芝居の話

折口信夫




○此頃いくらか、芝居が嫌ひになれた様な気がする。性根場になつて、どうにもこらへられないで、とろ/\する事が多い。其でも尚芝居に行つて、廊下を歩く気持ちがよくて、やめられないと言ふ人もある。私もさうかと考へて見たが、廊下で知り人などに会ふのは、思つても愧しい。幸と、しげ/\出入しながら、芝居で、あんまり人に会うて、赧い顔をした事がない。私の知つた範囲には、芝居ぎらひが多いからであらう。ひよつとすると、誰にも知られずに居られるところだから、一番のう/\するのかも知れない。話をした事のない方で、YIさんなどには、ずゐぶん出くわした様だ。併し、其すら却て、静かな気分を助ける側にはたらく様だ。一度鹿児島のはと場で、国の町の電車などで、よく見かけた人に出あつた事があつた。其時の気持ちに似て居る。親代々の町人だからかも知れない。深い山や、離れ島にも行つて見たが、しん底おちついた気分になつた覚えがない。そんな静かな処で、さわだつ心が、芝居の桝に小さくなつて居ると、不思議におちついて来る。ひどい神経衰弱なのである。
○私の下にまだ二人、弟が居る。日曜日などには、このたつた二人の目下だつた弟を、一日中いぢめて泣かしたものだ。父はうるさがつて、いつからか、日曜日にはお小遣ひをくれて、千日前の「にはか」を見にやつてくれる癖が出来た。時には、其目的の為にわざ/\二人に泣き声たてる様に、し向けた事もあつた。父が「にはか」だけ自由に見させてくれた心持ちは、今でもわからない。其ほど厳格な人だつたのである。千日前には、向ひあはせに「鶴屋一座」と「宝楽、たにし一座」とが下足札をぴちや/\叩いて、客を喚んで居たものだ。五つ六つの頃一度、何でも、家の女の人々に宝楽の方へ連れて行かれた事があつて、宝楽の顔の深刻な処を、猿芝居の猿に聯想して脅えた事があつた。宝楽と言ふのは、立派な顔の「にはかし」であつた。猿に似て居ると見たのは、其頬骨と大きな目とにあつたのだらう。猿芝居がこはくて為方がなかつた頃である。でも、猿と宝楽を一つに見て、舞台から飛びおりさうに思うて泣いて、連れて行つてくれた人たちが、小屋から出なければならぬ程に、泣いたといふのは、今でもあんまりだつたと思ふ。あの時分から、神経衰弱見たいなところがあつたのではないかと思ふ。一人で出かける高等小学の頃になつても決して西側の小屋には這入らなかつた。団十郎団九郎(最初は名が違つて居たと思ふ)の方ばかりへいつも出かけた。だが、ある部分まで「大阪にはか」の古い物は、七八年も見つゞけに見て知つて居る。
○やつぱり私の尋常小学から高等に入つたか入らぬかの頃に、家の東隣りの鰻屋の兄むすこが、三桝稲丸と言ふ東京から来て居た役者の弟子になつた。其で、その弟と同年配だつた私は、よく日曜には、此役者の弁当を持つて行くため猪之さんと言ふ子にお供して、「中の芝居(中座)」の楽屋口を這入つた。稲丸が東京へ帰つても、稲升と言つた息子は、中村玉七の預り弟子といふ格で、何でも五六年も中の芝居ばかりへ出て居たと思ふ。だから、中の芝居の事なら、舞台から客席へ亘つて居る天井裏から、奈落の暗がりの事までも知つて居る。今でも耻しくなるのは、幕がしまると、猪之さんと私が、ばら/\と花道へ飛んで出て、今這入つたばかりの役者のまねをして、六法を踏んであるいたりした幻のちらつく時である。
