鵠が音

追ひ書き

釋迢空




鵠が音 追ひ書き  その一


釋 迢空


『……今はひたすらに、皇軍の、勝ちさびとよむ日が待たれることです。たゞ頻りに心をうつのは、兵士等が健康のうへです。わづらふ者があると、責任と謂つたことをのり越えて、身にしみて来ます。夜、目がさめて、寝ながら真向ひの星空を見てゐると、何だか来たるべきものをひた待ちにして、ぢつと穴ごもりして居るものゝやうに、思はれてなりません。歩いても、人生に触れるものがないと言ふことは、あまりにも単調なことです。かうした処に、徒らに来たる者を待たねばならぬことを思ふと、敵愾が火のやうに燃え立つてまゐります……』
春洋の第一歌集「タヅ」を、世におくる。私がまづその気になり、春洋にも、そのよし、奨めて遣つたのには、段々の理由はあるが、時期に絡んだ、二つの問題があつたのである。併し戦場からの春洋の返書は、まだ私の手には届かぬのである。
時期の問題の一つ、――既に、歌集を持つて、世間に相当、名声の聞えた作家たちの、力量の水準には、十分達してゐること。さう言ふことが、此二三年来、殊に、春洋の歌を見る毎に、感じられるやうになつて来た。
歌集を持たねば、歌人でない、と言ふことは、ある訣のものではない。が、其があつても、わるくない時期と言ふものは、確かにあるのである。春洋の技倆の、そこに来てゐることを、私は信じてゐる。
自ら語ることは、こんな際には避けたいのだが、話をてとりばやくする為に、敢へて、書く。数月前の私の長歌に、「……いとさびし かゝる家居に、独り棲む君を残して、また 我はいくさに向ふ。洋中ワタナカの島の守りに つれ/″\と日を送りて、ことあらば、玉と散る身ぞ。辛く得しひと日のいとま さは言へど、君をし見れば、時の間にやつれたまへり。……」と言ふのがあるのは、久しかつた国の備へから、南の海の守りに移つた其出で立ちの春洋の心を想像して詠じたのである。
「未練なことだけは言はずにおいて下さい。誰一人だつて、個人事情のないものはないのだから。」思ひ入つたことを言ひながら出て行つた彼の心は、教員からいくさびとへ、転生しようとして居ることが、深く感じられた。この歩兵少尉が、身命を国難に賭けて、海の守りに当つてゐる。其とて、数ならぬ身分に過ぎぬのだが、明けても暮れても、鷙鳥の羽音を頭上に聞いて、渚の玉と砕ける日を待ち望んでゐる、と謂ふやうな日々が続いてゐる以上、当然避けられぬ最期が、早晩来るには違ひない。その日の到る前、せめては、彼の研究・創作両面の為事のことで、今日までのところ一番価値ある業蹟として、短歌集だけは、纏めておいてやりたい。此が、この本を出すやうに奨めてやつた理由の二つである。
この愛国の熱情を写した、多くの作品を包容する歌集が、彼と同年代の人の心を、どれだけ浄くし、又彼よりも若い世代に、美しい感情を寄与するであらう。若しさうなれば、彼も本懐に思ふだらうし、私は是非、さうあらせたいと願ふのである。
殊に、近年分量も増し、価値も高く飛躍して来た、彼の軍団生活の様々な方面に触れた作品群は、反省力の豊かな武人の目にふれる機会さへあれば、その生活内容を増大させるものがきつと多いに違ひない。
とりわけ、春洋が、大学で教へた人たちと、年輩・教養を等しうする人々には、同感からする吸収を促すだけの、若い世代観の、漲つてゐることは、どうやら私にも感じられる。
今の時において、此集を世に示すことは、若く欲する所と、清い貧しさとを満すことになるかも知れぬ。幾分でも、此に似た効果が予期出来るとすれば、彼の歌ひはじめから、世話をやいて来た私の、一時でも早く世に問はうとする焦躁感の由る所も、頷いて頂けることゝ思ふ。
若い果断 浄い憎悪 これが此国の若い人生に向けて、今、一番、求めらるべきものでないかと思ふ。煩瑣な倫理学の為に因循になり、空漠たる人道観によつて、敵愾心をすら銷磨した者のあり勝ちの世の中である。激しく興る愛国の至情と矛盾する、此世代の薄弱性は、どうすれば、善くさばいてのけることが出来るのだらう。
匂はしい古典感と、凛々しい新しい感覚とが、之を救ふに当るべきことは、すべての国家・時代の文芸の上に見られる事実である。春洋の持つ文芸は、形態は小いが、日本人を除いてはなし得ぬ種類の抒情であつて、又日本人のすべてが、必しも行き踰えることの出来るといふ境でもなかつた。其を蹈み出さぬ限りは、芸術たり得ぬ、厳しい制約によつて守られた文学である。
古往今来、数十万・数百万とも数へきれぬ高天の星屑ほどな、文芸人はあつても、真の芸術者として光り残つたのは幾人か。春洋の全集の中から私の抜き出したものは、凡千首を数へるほどに過ぎぬが、其うち五十が一、百分の一でも、最新しい古代的な日本人の心に、沁みつき離れぬものが残るに違ひない。此は決して、春洋を愛し、春洋の文芸に溺れる為の、私の判断違ひではないのである。
春洋は、今こそまことに、トホの 関塞ミカドの防人として、夜の守り・日の衛りにつかへて、ヤスい日とてはあるまい。最初に抜いた手紙は、遙かなるそのナミトリデの防備についたはじめに、おこしたものなのである。
私に、この古代文芸を守る一人の身の、無異を祈ることは、固より切である。だがもつと深く希ふは、言ひ残した語のやうに、予ねてした日が来たら、彼自身古代文芸となつて、砕け散ることである。悲しいけれども、彼の心のハヤく転生した魂が、其なのだから。私は、其日が来たら、此書の包容する古代文芸が、愈輝きを増すことを思ふのである。
この集を読む人は、まづ兵と共に日を暮す数篇の連作を読んで、春洋の生活を確実に受け入れて頂きたい。其から続いて、幾篇かある叙景歌群を見る、といふ順序をとつて貰ふのである。如何に彼がこくめいと言ふより、更に真正直に、客観描写から、主観に切り入つて行くかを、覚つて頂くことが出来よう。さう願へれば、この創作時の態度は、彼を掲げるにとゞまらず、若干は、若いあなた方の為にもなる訣なのである。
一つの虚構をまじへぬ春洋の実力を語つたのに過ぎぬが、やはり身近いものを褒めることは、嬉しいことのかたへに、心やましい所のあるものである。あまり其が、ぶざまに見えるやうだつたら、幾重にも、寛容を願ふ外はない。(昭和十九年十月)
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追ひ書き  その二


