日本芸能史といふこの課題の目的に答へることが出来るか、どうか訣りません。或は雑駁なお話になるかも知れません。
最初に芸能とはどういふ意味であるか、といふことに就て、私らの見るところを申上げたいと思ひます。大体「語」といふものは、実感をもつて使つてゐる間は、定義によつて、動いてゐるものではありません。使つてゐる間に語が分化して来て、そこで始めて、定義づけてみようといふ試みが行はれるのであります。
我々は芸能といふ語を使つて来、また或点まで、その意味をこまやかに掴んでゐるつもりでもありますが、最近の芸能といふ語の使ひ方には、少くとも二つの中心があつて、その為に、どちらつかずになつてゐると思ひます。而もその間には、調和の出来ぬやうな二つの点に、芸能といふ語の意義が立てられてゐるやうであります。その一つは御承知の通り、今日普通に教育の上で言はれてゐる「芸能科」といふ、あの芸能といふ語の使ひ方であります。この種のものは、我が国に於て従来使はれなくもなかつたでせうが、あのやうに世間話に使はれた例は、なかつたやうに思ひます。つまり、芸能科の芸能といふ使ひ方は、シナの熟語としての芸能に近いもので、いはゆる「芸と能と」というた、従来の辞典式意義を感じてゐるものゝやうであります。
シナにも勿論、史記其他に、芸能といふ語の使はれてゐる例は、尠くないやうですが、従来我が国に於ける芸能といふ語の使ひ方は、さうしたものとは、違つてゐたやうに思はれます。私共の知つてゐるものでは、「兵範記」の仁安二年十一月の条に使はれてゐるのが、一番古い用例であると思ひますが、恐らく、もつと古くから使はれてゐるのに違ひありません。
つまりこれは高倉天皇の御宇ですから、平安朝の末になる訣で、従つてこの語は、もつと溯れることであらうと考へられます。それから後には、「吾妻鏡」にも、あちらこちらに散見しますので、鎌倉時代に熟して来て、盛んに使はれるやうになつたと見られます。一時代一つづゝ拾ひあげるといふのもをかしいのですが、吉野朝の頃になると、辞書に出て来ます。後花園天皇の御代に出来たものと考へられてゐる「下学集」に出て来ますが、この辞書には芸能に関する部門があります。
その中には、純粋の日本語に当て字をした字も、大分あります。従つてこのやうに辞書に使用されたのだから、芸能といふ語の意義は、「下学集」あたりから始めて考へるのが、具合がいゝやうです。
元和版の「下学集」をみますと、芸能に当るところが、「態芸門」と書かれてゐます。これはつまり、芸能といふ語を逆にしたものだと思はれますが、ところが元和版の信用出来ないのは、その最初の目次の部類分けの名称は、「芸態部」といふ風な書き方をしてゐることであります。昔の人は文字を書くのにも、新しく書き代へる時にも、かなり不注意でも通つてゐたのだといふことが、かういふことからも訣ります。そこでその「下学集」の態芸門をみても、驚くことには、非常に分類のむちやくちやになつてゐることであります。その点から少しお話してみませう。
この態が略字になつて能となつたと見られることであります。だから正しく云へば、能芸でよい訣です。譬へば、宮廷の
そこで、能といふのは字はさうなつてゐるが、この能といふ字からは、芸能に関聯した意義を抽き出すことは出来ないのです。つまり、それは、シナの辞書・文献を調べてみれば、どんな意義でも、豊富に抽き出すことが出来るでせう。
だがさういふことは、学者のする遊戯に過ぎません。世間に普通行はれてゐる語は、そんなに珍しげなものではないのです。だから、普通の意義を見てゆかなければなりません。ともかく、芸能といふ語を芸態といつた時代も、能といふことを態といつた時代もあつたと考へられますが、それが何時の間にか能・芸能、といふ語が普通なものになつて来た、とかういふ風に見ることが出来ると思ひます。
古い学問といふものは、何事も分類が不正確で、「下学集」の態芸門を見ても、譬へば、その中には、風流・早歌・曲舞・
その同じ態芸門の中に、すました顔で芸能といふ語が載せられてをり、その中には大嘗・忌部・綸旨・除目・月俸・碩学・堪忍・大手搦手・野心・籠居・婚姻といふものまでも、這入つてをります。つまり、分類が雑然としてをり、どこにその中心があるのか訣らぬやうに見えるが、だからといつて、態芸門の芸態が、他の意義をもつたものでなかつたに、違ひありません。
たゞ昔の人のふつゝかな分類法が、色々のものを、中に処置するといふことなのだと思ひます。そして配列の位置からいへば、上の方の方々に関係あることの語が、先の方に出てゐるが、ともかく、この態芸門に於て芸能に属するものは、略かういふものだといふことは、現れてゐると思ひます。だから態芸門といふのは字はさう書いてゐるが、態を「のう」と読ましたのかも訣りません。而も分類の中で書いてゐる「のう」は能となつてゐるが、芸と能とを特に語つていふものではないのだと思ひます。
そこでそれはものまねといふことになると思ひますが、これは現代の語で言へば、演芸といふ語になるのでせう。即、私共は、芸能といふ字のさういふ組み合せで表されてゐた範囲をば、大体現代の人のいふ演芸といふ範囲と、同じものだといふ風に考へます。或はもつと猥雑な要素をもつてゐるかと思ひますが、演芸といへば、大体芸能といふ語のもつてゐる内容が、あまり間違はない程度に訣つて来ると思ひます。
次いでこの芸能史といふものを話します前に、まづ申さねばならぬことは、果して芸能史といふことが、普通の歴史のやうに何時代々々々といふ風に分けて言へるか、どうか、といふ問題のあることであります。
実は、芸能の行はれてゐる範囲は、非常に広いことではなく、日本全国としますと、芸能の行はれてゐる所と、行はれてゐない地方があつたに違ひありません。
つまり芸能を見たくても見られぬ地方が、昔からあつたに違ひないのです。ところがさういふところに芸能が行くと、今まで入つた芸能が多少その形を変へつゝ残るといふこともあり、或は保存する力がそれ程ないやうなところで、偶然に古いものを残すといふこともあります。
だから譬へば田楽といふものにしても、鎌倉時代にはどういふもので、室町戦国時代にはどういふ形になつた、といふやうなことは、ほんたうはいへないのではないかと思ひます。何でも概括的にものを言へば、学問だ位に考へる人もあるが、さういふ風に考へるとすれば、日本の国の芸能には当て嵌りません。
おなじ田楽で言へば、あるところでは、古い田楽の形を濃厚に残してゐるかと思ふと、ある地方では、非常に崩れ散乱しかけてゐるといふことが、時を同じくして、見ることが出来るのです。それでも田楽となると、はつきりしてゐるが、他のものでは、一層そのやうなことが、言へなくなつて来ると思ひます。だから、おそろしい程古い形を残してゐるかと思ふと、こんなものがと思はれる程変化してゐる場合があるが、これが日本全体の芸能の形かも知れません。
従つてさういふものを掴へて来て、申楽・田楽を考へてみればかうだといふことは、言へば言へぬ事はないが、ほんたうではないと思ひます。
つまりほんたうの意味で、芸能史といふものを語ることは、出来ぬのではないかと憂ふるのです。併し個々の一々の芸能については、時代との関聯において、その進んで行き退いてゆく行き方を掴へることは出来ます。いづれにしても、一般の歴史の如き意味の芸能史といふものは、ほんたうの意味で考へることは出来ぬわけなのです。
だから厳格に申しますと、芸能史は、民俗学風に扱つて行くより外に、方法はないのではないかと考へられます。つまり我々にとつては、或時代にかういふ芸能が、かうなつてゐた、と言ふことは望ましいが、同時に、その芸能自身が、どういふ形で進退したか、とみることを以て満足する外ないかと思ひます。
恐らくその外に、芸能史といふものゝ掴み様はないのではないかと考へます。我々の先輩、或は同輩の中でも、譬へば高野辰之さんや、猿楽を発生風によい体系を示された能勢朝次さんは、いはゆる歴史式に扱つて、或点まで成功せられてをります。
これは、根本は、都が芸能の中心であつた、といふことであります。つまり結局平安の都を主にしてみてをるといふことです。勿論京都に於ける芸能の変化については、時代区分的な見方も出来ませう。その点において失敗してをりません。
併しそれから一歩出て、範囲を広めれば広めるほど、さういふ立場は、失敗に帰する
併しさういふ不平を言ふ学者があるとすれば、それは学者の方が、古い方法しか知らぬのです。ともかく芸能史といふ以上、一地方の個々の芸能を時代区分式に見るのでなく、日本全体に渉つて、芸能をみるのでなければならぬでせう。
さうなると単に、従来の歴史式な立場からみることは、不可能になるのです。さうは申しますものゝ、私共のしてゐることは、高野さんや、能勢さんのせられたことよりも、多くの材料が用意してあるといふ訣でもありません。貧弱な材料を料理しながらしてゐることですから、或は空想や、独断に似ないとは言へません。たゞ、かういふ考へを出発点として、今後のよい芸能史が出来てもらひたいと言ふ存念から、この乏しい試みをして来たのであります。
何事も発生学風に研究して行くことであります。その態度からは芸能にしても、最初から何かはつきりした目的を有つて出て来たと考へることは、間違つてゐると言へるでありませう。むしろ最初は、目的はなかつたのでせうし、或はあつたとしても、現在の我々の考へてゐるのと全然違つた目的から出て来た、といふことが考へられるのかも知れません。
文学を例にとりましても、現在の文学に対する我々の考へるやうな目的を以て、文学そのものが最初から出発して来たといふことは言へません。つまり目的が、次々に展開して来てゐる、と考へなければ、文学のほんたうの発生も発展も、訣らぬと思ひます。而も芸術味の深い文学でさへもさうだとすれば、どちらかと言へば卑近な、猥雑味を交へ易い芸能といふ側になると、その目的は容易に把握できるはずではなく、単純に発生の目的をかうだと決めてかゝることの、危険は極りないのであります。
だからこの点については、どういふ機会に芸能が生れて来てゐるかといふことを先、考へてみることが適当であらうと思ひます。さうすれば、芸能の最初の目的も、おのづから訣つて来るか、と考へられるからであります。
平たく申しますと、芸能はおほよそ「祭り」から起つてゐるものゝやうに思はれます。だが、このまつりといふ語自身が、起原を古く別にもつてをりますので、或は広い意味に於て、饗宴に起つたといふ方が、適当かも知れません。つまり宴会の形において、まつりが行はれてをりましたが、まつりの形自身も世の中が進むと共に変つて来たのです。現代人はまつりといへば、社々に行はれるまつりしか考へうかべぬ様にさへなつてゐますが、昔のまつりは、もつと家庭のやうな、雰囲気と感情と、人間とをもつてゐるところから出来てくるのであつて、決して始終森閑として何にもないところにまつりが行はれてゐたといふ、天狗祭りの様なことではなかつたのであります。
譬へば一軒の家の中に、時を定めて非常に盛んなる饗宴が催される、さういふ時に、既にある形に達した芸能が興つて来たものだ、といつて大体差支へないと思ひます。
前に芸能といふものは、漠然と演芸式なもの、といふ風に限つておきました。つまり、どんな芸でも芸能となり得ぬものはない、といふことが言へるわけです。古い時代の芸は、芸能になれるやうなものだけであつた、といふことなのです。
それだから文学などゝいつて、やすつぽい宗教文学が行はれてゐたといふことにもなるのでせう。つまり、演劇・歌謡・曲芸・武技・相撲等といふやうなものが、すべて芸能になることが出来るものをもつてゐます。さういふものがどうして出来て来て、どうして別々の領域をもつやうになつたか、といふことを申上げてみたいと思ひます。其が此話の目的です。
前に申し述べた様な意味のまつりにおいて、つまり神様が出て来られなければ、まつりにはならぬのです。その点教育を受けたものが一番不幸で、神様の現実にゐられぬまつりなるものを感じてをりますが、かへつて教育を受けぬ人には、まつりには神様がそこに来てゐられるといふことが信じられたのです。つまり、教養のある者は、空つぽのまつりを祭りだと考へてゐるのです。此はよくないことです。
今日はそれが普通のやうになつて来てゐますが、茲にはこの点について話すつもりではないのだから、略しておきます。ともかくまつりには実際に、神様が来られるものと信じてゐた時代の話です。それがある一つの大きな家だといふことで、推察して頂きたい。そして、もと芸能とすらも感じてゐなかつたものに、だん/\一つの目的が生じて来ますが、同時にまた、その目的観が芸能を次第にまとめ、つくり出して来ることになります。
その目的観をもつて来る動機から、先、考へてみなければならぬと思ひます。いつたい目的を生ずるといふことは、その前にある動作が固定して来なければならぬ、つまり習慣になつて来なければならない、といふことでせう。そしてその習慣を繰り返してゐるうちに、それがどういふ訣で繰り返されてゐるかといふことで、その目的を考へて来ることになるのです。さうしてその目的らしいものをとり出して来て、今度はその目的に合つたやうな風に、だん/\芸能の形を変へて来ます。謂はゞ変改されて行く訣です。つまり、まだ芸能といふことが出来ぬ時代ですが、それが形式化し固定し、儀式の上に出来て来ます。――儀式の中には勿論、芸能化せぬものもある。――儀式が芸能だといふことを、あやしくお感じになられる方があるかも知れぬが、我々のもつてゐる芸能は、皆さういふところを通つて、今日に至つてゐるのであります。それはともかく、かう言ふ儀式を繰り返してゐる間に、熟練して来て批評したり、鑑賞したりする自由が生じる訣です。そして、儀式をどんなに巧みに行つたか、否か、といふことが、批評や鑑賞を生み出す根本になります。
