副詞表情の発生

折口信夫




     一
       ――けなばけぬかに

道に逢ひてゑますがからに、零雪乃消者消香二恋云フルユキノケナバケヌカニコフトフわぎも(万葉巻四)
……まつろはず立ち対ひしも、露霜之消者消倍久ケナバケヌベク、ゆく鳥のあらそふはしに、(同巻二)
一云ふ、朝露之消者消言(かと云ふ)爾うつそみとあらそふはしに
私は、今の場合、「けなばけぬかに」を主題としようとするのではない。だが、一つの前提として、此から解説して置かねばならぬ気がする。此は、霜・雪を以て序歌としてゐる。露を以てするものも、あつたのである。言ふまでもないが、万葉集にある例は、極めて倖にして残つたものであつて、この外に幾万倍の実際作例があつたに違ひない。所謂「文法」において扱ふ所の、除外例なるものが、当時に却て通例だつたかも知れない。譬へば、「けなばけぬかに」などにおいて、殊にそんな心構へを持たねばならぬといふ心持ちがするのである。其と今一つは、此「かに」系統の発想法は、散文には見出し難い事ではなかつたかと言ふ事である。律語が文章の主要形式であつた時代だから、未完成であつた散文体に、此一類の類型を持ち込むまでには、まだ到つて居なかつたのかも知れない。
わが宿の夕影草の「白露之消蟹ケヌカニ」もとな思ほゆるかも(万葉巻四)
秋づけば、尾花が上に「置露乃応消毛オクツユノケヌベクモ」吾は思ほゆるかも(同巻八)
……心はよりて「朝露之消者可消ノケナバケヌベク」恋ふらくも シルくもあへる隠りづまかも(同巻十三)
「べく」の例ではあるが、大体において同型であることは、言ふを俟たない。その上に言つてよい事は、全体として、「かに」よりは、「べく」の方が、近代的な感触を持たせた発想法であり、文法でもあつたと言ふ点である。それが更に、端的に「けぬべく」を固定して行つたらしいものに多く見ることが出来る。
「べく」を以てした万葉に現存する例では、「露」と「雪」とが、数を争ふ程、人気のあつた事を示してゐる。さうして、我々が最妥当性を感じる霜においては、却て尠くなつて来て居る。だが、当時実際の歌謡界において、さうであつたと言ふ訣には行かないと考へる。
「失す」「過ぐ」或は「立つ」などを起すのが慣用である所の、霧に用ゐられたものすらある。
思ひ出づる時は すべなみ、佐保山に「立雨霧乃応消タツアマギリノケヌベク」思ほゆ(同巻十二)
此は、類型の一転であらう。
かう言ふ風に、天象の中、降りながらふ物に自由に移つて行くのは、慣用と頓才的飛躍がさうさせるのである。枕詞の内包が性質を換へて行くのと、同じ行き方に過ぎない。
これほど、「消ゆ」と言ふ、銷沈、煩悶或は悶死を意味する語と関係深く、又其と聯結する事によつて、一つの慣用句を形づくるのに満足した所の、古代人の心を考へる必要がある。
だが天象と、「けぬかに」「けぬべく」との間の交渉を言ひ続けてゐることから、幾分の喰み出しが出来るやうになつて来た。
譬へばまづ、「露」と「消ぬ」との関係から見ても訣る。この相互の交渉を忘れると、
秋づけば、「水草ミクサノ――尾花の類――花乃阿要奴蟹ハナノアエヌカニ」思へど、知らじ。タヾに逢はざれば(同巻十)
………………※(ローマ数字1、1-13-21)
……百枝さし生ふる橘 珠に貫く五月を近み、「安要奴我爾アエヌカニ」花咲きにけり(同巻八)
………………※(ローマ数字2、1-13-22)
露の「あゆ」と言ふ方面を受けて行き、其が更にさうした出発点をふり落してしまふと、第一例になり、又後には、単に形式としての「あえぬかに」だけが用ゐられる様になる。此例などは、世間では必此感情論理の展開を認めないであらう。が、幾許とも知れぬ沢山の例を擁しての立言であることを思うて頂きたい。「かに」は、其自身欲する語と、自由な結合を作つて行く筈である一方に、かうした過去の制約に囚はれてゐるのであつた。
つまりは、語句・詞章及び其技巧の変化は、歴史の徐々たる「にじり歩み」であつたからである。又譬へば、「可消ケヌベク」にかゝるにしても、「零雪虚空フルユキノソラニ」「天きらし零来雪之フリクルユキノ」「豊国之木綿山雪之トヨクニノユフヤマユキノ」と言つた風に、重くるしい修辞を整へること、「佐保山に立つあま霧の」の場合と同じ事である。
朝露に咲きすさびたる「鴨頭草之日斜共可消ツキクサノヒタクル(?)ナベニケヌベク」思ほゆ(同巻十)
これなどは、殊に前述の心理過程を示したものと言へよう。「露」と「消ぬかに」「消ぬべく」との古い関係が低意識の間に隠見する訣なのである。表面に、鴨頭草の消ぬべき様を、自らの心の譬喩としたのである。其は一方、此花の「うつろひ」易き事を、知りつくしてゐる心の一展開であつた。さうして更に、新しい技巧は、「日斜共」と言ふ説明を加へさせて来てゐる。さうして、第一句から第四句に亘つて、長い序歌に為立てた訣なのである。だが、かうした形も、単なる類型の追求が、表面の合理性を持つて来たもの、と言ふことが出来るであらう。

