菊模様皿山奇談

三遊亭圓朝

鈴木行三校訂・編纂





 大奸は忠に似て大智は愚なるが如しと宜なり。此書は三遊亭圓朝子が演述に係る人情話を筆記せるものとは雖も、其の原を美作国久米郡南条村に有名なる皿山の故事に起して、松蔭大藏が忠に似たる大奸と遠山權六が愚なるが如き大智とを骨子とし、以て因果応報有為転変、恋と無常の世態を縷述し、読む者をして或は喜び或は怒り或は哀み或は楽ましむるの結構は実に当時の状況を耳聞目撃するが如き感ありて、圓朝子が高座に上り、扨て引続きまして今晩お聞きに入れまするは、とお客の御機嫌に供えたる作り物語りとは思われざるなり。蓋し当時某藩に起りたる御家騒動に基き、之を潤飾敷衍せしものにて、其人名等の世に知られざるは、憚る所あって故らに仮設せるに因るならん、読者以て如何とす。
  明治二十四年十一月
春濤居士識


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        一

 美作国みまさかのくに粂郡くめごおりに皿山という山があります。美作や粂の皿山皿ほどのまなこで見ても見のこした山、という狂歌がある。その皿山の根方ねがたに皿塚ともいい小皿山ともいう、こんもり高い処がある。そのいわれを尋ねると、昔南粂郡みなみくめごおり東山村ひがしやまむらという処に、東山作左衞門ひがしやまさくざえもんと申す郷士ごうしがありました。すこぶ豪家ごうかでありますが、奉公人は余り沢山使いません。此の人の先祖は東山将軍義政よしまさつかえて、東山という苗字を貰ったという旧家であります。其の家に東山公から拝領の皿が三十枚あります。今九枚残っているのが、肥後ひごの熊本の本願寺支配の長峰山ちょうほうざん随正寺ずいしょうじという寺の宝物ほうもつになって居ります。これはの諸方で経済学の講釈をしたり、平天平地へいてんへいちとかいう機械をもって天文学を説いて廻りました佐田介石さだかいせき和尚が確かに見たとわたくしへ話されました。の様な皿かと尋ねましたら、非常に良い皿で、色は紫がゝった処もあり、また赤いような生臙脂しょうえんじがゝった処があり、それに青貝のようにピカ/\した処もあると云いますから、交趾焼こうちやきのような物かと聞きましたら、いや左様そうでもない、珍らしい皿で、成程一枚こわしたら其の人を殺すであろうと思うほどの皿であると云いました。其のほかにある二十枚の皿を白菊と云って、ごく薄手の物であると申すことですが、東山時分に其様そん薄作うすさくの唐物はない筈、決して薄作ではあるまいと仰しゃる方もございましょうが、ちょいと触っても毀れるような薄い皿で、欠けたり割れたりして、継いだのが有るということです。此の皿には菊の模様が出ているので白菊と名づけ、あとの十枚は野菊のような色気がある処から野菊と云いました由で、此の皿は東山家伝来の重宝ちょうほうであるゆえ大事にするためでも有りましょう、先祖が此の皿を一枚毀す者は実子たりとも指一本を切るという遺言状をこの皿に添えて置きましたと申すことで、ちと馬鹿々々しい訳ですが、昔は其様なことが随分沢山有りましたそうでございます。其の皿は実に結構な品でありますゆえ、たれも見たがりますから、作左衞門は自慢で、くだんの皿を出しますのは、ういうものか家例かれいで九月の節句に十八人の客を招待しょうだいして、これを出します。もっとも豪家ですからい道具も沢山所持して居ります。殊に茶器には余程の名器を持って居りますから自慢で人に見せます。又御領主の重役方などを呼びましては度々たび/\饗応を致します。左様な理由わけゆえ道具係という奉公人がありますが、此の奉公人がとんと居附きません。何故なぜというと、毀せば指一本を切ると云うのですから、皆道具係というと怖れて御免をこうむります。そこで道具係の奉公人には給金を過分に出します。其の頃三年で拾両と云っては大した給金でありますが、それでも道具係の奉公人になる者がありません。中には苦しまぎれに、なんの小指一本ぐらい切られても構わんなどゝ、度胸で奉公にまいる者がありますが、薄作だからついあやまっては毀して指を切られ、だん/\此の話を聞伝えて奉公に参る者がなくなりました。陶器と申す物も唐土からには古来から有った物ですが、日本では行基菩薩ぎょうきぼさつが始まりだとか申します。この行基菩薩という方は大和国やまとのくに菅原寺すがわらでら住僧じゅうそうでありましたが、陶器の製法を発明致されたとの事であります。其の元祖藤四郎とうしろうという人がヘーシを発明致したは貞応ていおうの二年、開山道元どうげんに従い、唐土へ渡って覚えて来て焼き始めたのでございましょうが、これが古瀬戸こせとと申すもので、安貞あんてい元年に帰朝致し、人にも其の焼法やきほうを教えたという。れはこん明治二十四年から六百六十三年ぜんのことで、又祥瑞五郎太夫しょんずいごろだゆう頃になりまして、追々と薄作の美くしい物も出来ましたが、其の昔足利の時代にもごく綺麗な毀れ易い薄いものが出来ていた事があります。丁度明和めいわの元年に粂野美作守くめのみまさかのかみ高義公たかよしこう国替で、美作の国勝山かつやまの御城主になられました。その領内南粂郡東山村の隣村りんそん藤原村ふじわらむらと云うがありまして、此の村に母子おやこ暮しの貧民がありました。母は誠に病身で、千代ちよという十九の娘がございます、至って親孝行で、器量といい品格といい、物の云いよう裾捌すそさばきなり何うも貧乏人の娘には珍らしい別嬪で、から嫁に貰いたいと云い込んでも、一人娘ゆえ上げられないと云う。尤も其の筈で、出が宜しい。これは津山つやまの御城主、其の頃松平越後守まつだいらえちごのかみ様の御家来遠山龜右衞門とおやまかめえもんの御内室の娘で、以前は可なりな高を取りました人ゆえ、自然と品格がちがって居ります。浪人して二年目に父を失い永らくの間浪々中、慣れもしない農作や人の使いをしてわずかの小畠こはたをもって其の日をやっと送ってる内に、母が病気附きまして、娘は母に良い薬を飲ませたいと、昼は人に雇われ、夜は内職などをして種々いろ/\介抱に力を尽しましたが、母は次第に病がおもりました。こゝに以前此の家に奉公を致していました丹治たんじと申す老爺じゞいがありまして、時々見舞に参ります。
丹「えゝお嬢様、何うでがす今日こんちは……」
千「おやじいやか、まアお上りな、爺や此間こないだは誠に何よりの品を有難うよ」
丹「なに碌なものでもございませんが、少しも早くかあさまの御病気が御全快になればいと心配していますが、何うも御様子が宜くねえだね」
千「何うかして少しお気をお晴しなさるといが、私はもういけない、所詮死ぬからなんて御自分の気から漸々だん/″\御病気を重くなさるのだから困るよ、今朝はお医者様を有難う、早速来て下すったよ」
丹「参りましたかえ、あのお医者さまはえらい人でごぜえまして、何でもはア此の近辺の者での人に掛ってなおらねえのはねえと云う、うちも小さくって良いお出入場でいりばえようだが、城下から頼まれて、立派なお医者さまが見放した病人を癒した事が幾許いくらもありやすので、諸方へ頼まれてきますが、年いって居るからようが丁寧だてえます、みゃくを診るのに両方の手をつかめえて考えるのが小一時こいっときもかゝって、余り永いもんだで病人が大儀だから、少し寝かしてくんろてえまで、診るそうです」
千「誠に御親切に診て下さいますけれども、爺や彼の先生の仰しゃるには、朝鮮の人参の入ってるお薬を飲ませないとおっかさまはいけないと仰しゃったよ」

