由良助の成立

折口信夫




大星由良助について、我々の持つてゐる知識に、ほんの少し訂正しなければならぬ点がないか知らん。まあ書いて見るが、書く程のことはないやうな気もする。一体、忠臣蔵系統の戯曲は、大体世界が三つ位におちつくやうである。曾我物語・太平記、それから言うてよければ、小栗判官の世界である。勿論「仮名手本忠臣蔵」自身、並びにその直系の親浄瑠璃と言ふべき、近松氏の「兼好法師物見車」、それから其補遺「碁盤太平記」は、皆それ/″\太平記物である。これは近松氏若書きと言ふのに、疑ひを持つ人も多いが、ともかく「つれ/″\草」の書き替へから出てゐるから、此側の筋立ては、近松案によるものと考へられてゐる。又其でよいだらう。ところが、赤穂事件を曾我の世界に飜案したものは、それより四年前、赤穂浪士切腹、一件落著後十日位で、江戸芝居にかゝつたと言ふのが、其角の手紙によると言ふ「古今いろは評林」の説である。尤も此興行は三日きりで差し止めにあつてゐる。曾我夜討をシンに書き替へたものらしく、中村七三郎など主演俳優その他の名も伝へてゐる。これはさうありさうなことで、「物見車」だつて一部分曾我で、脇筋を立てゝゐるのだ。清水寺見染めの場では、師直・薬師寺・塩冶奥方・判官などが出て、而もその舞台面は、一々薬師寺等の語る「幸若」の「和田酒盛」の文句に伴うて進んでゆく。言はゞ赤穂一件・太平記、其に曾我(幸若舞)、この三つが絡み合つてゐる訣である。併し実際の「物見車」其物は頗、簡単で、筋のはこびだけ見たり聞いたりして、特別に予備知識をはたらかさずにをれば、赤穂一件の暗示すらも感じないで過ぎてしまふだらう。それ程風馬牛のやうな顔をして、太平記の世界を書いてゐる、近松氏である。おそらく作者が、人を刺戟する様なひんとを書きこんでおかなくとも、読者は予め其意味が含められてゐるものと考へてかゝる。さう言ふ風な推理の行はれてゐた社会であつた。証拠のつかまる書き物の上には、さう言ふことを書かないでおいて、見物勝手々々の感じに任せる。その一方世間話を利用して、盛んに今度新しう手摺りにかゝる新作の持つ、隠れた意義の噂をふり撒いたものであらう。「物見車」が出ただけで、読者はもう、火のない所に煙を見てゐた。赤穂一件を書いたものと信じてしまつたのだらう。だからひよつとすると、近松作以前に、曾我物語を暗示に使つた狂言なり、浄瑠璃なりがいくつかあつて、曾我が出ると、例の赤穂の一件だと、世間の方で悟つてしまふ様になつてゐたのかも知れない。「物見車」には小林という侍が捕り手に来る。此が、平八郎を利かせたものかと思はれるのだ。小林平八が、仇討当時からそんなに名高かつたか問題であり、寧、忠臣蔵の伴内の前型かといつた方が当つてゐるやうだ。
それと、まう一つ小栗の世界に書いたもの、これも誰も知つてゐることである。近松氏の「物見車」の出た宝永三年から七年目に出来た紀海音の「鬼鹿毛無佐志鐙おにかげむさしあぶみ」とその前型らしい殆おなじ題名の「鬼鹿毛武蔵鐙」がそれである。古い「武蔵鐙」の方は、近松氏のものゝ出た四年後、宝永七年大阪で演ぜられた狂言で、小栗の世界に、大岸宮内・力弥などの名が出てゐたと言ふ。勿論海音の「無佐志鐙」は、その筋をひろげたものと言ふことが出来るだらう。この二つの系統に渉つて、力弥の名の共通してゐるのには、何かもう、我々にはつきとめられない理由があると思はれる。ともかく片方の系統では、大星由良助であるのに、片方では大岸宮内と言ふ風に、大石氏の姓名の綟り方にも、その系統を守つてゐる。

赤穂事件の発頭人内蔵助が、仇討した時は四十四。(その翌年、切腹したのである。)此年、浄瑠璃・歌舞妓作者近松氏は、ちようど五十になつてゐたが、それから四年後の五十四歳に続けさまに「物見車」と「碁盤太平記」を書いてゐる。人生に成熟しきつた五十一の近松氏が、自分より六歳若い大石の行跡を、感じ深くしみ/″\と見送つてゐたに違ひない。此浄瑠璃を書いた前年あたりに、おそらく大阪定住の心をきめ、浄瑠璃専門の作者になる覚悟を定めたらしい近松氏である。彼の作物にまだ現れて来ない由良助が、一期の為事を終へて、従容として死んで行つたのは、彼がその劃期的な作物「曾根崎心中」に、著手したかしないかの頃であつた。