迢空


(欠)
十九年冬に、印刷の準備が整つたまゝ、十年近い月日が立つた。原稿の末に附けてあつた――その時、其ときの思ひつきを書きためた解説文の何枚かは、散逸してしまつたらしい。
あの当時、まるでその親友の原稿の編纂を果す為だつたかのやうに、戦場へ立つて行つた春部(伊馬)のしみ/″\した別れの様を思ひ出す。でも其は、乱離流竄の憂き目を凌いで還つて来た。だが春洋は、遂に戻らなかつた。――その間に、幾枚か書き綴つてあつた文章を断念して、これだけのことを新しく記しつけておく。
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追ひ書き  その三


迢空


敵一機 琵琶湖東岸を北上すと まさに受信し、哨兵に告ぐ
我々にとつて、思ひの深い歌の一つである。最初、この歌集を出さうとしたのは、まだ、春洋が、硫黄島の守備に、生きてはたらいて居た時である。東京では、情報局や、報導部で、今日明日にも、本土に上陸して来さうだ、と公言して廻りながら、ひどくなつた戦争の実情については、国民に告げる勇気を失つてしまつた頃である。
さう鈍感でもないつもりだつた私どもすら、「たづがね」と言ふ古語が、かの島に渡つた人々の運命をそろ/\前兆し初めてゐたのに、気がつかなかつた。其と言ふのも、さう言ふ心が、痛切には起つてゐなかつたからである。集の名を、古代の霊魂信仰に寄せて考へたのも、今になつて見れば、謂はゞ、いま/\しいはずの名だが、思へば、さう言ふ軽い物思ひを圧倒するほどの感情が、「われ人よりも」の心にあつたのである。此は当時の烈しい心持ちに生きた人々は、誰しも記憶の底に持つてゐるに違ひない。
草稿が出来あがると、この原稿を整理してゐた春部が、亦せはしなく、中部支那の戦場にたつて行つた。
急いで、報導部の検閲を受けると、暫らくして数个処の附箋をして返して来た。忘れもしない、此歌も、其一つであつた。ところ/″\、その時の検閲人の判が、歌の脇にある。親泊オヤドマリと言ふ苗字であつた。親泊は、沖縄固有の姓であつて、その同姓の幾人かを知つてゐる。たゞ偶然検閲人だつた親泊氏には、逢ふ機会がなかつたのである。確か当時少佐で、陸軍報導部に居たと言ふ人に違ひない。
戦争がすんで、いちはやく自決した人々の中に、この人の名が見えてゐた。まるで、他人とも思はれぬ黙会する心があつて、私を寂しがらした。
この歌一つで見ると、実戦のものゝ様な誤解が起りさうだが……此は、其よりずつと早い、昭和十七年はじめて召集せられた時の連作中の一首である。金沢の町における訓練空襲の夜、某百貨店の屋上に機関銃を据ゑた時の歌である。単に演習想定を心に持つて作つたに過ぎないので、親泊氏の指定では、一度「琵琶湖」といふ地名を消したらしいが、之を活して、「さしつかへなし」と書き加へてゐる。演習だと言ふことに、気がついたからである。私だけの考へ方に過ぎないかも知れぬが、この一聯の歌などは、戦ひの歌として、範囲も、雰囲気も、多くの人間の動きも、又都会の夜のしづけさも、ぴつたり把握してゐる。大きくて空しい時代の感銘――戦争の中の過ぎ去つた夢を、極めて静かな、虚空に映写してゐるやうな気がする。
春洋の作物には、これに似た印象を与へるものがあつて、読過の際、ちらとふりかへりたくなるものがある。「さうだつたか」と気がついて、一歩ひつ返すと、もう何処へ行つたか、影も形もない。さう言ふ匂ひが感じられるか知ら。出来れば、心切に読んでやつて貰つて、さう言ふ機会に接してやつて頂きたいものである。
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追ひ書き  その四