     二
       ――おひばおふるかに

おもしろき野をば 勿焼ナヤきそ。旧草フルクサに、新草まじり 於非波オヒバ於布流我爾オフルカニ(万葉巻十四)
此歌に現れた文法は、「消ぬかに」とは、毫も交渉の認められない特殊なものに違ひない。唯「かに」の用語例の、古い確実性を保つてゐるものゝ一つである。「生ひば生ふるかに」が、其である。唯近代の理会からは、「生ひば、生ふる」の活用問題は別として、一つの疑問が残されてゐる。
まづ、人は此歌から感得する情調を分解して「えるなら生えるに任せておけ」と言ふ解釈を心に持つだらう。
焼かずとも 草は萌えなむ。春日野は、たゞ春の「ひ」に、まかせたらなむ(新古今巻一)
と言ふ歌は、即興歌として、執拗ではない処に、興味を感じさせるが、実際これを作るに到つた心もちは、極めて茫漠として居る。そこに、神歌を感じさせる様な、象徴性が出て来るのだ。「生ひば生ふるかに」の東歌に現れた民謡の古代式表現に、近代的の毛刻りを加へたと言ふ点に興味があり、又前の歌の様な類型の幾つかあつた末に、其を飜案したもの、幾分其に答へる気持ちを持つて居るものだとも言へる。
古今集・伊勢物語の「武蔵野は、今日は勿焼きそ。わかくさの つまもこもれり。我もこもれり」も、其相聞歌的に飛躍したものだ。かう考へて来ると、昔から、幾度でも/\更に緻密な解決を待つて居る様な象徴的な詞章があつて、其点が、代々の人々の心に触衝する事によつて、幾つもの歌謡が生れて来た。即、類型を生む歌には、必ある疑問を持たせる様な部分があつたのである。此歌などで見ても、何の為に、其が謡はれそめたか、疑はしい感じが唆られる。歌としては、風俗歌であり、寧、国俗諺クニブリノコトワザの領分に這入り相なものなのだ。問題をつゝけばつゝく程、新しい疑問が幾らでも生じて、最後の忘却に達するまでは、重ね/″\の合理解を試みるのである。其為に、類型は幾らでも現れて来る次第なのであらう。
ふゆごもり 春の大野を焼く人は、焼き足らじかも、わが心焼く(万葉巻七)
此一時、象徴歌と誤認せられた万葉集の譬喩歌も、春野焼く事に対する反感を含んでゐる。野焼きを否定する心が、一転して、其焼く心を咎める心地から転じて、不都合にもわが心をかく燃えしめる、と言ふ譬喩に用ゐたのである。
北野の神詠と称する「つくるとも、またも 焼けなむ。菅原や むねの板間の あはぬ限りは」は、古代にある野焼き歌の類型が、象徴的に感じられる所から、神祇の御作と言ふことになつた訣であらう。「菅原や」と言ふ語があつたから、北野神詠としての感情を敷衍して、一首の歌となつたゞけではない。同時に亦、単に大和添下郡菅原について残つた歌だとも言へない。菅原と言へば、其近接地伏見を言ふ事は古代からの習慣として、隠約の間に、世間の記憶として、遺伝せられてゐたのである。つまり世間弘通の歌謡の上の語――一種の歌枕――として、歌構成の以前に流動言語として動いてゐるものが、入りこんで来る訣なのである。其が、又ある合理化から、突然ふり落して、こんな筋の通らぬ歌をしあげたのであらう。
流動言語とは、世人が半意識の状態で、之を具体化しようとして保つて居るある言語的刺戟で、暗示として、人の心に常に動揺してゐる。之を把握することによつて、新しい思想をもり立てる概念を捉へることになる。
だが其語自身の性質は、過去の言語の記憶の断片である事もあり、時代に起るべき思想を表象する言語である事も、あるのである。
「生ひば生ふるかに」以前に、その前型となるものがあるかも知れない。が、ともかく、「たゞ春の日に」の歌の如く、「任す」と言ふ考への、含まれてゐる事は事実である。「生ひば生ふるかに、まかせむ」又は「……まかせよ」など言ふ語が、気分的に融けこんでゐるのだ。さうすると、出て来る第二の問題は、右の様に、「生えるなら」と言ふ風に、「生ひば」が「生ふるかに」の前提として置かれてゐると解するがよいか、其とも、「けなばけぬかに」の例によるべきか、と言ふ点である。実は私は、此点は実例で、暗示させて置いて、説明は、一つも試みて居ない。「けなばけぬかに」「けなばけぬべく」が「けぬかに」「けぬべく」だけで示されることは、恐らく、前者が後者の旧形であつた事を意味するに外なからう。さうして、後者の様に簡単に、固定させてもよい理由が、何処にあるか。其については、「おもしろき野をば」なる語句から、説き出して見ねばならぬ。「おもしろき」は、既に一度述べた私の論文があるので、今は述べたくないが、「おもしる君が見えぬ此ごろ」「おもしる児らが見えぬころかも」など言ふ語で見ると、顔馴染が深いと言ふに近くて、尚始終鮮やかに幻影に立つとでも謂つた内容を含んでゐたらしく思はれる語である。仮りに釈すれば、「なつかしき……」などに、稍当るものであらう。「昨年のまゝな野のなつかしさ。それに其野を焼かうとすることよ。今既に旧草まじりに新草が生えようとしてゐる」と謂つた意味で、古くは、……任せむと言ふのではなかつたのではないか。又今一段単純に解して見ると、「旧草に新草まじり、生ふべく見ゆるなつかしき此野を焼くな」と言ふ意義としても、文法的には錯誤はない筈だと考へる。
何にしても、かう言ふ結論は、導いてさし支へはない様に見える。ある副詞句は、「かに」を以て形づくられた。其場合正式には、短文でも、条件の完全に呼応した文章を受けねばならなかつた。其「かに」が、後代に其と近い意義を分化した「べく」に、形式的に代用せられても、よくなつて行つた。「べく」になつても、さうした副詞句は、条件の完全な短文を含んで居た。唯ふたたび、固定断片化する事によつて、今日でも認容せられる形になつて了つた。
「かに」と「かね」との関係は、今説明してゐる暇がない。唯、元二つながら全然交渉のない語として成立して来た。其が音の類似から、次第に、内容接触の度が切実になつて来た。だから、「べく」と訳して見ると、大体一つの用語例にあるものと見える。にも繋らず、此だけ形式が類似してゐて而も、際立つて用語例の相違のあるのは、語原の相違を思はせてゐるのだ。かねの方は、「カネ」或は「カネ」など言ふに接近してゐる。其だけ、名詞に近い感じを持たせる句を作る。私は、逆に、かうした事を、おなじ起原を持つものが、形式分化から差異を生じたとは考へられないと見てゐる。「かね」には一つは、「語りつぐがね」と言ふ大きな一類の語群を持つて居たらしく、「言ひつぐがね」と言ふ同義語としての対句もある。之を「かに」の用語例にうつして見ると、「今語りついで居る様に」と説かねばならぬ様である。又将来に関係あるにしても、「かね」の遠くを予期する言ひ方とは違つてゐる。「この通りだらう」と言ふ程の義である。

