女房文学から隠者文学へ

後期王朝文学史

折口信夫




     一 女房歌合せ

数ある歌合せのうちに、時々、左の一の座其他に、女房とばかり名告つた読人ヨミビトが据ゑられてゐる。禁裡・仙洞などで催されたものなら、匿名の主は、代々の尊貴にわたらせられる事は言ふまでもない。公家・長上の家で興行せられたつがひの巻物なら、其処の亭主の君の作物なる事を示してゐるのである。此は、後鳥羽院にはじまつた事ではなかつた。かうした朗らかな戯れも、此発想競技と、女房との間に絡んだ幾代の歴史を踏まへて、極めて自然に現れて来たのである。
私は、此文の書き出しに、都合のよい機会ツイデに行きあうた様だ。文学史に向けて持つて来た、私の研究の立ちどの、知つて置いていたゞけさうなよい事情になつて来たことである。現在ある様式や、考へ方は、幾度幾様とも知れぬ固定や、其から救ひ出した合理化の力を受けて来たのだ。宮廷は勿論、上流公家の家庭生活の要件として、かつては生きてゐた儀礼が、固定を重ねつゝ伝承せられて来た。女房と歌合せとの関係も、そこにあるのだ。
大きな氏族或は邑落では、主長の希望や命令を述べた口頭文章が、公式には、段々複雑な手順を経て伝達せられる様になつた。が、非公式に出るものは、家あるじの側に侍る高級官女――巫女の資格を以て奉仕した――に口授せられたものが、其文句の受けてに其まゝ伝達せられたのである。宮廷の内侍宣ナイシセンなど云ふ勅書は、此しきたりから生れたのだ。「上の女房」と言はれたものは、言ふまでもなく、宮廷の官女はすべて、前期王朝には、神の摂政たる主上に仕へる巫女であつた。宮廷と生活様式をほぼ一つにした氏族の長上――後期王朝の古い家筋の公家は、其が官吏化したもの――も、古代には、邑落や、民団の主長としての――神となれる――資格を持つた。其に伴つて、氏族の巫女を使うて、さうした用をさせてゐた事は察せられる。「宣旨」と言ふ女房名の、広く公家にも行はれたのは、此因縁である。手続きの簡単な宣が、文書の形を採つたのは、公式の宣命・詔旨などの様式の整備せられたのに連れて、起つた事らしい。
此が、平安の女房中心の宮廷文学を生む、本筋の原因でもあつた。今は此以上、女房の文学・仮名記録を説いてゐる事は出来ない。唯、其相聞贈答の短歌を中心に、多少律文学の歴史に言ひ及すことは、ゆるされて居る、と思うてもよさ相である。其に、当面の問題なる女房の「歌合せ」に絡んだ点を言ふ事は、勿論許されてゐることにしておきたい。
宮廷の女房は、主上仰せ出しの文章を、筆録して伝達することが、伝来の役儀である。さすれば、御製の詞章は女房が筆録し、ある人々に諷誦して聞かせ、後々は段々、整理保存する様になつた事は、考へてさし支へはない。主上の作物ながら、女房の手で発表せられるのだから、仮り名として、無名の女房を装はれる様になるのは、自然な道筋である。
歌合せの、刺戟となつた点だけから見れば、在り来りの聯句・闘詩起原説は、手を携へて見る事が出来る。だが、平安初期の貴族・学者の流行させた詩合せや、聯句からばかり発生した、と唱へる常識説は、どうあつても、承認が出来ない。
歌合せの異式とも見える「前栽センザイ合せ」は、消息の歌文を結ぶ木草の枝の風流から出て居る。歌合せは整理せられて、宴遊の形をとつた。だがよく見ると、厳かな神事から出た俤を止めてゐる。つけあひは、連歌誹諧を形づくつて行つた。此側には、機智と、低い笑ひとが、宿命的にくつゝいて居た。賦物フシモノの如き、無意義な制約の守られて居たのも、出発点がさうだからである。
だが、此二つは、発生点は一つであり、分化の過程にも、互ひに深く影響し合うて来た。歌垣と、歌垣以前からあつた神・人問答の信仰様式から出た種子が、灌木や、栽ゑ草の花と、其に寄せた歌との調和をめどにしたものであつて、歌合せの興隆にさのみ遅れた流行ではない。其が更に、後の貝合せ・艶書合せと称する「恋歌合せ」に移つて行つた痕まで、一筋に通つてゐる。
かうして見ると、詩合せから受けた影響は、先進学者の予断よりも、ずつと微かであつたことが知れよう。片哥や、相聞の類の、歌垣のニハに発生した唱和・贈答の発想法は、いろ/\に分化して行つた。旋頭セドウ歌の如き、単長歌の如き、或は短歌の類まで、皆此かけあひつけあひの発想をば基礎にして居るのである。此形式方面を多分に伝へて完成したのは、歌合せと連歌とであつた。かけあひは、言語の上の詭計式の表現や、機智ではぐらかしたり、身をかはしたりする修辞法を発達させた。天徳四年内裡歌合せは、女房歌合せと称せられたものである。宮廷の歌合せの古くよりあつた事は、万葉巻一額田王の「秋山われは」の歌を、最正しく考へることからでも言へる。「歌を以て判ずる歌」と序にあるのは、額田王以外の人々も、歌を以て主張したものと見る方がよいのである。「春秋モノアラソひ」の極めて古い形なのであつた。
歌垣の歌の、古詞何々ブリを繰り返す様になつて行く一方に、風雅な遊戯・宴遊の方便に用ゐられた側が、次第に、文学態度の意識を生じて来た。万葉の群詠の中には、さうした部類に入るものが尠くない。古今以前の在民部卿家歌合せなどを中に据ゑて見れば、歌合せの固有種子なる事はわかる。天徳のを女房歌合せと言ふ訣は、後宮方の歌合せなる事をあらはにして言はねばならぬ理由のあつた為なのだ。
当時公卿等は、流行の詩合せに専心になつて、歌合せを顧みなくなつて居た。それゆゑ行うた女房の中からも、読人・方人カタウドを出して、男歌人に立ちまじらせた歌合せ――七条後宮歌合せ・亭子院歌合せなど――は、かうした流行に圧されて行つた。其為、かうした催しが、後宮から発起せられて、左右のトウを更衣級から出し、方人カタウドに女房を多く列せしめた。競技者たる読人の中にも、女房が立ち交つてゐる。だから女房ばかりの歌合せの意ではなく、後宮の人たちが亭主となり、興行者となつて、催したと言ふ義であつた。
七条後宮歌合せや、中興の此歌合せが先例を作つて、歌合せの本格は、女房の興行によるもの、と思ふ様になつて来たらしい。其で、主催者たる家あるじは、女房のつもりで居り、読人に立つ時は、表面、名は「女房」と清書させた、と言ふ事情も考へられる。
要するに、尊貴が亭主たる場合、女房の手から、番歌を降される様な例が出来てゐた。寛平歌合せの如く「上御製」など清書せられた例もあるが、次第に、女房歌合せの慣例と、尊貴の御名を忌む風習とからして、女房名を署する様になつたのである。宮廷と事情を一にして進んで来た貴族の方でも、自然主催者たる家長の名を、女房とする様になつて行つた事は訣る。一応表面的に、詩合せに促されて頭を擡げ、文学意識も起つたことは言うてよい。漢文学の素養と興味とが、社会的に衰へて来ても尚、詩合せを第一と考へ、歌合せを卑下する習慣は久しかつた。其が新撰万葉などから暗示を得、朗詠集の類に気勢を煽られて「詩歌合せ」がものになつて来たものと考へる。
連歌までが、詩句や、漢文調をとり込む様になつて行つた。連歌が、始終歌合せから刺戟を受けてゐたからである。宮廷や貴族の家の女房の職掌展開の径路との絡んだ因縁と、交錯してゐる事は、事実である。唯、歌合せの女房の意義が、「女あるじ」の義であるか、其とも亭主の代りに歌を扱ふ侍女の義であるかは、簡単には言ひきれぬことである。
秋篠月清集と云ふ表題からは、良経はじめ新古今同人の生活態度のある一面を演繹して来ても、よい様に思ふ。後鳥羽院にも、ある時は左馬頭親定と言ふ変名を使うて居られた位である。
たゞの上達部カムダチメや、伝統の絡んだ重苦しい氏の名などゝは違うて、きさくな、自由な感じのする、ありふれて居ない姓や、位も、官も脱ぎ棄てた様に、通り名や、法名だけで通つて居る隠者などから受けるさば/\した気持は、想像出来なくはない。それとても、趣味と言つた程度のものに過ぎなかつたであらう。王朝末から著しくなつた上流の人々の、低い階級の生活に寄せた驚異の心は、段々深まつてゐた。異郷情趣に似たものに、はずませられて、思ひもかけぬ世相を実験した向きも多く出て来た。一つは、此為でもあらう。
第一番の理由としては、歌合せ・連歌の持つてゐた如何にも新興文学々々した、鮮やかな印象から来てゐる事である。ほしひままな朗らかさが、調子に溢れてゐた。伝統の鬱陶しさも、まだなかつた。実は、文学の一様式として認められ出した王朝末にすら、既に新味のない固定したものであつた。其が詩歌合せの流行によつて、初めて文学態度に這入つて来て、ある方面では、生れ更つた様になつた。一番々々ツガへられる相手方の詩句は、漢詩としては類型式なり、断篇風な物であつても、此先進文学の持つよい態度が、敷き写しに伝へられてゐた。漢文学には、歌には忘れられ勝ちな文学意識だけでもあつた。対句詩人すら其を失はずに居た。
日本の漢詩は、字面は支那の律に従うてゐても、実は変態の国文としてまれ、詠ぜられて来た。固有の詞章になかつた音律が、古く和讃・踏歌に伴うて起つた。催馬楽・朗詠・今様でこなされて、漢詞章と日本歌謡との音脚・休止から、行の長さまで調節せられる様になつた。国民の内部律動が、さうした音律に叶ふ事が出来る様になつた。其上、此新しい拍子に乗らねば表現出来ぬ内生律さへ生じて来た事である。其代表に立つものは、此時代に完成した宴曲・早歌サウガの一類である。
上元の歌垣が、漢訳せられ、習合せられて、踏歌節タウカノセチとなつた事は、疑ひもない事である。さすれば、其み出しの部分の、主因となつて、歌合せの形をまとめて来た径路も察せられる。原則としては、男女入りまじりであつたものが段々姿を変へて行つた。
女房方のあるじぶりで、女房をも番に組む。さうした歌の対抗アハせの盛んになるに連れて、此までなかつた事がはじまつた。神秘主義の薄らいで来た宮廷では、天子・中宮すら、かうした競技に加はられてもさしつかへない様になつて来た。古今集に、当今の御製のないのも此為だ。時としては「上」或は「宮」などの称号を以て示してゐる。が、此は後の書き直しで、恐らく伝達した女房の名或は、単に女房として、出詠せられたものであらう。さうした女房が、古い歌合せにも多い。だから、後鳥羽院に始まつた事とは言へないのである。唯、此頃になつて其が、亭主としての権威を示す方法の様に、考へられ出したのも、事実である。
六百番歌合せにも、さうした気持ちから、亭主の良経は、番の歌には女房を名告つてゐる。此風は後程盛んになつて、表は全体匿名の歌合せすらある。戦国の浪人や、其意気を守つた江戸初期の武士などの間にはやつた「何々之介」と言つた変名も、起りは一つである。此は、室町以来の草子・物語から来た趣味の応用であつた。鎌倉の昔も、さうであつた。歌は学問であつて、才芸ではなかつた。歌合せ・連歌、皆文学意識は持たれて来ても、遊戯であつた。文学らしくなればなる程、韜晦趣味・ちゃかし気分が深まつて行つた。歌は真の文学に据ゑられながら、同時に、生活の規範となつて来た。文学としての内容を持ち、新しい観照態度を与へて居ながら、歌合せ・連歌は文学ではなかつた。でも、今から見れば、其が文学意識から出てゐたのだ。さうして、其から出て来る態度は、逃避・傍観・偸安であつたのだ。文学が文学でなく、非文学が却つて、文学の種子を含んで居た訣である。
連歌・誹諧を無心体、其作者を栗本衆と呼んだと伝へてゐる。其は、親しみから出た軽い嘲笑を含むに過ぎないが、柿本朝臣の流のまやかし物の意義である。この時代の「心ある」といふことばは、自然・人間に現はれる大きな意思を感じ得る心である。人間らしい人の、きつと具へねばならない優れた直観力である。風雅に対する理会力は、心ある状態の、ほんの上面ウハツラの意義である。無心は、そつくり其逆を意味する程ではなかつた。其にしても、没風流の上に、ものゝあはれを度外視して、うき世に沈湎する人・悟り得ぬ不信者など云ふ義はあつた。さうした連歌も、有心衆が一切指を染めない訣ではなく、却つて盛んに弄ばれた。遊戯と実事と、此両方面が、当時の文人の心に、差別なく影響を与へてゐた。其は歌の上の事である。平安末期の初めまでは、歌合せは、神事の古い姿を備へてゐた。其が、後鳥羽院になつてから、ずつとくだけて、宴遊の形を持ち出した。歌合せに臨んだ気安さと、隠者趣味――当時唯一の文学者式の生活――が、高貴の名の持つ伝来の風習を、合理化して了うたのだ。

