を掴むことであり、或は又新らしい暗示を世の中に問題として残す力を言ふのである。人麻呂は其をした。ある点、後生が育てる筈の芽・枝までも、自分で伸ばし、同時に摘み枯らした傾きがある。だから長歌は、厳格な鑑賞の上から言へば、人麻呂で完成し、同時に其生命を奪はれた。
奈良の詞人の才能は、短歌に向うてばかり、益伸びて行つた。長歌は真の残骸である。赤人にしても、其短詩形に於て表して居る能力は、長歌に向うては、影を潜めてしまつた様に見える。新らしく完成せられた小曲に対して集中する求心的感動の激しさ、其で居て観照を感情に移すのに毫も姿を崩さない、静かな而もねばり強い把握力の大きさには、驚かされる。其赤人の長歌が、富士の歌と言ひ、飛鳥神南備の歌と言ひ、弛緩した心を見せて居るに過ぎない。それに短篇に段々傾いて行つて居るのも、気分が長詞曲にはそぐはなくなつたことを見せて居る。奈良朝も、後になるほど、長歌の製作力が、世間全体になくなつて来る。憶良の長歌の如きも、知識と概念との、律動の伴はぬ羅列だ。一貫する生命力を感受する事の出来ぬ生ぬるい拍子によろけて居る様に見える。
特に憶良の歌に著しく所謂延言の多く用ゐられたのは、音脚に合せる為で、此点から見ても長歌は、奈良初期に既に生命を失ひ、中期には、残骸となつて居た事が知れる。高橋虫麻呂の長歌の如きも、かなりの長篇はあつても、皆、叙事詩の題材を、実際叙事的に生ぬるく叙述したに過ぎない。だから末期の家持等になると、昔を憧れる心から、人麻呂の筆法をなぞつても、勿論古風な荘重味は、かけても見出されない。
柿本人麻呂の作と伝へる歌には、宮廷詩人(大歌作り)として職業意識から、さうしてまだ個性を表現するまでに到らなかつた時代の是非なさ、類型に堕ちた代作物がうんとある。だから、普遍的の低級な熟せない創作動機から出来た其等の作物を以て、人麻呂の芸術を論ずるめどとしてはならぬ。又、其から人麻呂の伝らぬ伝記の資料をとり出すには、大変な注意がいる。人麻呂の作とせられて居ないもので、人麻呂に代作を依頼した人、又は其を謡うた人々の作物の様に思ひ做されて来り、前書きも其人々の作として出されたものも沢山ある。
人麻呂が天武持統の皇子たちの舍人であつた証拠として挙げられてゐる三四種の歌などは、実は舍人等の合唱すべき挽歌として、人麻呂が自身の内にない空想から作り上げたものである。従つて実感の出ようはずはない。芸術意識を持ち始めてから、久しい年月を経た後世の社会なら、天才の直観力で、他人の体験に迫つて行く事も出来よう。が、まだ芸術意識の尠しもない応用的な言語の羅列から、自身の意力で、半ば芸術に歩みよせた程の人麻呂であつた。様式の美――ある条件をつけての声調の快さだけでも、人麻呂の手柄が、紫式部・西鶴・近松・芭蕉の立派な作品よりも、高く値打ちをつけても、異存を挟む事は出来まい。
人麻呂の長歌――代作と推定せられるものでも――についた反歌は、長歌其ものより、いつも遥かに優れて居て、さすがに天才の同化力・直観力に思ひ到らされる物が多い。人麻呂を悲劇の主人公と考へたがる人が多い。だが、人麻呂は、たとひ其が、実感に充ちた体験の具現せられたものであつた場合にも、底の気分は、語の悲しさに沈まないで、ゆつたりとしてゐる。此は人麻呂の宮廷詩人としての鍛錬から来たとも考へられる。だが、逆に個性の出るせつぱつまつた心持ちに到らない場合には、類型の思想と、技巧の古風で堂々とした、そして若干の新流行をも織りこんだ、様式の美しさを以て塗りつぶして来た常習が、個性の表現を鈍らせ、感激を
東歌の如きも、又誰にも素朴な物と言ふ予期を以て向はせる民謡(小唄)集でも、窮境に居て発した情熱と見えるのは、実は叙事詩の類型に入つた、性愛のやるせなさをまぎらはす為に、口ずさみ/\した劇的構造のまじつた空想歌に過ぎないものが多い。作者の歌を作つた境涯を歌から想像して見ると、其叫びの洩れるはずのない物が多い。其多く製作せられる場所は、歌垣の庭の頓才問答・誇張表現・性欲から来る詭計・あげあしとり・底意以上のじやれあひなどが、実感を超越して、一見激越した情熱にうたれる様な物を生み出させたのである。尤、さうした物の出来るのも、社会の底の生活力が、荒くて、強かつた時勢の現れと言ふ点だけに、尚古家の予期する万葉人の強い生命を認める事は出来る。たゞさうした成立に伴ふ表現法は、古代芸術に関した鑑賞法を、根柢から換へて見ねばならない事を思はせるのである。
