シェイクスピアの郷里

野上豊一郎




  I pray you, let us satisfy our eyes
With the memorials and things of fame
That do renown this city;
――Twelfth Night

    一

 ストラトフォード・オン・エイヴォンへは、なるべくシェイクスピア祭の季節に行きたいと思っていたところへ、折よく水沢君と工藤君に誘われ、水沢君の車で出かけようということになった。ロンドンからストラトフォードまでは九十マイルそこそこで、汽車で行っても四時間ぐらいなものだけれども、イギリスの田舎はどこも綺麗で公園のようだから、自由のきく車でドライヴすることができたら、それに越したことはないのだ。
 時は四月の中旬で、空を見ても樹を見てもなんとなく春めいて来たし、それに私のイギリスでの講義もやっと片づいたし、ローマにいた長男からは大学で講座を持つことにきまったといって来たし、つい二三日前、日本からの便りでは、二男は福岡へ転任して、これも新設の物理学の講座を持つことになるらしく、三男も工学部に入学ができたという知らせがあったので、私たちは久しぶりでほがらかな気持になって旅に出かけられたのであった。
 誰かが、ストラトフォード・オン・エイヴォンのことをイギリスのメッカだと言っていたが、少くともイギリス文学をかじってる者にとっては、シェイクスピアの生れた土地、シェイクスピアの骨の埋もってる土地を見に行くのは、回教徒が聖地へ巡礼に出かけるようなものである。私にとっても、これまでたびたびシェイクスピアについて講義をしたこともあり、東京を立つ前には『マクベス』の翻訳を出したばかりではあり、『オセロー』にも手をつけたままで出かけて来たようなわけではあり、何かにつけてシェイクスピアには世話になってるので、かたがたお詣りしなくては義理が立つまいと思われた。

    二

 その日(十一日)午後二時ごろ、水沢君と工藤君と、水沢君が操縦して、私たちのハムステッドの家に迎えに来てくれた。
 ロンドンから郊外へ出て、磨き立てたようなアスファルト道路を一直線に西北の方へ駈けらして行くと、すぐ例の緑の絨氈を敷きつめたような牧場が行手にひろがり、そこここに桃の花が咲いていたり、黄いろいえにしだの花がかたまっていたり、その間に鶏が群れていたり、牛が寝ころんでいたり、羊が歩きまわっていたり、農家のとびとびに見える岡の上には寺の尖塔が木立の間からのぞいていたり、平和なのどかな画面がつぎつぎに展開して来るのが飽きることなく眺められた。
 詩人クーパーの生れたバーカムステッドという小さい村を通るといかにも古い家々が太い材木の骨を壁の上に露出して、屋根瓦は苔で青くなって居り、前庭にはダフォディルや、名前は知らないが紫の美しい草花などが咲き出していた。気の弱い孤独な病身な詩人のことを私はしばらく思い出していた。しかし、彼が五十を過ぎて親切な女友だちに慰められながら『ジョン・ギルピン』や『ザ・タスク』などの詩を書いたオーニという村は、私たちの通ってる所から二十四五マイルも北にあることを地図で知った。
