校歌「都の西北」と私

相馬御風




 五月十五日發行の『早稻田大學新聞』に「世界的の名校歌」と題して次の如き記事が掲げられてゐた。

「心の故郷我等が母校」と歌つて來ると熱い涙がにじみ出る。無限の魅力を持つた早稻田大學校歌は今日全國津々浦々の兒童に至るまで高唱せぬ者はない。全早稻田の精神氣魄を擴充し抱擁した歌詞といひ旋律といひ、恐らく世界的名校歌であらう。が然し、この名校歌が生れるまでの裏には幾多先輩の苦心が織込まれてゐるのだ。恰も大學名物早慶野球戰春の試合を前にして過去の追憶を新たにし、併せて先輩諸氏への餞けにと校歌創誕當時の物語りを繰展げよう。
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 故小野梓先生、高田早苗先生の大先輩に依つて、開校の式を擧げたのは實に明治十五年十月廿一日で以後二十年間は校歌の存在をみなかつた。明治卅五年に創立廿年記念大會が十月十九日から三日間開催された。當日鳩山校長高田學監を初めとし各科學生は運動場に集まり、大隈伯邸から繰出した講師校友と合同して五時三十分號令一下紅地に白く「早稻田大學」の五字を染拔いた酸漿提燈に點火し、音樂隊の吹奏につれて「煌々五千の炬火」のマーチを歌ひながら勇ましく校門を出發した。これは故坪内博士の作詞で、曲は「四百餘州を擧る」のそれを轉用したものだ。
 この行進歌は學園最初のもので、又「提燈行列」の嚆矢でもあつた。行進隊伍は參加五千名に餘り實に堂々たるものであつた。明治四十年には廿五年記念祝典が行はれた。今度は一つ新しい校歌を作つて、新しい曲詞をつけようと當局は色々考へをめぐらしたが名案がない。思案に餘つて遂に學生全般に賞を懸けて歌詞を募集することにした。集まつたが快心の作がなかつたので、丁度審査員であつた坪内島村兩氏等が協議した結果、「早稻田文學」の編輯をしてゐる相馬昌治氏(御風)に作詞させることにした。相馬氏は面喰つて知人の今では逝きし東儀鐵笛氏(季治)を訪ねて色々打合せ、東儀氏の手許にあつた英米諸國の各大學校歌を調べ、その曲を聽かせてもらひ大體の見當をつけてから高田學長、坪内教授に内容等を尋ね、骨組を作り先輩の承認を經たので齋戒沐浴して作歌に取り懸かつた。家に歸つた御風氏は寢食を忘れて作歌に沒頭し十日の日子を費して脱稿した。その時相馬氏は年僅に廿五歳、學窓を出てから二年經つたばかりで、八千の健兒(當時の數)が歌ふ校歌の作詞を命ぜられた光榮に感泣してゐたといふ。
 第一に調子は莊重を旨として八七調に定めたがそれにしても、坪内、東儀、島村諸氏の意見を斟酌し最後に坪内教授の校閲、加筆を請うてさしもの大作を完成した。第三節の「心の故郷……」の句を[#「「心の故郷……」の句を」は底本では「「心の故郷の……」句を」]坪内教授は口を極めて稱揚されただけに今日我々がきいても胸が高鳴る。最後の「ワセダ・ワセダ」のエールは坪内博士の發案によつたものである。
 相馬氏に依つて出來上つた歌詞が東儀氏に※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)された。東儀氏はその全音樂的精力を傾注し、英米の諸大學校歌の長を採り完成し、幾度も幾度も校庭に全校の學生を集めて自ら指揮の下に練習を行つた後愈々これを校歌として採用することになつた。相馬、東儀兩氏の悦びと共に、早稻田の喜びであつた。創立廿五年祝典の際は陸軍々樂隊の奏樂に合せて、全校の學生が合唱したが、その旋律と節奏が如何にも莊重、雄大、嚴肅でそれを聞いた相馬御風氏は嬉しさの餘り感極まつて泣き出したといふ。また全校生徒も泣いた。それは歌詞のもつ自負心の刺戟にもよるが一つは東儀氏の心肝を碎いた熱血の作曲にもよるのである。我が校歌は「君が代」と共に明治年間に日本が生んだ二つの大きな樂曲として今日なほ日本はもとより世界的に賞讃の的になつてゐる」[#「なつてゐる」」はママ]