九
人麻呂の作物に静かで細かい心境のみが見えるのは、人麻呂が時流を遥かに抜け出て、奈良末期の家持の短歌に現れた心境に接続してゐる処である。其程其点でも、知らず識らずにも、長い将来に対して、手が届いてゐた事を示してゐる。人麻呂の達した此心境は、客観態度が完成しかけて来た為だ、と思ふのが正しいであらう。此静かな方面を更に展開したのは、高市黒人である。近江の旧都を過ぎる歌にしても、人麻呂のも短歌は優れて居るが、黒人の歌の静かに自分の心を見てゐるのには及ばない。
漣の滋賀の
古の人に我あれや、漣の古き
漣の
第一首は、これに比べると調子づいては居るが、此はもつと強い感動だからである。併し、人麻呂の場合の様に、如何にも宴歌の様な、濶達な調子で、荘重に歌ひ上げる様な事はして居ない。人麻呂のには、悲しみよりは、地物の上に、慰安詞をかけてゐる様な処が見えるのは、滋賀の旧都の精霊の心をなだめると言ふ応用的の動機が窺はれる。よい方に属する歌であるが、調子と心境とそぐはない処がある。
黒人は静かに自身の悲しみや憧れる姿を見て居た人である。抒情詩人としてはうつてつけの素質である。数少い作物の内、叙景詩には、優れた写生力を見せ、抒情詩にはしめやかな感動を十分に表してゐる。さうした態度の意識は恐らくなかつたらうが、素質にさうした心境に入り易い純良で、沈静した処があつた為、創作態度を自覚した時代に入るに、第一要件だつた観照力が自ら備つて居たのであらう。

黒人の此しなやかさの、人麻呂から来てゐる事は、明らかである。叙事詩や歌垣の謡や、ほかひ人の流布して歩いた物語歌の断篇やら、騒がしいものばかりの中に、どうしてこんなよい心境が、歌の上に現れたのであらう。此は、恐らく、悲しい恋に沈む男女や、つれない世の中に小さくなつて、遠国に露命を繋ぐ貴種の流離物語や、ますら雄といふ意識に生きる、純で、素直な貴種の人が、色々な艱難を経た果が報いられずして、異郷で死ぬる悲しい事蹟などを語る叙事詩が、ほかひ人の手で撒き散らされて、しなやかな物のあはれに思ひしむ心を展開させたのである。其が様式の上には、豊かな語彙を
笹の葉はみ山もさやに
もみぢ葉の散り行くなべに、たまづさの使を見れば、会ひし日思ほゆ
と言ふのは、其挽歌の反歌であるが、黄葉の散るのを目にしてゐる。其時に、自分の脇を通つて遠ざかつて行く純抒情の歌は、やはり少し劣る様である。まだ抒情態度は完全に発生して居ない。人麻呂自身の
わぎも子に猪名野 は見せつ。名次 山 角 の松原 いつかしめさむ(黒人――万葉巻三)
など、軽い心持ちで歌つてゐる中に、黒人のよい素質がみな出てゐる。妻を
一〇
赤人になると多少概念と、意図がまじる様である。「田子の浦ゆ」の歌を見ても、没主観は右の黒人の歌に似てゐるが、「ま白にぞ……雪はふりける」と言ふ処に、拘泥が見える。
み吉野の象山 の際 の木梢 には、許多 も騒ぐ鳥の声かも(赤人――万葉巻六)
ぬばたまの夜の更けゆけば、楸 生ふる清き河原に、千鳥頻鳴 く(同)
写生の上々と評されてゐる歌である。山の際の木立を心に浮べて、鳥の声を聴き澄してゐるのだ。寝てゐるのである。目に山の際を仰いでゐる場合としても、又変つた味ひが生じる。鳥の声に心静かに聴き入つて居る。此歌の中には、深い暗示のこもつて居る様な気がする。見事、其霊を捉へた歌である。此歌も次の歌も、聴覚から自然の核心に迫らうとしてゐる。聴覚による新しい写生の方法を発見してゐる。ともすれば、値打ちの怪しまれる叙景詩も、こゝまで来れば、芸術としての立ち場は犯し難い。赤人は聴覚で自然を観ずるのが得意だつたか。ぬばたまの夜の更けゆけば、