        二

 其の時に丹治は首を前へ出しまして、
丹「へえー何を飲ませます」
千「人参の入ってるお薬を」
丹「のくらい飲ませるんで」
千「一箱も飲ませればいと仰しゃったの」
丹「それなら何も心配は入りません、一箱で一両も二両もする訳のものじゃアございやせん、多寡たかの知れた胡蘿蔔にんじんぐらいを」
千「なに胡蘿蔔ではない人参だわね」
丹「人参てえのは何だい」
千「人の形に成って居るような草の根だというが、私は知らないけれども、誠に少ないもので、本邦こっちへも余り渡らない物だけれども、其のお薬をおっかさまにべさせる事もできないんだよ」
丹「何うかして癒らば買って上げたいもんだが、の位のものでがす」
千「一箱三拾両だとさ」
丹「そりゃアたけえな、一箱三拾両なんて魂消たまげた、怖ろしい高え薬を売りたがる奴じゃアねえか」
千「なに売りたがると云う訳ではないが、其のお薬を飲ませればお母さまの御病気が癒ると仰しゃるから、私は其れを買いたいと思うが買えないの」
丹「むゝう三拾両じゃア仕様がねえ、是れが三両ぐらいのことなら大事な御主人のやめえには換えられねえから、うちを売ったって其の薬を買って上げたいとは思いますが、三拾両なんてえらい話だ、そんな出来ねえ相談をたれちゃア困ります、御病人の前ででけえ声じゃア云えねえが、ことに寄ったら其様そんな事を機会しおにしてほかへ見せてくんろという事ではないかと思うと、誠に気が痛みやすな」
千「私も実は左様そう思っているの、それにいて少しお前に相談があるからお母さまへ共々とも/″\に願っておくれな、私が其のお薬を買うだけの手当をこしらえますよ」
丹「拵えるたって無いものは仕様があんめえ」
千「そこが工夫だから、兎も角お母さまの処へ一緒に」
 と枕元の屏風を開け、
千「もしお母様っかさま、二番が出来ましたから召上れ、少し詰って濃くなりましたから上りにくうございましょう、おいやならば半分召上れ、あとのおりのあります所は私が戴きますから」
母「此のは詰らんことを云う、達者な者がお薬をべて何うする、私は幾らあびるほどお薬を飲んでも効験きゝめがないからいけないよ、私はもう死ぬと諦らめましたから、お前其様そんなに薬を勧めておくれでない」
千「あら、またお母さまはあんな事ばかり云っていらっしゃるんですもの、御病気は時節が来ないと癒りませんから、私は一生懸命に神さまへお願掛がんがけをして居ますが、あなた世間には七十八十まで生きます者は幾許いくらも有りますよ」
母「いゝえ私は若い時分に苦労をしたものだからの、それが矢張やっぱり身体にあたっているのだよ」
千「あの爺やが参りましたよ」
母「おゝ丹治、此方こっちへ入っておくれ」
丹「はい御免なせえまし、何うでござえますな、ちっとは胸のはれる事もござえますかね、お嬢さんも心配しておいでなさいますから、くお考えなせえまし、しかしまもとが旧で、あゝいう生活くらしをなすった方が、急に此様こんな片田舎へ来て、わしのような者を頼みに思って、親一人子一人で僅かな畠を持って仕つけもしねえ内職をしたりしてうやって入らっしゃるだから、あゝ詰らねえと昔を思って気を落すところから御病気になったものと考えますが、私だって貧乏だから金ずくではお力になれませんが、以前はあなたの処へ奉公した家来だアから、何うかして御病気の癒るように蔭ながら信心をぶって居りますが、お嬢さまの心配は一通りでないから、我慢してお薬を上んなせえまし」
母「有難う、お前の真実は忘れません、他にも以前つとめた[#「つとめた」は「つとめた」の誤記か]ものは幾許いくらもあるが、お前のように末々すえ/″\まで力になってくれる人は少ない、私は死んでもいといはないけれども、まだ十九つゞ廿歳はたちの千代をあとに残して死ぬのはのう……」
丹「あなた、う死ぬ死ぬと云わねえが宜うごぜえます、幾ら死ぬたって死なれません、寿命が尽きねえば死ねるもんではねえから、どうも然う意地の悪い事ばかり考えちゃア困りますなア、死ぬまでも薬を」
千「何だよう、死ぬまでもなんて、そんな挨拶があるものか」
丹「はい御免なせえまし、それじゃア、死なねえまでもお上んなせえ」
千「お前もう心配しておくれでない」
丹「はい」
千「お母さま、あの先刻桑田くわださまが仰しゃいました人参のことね」
母「はい聞いたよ」
千「あれをあなた召上れな、人参という物は、なに其様そんなに飲みにくいものでは有りませんと、少し甘味がありまして」
母「だってお前、私は飲みたくっても、一箱が大金という其様そんなお薬が何うして戴かれますものか」
千「その薬をあなた召上るお気なら、わたくしが才覚して上げますが……」
母「才覚たってお前、うちには売る物も何も有りゃアしないもの」
千「わたくしをあのう隣村の東山作左衞門という郷士の処へ、道具係の奉公にって下さいましな」
 其の時母は皺枯れたる眉にいとゞ皺を寄せまして、
母「お前、飛んでもない事をいう、丹治お前も聞いて知ってるだろうが、作左衞門のうちでは道具係の奉公人を探していて、大層給金を呉れる、其の代りに何とかいう宝物たからものの皿を毀すと指を切ると云う話を聞いたが、本当かの」
丹「えゝ、それは本当でごぜえます、もと公方くぼうさまから戴いた物で、いえにも身にも換えられねえと云って大事にしている宝だから、毀した者は指を切れという先祖さまの遺言状かきつけが伝わって居るので、指を切られた奴が四五人あります」
母「おゝ怖いこと、其様そんな怖い処へ此のを奉公にられますかね、とても遣られませんよ、何うしておっかない、皿を毀した者の指を切るという御遺言ごゆいごんだか何だか知らんけれども、其の皿を毀したものゝ指を切るなんぞとは聞いてもぞっとするようだ、何うして/\、人の指を切ると云うような其様な非道の心では、平常ふだん矢張やっぱひどかろう、其様な処へ奉公がさせられますものか、痩せても枯れても遠山龜右衞門のむすめじゃアないか、幾許零落おちぶれても、私は死んでも生先おいさきの長いお前が大切で私は定命じょうみょうより生延びている身体だから、私の病気が癒ったって、お前が不具かたわになって何うしましょう、詰らぬ事を云い出しましたよ、苦し紛れに悪い思案、何うでも私は遣りませんよ」
千「うではありましょうけれども、なに気を附けたら其様な事は有りますまい、わたくしも宜く神信心かみしん/″\をして丁寧に取扱えば、毀れるような事はありますまいと存じますからねお母さま、私は一生懸命になりまして奉公を仕遂しおお[#「仕遂せ」は底本では「仕逐せ」]、其のうちあなたの御病気が御全快になれば、私が帰って来て、御一緒に内職でもいたせば誠にい都合じゃアございませんか、何卒どうぞ遣って下さいまし、ねえお母さま、あなた私の身をおいといなすって、あなたに万一もしもの事でも有りますと、矢張やっぱり私が仕様がないじゃア有りませんか」
母「はい、有難うだけれども遣れません、なくなったおとっさんのお位牌に対して、私の病を癒そうためにお前を其様な恐ろしい処へ奉公に遣って済むものじゃアない、のう丹治」
丹「へえ、あんたの云う事も道理でごぜえます、これは遣れませんな」
千「だけども爺や、お母さんの御病気の癒らないのを見す/\知って、安閑として居られる訳のものではないから、私は奉公に仮令たとえ粗相で皿を一枚毀した処が、小指一本切られたって命にさわるわけではなし、お母さまの御病気が癒った方がいわけじゃアないか」
丹「うん、これはうだ、然う仰しゃると無理じゃアない、棄置けば死ぬと云うものを、あなたが何う考えても打棄うっちゃって置かれねえが、成程是れは奉公するも宜うごぜえましょう」
母「お前馬鹿な事ばかり云っている、私が此のを其様な処へ遣られるか遣られないか考えて見なよ、指を切られたら肝心な内職が出来ないじゃアないか、此の困る中で猶々なお/\困ります、遣られませんよ」
丹「成程是れはやれませんな、何う考えても」
千「あらまア、あんな事を云って、何方どっちへも同じような挨拶をしては困るよ」
丹「へえ、是れは何方とも云えない、困ったねえ…じゃア斯うしましょう、わしがのばゞあ何卒どうかお頼ん申します、私がお嬢さまの代りに奉公にめえりまして、私が其の給金を取りますから、お薬を買って下せえまし」
千「女でなければいけない、男は暴々あら/\しくて度々たび/\毀すから女に限るという事は知れて居るじゃアないか」
丹「うだね、男じゃア毀すかも知れねえ、私等わしらは何うも荒っぽくって、丼鉢を打毀うちこわしたり、厚ぼってえ摺鉢すりばちを落してった事もあるから、困ったものだアね」
千「お母さん、何卒どうぞやって下さいまし」
 と幾度いくたびも繰返しての頼み、段々母を説附ときつけまして丹治も道理もっともに思ったから、
丹「そんならばお遣んなすった方が宜かろう」
 と云われて、一旦母も拒みましたが、娘はかず、ことに丹治も倶々とも/″\勧めますので、仕方がないと往生をしました。幸い手蔓てづるが有ったから、縁を求めての東山作左衞門方へ奉公の約束をいたし、下男の丹治が受人うけにんになりまして、お千代は先方へ三ヶ年三十両の給金で住込む事になりましたのは五月の事で、母は心配でございますが、致し方がないので、泣く/\別れて、さて奉公に参って見ると、器量はし、起居動作たちいふるまい物の云いよう、一点も非の打ちどこがないから、至極作左衞門の気に入られました。

