芝居に出た名残星月夜

折口信夫




あなたは確か、芝居の噂などは、あまりお嗜きでなかつた様に思ひます。併し、此だけは一つ、是非お耳に入れて置きたい、と思ふのです。そちらでも、東京の新聞は御覧になつて居ませう。坪内博士の「名残星月夜」が、五月狂言として、歌舞伎座に出たことは、もう御承知の事、と思ひます。あの脚本が、始めて中央公論に出た時、あなたも、坪内さんに宛てゝ、大分長いものを、お書きになりましたね。あれから、余程たちますので、その細目は、記憶に残つて居ません。が、大体は、事実と構想との関係と言ふ点だけを、中心にして言うて入らつしやつた様に思ひます。今、手もとに、あの頃の時事新報の切り抜きがありません。上野へ行けば、とつてあるだらう、と考へますが、又億劫がつて居る中に、印象を薄れさせて了ひ相ですから、ぶつゝけに書きます。若し、あなたも既に言はれたことを、自分の考へ見た様に、得意になつて書く様なことが出来はすまいか、とも思ひますが、そんなことがあつたら、あなたの考へが、わたしにも、具体せられて出て来た訣で、優越感をお持ち下さつて、さし支へはありません。

わたしにはどうも、吾妻鏡と言ふ書物の、史料としての価値に、疑ひが持たれてなりませぬ。其は、今の中はまだ、気持ちの上の問題で、と卑下せねばならぬ程度のもので、開き直つて其理由を糺されると、少しまごつきます。唯処々、あまり興味のあり過ぎる場処が、つひそんな気を起させるのでもありませうか。が、作り事と言ふ程でなくとも、民譚(伝説)臭い色あひが、さうした場処にはきつとあたまを出して居るのです。御存じの曾我の仇討ち前後殊に、虎御前ゴゼに関した事などは、大分おもしろくもあり、反証もあがり相に思ふのです。其からも一つは、此鶴岡拝賀の一条が、一番不審な気を唆る場処です。編者か、作者か、(其は、こんな場合の問題としては、大き過ぎます)ともかくも、吾妻鏡を纏めた人は固より、其頃の人々は、実朝が、あの日のあゝしたなり行きを、予め知つて居たのだ、と言ふ風に解して居たものらしく思はれます。尤、あの辺の書き方は、思はせぶりを、平気のおぶらあとに包んである様です。其にしても、あの本の書きてが予期した通りの印象を、素朴に受けたゞけでは、歴史を見るより、尠くとも、実朝を見ようといふ上には、浅すぎると思ひます。あれだけの事実から出て来る、書きての居た頃の、民譚風の解釈は、其儘にして置いて、別に、も少しほんたうのものが、掴まれさうに思ふのです。
恥しいことですが、あゝいふ種類の脚本・小説を読む場合、わたしには、まじりけのない鑑賞が出来ないで、作者の見解を見よう、と言ふ風の、別な衝動を交へて居ることが多い様です。けれども、(私の場合のよい・わるいは別として)作者の側では、其方面から十分鍛へあげたものを土台にして居ないでは、人物や、事件が、歴史を単純に意訳なり、直訳なりしたに過ぎないことになるのです。あなたの書かれた批評なども、坪内博士から見れば、芸道の批判ではないから、とすまして了はれたかも知れませんが、名残星月夜の土台へもぐり込んでの為事故、坪内博士が、此後とも、よく考へ直して下されゝば、非常に為になる事なのです。其功徳は、純芸術批判者の「ほめことば」や、「手うち」位の事ではないのです。其で、わたしも、あなたを見まねで、縁の下の力持ちをやる気になりました訣です。

一体、あなたはどうお考へになります。覚阿(広元)落涙の一件ですね。わたしは、あれだけを心にして、おもしろい物が出来る、と思ふ位です。あの処の吾妻鏡の書き方は、よかつたと思ひます。大きな背景を控へて、当時第一流の人物が不思議な暗示を悟る処、神秘だなどゝかたづけたくはありません。が、あの奇妙な予感を、もつと中心におし出して考へてもいゝ、と思ひます。私は、こゝを一番問題にして、「名残星月夜」を読みました。けれども、あなたも言はれたかと思ひますが、行き届いた作者なる坪内博士は、そんな処は、うまく逃げて、――と言ふやうな言ひ方は、私自身を卑劣にします――覚阿の本心を見せる様なせりふも、とがきもなく、吾妻鏡の記述通りに、ひた押しに推し進められました。此が芝居になれば、どう言ふ風に現れるだらう。作者が、其について何の考へもないとすれば、坪内博士自身、舞台監督になられるのすら、疑問だ、と思うて居ました。今度の芝居では、まづこんな不純な動機を以て、芸道に対しました。
処が今度のには、私の目あてにした鎌倉御所寝殿の場が、序幕の由比浜と共に、略してありましたので、失望しました。同時に、覚阿になる役者の、肝腎の見せ場のなくなつたのに、同情しました。さすれば、大詰めの「鎌倉御所中門廊」の中程から、幕切れに出て来るだけになります。併し、此ちよつと出て来る間に、却て、多く効果を収めることが出来るかも知れぬ、と楽しんで居ました。覚阿になつたのは、所謂大向うの人々が、松島屋、と呼ぶ役者でした。史料編纂所から出る、武将連の肖像によくある、尻太・尻跳ねの眉が、しやれかうべの様に、作つた顔に、つけてありました。此顔は、此迄の時代・活歴など言ふ種類の芝居には、あまり見ないつくりだ、といふことでした。(尤、眉だけは、松島屋と言ふ人の好みと見えまして、私の持つた絵葉書帳に、同じ型のをつけた同じ人の姿が、沢山あります。)実朝の這入つて了ふ迄、無言で居た間の含蓄は、えらいものでした。立ちはだかつて居るのも、技巧から抜け出た真実さでした。もう今では、伝説の領分に入つて、益、ねうちの上つて行かう、として居る団十郎の腹芸とか言ふものと、明らかに反踵的な位置を固執して居る人とか、聞いて居ましたが、なる程、団十郎門流並びに、其感化を受けた役者たちの、無内容を充実らしく見せかける、此頃の腹芸といふものとは、大分違うたはちきれ相な含蓄でした。併し、実朝役者が、花道と言ふ通路の十分の七の距離を這入つて行く間と、其後、揚げ幕の中に、影を没して了うてからは、すつかり崩れて了ひました。目をあまりに瞬きました。あれがをこつくと言ふのですか。からだをむづ/\さしました。
此は併し、坪内博士の責任が、大分あり相です。脚本には、渾沌として居た覚阿落涙の解釈が、舞台監督としての博士の指導には、具体せられて出て来たのでせう。此でこそ、芝居を見に来たかひがあつたと言ふものです。併し、其と共に、ひどく落胆せないでは居られませんでした。博士は、はつきりと、覚阿は、未然に悟つて居たものとして居られるのでした。覚阿ばかりではありません。結城朝光も、段々直覚して来て、結末などには、十分、軒端の梅の歌を貰うた理由を、悟つて了うた様でした。覚阿などは、後向きの立ち身で、掌のつけ根を目にあてゝ泣く、と言ふよく芝居絵にある形をして、舞台を廻させました。
一度は、あまり其浅手な解釈に驚いて、かうせなければ、一般の見物に訣るまい、又、今日の程度の役者には、持ちきれまい、と言ふ博士にはあり過ぎる例の心切からせられたことか、とも考へて見ましたが、あのしさうで居て、一切の妥協を却けて来られた博士が、自身の芸術を棒にふつて迄、低級な見物や、役者の犠牲になられる筈はない。やはりほんたうにさう考へて居られたのだ、と考へついて、実際がつかりしました。

小壺の沖中の、身投げが、実朝が、公暁の手を借りて自滅の本意を達する、といふ周到な作者の伏線になつて居よう、とは思ひもかけませんでした。けれどもやつぱり、用心深い博士は、そこに、漸層の第何段かを、ちやんと構へて置かれたのに違ひありません。此は、あなたも予期せられなかつたことでせう。さうすると、月の光りにそゝのかされて死なう、としたのだと言ふ語は、全く実阿弥の為に、一時の気休めを言うたことになるのです。死ぬるにも死なれぬ、と歎いた人が、やつと決行しようとすれば、唯一人の心の友に阻まれる。一時は思ひ止つても見たが、やはり根強い死の執著が棄てられないで、最後の手段は、人をして自分を殺さしめるに都合のよい、と言ふ位置に身を措いた、と言ふ風にまだしも見たい、と思ひます。でなくては、あまりに実朝が、ひよい/\と気の変り易い上調子の人間になるではありませんか。かう見れば、尠くとも実朝のガハだけは、あまり浅までなく、迫つて来る死を知つて居たと言ふことに対しての弁解はつきます。

