寄席の夕立

折口信夫




寄席なんかに出入りするのは、あまりよい趣味ではない。這入るにも、後先を見すまして、つつと入りこんでしまふ。さう言ふ卑屈な心持ちを恥ぢながら、つい吸はれるやうに、席亭の客になつて行く。こんな風だから、いつだつて大手ふつて、這入つた覚えがない。親たちがこんな風のしつけをしたからなのである。
生薬屋であつた私の家の店先へ、いつからか来て、来れば一時間では腰をあげる気づかひのない若い山陽道辺の女、亭主と言ふのは、東京から来た巡査で、此二人が世話になつて居たのが、一山と言つたか、一山の弟子であつたか、うろ覚えになつてしまつたが、此も東上りの講釈師であつた。さう言へば、家の近くの市場の中に、氏子の広い難波の八坂神社があつて、其鳥居を這入ると、小半町ほどの境内に、家が立てづんで居た。東京なれば、地内と言つた処、其中ほどに講釈場があつて、夜になると、宵の内からちよん/\ばた/\と、講釈台を叩く音がしてゐたものだ。此よりもつと大きなのは、千日前の法善寺の中にもあつたが、すべて席名は忘れるほど古い昔になつた。這入ると、土間の正面が高座で、其処までの間、両側のしたみ板に沿うて、停車場の待合所のやうに、長い腰掛けがつくりつけてあつた。之に腰を掛けたり、片脚も両脚もあげて、立膝・あぐらと言つた恰好で居られるやうになつてゐる。
土間の真中は両側の腰掛けの前に通つてゐる通路を残して、全体が床になつてゐた。何のことはない、大きな床店か、低い舞台が据ゑてあるやうな形だつた。其に敷いた柔道場のやうに堅い畳の上で、行儀よく坐る人は、座蒲団を借りて、こゝに足の裏を揃へて、きちんと坐つてゐた。尤、こゝで東京見たいに寝る人はなかつたやうだが、親たちがよこしたがらない理由は、子ども心にも訣る気がした。ある時ふつと此へ這入ると、正面高座に、おまはりさんの兄と言つた一山だか、一口だかゞ控へて居て張り扇を叩いて居た。何でも其時は、妲妃のお百だつたのだらうと思ふが、何でも、早乗り三次見たいな男が出て、頻りにおなじ所ばかりを駈け廻つて、「怨みやうらや(?)の姉はんとこ行きや」と連呼しながら逃げ廻る。走れば走るほど、おなじ処へ戻つて来る。こんな所から考へると村井長庵だつたやうな気もするのである。
落し話の席は、家に近い所では、千日前に二軒あり、法善寺の裏路地とでも言ふべき処に、五六軒隔てゝ、並んでゐた。大阪中にはもつと多かつたのだが、何しろ世間知らぬ子どものことだし、さう出歩くことの許されない時代のきびしさで、其以外に散らかつてゐた寄席の様子などは、遥か後になつて知つたのである。東の金沢席が桂派の定席、西が三友派――三遊ではない――の人々の出る小屋であつた。桂派では私の知り初めた頃、後年東京にも上つた三木助が、ほんたうに豆の様な可愛い姿で師匠の南光について出て居た。桂文枝がいつもとりに出たかと思ふ。此方は幾分東京流で、西の方が今思へば却て大阪らしい、見えも外聞もなく喚き散すと言つた芸風であつたやうだ。曾呂利新左衛門や先の松鶴やなどは、そこに出てゐた。その頃は、何でも彼でも二つに岐れて、ひいき/\対立せなければ、気に張りが持てなかつた大阪であつた。新聞が毎日と朝日、役者が福助――後二代目梅玉――・橘三郎から、鴈治郎・仁左衛門と言ふ張り合ひに変つてゐた頃だつた。芸人でも喰ひ物屋でも、ちよつと人気の出た者は、一つきりと言ふことはなかつた。思へばをかしい世間であつた。