     二 隠者の文芸

王朝の末百年、とりわけ目立つて来たのは、平賤階級の生活を知つた、上流の人々の驚異の心であつた。其動機は数へきれないが、文芸から見れば、小唄・雑芸ザフゲイ・今様類の絶え間ない刺戟を、まづ言はねばならぬ。此が、新興文学らしい勢の、受け入れ易い連歌に影響した。其ばかりか、後鳥羽院は、院御所や水無瀬殿で、今様合イマヤウアハせを催して居られた。此今様合せなどから、歌合せも気易く考へられるやうになつた。
此は、後白河院あたりの蹤を追はれたものであらう。恐らく王朝末に新詩形として、明らかに意識に上つたし、実は後期王朝の初めからあつた今様は、声楽たると共に、文学様式の一つとして用ゐられた。しかも直ぐ様、節にかけて謡はれる詞曲である事が、流行を煽らないでは居なかつた。今様合せも、元の形は、うかれ女の咽喉よりは、其文句を聞いて、優劣を定める処にあつたのであらう。即歌合せの披講よりは、近代様の節廻しで、読み上げられたものであつたらう。とりも直さず、二句の短歌の替りに、四句の形を以てせられた歌合せと謂つた姿である。
だが、今様合せは、歌合せの様式を、まる/\模倣したと言はれぬ。却つてそこに歌合せの第二因がある。大寺の間に行はれた講式讃歌の元々として独立もして居た部分、此が宮寺の巫女の法文歌として独立する訣はある。同音で唱へる場処と、交互に謡ふ場処とがあり、其処が「論義」風に唱和態を採るものであつたからだらう。寺にも勿論、此形が行はれて、今様合せの形は整うたものと思ふ。此が、宮廷の歌合せの闘詩・聯句の後入因を併せたものと、一つになつて了うたのであらう。
其外に、一歩進んで、讃歌体に、奈良以前からも試みて居た所の、短歌の形による讃歎詞があつて、平安中期固定の神楽歌――今の所謂いはゆる――にはなかつた讃頌或は、宣布の目的に叶へようとした。かうして出来た釈教歌が、僧家の鬱散に弄ばれる様になるまでには、長い時を経た事であらう。さう言ふ短歌の形の讃頌が、やはり、今様の発生と似た道筋を、通つた事は察せられる。女の側の歌垣が、踏歌に習合せられたと同様に、男の方では、寺家の講式・論義と併せられて、痕を止めてゐたと見る事も出来る。で、女房の贈答の巧みなのに対して、法師の唱和に馴れてゐた事実も説明はつく。説経僧が、即座に歌を詠んで、聴問衆を感動させた例は、※(「代/巾」、第4水準2-8-82)ふくろ草子・今昔物語などに見えてゐる。内道場などに出入る僧の、女房とかけ合せた恋歌の形をとつたものゝすべてを、直に、堕落の証と見ることは出来ない。寺家の歌が、さうした道から習熟せられて、遂に一風を拓く様になるまでには、二通りの別な傾向が見られる。
宮廷の流行を逐ふ軟派と、時流に染まないで、讃頌の旧手法を保つてゐた謂はゞ硬派に這入る者とがあつた。此方は、ごつ/\して、歌の姿や、しらべには無貪著ムトンヂヤクである。仏語を入れるかと思へば、口語発想も交へる。平民生活の気分も、自然出て来て居る。ひなびては居るが、信頼の出来る、古めかしい味ひを持つてゐた。此二派のけぢめおぼろになつたのは、平安中期の末頃と見てよかろう。其頃出た恵心僧都は、これを狂言綺語としてしりぞけた。僧房の無聊を紛す贈答の歌が、心やすだてのからかひや、おどけに傾くのは、ありうちの事である。歌がらの高下を構はぬ、自由な物言ひもする。金葉集の連歌作家に、法師の多いのも合点がゆく。相聞・問答の歌は、いつも相手の歌の内容を土台として、おし拡げて行つてゐる。跳ね返しのもあり、あまえるのもあるが、カケの歌に与へられた難題をく、と云つた態度のはない。此は、旋頭歌で見ても、さうだ。
古今の誹諧歌には、まださうした傾向は、著しくはない。「何曾ナソ」合せの影響を受けたことは勿論であるが、寺家の論義問答の方式を伝へて居るのであらうかと思ふ。歌と論義との関係は、今昔物語の行基・智光の件でも知れる。説経師に対して「堂の後の方に、論義を出す音あり」智光「何許の寺なれば、我にむかひて論義をせむずるならむと疑ひ思ひて、見返りたるに、論義をなす様、真福田マフクダが修行に出でし日、葛袴フヂバカマ我こそは縫ひしか。片袴をば……」とある。論義即「歌問答」である。百因縁集には「真福田丸が葛袴フヂバカマ。我ぞ綴りし。片袴」となつてゐる。今様合せの片方の形である。尚、歌論義と言ふ書物さへあつた。
此考へ方からすれば、今様合せは勿論、連歌・歌合せの、講式や論義から出て居る点が考へられる。歌垣から流れ出た種子が、独自の発達をしてゐた傍、仏家の法式や、漢文学の態度に内も外も洗煉せられて、真に文学らしい形を具へて蘇つたのは、やはり新古今集と時代を一つにしてゐる。殊に、連歌はさうである。連歌の復活した事を時代の目安として、武家初期の結界を劃したく思ふ。連歌・誹諧の発想法の成立した事は、日本の精神文明の上の大事件である。支配階級の更送や、経済組織の変改などを、其原因と考へるだけでは足らない。其は、連歌・誹諧から、新しい生活の論理が導かれた事である。
良経の変名から、隠者階級の文学の影響が見たいのだ。「秋篠や外山の里に清む月」を独り眺める隠士の境涯に、懐しみを持つ自分である事を示し得る変名は、若い文学者らしい心を悦ばし、慰めたに違ひない。恐らくは、秋篠近い「菅原や伏見の里」に住んで居たといふ伏見の翁などを、めどに据ゑて居たのであらう。此若い貴人の生れた頃から、さうした生活様式が、世間に認められて来かゝつたのである。
王朝末には、仏徒自身の生活態度が省みられ出した。大寺院は一つの家庭で、在家と等しい、騒しい日夕を送らねばならない。心深い修道者は家を捨てゝ這入つた寺を、再、てなければ、道心は遂げられなかつた。出家の後、寺には入らず、静かな小屋に、僅かな調度を置いて、簡素な生活を営む。庵に居る時は、仏徒としての制約によつて居るが、世間風の興味も棄てるに及ばぬ自由を持つて居た。才芸に関する事は、禁欲の箇条に触れない。楽器・絵巻などさへ、持ちこんで居た。里や都に出れば、権門勢家に出入りしては、活計の立つ位の補給を受け、主として文芸方面の顧問としての用を足したのであつた。王朝末期には段々、女房の才能が平安朝に成立した其職分を果すには堪へぬ様になつて来て、女房のした為事は、段々其等隠者の方へ移つて行つた。此が、武家初期・中期(室町以前)から後期の初めに亘つての隠者の文学と、変態な生活法とを作つて行つたのだ。
かうした修道生活の徒の存在が明らかになつたのと、連歌復活とは、時を一つにして居た。だから女房の文学と、隠者の文学との交替を、時のめどとして、時代をくぎつてもよいのである。庵室に住んでゐるのが、隠者についての先入主だが、此時代の隠者には、まるきり僧侶の制約に従うて、唯定住する所を持たぬを主義とする、雲水行脚の法師も籠めねばならぬ。其上、かうした階級の発生点になる人々の事も考へねばならぬ。身分は、公卿の末座、殿上人の上席などに居た者で、文芸・学問・格式などの実務に長く勤めた経験家が、其である。此は、歌会・歌合せには、古く五位の文官・武官などの歌詠みと聞えた者の、召される習はしがあつた為である。さうした人の一家をなした後を承けた子孫にも、この部類の人があつた。さうした文芸・学問・格式などに通じた、謂はゞ故実家に過ぎない人は、老後、法体して隠居しても、家を離れないで、俗生活をしてゐる。さう言ふ文芸的故実家の伝統は、存外早く現れないで、王朝も末一世紀半の中頃から、目について来るが、此までの歌論家・歌学者は、大抵、公卿の中位以上の人であつたが、文芸を愛好する階級も段々下つて行つた此頃になると、さうした故実家は、公卿の末席か、其以下のものに多くなつて行つた。権門に出入りして、私に親方・子方に似た関係を結ぶ風が、盛んになつて行つた。
題材や格調の新しい刺戟が、詩歌合せから歌合せに来た。わが文学評論の初歩と見る可き歌学・歌論は、歌合せの席上から生れたのである。新しい歌合せは、歌評から見ても、前代の歌学書・歌論書よりは、用語も、態度も、論理も、鑑賞も、文学的になつてゐる。前代の歌合せの左右講師になる人は、歌の学問・故事を知らねばならぬのだから、講師に択ばれる様な人は、段々師範家と云ふ形をとる。さうして其が、判者となり、勅撰集の選者たる地位を得る。名高い歌人は、文学者と云ふより、歌学の伝統を守る者、と云ふ方がよい位だ。其最後に出て、歌学の伝統をあら方集大成したのは、藤原俊成である。此人の態度は、即新古今集の中心となつた歌人らの主義と見てよいであらう。俊成は、神秘主義に煩はされてゐるが、芸術報恩説に達したのは、一途であつてうや/\しい性格と文学に持つ愛執の深さからである。
鴨長明のやうな半僧生活の修道者もあれば、又、西行の如き法師も含つてゐる隠者階級には、かうした堂上の故実伝統者も数へねばならぬ。此流の者は、皇族を大檀那とする事によつて歌道の正統なる事を示し、中央地方の武家階級の信用を固めて、利福を獲ようとするまでになつた。定家が既にさうであり、其子孫皆、其方便に従うた。あちこちの権門をたのんだのが、かう言ふ意義から二流の皇統にわかれて奉仕した。新古今時代には、一時、伝統のまゝそつとして措いて、各流から超越した態度を示した。此も、新古今集の批判に忘れてはならぬ、極めてよい態度である。後鳥羽院の個性を、おし貫かれた結果である。
歌道の故実家伝統の間から抜け出して、新しい暗示をば具象化しようとした俊成の代表作物は、実は彼自身の感じた、正しい未来の文学其物ではなかつた。新古今の歌人たちも、俊成風の正しい成長と思うて居たであらうが、此また逸れて外核ばかりを強く握りしめたに過ぎない。長明・西行・俊成を三つの隠者の型に、其が由来する所を説いた。此後続いた隠者の外的条件は、鴨長明がしたと信ぜられてゐる、第一の様式である。こゝに言ふ武家初期と、中期全体、それに末期すなはち江戸のさしかゝりまでは、かうした隠者が文学の本流になつて居るのである。
此時代に進むと、隠者の存在は、必然の意義を社会に持つものと見えて来る。俊成などの、道を開いた頃とは、非常に上辺ウハベを改めた。だが、中心たる女房時代以来の文芸顧問の意義は何処までも続いた。而も大変改のあつた様に見てくれを作る根本原因となつた。消息文・贈答歌の代作・代筆は固より、物語を読み聞かせたり、創作の手引きをする事は以前の通りである。物語の扱ひ方は、古書講義と言ふ形をとつた。創作の手引きは、連歌誹諧指南を表芸とする連歌師なる渡世を発生した。文学の職業化した、日本での最初の形である。
代作・代筆は、艶書の場合が多い。吉田兼好の、あはれ知らぬ荒夷あらえびすの為に書いたと言ふ艶書一件は、自作ならぬ歌が入つて居た処で、うそ話と言つて了へない隠者らしい為事なのだ。兼好が代表となつて、室町頃の隠者生活を語つてゐるのである。頓阿も兼好も、法体してゐるからと言つて、女房伝来の為事をしないはずはない。此等の人は、歌も作り、連歌も教へたのだ。ナラビ个岡の隠者のした旅も、西行の行脚とは違ふ。宗祇・宗長等の作と伝へる沢山の「廻国記」も、西上人の姿を学びながら、檀那場なる武家・土豪の邸々を訪問する一種新様の「田舎わたらひ」の副産物であつたのだ。
南北朝になつては、二十巻の連歌集は、選者摂政関白名義で奏覧まで経て、勅撰集に準ぜられる様になつた。かうした連歌の文学的位置の向上と共に、連歌も誹諧も、又連歌師自身の境遇も、よく改つて行くのは、其はずであつた。隠者の様式・条件の具らぬ隠者も、段々出て来た。髪の禿かむろに切つたものも現れた。聯想が変化自在に、語彙の豊富で、拘泥を救うて一挙に局面を転換させる機智の続発すると言つた素質さへあれば、町人・職人も、一飛びに公家・大名の側に出られる様になる。原則である隠者の生活の禁慾主義も、同朋の仲間に入れられたものは、或点まで実行して居たが、外に住む自由な連歌師には、妻も迎へ、髪も短く蓄へた輩もあつた。此が、室町末から安土・大阪時代を経て、江戸の元禄頃まで続いた、連歌師渡世の外輪である。
江戸の初めの戦場落伍の遊民たちの大阪末の成功夢想時代から持ち越した、自恣な豪放をてらふ態度は、社会一般に、長い影響を及した。うき世の道徳や、世間の制裁などを無視する様な態度を、心ゆかしにしてゐた。どだい、隠者階級の人生観は、伝統的に異風なものに出来てゐる上に、かてゝ加へて、此気質カタギが行き亘つてゐた。
歌や、ふみや、物語で、ものゝあはれを教へるばかりには止らなかつた。色里へ連れ出して「恋の諸わけ」を伝授するまでになつた。武家の若殿原には、此輩の導引で頻りに遊蕩に耽溺する者が出て来た。「近代艶隠者」などを書いた西鶴にも、やはりかうした俤は見られる。幇間の初めをした色道伝授に韜晦生活の仄かな満悦を感じた人々の気分は、彼自身の中にも、活きて居たであらう。時勢が時勢なり、職業が職業の誹諧師だから「艶隠者」は、其実感を以て書いたものである。「一代男」其他で、諸国の女や、色町の知識をべてゐるのは、季題や、故事の解説を述べ立てるのと、同じ態度なのである。優越感を苦笑に籠めて、性欲生活に向けて、自由な批評と、自分に即した解釈とを試みてゐる。
其角も誹諧師であるが、同時に幇間と違ひのない日夜を送つてゐた。彼の作と伝へる唄を見ると、如何にも寛やかな、後世の職業幇間の心には到底捜りあてられさうもない濶達と、気品とが、軽いおどけや、感傷の中に漲つて居る。女歌舞妓の和尚・太夫などの、隔離地とも言ふべき吉原町を向上させ、大名道具と謂はれるまでの教養を得させたのは、これ等遊民(隠者階級)の趣味から出たのであつた。
一蝶・民部・半兵衛などの徒に、理くつの立たぬ罪名で、厳罰を下される様になつたのには、わけがある。隠者階級の職業を、歴史的・慣習的に認めてゐたので、此方面をあまり問題にする事は、ぐあひが悪かつたらしい。こんな変改を重ねて行つた其種子は、俊成・長明・西行・俊恵あたりに既にあつたのである。歌道師範家は堂上の隠者から、地下の隠者からは連歌師が岐れて、堂上に接触するやうになつて、隠者・寺子屋主の房主以外に、一つの知識階級を立てたのであつた。中間の、一番法師らしい西行式の生活は、だから隠者一類の理想でもあり、凡人生活との境目になつて居た。
隠者がつた「月清集」を見ても、表面には、平安中期からの内典読みを誇つたなごりや、法楽歌や、讃歌や、僧俗贈答、或はずつと隠者を発揮した漁樵問答などゝ随分あるが、全体の主題は、新古今集風をゆるめた、やや安らかな気分なので、謂はゞ千載集に近い印象を受ける。文学上、後鳥羽院と互ひに知己の感の一等深かつたらしい良経すら、家集と新古今では、此位違ふ。上辺ウハベは、難渋な作物ばかり作つたらうと思はれる定家・家隆なども、家集の拾遺愚草其他や、壬二集を見ると、生れ替つた様な――悪い意味ながら――自由さが見られる。だから、新古今集の主題と考へられて来た、あの歌風の中心になるものは、歌人連衆の雰囲気が作り出した傾向であつたのだ。歌合せの醸した群集心理であると謂へよう。
唯、其音頭をとられた後鳥羽院の性格・気分が、一番其に近かつた。さうして、其が流行を導き、後々は、院一人其を掘りこまれる様になつた。だから新古今は、後鳥羽院の作風の延長と称しても、大した不都合はない。だから、今度の「新古今抄」すなはち隠岐本は、其意味に於て、院の歌風・鑑識を徹底的に示した、理想的な「新古今集」と言ふことが出来よう。