覚阿の方は、依然として賛成することは出来ません。どうもありふれた芝居の伝襲的な筋立てを、其儘守つてあるに過ぎない、と言ふ気がしてなりません。言外の意味を酌んで、其意志を遂げさせる、と言ふあきらめの心持ちは、いやと言ふ程、義太夫浄瑠璃や、芝居に繰り返されて来たものらしく承知してます。博士は、歌舞妓芝居をかいみいらと言ふばけ物に譬へられましたが、博士自身の心にも、かいみいらが居る様な気がします。さう言ふ風に心持ちを搬んで置き乍ら、左京兆が急病で、仲章が代つた、と言ふ申し上げますの口状を聞いて、「扨は、やつぱり」と言ふ風な動作をさせて居られる点です。こゝは、博士の考へから行けば、悲運がほんものになりかけた、と言ふ悲痛な心持ちを含蓄さすべき処だ、と思ひます。「扨は、やつぱり」でなく、「愈、此からだな」と言ふ感じを持たせねばならぬのです。舞台監督としての博士は、こゝで覚阿と朝光の大袈裟な驚愕の表出を、尠くとも黙認せられて居ます。確かに、驚愕よりは、呆然自失する、と言ふ様な表情が必要なのではありませんか。松島屋と言ふ役者のやり方は、博士の与へられた以外に、不従順な解釈も交へて居るのではないか、と言ふ気もしましたが、さう言ふ風に感ぜられる点は、却て、私の同感を牽きました。

今一人の橘屋とか言うた(橘屋と呼ばれたのが、二人居ました。こちらは、若いハウでした)人の朝光は、慧し相な顔をして居ましたが、何の解決をも、私の心に生じさせてはくれませんでした。あつちこつちに固つた形をしたかいみいらでなしに、すつかり渾沌とした覚阿と、更に、とりとめられぬ心持ちにとまどうて居た朝光を出した方が、よかつたのに、と思ひます。新聞屋たちは、こゝの場面を軽く見て居ました。松島屋氏や橘屋氏などいふ、大家連を煩す迄もない役の様に申して居ましたが、私は、さうは思ひません。どうしても、貫目と、腕前とのある人で、此場面が切られるのでなくては、実朝の死を、強く暗示することが出来ない、と存じます。絶望とあきらめの中に、尚幾分のはかな頼みを懸けて居る静けさを見せるのは、凡庸な人々には出来ぬ事なのです。こゝで、ほゞ行き尽す処迄行つた、と言ふ心持ちを見物に持たせるのが、博士の積りでもあり、又、さすがに桜痴居士などゝ違ふと思はせる処なのです。福地氏が、団十郎などの為に書いたとか聞いて居ます、「東鑑拝賀巻アヅマカヾミハイガノマキ」は、やつぱり、八幡宮石段の場を性根場シヤウネバにして居た様です。次の場備中阿闍梨と接する具合は、此迄の作者のやり口だと、幕にするか、或は「かへし幕」「はや幕」など称へる、休息を置く筈である相です。処が、博士が、直様廻り舞台で繋がれたのは、非常に聡明なやり方だ、と連れの芝居に明るい人が、褒めて居ました。なる程、次の場は、時間の上から見れば、中門廊の時間からすぐ続いて居るか、稍後と見てよろしいのでせうから、(昔風の解釈で行きますと、覚阿等の泣いたよりも、前の時間から続いて居るものと見ることも出来る相ですが、博士にも、そんな積りはありますまい)舞台が転じると共に、気分も変つて、焦慮と不安とに充ちて居る場面で、対照がよく出来て居ます。同じ事件の未然の間の人々に与へる心持ちが、居処が変つたゞけで、こんなに違ふか、と思ふ位でした。かう言ふ効果を収める為には、廻り舞台とか言ふやり方は、非常に利きはしました。併し、覚阿・朝光の最後の黙劇が、しみ/″\味ひきらぬ間に、直にそは/\した落ちつかぬ場面に転じるのは、非常に考へものだ、と思ひました。事実、覚阿・朝光の舞台のきり方も、幕ぎれであつてこそ意味のある、あり来りの方法だつたと申します。

備中阿闍梨の房は、作者の予期どほりと思はれる程度の成績を、役者たちがあげました。老けた方の橘屋と言ふ人の深見三郎二郎が、形と、其からひき出される気分との上だけでは、成功し相に見えながら、解釈のゆき届かなかつたと言ふ点で、オホしくじりをやりましたのをとり除けますと。博士も、深見役者をして、此芝居の結末をつけさせよう、と言ふ考へなのですから、此脚本に於ける三郎二郎の位置と言ふものは、軽々しいものと考へては居られないのです。残念な事には、博士の考へと、老橘屋の表出とが一致せない点があるのでないか、と思ひました。其上に、脚本を読んですぐ思うた事ですが、今度の芝居を見て、愈明らかになつたのは、深見某に対する博士の解釈は、私ならばかう、と考へた役柄と大分違うて居るのです。
私は、脚本で読んだ時、すぐに義時を弑した、と伝へる深見某と同じ人間にして居られるのだらう、と思ひつきまして、人間悪の象徴といふべき、「おせろ」に出るいやごう風の者にする積りなのだらう。其で、次いで出るべき義時を主人公にした脚本(義時の最期と言ふ名で、後に出ました)では、大事の役目を勤めることになるのだらう。が、其にしては、大分書き足らぬ。此だけでは、普通の作者なら、是非出さずにはすまぬ人物(此場合は、義時)を陰にして、其影武者とも言ふべき人間を出して、事件を進めさせる、と言ふくろうとでなければ出来ぬ腕の冴えを見せられたに過ぎない様にしか見えない。単なる技巧の為の技巧として、義時を隠した、と言ふ迄である。かう言ふ不満を持たずには、居られませんでした。
今度の芝居には、実は、此深見の性格が、も少し博士の考へをはつきり見せることになつて居るだらう、と言ふ楽しみもあつたのです。処が、此役が一番困つたものになつて居ました。九代目の市川団十郎と言ふ人は、此は、私の想像だけですから、江戸つ子の岡さんなどに聞かれては、怒られ相にも思ひますから、まあ出来るだけ、内分に願ひますが、技巧から出抜けたと言ふより、無技巧が一つの技巧と言ふ見てくれを持つて来た、と言ふ風のむつかしい技能発達の順序を持つて居た人ではないか、と思ふのです。つまり、中身が外形をおし出しおし拡げた、と言ふよりも、まづ外形が出来て、中身が後に充実して来た、と言つた型の人ではなかつたらうか、と考へるのです。文壇で言ふと、武者小路実篤氏等白樺連の人々などが、其なのです。其はともかくも、団十郎の気分劇を、理想的なものと考へて来た、彼の弟子或は後輩などには、技巧よりも、気分の表出に優れた人が、沢山あるのだ相です。此老橘屋氏、其から、実朝になつた成駒屋と言ふ役者、実阿弥になつた高麗屋なる人などが、其重な者だ、と言ふことです。さう聞いて見れば、技巧よりは、腹芸で見せよう、と言ふ風な容子が見えます。大根とか、棒鱈とか、よくへたな役者を罵る語を耳にしますが、局部々々のやり方には、偉大なる大根と言ふ様な処が、此三人の役者には見えました。其中でも、此橘屋なる人は、技巧堪能の極め書きを、新聞屋連からつけられて居るのだ相です。けれども其は、此役者の、気分に圧倒せられて居るのでせう。此役者の、何とか言ひますね。あの………低音部に属する男性声な肉声………どすとか言ひました。其どすの利く上に、凜とした音色を交へた声と、其拍子に魅せられて了うて居るのです。此人の声は、なる程、名調子と言ふに、恥しくありません。併し、其は単に、めりはりと言ひ慣れて居る抑揚が自由なだけで、歌舞妓芝居特有の旋律のある文段としての言語表情なる(間違うて居るかも知れません。若し違うて居れば、岡さんあたりに聞いて直しませう)せりふまはしと言ふ方には、一向多年の練習が、効果を見せて居ない様です。あなたも御覧になつた筈だ、と聞いて居ます紀の国屋………源之助と言ふ役者が、当代では、尠くとも其点だけでは第一だ、と言ふことですが、なる程、老橘屋のせりふまはしは、唯の一本調子でした。閑話休題としまして、何にしろ所謂、劇壇の通人達の、此人を技巧家として見て居ると言ふのには、私どもは、納得がいきかねます。男性のすつきりしたと言ふ美其物の様な人なのですから、在来の実悪ジツアク色悪イロアクなど言ふ役処には、理想的形と気分とを具へた人でありませう。ですから博士が、最初の計画には、恐らくやつぱり此人を、此役に宛てる積りだつたのでせう。実際形の上だけは、此後とも、此程の三郎二郎を舞台に見ることは、むつかしいことだらう、と存じます。が、何にしても、此深見三郎二郎の性格の表現は、言語道断の失敗です。「別当院公暁居間」の場は、底のある人間と言ふのを見せるだけで、まづよいのですから、気分劇の方が、あぶなげがなくてよいのです。舞台の上の人物は、実際の人間の性格なら、渾沌の儘であるべき処を、何とか見物に感受させる様に表さねばならぬと言ふ自然主義の通らぬ処があるのです。だから、裏ぎり易い描写よりは、かう言ふ処は、気分で、はつきり印象させる方が得策なのです。こゝになると、ある点以上は、此人の気分劇は、何物をも象徴することの出来ないものだ、と言ふことを見せました。深見の性格がほんたうに見えるのは、大詰の幕切れの瞬間なのです。此はとても、見渡した処、今の役者には出来ぬ相談なのです。此処は、脚本には、「深見少しこなしあつて、云々」と言ふとがきがありました様に思ひますが、此だけでは、実は、作者のつもりは知れないのです。此人が緊張した顔を、無表情の儘、五六度、上下に動して居る中に、幕がしまりました。「うまく行つた」と言ふ積りの、会心の笑みなのでせうか。「馬鹿め」と言ふ様な、脆く自分の罠に陥ちたあひてをさげしむほくそ笑みをも含めて居るのでせうか。私の受けた印象は、唯其きりでした。あり来りのやり口と違ふのは、にこりとする処を、さうはせないで、青白い能のオモテが笑ふ時の容子其儘でした。此は、博士の指導でやつたことだらう、と思ひます。なる程、にこりとしても破綻が来る様なむつかしい性格と、博士も考へて居られたのでせう。其にしても、此しかたは卑怯な逃げ道を使うたものです。
思ふに、博士は、此性格にもかいみいらの障碍を受けて居られるのです。脚本と芝居とに見えた深見だけでは、博士自身も言はれた様な、興味のある性格とは思はれません。其に、尻馬に乗つて、特殊な人物らしく書いた、新聞屋も新聞屋です。こんな人間なら、歌舞妓芝居のお家物には、始中終出て来るてあひに過ぎませぬ。唯、違うて居ると見えるのは、顕に出勝ちの、凄みの艶消しをやつたゞけの事ではないでせうか。脚本としての難は、其でもやつぱり残つて行きます。義時の影武者・左京兆の傀儡としか見えぬと言ふ点です。義時を弑した深見某に就いては、よく訣らない処があるのですから、私は、其子の小三郎(或は三郎、義時の最期)とせないで、やつぱり三郎二郎を働したかつたのです。頼家・義時・公暁と自分の近づいて行く者の悲運を肴にして、舌なめずりをして居る人間であつてこそ、博士の言はれる様なおもしろい性格となるのでせう。

