吹雪のユンクフラウ

野上豊一郎




    一

 アルプス連峰の容姿の目ざめるような美しさにいきなり打たれたのは、ベルンに着いてベルヴュー・パラース(ホテル)の二階の部屋に通された瞬間だった。南東を受けた大きな窓一ぱいに遠く雪を戴いた山々が一列に並んで、時刻はもう十九時(午後七時)を過ぎているのに日中の光のまだ残ってる碧空に、くっきりと鮮やかな空劃線スカイラインを描き出してる美しさ! 尖峰の数は目分量で三十から四十もあろうか? 鋭くとんがったり、おんもりと円味を見せたり、そぎ落されたようなのや、曲りくねったのや、威儀を正したものもあり、無造作に坐ったのもあり、孤立したもの、寄り集まったもの、思い思い勝手な方向を向いて、実際は比較的近いのも比較的遠いのもあるらしいが、距離のために一列になって見え、全体として、いかにも清らかに鮮やかに花やかに、且つ、消えたばかりの夕映の名残を浴びて皺襞の陰影が甚だ繊細な微妙なものでさえあった。私は今までこれほど豪華な山嶽の駢列を見たことがなかった。オリュンプスの神々女神たちの行列を作ってるところを思いもかけずかいま見たような驚きと喜びだった。
 それに私の立ってるところと連峰の間には、殆んど地上で想像される限りの美しい通観ヴィスタがあった。赤味の勝った絨毯と壁紙で飾られた部屋のすぐ下には碧玉を溶かしたようなアーレの流れがあり、対岸はよく整頓された並木に縁どられて、色さまざまの家屋の列が幅狭くつづき、その先は深い樹林の帯で、もう春の新鮮な衣装をまとった丘が背景をなして、そこから連峰までの間にはあまり高くない無数の山々がまだ冬の姿のままで起伏し、一番先に白皚々のすばらしい屏風が青空を仕切ってるのだから、それ等を通観した大きな画の前に、全く、しばらくはただ茫然と見とれてるだけで、ほかになんにも考える余裕はなかった。
 その景観にやや目慣れてから、まず思い浮かんだことは、一体これはアルプスの多くの山系の中でどれに属する部分だろうかということだった。しかし、すぐ気がついて見ると、ベルンに来てるのだから、そうして、ベルンから南東を展望してるのだから、いうまでもなくこれは「ベルンのアルプス」と呼ばれる中央山系でなければならない。そうだとすると、ユンクフラウ(乙女)があの連峰の中に交ってる筈だ。私たちがこれから訪ねて行って、明後日はそれに登ろうと計画してるユンクフラウが。
 こんなに早くユンクフラウに出逢おうとは思わなかった。つい一二時間前私たちはドイツを旅行していた。そうして、国境を越えて今スウィスに入ったばかりだった。入って見ると、ユンクフラウが待っていたのだ。少年の頃からいかにしばしばそれについて読んだことか、聞いたことか! その親愛なユンクフラウが待っていたのだ。
 私は少年のようにあせって連峰の中から早くそれを選み出したかった。丁度ボイが入って来たので、尋ねると、彼は連峰のまん中あたりに一きわ大きく逞ましく根を張った山を指ざして、あれがそうですと答え、なお次々におもだった峰角の名前を数え立てた。私はパノラマ図録と首っ引きで一つ一つそれ等を跡づけて行った。
