手習鑑雑談

折口信夫




私どもの、青年時代には、歌舞妓芝居を見ると言ふ事は、恥しい事であつた。つまり、芝居は紳士の見るべきものではなかつた。だから今以て、私には、若い友人たちの様に、朗らかな気持ちで、芝居の話をする事が出来ない。私の芝居に就いての知識は、謂はゞ不良少年が、店の銭函からくすねて貯めた金の様な知識で、理くつから言へば何でもないことだが、どうもうしろめたい。どうも私の話につきまとふ卑下慢式なものを嗤つて下さい。
此は芝居に限らないが、一番問題になるのは、作者が作中の人物の中の誰に、一番愛著を持つてゐるか、と言ふ事だ。近松は、作中の人物に、愛情を美しく傾けてゐる。近松以後にはそれがない。愛情はあつても、どうも器械的な気がしてならぬ。さすがに第一流の文学者だけあつて、其を持つてゐるから、近松のものを読むと、深いやすらひを感じる。
近松以後、舞台技巧は格段に進んでゐる。舞台に出てゐる人や人形は知らないで、様々の葛藤や煩悶を重ねてゐるが、見物人は知つてはら/\してゐる、と言ふ様なとりつくめいた技巧を用ゐはじめた。近松から大内裏大友真鳥か何かで、とりつくの骨を授けられたと伝へのある、竹田出雲が、うんと技巧は秀れてゐる。さう言ふ点ばかりから言ふと、近松に優れた作者は幾人もゐる。それを思ふと近松は結局詞章が巧なと言ふ所に帰する。さう言ふ風な判断を、今までして来てゐた。併し、この年になつて、安心を感じる様になつた。戯曲殊に、浄瑠璃の構成よりも其を乗り越して、大事なものがある。即、作者の愛情が一貫して現れて来ることが、もつと必要なのであると言ふことに気がついた。
今日では、新劇の人達も、祖先の遺産として、歌舞妓を賞めてゐるが、それがもし、舞台技巧などに関して賞めてゐるのだつたら、それは間違ひだ。
さう言ふとりつくめいたものばかりを、人形芝居の作者の舞台技巧といつては、気の毒である。もつと劇の根本構成にも、なか/\いりくんだものを案出して、後々に遺産として残してゐる。だが、如何にも、其が「技巧々々して」ゐる限りは、浅まな気がする。手習鑑は勿論、さう言ふ技巧が可なり進んでゐて、とりつくらしいものも、浅まな感じは少いだけ、破綻を見せることも少く行つてゐる。併し、此作は舞台技巧に重点をおいてばかり見るべき作ではない。其だけやはり真実性は相当にあるのである。

手習鑑も、今ですら、道明寺や賀の祝は、見てゐて、役者不足がしみ/″\感じられるのである。まして、今度の座ぐみが出来るまでに、菊五郎が梅王・松王・桜丸を一人でしようといつて、人々の気をわるくさせたと言ふ噂が新聞に出てゐた。菊五郎は兼ねる意識を持ち、其を見物の頭に印象したがる熱意を持つてゐるやうな伝へが多く世間へ洩れる。そんなことはないかも知れぬが、又ありさうな気もさせられる。まあ此上、真女形に上成績なものを幾つかしあげてからだ、と世間自らさう認めることになるだらう。芝居町の噂などに耳を立てるだけでも紳士らしくない恥しさを感じるが――菊五郎が、三つ子の兄弟を一人でして見ようといふ考へを起したといふだけでも、芝居全体に無人になつた感が深い。無理もないと音羽屋党を以て自任せぬ私どもも、なる程と思ふものがある。
菊五郎は、其だけ常識に謂ふ頭のいゝ人で、演技の正確さは無類であるが、併し技術よりは、すべての構成の「勘」の優れた人で、完成した構造を思ひ浮べる――その的確さが、彼の舞台における寸法を正しく見せるので、其が見物には正確な演技といふ風にうけとられることが多い。いつも限度を感じさせる役者だ。彼自身も限度を知つて、情熱を失うた役々を見せることがあつた。だから、得意でないものはきほひこんで受けとるやうな態度をとるのが本道だ。

手習鑑では、桜丸が最なつかしく、恋しく、悲しい気がする。普通の女の人だつたら、桜丸の幻影を思ひ浮かべると共に、自分は桜丸に価ひしない女だ、と謙譲感を起すに違ひない。それが亦、昔の女の人らしい倖せでもあつた。併し、人形の方の桜丸は必しもさうではない。恋の手びきは固より、「道行」のしりおしになつて、荷物の代りに斎世ときよ親王と刈屋姫とふりわけに担つて落ちて行くのである。此様な事が、普通の人に出来る事ではない。つまり、牛飼ひ舎人だけに相当力のある人に考へてゐる。処が、そんな大力の男だと思ふと、桜丸に対する幻影はこはれて了ふ。加茂堤の八重との色もやうなども、浄瑠璃で見ると、相当な立役に書かれてゐる。成熟しきつた男を浮べずには居られない。人形の方の作者たちの間の最初のうち合せでは、さう言ふ桜丸だつたに相違ない。
