社交團
正倉院の曝凉は途中で雨が降りだすと追ひ出されて拜觀劵がそれきり無效になるので天氣を見定めて出かけねばならなかつた。それに、拜觀時間は十時から三時までと限られてあつたので、時間を有效に利用しなければ、私の計畫してゐたものは全部調べられるかどうかわからなかつた。私はその時(大正十五年十一月)は主として北倉と南倉の階上に陳列されてある伎樂面と天平時代の雜樂に關する資料を拜觀したいと思つてゐた。
その日は早く起きて、空のことばかり氣にしてゐたが、まづ大丈夫だらうと見きはめがつくと、かねて用意して置いた懷中電燈と陳列目録と寫生帳をポケットに押し込んで、定刻早めに奈良ホテルを出た。
拜觀者入口と高札を打つた柵の前には、かれこれ十人ばかりの婦人連が、若いのも年とつたのも、肥つたのも瘠せたのも、高いのも低いのも、いづれも白襟紋服の正裝で、列んでゐるやうな、列んでないやうな、大體に於いてその位置を占據しながら、それでゐてその範圍内で斷えず移動してゐるといつた奇妙な集まり方をしてゐた。その前の柵の向側には、いかめしい制服の守衛が四五人突つ立つてゐたけれども、入口を塞いでゐる婦人連を片脇へ寄せようともしなければ、早く入らせようともしなかつた。
もう入場時間となつたので、私は早く入りたいと思つたけれども、婦人連を押し分けて入るのもいけないと思ひ、おとなしく後に立つて待つてゐた。
そこへ車が一臺やつて來て、一人の中年の婦人が幅廣の肉體をだぶつかせながら現はれると、婦人連は一せいに最敬禮をした。長官夫人とでもいふのであらう。お辭儀の交換と、挨拶の捧呈。――オクサマが此間どうあそばした時には、どうしなければならなかつたのでございましたが、私どものつまらない子供が病氣でございましたので、つい相濟まないこととは存じながらも、失禮をさせていただきまして、といつたやうな叮嚀な辨解から始まつて、――いつぞやはまたオクサマが東京からお歸りあそばした時には私の咀はしい持病が起りまして、ほんとに、ほんとに、相濟まないこととは存じ上げながらも、停車場へお出迎へ申し上げますこともいたしませんで、と愍憫を求める哀願。――それにつきましても、こんな所で申し上げますのはいかがでございますが、私の尊敬して
一體、これはどうなるのだらう。
縣廳だか裁判所だか知らないが、細君連の社交團の移動だ。十數名の者が一人づつ鄭重な辭令を交換してゐた日には、
ばかばかしくなつたから、私はギャラントリなんか抛棄して、前の方へ出ようとすると、いかめしい制服の守衛が手を振つて、もうしばらくお待ちください、と制止した。
禮裝した色のなま白い少尉が細君らしい女をつれてやつて來て、私の後に立つてゐた。
婦人連の社交クラブは果しなくつづいた。長官夫人が來たのだから、いいかげんに入場したらよささうなものを、初めに謁見式みたいなものが行はれて、恐らく夫の官等順に、一人一人の實に長い御機嫌奉伺が數限りもないお辭儀を添へて呈出されてゐるかと思ふと、その間にも、二三の讓り合ひの美徳なども見せられ、それがすむと、その讓り合ひに對する長官夫人の認知の言葉やら、それに關する彼女の高貴の思ひ出ばなしやらが持ち出され、多くの下僚夫人たちの感歎のうなづき合ひなどが、いともしとやかに展開されるのであつた。
私はいらいらしてゐたけれども、それを見て居るのは全然興味なしでもなかつた。以前に飜譯したピエール・ロティの、日本の女を冷嘲的に描寫した一節を思ひ出したりもした。……
……さうしてこの大勢の女たちは、私の部屋にはひつて來ると、お互ひ同志のお辭儀で混雜を極める。たとへば、私があなたにお辭儀をする。――あなたが私にお辭儀をする。――また私があなたにお辭儀をする。あなたが、また私にそれを返す。私があなたに、もう一度お辭儀を返す。すると、私は、どうしたつてあなたの名譽にふさはしいだけそれをお返しすることはできない。――そこで私は私の額を疊にすりつける。するとあなたは、あなたの鼻を
それは一八八五年に於ける長崎の場末の無智な女たちであつた。これは一九二六年に於ける奈良縣か京都府か大阪府か知らないが有識階級の夫人たちである。
その婦人たちも、遂に、名殘惜しげに社交會を終つて入場しだした。もちろん、長官夫人を先頭にして、彼女の夫たちの位階勳等の順序に一列に規則正しくお尻を列べて、練り込んで行くのであつた。その後から私がつづき、私の後から少尉夫妻がつづき、それから後にも尚ほ大勢の紳士淑女諸君がつづいて。
時間はたしかに三十分を經過してゐた。
眞珠の小箱
東大寺の本坊の廣間に、私は執事長K師と對坐してゐた。押し開かれた障子の向には、世にも稀なる
案内の役僧が、最後に前年大佛殿の須彌壇の下から發掘した貴重品を見せてくれた。それは光明皇后が聖武天皇の冥福のために納められたものとして昔から言ひ傳へられてあつたのを、主務省の認可を得て發掘したもので、御物であつたかと推定される御劒と銀の小箱である。御劒の刀身は青く腐蝕してゐるけれども、裝飾の黄金はゆらゆらと輝いて、千二百年間土中したものとは思はれないほどであつた。
小箱は銀か白金か或ひはその他の合金か私にはわからなかつた。その中には本願皇帝の御齒が收められてありますと云はれ、私は板の間に坐つて、押しいただいて葢を開けた。内側の鍍金は昨日出來上つた物のやうに新しく光つてゐた。細かい字で一面に經文が彫られてあつた。收められた御齒は一個の大きな臼齒で、それがたくさんな眞珠で詰められてあつた。眞珠の大きさは皆同じ大きさで揃ひ、程よい古びを以つて、しかし、決して光澤を失はないで、まことに見事なものであつた。
私はその小箱の眞珠の中に御齒を埋められる光明皇后と、御埋葬の佛事と、その背景としての佛法繁昌の奈良朝の盛時を想像することなしにそれを見ることはできなかつた。しかるに、もつたいないことに、私の手はつい載せてゐた小箱を傾けて、その中に充滿してゐた眞珠を床の上にこぼしてしまつた。私は恐縮してそれを拾ひ集めた。さうして役僧に、全部で幾十粒ですか、念のために改めてくださいと頼んだ。役僧は事もなげに、よろしうございますと云つた。
それからしばらく小箱の眞珠のことが私の意識から離れなかつた。それには一つの恐ろしい想像が交つてゐた。その想像は床から拾ひ集める時に生じたものであつたか、後になつて思ひ出す時に生じたものであつたか、それさへも今ははつきりしない。ただ想像が想像ですんだから、私はそれを詩的に娯むことができるのである。
―昭和八年五月―