 まずユンクフラウ(四一六六米)から左へ辿ると、すぐ隣りの首を少しかしげたのがメンヒ(坊主)(四一〇五米)、その次の足を踏みはだけたのがアイガー(三九七四米)、やや低いのを二つほど飛ばして、鎗のように聳え立ったのが此の山系第一の俊峰フィンステラールホルン(四二七五米)、その先に多くの群小を見下して同じような尖峰が二つ重なり合ってるのがグロスシュレックホルン(四〇八六米)とグロスラウテラールホルン(四〇四三米)、小さいのはまた飛ばして、ベルクリシュトック(三六五七米)とヴェッターホルン(三七〇三米)、後者の肩からのぞいてるのがハンゲンドグレッチェルホルン(三二九四米)、次がヴェルホルン(三一九六米)、シュヴァルツホルン(二九三〇米)、ヴィルトゲルスト(二八九二米)、次に近いから大きく見えるがそれほど高くないホーガント(二一九九米)。その左の裾に小さく見えるのは遠いからで高さは相当なディヒターホルン(三三八九米)等、等。
 次にユンクフラウから右に数えて、同じような腰強いのがグレッチャーホルン(三九八二米)、その隣りに塀立してるのがエプネフリュー(三九六四米)とアレッチュホルン(四一八二米)、それから低いのを抜かして、ミッタハホルン(三八九五米)、シュヴァルメルン(二七八五米)、グロスホルン(三七六五米)、ずっと右手に孤立してるのがブライトホルン(三七七九米)、次にグスパルテンホルン(三四四二米)、ツィンゲルホルン(三五七九米)、つづいてレッチュターレル・ブライトホルン(三七八八米)、別に離れてブリュームリス・アルプスの山彙を成すものとして、モルゲンホルン(三六二九米)、ヴァイセフラウ(三六六〇米)、ヴィルデ・フラウ(三二五九米)、ブリュームリスアルプシュトック(三二一九米)、ブリュームリスアルプホルン(三六七一米)があり、フリュンデンホルン(三三六七米)がその端にくっ付いて、その手前にピラミッドのようなニーセン(二三六六米)が、これは近いだけに大きく見え、ずっと離れてドルデンホルン(三六五〇米)とベットフリュー(二三九七米)が立ち、まだうねうねと幾らもつづいている。
 その他、雪線(アルプスでは二六〇〇米)以下の峰角は大部分省略したが、此処に挙げた分は「ベルンのアルプス」では皆名士たちだから、繁を厭わないで紹介して置くのは、綺羅星を列ねたその威容の前にいかに哀れな旅行者が圧倒されたかを想像してもらうのに都合がよかろうかと思ったからである。
 その日は午前おそくケルンを立って、殆んど半日間全部、ラインの渓谷を汽車に揺られて溯り、バーゼルで電車に乗り換えてベルンに着いたのだが、途中アルプスを瞥見する機会には恵まれず、アルプスのことは全く意識の外に置き忘れてあった時、いきなり此の壮観に襲われたのだから、手もなく圧倒されてしまったのである。
 私はスウィスに行ったら、ユンクフラウとモン・ブランとマッターホルンとモンテ・ローザはぜひ見たいと期待していた。それにしても、ユンクフラウの山容は写真や画では度々見ていたけれども、こんなに大勢の名士淑女が袖を連ねていようとは思わなかったし、ユンクフラウにしても、彼女自身の形は知ってるつもりだったが、近接した山々との関係に於いて知ってなかったので、実物を目の前に置きながら、教わるまでは見わけがつかなかったのである。田舎者が貴顕の前に出た時のように眩惑してしまったのだろう。

    二

 次の日(五月七日)十六時十六分、私たちはベルンを立ってインターラーケンへ行った。ベルンの標高は約六〇〇米で、インターラーケンも大体似たもので、少し高いが一〇〇呎と差はない。けれども南東へ約六十五キロ進出するから、それだけ「ベルンのアルプス」に接近するわけで、インターラーケンは事実上その登山口である。
 インターラーケンへ行く汽車の興味は、アルプスの山々が刻一刻と近づいて、線路の屈曲と共にその山容を変えることの珍らしさに係っている。