        三

 作左衞門はお千代の様子を見まして、是れならば手篤てあつく道具を取扱ってくれるだろう、誠に落着いてゝい、大切な物を扱うに真実で粗相がないから宜いと、大層作左衞門は目をかけて使いました。此の作左衞門のせがれ長助ちょうすけと申して三十一歳になり、一旦女房を貰いましたが、三年ぜんに少し仔細有って離別いたし、独身ひとりみで居ります所が、お千代は何うも器量がいので心底しんそこから惚れぬきまして真実にやれこれ優しく取做とりなして、
長「あれを買っておんなさい、見苦しいからの着物を取換えて、帯を買ってやったら宜かろう」
 などと勧めますと、作左衞門も一人子ひとりっこの申すことですから、其の通りにして、お千代/\と親子共に可愛がられお千代は誠に仕合せで丁度七月のことで、暑い盛りに本山寺ほんざんじという寺に説法が有りまして、親父おやじが聴きに参りましたあとで、奥の離れた八畳の座敷へ酒肴さけさかなを取り寄せ、親父の留守を幸い、鬼の居ないうちに洗濯で、長助が、
長「千代や/\、千代」
 と呼びますから、
千「はい若殿様、お呼び遊ばしましたか」
長「一寸ちょっと来い、/\、今一盃いっぱいやろうと云うんだ、おとっさんのお帰りのないうちに、今日はちとお帰りが遅くなるだろう、事に寄ると年寄の喜八郎きはちろうの処へ廻ると仰しゃったが村の年寄の処へ寄れば話が長くなって、お帰りも遅くなろう、ま酌をして呉れ」
千「はい、お酌を致します」
長「手襷たすきんなさい、忙がしかろうが、何もお前は台所だいどこを働かんでも、一切道具ばかり取扱ってればいんだ」
千「あの大殿様がお留守でございますから宜いお道具は出しませんで、粗末と申しては済みませんが、皆此の様な物で宜しゅうございますか」
長「酌は美女たぼ食物くいものは器で、い器でないと肴が旨く喰えんが、酌はお前のような美しい顔を見ながら飲むと酒が旨いなア」
千「御冗談ばかり御意遊ばします」
長「酔わんと極りが悪いから酔うよ」
千「お酔い遊ばせ、ですが余り召上ると毒でございますよ」
長「まだ飲みもせん内から毒などと云っちゃア困るが、実にお前は堅いねえ」
千「はい、武骨者でいけません」
長「いや、お父さんがお前を感心しているよ、親孝行で、何を見ても聞いても母の事ばかり云って居るって、しかしお前のおふくろの病気も追々全快になると云う事でいの」
千「はい、御当家こなたさまのお蔭で人参を飲みましたせいか、段々宜しくなりまして、此の程病褥とこを離れましたと丹治がまいっての話でございますが、母が申しますに、其方そちのような行届ゆきとゞきません者を置いて下さるのみならず、お目を掛けて下さいまして、誠に有難いことで、種々いろ/\戴き物をしたから宜しく申上げてくれと申しました」
長「感心だな、お前は出がいと云うが………千代/\千代」
千「はい」
長「どうもなんだね、お前は十九かえ」
千「はい」
長「ま一盃いで呉んな」
千「おしゃくを致しましょう」
長「半分残してはいかんな、何うだ一盃飲まんか」
千「いえ、わたくしちっとも飲めません、少し我慢して戴きますと、顔が青くなって身体が震えます」
長「その震える処がちょいと宜しいて、わしは酔いますよ、お前は色が白いばかりでなく、頬のへん眼のふちがぼうと紅いのう」
千「はい、少し逆上のぼせて居りますから」
長「いや逆上のぼせではない、平常ふだんから其の紅い処が何とも言われん」
千「御冗談ばっかり……」
長「冗談じゃアない、全くだ、わしは三年まえに家内を離別したて、どうも心掛けの善くない女で、面倒だから離縁をして見ると、独身ひとりみで何かと不自由でならんが、お前は誠に気立が宜しいのう」
千「いゝえ、誠に届きませんでいけません」
長「此の間わしが……あの…お前笑っちゃア困るが、少しばかり私が斯う五行いつくだりほどの手紙を、……したゝめて、そっとお前のたもとへ入れて置いたのをひらいて読んでくれたかね」
千「左様でございましたか、一向存じませんで」
 長助は少し失望のていで、
長「左様でございますかなどゝ、落着き払っていては困る、親に知れては成らん、知っての通り親父はごく堅いので、あの手紙を書くにも隠れてようよ二行にぎょうぐらい書くと、親父に呼ばれるから、筆を下に置いて又一行ひとくだり書き、しまいの一行は庭の植込うえごみの中で書きましたが、蚊に喰われて弱ったね」

