たゞ今、文学の信仰起原説を
最頑なに
把つて居るのは、恐らくは私であらう。性の牽引や、咄嗟の感激から出発したとする学説などゝは、当分折りあへない其等の仮説の欠点を見てゐる。さうした常識の範囲を脱しない合理論は、一等大切な唯の一点をすら考へ洩して居るのである。音声一途に
憑る外ない不文の発想が、どう言ふ
訣で、当座に消滅しないで、永く保存せられ、文学意識を分化するに到つたのであらう。恋愛や、悲喜の激情は、感動詞を構成する事はあつても、文章の定型を形づくる事はない。又第一、伝承記憶の値打ちが、何処から考へられよう。口頭の詞章が、文学意識を発生するまでも保存せられて行くのは、信仰に関聯して居たからである。信仰を外にして、長い不文の古代に、存続の力を持つたものは、一つとして考へられないのである。
信仰に根ざしある事物だけが、長い生命を持つて来た。ゆくりなく発した言語詞章は、即座に影を消したのである。
私は、日本文学の発生点を、神授(と信ぜられた)の
呪言に据ゑて居る。
而も
其古い形は、今日溯れる限りでは、かう言つてよい様である。
稍長篇の叙事脈の詞章で対話よりは拍子が細くて、諷誦の速さが音数よりも先にきまつた傾向の見える物であつた。左右相称・重畳の感を満足させると共に、印象の効果を考へ、文の首尾の照応に力を入れたものである。さうした神
憑りの精神状態から来る詞章が、度々くり返された結果、きまつた形を採る様になつた。邑落の生活が年代の重なるに従つて、幾種類かの詞章は、村の神人から神人へ伝承せられる様になつて行く。
春の初めに来る神が、自ら其種姓を
陳べ、此国土を造り、山川草木を成し、日月闇風を生んで、餓ゑを覚えて始めて食物を化成した(日本紀一書)本縁を語り、更に人間の死の起原から、神に接する資格を得る為の
禊ぎの由来を説明して、蘇生の方法を教へる。又、農作物は神物であつて、
害ふ者の罪の
贖ひ難い事を言うて、
祓への事始めを述べ、其に関聯して、鎮魂法の霊験を説いて居る。
かうした本縁を語る呪言が、最初から全体としてあつたのではあるまい。土地家屋の安泰、家長の健康、家族家財の増殖の呪言としての国生みの詞章、農業に障碍する土地の精霊及び敵人を予め威嚇して置く
天つ罪の詞章、季節の替り目毎に、青春の水を摂取し、神に接する資格を得る旧事を説く
国つ罪――色々な罪の種目が、時代々々に加つて来たらしい――の詞章、生人の為には外在の威霊を、死人・
惚け人の為には游離魂を身中にとり込めて、甦生する
鎮魂の本縁なる天
ノ窟戸の詞章、家屋の精霊なる火の来歴と其弱点とを指摘して、其災ひせぬ事を誓はせる火生みの詞章、――此等が、一つの体系をなさぬまでも、段々結合して行つた事は察せられる。
本縁を説いて、精霊に過去の誓約を思ひ出させる叙事脈の呪言が、国家以前の邑落生活の間にも、自由に発生したものと見てよい。
尤、信仰状態の全然別殊な村のあつた事も考へられる。が、後に大和に入つて民族祖先の主流になつた邑落は固より、其外にも、同じ条件を具へた村々があり、後々次第に、此形式を模して行つた処のある事も、疑ふ事は出来ない。私は倭の村の祖先の外にも、多くの邑落が山地定住以前、海に親しい生活をして居た時代を考へて居る。
延喜式祝詞で見ると、宮廷の呪言は、
かむろぎ・
かむろみの発言、天照大神宣布に由る物だから――呪言、叙事詩以来の古代詞章式の論理によつて――中臣及び、一部分は斎部の祖先以来代宣して、今に到つてゐると言ふ信仰を含めて説き起すのが通有形式である。呪言の神を、高天原の父神・母神として居るのである。而も其呪力の根源力を抽象して、
興台産霊神――日本紀・姓氏録共に
こゝとと訓註して居るのは、古い誤りであらう――といふ神を考へて居る。さうして同じく、祝詞の神であつた為に、中臣氏の祖先と考へられたらしい
天児屋ノ命は、此神の子と言ふ事になつてゐる。
むすびと言ふのは、すべて物に
化寓らねば、活力を顕す事の出来ぬ外来魂なので、呪言の形式で唱へられる時に、其に憑り来て其力を完うするものであつた。
興台――正式には、興言台と書いたのであらう――
産霊は、後代は所謂
詞霊と称せられて一般化したが、正しくはある方式即
とを具へて行ふ
詞章の憑霊と言ふことが出来る。
こやねは、
興言台の方式を伝へ、詞章を永遠に維持し、諷唱法を保有する呪言の守護神だつたらしい。此中臣の祖神と一つ神だと証明せられて来た
思兼ノ神は、
たかみむすびの子と伝へるが、
ことゞむすびの人格神化した名である。此神は、呪言の創製者と考へられてゐたものであらう。尤、此神以前にも、呪言の存在した様な形で、記・紀其他に伝承せられてゐるが、かうした矛盾はあるべき筈の事である。恐らく開き直つて呪言の事始めを説くものとして
おもひかねによつて深く思はれて出来たのが、神の呪言の最初だとしたのであらう。即、天
ノ窟戸を本縁とした鎮魂の呪言――此詞章は
夙く呪言としては行はれなくなり、叙事詩として専ら物語られる事になつたらしい。さうして其代りに物部氏伝来の方式の用ゐられて来たことは明らかである――を、最尊く最完全な詞章の始まりとしたものらしい。
時に、日神聞きて曰はく「頃者、人雖二多請一未レ有下若二此言之麗義一者上也。」(紀、一書)
請は申請の義で、
まをすと訓むのは古くからの事である。申請の呪言に、
まをす・
まをしと言ふから、其諷誦の動作までも込めて言うたのだ。前々にも呪言を奏上した様に言うてあるが、此は本縁説明神話の常なる手落ちである。
善言・美辞を
陳ねて、荘重な呪言の外形を整へ、遺漏なく言ひ誤りのない物となつたのは、此神の力だとする。此神を一に
八意思金ノ神と言ふのも、さうした行き届いた発想を讃美しての名である。
こやねは、神或は、神子の唱へるはずの呪言を、代理者の資格で宣する風習及び伝統の発端を示す神名であり、諷誦法や、副演せられる呪術・態様の規定者とせられたのであらう。斎部の祖神と謂はれる天
ノ太玉
ノ命は、其呪術・態様を精霊に印象させる為に副演する役であつた。さうして、呼び出した正邪の魂の這入る浄化したところを用意して、週期的に来る次の機会まで、其処に封じ籠めて置く。此籠める側の記憶が薄れて、浄化する方面が強く出て、
いむ・
ゆむ・
ゆまふ・
ゆまはるなど言ふ
語の意義は変つて行つた。斎部氏は
ふとだま以来と言ふ信念の下に、呪言に伴ふ神自身の身ぶりや、呪言の中、とりわけ対話風になつた部分を唱へる様になつたと見ればよい。呪言の一番神秘な部分は、斎部氏が口誦する様になつて行つた。
天つ
祝詞・天つ
奇護言と称するもの――かなり変改を経たものがある――で、斎部祝詞に
俤を止めてゐるのは、其為である。
中臣祝詞の中でも、天つ祝詞又は、中臣の
太詔戸と言はれてゐる部分である。此は祓へを課する時の呪言であつて、さうした場合にも古代論理から、呪言の副演を行ふ斎部は、呪言神の
群行の下員であつて、
みこともち(御言持者)であつた、主神役なる中臣が此を口誦し、自ら
威の手で――これまた、神の代理だが、万葉集巻六の「すめら我がいつのみ手もち……」と言ふ歌の、天子の御手同時に神の威力のある手ともなると言ふ考へと同じく――祓への大事の中心行事を執り行うた――大祓方式の中の、中臣神主自ら行ふ部分――のである。斎部宿禰の為事が、段々卜部其他の手に移つて行つて、その伝承の呪言も軽く視られるやうになつてから、天神授与の由緒は称へながら、斎部祝詞は、神秘を守る事が出来なくなつた。
中臣祝詞の間や末に、斎部の唱へる部分があつた習慣から、斎部祝詞が分離したものか。斎部祝詞が、祝詞の精髄なる天つ祝詞と唱へて、
祓除・
鎮斎に関した物ばかりである事――此部分だけ独立したのだらう――、
辞別の部分が斎部関係の事項であるものが多い事――幣帛や、
大宮売ノ神や斎部関係の事が、
其だ。辞別は、必しも文の末ばかりでない処を見ると、こゝだけ辞の変る処であつたのだ。「又申さく」「
殊更に申さく」などの意に考へられて、宣命にも、祝詞にも、さうした用例が出て来た――などが此を示して居る。延喜式祝詞の前後或は中に介在して、宣命と同じ形式の伝宣者の詞がある様に、今一つ古い形の中臣祝詞にも、中臣の言ふ部分と、斎部の誦する部分とがあつたのであらう。
かう考へて来ると、呪言には古くから「地」の部分と「詞」の部分とが分れる傾向が見えて居たのである。此が祝詞の抜きさし自由な形になつて、一部分を唱へる事も出来、伝来の詞を中に、附加文が添はつて来たりもした理由である。さうして、此呪言の神聖な来歴を語る呪言以外に附加せられた部分が、第一義の
のりとであつたらしく、其
心になつてゐるものが、古くは
よごとを以て総称せられて居たのだ。
よごとが段々一定の目的を持つた物に限られる様になつてから、元の意義の儘の
よごとに近い物ばかりを
掌り、
よごとに関聯した為事を表にする斎部の地位が降つて来る様になつたのも、時勢である。其は一方、呪言の神の原義が忘れられた為である。
かむろぎ・
かむろみと言ふ語には、高天原の神のいづれをも、随意に入れ替へて考へる事が出来た。父母であり、又考位・妣位の祖先でもある神なのだ。だから、
かむろぎ即
たかみむすびの神に、天照大神を並べて
かむろみと考へてゐた事もある。此両位の神に発生した呪言が、円満具足し、其存続が保障せられ、更に発言者の権威以外に、外在の威霊が飛来すると言ふ様に展開して行つた。私の考へでは、
詞霊信仰の元なる
ことゞむすびは、外来魂信仰が多くの物の上に推し拡げられる様になつた時代、即わりあひに遅れた頃に出た神名だと思ふ。
おもひかねの命を古事記には又、
常世ノ思金
ノ神とも伝へてゐる。呪言の創始者は、古代人の信仰では、高天原の父神・母神とするよりも、古い形があつた様である。
とこよは他界で、飛鳥・藤原の都の頃には、帰化人将来の信仰なる道教の楽土海中の仙山と次第に歩みよつて、夙くから理想化を重ねて居た他界観念が非常に育つて行つた。
とこよは元、絶対永久(とこ)の「闇の国」であつた。其に
とこと音通した
退く・
底などの聯想もあつたものらしく、地下或は海底の「死の国」と考へられて居た。「夜見の国」とも称へる。其処に転生して、其土地の人と共食すると、異形身に化して了うて、其国の主の
免しが無ければ、人間身に戻る事は出来ない。蓑笠を著た巨人――
すさのをの命・隼人(竹笠を作る公役を持つ)・斎明紀の鬼――の姿である。とき/″\人間界と交通があつて、岩窟の中の阪路を上り下りする様な処であつた。其常闇の国が、段々光明化して行つた。海浜邑落にありうちの水葬――出雲人と其分派の間には、中世までも著しく痕跡が残つて居た――の風習が、
とこよの国は、村の祖先以来の魂の
集注つて居る他界と考へさせる様になつた。海岸の洞穴――恐ろしい風の通ひ路――から通ふ海底或は、海上遥かな彼岸に、さうした祖先以来の霊は、死なずに生きて居る。絶対の
齢の国の聯想にふり替つて来た。其処に居る人を、
常世人とも又単に
とこよ・
常世神とも言うた。でも、やはり、常夜・夜見としての怖れは失せなかつた。段々純化しては行つたが、いつまでも畏しい姿の常世人を考へてゐた地方も多い。
冬と春との交替する期間は、生魂・死霊すべて解放せられ、游離する時であつた。其際に常世人は、
曾て村に生活した人々の魂を引き連れて、
群行(斎宮群行は此形式の一つである)の形で帰つて来る。此
訪問は年に稀なるが故に、
まれびとと称へて、
饗応を尽して、快く海のあなたへ還らせようとする。邑落生活の為に土地や生産、建て物や家長の生命を、祝福する詞を陳べるのが、常例であつた。
尤、此は邑落の神人の仮装して出て来る初春の神事である。常世の
まれびとたちの威力が、土地・庶物の精霊を圧服した次第を語る、其
昔の神授の儘と信じられてゐる詞章を唱へ、精霊の記憶を喚び起す為に、常世神と其に対抗する精霊とに扮した神人が出て、呪言の通りを副演する。結局精霊は屈従して、邑落生活を脅かさない事を誓ふ。
呪言と劇的舞踊は段々発達して行つた。常世の神の呪言に対して、精霊が
返奏しの誓詞を述べる様な整うた姿になつて来る。精霊は自身の生命の根源なる土地・山川の威霊を献じて、叛かぬことを
誓約する。精霊の内の守護霊を常世神の形で受けとつた邑落或は其主長は、精霊の服従と同時に其持つ限りの力と寿と富とを、享ける事になるのである。かうした常世の
まれびとと精霊(代表者として多くは
山の神)との主従関係の本縁を説くのが古い呪言である。
呪言系統の詞章の宮廷に行はれたものが一転化して、詔旨(
宣命)を発達させた。庶物の精霊だけでなく、身中に内在する霊魂にまでも、威力は及すものと信ぜられて居た。年頭の朝賀の式は、段々、氏々の代表者の
賀正事(天子の寿を賀する詞)奏上を重く見る様になつたが、恒例の大事の詔旨は、此受朝の際に行はれた。
賀正事は、詔旨に対する
覆奏なのであつた。此詔旨が段々臨時の用を多く生じて宣命が独立する様になつたのだ。延喜式祝詞の多くが、宮廷の人々及び公民を呼びかけて聴かせる形になつてゐるのは、此風から出て、更に他の方便をも含んで来たのである。宮廷の尊崇する神を信じさせ、又呪言の効果に与らせようとする様になつたのだ。だから延喜式祝詞は、大部分宣命だと言うてもよい様な姿を備へてゐる。宣命に属する部分が、旧来の呪言を包みこんで、其境界のはつきりせぬ様になつたものが多いのである。
詔旨は、人を対象とした一つの祝詞であり、やがて祝詞に転化する途中にあるものである上に、神授の呪言を宣り降す形式を保存して居たものである。
法令の古い形は、かうした方法で
宣り施された物なることが知れる。
呪言は一度あつて過ぎたる歴史ではなく、常に現実感を起し易い形を採つて見たので、
まれびと神の一人称――三人称風の見方だが、形式だけは神の自叙伝体――現在時法(寧、無時法)の詞章であつたものと思はれる。完了や過去の形は、接続辞や、休息辞の慣用から来る語感の強弱が規定したものらしい。神亀元年二月四日(聖武即位の日)の詔を例に見て頂きたい。父帝なる文武天皇は曾祖父、元明帝は祖母、元正帝は母と言ふ形に表され、而も皆一つの
天皇であつて、天神の
顕界に於ける
応身(御憑身)であり、当時の理会では、
御孫であつた。
日のみ子であると共に、
みまの命であると言ふのは、子孫の意ではなく、
にゝぎの命と同体に考へたのだ。
おしほみゝの命が、大神と皇孫との間に介在せられるのは、
みまを御孫と感じた時代からの事であらう。聖武帝の御心も、元正帝の御心も、同一人の様な感情や待遇で示されてゐる。長い時間の推移も、助動詞助辞の表しきつて居ない処がある。
さうした呪言の文体が、三人称風になり、時法を表す様になつて来たのは――(宣命の様に固定した方面もあつたが)――可なり古代からの事であつたらしい。此が呪言の叙事詩化し、物語を分化する第一歩であつた。
わたつみの国も
常世の国と考へられて行つた。
わたつみの神は富みの神であり、歓楽の主であり、又
ほをりの命に、其兄を征服する様々の呪言と呪術とを授けた様に、呪言の神でもあつた。又一方
よみの国は、呪言と其に附随してゐる
占ひとの本貫の様な姿になつて居た。
すさのをの命は、
興言の神であり、
誓約の神である。祓除・鎮魂の起原も、此神に絡んでゐるのは、理由がある。鎮火祭の祝詞は、
よみの国の
いざなみの命の伝授であつたらしく、
いざなぎの命の
檍原の禊ぎも呪言から出た行事に相違ないが、此も
よみの国を背景にしてゐる。
ことゞと言ふ語は、
よもつひら阪の条では、絶縁の誓約の様に説かれてゐるが、用例が一つしか残つて居ない為の誤解であらう。
興台産霊の字面がよく
ことゞの義を示してゐる。
ことゞふは、
かけあひの詞を挑みかける義で、
歌会の
場などに言ふのは、覆奏を促す呪言の形式を見せて居る。
ことあげは
ことゞあげの音脱らしく、対抗者の種姓を暴露して、屈服させる呪言の発言法であつた。紀に
泉津守道・
菊理媛など言ふ
よみの精霊が現れる処に「言ふことあり」「白す言あり」など書いたのは、呪言となつた詞章のあつた事を示してゐるのであらう。又唾を吐いた時に化成した
泉津事解之男は、呪言に関係した運命定めの神である。呪咀を
とこふと言うた事も、
とこよと聯想があつたのではないかと思はれる。
年の替り目に来た常世神も、邑落生活上の必要から、望まれる時には来る様になつた。家の新築や、田植ゑ、酒占や、
醸酒、刈り上げの
新嘗などの場合である。
くしの神 常世にいます いはたゝす 少御神の 神ほぎ 祝ぎ狃ほし、豊ほぎ、ほぎ廻しまつり来しみ酒ぞ……(仲哀記)
掌やらゝに、拍ち上げ給はね。わがとこよたち(顕宗紀、室寿詞の末)