 ベルンを離れて三十分もたつかたたない頃、ミュンシンゲンあたりで、右手の窓にニーセンとシュトックホルンが顔をのぞけ、左手の窓にメンヒとユンクフラウが眺められる。アイガーも少し遠くではあるが眺められる。ニーセンは「ベルンのアルプス」の歩哨を承ってるような山で、位置も私たちの通り過ぎるすぐ前にあり、独りで淋しそうにしてるが、形は金字塔型のなかなか形のよい山だ。上の方は雪で白く、下の方はまだらだった。
 テューンという町には古い城砦があった。そこから湖水が展開して、その縁を汽車は通って行く。湖水の名前もテューン(テューネル・ゼー)で、幅は三キロ、長さは十九キロ以上あるそうだ。湖畔にはもう春が来て、杏子あんずや梨の花ざかりで、草原にはたんぽぽが群生していた。シュピーツを過ぎると、右手は丁度ニーセンの真下で、さっき見た時と形が変って、非常に線の強さが目立つ。対岸にも突兀とっこつたる山々が次々に現れて来るが、ベアテンベルクとかいう山は大きな円錐の頭を斜めに截ち切ったような形で、その截断面の傾斜の上に家が飛び飛びにばら撒かれて、画に描いても斯んな景色は実在しないと疑われそうなおもしろさだった。
 やがてテューンの湖水の尽きたところがインターラーケンで、インターラーケンは読んで字の如く湖水と湖水の中間の平地である。というのは、その先にもう一つ、ブリェンツの湖水(ブリェンツェル・ゼー)と呼ばれる大体同じ大きさの細長い湖水が伸びて、地図で見ると、腸詰を二つ結び合せたような形になって、その結び目の所がインターラーケンで、二つの湖水は運河でつなぎ合わされ、夏になると遊覧船が行ったり来たりするそうだ。
 インターラーケンは登山季節の盛り場だけに大きなホテルが軒を列ねているが、私たちはホテル・ユーロープという小じんまりしたのを選んで泊って見たところが、すっかり家庭的な宿屋で、小さな子供たちが廊下で出逢うとにこにこして挨拶したり、部屋も質素だが清潔で、食事も意外においしく、何より閑静で、それに安くて、ベルヴュー・パラースに泊った昨日の今日だけに、大いに気に入った。
 食事前に村を散歩して見ると、ホテルはどこもまだ閑散で(季節は六月以後)、名物のククー時計や熊の木彫や絵端書などを列べた店もがらんとしていた。ユンクフラウやメンヒは村をはずれて少し小高い所まで行かないとよく見えなかった。

    三

 あけの朝は遠足の日の小学生のように早く目をさましたが、一番に気づかわれたのは天気だった。ユンクフラウに登るとはいっても電車が運んでくれるのだから、問題は足ではなくすべて天候に係っていた。一万一千四百六尺のユンクフラウヨッホまで登っても、霽れてくれなければ登った効果は失われてしまう。ところが、あいにく、空はどんよりして今にも何か落ちて来そうだった。ホテルの親爺に相談して見ると、山の上のことは何ともいえないが、吹雪かも知れませんよ、ということだった。気象予報は雪となっていた。吹雪を見に行っても仕方がないが、此処まで来て登らないで引き返すのは心残りだ。二三日滞在のつもりで来ればよかったのだけれども、今日は山から下りるとその足で汽車に乗り、夜なかにジュネーヴまで伸す予定で、ジュネーヴでは同郷の藤田君が停車場で待ってくれてる筈だ。今さら変更することもできず、一日延ばしたところで、明日の天気が保証されるわけでもないから、文字通り運を天にまかせて登って見ようということにきめた。