さういふ風になると、儀式は次第に芸能に変つて来ます。つまり儀式を行ふ為に、練習といふより訓練を受ける機会が多くなり、更に芸能になると、それが演出する人の監督によつて行はれる、といふことになつて来る訣なのでせう。儀式の時代には修練を指導する人は必要であつたが、演出するといふことはない訣です。
そこでこれを引き延して考へて見ますと、かのまつりに、遠い所から神様が出ておいでになる。更にいへば、ある晩を期し、いつも必、ある大きな家へ遠来の神が、姿を現される、といふことになりますが、其際、沢山の伴神を連れての来臨の場合が多いのです。
そこでその家の主人が、その来臨せられた神達を饗応することになりますが、その主となる神がまれびとなのです。つまり、
そして饗宴が行はれる訣ですが、やがてその神が立つて、めい/\定つただけの儀式的な舞踊のやうなものを行はせます。と同時に、この時に歌謡なり或は詞章を唱へるといふことも、あつたに違ひない。我が国の後世の宴会には、この形がよく残つてゐます。この来臨の神の行動と共に、主人側から舞をまひ、謡ふものが出て来るといふ順序になつてをります。これは恐らく主人側が先で、来臨の神の方が後と思はれるが、この点はまだ、はつきりと申されません。
これは饗宴に現れて来る神を中心とした儀式の輪廓の想定ですが、そこへ出て来た神々が、謡つたり舞つたりするといふことは、簡単なことではないので、根本には必、指導者が居て教養を与へてゐるに違ひありません。さういふ修練を繰り返したまつりの時に、実際は出て来る訣です。その点もつと詳しく神様の姿で申してみませう。
日本の饗宴には、まつりの式とそれから後の違つた目的をもつた酒宴との形が、入り混つてゐます。つまり、新しい形と古い形とが混合して残つてゐるのです。だから、家で饗宴する時は、「
平安朝の日記類には、洲浜といふものが、饗宴に出て来ます。書いてないといふことは、必しも事実がないといふことばかりではありません。かへつてありすぎる平凡の事実だから書かれなかつた、といふ場合のあることも、注意しなければならぬと思ひます。だからといつて勿論、書かれてゐないことを、強ひてあるといふのではありません。
洲浜・島台を置くといふことは、つまり神の降臨せられる処を指定する
そしてこれが、客の中の主なる客です。それからこれについて来るものは、まれびとの
此が我が国の古い歴史にも、まひゞと或はまひゝめといふ形で、出てをります。これは、あるじ側のもので、まれびと側の者ではありません。饗宴の行はれてゐる家に、附属した人間です。と同時に、客神の来られる時に、家の周囲に居るもの、つまり神の下にゐるものがあります。
我が国の古い語でいふと、ものとか、たまとかいふ、つまりでもんとかすぴりつとと謂はれる様なものです。これが饗宴の時に出て来ます。つまり、あるじはまれびとの力によつて、家又は土地に居るところの悪いものを屈服させてもらひたいといふ考へがありますが、その事をまれびとがして行つてくれます。従つて、こゝに於てまれびとを迎へた効果が、十分にあつた、といふことになります。それ故にまた、さういふことをしてもらふ為にまれびとを招く、といふ風になつて来ます。併し、もとのまれびとの側に立つて考へると、それは別なことです。
このまれびとなるものゝ実際は、別に何処から来た訣ではありません。やはり、其村人であつたに違ひありません。唯さういふものゝやうな形で出て来て、そのやうな手ぶりをするだけです。だからやはり普通の人間です。そこで、このまれびとが出て来るのには、まれびと側としては、それ自身の目的があつたのに違ひありません。だから村の大きな家々に対して、ある目的をもつて出て来る、といふことなのでせう。
その目的は、近代で凡、家の人をば教訓する、家人にものゝしめしをしに来る、といふ風に感じられてをります。しかし果してそんな目的で出てくるのかどうかわかりません。ともかく昔から来なければならぬ時が決つてをり、その時期になると、村の一部の人が村から離れて共同生活をし、さうしてそのまつりの日になつて、初めて遠い所から出て来たといふことになるのです。そして其の出て来る時には扮装して来るのですから、村人にとつては、現実の誰それといふことは訣らない訣なのです。
それが近頃まで残つた著しいものでは、極端になると、東北地方に多い、正月の晩に村々の家々を訪れる怪物のやうな、なまはぎなどになつて来ます。それでは唯恐ろしい感情だけが表面に出て来てゐますが、ともかくさういふ風なことを繰り返してゐるから、秘密であるが、村人としては誰それが仮装して出て来るといふことを、知つて来る訣であります。
而も村人の中、男と女とでは相冒されぬ約束で以て、知つてゐる知識があります。だからまつりにはある年齢に達した男だけが外へ出て行つて、さうして村の家々を訪問する訣です。しかし、古い厳粛な形は、一軒の大きな家の中であつたに違ひありません。同時に、村々の家々にさうして臨むといふことになると、それは普通の青年ではなく、相当の経歴をもち、力のあるものもゐるのだから、背後には指導者が居つたといふことになります。ともかくかやうにしてまつりに出て来たものが、まれびとであります。だからまたまれびと側の人数は多くて、主人側の人は非常に尠い、といふことになるのです。併し、さきにも申したやうに、このまつりの傍観者がだん/\と増えて来ます。障子に穴を明けて覗き込む子供達のやうに、羨ましげにまつりの場にやつて来る者がある訣です。だが、古い形では家は皆出払つてゐる訣で、それは場合によると稲の刈り上げまつり・にひなめまつりなどにも見られます。そこでは男は全部出はらつて、女があるじになつてゐたのです。
それは別として、饗宴の形は家の中ばかりでなく、外でも行はれることがあります。つまり庭の饗宴といふことですが、社会的に余り位置の高い家だと、まれびとが庭まで来て、家に上らないといふことがあります。
従つてそこでは、まれびとの位置が低く感じられることです。譬へば家といふことで申すと、宮廷です。宮廷は非常に尊い家ですから、来臨する神は、格が皆低くなります。だから庭で饗宴を受けて帰つてしまふ、といふことになつてゐます。其故にまた宮廷では、御主の代りを勤めるものがある訣です。そしてさうなると、まれびとの低いものが、だん/\来るやうにもなります。さうしてその結果は、その土地の精霊たちが出て来るやうに理会されて来ます。
つまり、非常に大いなる威力を有つ神が来ると考へられてゐたのが、何時のまにかその位置が顛倒して、位置の低い土地のすぴりつとやでもんが来る、といふ風に考へられて来ます。貴族の家、或は寺などを訪問するものは、凡、地位の低いものゝやうに考へられて居ます。
大切な門――中門まで来て、その家に上らずに帰つてしまふといふことも其一つですが、またその庭で宴を受けて帰るものゝ、極一部だけが座敷に上るといふこともあります。これを、私は
さうして饗宴に、来客を主人の居間の方に迎へないで、隔離されたこの客座敷に迎へるといふことを致します。
この泉殿が武家出の貴族の生活に発達して来ます。普通世間に贋物だと伝へられてゐる鎌倉御殿の絵図――鎌倉将軍の住んでゐた屋敷の構図なるもの――恐らくそれは鎌倉御殿の構図とは言へないでせう。それは室町将軍或は其頃の大名の家の構図が、番匠達に伝へられて来て、其中に贋物も出て来たのでせう。幾種類かの平面図が残つてゐます。――の中に泉殿の図があります。それは恰度客殿に対して、平安朝の家の構図から言ふと、寝殿(つまり本殿)というてゐますが、それを武家の屋敷では客殿といふ。つまり其客殿に庭を隔てゝ作り出されてゐるものが泉殿です。これがとりもなほさず舞台になる訣で、泉殿といふものがだん/\舞台に使はれて来たことがわかるのです。
この方は貴族の家で始終使つてゐる訣ではないから、家のまつりの時に用ゐる、といふこと位が関の山みたいになつてしまふでせう。これには神に対して近づきたくないといふ感情もあり、低い霊物を軽蔑してゐるといふ感じも出てゐます。つまり神が或種の妖怪味をもつて考へられて来てゐるといふことです。だから何かわからないが、家のまつりの最初に出てくる神は、凡、皆そんな感じで迎へられるやうになります。
つまり何故来られるか、といふもとの形が忘れられてしまつたのであります。ともかく芸能を行ふものとして、泉殿だけがはつきりと残つてゐます。他のものは大体忘れられてしまつたが、ただ饗宴も開くといふやうな時になると、まつりの形で宴会を開きます。
だから譬へば農村では、田植ゑの特にさなぶりといふやうな時には、田植ゑの後の饗宴――大きな家の田植ゑが済んで後のものを言うたのでせう――でありませうか、また漁師の村が大漁があると祝つたりしますが、さういふ時にほんたうの饗宴になる訣ですが、今はもう神を忘れてしまつてゐるものが多いのです。
つまり田植ゑに田に関係のある神が出て来るので、その神をねぎらふことで、大漁の時には海に関係ある神が出て来て饗を受けられるといふ、そのことが内容を変へ又忘れられて、人間としての横座の客、その他の客を迎へて宴会をするといふ形になつて来てゐるのです。
ともかく我々のもつてゐる饗宴は、たゞの書生の宴会でない限りは、何処かに、神を中心とする饗宴の名残が残つてゐます。のみならず、我々の書生の宴会でも、今日なほ芸廻しといふ風なことをします。これは、地方などに行けば、何処で習つたか訣らぬが、皆それ/″\心得をもつてゐます。
これもまつりの饗宴の際に行はれた「順の舞」の余風でせう。つまり、盃の順の舞です。これは一人々々が別なものを演じなくともよかつたので、ひとつ舞を、順々に舞うたのです。
従つてまた饗宴には、「見物」といふものは、純粋な意味ではありません。近代の生活では、家族が納戸から覗いたりしてゐますが、昔は、さういふものは出はらつてゐなければならなかつたのです。
つまり舞をまふことは、神に背かないといふことを前提としての行為なのですから、そこにはほんたうの見物人はあり得ないのです。後に発達して来た盆踊りを考へてみても、或は現在行はれる畿内近辺の湯立て神楽でも、東京近辺の里神楽でも、東北の山伏神楽でも、出雲・九州の神代神楽でも、いづれもほんたうの意味の見物人はありません。のみならず、そこにはほめことばとか、けなすあくたいの語があります。
ほめことばといふのは、歌舞妓芝居にも、見物の中から、花道・舞台などに上つて来て行ひますが、これは神楽にもある精神です。ともかく現代人は見物を期待しない芸能を考へられませんが、昔の形では、見物はないわけなのです。ところで見物を考へるに二つの拠り所があります。一つは神様が練つて来られるその道筋をみようとする、その時に神と無関係の位置に自分等のゐる場所を考へる。それが地位の高い人の為のさじきです。これは地上を離れてゐるといふ意味をもつてをり、地上から高く置いてある訣であります。だから須佐之男命が八俣大蛇を退治された時に垣の八つの門毎にさずきを結ばれたといふ風に書いてをりますが、要するに、さずき・さじきは、下に起つてゐることゝ没交渉に見て居られるところなのです。唯一つ失敗した例があります。
神功皇后が三韓征伐からお帰り遊ばされてからの斗賀野の

それから「もの見車」といふものが出来ますが、これは移動見物席です。或は平安朝時代の所謂祭(加茂祭)などでみても、祭の行列の練つてゐる処とは、没交渉の場所と考へられたのです。つまりその神様の御出でになるのに行き逢ふと、その年の間に死ぬとか、或は即座に死ぬとかいはれるやうに、ほんたうは家に籠つてゐる筈なのですが、都では早くから、物見するといふことが起つて来てゐるのです。そしてさういふ習慣が、都の場合に多く目に立つたといふことでせうが、神に対する畏れを考へ出してからのことであるといふことも、考慮の中に這入ります。
ともかく、相撲でも芝居でも、もとは野天で行はれたのに違ひないのだから、何処かにさじきが拵へられてある筈です。この上にあがつて、下に関係なく高見の見物をする人、これは又高い位置の見物です。かういふ風に見てゐるものは、その神と神をあへしらふ人との関係だとも、また傍観者だとも言へるが、我々にはまだ解決がつきません。
而も家を訪れるまれびとでも、その家の位置が高いと座敷に上らないで庭で饗宴を受けて帰るものがあつたやうに、それとは違ふが、客として待遇せられない訪問者があります。私はこれを招かれざる客といふ名をつけてゐますが、まつりをすると、羨ましがつて見に来るものがあつて、為方がないのです。つまり特定の神だけが招かれるので、他の下座の神が羨ましがつて、まつりの饗宴を覗きに来ます。三河の北設楽郡の山村に、今でも盛んに行はれてゐる花祭りには、その為に鉄砲を打つて、追ひ払ふといふところがあります。