菊五郎の桜丸はよかつた。この人の近年における成績だと思ふ。歌舞妓芝居では、あまり生得の素質に重きを置き過ぎて居ないか。この桜丸を見て、つく/″\さう思うた。まことに幸福な機会を、菊五郎がつくつてくれたと思ふ。よく出来た時に、其にのつて褒めると言ふのは、ほんたうに我々も共に、善良な気分を愉しむことが出来るものである。世話物だと無条件の讃美をいつも追随させてゐる菊五郎だが、時代物になると、必条件がついて来る。其がたとひ満点に近い感じのある出来であつた時でもある。併しこれはある点よいことでもある。菊五郎が即興と感激とに推進せられた形で演じてゐる舞台でも、必構図を持つて居て、その筋に沿ひ乍ら、飛躍をする。さう言ふ場合は、きつとよい。時代物の場合、その構図に相当の誤算が出て来る。彼の描写癖が表現に到らないで、生命の一聯が様式化せないで、末梢的な好演出に寸断せられてしまふことがあるのである。断片的によいといふことは、みえみえを繋いで行くやうな旧式な演出ならば、其でよい。菊五郎のやうな新演出によらうとする歌舞妓芝居では、うそになり勝ちである。凡其を最よく知つてゐるのは、菊五郎自身である。だが約束通りの見えきる場合にも、四分か五分か――こんな程度を言ひ表すのも変なことだが――で、とめてしまふ。何かきつぱりせぬものが残る。みえの本意を失ふわけである。だから、約束のみえになると、菊五郎よりも、見物の方がてれくさくなり、気恥しさを感じる。でも全く、其を避けてばかりも居ない。時として、突如として大みえをきることがある。大口寮の外で、丑松に別れる時、「筑波颪に……」と言ふくだりで、をこついた最近の直侍には、全く驚かされた。土台、をこつきを大事としてゐる踊りにだつて、之をよけてあんなに変に上品めいたものにしてしまつた彼である。――此などは一例だが、舞台を印象的に切断せぬところに、菊五郎の特徴があるのでもあり、部分の演出に執著して、其を切断してしまふこともある菊五郎である。しかし此矛盾はわかると思ふ。投げるとか、気のりせぬとか、たかをくゝるとか、彼の気風の論ぜられ勝ちなのも、此寸断が起る時である。同時に名人上手のやうに言はれるのも、多くはかうした場合を捉へて言ふやうである。
私は菊五郎同様、世話物ではみえをなくする方向に進んで行くのが、正当と思ふ。だが時代物では、今の処みえを棄てたら、どうなるだらうと思ふ。恐らく手も足も出ないことゝ思ふ。おなじ型物でも、之が緩慢に来るものと、頻繁に重つて来るものとがある。物語型・殺陣型など言ふものは、一つの舞踊と言ふべきもので、狂乱だけが専、踊りとして扱はれてゐるのが、不自然に感じられる位である。
桜丸切腹などは、型物でも我々素人には、型物と感じられない程度のものである。身分を超越して、久我之助の腹でも、乃至塩冶判官で行つてもよいやうに思ふ。寧若衆自害の行き方として、久我之助そのまゝでよいのである。だから丸本のはじめの指定によるなら和事立役で、せい/″\下級の侍位の気持ちでかゝつてよいのである。其が若衆方の若殿役と言つた演出で行つてゐる。之を牛飼ひ舎人のつもりで行けと言ふ様な写実主張者はないのである。
羽左衛門は、あれほど若衆方を役処として、生涯勤めた人だが、其でも久我之助や、桜丸乃至は力弥を極めつきとするまでには、相当な経歴があるのである。又敏感な瞳・鋭敏なこなし、弁天小僧や白井権八には適して、位ある若衆には向かぬものとせられた事も久しかつたのである。だが素質が物を言つて、彼は恰も生得の桜丸・久我之助であるやうに思はれるやうになつた。羽左衛門去つて後、桜丸ももう世に現れぬものと言つた悲しみを唆つたものである。菊五郎の桜丸が報道せられると同時に、羽左衛門に及ぶ筈はないものと多くは推断した。だから舞台にかゝつて後も、おなじ様な意見が批評家の批評として現れた。其では、素質以外に、俳優の演技は、問題のないことになる。
