涼み芝居と怪談

折口信夫




東京の年中行事は、すべて太陽暦ですることになつてゐる。勢、盆狂言も、新の七月に興行せられる訣である。「夏祭」や「四谷怪談」など今行つてしゆんはづれの芝居ではない。だが暑さの峠を越さうとする頃、どうかすれば朝夕の蜩の声が、何か寂寥を感じさせる時分が、季節感にぴつたりしてよい。さうした初秋残暑の気分にゐて、見物する積りになつてほしい。
夏祭の方は、丸本歌舞妓である。書き卸しは延享二年七月、並木千柳・三好松洛・竹田小出雲の合作で、団七九郎兵衛・釣舟三婦・一寸徳兵衛と角書きして「夏祭浪花鑑」とある。此時団七とお辰との人形を使うた吉田文三郎が、格子縞の帷子のだて姿や、女の夏の旅姿に浅葱の綿帽子を考へ出した――近年東京でのお辰は、此定型に従はぬ事になつてしまつた――上に、九郎兵衛の人形に本水を浴せる工夫をしたりした。
同じ年に、京都を最初に、大阪では三座、歌舞妓の舞台に競演せられた。大体が大阪じこみだけに、其土地性が十分出てゐるのだが、江戸風の立引に似た傾向は、安永二年に江戸へ輸入せられる前に、既に現れてゐる。つまり角書に見立てた三立者に対する英雄崇拝が、段々強くなつた為らしい。堺無宿の宿無団七と言ふ、――元、ぼてふりの――名を持つた浮浪人と言ふ特殊な境遇に在る主人公である。元禄の片岡仁左衛門が既に、「宿無団七」を演じ、主要人物の名は、夏祭其まゝであつた。
其古狂言飜案の上に、其年の春露顕した長町裏の殺人事件をはめたのである。筋よりも登場人物の性格の明るさが、人の心を牽いたものであらう。さうした階段は階段として、筋の通つた義理人情の生活が、人の心を潔くしたに違ひない。かうした通俗的な倫理観は浄瑠璃の世界で、鍛へられて来た向ふ三軒両隣、互に安んじ得る道徳性である。
大阪の夏祭りは、六月の初めから、諸所で引き続いて行はれ、月末の住吉祭りで終る。其中間に高津祭がある。道頓堀長町かけて祭りでごつた返してゐる最中、而も何処か祇園囃しの鉦太鼓が、清らかに澄み響く日を中心にして、事件が推移するやうに書かれてゐる。徳兵衛も三婦も皆侠客といふ程のものではない。見物のどの層と比べても、遥かに低い身分の人たちである。其でゐて見物が、舞台にうたれるのは、芸能を通して新しい倫理的了解を得る所があつたからであらう。形式道徳から言へば、認容出来ぬ問題を、見物のすべてに課するのである。さうして一挙に、人々を卒業させようとする。
ところが今日尚、上演毎にこの問題が、むし返されるのは世の倫理観が確立しないからである。
善人三人、之に扮する役者にとつても、快い役柄である。之に扮する松緑・海老蔵・男女蔵三君が、どの度合ひまで、此役の持つ上方色と江戸性とを了解して演じるだらうか。此は単に演出の問題ではない。根柢の理会にある。
夏芝居に怪談物の出ることは、人の心をひいやりさせて清涼の気に触れさせようとするのだと言ふ。雑談ではない。もつと正しい理由がある。夏枯れの芝居町に、遊食するに堪へぬ二流三流以下の人事雑用稼ぎにした「涼み芝居」から盆芝居へと、接続する為に、夏芝居が自ら盆狂言の傾向を持つて来ることになる。
地方の役者村や、又素人の地狂言を行ふ村々があつて、其に特殊のれぱあとりいを持つて居た。古くは念仏踊りを踊つた十王堂や、地蔵堂などで、之を行ふことになつた。此は盆に游離徘徊する地方々々の浮ばれぬ無縁亡霊を和める為にした訣で、幽暗な気分を持つた地芝居が多かつた。関東から中部地方へかけて、盛んに行はれたもので、江戸芝居とても、元々さうした地理に育まれて来たのだから、盆初秋には怨霊退散の狂言が、早くから用意せられてゐたのである。
近い方から言つても、黙阿弥作の「新累女千種花嫁」が慶応三年七月、同じ黙阿弥の「小幡怪異雨古沼」が安政六年七月、この「東海道四谷怪談」は文政八年七月中村座に書き卸したものである。涼み芝居と盆興行との接近してゐる処から、夏芝居が怪談物に傾くやうになつた径路も察しられよう。四世鶴屋南北は尾上松助(初代)に知られて音羽屋の為に、色々な怪談物も書くことになつた。松助の子三代目菊五郎の為に書きおろしたのが、「四谷怪談」で中村座の舞台にかけた。此が文政八年七月のことである。之より先文化八年七月市村座盆興行の為の「謎帯一寸徳兵衛」が出来た。世界を「夏祭」にとり、役名までそつくりはめて書いたのが「謎帯」である。而も役名をすつかり変へ、書き卸し当時、一番目が「忠臣蔵」であつたところから、世界も「忠臣蔵」にとつた。「四谷怪談」は、主要人物の性格まで、「謎帯」そのまゝに書いてゐる。
お岩は全く南北の空想の積り積つて出来た性格であらうが、其私刑の相手になつた小平には、前型のあつたことは誰も知つてゐる。言ふまでもなく、江戸芝居自体から生れた怪談と言つてもよい小幡小平次をはめたのだ。お岩の実説と言ふものが数種伝つてゐて、互に矛盾もあり、此芝居が名高くなつてから、出来た話も多いやうで、一向信じられない。唯嫉妬深くして家出した女房が、時あつて門から自分の家をのぞくと謂つた気味わるい話などに、当時の巷談をそのまゝ伝へたのだらう。浮世で苦しみを多く積んだ程、生れ更つて後、神としても仏としてもよい位に上れるものと信じてゐた時代である。極度の呵責を受けると言ふことが、来世の光りになると信じてゐた為である。
今ではお岩の型は、音羽屋系のもの以外にないやうに思はれてゐるが、別に、小団次系の工風の多い演出があつて、大いに参酌せられてゐる。その小団次の子の斎入に伝つた型が、大阪にはある。今度鴈治郎君の舞台にはそれが相当に菊五郎型に融合せられて出て来るものと思ふ。単に、鴈治郎一存で出来たものではない筈である。大いに期待してよい次第である。





底本:「折口信夫全集 22」中央公論社
   1996(平成8)年12月10日初版発行
底本の親本:「新橋演舞場」
   1949(昭和24)年7月5日発行
初出:「新橋演舞場」
   1949(昭和24)年7月5日発行
※初出時の署名は「釈迢空」です。
※底本の表題の下に書かれている「昭和二十四年七月「新橋演舞場」」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:酒井和郎
2021年6月28日作成
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