天狗が出てくるのを追ふためだといふ風に説明されてゐますが、つまりそれはまつりに招かれざる客の来るのを防ぐ為でせう。この招かれざる客は何処でも来るやうですが、殊にそれが屋外の場合には沢山に来ます。盆なども、その年に最近く死んだ人が饗宴を受けに戻つて来る日であつた、と日本風に考へてよいのです。だからその饗宴を受けに来たものが、他の場合と同様に、主人をほめたり、家や厩をほめたり致します。念仏芸にこれが多いのです。やはりこゝにも、無縁仏といふものが、浮かばれずに一緒について来ます。これをまつらぬと邪魔をされるから、やはりまつるのであると思はれます。だから花祭りの行はれる三河の奥地から信州の南部の辺に行きますと、年の暮に正月の神がやつて来るのと前後して、やはり無縁仏みたいなものが来ます。それを村の人々は、饗応せぬと具合が悪いので、まつるわけです。従つて神楽の行はれる場所も、つまり家の中でもあるし、同時に家の外でもある訣で、さういふ所で、一つの饗宴が行はれてゐるのです。後の考へでは、御馳走づきの饗宴です。宮廷の御神楽では
これは劒舞とも書くやうになつたが、もとは舞の間に勧盃の行はれてゐたことから出て来たものに違ひありません。従つて度々酒が出たといふことが、考へられます。さういふものが、つまり芸能の行はれてゐる外に立つて、それを見てゐる訣ですが、これがまた、ほめたりけなしたりするのです。悪態をつくといふことは、江戸の神楽には早くから発達したやうで、文学にまで悪態趣味がつゞいてをり、江戸の文学が低くなつたのは、過度にそれが評価されて、
かやうな訣で、我々は見物の発生をば、まつりの饗宴の招かれざる客から分化して来た、といふ風に見てゐます。ともかく日本の芸能では、初めから見物を予期してゐたかどうかといふことは、非常に問題になります。いはゞ饗宴から出発した芸能は、誰に見せようといふ目的はなかつた。ところがそれをみようといふ目的が出て来てから、見る者の位置が、その間に考へ出されて来た。招かれない客の位置が、だん/\見物を産み出して来たといふ方が、正しいかと思ひます。
その外に、偶然に見てゐたといふか、まつりに関係なく、唯おもしろがつて見てゐたなどゝ言ふことは、それは唯の偶然であるから、芸能史を学問としてみる場合、除外して考へなければなりません。
かやうにして発生して来たとすれば、芸能はどういふ目的をもつてゐたか、といふことは、頗疑はしくなります。
無意識の目的は大体考へることが出来る。簡単に言へば、それは一種の鎮め――鎮魂に出発して来てゐるやうに、思はれることであります。この鎮魂といふことは、外からよい魂を迎へて、人間の身体中に鎮定させるのが最初の形だと思ひますが、同時に又、魂が游離すると悪いものに触れるので、そこに病気などが起るといふことから、その悪いものを防がうとする形のものがあります。
これはシナにも、さういふ形がみられるやうであります。ともかく、威力をもつてそこらの精霊を抑へつけておくことが、家の中のまつりの饗宴の場合に行はれる。これが後に芸能になつたものゝ、通有の目的となるらしいのです。歌を謡ふといふことなども、歌に乗つて来るところの清らかな魂が、人間の身体の中に這入ることに、最初の目的があつたことは明らかです。だから目的は結局一つにしてよいが、二つの目的に対する芸能式の運動が分化して来る。その分化して来るもとが何であるか、そのうぶな形の芸能式の行動は何かといふことを、次に問題にしてみようと思ひます。
前講では、日本の芸能の出発点に於ける目的を申し述べましたので、今回は、日本の芸能の発達する根柢―基礎といふやうな問題について、考へてみたいと思ひます。この前は、鎮魂といふ所で終つてゐますので、話をそれに続けます。
日本の芸能でこの傾向を持つてゐないものはないといふほどの、共通の事項を取出してみるといふことならば、先、第一に挙げなければならぬのは鎮魂と、まう一つ同じに考へられ易い
この二つが一つになり二つになりして、日本の芸能の、凡ゆる部面に出てまゐります。その中の一つ、或は二つが這入つてをらぬ芸能は、考へにくい位であります。譬へば日本の神楽の始めだと言つてゐる天窟戸――我々はあめのいはやどと申してゐますが――の儀礼、或は儀式の中心になつてゐるのは、天宇受売命といふ女性神が
つまり約めて言へば、天宇受売命の舞といふのは、槽を伏せて、その上を踏んだり突いたりすることであつたといふことでありますが、この伏せた槽は大地に見立てられ、大地を象徴してゐるのでせう。それを踏みとゞろかし、桙でつき立て鳴らしたといふことなのです。といふことは、その大地の中に眠つてゐるか、潜つてゐるか、ともかく、その中に籠つてゐると考へられた魂が目醒めて外へ出て来る、さうしてそれを、近くにをられる神の御身体の中に、お送り申すといふことなのだと思はれます。
従つて、これは鎮魂の行事です。また窟戸の中に籠つてをられるといふことも、魂の這入り易い状態に籠つてをられるといふことなのです。
それと同じではありませんが、同じやうに説明出来ることが多いのです。能では場合によると塚のやうな作り物を出し、釣鐘のやうなものをつりますが、その中に人が這入つてゐる間に、神聖な資格が付いて、再現するといふ風になつてをります。
つまり普通ならば、してが橋懸りを通つて楽屋に這入り、後してとなつて現れて来る訣ですが、舞台の上で、作り物の中に入り、籠つて別の形で現れるといふ風になつてゐるものが尠くないのです。又、作り物に這入らず、舞台のまゝで変装する、もの着といふこともあります。
つくりもの及び、その系統のものゝ中に籠つてゐる間に性質が変つてくる、とかういふことになる訣です。これは我が国に古くからある信仰に拠るもので、音も響かない、光線も這入つて来ない所に籠つて、ぢつとしてゐると霊魂が完全に身につくと信じてゐたのです。
須佐之男命が馬の皮を剥いで機殿へ投げ込まれたので、それを見て稚日

即、実際に気を失つたのはわかひるめの命であつたのです。天照大神も大ひるめむちと申上げてゐることに、注意すべきでせう。昔の人の感覚では、之を共感遊ばしたと解してゐたのではありますまいか。あまりのお怒りをしづめる為に、光線も音も届かぬ窟戸の中へ、お据ゑ申さなければならなかつたのでせう。
さうしてそこに籠られてゐる間に、御身体に静かな御心地が来るやうに、鎮魂し奉る、それだけのことが、あの御行事の中心だつたと思ひます。それは、我々の人間の世界でも、昔は年の暮に一度づゝ行つた儀式であつたので、それが物語りになると、歴史性をもつて、考へられて来てゐるのです。勿論尊い神の世界に、人間界で行はれる儀礼の起原を求めたものであります。
つまり毎年年末になると、鎮魂祭の儀式が行はれてをりましたが、その期間には光線も音も這入らないやうなところに、籠られたと思はれます。さういふ儀式があつたところから、あのやうな物語りを生み出した、といふ風に考へられます。
それで、天宇受売命が
つまり踏みとゞろかすことは、悪い魂を踏み抑へつけて再び出て来られないやうにする、といふことにもなります。
それでその抑へつける方は何か、といふと、これは反閇であります。これは力足を以て、悪いものをば踏み抑へつけるといふ形をする、同時に、悪い霊魂が頭をあげることが出来ないやうに、地下に踏みつけておく形です。このことは日本人のもつてゐる踊りといふ芸の中に伝承されてゐますが、このをどりといふ我々の語は、語自身をみると、何の意味もなかつたといふことが訣ります。
つまり下から上にぴん/\と跳び上ることを、繰り返すやうな動作のことを言うた語です。いつたい我々の学問の方法は、比較研究が科学的なたしかさをもたせますが、しかしこれはむちやくちやになると、確実性がなくなります。
我が国に長くゐてろしあに帰つた、日本を愛してゐる学者の一人として数へられてゐるねふすきい氏などは、我々の学問上の友達でしたが、この人は日本のをどりは、めとりに対する語で、女が男を求め選抜する手段で、つまり、男を
つまり、初めは結局無意識の跳躍行動に違ひありませんが、その行動を長く繰り返してゐると、いはゆる一つの民俗の上の行動伝承といふものになつて来ます。そしてそこにおのづから型が出来てきて、その型が更に選択せられて、優秀な型ばかりが残り、芸能化して来る訣です。
この踊りに対して舞ひといふものがあります。これは古い語で、まひの同義語としてもとほるといふ動詞があり、名詞としてもとほりがあります。つまり、めぐる徘徊するといふことですが、舞ふといふことは、いはゆる旋回運動をするといふことです。
そしてやはり無意識的なその行動が、行動伝承になり、芸能になり、更に芸術としての舞ひになるといふ風に、進んで来ます。そしてさういふ風になつて来ると、踊りといひ、舞ひといつても違はない、殆、区別出来ないやうなものになつて来ます。
上方の方では舞ひと言ひ、江戸の歌舞妓芝居では踊りだといふやうに、地方で名称が異るが、併しもと/\同じものだといふ風なことになります。が、それでありながら、現在でも、まだ踊りと舞ひとの意味が、日本では全然忘れてはゐないやうであります。跳躍運動としての踊り、これを昔は踴躍と言つてゐますが、これは宗教的な興奮状態の動作であつたやうです。
そこで舞ひと踊りとは、かやうにもと/\の内容の上の相違が考へられますが、これを又対照的にその目的などを考へてみようとすると混乱しますから、古い語の意味の詮索はこの辺で止めておきます。
さて前に戻りまして、悪いものを抑へつけるといふ動作は、また悪いものを追ひ出す、といふ意味をもつて来ます。後世の風邪の神送り・疱瘡神送り・虫送りといふことが、明治に接近した時代にも並び行はれてゐたが、それらには踊りが伴つてゐました。つまりそこでは、さうした悪霊が踊りに捲き込まれて出て行くと考へられてゐたことです。即、抑へつける意味の踊りが悪霊を放逐する意味をもつて来ます。
で、反閇といふものは非常にむづかしいことですが、これは徹頭徹尾さうした霊魂を抑へつけておく、といふ意味に終始したやうです。只今では反閇といふことは殆行はれてゐませんが、まだ田舎に行くと、この語を残してゐる処もあり、また宗教的舞踊などには、其非常に固定した動作を見ることが出来、尚さういふことを忘れた普通の舞踊の中にも、この要素の伝承されてゐるのを見ることが出来ます。
つまりこの反閇の実際は、精霊を抑へつける、力足を踏むといふことになるのです。だから鎮魂とは、魂をそこに迎へて身体の中に鎮定させるといふことですが、それが游離した魂を招び戻すといふ信仰に変化して来ます。これは日本の古い信仰の歴史の上では、かなり古い時代からあるやうですが、この鎮魂と反閇といふことの間には、区別が立つてゐるやうで、ほんたうは立つてゐなかつた訣です。
つまり、鎮魂も悪い魂を退けるといふことになつてゐるから、さうなると反閇と似て来る訣で、目的だけからでは、両者のほんたうの区別が立てにくいのです。そこでまう少し反閇のことを簡単に申してみませう。
反閇は、日本では陰陽道――つまり陰陽博士のする為事でしたが、だん/\にその博士以下の者もするやうになつてゐます。つまり後には、陰陽寮といふ役所に附属してゐる奴隷(賤民)がそれをやり、また京都で言ふと、昔土御門とか桜町といふ部落があつたが、さういふところから、陰陽師と自ら名告つて呪術を行ふ者が沢山出て来るのです。
桜町・土御門の男たちなどは、皆この呪術を行ふ能力をもつてゐたと言つてよい程です。中には「法師陰陽師」と謂つて、頭を丸めてゐる者なども居ります。そしてこれらの人たちの呪術の一番大事なものが、反閇であつたのです。つまり口で唱へ言をしながら足踏みをする訣ですが、その唱へ言は、大体五字か七字或は九字の漢字を並べた文句になつてゐます。
さういふ文句を唱へながら、中央から四方、つまり五方に向つて同じ足踏みをするといふ訣で、何処からも悪いものが寄つて来ないやうに、この通り力足を以て踏み鎮めてゐるといふ呪術なのです。
これが鎌倉時代には非常に盛んに行はれたやうに、記録の上には現れて来ます。そしてこれから、陰陽師ばかりが跋扈するやうにみえますが、此等の人達は文字の読めない者が多く、教養に乏しい者ばかりですから、つまらなく分化してしまひます。
ところでこの反閇といふ語は、果して陰陽道で伝へてゐたか、どうか訣らぬのです。といふのは、陰陽道は日本で、色々なものを取り込み、綜合してゐるのです。
奈良朝或はそれ以前から、これは行はれてゐたやうですが、シナの信仰或はその他の色々な行事を、陰陽道の人達が掴へて、譬へば天文にしても、其他の
シナで反閇に似た内容を持つ古い語は、「範※[#「車+拔のつくり」、U+8EF7、41-2]」或は「犯※[#「車+拔のつくり」、U+8EF7、41-2]」ですが、まう一つ、夏の禹王が長い間かゝつて治水事業を成し、土地を踏みしづめたといふ由来で「禹歩」といふ語があります。前者がほんたうに反閇であつたかどうかは今のところまだ訣りませんが、禹歩の方は、或は反閇と同じものではないかとも考へられます。そしてこの禹歩が呪禁師の間に行はれてゐたとすると、これは呪禁師の方の反閇であつたといふことになります。しかし、たゞそれだけで、陰陽道にはもとから反閇がなかつたのだといふことは言へません。ともかく、その辺のことは今のところ、何とも訣らないのです。