羽左衛門の桜丸はよかつた。素質の美しさ、若殿型の桜丸として適役であつた。其上、疑ひを持たぬ、清しい胸中を披瀝した様な容貌と芸との叶うた点、美しい哀切なせりふの朗誦、さうした印象を分解したのでは、彼以外の桜丸は顧みる気はしさうもない。
菊五郎の容貌は、私は非常に低く見てゐる。丸顔よりも、太い顎よりも、時々異様に光る片目を気にする。あれが光る時は、とりわけ菊五郎の顔面の情ない刹那である。柄にある役をすると、此片目が輝きはじめる。ところが女形だの、ある種の立役だのをすると、それが全然光りを蔵して閃かない。かう言ふ時、彼の露出し易い自我が没せられて、舞台は浄い芸の世界となる。彼は何よりも美しくならねばならなかつた。そこに努力感を持たずにすんだ羽左衛門よりは、確かに性癖を押へる努力が必要だつた。役を虔しやかにする時、彼の芸は光彩を放つた。鏡獅子の前ジテや、刃傷・切腹の塩冶判官や、輪王寺門跡や、彼の芸が大きな普遍性を持つて来ると共に容貌も亦驚くほど美しくなる。
桜丸が其であつた。今度の成績は、批評は如何ともあれ、彼自身が知つてゐる。その為、此次に出た時に、美しくならうと言ふ執意を忘れたとなると、最近の白井権八同様、粗雑で穢げなものになるだらう。私は、顔面もよいと見た。其より更に身のこなしが、一々桜丸の悲しみを表現してゐた。美しきに過ぎない声が、苦渋する胸の中を表すに十分だつた。羽左衛門の場合も、気分からする桜丸であつた。菊五郎の場合も、技巧よりも気分を持つてした。敬虔な気分をまづ作つて、その中に没入した桜丸であつた。私は彼が技巧によつて、羽左衛門を凌駕したと言ふのではない。彼は劣つた声を、容貌を美しくする気分に推進することの出来る人である。
私は、彼の桜丸を見た時、羽左衛門の衰死によつて、失つたものと思つてゐたものを別な形でとり返す事が出来たと感じて満悦の幸福を感じた。
桜丸は、賀の祝で切腹して果て、妻の八重は、北嵯峨の庵室で、奮闘して死んで了ふ。併し、まう一度、桜丸の出る場がある。
五段目では、宮中へ雷神となつて乗り込むのは、道真ではない。天神記では出してゐるが、此方では、道真は幻影でも出て来るやうにしか書いて居ない。天神様を宮中で荒れさせては、聖賢であり、忠誠である天神様に似あはしくなくなるので、露はには出さなかつたのであらう。何とか処理方法を考へねば、此場の道真の霊の演出はむつかしいものだらうと思ふ。とにかく、其代りとして桜丸夫婦の怨霊が出て、宮中を駆け廻つて、怨敵を苦しめ抜くことになつてゐる。一方さうならなくては、「車場」で時平の霊威に圧倒せられたことの始末がつかないからでもあつたのであらう。
手習鑑における桜丸の位置は相当重大である。作者が、作中の誰を主人公と考へてゐたかは別として、申し合せて桜丸に深い興味を持つてかゝつてゐる事は、事実である。
歌舞妓では、後ほど段々、解釈が変つて来てゐる。桜丸がどん/\年若な方へ逆行して来てゐる。又、女方からも出るといふやうなことにもなつて来たやうであつて、抜衣紋の桜丸がをどるやうな身ぶりをすることになつたりする。此などは、私にはまだよくわからないが、牛飼舎人だから元服せないでゐるので、其を世間普通の男にひきあてゝ考へて、「前髪立」だから、若衆であり、若衆方だから女方からも出るといふ径路をとほつたものであらう。ともあれ、桜丸があんなに綺麗になつたのは、歌舞妓芝居のあげた、よい成績だらうと思ふ。

どうして桜丸が書かれたかを考へてみよう。近松の「天神記」と手習鑑とを比べてみると、前には、白太夫に三人の子、兄が荒藤太後が女二人、小松・小梅と言ふ。此が手習鑑では松王・梅王・桜丸の三つ子になつてゐるといふことは、誰でも言ふとほりであらう。此三つ子に就いては、当時大阪天満天神の氏子に、三つ子が生れて恩賞に預つた事があつたのを、取りこんだと言はれてゐるが、如何にも適切で、さうあるべきことであらう。