     三 至尊歌風と師範家と

増鏡「新島守り」の条では、声のよい教師のえろきゅうしょんなどを聴かせられると、今も、中学生などは、しんみりと鼻をつまらせる。あの文章で、一番若い胸をうつのは、地の文ではない。やはり院の御製である。今からはやや事実に即した、叙事気分に充ちたものと思はれるが、あの当時の標準からは、最上級に鑑賞せられてよいはずだ。院の御不運を、うはの空に眺めた排通俊派の公卿たちも、あれを伝聞しては、さすがに泣かされて了うた事であらう。あの時代としての、最近代的な歌風であつたのである。創作因となつたはずの、
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと、人には告げよ。蜑の釣り舟(小野篁――水鏡・今昔物語)
わくらはに問ふ人あらば、須磨の浦に、藻塩垂れつゝわぶと答へよ(在原行平――古今集巻十八)
小野篁・在原行平が、同情者に向つて物を言うてゐるのとは、別途に出てゐる。
われこそは新島守りよ。隠岐の海の あらき波風。心して吹け(後鳥羽院――増鏡)
此歌には同情者の期待は、微かになつてゐる。此日本国第一の尊長者である事の誇りが、多少外面的に堕して居ながら、よく出てゐる。歌として、たけを思ひ、しをりを忘れた為、しらべが生活律よりも、積極的になり過ぎた。さう言ふ欠点はあるにしても、新古今の技巧が行きついた達意の姿を見せてゐる。叙事脈に傾いて、稍はら薄い感じはするが、至尊種姓らしいガラの大きさは、十分に出てゐる。
此院などが、至尊風の歌と、堂上風――女房・公卿の作風から出る概念――の歌とを、極端に一致させられた方だと思はれる。此王朝末から移るゆきあひの頃だけ見ても、皇室ぶりの歌は、公卿の歌風とは違うてゐる。個々の作品に就てゞはなく、主題となつてゐるものが別なのだ。此は、精神的伝承もあり、境涯から来る心構への相違からも来ようが、概して内容の単純な、没技巧の物で、生活から来る内律の緩やかな、曲折の乏しいものであつた。崇徳院あたりから、おほまかな中に、技巧の公卿ぶりが、著しくなつて居る。典侍相当の女房の手を経た昔の宣旨様の手順で、口ずさみのまゝで示された御製が、後々推敲をせられる様になり、文芸作品としての意味で、度々臣下の目にも触れる。
かうした傾向は、王朝初期百年の終り頃から見えて来て、臣下から、歌を教授する風も、出来たのだらう。歌式が段々力を持つて来るに連れて、至上の為、或は皇子の為の歌式・歌論・標準歌集などが出来る。私は、伊勢・貫之などに代表させて、御製相談役の成立した頃の姿を考へてゐる。降下せられた御製を書きとり、又写し直す女房は、古くは添刪にも与つたらしい。歌読みで同時に歌式学者であつた――古今序にさへ歌品を序でた――貫之風の殿上人が召される様になつたのは、後の形だ。御製が、宣命と同格に考へられた時代が去つて、御製の詩文に与る博士や、警策の聞えある公卿などの態度を、移す様になつた。此風が、中期の村上朝の成形となり、和歌所が出来たのである。
奈良以前は、長く歌の謡はれた期間が含まれてゐる。大歌を扱ふ雅楽寮の日本楽部――或は其前身――の歌人・歌女が、声楽以外に詞章の新作に与つた様である。此が、日本紀にある当世詞人(崇峻紀)や、斉明天皇の御製を伝誦したとある――実は代表者――歌人(孝徳紀)や、天智の亡妃を悼む心を代作した詞人(孝徳紀)や、万葉巻一の夫帝の山幸をねぎらふ歌を後の皇極帝の為に、代つてもたらした――実は代作――との理会の下に、姓名なども伝つた人のある訣である。此宮廷詞人が、声楽を離れて、詞章の代作に専らになつたらうと思はれるのは、柿本人麻呂などが初めの形であらう。宮廷詞人は、祭事・儀礼の詞章を作るばかりになつて来る。宮廷巫女なる内外の命婦以上の高級官女が、臨時・非公式或は、至上個人としての相聞・感激の御口占クチウラに、代作或は添刪に与る風が、殊に著しくなつて来たらしい。其でも、詞章の伝習的律格と、発想上の類型を守つてゐた。其で、至上は固より皇族の歌風は、単純化された、古典的で大柄で、悪い方から言ふと、印象の不鮮明な、内容の空疎な、しらべの無感激な、描写性の乏しい物になつて行つたのである。此が、至上の生活に親しい侍臣や、宮廷生活を模倣した高級公卿などの歌風をも支配した。
公卿殿上人の歌が民謡・詞曲又は唱文としての製作から、文学意識を加へ始めた頃のものは、伝来の叙事詩或は、其断篇なる由縁ある雑歌の新時代的飜訳であつた。宴遊歌の発達して出来た叙景詩の素地も、其外に古くからあつた。叙事脈の賦・伝奇小説・情史・擬自伝体艶史の影響が、新叙事詩を作り出した様に、稍遅れて、漢詩の観察法・発想法が、宴遊・覊旅の歌の上に移されて来た。公卿以下の短歌が文学態度をとつたのは、叙景詩以後で、其初めのが、万葉巻八・十に出て居る。
公卿殿上人の歌風が定つて来た平安初期から、そろ/\地下ぢげ・民間でも、民謡以上に、創作欲が出て来て、前期王朝の宮廷詞人の様に、地下階級の吏民にも、歌人が現れて来た。此人々は固より、殿上以上の歌風を模倣して出たのだが、稍自由な、感覚の新しさや、多少の時代的色彩があつた。かうした地下の歌風が混じて、殿上の歌風は、取材は新しいが、感激の伴はないもの、感激は見せても理智からわり出した機智式の趣向やら、新鋭なものと、鈍重なものとの接触から来る折衷態度が、古今集の歌風を濁らした。
併し其が、地下の武官忠岑や、地下に近い博士の血を享けた貫之等によつて導かれたのは、貴族階級の文学の弱点を示してゐる。一番外来の刺戟を早くとり入れるが、固有の物にさうであつた様に、新来の物に対しても、把持力が薄い。其為に直様、在来の類型に妥協させて、新しい特殊な点を忘れて了ふ。外面と概念とは会得しても、内生活には、没交渉な鵜呑みの模倣をする。階級意識から出る文化主義や、虚飾態度を、儀式制度と同様に文学にもとり入れた。だから、新しい皮嚢かはぶくろに、依然、老酒が満ちて来てゐた。でも、見るから古めかしい物よりも、新しい題材や、技巧は目に付く。かうして、古今集の歌風は、宇多の趣味・醍醐の鋭気に保護せられて、奈良以来の旧貴族階級の歌風を圧倒した。
かうして新しい貴族風の歌は出来たが、其最初から角のすりへらされた、近代的感覚のないものであつた。此点ばかりに就て言ふと、新古今は、傾向としては、遥かに存在の意義があるのだ。古今の作者不明の旧時代の作物が――選者等の鑑賞に適した物とは言へ、――十中八まで、選者以下当代人の作物より優れてゐる事は、主義の上ではよくても、創作態度や、生活力の劣つて来た事を見せてゐる。後撰ゴセン集には稍旧貴族風に戻さうとする無意識の動きが見えてゐるが、其とても古今の歌風の固定して来た為の、空似かも知れない。其以後、古今集の成立に、醍醐聖帝垂示の軌範と言ふ意義を感じて、此歌風の中での小変化は許されても、飛び離れた改革は行はるべきものとは思はれないでゐた。
短歌では、万葉集――別の理由で、ある部分まで、勅撰の意義を持つて編纂せられたらしい――を除けると、漢詩文よりも、欽定集が遅れて出た。文学としての価値の公認の遅れた為だ。嵯峨朝の欽定による漢詩文より、五十年後に短歌選集の勅撰せられたのは、国民的自覚と言ふよりも、其動力となつた漢文学の思想に対しての、理会のなくなつて来た反動である。後撰を勅撰し、更に漢詩文集を欽定せられたのは、醍醐の事業に競争意識を持つて居られた村上天皇であつた。此欽定事業は奈良以後平安初期に続いた漢詩文の復興を期する意味と、一種の文化誇示の目的との外に、文学史風に見れば、外国文学の最後を記念する標本を立てた訣である。だから、醍醐が短歌を文学として承認せられ、漢詩文と対等の位置に置かれた因縁は、明らかである。
新撰万葉集が果して菅家の編著であるなら、古今集と時代を接して、既に対等の文学価値を認める傾向のあつた事が知れる。而も一代の学者たる、権勢家の手になつたのである。譬ひ聖経に対する――和讃の形式を模したとしても――或は又修辞上の便覧書であつたところで、更に或は、倭漢朗詠集の前型として、声楽の台帳の用途を持つものにしてからが、短歌の価値の認められ出した事は明らかである。国文学史の上に、平安王朝の前百年を、中百年余と、末一世紀半とに対して、区劃する所以である。

     四 歌枕及び幽玄態の意義変化

宮廷の日常交際の古歌引用は、流行に影響せられて行つた。勿論、其前に平談のみか、贈答の歌にも知識を誇つて、古歌を符牒式に引用する風が起つてゐた。其がかうじて、近世の人の名高い作品や、歌合せなどの読み捨てや、同僚の作物まで、浮ぶまゝにとり入れる様になつた。すべて口疾さと、人の考へつかぬ作物まで利用する技巧を誇るのである。其外に、相手の歌の一部分をとつて和する歌の形なども、確かに其導きである。当時有名であつて、家集・選集・歌合せの記録に登らずに了うた歌も、本歌に引かれてゐる訣だ。出典不明の歌はおほく此類である。かうした風が、宮廷女流から、歌合せ・贈答などを媒介にして、公卿殿上人の間にも感染して行つた。此が、物語の歌にもとり入れられる。歌合せの如き、技巧の問題を主とし、而も多少場当りの許される会合への出詠には、段々本歌式の歌が出て来る。かうして、本歌のとり方に巧拙を競ふ様になる。さうした傾向が序歌系統の修辞法に入る。詩の故事を含む形で、本歌をとり込む様になる。
よき人のよしとよく見て、よしと言ひし 吉野よく見よ。よき人よ。君(天武天皇――万葉巻一)
此は必、昔あつた吉野の国ぼめの歌、或は呪詞を考へてゐるのだ。かうした飛鳥末の御製にも、本歌の起る兆は見えてゐた。其が技巧上の常套手段として明らかに認められて来たのは、平安中期の日記歌隆盛の時代だつたのである。
あしびきの山の雫に、妹待つと、われ立ち濡れぬ。山の雫に(大津皇子――万葉巻二)
を待つと 君が濡れけむ あしびきの山の雫にならましものを(石川郎女――万葉巻二)
