日本の女形

――三代目中村梅玉論――

折口信夫




今の梅玉が、福助から改名した披露の狂言は、その当時、親をがみに正月郷家に帰つてゐて、見ることが出来た。「石田局」を出し物とし、ほかに主立つた役では今一つ「安達原」の袖萩を勤めてゐた。折も折、彼自身長く女房役をつとめて来た鴈治郎が、危篤で、出てゐなかつた。何やら、やがて来る大阪芝居の寂しさがきざしてゐるやうで、晴々とした印象が残つてゐない。
それより卅年前、明治四十年の冬、政治郎から福助になつたのは、その父福助が二代目梅玉の名びろめをした時であつた。この時、私はまだ東京の学生で、修学旅行か何かのついでに帰つてゐて、偶然この芝居も見たわけであつた。親子の出し物が「矢口渡」で、新梅玉は頓兵衛、福助はお舟であつた。同時に「松浦太鼓」の筋をなぞつたやうな気のする書き卸しの土屋主税も出て、父は宝井其角、子は腰元お園であつたのが、目に残つてゐる。まだ芝居と見せ物との差別もよくわからぬ学生のことだから、纏つた記憶などはない。唯、矢口渡に六蔵をつきあつた鴈治郎が、あまり柄が大き過ぎて気味わるかつたことが印象してゐる。土屋主税はその後幾度見たか知れぬ。勢、記憶も此時のものと言ひかねる。
親梅玉の芸歴を思ひ出して見ることが、子当代梅玉の芸質を語ることになるだらうから、少しづゝ思ひ出してゆきたい。
何より先に、私の想像とも記憶とも判断出来なくなつた古い幻影の一つ――何の為に残つてゐるのかわからぬ――従つて何かの錯誤かも知れぬが、あまりまざ/\してゐるから、書いておく。まだ同様の記憶めいたものを、持つてゐる方もあらうし、家職がら、別に梅玉君の優雅な印象を加へても、恥辱にもなるやうなことはあるまいから、私の梅玉観の初頭に浮んで来る澄み切つた姿として書くことを許して貰ふ。
まだ政治郎の若い盛り、遂げられさうもない恋に悩んで死を覚悟した二人――一人は舞子であつたか、すでに芸者になつてゐたか、すべておぼろな記憶になつてしまつたが――の清純で哀切な告白の書かれた書き置きめいたものが、親福助に届けられた。それでいま高砂屋一家は、わき返つてゐる。こんなうはさ話が突如として、私ども繁華な生活と関連のない家庭へも聞えて来た。新聞に出たのか、それともほかにも一つ出処らしいものがあつたのか。といふのが、私の家に出入りする者に、高砂屋門の福松郎――後、中村玉七――の身よりの者があつて色々芝居町の花やかな話題をまきこぼしていつた。それの口から出たことかも知れぬ。一昨年のこと、銀座松屋呉服店の横の通りをあちらから来るやせた長身の老紳士と、その紳士に似過ぎるほど似た夫人とがあつて、孫か親類の子かと思はれる小さな子を間に、歩いて来るのを見かけた。気がついて見ると、男は梅玉君であつた。とつさ、あゝこの人々も、あのことの後久しい幸福を続けて来られたのだなといふ感じが、つきあげて来て、通りすがりの後、しばらく私も清い幸福感に輝く気がした。この人はさうした清くて幽かな、細い光りを漂はしながら、人の間を静かに行く――、さういつた人がらである。