 沿道の郊野はどこも気持よく手入れされ、古いものは古いなりによく保存されてあるのが、私たちを喜ばしたが、バンベリの手前のエインホウという村ほど惹きつけられた所はなかった。その村は高台になっていて、南西にはオクスフォードが近く、北西はバンベリを経てウォリク、レミントン、或いはバーミンガムへの通路があり、交通の要路であったが、鉄道が開通してから淋しく取り残された土地と見えて、今まで見たどの村よりも古風な趣があり、まばらに並んでる家々は、多くは灰白色の石で畳み上げられて、或いは白堊で塗りつぶされたりしてるのが、いかにも古びに古びて、背景の美しい自然とよく調和していた。見て通りながら私たちはみんな同時に感歎の言葉を吝まなかった。中にも、右側に長く壁を列ねてホテルの看板を掲げた大きな建物は、特に目立って注意を惹いた。その壁には高さ四間もあろうかと思われる杏子エイプリコトの枝を見ごとに這いまとわせてあるのが十数本並んでいて珍らしかった。ケンブリッジでは木瓜ぼけを同じように仕立てたのを見たけれども、こんな大きな古い木を壁に這わせたのは初めてだった。蔦ならばどこでも見受けるが、花の咲く果樹で図案風に外壁を飾るのは思いつきだとおもった。
 しかし、私たちがその家に秋波を送って通り過ぎたのは、実はそういった美的鑑賞の見地からばかりではなかった。時刻はもう五時に近く、なにしろ六十マイルばかりも車に揺られ通しで、空腹を感じていたので、ホテルの看板を見ると急にティーを思い出したのだった。あのうちで休んで行こうか? そうしよう。誰が言い出すとなく言い出し、誰が同意するとなく同意して、車を回したのは、その先の四つ角を通り過ぎ坂道をくだりかかった時だった。坂の上にも一軒、傾斜の角度のちがった二つの屋根と三つの煙突を持った古い家が立っていて形がおもしろいので、車をまわす間に写生した。
 ホテルにはカートライトという名前がついていた。門を入ると広い中庭で、周囲には納屋みたいな建物が並び、門を入った両側の二階屋が母屋になっていた。私たちの通されたのは、左手の薄黒いドアを開けて二つ目の部屋で、手前の部屋は酒場バーになっていた。通された部屋は食堂で、大きな煖炉があり、家具はオークづくめで、オークの円テイブルがまん中に置かれ、窓の下にはダフォディルの鉢が並んで、鳥籠には青いインコが飼ってあった。二階はすべて客間らしかった。私たちはトーストに半熟の卵を添えさせ、香気の高い紅茶を啜りながら、簡素なテューダー王朝時代の田舎家の室をいかにも居心地よく感じて、こんな所でしばらく好きな本でも読んで暮したいとか、物が書きたいとか話し合った。

