芳賀先生の爲事を見るのに、最も著しい兩方面があることゝ思ひます。
連歌俳諧流の倭學をのり越えて國學が姿を顯した樣に、明治の國文學は、國學から分化して出て來ました。其中心が芳賀先生だつたのです。もつとも其外にも先驅者もあり、道連れもあり、追隨者もなかつた譯ではありません、でも何と言つても、先生の態度が、即時代の態度を作つて行つた事は、事實なのです。
先生及び先生の友人の方々の、國學の上に見出された

先生もお若い頃は、文壇的の野心がおありになつた樣です。併し其が段々歴史式に組織せられて行つたものと思ひます。つまり文學史態度が、先生の學問を一貫したものでした。でも先生の學問は、發生的と言ふよりも、溯源式なものでした。其處に、あの時代の學者の創作と學究と兩態度の融和が認められるのです。先生が洋行して來られてからは、著しくどいつ式の學風を示してゐられます、近年もうるとん等の態度が輸入せられるまでは、とりも直さず、其學風が行はれて居たのでした。
先生の文學動機は此學究生活の中にまぎれ込んで行つた樣でありました。でも、先生の業蹟が、人々の心を躍らせるのは、此根底にあるものゝ動きに由るのです。
先生の文學として、正面から言ふべきものがあるかどうかは知りません。だが先生の文學の側に於ける成迹は別にあつた樣です。其は作家としてよりも供給者、或は一種の批評家とでも言ふべき處にあると思ひます。先生の時々に示された文章は、皆一つの作例と見るべきものでありました。如何にして、近代心を古典表現の上に活して行くか。此が先生の爲に殘つてゐた文學者らしい爲事の唯一つでした。さうして此側に意味のある作品が澤山ある樣です。つまり古文の品位を具へて而も近代の實感を失はない文章の幾多の作例を殘されました。
先生の最後の作物として、心を籠めて作られた奉悼歌に對して、二人ばかりいらぬ故障を

昔から挽歌系統の作品は、慟哭を本位とすべきものではありませんでした。鎭魂式の唱歌から出たもので、靜かに魂をとり還さうとする所に主題を持つたのでした。其點では、先生のあの奉悼歌はきつぱり本質的の作風に叶うて居りました。非難者は、物を識らないで、かれこれ言うて居たのでした。其よりも更にあの作品に大事な點は、如何に大正昭和の國民の感激を、嚴肅な言語情調を伴うて示せばよいか、と言ふ勞苦にあつたのです。勞苦と申さうよりは、先生の才能が、さうした近代心と古典との調和と言ふ點に極めて適當なものであつたと言ふ事になります。普遍性を缺き易い古典式表現に、近代の心臟を脈搏たせると言ふ事は、芳賀先生の文章の特色でありました。
かう申したら、先生も「この男わしの得意をうまく言ひあてた」と言つて、例の無邪氣な笑ひ皺と、哄笑とを示されることゝ存じます。