昔故人鴈治郎が上り、又同じく雀右衛門が上京して、中年過ぎて異常に上達した彼等の技術が、東京の劇界を風靡した。大阪の人達の自分の手元に名人上手のゐたことを、他人から指摘せられて快い驚きを喫したわけである。大阪の見物が敬虔な態度で、彼等の芸を味ふやうになつたのも、それからである。
さて七十過ぎた梅玉も、最近東京の劇界に急に更めて評判を高めて来た。大阪ではまた素朴な心持ちで、彼の技芸を見直さうとする人が、殖えてゐるに違ひない。併し東京の識者たちの評判に価するだけの技術は、既に鴈治郎在世中にも、備つてゐたのである。よいものをよいと言ふ。今まで言はれなかつたのが、不思議な位である。だがそれには理由があつた。重要なものを二つあげるが、尚様々の原因のあることは、勿論である。平凡なことながら、立女形でありながら、出し物らしいものをしないで過した年月が長かつたことである。それから真女形を失つた東京役者が、痛切に彼の存在を喜び初めたことである。言ふまでもなく鴈治郎の長命は一面、延若・梅玉・魁車の成長を、ある点まで犠牲にした。そればかりか、立者一枚主義を興行人がとらずにをられぬやうにし向けた。
少くとも、三人の立者も、鴈治郎の下には立者扱ひを受けず、出し物らしいものも出すことが出来なかつた。梅玉の長い福助時代を通じて、女房役以外に女形中心の舞台に立つたことが幾度あつたであらう。梅玉の価値は常に鴈治郎との釣り合ひの上においていはれてゐた。鴈治郎の死後も長い慣例がそのまゝ続いて来た。世間はなほ梅玉の陰に鴈治郎を据ゑて見てゐた。梅玉自身はまた延若や魁車を考へに置き過ぎてゐる周囲の意見に動されたと見えて、あはよくば立役へ転向するかも知れぬと言ふ形勢を見せて、心ある人々を寂しがらせた。若い西園寺公をしたのはまだよい。水戸黄門をしてゐるとの噂も聞いた。九段目の本蔵まで勤めるやうになつてゐた。世間も役者自身も、ほんたうの意味において、梅玉の価値を見直さうとはしなかつたのである。ところが東京へ出たり、京都の芝居あたりで東京役者につきあつたりすると、初めて彼が別の立ち場に置かれてゐることを知つたのである。菊五郎などは、その吃又に女房をつきあつて貰つて、実に感謝すべき行儀のよい脇役を得た喜びを正直に人にも告げた。吉右衛門なども、恐らくまともに、一時しのぎではなく――本格的な立女形を女房とした安心で、芸格をのび/\させることが出来たであらう。梅玉の場合は、役者がまづ、彼の行儀や育ちのよさを喜び迎へたのである。さうして歌右衛門・梅幸なき後求めてやまなかつた女形の精神を彼に見たといふ気がしたに相違ない。だから今度の芸術院入選の如きも役者社会としては、珍しい美しい友情を以て、通過させたらしいのである。まことに彼の心の美しさが、人々の心に潜む清さを呼び起したといふことが出来ると思ふ。
東京には女形は相当にゐる。時蔵・芝鶴・芝翫・梅幸・訥升など、顔ぶれを見ても、立女形として時蔵を挙げねばならぬのはうらさびしい。時蔵の豊志賀に、菊五郎の新吉を想像しても適当らしさがないではないか。吉右衛門の斎藤太郎左衛門に同じ女形の花園など、考へても寒々とした舞台が目に浮んで来るではないか。これでは歌舞妓芝居が、考へられてゐる以外に、別の理由で亡んで行く。