    三

 ストラトフォード・オン・エイヴォンに着いたのは夕方だった。太陽は没していたがまだ日中の光は残っていた。エイヴォンは「銀の川」といわれるけれども、前の日に雨でも降ったものか、かなりひどく濁っていた。しかし、ヘンリ七世時代に掛けられた長い石橋を画面の中に取り入れて、白鳥の遊んでる低い川岸と、それをふちどっている絹柳の並木とその向に聳え立ってる神聖ホリトリニティの尖塔を一緒に見通した景色は何とも美しいものだった。町には、祭の季節だからだろう、人が大勢歩いていた。
 まず宿を取って置く必要があったので、私たちはシェイクスピア・ホテルというのに乗りつけた。赤馬レッドホースというのも橋のたもとにあって、ウォシントン・アーヴィングが此の土地の印象記(それを私は中学時代に読んだ)を書いた時泊っていたホテルだというので有名だが、それをば此の土地第一の得意客なるアメリカの淑女紳士諸君のために譲ることにして、私たちはシェイクスピア・ホテルの方を選んだ。それは十五世紀に建てられた気持のよい木造三階の建物で、家具なども調和するように工夫されてあるので興味を喚び起されるが、宿泊者にとっての今一つの興味は、客室の一つ一つが作品の名を持ってることで、どんな部屋に案内されるかと思ったら、私たち二人の部屋は九号室で、All's Well that Ends Well(おわりよきものはすべてよし)だった。なるほど喜劇の外題だったら大してあたりさわりがなくてよかろうが、悲劇にはだいぶさしさわりのあるものがある、というと、喜劇だって新婚の夫婦がい L. L. L.(恋の骨折損)の部屋に通されたらどんなものだろう、とか、いや、やきもち屋の亭主と Othelloオセロー の寝室に寝かされたらどうだろう、とか、そんなことを話し合って笑ったが、そういえば今夜は『オセロー』の芝居を見に行くのだったと思いつき、急いで支度をしてロッビへ下りる。
 廊下のつきあたりに Macbethマクベス と札を打った部屋があって、ドアがあいていたから、のぞいて見たら、読書室だった。さしさわりのある名前は客室には付けないのかも知れない。ロッビで水沢・工藤両君に部屋の名前を聞いたら Troilusトロイラス andアンド Cressidクレシダ だといって、つまらなそうな顔をしていた。
 芝居のある場所はシェイクスピア記念館メモーリアルといって、ホテルから歩いて五分とはかからなかった。一方はすぐ川になって、前の広場のにれの並木には色とりどりの裸か電球が枝に付けてあるのも祭の季節だからだろうが、鄙びてストラトフォードらしかった。記念館は前世紀の七十年代に建てられたもので、劇場と塔と絵画館と図書館から出来ていたが、劇場と塔は十三年前の火事で焼けたのを再建して、七年前市河三喜君夫妻が来た頃やっと落成しそうになっていたと聞いたのが、出来上ってるのを見ると、ロンドンのどの劇場とも比較にならないほど思い切って近代的な構造である。焼けた劇場もストラトフォードの環境の中ではあまりに異色的コンスピキアスだといわれて焼けた当座今度建つのは劇場設計の「最後の言葉ザ・ラスト・ワード」となるだろうと噂されていたが、或る意味に於いてはなるほど謂わゆる「最後の言葉」かも知れないが、古風な環境から飛び離れたものになってる点では、前の劇場は写真で見ただけだけれども、恐らく五十歩百歩だと思う。
 シェイクスピア祭は四月三日に始まり九月十六日または二十三日まで続き、劇場はその間殆んど毎晩開かれ、初めの十二週間分の上演曲目六種が発表され、私たちはロンドンから座席を申し込んで置いたのでらくに入れたが、そうでないと入場ができなかったかも知れないと思われるほどの盛況だった。
 配役は、オセローはジョン・ローリ、イヤゴーはアレク・クリューンズ、デズディモーナはジョイス・ブランド等の顔ぶれで、演出はロバート・アトキンズだった、殊にジョン・ローリの行き方は全然私の予期しなかったオセローで、脊丈もなく、肩幅もなく、声量も十分ではなく、肉体的にはどう見てもハンディキャップされているが、それでいて情緒のさまざまな展開を不思議に自由に見せていたのは、一つは技術のうまいのにも因るのだろうが、一つにはまた『オセロー』の作品その物が『マクベス』とか『キングリア』とかに較べて悲痛の成分を多分に盛られているから、演じ易いのではなかろうかとも思われた。(此の演出の印象については別に書くつもりだから、此処にはくわしい批評は略する。)
 此の演出は、私の翻訳しかけている『オセロー』の表現にとっていろいろと考えさせられたり、反省させられたりした点があって、見てよかったと思った。
 しかし、あまり芝居に気を取られていて、下の食堂のテイブルの申し込みを忘れ、二階の部屋でスープとオムレツだけの簡素な晩餐でがまんしなければならなかったのは少しつらかった。