妙呪者は、常のもあれど、まらひとの新のくすりし……(仏足石の歌)
など歌はれた常世神も、全然純化した神とならぬ中に、性格が分化して来た。其善い尊い部分が、高天原の神となり、怖しく醜い方面が、週期的に村を
言ほぎに来る鬼となつた。だから
常世ノ思金ノ神といふ名も、呪言の神が常世から来るとした信仰の痕跡だと言へよう。田植ゑ時に考・妣二体或は
群行の神が海から来た話は、播磨風土記に多く見えて居る。
椎根津彦は蓑笠著て老爺、
弟猾は箕をかづいて老媼となつて、
誓約の呪言をして敵地に入り、天
ノ香山の土を持つて帰り、祭器を作つて呪咀をした(神武紀)。此も常世神の俤であつた。
とこよのまれ人の行うた呪言が段々向上し、天上将来の呪言即天つ祝詞など言ふ物が行はれて来、呪言の神が四段にも考へられる様になつた事は前に言うた通りである。処が邑落どうしの間に、争ひが起つたり、異族の処女に求婚する様な場合には、呪言が闘はされる。相手の呪言が有勢だつたら、其力に圧へられて呪咀を身に受けねばならぬ。自分の方の呪言に威力ある時は、相手の呪言の威霊を屈服させて、
禍事を与へる事が出来る。此反対に、さうした詞の災ひを
却けて、善い状態に戻す呪力や、我が方へ襲ひかゝつて来た呪咀を撥ね返す能力が考へられて来た。人に「まがれ」と呪ふ側と、善い状態に還す方面とが、一つの呪言にも兼ね備つて居るものと考へ出される。
禍津日ノ神・
直日ノ神の対照は、実際は時代的に解釈が変つて来た処から出た呪言の神であつたのだ。「
檍原の
禊ぎ」に、此二位の神が化生したと説くのは、
禊ぎの呪言に、攻守二霊の作用の本縁を物語つてゐたものであらう。
風土記などにも夙く、出雲
意宇郡に
詔門ノ社の名が見えてゐる。其機能は知れぬが、速魂社と並んで居る処を見ると、呪言の闘争判断方面の力を崇めたのではなからうか。其とは別に、延喜式にも既に「左京二条ニ座ス神二座。太詔戸命神櫛真智命神」と載せてゐる。
……自
リ二夕日
一至
ル二朝日照
ルニ一(万)天都詔戸
乃太詔刀言
遠以
告
礼。如此告
波麻知
波弱蒜
仁由都五百篁生出
牟。……(中臣寿詞)
とある文によると、太祝詞と
まちとは一続きの現象なのである。
まちは卜象の事である。亀卜・鹿卜では、灼き出されて
罅入つた
町形の事だ。町形を請ひ出す手順として、中臣太詔詞を唱へて祓へ浄める。其に連れて卜象も
正しく顕れて来る。卜部等が亀卜を灼くにも、中臣太詔詞を言ひ祓へ反覆して、町形の出現を待つのであつた。其ため祓への太祝詞の詞霊を、卜象の出るのを護る神と見たのであらう。櫛真智は
奇兆で、卜象其物或は、卜象を出す神であらう。「亀卜祭文」と言ふは、亀卜の亀のした
覆奏の形式の変形と見るべきもので、此に対しての呪言を求めれば、中臣太詔詞の外はない。亀卜の亀の精霊が、太詔戸
ノ命では
訣らぬ事である。「亀卜祭文」なども、神祇官の卜部等の唱へ出したものであらう。
呪言は元、神が精霊に命ずる詞として発生した。自分は優れた神だと言ふ事を示して、其権威を感銘させる物であつた。
緘黙を守る岩・木・草などに
開口させようとしても、物言はぬ時期があつた。其間は、其意志の象徴として
ほ(又は
うら)を出さしめる。呪言に伴うて精霊が表す神秘な標兆として、
秀即
末端に
露れるものゝ意である。
答へて曰はく「はたすゝきほに出しわれや、尾田吾田節の淡の郡に居る神なり」と。(神功紀)
かうした用語例が転じて、恋ひ心のそぶり顔に露れることを「ほにいでゝ……」と言ふ。
うらも亦、
武蔵野に 占へ、象灼き、まさでにも 告らぬ君が名、うらに出にけり(万葉集巻十四)
など、恋愛の表情に転じた。
うらは又「……
ほに出にけり」と言うても同じだ。此等の
ほ・
うらの第一義は、精霊の意志標兆であるが、呪言に伴ふ処から、意義は転じ易かつた。
うらが
うらふ(卜)・
うらなふの語根になつた理由は、呪言の希望が容れられ、又は容れられない場合の
うらの出方が違ふ処から出る。
此が一転すると
誓約と言ふ形になる。呪言を発する者に対して、標兆を示す者は幽界の者であつた。両方で諷誦と副演出とを分担して居る訣である。
たつて物言ふまいとする精霊を表したのが「
の面」である。此時が過ぎて精霊が開口しかけると、盛んに人の反対に出る。
あまのじやくと称する伝説上の怪物が、其から出て居る。気に逆らふ事ばかりする。口返答はする、からかひかける、横着はする。此が田楽以来あつた役目で、今も「
里神楽」の面にある
もどき――
ひよつとこの事で、
もどくは、まぜかへし邪魔をし、逆に出るを言ふ――に扮する人の滑稽所作を生んだ。
能楽の方では、古く
もどきの名もあるが、専ら狂言として飛躍した。事実は脇役なども、
もどきの変態なのであつた。狂言方の勤める「
間語り」なども、
もどきの
口まねから出て、神などに扮した人の調子の低いはずの詞を、大きな声でとりつぐ様な役が分化してゐた。其が、
あひ語りまで伸びて行つたのだ。宮廷神楽の「
才の
男」の「人長」との関係も、神と精霊とから転化して来たのだ。此系統が
千秋万歳を経て、後世の万歳太夫に対する才蔵にまで、大した変化なく続いた。
又
もどきは大人を悩す鋭い子役に変化してもゐる。延年舞以後ある
大・
少の対立で、田楽・能楽にも此要素は含まれて居た。殊に幸若舞系統から出た江戸歌舞妓では
大・
少の舞以外にも、とりわけ「少」の勢力が増して来た。猿若の如きは「少」から出たものである。若衆歌舞妓も其変態であつた。日本の演劇史に、
もどき役の考へを落したものがあつたら、無意味な記録になつて了ふであらう。
天狗・山男或は、四国の山中に居るといふ
さとりなど言ふ怪物は、相手の胸に浮ぶ考へは、一々知つて了ふ。思ひがけなくはね返した竹の輪や、炉火の為に敗亡して了うたと言ふ伝説が数へきれぬほどある。精霊に呪言を悟られぬ様にせねばならない。此をあべこべに唱へかけられると、精霊に征服せられるものと考へたらしい。神武天皇が、道臣
ノ命にこつそり策を授けて、諷歌倒語で、国中の妖気を掃蕩せしめられたと日本紀にある。悪霊・兇賊が如何に速かに呪言を唱へ返しても、詞どほりの効果しか無かつた。意想外に発言者の予期した暗示のまゝに相手に働きかけて、亡ぼして了うたのである。舌綟り、早口文句などが発達したのも、呪言の効果を精霊に奪はれまい為であつた。
山彦即木霊は、人の声をまねる処から、怖ぢられた。山の鳥や狸などにも、根負けして
かけあひを止めると、災ひを受けると言ふ伝へが多い。呪言の効果が相殺してゐる場合、一つ先に止めると、相手の呪言の禍を蒙らねばならないのだ。
精霊と実際呪言争ひをする時はなかつたとしても、此畏れの印象する場合が多かつた。祭りの中心行事は、神・精霊の両方に扮した人々の呪言争ひが繰り返されるのであつた。国家時代に入つて、呪言から分化した叙事詩から、抒情脈の叙事詩なる短詩形の民謡が行はれる様になると、群行の神を迎へる夜遊びが、邑落によつては、斎庭に於て行はれた。神々に扮した村の神人と、村の巫女たる資格を持つた女たちとが相向き立つて、歌垣の唱和を挑んだ。最初はきまつた呪言や、呪言の断篇の
かけあひをしたのに過ぎなかつたのであらうが、類型ながら段々創作気分が動いて来た。此場の唱和に特別の才人でなければ、大抵苦い目を見てゐる。此が呪言争ひの体験である。又外の村人どうし数人づゝ草刈り・山猟などで逢へば(播磨風土記などに例がある)呪言の
かけあひが始まる。今も地方によつては、節分の夕方・十四日年越しの宵などに、隣村どうし、子どもなどが地境に出て、型どほり悪たいの
かけあひをする処もある。民間伝承には、此通り、呪言唱和の注意せられた印象が残つて居る。文学史と民俗学との交渉する処は大きいと言はねばならぬ。
ほくは
ほかふとも再活し、語尾が替つて
ほむともなつて居る。又
ほさくと言ふ形もあつた。
うらふは、夙く一方に意義が傾き過ぎたが、
ほくは長く原義に近く留つて居た様に見える。唯恐らくは、
ほの現出するまで祝言を陳べる事かと思ふのに、記・紀・祝詞などの用例は、象徴となる物を手に持ち、或は机に据ゑて、其物の属性を、対象なる人の性質・外形に
準へて言ふか、全く内的には関係なくとも、声音の聯想で、祝言を結びつけて行くかゞ、普通になつて居た。
其中常例として捧げられた物は
御富岐ノ玉である。聖寿を護る
誓約の
ほとして、宮殿の精霊が出す――実は、斎部の官人が、天子常在の仁寿殿及び浴殿・厠殿の四方に一つ宛懸けるのである――事になつて居たらしい。大殿
祭を行ふ日の夜明けに、中臣・斎部の、官人・
御巫等行列を作つて常用門と言ふべき延政門におとづれて、其処から入つて斎部が祝詞を唱へて廻る。宮殿の精霊に供物を散供して歩くのが、御巫の役だ。此は、呪言の神が宮殿を祝福し、其と同時に聖寿を賀した古風を残して居るのである。玉は、呪言の神の呪言に対して、宮殿の精霊の示した
ほなのである。だから大殿祭祝詞の
御吹支乃玉の説明は、後代の合理と言うてよい。斎部の扮する呪言の神は、元別に時々来臨する者のあつたのが、絶えてからの代役で、其すら長い歴史を持つ様になつたのではないかと思ふ。
中臣氏のは其と違つて、水取りの本縁を述べた「中臣
ノ天
ツ神
ノ寿詞」を伝へて居た。此は氏々の寿詞の起原とも称すべきもので、尊者から卑者に
誓は――信諾を約せ――しめる為の呪言が、卑位から高位に向けて発する第二義の呪言(寿詞)を分化し、――今一つ別の考へも立つ――繁栄させる風を導いた。極めて古い時代には、朝賀の
賀正事には専ら此を奏上して、神界に君臣の分限が明らかだつた事始めを説いて、其時の如く今も忠勤を抽んでゝ天子に仕へ、其健康を保障しようとする事を誓うた。だから、氏々の人々も、此を各の家の聖職の本縁を代表する物と信じ、等しく拝跪して、其誓約の今も、家々にも現実の効果あるべきを示した。
中臣寿詞以外、氏々の
賀正事――
誄詞も同じ物で、其用途によつて別名をつけたまでゞある。氏々の
誄・百官の誄など奏したのも、或期間、魂の生死に弁別がなかつた為だ――にも共通の慣用句であつたらしい「現御神
止大八洲国所知食
須大倭根子天皇云々」と言ふ讃詞は、天子の神聖な資格を示す語として、賀正事から、此に対して発達したと思はれる詔旨(公式令)の上にも、転用せられて行つた。氏々の聖職の起原――転じては、臣従の由来――を説く寿詞(賀正事としてが、最初の用途)が、朝賀の折に、数氏の
長上者等によつて奏上せられる様になつてからは、其根元たる中臣寿詞は、即位式――古くは二回、大嘗祭にも――に奏上せられることに定まつて来たのである。
中臣氏の神の
ほは、水であつた。初春の聖水は、復活の威霊の寓りとして、
変若水信仰の起因となつたものである。天子のみ
代替りを以て、
日の
御子の断えざる復活の現象と考へ、其を促す力を水にあるものと見たのである。
ほの原始に近い意義として、古典から推定出来るものは、邑落時代に持つて居た、邑落々々の守護霊――外来威力――の寓りと看做された形ある物及び現象であつた。
ほを提出する事が、守護の威霊を護り渡して、相手の威力・生活力を増させる訣である。
ほを示す即
ほく動作が臣従を誓ふ形式になる所以である。
ほくが元、尊者から卑者にする事であつたのは、一方親近者の為に、威霊を分つ義のあつた事からも知れる。天照大神が、
おしほみゝの命――み子であるが、
すめみまの命と言ふ事は、語原及び其起原なる古信仰から見てさしつかへはない――の為に、手に宝鏡を持つて授けて、
祝之曰く、
此宝鏡を視ること我を視るごとくなるべし。床を同にし、殿を共にして斎鏡とすべし。(紀一書)
と言はれたとも、「鏡劔を捧げ持ち賜ひて、
言寿宣たまひしく」(大殿祭祝詞)と言ふ様な伝へもある。此は、「
己が
命の
和魂を八咫鏡に取り
託けて」(国造神賀詞)など言ふ信仰に近づいてゐるのだ。威霊を与へると云ふ点では一つである。身替りの者の為に威霊の寓りを授ける呪言を唱へる事も、
ほくと言ふやうになつた事を示してゐる。古代から近代に伝承せられた「
衣配り」の風習も此である。外来魂を内在魂と同視した処から「とりつける」と言ふ様な考へ方になつて来る。
とにかく、
ほくは外来魂の寓りなる
ほを呼び出す動作で、呪言神が精霊の誓約の象徴を徴発する詞及び副演の義であつた。其が転じて
ほを出す側から――精霊の
開口を考へ出した時代に――
ほに附随した説明の詞を陳べる義になつて、
ほを受ける者の生命・威力を祝福する事と考へられ、更に転じて
ほが献上の方物となり、其に
辞託せて祝福を言ひ立てる――或は、場合や地方によつて、副演も保存せられた――事を示すやうになつた(イ)。
この以前から
ほき詞は、生活力増進の祝福詞である為に、
齢詞の名を持つて居たらしく、
よごと必しも奏詞にも限らなかつた様である。其が段々
のりとの宣下せられるのに対して、奏上するものと考へられる様になつて来たのは、宮廷の大事なる受朝朝賀の初春の
宣命と
奏寿――元日受朝の最大行事であつた事は後の令の規定にまで現れてゐる――の印象が、此を区別する習慣を作つて行つたものと思はれる。尚
よごとは縁起のよい詞を物によそへて言ふ処から、善言・美詞・吉事などの聯想が、奈良の都以前からもあつた。其前から、
霊代としての
ほの思想もあつた処から転じて、兆象となる物を進めて、かくの如くあらしめ給へと、呪言者の意思を代表する意義の
ほと、其に関聯した
ほく動作も出て来た(ロ)。
(イ)の
ほくは
寿詞であり、
(ロ)の
ほくは、宮廷では、
のりと――斎部祝詞の類――に含めて
よごとと区別して居た。
詔旨と
寿詞との間に、天神に仮託した他の神――
とこよ神の変形。呪言神の資格が低下した時代の信仰――の、精霊を鎮める為に寄せた
護詞が考へられてゐた。此は、家屋の精霊の
ほを、建築の各部に見立てゝ言ふ形式の詞章で、此を「言ひ立て」又「
読み
詞」と言ひ、さうした諷誦法を
ほむと言うて、
ほくから分化させて来た。「言ひ立て」は、方式の由来を説くよりも、詞章の魅力を発揮させる為の手段が尽されてゐたので、特別に「
言寿」とも称してゐた。
さうして、他の
寿詞に比べて、神の動作や、稍複雑な副演を伴ふ事が特徴になつてゐた。此
言寿に伴ふ副演の所作が発達して来た為、
ほく事をすると言ふ意の再活用
ほかふと言ふ語が出来た。
ほかひは、
ことほきの副演なる身ぶりを含むのが用語例である。斎部祝詞の中心なる大殿祭を
おほとのほかひと言ひ馴れたのも此為である。さうした異神群行し来つて、鎮祭を司る遺風を伝へたものは、大殿祭や
室寿ばかりではなかつた。宮廷の大祓へに伴ふ主上の
御贖ひの
節折りの式にも、此があつた。上元の行事たる
踏歌節会の夜に、
ことほきびとの
高巾子などにやつした異風行列の練り歩くのも、此群行のなごりである。
祭文・歌祭文などの出発点たる
唱門師祭文・山伏祭文などは、明らかに、卜部や陰陽師の祭文から出て居る。祝詞・寿詞に対する
護詞の出で、寺の講式の祭文とは別であつたやうだ。だが此には、
練道・
群行の守護神に扮装した来臨者の諷誦するものと言ふ条件がついて居た様である。
詔旨と
奏詞との間に「
護詞」と言ふものがあつて、古詞章の一つとして行はれて居た。奈良以前からの用例に拠れば、此は
よごとと言ふ方が適当らしいのに、其中の一部、伝承の古い物には、
のりととも称したのが、平安朝の用語例である。斎部祝詞は多く其だ。此三種類の詞章の所属を弁別するには、大体、其慣用動詞を
めどにして見るとよい。
のりとは
のる、
よごとには
たゝふ、氏々の寿詞では
まをす、
ことほぎのよごとには
ほく・
ほむ、
いはひ詞には
いはふ・
しづむ・
さだむ・
ことほぐなど、用語例が定まつて居たことは察せられる。其正しい使用と、実感とが失はれた時代の、合理観から来る混乱が、全体の上に改造の力を振うた後の整頓した形が、平安初期以後の祝詞の詞章である。
かうした事実の根柢には、古代信仰の推移して来た種々相が横たはつて居る。代宣者の感情や、呪言伝承・製作者らの理会や、向上しまた沈淪した神々に対する社会的見解――呪言神の零落・国社神の昇格から来る――や、天子現神思想の退転に伴ふ諸神礼遇の加重などが、其である。延喜式祝詞は、さうした紛糾から解いてかゝらねば、実は隈ない理会は出来ないのである。
とと言ふ
語が、神事の座或は、神事執行の中心様式を示すものであつたらうと言ふことは、既に述べた。恐らくは神座・机・発言者などの位置のとり方について言ふものらしいのである。
ことゞ・
とこひど(咀戸)・
千座置戸(
くらと
ととは同義語)・
祓戸・
くみどなどの
とは、同時に亦
のりとの
とでもあつた。宣る時の神事様式を示す語で、詔旨を宣べる人の座を