 それにつけても一つ気がかりなことは、他の荷物はベルンで知り合いになった染矢君(藤田君の友人)の厚意で先にジュネーヴまで届けてもらったが、スーツケイスを一つインターラーケンに持って来てあるのだ。私たちの登山電車がインターラーケンに戻って来るのは夕方の十七時五十分で、ジュネーヴ行の列車が出るのは十八時六分で、その間十六分きりないから、一時預けにできればそれでもよいのだが、それよりも時刻を見計らって御苦労だがこれを停車場まで持って来てくれないか、と親爺に頼むと、こころよく引き受けてくれた。弥生子は傘を借りた。
 登山鉄道は、インターラーケンからシャイデックまでの二十四キロはベルン高地鉄道、シャイデックからユンクフラウヨッホまでの約十キロはユンクフラウ鉄道、と乗り分けることになる。後者は季節には一日八回往復するけれども、今は一日一回きり往復しない。(十一月から三月までの間は交通が全然杜絶する。)
 インターラーケンからラウターブルンネンまで十二キロ、その間二五〇米ほどの登りで沿道は別に何の奇もない。しかしラウターブルンネンは書き留めて置くに値する奇景の地である。断崖絶壁の寄り集まった渓谷で、村はどこに人家が隠されてあるかわからないほどに散らかっているが、高い断崖から(雪どけの季節だからか)大きな滝が幾つも懸かっていて、小さい流れが其処にもできて居り、リュッツィーネの川に皆流れ込んでいる。川床には到る所に泉が湧き出して、それでラウターブルンネン(泉ばかり)という名前ができたのだという。
 私たちは此処で登山電車に第一回の乗換をさせられる。電車はリュッツィーネを横断すると、いきなり前部が持ち上って急峻な坂道を登り出す。謂わゆるラック・アンド・ピニョン式の電車で、歯車ピニョンが一つ一つ枠架ラックを喰い締めてことことと登って行く。上はどこを見ても一面の積雪で、片側は白い壁がどんどん窓を掠めて駈け下ると、片側は新緑の谷間が見る見る深くなって行き、其処には針葉樹の群落が幾つもあり、その間に赤や青に塗った人家が散在して、煙突からは淡い煙がのどかに立っている。春と冬の間を行ってるようなものだが、わるいことに霙のようなのがぽつりぽつり落ち出した。さっき登山電車に乗り換える時に、駅長に、上の方の天気はどうでしょうと聞いたら、霽れるとは思えない、という返事で、内心少からず不安を感じていたが、不安は失望に変って来だした。
 雲煙が谷間の向側のばかに細長い滝の糸の懸かってる山の頭を隠して静かに動いている。その先の峡にも、またその先にも、雲煙が次第に多くなって来る。私たちのすぐ前の席に掛けてる肥ったドイツ人は、隣席の細君らしい小さい婦人の注意を雲煙の上の方に誘って、晴れてるとこんな形の峰があそこに見える筈なのだと、五本の指をひろげて自然薯のような形にして見せた。
 その次に停まったのはヴェンゲン。相当な町のようだが、建物の大部分はホテルのようだった。丁度九時半で、教会の鐘が鳴っている。今日は日曜日だった。電車から傘を持った男が一人下りてのそのそと村の方へ歩いて行った。停車してる間に雪が降って来た。道ばたには三四尺の雪が積もっていた。しかし、斜面の雪の少い所には黄いろい桜草や紫の董や名前は知らないがイギリスでよく見たクローカスのような白い花が咲き出ていた。登ってる間に電車の左側の窓には時々薄日がさし込んで来る。雪はしきりに降っていながら、何が何だかわからない。花も雪も、春も冬も、皆一緒くたになってる。