迢空


私は、二十年或は三十年前には、幾人かの、弟子らしい礼儀を示す人を導き、其等の人の同人社から出す短歌雑誌の世話を見たこともある。併しその中、相手からも飽かれ、こちらもさう言ふ人々の間に伍してゐるに堪へぬだけの良識は残してゐた。其で、雑誌は関繋をきり、弟子は皆解放した。唯一つ鳥船社といふ詩社だけは、子飼ひと言ふすらあまり子供らしい頃から、世話を見て来たので、解散することも忘れてゐた。第一、歌なども問題にしないで、三十に年近く、人間として、又、文人としての帰趨をあやまらせぬだけの指導をして来た。春洋が実は、その創立会員の一人であつて、真に歌のてにをはの使ひはじめから、手引きをして来たものであつた。
最初、彼等の作物が、如何にすさまじいものであつたか、本集の末にある「いかつり」の連作などを見れば、あまりはつきり訣り過ぎるであらう。
十九年に、この集の編修を企てた時も考へたことだが、今度こそは、此最、初期の物だけは消してしまはう。また/\さう思つてかゝつたのだが、やつぱりさうは行かなかつた。未練にさうなるのは勿論だが、ほんの短日月の間に、進みが著しく見えた。其様子を残して置かうと言ふつもりなのである。
ともかく、鍛練の精神を、私はアララギから伝へて、若い人々を鞭つてゐたのである。
ともかく、「鵠が音」の古い初稿から、日の目を見ようとしてゐる終校の今に到るまで、苦労して整頓してくれたのは、高崎英雄である。その志に対して、故人に代つて挨拶する。
尚、十九年の初稿編成当時から、角川源義からも、深く配慮を受けた。厚情を喜ばない訣にはいかぬ。
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追ひ書き  その五


迢空


昭和二十七年一月三十日、硫黄島戦死者追福の為、かの島に渡つた、旧海軍大佐和智氏の一行と別に、同じ日上陸した朝日・読売・毎日の新聞記者の中、朝日の飛行班に、短冊を托してその東海岸の沙中に埋めてもらふ。
同じ時、読売新聞飛行班の窪美氏のうつして還つた、春洋らの考科表の写真を見た。同氏に会つて、其が高野建設会社の職員の、同じ島元山の洞穴から発見したものなることを聞いた。
硫気と、風化で、持ちもどる事が出来なくなつてゐたやうである。この写真は、石川富士雄君の厚志による複写影である。
その後、又一種、さう言ふ類の文書が、元山地区の洞穴から見つかつた。新聞記事を見てゐると、春洋の亡長兄と次兄と、嫁して宮永姓を名のつてゐる妹真澄さんとの名があつた。此には春洋の名はなかつたが、私は、春洋に関する身上書だと判断した。併し此も、島に管理せられてゐて、いまだ見る時が来ない。
思へば、当然の事でゐながら、故旧の者たちにとつては、不可思議な事が、いつまでも残つて、未鍛練の心をゆすりつゞけるのである。


校正
高崎英雄
岡野弘彦
折口信夫





底本:「鵠が音」中公文庫、中央公論社
   1978(昭和53)年8月10日発行
※表題は底本では、「たづ」となっています。
入力:和田幸子
校正:ミツボシ
2022年7月27日作成
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