斥して言つたものらしい。即、平安朝以後
始中終見えた祝詞座・祝詞屋の原始的なものであらう。其
のりとに於て発する詞章である処から
のりと詞なのであつた。
天つのりととは天上の――或は其式を伝へた神秘の――祝詞座即、
高御座である。其処で始めて発せられ、其様式を
襲いでくり返す処の伝来の古詞が「
天つのりとの
太のりと詞」なのである。
のりとごとの
ことを修飾上の重言のやうに解して来た此までの考へは、逆に略語としての発生に思ひ直さねばならぬのである。
前に述べたとほり、
よごとの意義が低くなつて行くのはやむを得なかつた。其と共に、上から下へ向けての詞章は別の名を得る様になつた。其が
のりと詞である。卑者が尊者に奏する詞が
よごとと呼ばれるものと言ふ受け持ちが定まつて来ると、人以外の精霊を対象とする詞章も亦、
よごとの外に
いはひ詞と言ふ名に分類せられる様になつた。此類までも
のりとにこめた延喜式祝詞の部類分けは、
甚、杜撰なものであつた。
いはひ詞を諷誦し、其に伴ふ副演を行ふ事が、
ほかふの用語例である事は、前章に述べた。宮廷祝詞の中では、斎部氏が担当してゐた方面の為事が、呪言の古意を存して居た。民間の呪言に於ても、
いはひ詞及び其
ほかひが、全体として原始的な呪言に最近いものであつたのである。呪言の中に既に、
地と
詞との区別が出来て来て、其詞の部分が最神秘的に考へられる様になつて行つた。すべては、神が発言したと考へられた呪言の中に、副演者の身ぶりが更に、
科白を発生させたのである。さうすると、呪言の中、真に重要な部分として、劇的舞踊者の発する此短い詞が考へられる様になる。此部分は抒情的の色彩が濃くなつて行く。其につれて呪言の本来の部分は、次第に「
地の文」化して、叙事気分は
愈深くなり、三人称発想は
益加つて行く。かうして出来た
ことばの部分は、多く神の真言と信じられる処から、呪言中の重要個処・秘密文句と考へられる。だから、呪言が記録せられる様になつても、此部分は殆どすべて、口伝として省略せられたのである。延喜式祝詞に、
天つのりとの部分が、抜きとられてゐるのは、此為である。
呪言の中、宗教儀礼・行事の本縁を語ると共に、其詞章どほりの作法を伴ふものと、既に作法・行事を失うて、唯呪言のみを伝へるものとが出来て来た。鎮魂法の起原を説く天窟戸の詞章は、物部氏伝来の鎮魂法を行ふやうになつては、儀礼と無関係な神聖な本縁詞に過ぎなくなつて居た。大祓詞を以て祓へを修する時代になつては、
すさのをの命を始めと説く天つ罪の祓への呪言――天上悪行から追放に到る物語を含む――も、国つ罪の起原・
禊ぎの事始めを説明した呪言――
いざなぎの命の
黄泉訪問から「
檍原の禊ぎ」までをこめた――も、単なる説明詞章に過ぎなくなつて了うた。
神事の背景たる歴史を説く物と、神事の都度現実の事件としてくり返す劇詩的効果を持つ物との間には、どうしても意義分化が起らないではすまなくなる。此が呪言から叙事詩の発生する主要な原因である。だから、呪言は、過去を説くものでなく、過去を常に現実化して説くものであつた。其が後に、過去と現在との関係を説くものばかりになつたのは、大きな変化である。叙事詩の本義は現実の歴史的基礎を説く点にある。而も尚全くは、呪言以来の呪力を失うた、単なる説話詩とは見られては居なかつた。やはり神秘の力は、此を唱へると目醒めて来るものとせられて居たのである。叙事詩に於て、
ことばの部分が、威力の源と考へられたのは、呪言以来とは言へ、地の文の宗教的価値減退に対して、其短い抒情部分に、精粋の集まるものと見られたのは、
尤なことである。
呪言の中の
ことばは叙事詩の抒情部分を発生させたが、其自身は後に固定して短い呪文或は
諺となつたものが多かつた様である。叙事詩の中の抒情部分は、其威力の信仰から、其成立事情の似た事件に対して呪力を発揮するものとして、地の文から分離して
謳はれる様になつて行つた。此が、物語から歌の独立する経路であると共に、遥かに創作詩の時代を促す原動力となつたのである。此を宮廷生活で言へば、何
振・何
歌など言ふ
大歌(宮廷詩)を游離する様になつたのである。宮廷詩の起原が、呪文式効果を願ふ処にあつて、其舞踊を伴うた理由も知れるであらう。
呪言の総名が古くは、
よごとであつたのに対して、
ものがたりと言ふのが叙事詩の古名であつた。さうして、其から脱落した抒情部分が
うたと言はれた事を、此章の終りに書き添へて置かねばならぬ。
日本の歌謡史に一貫して、其声楽方面の二つの術語が、久しく大体同じ用語例を保ちながら行はれて居る。
かたると
うたふとが、其だ。旋律の乏しくて、中身から言へば叙事風な、比較的に言へば長篇の詞章を謡ふのを
かたると言ふ。其反対に、心理律動の激しさから来る旋律豊かな抒情傾向の、大体に短篇な謡ひ物を唱へる事を
うたふと称して来た。此二つの術語は、どちらが先に出来たかは知れぬが、詞章としては
かたり物の方が前に生れて居る。其うちから段々
うたひ物の要素が意識せられる様になつて来て、游離の出来る様な形になり、果ては対立の地位を占める様になつて行つた。
うたふは
うつたふと同根の語である。訴ふに、訴訟の義よりも、稍広い哀願・愁訴など言ふ用語例がある。始め終りを縷述して、其に伴ふ感情を加へて、理会を求める事に使ふ。此義の分化する前には、神意に依つて判断した古代の裁判に、附随して行はれる行事を示して居た。勿論
うたふと言ふ形で其を示した。神の了解と同情とに縋る方法で、
うけひ(誓約)と言ふ方式の一部分であつたらしい。
うたふと云ふ語の第一義と、
うたふ行為の意識とが明らかになつたのは、神判制度から発生したのである。
うけひの形から男女の誓約法が分化して、
ちかひと称せられた。
此
ちかひの歌が、
うけひの際の
うたへの形式を襲いで、抒情詩発生の一つの動機を作り、
うたへの声楽的な方面を多くとりこんだ為に、
うたふが声楽の抒情的表出全部を言ふ語となつたものと思ふ。段々
うたふの語尾変化によつて、
うたへと
うたひとを区別する様になつた。従つて
うけひの
場で当人の誦する詞が、
うたと言ふ語の出発点といふ事になる。尤、
うたふことの行為は前からあつたもので、其が
うけひに
うたを
うたふのが、其代表的に発達した形だつたからであらう。全体
うたと語根を一つにしてゐるらしい語には、悲愁・
寃屈・纏綿などの義を含んでゐるのが多い。
後世の
くどきと言ふ曲節は此に当るもので、曲舞・謡曲時代から、抒情脈で縷述する部分の術語になつて居た。其が、近世では固定して、抒情的叙事詩の名称になつて、
くどきと言へば、愁訴を含んだ卑俗な叙事的恋愛詞曲と言ふ風になつた。発生的には逆行してゐる次第である。一人称で発想せられてゐるが、態度は、三人称に傾いた地の文に対して、やはり叙事式の発想をしながら、
くどき式に抒情気分を豊かに持つたものが
うたと見ればよからう。さうした古代の歌には、聴きてを予想してゐたらうと思はれる様な、対話式の態度が濃く現れて居る。
私は、叙事詩よりも呪言系統の物から、歌の発生の経路を見た方が、本義を捉へ易いと考へるから、一例として、万葉巻十六の「乞食者詠」について説明を試みたい。乞食者は祝言職人である。土地を生業の基礎とせぬ
すぎはひ人の中、諸国を流離して、行く先々で
くちもらふ生活を続けて居た者は、唯此一種類あつたばかりである。行基門流の乞食者が認められたのは、奈良の盛時に入つてのことである。だから、乞食者とは言ひでふ、仏門の乞士以後の者とは内容が違つてゐる。
ほかひによつて口すぎをして、旅行して歩く団体の民を称したのである。
詠は、
うたと訓みなれて来たけれど、正確な用字例は、舞人の自ら諷誦する詞章である。だから、
いはひ詞を以て
ほかひして歩いた祝言職人の芸能に、地に謳ふ部分と、科白として謳ふ歌の部分とのあつた事が推定出来る。言ひ換へれば、此歌は劇的舞踊の詞章であつて、別に地謡とも言ふべき呪言のあつた事が、表題の四字から察せられる。
更に本文に入つて説いて行くと、呪言と
ほかひゞとと、叙事詩と歌との関係が明らかになる。「いとこ
汝兄の
君」と言ふ歌ひ出しは「ものゝふの我がせこが。……」(清寧記)と言つた新室の
宴の「詠」と一つ様である。又二首共結句に
……我が身一つに、七重花さく 八重花栄ゆ(?)と、白賞尼。白賞尼
……我が目らに、塩塗り給ぶと、時(?)賞毛。時賞毛
とあるのは、寿詞の口癖の文句らしい。「鹿」の方の歌の「耆矣奴吾身一爾……」を橋本進吉氏の訓の様に、
おいやつこと訓むのが正しいとすれば、顕宗帝の歌の結句の
おしはのみこのやつこみすゑ(記)
おとひやつこらまぞ。これ(紀)
と言ふのに当るもの、
此亦呪言の型の一つと言はれ、寿詞系統の、忠勤を誓ふ固定した言ひ方と見る事も出来る。
対句の極めて多いのも、調度・食物類の名の畳みかけて述べられてゐる事も、地名の多く出て来るのも、新室の
寿詞系統の常用手法である。建築物の内部に満ちた富みを数へ立て、其出処・産地を述べ、又其一つ一つに寄せて祝言を述べる方法は、後の千秋万歳に到るまでも続いた
言ひ立てである。而も二首ながら「あしびきの此
傍山の……」と言つて木の事を言ふのは、
大殿祭や
山口祭の祝詞と一筋で、新室祝言の型なる事を明らかに見せて居る。
室寿詞は、
いはひ詞の代表形式で、すべての呪言が其型に這入つて発想せられた事実は証明する事が出来る。此二首なども元、農業の害物駆除の呪言から出たのであるが、やはり、室寿詞の定型を
履んでは居る。農村の煩ひとなる生き物の中、夜な/\里に出て成熟した田畑を根こそげ荒して行く鹿、年によつてはむやみに
孵つて、苗代田を螫み尽す蟹、かうした苦い経験が、此
ほかひ歌を生み出したのである。元は、鹿や蟹(其効果は他の物にも及ぶ)に誓はす形であつた呪言が、早く芸能化して、鹿・蟹の述懐歌らしい物に変化して行つたのである。
即鹿・蟹に対する呪言及び其副演の間に、当の田畑を荒す精霊(鹿・蟹を代表に)に扮した者の誓ふ身ぶりや、
覆奏詞があつたに違ひない。其部分が発達して、滑稽な詠、
をこな身ぶりに人を絶倒させる様な演芸が成立して居たものと思ふ。二首ながら、
夫々の生き物の
からだの癖を述べたり、愁訴する様を謳うたりして居る。又道行きぶりの所作――王朝末から明らかに見えて、江戸まで続いた劇的舞踊の一要素たる海道下り・
景事の類の古い型――にかゝりさうな箇所もある。
古代の舞踊に多かつた禽獣の物まねや、人間の醜態を誇張した身ぶり狂言は、
大凡精霊の呪言神に反抗して、屈服に到るまでの動作である。
もどきの劇的舞踊なのである。後世
ひよ/\舞と言はれる
鳥名子舞・
侏儒の物まね(殊舞と書くのは誤り)なる
たつゝまひ、水に溺れる様を演じる隼人の
わざをぎ――海から来る水を司る神、作物を荒す精霊との争ひの記憶が大部分に這入つてゐる――さうした
ふりごととしての効果は、此二首にも、十分に現れて居る。
鹿・蟹が甘んじて奉仕しようとすると言つた表現は、実は臣従を誓ふ形式から発して来たものと解するがよい。私は此二首を以て、飛鳥朝の末或は藤原朝――飛鳥の地名を広くとつて――の頃に、
ほかひゞとの祝言が既に、演劇化してゐた証拠の貴重な例と見る。尚此に関聯して言ひたい事は、呪言の副演の本体は人間であるが、
もどき役に廻る者は、地方によつて違つて居たことを言ひたい。其が人間であつたことも勿論あるが、ある国・ある家の神事に出る精霊役は、人形である事もあり、又鏡・瓢などを顔とした仮りの偶人であつたことも考へてよい根拠が十分にある。
此
ほかひの歌の如きは、時代の古いに係らず、其先に尚古い形のあつて、現存の呪言に絶対の古さを持つものゝない事を示して居る。だが同時に、此詠から呪言の中に科白が生じ、其が転じて叙事詩中の抒情部分が成立し、又其独立游離する様になる事の論理を、心に得る事は出来るのである。
私は
ことほぎを行ふ者と、物語を伝誦する語部との間に、必しも絶対的な区劃があつたものとは考へない。けれども大体に於て、此だけは言つてもよい様である。叙事詩及び若干のまだ呪力の信ぜられた呪言を綜合して、可なりの体系をなした物の伝承諷誦を主とする職業団体を語部と呼んでよい事、特殊な呪言と呪力とを相承し、其に関聯した副演出を次第に劇化して行つた団体で、さうした動作が清浄な結果を作るものと信頼せられてゐたのが、宮廷では斎部――及び後々の
卜部――国々村々では、
ほかひゞと・
ことほき(
ことほきびとの略語)或は亦斎部とも卜部とも言つた事である。倭宮廷及び社会状態の其と似通うた国々村々の多くでは、此語部・
ほかひゞとの職掌範囲が分れてゐた事は実際である。
私の考へ得た処では、語部の伝統や職掌は、宮廷のものすら一定不変ではなかつた。時代によつて、目的・伝統が変化して居る。家筋の側から言へば、更に幾筋の系統を考へる事も出来さうだが、大凡三つの部曲は明らかに認めてもよい。第一
猿女・第二
中臣女・第三
天語部、此三つの系統の語部である。猿女・中臣女の如きは、恐らくは時を同じくして併立して居たものであらうが、勢力にはそれ/″\交替があつた。天語部は後のわり込みで、猿女・中臣女に替つたものと見る事が出来る。
猿女の統率階級は
猿女ノ君で、伝説の祖先
うずめの命以来、女戸主を原則とした氏族である。此系統の語部は、まだ呪言と甚しく岐れない時代の叙事詩を諷誦したらしく、主として鎮魂法の為に、鎮魂の来歴を説くを職としたやうである。而も此
天ノ窟戸の物語を中心にした鎮魂の呪言に、其誘因として語られた
天つ罪及び
祓へ・
贖ひの起原を説く物語、更に
魂戦の
女軍の由来に関聯した天孫降臨の大事などが、一つの体系に組織だてられて来た。
さうした結果、
うずめ中心の猿女叙事詩が、宮廷が国家意識の根柢となつた時代には
纏つて居た。開闢の叙事詩よりも、天孫降臨を主題とする呪言の、栄えて行くのは当然である。聖職を以て宮廷に仕へる人々或は家々では、其専門に関した宮廷呪言に対しては、其反覆讃歎をせねばならなかつた。此が肝腎の天子の
のりとを陰にして、伝宣者が奉行するやうな傾きを作り出したのである。
此伝宣の詔旨――より
寧、覆奏――は、分化して宣命に進むものと、ある呪言の本縁を詳しく人に聴かせる叙事詩(物語)に向ふものとが出来て来た。
中臣女と汎称した下級巫女の上に、発達して来たものと推定の出来る中臣
ノ志斐ノ連の職業は
茲に出自があるものと思ふ。平安宮廷の女房の前身は、釆女其他の巫女である。其女房から「女房宣」の降つた様式は、由来が古いのであつた。宮廷内院の巫女の関係した
まつりごとの
のりと詞は、其々の巫女が伝宣した習慣を思はせる。
国魂の神の巫女なる
御巫や釆女等の勢力が殖えるまでは、猿女が鎮魂呪法奉仕を中心に、中臣・斎部と対照せられてゐた。だから古代宮廷に於て、猿女が宮廷呪言を、中臣・斎部と分担して伝承して居た分量の多さは察せられる。祭祀・儀礼に発せられた
のりと詞の叙事詩化して、猿女伝承に蓄へられた物が多かつたであらう。其鎮魂呪言が自然に体系をなして、更に種々の呪言を組織だてゝ行つた事は考へてよい。さうして、其が呪言以外の目的で、
奏と
宣との二方便に亘つて物語られるやうになつたのである。かうした方面から見れば「中臣寿詞」もやはりまだ、分化しきらない物語だつたのである。天孫降臨を主題にした叙事詩は猿女系統の口頭伝承に根ざしてゐるのである。
古事記の基礎となつた、天武天皇の永遠作業の一つだと伝へられて居る、習合せられた宮廷叙事詩を、諳誦して居たと言ふ
阿礼舎人も、猿女
ノ君の支族なる稗田氏であつた。
宮廷の語部が「
のりと伝承家職」から分化したことは、既に述べた。其に、自家の
よごとを含めて組織したものが、語部の語り物
即「物語」である。宮廷以外の豪族の家々にも、規模の大小こそあれ、氏の長上と氏人或は部民との間に、
のりと・
よごとの
宣・
奏が行はれ、同じく語部の叙事詩の物語られた事は、邑落単位だつた当時の社会事情から、正しく察せられる。奈良の末に近い頃の大伴
ノ家持の「喩族歌」は、大伴氏としての
のりとの創作化したものであり、「戒尾張少咋歌」の如きは、
のりとの分化して、宣命系統の長歌発想を採つたものである。山
ノ上
ノ憶良の大伴
ノ旅人に
餞した「書殿餞酒歌」の如きものは、
よごとの変形「魂乞ひ」の
のみ詞の流れである。殊に其中の「あが
主の
御魂たまひて、春さらば、奈良の都に
喚上げたまはね」とある一首は、
よごととしての特色を見せてゐる。
家々伝来の外来魂を、天子或は長上者に捧げると共に、其尊者の
内在魂の
分割を授かつた(毎年末の「