此唱和は、鸚鵡返しの無技巧と、別方法で、同じ効果を収めてゐる。唯、最後の「ならましものを」一句で、全然思ひがけぬ方面へ転じてゐる。一種の本歌の導きである。古今集の本歌どりの技巧は、万葉のとは変つて来た。
世の中は何か常なる。飛鳥川 きのふの淵ぞ、今日は瀬になる(読人知らず――古今巻十八)
を返して、
飛鳥川 淵にもあらぬ我が宿も、せに変りゆく物にぞありける(伊勢――古今巻十八)
と言つた風にしてゐる。が、大体は後の本歌とは違ふ。万葉は、もう人には知れなくなつたので、近代様にすると言ふ所に、飜訳の技巧を示す積りだつたのだらう。此は随分数が多い。
奥義抄に盗古歌として挙げてゐる類は、皆飜作である。
むすぶ手の 雫に濁る山の井の あかでも 人にわかれぬるかな(貫之――古今巻八)
掬ぶ手の 石間をせばみ 奥山のいはがき清水 あかずもあるかな(人麻呂――万葉とあるが、実は、古今六帖)
貫之の歌は人麻呂に対して、既に一種の本歌意識を持つて居たらしい。此技巧の洗煉せられて来たのは、女房の力であつた。平安中期になると、本歌の部分も、すつかり融けこんだ姿を持つた。挿入句として孤立してきはだつて見えたものが、却つて曲折となり、しなやかな弾力を感じさせた。外形に調和した本歌は、内容としては即かず離れず軽い様で、効果は却つて重かつた。
新古今になると、本歌を自在に駆使する一方、本歌に飽いて来た傾きが見える。前の一面では、本歌を思ひ当てなくても、一通り意味は訣り、或は感ぜられる様に、歌全体をしたてるのが、最進んだ態度である。が一方には、本歌入りの句の、全体に与へる曲折に感じ馴れた気分性を利用した。歌の一部を急転させて違つた意義を導いたり、前句との連続に意義の上に軽い渋滞を感じさせて置いた上、読者の習性を利用して、わづかに、かけ語や、語感を契機に飛躍させる。此訣つた様な訣らぬ様なあり様に、つきはなして了ふ。気分では覚つても、描写追求性からは解決がつかないまゝである。かうした間に、余韻と言ふより寧、象徴性の暗示をば感じさせようとした。
頼めずは、人をまつちの山なりと、寝なましものを。いざよひの月(太上天皇――新古今巻十三)
年もへぬ。祈る契りは、はつせ山。尾のへの鐘のよそのゆふぐれ(定家――新古今巻十二)
かうした気分本位の歌風を、幽玄体の極致と考へて行つたらしい。
尚二つの観察点がある。其は、王朝末になつて激増した託宣・夢想などに現れた神仏の御作と伝へられたものゝ影響である。神祇・釈教歌の歌類を立てさせたのは此が主因で、副因としては、隠者の歌を導いた寺家の歌風の流行にある。託宣の歌は、どこかに意味不徹底の語があつたり、おほまかなしらべの内に、人を寛けさとたのもしさに導く気分性がある。
なほたのめ。しめぢが原のさしも草。われ世の中にあらむ限りは(釈教歌――新古今巻二十)
と言ふ清水観音の詠と伝へる歌などは、殊に象徴的に響く。本歌がありさうでない処に、沈黙の芸術としての価値も、ある文学論者からは与へられさうだ。だが、此歌は、無知の歌占・尼巫子などの平俗な語彙にやどつた、放心時の内的律動の姿である。勿論、社会意識の綜合せられた一種の暗示を、唯普遍的な語と句との列りから出した、優越感に充ちた音律で、社会を抱括する様な語感を持つてゐる。而も辻棲の合はぬ空疎な個処がある。
俊成も「しめぢが原」や、住吉の諸作、其他の神仏詠から暗示を得たものらしい。平明な中に、稍寂寥感を寓した、無感激な物を作り出した。此が後進新古今の同人の信条とせられてゐた。此があたかも形式万能主義殊に、連歌の影響から、聯想で補ふ句の間隙に興味を持つて来た時である。意義の断続の朧ろな処を設け、又かけ詞・縁語・枕詞などに、二重の意義を持たして、言語の駆使から来る幻影と、本来の意義とを殆ど同等の価値に置く様になつた。
即ち、幻影の不徹底な仮象と、本意のおぼろな理会との、交錯した発想を喜んだのだ。一面、暗示的なのと同時に、描写風な半面がある。外界の現象は即、内界の事実であり、心中の感動は、同時に自然の意思である。文学的に言へば、象徴主義の初歩だと共に、象徴の上に、更に感覚を重んじたのであつた。形式と、内容との印象を極度に交錯した。さうして其間に間隙を作つて、複雑な動きの間、瞬間の沈黙を置いて、更に次の激しい動きに移る。静的な幽玄主義が、動的な新古今風の姿――即たけ――の極端に緊張した、内容の錯覚的な官能的幽玄主義に展開した。四季の歌では、印象派の様な気分的の物もあり、又古今以来の絵画主義を拡げて趣向歌のまゝで感覚表現に突進したのもある。宮内卿の歌の様なのが、其だ。此人の作物は、経信以後の趣向歌或は、絵画美に囚はれてばかりゐたとは言うて了へぬ。時代がよくて、其上、命が更に長かつたら、玉葉・風雅の永福門院に達するはずであつた。自然の上に対して加へた人為的構図も、此人にとつては、わるいと共によくもあつた。趣向歌の臭味におほはれないで、鋭い感覚が写されてゐるのである。
幽玄主義の歌は、新古今集に到つて、瞬間に起る実感・観念の雑多な交錯を同時に表す態度まで進んでゐた。唯さうした意識はなく、幽玄体の名の下に、物我融合の境涯を理想しながら、たけを重んじた。遂に物我の混淆・擾乱の中に、官能の病的な複雑さを言語の錯覚から感じさせようとした。此点、新感覚派には近い。音律と題材との美によつて、整頓しようとしてゐたが、其もだめであつた。唯近代的な感覚を基調として、美しいものと信じた自然現象に、人間生活を合体させようとした。さうする事が生活を美化する手段だとした。明らかな意識の下に動いたのではないとして、さうした態度は帰納してよい。
古今集風の弊は、ある意味では、醇化もせられ、強調もせられた。だが、すべてを、言語の音覚と排列とによつて決しようとした形式偏重主義は、日本文学の成立以来久しい歴史を経てゐるが、実感をしらべに寓して内容が直に形式になるやうに努めないのが悪かつた。形式から内容を引き出さうとした結果、病的な近代主義を発揮する様になつた。古今集の寛けさから脱出して、強さ・鋭さ・粘り強さを形式から出さうとした。深さに似たものも、わからぬ歌には出て来てゐる。しかし、内容の形式化した強さでなかつたから、華美・はいからと言ふべき感覚の強さと、文学者として発達した鋭さは、近代的な感覚を表現した。併し自然・人・人生に対する直観力を示す様な心境に、作者の心を誘ひ出さなかつた。真の深さは、形式からは常に来ない。強い姿は結局、女のしつかり者と言つた形であつた。強さのない所に、憑しさは出て来ない。真の文学と信じ、その表現する所が、吾々の規範に出来るとたのむ気持ちにはなれない。
至尊の先導せられた歌風が、かうしたものになつたのは、あまりに歌を好んで、綜合を試みられた為である。俊成の歌風にも、たけは著しく現れてゐた。其が一番、至尊として、生活律に適するやうな境遇を自覚する特殊な心を持つてゐられた。改革を欲する心は、強い刺戟を常に加へなければならなかつた。性格も自らさうであつたらうし、境遇も此通りであつた。古今集の影響も十分に入り込み、歌の教導者の主張や、個性から来る発想法の印象も止めない訣はなかつた。かうした事がかさなり/\して平安朝末に既に至尊風の歌風は、特殊性を失ひかけて居た。至尊族伝来の寛けくて憑しい歌風は、鈍くて暗くなつて居た。でも至尊風の歌は、隔世的に現れた。
けれども大体に於て、至尊の歌は、境涯の無拘泥を思はせる寛けさを、或点まで具へて居た。殆ど自らにしてなつたとき見る可き、修養によらぬ歌人の出られる事も、時にあつた。至尊族の生活法が、一番短歌の創作動機を自然に起し得る様になつて居たのかも知れない。僅かの物語や、作物を耳にしても、其が因になり得た。何かの感激に触れると極めて自然に現れて来る寛けさがあつて、同時に託宣歌の様な空しさがなく、満ちて居る。憑しい感を起させる。併しさうした歌風も、外部からの知識によつて濁らずには居ない。平安朝以来歌を好まれ、歌人の保護者となられた天子は、却つて至尊風を遠ざかつて居られる。崇徳院・後鳥羽院・村上天皇などは、其例に当られる。
後鳥羽院が其鋭い感受性から、個々の特殊性を直観せられた古来の歌風にも色々あつた。至尊風の素地に、殿上ぶりの歌を加へ、古今集ぶりを容れた。又曾根好忠の平然と旧技巧を突破した新描写法、無知と無関心とに幸せられた固定解脱、又は、伝襲を逸れた所に生じた新鮮な印象、野性と野心とから来る作物の憑しさ・強さ・鋭さ。もつとも、深さ・寛けさは欠けてゐるが、明るさは著しい。此作風もとりこまれた。
好忠の無知はむしろ、無識といふ方に属すべきものであつた。形式及び、言語の制約、聯想上の特別な約束、さうした物の出来かけた時代であつた。而も国文学・国語学としての研究に、学問でなく知識としての臆説が学者及び歌道伝統家の間にのみ伝つて居た。世間は、其を知らないのが普通であつた。御歌会・歌合せの判者・講師としての位置に居る伝統者・学者の説によつて、誤りない用法に指導せられるだけであつた。だから、地下や五位級の召人にして、宮廷の御歌会・歌合せに稀に出る事の出来た衛府や、内外の判官級の官吏の歌の地下ぶり・鄙ぶりは想像出来る。歌としての風格や、発想法の異色・題材の新鮮な点は、堂上歌人の舌を捲かせる。而も、其用語の誤用・禁忌・歌病に触れる事によつて、僅かに嫉妬心を冷笑に換へさせた。寺家の歌の治外法権式の位置を占めたのとは別であつた。作家と学者とは一致せねばならなかつた。
曾丹と言はれたのは、学者・詩人階級から出た曾丹後ソウタンゴが、渾名化して更に略称せられたものに違ひない。曾丹後には、漢詩の教養が多少あつたに違ひない。其から出た観察点に至つて、図案化態度に換へるに、感覚的に、或は即興的に、詠み捲いた。故事や、様式上の考案も、意識的に学者源順などの方法の外に出てゐる。思ふに、曾丹は、あの作物を残したに拘らず、儒者気質の頑冥と、自負と、卑陋とを含んでゐる点、其出身の学曹たる事を暗示してゐるのである。源順などゝ識つたのも、さうした関係からであらう。

