鶴屋団十郎

折口信夫




文楽の人形が来て、今年はとりわけ、大評判をとつた事は、私どもの肩身をひろげてくれた様な気がする。私どもより、もつと小さな時分から、もつと度々見た人で、今東京に住んでゐる方々も多い事であらう。さう言ふ向きに対しては、気のひけることだが、何だか書いて見たい気がおさへられない。さうしただんまりの満足者の代表人として、ほんの私らが言ふ事も、喜んで貰へさうに思ふ。私さへさうである。二十五年来、鴈治郎が来、曾我廼家が来、曾呂利や、枝雀が来して、次第々々に大阪風の芸事が、東京の人々に認められて来た都度、受け/\して来た印象を、新しく蘇らせる事が出来る。其ほど正直な喜びを重ねて来て、やつと上方のいき方すべてに対する自信を得たのであつた。
四の替りには、太功記もかゝつた。妙心寺などでも、「口」から出つかひしてゐるのには驚いた。人形つかひを認めさせる為には、よい事に違ひない。が、何だか独り寂しい気がした。人は、よくまああゝした人たちの動きが、人形の邪魔にならぬ事だとほめた。私には、うるさく/\為様がなかつたのに。旅興行だからよいとして、此が大阪でも本式になつたら困ると思うた。
稲荷の「彦六ヒコロク」座の記憶は、話せば嘘になりさうな程薄れてゐる。越路(摂津大掾)太夫さへ、まだ、津太夫や孫太夫を凌駕しきつて居なかつた時分の事が思はれる。眉の美しく伸びた翁になつてから、摂津大掾を名のつた時の、楠昔噺をひろめに語つた事なども思ひ出す。「どんぶりこ」とか言ふそんな時分まで、文楽のきり見立ち見は、一銭であつた。越路の語り場になると、二銭とられるきまりであつた。畳なら二畳もしけない土間が、其きり見場であつた。誰に教へられたとも覚えない。いつの間にか、ぎつしり詰つた人ごみの前に出て、ませの棒に腸のちぎれる程おしつけられながら、一銭々々ときり見の金を払ひ乍ら、見てゐた事を思ひ出す。大掾がすんで、後狂言などに移る時分は、大抵まだ日は高かつた。其が済むなり、真一文字に、御霊の社の東露路をぬけて走り出した少年の私を、見た人もあるだらう。
私の家は、一里の余もあつた。坐摩の前を走り、順慶町へ折れて、新町橋の詰を真南へ西横堀の続くだけ馳けた。某の邸を対岸に見て、深里のすていしよん前から難波に這入つて、其からまだ東へ十町あまりも行かねばならなかつた。私の父は末に生れた私のゆく末を思うて、馳り使ひに馴れさせる様に、下女や雇ひ人の代りに逐ひ使うた。十に足らぬ頃から、一里に近い路を新町橋まで、茶を買ひにやられた。卅年前の金だから、使ひ賃は二銭位であつた。其後、五銭まで貰うた事を覚えてゐる。数へ年十三の春、中学へ入学する前には、もう茶屋から北へ十町行つて、御霊の文楽の人形を見ることを知つてゐた。
遊芸事の嫌ひであつた父は、茶買ひにやるほまちが、まさかさうした役に立つてゐたとは思はなかつた。併し其がある時、近所の人に見つけられてから、出来なくなつた。
この間に、芝居だけは、父には内証で母たちがやつてくれてゐた。…………
でも、其芝居にも離れねばならぬ時が来た。稲丸が東京へ帰つて、稲升は、中村玉七の預り弟子として暫らく居る中に、三河屋の荒二郎について横浜へ行つて了うた為であつた。此が中学二三年の頃である。其前から私は、大阪俄を見る様になつてゐた。
当時まだ、大阪には、大芝居・浜芝居・乞食芝居と三通りの区別があつた。阪東簑助が、千日前に新しく建つた小屋へ呼ばれて来たこともあつて璃※(「王+玉」、第3水準1-87-90)の弟で今の※(「王+玉」、第3水準1-87-90)蔵といふ人の親になる※(「王+玉」、第3水準1-87-90)太郎といふのが、その後これも石山に建つた横井座といふのへ出て、兄から義絶せられた事も聞いた。その簑助のかゝつた座が、後に改良座と名を替へた。其向ひがちようどたにし・宝楽の俄の座であつた。小さな頃一度、俄を見せられて、宝楽の顔を見て脅えて泣いた事がある。何故か知れぬが、猿芝居を見た恐怖とおなじ心持ちだつた事を記憶してゐる。宝楽といふのは、源之助だちの面長の男であつたのに、どうして泣いたかわからない。唯其後長く行かなくなつた。此改良座へかゝつたのが、壮士俄であつた。壮士俄は直に居なくなつたが、後までもさう称へてゐた。たにし一座に対して、素人俄の形であつた。此が大阪高島屋の一種鶴屋をとり、成田屋の団十郎をそのまゝに鶴屋団十郎を名のる様になつた。つまり大阪一東京一、俄の親玉になるつもりだつたらしい。其弟子には団十郎、吾郎、松蝶などいふのが居た。段々団三郎、団五郎などがかゝり、団四郎、団八などいふてあひも入座した。





底本:「折口信夫全集 22」中央公論社
   1996(平成8)年12月10日初版発行
※底本のテキストは、著者自筆原稿によります。
入力:門田裕志
校正:酒井和郎
2021年2月26日作成
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