衣配り」の儀の如き)
申請の信仰のなごりが含まれて居る。又遥かに遅れて、興福寺僧の上つた歌(続日本後紀)の如きも、
よごとを新形式に創作したと言ふだけのものであつた。
長歌について見ると、
のりと・
よごと系統のものが著しく多い。藤原
ノ宮
ノ御井
ノ歌の如きは、陰陽道様式を採り容れた創作の大殿祭祝詞(実は
いはひ詞)であり、藤原
ノ宮
役民ノ歌は、山口祭か
斎柱祭の類の
護詞の変態である。短歌の方でも、病者・死人の為の祈願の歌や、挽歌の中に、屋根の
頂上や、
蔦根(
つな・
かげ)・柱などを詠んでゐるのは、大殿祭・新室寿の詞章の系統の末である。挽歌に
巌門・
巌ねを言ひ、水鳥・大君の
おもふ鳥を出し、
杖策いての
さまよひを述べ、紐を云々する事の多いのは、皆、鎮魂式の祭儀から出て居る。極秘となつたまゝで失せた古代詞章から、其文句や発想法が分化して来たものと考へるのが、適当なのである。死後一年位は、生死を判定することの出来なかつたのが、古代の生命観であつた。さうした期間に亘つて、
生魂を身に
固著しめようと、試みをくり返した。此期間が、漢風習合以前の日本式の
喪であつたのである。
こふ(恋ふ)と云ふ語の第一義は、実は、
しぬぶとは遠いものであつた。
魂を欲すると言へば、はまりさうな内容を持つて居たらしい。魂の還るを乞ふにも、魂の我が身に来りつく事を願ふ義にも用ゐられて居る。
たまふ(目上から)に対する
こふ・
いはふに近い
こむ(籠む)などは、其原義の、
生きみ魂の
分裂の信仰に関係ある事を見せてゐる。
だから恋歌は、後に発達した唱和・相聞の態を本式とすべきではない。生者の魂を身に
こひとる事は、恋愛・結婚の成立である。古代伝承には、女性と男性との争闘を、結婚の必須条件にして居た多くの事実を見せてゐる。死者の霊を呼び還すにも、同じ方法の儀式・同じ発想の詞章が用ゐられた。其為、万葉の如き後の物にすら、多くの挽歌が恋愛要素を含み、相聞に挽歌発想をとつたものを交へてゐるのである。恋歌分化後にも、類型をなぞる事は絶えなかつたからである。
氏々伝承の詞章から展開した歌詞の系統は、右の通り、随分後まで見える。其等の詞章は、大体に
おふせと
まをしとの二つの形に分れる。寿詞が勢力を持つ時代になると、
おふせの影は薄くなり、大体
まをしに近づく。奈良の宣命や、孝謙・称徳天皇の遣唐使に仰せられた歌(万葉)などを見ると、
まをしの形が交つて来てゐる。此は神に対してとるべき
おふせの様式が、神の向上によつて、
まをしに近づいて来た事の影響である。平安の祝詞の
悉くが、
まをし式になつて了うた原因も、こゝにある。
だから、寿詞が多く行はれ、本義どほりの
のりとは、宮廷で稀に発せられるだけで、宮廷から下つたものを伝奏・宣下する以外には、
のりとと言ふ事が許されなくなつた痕が見える。貴族・神人の伝承詞章は、
のりとに這入るべきものでも、
よごとと呼ぶ様になつて行つたらしい。かうした
よごとの分化に伴うて、
のりとから分化して来たのが、
いはひごと(鎮護詞)であつた。だから、
よごとであるべきものが
鎮護詞と呼ばれたり、又祝詞と呼ばれる物の中にも、
斎部などの
いはひ詞を多く交へてゐる訣である。宮廷のものは何でも
のりとであり、民間のものはすべて
よごとと称へ、
よごとの中に
いはひ詞の分子が殖えて行つて、
よごとと言ふ観念が失はれる様になり、そして、
のりとに対するものとして、
いはひ詞が考へられる様になつた。一般に言ふ平安朝以後の祭文である。だから神託とも言ふべき伝来のものは
せみやう・
せんみやうなど、
宣命系統の名を伝へてゐるのだ。
かうして、伝統的に
よごとと呼ぶものゝ外は、此名目が忘れられて、
よごとは、
のりとの古い様式の如くにさへ思はれてゐる。此が寿詞をなのる祝詞にすら、
いはひ詞と自称してゐるものゝある訣である。一つは、宮廷其他官辺に、陰陽道の方式が盛んになつて、在来の祭儀を習合(合理化)する事になつた為でもある。神祇官にすら、陰陽道系の卜部を交へて来たのは、奈良朝以前からの事である。其陰陽道の方式は
鎮護詞と同じ様な形式を採つた。固有様式で説明すると、主長・精霊の間に
山人の介在する姿をとるのである。祭儀も詞章も、勢ひかうした方面へ進んで行つた為に、文学・演芸の萌芽も、鎮護詞及び其演出の影響ばかりを自然に、深く受けなければならない様になつた。
広い用法で言へば、日本古代詞章の中、わりに短い形の物は、鎮護詞章と其舞踊者の転詠――物語の歌から出た物の外は――から出て居ると謂うてよい程である。鎮護詞章は寿詞であるが、同時に、
いはひ詞の発生を導いた内的動機の大きなものになつてゐる。中臣の職掌が益向上し、斎部が
いはひ・
きよめの中心になる様になると、其
わきに廻るのは、卜部及び其配下であつた。さうして、
広成ノ宿禰は、斎部の敵を中臣であると考へてゐた様に称せられるけれども、実は下僚の卜部を目ざしたのであつた。斎部の宮廷に力を失うた真の導きは、卜部の祭儀・祭文や、演出をもてはやした時代の好みにある。
斎部・卜部の勢力交迭は、平安朝前期百年の間に在る様だが、さうなつて行つた由来は久しいのである。陰陽道に早く合体して、日漢の呪法を兼ねた卜部は、寺家の方術までも併せて居た。かうして、長い間に、宮廷から民間まで、祭式・唱文・演出の普遍方式としての公認を得る様になつて来た。卜部は、実に斎部と文部との日漢両方式を奪うた姿である。
さて、唱導の語は、教義・経典の、解説・俗讃を意味するのが本義であるから、此文学史が宣命・祝詞の信仰起原から始めた事にも、名目上適当してゐる。が併し、其宣布・伝道を言ふ普通の用語例からすれば、卜部其他の団体詞章・演芸・遊行を説く「海部芸術の風化」以下を本論の初めと見て、此迄の説明を序説と考へてもよい。同時に其は、日本文学史並びに芸術史の為の長い引を作つたことになるのである。併し、私の海部芸術を説く為に発足点になる
ほかひと
くゞつとの歴史を説くのには、尚
聊かの用意がいる。
先づ呪言及び叙事詩の中に、焦点が考へられ出した事である。
のりとで言へば
地の文――第二義の祝詞に於て――即、神の動作に伴うて発せられる所謂
天つのりとの類である。其信仰が伝つて、叙事詩になつても、
ことばの文に当る抒情部分を重く見た。其がとりも直さず、
うたであり、其諷誦法
うたふから
うたひと
訴へ(うたへ)とが分化して来たのである。
呪言・叙事詩の詞の部分の独立したものが
うたであると共に、
ことわざでもあつた。さうした傾向を作つたのは、呪言・叙事詩の詞が、詞章全体の精粋であり、代表的に効果を現すものと信じて、抜き出して唱へるやうになつた信仰の変化である。だから、
うたの最初の姿は、神の真言(呪)として信仰せられた事である。此が次第に
約つて行つて、神人問答の
唱和相聞の短詩形を固定させて来た。久しい年月は、歌垣の
場を中心にして、さうした短い
うたを育てた。旋頭歌を意識に上らせ、更に新しくは、長歌の末段の五句の、独立傾向のあつたのを併せて、短歌を成立させた。そこに、整頓した短詩形は、遅れて新しく語部の物語に這入つて来る様にもなつた。だが、様式が意識せられるまでは、長歌・片哥・旋頭歌などゝ「組み歌」の姿を持つて居たものと見るべき色々の理由があるのである。奈良朝になつても、
うたが呪文(大歌などの用途から見て)としての方面を見せてゐるのは、実は呪言が歌謡化したのではなかつた。呪言中の真言なる
うたの、呪力の信仰が残つてゐたのである。
くり返す様だが、
ことわざは、神業(わざ)出の
慣例執行語であり、又物の考慮を促す事情説明の文章なる
わざことと言ふ処を、古格で
ことわざと言うたのである。
ことわざの用語例転化して後、
ふりと言ふ語を以て、
うたに対せしめた。古代の大歌に、何振(何曲)・何歌の名目が対立して居た理由でもある。此を括めて、
歌と言ふ。其旧詞章の固定から、旧来の曲節を失ひさへせずば、替へ文句や、成立の事情の違ふ
うたまでも、効果を現すとの信仰が出来る様になつた。追つては古い詞章に、時・処の妥当性を持たせる為の改作を加へる様にもなる。歌垣其他の唱和神事が、次第に、文学動機に接近させ、生活を洗煉させて行つてゐた。創作力の高まつた時代になつて、拗曲・変形から模写・改作と進んで来た
うたが、自由な創作に移つて行く様になつたのは、尤である。
此種の
うたは、
鎮護詞系統から出たものばかりであつたと言うてよい。
殿祭・
室寿の
うたは、家讃め・人讃め・
旅・宴遊の
うたを分化し、鎮魂の側からは、国讃め、妻
覓ぎ・
嬬偲び・賀寿・挽歌・祈願・起請などに展開した。挽歌の如きも、
しぬびごと系統の物ではなく、思慕の意を陳べて、魂を
迎寄せて、肉身に
固著しめる
ふりの変態なのであつた。
歌の中、鎮魂の古式に関係の遠いものは、叙事詩及び其系統に新しく出来た、
壬生部・
名代部・
子代部の伝へた物語から脱落したものである。又或ものは
系譜――
口立ての――の挿入句などからも出てゐる事が考へられる。
記・紀に見えた大歌は、やはり真言として、
のりとに於ける
天つのりと同様、各種の鎮魂行儀に、威力ある呪文として用ゐられたのがはじまりで、後までも、此意義は薄々ながら失せなかつた。大歌は次第に、声楽としての用途を展開して行つて、尚神事呪法と関係あるものもあり、其根本義から遠のいたものも出来た。記・紀にすら、詞章は伝りながら、既に用ゐられなくなつたもの、
わざ・
ふりの条件なる動作の忘れられたもの、後代附加のものも含めて居る様だ。だから替へ歌は文言や由来の記憶が錯乱したのや、詞章伝つて所縁不明になつたものも、勿論沢山にある道理だ。鎮魂祭・
節折り・御神楽共に、元は、鎮魂の目的から出た、呪式の重複した神事である。
うたに近づいて行つたのは、信仰の変改である。
鎮魂と神楽とは、段々
うたを主にして行つた上、平安中期以前既に、短歌の形を本意にする様になつて居た。さうした大歌も、必しもすべて宮廷出自の物に限つて居なかつた。他氏の
うた或は、民間流伝の物までも、其に伴ふ物語又は説話から威力を信じて、採用したのも交つてゐる。
大歌には既に其所属の叙事詩の亡びて、説話によつて其由来の伝へられたものも多かつたらしい。併し、其母体なる物語の
尚存してゐて、其内から抜き出したものも多い事は、証明出来る。由来の忘られたものは、民間理会によつて適当らしい人・時・境遇を推し宛てゝ、作者や時代を極めてゐる。其為、根本一つに違ひない大歌に、人物や事情の全く違うた両様の説明が起つた。更に其
うたを二様に包みこんだ別殊の叙事詩があつたりもした。
氏々の呪言・叙事詩の類から游離した
うた・
ことわざのあつた事、並びに、其が大歌や呪文に採用せられたことは明らかである。大抵冒頭の語句を以て名とした
ふりと称するものは、他氏・他領出自の歌であつた。さうして、其には必、
魂ふりの
舞ぶりを伴ふ。此が「
風俗」である。中には、
うたの形を採りながら、まだ「物語」から独立しきつて居ないばかりか、其曲節すら、物語に近いものがあつたらしい。
天語歌・
読歌などが、其である。
名は
神語・
天語歌と区別してゐるが、此二つは、出自は一つで、様式も相通じたものである。唯天語歌の方が、幾分壊れた姿でないかと思はれる。而も却つて、神語の方に天語らしい痕跡が多い。
いしたふや あまはせつかひ ことの語り詞も。此者
と言ふ形と、其拗曲した、
ことの語り詞も。こをば
と言ふのと、
豊み酒たてまつらせ
と
乱めるものと二つある。又此二つが
重つて、
豊み酒たてまつらせ。ことの語り詞も。こをば
となつたのなどがある。此から見ると、
酒ほかひの真言と、憤怨を鎮める呪文とには、共通の詞章や、曲節の用ゐられた事が考へられる。結婚の遂行は条件として、戦争とおなじく「
霊争ひ」を要した古代には、
名のり・
喚ばひにすら、憤りを鎮める
うたが行はれたのである。
あまはせつかひとは、
海部駈使丁の義である。神祇官の配下の
駈使丁として召された
海部の民を言うたらしい。此等の海部の内、亀卜に達したものが、陰陽寮にも兼務する事になつたものと見える事は、後代の事実から推論せられる。此等の
海部駈使丁や、其固定した卜部が行うた
ことほぎの護詞や、占ひ・祓への詞章などの次第に物語化し――と言ふより一方に傾いたと言ふ方がよい――たものが「
海部物語」であり、其
うたの部分が「天語歌」であつたと言へよう。海部駈使丁の聖職が分化して、卜部と天語部とを生じた。天語部を宰領する家族なる故の
天語連の
かばねまで出来た。
其伝へた詞章の中のある一類は、神語とも伝へたのであらう。神語は天語の中の秘曲を意味するらしく、天語なる事に替りはない。古くすでに「
海部物語」を「天つ物語」と感じて、神聖観を
あまの音に感じ、天語と解したのである。其
囃しとも
乱辞とも見える文句は、天語連の配下なる海部駈使丁の口誦する天語の中の歌だと言ふ事を保証するものであつた。其が替へ歌の出来るに連れて、必然性を失うて、囃し詞に退化して行つたのである。
天語
ノ連(或は海語
ノ連)は斎部氏の支族だとせられてゐる。其から見ても、神祇官の奉仕を経て、独立を認められて来た、卜部関係の語部なる事が知れる。
記・紀・万葉に、
安曇氏や、各種の
海部の伝承らしい伝説や歌謡の多いばかりか、其が古代歴史の基礎中に組み込まれてゐるのは、此天語部が、宮廷の語部として採用せられたからである。
宮廷の語部が、護詞を唱へる聖職から分化したものなのは、猿女
ノ君の場合に、殊に明らかであつた。其に次いで行はれたらしいのは、中臣系統の物語である。禊ぎ祓へに奉仕した中臣女が「中臣物語」の伝承をも併せ行うたらしい。
男性の中臣の聖職は次第に昇進したが、女性の分担は軽く許りなつて行つた。嬪・夫人にも進むことの出来た御禊奉仕の地位も、其由来は早く忘れられて了うた。加ふるに御禊の間、傍に居て、呪詞を唱へる中臣の職は、さほど重視せられなくなり、「撰善言司」設置以後、宣命化した
のりとを宣する様になつた。だから大抵の寿詞・護詞系統の物語は、中臣女の口に移つて行つたものと見てよいことは、傍証もある。
中臣女から出た一派の語部は、中臣
ノ志斐ノ連などであらう。
志斐ノ連には、男で国史の表面に出てゐるものもある。持統天皇と問答した
志斐ノ嫗(万葉集巻三)は(
しひに二流あるが)中臣の
複姓の人に違ひはない。此は、男女とも奉仕した家の例に当るのであつて、物部・大伴其他の氏々にもある例である。後に其風を変へたのは猿女で、古くは、男で仕へるものは宇治
ノ土公を名のり、女で勤めるのが、猿女であつたと見る方がよい。男女共同で家をなしたものが、後に女主に圧されて、男も仕へる時は、猿女
ノ君の資格でする様になつたものである。「
猿淡海」など言ふのも宇治土公の一族で、九州にゐた者であらう。女でないから、猿だけを称したのである。
其、族人の遊行するものが、すべて族長即、氏の神主の資格(
こともちの信仰から)を持ち得た為に、猿丸太夫の名が広く、行はれたものと考へてよい。其諷誦宣布した詞章が行はれ、時代々々の改作を経て、短歌の形に定まつたのは、奈良・平安の間の事であつたらう。さうして其詞章の作者を抽き出して、一人の猿丸太夫と定めたのであらう。柿
ノ本
ノ人麻呂なども、さうした方面から作物及び
ひとまろの名を見ねばならぬ処がある様に思ふ。
とにかく、伝統古い猿女の男が、最新しい短歌の遊行伶人となつた事を仮説して見るのは、意義がありさうである。鎮魂祭の真言なる短章(ふり)が、或は、かうした方面から、短詩形の普及を早めたことを思ひ浮べさせる。
語部の職掌は、一方かういふ分科もあつた。語部が鎮魂の「
歌ノ本」を語る事が見え、又「事
ノ本」を
告るなど言ふ事も見えてゐる。
うたや
ことわざ・神事の本縁なる叙事詩を物語つた様子が思はれる。
大祓詞の中、天つ祝詞が秘伝になつて離れてゐるのも其で、元はまづ、天つ祝詞を唱へて演技をなし、その後物語に近い曲節で、大祓の本文を読み、又天つ祝詞に入ると言ふ風になつて居たからで、此祓詞には、天つ祝詞が数个所で唱へられたらしい。其が、前後に宣命風の文句をつけて、宮廷祝詞の形を整へたので、後の陰陽師等の唱へた中臣祓は、此祝詞を長くも短くも誦する様だ。併し、天つ祝詞は伝授せなかつたのである。
護詞の中の
ことわざに近い詞章の本義を忘れて、祝詞の中の真言と感じたのだ。地上の祓への護詞と、真言なる章句とを区別したのである。
呪詞に絡んだ伝来の信仰から、此祓詞を唱へる陰陽師・唱門師の輩は、皆中臣の資格を持つ事になつたらしい。後に此等の大部分と修験の一部に、中臣を避けて、藤原を名のつてゐたものが多い。此は自ら称したと言ふより、世間からさう呼んだのが始まりであらう。呪詞を諷誦する人は、元の発想者或は其伝統者と同一人となると言ふ論理が、敷衍せられて残つたのである。