     五 儒者の国文学に与へた痕

曾丹は、女房歌の抒情主義に対して、叙景態度を立てた人であらう。或は寧、情趣本位の主客融合境地をおし出して来たものであらう。古今「よみ人知らず」の風である。梨壺の歌人は、学者と伝統者とであつた。学者は、漢学見地から、短歌に学術的の基礎を与へようとする為に置かれたのだ。曾丹の出た時分は、詩文における故事・類句を見習うて、歌の上にもさうした物によつて、歌の品位と学問的位置が、確かにせられようとしかゝつた時であつた。まくらごとが歌としても生じなければならなかつた。和歌所の人々は、万葉・古今其他から其を採り出さうとした。
曾丹は、稍方面を異にした。気候方位の月位の月令式主題を採つて、之に恋歌を対立させた。其所属として口ずさみ歌――手習歌にも――にとの考へだらう。雑の部にでも入れるべきものを列ねてゐる。二個所、四季・恋の次に、五十首づゝある。方位に属する物名の歌は、其中十首で、呪文などの形に模した物らしい。此は、四季・恋に対するザフとも言ふべきものである。雑歌が歴史的の意義を持つてゐる事は明らかであつて、謂はゞ、歌物語を簡明に、集成したものであつた。
曾丹集に此条には二個所とも、安積山・浪花津の事を記してゐるのは、多分好忠の新作で、古風を模したものであらう。同時に、口ずさみ歌を手習ひに用ゐた事も知れ、其が歴史教育の積りの物語歌であつた事も訣るのである。さうして歌の功徳を呑みこませたものである。其上此歌は「あさか山」の歌と「浪花津」の歌との一音づゝを句の首尾に据ゑた言語遊戯になつてゐる。
手習帳を双紙と言ふことも、用語の上からの名で、冊子と謂はれた体裁の本が、多く手習ひに用ゐられた為、手習ひに使ふ物は、皆冊子といふ事になつたのだ。折り本の法帖風の物が、習ふ者・教へる者両方に用ゐられたのであつた。口遊クイウ・枕冊子はじめ、倭名鈔・字鏡・名義抄の類から経文類まで書写せられる様になつたのである。さうして、事実と文字と、語彙と、社会知識とを習得させるのだ。
其が少年から成人にも引き続く。平安中期以来の教育法である。かうした物の外に「連ね歌」がある。述懐を表す形式の様である。尻とり文句である。此は元、問答体から出たので、小唄にも讃歌にもあつたのである。上句・下句を連ねるものばかりとは言へない、連歌の一体なのである。又四季の歌の初め処々に、長歌があり、又はしがきや、集の序などがある。一つは律文、一つは散文と見えるけれども、根本的には同じ物である。
源順集の序にも、さうした傾向が見える。古今序などゝは、大分、音律関係が変つて来て、後の白拍子・隠士の文の発生を思はせるものだ。これ等(或は、後の――男性の――編纂者の書き入れかも知れぬ)新しい景物や、地名や、小唄・神歌や、四季の人事などを媒にして、歌心を助け出さうとしてゐる事は明らかだ。形式や、表現或は部類から見ても、四季・恋・雑の外に物名・誹諧などの言語遊戯も見せてゐる。つまり一種異様な自選家集で、枕冊子の一種らしい企てを示してゐる。発想法の上から言ふと、わりあひ苦心なく、十二个月歌だの、百首歌などを詠んだらしい。だから、単語の用語例に無理はあつても、短歌のしらべには関せぬものが多い。恐らく古今集のよりは、古今六帖に近く、又其をもまるきり敷き写す事をせず、ことわざ・民謡の短歌の形で残つた物のやり口をも、とり込んで居たのであらう。大体に亘つて、曾丹風は、先輩歌人を通じても、又上皇自身直接にもとり入れてゐる。
源経信は実は、後鳥羽院の言を俟つまでもなく、平安末期百五十年の初めから中頃へかけて出て、歌の転換の方向を示した人である。今残つた歌は尠いが、其で推しても、芸術家らしい素質は十分に見える。曾丹と俊頼との、年代からも作物からも、ちようど中間に位する人である。曾丹のしらべが寧、古今調だつたのに比べると、彼は著しく変つて来てゐる。王朝末の歌人は、古今に亘り、敵御方みかたの歌風を咀嚼して居た。其風の早く著しく見えたのは此人で、巧みに古態と今様とを使ひわけてゐる。
此以後、王朝末の歌人は、多く前代調と新調とを詠み分ける様になつた。さうして両派に対する同情もあつた。俊成は固より新古今の歌人は、女房を除いて殆どすべてさうであつた。此は、歌合せに新様、御歌会には旧調、勅撰集入選の為には、両様に通じて置く必要があつた為であらうが、歌合せにおける歌論の素養として、さうした理会力と記憶と、其運用の自在を尊んだのであらう。
経信は、此気運の先導者であつた。歌合せの中心として重んぜられ、次第に勅撰集批判などもする様になつた。かうして一世の歌の知識と云はれた。此人前後から、歌合せの博士の様な形が出来て来て、次第に歌派の対立が生ずる様になつた。旧風は公卿風のものであり、新様は趣向歌である。此が調和しては、経信の清醇・寂寥な境涯が開けた。此歌風に於ける両態と歌学とが俊頼に伝り、彼は新風の方へ専ら進んだ。

