鶴が音

――鶴亀の芸能――

折口信夫




いかに、奏聞まをすべき事の候。毎年の嘉例の如く、鶴亀を舞はせられ、その後、月宮殿にて舞楽を奏せられうずるにて候。……謡曲鶴亀
所謂五風、十雨が、度に過ぎて、侘しかつた旧年の夢についで、今年はほゝ笑ましい現実の暦を捲き返したいものである。そのための祝言にもなれば、この短文の作者なる初老の翁は望外の慶びとする。
鶴亀の能は、極めての短篇で、いはゞ祝賀の舞を催さうとするだけの開口の文句に過ぎない。してなる皇帝に、大臣わきが次ぐといふ異風でもあり、古式とも見える演出法を持つた曲である。
皇帝「ともかくも、はからひ候へ」
で、子方二人の鶴亀の連舞ひになる。これに興が進んで、皇帝自身も舞楽して、その後一同退場となる。初春「青陽の節会」に象つたもの、新年の祝賀能である。このしての地位に、極めて「翁」と通じるところがあるやうに見える。この鶴亀の曲の起原とまで断言することは出来ずとも、尠くともその能楽化する径路を示すらしいものがあるやうに思ふ。「翁」の当今行はれるものは、所謂「四日の式」と称するもので、ハツ、二、三日の式とは、大同ながら小異を持つてゐる。五日の式も、初日同様であるが、この両日に通じて行はれる特殊な部分の一個所は、所謂「千歳の舞」が度数の多いことである。その千歳の舞の間に、
ところ千代までおはしませ。(地)「我らも千秋さむらはう」鶴と亀との齢にて、ところは久しく栄え給ふべしや。鶴は千代経る。君はいかゞ経る。(地)「よろづ代こそ経れ。ありう。とうとう」
と第一の千歳の舞を舞ひをさめる時を見計らつて、「鶴亀の風流」といふものが、挿入せられることが、昔はあつたのである。つまり狂言方の為事である。この風流と称する物には、このほか色々あり、また出端も区々であつたが、今は話が小うるさくなるのを避ける。野々村・安藤両氏の狂言集成本によつて、咄して行くと、して(鶴)つれ(亀)前後になつて、一度に出る。
一声二人「亀は万年の劫を経て、鶴も千歳や重ぬらん」
千歳「あら奇特や。是へ鶴亀の現れ出でたるは、如何やうなる仔細にて候ぞ」
「その事にて候。唯今、千歳ふるの次第に、鶴は千歳ふる君はいかゞふると候ほどに、其縁により、かゝるめでたきをりなれば、これまで罷り出でゝ候」
それから、千歳と亀との問答があつて、鶴亀に舞を促す。
二人「千歳ふるの縁に引かれ、/\、緑の亀も舞ひ遊べば、丹頂の鶴も飛びまはり、今このところに、一千年の齢を授け奉り、是までなりとて鶴亀ともに千歳ふるにお暇申し、千歳ふるに暇申して、海中さしてぞ帰りける」
これが、まだ三番叟も座に直らぬ間に行はれたのである。つまり、千歳の祝言を脇で聞いてゐた形で、即興的に出で加はる、仮装の喜劇があつたわけである。われ/\上方で生れたものが、幼少のをりに見馴れて来た祭礼時の「俄ぢや。思ひ出した」と呼ばりながら、咄嗟の思ひつきらしい即興劇を演じて廻つた、あれによく似てゐる。即、まだ演芸として舞台に登らなかつたにはかにそのまゝだといへばわかるだらう。江戸末期のにはかの種本といふべき風流俄フリウニハカ、俄天狗類の書物には、かういつた上品ぶつた物もまじつてゐる。
私は、にはかや、また「風流」なるものゝ成立を説かうとしてゐるのではない。「鶴亀」なる能が、どうして出来たらうかといふことを考へて行くうちに、そのほかの能にもおよそこれと似た径路を通つて成り立つたものゝあることに、気がつかれようと思ふからであつた。つまり、かういふ「翁」に附属して行はれた色々の風流が、能見衆の人々に段々人気を博して、今度もあれをといふ風に、所望せられると、何時かはそれだけが独立したものとして、舞台の上の番組に加へられるやうになつて来る。そのをかしみが勝つて、卑俗であり、また写実傾向が深くて、世話物じみたものは、所謂「能狂言」の方に所属させられ、その古典味が勝つて、笑ひを催す実感の欠けたものは、次第に優雅化せられて、能楽の領分に這入つて行つたものである。かういふ能と狂言とは、古くからはつきりと対立してゐたやうに見えようが、実は一つの物が次第に、両方へふるひ分けられて行つた次第なのである。後々まで残つたこの「鶴亀の風流」の類のものは、勿論、能・狂言分離後の形であらうけれど、これと同じやうな事情で、しかも能楽草創期に幾多の曲目が出来て、それが二つの部類分けせられて行つたことは察せられると思ふのだ。能楽は、その以前あつた幾種とも算へ知れぬ所謂猿楽の本流となつた。さうして、長く猿楽能で通つてゐた。その新猿楽の本芸とも、表芸ともいふべきものは、春の初め或は農村諸行事の開始を祝福する意味を持つた「翁」であつた。この「翁」から種々の能芸が分化してゐる。「脇能」ともいふ「神能」が、その第一出発点にあるものであつた。こんなことも、実はもつと/\詳しい論理を辿つて行かねば、ほんたうには呑みこんで貰へないのであるが、今は荒筋しか語られない。