荒藤太の性格は、そのまゝ松王には行つてゐないが、梅松桜の三つ子の兄弟の順に就いて、池田弥三郎君が、梅王が長男であると言ふ様な気がすると言つてゐるのは面白い。梅王は、菅丞相に仕へてゐた父白太夫の為事を継いで道真の舎人になつてゐるし、後を追つて、筑紫まで行つてゐる。仕へた主人を中心にして考へると、梅王長男説はまあ成り立ちさうである。併し、芝居では、松王を段々に兄として了つた傾きがある。謂はゞ天神記の荒藤太がもどりになるのが松王だと見ればよい。だからもどりになる間を、長く感じさせる演出は間違つてゐる。寺子屋の後の出まで、全然敵役の腹で出てゐれば、其で浄瑠璃の松王は、正しいのである。車場であまり立役にし過ぎ、賀の祝で又辛抱立役に為上げて来たのが、歌舞妓の一つの創造である。此は一つの分化創造だから、よいと見るべきだが浄瑠璃から言へば、正しくない方へ進んだのだ。だが、松王をあまり極悪じたてにし過ぎて、敵の間が長過ぎた。其もよいが、もどりが利かないから、歌舞妓式演出が発生したのである。
荒藤太が、宿禰太郎になつて行つたのだと言ふ説明もある。さうした性格分化を認めてもよいが、計画がさうなつてゐたのではない。松王は寧、天神記の秦の兼竹によく似てゐる。兼竹は、時平の家来であるが、白太夫の女小松と契り、其仲に生れた子を、相手方の道真の御台所の拾ひ子にして貰つた。此事から、兼竹は、主人は時平だが、道真に尽すことになる。其点は松王的であり、其に前の女出入りの部分が源蔵式だといふ複雑なものである。
併し、斯う言ふ風に両方の人物を比べてみた処で、別に大した意味を出さうとするのではない。創作する場合には、一々理詰めに、性格を引き伸したり分割したりして、創り出して行く訣ではない。天神記が腹の中に納つて了つてから、自由に、性格が分化し、融合して出て来てゐるのだ。こゝまでは誰から引き、こゝからは誰にと言ふ様な分解のしかたは、細かければ細かいほど欠点がある。
小松は、十六夜を名告つて都に居り、やがて横死を遂げて了ふ。此と妹の小梅との、二つの性格が、一つに融合したやうな形を思ひ浮べると、桜丸が現れて来る。殊に、天神記の五段目で、小松が怨霊となつて働くのは、桜丸の怨霊が、同じ五段目で、宮廷をかけ廻る処に、確に影響のあることが、どうしてもはつきり言はれる。――同じ近松の「平家女護島」でも、二人の怨霊が御殿に出て来る。俊寛の妻東屋と海女千鳥との霊である。こんなことは、寧、精神分析のやうなものである。
手習鑑では、殊に有力に、女を出して来てゐる。三兄弟に千代・春・八重の三女房を配してゐる。其が、賀の祝になごやかな、美しい風情を作つてゐるが、三人の女が出て来るのは、近松の方の二人の女兄弟が、かう言ふ風に三人女房を分化して来たとも言へるであらう。歌舞妓で見れば、千代第一と言つた位置にあるが、浄瑠璃で見ると、八重が最重要で、千代これに次ぐといふ形であり、やつぱり二人女と言つた風になる。
かう言ふ風に話して来ては、作者の持つてゐたてまといふべきものを語る暇がない。松洛も千柳も出雲も、書きながら、しみ/″\と作中の人物に愛を深めて来てゐる。
一体、浄瑠璃のてまは何処にあるかと言ふと、作中の人物の醸し出す、哀愁にある。そして、その哀愁を身につけてゐる者が、一篇或は一段の主人公の位置に立つことが普通である。見物にも、さうした主人公が懐しく思はれるのである。其が女である場合、殊に哀愁が現れ易いので、女主人公その他、重な人物に、憂い目つらい目を重ねさせてゐる。
併し、時代が降るにつれて、作者達はそれを忘れて来た。舞台面は面白くなつて来るが、哀愁のてまは散漫になつて了ふ。たゞむやみに悲しませたり、義理の枷から来る悲しみなどに、中心を作つて行かうとした。自然な哀愁が失はれて来た。
明治時代殊に三十年代の初めに、誰もかれも皆、簡単に、日本の文学は悲観的な文学だと、如何にも文学史的な事実があつたやうな風に、言ひふらして了つたが、日本には、哀愁の文学はなかつた。殊に散文文学は、その点のほゝんなので、悲観的文学だと片づけてしまつたのでは、間違ひである。陰惨なものはあつたが、表現能力が低かつたので、室町時代の御伽草子などは、のんきなものになつて了つた。哀愁あるべき世の文学にのんきなものが現れるといふ一見矛盾な事実が出て来るのである。現実は、あつちにもこつちにも戦死や、餓死や、賊害で、生々しい死骸が転つてゐる。かう言ふ世相はうつしても、上の空だから、空念仏のやうな、「あはれ/\」の文学である。文学の持つ哀愁ではなくて、素材の持つ哀愁であり、其すら現れずじまひになつてしまつたのである。