伝へる如く、郷士の家に生れ、公家クゲ諸太夫シヨダイブ心得のやうなことをしてゐたといふ前歴があつたとすれば、定めて大石以下の行動にうなづく所が多かつたらう。単にそれだけではない。赤穂衆の蜂起を、前代の歴史事実にひきあてて飜案し、又さうすることによつて、自分の試みた虚構に動かされて、更めて大石氏らに傾倒したことであらうと思ふ。これが、歴史文学作家通有の情熱の傾向である。さうして彼はその情熱を宝永三年六月まで五年間さし控へてゐた訣である。この五年の間に、古い方の「武蔵鐙」以外に、赤穂一件に絡んで、一度も浄瑠璃作者が筆を染めなかつたとは言へない。が今日ではもう訣らぬ事は為方がない。
さて宝永三年五月、「兼好法師物見車」が竹本座にかゝり、翌六月「兼好法師物見車跡追碁盤太平記」が興行せられてゐる。物見車の方の正本に「右の正本近々出来仕候。兼好法師跡おひ、一段物にて御座候故、後より出し申候」とある。だから少くとも、「物見車」が手摺りにかゝつてゐる最中、いやそれよりも前に、近松氏は既にそれを増補して、碁盤太平記を書く計画を立ててゐたことは疑ひがない。単に、近松氏だけではなく、竹本座の新しい座元竹田氏も知つてゐたと思つてよいだらう。見物は予めそんなことを知る訣がない。併し六月になつて碁盤太平記が手摺りにかゝつたのを見て、一度にはつと諒解したことであらう。併し近松氏等興行関係筋の人々の、同時に予期してかゝつてゐた一部観察者の目は、前月書かれた平凡な時代物の増補だから、前同様の目的しか持つてゐないと言ふ風に――当然心づいてゐる筈のことを、さうでないやうに思ひ緩めて、寛大な心になつて看過したであらう。いや寛大といふより、それが、通例検察者の心理でもある。そこに近松氏らの相当な経験から来た、世智辛い智慧が光つてゐる。
跡追ひの方にうつると、俄にがんどう頭巾をかなぐり捨てるやうに、名すら改めてゐる。「これは承り及ぶ塩冶殿浪人。初めの名は八幡六郎今は大星由良之介殿と申す御方の御宿はこれか」と言ふ風に唯の歴史物の人物が、急に大星由良之介であり、又大石内蔵助の仮名なることを暴露した。内蔵助は寮官の名だから、「内蔵助」と書くのは正しいが、言つて見れば由良助などいふ場合は、由良之介としても問題はない。
先月以来の見物は驚いて、互の顔をふり返つて見合つたであらう。先月中はたゞの八幡六郎であつたものが、今月は完全に、赤穂一件の発頭人の二重の隠し名であつたことを知つたのである。
ところが、まう一つ不思議なことは、「物見車」と「跡追」との間には、連絡がついてゐる筈だのに、同人である八幡六郎と由良之介の年が合はないといふ、変なことが出て来る。物見車兼好草庵の場「時雨トキアメの朝虹に、光り合ひたる赤糸縅、汗に、絞りし若武者の、鎧に露の白玉か。玉のやうなる上※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)を、母衣ホロの如くに負ひなして、もみに紅葉のさし傘は、母衣の山車ともまがはせて……。」文章はむやみに美しくて、何だか意味のとほらぬ処もあるが、主人の奥方を負うて、紅葉でかくしたこの若武者が、その翌年の事件を写した「碁盤太平記」では、七十の母を持ち、大若衆力弥を子に持つた父なる由良之介になつてゐる。それには、誰しも驚いたことだらう。此場は塩冶の北の方を守つて、八幡六郎が落ちて来た所である。どうして近松氏がかういふ誤算をしたのか、まだ荒唐無稽な古浄瑠璃のなんせんすな姿を残してゐたものと見るべきであらうか。併しすでに曾根崎心中・薩摩歌などを書いた後である。さういふ矛盾を何とも感じないでゐる訣がない。「碁盤太平記」では、岡平こと寺岡平右衛門の、力弥に切られてからのもどりの詞に、「去年殿様滅亡と聞くより、親(父平蔵)子がこの時に、大手の御門を枕にして……去年当月切腹いたす。……世を怨み、天をかこちて一冬は、布子の袖の乾く間も……」とあるのは、塩冶滅亡後一年たつたばかりと月日の推移を明らかに見せてゐる。其でゐて、此時(同時に、八幡六郎である所の)由良之介は「過分の所領を賜り、塩冶判官高貞の執権と敬はれ、三千騎五千騎の諸侍の上に立ち」と妻から述懐を聴かされてゐる。なか/\「物見車」に現れるやうな、若武者ではないのである。