     六 前代文学の融合と新古今集と

俊頼は、親経信程の天賦はなかつた。が、野心があつた。歌枕の存在を明らかにした。枕ごとは多くあつても、まだ組織せられて居なかつた。其を民間伝承、即、異郷趣味を唆る様な、特殊な地方風俗・名産・方言或は――既に固定した文学用語・枕ごと以外に、古典的な清純な感情を起す体言・用言・助辞なども、現代通用の粗雑な整頓せられない都鄙の口語文法などから、識別採用する風雅意識は十分にあつた。現代語・庶物説明説話の童話に近い親しみを持つたもの――かうした精神伝承に関してゐるものも、目標にして居た様である。だから大体やはり、民間の物ながら、古典の味あるものをとつた訣だ。
此は、好忠も或点まで、組織なしにではあるが、用ゐてゐた。俊頼はかうして、歌の世界に刺戟を与へたが、自分の作物は、破壊意識の為やら、用語や題材から来る過度の音調の緊張やらから、態度の露出した不熟な物が多かつた。其新題材、或は新用語を、芸術化する整頓・融合のしらべがなかつた。感じ方・とり方・表し方などが、一向旧来の型を出て居なかつた。其為、俊頼の事業のすべて歴史化した今でも、しつくりと来ない。やはり騒しい歌が多い。散木奇歌集の奇歌の義が叶ひ過ぎて居るのは傷ましい。
此外にも、基俊の古風がある。万葉集に拠ると称して、俊頼に対抗したが、俊頼の歌風――むしろ情調――が万葉風に感じられるのに、此は万葉の中の題目や名辞、稀には本歌をとり出したに過ぎない。歌枕の採集地として、万葉を扱うたまでゞあつた。尚、一流、藤原顕輔があつて、俊頼とはり合うた。
此時代から、武家の勢力と、習慣とが、次第に沁み込んで、系図と家職との関係が浅くなつた。一方又、儒学の伝統式を移してもよいだけの学問的組織と公認とを持つて来てゐたのだ。大江・菅原又は藤原の庶流から出た儒学者の中にも、歌の方へ方向を転じる者も出来て来た。顕輔系統と俊頼系統との外に、尚幾流も、さうした半成立の歌学伝統が出来かけて、一二代で、伝統を失ふ者もあつた。大体に、顕輔統には、歌学・歌論が多く、俊頼統には、尠かつた。
俊成は、顕輔伝統に養はれて居た間に、其に通じて了うたのであらう。基俊の学殖と、古態の歌と、俊頼の今様の詠み口を併せて、更に其他の諸家の主張や、伝承を吸ひ込んだ。其上、古今・伊勢・日記・家集などを研究した。大成家であり、伝統の綜合者でもあつた。其作物を見ても、ある物は寧、平水付した様に見え、諸派の味ひを兼ねて居る様であり、ある物は、個々の流義に傾いてゐる様に見える。古態・新態・変態・漢様・寺家様・至上風・女房風・殿上風・地下風と変化自在に見える。
だが、この人の素質にぴつたりしてゐるらしい歌風は、女房風のものらしい。俊成の若盛りから女房風は、纏綿連環のしらべを著しく見せて来た。小股すくひや、人ぢらしははやらず、心くらべの形になつて来た。物語歌と地の文との関係に創作動機の別殊な動きを感じて、此をとり入れようとしたのは女房風に対する理会があつたからである。女房風は、わが真心の程度まで、相手が心があるかと疑ふ態度で、不満足を予期した様な、悲観気分が満ちて居る。あらかじめ、失恋してかゝつて居るのだ。失恋歌が、女房歌の中心になつて来た。しらべは纏綿、歌口はねつとりであつた。さうして其よりも、もつと離れた位置から、情趣の世界と、気分とを描かうとする態度を感じたのであつた。自分は第三者として即かず離れずに居て、純主観態度から出ぬ味ひのある事を知つたのである。前代以来感傷誇張の小説化の傾向を持つて来た女房歌流の抒情詩は、俊成の努力で著しく変つて行つた。
千載集以後の恋歌の特徴は、中性表現のものである。恋のあはれを描きさへすればよいので、自分の実感吐露や、心理解剖は、二の次になつた。贈答用の機智や恋の難題を詠み了せる事の外に、今一つ美しい幻影の存在をば知つたのだ。恋する人の心が、叙事的興味から起る情趣に包まれて、真実よりも優れた美として触れる事を目がけたのだ。しらべの裏にはあはれな人生が纏綿して来た。源氏物語風の柔いだ悲劇的快感を表さうとしたのだ。作歌には誤算があり、主義態度の目覚めがなかつた。幽玄体も、此でおして行つて到着すべきであつた。主義としての理智に囚はれて、しらべから幽玄を滲ませようとせず、思想で見せようとした。だから彼の自讃したらしい作物の方に其はなかつた。却つて女房風のねつとりした恋歌などに稍さうした傾向のものが見える。此をいだ者は、個人の体験を超えて、而も内的事実である様に、詠む事であつた。其あはれを更に、風物現象に絡めて、えんなる仮象を起さうとした。其を著しく実現し、或は過度に効果を示したのが、新古今の人々である。
俊成はさうしたゆくてを漠然と見てゐた人であつた。彼は、趣味としては、俊頼に、更に頼政に伝つてゐる表現のかつきりした今様で、印象的なものに傾いた。或は隠士が優越した心持ちで、笑ひ話でもする様な、砕けてゐて、人世観の含められてゐる様なものをも好んだ。だが、此分は、西行に具体化せられて、正風の誹諧の基調になつたのだが、俊成にはさう言ふ方面へ進むには、歌風に対する博い知識と、其愛著とが、あり余つて居た。彼は心弱い人であつた。いつまで引きづられて行つて、あゝした地位に達したものかと思ふ。だから、刺戟はすべて受けこんだ。年とつて後も、若い新古今歌人の影響を、逆に取り入れてゐる。
一体新古今時代の人々は、党派関係以外に、創作鑑賞の上からは、各歌風を認め羨むだけの自由さがあつた。此が、後にも先にもなくなる事実である。院の包容態度から来ても居よう。併し其は、歌の学問化から来たのだ。各派に亘り、諸態に隈ない理会と、製作力がなくてはならぬものとせられた。此久しい傾向が俊成になつて一層おし拡げられた。
文学上にも他力宗のあなた任せを守つた俊成は、大きな意志を予想した。唯、心シヅかな精進によつて、待つべき神興を考へて居たらしい。彼は、感謝の念を持ち易かつた。彼は、すぐれて印象的な叙景詩にも進んだ。此頃から、歌の大家とある者は、どこか習ひ手と違つた姿を作つて居ねばならぬと言ふ考へを持つた様だ。人々には、叙景の歌なども作らせてゐたが、自分では、今一つ上の位と思はれる処を、行かねばならなかつた。玉葉・風雅の優れた歌風を作つた為兼もが、自身は思ひ入つた形を見せようとして、不思議な作物などを残した。あゝした師範家の意識は、俊成にも動いて居たのである。前に掲げた藤原忠良の歌や、若い頃の良経、或は式子内親王、殊に著しく宮内卿に出た歌風、さうして新古今の基調になつた感覚的な描写態度と、緊張した語感との調和は、恐らく彼の唱導の最適合した時代の好みでもあつたのだらう。彼はねつとり調と、たけ高調とを融合させ、艶なる境地に達しようと目ざした。
えんにと言ふ語の用語例の多方面であつたことが、概念を煩してゐた。「艶」の字を宛てる程、美しい方面へ傾いて来てゐた。「言はゞ不得エニ」――言はうとすれば言へないで――の句の固定した形えにの変形だと言ふことは忘られて来た。唯の「妙不可説」の意にもとり「不可説の美」にも通じ、解説・飜訳以上のものと言ふ義にもとれた。かうした術語の不精確から、伝統は幾つにも岐れるのが常だ。動揺してゐる日常語によつて、学術上の概念を定めたので、歌の様態の上の幾種かの型は、所謂三歌式以来、各家みな術語を異にして居る。其が平安末に、流派々々が明らかに立つと共に統一せられて来たかと思ふと、又、部分的の変改が加つて来る、と言つたあり様だ。我先に異色を立てようとするのである。而も、術語の概念の範囲についての争ひなどのなかつたのは、不思議である。唯、幽玄態と言ふ語は、人気があつた。俊成が強調し、新古今歌風の目標になつてゐた。其為、後々歌道師範家・連歌師などが、愈々、語に神秘性を帯びさせて来た。
新古今と、其前後とはおのおの違つてゐる。此時代より後になると、禅宗が渡来して、隠者階級や歌学者に、其方の考へ方を利用する者が出て来た。だから、俊成前後では、思索法からして違つて来てゐる。俊成のは、前にも述べた通り、えんな歌、其辞句以外に風姿から生れて来る気分のひそかで微かで、纏綿する様に感ぜられるもの、かう言つた静的のものであるが、新古今になるとえんの外に、たけの高さを加へて来てゐる。
うちしめり あやめぞかをる。時鳥なくや 五月の雨の夕ぐれ(良経――新古今巻三)
良経の此歌は千載・新古今の幽玄と艶との岐れ目を示すものであらう。調子の纏綿して居る処は、俊成風である。「あやめぞかをる」と「時鳥」との関係は、知識的には断れて見えるが、情調的には続いてゐる。境地は印象しにくい。「時鳥なくや五月」は、古今集から出た本歌だけに「時鳥なくや」が枕詞にとれる。時鳥は鳴いたのか。唯五月の雨の夕ぐれに、あやめがかをつて来ると言ふのか。どちらにも結著のつかない気分に残される。此が次義のえんで、其どれと言ふ刺戟もなくて、全体から来る幽雅な美を、仮感の方からも感じたのだらう。枕詞と採つた方が歌としてはよいが、困ることは、此頃の枕詞が、又さうした概念で考へられてゐたのだ。此歌は、新古今式には幽玄でないが、此を印象的に、聯想の余地を作つてたけを出して来たら、やはり幽玄に入るのだつた。
枕詞・歌枕といふ語も、常に動いて居たので、第一義は既に述べたが、而も疑ふべきは新撰髄脳で、果して公任作かどうかと思はれる程だ。枕は歌の上の常用語で、必一つは置かねばならぬ意義のものと考へてゐる。其語を据ゑる事によつて起される所の幻影を、歌全体が被る。だから、上の句にまづ置場処をきめて、実相を描写した下の句に、其気分を匂はしかける。基調主題、即、頭の位置を定める枕に似た義の考へ出された事が見える。其中から、古くて、単語と言ふより、句の形をとつて居るものと、枕詞序歌をも込めて枕詞と言ふ様になつたらしい。
わりに古い歌枕は、初めは、古書に出た地名・行事の称呼・日常語の雅訳したものなどを言うて居た様である。即、名所・人事・季題の定まる基で、同時に、異名を問題にさせ初めたのである。古語及び意の訣らぬものを、現代の物に推し当てた死語、漢・仏籍の語を直訳したものなどが、段々出る導きをした。さうして、俊頼が民間伝承を入れる因にもなつたのだ。歌の上の文学用語であると共に、歌枕は、本来の用として、歌の風韻を作るものであつた。此が連歌に入り、誹諧に入つて「座」となる。其放散する風韻が、一聯の気分を統一する様になつた。其が誹諧の盛んになるに連れて、季を専らとする風に傾いて行つたのだ。
和歌及び歌学は、一つで、学問と考へられた。創作の才は、学識によつて定まるものと見た。歌枕其他、故事・格式を知らねば作れぬものと考へたからである。俊成以前から遠く兆して居たのだ。頑なに信じ、愚かに伝来を重んずる武家時代では、和歌を作る事は学者となる事であつた。だから、連歌が文学となり、和歌は学問と考へられた。連歌を作る為にも、学問として、短歌及び其系統の物語を修めねばならぬと信ぜられた。さうして、誹諧は連歌に対して、段々に、其昔、連歌が和歌の余興であつた様な位置に直つた。
新古今同人が俊成の発見を具体化したのが、其前の恋歌である。彼等は描かうとするかはりに、文章の渦まきに捲き込まうとした。倭魂をつきつめて得ようとした。即いろ好みの生活を歌に表すのである。恋歌を作るのに、様々な複雑な状態の心理をも考へねばならぬ様に恋の題は殖えてゐた。一方古く歌の主題の向ふ至極地は、恋愛にゆかねばならぬ様になつて来てゐた。其故、恋はすべての歌の枕である様に考へられ、恋歌気分を総ての歌に、被せようとして来た。其が最著しく本質的に恋歌気分を纏綿させる様になつたのは、此集である。恋歌を主題として、幽玄に徹しよう試みに進んだのである。
隠者階級の種蒔き鴨長明には、先輩があつた。俊頼の子の俊慧法師である。家学の伝統に執する必要もなく、神仏にもヂヤクせず、当代の歌人に対しても、自由につき会つて居たやうだ。俊頼のたゞごと主義は、歌に従来の歌枕以外の語を入れ、優美と考へられて居ない事象をも優美にすることで、其結果は却つて、奇歌を作つた。俊慧は此考への概念を改めて、技巧に関心せず、平々と一気に歌ひあげて、たけある歌を作らうとしたらしい。だから感激と気魄とに任せてゐたのである。かうした風格は、隠者文学の先型となつたのであらう。隠者は、古来社会の制度外である。此に入ると、階級的制約を離れるから、上流の人と接するにも、従来の作法によらないでよい事になり、自由に出入りが出来たのだ。つまり僧侶と同じ待遇を受けるのであつた。だから後ほど、名だけ法師で半俗生活を営んで居るものが殖えて来た。
同じ感興派でも、俊慧の、伝統の固定した鈍さを持つたのとは別に、西行は感傷性に富んで居た。西行は、此まで、平安朝歌人の心づかない発想法を発見した。歌枕や、歌の制約に囚はれないで、歌ふことであつた。実感を包んで出す衣が、三十一字であつたのを、実感そのまゝ皮膚となり、肉となる事を知つた。彼も、常に都に上つて居たら、其歌の半分が既にさうなつてゐる様に、先づ屏風絵に描き替へ、物語絵に写し改めた様なものばかり残したであらう。彼の雲水生活が此を救ひ、様々の風物・人事に触れさせ、感傷性を鍛へて悲劇的精神を作つた。だから彼の作物のよい物は、蔭に感傷性を蔵して居る。其気分に融しこんだ自然であり、人事であつた。
西行も、人事を詠む時は、自然を受け入れる様にはゆかないで、歌の匂ひを思ひ、たけを整へ、恋歌じたての作物をとつた。芭蕉が、彼の作物から悟つた「しをり」や「さび」は、悲劇的精神から出たのであつた。わびしい・かすかな・ひそかな心境の現れた作物について言ふ語である。しらべを境にして内的に観察してさびと言ひ、形式的に感受する静かな曲折の連続を、しをりと言ふのだ。
かうした先輩や、教導者の後に出られたのが、後鳥羽院であつた。万葉の昔から、当代に亘り、すべての歌風と、歌学の伝統を網羅しようと努められ、同好者の間に濃い雰囲気を愈密にしてゆかれた。