     三
       ――言へばえに

言へばえに、言はねば胸のさわがれて、心ひとつになげくころかな
伊勢物語に残つた歌であるが、語の格から言へば、その時代のものと考へられて居るよりも、更に可なり古い形を含んでゐるものと思ふ。「言へば」と「言はねば」と、二つ対立せしめて居るので、時としては、「言はゞ」「言はず――言はざらば」の対照に作つても、同じ事である。「えに」は、下に稍詳しく、「言はねば胸のさわがれて」とあるべきことを予期する点から、其意義を気分化して、理会せしめようとしたのである。「言へば言ひえに」で、言はうとすると「常にえ言はないで」の義で、詞章の上の例は稀であるが、実際には、多く行はれたらしい。平安朝の文学に屡※(二の字点、1-2-22)現れ、武家時代にかけて、次第に「エンに」と言ふ宛て字に適当な内容を持つて来た「えんに」と言ふ語は、実はこの「えに」の撥音化なのである。「言はゞ」或は「言へば」の前提に続いて、「言ひえに」が習慣としてくり返されて、遂に「えに」だけでその代表をするほど、気分化して了つてゐたのである。
即、茲に見られるのは、「けなばけぬかに」の一類が、遊離した「けぬかに」「けぬべく」を作る様に、「えに」が固定して、尚「言ひえに」に近い気分を、人に与へることが出来たのである。
此はちようど、「かてに」と言ふ語にも、同様な例が考へられる。「ひろへばかてにくだけつゝ」と言ふのは、普通「拾ふとすればその傍から、砕け/\して行く」と言ふ風に説いてゐる。だが、此も単なる同音聯想で、さう古くからも、聞えたゞけであらう。拾はむとすれば「拾ひ不敢カテニ」の形が、一つの「拾ひ」をふり落したのであらう。
おなじ事は、「え―う」「かて―かつ」などゝ同義語なる「あへ―あふ」にも見られる。
……ふつたの別れにしより……ゆくら/\に、おもかげに もとな 見えつゝ、かく恋ひば、老いづく我が身 けだし安倍牟アヘムかも(万葉巻十九)
老いづくわが身にして、恋ひあへむや。恋ひあへずして……なりゆかむと言ふ意である。唯、身が持ちこたへようかとの意ではないのだ。「もとな」なども、此から説明するのが最正しいが、此は亦問題が大きいから、別の機会にする。かういふ風に、動詞でありながら次第に助動詞らしい職分を分岐して来る。その過程として、其と熟語を形づくつた語の脱落することが見られる。さうして更に一種の副詞の形に移つて行く。
この例で見ると、「老いづく身にして、かく恋ひば恋ひあへじ」の義であるから、「かく恋ひば」と言ふ過程は、前例と同じく、実際の内容として、既に意義を十分出してゐると共に、之を内容からとり去つても訣るのである。つまりは、前代遺存の形式の後代合理化から、「……俤にもとな見えつゝ」など言ふ、「かく恋ひば」の説明がついて来る訣である。
「かく恋ひば、恋ひあへむかも」が、「言へばえに」「ひろへば拾ひかてに」の形式を持つたものと考へてよいのである。「けぬかに……」「けぬべく……」と等しく条件の一部が遊離した訣だ。
「えに」から出た「えんに」は、次第に「艶に」の言語情調に近づいて来るが、古いほど「言ひえに」の義を持つてゐた。「説明出来ない程よい」と言つた様な意を示す語が、語原を忘れゝば、「えんに」と言ふ音に意義を求めようとするのが、当然である。だから平安朝の日記・物語類でも、古いものゝ「えんに」の用語例を検すれば、所謂「艶に」とは、関係が薄くなつてゐることが見られるのである。
何の為に、かうした文法上の瘤とも言ふべき前提を置く慣例が行はれて居たのだらうか。