昔の芝居には、時をり抱き合せ狂言と言ふのが出た相です。在り来りの二つの狂言を、ほのかな脈絡で裏表にして、一幕おきにてれこにする物だ、と言ひます。其が一転すると、並進式とでも申しませうか。一つの筋から岐れて出た二つの主人公の、別々の為事が、大体一幕おきに発展して、仕舞に近づいて二つの筋が、ほゞ同時に解決せられると言ふ形になるのですが、此方は、大方、片方が本筋、今一方がつけたりの挿話と言ふ風になるのだ、と言ひます。三遊亭円朝の人情噺・河竹黙阿弥の脚本などに、沢山見える形式の様です。博士の此迄出された脚本を読んだ記憶を呼び返して見ると、不思議に、一事件の発展に、二人の主人公の行為が、ひまぜになつて居ます。淀殿と且元(桐一葉・孤城落月)・牧の方と義時(牧の方)・日蓮と藤治(法難)などは、立派に対等の位置に据ゑられて居ます。かう言ふ風な傾向の出て来たのは、博士の伝統主義に因つて居るらしいのです。此脚本にも、其があるのです。実朝と、狂女とが、其に当つて居ます。此は、此迄とつて来た並進式に満足が出来なくなつて、なるべく、一場に二人の中心人物を顔を合せる様にしよう、と言ふことに考へ変りせられたのだらう、と思ひます。かう言ふ模様は、「義時の最期」にも既に見えて居ります。実朝と狂女との関係は、一つの形式を固めたものと見られます。公暁を狂女の位置に置く人があるかも知れませんが、私は賛成しません。確かに、公暁は、副主人公ともわきとも言ふことが出来るのです。併し、此二人に、舞台で、一度も顔を合せさせない処は、てれこ式・並進式のなごりは止めて居る様です。だが、博士は、実朝・尼公・公暁の悲劇と言ふツノ書きとでも言ひますか、小見出しをつけて居られます。見方によれば、尼公は問題外としても、公暁に、深見三郎二郎を加へて、主人公が四人あると言はれぬこともない様です。どこかの雑誌で、狂女と深見とを舞台廻しだ、と博士自身が言うて居られます。かう言ふ風の舞台廻しの役目に使はれて居るのなら、主人公と見てもさし支へはありませぬ。誰が見ても、恋に狂うて謡ふ処、水死して流れて行く処など、無意識乍ら、おふえりやの記憶が働きかけて居ることは、明らかです。さう言へば、実朝ははむれつとであり、実阿弥はほれいしおの影をひいて居ます。
此恋窪の狂女は、芝居の狂女の類型から大分出て居ることは、作者の言はれた通りです。併しやつぱり、能楽以後の狂女で、笹を担いで出ます。わたしは、脚本を読みました時から、柳田先生の巫女考が、博士の心に暗示になつてゐる、と言ふことを感じました。鹿島の巫女だ、と名告る点など、鹿島踊りをとり入れよう為に、鹿島とせられたので、(此は、脚本の間には、気がつきませんでした)伊豆サンでも、箱根でも、実は、構はないのです。能・芝居の狂ひの形式が、巫女に神憑りするあり様から出て居る、と言ふ先生の研究を、博士が応用せられたのは、其用意の行き届いてゐるのに今更乍ら敬服しました。あれを読んだ時に、実朝は、誰をめどにして書かれたものとは見当もつきませんでしたが、此狂女は、博士の新楽劇や、振事を出し物にすることを許されて、舞台の上で度々成功した、音羽屋と言ふ女形がある、と聞いて居ましたから、恐らく此人にあてはめて居られるものと信じて居ました。実際、此大立て物を使はねばならぬ程の大事な役に書かれて居るのです。恐らく、私の想像は、単なる想像ではなく、博士もきつと其積りであつたもの、と思ひます。此兄音羽屋なる人は、女優と一座して、始中終観察する機会があります為か、男性の扮した女でなく、女性自身の囚はれぬ自由さを出さうと勉めて、此迄の女形に守られて居た制約をつき破つて、ある点迄、成功して居る人だ、と聞いて居ました。女らしさと言ふことに囚はれないで、ほんたうの女の男性に似た挙動をもやつて見て、而も女に見せることの出来ると言ふ役者でなければ、此躁狂と言ひますか、奔放な女気違ひは、やれ相もない。博士の目あても、其にあるもの、と考へて居ました。芝居のあけられる前に、座組みを変へて、兄音羽屋を入れる、尼御台をやらせる、といふ噂を、新聞で見まして、政子と、狂女とは、兼ねる事の出来る様に、役まはりが出来て居るのだから、此はきつと、博士が狂女の役の為に、呼び入れる様にとの註文を出されたもの、と早合点して居りました。処が、案外でした。兄音羽屋は来ないで、座つきの若手の、沢瀉屋と言ふのゝ後とりとか言ふ男が、此役に博士から名ざゝれたのだ、と言ふことで、私の早飲み込みを恥ぢた次第でした。考へれば、一応尤な話で博士自身其或雑誌に、右若沢瀉屋を除けて、外に踊りが出来る上に、自在な声で、跳ね廻り乍ら謡へる人はない、と言ふ様な事を書かれました。此若い俳優は、清元の名とりとかで、声のよいことは承つて居ました。其上、親譲りの踊りの達者として、喧しい人なのだ相です。ですから、博士のかう言はれるのも尤ですが、最初の計画に、果して此人を覗うて居られたものでせうか。私は其を聞いて、何だか、見に行く勇気の抜けた様な気がしました。実の処、実朝をする役者も、あまり芳しくなさ相な評判ですし、其に持つて来て、私の、今一つの中心と考へてゐる狂女が、譬ひ、解釈力を信頼することの出来るだけの、教育を享けて居る役者だ、とは聞くものゝ、どうも、貫目と云ふものがないだらう。さすれば、あの芝居の興味の三四分は必減る筈だ、とがつかりして居ましたことでした。博士は実際、兄音羽屋を連れて来る見込みが立たなくなつた為、かう言ふ風に、あきらめをつけられた事だらう、と信じました。邪推深い言ひ方ですが、今でもさう思うて居ます。なる程、あの脚本には、狂女の歌が、沢山あります。併し、必しも、声のよいことは条件とせないのですから、女を現す人としては、不相応な声を持つて居る、といふ話の兄音羽屋の声などの方が、寧爛熟風な気持ちが出て、おもしろいのではないか知らん、と不服の心持ちを抱かないでは居られませんでした。処が、若沢瀉屋と言ふのが、中途から、病気で舞台に出られなくなりました。すると、まあどうです。ほんたうは、舞鶴屋と言ふ筈に聞いて居ますが、大文字屋で通つて居る役者の忰とか言ふ、此頃やつと、一人前らしい待遇を受けはじめた、と申す子役あがりが、其替り役をすることに、なりました。帝国劇場の座頭とも言ふべき音羽屋の役と推定して居た狂女役が、極めて小さな役に、扱はれて了ふことになつたのです。私の思ひ切れないで、やつぱり見に出かけたのは、らくと略語で呼ばれる、千秋楽の日だつた相です。序幕の開く迄は、其でも、若沢瀉屋といふのが、もう病気がなほつて出て居ることだらう、どんな風に、狂女を扱ふ積りだらう。此頃はやりの新演出とか、新解釈とかでする気か、其とも、昨年評判のよかつたとの噂ある「隅田川」の班女風に、本行がゝり(と言ふ様な語を、案内してくれた人が言ひました)にやる考へか、其に、博士として、どういふ指導を与へて居られるか、そんなことを楽しんで居ました。