「翁」の所作や詞章の意義を再演し、解説するといつた「脇能」のほかに、かういふ風に何時でも勝手に、登場して、即興的な「口上や茶番」のやうなこと、舞踊を行つて行くものがあつて、それが今いつたやうに、猿楽能の発足点の一つを作つたと見てさし支へはないはずである。
鶴亀風流の場合でいふと、これが直に能の鶴亀になつたとはいへないまでも、「鶴亀」自身は、恐らくこれと同じやうな過程を以て成立したものと考へることが出来る。殊にそれが単に「舞」を行ふための言ひ訣に出来てゐるに過ぎない構造であるところから見ても、さういふことはいへると思ふ。風流といふ以上、人目立つやうな仮装を凝して出て来たものであらう。鶴亀風流と似たらしいものに「仙鶴風流」などいふものもあつた。恐らく丹頂の鶴が仙家の使ひ、といつた意味で出て来るものであつたと思はれる。或は「松亀風流」などいふ曲目も名は伝つてゐる。同じ鳥にしても、鳳凰風流などいふのがある。「仙人風流」「蒼頡風流」「青龍風流」などいふ名目を見ると、如何にも、能楽をずつと高尚にすることに役立つた先進芸能なる延年舞の風流の影響の、残つてゐたことが思はせられる。しかもまた、「春日風流」「住吉風流」「布留風流」「相生風流」などいふ題目を考へると、皆がさうでないとしても、その中には神能と深い関係を持つたものゝあつたことが思はれる。その一方、前にもいつた通り、狂言に這入つて行つたものもあつたことの想像出来るものがある。「毘沙門風流」「餅風流」「蟻風流」その他、福神風流、三面風流などは、今も狂言に、それと同じ系統のものと思はれる曲を考へることは出来る。
鶴亀の謡によつて、小口を切らうと試みた鶴の物語の計画が、唯それだけでもう、許された時間を費したことになつた。だから、ほんの目安だけを並べて、私のいはうとした考へに対して、責任を塞いで置きたいと思ふ。鶴亀と熟して、長命延齢の禽虫の標本と考へたのは、漢土伝来の信仰であるが、それが勢ひを盛り返して来たのは、福神信仰の隆んになつた室町時代であつたやうである。その頃すでに、支那では亀に対する考へ方があまりに廃頽的享楽を聯想させることになつてゐて、紳士としては、口外を慎まなければならなくなつてゐたでもあらうが、彼土の旧時代の文化を為入れたまゝの我が国では、亀についても依然、鶴と並べて好しい聯想ばかりを持つに過ぎなかつた。それで勿論、芸能以外にも、さうした信仰は失せることなく、今まで続いて来た。だが、さうした漢土の信仰といつたものを受ける土台になつた日本の古代民族信仰に、幾分でも鶴亀延年の思想があつたかといふことが、実は本題になるはずだつたのである。
所謂「たづ」の中には、勿論「つる」も這入つたけれど、「たづ」は必しも、後代の我々の考へる「つる」の類ばかりでなかつた。必高行く翅を持つて身は大きく、色は白かつた。必しも、近代の考へに上り易い脚の長いことが「たづ」の資格でなかつた。だから、その中特に、「脚高たづ」に限つて「あしたづ」といつたのだといふことを述べるつもりも含まれてゐる。今年の詠進歌などにも、幾百幾千とよみ込まれるだらうあしたづなる語は、蘆叢にゐる鶴でないことは勿論、丹頂鶴でもなさゝうだといふことがいへれば幸ひであつた。さうして最後にとつて置いた問題がある。日本民族共通の信仰の楽土常世の国に住む鳥で、人間の魂を保管して、搬び来り携へ去る白鳥が、古代人の考へた「たづ」であつた。霊魂の身に這入ることが、生命の初まりでもあり、復活でもあつた。その魂の鳥なる「たづ」と、鶴(カク)、鵠(コク)と結びついて、長命の鳥といふ考へを育てゝ行つたことは、読者の方々にとつても、考へ難くなからうと思つたのであつた。





底本:「折口信夫全集 21」中央公論社
   1996(平成8)年11月10日初版発行
底本の親本:「折口信夫全集 第十七卷」中央公論社
   1967(昭和42)年3月25日発行
初出:「大阪毎日新聞」
   1935(昭和10)年1月4日
※初出時の表題は「たづが音」です。
※底本の題名の下に書かれている「昭和十年一月四日「大阪毎日新聞」」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:フクポー
2018年12月24日作成
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