     四
       ――と  も  その一

ことゞはぬ「樹爾波安里等母キニハアリトモ」、うるはしき君がたなれの琴にしあるべし(万葉巻五)
山川を中に へなりて「等保久登母トホクトモ」、心を 近く思ほせ。我妹ワギモ(同巻十五)
たとへば、「見とも飽かめや」は、正しくは「見とも見飽かめや」である。又もつと正式と見えるもので言へば、
「松浦川 七瀬の澱は よどむとも、我はよどまず」君をし待たむ(同巻五)
の如く、「よどむともよどまじ」と謂つた形になるものである。但、此場合、「われはよどまず」は副詞句で、待たむの文法的職分に統合せられる地位にあるものとして、此で正しい訣である。つまり、第一句以下第四句までゞ、完全に序歌となつてゐる訣である。かう言ふ形が「とも」の本格の用語例の外貌であつたに違ひない。
又、「木にはありとも」で見ても、「……木にはありとも、君が手馴れの琴の木にしあるべし」と言ふ意識は、忘れながらにも、失せきらなかつた事を見せてゐる。
にほどりの「息長オキナガ川は絶えぬとも」、君に語らむこと つきめやも(同巻二十)
「息長川は絶えぬとも絶ゆることなく、其如く、君に語らむことも絶え尽きめやも」と言ふのである。
島の宮 上の池なる放ち鳥。あらびなゆきそ。君不座十方キミイマサズトモ(同巻二)
「君いまさずとも在すが如くして」、荒びなゆきそである。
あたひなき宝と言十方イフトモ一坏ヒトツキの濁れる酒に、豈まさらめや(同巻三)
無価宝珠と言ふとも、宝ならざる如く、一坏の酒にはまさらじと説くべき過程を経て、後代の「君が在まさぬ現状にありとも」「無価宝珠と言ふものなりとも」と謂つた風に、説明出来る様になつたのである。
もつとよく考へると、「ことゞはぬ木にはありとも」と言ふ句は、此歌以前にすでに、幾多の類型を以て、木精・石精等のことゞはぬ事を力強く述べて居た、その諺を下に持つて言つてゐるのだ。だから「木はことゞはぬやうに呪服せられてゐる」と言ふ事は知つて居るが、と過去の知識の引用があるのである。だから第一には、「ことゞはぬ木にはありとも、さる諺の如くはあらずして」と言ふ意が含まれてゐたのである。其が更に一飛躍して、新しい文法的職分が出来ても、同じく「琴の木にしあるべし」と謂つた呼応を作つて行く訣なのだ。
「山川を中にヘナりて遠し」といふ発想法は、極めて古くからあり、又近代的にも喜ばれて居たもので「山河毛隔莫国」「海山毛隔莫国」「あしびきの山乎隔而」「あしびきの山河隔」「高山を障所為而ヘダテ(?)ニナシテ」「高山を部立丹置而ヘダテニオキテ」「山川乎奈可爾敝奈里※(「低のつくり」、第3水準1-86-47)」「山河能敝奈里底安礼婆」など、万葉ばかりでさへ、幾多の類想が、久しく行はれた事を思はせて居る。其うち、殊に山河を対立させたものが、尤好みに叶うたと見える。さてその所謂「山川隔る……」と言ふ風俗諺のもあるが、と言ふ意味を含めて居るのが、「山川を中に、へなりて遠くとも」である。だから第一義としては、「山川を中に、へなりて遠し」と詞にありとも、我らは遠からず、と言ふ内容を見ねばならぬ。第二義の飛躍が、『「山川を……遠からず」して、近く思ほせ』と言ふ事になるのだ。