        四

千「それはまアお気の毒さま」
長「なに全くだよ、親父に知れちゃア大変だから、そっとお前の袂へ入れたが、見たろう/\」
千「いゝえわたくしは気が附きませんでございました、何だか私の袂に反古ほごのようなものが入って居ましたが、私は何だか分りませんで、丸めて何処どこかへ棄てましたよ」
長「棄てちゃア困りますね、他人ひとが見るといけませんな」
千「そんな事とは存じませんもの、貴方あなたはお手紙で御用を仰付おおせつけられましたのでございますか」
長「仰付けられるなんて馬鹿に堅いね、だがね、千代/\」
千「何でございます」
長「実はねわしはお前に話をして、嫁に貰いたいと思うが何うだろう」
千「御冗談ばっかり御意遊ばします、わたくしの母は他に子と申すがありませんから、他家わきへ嫁にまいる身の上ではございません、貴方は衆人ひとに殿様と云われる立派なお身の上でおいで遊ばすのに、私のようなはしたない者を貴方此様こんな不釣合で、釣合わぬは不縁の元ではございませんか、おうちのお為めに成りません」
長「なに家の為めになってもならんでも不釣合だって、わしは妻を定むるのに身分の隔てはない事で、唯お前の心掛けを看抜みぬいて、此の人ならばと斯う思ったから、実はお前に心のたけを山々書いて贈ったのである、しかも私は丹誠して千代尽しの文で書いて贈ったんだよ」
千「何でございますかわたくしは存じませんもの」
長「存じませんて、わしの丹誠したのを見て呉れなくっちゃア困りますなア、どうかお前の母に会って、母諸共引取っても宜しいや」
千「わたくしの母は冥加至極有難いと申しましょうけれども、貴方のお父様とっさまが御得心の有る気遣きづかいはありますまい、私のようなはしたない者を御当家こちらさまの嫁に遊ばす気遣いはございませんもの」
長「いえ、お前が全くう云う心ならば、わしは親父に話をするよ、お前は大変親父の気に入ってるよ、どうも沈着おちつきがあって、器量と云い、物の云いよう、何やれは別だと云って居るよ」
千「なに、其様そんな事を仰しゃるものですか」
長「なに全く然う云ってるよ、いじゃアないか、ね千代/\千代」
 と雀が出たようで、無理無態にお千代の手をわが膝へグッと引寄せ、脇の下へ手を掛けようとすると、振払い。
千「何をなさいます、其様な事を遊ばしますと、わたくしうお酌にまいりませんよ」
長「酔った紛れに、少しは酒の席では冗談を云いながら飲まんと面白うないから、一寸ちょっとやったんだが、どうもお前は堅いね、千代/\」
千「はい最うお酌を致しますまいと思います、最うお止し遊ばせ、お毒でございますよ」
長「千代/\」
千「また始まりました」
長「親さえ得心ならば何も仔細はあるまい、何うだ」
千「そうではありますが、まア若殿様、わたくしの思いますには、夫婦の縁と云うものは仮令たとえ親が得心でも、当人同志が得心でない事は夫婦に成れまいかと思います」
長「それは然うさ、だがお前さえ得心ならいが、いやならいやと云えば、わしも諦めが附こうじゃアないか」
千「わたくしのような者を、私の口から何う斯うとは申されませんものを、余り恐入りまして」
 其の時お千代は身をそむけまして、
千「何とも申上げられませんものを、余り恐入りまして」
長「恐入らんでも宜しいさ、おふくろさえ得心なら、母諸共此方こっちへ引取って宜しい、もし窮屈でいやならば、いさゝ田地でんじでも買い、新家しんやを建って、お母に下婢おんなの一人も附けるくらいの手当をして遣ろうじゃアないか。此のうちは皆わしのもので、相続人の私だから何うにもなるから、お前さえおうと云えば、お母に話をして安楽にして遣ろうじゃアないか、しお母は堅いから遠山の苗字を継ぐ者がないとでもいうなら、夫婦養子をしたって相続人は出来るから、お前が此方こっちへ来ても仔細ないじゃアないか」
千「それは誠に結構な事で」
長「結構なればうしてくれ」
千「お嬉しゅうは存じますが」
長「さ、早くお父さまの帰らん内にうんと云いな、酔った紛れにいう訳じゃアない、真実の事だよ」
千「わたくしは貴方に対して申上げられませんものを、御主人さまへ勿体なくって……」
長「何も勿体ない事は有りませんから早く云いなさいよ」
千「恐入ります」
長「其様そんなにはずかしがらんでも宜しいよ」
千「貴方わたくしのような卑しい者の側へお寄り遊ばしちゃアいけません、私が困ります、そうして酒臭くって」
長「ね千代/\千代」
千「それじゃア貴方、本当にわたくしが思う心のたけを云いましょうか」
長「聞きましょう」
千「それじゃア申しますが、屹度きっと、…身分も顧りみず大それた奴だと御立腹では困ります」
長「腹などは立たんからお云いよ、大それたとは思いません、しょうそれたぐらいに思います、云って下さい」
千「本当に貴方御立腹はございませんか」
長「立腹は致しません」
千「それなれば本当に申上げますが、わたくしは貴方がいやなので……」
長「なに忌だ」
千「はい、わたくしはどうも貴方が忌でございます、御主人さまを忌だなどと云っては済みませんけれども、真底私は貴方が忌でございます、只御主人さまでいらっしゃれば有難い若殿さまと思って居りますが、艶書てがみをお贈り遊ばしたり、此の間から私にちょい/\御冗談を仰しゃることもあって、それから何うも私は貴方が忌になりました、どうも女房に成ろうという者の方でいやではとても添われるものじゃアございませんから、もとより無い御縁とお諦め遊ばして、わきから立派なお嫁をお迎えなすった方が宜しゅうございましょう、相当の御縁組でないと御相続の為になりませんから、しかとお断り申しますよ」
長「誠にどうも……至極道理もっとも……」
 と少しの間は額へ筋が出て、顔色がんしょくが変って、唇をブル/\震わしながら、暫く長助が考えまして、
長「千代、至極道理もっともだ、最う千代/\と続けては呼ばんよ、一言ひとことだよ、成程何うもえらい、賢女だ、成程どうも親孝心、誠に正しいものだ、心掛けと云い器量と云い、余り気に入ったから、つい迷いを起して此様こんな事を云い掛けて、誠に羞入はじいった、再び合す顔はないけれども、真に思ったから云ったんだよ、しかしお前にう云われたから諦めますよしかと断念しましたが、おまえ此のことを世間へ云ってくれちゃア困りますよ、わしは親父に何様どんな目に遇うか知れない、堅い気象の人だから」
千「わたくしは世間へ申すどころじゃア有りませんが、あなたの方で」
[#「長」は底本では「千」]わしは決して云わんよ、云やア自ら恥辱はじを流布するんだから云いませんが、あゝ……誠に愧入はじいった、此の通り汗が出ます、面目次第もない、何卒どうぞ堪忍して下さい」
[#「千」は底本では「長」]「恐入ります、是れから前々もと/\通りしゅう家来、矢張千代/\と重ねてお呼び遊ばしまして、お目をお掛け遊ばしまして……」
長「そう云う事を云うだけにわしは誠に困りますなア」
千「誠に恐入ります、大旦那さまのお帰り遊ばしません内に、お酒の道具を隠しましょうか」
長「あゝ仕舞っておくれ/\」
千「はい」
 とそれ/″\道具を片附けましたが、是れから長助がおこってお千代につれなく当るかと思いました処、つれなくも当りませんで、尚更宜く致しまして、の衣類は汚い、九月の節句も近いから、これを拵えて遣るがいと、手当が宜いので、お千代もあゝーお諦めになったか、有難い事だ、あんな事さえないと結構な旦那様であると一生懸命に奉公を致しますから、作左衞門の気にも入られて居りました。月日流るゝが如くで、いよ/\九月の節句と成りました。粂野美作守の重役を七里先から呼ばんければなりません、九の字の付く客を二九十八人招待しょうだいを致し、重陽ちょうようを祝する吉例で、作左衞門はの野菊白菊の皿を自慢で出してせます。美作守の御勘定奉行九津見吉左衞門くづみきちざえもんを初め九里平馬くりへいま戸村九右衞門とむらくえもん秋元九兵衞あきもとくへえ其のほか御城下に加賀から九谷焼を開店した九谷正助くたにしょうすけ菊橋九郎左衞門きくはしくろうざえもん、年寄役村方で九の字の附いた人を合せて十八人集めまして、結構な御馳走を致し、善い道具ばかり出して、しきりに自慢を致します事で、実に名器ばかりゆえ、客は頻りに誉めます。此の日道具係の千代は一生懸命に、何卒どうぞ無事に役を仕遂しおおせますようにと神仏に祈誓きせいを致して、皿の毀れんように気を附けましたから、麁相そそうもなく、の皿だけはさがってまいります。自分は蔵前の六畳の座敷に居って、其処そこに膳棚道具棚がありますから、口分くちわけをして一生懸命に油汗を流して、心を用い働いて、無事に其の日のお客も済んで、翌日になりますと、作左衞門が、
作「千代」
千「はい」
作「昨日きのうは大きに御苦労であった、無事にお客も済んだから、今日は道具をあらためなければならん」
千「はい、お番附のございますだけは大概片付けました」
作「うむ、皿は一応検めて仕舞わにゃならん、何かと御苦労で、さぞ骨が折れたろう」
千「わたくしは一生懸命でございました」
作「うであったろう、此の通り三重の箱になってるが、是は中々得難い物だよ、何処どこへ往ったって見られん、女で何も分るまいが、見て置くがい」
千「はい、誠に結構なお道具を拝見して有難い事で」
作「一応検めて見よう」
 と眼鏡をかけて段々改めて、
作「あゝーず無事で安心を致した、是れは八年ぜんに是れだけ毀したのを金粉繕ふんづくろいにして斯うやってある、しか残余あと瑕物きずものにしてはならんから、どうかちゃんとそんして置きたい、是れだけった奴があって、不憫にはあったが、何うも許し難いからわしは中指を切ろうと思ったが、それも不憫だからみん無名指くすりゆびを切った」
千「怖い事でございます、わたくしは此のお道具を扱いますとはら/\致します」
作「是れは無い皿だよ、野菊と云って野菊の色のように紫がゝってる処で此の名が有るのじゃ、種々いろ/\先祖からの書附もあるが、先ず無事でわしも安心した」
 と正直な堅い人ゆえ、検めて道具棚へ載せて置きました。すると長助が座敷の掛物を片附けて、道具棚の方へ廻っていりました。
長「おとっさま」
作「残らず仕舞ったか」
長「お軸物は皆仕舞いました」
作「客は皆道具を誉めたろう」
長「大層誉めました、此の位の名幅めいふくを所持している者は、此の国にゃア領主にも有るまいとの評判で、お客振りもひどく宜しゅうございました」
作「皆良い道具が見たいから来るんだ、只呼んだって来るものか、権式振けんしきぶってゝ、併し土産も至極宜かったな」
長「はい、お父様とっさま、あの皿を今一応お検めを願います、野菊と白菊と両様共りょうようともお検めを願います」
作「あれ先刻さっき検めました」
長「お検めでございましょうが、少しおかしい事が有りますと云うは棚の脇に蒟蒻糊こんにゃくのりが板の上に溶いて有って、粘っていますから、何だか案じられます、他の品でありませんから、今一応検めましょうかね、あき、お前たちは其方そちらきなさい、金造きんぞう、裏手の方を宜く掃除して置け、喜八きはち此方こちらへ参らんようにして、最う大概蔵へ仕舞ったか、千代や」
千「はい/\はい」
長「先刻さっきとっさんがお検めになったそうだが、の皿を此処こゝへ持って来い」
千「はい、先刻さっきお検めになりました」
長「検めたが、一寸ちょっと気になるから今一応わしが検めると云うは、祝いは千年だが、お父さまのないのちは家の重宝じゅうほうで、此の品は私が守護する大事な宝物たからものだから、私も一応検めます」
千「大旦那さまがお検めになりまして、宜しい、少しも仔細ないと御意遊ばしましたのに、貴方何う云う事でお検めになります」
長「先程お父さまがお検めになっても、わしは私で検めなければ気が済まん」
千「何う云う事で」
長「何う云う事なんてとぼけるな、千代てまえは皿を割ったの」