哀愁の素材は、室町時代から、既に露骨に出て来てゐる。其を綜合して文学を作り上げようとしてゐた。殊に律文の方で、文学として取り上げようとして来たが、現れた所は、やはり空念仏になつた。此が所謂悲観文学といはれるものになつた。説経系統の文学は、其はじめから、哀愁に充ちた主人公の生涯をとり扱うてゐた。さうして、その悲しい生の彩りと共に、輝いた次の代が来ると言つたものであつた。唯表現が純然たる文学とはなれなかつた。だがさうした文学が、早晩現れなければならぬ素地だけは作つた。少くともさうした文学に対する欲望だけは、著しく植ゑつけておいた。江戸に到つて芭蕉が出て、それを涙管からしぼり出すやうにして初めて文学の上に出して来た。だが時代である。おなじ時代に出た近松は芭蕉の感じたものを、やはり別の方面から表現したのである。
而も近松の這入つて行つた世界は、まともにその説経の文学であつた。併し、彼の這入つて行つた頃は、素材としての哀愁はあつても、表現せられた哀愁はまるでなかつた浄瑠璃であつた。作者も見物も阿呆の如きものであつた。その中で、近松は、次第に哀愁を、たまらない哀愁を覚えさせる人生を取りあげて、哀愁を覚えたものゝみが、輝いた次代の生活に這入る事が出来る、と言ふ人生を見知らせた。
心中しに行く男女を悲しむ人の為の気安めにそれを書き加へた、と言ふ様な、浅い意味ではない。勿論、近松の書いた以上の哀愁を持つ人生が多いのは事実であるけれども、其は現実であつて、文学の素材である。作家が、作品の中に取上げて来なくては、其素材の持つ哀愁は、生き/\と、人を打つては来ない。
近松が、此を取上げて来た事によつて、わが国の戯曲文学は、長い宿題をし遂げたことになるのである。そこに初めて、声楽による人生の「愁ひ」のはけ口がついた訣である。
浄瑠璃は、底から、さう言ふ哀愁を滲ましてゐる。浄瑠璃はさう言ふてまを持つて、人を動すものである。浄瑠璃の持つ哀愁は、落ちついた、輝き濡れた生の満足を導かうとしてゐるのだ。
竹田出雲の作品と言はれてゐるものゝ中で、――共同の作品を含めて――桜丸程、それがしみ/″\と出てゐるものは尠からう。出雲は定めて書き進む程桜丸に愛を覚えることが深かつたであらう。此芝居には、家庭の悲劇を四五ヶ所も、とりこんでゐる。道真の、松王の、白太夫の、覚寿の……と言ふ風に。桜丸の唯二人で作つた家のこはれて行くさびしさ、其を抜いたら、どうなるかを考へてみるとよいと思ふ。
松本幸四郎は素質的に立派な役者である。おそらく立敵の系統のあると言ふ役柄と役者とは、もう彼ぎりで亡びて了ふであらう。三人の息子達にしても、海老蔵は顔の系統が違ふし、染五郎はあの役柄には廻るまい。松緑も顔立ちは、先代段四郎に近い印象を持つてゐる。と言ふ事は、幸四郎がそれ程立派だと言ふ事である。
役者の芸は正直なもので、脂ののつた盛りに、此人はちよつとしたつまづきの為に、大きなこじれをした。其が一生祟つたのである。幸四郎は、解釈として一番合理的であり、その為演出が常識的になつて来る。白太夫を見てもわかる。田舎老人の写実をすることが、必しも白太夫を、気分的に浮き上らせるものでないことを考へてゐない様である。その空隙に、率直に出て来るものは、妙好人としての幸四郎自身の実生活で、もの淋しいのである。
併し一方、役者は、実生活に於いて話にならない生活をしてゐても、頭がなくても、舞台へ出ると偉く見えるものが附随して来る。それは一つには作物の力であり、二つには先輩の役者達が、積み重ねて来たものによるのである。役者自身の生活はつまらなくても、舞台の上の由良助は概して相当な人物として表現せられるのが普通だ。つまり、あれだけに見えるものを歌舞妓社会で築き上げて来たのである。
役者は合理的で常識的で、崇高な感じをあたへる生活はしてゐない。併し、合理観の積り積つたものが、今の舞台の上にある生活であつて、その技術の力が、個々の安易な解釈をも統一し、又圧倒して、正しい筋に捲きこむのだ。団十郎が如何に人間が秀れてゐてもあの程度では、世間の人を指導する事などは出来ない。併し、舞台の上の生活は、技術の堆積したものが、彼を底の知れぬものにしてゐたのである。此は単なる鰯の頭も信心からといふ空虚なものではない。