必しも純粋な諺でなくても、同じ様に考へられるものなら、何でもかうして、「とも」を以て、受けることになるのだ。さうして、此「とも」の受け方の特徴は、諺的の詞句が、固定した形のまゝでなくてもよい事で、自由な発想や、理会や感情を加味してもよい処にある。つまりは、前型を近代式に言ひかへて、さし支へない点があるのだ。
さうした習慣が、此と同様な方法を分化せずには居ない。必しも古来の詞章・故事熟語的のものでなくとも、任意にさうした発想は出来る訣である。「にほとりの息長川は絶えぬとも」などの場合が、其である。必しも息長川に対して、「絶ゆ」、「あす」など言ふ語句が来なくとも、他の川について言ふ類型で推す訣である。つまり、「諺」又は「前詞章」を想ひ、其飛躍転用する方法を採つたのだ。
「『やまとべに にし吹きあげて雲ばなれ』曾岐袁理登母ソキヲリトモ」我忘れめや(記)
「山越えて海渡る騰母トモ」おもしろき新漢イマキのうちは、忘らゆましゞ(紀)
「大だちを 誰佩きたちて ぬかず登慕トモ」すゑはたしても、あはむとぞ思ふ(紀)
此等も序歌と言へばそれまでだが、諺類似のものを思はせる言ひ方で、その中、「大だちを」の例で見ると、「大だちを……抜く」と言ふのから転じて、と言ふ如くにして「ぬかずとも」と言ふ事になつて居る。
かうした「とも」の、次第々々に助辞的に固定した用語例を持つて来る過程には、記紀の極めて古い例がある。其は必しも、古代の歌の順序が、其成立の順序を示さないからである。だが同時に、其等の例の中に、今日の直観に、極めて近い相似たものがある。
……むら鳥の我が群れいなば、ひけ鳥の我がひけいなば、泣かじとはは言ふ登母、やまとの一本薄 うなかぶし汝が泣かさまく 朝雨のきりに立たむぞ……』(記)
忍阪の大ムロ屋に、人さはに来入り居り、人さはに伊理袁理登母……』(記)
八田のひと本菅は、ひとり居り登母 大君しよしときこさば、ひとり居り登母』(記)
笹葉にうつや霰のたし/″\に 率寝ヰネてむ後は、人はかゆ登母』(記)
「泣かじと言ふとも、汝は泣かずはあらじ」と今一度返して居たのだ。が、論理的形式として、末にやはり、「……汝が泣かさまく」と「泣かじと言ふとも……汝が泣かさむ(ま)+く」と解決がついて居る。忍阪の例で見ても、「……入りをりとも……うちてしやまむ」と論理的解決はついて居るやうだ。が、今一つ前には、「入り居りとも、さやらず我は入りて」と言ふ意義を含んで居たに違ひない。
後の二つは、記載例としては遅れてゐるが、同じ感じを持たせる「とも」である。「八田の一本菅は、ひとり居りとも、居り敢へむ」「人はかゆともはかられゐむ(又はるとも、るに任せむ)」と、やはり呼応するものはあつたのである。其と同時に亦、慣用句に似たものは、受けて来てゐたのである。「むら鳥の……泣かじとは」の句は修飾的には、文法としての勤めは果してゐないが、形式としては、習熟句の後に来た感じが、満足させるのだらう。
其上しかも、力強い対句まである点に、注意せねばならぬ。「忍阪の……」でも、習熟した語気の上に、人に誨へ導く様な語気は、諺に近いのである。其に力を強める所の対句を負うて居る。「八田の……」も「笹葉に……」も、皆他の句につく序歌らしいものを負うてゐるが、実は各自ら、其に聯絡して居たのである。