    四

 次の朝は早めに起きて、食事前に、子供たちと市河君に絵端書を書いた。市河君夫妻は此のホテルの M. V.(ヴェニスの商人)の部屋に泊って、市河君はシルク・ハットをかぶり、晴子夫人は裾模様のキモノを着て、各国国旗掲揚式に参列したということを『欧米の隅々』で読んだことがあった。その式典はシェイクスピア誕生日(四月二十二日)に毎年行われることになってる。
 昨夜は芝居で疲れてろくろく見ないで灯を消してしまったが、今朝仔細に検分して見ると、なかなかよい部屋だ。天井にも葺き下しにも太いオークの肋骨がふんだんに使われ、ゆかも柱も、棚も鏡台も、椅子もテイブルも寝台も、皆オークで、暖炉も似合わしく大きく、すべてがっちりして薄手なところがなく、それに三世紀以上の時代がついて黒々と古びてる具合は、何ともいえない趣を持っている。私たちはトラファルガー・スクェアの家具屋で、テューダー王朝時代の応接室用の家具一揃を見て、金が自由になるなら買って帰りたいと思ったことがあったけれども、それ等をどんな部屋に持ち込むかの問題になって苦笑したことがあった。それを今のあたり、調和した家の中に発見して、こんなのはイギリスでないと見られないとつくづく感心して眺めながら、工藤君と水沢君が見物がおそくなるからと誘いに来るまで、部屋を離れなかった。
 町の見物のおもな個所は、シェイクスピアの生れた家と、晩年に買い取って住まっていた地所と、子供の時に通学していたグランマー・スクールと、遺骨の埋められてある寺と、そのくらいだが、それはそれとしてストラトフォードの町の或る部分はシェイクスピア時代からそのままに遺っているので、それを見て歩くだけでもよい見物である。
 シェイクスピアの生れた家というのは、町の北寄りのヘンリストリートに立つ木造の二階家で、ウォシントン・アーヴィングは、小さなみすぼらしい漆喰しっくい塗の木造の建物で、いかにも天才の巣ごもりの場所らしく、片隅でそのひなかえすのに好ましい所だ、と書いているが、それは百二十年の昔のことで、その後一八四七年以来、此の家は公有となり、一八五七年には大修繕が施され、一八九一年以来国有となり、今日では、アーヴィングを感激させたきたなたらしさは見られず、むしろ反対に、簡素ではあるが清潔な小ざっぱりした美しささえもある。入って見るとよくわかるが、もともと二軒の家をつなぎ合せて、一軒のように見せかけた拵えで、向って左側即ち西側の半分がジョン・シェイクスピア(詩人の父)の住宅、東側の半分は店に使われていたと伝えられるが、それについては異説もあり、東側の半分は住宅で、店は西側だったのではないかともいう。そういわれると、そうのようにも思えるけれども、よくわからない。確実にわかってることは、ジョン・シェイクスピアが此の家を所有して、此の家に住んでいたということだけである。随ってウィリアム・シェイクスピアが此の家で呱々の声を揚げたということは信じてよい。
 入場料は一シリングで、西側の謂わゆる住宅の左寄に入口がある。下は居間と台所と他に小部屋が一つ。詩人の誕生の部屋として伝えられてるのは往来に面した二階の一室で、天井は低いが相当な広さを持ち、柱も太く、暖炉も大きく、壁の漆喰しっくいの下からはところどころ修覆に使った古煉瓦が露出している。室内はもちろんがらんどうで、ドアを入った右手に詩人の大きな胸像がテイブルの上に飾られ、その傍に此の粗末な部屋にはふさわしくない見事な彫のある櫃が一つと椅子が一脚置いてあるきりだ。イギリス国内はもとより、全世界から毎年八万人以上の訪問者(その四分の一はアメリカ人)があるというのも、主として墓と共に此の部屋を見るためで、謂わば一種の聖祠の如きものである。
 此の部屋の特色とされてるものは、壁と天井の窓框の到る所に一面に書き散らされた訪問者の署名で、眼鏡をかけた案内人の小さな婆さんが、その中にはウォルター・スコット、カーライル、サミュエル・ジョンソン、バイロン、サッカリなどの名前も見出せるといったけれども、私はそういった人たちの筆蹟の真偽を判定し得るわけでもないから、捜すことはしなかった。それに私は近視十度の眼鏡をかけているが、実際は半分遠視になりかけて、少し距離のある細かい文字は判読しにくいので、尚更あきらめるよりほかはなかった。しかしおもしろいことに、壁も天井も一面の落書で此の上もう記入する余地がなくなったので、署名希望者は誕生日に来て別に一シリング出せば、壁の代りに記名帳に署名させることになってるそうだ。だが、金を出して帳面に記入するのでは、落書の興味は感じられないだろう。そんな人たちは自由にジョンソンやカーライルと肩を並べて署名した先輩を羨ましがっているだろう。