        五

 お千代は呆れて急に言葉も出ませんでしたが、
千「何うもまア思い掛けない事を仰しゃいますわたくしは割りました覚えはございません、ちゃんと一々お検めになりまして、あとは柔かい布巾で拭きまして、一々の通り包みまして、大殿様へ御覧に入れました」
長「いやとぼけるなそんなら如何いかゞ理由わけで棚に糊付板のりつけいたが有るのだ」
千「あれはお箱の蓋の棧がれましたから、米搗こめつき權六ごんろく殿へ頼みまして、急拵きゅうごしらえに竹篦たけべらを削って打ってくれましたの」
長「耄けるな、其様そんなことを云ったって役には立たん、うまごまかそうたって、うはいかんぞ、此方こちらしかと存じておる、これ千代、其の方が怪しいと認めが附いてればこそ検めなければならんのだ早く箱を持って来い/\」
 と云われてお千代はハッとばかりに驚きましたが、何ゆえ長助が斯様こんなことを云うのか分りませんでしたが、の通り検めたのを毀したと云うのは変だなと考えて、よう/\思い当りましたのは、先達せんだっ愛想尽あいそづかしを云った恨みが、今になって出て来たのではないか、何事も無ければいがと怖々こわ/″\にお千代が野菊白菊の入った箱を長助の眼の前へ差出しますと、作左衞門が最前検めて置いた皿の毀れる気遣いはない、忰は何を云うのかと存じて居りますと、長助は顔色かおいろを変えて、
長「これ千代、それ道具棚にある糊付板を此処こゝへ持って来い……さ何う云う訳で此板これを道具棚へ置いた」
千「はい、只今申上げます通り、あのお道具の箱の棧がれましたから、打附けて貰おうと存じますと、米搗の權六がおれが附けて遣ろうと申して附けてくれましたので」
長「いゝや言訳をしたって役には立たん、其の箱の紐をサッサと解け」
千「そうお急ぎなさいますと、また粗相をして毀すといけませんもの」
長「おのれが毀して置きながら、又其様そんなこと申す其の手はくわぬぞ、わしが箱から出す、さ此処これへ出せ」
千「あなた、お静かになすって下さいまし、暴々あら/\しく遊ばして毀れますと矢張やっぱわたくし所為せいになります」
作「これこれ長助、手暴くせんがい、腹立紛れにてまえが毀すといかんから、矢張やっぱり千代お前検めるがい」
千「はい/\」
 と是れから野菊の箱の紐を解いて蓋を取り、一枚/\皿を出しまして長助の眼の前へならべまして。
千「御覧遊ばせ、わたくし先刻さっき検めました通りきずは有りゃアしません」
長「黙れ、毀した事は先刻さっきわしく見て置いたぞ、お父さま、迂濶うっかりしてはいけません、此者これは中々油断がなりません、さ、早く致せ」
千「其様そんなに仰しゃったって、慌てゝ不調法が有るといけません、他のお道具と違いまして、此品これが一枚毀れますとわたくし不具かたわになりますから」
長「不具になったって、受人うけにんを入れて奉公に来たんじゃアないか、さ早く致せ」
千「早くは出来ません」
 と申して検めに掛りましたが、急がれる程おおじ/\致しますが、一生懸命に心の内に神仏かみほとけを念じて粗相のないようにと元のように皿を箱に入れてしまい、是れから白菊の方の紐を解いて、漸々だん/″\三重箱迄開け、布帛きれを開いて皿を一枚ずつ取出し、検めては布帛に包み、ちゃんと脇へ丁寧に置き、
千「是で八枚で、九枚で十枚十一枚十二枚十三枚十四枚十五枚十六枚」
 と漸々勘定をして十九枚と来ると、二十枚目がポカリと毀れて居たからびっくり致しました。
千「おや……お皿が毀れて居ります」
長「それ見ろ、お父様とっさま御覧遊ばせ、此の通りだ粘りが有ります此の糊で附着くっつけてごまかそうとは太い奴では有りませんか」
千「いえ、先程大殿様がお検めになりました時には、決して毀れては居りません」
長「何う仕たって此の通り毀れて居るじゃアないか」
千「先刻さっきは何とも無くって、今毀れて居るのは何う云う訳でしょう」
作「成程斯う云う事があるから油断は出来ない、これ千代りようも有ろうのに、ちょっと欠いたとか、ひゞが入った位ならば、是れ迄の精勤のかどもっゆるすまいものでもないが、斯う大きく毀れては何うも免し難い、これ、何は居らんか、何や、何やでは分らん、おゝそれ/\辨藏べんぞう、手前はな、千代の受人の丹治という者の処へすぐに行ってくれ、余り世間へぱっと知れん内に行ってくれ、千代が皿を毀したから証文通りに行うから、念のために届けると云って、早く行って来い」
辨「へえ」
 と辨藏は飛んで行って、此のことを気の毒そうに話をすると、丹治は驚きまして、母の処へ駈込んでまいり。
丹「御新造ごしんぞさまア……」
母「おや丹治か、先刻さっきは誠に御苦労、お蔭で余程よっぽどいよ」
丹「はっ/\、誠にはや何ともどうも飛んだ訳になりました」
母「ドヽ何うしたの」
丹「へえ、お嬢様が皿ア割ったそうで」
母「え……丹治皿をあれが……」
丹「へえ、只今彼家あちらの奉公人が参りまして、お千代どんが皿ア割っただ、われ受人だアからなんぼ証文通りでも断りなしにゃア扱えねえから、ちょっくら届けるから、立合うがいと云って来ました、わしが考えますに、先方むこうはあゝ云う奴だから、詫びたってもくまいと思って、私が急いでお知らせ申しに来やしたが、お嬢さまが彼家あそこへ住込む時、虫が知らせましたよ、門の所まで私送り出して来たアから、貴方あんた皿ア割っちゃアいけないよと云ったら、お嬢様が余程よっぽど薄いもんだそうだし、原土もとつちで拵えたもんだから割れないとは云えないから、それを云ってくれちゃア困るよと仰しゃいましたが、何とまアなさけねえ事になりましたな、どうか詫をして見ようかと思います」
母「それだから私が云わない事じゃアない、不具者かたわにしちゃア済まないから、私も一緒に連れてっておくれ」
丹「連れて行けたって、あんた歩けますまい」
母「歩けない事もあるまい、一生懸命になって行きますよ、何卒どうぞお願いだから私の手を曳いて連れてっておくれ」
丹「だがはア、是れから一里もある処で、なか/\病揚句やみあげくで歩けるもんじゃアねえ」
母「私は余りびっくりしたんで腰がけましたよ」
丹「これはまア仕様がねえ、わしまで腰が脱けそうだが、あんた腰が脱けちゃア駄目だ」
母「何卒どうぞお願いだから……一通りあれ心術こゝろだてを話し、孝行のために御当家こちらさまへ奉公に来たと、次第を話して、何処までも私がお詫をして指を切られるのをのがれるようにしますから、丹治誠にお気の毒だが、おぶっておくれな」
丹「負ってくれたって、ちょっくら四五丁の処なれば負って行ってもいが……よし/\うごぜえます、わしも一生懸命だ」
 と其の頃の事で人力車くるまはなし、また駕籠かごに乗るような身の上でもないから、丹治が負ってせっせと参りました。此方こちらは最前から待ちに待って居ります。
作「早速庭へ通せ」
 という。百姓などが殿様御前などと敬い奉りますから、益々増長して縁近き所へ座布団を敷き、其の上に座して、刀掛に大小をかけ、凛々りゝしい様子で居ります。両人は庭へ引出され。
丹「へえ御免なせえまし、わしは千代の受人丹治で、母も詫びことにまいりました」
作「うむ、其の方は千代の受人丹治と申すか」
丹「へえ、わしは年来勤めました家来で、店請たなうけ致してる者でごぜえます」
作「うん、其処それへ参ったのは」
母「母でございます」
 と涙を拭きながら、
「娘が飛んだ不調法を致しまして御立腹の段は重々御尤ごもっともさまでござりますが、何卒どうぞ老体のわたくしへお免じ下さいまして、御勘弁を願いとう存じます」
作「いや、それはいかん、これはその先祖伝来の物で、添書そえがきも有って先祖の遺言が此の皿に附いてるから、何うも致し方がない、切りたくはないけれども御遺言にはえられんから、止むを得ず指を切る、指を切ったって命にさわる訳もない、中程から切るのだから、何も不自由の事もなかろう」
母「はい、でございますけれども、此の千代は親のために御当家様へ御奉公にまいりましたので、と申すは、わたくし長煩ながわずらいで、人参の入った薬を飲めば癒ると医者に申されましたが、長々の浪人ゆえ貧に迫って、中々人参などを買う手当はございませんのを、これが案じまして、御当家のお道具係を勤めさえすれば三年で三拾両下さるとは莫大の事ゆえ、それを戴いてわたしを助けたいと申すのを、わたくしも止めましたけれども、此娘これってと申して御当家さまへ参りましたが、親一人子一人、他に頼りのないものでございます、今此娘これを不具に致しましては、明日あすから内職を致すことが出来ませんから、何卒どうぞ御勘弁遊ばして、わたくし此娘これより他に力と思うものがございませんから」
長「黙れ/\、幾回左様な事を云ったって役に立たん、其のために前々まえ/\奉公住みの折に証文を取り、三年に三拾金という給金を与えてある、かくの如く大金を出すのも当家の道具が大切だからだ、それを承知で証文へ判を押して奉公に来たのじゃアないか、それに粗相でゞもある事か、先祖より遺言状の添えてある大切の宝を打砕うちくだき、糊付にして毀さん振をして、箱の中に入れて置く心底しんていが何うも憎いから、指を切るのがいやなれば頬辺ほッぺたを切ってる」
母「何卒どうぞ御勘弁を……」
 と泣声にて、
「顔へきずが附きましては婿取前の一人娘で、何う致す事も出来ません」
長「指を切っては内職が出来んと云うからつらを切ろうと云うんだ、疵が出来たって、あとで膏薬を貼れば癒る、指より顔の方を切ってやろう」
 と長助が小刀ちいさがたなをすらりと引抜いた時に、驚いて丹治が前へ膝行すさり出まして、
丹「何卒どうぞお待ちなすって下せえまし」
長「何だ、退け/\」
丹「お前さまは飛んだお方だアよ」
長「何が飛んだ人だ」
丹「成程証文は致しやしただけれども、人の頬辺ほッぺたを切るてえなアえ事です」
長「手前は何のために受人に成って、印形いんぎょういた」
丹「印形だって、是程にやかましかアねえと思ったから、印形を捺きやした、ほんのおきてで、一寸ちょっと小指へ疵を附けるぐれえだアと思いやしたが、指を打切ぶっきられると此ののち内職が出来ません、と云って無闇に頬辺なんて、どう云うはずみで鼻でも落したらそれこそ大変だ、情ねえ事で、嬢さんの代りにわしを切っておくんなせえ」
長「いや手前を切る約束の証文ではない、白痴たわけた事を云うな、何のための受人だ」
丹「受人だからわしが切られようというのだ」
長「黙れ、証文の表に本人に代って指を切られようと云う文面はないぞ、さ顔を切って遣る」
 と丹治と母を突きのけ、既に庭下駄を穿いてりにかゝるを、母は是れをさえぎり止めようと致すを、千代が、
千「お母様っかさま、是れには種々いろ/\理由わけがありますんで、わたくしが少し云い過ぎた事が有りまして、う云う事に成りまして済みませんが、お諦め遊ばして下さいまし、さア指の方は内職に障って母を養う事が出来ませんから顔の方を……」
長「うん、つらの方か、此方こっち所望のぞみだ」
作「これ/\長助、顔を切るのは止せ」
長「なに宜しい」
作「それはいかん、それじゃア御先祖の御遺言状にそむく、矢張指を切れ/\、不憫ふびんにも思うが是れも致し方がない、従来切来きりきたったものを今更仕方がない、併し長助、成丈なるたけ指を短かく切ってやれ」
長「さ切ってやるから、おれそばへ来て手を出せ」
千「はい何うぞ……」
母「いえ/\わたくしを切って下さいまし、私は死んでもい年でござります」
丹「旦那ア、わしの指を五本切って負けておくんなせえ」
長「控えろ」
 と今千代の腕を取って既に指を切りにかゝる所へ出て来た男は、土間で米をいていました權六という、身のたけ五尺五六寸もあって、鼻の大きい、胸からすねへかけて熊毛くまげはやし、眼の大きな眉毛の濃い、ひげの生えている大の男で、つか/\/\と出て来ました。