そこへ、至尊風のしらべが時に出て来ては、新古今風の中に、大がらな味ひを加へた。結局「細み」の出て来る事は稀になつた。当時で言へば、近世の大歌人たる経信以来、皆たけを高める事に努めて居た。「細み」を出す西行風の人があつても、僧侶の歌を見る態度で鑑賞したから、内容のわびしさだけが訣つて、其しらべは寺家流の平俗体と感ぜられたであらう。感傷性でなかつた院は、西行のわびしさからすら、えんな味ひをのみ吸収せられたらしいのである。
院の好みは、歌合せ・連歌・誹諧以外の芸術・遊戯にも広かつた。白拍子の舞は勿論、唄も嗜まれて、白拍子合せすら行はしめられた。今様は王朝末に外典凝りの公家の間に、朗詠に替るはいからな新様式・新内容の文学として行はれ出したが、此も謡ふ白拍子たちの今様詞曲の固定や、新しく起つた宴曲其他の為に圧せられて、里から再、寺へ戻つた。作歌者も、僧侶階級に止るやうになつた。まだ此頃は、前代のなごりで、文学として行はれたことは、前にも述べた。此文学を通じて、讃歌の味ひも這入つて居る。寺家の講式・説経などの節まはしや、内容も影響して、歌枕の制約などは蹶飛ばして、叙事的の態度も、歌の上には出されて来た。此芸謡調は、院の御製に著しく出て来た。良経の方には、此を飜案した歌がある。院のは、しらべの上に出された。此から見ると、院の方が良経よりも味ひは体得して居られた。
芸謡中の語は、既に以前にも、作中に詠みこんだ人もあるが、院のは、其なげやりぶしの拍子が其まゝ出てゐる。
ふる郷を、別れ路に生ふる葛の葉の 秋はくれども、帰る世もなし(増鏡)
思ひ出づるをりたく柴の 夕煙。むせぶも嬉し。忘れがたみに(新古今巻八)
秋されば、いとゞ思ひをましば刈る 此里人も、袖や露けき(玉葉巻四)
思ふこと 我が身にありや。空の月。片敷く袖に、置ける白露(新後拾遺巻五)
だから此等の歌なども、従来の歌にすると同じ鑑賞法で見ては、間違ひである。西行のわびしさよりも、民間のため息調をいちはやく理会せられたのだ。上方・江戸の長唄・端唄・浄瑠璃などを通じて出て来る唄の利き文句には、古くからの伝襲が多い。地方の民謡には、まだ完全にも、崩れた形でゞも、室町時分の俤を残した歌が、現実に謡はれてゐる。院の御製に、江戸の中頃や末に起つた歌浄瑠璃や、端唄・小唄の発想法や、其感触が交つてゐても、不思議はないのである。平安末の雑芸ザフゲイには、江戸の初期にも、まだ節の末が残つて居た。貫之や清少納言の興味を唆つた童謡・小唄・雑芸などより、又梁塵秘抄の讃歌・神歌以外の雑歌――催馬楽・風俗式の内容よりも、更に新しく――次に起らうとしてゐた閑吟集などに採用せられたしらべ・感触である。誰も成功しなかつた民謡調を、存外すら/\としらべ出されたものと思ふ。
後鳥羽院の「思ひ出づるをりたく柴の夕煙。むせぶもうれし。忘れがたみに」の歌と関係のある
何とまた 忘れてすぐる袖の上に、ぬれてしぐれの おどろかすらむ(家長日記)
なども、「何とまた」からして味ひが違ふ。頼政の「これ聞けや」などの系統である。此等の御製は、歌としての値うちは別として、長い陣痛の後に発生するはずの文学様式を、わりにたやすく暗示せられた。併し此が、一時の試みとして過ぎたのは惜しかつた。
新古今の同人等の、道ぐさに行きはぐれた正しい道は、玉葉の為兼によつて明らかに具体化せられた。併し、後鳥羽院の、或は無意識に追求して居られた所の口語脈の歌は、其まゝに絶えて了うた。此が順調に育てば、なげぶし――の古い物――などよりも、もつと正格な文学様式としての、新詩形が出来たかも知れない。為兼に完成した態度は、遥か後、明治大正に到つて、更に正しく実生活を裏打ちにした。経信や俊成、俊慧や為兼等の理想したらしい境地は、もつと深く細やかに開拓せられた。さうして、短歌の本質の限界で出来る限りの、変化はした様に見える。併し、口語発想による様式は、今におき、成立しては居ない。57577の形に、口語律を妥協させ、個性の新しい姿を折りげて居る。後鳥羽院の時代よりも、遥かに、短歌律と口語律とは別れて来てゐる今日に、かうした試みは望みがない。し、院の此方面の為事が完成してゐたら、わりに順調に進んで来たらうにと思ふ。
事実、院ほど、本質的にしらべを口語脈にし、発想法をばある程度まで変化せしめた歌人は、明治大正の新歌人の間にもなかつたのである。此試みの、試みとして終つた事は、後鳥羽院の態度によるのである。出来心からの享楽作物として作られたのに過ぎなかつた。其に、度を越した趣味の広さが、こんな点にばかり、渋滞させてゐなかつたからである。でも、文学史上のあの時代の事情から見ると、院の行くべき歌風は、ここにあつたのだと思はれる。
後鳥羽院の性格と時代の好みとは、院の努力と執著とで新古今までは、引きづり揚げられて来た。併し、玉葉集に達するまでに、時代は背いて了つた。其は承久の事変があつた為ばかりではない。後鳥羽院御一人の為事として、静かに個性を貫いて行かれたら、行きついたはずのものであつたのに、あまりに道伴れが多きに過ぎたのである。後鳥羽院御自身すらも、自ら拍子をとつた声の波のてに溺れて、あらぬ方へ/\と抜き手をきつて居られた。さうして、ひよつと首を擡げた処に、偶然あつた新しい島に上つたかと見る中、再、また波を潜かれた。
文学朋党が、一人の為に率ゐられてゐる時は、常に、正しい道を失ふ。後鳥羽院は盟主として、その朋党の間に※(「酉+榲のつくり」、第3水準1-92-88)うんぢやうせられた潮流に、第一義の素質的創作動機を落された。さうして、第二義以下の趣味や、一時的な興奮を、逐ひ続けてゐられたのである。さうして、其盲動から達したところも、一つの文学の新しい処女地ではあつたけれども、追随者の向ふ方角にどられて、自ら亦踵を返された。盲動であつたが為に、群行の中で、静かに一個の芸術を絞り出す思案をする間がなかつたのだ。
西行は、ともかくも個性に徹した文学を生んだ。其は、根本的に多少の拗曲を含んでゐたが、何にしても、江戸に到るまで、隠者階級の生活態度に、一つの規範を加へた。芭蕉は、彼の作物からわらひわびしさとを、とりこんだ。さうして芭蕉自身の絶え間ない文学的死と、復活とによつて、完全に主義とし、態度とした。さうして其影響を、国民の生活情調に滲み入らせた。孤独にして悲劇精神を持ちこたへて行つた西行の為事は、芭蕉の主義宣布以前に、近世日本の正しい芸術傾向と見做されてゐる心境をつくりあげてゐた。西行既に主義態度を思ひ到らないでも、実感と個性とに徹する事によつて、実現してゐた。
勿論西行とても、態度として、幽玄主義をとつたこともあつた。けれども、其素質が、真の寺家風でなく、堂上風にも向かぬわびしがりうき世知りであつた。其事が、却つて思はぬ方向で、幽玄は、神秘でもなく、妙不可説でもない事を証明する作品を生んだ。自然に持つた様な理会で、人にも対してゐた。自然其物に向つても、人に対する如き博い心と、憐みとを持つことを得た。俊成の「鶉なくなり」の歌は、其かみ俊慧法師の加へた批判を、今も変へる事の出来ない弱点を備へてゐる。「花も紅葉もなかりけり」の定家の自讃歌も「浦の苫屋」又は「秋の夕ぐれ」の語の持つ歌枕式の、知識感銘を忘却した後世では、どう心持ちを調節しても、野狐禅衆の幻としか見えない。
「心なき身にもあはれは知られけり」も、その一類の主義から生れた文学である。が、西行として見れば、活路はある。「心あらむ人に見せばや」の本歌の「津の国の難波わたりの春の眺め」を見た時、自分の外にも話せる相手を思うた本歌に、敬虔な気持ちで対したのである。能因が歌枕を書いた――?――時代と、西行の時勢とでは「心あり」といふ語の用語例も非常に変化した。抽象化せられ、理想化せられた其内容は、前にも述べたとほりである。西行自身などを典型的なものとせなければならぬ生活情調を意味する事になつて来た。「心ある」状態が「あはれ知る」心境を中心にして「いろ好み」の情趣と、段々離れかけてゐたのだ。王朝末に寺家の作風から導かれた新しい文学態度だつたのである。
だから「心なき……」と言うても、反語を含んだ遠慮を表す意味のものではなかつた。春のけしき其他から刺衝せられて「心ある」状態に入る事の出来ぬ我からも、感じる事が出来る。わびしさ・寂しさを思ひ沁ませる風物の味ひを、概念式に知る事が出来ると言ふのである。かうした「こゝろ」がどういふ風に、新古今の作風に触れて行つたかを示す為に、私としての解説を加へて置かう。
人里遠い山沢ヤマサハで、身に近くシギのみ立つてはまた立つ。此ばかりが聞える音なる、夕ぐれの水際に来てゐる自分だ。まだ純粋な内界の事実とはならない外的情趣。其だけは、古人たちの言ふ所が、此だなとまでは直観が起つて来る。かうした事が、少し誇張せられて出てゐるのである。
「鴫たつ沢」の、地名でないと言ふ説が、有力になつて居る。けれども、歌枕の上の固有名詞と言ふ物ほど、あやふやなものはない。一度歌の上に有力に用ゐられたものは、歌枕となり得たのである。歌枕に入れば、実景を背景にして固有名詞感を持たせる様になる。鴫たつ沢の風色を思ひ浮べると同時に、歌枕なるが故の地名的理会が、人々の気分に起つたのである。土地としては優雅な固有名詞を持ち、幻影として伴ふは、其沢の名に負ふ寂しい鴫たつ様である。此関係は、誹諧・発句の季題の効果同様であつて、其導きを為すものであつたのだ。
かうした幻影を被つたかうした土地に、秋の夕ぐれ、孤影を落して立つ様をも思ふ事の出来た当代の人には、心なき身といふ語も、決して反語とはとれなかつたであらう。俊慧に言はせれば「知られけり」が「野べの秋風身に沁みて」同様の見方から「腰の句したゝかに言ひ据ゑたり。あはれ乏し」とでも言ふだらう。けれども此歌、西行はやはり時代的文学態度から、極めて自然に作り成したので、近世の人の考へる様なこけおどし風な考へは、まじへなかつたらう。
後鳥羽院は、心ある方であつた。併し其は、前代の用語例に入るものである。当代の用法では、もう完全な「心ある」ものではなかつた。西行等の作物を中心として見られる「こゝろ」は、いろごのみに添へる一種の匂ひとして、とり込まれたに過ぎない。恋愛の孤独観や、風物の唆る哀愁、かうした方面に、影響が来た。孤独であつてもかそかなものではなかつた。悲しくても、涙に誇りを感じる廃頽味を持つてゐた。此が一脈の糸筋を、前代以来の雑芸・小唄と引く、閨怨のあはれさであつた。だから、心ある方に進まうとすればする程、前代の、いろごのみものゝあはれを知ると言ふ内容に入るばかりであつた。院の如きは、平安中期ならば、典型的な心ある人であつたはずだ。が、後鳥羽院は、寧、太みに徹し、たけある作物と生活とを、極点まで貫かれたらよかつたのである。独り思ふ境涯に立つか、或は素質がさうだつたなら、群集の中にゐても、孤独を感じ得たであらう。が、院には、さうした悲劇的精神は、此隠岐本を抄して居られる間にも、やはり徹底しては、起つてゐなかつたものと思はれる。
或は思ふ。大きな永遠の意志があつて、至尊風の歌風を貫かさうと言ふ方に、院を向けてゐたのかも知れない。真のこゝろを、至尊族伝来の太みから拓かせよう、と企てゝ居たものと思ひ見ることも出来よう。ある畏しい驚くべき時運の退転を促して、享楽生活から一足飛びに、孤独を思ひ沁み得る、沖つ国に据ゑ奉つたのかも計りがたかつた。でも、院の持たれた太みは、あまりに享楽の色合ひを帯びてゐた。院に於て、此等の調和は、廃頽主義の韜晦味を基礎としてゐる様な形をとつた。若し、後鳥羽院が、至尊風の気稟の上に、真の孤独の境涯を拓かれたとしたら、さうした民謡風な末梢的興味や、新古今の健全な成長身たる玉葉集などにも止つては居なかつたであらう。
やまとたけるの尾津崎に忘れ置いた十束劔は、時を経ても、一つ松の枝に、さながらに残つてゐた。「尾津崎なる一つ松あせを」の歌は、古代人の理想的人格にのみ考へた、無碍孤独の境涯から出た物であつた。朗らかで、こだはりのない、英雄一人の外には、行く人のない天地であつた。西行から芭蕉へ伝つたこゝろは、自然主義上の普遍性であつた。忘れてゐた共通を、とり出すものである。効果は謂はゞ、平面的の拡りを持つ。此に対して、人生に新しい真理の附加せられるものゝあるはずである。謂はゞ、垂直的に我等の生活を引き上げて行く、と言つた態度の文学が、現れなければならない。従来の文学論や審美学は、壮大な美を空想して来た。而も、彼等は個性以外に、境涯と伝統とが、壮美を表す要件である事を考へ落してゐる。至尊族の太みの文学が、其適例である事などは、勿論顧みられてはゐない。
やまとたける或は、大国主・大鷦鷯オホサヾキ天皇・大長谷稚武オホハツセワカタケル天皇に仮託した文学は、所謂美的生活に徹した寂しさ、英雄のみが痛感するかそけさを表してゐた。私は、此院がかうした無碍光明の無期ムゴの寂寥の土に、たけびをあげられずにしまうた事を残念に思ふ。
やまと心の内容も、平安王朝では既に、変化し過ぎて居た。此君子理想の素質は、実にいろ好みと同一内容を持つて居た。而も、女房から隠者へとおし移つた、文壇の中心潮流は、此意と嫉みと、失恋フルサレとを、どう整理して行くかといふ事を、主題としてゐた。而も、隠者の文学は、常に社会に対して、優越感を持つてゐた。はぐらかしと、苦笑とを以て、一貫したものであつた。あきらめはまだよい。世人に向つて、無責任な人生観を強ひもした。芸謡・民謡或は、文学作物が、此態度から生れたとしたら、どうしても、廃頽味を深くしないはずはなからう。新古今と後鳥羽院の作物が、愈進んでますます廃頽趣味に近づいた理由は、今までの長談義の中心にしてゐるものであつた。即、女房から隠者へ進み入つた世の姿が、其まゝ新古今及び遠島抄並びに、後鳥羽院以下の作物の文因をなしたのであつた。遠島抄といふ名、実は、後鳥羽院口伝と称する歌学書の異名なのをこちらへ移し用ゐる方が寧よい。