宮廷の語部は女を本態としてゐるが、他の氏々・国々では、男を語部としてゐるのも多かつた。宮廷でも、物部・葛城・大伴等の族長が、語部類似の事を行ふ事が
屡あつた。
語部の能力が、古詞を伝承すると共に、現状や未来をも、透視する方面が考へられて来たらしい。即、語部と其詞章の原発想者との間に、ある区別を考へない為に語部の物語る間に、さうした能力が発揮せられて(神がゝりの原形)新しい物語を更に語り出すものとした。顕宗紀に見えた近江の
置目などが、此である。父皇子の墓を告げて以来、大和に居て、神意を物語つて、
おきつべき事を教へたのであらう。
おきめは
おき女である。予め定め
おきつるのが、
おくの原義である。
日置部の
おきなども、近い将来の天象、殊に気節交替に就ての
おきをなし得たからである。後に残す
おく、残された
おくるも、此展開である。
かうして、呪言・叙事詩系統の詞章の、伝来の正しさを重んずる事の外に、其語り人の神格化を信じて、新しい詞章を請ふ様にもなつたのだ。此が又、宣命・
よごと・
のりと・
いはひごとなどの新作を、神聖を犯すものとせず、障りなく発達させる内的の第一の動機となつた。
語部は、神がゝりすると言ふより、寧、神自身になつて、古詞章を伝へる内に、段々新聖曲を語り出す様にもなつた。此点にも、呪言と叙事詩との岐れ目がある。呪言では、新詞章の出来たのは、叙事詩よりも遅れてゐる。此には、宣命の新作が、大きな動力になつた。だが、其以前から、発生的に叙事詩と通用して、殆ど同体異貌のものであつたから、変り始めては居た事であらう。
語部の新詞章の語り始められたのは、恐らく、長い飛鳥の都以前からもあつたであらう。尚一面、壬生部の叙事詩が此と絡みあうて、名代部・子代部の新叙事詩を興した事も考へねばならぬ。其は、古い叙事詩を自然に改作し、而も新しい感触を含んだ物語や、歌を数多く入れた身につまされる様なのが出て来た。此名代部・子代部の伝承をある点まで集成したらしいのが、既述の
海語部である。
其は宮廷の語部としての、男性本位の団体で、芸術的意味をも含んで、採用せられたものらしい。彼等は民間より出て、宮廷に入つたが、大部分は尚民間を遊行して居た。さうして、生活の間に演奏種目を交換し、数を殖して行つた。都鄙・異族の叙事詩はかうして融通伝播したのである。
彼等は海村の神人として、農村の為に水を給する神に扮し、呪詞・物語・神わざを演出する資格があつた。かうして、
ほかひして廻つた結果、
ほかひゞとの階級を形づくつた。海語部の外にも、社々・国々の神人の、布教・祝福の旅を続けたらしい者も、挙げることは出来るが、団体運動の歴史や、伝承系統の明らかなのは、此種族である。安曇と言ひ、天・尼・海を冠し、或は
海部と言ふ地名の多いのが、現実の証拠である。漁り・
潜きの地を尋ねて、住ひを移すと共に、かうした
ほかひをして廻つたのであつた。此にも男女の生業の違ひが認められた。此が山の神人としての山人の信仰が現れるまで、又其以後も、海の神人として尊まれ、畏れられ、忌まれもした水上・海道の巡游巫祝の成立であつた。
ほかひ・語り・芸能・占ひを兼ねた海の神人たる旅行団が、山神信仰時代に入ると、転じて、山人になつたのも多い。信州の安曇氏は固より、大和の
穴師神人などが其だ。伊予の大三島の神人の如きは、海の神人の姿を保ちながら、山の神人の姿に変つて行つたもので、伊豆の三島神人は、其が更に山人化したものである。
叙事詩化した呪詞を伝承して、祝福以外に、一方面を拓いたのが、語部の物語であつた。だから、多少芸術化した叙事詩は、音楽的にも、聴く者の内界へ、自らなる影響を与へた。其上に、此には更に、鎮魂の威力をも考へねばならぬ。其は臣下からは、教育の出来ぬ宮廷・豪家の子弟の魂に、語部の物語の詞章が触れて、薫化するものと考へられてゐた事である。語部は此意味に於て、家庭教師らしい職分を分化して来た。平安の宮廷・豪家で、女房たちが、子女の教師であり、顧問でもあつた遠い源は、こゝに在る。だから、女房たちの手になつた平安の物語類は、読み聴かせる用途から出たのであつた。そして、黙読する物になり、説明から鑑賞に移つて、文学化を遂げた。其外に尚一つ、語部職の分化する大きな理由があつた。其は
つぎの伝承である。
つぎは
よつぎと言ふ形になつて、後代まで残つたものである。意義は転じたが、其でも、原義は失ひきらなかつた。継承次第を主として、其に説明を添へて進むと言つた、書き入れ系図の、自由な姿の口頭伝承である。
平安中期以後の
よつぎは、記録せられた歴史をも言ふが、其前は、記載の有無にも拘らず
よつぎと言ひ、更に古くは、語根のまゝ
つぎと言うたのである。此を記録し始めた時代からある期間は、
つぎぶみ(纂記・譜第)と称へて居た。宮廷の
つぎは日を修飾にして、
ひつぎと言ふ。日のみ子或は日神の系図の義で、
口だてによつて諷誦せられたものである。恐らく、主上或は村君として持たねばならぬ威力の源なる外来魂を継承する信仰から出たものであらう。
つぎに加へる事を
つぎつ(下二段活用)と言ふ。
極めて古い時代には、主上或は村君は、不滅の人格と考へられて居る。だから、個々の人格の死滅は問題としない。
勢、
つぎ・
ひつぎの観念も発達して居なかつたと見える。信仰の変化から神格と人格との区別が考へられる様になつて、始めて
つぎが現れたのである。
奈良朝以前の
つぎは、生の為でなく、死の為のものであつた。
つぎに
つぎてられるのは、死が明らかに認められた後であり、生死の別が定まるまでは、鎮魂式を行ひ、氏々・官司奉仕の本縁を唱へて、寿詞を奏する。此を、日本紀などには、後世風の
誄と解して書いて居るが、古代は
しぬびごと自体が、哀悼の詞章ではなかつた。外来魂が
竟に還らぬものと定まると、この世の実在でないと言ふ自覚を、死者に起させようとかゝる。死者の内在魂に対して、唱へ聴かす詞章がなくてはならぬ。此が
つぎであつた。
此
つぎと、氏々・官司の
本事(略して
こととも言ふ)とを混淆して、一列に
しぬびごとと称せられ、又宣命の形式のまゝで、漢文風の発想を国語でする
しぬびごとも出来かけた。即、
つぎは鎮め葬つた上、陵墓の前で諷誦すべきものである。而も、其が
夙くから
紊れて居た様である。名を
つぎてられずに消えて行く事は、死者の魂に、不満と不安とを感じさせるものと考へられ、内在魂を完全に退散させる方便としての
つぎの意義も出て来た。
主上・村君等の
つぎが、次第に氏族の高級巫女なる后妃・妻妾・姉妹・女児を列し、宮廷で言へば、
ひつぎのみこ更に継承資格を認められて居た兄弟中の数人を加へる様になつた。さうして更に進んで、多くの皇子女を網羅する様になつて行つたのだと言ふ事が出来る。主上・村君以外は、傍流を
つぎてなかつた時代には、其外の威力優れた人の為には、
つぎこそなけれ、一つの方法が立てられてゐた。
威力あつて、
つぎに入らなかつた人の死後、其執念を散ずる方便には、新しい村が立てられた。在来の村に新しい名をつける事もあり、全く新しく村を構へさせる事もあつた。其村々には、必、死者の名、或は住み処などの称への、其人を思ひ出し易い数音を被せて名とした。此が、
名代部又は子代部の発生である。
後には、
つぎに入つた人にさへ、名代の村を作る様にもなつた。さうなると、子のない人々も亦、歿後の名を案じて、生前自ら名代部を組織する(一)。愛寵する人(子のない)の為に、死後は固より生前にも名代を与へる様になる(二)。(一)(二)の二つは子代部とも称せられた。
かうして見ると、名代部には荘園の淵源が伺はれるのみならず、古く既に、さうした目的さへ現れてゐたことが訣る。即、村を与へる外に、職業団体としての
部曲、珍らしい
才技・豊かな生産、村々・氏々から羨まれてゐる職業団体、或は分布区域の広い部曲などを授ける事がある。かうして、名代制度の中に、経済観念が深まつて行つた。
名代部は、国・村の君の上に
つぎのある様に、新しく出来た村なり、団体なりに、其人から始まつた新しい
つぎを語り伝へさせるのが目的であつた。
軽部は木梨
ノ軽
ノ太子の為に、
葛城部は磐
ノ媛皇后の為に、
建部は倭建命の為に、春日部は春日皇后の為に立てられた名代・子代であつた。皆、美しく、苦しき、猛く、
弛さぬ、あはれな物語を伝承して居た。
子のない為に作つたのが、名代の原義ではなかつた。だから、其人に子孫のある時は、其地を私用して、一種の村君の生活をした。
つぎの第一義的効果は、死霊退散にあつたのだから、後
漸く、
つぎ自身呪文の様な威力を持つて来た。即、君主・族長の人格的現実観が、其神格に対する畏敬をのり超えて了ふやうになると、其信仰威力を戻す為に、実証手段として、
つぎの諷誦が行はれる。最正しい伝統によつて神格を享けてゐる人ゆゑ、其稜威は精霊・魂魄の上に抑圧の威力を発揮する。かうした畏怖を相手方に起させるものと信じた。其が更に、
つぎを唱へるだけで、呪力が発動するものとの信仰を生んだ。
戦争も求婚も、元は一つ方法を採つた。魂の征服が遂げられゝば、女も従ひ、敵も降伏する。
名のりが其方式である。呪言を唱へかけて争うたのが、段々固定して、家と名とを
宣る様になつた。さうして、相手の発言を求める形になつた。
つぎを諷誦して、家系をあかした古代の風習が、単純化して了うたのであらう。
名代部の最初の主の
つぎには、其人の生れた様から、嫁とり、戦ひ、さうして死に到るあり様まで、色々の事を型通りに伝へて行くであらう。其が、或部分だけ特殊の事情で、ぬけて発達して、何部・何氏・何村の、物語・歌として、もてはやされるものが出来る。其等の歌は、何れも鎮魂に関係あるもの故、内外の
ほかひゞとに手びろく利用され、撒布せられた。
甘橿の丘の
ことのまかとの崎で、氏姓の正偽を糺した事実(允恭紀)は、
つぎに神秘の呪言的威力を考へて居たからである。其諷誦によつて、偽り枉げてゐる者には、錯誤のある呪言の神が、曲つた呪はれた結果を示すものと信じてゐたのだ。此時の神判は、正統を主張する氏々の人を組み合はせて、
かけあひさせたものなのだらう。誤つたり、偽つたりして呪言を唱へる者を顕して、直ぐに直日
ノ神の手に移すのが、
まがつみの神元来の職分であつて、
誓約の場合に、呪言の当否を判つのであつた。更に転じては、誓詞と内心との一致・不一致を見別ける様になつて他の
たゞしの神格を分化した。
ことあげの中にも、前者の系統・種姓を言ふ部分がある。神・精霊等を帰伏させるのに、前者の呪言なる
つぎを自由にすると言ふ意味もあつたのであらう。
つぎも亦、君主・族長の唱へる為事だつた。其を神人に
伝達たせたところから、語部の職分となつたのであらう。
神聖な
つぎの中にも、神授の尊いものと、人の世の附加とが、自ら区別せられて居た。宮廷の
ひつぎで言へば、神代の正系の神は、殊に糺されてゐる。紀に一書を列ねた理由である。記の綏靖以降開化までの叙述と、下巻の末のとは、おなじく簡単でありながら、取り扱ひが違うてゐる。
最新しく宮廷に入つた
海語部の物語は、諸氏・諸国の物語をとり容れて、此を集成した。
其は種類も多様で、
安曇や
海部に関係のない詞章も多かつたことは明らかである。此語部の物語は、在来の物に比べると、曲節も、内容も、副演出も遥かに進歩してゐて、芸術意識も出て来て居たらしく思はれる。朝妻
ノ手人龍麻呂が雑戸を免ぜられて、天語
ノ連の姓を賜はつた(続紀養老三年)のは、其芸を採用する為であつて、部曲制度の厳重な時代ではあつたが、官命で転職させて、相応した姓を与へたのである。
海部の民は、此列島国に渡来して以来、幾代とも知れぬ移居流離の生活の後、或者はやつと定住した。さうした流民団は、海部伝来の信仰を宣伝する事を本位とする者が出来て来た。
海人部の上流子弟で、神祇官に召された者が、
海部駈使丁であり、其が卜部にもなつた事は、既に述べた。さうして、
護詞を
ほかひする
ことほぎの演技と、発想上の習慣とを強調して、当代の嗜好を迎へて行つた。
卜部のする
護詞は、平安期では
祭文と言ひ、其表出のすべてを
ことほぎと称へ替へた。そして、寺々の守護神・羅刹神の来臨する日の祭文は、後期王朝末から現れた。
陰陽道の日本への渡来は古い事で、支那の方士よりも、寧、仏家の行法を藉りて居る部分が多い。宮廷の陰陽道は漢風に近くても、民間のものは、其よりも古く這入つて来て、国民信仰の中に沁みついて居た。だから、神学的(?)にも、或は方式の上にも、仏家及び其系統に近づいた
呪禁師の影響が沁みこんでゐる。貴僧で同時に、陰陽・呪禁に達した者もあつた。第一、仏・道二教の境界は、奈良の盛時にすら明らかでなかつたのである。
斎部の
護詞に替つた「卜部祭文」は、儒家の祭文とは別系統であつて、仏家の祭文をなぞつた痕が明らかである。而して、謹厳なるべき寺々の学曹の手になる仏前の祭文にまで影響して行つた。はじめは仏家の名目を学びながら、後には――名も実も――却つて寺固有の祭文様式を変化させた。祭文の名は、陰陽寮と神祇官とに行はれた名である。
寺々の奴隷或は其階級から昇つた候人流の法師或は、下級の大衆なども、寺の為の
ことほぎを行ふのに、宮廷の卜部に近い方式をとつた。此は寺奴の中には、多くの亡命神人を含んで居たからである。さうでなくとも、家長の為に
よごと・
いはひ詞をまをす古来の風を寺にも移して、地主神・羅刹神に扮した異風行列で、寺の中に練り込んだのである。
室町の頃になると、芸奴と言ふべき曲舞・田楽・猿楽の徒は、大抵寺と社と両方を主と仰ぎ、或は数个寺・両三社に仕へて、
ことほぎを寺にも社にも行うた。更に在家の名流の保護者の家々にも行ふ様になつた。平安末百年には、かうした者が完全に演芸化し、職業化して行つた。
其初めに出来たのは、多く法師陰陽師の姿になつて了うた
唱門師(寺の賤奴の声聞身の宛て字)の徒を中心とした
千秋万歳であつた。其
ことほぎを軽く見て、演芸を重く見た方の者を
曲舞と言ふ。寺の雅楽を、
ことほぎの
身ぶり・神楽の
ふりごとに交へて砕いたもので、正舞に対する
曲舞の訓読である。
男の曲舞では、室町に興った
[#「興った」はママ]「幸若舞」なる一流が最栄えた。此も、叡山の寺奴の喝食の徒の出であるらしい。だから千秋万歳同様の演技を棄てなかつた。江戸になつて、幸若には、昔から舞はなかつたと称して、歌舞妓に傾いた女舞から、自ら遮断しようとした。
女舞は、女曲舞とも、女幸若とも言うた。江戸の吉原町に隔離せられて住み、後には舞及び幸若詞曲に伴ふ劇的舞踊を棄てゝ、太夫と称する遊女になつた。江戸の女歌舞妓の初めの人々が此である。地方の社・寺に仕へて居た者は、男を神事舞太夫、女を曲舞太夫或は
舞々と称して、男は神人、女房は歌舞妓狂言を専門としたのが多い。
此は、唱門師が、陰陽師となるか、修験となるかの外は、神人の形を採らねばならなくなつた為である。桃井幸若丸を元祖と称する新曲舞も、前述の通り、やはり
千秋万歳の一流であつたのだ。
猿楽師になると、社寺何れを本主とするか訣らない程だ。が、社奴の色彩の濃い者で、神楽の定型を芸の基礎として居る。而も、雅楽を伝承した楽戸の末でもあつた。其が、時勢に伴うて、雅楽を棄てゝ、雑楽・曲舞を演じたのだ。何にしても「曲舞」の寺出自なるに対して、多くは社及び神宮寺を仰いだ一流である様である。
其先輩の田楽は、明らかに、
呪師の後で、呪師の占ひに絡んだ奇術や、演芸に、外来の散楽を採り込んで、神社以前から伝つた民間の舞踊・演芸・道具・様式を多くとり込んでゐる。此は、恐らく、法師・陰陽師の別派で、元は神奴であつたものであらう。さうして演芸期間も、他の者の正月・歳暮なのに対して、五月田植ゑの際に――或は正月農事始めにも――行うた「
田舞」の後である。此「田舞」は散楽と演芸種目も似て居る処から、段々近よつて行つたと見る方がよい。やはり、田畠の
ことほぎで、仮装行列を条件として居る。曲舞の叙事詩を、伝来の狂言の側から採り込んで、猿楽の前型となつたわけである。
此外、種々の芸人皆、寺奴・社奴出自でないものはない。其芸人としての表芸には王朝末から鎌倉へかけても、まだ
ことほぎを立てゝゐた。即
唱門師の陰陽師配下についたわけである。此等が悉く卜部系統の者、海語部の後とは言はれないが、戸籍整理や、賦役・課税を避けたりして、寺奴となつた
ほかひゞとの系統を
襲ぐものとだけは言はれる。
そして又、