 下の台所には珍らしいものが二つあった。一つは石畳の土間から一本の小さい柱が天井まで抜けていて、低い所に横木が通してある。何にするものかちょっとわからなかったが、婆さんの説明によると、子供がその横木につかまって押すと柱が廻るようになっている。しかしウィリがそれにつかまって独り遊びをしていたとは婆さんは断言しなかった。今一つは棚の上に載せてある古風な鼠おとしマウストラプで、二尺に一尺ほどの箱に簡単なわくを立て、枠の心棒から箱の片側の横木に糸が張ってある。婆さんはそれを指ざして、『ハムレット』に使ったのはこれです、といった。劇中劇の場面で、王が此の芝居は何という外題だと聞くと、ハムレットは The Mouse-trap(鼠おとし)と答える。はて、どうして? たとえごと。と自問自答の言葉がつづく。王の良心を罠にかけて見ようとするハムレットの魂胆を、シェイクスピアが子供の頃台所の片隅で見覚えていた此の捕鼠器から思いついたものだとすれば、たとえごとという所に人のあまり使わない tropically なんて変な言葉を使った心理にも、その副詞は trope という名詞から来て、figuratively と同義語になったもので、trope は元来ギリシア語の tropos(転回)から出たのだなどと、そんなうるさいことは言わなくとも、少年のウィリがいつも此の器械に鼠のかかる時枠の心棒につないだ小さい横木の廻転するのを興味深く見ていた印象が残っていて、それを trap に似た語感の上から使って見たくなったものではなかろうか、と、そんな学究もどきの役にも立たない屁理窟をこね廻して喜んだりするのは、蓋し、学究なんてものをば初めから無視していた天才の真骨頭を体得していないからだろう。
 鼠おとしマウストラプはそのくらいにして今度は詩人の親爺さんの店へ案内しましょう、と婆さんに促され、東側の家に入って行くと、其処は博物室ミュジーアム図書室ライブラリになっていて、詩人に関する多くの遺物と肖像画出版物などが陳列されてあり、詳細なカタログが一シリング六ペンスで売られている。それを抜き書きする労力は省きたい。書棚には“quartos”の各種やアシュバートン文庫から二万ポンドで購入したといわれる“the first folio”の完全な一組が揃っていて、蔵書癖のある訪問者の目を羨ませがらしている。
 問題は、ああした立派な作品をたくさん書き遺した天才がどうして斯んな小っぽけな店屋の片隅から出たかということである。シェイクスピアの家は代々百姓だったが、親爺さんのジョンは生れた村を見捨てて近くのストラトフォード・オン・エイヴォン(今日は人口一万余の小都市だがその頃は人口二千ほどの市場町いちばまちだった)に出て商売を始め、雑穀・毛物・肉類・皮類などで儲けて此の家を買い取り、一時は町会議員オルダマンを勤めて MR. の敬称を持つ身分にまでなっていたが、その後商売に失敗し借金に苦しむようになった。けれども頑強に此の家だけは手放さなかった。ウィリアムは四男四女の三番目で長男だったので、グランマー・スクールも中途でよして店の手伝いをさせられた。もちろんそういった家庭に後日の詩才を育て上げてくれるべきものがあっただろうとは思えない。それにもかかわらず、彼はカーライルをして全英帝国よりも重く評価せしめた詩才を作り上げた。それは家庭でも学校の教室でもなく、世間で鍛え上げたのだった。すべての人がシェイクスピアの真似をしたところで始まらないけれども、そのことは今日も考えて見なければならない問題である。
 そんなことを話し合いながら、私たちは裏の庭園を一めぐりして見た。シェイクスピアの作品に現れた花卉樹木の類を集めた庭園で、月桂樹ベイペア山櫨メドラ木瓜ぼけに似た花を付けている※(「木+孛」、第3水準1-85-67)クインス、ホーソーン、えにしだ、等々。かなりたくさんな種類で、一々名前が標示してあるから、私のような植物の知識の貧寒な者にも興味は湧くが、それを見て私は東京砧村にある市河君設計のシェイクスピア庭園ガーズンを思い出した。そうして、本場のと思い較べて見て、砧村のも相当なものだということを初めて気づいた。

