合邦と新三

折口信夫




昼の部四時間夜興行四時間半、其に狂言が三つ宛。刈りこんでは居ても、のある見物は出来る筈である。其に関らず進度アシの早い感じのしたのは、如何にも貴重な時間だつたと、あの感謝したくなる、歎息のじわを誘はれることがなかつたからである。でも「合邦」に稍其に近いものを、玉手の動きから得た。其に似た感動が起る筈の「団七」「藤弥太」は、さうは行かなかつた。藤弥太は人形ぶりばかりが際立つてよく、かうしてゐる今も目に印象してゐる位だ。だが丸本物の人形ぶりは、どの道一種のけれんであつて、よければよい程反省感を起させる。復善(もどり)の物語から手負ひの殺陣タテに面白みを置かねばならぬ書き方である。台本もわるし、三津五郎の力点の据ゑ方に誤りがある。
「白子屋」の車力善八が頗よく、「江島」の旅商人を、見だてなく書かれた踊り脇役ワキとしての本分を尽して美しい。だが其だけでは、市村座以来の長い三津五郎である。一寸徳兵衛でもつと技倆を発揮するのを予期してかゝつたのだが、颯爽たる味の望まれぬ人だけに、せめて、住吉の殺陣の正確さを採らうか。何にしても、何十年興行師に圧し消されて、発揚せられなかつた本領を、発見させてくれるやうに、此老優に望みをかける。
「団七」(吉右衛門)は、鳥居前がよかつた。床店の二度の出に、きつぱりと来なかつたら、団七を勤める資格はない訣だから、こゝのよいのは、手柄にならない。だが、わるい人もあるのだから、やはり吉右衛門の今度の功と見ようか。但、徹頭徹尾無頼漢の良心に富んだもの、と言ふ理会を失うて居た。此は団七にとつて入門的知識だから、彼が忘れてゐる筈はないが、彼の狭隘な人生観が、まじめになればなる程、大切な主人公を、無頼漢として演出するに堪へさせないのだらう。彼には、頗自然な事だが、其が彼には、征服すべき悲傷癖なのである。肝腎の長町裏は、舅に対する激怒が、この劇の頂上であり、劇的動機であるのに、彼の善良性は、団七の不良性を逸して、九郎兵衛の任侠を力説しようとしてゐる。
吉右衛君は、大阪性の芸質を豊かに持つた人である。団七に解釈違ひなどあるべき筈の人ではない。其があるのは、彼が悲傷癖を征服しきらないからだ。其と彼の名調子に対する自覚を、こゝらで今一往きり替へる事だ。合邦の後段、悲歎に沈めば沈むほど、声の技巧が技巧として、快く奏でられる。空々しいまでに響くことさへある。其が身体表現の誇張の源にさへなつてゐる。合邦は非難ソツはないが、真実味がもつと欲しい。弥太五郎は其点、まことに渾然たる出来であつた。菊五君の新三のうち込むのを、実にがつしりと受けとめて居る。此源七にして初めて成熟しきつた菊五の新三に一刀入れるだけの信頼と喜びを人に抱かせるのである。
菊五郎の権八。「仁」を殺し新しい「仁」を創造する所に、先月の桜丸にも之にも、彼の優秀性が見られる。「仁」にないのを「仁」にするのは、技巧ばかりだと思うてはいけない。此こそ真に「はら」の問題だ。腹から「仁」になりきるのだ。其為には、まづ優人自身満足するだけの様式を整へてかゝらねばならぬ。桜丸にはまづ様式上間然する所のない程、菊五君としては最大の努力で、美しい容貌姿態をつくつて居た。今度の権八には其が足らぬ。此役に馴れを持つた自信が、様式の整頓をおろそかにさせた。まづ容姿に於て、用意を欠いて居た。如何にあづまからげの凜然たるものを発揮せず、且ひわ色の優柔なる媚態を感ぜしめることが少かつたかを見よ。駕提灯に刃こぼれをしらべる件の形は無類だが、菊五君としては当然である。が、こゝは年齢の推定に誤算があると思ふ。此人の権八はあまりの少年のあどけなさと謂つたものを出してゐた。鈴ヶ森の一つの重点となつてゐる雲助のだんまり模様のたて。何時も感じる事だが、かうなつては悪趣味も甚しい。段々山賊とも破牢人とも訣のわからぬ重苦しい扮装が考へられて、其こそ愚かな笑ひを唆る事に努めて来てゐる。此などを思ひきつて斬り棄てる勇気がなければ、歌舞妓芝居は見物から斬りすてられる。醜怪と言ふものはあんなものではない。