ところが反閇といふ語は、シナの書物にも相当出て来るのです。譬へば、玉女が天から降つて来て反閇したなどゝ言はれてゐますが、その伝へによると反閇は黄帝の時に始まつたといふことになる訣です。たゞこの語は我が国で非常に盛んに使はれたのであります。そしてこれが日本にはもとはなくて、シナから来たものであつたか、どうかも訣りません。
これは簡単に決められぬことであります。ともかくシナのその禹歩といふものが反閇とよく似たものであることは考へられるのですが、日本にも昔から、シナの影響を受けない以前から、力足を踏んで悪いものを踏み鎮めると同時に、そこから先、家には這入れないといふ方法があつたらしいのです。
日本の場合は、掛声で悪いものを逐ひ鎮めるといふまじつくのあつたことも訣ります。これは警蹕といふシナの語を当てゝゐるものです。平安朝の語ではこわづくろひと言うてゐます。天子様がお出ましになられる時、
従つてまた足で踏み鎮めるといふことも、恐らく我が国にもあつたのだと思ひます。さうしてその我が国古来のものゝ上に、シナの形式ばつたものがかぶさつて来て行はれてゐたのが、それがまた忘れられたのではないか、とかういふ風に私は考へます。ともかく能を見ても、足拍子を踏む場合が度々ありますが、譬へば道成寺の中の乱拍子などは、最適切にいへるものだと思ひます。
これは能ばかりではありません。日本の近代の舞踊をみましても、足拍子といふものからは離れられない位で、日本の芸能をよく観察しますならば、何処かで足拍子を踏まう/\としてゐた昔の約束の伝承されてゐるのが窺へる筈であります。舞台へ出るといふことが、つまり力足を踏むといふ目的をもつてゐたのです。能舞台でも、その他の舞台でも、舞台の下には甕を
而もこれはたゞ舞台ばかりではなく、御殿に畳を敷いたり、或は地上に莚を敷いて其上を踏むといふことがあります。つまりその敷物がその場所、或はその村全体に見立てられてゐるのです。むしろ近世の芸能の上にどうしてこんなに、反閇が印象深く残つてゐるかと驚くばかりです。譬へて申しますと、歌舞妓役者にしても、一番先に役者の役者らしさを鑑定するのは、舞台で両足の指を逸らして居るか、否かといふことです。足の指先が踏む用意をしてゐる、といふ意味なのでせう。
歌舞妓までが何故そんなことをするかと思はれるかもしれませんが、それは別に不思議はないのです。今回の話は時間がないためにこまかいところまで触れられませんが、後でいふ機会がないと思ひますから、此処で歌舞妓芝居の出発する点にふれておきませう。
早くから世間に行はれてゐた幸若舞が非常に成熟して来たのは、室町時代です。そしてこれに代つて、猿楽能が社会上勢力をもつて来ますが、幸若舞といふものは、武士の世界の、古い世話物といふべきものを綴つた台本、舞ひの本をもつてゐるのです。
而も幸若舞は舞ひといひながら、(現在筑前の大江に残つてゐるものを私共は二度ほど見ましたが、)決して舞ひはしません。舞台の上をまひ/\する。徘徊するといふか、斜めに行つたり、真すぐに行つたり、ともかく直線に歩行するだけのものなのです。つまりゆるい旋回運動の儀式化したやうな形なのです。そして此は現代に残つたものだから舞ひを忘れたのかと言ふと、江戸時代の書き上げを見ても、当家では昔から舞つたことはないといつてゐます。従つて幸若舞の舞ひは、普通我々の考へる舞ひとは、違ふのです。舞ひといひながら実は舞はない訣ですから、今の考へでうつかり考へると、舞つてゐる人たちも、不安を起すだらうと思ひます。
我々も実は最初見た当時は、昔は活溌に舞つてゐたのが退歩したのではないかと疑つてみたのですが、どうもよく考へると、さうでもないらしいのです。幸若舞は世の中が下つて、江戸時代になるにつれて、女の
かくて江戸時代になると、まひ/\と言へば女舞のものゝやうになり、女の太夫はたゞのまひ/\で、男の方は神事舞太夫或は神事まひ/\と言ふやうになります。そしてこの女のまひ/\は、江戸の初め、豊臣から徳川に交替する時分に起つて来たかぶきの勃興以後、その勢ひに捲き込まれて合流して来たのです。それでこの舞々太夫は歴史は其ほど古くはなく、幸若は古いに違ひないが、戦国の頃興つて来た代表者が出雲の国の念仏踊で、これが後にはかぶき踊と言はれます。つまりかぶくといふことは乱暴狼藉するといふことですが、そのかぶき踊をすることがだん/\戯曲式な内容をもつて来る訣で、幸若のまひ/\が、凡皆此処に流れ込んでしまふのです。
これが歌舞妓芝居の古い状態ですが、だからもとまひ/\以来伝へた色々な作法がある訣です。ところがそれをだん/\分化させて行つたのが、能に附属させてゐる狂言だつたのです。狂言は歌舞妓芝居のもつてゐた要素ではないので、能のものを整理して、いくらか上品にしたゞけのことであります。
これは能を以て歌舞妓芝居を整理しようとしたこともあるのですが、それは成功しなかつたのです。といふのは、能役者が折れ合つて来なかつたからであります。かやうな歴史があるから、歌舞妓芝居でも、今でも気をつけてゐると、反閇の形式を残してゐるのが訣ります。
話を前に戻しますが、ともかく我が国に於ても反閇の基礎になつたものが古くから在つた、といふことは考へられる訣なのです。
我が国には田遊びといふ芸がありますが、此は語から言つても、田におけるあそびです。遊びは、日本の古語では、鎮魂の動作なのです。楽器を鳴らすこと、舞踊すること、または野獣狩りをすること、鳥・魚を獲ることをも、あそびと言ふ語で表してゐますが、これは鎮魂の目的であるからです。鳥や獣を獲つたり、魚を釣つたりするのは悦ぶためだといふ風に解釈されますが、さういふ生物が人間の霊魂を保存してゐるから、其を迎へて鎮魂するわけなのです。
或は歌をうたふといふことも、さうすることによつて、神聖な霊魂が発動して人間の身体の中に這入ると見たので、楽器の演奏でも、さうなのです。従つて田遊びも、田の上で行はれるところの一つの鎮魂の動作といふことになるのです。今日でも田遊びといふ名称で伝承してゐるところも相当ありますが、それらには勿論色々な芸能が入り込んでをります。
併し、田遊びで最単純なものは、古代に行はれた田

このことも、日本の芸能の著しい事実として考へておかなければならぬと思ひます。それは田楽や、猿楽・歌舞妓となつても、傾向は一つなのです。何か一貫した歴史的必然性で芸能が組織されてゐるかといふと、決してさうではなく、何でもかでも、世間に行はれてゐるものをば、雑然と取り込んで発達して行くのです。いはゞそれは、後世の一つの色物の寄席のやうなものだつたのでせう。
つまり田遊びにしても、田と関係して不思議な力を発揮する芸ならば何でも取り込むといふ訣で、その結果、色々の要素のものが入り込んでゐるのです。そして或地方では、この田遊びを早くから田楽と言うてゐたやうですが、ある地方では一方に田楽が栄え又衰へた時代になつても、まだ田遊びと言うてゐるのです。即、平安朝の末には、都では田楽といつてそれが盛行してゐるのに、地方では田楽地方と田遊び地方とがあつた訣です。
そして鎌倉時代になると、田楽といふ語が一般的になるが、まだ地方では田遊びと呼んでゐる所もあるのです。さうして社や寺に田楽が残るやうになつても、亦現今のやうになつても、まだ田遊びというてゐる地方もあるのです。つまり田楽が世間を風靡するやうになつても、すぐさまそれを田楽といはずに、田遊びと称してゐるわけです。
そこでともかく平安朝になると、この田遊びも非常に変化して来て、新に一つの有力な要素が加はつたのです。つまり、もと寺方に属してゐた
日本の芸能にきらびやかな衣裳をつけるやうになるのは、恐らくこの呪師の芸が初めになるのではないかと思はれます。而もこの呪師たるや、寺方に附属してゐた奴隷に違ひないのですが、この連衆が、寺から更に他家を檀那とする様になつて来たのだと思ひます。
さうして田遊びの分化が始まつて来ますが、楽器なども、前の田遊びの時からもつてゐた腰鼓が、だん/\大きく重いものになつて来ます。そしてその鼓が田楽鼓で、これを略して、田楽と言はれるやうになつて来ます。つまり、田楽鼓を使ふ芸能だから、それを田楽と称するやうになつたのです。同時に楽はあそびなのですから、田楽も田遊びも同じことになる訣ですが、田遊びは田に於て鎮魂を行つたといふことで、はつきりしてゐます。つまり田を出来るだけ踏みつけ、その田を掻きならして田に適当な魂をおちつけ、ぢつとさせておき、立派な稲を作るといふことなのであります。
そして田を掻きならすには

ところで田遊び以前の田に関係した行事が考へられてゐます。演劇と能との関係は後で申さねばならぬが、演劇の昔の伝統を尋ねて行くと、妙なことに他には行かないで、相撲に行つてしまふことです。これは日本の演劇の正当なものなのです。宮廷では七月に相撲の
野見宿禰と当麻蹶速とが争つて、蹶速が踏みくじかれて死んだ結果、腰折田の恩賞のあつたといふことは著明なことですが、昔の相撲とすれば殺されるといふのも、避けることが出来なかつたことだらうと思ひます。この野見宿禰といふ姓は河内国に来てゐますが、大和からは他国に当る出雲の人なのでした。そしてこれは垂仁天皇の時代の歴史になつてゐますが、非常に伝説的な色合をもつてゐるのです。
従つて、その歴史の色合を抜いて考へてみると、結局まれびとが饗宴に来臨して、土地の精霊或はでもんを意味するところの人間を抑へつけ、降服させて行く形になるのです。
蹶速のふみ殺された所は「腰折田」と称して残つたといふことですが、これはその通りの動作がのちまで行はれてゐたところなのでせう。地方に行きますと、囃田とか鼓田とか舞田といふ名称の田があります。それは其処に行つて、田植の時に芸能の行はれる事の意味なのです。併し、これは田植の期間中、芸能をしてゐる訣ではありません。
ある一日に限つて、蓑笠で、手には
内容だけはすぐわかります。つまり隼人の祖先が海水に溺れて苦しんだ状態のものまねなのですが、これが始終繰り返されると、演劇になるのでせう。また天孫降臨の前に鹿島・香取の神が出雲の大国主命の許に国譲りの交渉に降られることがあります。そして大国主命に逢つて話すと、私は異存がないが、二人の子供があるから、その言を訊いて応へ申さうと言はれます。すると其うちに子の事代主神が、
相撲では後では行司が「お手/\」と言ひますが、あれは間違ひで、相撲を取る人自身の言ふ語なのです。つまり「あなたの手を下さい」といふことなので、相手の手を通じて、その魂を乞ふ訣なのです。といふのは、最初に相手の手を握つて、その魂を自分の方に取つてしまへば、それで結局勝つことが出来ると考へたからなのです。それは恋愛でも同じことです。即、古い恋の歌に袖を振るとかひれを振るとかいふ語が盛んに出て来ますが、それを振ることによつて、相手の魂が自分の方へ来ると思つたのでせう。
つまりそれは、相手の魂を招きこふ動作、それがこひなのです。さうして相手の魂を得ることが出来れば、結局それは、自分のものになつてしまふといふことなのでせう。かやうな訣で、だから初めの古い相撲は、勝つ者と負ける者とが予め決つてゐなければならなかつたので、偶然の勝ち負けがあつては困つた訣でせう。といふのは、その勝負によつて一年の収穫の運命が決るものとされてゐたからです。自分の方が勝つても負けてもよいといふことではないのです。つまり「い」村なら「い」の力士によつて、収穫の出来ばえが象徴されてゐるので、「ろ」の村の力士が勝つといふことになると、「い」の村は不幸が結果すると判断されたのです。だから負けなければならない理由は無いのに、負ける場合があるのです。
といふことは、それ自身がひとつの演劇の形なのでせう。併し、それが無くなつて来ると、偶然の勝ち負けといふことが、だん/\興味の中心になつて来ます。だがそれでゐながら、我が国の相撲はもとの意味を全然忘れてはをりません。従つてかやうな占ひの相撲には、利害関係を切実に持ち合つてゐる、現在の隣組どうしが組み合ふといふことは、もとの意味ではないのです。
最初から負けても何でも差支へないやうなものが組み合ふといふことで、つまり田を代表するものと村を代表する力士が出て来たのでせう。といふことは、田の神と村の神との争ひの形になる訣で、村の神が勝つとその年の穀物が豊作であるといふことになるのです。それが後には忘れられて相撲といふ芸能が一人立ちとなる訣ですが、もと/\は穀物の年占であつたので、それは決つた約束通りに、なつてゐなければならなかつたのです。
それでは更にまう少し田遊びに関聯して、日本の演劇の出発点を申してみませう。つまり田遊びがだん/\行はれてゐるうちに、演劇化して行つた訣ですが、ところが田楽が田遊びから出て栄えて来ます。そしてこの田楽も再、衰へてしまひますが、田楽が何故衰へたかといふことは、先その擁護者が疲弊したといふことにあるのです。