     五
       ――と  も  その二

サヽナミの滋賀の大わだ よどむとも、昔の人に またもあはめやも(万葉巻一)
所謂条件文の型を以て、簡単に此を説かうとしては、当らない。恐らく「滋賀の大曲かくうちよどめり。されども、よどまず(よどまざる如く)は、昔の人に復逢はめや」と言ふ意義の第一表現が、此歌の下句から見られるのである。第二次的統一が、更に呼応的文法を形づくつた。「とも」と呼びかけてゐるから、「またもあはめやも」で応じた形になる。だが其は、意義においてなり立たない。「よどめども」と呼びかけねば、現実の、船遊びに儲け備へた様な、静かな湖面を表す事にはならない。畢竟此「とも」は、文法的論理に引かれて、「ども」とあるべきものが、変形したのである。つまり、「あはめやも」と言ふ感慨を表さうとする心の傾向がまづ動いて居た為に、文法までも予め、此様に仮定の条件で用意せられたのである。形式上の論理を極端に追究する文法としては、然るべき事と思はれる。が、此にも尚今一つ、心理的根拠が考へられなくはないか。
前々、くどく述べて来た様に、「とも」の第一義的形態は、後代の考への呼応法とは、別なのであつた。即「諺」「序歌」の如き引喩を否定して、自身の場合を明示する方法なのである。即、比喩法における否定法の起原を示すものと謂へる。其物ならずして、其物に酷似してゐると謂つた表現法を謂ふのである。私どもは、従来万葉の序歌を解説するのに、此方法を以て飜訳するのが、最よい方法として用ゐ慣れて来たのは、その技巧の底に、此低意識が潜んでゐるところから、さうさせたのだらう。
今一度言へば、
川上のゆつ磐群に、苔むさず 常にもがもな。常処女にて(同巻一)
此歌は、「とも」の発想法を逆に行つたまでゞある。
川上のゆつ磐群に苔むすと(とも) 常にもがもな。常処女にて
と言ふ場合をも考へてよい。「むさず」は現状でなく、「むす」に対して言ふのである。「川上のゆつ磐群は苔むす」と言ふが、此場合は苔むす如くにはあらずして、常若の……と言ふ事になるのである。
此方法で、同時に、「恋ひつゝあらずは」「恋ひせずは」「もの思はずは」などの「ず」も、解けてゆくのかも知れない。此には、又別の論文が用意せられる。
即、滋賀の大曲は、常によどむものなりとも、よどまずして、昔の人に復もあはめやも、と謂つた形を採るのが、第一義的であるが、其では、幾分、意義の通じる様に説明すると、「滋賀の大曲うちよどんで、人待つとも、待ちえずして……」と言ふ風になるものと見る事が出来る。さうした後、此「とも」の結着点は下に移つて、「またもあはめやも」で解決せられるのである。度々例示して置いた様に、「とも」の呼応点は、古くは「とも」の直後にあつたものだ。其が、「とも」を以て言ひ棄てる習慣の生じた為に、更に感動的に反語的に、違つた内容と、方向とを以て説明する方法が出来たものらしい。

     六
       ――なにせむに

しろ金も、黄金も、珠も、奈爾世武爾ナニセムニ 優れる宝。子にかめやも
万葉巻五の近代的な作品中でも、殊にもてはやされてゐる歌である。が、此を果して文法的の論理を逐うて、説いてくれた人があるだらうか。山田博士などには、既にあるかも知らぬが聞かない。「なにせむに」は、「何をしように」と言ふ素朴な言語情調から、無益とまで説かなくても、放棄に値するものと謂つた解釈をしてゐるのだらう。だが、此用語例の場合は、「とも」とは正反対に、却て、形式上に、古い痕跡を止めてゐるのである。「なにせむに」は「何に」と同じである。「せむ」は「何すれぞ」「何すとか」「あどすとか」などゝ同じく、近代の「何しに」「どうして」などに通用する「す」で、不定詞の意義表現を助ける「あり」に代るものである。だから、「何の為に」位の語気の、聞える時もあるのだ。
同じ憶良の同じ理論の長歌では、「世の人の尊み慕ふ七クサの宝も、我波ワレハ何為、わが中の産れ出でたる白珠のわが子古日フルヒは、……」「なにせむ」と訓めさうな処だが、訣らない。「何せむに」と見るならば、「七種の宝も我には何しに宝ならむや。わが中の宝といふは、白玉のわが子古日なり」と説くべきであらう。
ともかくも、「白珠も、黄金も、珠も、宝なりと謂はるれど、何しに子にまされる宝ぞ。豈子にかめや」と言ふのである。かうして、此二つを並べて見ると、長歌の方は、叙述部に当るものを、ふるひ落して意の通じるものとして居り、短歌の方は、古風を残して居て、更に、次代の合理解に移る過程を示してゐるではないか。
「まされる宝」は、「子に次かめやも」の、全然独立した詞句とは関係のない様に見えるが、今一段にして「まされる宝、子に……」と謂つた風に気分的に接続しかけて居たゞらうと言ふ事も考へられる。「まされる宝」のまされるは当然、この句が上につくべきを示してゐるのだが、条件文の呼応は、呼応そのものゝ責任感だけを長く存して居て、実際の論理的職分は忘れて了ふのである。だから、第二の解釈の様な「まされる宝、子に……」と続けて考へられるのも、無理はない訣である。
後期王朝の物語日記の文章には、更にかうした事が多く見られる。「あはれ」と言ふ語は、殆悉く「おもしろし」にも、「かなし」にも、「うれし」にも、何にでもつく事を予想して、すべてを省略してゐる。さうして、「あはれなり」「あはれの……」「あはれなる……」など言ふ風に用ゐられる。だから、「あはれ」その語の含蓄自身が、広い様に見えるのだ。此などは、馴れ過ぎて問題にすらならない。皆「あはれ」独自の用語例と考へてゐる。
又譬へば、「あさましく」と言ふ副詞形においても、皆其下に来る叙述語を省いて、この修飾語だけで気分を十分に出して居る。更に其を含んだ形として、「……あさまし」と文を綴める。「たまげる程……だ」と言ふ、気分には、悲しさもあり、情なさもあり、醜さもあり、嬉しさもある。其が段々近代の「情なさ」を表す傾向に、次第に用語例が統一せられて来たのだ。又譬へば、「わりなく」「わりなし」の場合でも、さうである。多くは、此下の叙述語を省いて、其を直に気分的に思はせる習慣になつて、遂には其自身に、ある意義が加り、固定する方に傾く。
「なか/\」なども、とてもかうした例を多く持つてゐる。もつとひどいのは、「うたて」である。