ほかひゞとには、卜部となつた者もあり、ならない者もあつたらうし、生活様式を学んだ為に、同じ系統と看做された者もあらうが、海部や、山の神人(山人・山姥など、鬼神化して考へられた)の多かつた事は事実である。
ほかひ人の一方の大きな部分は、其呪法と演芸とで、諸国に乞食の旅をする時、頭に戴いた
霊笥に神霊を容れて歩いたらしい。其
霊笥は、
ほかひ(行器)――
外居・
ほかゐなど書くのは、平安中期からの誤り――と言はれて、一般の人の旅行具となる程、彼等は流民生活を続けて居た。手に提げ、担ぎ、或は其に腰うちかけて、祝福するのが
ほかひゞとの表芸であつた。
莎草で編んだ
嚢を持つたからの名だと言ふ
くゞつの民は、実は平安朝の学者の物好きな合理観から、今におき、大陸・半島或は欧洲に亘る流民と一つ種族の様に見られて居る。が、私は、此
ほかひゞとの中に、沢山の
くゞつも交つて居ることゝ思ふ。
くゞつの名に、宛て字せられる傀儡子の生活と、何処迄も不思議に合うてゐる。彼等は人形を呪言の
受けて即、
わきとしたらしい。
志賀ノ島の海部の祭りに出る者は固より、海部の本主となつた八幡神の
わき神も、常に偶人である。
室町になつて、淡路・西
ノ宮の間から、突然に「人形舞」が現れて来た様に見える。が、其長い間を、海部の子孫の流民の芸能の間に潜んで来たものと見るべきである。人形は精霊の代表者であり、或は穢悪の負担者であるから、此を平気に弄ぶまでには、長い時日を要したわけである。
宮廷の神楽は、八幡系統のものであるが、人形だけは採用しなかつた。人間の
才の
男があつたからである。だが、社々では、人形か仮面かを使うた処が多い。遂に人形が主神と考へられる様にもなつた。
人形が才の男、即、
反抗方に廻るのだから、
くゞつ本流の演芸では、偶人劇と歌謡とを主としたらしい。だから、舞踊に秀でたものもあつたが、演劇の方面は伸びなかつた。
ほかひゞとは神人でもあり、芸人でもあり、
呪禁師(
)でもあつた。時には呪咀もし、奪掠もした。けれども、後代の意味の乞食者の内容を備へて来たのは、平安朝になつて後の事である。
聖武の朝、行基門徒に限つて、托鉢生活を免してから、得度せないまでも、道心者の階級が認められて来た。其と共に、乞食行法で生計を立てるものは、寺の所属と認められ、
ほかひゞと即寺奴の唱門師となつたのであらう。さうでない者は、村に定住して農耕の傍、
ほかひをする様になつた。だから、僧形ではなくて、社奴の様な姿をとる事になつたのであらう。
後世、寺社奉行を設けなければならなかつた一つの理由は、かうした治外法権式の階級が発達して、支配に苦しめられた事もあるのである。此様に、形式上寺家の所有となつたゞけだから、法師・陰陽師の妻が巫女であつたり、盲僧が歌占巫女を女房としたりしたのである。
くゞつと
ほかひゞととの相違は、
くゞつの海・川を主として、後に海道に住み著いて
宿をなした者も多いのに、
ほかひゞとは水辺生活について、何の伝説も持たない。早く唱門師になつた者の外は、山人又は山姥と言はれた山の神人として、山中に住んだのもあらう。又、
くゞつに混じて、自らさへ
くゞつと信ずる様になつた者もあらう。
ほかひゞとは細かに糺して見ると、
くゞつと同じものでない処が見える。海語部の外に、他の国々氏々の神人も多く混つてゐた。
唯後に、僧形になつて仏・道・神三信仰を併せた形になつたものと、山に隠れ里を構へて、山伏し・修験となつた一流と、
くゞつに混淆した者とがあつたことは言はれる。
今は仮りに、
ほかひゞとを、海から天に字を換へた様に海部から山人に変つたものと、安曇氏の管轄に属する海部以外の者と見て置く。私は、
くゞつ・傀儡子同種説は、信ずる事が出来ないで居る。
くゞつの民は、海の
ほかひを続けて、後代まで
えびす神を持ち廻つた様に、猿女などの後ではないかと思ふ。
此項に言ふ事は、わりに文学に縁遠い方面に亘らねばならぬ。宮廷の物語は平安に入ると、記録せられるものもあり、亡びるものは亡びる事になつたらしい。其が、先代の語部の意義において仕へてゐた女房の仮名文によつて、歌物語の描写が、段々新作を導く様になつた。中篇小説から長篇小説に進んで、源氏物語の様な大家庭小説までも生んでゐる。だが、短篇小説は、細かく言へば、別の経路を通つてゐる。真言から
うた・
ことわざが出来た。だから
うたは必須知識として、
ことわざ同様の呪力あるもの、或は氏・国の貴人として、知らねばならない旧事とせられて居た。
其成立の事情は、説話として、口頭対話式をとつたのも、奈良以前から既にあつたものと言うてよい。此が風土記などゝ別な意味で、国別に書き上げを命ぜられた事もあつたらしい。東歌・風俗の様なものは、奈良以前からあつたと考へてよい。だから歌物語は逸話の形をとつてゐた。中篇は家によつて書く形で、今考へられる形は、ある人物のある時期の間の事実を主としてゐるものだ。源氏物語は、歌物語と中篇小説とを併せた形である。
宮廷の女房文学では、かうまで発達したが、地方の伝承では、飛鳥末から段々、宮廷伝承に習合せられ、又は自身調子を合せる様になつて行つた。家々の纂記、後代の本系帳式の物や、国々の「語部物語」の説話化したのや、土地によつて横に截断した物を蒐集したりして、風土記の一部は編纂せられた。
出雲風土記には、語部の伝誦を忠実に書きとつたらしい部分が多いが、播磨のになると、大抵説話化して居たらしい書き方である。が尚、古い物語の口写しらしい処も見える。国は古くても、定住のわりに新しい里が多かつたのであらう。
一体、風土記に歌を録することの尠いのは、奈良人の古伝承信用の形式に
反いて居る。常陸の分は、長歌めいた物は漢訳するつもりらしいが、短歌や
ことわざは、原形を尊重して記してゐる。此は短歌が文学化し始めた頃であり、枕詞・序歌・訓諭などが、短篇小説に近い物語・説話を伴うて居た為であらう。常陸のは、まづ文学意識の著しく出た地誌と言へる。
概して言へば、諸国・諸土豪の物語は、中央の宮廷貴族の伝承より、早く亡びたものと見てよからう。旧国造は、多く郡領に任ぜられて、神と遠のかねばならなかつた。さうした国や氏々は幸福な方で、早く滅された国邑の君を神主と仰いだ神人たちは、擁護者と自家存在の意義とを失うて了うたのである。此が、
ほかひゞととして流離した最初の人々であらう。神人は、大倭の
顕つ神の
宰たる国司等の下位になつた神の奴隷として没収せられ、虐使せられる風があつた様だから、どうしても亡命せねば居られなかつた地方もあつたであらう。
此等の民が、或は新地を遠国の山野に得て、村をなした例もある。此は奈良朝より古い事らしい。郷国では、神と神との「
霊争ひ」に負けた神として、威力を失うても、他郷に出れば、
新来の神として畏れ迎へられるのである。どうしても、団体亡命の事情が具つて居た訣である。
国々の語部の物語も、現用の
うたに絡んだものばかりになり、其さへ次第に
頽れて行つたらしい。わりに長く、平安期までも保存せられたものは、其国々の君が宮廷に奉仕した旧事を物語つて「国ぶりうた」の
本を証し、寿詞同様の効果をあげることを期する物語である。さうした国々は、平安中期には固定してゐた。其事情は、色々に察せられるが、断案は下されない。
古くは、数人の語部の中、或は立ち舞ひ、或は詠じ、或は又其本縁なる旧事を奏するものなどがあつたであらう。
後期王朝中期以後には、物語は大嘗祭にのみ奏せられた。「其音
祝に似て、又歌声に
渉る」と評した位だ。語部は、宮廷に於てさへ、事実上平安期には既に
氓びて、
猿女の如きも、大体伝承を失うて居た。まして、地方は甚しかつたであらう。唯語部と
祝師との職掌は、分化してゐる様でしてゐない有様であつたから、祝師(正確に言へば、
ほかひゞと)には物語が伝つて居たのである。
ほかひゞとの国まはりの生計には、
ことほぎの外に、諷諭の
ことわざ及び感銘の深い歌が謡はれ、地の叙事詩が語られる様になつたと見られる。其演奏種目が殖えて行つて、
ほかひ・
ことほぎよりも、
くづれとも言ふべき物語や狂言・人獣の物まね・奇術・
ふりごとなどがもてはやされた。此等は、奈良以前から既にあつた証拠が段々ある。
平安朝になると、一層甚しく、祝言職と言へば、右に挙げたすべての内容を用語例にしてゐたのである。平安朝末から鎌倉になると、諸種の
ほかひゞと・
くゞつは皆、互に特徴をとり込みあうて、愈複雑になつた。ちよつと見には、どれが或種の芸人の本色か分らなくなつた。「新猿楽記」を見ると、此猿楽は恐らく皆、
千秋万歳の徒の演芸種目らしく思はれる。其中には、千秋万歳系統の
ほかひの芸は勿論、神楽の才の男の態、呪師・田楽側の奇術や、器楽もあれば、狂言があり、散楽伝来の演劇がゝつたものもあり、同じ筋の軽業の類もある。又盲僧・
瞽女の芸、性欲の殊に穢い方面を誇張した「身ぶり芸」も行はれた事が知れる。
尤、まじめな曲舞なども交つてゐたに違ひない。
此が、田遊び・
踊躍念仏を除いた田楽の全内容にもなつた。今、能楽と言ふ猿楽も、初めはやはり、此であつたであらう。田楽が武家の愛護を受けてから、曲舞に近づいて行つたと同じく、猿楽も肝腎の狂言は客位に置く様になつて、能芸即神事舞踊に演劇要素を多くした。声楽方面には、曲舞・田楽・
反閇などの及ばぬ境地を拓いた。取材は改り、曲目も抜群に増加し、詞章はとりわけ当代の美を極めた。そして、室町将軍の擁護を受ける様になつてからは、愈向上した。けれども、元は
唱門師同様の祝言もする賤民の一種であつて、将軍の恩顧を得たのも、容色を表とする芸奴であつたからである。
幸若太夫が「日本記」と称する神代語りを主とするのは、
反閇の謂はれを説くためである。田楽法師の「
中門口」を大事とするのは、神来臨して
室寿をする形式である。猿楽に翁をおもんじ、
黒尉の足を踏むのも、家及び土地の祝言と
反閇とである。
唱門師は、神事関係の者ばかりでなく、寺との因縁の深かつたものも多かつた。だが、大寺の
声聞身なる奴隷が、唱門師(しよもじん)の字を宛てられる様になつたのは、陰陽家の配下になつた頃からの事である。
彼等の多くは、寺の開山などに帰服した原住者の子孫であつたから、祀る神を別に持つてゐて、本主の寺の宗旨に、必しも依らねばならないことはなかつた。神奴でも同じで、祖先が主神に服従を誓うた関係を、長く継続せねばならぬと信じてゐたゞけで、社の神以外に、自身の神を信じて居た例が段々ある。
さうした「鬼の子孫」の「童子」のと言はれる村或は、団体が、寺の内外に居た。其等
ほかひ人と童子との外に、今一つ声聞身出自の一流派に属する団体がある。其は修験者とも、山伏し・野ぶしとも言うた人々である。
修験道の起りは藤原の都時代とあるが、果して
役ノ小角が開祖か、又は正しく仏教に属すべきものか、其さへ知れないのである。役
ノ行者の修行は或は、其頃流行の道教の仙術であつたのかも知れない。当時には大伴仙・安曇仙・久米仙などの名が伝へられて居り、天平には禁令が出て、出家して山林に亡命することを止めたのである。其文言を見ると、仏教・道教に厳重な区劃は考へてゐなかつた様であるが、万葉巻五の憶良の「令反惑情歌」は、其禁令の直訳なのに拘らず、道教側の弊ばかり述べてゐる。
其よりも半世紀も前の事である。山林に瞑想して、自覚を発した徒の信仰が、果して仏家の者やら、道教の分派やら、判断出来なかつたに違ひない。続日本紀を見ても、平安朝の理会を以て、多少の記録に対した処で、もう伝来の説を信じるより外はなくなつて居たらう事が察せられる。修験道の行儀・教義は、ある点まで、新しい仏教――天台・真言――の修法を主とする験方の法師等の影響を受けて居さうである。だから、奈良以前の修験道を考へる事は、平安時代附加の部分のとり除かれない間はおぼつかない。
山の神人即、山人の信仰が、かうした一道を開く根になつたのである。其懺悔の式も亦、懺法などの影響以前からある。山の神は人の秘密を聴きたがるとの信仰と、若者の享ける成年戒の山ごもりの苦行精神とが合体してゐるのである。
足柄の御坂畏み、くもりゆの我が底延へを、言出つるかも(万葉巻十四)
又
畏みと 告らずありしを。み越路の たむけに立ちて、妹が名告りつ(万葉巻十五)
恋しさに名を呼んだのではなく、「今までは、身分違ひで、名をさへ呼ばずに居た。其に、越路へ越ゆる
愛発山の峠の神の為に、
たむけの場所で、妹が名を告白した」と言ふのである。
修験道の懺悔は、此意義から出て、仏家の名目と形式の一部を採つたのである。又、
御嶽精進も、物忌みの禁欲生活で、若い人々の山籠りをして神人の資格を得る、山人信仰の形式から出たものと見る方が正しいのである。唯、女の登山を極端に忌んだのは、山の巫女(山姥)さへ択び奨めた古代の信仰とは違ふ様だが、成年戒を享ける期間に、女に近づけぬ形の変化なのだ。
山人の後身なる修験者は、山人に仮装し馴れた卜部等の、低級に止つた
唱門師と同じ一つの根から出てゐた。修験者の仮装して戒を授ける山神は、鬼とおなじ物であつた。其を引き放して、仏家式の天狗なる新しい霊物に考へ改めた。だから天狗には、神と鬼との間の素質が考へられて居る。よく言ふ天狗の股を裂くと言ふ伝へも、身体授戒の記憶の
枉つて伝つてゐるものらしい。
役
ノ小角が自覚したと言ふ教派は、まづ此位の旧信仰を土台にして、現れたものらしい。其に最初からも、後々にも陰陽道の作法・知識が交つたものらしい。
平安以後の修験道は、単に行力を得る為に修行するだけで、信仰の対象は疾くに忘れられてゐた。奈良朝以前の修験道と、平安のと、鎌倉以後の形式とでは、先達らの資格から違うてゐる。平安期には、験方の加持修法を主とする派の験者以外に、旧来の者を
優婆塞・山ぶしなどゝ言ひ別けた。さうして、両方ある点まで歩み寄つてゐた。鎌倉以後になると、寺の声聞身等が、優婆塞姿であり、旧来の行者同様、修験者の配下について、此方面に入る者も出来た事は考へられる。山伏しになつた中には、陰陽師と修験者とを兼ねた、
ことほぎ・禊ぎ・厄よけ・呪咀などを行ふ
唱門師もあつた事は疑ひはない。此方面に進んだものは、最自由にふるまうた。
此
山ぶし・
野ぶしと言ふ、平安朝中期から見える語には、後世の武士の語原が窺はれるのである。「
武士」は実は宛て字で、山・野と云ふ修飾語を省いた迄である。此者共の仲間には、本領を失うたり、郷家をあぶれ出たりした人々も交つて来た。党を組んで、戦国の諸豪族を訪れ、行法と武力とを以て、庸兵となり、或は臣下となつて住み込む事もあつた。そして、山伏しの行力自負の濫行が、江戸の治世になつても続いた。諸侯の領内の治外法権地に拠り、百姓・町人を
劫かすばかりか、領主の命をも聴かなかつた。其為、山伏し殺戮が
屡行はれてゐる。
叡山を中心にした唱門師の外に、高野山も亦、一つの本部となつてゐた。苅萱
唱門など言ふ萱堂聖以外に、谷々に童子村が多かつた。高野聖、後に海道の盗賊の名になつた
ごまのはひなども、此山出の山伏し風の者であつた。
今も栄えてゐる地方の豪族の中には、山伏しから転じて陰陽師となり、其資格で神職となつたのが多い。かういふ風に変化自在であつた。山伏しの唱文を、陰陽師式に祭文と称へた理由も明らかである。陰陽師の禊祓の代りに、懺悔の形式をとつて、罪穢を去るのである。「山伏し祭文」は、江戸になつて現れて来るが、事実もつと早くから行はれたに違ひない。先達代つて、罪穢を懺悔すれば、多くの人々の罪障・触穢・災禍が消滅すると考へるのである。身の罪業を告白すると言ふ形式が、芸術化して来たのである。
室町時代の小説類に多い「さんげ物」は勿論だが、江戸の謡ひ物の祭文は「山伏し祭文」から出て、ある人の罪業告白の自叙伝式の物になり、再転して「色さんげ」から、故人の恋愛生活などを言ひ立てることになつた。
錫杖と
法螺とを伴奏楽器とした。唱文は家の鎮斎を主として、家を脅すもの、作物を荒す物などを叱る詞章であつた。其くづれの祭文が、
くどきめいたものであつた。其傾向が、他の条件と結合した。
さんげ物語は山伏しの祭文以外にも、高野其他の念仏聖或は熊野比丘尼などの自身の半生を物語る様な形で唱へた身代りさんげ・菩提すゝめの懺悔文から影響せられてゐる様だ。寧、山伏しは祭文の
おどけに富んだ処へ、男女念仏衆の
さんげ種を、とり込んだのであらう。さうして、もつと明るく、浮き立つ様なものにしたのではないか。色祭文・歌祭文など、皆
ちよぼくれとなり、
あほだら経となるだけの素地を見せて居た。祭文には「さんげ念仏」と共通の
さんげの語句があつた。さうした処から次第に念仏に歩みより、遂には、山伏しの手を離れて、祭文語りの側に移つたらしい。
歌比丘尼は、悪道苦患の掛軸を携へて、業報の
贖ひ切れぬ事を諭す
絵解きを主として居た。其が段々変化して、