あのなあ なあもし 甚兵衛はん――東京で言へば、のうてん熊、がらつ八とでも言ふ類の人に当るのが、きいさんで、之に応対する大家に当るのが、甚兵衛はんだつたのである。これだけの語でも、話しかによる個性があつた。あくせんとも違へば、第一声柄が違つた。先の松鶴になつたのなどは、だみ声ともいきみ声しほから声とも、形容の出来ぬ声でおしとほして、あれで結構、大阪落語の天下とり――と言ふほどでもないが――になつた。あゝ言ふ人々の世間では、何でも、人と変つて居て、おしえげつなさのない芸は、客もよりかゝりのない気がしたのだらう。中学生らしい気分の出て来た頃には「にはか」や芝居に、気移りがしたし、伝手もあつたので、其方へばかり行つた。寄席の記憶は、十年も飛んだ後まで、下積みになつてしまつて居る。
東京へ出たのは、まだ女義太夫のすたらなかつた時分だが、其でも三遊・柳の勢がのしあがつて来て、本郷の若竹だつて、完全に色物席になつて居たと思ふ。もう其頃のことは、誰しも知つてゐることだし、私など場違ひののり出して物を言ふ所でないと思ふから控へることにする。唯一両人の上について、書いておきたい記憶がないでもない……。
五明楼玉輔きりで終つたのであらうが、死んだ時もつい知らずにしまつたから、まだうつかりすると、生きてゐるやうな気もするが、さうなれば九十にも百にもなつて居なければならぬから、幾らのんびりした人間でも、もう夙くの昔に亡くなつたことだらう。名籍もそのまゝになつて居るやうだから玉輔でわかると思ふが――、いつも小言念仏ばかり喋つて居て、常の暮しと芸との境目のつかない小作りの小太りでいつもむつつりして居た爺さん、これが高座に上るといやな気はしないが、又かと言ふ気がしたものだ。いつも間の繋ぎばかりして居るやうで、気のない高座ぶりであつた。
ある夏の晩休暇もはじまつて、書生連の寄席に来てゐるのも見かけなかつた。中入り前に上つた――と思ふが――玉輔が、幾ら喋つてゐても、羽織を引かない。幾ら何でも小言念仏では持ちきれない。いつともなく、其が枕となつて、本話に這入つてゐたやうだつた。後にも先にも、聞いたことのない人情話らしいものだから、今となつては、何の断篇とも訣らない。「ひとさわぎ静まつて、息をつく。大粒の雨がばら/\/\。とたんにがらりと天窓があく。見上げる拍子に、大きな猫の顔がのぞきこんでゐた……」私は、恥しいが、ふるひ上つた。――こゝのくだりは、私の記憶を勝手にまとめたもの――そつと客席を見わたすと、青ざめた緊張で、玉輔の顔を見失つては何が起るかも知れぬと思ふやうに、高座を見つめてゐる。天窓にあたる雨の音まで、耳に残つてゐるやうだ。こんな事にならうとは誰も予期しなかつたに違ひない。後になつて、ある年よりに之を話すと、「さうでせう。奴あ怪談噺でたゝき込んだ奴ですもの。」事もなげに言つて聞したが、どうも私には腑におちなかつた。今思ふと昔は、そんな芸人も居たのだ。先輩吉井さんに話せば、につこり笑つて、其が江戸芸人たる所以さと言はれるだらう。ともかく、かう言ふ芸の出し惜しみする人間が、相当に居た世間も、私たちはのぞいて来たのだ。其にしては私自身の含蓄のない恥しさを、しみ/″\と思ふ……。





底本:「折口信夫全集 22」中央公論社
   1996(平成8)年12月10日初版発行
底本の親本:「かぶき讃」創元社
   1953(昭和28)年2月20日
初出:「苦楽 第四巻第十号臨時増刊」
   1949(昭和24)年8月発行
※初出時の署名は「釈迢空」です。
※底本の題名の下に書かれている「昭和二十四年八月「苦楽」第四巻第十号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
※文中「先輩吉井さん」とあるのは吉井勇のことです。
入力:門田裕志
校正:酒井和郎
2020年8月28日作成
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