 ヴェンゲンアルプという停車場は停まらないで通り越した。ホテルがたった一軒雪に埋もれて岩角に立ちすくんでいた。左の方は高い岩山になって、右の方は深い広々とした渓谷が開け、晴れていたら眺望のよさそうな所だが、ただ舞い散る雪を見るのみだった。
 十時三十分、シャイデックに着く。二〇六三米。此処で皆下されて、更に上まで登る者は別仕立の電車に第二回の乗換をしなければならない。切符も上の分(ユンクフラウ鉄道)は此処で買い換えるようになっている。これからユンクフラウヨッホまで九キロあまり、往復一人三十二フラン(スウィス・フラン)、恐らく世界一の高い料金だろうが、所がら比類のない難工事であったことと、設備の完全なことを考慮に入れれば、高いとはいえないのかも知れない。問題は、折角登っても眺望がきかなければつまらないので、天候にのみ係っていた。しかし、天候は絶望であるのにおよそきまっていた。その時雪は小止みになっていたが、空は一面の密雲だった。さればといって此処まで来て引っ返すのは永久に悔いを残すことになるだろう。今朝ほどインターラーケンで思い惑ったことをまた繰り返して思い惑ったが、結局、吹雪のアルプスを見るのも一興だから敢行しようということに腹をすえた。それには一人の若いイギリスの紳士の勧誘も手伝っていた。便所で私は彼と並んで用をたしていた。あんたはどうしますか、と彼は聞いた。躊躇してるんだが、此処にじっとしててもつまらないと思いましてね、というと、行きましょう、行きましょう、僕はもう切符を買った、と彼は激励した。便所から出て私は往復を二枚買った。
 電車は四十五分に動き出した。車内は私たち夫妻と、例のイギリス人と、ブラジルから来たジャーナリストと、ドイツ人夫妻と、それだけだった。六人で借り切るには勿体ない車だった。尤も、発車間際になって若い男女のスキーヤーが六七人どやどやと駈け込んで来たが、次のアイガーグレッチャー(アイガー氷河口、二三二〇米、そこまで十五分)に着くと皆飛び下りて、ビンドゥングを締めるなりすぐと滑り去ってしまった。シュトックを振ったり、手を振ったりしながら。どこの青年たちか知らないが、元気で快活で、アルプスを遊び場にしてるのが羨しく思われた。
 アイガーグレッチャーの停車場の前には断崖の端に大きな石造二階建のレストランが半分雪に埋もれて立ってるきりで、他にはなんにも見えなかった。それから四十分ほど登るとアイガーヴァント(アイガー絶壁、二八七〇米)。此処からは、晴れてるとスウィスの西部全体が遠くフランス国境まで見渡せるそうだ。四分間停車。
 電車は長いトンネルに入って行く。アイガーの胎内をくぐるわけである。此の登山鉄道の工事のえらさは、車室にじっと坐ってるのでは実感しにくいが、地図を見るとよくわかる。アイガー、メンヒ、ユンクフラウ、此の三つの大山が、北から南へ一列に並んでいる。それを、北西のシャイデックから登って来た鉄道が、此処でまずアイガーの胴体を北から南へ突き抜け、その次にもう一度メンヒの胴体を北西から南東へかけて突き抜け、つまり大きく半円を描いて最後にメンヒの南西の尾根に出ると、其処がユンクフラウヨッホ(ユンクフラウ鞍部)で、ユンクフラウの峰角を目の前に仰ぐようになってるのである。
 アイガーヴァントのトンネルの先はアイスメーア(氷海、三一六〇米)の停車場で、此処でまた五分間停車。第三回の乗換で、また別の車に移される。皆、寒い寒いとつぶやく。岩角に三四尺の氷柱が垂れていた。