「江島生島」は時雨女史の若いあらゆる夢を含めたもの。今見ると整理の足りなかつた所が残つてゐる。そこへ又新しい附加があつて、静かにため息づく島の生活が、煩しいものになつてゐる。此ほど賑やかな島なら、生島も狂乱しないであらう。島の寂しさは、旅を思ふ江戸の商人が痛感して之を表現すればよいので、生島自身は、狂乱に専念すればよい。菊五君は、此狂乱を歌舞妓古来の狂乱と一つにはして居ない。恐らく正気で見るよりも美しい回想の夢を見るのだから、現実感も十分持つてゐるものとして、すべての狂乱から新しい手を出した積りなのだらうが、我々には其ねらひを捉へる事が出来ない。からだを以て解釈し、所作を以て理会させようとする点は、我々よりも、菊五君が、数歩先に出てゐることは勿論だが、之を見物に感じさせなくては、芸術としての力とは言はれぬ。ともかく新しく彼の按舞した身替り座禅の右京、古典舞踊を改修した保名などゝは、まだ/\ひらきが感じられる。舟の場は、菊五君としては唯気分を抜かなければよいので、梅玉に十分振はせてゐる余裕は美しい友情まで感じさせた。江島は菊五郎を向うに廻して所作するだけの力量を見るべきだらう。殊に溶明時における櫂をさした立ち姿、溶暗の刹那の別れ去る姿――更に消え行く悲泣の声――久しぶりに此ほど美しい舞台の泣き声を聞いた。胸のふくれ上る気持ちが今も残つてゐる。
今一役の玉手御前、わが子に半意識の恋を覚えてゐて、之を助けるのに命をかける生きがひを知つた女、さうして夫への心のアガナひに死を以てする女。さう言ふ解釈を以てすれば、玉手は今も正しく生きる魂を持つて来るのである。此人のは、自ら此行き方によつて居る。真女としての本格的な芸をかう言ふ機会によく見ておかう。後半は女武道として書いてあるのだが、此例でも、歌右衛門のやうな賢女鑑になるのを、一間ヒトマはづして演じてゐるのがよい。
菊五郎の髪結ひ新三を書き添へる。永代橋をシンにして見れば、あのいかつさも、無愛敬も正しいものであらう。が、力点を富吉町に置いて考へると、あの二場で性格に豹変がある。勿論後の方が菊五郎らしいよさで、五代目菊五郎に劣つた風情を解釈を以て凌がうとしたと言へる。恐らく先代の新三は、お熊に覚え初めた恋を唯の慾情と位にしか取り扱はなかつたらう。其を如何にも執著を覚え出して、其為心も自ら清純な方に傾きかけてゐる市井の小無頼漢らしく、見てゐて同情を惹く行き方である。其だけ此二場の間に心理に懸隔が生じる。畢竟新三が才三に還元しようとするのである。
若手の中今度は、新羽左衛門の静が優等。但、三味線のたては持ちきれなかつた。薙刀を構へての花道は満点。こうせきも凡、吹き切れたやうで、先代が新旧の木村重成で飛躍したやうに、此も此役を機会に生面を、開くのであらうか。新梅幸のお熊、此頃の台本では、此以上発揚は出来ないであらうが、生彩を欠いてゐると言ふ憾みは誰にも起つたやうだ。併し彼にとつては、今はお熊などが本役なので、此行き方は決して間違つて居ない筈だ。唯茲の処大役を背負ひ過ぎて来たからさう見えるのだ。芝翫のお梶、寧お辰をさせたい風情を感じた。但慣例ではお辰の方が重く扱はれて居るが、この方が、留め女や、非人咎めなどがあつて、うんと役柄はよいのだが、一向誰も為出来シデカさぬ悪い慣例になつてゐる。此位ならまづよい方か。松緑の勝奴、白蓮宅の杢助と言ふ趣きで、髪結ひの下剃り奴でゆき過ぎの小いきで気障な奴にはならなかつた。今から貫禄を考へないやうにして欲しいものだ。





底本:「折口信夫全集 22」中央公論社
   1996(平成8)年12月10日初版発行
底本の親本:「かぶき讃」創元社
   1953(昭和28)年2月20日発行
初出:「日本演劇 第五巻第五号」
   1947(昭和22)年8月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※初出時の表題は「合邦と新三(劇評)」です。
※初出時の署名は「釈迢空」です。
※底本の題名の下に書かれている「昭和二十二年八月「日本演劇」第五巻第五号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:酒井和郎
2020年6月27日作成
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