田楽は平安朝の末には狐の為業であるといはれたり、後には、また風邪が流行ると田楽風邪があるというた位に、都に盛んに流行します。ところが鎌倉から吉野時代になると、だん/\田楽の人は、溺れてしまつて失敗してゐます。その代表的な人が北条高時なのでせう。だから恐らく武家の有力者たちの間で相当出て来たのでせう。而もその田楽は、色々な芸能種目を内容としてもつてゐるが、その中の最芸能的なものを取つて、独立して来る芸能があります。しかし、さういつたところで、もとの田楽者はやはり田楽を演じてゐるのでせう。つまり田楽役者が全部無くなつてしまふ訣ではないのです。しかしとにかく、さうした田楽の中のよいものを取つて、それ以上に立派なものとすれば、そちらに傾いてしまふのは当然のことです。そして新しく出て来たものはどういふ人たちであつたかといへば、その田楽に於いては平たく言へば脇役者――或はもつと低い狂言方の地位をもつてゐたかも知れぬが――なのです。つまり田楽における相手方をしてゐた、主として滑稽諧謔な芸をば行つてゐた、世間の語でいへば猿楽を演ずる人たちです。
つまり、いはゆる今の遊びといふ要素を考へて来て、それが一つの芸能とされた時に猿楽と言ふ字を以つて現したのでせう。即、平安朝にはさるがうと言ひ、散更と当て、更に中期頃になつて来ると猿楽とはつきりいうてゐますが、その芸は内容は豊富で滑稽猥雑な、目をあけては見てゐられぬものであつたのです。猿楽と言ふ語の起原は長くなるので、説明を略しておきます。
そこで猿楽といふものについて、「新猿楽記」をみますと、これには反閇が這入つてゐることが訣りますが、ともかくこの芸能の内容は、非常に豊富であります。併し、これといつて纏つたものではないのです。たゞ猥雑な滑稽な芸をする役者が、沢山あつたのでせう。今の能は大分変つてゐるのでせうが、ともかく
さうして諸国に田楽が盛んになつて来ますと、その連衆は脇役として、田楽座に附属してゐたのに違ひありません。それは近江とか摂津とか丹波とか、あらゆる地方に行つてゐたのでせう。従つてこの連衆はかなりあちこちにゐた訣で、どこかで芸を演ずるといふと、すぐ地方の者と一処になつてやる、とかういふことになるのです。つまりもと/\が大体独立した芸ではなかつたので、独立して行ふ芸は決つてゐます。
そして恐らく、これは田楽の始まる前から行はれたものでせう。つまり一人の爺さん、或場合は三人の爺さんに仮装して出て来て、その所が繁昌するやうにと、祈祷のやうな語を述べて廻るといふ芸を行つたものらしい。しかし、一方爺さんが田圃に出て来るといふことは、田遊時代からあることなので、その芸はつまり、猿楽役者のする滑稽猥雑なものであつたに違ひないのです。それがだん/\醇化して、能の初めに行はれる翁になつたものと思はれます。そしてこの田楽の中から前に申した、つまり能芸を略した能、即、ものまねが発達して来、それが次第に演劇化して来ます。それには勿論、他の影響もあります。即、前からある寺の芸、つまり延年舞などゝいふものが、随分影響して来ます。それから幸若舞の影響も、既に早くからあつたでありませう。だからものまね芸が演劇化して、だん/\劇的な形式を備へて来るのです。
ものまねは単純なもので、猿のまねや虎のまね、或は男が女のまねや狂人のまねをするといふことで足る訣ですが、それがだん/\世間で面白味を招んで来ると、女の物狂ひなどといふものも出て来るのです。そして能といへば演劇的なものだといふ風になり、更に田楽の演芸種目を吸収して来て、脇方のものが独立して来たのです。
さうすると田楽の芸といふものは、さびしいものになつて来る訣です。評判の重いものが能の方にとられてしまへば、田楽が衰へて来るのは当然のことです。そしてその結果は、田楽と言へば、拍板をすりながら列をつくつて相対したり、円陣を描いて舞ふものだ、と見られるやうになつてしまふのです。同時に田楽の中にあつて曲芸的なものも別に分離して、そこから放下師といふものが生れて来ます。さういふ訣で、田楽は極つまらないものだけが残つてしまふといふことになつたのです。
そして猿楽といふ名称はそのまゝ続きますが、その内容は醇化して来ます。同時に猿楽役者が種々なものを取り込んで、曲目を増して来ます。先、働きかけたのは幸若舞などですが、この猿楽役者の感心なことは、初め頃から筆まめな人がゐて伝書を書いておいたといふことです。
歌舞妓には、伝書といふものが残つてをりませんが、猿楽役者の方は、それをやつてゐるのです。従つて一人の役者が工夫したことは、何時になつても、すぐ他の役者にも利用出来るといふことです。この伝書があつたことが、猿楽を非常に発展させたことの一因になつてゐると思ひます。だから明治の大改革と共に猿楽役者も零落してしまつたが、後日復活して来ると、廃曲の如きも上演出来るのです。其は全く伝書のお蔭で、もしこれが歌舞妓であつたら、恐らく不可能でせう。ともかくさういふ点で猿楽の役者はすぐれてゐましたが、その基をなしたのは、何といつても世阿弥でせう。
以上雑駁ですが、猿楽が独立し、猿楽能が栄えて来る順序を、簡単に申し述べた次第です。同時に一口申し添へておかなければならぬことは、田楽でも猿楽でも座をもつてゐたことであります。これは日本の芸能団の通則なのですが、其を持たぬものも、あるにはありました。座は一つの部落、一つの村を基礎として出来てゐるのが、普通です。
つまり、一つの中心となるものがあつて、いつ集つてくれといへばすぐに集れるやうになつてゐて、それが社なら社、寺なら寺のまつりに出て来て、上演したのでせう。そしてその連衆の、出て来て、車座になつて上演するまで控へてゐる場所、それが座のもとの意味だつたのです。譬へばとびといふものが、さういふ際に出て来て控へてゐるとすると、その座をとび座といふ風に呼んだのでせう。それがしまひには抽象化して、その組の事を意味するやうになつたのだと思ひますが、ともかく村を基礎として、一つの芸能団体を形づくつてゐたものなのです。
これは芸能ばかりではありません。油とか米とかいふものにしても、同業の人たちが控へてゐるところが、何々座といふことなのであつたと思ひます。理由は同じであるが、芸能団体は多少意味が異つて来ます。さうして江戸時代になると芝居小屋が発達して来て、つまり桟敷から舞台を通じてひとつ屋根を蓋ふといふことになつて来ると、座は芝居小屋のやうになつて来ます。それで譬へば中村座などゝいふと、さういふ変化がはつきりしてゐます。つまり武蔵国足立郡中村の勘三郎といふ人のもつてゐた座だといふことで、芝居小屋中村座―猿若座がなくなつても、座といふものがなくならないのです。経済上立つて行けなくなつて、芝居小屋は取り払はれても、座の名前だけは依然あるのです。そればかりではなく、桐座などといふものは、桐大蔵などゝいふまひ/\の座だつたのでせう。従つてこれは始終小屋をもつてはゐないのですが、興行する時にもしない時にも、桐座と称してゐるのです。
併し、ともかく、座といふことを盛んに言ひ出したのは、田楽及び其組織をすつかりとつて現れた猿楽の時代です。それは擁護者である社・寺が、其等の芸人を支配する勢力をもつて来て、それらの芸能団体に呼びかけた関係から生じたところの名前なのです。
今度は日本の芸能の只今までの纏つた形をお話してみたいと思ひます。しかし、我々がみて纏つたと言うても、まだこれから伸びて行くものもあるでせうし、滅びてしまふものもありませう。そこでともかく、我々のところまでゞ一まづ完成した芸能のお話をすることにします。
前講に於ては丁度、田楽・猿楽のことを申しあげましたが、結局我々の国の芸能というものは、それ自身が独立して別の名前を唱へるか、或は独立しても、もと這入つてゐた芸能団体の名前をついでゐるか、さういふ形が区々で、譬へば猿楽といつても、田楽の団体から出たものなのです。だから都合によつては田楽と言うてもよい訣で、猿楽の意識が強かつたから猿楽を称へ、世の中の人もさう考へただけのことです。故にその点大同小異だといへるのです。猿楽が発達する為には別の名前を称へたこともよいが、日本の芸能の上からは大したことはないのです。
話を少し変へまして、日本の芸能では何が一番進歩しなかつたかといふことを考へてみたいと思ひます。それは外でもなく音楽でせう。殊に楽器なんかさうですが、戦国と江戸が交替する時分に日本のものになつた三味線が、一番進歩した楽器でせう。それ以外にも勿論ありますが、日本人のもつてゐる楽器としては、それほど性能を伸ばした訣ではありません。それと同時に、日本人の芸能として、声楽も割合に進歩しなかつたものです。
その点で我々は決して大きな顔は出来ない、むしろ非常に恥しい気がする訣です。それはさういふ才能が乏しかつたことゝ並んで、何でも外のものを無批判にとり入れるといふ性質が働いて、すなほに外来の音楽をとり込んで来ました。ですから割合に順調に進んで来たものと思はれます。けれども何か音楽が育つ為には、それが世の中全体に揃つて受けられなければならないのですが、これはどうも或階級に偏してゐたわけです。
シナ風な或は朝鮮風な或は西域式な、さういふ色合の強い音楽といふものは、貴族でも殊に上流の貴族の仲間から伝統が伝つて、その伝統が幾つもの階級をとび越えて、最低い階級に直接に下りて行く。一口に申しますと、賤民階級(寺・社に附属してゐる奴隷)の仲間に落ちて行きます。
これは音楽に限らない。他の芸能も直にさういふ階級に下りて行くので、さういふ階級に行つてから初めて、花が咲き実をむすぶといふやうに進んで来てをります。そしていづれ、それらの階級の人々が昔の語で言ふといぶせき生活をしたのですから、従つて、わが芸能にからつとした性質をもつて来ないのです。だから外来の音楽が来ない前、日本の音楽はどんなものであつたか、と考へると、非常に残念なことですが、このやうに立派な音楽があつたと指摘することは、殆出来ません。
勿論それを自分等の生活の上に、活して行かうとする努力はしてゐるやうですが、何分行はれる範囲が狭く、且さういふところへ直接落ちてしまつたのだから、遂にそれほど発達しなかつたのです。
源氏物語とかその外の平安朝の物語・日記類を読んでみますと、音楽が非常に発達してゐるやうに感じられるでせう。併し、よく/\考へてみますと、これはさういふ理論式な語など使つて自らを誇つてゐるのだ、といふことなのです。だからそれらのものをみて、平安朝は音楽の黄金時代で、それ以後、進歩しなかつたのだと見ることは出来ません。
或はさういふ単純な見方をする人があるかも知れませんが、そんなことはないのです。その様子を少しばかり述べてみませう。
日本の音楽として考へるならば、それは何としても、声楽の方面から這入つてみなければならないでせう。そこでどんなものが行はれてゐたかといふと、これも或点までみて行くと、わかりません。どうせ律文の詞章があるのだから、謡つたに違ひないと考へられるだけで、従つてそんなに発達してゐたものとは思はれません。それは外来音楽に、直に征服されるといふことでも訣ります。
併し、勿論高いものが必、低いものを征服するとは限らない。いくら高いものでも大衆性がなければ、結局世の中に認められ、広まるといふことは困難なのだから、それは一概には言へません。だが、どう考へてみても、残念なことですが、我々のそれまでの音楽が高いものであつた、といふことは考へられないのです。
歌謡といふものが発達する機会は色々ありませうが、或点まで歌謡が社会に遍満して来たその時代に、どういふ形が行はれて、それで後の歌の理想的な時代が出て来るのだといふと、まづ普通申されます歌垣といふものがありました。これは男と女が両側に分れて歌のかけ合ひをする、つまり一首の歌を一方で謡ひかけると、他方が半分を謡ひかへすといふことですが、また別々になつてかけ合ひをすることもあつたやうです。
これが奈良朝の聖武天皇・孝謙天皇の御代になると、その際に歌はれる歌の曲節が、非常に変つて来たやうであります。歌の文句は日本のものであるが、曲節が変つてゐるといふことです。即、聖武天皇の御代に、都の宮城の正門(朱雀門)の外で行はれてゐた群衆舞踊は踏歌と記し、次代の孝謙天皇の御代に河内の弓削の宮で行はれた時は、歌垣と書いてをります。つまり、在来の歌垣がシナの踏歌の様子をとり入れ、或はとり入れなくとも頗、踏歌の色彩をもつて来た時代でありませうから、言ひ方によつては、踏歌とも歌垣とも言へたのだらうと思ひます。
ところがこの日本へ這入つて来た踏歌は、やがて日本風な形に整へられて来ます。かういふ点が普通日本人の長所だと言はれるのが、一面からすれば、何事も深くとり入れることをせぬといふ弱点かも知れません。それはともかく、この歌垣と踏歌とは、殆同じものなので、名前だけが違つてゐるものであるといふことです。だから宮廷の記録を掌つた人が、或場合には踏歌と書き、或場合には歌垣と書いたのでせう。
併し、踏歌の場合から言ふと、歌垣といつてゐても昔の歌垣ではないので、つまり踏歌らしい部分が多くなつて来たといふだけのことであります。つまり当時行はれた踏歌は、どこからか出て宮廷に練つて参るといふ形で、これは日本の踏歌の為方であつたのです。シナでは正月十五日上元の日、夜を期して道の上を踏んで踊る訣であるから、これは一つの踴躍運動です。踴躍してその力で精霊を地の中に圧服して置くといふ意味をもつた、一種の呪術の意味の深い踊りです。日本の踏歌はそれほどの意味はもつてをらぬかも知れぬが、歌垣の形がかやうな風に変化して来て、歌垣のもつてゐない要素をも含んで来たといふことであります。つまり踏歌の章曲がシナ風の謡ひ方をするものだつたのです。即、昔から行はれてゐた伝統の民謡から、漢文の詩に近いもの、その譜を謡ふものが多くなつて来るのです。それだから踏歌の章曲は唐楽の調子で謡はれたものらしいのです。日本の声楽で唐楽調に謡ふものとして発達したものには、和漢朗詠集、並びに新撰朗詠集がありますが、つまり洋楽の調子で日本語の歌を謡ふ現在の歌謡曲などゝ同じ傾向だつたと思ひます。これは日本の声楽が非常に変化して来たといふことであります。しかもさういふことがあるといふことは、聖武・孝謙天皇の御代に這入つてから、初めて起つたことではありません。