     七 遠島抄の価値 一部抄出

隠岐本新古今集の価値は、三矢先生と武田との解説に見える様に、新古今集の成立に細やかな見方を授けてゐる。こゝにも文学史との離れぬ関係のあることは、勿論である。所謂隠岐本は、正確には「新古今抄」を含んだ「新古今集」の最善本である。後鳥羽院蒙塵前の最終の姿を伝へた、謂はゞ決定版――版ではないが――とも見るべきものに、更に遠島抄(仮りに名づける)を得て書き込んだのである。だから、流布本新古今に対する穏岐本関係と同様、隠岐本の中から、遠島抄を独立させて考へて見る事が、大切である。隠岐本からは、新古今集選者個人の態度・標準・鑑識などが大体窺はれる。其処から、ある選者の批評家としての態度の由来する所なる、作者としての傾向・内生活を、もつとよく知ることが出来る。今一つ、時代全体の理想・主義・趣向が見られる様なこともある。
遠島抄では、後鳥羽院の、わりに拘束のない鑑賞が窺はれる。しかも隠岐本全体と比較して行くと、態度の遷移は、ある点まで現れて来る。かうした遠島抄と、定家撰進の新勅撰集とを比べて見ると、おなじ新古今集を出て、どういふ道筋を通つて岐れて行つたかゞ考へられる。定家は、後に新古今の技巧をある点まで超脱する事が出来たのか、其とも以前は、時流を逐うて其を顕さなかつたのか、此はどちらも見られる。拾遺愚草を見ると、無技巧に近い物や、平俗に陥つたものが、年齢に関係なく交つてゐる。だが、新勅撰は言ふまでもなく、為家以後の二条伝統は勿論、冷泉派の、等しく標準としてゐるのは、定家晩年の歌風である。そして其が、後世堂上派の無感激な物に移つて行つたのを考へ合せると、定家は可なり変化したのである。其は、彼の教へを受ける様になつた新興階級の武家の知識・素養の劣つた理会・発想に相応する様に努めた所からも来たであらう。ともかくも、王朝末に起つた基俊以来の平俗主義に戻つたのは事実である。
遠島抄の態度を見るには、棄てられた歌や、切り込まれた歌の側から、はひつて行けばよい。まづ、伝説的に名高い歌、或は一世に騒がれたなどいふ物に向つて、よほど批評が解放せられて来てゐる。次に、ある主義や傾向に隠れて、何でもなくて、過当に評価せられて来た物や、空虚な内容を、おほまかに見える無感激な調子で表したものなどが、却けられて来た。平俗なあてこみや、弛んだ調子などが、明らかな截り出しの標準になつてゐる。
院にとつては、技巧は全生命であつた。技巧の動力たるしらべが、歌の全体であつた。遠島抄になつても、さうした方面に異色を持つ物は、出来る限り保存せられた様である。其に、新古今時代から著しく見えた傾向は、古典的な興味の、薄くなつてゐる事である。小唄式の技巧や、音律などがとり込まれたことは、既に述べた。枕詞・序歌は、必しも喜ばれず、本歌も、技巧の本流ではなくなりはじめて来た。縁語の勢力は、しらべに交渉が尠い処から、大した問題にならなくなつた。かけ詞は、調子の曲折を作ると共に、意義の快い転換と、切迫とを起し、自ら外形にも緊張感を来す。此意味に於て、其新味のある物は、愈喜ばれる様になつて行つたものである。此等の傾向は、新古今集各本に通じて言へることでもあるが、遠島抄の中心態度は、茲に在るのである。
其は、耳からする芸謡・民謡類の、雑多な影響のある事は勿論であるが、目から入る文を読む時に起る、音律感からも来てゐる。私は、連歌に詠まれる人事や、歌詞などから、主として導かれてゐる様に思ふ。王朝末から段々、たけの意識が明らかになつて来てゐたのを、新古今で極度に、其を伸した結果、近代的感覚を喜ばす様なしらべを欲する様になつて、茲まで行き著いたものと思ふ。





底本:「折口信夫全集 1」中央公論社
   1995(平成7)年2月10日初版発行
底本の親本:「『古代研究』第二部 国文学篇」大岡山書店
   1929(昭和4)年4月25日発行
初出:「隠岐本新古今和歌集」
   1927(昭和2)年9月
※底本の題名の下に書かれている「昭和二年九月『隠岐本新古今和歌集』巻首」はファイル末の「初出」欄に移しました
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年7月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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