寺子屋の段を旧精神を以て貫くものと見るのはよいだらう。敢へて弁じようとは思はぬ。封建思想風だといふ言ひ方も、少し圧倒的だが、其も認めてよいと思ふ。なぜなら、他は人情中心の戯曲だから問題にはならぬのだが、私はかう言ふ点が、昔から堪忍ならぬものを覚えて、源蔵の淡い心も認容しかねる書き方だとしてゐるのである。其は、一にも二にも作者――多分出雲――の人間が出来て居ない為の欠陥なので、ある一方から見れば、道義心の感傷的に心に迫つて来るのを払ひのけたのだとする説があるとしても、其もなり立たぬと思ふ。第一其を表現した代々の人形遣ひ、役者の解釈がさうでない。長い遺産的な演劇の堆積した解釈史といふものは、戯曲上の人物・事件その物から放して考へることが出来ないのである。さう考へて演出して来た源蔵の心は、やはり作者の意図の上に加へて考へてよい訣だ。源蔵は其ほど義人的な強い人間に書かれてゐない唯の常識人である。さすれば、もつと常人的な心で、事を処理すべきであつた。むしろ戸浪の方が、人間としての当然の情に打たれ、当然の責任を感じてゐるのである。作者はこの二人の気持ちを分けて書くべきではなかつた。なぜなら、主人の感情意思が結局決定的に事件を処理する事になり、作者の意向として見るべきものになるからである。
何にしてもかうした、簡単で不透徹であつた表現を、義理といふ語で定義してしまうたのが、よくない。其は義理ではない。じんぎ(辞宜)と称するもつと低い無頼の徒の持つ交際辞令であつた。義理といふ美名で、無反省に使つた語が、次第に内容を持つて、人生にも及んで来たのは、困つたことである。交際儀礼を今も義理といふ。さう言つたことが、道徳内容を持つのはよくないのだ。
菅秀才の為に、里の子を討たうとする計画が、結局討たれようとする意向から推挙せられた他の同僚の子に移されて、果される。源蔵はまことに無反省な憐な人間に堕ちてしまつてゐる。斬り取り強盗や、しばつきのじんぎと言ふ方法を以てして、危急を逃れた昔の無頼漢と択ぶ所のない方法をとつた。我々の祖先の戯曲作者にはこんな見窄らしい道義観の満足を持つた者もあつたことを恥ぢる。だから、其を糊塗する為の「しぎによつたら母もろとも」と言つた決定を遂行しようとして、身替りの子の母の告白によつて、第二の罪悪から脱することが出来る。其などは小さな問題になるほど、出発点がよくないのだ。だが其よりももつといけないのは、芝居の寺子屋では、人形よりはもつと具象化せられるのだから、感情の裏打ちが出来て居ねばならぬ筈なのに、其の欠けてゐる個処がある。其は浄瑠璃は抒情詩的な様式から、そこまで細々とトガキめいた事までは書かぬ習慣になつてゐる。芝居がそのまゝ演じては大きな空隙が出来るのである。
「して/\、其は得心か。「得心なりやこそ、経帷子六字の幡。「むう、して、そこもとは何人の御内証と尋ねるうちに、門口より……見るに夫婦は二度びつくり、夢か現か、夫婦かとあきれて語もなかりしが、武部源蔵威儀を正し、「一礼はまづあとの事。此まで敵と思ひし松王、うつて変つた所存は如何に。いぶかしさよとたづぬれば……共に悲しむ戸浪は立ちより……
こんな切迫した状態でおして行くのだから、源蔵が松王に対して衷情を披瀝する間もなく、叙事脈で推し進んで行く。其を具体化する芝居が、殆人情の裏打ちをしないで、この文章を追ひ乍ら、文章にある処だけを、細々工夫したり、表情したりして行つてゐる。書いてない所は、一切留守になつてゐる。寺子屋を芝居に移植しはじめた頃も、其後暫くも、戯曲の劇能力は、遥かに芝居台本を凌駕し、役者も、浄瑠璃に圧倒せられてゐたのである。義太夫の文句を改竄してまで、性格や、事件に解釈を加へようとして居ながら、文句以外には手が及んで居ない。あれだけの罪悪を犯して居たら、松王夫婦の前に必謝罪と、其よりも更に深い感謝とがせられなければならぬのに、其をしないのは、どうしたものだ。戸浪にはさすが、女性を表現する必要からか、さうした点に触れようとしてゐる浄瑠璃の文句もあるのに、源蔵は唯義者ばつて居るばかりである。つまり作者の持つた義理観念の偶像に、役者もなつてしまつたのである。文章が書いて居ないばかりでない。こゝを補足することが、源蔵を義者感に徹せしめないやうにでも考へたのだらう。つまり源蔵は、熟せない、作者の道義観のでくのばうとして、歌舞妓には、その欠陥が拡大せられて出て来たのである。