    五

 ウィリアム・シェイクスピアは二十一歳の年ストラトフォードを飛び出してロンドンに出て、芝居道に入り、役者になったり、脚本を書いたりして、恐らく誰も予想しなかったであろう成功を収め、再び郷里に帰って来たのは四十七歳の時だった。その時はすでに父も母も死んで、ヘンリストリートの家には伯母の家族が住まっていたが、シェイクスピアは町の目抜の通、礼拝堂通チャペルストリートから礼拝堂小路チャペルレインへかけての角屋敷で、以前にサー・ヒュー・クロプトンといってロンドン市長を勤めたことのある人の屋敷を六十ポンドで買い取っていた。それを修繕して大屋敷グレイトハウスという名前を新屋敷ニュープレイスと改め、其処へ引っ越して一六一六年に五十二歳で死ぬまで六年間住まっていた。その外にも、町の郊外に百七エイカ(約百四十三町歩)の土地を買い込み、大詩人はまた同時に大地主でもあった。「おわりよきものはすべてよし。」
 私たちは新屋敷ニュープレイスを訪問したが、今は美しい青芝の庭園となって、その間に桜草やダフォディルが咲いているだけで、シェイクスピアが晩年を過ごした家というのは僅かに残ってる礎石に依って想像するほかはない。その家は十五世紀にクロプトンの建てたもので、それをシェイクスピアの好みで模様替えしたのだから、もし今日まで保存されていたら非常に興味あるものに相違ない。本宅の外に、納屋二棟、庭園二つ、果樹園二つを包容したといわれるだけあって、大きな屋敷である。その庭園にはシェイクスピアが植えた桑の木があったが、十八世紀の中頃、当時その屋敷はガストレルという牧師のものになっていて、シェイクスピアの名声が世間に漸く高まった頃で、遠近から見物人が押しかけて来てうるさいというので、癇癪持ちの牧師はその木を伐り倒してしまった。「おれの屋敷に生えた木が一本ある。それを伐り倒して使いたいのだ。近いうちに倒さねばならぬ。」(Timon of Athens)。そんなことを書いたシェイクスピアは百五十年以前に癇癪坊主にとんでもないことを教えたようなものだった。ジョンソン博士はそれを憤慨して、ゴート人の蛮行ヴァンダリズムだと非難したが、そのくせ、婦人尊敬の癖を持っていた博士はリッチフィールドで牧師夫人と会食した時にはその共犯者に対して一言も非難の言葉を浴びせなかった。ウォシントン・アーヴィングがストラトフォードで逢った寺男は、もと大工をしていた男で、その仲間に例の木を伐り倒したのを自慢にしてる老人があった。スコットはその材木で造った箱を寺男に貰って喜んだ。今ではその桑の木の若芽を接木したと伝えられる老樹は庭の隅に枝をひろげて日蔭を作っている。
 庭に接して立つ一つの建物は新屋敷博物館ニュープレイスミュジーアムと呼ばれ、ロンドンから蒐めて来たシェイクスピアの彫像が陳列されてあるが、もとはナシュの家と呼ばれ、シェイクスピアの孫娘のつれあいトマス・ナシュが住まっていた家で、壁には一面に藤が絡んで握りこぶしほどもある蕾が褐色にふくらんでいた。
 私たちは其処を出て、道一つ隔てた組合礼拝堂ギルドチャペル(十三世紀以来の歴史を持つ建物で、聖十字架ホリクロスと呼ばれ、内陣はクロプトンの改修)をのぞき、それに続く二階建の組合役所ギルドホール(イタリア風に改築された近代の建物)を見た。組合ギルドの名称の示す如く、町会は中世職業組合の宗教的な相互扶助的な組織の伝統の上に置かれたものだった。シェイクスピアの子供の頃は旅役者が巡業して来て組合役所ギルドホールの構内で幼稚な勧善懲悪的な寓意劇や史劇を上演し、少年シェイクスピアもそれを見物に行ったといわれている。
 組合役所ギルドホールの二階はその頃から文法学校グランマースクールで(今日でも小学校に使われている)、そこへわれわれの憐むべきウィリは七つの年から泣き虫の勉強ぎらいの生徒として六年間通い、古代英語オールドイングリシュの書体を稽古したり(彼は生涯イタリア書体は書かなかった)、ラテン語の初歩を暗誦したりした。われわれが子供の頃支那の古典を鵜嚥みに覚えさせられたようなものだっただろう。彼の受けた正規の教育といってはそれだけだったから、博学なベン・ジョンソンにひやかされて、ラテン語はぽっちり、ギリシア語はなおぽっちり、と言われても仕方はなかった。しかし、彼は、ベン・ジョンソンなどは比較にならないほどえらい仕事をした。