        六

 此の時權六は、作左衞門の前へ進み出まして、
權「はい少々御免下さいまし、權六申上げます」
長「なんだ權六」
權「へえ、実は此の皿を割りました者はわしだね」
長「なに手前が割った……左様な白痴たわけたことを云わんで控えて居れ」
權「いや控えてはられやせん、よく考えて見れば見る程、あゝ悪い事をしたとわしゃア思いやした」
長「何をう思った」
權「大殿様皿を割ったのは此の權六でがす」
作「え……其の方は何うして割った」
權「へえ誠に不調法で」
作「不調法だって、其の方は台所にばかり居て、夜は其の方の部屋へまいって寝るのみで、蔵前の道具係の所などへ参る身の上でない其の方が何うして割った」
權「先刻さっき箱の棧がれたから、どうかつくろってくんろてえから、糊をもってわしが繕ろうと思って、皿の傍へめえったのが事の始まりでごぜえます」
千「權六さん、お前さんが割ったなどと……」
權「えーい黙っていろ」
丹「誠に有難うごぜえます、わしは此の千代さんのうちの年来の家来筋で、丹治と云う者で、成程是れは此の人が割ったかも知れねえ、割りそうな顔付だ」
權「黙って居なせえ、おめえらの知った事じゃアない、えゝ殿様、誠にはずかしい事だが、此の千代が御当家こちらへ奉公にめえった其の時から、わしは千代に惚れたの惚れねえのと云うのじゃアねえ、寝ても覚めても眼のさきへちらつきやして、片時も忘れる暇もねえ、併し奥を働く女で、台所へは滅多に出て来る事はありやせんが、時々台所へ出て来る時に千代の顔を見て、あゝ何うかしてと思い、幾度いくたびふみを贈っちゃア口説くどいただアね」
長「黙れ、其の方がどうも其の姿や顔色がんしょくにもじず、千代に惚れたなどとしからん奴だなア、そこで手前が割ったというも本当には出来んわ、馬鹿々々しい」
權「それは貴方あんた、色恋の道は顔や姿のものじゃアねえ、年が違うのも、自分のわるい器量も忘れてしまって、お千代へばかり念をかけて、ることも出来ず、毎晩夢にまで見るような訳で、是程わしが方で思って文を附けても、丸めて棄てられちゃア口惜くやしかろうじゃアござえやんせんか」
長「なんだ……おとっさまの前をじもせんでしからん事をいう奴だ」
 と口には云えど、是れは長助がお千代を口説いてもはじかれ、文を贈っても返事をよこさんではずかしめられたのが口惜しいから、自分が皿を毀したんであります。罪なきお千代に罪を負わせ、うして他へ嫁にく邪魔に成るようにお千代の顔へ疵を附けようとする悪策わるだくみを權六が其の通りの事を申しましたから、長助は変に思いまして、
長「手前は全く千代に惚れたか」
權「え、惚れましたが、云う事をかねえから可愛さ余って憎さが百倍、嫁に行く邪魔をして呉れようと、九月のお節句にはお道具が出るから、其の時皿を打毀うちこわして指を切り不具かたわにして生涯亭主の持てねえようにしてろうと、貴方あなたの前だが考えを起しまして、皿検さらあらための時に箱の棧がれたてえから、糊でもってけてやる振をして、下の皿を一枚いちめえ毀して置いたから、ず恋の意趣晴しをして嬉しいと思い、実は土間で腕を組んで悦んでいると、此のかゝさまが飛んで来て、わしが病苦を助けてえとあぶねえ奉公と知りながら参って、人参とかを飲まそうと親のために指を切られるのも覚悟で奉公に来たアから、代りにわしを殺して下せえ、切って下せえと子を思うおふくろの心も、親を助けてえというお千代の孝行も、聴けば聴く程、あゝー実にわしア汚ねえ根性であった、何故此様こんな意地の悪い心になったかと考えたアだね、私が是れを考えなければ狗畜生いぬちくしょうも同様でごぜえますよ、私ア人間だアから考えました、はアーわりい事をしたと思いやしたから、正直に打明ぶんまけて旦那さまに話いして、私が千代に代って切られた方がいと覚悟をして此処こけえ出やした、さアお切んなせえ、首でも何でもお切んなせえまし」
長「妙な奴だなア、手前てめえそれは全くか」
權「へえ、わしが毀しやした」
作「成程長助、此者これが毀したかも知れん、懺悔ざんげをして自分から切られようという以上は、うせんければ宜しくない、しかし久しく奉公してるから、平生へいぜいの気象も宜く知れてるが、口もきかず、誠に面白い奴だと思っていた、ことわしに向って時々異見いけんがましい口答えをする事もあり、正直者だと思って目を掛けていたが、他人の三層倍さんぞうばいも働き、力も五人力とか、身体相応の大力だいりきを持っていて役にも立つと思っていたに、顔形にはじず千代に恋慕を仕掛るとは何の事だ、うん權六」
權「はい誠に面目次第もない訳で、何卒どうぞわしを………」
千「權六さん/\、お前私へ恋慕を仕掛けた事もないのに、私を助けようと思ってう云ってお呉れのは嬉しいけれども、それじゃア私が済みません」
權「えゝい、其様そんなことを云ったって、今日こんにち誠実まことを照す世界に神さまが有るだから、まアわしが言うことを聞け」
長「いや、お父さまは何と仰しゃるか知らんが、どうも此の長助にはだ腑に落ちない事がある權六手前てまえが毀したと云う何ぞたしかな証拠が有るか」
權「えゝ、証拠が有りやすから、其の証拠を御覧に入れやしょう」
長「ふむ、見よう」
權「へえ只今……」
 と云いながら、立って土間より五斗張ごとばりの臼を持ってまいり、庭の飛石の上にずしーりと両手で軽々とおろしたは、恐ろしい力の男であります。
權「これが証拠でごぜえます」
 と白菊の皿の入った箱を臼の中へ入れました。
長「何を致す/\」
權「なに造作ぞうさア有りません」
 と何時いつに持って来たか、きねの大きいのを出して振上げ、さくーりっと力に任せて箱諸共に打砕いたから、皿が微塵に砕けた時には、東山作左衞門は驚きました。其処そこに居りました者は皆顔を見合せ、呆気あっけに取られて物をも云わず、
一同「むむう……」
 作左衞門はおこったの憤らないのでは有りません。突然いきなり刀掛に掛けて置いた大刀をひっさげて顔の色を変え、
作「不埓至極の奴だ、おのれ気が違ったか、飛んだ奴だ、一枚毀してさえ指一本切るというに、二十枚箱諸共に打砕うちくだくとは……よし、さ己が首を斬るから覚悟をしろ」
 と詰寄せました。權六は少しも憶する気色けしきもなく、縁側へどっさり腰をかけ、襟を広げて首を差し伸べ、
權「さ斬って下せえ、だが一通り申上げねばなんねえ事があるから、是れだけ聞いて下せえ、逃げも隠れもしねえ、わしゃア米搗の權六でござえます、貴方あんた斬るのは造作もねえが、一言いちごん云って死にてえことがある」
 と申しました。