別当院裏手山の上が、闇と雷鳴との中に開きますと、例の※(歌記号、1-3-28)龍宮は近いな、の唄が聞えて来ました。併し、其は太い男の声なのです。をや、違ふ、と思ひました。けれども突嗟に、カゲの唄として他人が謡うて、愈本人が姿を現すと、自身の声で謡ふに違ひない、と思ふうち、段々明るくなつて、狂女が、下手の奥の方から、駈け上つて参りました。さうして謡ひ乍ら跳ね廻り、狂ひ廻つて踊りました。陰の唄だと聞いた声が、本人の口から、続いて出て来るのでした。謡ひ物・語り物は固より、舞ひ・踊り何もかも、まつ暗な男の私が、こんな事に迄、口を入れるのは、口はゞつたくもあり、小恥しくもあるのですが、さう言へば、芝居話しをするにしてからが、土台あつかましいことなのですから、毒皿を舐る積りになつて、話して行きませう。心持ちの豊かな岡さんあたりには、あちらを向いて頂いてかゝつてのことなのですから。はじめて東京に上つて、始めて三階の客となつたあちこちの大学予科生たちが、三年後には大学生となり、其から又、三年たつて学士号を持つ頃になると、おしもおされもせぬ一廉の芝居通人になつて、誰某タレソレ論などゝいふ役者評論を書いて、自身もうぬぼれ、ひとも煽てるといふあり様だから、臍の緒きつて始めての見物なるお前の芝居評なども、五十歩百歩の値うち位はあるだらう、と言ふ人のわるいあふりての口車に乗せられて、こんな大それた物を、書いた次第なのですから、カタハラいたい処は、御同様、目を瞑つて頂くことです。
扨、其鹿島踊りと言ふのは、今でも、田舎々々にはよく行はれる踊り念仏系統の様々の分派の一つらしいもの、と思はれる手ぶり・足ぶりのあるものでありました。群集舞踊とでも申しませうか、ともかく多人数いち時に踊るものですから、運動の空間に制限が出来て、単に、原始的である、といふ理由以外に、からだの扱ひの単調になつて来て居る、と思はれるあの踊り念仏をはやめたものらしく思はれました。或は、伊豆辺の鹿島踊りと言ふのは、もつと間の長いものなのを、狂女に踊らせる為に、あゝ言ふ風に間をつめたのかも知れません。何にしても、間の違ひから起るとんまな処が、狂女の踊りらしい気持ちは与へました。けれども、わり合ひに野趣が乏しく、味ひが、皆無でありました。後の方の批難は、若い舞鶴屋に大きな責任があること、と存じます。扇を使うて居ても、単なる踊り念仏の連中の扱ふ以外の味は、出ませんでした。からだを拗つても、踊り念仏の人たちの出すたわみすらも出かねたのでした。
一体、博士は、昔から写実主義なカタです。芝居論の上の制約箇条などには、到底実行出来ぬ空想分子が多くある、と言ふ風の議論は度々せられました。やつぱり舞台の上の自然主義は、どうしてもとりきれぬ、と見えます。此恋窪の狂女の踊りも、可なり、鹿島踊りを其儘に言ふ用意が、煩ひして居るのではないか、と思ひます。巫女考を御覧になつた筈の博士は、能・芝居の狂女が元々、ほんたうの気違ひの身ぶりでなく、よりまし(尸童)に神憑りのした時の狂態のあてぶり(用語例が間違うて居るかも知れません)で、ほんたうの気違ひの踊りをまねたものでないことは、万々承知の事なのです。「狂ひて見せ候へ」と所望せられて、狂ひ出すのや、茶番の席へ臨む途中と見える様な物狂ひは論外ですが、此狂女なども大根オホネに、自然でない処があるのですから、いつそもつと、芸術的な狂ひを見せる様な調節を、鹿島踊りの上に加へて下さつてよかつたのだ、と存じます。又さうした処で、野趣と、味ひとが、今度の、以上に出す事が、出来相に思ふのです。私だけの考へから言ひますと、あの踊り念仏風のふりは、一人だちの踊りには、どうかと思ひますのです。だから、まだしも、名越ナゴヤ浜御殿の場の実阿弥の謡ふ梁塵秘抄あたりの文句に連れて踊る処の方が、よかつたのです。犬王(此が、此狂女を勤めた人の本役だつたのです。私の見た時は、山崎屋の坊やだらう、と皆が言うて居た人が、替つて居ました。此で見ても、狂女役の、どれ位見くびられたかゞ、お訣りでせう)も交へて三人あひ踊りになつてからは、ほんたうに一遍上人の絵巻でも見る様な、恍惚境が現出しました。唄の方は、男性風な処は、却て鄙びて聞えましたが、念仏調子の外に、船唄から、木遣りの類の労働唄の心持ちが出て居ました上に、西洋の声楽もとり入れてある様に聞えましたのは、ひが耳でせうか。其で何だか此頃はやりの歌劇などの要素も、大分仕込まれたのではないか。活動写真をさへとり入れられた(義時の最期)博士だから、と思ひました。此には、我々仲間の音楽家由利貞蔵君も、西洋風の調子だ、と申しましたから、心強く感じて居りますのです。併し、やつぱり鹿島踊りの節まはしが、あゝ言ふ風になつて居るのでせうか。鹿島の巫女の歌劇を見て、思はぬ処で、思はぬものを見た気がいたしました。名越御殿の方は、唄も踊りもよかつたと思ひます。あの※(歌記号、1-3-28)けふの日も暮れたれど、の感傷的な唄が、役者自身の音色と、節まはしとで、そんなに涙脆くなく響いて、上出来だ、と思はせました。
但、顔だけは、此場では、子ども/\して、唖見た様な表情になりましたのは、よくありません。序幕の雷の落ちた後で、公暁に、ひつぱり上げられて来た時の、半面血にまみれた顔つきは、頗、有望な将来を見せて居ました。かね/″\聞いて居ります所では、歌舞妓役者は顔が生命なのです。顔がわるくては、どんなに技巧が旨くても、出世の見込みもなし、よく/\よい廻り合せを持つた人でも、脇役者の、「芸の虫」の、と言はれるわびしい名誉以上には、予期が出来ない相です。此人などは、ずぬけた門地の育ちとも言はれませんが、腕次第で、いくらでも思ふ役をつて貰ふことの出来るだけの家柄ではある、と申します。犬王をする役者が、此だけすることが出来れば、腕前の方も、望みはある、と言ふものです。歌舞妓役者としての三拍子は、此で、まづ揃つて居る訣です。兄音羽屋の役処を、偶然ながら勤めることの出来た此人が、先輩若沢瀉屋にとつてすら、光栄ある恐しいものであつた試験を、十点の中、二点だけでも採ることの出来たのは、感心いたしました。