石女の堕ちる血の池地獄のあり様、女の死霊の逆に宙を踏んで詣る妙宝山の様などをも謡ふ様になつた。
其に対して、歌順礼は、主として成年戒得受以前に死んだ者の受ける悩みを、叙事詩や、短詩形の短歌で謡うた。此は熊野の
歌占巫女から胚胎したのであらう。三十三所の順礼歌の最後が「谷汲」であり、
さんげ念仏の小栗転生物語の小萩の居たのは青墓であつた。熊野と美濃との関係は閑却出来ぬ。
あひの山ぶしは、和讃・今様から、絵解きに移り、更に念仏化したものらしい。男性の
たゝきの一方の為事になつて行く。
此
たゝきと言ふものは、思ふに「
節季候」が山の神人(山人)の後身を思はせる如く、海の神人の退転したのではあるまいか。私は、
くゞつの民の男性の、
ほかひゞとの仲間に入つたものゝ末の姿だと思うてゐる。其以前の形は、
あまの囀りの様に、早口で物を言うて、大路小路を走る
胸たゝきであつた。此に対する女性は、
姥たゝきと言はれるものがあつた。此外にも、
くゞつの遊女化せぬ時代の姿を、江戸の末頃近くまで留めてゐたのは、
桂女である。あの
堆く布を捲き上げた
縵は、山縵ではなかつた。
聖の徒は、僧家の唱導文を、あれこれ通用した。説経の座にも、成仏を奨める念仏の庭にも、融通してゐる内に、段々分科が定まつて行つたらしい。
口よせの巫術は「
本地語り」に響いた。此を扱ふのは、多くは、盲僧や陰陽師・山伏しの妻の
盲御前や、巫女の為事となつた。熊野には、かうした巫術が発達した。初めに唱へられる説経用の詞章が、陰惨な色あひを帯びて来ないはずはない。
念仏踊りの源も、また大きな一筋を此地に発した。念仏の両大派の開祖の種姓は伝説化してゐるが、高貴の出自を信じることは出来ない。やはり単に、寺奴なる「童子
声聞身」の類であつたらしい。念仏の唱文に、田楽の
踴躍舞踊を合体させたものが、霊気退散の念仏踊りになつたらしい。田楽が念仏踊りの基礎となり、田楽の目的なる害虫・邪気放逐を、霊気の上に移したばかりなのを見ても、念仏宗開基の動機は、あまりに尋常過ぎて居る。自然発生らしい信仰が、開祖の無智な階級の出なる事を示して居るのである。
熊野念仏は、寺奴
声聞身から大宗派を興す動機になつた。熊野田楽の
ふりと、熊野巫覡の霊感とが、
聖階級の念仏衆の信仰・行儀に結びついたのだ。熊野巫女や熊野の琵琶弾きは、何時までも、信者の多い東国・奥州へ出かけて、念仏式な「物語」を語つた。
義経記は、盲僧の手にかゝつて、一種の念仏式説経となり、
瞽巫女や歌占巫女の霊感は、曾我物語を
為あげて、まづ関の東で、地盤を固めた。曾我物語は、熊野信仰の一分派と見られる箱根・伊豆山二所を根拠とする、瞽巫女の団体の口から、語りひろげられ、語りつがれたものらしいのである。
義経記及び曾我物語は、此ら盲巫覡の幻想の口頭に現れ始めた物語で、元は、定本のなかつたものと見てよい。此二つの物語の主人公の、若くして
寃屈の最期を遂げた霊気懺悔念仏の意味から出たもので、其物語られる詞は、義経や、曾我兄弟の自ら告げたものであるから、邪気・怨霊・執念の、其等若武家には及ばぬものを、直ちに退散させるものとの信仰もあつたのであらう。
生霊・死霊の区別の明らかでない古代に、謡ひ物のとはず語りから得る実感は、語り手を曲中の人物と考へる癖が伝つて居た。後には主人公自身でなく、其親近の人の、始めて語つた物であり、同時に目前に現れて物語つてゐると言ふ錯覚が起つた。即、義経記では生き残つた常陸房海尊、曾我物語では虎御前と考へたらしい。最初の語り手から受けついだ形が転じて、生き
存へた人の目撃談、とりも直さず、其神に仕へる巫覡が伝宣する姿に移して考へる様になつたのだ。
室町時代に、京に上つて来たといふ若狭の八百比丘尼なども、念仏比丘尼の上のさうした論理の投影した長寿信仰であつたのであらう。さうしておもしろいのは、常陸房にも、八百比丘尼にも、一个処懺悔の
俤を残してゐることだ。比丘尼は人魚の肉を盗み喰うた事、海尊は主従討ち死の時に居あはさなかつた事を悔いて居る。
不老不死の霊物を盗んで、永生する説話は到る処にあるが、比丘尼の場合は、長寿の原因を言ふ必要がないのであつた。此は
さんげの形式に入れた証拠だ。「五十年忌歌念仏」には、お夏自身、亡夫の妹と、念仏比丘尼となつて廻国する処で書き収めてある。念仏の一つの特徴である。又、西沢一風は姫路で、お夏のなれのはてといふ茶屋の婆を見たと書いてゐる。お夏は実在したかどうかも分らぬもので、熊野聖の笠を歌うた小唄をとり込んだ「清寿さんげ」の念仏物語から来た社会的幻想であらう。熊野比丘尼の一種に、清寿と言ふものがあつたらしい――白霊人書・水茎のあと――のだ。やはり歌念仏を語る女なるが故に、其詞章の上の、女主人公或は副主人公とも言へる人物其物と、信じられてゐたのだ。かうした論理の根拠を考へなかつた為、お夏実在説が信じられたのである。念仏衆のさんげ唱導に属する世間信仰の、ひよつくり現れたのだと言ふ事が知れる。
念仏衆が長文のさんげ念仏を語ることは稀になつた。同様に衰へて行つたものに、念仏の狂言がある。此をする地方は、まだ間々あるが。
沖縄では、日本の若衆歌舞妓をまねたものを、
若衆(似せともとれる)
念仏と言うた時代もあつた(伊波普猷氏の話)。あの島へは、念仏聖が早くから渡つてゐる。さうして、其持つて行つた芸道は、
稍長篇の歌、順礼系統の哀れな叙事詩、唱門師関係の
ことほぎの詞章、童子訓の様な文句、其他いろ/\残つてゐる。又
京太郎と言ふ人形芝居があつた。柳田国男先生の考へで、念仏者の村は、浄土聖の行者の住みついたものと定つた。いづれにしても浄土の末流に、尠くとも此幾倍かの演芸種目を携へて、琉球まで来たものがあつたのだ。江戸の初期を降らない頃から、或はもつと早くに渡つて居たであらうと考へられる。沖縄の伝説中に、内地の物語と暗合の余り甚しいものゝあるのは、浄土説経の諷誦から来たものだと言ふ事が知れる。尤、
袋中和尚其他相当な島渡りの浄土僧からも伝へられたらうと言ふ事も考へられないでもない。
念仏聖の中にも、名は念仏を称しても、既に田楽・猿楽の如く、遊芸化した団体を組んだ者もゐたのである。即、たゞの念仏の外に、念仏興行を頼まれゝば、出向いて盂蘭盆・鎮魂・鎮花其他の行儀を行ふ上に、演劇・偶人劇・舞踊・諷誦等雑多の演芸種目を演じる者もあつたのである。室町には、かうした念仏職人の中には、山伏しにあつたと同じく、敗残の土豪等も身を寄せてゐた。或は、山伏し同様、呪力・武力を以て、行く先々の村を荒し、地を奪うて住み著く様になつた芸奴出身の成り上り者もあつたらう。
上州徳川の所領を失うたと言ふ江戸将軍の祖先徳阿弥父子は、遊行派の念仏聖として、方々を流離した末、三河の山間松平に入つて、其処で入り壻となり、土地にありついて、家門繁昌の地盤を築いた。此事などは、念仏其他の興行に、檀那場を廻つてゐた聖・山伏しの小団体の生活の、一つの型を髣髴させる歴史である。
すつぱ又、
らつぱといひ、
すりと言ふのも、皆かうした浮浪団体又は、特に其一人をさすのであつた。新左衛門の
そろりなども、此類だと言ふ説がある。口前うまく行人をだます者、旅行器具に特徴のあつた
あぶれもの、或は文学・艶道の顧問(幇間の前型)と言つた形で名家に出入りする者、或はおしこみ専門の流民団など、色々ある様でも、結局は大抵、社寺の奴隷団体を基礎としたものであつた。かう言ふ仲間に、念仏聖の芸と、今一つ後の演劇の芽生えとなつた伝承が、急に育つて来た。其は、
荒事趣味である。室町末から、大坂へかけての間を、此流行期と見なしてよい。実は古代から、一時的には常に行はれた事の、時世粧として現れて来たのである。
祭りや法会の日に、神人・童子或は官奴の神仏群行に模した仮装行列、即
前わたり・
練道などの扮装が、次第に激しく誇張せられて来た。踏歌
節会の
ことほぎに出る卜部たちや、田楽師等の異装にも、まだ上の上が出て来たのだ。
田楽が盛んになつてから、とりわけ突拍子もない風をする様になつた。田楽師に関係の深い祇園会の、神人・官奴などの渡御の風流などになると、年々殆ど止りが知れぬ程だつた。祇園祭りや祇園ばやしなどが、国々に、
益盛んになつて行くに連れて、物見の人までが、我も/\と異風をして出かけた。
竟に、日常の外出にさへ行はれ出した。戦国の若い武士の趣味には叶ふ筈である。大きく、あらつぽくて、華美で、
はいからで、性欲的でもあると言うた、目につく服装ばかりに凝つた。此には念仏聖などが殊に流行を煽つた様である。呪師の目を眩す装ひをついだ田楽師、其後を承けた念仏芸人である。
若い武家の無条件で
娯めるのは、幸若舞であつた。舞役者の若衆の外出の服装や姿態が、変生男子風の優美を標準とした男色の傾向を一変した。
以前、
風流と言うた
語に代る語が、どこの武家の国から現れたものか、戦国頃から流行し出した。
かぶくと言ふ語が其である。此方言らしい語が、新しい、印象的な、壮快で、性的で、近代的である服装や、ふるまひを表すのに、自由な情調を盛り上げた。
かぶく・
かぶかう・
かぶきなど言ふ変化の具つたのも、固定した
ふりうよりは自在であつた。
此語が現れてから、
かぶきぶりは段々内容を拡げて行つた。そして、
恣に
かぶきまくつたのは、
唱門師及び其中に身を投じた武家たちであつた。彼等は、
かぶきぶりを発揮する為に、盛んに外出をし、歩くにも六方法師の
練りぶりをまね、後に江戸の丹前ぶりを分化した六方で、道を濶歩して口論・喧嘩の
あくたいぶりや、
立ちあひぶりに、理想的に
かぶかうとした。名護屋山三郎の、友人と争うて死んだのも、かうした
かぶき趣味に殉じたのである。
幸若の様に固定しない念仏の方は、演奏種目を幾らでも増すことが出来た。即
かぶき男の動作を取り込んで、荒事ぶりを編み出し、念仏踊り及び旧来の神事舞・小唄舞を男舞にしたてゝ、をどり出した。流行語の
かぶきを繰り返して詠じたから、
かぶきをどりの名が、直ちについた。或は、幸若の一派に「かぶき踊り」と言ふものが、既にあつたのかも知れぬ。だが、よく見ると、念仏踊りであつたゞけに、名古屋山三郎の亡霊現れて、お国の踊りを見て、妄執を
霽して去ると言ふのは、やはり供養の形の念仏である。念仏踊りは、田楽の亜流であり、鎮花祭の踊りの末裔であるから、神社にも不都合はなかつた。即、田楽の異風なもので、腰鼓の代りに、叩き鉦を使ふだけが、目につく違ひである。念仏踊りの出来た初めには、古い名の田楽を称してゐたものもあつたらうと思ふ。又、後世まで、念仏でゐて、田楽を称したのもある位だ。
お国の「念仏踊り」は、旧来の物の外に、小唄舞を多くとり込んで発達した。田楽との距離の大きい「念仏踊り」の一つに違ひない。其上、よほど演芸化して、浮世じたてのものが多くなつて居た。
念仏聖の多くは、放髪にして
禿に
断つたものである。剃つたものは、法師・陰陽師であつた。だが、
禿即、
童髪にした「
童子」ばかりであつたわけではない。寺奴にも段階があつて、寺主に候ふ者・剃髪を許された者・寺中に住める者・境外
即門前或は可なり離れた地に置かれて居た者などがある。其最下級の者が、童子村の住民であつた。此階級の人々は、念仏宗の興立と共に、信仰の上にまで、宿因・業報だとばかり、あきらめさせられてゐた従来の教理から解放せられた。だから、高野は勿論、叡山其他寺々の童子は、昔から信仰に束縛のなかつた慣例から、浄土・一向・融通・時衆などに
趨いた。
処が、平安末の念仏流行の時勢は、公家・武家にも多くの信者を出したと同時に、寺に居て、寺の宗義を奉じながら、一方新しく開基せられた念仏宗を信じた僧さへ出て来た。洛東
安居院は、天台竹林院派の道場で著れてゐた。其処に居て、
安居院法師と称せられた
聖覚は、天台五派の一流の重位に居ながら、法然上人の法弟となり、浄土宗の法統には、円光大師直門の重要な一人とせられて居る。此人は叡山流の説経伝統から見て大切な人だ。父はやはり説経の中興と言はれた程の
澄憲(同じく安居院の法印)であり、信西入道には孫である。澄憲は其兄弟中に四人まで、平家物語の作者だと言はれる人を持つてゐる。さうして桜の命乞ひをした話や、鸚鵡返しの歌で名高い桜町中納言も、其兄弟の一人である。
私は経を読み、又説経する時に、琵琶を使うたのが平安朝の琵琶法師だと考へてゐる。平家物語の弾かれたのが、琵琶の叙事詩脈の伴奏に使はれた初めだとは思はない。其以前に「経を弾いた」事があつたと認められる。澄憲の説経には、歌論義・問答・頓作めいた処が讃へられた様に思はれる。平家物語もある点から見れば、説経である。其上、目前平家の亡んだ様子が、如何にも唱導の題材である。私は源氏物語の作為の動機にも、可なりの分量の唱導意識がある、と考へてゐるのである。
説経の材料は、既に「三宝絵詞」があり、今昔物語があつた。此等は、唱導の目的で集められた逸話集と見るべき処が多い。古くは霊異記、新しくは宝物集・撰集抄・沙石集などの逸話集は、やはり、かうした方面からも見ねばならぬ。かうした説経には、短篇と中篇とがあつて、長篇はなかつた。処が、中篇或は短篇の形式でありながら、長篇式の内容を備へたもの――源氏・平家の両物語は
姑く措いて――が出来た。其は
安居院(聖覚)作を伝へる「神道集」である。神道と言ふ語は、仏家から出た用語例が、正確に初めらしい。日本の神に関した古伝承をとつて、現世の苦患は、やがて当来の福因になる、と言ふ立場にあるもので、短篇ながら、皆ある人生を思はせる様な書き方のものが多い。巧みな作者とは言へぬが、深い憂ひと慰めとに満ちた書き方である。此は、聖覚作とは言ひにくいとしても、変改記録せられたのは、後小松院の頃だらう。さうして此が説経として、口に上つてゐたのは、もつと早かつたらうと思はれる。
説経はある処まで、白拍子と一つ道を歩んで来た。其間に、早く芸化し、舞踊をとり入れた曲舞・白拍子・延年舞は、実は、皆曲舞の分派である。白拍子・歌論義、其等から科白劇化した連事、其更に発達したのが宴曲である。説経は次第に、かうした声楽をとり込んで来た。
唱導を説経から仮りに区別をすれば、講式の一部分が独立して、其平易化した形をとるものが唱導であつて、法会・供養の際に多く行はれる様になつて居たらしい。其法養の趣旨を述べるのが
表白である。此も唱導と言ふが、中心は此処にない。唯、表白は祭文化、宴曲化し、美辞や警句を
陳ねるので、会衆に喜ばれた。今日の法養の目的によく似た事実を、天・震・日の三国に亘つて演説する。此が、読誦した経の
衍儀でもあり、其経の功徳に与らせる事にもなるのである。唱導の狭義の用例である。其上で形式的に、論義が行はれ、口語で問答もする。
室町以後の説経になると、題材が段々日本化し、国民情趣に叶ひ易くなつたと共に、演説種目が固定して、数が減つて行つた。講座の説経のみならず、祭会に利用せられて、仏神・社寺の本地や縁起を語る事に、讃歎の意義が出て来た。家々で行ふ時は、神寄せ・死霊の形にもなつて来た。此意味の説経は、其物語の部分だけを言ふのである。
琵琶法師にも、平安末からは、
言ほぎや祓への職分が
展けて来た痕が見える。又寺の講師の説経の物語の部分を流用して、民間に唱導詞章を伝へ、又平易な経や偽経を弾くやうになつた。説経の芸術化は、琵琶法師より始まる。其為、後には寺の説経には伴奏を用ゐず、盲僧の説経には、唱門師としての立場から、祓除の祭文に当る経本を誦した。平家も最初は、扇拍子で語つたと言ふ伝へは、寺方説経の琵琶と分離した痕を示すのだ。
鎌倉室町に亘つて盛んであつた澄憲の伝統
安居院流よりも、三井寺の定円の伝統が後代説経ぶしの権威となつたのには、訣がある。
澄憲流は早く叡山を離れて、浄土の宗教声楽となり、僧と聖とに伝つたが、肝腎の安居院は、早く氓びて、家元と見るべきものがなくなつた。定円流は其専門家としての盲僧の手で、寺よりも民間に散らばつたらしい。浄土説経は絵ときや、念仏ぶしに近づいて行つたが、三井寺を源流とする盲僧は、寺からは自由であり、平家其他の物語や、詞曲として時好に合ふ義経記や、軍記などの現世物を持つて居た。浄土派の陰惨な因果・流転の物語よりは、好まれるわけで、段々両種の台本を併せて語るやうになつた。其中、神仏の本地転生を語る物を説経と言ひ、現世利益物を浄瑠璃と言ふ様になつたらしいのである。説経・浄瑠璃は、また目あきの芸にもなつて、扇や
簓を用ゐる様にもなつた。
一方盲僧の説経なる軍記類は、同じ陰陽配下の目あきの幸若舞などの影響から素語りの傾向を発達させた。そして物語講釈や、素読みが、何時か軍談のもとを作つて居た。口語りの盛衰記や、かけあひ話の平家や、猿楽の