まう少し前から浸潤して来て、誰も不思議に感じなくなつたのでせう。さうしてそれがだん/\流行して来ると、小歌(民謡)といふものは地方のものだから謡ふのに大して気がねもないので、新しい調子で謡ふやうになつて来ます。しかしながら、やはり宮廷の歌として伝へられてゐる大歌の方は、日本流の節で謡つたものと思はれますが、それも平安朝に這入つて来ると、あやしくなります。琴歌譜に大歌が這入つてゐますが、どうもあゝいふものをみると、伝統の日本流の節で謡つたものとは、思はれないのです。だん/\謡ひ方も変つてゐるのでせうが、その点よくわかりません。
ところが小歌の方はどう謡つても構はなかつたのでせうが、小歌と呼ぶべきものゝ中にも、新旧の二つがあります。この古い方は小歌とは申しませんで、
もと/\神楽の一部で、その中で非常にくだけたものが、催馬楽なのです。昔は謡ふ節に意味があり、新鮮味を感じてゐるのだから神楽歌が沢山ある中にくだける部分があり、
歌は前張で申しますと、「さいばりに衣は染めむ、雨ふれど、雨ふれどうつろひがたし、ふかく染めてば」といふ歌が基準になつてゐます。そしてその前張があつて、それの部類分けが大小の前張になつてゐるのです。だからこれから後の歌は酒を飲んで謡つたりするもので、従つて非常にくだけたものになつてゐるのみならず、その中には、内容のかなり猥雑なものもあるのです。さういふものを唐楽の調子で謡つたのだと思ひますが、その謡ふ調子によつて近代の人の気持ちが出てゐると考へられたのでせう。かやうな訣で、催馬楽が神楽の中から独立して来ましたが、その故郷は神楽の大小の前張になつてゐるのです。だからこれは唐楽と註してあつても、当り前のことなのであります。
次に舞踊と歌謡のこと、――どのみちこの話は昔のことばかりを述べるやうなことに終始してしまはなければなりませんから、昔の舞踊と歌謡のことを少し申してみませう。
我が国の舞踊はつまり遠来のまれびとが大きな家を訪れて、その庭で祝福の歌を謡ひ、舞を舞つて行くことに始まつたことは、前に述べた通りです。しかし、それならば歌自身も祝福の意味があつたらうと思はれませうが、さういふものは余りないのです。
日本の歌は直接表現してゐる語の意味ばかりではなく、語の裏に潜んでゐる意味、つまり一つの歌をば、或考へ方の譬喩だといふ風に感じ馴れてゐるから、それをもつと拡張して考へる為には、歌の節も重要な役をするわけです。つまりどんな歌を聴いても、直接の意味の外、その歌が匂はしてゐる意味を感ずるのです。日本の神楽には神を讃美する意味の歌詞がないといふことを聞きますが、これはないのが当り前のことです。神様が出て来られて自らするあそびに讃美歌があるとしたら、どうかしてゐませう。それは神楽といふ概念を全く現代的な意識で考へてゐることから、起る疑問なのです。
この神楽といふものには、随分古く民間から宮廷に這入つたものがあります。と言つても、平安朝の初めから中頃の間であつたでせう。そして私の観測では、石清水八幡に関係深い神楽です。併し、これは幾つもあちこちから宮廷に這入らうとしてゐる神楽があつたのですが、結局這入つたのが石清水の神楽であつた、と思はれるのです。ところが石清水の方でも、それが宮廷に這入つたといふと疑ふ位です。
さうしてこの宮廷の神楽が反対に外へ出て、あちこちの社などに取り込まれるやうになつて来ます。その一つは伊勢の神楽ですが、この伊勢の神楽が、更にそこから諸国へ出て行くやうになります。而もその伊勢神楽自体が非常に変化に変化を重ねてをり、この伊勢を根拠として、後から/\と違つた形の神楽が出て諸国を巡回してをります。
従つてさうして出て来た神楽が、段階式な形で、あちこちに残るやうになつてゐます。といふことは、何れの国の神も音楽が好きであるといふ風に、人々が考へたからでせう。勿論ほんたうは好きかどうか、わかつたことではありませんが、人間が好きなものは神もおすきだといふことになるのでせう。また一方、神の方から音楽が欲しいといふ、要求も出てゐるやうです。
平安朝の頃には神が欲し給ふので、東遊びをお許しになつたといふやうなことがかなり出て来ます。つまり神が欲しがられるといふことは、人が欲しがつたといふことなのでせうが、その東遊びなども、今日の形では、同じやうな神楽で一向にはり合ひのないものです。
併し、昔はやはりよかつたのに違ひないのです。東遊びといふことは、つまり東から出て来てする、神遊びであるのです。これは恐らく、宮廷の神楽よりも伊勢へ行つてからのことでせうが、東遊びが平安朝の宮廷で栄えてくるのです。つまり、東の人が米の初穂がとれると、のざき(荷前)といひ、それを持つて宮廷へ参つた際に神遊びをします。それが東遊びだつたのです。
ところが宮廷でそれを致されますと、京都の辺の社の神々がそれを欲しがられる。そこで社の神々に東遊びをあげるといふことになるのですが、譬へば上皇様が雨やどりをされた夜に東遊びを許された、といふことが頻々と出て来ます。さういふ風に平安朝には神々が音楽・舞踊を欲し給ふといふことになつて来るが、その内容は催馬楽・朗詠・東遊びといつたやうなものです。
勿論、この中には舞ひの伴ふものと伴はないものとがあり、それが併行してゐる訣ですが、この平安朝になると、全然舞ひを伴はぬ歌が出来て来ます。ところがこの外に、まう一つ風俗といふものがあります。只今残つてゐる風俗は、主として東国のもので、少しばかり西の方の歌が這入つてゐます。
これは東遊びと不可分のもので、この中にあつたものが一部外へ出て、風俗と称せられて行はれたといふことです。つまり東遊びといふのは舞踊の名前で、風俗といふのは、その歌の名前であつたのです。従つて、これは古くは風俗といふべきものではなく、東遊びから離れて風俗というただけのことです。この風俗にも舞はなかつたやうですが、歌の調子は唐楽調になつてゐたと思はれる痕跡があります。ところが、その東遊びから独立して、歌謡曲になつてしまつた風俗の外に、風俗と称すべきものが、続々と出来て来ます。
しかしこの
即、諸国の貴族の家などで、鎮魂を行ふ時に唱へた歌だつたといふことになる訣です。だから大嘗祭が行はれる都度、大嘗宮で諸国のくにぶりうたが謡はれたのです。そしてそれが大嘗祭の時に悠紀・主基の土地の歌が奉唱されるといふことになつて来てゐる訣ですが、後にはこの歌が固定して、都の東からは近江或は美濃国、西は丹波或は播磨国の歌といふ風になつて来、新しい歌も作られて来ます。近江の国でいへば、大伴黒主などが新作してゐますが、それは新作してもよい訣でせう。つまり謡ふ節が合ひさへすれば、それで神秘な性質は、依然発揮出来るものと考へられたからであります。
而も新しければ新しいだけ、神聖な威力をもつても来る訣です。大嘗祭の時に用ゐられた歌の題目予定の元暦時代のものが、註進風土記に残つてゐますが、その近江国のを見ますと、歌枕には殆文学の題材だと思はれるやうな地名ばかりが並べてあります。これはつまりその地名を詠み込むことによつて、威力あるその国の霊魂を歌の中に容れ、さうしてその歌を謡つて大嘗宮に仕へてゐると、天子様の御身体に這入つて行く。そしてその結果は天子様に其国を治下になさる御威力が発すると、考へてゐたことなのでせう。都を中心にして西と東の地を選ばれたのも、宮廷が西から東へだん/\進んで来られたといふことから、その後先の順がある訣です。
従つて其後先の一国を選ばれるといふことは、当然に諸国の代表となる訣です。そしてその代表の国々にくにぶりうたを奉らせたといふことになるのです。さうなれば、地方の国々の威力ある霊魂が、すべて聖躬にお入り申す訣です。それらの国々を治め給ふことが、御自由になると考へられたことにあるのです。併し、後には勿論さういふ意味を失つてしまうたに違ひありません。現代では、悠紀・主基の風俗歌は、宮内省の御歌所に属してゐる人たちによつて詠進されるといふことになつてゐます。少しとび/\になりますが、こらへて頂きまして、話を続けて行きます。
宮廷の御神楽に
もつと別なものを持つたことがあるのかもしれませんが、宮廷の御神楽の採り物には、かやうに特に海山を思はせるといふより、平野めいたものが多いのですが、其でも、其一々を山にかけて考へてゐるやうです。鎮魂祭の時の舞ひにも、御神楽と似たやうな採り物が使はれたやうです。だが鎮魂祭の方は、今のところはつきり訣らないのです。鎮魂祭の方は、大和の国に古くから居た物部氏の舞ひなのでせう。ともかく、日本の舞踊には、採り物を持つものが少くないのです。かなでまひと言ふべきものも、後の手をどりも、此為に発達するのです。扇や団扇なども、近代の舞踊でも離すことが出来ないのでせう。あれも翳と言ふべき採り物から出てゐます。
この採り物を持つといふことは、たゞの人でなく、神としての標であるといふことです。人によるとまじつくの道具であると解するが、採り物は神の象徴となる訣であります。つまり鉾を持つのは何の神、杓を持つのは何の神といふ風に、それが神の標のやうになつてゐたのです。扇などにしても、勿論もとは今のやうなものではなく団扇の代用になるやうなもので、譬へば檳榔――くばの葉とか、鳥の羽根とかいふものだつたのでせう。そして扇を持つて舞つた形が勢力を占めて来たといふ訣であります。しかし、扇を持つて舞つたのは何の舞ひが初めであつたかといふことは、我々にはもう訣りません。
前に申した風俗歌の歌はれる際に、餅搗歌も謡はれますが、それと同じものが近代まで続いてをります。いはゆる兎の餅搗きのやうな杵で地べたをつく、杵搗歌といふのが残つてゐます。つまりこれも、精霊を地べたに搗き込んでおくことです。そしてそれが地べたを叩いておくと、地べたが堅くなると解釈が変つて来る。即、自然に新しい目的が生じて来る訣です。これはあらゆるものについてさういふことが言へます。
この地べたをきづきするといふことは後世まで残つてをります。そしてまたこれは一つの芸能のもとになるのです。つまり胴搗きといふ為事です。もとは一人づゝ杵を持つて下を突いたのでせうが、江戸時代には度々胴搗きといふことが行はれてをります。胴搗きをして、そこで皆楽しむのです。そして実際は踊つたり謡つたりする興行のやうなものが、現れて来るやうになつたのです。だから胴搗きが昔の杵搗きになると、よい魂を地べたに鎮定させる、また土地に居る悪い魂を抑へつけるといふことにもなるのです。抑へつけるものは何かといふと、神さまから形の変つて来たもの、つまりたゞの人間ではないのです。そしてそのもとの形は忘れてしまつて、身分の卑しい者の為事になつてしまふのです。
それから踊りの中に、かういふ目的をもつてゐるものがあります。即、踊り神送りなどゝいふものがありますが、これは前講に申した、風邪の神送りなどゝ同じです。そして前に述べた踏歌と目的は別ですが、方法は似たものです。何時頃から行はれ出したのかよく訣りませんが、平安朝に現れて来て、次第に盛んになります。その踊りの主体になるのは、大和の三輪の大神と同じく畏しい神とされてゐた狭井の社の神です。歴史家式に言へば、大物主・事代主系統の神々といふことになるのですが、大和の先住の神さまと言ふことになります。
つまり、恰度春になり花が散る頃になると、だん/\夏が近づき悪疫が流行したり、水が出たりするので、夏になることを怖れて、鎮花祭といふ事を致しました。そしてその鎮花祭の目的とする神が大和の三輪の神、狭井の神であつたのだから、大和に都のあつた頃からあつて、大和の都と共に移つて来た踊りだらうと思はれます。即、舞ひながら畏しい神をば捲き込んで連れ出すといふ踊りなのですが、それは大和の国に於て一番力の強く、畏しい神、いはゞ場合によつては悪疫を流行させるやうなその神々に働きかければそれ以下の精霊たちのやうなものは退散する、と信じてゐたのでせう。そしてこの踊りの中に、昔の踏歌の様子が多少這入つてゐるやうですが、日本の踏歌が道を踊りながら渡つて行つたといふやうなことは、よく訣らぬのです。即、列を作つて練り、渡り止つた先で踊るといふことは訣るが、道を踊りながら謡うたといふことは訣りません。ところが鎮花祭の踊りになると、道をながして行く踊りなのです。
譬へば村があるとすると、その村境まで踊つて行く訣で、さうするとその踊りと共に村の外へ悪霊が出て行く、と考へたのだと思ひます。ところがそれが流行して来ると、村から村へと踊りが続いて行き、やがて一団となつてどこまでも踊つて行つて帰らない者が出来て来ます。従つてさうなると、鎮花祭とは違つた形のものになるのです。
鎮花祭の踊り歌は京都の今宮に残つたものでみると、「花や咲きたるや。やすらへ花や。富草の花や。やすらへ花や。富をせば、なまへ、やすらへ花や」といふ風に、一句謡つては一句囃すといふ形になつてゐますが、この囃し詞を唱へる者は踊りの群衆なのでせう。