 そしてそれについて同新聞社から私にそれについての追憶記か感想文でも書き送るやうにもとめて來た。あの校歌は所謂「世界的名校歌」の稱に値するか否かは知らない。しかし作者たる私には格別のなつかしさのあることはいなめない。私は早速次の如き感想の斷片を書き送つたわけである。
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 早稻田の校歌「都の西北」は、たしかに私が二十五歳の時に作つた歌である。しかし今日ではそれが自身の作つた歌であるといふやうなゝつかしみを超えて、私を亢奮させる。そして不思議な力で私に母校思慕の熱情を湧き立たせる。
 時に私も聲をあげてあの歌をうたふ。しかしそのやうな場合でも私にはそれが自分の作であるといふやうな意識は起らない。おもふにあの校歌は作者たる私如き一小存在から遠く去つて、いつしか早稻田學園といふ大存在に同化されてしまつてゐるのであらう。隨つてもう今日では作者名などは抹消されてもいゝほどにあの校歌は早稻田學園のものになつてゐると私は思つてゐる。
 うたはれる歌は歌詞そのものよりも、それをうたふ人々の意氣と熱情如何によつて生かされもし、又殺されもする。いかに立派な歌詞でもうたふ人々に熱情なくんば斷じてそれは躍動しない。この意味で早稻田の校歌を今日の如くいき/\したものとし、權威あるものとしたのは、作歌者たる私の力であるよりも、それを高唱し/\/\/\して止まない校友學生諸君の意氣と熱情とである。又「都の西北」の歌が全國津々浦々の兒童にまでもよろこびうたはれるやうになつたことも、それは早稻田學園の精神力が全國に浸潤した結果であるといはねばなるまい。それは現に作者である私でさへもあれを聞きあれを歌ふ時、自分がその作者であるなどといふやうな意識から全然離れて、ひたすら母校への思慕と讃美とに燃えてゐるのでもわかる。
 今年五月二十六日にも私はラヂオを通じて野球リーグ戰の早立二囘戰の状況を聞いてゐたが、戰ひ終つて統制ある「都の西北」の合唱されたのを聞いた時、私の眼がおのづからうるむを覺えた。そして私もまた低聲ながら百里のこなたからその合唱に和せずにゐられなかつた。あの歌を私が作つた頃、私は目白臺の小石川雜司ヶ谷町百十九番地の小さな家に住んでゐた。そしてあの歌を作る爲に私はそこから幾十度大久保余丁町の坪内先生のお宅と牛込藥王寺前の島村先生のお宅とそして戸塚の東儀鐵笛氏のお宅へ歩みを運んだことであらう。光榮と感激とに燃えながらも、私はどんなにあの歌の爲に苦しんだことであつたらう。あの頃のさうした憶ひ出も私を涙ぐまさずに措かない。
 しかも今や坪内先生も、島村先生も、また東儀さんもこの世の人ではない。「都の西北」を私に作らせる爲に苦心してくださつた方の三人が三人とも既にこの世の人ではなく、私たゞ一人が現世に殘つてそれを聞いてゐる。私はラヂオで早稻田數千の健兒諸君の合唱の聲を聞きながらも、その事を思つて更に別趣の感傷に撲たれたのであつた。
 それから又私はあの歌を聞いたりうたつたりすると、それを作つた頃のことよりも、あの歌を學生諸君と共に自分も聲高らかにうたつた頃の若かつた私自身がおもひ出され、その頃の生活を懷しく思ふことがよくある。これはおそらく私ばかりでなく、多くの校友諸君の經驗されつゝあることであらう。あの歌は母校への思慕と讃美の情をそゝると同時に、若かつた自分への愛惜を感じさせる。
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「都の西北」を私に作らせて貰つたまでのさま/″\なイキサツは「半世紀の早稻田」にもまた早稻田大學新聞にもかなり詳しく記されてゐたからこゝでは述べないことにするが、まだ我國に範とすべき校歌らしい校歌の出てゐなかつた事とて、あれだけの形式をきめてかゝるにも作曲家の東儀さんと共にかなり苦心した。莊重雄渾を旨とせよとの高田學長はじめ諸先生からの仰せつけがあつた爲、その點で第一に調子をきめるに非常に頭を惱ませた。八七といふ調子はともするとうはつき易い調子である。それをさせずに言葉の選擇をして行くのがずゐぶん苦勞であつた。
 しかしあの校歌をして莊重にして雄渾、爽快にして明朗たらしめたのは、何よりも東儀さんの作曲のおかげである。あの歌は全く曲によつて生かされ、しかも豫想以上の品位と迫力とを得たのであつた。校歌「都の西北」は名歌でないかも知れないが、名曲である點では我國稀有の作品であらう。
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 校歌「都の西北」はまた私にとつては校歌の處女作であつた。爾來今日に至るまでに私は百數十篇の校歌團歌を作つたが、處女作としての「都の西北」がやはり一番なつかしい。私は大學リーグ戰の野球試合の放送を聞くのを年中で最も樂しいことの一つにしてゐる。それも早稻田の出ない時は多く聞かない。野球が好きなのか早稻田が好きなのかわからない。或ひは若き血に燃ゆる早稻田の學徒が高唱する「都の西北」を聞くのが好きなのかも知れない。春の試合の相手は後もう慶應とだけである。フレーフレーワセダを連呼せざるを得ない。
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 これはかなり以前のことだが、當時總長であつた高田先生が新潟縣においでになつた折に「相馬君、どうだ一つ校歌祭でもやることにして、その機會に久しぶりで上京しないか」といふやうなことをいつていたゞいたが、つい私はその後一度も東京の土を踏まないで、邊土にくすぶつてゐる。そして早稻田學園にまみえざることも既に二十年になる。
 しかし母校への私の思慕は常に若々しい。(一〇・五・一七)





底本:「相馬御風著作集 第六巻」名著刊行会
   1981(昭和56)年6月14日発行
底本の親本:「獨坐旅心 ―相馬御風隨筆全集―」厚生閣
   1936(昭和11)年7月3日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「早稻田の校歌「都の西北」は、」以降の文章は、「早稻田大學新聞」早稻田大學新聞社、1935(昭和10)年6月5日に「校歌「都の西北」と私」の表題で掲載されました。
※誤植を疑った箇所を、「早稻田大學新聞」早稻田大學新聞社、1935(昭和10)年5月15日の表記にそって、あらためました。
入力:フクポー
校正:岡村和彦
2017年3月19日作成
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