 それからユンクフラウヨッホまで25%の勾配を登って終点に着いたのは十一時五十五分だった。標高三四一〇米。日本アルプスの奥穂高の頂上より二四〇米高く、鎗ガ岳の頂上より二三〇・五米高いわけである。それに緯度も日本アルプスに較べて十度以上も高く、寒い筈である。
 覚悟をしてはいたものの、驚いたことには、まず私たちを歓迎したものは急に烈しくなって来た大吹雪だった。停車場のすぐ前のベルクハウス(山の家)に駈け込む。此処で十四時三十分まで下山電車の出発を待つことになる。

    四

 ベルクハウスは大きな石造の建物で、レストランの外にホテルも経営している。広いサロンに入って行くと、研き立てた板敷の床にテイブルが白布を掛けられて幾つも列んで居り、どのテイブルにも銀色の猫柳が二三本ずつ花瓶に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)されてあった。ブラジルのジャーナリストが私たちの食卓に坐った。此の sallow の花を見ると日本の山地を思い出す。日本ではネコ・ヤナギというのだ。cat-willow という意味だ。pussy-willow といった方がいいかも知れない。というと、彼は可愛らしい名前だといって、ノートを出して書き留めていた。なんでも丹念に書き留めるくせのある男だった。南米で生れて南米で育ち、雪の降るところはスウィスに来て初めて見るといって喜んでいた。
 食事はスープと肉とデザートで、非常に高かったように思う。しかし、鎗の頂上より二百三十米高い所でサーヴしてもらうのだと思うと高くも感じなかった。若い娘たちがいそいそと立ち働いていた。暖房の装置もよく、室内は外套を脱いでいて丁度程よい暖かさだった。
 サロンの外のテラスに出ると、すぐ東にはメンヒの峰(四一〇五米)が、西南にはユンクフラウの峰(四一六六米)が聳え立って、その間にコンコルディア広場プラツとかアレッチュ氷河グレッチャとか呼ばれる氷河時代からの千古の氷原が横たわって、遠くローンの渓谷までも見渡せるというので、扉を排して出ては見たが、横なぐりに吹きつけて来る烈風と骨に喰い入る寒冷に長くは立っていられなかった。上には断崖が削り立ち、下には氷河の渓谷が開けているが、大きな雪片が飛乱してあまり遠くまでは見わけがつかない。私たちの立ってるすぐ上の軒庇から黒い鳥が二羽三羽と吹雪の中を飛び下りて来てはまた飛び上って行く。烏に似て烏よりは小さく、鳩よりは大きい。名前を聞いたらベルクドーレ(山がらす)というのだそうだ。私たちはすぐ目の前にユンクフラウの本体を仰ぎながら、富士より三九〇米高く、新高より二一六米高いその俊峰をまんじ巴の雪花の中に見失い、しばらく償われない気持で立ちつくした。
 それから案内人に導かれて氷の宮殿なるものを見に行った。些か子供だましみたいな所はあるが、子供だましにしては大がかり過ぎる。ベルクハウスから氷河の底へ長くトンネルの廻廊を通じて、氷の円柱が列んで、氷の小部屋、氷の大広間、氷の天井、氷の床、氷の壁、氷の棚。氷の棚にはスケイト用の靴が用意してあり、氷の大広間でスケイティングをやりたい人にはそれを貸す。ペル君(ブラジルのジャーナリスト)は珍らしがって靴を穿いたが滑ることには成功しなかった。案内人は小さい橇を持ち出して、私たちを押して大広間の中を一巡させた。隅の龕みたいな所には氷の花瓶に花が活けたりしてあった。
 やがて時刻となり、例の同行六人仲よく下山電車に乗る。
 縁があったような、なかったような、ユンクフラウ、さよなら!
