東京の春があらかた過ぎてから、ことしの花はどうだったかと思い出した年があった。自分だけかと思って、恥しいことだとひとりで
赭くなって、誰にも言わなかった。五月近くなってから、「ことしの花は、どうだったけなあ」一人言い二人言い、言い出す人が、ちょいちょいあって、
不覚人は、私ひとりでもなかったことを知った。
併し痛切に感じたのは、やはり私位のものだろう。
その前年も、その
亦前年の十八年の春も、花見る為に、わざわざ吉野山へ行ったほどであった。しみじみ吉野の花が見ておきたい。そんな気がこの五、六年来、春になると
頻りにした。それで無理をしいしい、今言ったおととしの前年も、それから尚二年先も、何だか妙に
憑かれたように大和路へ出かけたものだ。十九年の春などは、もう花見と言う世の中でもなかった。桜のいっぱい咲いて居る山の
夕光の中に一人立って居ると、何だか自分があわれっぽくてならなかった。吉野の町の入り口の黒門まで来ると、土産物屋の亭主や、宿屋の若い者――そうでなくても、我々みたような遊山客相手に暮している人たちに違いない。それが道のまん中に立ちはだかって、一々通行人を
咎めているのである。やれ
捲き
脚絆をつけて居ないことの、もんぺいの
柄が
だて過ぎることの、そんな立ち入った干渉をして居た。私は叱られはしなかったが、そんな小言を通りすがりに耳にして、
腸の煮え返る気がした。
「
冥加知らずめ」
がなりつけてやりたい気をやっと
圧えつけた程だった。誰が一体こんな事を言わすのだ。今のように
事毎に責任者を想像して、何万人の怨みを背負わせる様にはなって居なかったが、あまり道知らずに、
野方図になって行く世間がくちおしくてならなかった。世間知らぬ山の町の人たちだけではなかった。都も
鄙もおしなべて、朝でも晩でも、何の権力もない人間が、善良な者の安穏な生活を、こじてまわる時代だった。
まあこう言う風に、花の木の下で、
次もないことで、旅人たちは、やまいづかされたものである。今思えばあんなに、花が見たかったのは、久しく生きては居まい、息のあるうちに、一度でも完全に眺めたことのない山の花を、心ゆくまで見ておこうという心が動いて、そうなったに違いない。
その前からも
殆毎年と言ってよいほど、その五、六年というもの、春毎に山へ
這入ったものである。今年こそ、咲きそろった花を、せめて
中・
上の千本に
亘って見たいものだ。そう言う気で、前年の不足を、一度でとり返すつもりで行くものらしい。去年などは、永年住んだ大阪の家を失って、
和泉と
河内とに住み分れている弟たちを誘うて上ったものである。ところが何と、山はまだ早過ぎて下の千本が、半開という程度であった。この年とって家を離れた弟たちに、のびのびとした、併し
何処までも
しんとした山中で、静かなことの幸福を思わせようと望んでいた私の考えが、とりわけ駄目だったので、翌朝山を下って、私は京都へ、弟たちは大阪の方を向いて、別れ別れになって帰った。近年頻りに花の吉野へ行くようになったのには、まだ一つ
訣があった。
「折口君。君は吉野はよくお出でのようだから、一度案内してくれませんか。わたしも、珍しい処の花時ばかり歩いて、
却て花時の吉野を見ていないのだよ。」私にとっては、三十年来の師匠柳田国男先生が、言い出されたのは十八年の三月頃のことだったろうか。日本国中一度も足を入れられたことのない
郡などはない
筈の先生も、平凡な花の山の吉野に行って見られたことがなかった。まだ足腰の自由な内に、花の吉野を見ておこうと思い立たれたのであった。後で思うと、その時、私は
睫の濡れるほど、感激して居た。それからやがて
一月、先発隊になった心持ちで、
勝手明神前の古なじみの宿で、先生のお出でを前日から待って居た。変り者だという評判の亭主も「この座敷は、何の宮様のおとまり下されたのだが、先生のお気にめすだろうか」などと気にしていた。
ところが当日になって、どうしても東京をお離れになることの出来ぬ用事が出来て、今度は断念するという電報がとどいた。私よりもはりあいの抜けたような宿のあるじの顔が、今に印象している。私はその日午後、奥の千本まで登って行った。先生の為に、山の力者になったつもりで。奥はまだ
莟が堅かった。
金峰山神社・蹴抜けの塔、山道の青草の上を行く人がない。西行庵は、前がつまっているので、もうほのぐらくなって居た。行きづまった山合いへ、一町ほど急な
降りになっている。その底を流れる細谷川のかすかな水音の聞える
黄昏であった。向う側の山が頭の上まで迫って来て、その頃の植林し残した薄緑色の
頂に鳥の声が聞える。
その翌年も、
大抵なら都合がつくだろうと言われた先生の話で、また桜咲く山の宿でお待ち申して居た。ところがまたいけなかった。近年かたづかれた末の
娘御の産み月が近いので、どうしても小人数の家内を手伝ってやらねばならぬからとの、おことわりの手紙が今度も桜花壇の亭主を失望させた。
その翌年それから去年と、先生を花へおさそい申すことも出来ぬ
世並みに墜ちてしまった。ことしも、この汽車の様子では、到底お
伴など思いもよらぬことである。どうか先生のお達者なうちに、ただ一度、ほんのただ半日でもよい、吉野の花見の御案内がしたい。
子守明神から、吉野の町へ半分降った道の谷向いから、見おろす吉野一帯の春景色――
蔵王権現の堂を中にして、山の背一筋の
長嶺の人居の両側に切り落した様になった勾配の青麦畠、小竹藪、遠い竜門・高取・金剛・葛城を繋ぐ霞み渡った青空、あああの凡庸な平和の山懐の花盛りに、ほんとうに無理でも、一時間でも半時間でも、先生の前に立って、花のお伴がしてあるきたい。
そう
希う私すら、もう今年あたりは、とる年をしみじみ感じている。
× ×
塔の尾の御陵の山の夕花の 色立つ見ればあまりしづけき 折口春洋
山の背に つゞき輝く吉野の町。棟も甍も、花の中なる
これは
硫黄島に消えた私のむすこの歌である。