     七
       ――うたて

「うたて」は、副詞形として、特殊なもので、
得田価異ウタテケニ心いぶせし。ことはかり よくせ。吾が兄子。逢へる時だに(万葉巻十二)
秋と言へば、心ぞいたき。宇多弖家爾ウタテケニ、花になぞへて見まく欲りかも(同巻二十)
後のは、擬古作家なる家持の作だから、個々の語には信用は置けないが、此などは、当時まだ生きてゐた用語例らしく思はれるので、間違ひではなさゝうだ。
わが宿の毛桃の下に月夜さし 下心吉シタコヽロヨシ(グシ)莵楯頃者ウタテコノゴロ(同巻十)
三日月のさやかに見えず雲隠り 見まくぞ欲しき。宇多手比日ウタテコノゴロ(同巻十一)
何時はなも、恋ひずありとはあらねども、得田直比来ウタテコノゴロ恋ひの繁しも(同巻十二)
あげるもこと/″\しいが、此が今まで知れて居る、万葉集における用例の総計であらう。古今集には、あやまりかも知れないが、異例として、
花と見て折らむとすれば、女郎花うたゝあるさまの名にこそありけれ(古今巻十九)
が残つてゐる。此などは、うたてでもさし支へのない内容を持ち乍ら、真実ならば、形だけに、古風を存してゐると謂へる。
万葉のは、「うたてけに」又は「うたて此ころ」と言ふ風の形しかない。もつと外の表現もあつたのに違ひないが、此だけで見ると、他のものも、或はかう言ふ風に、一日々々とある状態に進むことを見せてゐる。「けに」は言ふまでもなく、「日にけに」の「けに」である。「このごろ」は「幾日以来」だから、日頃における進行を示すのだ。其から見ても、「うたて」にも、益・愈などの意味の含まれてゐることが、推定せられる。即、日本紀旧註其他、漢文訓読の上に残つてゐる「ウタヽ」に、ぴつたり当るものである。
本来、「うたて」には、「憂し」の系統に属する内容はなかつたのである。処が、歌の上で、用語例が偏して来た為に、叙述語の方から影響を受ける様になつたのだ。
花見れば花に慰まずウタヽ益、花になぞへて、人を思ふに、心痛むを覚えるのである。秋と言ふほど、心が痛いのである。
かうして逢ひ得た今だけでも、妾の話によくのつてくれ。此頃一日々々愈、心が憂鬱になつて行くのを覚えてゐる。
「このごろ」についてゐるのを見ても、「うたてこのごろ……下心ぐし・見まくぞほしき・恋ひの繁しも」と言ふ風に続いてゐるのが、句の転倒するものゝ多い所から、「うたて」が叙述語の様に感じられて来るのだ。かうした形が進むと、次第に「うたて」が叙述部を代表する様になる。先に述べた平安朝の副詞と叙述語との関係を省みるべきである。
「うたて」の叙述語に当るものが、常に略せられて、「うたて」自身が、叙述部に這入つて来る様になる。すると、そこに仮りに、叙述語に代るべき代用語として常に用ゐられた「あり」が這入つて来る。即、「うたてあり」が、是である。さうして、此語は、既に「うたて、憂鬱なり」など言ふ内容を持つて居たのである。
宣長が古事記の「……登許曾、我那勢之命為如此登詔雖直、猶其悪態不止而転」を「……とこそ、あがなせのみことかくしつらめ、とのりなほしたまへども、なほ、そのあしきさまやまずて、うたてあり」と古訓したのは、時代を錯誤した様に思はれる。文章としては劣つてゐようが、「そのあしきさまやまずて、うたてけに、天照大神……」と続いて行くのではないか。「うたてあり」に遅れて出たのは、「うたてく」といふ形で、かうして近代になると、「うたてし」「うたてき」又、「うたてい」なども、使はれ出した。
愈益など言ふ意義が、非常にと謂つた意義から、叙述語に没入して、憂愁を表す語となつて、遂には其自身その用語例にのみ在る語の様に考へられ、又擬活用を生じ、更に純然たる形容詞のやうな姿をとる事になつたのだ。