作者・座元・太夫の間に諒解がなくて、こんな無法な物を手摺りにかけて興行し、正本として板行する訣はないのである。さうすれば、この不思議な台本は、何か別の理由があつて書かれ、節づけせられたものに違ひない。
其は大体、前に言つた検察当局の諒解を得る為だといふことは察せられるが、其にしても、かう言ふ辻褄のあはぬものにしあげ、結局「物見車」も「碁盤太平記」も、独立性のないものにしてしまつたのである。其にはどういふ底意があるのか。私どもには思案に能はぬ所と言ふ外はない。だがほのかに考へられることは、「物見車」は其跡追ひ碁盤太平記の為に置かれた捨て石である。捨て石は捨て石でも放して見れば、相当に見られると言ふ程度に、其本限りでは筋の通るものにして前月興行にかけた訣であらうが、其にしても、如何にかゝりの少い時代でも、興行としては、大胆不敵な行き方である。其で以前の書き物「つれ/″\草」の書き直しを出して跡追で筋をついで行く。さういふつもりで、大体の筋立ては調べてあつたのであらう。「つれ/″\草」の出たのは、赤穂事件は元よりけぶりも立たなかつた延宝九年のことなのだ。「物見車」には師直に殺されて首になつて、親里へ戻つて来る侍従といふ公家女房が、此では非常な悪方になつて居り、之に兼好と兼好に恋する菅宮スガノミヤといふ天子の妹宮が主要人物である。師直も、塩冶も、塩冶の妻すらも出てゐない。其が「物見車」になると、太平記の立敵師直・薬師寺がわりこんで来て、つれ/″\草に出た人物は、義理にだけ出て来る。菅宮はキヤウミヤとなり、侍従はあはれ知る女になる。つまり完全に母屋は師直以下の歴史人物に奪はれてしまふのである。かうして師直を入れこんで来たといふことに、師直の悪を以て、吉良上野に利かしたことは言ふまでもない。が、文章にも、其らしい暗示はないので見えないのである。ところが、碁盤太平記にかゝつて見ると、五年間に湛へられた感激が、跡追ひの予告を出した頃の予定を突き破つて、非常に自由な作品になつてしまふと言ふやうな幸福な失策を導いたのであらう。其は、もう「碁盤太平記」の書き出しから、変つて来てゐる。脂ののりきつた筆つきである。近松氏自身押へようとしても、押へきれずに、あゝした作物が出来てしまつたと見て、ちつとも不自然ではない。
忠臣蔵山科の段の手本になつた、師直館の案内の問答のあたり、其調子に乗つた行き方を見ると、近松氏の表現力が、深く内的に唆られて出て来る様子が手にとるやうに訣るだらう。単に文章の末と低く見るべきものではない。不自然な題材を扱ひながら、如何に人情に生き、現実に叶うた方面へ――と、形を伸べて行つたか。さう言ふことが、近松氏の文章の示す不思議である。彼の内に燃えるものは、まづ文章を、時代を超えて人間的なものにした。此力は、もつと彼自身の心の奥をも揺り動かさずにゐなかつた。近松氏の持つ人間的なもの、現実的なものは、此力の衝き動かしたものである。端的に、それの全面的な力を示してゐるのが、その文章である。
かう言つても、われ/\は、「兼好法師物見車」を推奨しようとしてゐるものと思はれてはいやである。こんな捨て石からでも、優れた境地のひらけて来ることが言ひたかつただけである。肯て碁盤太平記までも軽蔑しようとはしないけれども、それよりももつと/\、近松氏の傑作が、平凡な古浄瑠璃などから生れ変つて来た経路が、これにはつきり示されてゐる、その点に興味を持つたのである。





底本:「折口信夫全集 22」中央公論社
   1996(平成8)年12月10日初版発行
底本の親本:「現代随想全集 第十八巻 釈迢空集」創元社
   1954(昭和29)年5月
初出:「演劇界 増刊 第九巻第十一号」
   1951(昭和26)年10月発行
※底本の表題の下に書かれている「昭和二十六年十月「演劇界」第九巻第十一号。同二十九年五月『現代随想全集』第十八巻」はそれぞれファイル末の「底本の親本」「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:酒井和郎
2021年3月27日作成
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