 アイスメーアのトンネルの中でまた乗り換える。トンネルの中が停車場になって、岩壁に窓が開けてあり、其処から外側が眺められるので、みんなして行って見る。外は雪ばかりだった。窓框の内側にも雪が二三寸積もっている。その雪の中を小さい蚊の幼虫みたいなものが動いてるのをペル君が摘まみ上げて、何だろう何だろうと不思議がってると、肥ったドイツ人がグレッチャーフロー(氷河の蚤)という名前を教えた。
 アイガーグレッチャーの付近では、今朝よりも目に見えて雪が深くなっていた。空には太陽の底光りが目に強く感じられながら、まだちらちら降っている。
 シャイデックだったか、行きには気がつかなかったが、電車軌道より低い所にある郵便局が雪に埋まっていた。その屋根の上に北極犬が三匹、少し低い所にも二匹うずくまって、電車の下って行くのを見ていた。耳の立った大きな灰色の犬だった。雪の季節には郵便の橇を曳かせるのだそうだ。アルプスは夏の季節になっても、交通は電車と徒歩だけで、自動車のドライヴということはないという話が出た。一つは地勢にも因るのだが、アルプスの人間は自動車の騒がしい音と臭いガソリンの匂いがきらいだから、そういった設備を許さないのだという解釈だった。それも一見識だろうが、これだけの電車があれば、自動車のうるさいドラィヴィングなどはない方がよいにきまっている。
 此の登山電車は最近のものかと思ったら、一八九八年(明治三十一年)に起工して一九一二年(同四十五年)に竣成している。設計者は、テューリヒのアドルフ・ガイヤーツェラーという機械技師で、全長九キロ二に対して総工費約一千万フランを要し、牽引方式は触輪式で、動力はラウターブルンネンとブルクラウエネン付近で水力電気を起し、其処から七千ヴォルトの電圧を変圧所に送り、それを六百ヴォルトに下降さして電車を動かしてるので、機関車は三百馬力だということである。私は先年上河内に行った時、せめてあの辺まででも登山電車を敷いたらどうかと思ったが、そうしたら実際あのこわれかけたようなガタバスで揺られて行くよりどのくらい愉快だか知れないのだ。
 帰りの電車では、疲れたせいか、いやに睡かったが、それでも行きに雲が懸かって見られなかった景色が展開するので、眠るわけにもいかなかった。ヴェンゲンに近づくともう雪は止んでいた。右側に見上げるような高さから同じような形の岩壁が何十と重なり合って岩角を畳み合せてるのが、岩肌は黒に黄色味を見せ、角々に雪を持って、壮観限りないものだった。シャイデックから乗って来た駅員のような服装をした男に名前を聞いたら、メンリッヒェンという有名な山だといった。その下の斜面は緑の草原で、人家がぽつりぽつり散らかっていた。
 十七時五十分、予定通りインターラーケンの停車場に着くと、ホテルの親爺が約束のスーツケイスを持って来ていた。弥生子の借りて行った傘を返し、銀貨をつかませて親爺と別れ、ジュネーヴ行の列車に乗り換えた。
 テューンの湖畔を走ってる頃には空がきれいに霽れ上り、皮肉にも今まで雲に隠れていた乙女ユンクフラウ坊主メンヒも顔を出した。アイガーまでが坊主メンヒの肩から顔を出した。なんだかばかにされたような気がしたが、乙女ユンクフラウには悪い坊主メンヒと得体の知れないアイガーなんて奴が付いてるからだろう。
 その夜ジュネーヴの停車場で藤田君夫妻に迎えられ、藤田君の家に泊り、その話をすると、フランス婦人なるマダム藤田はおもしろがって笑った。

    五

 次の日もその次の日もジュネーヴにいたけれども、見える筈のモン・ブランは遂に見えなかった。モン・ブラン橋の上に立ってレマン湖を見渡すと、対岸の右手の小山の上にバイロンの住まっていたという塔のような家があり、その左手にモン・ブランが見える筈だけれども、ジュネーヴに住まっていても見ることは少いとマダム藤田は言っていた。
 しかし私たちはそれからイタリアに二度目の旅行をして、まずミラノに出たので、途中で「ペニンのアルプス」を横断した。その山系中にはモン・ブラン(四八一〇米)を初め、モンテ・ローザ(四六三八米)、マッターホルン(四五〇九米)、グラン・コンバン(四三一七米)などの俊峰が聳立するので、楽しんでいたが、そのうちの一つ二つを山の峡と峡の間から瞥見しただけにとどまり、多くは縁がなかった。
「海アルプス」と呼ばれる一群はジェノアからフランスに入る時、その裾野を通ったに過ぎなかった。
(昭和十四年)





底本:「世界紀行文学全集 第六巻 イタリア、スイス編」修道社
   1959(昭和34)年10月20日発行
底本の親本:「西洋見學」日本評論社
   1941(昭和16)年9月10日発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2007年8月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について