        七

 さて權六という米搗こめつきが、東山家に数代伝わるところの重宝じゅうほう白菊の皿を箱ぐるみ搗摧つきくだきながら、自若じじゃくとして居りますから、作左衞門はひどおこりまして、顔の色は変り、唇をぶる/\ふるわし、疳癖かんぺきが高ぶって物も云われん様子で、
作「これ權六、どうもしからん奴だて手前は何か気でも違ったか、狂気致したに相違ない、此皿これは一枚こわしてさえも指一本を切るという大切な品を、二拾枚一時いちじに砕くというのは実に怪しからん奴だ、さ何ういう心得か、御先祖の御遺言状おかきものに対しても棄置かれん、只今此の処に於いて其の方の首を斬るから左様心得ろ、權六を取遁とりにがすな」
 とはげしき下知に致方いたしかたなく、家の下僕おとこたちがばら/\/\と權六の傍へ来て見ますと、權六は少しも驚く気色もなく、縁側へどっさりと腰を掛けまして作左衞門の顔をしげ/\と見て居りましたが、
權「旦那さま、貴方あんたは実にお気の毒さまでごぜえます」
作「なに……いよ/\此奴こやつは狂気致してる、手前気の毒ということを存じてるかい、此の皿を二十枚砕くと云うのは……かねて御先祖よりの御遺言状おかきものの事も少しは聞いているじゃアないか、仮令たとえ気違でも此の儘には棄置かんぞ」
權「はい、わしア気も違いません、もとより貴方あんたさまに斬られて死ぬ覚悟で、承知して大事でえじのお皿を悉皆みんな打毀ぶちこわしました、もし旦那さま、私ア生国もとおし行田ぎょうだの在で生れた者でありやすが、ちいさい時分に両親ふたおやなくなってしまい、知る人に連れられて此の美作国みまさかのくにめえって、何処どこと云って身も定まりやしねえで居ましたが、縁有って五年あと当家こゝへ奉公にめえりまして、なげえ間お世話になり、たけえ給金も戴きました、お側にいて見れば、誠にどうも旦那さまは衆人ひとにも目をかけ行届きも能く、どうも結構な旦那さまだが、此の二十枚の皿が此処こゝうちげえだ、いや腹アお立ちなさるな、私は逃匿にげかくれはしねえ、もとより斬られる覚悟でした事だが、旦那さま、あんた此の皿はまア何で出来たものと思召おぼしめします、私ア土塊つちっころで出来たものとかんげえます、それを粗相で毀したからとって、此の大事でえじな人間の指い切るの、足い切るのと云って人を不具かたわにするような御遺言状おかきもののこしたという御先祖さまが、如何いかにも馬鹿気た訳だ」
作「黙れ、先祖の事を悪口あっこう申し、尚更棄置かんぞ」
權「いや棄置かねえでも構わねえ、もとより斬られる覚悟だから、しかわしだって斬られめえと思えば、あんた方親子二人がゝりで斬ると云っても、指でも附けさせるもんじゃアねえ、でっけい膂力ちからが有るが、御当家こちらへ米搗奉公をしていて、私ア何も知んねえ在郷ざいごもんで、何の弁別わきめえも有りやしねえが、村の神主さまのお説教を聴きにくと、人はあめが下の霊物みたまもので、万物の長だ、是れよりとうといものは無い、有情物いきあるもの主宰つかさだてえから、ず禁裏さまが出来ても、お政治をなさる公方様が出来ても、此の美作一国の御領主さまが出来やしても、勝山さまでも津山さまでも、皆人間が御政治ごせいじるのかと私はかんげえます、皿が政治を執ったてえ話は昔から聞いた事がねえ、何様どん器物ものでも人間が発明してこしらえたものだ、人間が有ればこそ沼ア埋めたり山ア掘崩したり、河へ橋を架けたり、田地田畠でんじでんばた開墾けえこんするから、五※[#「穀」の「禾」に代えて「釆」、168-6]も実って、貴方様あんたさまも私も命いつないで、物を喰って生きていられるだア、其の大事でえじなこれ人間が、粗相で皿ア毀したからって、指を切って不具かたわにするという御先祖様の御遺言ごゆいごんを守るだから、私ア貴方あんたを悪くは思わねえ、物堅ものがてえ人だがあんまり堅過ぎるだ、馬鹿っ正直というのだ、これ腹ア立っちゃアいけねえ/\、どうせ一遍腹ア立ってしまって、うして私を打斬ぶっきるが宜うがすが、それを貴方が守ってるから、此の村ばっかりじゃアない、近郷の者までが貴方の事を何と云う、あゝ東山は偉い豪士ごうしだが、いえに伝わる大事でえじ宝物たからものだって、それを打毀ぶちこわせば指い切るの足い切るのって、人を不具かたわにする非道な事をする、東山てえ奴は悪人だと人にわせるように、御先祖さまが遺言状かきつけのこしたアだね、然うじゃアごぜえませんか、そこでどうも私も奉公してるから、人に主人の事を悪党だ非道だと謂われゝばあんまり快くもごぜえません、御先祖さまの遺言が有るから、貴方はそれを守り抜いてゝ、証文を取って奉公させると、中には又喰うや喰わずで仕様がねえ、なに指ぐらい打切ぶちきられたって、たけえ給金を取って命いつなごう、なに指い切ったってはア命には障らねえからって、得心して奉公に来て、つい粗相で皿を打毀ぶちこわすと、親から貰った大切でえじな身体に疵うつけて、不具かたわになるものが有るでがす、実にはアなさけねえ訳だね、それもみんな此の皿のとがで、此の皿のうちは末代までも止まねえ、此の皿さえ無ければいと私は考えまして、とうから心配しんぺえしていました、所で聞けば、お千代どんはとしもいかないのにかゝさまが塩梅あんばいわりいって、い薬を飲まねば癒らない、どうか母さまを助けたい、仮令たとえ指を切られるまでも奉公して人参を買うだけの手当をしてえと、親子相談の上で証文を貼り、奉公に来た者を今指い切られる事になって、誠にはア可愛そうにと思ったから、私が此の二十枚の皿を悉皆みんな打砕ぶっくだいたが、二十人に代って私が一人死ねば、あとの二十人は助かる、それに斯うやって大切でえじな皿だって打砕ぶちくだけばもと土塊つちッころだ、金だって銀だって只形を拵えて、此の世の中の手形同様に取遣とりやりをするだけの物とかんげえます、金だって銀だって人間程大切たいせつな物でなえから、おかみでも人間を殺せば又其の人を殺す、それでもお助けてえと思う心があるので、何とやらさまの御法事と名を付けて助かる事もありやす、首を打斬ぶっきる奴でも遠島で済ませると云うのも、詰り人間が大切だから、お上でも然うして下さるのだ、それを無闇に打斬ぶちきるとは情ねえ話だ、あなたの御先祖さまは東山将軍義政さまから戴いた、東山という大切な御苗字だという事は米を搗きながら蔭で聞いて知って居ますが、あの東山は非道だ、土塊つちッころと人間と同じ様に心得ていると云われたら、其の東山義政のお名前までもけがすような事になって、貴方あんたは済むめえかとかんげえますが、何卒どうかして此の風儀を止めさせてえと思っても、他に工夫がえから、いっわざわいの根を絶とうと打砕ぶっくだいてしまっただ、私一人死んで二十人助かれば本望でがす、私もわけえ時分には、心得違こころえちげえもエラ有りましたが、ようやく此の頃本山寺ほんざんじさまへ行って、お説法を聞いて、此の頃少し心も直ってめえりましたから、大勢の人に代って私一人死にます、どうか其の代り、お千代さんを助けてやって下せえまし、親孝行な此様こんな人は国の宝で土塊つちッころとは違います、さ私を斬って下せえまし、親戚みより兄弟親も何もえ身の上だから、別に心を置く事もありません、さ、斬っておくんなせえまし」
 と沓脱石くつぬぎいしへピッタリ腰をかけ、えりの毛を掻上げて合掌を組み、首を差伸ばしまして、口の中で、
權「南無阿弥陀仏/\/\/\/\/\/\」
 かゝ殊勝しゅしょうていを見て、作左衞門は始めて夢の覚めたように、茫然として暫く考え、
作「いや權六許してくれ、どうも実に面目次第もない、く毀してくれた、あゝかたじけない、真実な者じゃ、なアる程左様……これは先祖が斯様な事を書遺かきのこしておいたので、わし祖父じゞいより親父も守り、幾代となく守りきたっていて、中指を切られた者が既に幾人いくたり有ったか知れん、誠に何とも、ハヤ面目次第もない、權六其方そなたが無ければ末世末代東山の家名はもとより、其方の云う通り慈昭院じしょういん殿(東山義政公の法名)を汚す不忠不義になる所であった、あゝ誠に辱ない、許してくれ、權六此の通り……作左衞門両手を突いて詫るぞ、宜くマ思い切って命を棄て、私の家名を汚さんよう、衆人ひとに代って斬られようという其の志、実に此の上もない感服のことだ、あゝ恥入った、実に我が先祖は白痴たわけだ、斯様な事を書遺すというは、許せ/\」
 と縁先へ両手をついて詫びますと、傍に聞いて居りました忰の長助が、何と思ったかポロリと膝へ涙を落して、權六の傍へ這ってまいりました。
長「權六、あゝー誠に面目次第もない、中々其方そなたを殺すどころじゃアない、わしが生きてはられん、お千代親子の者へ対しても面目ないから、私が死にます」
 とあわてゝ短刀を引き抜き自害をしようとするから、權六が驚いて止めました。