此脚本を芝居に掛ける時に、一番人選のむつかし相なのは、実朝よりも寧、尼御台所である様です。作者自身が考へられて居る程、むつかしい役だとは思ひませんが、唯今の芝居には、東西共に其人がないのです。私の介添人の人の話をとり次ぎますと、尾上多見蔵と言ふのが大阪に居ます。此人の女形は、かう言ふ役処にぴつたりはまつて居ると言ふことです。併し、私も見て居るうちに、一案が浮びました。其は、実朝役者なる成駒屋なる人に、此役をやらせて見たら、どうだらうといふ考へでした。其冷い、整うた、理性的な顔なり、気持ちなりのもちあぢのある此役者は、きつと少しの努力で、立派に、尼御台になり了せるだらう、と思うたのです。此芝居の始らぬ前には、兄音羽屋が臨時に加入して、此役をする、といふことでした。けれども、なぜ、誰も、こんな適任者のあることを、思ひ出さなかつたのでせう。博士が、兄音羽屋なり、老橘屋なりを、尼御台恰好の役者と考へて居られたものだとすれば、脚本の上で、私の考へて来た政子との間に、大分隔りがあります。尼御台は、今度は唯一度しか顔を見せぬことになつて居りますが、実朝・公暁の悲運も、義時の幸運も、此尼公の企図が、反対に効果を現した為なのですから、非常にむつかしい、同時にもたれる役なのです。「辛抱立役」と言ふ術語がある相ですが、其役柄を女で行くのが、此なのです。此役が手に負へぬのは、単に受ける一方でなく、極めて少い描写と、多量の気分とで以て、右の三人の運命にのしかゝつて行くといふ処があるからなのです。けれども此迄の歴史家によつて印象せられた奸悪な女となつては困るのです。殊に、此脚本に現れた尼公は。
此芝居が舞台にかゝつた翌日から、新聞では、此尼御台の出る唐船と、直後スグアトの小壺の沖中の場とには、見物が静粛を保ちきれないで、所謂わくと言ふあり様になると言ふことを、毎度報告して居りました。どんなに鑑賞を妨げられることだらう、とおつかなびくりで居りました処が、此は又、存外の静けさでした。ところが、お恥しい事ですが、前夜来寝不足のせゐもありましたでせうが、気をつめて見て居たわたしが、唐船の場の肝腎要の二人の対話の頂上に来て、目のトロんで来るのに堪へられませんでした。近代劇など言ふ芝居には、度々こんな二人が意見を吐く場面が沢山あるのですが、そんな時につひぞうと/\としたこともありません。其が、急拵への書生役者などゝ違うて、評判に高い成駒屋と、老橘屋との二人の競争の場に、こんな変調が来たと言ふのは、どうしたことなのでせう。歌舞妓芝居になじみのないせゐでゞもあるのでせうか。私はさうは思ひません。狂言の※(「口+穢のつくり」、第3水準1-15-21)コンクワイに出る白蔵司と言ふのがありますね。あれが芝居の方の所作事とか言ふのにも出る相ですが、雌の白蔵司が、実朝の前に坐つて居る様な、不気味な心持ちであつたことは、よく覚えて居ます。其がくど/\と愚痴まじりに、実朝を諫めて居るのです。姿だけは尼将軍と言ひ相な一面を見せて居ましたが、心持ちはさつぱり出すことが出来ませんでした。腹黒いばかりの女政治家に見えない様に、との博士からの注意でもあつたのを、工夫なしに、其とほりやつて居るものと見えます。唯お人よしの後室としか思はれません。立役の腹芸は、形ばかりでも、ある点迄内容あり相に見せることは出来ますが、女形の腹芸と言ふのは、類型のない事故、ほんたうの技巧から出たのでない此人には、見習うてよい先蹤がないのです。よくもまあ、空しい腹芸を標榜する人を並べて、二人きりの場面を委ねる心に、博士がなられたものだ、と思ひました。成駒屋なる人の実朝も、どうしても、気分劇で行かねばならぬ処ですが、やつぱりからつぽの腹の中だけが見え透きました。博士の尼公の性格に持つて居られる解釈は、賛成なのですが、其監督で現れた尼御台が、此では、何とも困ります。此は、役者の使ひ処が間違うて居るのです。此で、私の居眠りの弁解になるでせうか。

「名越浜御殿」では、実阿弥が始めて出て来ました。高麗屋と見物人の叫んだのは、此人の家名イヘナでせう。此脚本の中で、此が一番気のよい役です。博士も、歴史に囚はれる必要が少いから、自由なことが出来たらう、と思ひます。此役者の固有味モチアヂにない様な性格なのだ相ですが、非常によく其が出ました。感傷風になるべき役処をそんなけぶりも見せなかつたのは、第一気持ちがよろしう思はれました。其は、当人の立派なからだ・顔・太い声が与つて力を添へて居ます。どうかすると、ひんなりした、貴族めいた物ごしのバウさんでないのに、失望する様な心持ちが、私自身にも出かけました。が、此でこそ、舞台における実朝の、あらゆる行動の受けてになりきることが出来るのです。文字や、舞台の上に、作者の説明を許さぬ脚本・芝居では、其主人公が、疑問の性格を持つて居り、舞台の上で、複雑に其心持ちが表現せられる場合、主人公の性格の大部分を、露に見せて居る人物を出して、現し切れないものを具体させると言ふのは、最賢い方法なのです。かう言ふやり口は、をつとり卑怯な様に見えますが、其は劇そのものの本質の欠陥を補ふ手段として、止むをえないことでせう。で、尠くとも、脚本・舞台の上の実阿弥の性格の殆総てが、実朝の内にも在り、尚其上に含んで居るものがある、と言ふ風に感じさせることが出来れば、非常に都合のよい註釈として働く訣になります。さう言ふ積りで、和田の末子実阿弥陀仏を書かれ、又舞台に実現する人として、九代団十郎に少し野趣を加味した様な顔と、からだの高麗屋氏を択ばれたものとすれば、博士の実朝観には、私としては、少しも異論がありません。どころか、非常に嬉しいのです。此が若し、あの若い方の(ほんたうは、もう五十位なのでせう)橘屋といふ人などに、わり宛てられたのだつたら、あまり普通の人の伝襲風な考へのつぼにはまり過ぎます。
この高麗屋といふ役者の事なのだ、と今からは思はれます。私どもがまだ子どもで居りました頃、まだ近代劇など言ふものが、芽生えさへふいて居ない時分、此迄の芝居に、ある新しさをとり入れよう、と努力して居る役者がある、と聞いて居りました。併し、世の中は其後、思はぬ変改を重ねて参りました。かうした事実は、此脚本の作者坪内博士の上にもあつたのですが、右の役者なども、後の雁にセンを越された形になつて居ます。其で、廿年・廿五年後の今日では、古い畑の石ころを、時々気まぐれに掘り棄てる位で満足して、新しい焼きバタウナはう、と言ふ積りもなくなつて居るらしく見えると言ふ事でした。其が、此役者の事らしく思はれます。旧式の演出をなぞるのを、いさぎよいことゝせなかつたが、新様の技巧を発見せぬ内に挫けて了うた為、どつちつかずの物になつて居ると聞いて居ました。過渡時代に禍せられた、気の毒な犠牲者なのです。すると、五六年にもなりますか、此役者が、すつかり此迄と違うたせりふまはしを創め出した、と言ふとり沙汰が聞えて参りました。其中、其新科白が散々な悪口の渦巻の中に、弄ばれかけました。其でも、頑に固執して居る、と通人たちは、面憎さうな嘲罵を浴せ初めました。どんなせりふまはしだらう、と芝居事は知らぬ乍らも、此人の昔からのやり口に同感を持つて居たことですから、実は、興味を唆られて居りました。まあ、ともかくも変なものです。七五調を基礎とした、此迄の科白法に囚はれまいとして、休止点をのり越して、次の音脚に跨がつた言ひ方をするのでした。其為、休止と休止との間に恐しく長短の異同が出来ます。ほかののんびりしたせりふまはしの間に交つて聞えて来ると、ひどく息苦しく感ぜられます。一見イチゲンの私どもにも、そんなに思はれるのですから、芝居だこの出来た数十年来の歌舞妓鑑賞者には、不快言はう様のないものとして、響くだらうと言ふことは、想像出来ます。善くとも、悪しくとも、又、大なり小なり、伝襲の中に育つた歌舞妓役者として、僅か此だけの新境地でも拓いたと言ふことは、えらい事なのです。が、此役者には、もつと根本の問題がある相です。其は、師匠団十郎の気分劇をわるく信じ過ぎた処へ、新しいものへとの仰望から、形式主義の歌舞妓芝居の技巧を蔑にして居た心持ちが、結びつきました。其為、やつぱり、偉大な大根役者の部に入らなければならなかつたのです。併し昨年あたりから、新歌舞妓劇と言ふ、伝統の上に、人間性に随順した芝居を見つけよう、と言ふ試みを始めた様です。落ちつくべき処に落ちついた、と見えます。こんな人ですから、博士の指導を、直観風にもとり容れるだけの用意は、出来て居るのです。教養ある武士出のおバウさん其儘でした。ぢつと持ちこたへて居る力も、十分でした。ほんたうの脇役としての本分を尽しましたのは、舞台道徳から見て、気持ちのよいことでした。一二度見たことのある宝生新といふ能役者と、どこか共通した処がある様なのも、不思議に感ぜられました。かう言ふ脚本を実演するのに、一番敬虔な心持ちを落さないだけの、正直な処の多い人なのだらう、と考へました。作者博士に対して、シンから敬意を見せて居たのは、重だつた役々の中では、此人ばかりと思はれました。梁塵秘抄の今様に連れて踊る所は、卑しくならない度合ひで、へうきんな味を出して居たのは、藤間派の家元の嫡流だけの事はある、と連れの人などは感心して居ました。一休とも、西行とも見えぬ、若い心持ちは、確かに現れて居ました。此は、其顔のつくりにも因ることゝ思ひます。かう話しますと、連れの通人は、今の役者の中で、其方にかけて此人以上の上手な変相術を得て居る者はないのだ、と申しました。「小壺の沖中」の対話は、唯のえろきゆうしよんに過ぎません。あひての話に相感応して出る話とは聞えませんでした。此人のせりふも著しく形式に傾いて居ました。此は、此人の芸の至らぬ所からも来て居るのでせうが、重な責任は、成駒屋なる人にあり相です。あゝ違うたはらを持つて、頻々たる思ひ入れ(圧搾した表情とでも申しませうか。はらが形式化し、描写要素を多く持つて来たことをす様です)で、気分を断続してゆく様な相手に会うては、高麗屋の師匠なる九代目団十郎でも、実際かなふことではないでせう。わき役としての本分を守ることを道徳と考へて居る以上は、して役を征服する様なやり方は、どうしたつて出来ないのですから。どうも、ほれいしおはむれつと以上に出ようとした作者の企ても、舞台では、以下も以下、つまらないものになつて了ひました。殊に此場の背景には、しつとりした処が欠けて居ましたうへに、恐しくあさまな感じがしました。其為、折角の雅楽の音すら、徒らに、心を騒がせるばかりだつたのは、遺憾です。こゝと、由比浜との、紫・藍系統の色調のなま/\しさは、不愉快に思はれました。大道具の配置や、姿態には、過敏に働いた舞台監督としての博士の神経が窺はれますが、色調の上には、のんびりし過ぎた注意が見えます。此迄どほりの絵の具を使うて、舞台の上の気分が、此芝居に添ふものにならうと考へられたのでせうか。由比浜はまだ、背景の助力を仰がねばならぬ点は、少いのです。併し、小壺の場では、其が、致命の傷を負はせることになつて居るのです。