 その次は詩人の墓に詣らねばならなかった。墓は聖三位一体教会ホリトリニティチャーチの中にある。教会通チャーチストリートから古町オールドタウンを南へ下って、エイヴォンの川岸に出た所にあり、あたりには、川岸へかけて樹林が茂って、詩人の安息所にふさわしい。設計は長十字形で、中央の塔と外陣は十三世紀のもの、内陣は十四世紀のものだそうだ。写真では知っていたが、入ってまず驚いたのは、シェイクスピアの墓の意外に威張った位置にあることだった。内陣から一段高くなった聖壇チャンセルの北側にあって、平石で蔽われ、その上に詩人自らの選した有名な四句が刻みつけられてある。――
Good frend, for Jesus sak forbeare
To dig the dust enclosed heare:
Bleste be ye man yt spares thes stones,
And curst be he yt moves my bones.
よき友よ、イエスのために忍んで、ここに封じられたるしかばねを掘る勿れ。この石に触れざる人は恵まれてあれ、わが骨を動かす者は咀われてあれ。
 此の咀いの文句がなかったら、詩人の遺骨は或いは墓掘男の鋤にかかって骨寄倉こつよせぐらに投げ込まれたかも知れなかったのだが、詩人はそれを恐れてこういう文句を書いたのだろう、と、ウィリアム・ホールという人がシェイクスピアの死後七十七年目に此の墓を訪うてそう書いている。『ハムレット』の墓掘の場面で、ヨリックの頭蓋骨を投げ出した墓掘男の無知と無作法をば彼はよく知っていた筈である。墓穴を十七尺の深さまで掘り下げたのも、墓掘の無作法を恐れた詩人の遺志に因るものだといわれている。ヨリックの遺骨は二十六年目に掘り出されたけれども、幸いにしてわれわれの詩人の遺骨は爾来三百二十三年間一度も冒涜を受けなかった。妻や娘たちは、その中に一緒に埋めてもらいたいといったけれども、その時でさえ蔽いの石は動かされなかった。彼等の墓はシェイクスピアと並んで聖壇チャンセルに設けられ、ホーソーンの言葉を借用すれば、一家打ち揃って「教会の提供する最上の場所」を占有している。以前に此の教会第一の保護者であったサー・ヒュー・クロプトンの記念像でさえ側堂の片隅に置かれてあるに過ぎないのに。
 しかし、それを以って早計にもストラトフォードの教会がシェイクスピアの詩才に敬意を表したものと思ってはいけない。今日でこそシェイクスピアといえば、世界最大の劇詩人といわれるけれども、彼は生前にそういった名誉を楽しむことはできなかった。死後といえども二百年間はそれほどの尊敬は払われなかった。それにも拘わらず教会堂内部の最上の位置を獲得したのは、彼が芝居の興行で金を儲けて、郷里に引退する六年前、大枚四百四十ポンドを投げ出して教区の十分一税タイスの権利を買い取って置いたからに相違ない。
 詩人の記念像は墓の上の壁に高く取り付けられてステインド・グラスを通す陽光を浴びているが、石造の半身像が彩色[#「彩色」は底本では「色彩」]されてあるのは感心できない。伝うる所に依ると、グローブ座の近くに店を持っていて生前詩人の顔をよく見知っていたオランダの石工ヤンセンという男が、詩人の女婿ドクター・ジョン・ホールの依頼を受けて彫った物だという。片手で鵝ペンを持ち、片手で紙を押え、顎鬚をきちんと刈り込んで、いかにも幸福そうに顔を伸ばした相貌で、スコットやサー・シドニ・リーには評判がわるいが、(私自身もあまり感心しないが)、しかし、詩人の時代にできた二つきりの肖像の一つである。
 内陣の西の隅のガラス箱に三百年前の教区登記簿が保存されてあり、係りの老人が大事そうにそれを開けて見せた。一個所には詩人の洗礼の日付と洗礼名が 1564 April 26 Guliemus Filius Johannis Shakspere(ジョン・シェイクスピアの息子ウィリアム)とラテン名で記され、また他の一個所には死んだ日付が 1616 April 25 Will Shakspere, Gent. と記されてある。生れた日は四月二十二日(或いは二十三日)であるのに二十六日と記入されてるのは、その頃は生れて三日目に洗礼を受ける習慣だったからだと係りの老人は説明した。その頃の洗礼盤は古くなって欠損したから、廃物として後園の片隅に長い間棄ててあったのを、洗礼された人がえらくなったので、また復活して今では大事に教会の中に飾られてある。
 五十二歳で死んだシェイクスピアは死ぬ前に懸命に此の世に遺して行くべき骨のことを気にしていた。しかし、私たちはミルトンと共に
What needs my Shakespeare for his honoured bones
The labours of an age in pil※(アキュートアクセント付きE小文字)d stones?
といいたい。何となれば、彼は遣骸の上に石を積み重ねなくとも、彼自らを人類永久の記念物として作り上げたのだから。

