沖縄の舞踊は、全体に、今常識的に、
まひと称してゐるものと、
をどりと称してゐるものとを兼ね備へてゐる。此、
まひの要素は、古い、
おもろあそび(巫女の鎮舞)の系統に、
やまとの舞ひぶりを加へてゐる様だ。
をどりといふべきものは、南島の更に南の海のあまたの島々のものを明らかに印象してゐる。而も、此中間に立つ舞踊が多い。
やまとの緩やかな舞ひを南島流の早間に踊るものである。等しく踊りというても、間を緩やかにするものが上品だと考へられたらしく、さうしたものが次第に殖えて行つたのであらう。此島にも、
あそびと
をどりとの間に位づけが出来てゐたのである。だが、此は
やまとの
流の奏楽法や楽器などゝ共に伝へた、後のものが多からう。其以外、古く這入つた千秋万歳の
ことほぎ系統に属するものが、極めて多く残つてゐるが、それらは皆、
やまとの万歳に見られぬ程の早さながら、日本の舞ひぶりが基調になつてゐることは、その服装以上に明らかである。だから、私は思ふ。念仏聖の念仏踊りや万歳舞ひを見た事は、島人の踊りの上に非常な動乱であつた。さうして、茲に琉球の踊りは、在来の託遊式の
あそびに近い、而もある観念と感情とを備へたものらしくなつたのである。其後、江戸への朝聘、鹿児島との交渉が生じてからは、盛んに新しい使ひを迎へ送るやうになつて、
やまと音楽と共に、舞ひや踊りが這入つて来たのは勿論、さうして第二期の整理が行はれたと見てよい。
沖縄の踊りを通じて見られるものは、此三種の融合し或は混淆したものである。が、その特色とする所は、手の使ひ方・上体の動し方・足の踏み方・踊りの間のきり方などに、現れ過ぎるほど現れてゐる、固有の
ふりである。支那舞踊の影響は、今の処、私にはありさうに思はれない。同様に、能や歌舞妓の所作事などゝも、交渉はないと見てよいと思ふ。