「別当院裏手山の上」の場で、狂女を追うて公暁が出て来た時の、小屋の中のとよみは、大変なものでした。おかげで、当時人気第一の高島屋なる人を知りました。如何にも、年よりは大柄な、どこか発達の整はぬ処のある十七八歳の少人には見えました。此は、上躰に充実を欠いて居るからだの上の不足が、却て都合によかつたのです。三角形の印象を与へる目も、武将の血を伝へた若者らしくあります。博士の覗はれた公暁と言ふ人間に、正にぴつたりと当てはまつた外形を、具へて居ました。其から、其内容も、誠に博士の考へて居られるものを、其儘具体化した様に思はれました。今の役者の中、脚本の解釈に、忠実と、聡明とを、此人以上に持つて居る人はない、と聞きましたが、なる程さうあらう、と存じました。けれども、私としては、少し言ひ分があります。此は、作者にも、役者にも、片棒づゝ担いで貰はなければ、ならないのです。脚本を読んだ時に、第一に感じたのは、公暁の出場デバが可なりあるわりには、段々内容の育つて行く跡が乏しい様に思はれたことでした。尤形は、色々と換へて行く工夫が届いて居ます。併し、心持ちの上では、何時迄も、一本調子の公暁であつたことは、脚本でも、舞台でも一つでした。ほかの役々は此問題に触れないでもよいのです。処が、此だけは、其では困ります。性格の開展を見せなければ、怨執ヲンシフの心も、あまり簡単明瞭過ぎませう。作者は、さうだ。其通り。一本調子な者に書かうとしたのだと言はれるでせう。だが、さうばかりでもない様です。序幕の第一場と、由比浜の場とでは、脚本には、幾分不良質を持つた、子ども/\した、即興的な性格に書かうとしてある趣きが見えます。舞台の上では、惻隠の情に駆られて、大小の判断を忘却する人間と言ふだけになつて居ました。もつと気まぐれに、注意の移るたちで、唯の腕白と言ふだけでない処が、加つてもよい、と考へました。博士は、舞台効果を重んじ過ぎて、性格の解釈の調子を、少しづゝ下げられた様です。あまり穿ちに陥つた言ひ分で、失礼だとは思ひますが、此は、妥協を極端に却けて来られた博士にも、自分の作物に、日のめを見せてやりたい、と言ふ心が七分と、残り三分の実演に伴うて、隈なく作者の解釈の見える処から出る異論の安全地帯なる平凡とが、曇りをかけたものと思はれます。そこらにうろついて居る実生活の人としては、公暁の性格描写なども異常でせうが、舞台の上のものとしては、平凡な人間・あるべかゝりの性格に過ぎないのです。史実に随順して行くと言ふことが、歴史上の人物を主題とした作物として、当然採るべき手段であることは、勿論です。此点では、歴史を異訳し、近代化して得意になつて居る脚本作者や、小説作者は、話せません。われ/\の仲間の写生と言ふことが、よい加減な抽象や概念の傀儡化などより、どれだけよいものを見つけることになるか、と言ふことを知らない人たちです。史実の写生とでも言ひませうか。此が、真相と芸術要素とを、どの位、作者に掴ませるかと言ふことは、さう言ふてあひには訣り相もないことです。往年、写実を主張せられたゞけあつて、なまな主観などは、ちつとも見せて居られません。私としては、博士の態度を、非常に嗜いて居ます。其で居て、たまらなく寂しい心持ちを、博士のいつもの史劇から享けるのは、どうしたことでせう。博士の所謂没理想の理想が、煩ひをなして、作家のもちあぢ(此は、役者の方と混雑して来ました。恐縮です)迄も、塗りつぶして居られるのが、もの足らぬのです。個性がすべてを解決すると申すと、あまり平凡な事になります。だが、其外に何がありませうか。故意ではないが、必然であります。此が抜きになつた歴史を主題にした作物は、つまらぬ物です。
其くだらなさは、主観を真甲に、史実を方便に扱うた物と、かはりはありません。歴史家で言うて見ると、史料編纂係りの人々の歴史論と同じ事です。抜く事の出来る筈でないもの迄抜かうとする企てが、成効する気づかひはありません。けれども、其色あひに、濃淡もあり、傾向にも、良いのと、良くないのとがありませう。出来るだけ、史実に随順した上に、寓つて来るある物が大切なのです。博士と鴎外翁との理想・没理想主義の争ひも、此点に、双方誤解を持つて居られたのではなかつたか、と考へます。返す/\も申して置くことは、近代人の心に触れる所があるとか、どうとか言ふ様なことを求めて居るのではありません。無成心の静かな心に落ちる影が見たいのです。博士のには、其が出ないで、代りに、為組みが出て来ることが、多いのです。忠実な史料調査も、史実に矛盾を来さぬ用意の上に、安心して空想を逞しくしよう、と言つた様に見えます。史論の窮極の形式は、戯曲であると信じて居る私の考へと、上面だけは似て居て、実は似てもつかぬ事、史実方便主義の主観的の作家に於けると、同じなのです。此は、博士の作物に対する根本の異論なのです。公暁の性格なども、舞台効果を、十二分に現す為の歴史研究は積まれて居ますが、博士に寓つた公暁の影が、あんまり薄過ぎます。博士自身さへ、必しも一本調子の性格と考へて居られたのでもなさ相だと言ふことは、既に言ひました。さすれば、単純なら単純なりに、性格がぐん/\と伸びて行く跡が見たいものです。深見の誘惑なども、博士は単に、復讐の動機を強める用にしか使うて居られません。三郎二郎出現の後も、公暁の心持ちは、一向こみ入りも、深まりもしては来ません。役者として、舞台監督から独立して働くことの出来るのは、此処なのです。高島屋と言ふ人は、一番あたまの働く人だ、とか聞いて居ますが、如何なものでせうか。あれでは、舞台監督の代理に芝居をして居るのに、過ぎなくなります。役者としての生きる処は、舞台監督の指定に従うても、出て来る筈です。よい公暁でした。併し、工夫の足らぬ公暁でした。博士にとつても、高島屋にとつても。連れの人は、此役者が、一本調子な性格を出すのに適して居ると言ふ事を教へてくれました。いつもじれつたがつたり、がさ/\したり、どなつたりする役どころばかりを好んでする相ですが、よい事でせうか。旧い型を棄てゝも、新しい殻が出来ては、何もならないのは、訣りきつた話です。此公暁なども、さう言ふ誂へ向きの役です。役者だからとて、勉強せなくとも構はぬ訣はありませぬ。博士の物をやるには、博士の読まれた史料の一部分でも読んで、脚本だけの解釈に満足せないで居て欲しいものです。無学であり、新しい教養のない役者でも、不思議に性格を直観して、実演の上に、驚く様な解釈力を見せることがある相です。此役者などは、をり/\古書展覧会などで見かけることもあり、色々な珍書を盛んに買ひ込むと言ふ噂も聞いて居ます。どうかさういふ道楽が、此役者を固定に導かないで、どし/\変化して行く助けになつてくれたら、と思はずに居られません。今度の公暁などには、二十歳からも若い男に扮しようと言ふ形の上の苦心は、よく見えましたが、案内してくれた人の言ひ分を信じれば、見ない先から考へて居た通りの公暁を見た、と言ふに過ぎないのでした。歌舞妓役者の近世での理想の一つに、かねると言ふことがあります。色々に分類して居る様々の性格の型を、一人でしわける能力のあることを言ふらしいのです。徳川の末から明治へかけて、役者が段々かねる傾きには、なつて来た相です。大阪役者には、其が著しいのですが、東京の方では、大立て者と言はれる側は、大体、役者が其役どころを守つて、あまりかねない風に戻つて来た相です。併し、此高島屋といふ人程、単調に同じ様な役どころをし続けて居るのも尠い相です。だが、此が、役者としての価値に、一釐・一毫の影響を与へることもないでせう。唯其結果、演出法が固定して来ると言ふ点が、問題になるのです。
脚本作者が、役者のがらに当てはまつた性格を書くと言ふことは、芸道の本質と言ふものを、単純に見たがる、謂はゞ頑是ない議論家たちは、罪悪見た様に言ひ相です。けれども、芝居と言ふものは、かいみいらなる歌舞妓芝居でないものでも、どの芸道よりも複雑らしいのですから、まあ/\そんな元気のよい気焔は、やすみ/\にしたいものです。芝居と言ふものは、どうしても或点迄、作者の此用意が必要であるらしいのです。其せゐか、此役者の為に、始終脚本を供給して居る岡本・山崎など言ふ作者も、一本調子な性格を書く傾きがあります。さうした作者と役者との調子合せから、出て来るのは、工夫・努力を軽減すること、安住・固定・堕落と言ふ手順なのです。新しい狂言をする毎に、苦しむのはせりふの諳誦だけだ、と言ふのでは、もう其役者も駄目に傾く一方です。ほんたうの意味での日本の近代劇の創始者、と公言してよい役者が、こんな処へ落ちこんで了はうとは思はれません。併し、舞台に現れた公暁には、博士が此人に当てゝ、此人の常習演出法以外の違うたものを註文して居られないのかも知れませんが、ともかくも、深い解釈も、新しい演出も何もなかつたのは、残念です。芝居する以上は、作意や、会話を思ふ通りに変へるのは、其は、罪悪だと言はねばなりませぬ。併し、かう言ふことをやかましく言ふ様になつたのは、脚本を文学作品と扱ふ様になつてからのことだと思ひます。芝居を文芸本位に見よう、と言ふ考へは、誰にも起り相ですが、考へ直さねば困ります。芝居は、文芸の附属ではありませぬ。脚本を重んじると同様に、大切にせねばならぬ要素が、まだ/\外にもあるのです。唯今の時代では、脚本に忠実だと言ふことが、芝居道では最高の行ひだ、と言ふ風に考へられて居ます。現に高島屋氏の新時代の役者の魁と見られて居るのは、此点が、第一の原因だといふことです。ところが、仮りに、其役者の能力に比べては低い脚本が提供せられ、其をせねばならぬと言ふ事があるとします。事実さうした事は度々あるはずです。能力の優れた作者でも、時としては其全体或は一部は値うちの低い脚本を書くこともありませう。さう言ふ時に役者は、どうするのが、ほんたうなのでせうか。私には訣りきつた問題です。けれども、芝居道関係の若い文学者たちには、そんな場合でも、役者は、自分の自由を縛られて居ねばならぬと思うて居る人が沢山あります。いや、さう言ふ人ばかりが居るのです。役者と言ふ者は、自分の権利以上に自由をしよう、とする傾きがありました。現に今も、其風は盛んです。能力でゞはなく、権力で、作者を圧へよう、とするのです。かう言ふあり様になり易い芝居道で、此脚本に忠実だ、と言ふ事は非常に褒めてよいことなのです。だが、私は、此役者に、此だけの註文はして置きたいと思ひましたのです。其脚本に随順して、忠実に、正当な解釈を下して、其上に、若し脚本に現れて居ない深みを捉へることが出来たら、其を、表現することに努める。返すがへすも、作者の解釈以外に出るのでなく、其を深めると言ふことに、気をつけねばなるまい、と思ひます。昔の作者たちは、南北・黙阿弥など言うても、其頃一流の役者と比べると、大体能力の点で、一段は確かに下つてゐます。其等の役者は、我儘も随分やつて来たでせうが、教養の乏しかつた彼等も、独得の直観力を以て、脚本の底に潜んで居る深みをひき出して来たことが多いことは、ほゞ断言してよからうと思ふのです。博士の脚本は、昔の作者の作つた物などゝは違ひます。併し、史実に囚はれ(随順すると言ふことを誤解せられた意味で)て居られる為に、自由な解釈が出て居ない処があります。役者としては、博士の提供せられたゞけの形に、深い内容を入れて行く事は許されて居るのです。かう言ふ処で、高島屋氏が友人たる文学者の文芸本位の議論ばかりを、すなほにとり容れて居るのも考へ物だ、と思ひます。