○京都の話をわりこませるが、あの「ぢみ」でひつこみ思案の都会が、関西に於ける新しい芸道の抱き守りを務めて来たのは、明治三十年四十年代の事である。大阪だつて、無批判にすべてを受け入れる群集の町であるが、京都となると、「ぢみ」な生活の上に幾分の新味を求める気持ちから、理会が出来て、さうした上に、舌の上にどれだけか新しみの残る様な平俗な芸道に、自然に尊敬を持つて来たと見える。その上、経済的に極度に緊張して居るあの古い町では、大阪の様な大芝居は持つて居なかつた。と言ふよりは、大一座の役者を捌くしうちが居なかつたのである。要するに「エダ芝居」と大阪で言ふ種類の物が、第一流として一二ある外は、関東の「おでゞこ芝居」、大阪の「こじき芝居」と称せられる宮芝居風のものであつた。一流に位どられない間の若い芸道がこゝで育ちよかつた理由が知れよう。「曾我廼家」もさうだ。「楽天会」もさうだ。あゝ言ふ軽い気分で見て居られるものが、後から/\と新京極などから、巣だつて行つた。たつた其人一人が亡くなつた為に、楽天会が悲運におちこんだと見られる渋谷天外など言つた男は、私の中学一二年の時分に、二三度鶴屋団十郎一座で見た事のある顔である。而もまだろくに物も言はして貰へない役をして居た。それがどうだらう。十年たつて、新京極の小屋で見た時は団治(後、団五郎)と言ふ師匠の名を継いで、後に楽翁となつてひどく病質になつた「曾我廼家箱王」と言ふのとで、きり廻して居たのを見て、さすがは京都だと思うた。其から一両年すると、楽天会と言ふのを組織して、大阪から東京までも羽根を伸す事になつたので、揺籃地として適当な此旧都の力を知る様になつた。其先輩の「曾我廼家」一座もやはり、此顔見世以外は、一年間枝芝居・乞食芝居で辛抱して居る町人の手で育てられて来たのであつた。其今一つ以前にこゝを根じろにして居たのが、実川延二郎一座であつた。晶子さんに「京の橋千鳥飛ぶなり。延二の薄き茜の幟の上に」と言ふのがあるのは、此から話す事の四五年後の有様をもつと後に印象的に述べたのだと考へる。
○なんでも「中の芝居」に行き出してから、五六年目に其一座が乗り込んで来た。へんてつもない「青年芝居」とか言ふ字を書いた「竪看板」の字が、ひどく新味を感じさせた時代である。座頭が延二郎で、其次に延之助(後、実川八百蔵)と言ふのが居た。二人とも変にかどばつたおでこの役者で、美しいとは思はなかつた。顎の長かつた方のおでこが、二十年程たつて改名して延若となつたのであつた。其時きり寅さんと言つた三桝稲升が、其一座に這入つて、中の芝居の座つきをよして、京都や地方廻りをする事になつたので、たまに祖母について行く外は、道頓堀の芝居へ出入りする事もなくなつた。
○此中の芝居通ひの間に、斎入になつて死んだ市川右団治(次を用ゐない)の芝居は、ほんとにいやと言ふ程見た。「カネる」と言つた芸風の人ではあつたが、芸の素質はさして広い人とは言へなかつた。「立役」はしても「実悪ジツアク」を兼ることは絶対になかつた。「娘形」は近年になつて思ひ当つた事だが、今の中村雀右衛門さへ其型をうつして居る点が多い位だ。而も、「おやま」としては、其外には手は出さなかつた様だ。





底本:「折口信夫全集 22」中央公論社
   1996(平成8)年12月10日初版発行
底本の親本:「日光 第一巻第四・五号」
   1924(大正13)年7・8月発行
初出:「日光 第一巻第四・五号」
   1924(大正13)年7・8月発行
※初出時の署名は「釈迢空」です。
※初出時の表題はありません。旧全集掲載時に付されました。
※底本の表題の下に書かれている「大正十三年七・八月「日光」第一巻第四・五号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:酒井和郎
2021年1月27日作成
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