廿歳にして初めて見、三十・四十・五十に近づくまで、よくも見続けた歌右衛門の舞台だと思ふ。だが彼の容姿、第一におし出し、第二にカホ、これだけのものを見るために、見る快さのために、二十何年見て来た忍耐力が、今からは不思議でさへある。私は歌右衛門の技術に酔はされた瞬間などは、一度だつて記憶してはゐない。あれだけからだが不自由であつたがために、殆技巧なく舞台にたゝずみ、或はしやがんでゐた。それだけにこれを支へる気分劇としての努力は大変なものであつた。だが彼自身が努めるよりは、彼の容姿が醸し出す圧倒的な気分に触れた見物が、多く自ら持ち出した気分に浸つて見惚れてゐたものである。
梅幸・歌右衛門の死後、真の立女形はなくなつたといへる。宗十郎はゐても、彼は自ら備るべき位置からしば/\落伍してゐる。つまりは芸格の低いことがわづらはしたのだ。彼の芸格そのものが低いと言ふより、団十郎・歌右衛門以来の新歌舞妓の芸様に合はぬ点があるのである。
日本中の立女形となる為には、まづ東京においての公認が必要だつたことは、芸の本義に何の関係もないことだが、これは当然通過すべき段階であつた。雀右衛門が履んだ道である。これを徹底的に試みる先に、災死したのは魁車である。偶然が幸して、中途まで脚を伸べながら横死したのが、十二代目仁左衛門であつた。かうして、梅玉に極めて自然に「日本の女形」たるべき日が来たのである。歌右衛門の芸格は必しも高かつた訣ではない。その容貌に叶ふやうな役柄を追及して行つた結果、従来の芝居に曾てなかつた品位を創作したのであつた。だが、同時に、伝統的な技巧に関係のない役柄ばかりに進んで行つたのも事実である。
新しく「日本の女形」としての栄誉を得た梅玉の為に、われ/\郷党を同じくするものは、歓びのいひ尽し難いものを感じる。若し知己の間であつたら、こと新しいが、手を伸べてその掌を握るであらう。
東京劇場での忠臣蔵大序における判官の居処の姿の衰へたのを見て、梅玉病むと憂へたのは私だけでなかつた。三段目・四段目と舞台は進んで気乗りの乏しさを感ぜしめた。九段目に戸無瀬で出て初めて目の明らかになるを覚えた。さうしてそこに見た戸無瀬のよさは一時に我々の心を花やかにした。烈女ではなかつた。賢女でもなかつた。また大名の奥方でも、上※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)・局でもない五百石取りの武士の妻を規準として旧代以来の役者の考へて来た格式にぴつたりはまつてゐた。権高ケンダカにのしかゝつて行つて、お石を鼻であしらふやうな歌右衛門の戸無瀬とは、格段の相違である。加古川氏の後添ひらしい艶やかさが溢れ、品よりも真実に重きを置いた点、義理の娘の恋に手引きもするといふ事好みな気さくさも感じられた。
先代梅玉の小手の利いた点などは伝へること少く、我等見知つた真女形・加役お山を通じて持つてゐなかつたものを持つてゐるのが――当代梅玉のよさである。正朝・紫琴・玉七・多見之助――後多見蔵――・雀右衛門の先輩にあり余つた技巧の代りに、欠けてゐた気分の十分に表現せられるのが、彼の優れたところである。これは彼の子役時代に五年の長期に渉つて親とゝもにしてゐた東京住ひ――貴族趣味横溢した時代の――が大きな原因になつてゐる。だが先代梅玉の、自分の芸風の複雑性を省みて、子だけはさうは歩ませまいとした親の思ひが籠つてゐるらしい。玉蔵・他人・福助と、村芝居・浜芝居から大芝居へなり上つて来た経歴は親の芸に沁みついてゐた。彼は島之内・船場のぼんちとして育まれた。親の思ひが子梅玉一代の芸風を形づくつた。歌右衛門と違つた芸風でゐて、また並行する所のあるのは、そのためである。
春日局を勤めて、活歴の立女形たることに失敗しても、毫も彼の面目はつぶれない。院本物で行けば、歌右衛門よりは、遥かに本格的な戸無瀬の成績をあげることが出来るのである。このごろ、郷党の友人武智鉄二氏の書かれた梅玉論を読んで、彼のための反省の好時機の与へられたことを喜んだ。さうして武智氏の抗議も、私の言ふ彼の気分表現に多く触れて言はれてゐることを悟つたのであつた。





底本:「折口信夫全集 22」中央公論社
   1996(平成8)年12月10日初版発行
底本の親本:「かぶき讃」創元社
   1953(昭和28)年2月20日
初出:「夕刊新大阪」
   1947(昭和22)年11月20日〜22日
※底本の題名の下に書かれている「昭和二十二年十一月二十日―二十二日「夕刊新大阪」」はファイル末の「初出」欄に移しました。
※初出時の表記は新仮名です。
入力:門田裕志
校正:酒井和郎
2018年2月25日作成
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