最後にたつたまう一役だけのお話をいたしませう。其は、後まはしにして置いた、成駒屋なる人の肝腎の実朝なのです。年がけ過ぎて居るから、若い金槐集の作者になりきることが出来ようかと言ふとり沙汰が、前々からありました。妥協と約束と伝襲とに立つて、舞台の上の色々な為事を進めて行く歌舞妓芝居では、見物にも、極度な自由鑑賞は許されて居ません。一見の田舎見物人の偶感などは、外の芸術が正当に却ける以上に排斥して居ます。(私どもの話も、実は却けられる筈の、偶感の一つなのです。)写実と言ふことも、約束と誇張とをフマへた上での話です。厳格な意味での写実は、いつも失敗して来ました。舞台の上の女形は、決してほんたうの女の写実だと思うてはなりません。写実の基礎を持つた空想なのです。女ではあるが、男の要素を多く見せて居る爛熟した味ひを持つた中性なのです。年齢の問題だつて然うです。ほんたうの十七、八の役者が、決して舞台の上の十七、八の若女形にはなることが出来ないのです。二十五にも、七八にも見えるものを十八、九と観じることが出来る様にならなければ、ほんたうの歌舞妓芝居の見物とは言はれぬのだ相です。花道のそばで見て居たら、口のまはりや、咽喉のあたりが皺だらけだつたなど言ふのは、頗やぼな所謂「百姓」の言ひぐさに属するのだ、と申します。さて、さう言ふ欠点を極軽く見ますれば、武家出の鎌倉右大臣に、此だけの品と、威と、優美とが備つて居た、とは思はれない程でありました。過ぎたるは、猶及ばざるが如しで、中門廊の場の、随身ズヰジンキヨをとらせての登場・退場など、此が、頼朝と、政子との間の子だらうか、と思はれる位でした。役柄其物に見えるのが、役者として努めるべき所で、役柄以下に見えるのは固より、以上に見えるのも名誉なことではありません。併し、不思議なことには、以上に見える方は、気持ちのわるいものではありませんから、以下に見えた場合の様には、悪評する人がありません。けれど、其は気持ちがよい、と言ふだけの事です。村井長庵が心から篤実な人に見えて了うたり、丹波屋八右衛門が和事師ワゴトシめいたりしては、事こはしです。併しさう言ふ処は、ある点迄許すことが出来るかも知れません。絵ごゝろを追うて、美しい夢を編んでゆく歌舞妓芝居では、以上であることは、美であるのですから、尠くとも悪感を起させないといふ点に、恕すべきゆとりがあるのでせう。博士が、此芝居の上場を許す条件の第一は、実朝を「以下」のにんを具へた人にさせる事と言ふ要求でなければならなかつたのです。此実朝には、貴い粗野が欠けて居るのです。生物シヤウモノの実朝は、其あらさを棄てる為に、可なり苦労して居た人かも知れません。成駒屋氏の扮した此若公家クゲは、同じ頃で言へば、後京極摂政などを思はせる姿でした。博士の脚本にも其傾きは十分あつても、かう迄ではなかつたのです。此は、前にも言うたもちあぢが、却て災ひをしたばかりでなく、成駒屋なる人の解釈能力の固定した所からも、来て居るのです。活歴(活歴史の略であることは、御存じでせう。福地桜痴と九代団十郎との趣味が合致した所から生まれた純形式主義の史劇です。歴史家の硬化した史論や、有職故実家の幻影を舞台に実現した迄と言ふ結果になつて、芸術味が非常に不足して居ます)のやり方が、どれほど従来の歴史観と妥協して居るか、と言ふことを考へて見れば、此準団十郎門人とも言ふべきフル役者の、実朝の性格描写の能力は、初手から知れきつて居るのです。年配などは、歌舞妓の性質上問題にするがものはありません。此一点は、頗重大な事なのです。なぜもつと、史上の人物に、自由批評をする可能性のあり相な人に此役を委任せられなかつたのでせう。
世間の人は、博士と鴎外翁とを、比べると、おつとり、博士を妥協風、森大人を非妥協派と言ふ様に、部類分けし相です。が、其は大違ひです。鴎外翁は、所謂、讃めて言ふと、和光同塵と申すのでせうか。長い役人生活が潔癖を和げたのだ、と申しませうか。我々の様な者には、可なり堪へ難いと思はれる様な妥協迄、度々して居られます。博士の方は、あまりに融通が利かな過ぎる、と思はれる程頑固で、言ひ出したらてこでも動かない、と言ふ性癖を屡暴露して来られました。其周到な倫理観が度々道学式に見え、苦労人としての考へ方が、常識一遍のものと見られ勝ちでした。没理想を唱へ、倫理主義を抱いて、日本中で一番穢れた社会、と考へられて来た河原者の中へ、平気に踊り込んで行かれたのですもの、凡庸な人たちには、妥協風の人と思はれるのは、無理もありません。けれども、博士の、世の中に対してとつて来られた態度を思ひ反すと、森大人と案外な対照を作つて居られる、幾多の例証をお見つけになるでせう。処が、此人にして此病ひありで、芝居三昧・芝居金太郎・芝居こがれとでも言ひませうか、恐しくこびりついた熱病が、博士自身に倖ひするよりも、災ひすることの方が多かつた様なのです。博士の事業は、幾度も挫折しました。可なりの金高も失はれたでせう。弟子殊に、子飼ひの弟子や、養子に迄も、背き去られました。畢生の事業とも思はれた芝居の団体さへ、今思うて見ても、傷ましいばかり、根から覆つて了ひました。古くは、教育界に隠れ込まれたこともありました。近くは、劇壇と一切の交渉を絶つよしを公言せられさへしました。其にも係らず、いつも何時の間にか、ちやんと芝居の世界に戻つて居られます。真に、「生き替り死に替り思ひを霽さで置かうか」と言ふ概があります。漱石氏の妥協ぎらひには、支那式の文人臭いてらひと、江戸つ子の見えばうとが、よく見え透きます。博士のは、も少し底があります。博士が若し、世の中で一番臭い所謂河原者仲間に好意を持つた通人肌の人だ、と言ふ世人の誤解がない様な生活をして居られたら、恐らく狷介な一学究と見なされたのにきまつて居ます。今度ももう、星月夜限りで、芝居の仲間入りはせない、と言うて居られます。が、博士の執著心は、そんな宣言に縛られ了せるものではないのです。ねついしつこい芝居金太郎の心は、外の社会に対しては、すこしも示されたことのない、妥協のゆとりをつけるのです。博士は、厳格に、作者の境界を犯さすまい、と守ると同時に、作者ばかりが、芝居を形づくるものでない、と言ふことを明らか過ぎる程、呑み込んで居られます。其翁に、渋面作り/\止むなく妥協して来られたことも、随分とあつた様です。かうした矛盾に悩んで居られる博士は、私にとつては、森大人のやりくちよりも、遥かに心の底に触れる所がある様に感じます。世間に対して、弱い鴎外翁と強い博士とが、反対に考へられ勝ちなのは、此事ばかりが、原因なのだ、と言うても、よい様です。
歌舞伎座の幹部技芸委員長であり、貴族風な顔と、品とを持つて居る、と言ふ自負のある成駒屋と言ふ人は、当然実朝にならう、と考へも、言ひもしたでせう。けれども、なぜ、博士は、おして其不心得ををしへられなかつたのでせう。世人の公家の容姿に対する伝襲的な考へにぴつたりはまつて居ると言ふ点から、喜んで此大事の役を、虚脱した若隠居化して了ふに極つて居る此人に許された訣では、まさかないでせう。どうしても、座頭格で居る成駒屋に、主人公をさせねば、此芝居は、うまくをさまるまい、といふ興行人や、見物人の心持ち迄も、知り尽した博士には、肝腎要の処で、第一の妥協をして了はれたのでせう。前にも言うた通り、位置を護らうとする政治風な色あひを始中終見せて居る、と言ふ評判の(一見イチゲンの私にも、さう見えました)女形役者に、尼御台所の役がうつてつけの物だ、と言ふことに気のつかなかつたはずはないのです。
成駒屋なる人の考へでは、唯ひたすら憂鬱な性格、と見えたのでせう。どんな御馳走を頂いても、其中から、唯一苦味だけを味ひ出さう、と言ふ様なたちの人で実朝があつたなら、成駒屋氏の演出で、ある点迄は、満足が出来ます。併し、私どもは実朝をもつと、一図で素朴な人、気随ででりけいとな人、気まぐれで衝動風な人、敢行力はあるが反省し易かつた人、と考へて居ます。そんな風な処々は、の毛で突いた程も、見えませんでした。俄分限者ブゲンシヤや、高持タカモち百姓などが、むつかしい文句には無関心で、謡を謡うて居るのを聞いた時と同じ心持ちが、唐船や、小壺の場の長ぜりふの間に起りました。くろごとかくろんぼとか言ふものが後につくのは、開場後日の浅くて諳誦しきれないで居るせりふをつける為だとか聞きましたが、さう言ふ場合には、かうもあらうかと言ふ様な、感情と語とが、お互にちぐはぐに遅速して、とんでもない処に、とんでもない思ひ入れが、割り込んで来たりしました。其でも、始終受け身になつて居た尼御台との対話の間は、湛へて居る力が、屈托した夢心地の頭にも、印象しました。してになる小壺沖中は、全くぢり/\する程むづ痒いものでした。「サマしてやつたらむごいはい」の幕切れのいやな伝襲風の形といやな活歴と新史劇(高島屋一派には、妙なえろきゆうしよんがあると聞きました)とをつきまぜたせりふまはしとは、此人の実朝役の評点を、一挙に落第点にするがものは、ありました。