    六

 私たちは一まずホテルに引き上げて預けて置いた鞄を受け取り、また水沢君がジョファになってくれて、ショッタリの村へ出かけた。十八歳の若者のウィリアムがやがて妻となったアンの家へ通った遺跡を見るために。
 その村はストラトフォードの西一マイルほどの郊外で、今は中流生活者の住宅地となって煉瓦建の家が樹林の間にぽつぽつ見えるけれども、昔はもっと田園めいて、木材の骨組の現れた草葺のコッテイジばかりだったということである。途中でもそういった古いコッテイジを幾つか見たが、その最も代表的なのは私たちの訪ねたアン・ハサウェイの家である。
 前には小さい川が流れて土手の並木の影を映し、コッテイジは二棟が一つのようにくっつけられ、大きな煉瓦の煙突が三つ藁葺屋根を高く突き抜いて居り、漆喰の白壁には太いオークゆがみなりに竪横に組み合わされてある。周囲はことに気持よく、往来を仕切った無骨ぶこつな木柵もおもしろければ、家の前に刈り込まれた植木も(刈り込み方は技巧を凝らし過ぎてはいるけれども)おもしろく、後園に通じる木柵と冠木門かぶきもんもしゃれたものであり、後園はよく手入れされて、うつろの古木の間にダフォディル、桜草、忘れな草、カーライト(卯の花に似て赤い花)、山吹などが、美しい青芝の上に咲き出ている。シェイクスピアの頃には斯んなによく手入れされていたかどうかは問題であるが、彼のローマンスを飾る背景としては似合わしい手入れの仕方である。
 私たちは詩人自らの秘密の恋の場面をのぞくような好奇心を懐いてコッテイジの中へ入った。女学生らしい見物人が二三人一緒になった。ゆかは石灰石で敷き詰められてあるが、時代がたって、でこぼこしている。台所には古風な大きな炉があり、ドアの隣りは食料品の貯蔵所で、居間の壁際にはひどく擦り減らされた木の腰掛が取りつけてある。此処に「うぶな若者」のウィリアムが八つ年上の農家の処女アンと腕を組み合わせて腰かけている図を描き出して見るとおもしろかった。後ではあらゆる恋の場面を書いたシェイクスピアではあったけれども、その頃は「彼よりも悧巧な」アンの方が恋の手ほどきをしてやったものかと思われる。
 此の家の見物の一つの興味は、三百年前の自作農の生活状態を想像させるのに都合のよい家具類がそのままに保存されてあることで、古い陶器や白鑞ピューターの食器のほかに珍らしい革の徳利(牧場用)が天井から下っていたり、二階の寝室には彫のある寝台に「万年敷布シーツ」がまだ昔のまま掛けられてあったり、今から見ると質素ではあるが、当時としては決してちゃちな物とは思えない物が多かった。アンの寝台には褥の代りに妹が蘆で編んでやったという茣蓙蒲団が重ねてあり、その上に古びながらもまだ赤い色のあまり褪せてないきれが掛けてあるのも、女の寝室らしいなまめかしさが漂っていた。
 ハサウェイの家は重代の自作農で、一種の郷士であった。アンは六人の子供(女三人と男三人)の一番上だった。シェイクスピアが彼女に求婚した時は、父のリチャードはすでに死んで、母のジョンが農事を宰領していた。もう春も闌けて、田園には夏らしい青葉が濃くなりかけていた頃、肉屋の息子と農家の娘の恋は芽を吹いた。訪問者は誰でもその家の窓際に金髪のアンが「朝露で洗われた薔薇ばらのようにかがやかしい」姿で、野を横ぎって来るウィリアムを待ちながら立ってるところを想像しないでは去らないだろう。二人の恋の場面は野の上でも牧場の上でも見られたであろう。肉屋の伜であった詩人は「恋は良心が何であるかを知るにはあまりに若い」と歌った。また「おお、物を教える甘い恋よ、お前が罪を犯したのなら、お前の誘惑したことわけを教えてくれ」と歌った。しかし、その頃彼は何を恋に教えられたか知らないが、記録の証明するところに拠ると、「恋の強い情熱」の結果は、その年(一五八二年)の十一月二十八日にショッタリの二人の百姓男を、ウィリアム・シェイクスピアとアン・ハサウェイの結婚許可を得るために、アンの母親の代人としてウォースターの監督牧師に願い出させた。一つは身分の上に於いて花聟の家の方が低かったためか、シェイクスピアの父の方は手続の上では無視されている。翌年五月初めの子供(娘)が生れ、更に二年後に双生児(息子と娘)が生れた。そうしてその年、彼は妻と子供と親と家を後にしてロンドンへ出た。
 私たちはついでにシェイクスピアの母方の親戚なる郷士アーデンの屋敷がウィルムコートに在るというので、それをも見て行こうとして、田舎道を乗りまわしたけれども、捜し出せなかったので、そのままウォリクの古城をさして北東へ進んだ。
(昭和十四年)





底本:「世界紀行文学全集 第三巻 イギリス編」修道社
   1959(昭和34)年7月20日発行
底本の親本:「西洋見學」日本評論社
   1941(昭和16)年9月10日発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2007年8月9日作成
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