間語りの修羅などが、橋渡しをしたらしい。盛衰記は幸若を経て、素語りを主とする様になり、太平記にも及んだ。此が、戦国失脚の
かぶき者などに、馴れた
幸若ぶしなどで語られて、辻講釈の始めとなつたのである。
釜神の本縁を語り、子持ち山の由来・諏訪本縁を述べたりする説経の、既に、南北朝にある(神道集)のは、平安末の物と違うて来た事を見せ、荒神供養や、産女守護・鎮魂避邪を目的とする盲僧の所為であつたことを見せるのか。
浄土派の説経の異色のあるのは、
安居院流のだからであらう。浄土の念仏聖は此説経を念仏化して、伝道して歩いたらしく思はれる。たとへば、大和物語に出た蘆刈りの件「釜神の事」の様なものである。其が、沖縄の島にさへ伝へられ、奥州地方にも拡つてゐる。
大体、近松の改作・新作の義太夫浄瑠璃の出現は、説経と浄瑠璃との明らかな交迭期を見せてゐる。一体、説経にも旧派のものと、新式の物とがあつて、新式のものは、やがて、近松の出て来る暗示を見せてゐるのであるが、さういふ側が更に「歌説経」に進んだのである。
説経は平家を生み、平家は説経を発達させた。現に、北九州の盲僧
所謂師の房らの弾くものには、
経があり、説経があり、
くづれがあり、其説経には、重いものと
くづれに属するものとがある。そして、幸若流の詞曲が重いものとなつてゐる。盲僧の妻は瞽女であるが、盲僧の説経や平家に対して、瞽女は浄瑠璃を語るのが、本来であつたらしい。
説経は本地を説き、人間苦の試錬を説いて、現世利益の方面は、閑却してゐた。其で、薬師如来の功徳を述べる、女の語り物の説経が出来た。女には、正式な説経は許されてゐなかつた為もあらう、浄瑠璃と言ふ様になつた。薬師如来は、浄瑠璃国主だから、幾種もの女説経を、浄瑠璃物語と称する様になつた。
其以前、曾我物語は瞽女の語り物になつてゐた。「十二段草子」は、浄瑠璃として作られた最初の物だとは言はれまい。此草子自身も、新しい改作の痕が見えてゐて、決して初稿の「十二段草子」とは言へなさゝうである。其上「やす田物語」と言ふ浄瑠璃系統のものが、更に古くあつたと言はれてゐる。さすれば、因幡堂薬師の縁起だ。やはり、浄瑠璃の名が、瞽女の演芸種目から、盲僧の手にも移つて行く事になつたのである。薬師の功徳を説かなくても、浄瑠璃は現世式の語り物の名となつた。
かうして段々、説経よりも浄瑠璃の方が、世間に喜ばれる様になつた。浄瑠璃の方が気易いから、三味線も早く採用する事が出来た。
門説経は扇拍子であつても、盲僧の語る説経は、琵琶を離すことが出来なかつたのであらう。段々目あきの演芸人が出来た。説経も台本を改作し、楽器も三味線に替るやうになつた。
かうして、次第に、自然に現実味と描写態度とを加へて来たが、近松になつて徐々に、さうして
姑らくしてから急激に変化し、飛躍して、其後の浄瑠璃は唱導的意義を一切失ふ様になつて了うた。でも、昔のなごりで、宮・寺の法会、追善供養などを当てこんだ作物の出たのは、説経本来の意義が、印象して居た為である。唱導芸術らしい努力が、古い詞章の改作に骨折つた時代にはなくて、却つて自由な態度で囚はれずに書いた作物(心中ものゝ
切りなど)に見えてゐる。現世の苦悩を離れて行く輝かしさを書いたのは、世話物が讃仏乗の理想に叶ひ難いといふ案じからであらう。だが後になる程、陰惨な場合も、わりに平気で書いてゐる。此人の文学観が、変つて来たのである。
さて、説経には三つの主体があつた。大寺の説経師・寺の奴隷階級の半俗僧、今一つは琵琶弾きの盲僧である。そして江戸の説経節へ直ぐな筋を引くものは、最後のものであるが、此を最広く撒布して歩いたのは、童子聖の徒であつて、隠れてはゐるが、芸術的には大きな為事をしてゐる。
あみいばとしての努力を積んで、江戸の浄瑠璃の起つて来る地盤を築きあげて居たわけである。
日本文学の一つの癖は、改作を重ねると言ふ事である。私は源氏物語さへも「紫の物語」と言つた、巫女などの唱導らしいものゝ、書き替へから始つたのだと考へてゐる。「うつぼ」などは、鎌倉の物には相違ないが、でも全然偽作ではなく、改作をしながら、書きついで行つたものであらう。住吉物語も信ぜられて居ないが、源氏物語で見れば、ある点、今の住吉物語の筋通りである。さすれば、やはり改作と見る外はない。落窪物語なども、改作によつて平安朝の特色を失うた処もあり、文法も時代にあはなくなつて了うたらしく、偽作ではなくて、やはり書き継ぎ書き加へたものである。こんな風で、説経も其正本が出るまでには、幾度口頭の変改を重ねて来てゐるか知れないのである。
歌舞妓芝居は、只今ですら、実はまだ、神事芸から離れきつてゐないのである。其発生は既に述べた如くで、久しく地表に現れなかつたからとて、能楽よりも後の発生であり、能楽の変形だなどゝ考へてはならぬ。
江戸の歌舞妓の本筋は、まづ幸若舞で、上方のものは念仏踊りを基礎とした
浮世物まねや、
組み踊りを混へてゐる。
豊臣時代頃から、画にも芝居にも、当世の
はいからぶりをうつす事が行はれて、芝居では殊に、美しい少人が
はでな異風をして練り歩くと言つた、一種の舞台の上の
あるきが喜ばれた。
名護屋山三郎は、浪人で
かぶき者であつた。其蒲生に仕へたのは、幸若舞などによつて召されて居たらしく、
早歌をお国に伝授したらしい。早歌は、
表白と千秋万歳の
言ひ立てとから出て、幸若にも伝つてゐるのだ。上方の芝居は、出雲で芸道化したお国の念仏巫女踊りに、幸若の形や、身ぶりを加へたものである。上方では座頭の女太夫を、和尚と言うたらしく、江戸では太夫と呼んでゐたと言ふ。
立役と称するものゝ元は、狂言方である。此に、大人なのと、少人なのとがある。お国の場合には、少人ではなく、此に当るものは、名護屋山三郎であつた。「若」の意義が拡つて来たのである。江戸の中村勘三郎も其である。大人・少人の狂言方の出るのは王朝末にもある事で、若衆が狂言方に廻つたのが、江戸歌舞妓である。此が猿楽役であつて、
狂言方・
わき方を兼ねてゐるのだ。若が勤めたから、猿若と呼ばれたらしい。而も、江戸の女太夫は、幸若の女舞であるから、念仏踊りは勘三郎が行うたらしい。
中村屋勘三の「
早物語」と言ふ琵琶弾きの唄(北越月令)を見ると、此だけのことが訣る。勘三が武蔵足立郡で百姓もして居た事。鳴り物の演芸に達してゐた事。縁もない琵琶の唄に謡はれて居るのは、中村屋と琵琶弾き盲僧との間に、何かの関係があつた事の三つの点である。さうすると、勘三もやはり、一種の
唱門師で念仏踊りの組合(座)を総べてゐた事と、江戸芝居にも念仏踊りが這入つて居た事とが言へる。さすれば、猿若狂言に使ふ安宅丸の幕の緋房と言ふのは、実は、念仏聖の懸けた鉦鼓の名であり、本の名にまでなつた「
金の
揮」は、単に念仏聖の持つ
ぬさかけ棒であらうか。
女太夫禁止以後、狂言・脇方の若衆が、幸若風に、
して方に廻つて、若衆歌舞妓が盛んになつた。若衆の立役が主人役と言ふ感じを与へるまでの機会を作つたのであらう。
念仏踊りと、田楽系統の科白の少い喜劇に飽いた世間は、さうした
変成の男所作と新しい「女ぞめき」の
ふりを喜んだ事であらう。此は、幸若の「曾我」などを、物まねにうつせば、出て来る事であつて「傾城買ひ」或は「島原狂言」の元であり、更に此に、前述の
前わたり・
道行きぶりを加へて来たのである。
歌舞妓の木戸に、後々まで
狂言づくしと書き出したのは、能狂言に模したものを幾つも行ふ意ではなかつた。日本の古い演劇が、舞踊・演劇・奇術・歌謡、さうした色々の物を含んでゐた習慣から出た名で、歌舞妓踊りも、狂言も、小唄・やつし唄も、ありだけ見せると言ふ積りであつた。猿楽・舞尽しと言へなかつた為、同じ様に古くからある狂言と言ふ
語を用ゐたのである。名は能狂言で、其固定した内容を利用したかも知れぬが、能狂言から思ひついたとは言へないのである。農村に発達した、村々特有の筋と演出とを持つた古例の出し物があつたのだ。どこの村・どこの社寺の、どの座ではどれと言ふ風に、二立て目に出す狂言は
極つて居て、狂言も其一種であつたのが、無数に殖えたのである。江戸の猿若で言へば、猿若狂言と定式狂言とが其なのである。後の物は総称して狂言と言ふが、内容は種々になる訣である。
其一つの能狂言が、対話を主として栄えたことを手本にして、改良せられて行つた。此は、能や舞に対しては踊りである。狂言の平民態度に立つてゐるのから見れば、此は武家情趣を持つて居る。但、役者自身歌舞妓者が多かつた為、舞台上の
刃傷や、見物との喧嘩などが多かつた。
江戸の荒事は、
金平浄瑠璃と同じ原因から出たらうが、お互に模倣したものとは言へない。団十郎の初代は、唐犬権兵衛の家にゐたと言ふから、やはり町奴の一人となる資格のあつた
かぶき者だつたのである。
かぶきと言ふ語は、又段々、
やつこと言ふ語に勢力を譲るやうになつた。旗本奴にも、歌舞妓衆と言はれる徒党があつて、六方に当る丹前は、此等の
奴ぶりから出た。その、寛濶・
だてなどゝ流行語を
易へるに従うて、概念も移つて行つて、遂に「通」と言ふ「色好みの通り者」と言ふ処におちついた。
かぶき者は半従半放の主従関係だつたので、世が静まつても、さうした自由を欲する心の、武士の間にあつた事が知れる。だから渡り奉公の
やつこの生活を羨んで、旗本奴などゝ言ふ名を甘受してゐたのだ。
吉原町・新吉原町に「
俄狂言」の行はれるのは、女太夫の隔離せられた処だからで、女歌舞妓以来の風なのである。又太夫の名も、舞太夫であるから称へた、歌舞妓の太夫であつたからだ。其名称は、京阪へも遷つた。
ばさら風と言ふのは、主として、女の
かぶきぶりで、其今に残つてゐるのは、男の六方に模して踏む「八文字」である。
廓語の、家によつて違ふのも、元はそれ/″\座の組織であつた為、村を中心とする座の相違から来る方言の相違と用語とにも、なるべく
ばさらを好んだ時代の風と俤とを残してゐるのである。
江戸発生の舞踊がすべて、
をどりと言はれて居るのは、其発生が皆、歌舞妓芝居にあつて、幸若舞系統なることは、絶対に否定せられてゐたからである。其為に
をどると
舞ふとは、区別があるにも拘らず、舞に属するものも皆、
をどりと称せられる様になつた。
をどりは飛び上る動作で、
まひは旋回運動である。
まひの方は早く芸術的な内容を持つに到つたが、
をどりの方は遅れてゐた。
神あそび・
神楽なども、古く、
をどりと
くるふとの方に傾いてゐた。
まひの動作の極めて早いのが
くるふである。舞踊の中に、
物狂ひが多く主題となつてゐるのは、此
くるひを見せる為で、後世の理会から、狂人として乱舞する意を併せ考へたのである。
正舞は「まひ」と称し、雑楽は
何楽と言うた。猿楽・田楽は、雑楽の系統としての名である。
がくと言ふ名に、社寺の奴隷の演ずる雑楽の感じがあつたのだ。曲舞は社寺の正楽の稍乱れたものだからの名で、此は詞曲にも亘つて言ふ詞とした。舞は曲舞以来、謡ふ方が勝つて居たらしく、動きは甚しくない物となつて来たらしい。もとより此も社寺の大切な行事として、
まひと言はれたのである。
能は
わざ即、
物まねの義で、態の字を宛てゝゐたのゝ略形である。而も其音
たいを忘れて、
なうと言ふに到つた程に、目馴れたのだ。「
才ノ男ノ能」などゝ書きつけたのを、伶人たちの習慣から、
さいのをの
のをを
能と一つに考へ、遂に
なうと言ふに到つたのであらう。
わざは神の
ふりごとであるが、精霊に当る側の
をこな身ぶりを言ふ事になつて来た。其が鎌倉に入ると、全く能となつて、
能芸などゝ言ふ様になつた。芸は職人の演ずる「歌舞」としたのだ。能芸とは、物まね舞で、劇的舞踊と言ふ事になるのである。田楽・猿楽に通じて、能と言ふのも、ものまね狂言を主とするものであつたからで、即、劇的舞踊の義である。
ことほぎは舞よりも、
わざの方ではあるが、宮廷の踏歌や、社寺の曲舞に、
反閇の徘徊ぶりが融合して、曲舞の一つとなつた。千秋万歳も、だから舞である。其物語に進んだ物なる幸若も
亦舞である。
呪師の方では、舞とも、楽とも言はないで、主に「手」を言ふ。舞踊よりも、奇術に属するものであつたのが、
わざや狂言を含んで来、「手」を「舞ひ方」と解する様になつたのであらう。田楽の前型なのである。
狂言は
わざに伴ふ対話である。
わざは、其古い形は、壬生念仏の様にもの言はぬ物ではあるが、狂言を興がる様になつてからは、
わざをも籠めて狂言と言ふ様になり、能とは段々少し
宛隔つて行つた。
神遊びに出た舞人は、宮廷の巫女であるが、神楽では、人長は官人で、才の男は元山人の役であつたらしい。つまり神奴である。
ことほぎに出るのも山人の積りだから、やはり神奴である。才芸の徒は雑戸で、其位置は良民より下るが、社寺の伶人は更に下つて、神人・童子であつた。而も、位置高い人の勤める役を、常に代つて奉仕するが故に、身は卑しながら、皆祭会には、重い役目であつた。身は賤しながら
楽の保持者である。
所属する主家のない流民は、皆社寺の奴隷に数へられた。此徒には、海の神人の後なる
くゞつと、山人の流派から出た
ほかひゞととが混り合つてゐた。それが海人が
ほかひゞとになり、山人が
くゞつになりして、互に相交つて了うた。此等が唱門師の中心であつた。舞の本流は、此仲間に伝へられたのである。
今一つ、山海の隈々に流離して、
山だち・
くゞつなど言はれた団体の女性は、山姥・
傀儡女として、細かな区別は段々無くなつたが、前者は舞に長け、後者は諷誦に長じて居た。此等の流民の定住するに到るまで、久しく持ち歩いた
うたと其叙事詩と呪言とは、幾代かの内に幾度となく、あらゆる地方に、あらゆる文芸の芽生えを植ゑつけた。
尤此等の二つの形式を併せ備へてゐる者もあつて、一概に其何れとは
極めて了ふことは出来ない。併し、其等の仲間には、常に多くの亡命良民と若干の貴種の人々とを交へて居たのは事実である。
此等の団体を基礎として、徒党を組んだ流民が、王朝末・武家の初めから、戦国の末に到るまで、諸国を窺ひ歩いた。さうして、土地或は勤王の主を得て、大名・小名或は家人・非御家人などの郷士としておちついた。
其位置を得なかつた者や、戦国に職を失うた者は、或は町住みして、部下を家々に住み込ませる人入れ稼業となり、或は
かぶき者として、自由を誇示して廻つた。併し、いづれも、呪力或は芸道を、一方に持つて居た。かう言ふ人々及び其余流を汲む者の間から、演劇が生れ、戯曲が作られ、舞踊が案出せられ、小説が描かれ始めた。世を経ても、長く残つたのは、放蕩・豪華・暴虐・淫靡の痕跡であつた。
ことに、著しく漸層的に深まつて行つたのは、歌舞妓芝居に於ける
かぶき味であつた。時代を経て、生活は変つても、淫靡・残虐は、実生活以上に誇張せられて行つた。他の古来の芸人階級は、それ/″\位置を高めて行つても、この俳優連衆ばかりは、江戸期が終つても、未だ
細工・
さんかの徒と等しい賤称と冷遇とを受けて居た。此は
かぶき者としての、戦国の遺民と言ふので、厭はれ隔離せられた風が変つて、風教を
害ふ程誘惑力を蓄へて行つた為である。
又、都会に出なかつた者は、呪力を利用して博徒となり、或は芸人として門芸を演じる様になつた。
更に若干の仲間を持つた者になると、山伏しとして、山深い空閑を求めて、村を構へ、修験法印或は陰陽師・神人として、免許を受けて、社寺を基とした村の本家となつた。或は、山人の古来行うてゐる方法に習うて、里の季節々々の神事・仏会に、遥かな山路を下つて、祝言・舞踊などを演じに出る芸人村となつた。
わが国の声楽・舞踊・演劇の為の文学は、皆かうした唱導の徒の間から生れた。自ら生み出したものも、別の階級の作物を借りた者もあるが、広義の唱導の方便を出ないもの、育てられない者は、数へる程しかないのである。
山人の寿詞・
海部の
鎮詞から、唱門師の舞曲・教化、
かぶきの徒の演劇に到るまで、一貫してゐるものがある。其は
いはひ詞の勢力である。われ/\の国の文学は
いはひ詞以前は、口を
緘して語らざる
しゞまのあり様に這入る。此が猿楽其他の「
の面」の由来である。其が一旦開口すると、止めどなく人に逆ふ饒舌の形が現れた。田楽等の「もどきの面」は、此印象を残したものである。其
もどきの姿こそ、我日本文学の源であり、芸術のはじまりであつた。
其以前に、善神の
のりとと、若干の物語とがあつた。而も現存する
のりと・
ものがたりは、最初の姿を残してゐるものは、一つもない。其でも、此だけ其発生点を追求する事の出来たのは、日本文学の根柢に常に横たはつて滅びない唱導精神の存する為であつた。
ほかひを携へ、
くゞつを提げて、行き/\て又行き行く流民の群れが、鮮やかに目に浮んで、消えようとせぬ。此間に、私は、此文章の
綴めをつくる。