     八
       ――袖も照るかに

まきもくの 穴師の山の山びとゝ 人も見るかに、山かづらせよ(古今巻二十)
私は、何を言はうとしたのかを、今述べねばならぬことになつた。何よりもまづ、文法意識の推移と言ふ事に注意を向けて貰ひたい点に、目的があつたのだ。さう言ふ立ち場においてのみ、文法と国語との、自由な関係が見られるので、此をちつとでも固定させては、もう論理的遊戯に陥る事を述べたかつたのだ。
だが、当面の例題として、私の採つたものは、過去の日本語が、今日の国語においては、無用と思はれる様な表情法の幾つかを持つて居たと言ふ点を説く事に進んだのである。さうして呼応と言ふ習慣が、どう言ふ意義を、国語発達史の上に持つて出て来たのか、其と同じく、条件文省略が、其気分的欠陥を補ふ為に、幾度も敷衍を重ねて行く事を述べた。畢竟国語における副詞句の発達は、古ければ古いほど、文章的であつた。さうして、其が固定に固定を重ねて単純な所謂単語としての副詞を用ゐる様になつた。さうした事が、可なり早くから進んだ文献を持つた民族の言語的遺産の上にも、窺ふ事が出来る、と言ふ事を示したかつたのである。
……その波のいやしく/\に、わぎも子に恋ひつゝ来れば、あごの海の荒磯の上に、浜菜つむ海部処女アマヲトメ等が、纓有領巾文光蟹ウナゲルヒレモテルカニ、手にける玉もゆらゝに、白栲の袖ふる見えつ。あひ思ふらしも(万葉巻十三)
決して、単に纓有領巾文だけを照るかにで受けたものではなかつた。尠くとも、あごの海以下の句は、最初は詞章を構成する筈であつたのが、卒然として、「かに」によつて、副詞句化せられたのである。かうした長い副詞句が、元は文章であり、又、其が為に、文章的でなければならなかつた為の条件法を具へた副詞句が、次第に単純化せられて行つた。さうして「けなばけぬかに」が新しい発想法の上から「けなばけぬべく」と直り、更に「けぬべく」だけで訣る様になり、愈端的に、「露霜の」など言ふ所謂序歌的なものを全然ふり落す様になる、さうした径路は、まだ実は半分しか辿りきれて居ないのであつた。
こんな処で、一言するのは、大方のお心を混乱させる事になるだらうと思ふが、此だけは申し添へて、言ひ残した部分の註釈にもと考へる。かにの「か」は、実は、所謂形容詞語根につく「み」「け」「さ」の「け」で、事実、「げ」でなかつたのである。同時に、「しづか」「かこか」「たしか」などの「か」でもあつた事である。さうして、さうした固定した附属辞のやうな形式化は可なり進んでからの事だと信じてゐる。
而も、此等はたまたま古代的詞章の、片影の固定したものを包含した、其さへも古い時代のものゝ中に見られるのである。殆全部が、新しくなつた中に、ほんの少し俤を止めたもの、と言ふに過ぎない。だから、我々は、その文法的職分を説くに十分な材料を持たなかつた訣であるのだ。だが、かうして見ると、そこに稍、ある説明らしいものゝ出来上つた気がする。一つ/\の解説については、間違ひのないと言ふ事は保証出来ない。だが大体の方法において、過誤がなくば、かうした隠れた事実のあつた事を示すだけには、役立つ。
かやうに持つて廻つた様な解説が、忘れられた文法研究の一つの方法であると共に、実は今一つ、私の常に考へる所の終著は平凡にして、過程には、多少変つた処のある方法を寓したつもりであつた。即、言語詞章は、常に複雑から単純に赴く、と言ふ信念の表白及び、その論理なのである。





底本:「折口信夫全集 12」中央公論社
   1996(平成8)年3月25日初版発行
初出:「国文学論究」
   1934(昭和9)年7月
※底本の題名の下に書かれている「昭和九年七月刊「国文学論究」」はファイル末の「初出」欄に移しました
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年11月30日作成
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