演出の上で、戸板康二君が問題にしてゐた。昔からの問題「お宮仕へはこゝぢやはやい」の処。あそこも、戸板君のいふとほり、もとのまゝ「若君にはかへられぬ」とだけ言つた方が、どの位しみ/″\してゐるか訣らない。斯う言つた方が、源蔵が武士らしく見えるとか、役者自身も激励するやうな気分が感じとられるところからおきかへたのであらう。其は根本問題になれば、もと/\作者の生活が如何につまらないかゞ、此処に曝露してゐるので、教へ子を殺さうと言ふ事は、戯曲だからとて許すとしても、愛すべき筈の弟子を、たゞ反省なしに宮仕への代償にして了はうと言ふ気持ちは、どうしても気にならねばならなかつた所である。其を気にしなかつたのは時代道徳に対する批判が失はれてゐたのである。源蔵と言ふ人物の底が浅いと思ふ。切羽詰つて、思はず殺して了ふのなら訣るが、宮仕へのつらさを訴へる女房を押へて、「お宮仕へはこゝぢやはやい」と言ふのは、妻の人生観よりも浅いのであつて、決して忍耐の苦しみに堪へぬく男子の覚悟を語るものではない。動機を欠いた道徳心であり、型にはめた道徳心である。道徳と言ふ事などを、何も考へてゐないのである。
三木竹二氏が、「艶容女舞衣」の酒屋の嫁お園が――半七が触るのも嫌だと言ふ気持ちからか、愛してゐない者には手を触れないと言ふ動機からか――、あゝ言ふ一度も共寝をせぬ状態にある夫に対して、飽くまでも貞操を完うし、飽くまでも従順であらうとするのは作者の考へ方が間違つてゐる、不自然だ、と言ふ風の批評をしてゐられたが、それでは三木竹二氏の解釈も疑はしい、と言ふ気がする。そんな人間も、昔はあつたのである。さう言ふ生活気分は間違ひであつたにしても、さう言ふ生活を書くことが間違ひだと言ふ訣はない。夫婦の生活をせない者に、愛情が出る筈はないと言ふのは、如何にも明治時代の解釈らしい浅薄さがある。此では、新しい批評家が、昔の作者に敗けてゐる事になる。さう言ふ心意気で生きてゐる女を書かうとしてゐる作者の意図がわからなかつたといふことになるのである。
近松は、さう言ふ風に、浄瑠璃の新しいてまを発見した。秀れた人として持たせる哀愁を見出した。そして、哀愁を背負せて、取り出して来た作の上の人物を、竹本劇が育てゝ行けばよかつたのである。が、近松以後、其方向には正しく進んで行く事は出来なくなつた。
近松のは、そのまゝゆけば、抒情劇になつて行くべきであつた。出雲以下の進んで行つた道は、劇の本道であつたかも知れないが、個々の作物の立派さは、とりつくや構成の上の問題だけではない。近松のは、構成の上で劣つてゐても、浄瑠璃の持つべき大きなてまを発見したと言ふ事は、讃ふべき事であつた。これを事もなげに押しやつたのは、近松以後の人々の、力の足りない処だ。
浄瑠璃以前には、その同じ系統で古いものは、永遠に、浄瑠璃の前に頭が上らない。「金槌の川はまり」と言ふ語があるが、さう言ふ状態の人が沢山にゐた。日本ではそれさへ意識しないでゐたのだが、それが自らたまつて、次第に重つて来たものが、宗教的音色に刺戟されて、それが説経浄瑠璃に出て来た。其末のものが、その無意識の底に隠れてゐるものを見つけ出し、はけ口をつけない訣にはいかないのである。そして、それが、浄瑠璃にとつてどの位大事なものであつたか、測り知れない。
江戸時代の浄瑠璃及び其系統の劇で、哀愁味のないものは、大体として価値が下つてゐるものと見ていゝ。少し思ひやりのない言ひ方かも知れぬがさうした方針から見てもよい。殊に歌舞妓芝居にはのほゝんのものが多い。様式美と言ふ様な事を言つてゐるが、其を清算しないと、残すべきよいものまでも一緒に流れて行つて了ふ。
祖先の遺産だからと言つた処で、三百年足らずのものだし、もと/\謂はゞ特殊の里の生活から生れたものなのだから、其処から崇高なものが現れて来よう訣はない。時間と技術と伝統とで、築いて来たものは見られるが、其劇は、元来、遊廓なり、町裏的のものが多い。だから、上演のれぱあとりいとしては、大いに泣かれ、大いに笑へるものをやつて、内容のない、のほゝんのものは、止めて了つた方がいゝ。又、世間でも、歌舞妓に執著し、愛惜する人たちには、さう言ふのほゝんな人が多い。たとへば、直侍の入谷の寮にしても、もう惜しがつてゐる時ではない。あれなどによつて、我々の生活が維持されなくてもいゝ。