そしてこの踊りがだん/\さかんになつて来た時分に、田楽が頭を擡げて来てゐるのです。だから踊りに対する情熱が形を変へて別なものに伝つて行くのです。そしてさういふ風に、次から次へと踊りが伝染して諸国を踊つて行くやうになると、歌の語も変つて来ます。即、「やすらへ花や」というてゐた囃し詞などが「なまへ」といふ風に変つて来るのです。この「なまへ」といふのは「南無阿弥陀仏」といふ語なのです。つまり踊つて/\踊り廻つて行く狂熱が、宗教を生み出して来るのです。勿論、たゞ踊つただけで宗教が出て来る訣ではないが、踊つてゐる中心は神さまにあると思つてゐたのだから、その踊りが雪達磨を転すやうに重り続いて行くと、そこにやはり中心となるものが出て来る訣です。
さうして当時は、勿論仏も神も区別がはつきり出来なかつた時代であるから、低い宗教――つまり踊り念仏の宗教が発達して来るやうになるのです。今日の我々から考へると不思議なことですが、昔の人は、踊つてゐることが恐しい神力の現れだとも、思つて居たのです。この様に、踊りの狂熱から宗教を生み出して来る例は、平安朝から鎌倉の初期にかけて見えるのです。念仏宗といはれるものゝ中で、少くとも二つはかういふ道程を経て出て来てゐるやうです。即、河内平野の融通念仏と相摸の藤沢の時宗などは、かうして出来た踊り念仏であつたので、最初は宗教と言ふほどの事はなかつたのです。踊つてゐる間に、宗教らしくなつて来たのであります。もとは情熱だけの信仰だつたのが、時が経つてから宗教の要素を備へるやうになつて来たのであります。時宗も最初は「宗」の字を使はずに「衆」といふ字を用ゐてゐるので、後の連歌や俳諧をしてゐる仲間と同じやうに、連衆と称へるべき所すらあります。これを以ても如何に日本の踊りといふものが悪い精霊をば追ひ出すといふことゝ共に、中心に一種の信仰の力が保持してをつたかといふことが考へられるでありませう。
更に、これと似た形のもので近代における一つの異風ですが、伊勢踊りといふのが出て来ます。つまり伊勢から出て来て、踊りの群衆が動いて行くのです。何か不思議があると伊勢から色々な啓示が下りますが、さうすると伊勢の国から出るのでせうが、踊り神が踊つて来て、それが諸国をずつと流して行き、従つて日本全国を廻つてゐる間に幾種類もの踊りの群衆が出来て来るのです。そしてその踊りは、その時期がすぎると、けろりとして何にも無かつたやうな形になつてしまふのです。つまりこの伊勢踊りの方は、時代が時代だけに、宗教を生まないで芸能として止まり、明治になる前まで、時をおいては繰り返し行はれてゐたのであります。
伊勢踊りにまで話が来ましたから、ついでに盆踊りについて一言。伊勢踊りが盛んに行はれ出したと思はれる時代から、そろ/\盆踊りが形を整へて来ます。つまり、戦国或はまう少し前かも知れませんが、盆踊りがあちらこちらで由来を唱へてゐますが、この踊りは何といつても、七月の盂蘭盆の時に、墓から精霊が出て来て自分の嘗て住んでゐた村を訪れるといふ形であります。つまり日本人は、さういふ群衆が村の家を訪問して来るといふことになると、どんなものでも一つの形を考へて来ます。即、まざ/\と死んだ人に近い祖先の霊魂がやつてくるのだといふことを知つてをりながら、初春に訪れて来る遠来のまれびとと同じやうに扱ひ、同じことをしに来るものと思つてしまふのです。つまりその来たものは、家の主人や厩や家をほめるといふことをするといふ訣ですが、これは正月の来訪者と同じで、
これは地方へ行きますと、いまだに行はれてゐます。かやうな訣であるから、これは道を歩く形になりますが、それから新盆の家、つまり去年の盆以後死んだ人――あら盆を営む家の庭に入り又座敷にあがつて、その家を祝福する形をとるのです。
それから踊り自身としては、念仏踊りの要素が這入つて来てゐるといふことです。しかし、日本のその後の芸能は、念仏踊りの影響が非常に深いものばかりです。我々が実地に地方のものを見たり、日本青年館の郷土舞踊の会で上演されたものを見ても、念仏踊りの要素をもつてゐないものは、探し出すのに骨の折れる位であつたのです。さういふことからしても、この念仏踊りといふものは、日本全国至らぬところは無いほど、行き亘つてゐたに違ひありません。
従つて日本の民間の歌とか踊りとかいふものは、どうしても陰惨な、わびしい感じを抱かせるものばかりが多いといふことになるのです。これはしかし当然で、それで日本人の生活が陰惨でわびしいものであつた証拠にされては困るのです。朗らかな明るいものを与へれば、恐らくさういふものが出来てゐたでせう。私共は、日本人の生活がそんなものばかりだつたとは思ひません。ともかく盆踊りにも、念仏踊りの要素が非常に這入り込んでゐます。つまり道を流すといふことも、念仏踊りもするが、一つの場所に集つて御経を唱へながら、いはゆる踴躍念仏をもするのです。このことから、歌謡が分化して、円陣を作りながら踊る踊りになつて来るのです。
ところがその外に盆踊りの欠くべからざる要素は、女の人の参加であります。男と女が一つに参加してゐることから、これを歌垣の遺風であるといふ風に考へる人があるかもしれないが、併し、それにしてはあまり時代が離れすぎてゐますし、踊りのかたちなどからしても、何にも似たところはないはずです。尤、似るにも似ぬにも、歌垣は見たものもないのです。
だから歌垣との関係は殆、考へられない訣ですが、たゞ近世のものが往々上代のものゝ要素をもつてゐるといふことのある、その予断から、さういふ考へ方が出て来るのであらうと思ひます。その外にも色々な要素はあるが、念仏踊りと精霊の踊りと女踊り(この女踊りの主になるのは、村の結婚以前の人たちが一个所に集つて、或期間生活する盆がまといふことがあるが、それが村の道を流して歩いたのが小町踊りで、この踊りは現在まだ残つてゐる所もあります。若い女の子が手をつないで道を歩き、或処に行くと円陣を作つて踊るといふことをします。)の這入つてゐることゝ、これも亦純然たる見物がないといふことであります。
音頭にしても、家に隠れてゐるものや踊り子に呼びかける語ばかりです。だから音頭になつて高い櫓の上から見下してゐると、其処に居るものは結局人間ではなかつたのでせう。つまり盆にあこがれて出て来た、近い時代に死んだ祖先たちといふことになるのだと思ひます。だから盆踊りの印象はさういふことを知らぬ我々にも、特殊な感じを残してゐる訣なのであります。
この盆の時分に行はれ始めたものに、「座敷踊り」といふものがあります。遊廓なんかで七夕の時に行つてゐますが、ともかくこの座敷踊りといふものは、家に上つて行ふものです。舞ひそのものとしては、能の影響も受けてゐるでせうが、もとは、民間の普通のものゝもつてゐた踊りであつたらうと思ひます。
此点で、上方の舞ひは凡、出発点が訣るやうな気がします。つまり座敷芸であつたといふことです。ところが江戸の踊りは、歌舞妓芝居に出発してゐるのです。だから江戸の歌舞妓芝居から出た踊りは、歌舞妓芝居にある間は、大抵「
この景事といふ語は「操り」から出てゐる語であります。だから景事と所作事とでは、出た母胎が違ふので、上方の踊りは座敷踊りの単純な形から出て来た訣で、さうして――禁じられてゐましたが――能の真似事や色々なものを取り込んで来てゐます。即、客が太夫共を相手に能や狂言の様なことをしたり、しまひには操り人形のまねをしてをります。ところが一方、江戸においても簡単な人形あそびをするやうになり、それがいはゆるのろま人形となつた訣であります。
かういふ風に申して行きますと、とりとめもない話になり、また種もつきぬ訣ですが、今日の話は、歌謡と舞踊との我々が祖先以来どれ位の為事をして来てゐるかといふことを考へてみたかつたのです。
ところが、かう考へて来ますと、結局かなりはなやかでもあるが、一抹のわびしさを覚えます。他の方面はともかく、音楽――声楽の方面では、寂しいものが纏綿してゐます。従つて伸びて行くならば恐らく、これからのことに属することになると思ひます。そしてそこに新しい努力を感ずべきでせう。
そこでさつき胴搗きの歌のことを申しましたから、ついでに民間の群衆舞踊のことを、今少しく申し添へておきませう。近代の初め、戦国時代が済んで太平の世の中が来るといふ時代に、一番目につくのは、「木遣り歌」であります。山から伐り出した木を、地べたを引きずりながら引き出す時に謡ふ歌であります。この木遣り歌が変化して、職人の街であつた江戸に非常に発達して来ますが、それがどういふ道筋を通つて発達したかといふことは、よく訣りません。併し、ともかくこれは同種類の動作ならば、他のものへも融通せられた歌のやうです。譬へば「石曳き歌」なども名古屋城を築く時に謡つたものだなどゝ言はれますが、やはり木遣りと同じことであります。たゞこれがどちらが早いかといふと、我々には訣りません。いづれにしても、木遣りとか石曳きとか、さういふ労働する時に謡はれるといふことは、労働の動作が連続的でないといふことです。つまり、その歌を謡ふ時は、労働する人は、囃す位で動作を止めて黙つて聞いてゐるといふ訣で、非常に緩慢な動作なのです。そして訣らぬことには、名古屋城石曳き歌には、「わしが殿御はなごやにござる」といふ風に謡つてゐることです。
これは私の殿御が名古屋に居るといふのか、或はなごやといふ人ですといふのか、訣らぬのです。それが人の名であるとすれば、名古屋山三郎といふ出雲の阿国の踊りを助勢した人物のことではないでせうか。ともかく名古屋山三郎の居る時分に、謡はれてゐるのです。だから、何か引つかゝりがあるかも訣らないのです。
それからまた木遣りと似た運動で「
日本の芸能といふものは、もとは芸能としての形をもつてゐなかつたものが、繰り返して行はれてゐるうちに、だん/\芸能化して来ました。即、それは我々が考へる芸能とは非常に遠いものでありますが、次第にさういふものがいくらも出て来て、これが芸能だと見られるやうになつてから、我々の芸能観が出来たといふことであります。
だから、日本人以外の人には芸能といふことの出来ぬやうなものが、我々のこれまでの芸能観の中に這入つてゐると思ひます。譬へば劒術とか柔術なんかも芸能と関係なさゝうなものであるが、相撲と同じやうに発達して来る径路の最初は、同じやうなところに在つたのです。だから相撲なども結局芸能とはなりませんでしたが、やはり芸能として取り入れようとしたこともあるのです。従つてまた柔術とか劒術とか棒術など或はやはらとかとつたりとかいふやうなものでも、舞台の上で行はれると、たちまはりや、とんぼ其他の殺陣芸能を生み出して来た。
劒劇などゝいふものが最近は滅びようとしてゐますが、あゝいふものが親しまれることが、突発的なものでないといふのも、さういふところから理会されると思ひます。だから我々の考へる芸能といふものは、時を同じうして行はれてゐる芸能味の薄いものまでも、芸能と考へようとしてゐるのです。譬へば田楽なんかも、どれだけ演芸種目をもつてゐたかしれないが、猿楽なども五番能を解剖してみたゞけでも、色々な形のものが這入り込んでゐるのです。翁も田楽の中から出て来たものですし、猿楽の中には、猿楽化しきれない狂言を含んで持つてゐるのです。
ともかく田楽の中にあつたものをひき抜いて来て、同じ径路を履んで、同じ一つの能楽の系統のものだと感じるやうにしてしまつたのでせう。また後から出る歌舞妓芝居をみると、もつと色々な要素を含んでゐます。
実は一つに整つた、何処からみても不純物は無いやうに思はれるが、少し分解してみると、とりとめのないものになつてしまひます。つまり歌舞妓でも能でも田楽でも、何れも何でもかでも取り入れた一つの芸能の大寄せみたいなものなのです。だから我々の芸能に対する考へは、まだ自由に動いてゐる時代だといふことが出来ると思ひます。従つて我々が新しい興味を刺戟するやうなものを、譬へば野球・庭球のやうなものからでも発見し、それを芸能の中に取り込むことは出来ることであると思ひます。だから何が芸能であるかといふことは簡単に言はれません。ともかくも芸能といふものは、学問ではありません。シナ人が考へてゐたやうな、美しい、いはゆる六芸に近いやうなものでないことはたしかです。もつと雑然とした、内容の豊富なものであつたといふことであつたと思ひます。たゞ文字を解剖して芸能だといふことは、いくら考へてもよくないことです。
以上芸能の意義と発達について、大要を述べたつもりですが、纏りがつかなかつた点が多いやうです。残念に思ひます。
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「雪」を題とした聯想のゆくまゝの文を綴つて見ようとしたものゝ一部である。別に考証態度を採らうとするのではない。ほんの軽いざつくな書き棄てと見て頂きたい。私などは江戸文学を生活体験から見ようとするやうな形は唾棄してかゝつてゐるので、さうしないことには訣らないと言ふやうな人なら、文学そのものゝ目的が、初めから訣つて居ないのだと思ふ。文学はある生活を実生活と同じ程度に、知識へ持ち来す為のものなのだから。
だがこんな物を出す気になつて読み返して見ると、明治時代の歌謡をあまりに文学扱ひにし過ぎた時代――唄自身の小さな歴史と無関係によがつて居た頃の歌謡論に似てゐるのが恥しい。此は私らの癖で新しい感覚的な文章を綴るに馴れないところから多く来てゐるのである。佐々醒雪先生は、学校でも教へて頂いたし、その著作も相当読んでゐる。