朝凪ぎに楫の音聞ゆ。御饌 つ国 野島の海部 の船にしあるらし(万葉巻六)
赤人の歌は人麻呂のに比べると、全体として内容的になつて、形式美をあまり重んじてゐない。人麻呂の様な、形式の張り過ぎた歌は少い。さうして、単純化する力は十分に持つて居た。同じ時代に居てやゝ年長と思はれる笠金村などが、人麻呂を学んで脱することの出来ないで居る間に、赤人は自分の領域を拓いて行つた。彼がまづ拓いたと思はれるのは、趣向のある歌である。自然を矯める傾向はそこに兆したが、みやびと言ふ宮廷風・都会風の文学態度を創立して、都と鄙との区別を立てる様な傾向の先駆をした。
春の野に菫つみにと、来し我ぞ、野を懐しみ、一夜寝にける(万葉巻八)
あしびきの山桜花、日並 べてかく咲きたらば、いたも恋ひめやも(同)
吾が夫子 に見せむと思ひし梅の花。それとも見えず。雪の降れゝば(同)
明日よりは、春菜摘まむと標 めし野に、昨日も 今日も 雪はふりつゝ(同)
所謂ますら雄ぶりから遠ざかつたたをやめぶりを発生させたのは、この人である。邑落生活を忘れ、豪族は官吏としての意識を明らかに持つ様になつた奈良の中期には、もう都鄙・官民の別を示すだけの風習が生じた。従来の調子や表現を旧式の歌と考へ、素朴を馬鹿にし、宮廷を中心とする貴族生活の気分を十分に味はゝうとする享楽傾向が顕れて来た。赤人は其あしびきの山桜花、
吾が
明日よりは、春菜摘まむと
赤人は融通のきく才人であつたと思はれる。人麻呂調の抒情味の勝つた歌も作れば、黒人式の没主観を体得した様でもある。黒人――赤人との播州海岸の覊旅歌を見ると、殆ど赤人の個性は没して居て、而も歌としては、値打ちの高い物を作つてゐる。
桜田へ鶴 なき渡る。愛知潟 汐干にけらし。鶴なき渡る(黒人――万葉巻三)
和歌の浦に汐みち来れば、潟 をなみ、蘆辺 をさして、鶴鳴きわたる(赤人――万葉巻六)
此二つの歌を並べて見ると、赤人が黒人を模してゐた様はよく見える。其上、前の吉野の宮の歌二首の如きは、和歌の浦に汐みち来れば、
足引の 山川の瀬の 鳴るなべに、弓月嶽 に 雲立ち渡る(万葉巻七)
人麻呂の此歌に、既に同様の静観が現れてゐるから、赤人の模倣した筋路も考へられる。赤人の工夫した優美は、平穏な生活を基調として、自然・人事に軽い交渉をつけて見たもので、根柢から心を揺り動かす種類の感動を避ける事であつた。即極めて淡い享楽態度を持ち続ける中に、

足引の山にも、野にも、御狩 人 猟矢 たばさみ乱りたり。見ゆ(万葉巻六)
此は人麻呂の此態度が一般的に見ると、やはり明らかに万葉巻十にも見え、巻七にも見えてゐる。此巻々は、直様古今と続けて見てもよい程に、自然に浸つてゐる。けれども尚失ひきらぬ万葉びとの呼吸は、弛んだ調子の間にも通うてゐて、巻七・巻十の歌の全体として、固定は固定として、一首々々には、真の感激の出たものも多い。
一一
奈良中期には大伴ノ旅人・山上ノ憶良らが、支那趣味を移植して、短歌に変つた味を出さうとした。けれども此人たちの抒情詩人としての素質が、叙景に優れたものは出させなかつた。
旅人の子の家持は、最後の一人の観のある人であつた。古代の歌謡に憧れ、家の昔を懐しんでゐた。さうしてくづれる浪を堰きとめようとして、時勢に押されて敗北した。でも、さすがに彼の歌には、情景の融合と、近代的の感興が行き亘つてゐる。
春の野に霞たなびき、うら悲し。此夕暮に、鶯なくも(家持――万葉巻十九)
我が家 のいさゝ群竹 吹く風の 音のかそけき、このゆふべかも(同)
うら/\に照れる春日に、雲雀あがり、心かなしも。独りし思へば(同)
家持は、どつちかと言へば、人麻呂から得た影響の部分が、よい様である。そして素質的に、抒情派から出て、叙景に入つた人である。此点に、最人麻呂と似て居る点が見出される。而も歌は、感興の鋭い、近代的な神経を備へたものである。赤人の末期の「みやび歌」よりは、私は此方を高く評価したいのである。我が
うら/\に照れる春日に、雲雀あがり、心かなしも。独りし思へば(同)