元来歌舞妓芝居は、育てゝ来たものが、低い階級であつたので、遊廓と裏町としか知らなかつたのだ。さういふ悪いなごりは棄てる方が正しい。其外に尚、所作事系統の形容芝居や芸事風の物などは早く、歌舞妓の埒外に専門を持たしめてよいではないか。併し、歌舞妓は、まだ生きて行く道はある。輸血によつて生をもりかへして来る事が出来る。それは、浄瑠璃以来の哀愁を生かして来て、今しも笑ふ事を忘れ、悲しむ事も忘れ果てゝゐるやうな我々を、真底から悲しませて欲しいものだ。日本人は芝居を見て、泣いて、清い気持ちになる事が好きだから、さう言ふ芸術が、生命をのばす余地は充分にある。もと/\日本の劇は、程度の低い知識しかない人たちが役者であり、作者であり、見物でもありした間に発達して来たので、茫漠と感じてゐるものを、表現しようとしても、其能力もなく、表現の方法も知らない有様だつた。さう言ふ処から出発して、二百年余の時間をかけて、こゝまで伸び上つて来たものなのである。
最後に申しておきたいのは、外題の事である。手習鑑の寺子屋の最後の処は、普通いろは送りと言はれてゐる。身替りに死んだ小太郎を送る処である。此処は、浄瑠璃では千代の持ち場であつてその活動する処とて躍る様な動作で、ばた/\する。歌舞妓ではそれをしてはをかしいから避けてゐる。又渡り台詞で言ふことすら、此処は多く端折ることになつてゐる。

此、「菅原伝授手習鑑」と言ふ外題は頗可笑しい。同じ出雲のものゝ中でも、「仮名手本忠臣蔵」の方は訣る。いろは四十七文字に四十七士をきかせ、蔵に打つたいろはのしるしから、芝居の大入りの祝ひのしんぼるとし、忠臣を賞め、商売の繁昌を祝ひ、更に内蔵助をきかせてゐる。
然るに、菅原伝授の方は、道真が伝授したとしても、菅原と呼びすてゝゐるのは、合点がいかない。天神記に出てくる五段目の道真を、こつちでは大事に扱つて、正しい神だから、よこしまな振舞のあるべき筈がないとして、宮廷で荒れまはると言ふ方は、桜丸夫婦にさせてゐる位である。それなのに、菅原伝授は可笑しい。菅家伝授ならまだわかる。なぜ菅原と据ゑたか、外に理由があらう。
近松には前に、「賢女手習并新暦けんじよのてならひならびにしんこよみ」と言ふ、非常に熟せない外題のものがある。西鶴の「暦」に対抗して書いた、と言ふのであるが、何故、そんな変な題をつけたのであらうかと言ふ気がする。
本文中に、何等「手習ひ」をしてゐる場面がある訣でもなくて、唯道行の詞章に、一寸出て来るだけである。
此以前、仮名草子の伝統に、「賢女鑑」と言ふ、薄雪物語風の艶書で成り立つた小説がある。此系統のものとして、近松は、手習ひと「賢女」が艶書手習と関係あり、賢女の艶書で行くべき所を正しい教への書道で行くところに菅原伝授とふりかざして来た気がする。だから、表題に、あるへうきんな洒落があるのである。
そして、此浄瑠璃で、手習ひを名告る理由は、勿論「伝授場」「寺子屋」もあるが、主としては、いろは送りの処の文句にあると思ふ。近松以来果されなかつた、その、賢女手習と言ふ語の意義を、こゝで解決してゐるのだと思ふ。天神の伝授と言ふべきところを、たゞの理由でかう言ふ冒涜な言ひ方はしないだらうと思ふ。
外題の表現は、一番難しい。ことにこの時分の作者は、その表現に、のたうち廻つたと思ふ。そして前代の人々に出来きらなかつたものを、次第に表現して行つたのだと思ふ。それを考へて来ると、いろは送りが、千代の持ち場になつてゐる理由も、訣ると思ふ。





底本:「折口信夫全集 22」中央公論社
   1996(平成8)年12月10日初版発行
底本の親本:「日本演劇 第五巻第七号」
   1947(昭和22)年10月発行
初出:「日本演劇 第五巻第七号」
   1947(昭和22)年10月発行
※初出時の署名は「釈迢空」です。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本の表題の下に書かれている「昭和二十二年十月「日本演劇」第五巻第七号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:酒井和郎
2021年4月27日作成
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