殊に歌謡に関するものでは、俗曲評釈などは、かう言ふ方面の草わけとも見るべきものだから、よく読んでおいた。今になつて、こんなものを書く気が起つたのも、高野斑山翁や、元気な藤田徳太郎さんにお目にかゝらぬ前々からの糸が引かれてゐるのだと気がついた。我流の何の見だてもないものだが、少し地唄本を、めくり返して見ようと思ふ。
上方地唄から江戸に移された唄は随分多いが、地唄も亦屡江戸唄を調べ直したものである。名高い「黒髪」なども、其一つだといふことは、我々が知つたかぶりをするまでもない。
近年若くて死んだ成駒屋福助の脂ののりかけに踊つた「黒髪」は見たさうで、其時同行した者が確かに保証するのだが、私には人の噂の様にしか残つて居ない。まことにたわいもないことだ。何でも、一人でお姫様姿で踊つたものゝやうである。だが黒髪自身の文句から見れば、やはり
黒髪の結 ぼほれたる思ひをば(合)融けて寝た夜の枕こそ、独り寝 る夜はあだ枕。(合)
袖は片敷 く(にかざして)つまぢやと言うて(合)愚痴なをなごの心と(又、は)知らず、しんと更けたる鐘の声(合)ゆふべの夢の今朝さめて、ゆかし懐し。やるせなや。積ると知らで積る白雪。
袖は
独りゐる夜に女が悶えて居るのである。鬱結した思ひを解き放つて心融けあつた夜の枕は、やはり此枕だ。其を今見ると却て怨しい。あの時自分を喜ばして、男は言つた。此袖は此とほり片敷いて寝る。その袖――衣――片敷く衣の褄即おまへを添ひ臥しの妻と思ふと言つて置き乍ら、あゝ其語を思ひ起して愚痴な回想に耽つてゐる女心を考へ知らず。――音もなく、今宵も更け静る夜半の鐘。
此処の合の手からは、気分が一転して寂しい朗らかさが出て来る。其に又、積ると知らで以下に芸謡らしいよさを十分出して居るが、其間の詞章は、しんみりした味ひを逃してしまつて居る。文句を割つて合の手を入れることの外に、合の手から意義の附け足しをすることが往々ある。
此もさうした飛躍点を作つた訣で、変化の上からおもしろからうが、折角の短篇が文学的には内容が無駄になつて了ふ。
今朝さめてとある以上、近代の用法では、夜中や、一番鶏の鳴く頃ではない。実はさうとると、夜中の鐘で目がさめると暁で、雪がしと/\降り積ることになるのだが。
やつと寝たと思ふと、すぐ夜明けで、其僅かの眠りの中に見たのは、来ぬ人に逢うた夢であつた。其を反芻するやうに、心の持つて行き所のない様な恋しさが募つて来る。外では積るとも音もしないで降り積んだ雪が、愈ふり
此なども、芝居唄らしい事は考へられるのだから、「江戸長唄」式の説明すれば、朧ろな点がもつとはつきりする。合の手の間が、舞台での独白があつたものと見ると、続きの廻りくどい所も、なる程と思はれる。併しさう考へるのは無理かも知れない。
雪の夜にしんと更けた鐘の音。此と共通した境遇は、地唄に多く見えてゐる。前の黒髪の作者と推定せられた江戸の
花も雪も、払へば浄 き袂かな。(合)ほんに、昔のむかしのことよ。吾が待つ人も、吾を待ちけむ(合)鴛鴦 の雄鳥に(のイ)もの思ひ羽の、氷る衾 に鳴く音はさぞな。さなきだに心も遠き夜半の鐘(合)聞くも寂しき独り寝の枕に響く霰の音も、若しやといつそ堰きかねて。(合)落つる涙のつらゝより、(合)つらき命は惜しからねども、恋しき人に罪 深く、思はぬ(むイ)(合)ことの悲しさに、すてたうき、(合)捨てたうき世の山かづら。
此は今も
山かづらは歌の文学語としては何でもないが、連歌俳諧の方へ這入つてむつかしいものになつてしまつた。山の朝雲だとするのと、山への段々だと言ふのとがある。だから山蘰とまじめに説くのは却てわるい。世を捨てた身は山かづらを踏む――或は眺める――朝夕を暮して居る。さう言ふ身になつて昔の事を思うてゐるのだ。煩悩を払ひ棄てゝ浄らかな生活に入つてゐる。其心から思へば、まるで昔の更に昔の様な気がする。別れた人は自分を何時又見ることが出来ようと待ち続けて居たらう。今もさうだらうか。思へば外の池水に鳴く鴛鴦の――番ひ離れた――雄鳥のその思ひ羽ではないが、もの思ひをして、寝つかれぬ凍りの蒲団の中で、泣く声はさぞと、鴛鴦の声を聞くにも察せられる。
をりもをり、気も遠くなる様な遠寺の鐘が、さらぬだに寂しい夜半を告げてゐる。其を聞く自分も亦、寂しい独り寝に思ひ出すことのみ多い。此枕上の戸にあたる霰の音も、昔の習慣で、若しや人が来て叩くのではないかと思ふが、其は空頼みだ。非常に胸まで涙のせき上げて来るのを堰ききれない程で、其落ちる涙は寒夜に直に冰つて堪へられない。其つらゝのつらさに絶える命は惜しまぬが、思はれるは、彼の人である。恋しい彼の人は深い咎めを蒙つて、想ひもかけぬ憂き目を見てゐる。其を思へば死ぬるにも死なれぬ。あゝその為に、此世の憂き生活を棄てた山住ひではないか。
佐々醒雪先生は「辛い命はさて惜しくもないが、変らじと契つた人が今更我を思はぬのは、深い罪業ぞと、それのみが気にかゝつて、捨て果てた浮世に、なほ繋念が絶えぬ」と訳されたのは名訳である。殊に「罪深く」を世間風にくだいて読まれて居るのは感服するが、どうもかうとつて、初めてよく通る様に思ふ。棄てられたから遁世したのでなく、女にのぼせ過ぎて罪を犯した男を思うて、女が罪亡しに尼法師になつたと見るが、正しいであらう。霰が
此二つは雪といふよりは、「こほり」と謂つた趣きが適切に出てゐるので、待つ夜、逢はぬ夜、骨に沁むやうな世間の掟・男のつらさに対する女心が出てゐる。さうして、其が詞章の形としてよりも、味が完全に人に受けとられるのは、作者の努力と言ふより、かうした情趣をせりあげて来た小唄の世界に漂ふ気分――具体化せられることを待ち焦れた――に考へなければならぬものがあるのだ。
よるべのない魂魄が
此唄の事は、羽積自身作の「歌系図」にはなくて、却て唄本「歌曲
南妓の用例は歌系図にもある。「南妓明石調」と註した類である。妓と言ふのは、今の人が考へるよりは、昔は広く感じられて居るのだが、安永頃になると、江戸の洒落本に先だつ大阪の「月華余情」「色八卦」の類が続出したらしく、此類の遊び本では、妓の字にもう特殊な使ひ方をもしてゐる。げいこに当る使用が多い。
「
其には、しめのと言ふ妓が出て、唄を謡ひ、頻りに又、唄の事を語る。色八卦にも、「この中、西照庵で、歌を仕たら、砂原の五さいじやうさんが褒めてゞあつた」など言ふのも、島の内の歌妓のかたぎを書いて居るのである。
ソセキと言ふ名は、随分むつかしい名である。島の内界隈の女の名とも思はれぬ。醒雪先生は、リセキと読んで居られるが、一層見識ばつた名に見える。粋がつた人たちの間で通つた称へか、でなければ、尼になつた後の法号などであらうか。
自分等と顔を合はすことの多く、又自ら端唄類を謡ひ又、作りもした女の為に、流石菴が唄を作つてうたひはやらした訣であらう。
唄の題材になつて居る歌妓の生活自体は、咄にもならぬものであつたらうが、かうして纏められて見ると、作者の予期しないあはれが出て来てゐるのである。
廓者の生活は、私どもにはどうも訣らない。夕霧・高尾の心意気など謂はれるものにも、さして興味を感じることの出来ぬ我々が、こんな書き物すること自身、無意味なことだけれど、唄に出て来る発想法の問題は、やはり考へて見ねばやはり日本の「ものゝ考へ方」に一点の曇りが出来る訣だ。
歌系図で見ると、山岡元隣作といふ曲が数種ある。その中、朝妻検校調とある「恋づくし」も一つである。
猿丸太夫奥山に、もみぢ踏みわけ(いよ)鳴く鹿の、妻をたづねてわけ行く恋路(合)かの傾城 の遠山 が、松 の位 も四郎二郎 ゆゑに、今はやりてと身をなす恋路。
短篇だが此で完結してゐるものとも見られるし、も少しあつたものゝ断篇化したものとも考へられる。元隣は江戸文学では先輩の一人で、此人の為事などは、まだ隠れて掘り出されないものが随分あるだらうと想像せられる。ともかく、西鶴も近松も、此人の影響を受けたらうといふことは、単なる想像ではないのだ。
我々が知つてゐる限りでは、近松の「傾城反魂香」にはじめて、遠山が登場して来るといふ風にしか思はれて居ない。だが近松にしても、あまり遠山太夫の描写がづぬけてある成熟味を持つてゐる点に疑ひを挿んでもよい。
土佐将監の娘おみつが、親の為越前敦賀に遊女となつて、遠山と言はれてゐる。名所の松を写しに行つた狩野四郎二郎元信と夫婦約束をして別れ、其に情を立てた為に、方々に売り替へられ、元信と再会した島原では、やりてのみやとして大福帳を手に、数々の鍵を腰にさげて、忙しい身に落ちてゐる。此だけ見ても此唄はわかる。だからと言つて、反魂香以後に出来た唄ときめるのは、少しふくらみのない考へ方ではあるまいか。元より元隣作とも断言は出来ない。だが近松作の反魂香に遠山がある位は知つて居たらうと思はれるのに、尚元隣の作物とした所に、何かゞあるのではないか。だが此とて、人には錯覚もあり、忘却もある。反魂香の遠山を忘れて註をせぬ限りはない。まづ此唄の訳文を綴る。猿丸太夫奥山に……と小倉百人一首に言ふ如く、その奥山に紅葉を踏みわけ鳴き入る鹿の恋もある。妻をたづねて別け行く山路が、即恋路である。其から亦、例の傾城遠山が、高いはりを持つて保つて居た松の位即大夫職も、今は遣り手にまで身を落すに到つた、其も亦恋路である。此も誰ゆゑ四郎二郎――狩野元信――故である。
私は元隣に、熊野霊験を説いた遠山・四郎二郎の物語があつたと見たいのは山々だが、歌系図から、其だけの結果は引き出されない。だが元隣以外にも必、遠山太夫の物語を綴つたものがあるに違ひない。西鶴には多量に、――近松には少分ではあるが、傾城だけは実在人で、其に配した男は自由な空想から出てゐることが多い。四郎二郎も其ではないか。元隣前後に、さうしたものが既にあつたと思はれる。
仮りに遠山・四郎二郎の件を近松の純創作と見ても、問題に残るのは、「反魂香」に出て来る不破伴左衛門・名古屋山三である。此は決して近松の独創でないことは、江戸狂言の初演年表を見ても訣る。此は江戸の芝居からとり入れられたものと見られてゐる。だが此とて、初代団十郎等が、不破に関するすべての狂言の創始者だとはきめられない。更に其先があるやうなのである。此通り先へ/\と、水上は溯られる。一方遠山の事ばかりが、反魂香を最初とするといふ風には考へられるものではない。此処に其推断は書かないことにする。三味線唄に関係が無さ過ぎるからである。
此唄、反魂香を下に持つて居ると見るよりは、其前の形を踏まへて出来てゐると見る方が、読誦して見てもうぶな感じが充ちて覚える。
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これは教場の講義ではありません。芸能学会の前身の会が、数年前一度きり試みた、学術夜講とも、長講会とも言ふべき席上で、はなし続けたものゝ口書きでした。それだけ、学術上のきめの細かさなどゝ言ふものは、薬にしたくもありません。その点恥ぢ入ります。唯、事情が許すならば、この原稿をこしらへてくれた石井・戸板両君の苦労に酬いる意味からでも、念入りに校正の困憊を相わかつべき筈であつたのです。けれども言語に絶したおつくうがりの私は、第一校正刷りが出来てから、半年、いつでも手の這入る様に目の前に揃へて置きながら、一筆の朱をも加へなかつたのです。此はまことに、申し訣のないことで、両君自身は、正に親子のやうななじみを持つてゐるのだから、まあよいとして、第一こんな本でも見てくださる読者には、相すまぬ訣です。本になつた節、さすがの私も、一読はするでせう。さうして、羞恥の為に、まつかになることだらうと思ひます。その事に、今から汗を覚えさせられます。だが、それを避ける為には、一度神経衰弱を新にするつもりで、校正を重ねなければならぬでせう。実は、さう言ふことをしてゐるゆとりが、今はなくなつたのです。本屋の若主人は、方に徴用の紙を受けとつてゐます。活版屋は、この商売の大変革に、もうこんな悠長な組み置き版を、何時まで保持して居る訣にはいかぬやうになりました。それで、思ひきつて出すことにしました。迷惑を両君にすつかり著せよう、などゝ言ふ汚い腹を以てするのではありません。焦慮し易い心わづらひを持つ私は、こんな見きりでもつけさせて頂かねば、一冊の本も出されぬのです。
事実これよりも、もつと労苦を重ねなければならぬ他の本が、昨年十一月に出きつた初校刷りを、そのまゝに、此亦私の机の前の埃にまみれてちら/\ゐるのが見えます。私の芸能史も、こんなことではすみません。其を私が一番よく知つてゐるだけに、将来何時かは、まう少しどうかした芸能史を出すことになるでせう。其砌には、此本と照し合せて、この納得のいかなんだ処に、さてはさうであつたか、と言ふ風の合点もして頂けることゝ思ひます。甚無責任の上塗りをするやうな言ひ方ですが、こんな歴史すら、まだ一部も出てゐぬ日本芸能の為には随筆にすらなつて居ぬ漫筆が、ほんの聊か位は、姑らく後進の芸能史を組織だてる人の役に、立つかも知れぬと思ふ、唯其だけの心細い頼みによつて、一切目を塞ぐことに致しました。
霜月十三日
折口信夫
これを書きあげた後、未練にも、一度だけ校正刷りをつくつてもらつて、走り読みしました。加藤守雄君が目をとほして、どうしても此まゝではいかぬ処を見つけてくれたからです。其で一巡は見たのですが、話の四分五裂の点は、収拾をつけることが出来ませんでした。御判読願ふ次第です。