吾妻鏡をば、実朝の性格研究の根本史料として居る間は(為方がないにしても)、実朝は歪んで見えるばかりでせう。噂話と、伝説と、其から故意の修正とが、かの書物の性質上、きつと十二分にわり込んで居るのです。博士は、吾妻鏡の囚れから脱しきることが出来ませんでした。其ばかりか、随順と、直観とをふり落して、単なる羅列に止つて居る処が、多かつたのです。私どもは、今の近代劇の信仰家の様に、思想がないから、主題がないから、どうのかうのと言ふ様な、文芸的方面を偏重した論者の気焔を演劇と言ふものゝ本質に、理会がないからの言ひぐさだ、と甚口はゞ広い申し分ですが、さう信じて居ます。併し、博士の様に、為組みに行き届いた注意の下に、真の意味の性格描写の手落ちが見えるのを、残念に思ひます。私の言ふ性格は、機縁を拡充して、宿命化して行く悲劇の根本の力となるものなのです。博士は、尼公・実朝・公暁の悲劇と註せられましたが、此悲劇は、運命悲劇でもありません。固より性格悲劇でもありません。関係悲劇(まづい語ですが、人事の交渉から出て来ることをすのです)とでも申すべきものでせう。見物を詭計オコハにかけて、あつと言はせた旧式の結構の欠陥は、十分知つて居られる博士です。骨が舎利になつても、昔の作者の手法をなぞられる様な時が来ようとは思ひません。けれども、芝居の形式方面に就いてのあり剰つた知識が、今後、そんなはめに博士を近づけ相に思はれてならないのです。
私の育つて来た時代は、博士や鴎外翁の感化の正当に及んで居た頃です。此二人の方から、純文芸の方面で、どれだけ啓発せられて来たかは、御同様の年配の者の外には、訣りますまい。「牧の方」を見たのは、やつと中学生になつた頃だと存じます。春陽堂から出たくろうす表紙に三つ鱗の紋所を押したあの本の扉かどこかに、此脚本は、実朝・義時の事を書くつもりの、追つて出る、二篇と相俟つて、三部作に纏ることになるのだ、と言つた添へ書きのあつたことを思ひ出して、更に博士の執念深さ・ねつさに驚歎します。
世の中は変りました。舞台と、役者とに、非常な注意と、造詣とを積んで居られた間に、見物は、すつかり変つて了ひました。思想や、問題を含んだ考へ物芝居を要求する時勢になりました。かう言ふてあひは、確かになま半可な人たちです。併し、其外の見物も、だん/\育つて行きます。子役の金切り声や、愁歎場などは、涙を誘はれる様な人も、尠くなりました。ほんたうに芝居を見る地ならしだけは、博士(一部分は鴎外翁その外)のおかげで出来て居ます。為組み本位の芝居も、もう一段落になるべき時でせう。
茂吉さん。御迷惑な話を長々としました。此で止めます。さあどうぞ、十分、畳の上へ手を伸して、ほう/\とした息をついて下さい。





底本:「折口信夫全集 22」中央公論社
   1996(平成8)年12月10日初版発行
底本の親本:「かぶき讃」創元社
   1953(昭和28)年2月20日発行
初出:「歌舞伎の研究 第一輯」
   1950(昭和25)年10月発行
※底本の題名の下に書かれている「大正九年五月執筆。昭和二十五年十月「歌舞伎の研究」第一輯」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:酒井和郎
2020年9月28日作成
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