        八

 權六は長助の顔をつめまして、
權「貴方あんた何をなさりやアす」
長「いや面目ないが、実は此の皿を毀したのはお父様とっさま、此の長助でございます」
作「なに……」
長「唯今此の權六に当付けられ、実に其の時は赤面致しましたけれども、たれも他に知る気遣いは有るまいと思いましたが、実はお千代に恋慕を云いかけたをはじしめられた恋の意趣いし、お千代の顔に疵を付け、縁付えんづきの出来ぬようにと存じまして、家の宝を自分で毀し、其の罪を千代に塗付けようとした浅ましい心の迷い、それを權六が存じて居りながら、罪を自分の身に引受けて衆人しゅうじんを助けようという心底、実に感心致しました、それに引換えわたくしの悪心面目もない事でございますから……」
作「暫く待て/\」
權「若旦那様、まゝお待ちなせえまし、貴方あんたう仰しゃって下されば、權六は今首を打斬ぶっきられても名僧智識の引導より有難く受けます、何卒どうぞねげえでごぜえますからわしが首を……」
作「どう致して、手前は世の中の宝だ、まゝ此処これあがってくれ」
 と是れから無理やりに權六の手をって、泥だらけの足のまゝ畳の上へ上げ、段々お千代母子おやこにも詫びまして、百両(此のころだから大したもので)取り出して台に載せ、
作「何卒どうぞ此の事を世間へ言わんよう、内聞にしてくれ」
 と云うと、母子おやことも堅いから金を受けません、それでは困ると云うと。
權「そんならわしこゝろざしが有りますから、此のお金をお貰い申し、昨年から引続きまして、当御領地の勝山、津山、東山村の辺は一体に不作でごぜえまして、百姓も大分だいぶ困っている様子でございますから、何うか施しを出したいものでがす、それに此の皿のために指を切られたり、中には死んだ者も有りましょうから、どうか本山寺様で施餓鬼せがきを致し、乞食こつじき施行せぎょうを出したいと思います」
作「あゝ、それは感心な事で、入費の処はわしも出そう」
 と云うので、本山寺という寺へまいりまして、和尚さまに掛合いますと、方丈も大きに感心して、そんならばと、是れから大施餓鬼おおせがきを挙げました。多分に施行も出しました事でございまして、の砕けた皿を後世のためにと云うので、皿山の麓方ねがたのこんもりとした小高き処へうずめて、しるしを建て、これを小皿山こざらやま[#「小皿山と」は底本では「小皿山を」]名づけました。此の皿山は人皇にんのう九十六代後醍醐天皇ごだいごてんのう、北條九代の執権しっけん相摸守高時さがみのかみたかときの為めに、元弘げんこう二年三月隠岐国おきのくにてきせられ給いし時、美作の国久米の皿山にて御製ぎょせいがありました「聞き置きし久米の皿山越えゆかん道とはさらにおもひやはせむ」と太平記に出てありますと、講談師の放牛舎桃林ほうぎゅうしゃとうりんに聞きましたが、さて此の事が追々世間に知れて来ますと、他人ひととうとく思い、尾に尾を付けて云いはやします。時に明和めいわの元年、勝山の御城主にお成りなさいました粂野美作守さまのお城普請しろぶしんがございまして、人足を雇い、お作事さくじ奉行が出張でばり、本山寺へ入らっしゃいまして方々御見分が有ります。其の頃はお武家を大切にしたもので、名主年寄始め役人を鄭重ていちょう待遇もてなし、御馳走などが沢山出ました。話のついでの皿塚の事をお聞きになりまして、山川廣やまかわひろしという方が感心なされて、
山「妙な奴もあるものだ、其の權六という者は何処どこる」
 とお尋ねになりますと、名主が、
名「へえ、それは当時遠山と申す浪人の娘のお千代と云う者と夫婦になりまして、遠山の家名を相続して居ります、至って醜男ぶおとこで、熊のような、毛だらけな男でございますが、女房はそれは/\美くしい女で、權六は命の親なり、かつ其の気性に惚れて夫婦になりたいと美人から望まれ、すなわち東山作左衞門が媒妁人なこうどで夫婦になり親子睦ましく暮して居ります、東山のつい地面内へ少しばかりの家を貰って住んで、農業を致し、親子の者が東山のお蔭で今日では豊かに暮して居ります」
 と聞いて廣は猶々なお/\ゆかしく思い、会いたいと申すのを名主が、
名「いえ中々一国いっこくもので、少しも人にこびる念がありませんから、今日こんにちすぐと申す訳には参りません」
 というので、是非なく山川も一度ひとたびお帰りになりまして、美作守さまの御前において、自分が実地をんで、何処どこに何ういう事があり、此処こゝに斯ういう事があったとお物語を致し、の權六の事に及びますと、美作守さま殊のほか御感心遊ばされて、左様な者なら一大事のお役に立とうから召抱えて宜かろうとの御意がござりましたので、山川は早速作左衞門へかゝってまいりました。其の頃は御領主さまのお抱えと云っては有難がったもので、作左衞門はすぐに權六を呼びにつかわし、
作「是れは權六、来たかえ、さア此方こっちはいんな」
權「はい、ちょっくらあがるんだが、誠に御無沙汰アしました、わしも何かと忙しくってね」
作「此の間中おっかさんが塩梅が悪いと云ったが、いかね」
權「はい、此の時候の悪いので弱え者は駄目だね、あなた何時いつもお達者で結構でがす」
作「て權六、まア此の上もない悦び事がある」
權「はい、わしもお蔭で喰うにゃア困らず、彼様あんな心懸のい女をかゝあにして、おまけに旦那様のお媒妁なこうどで本当はのお千代もいやだったろうが、仕方なしに私の嚊に成っているだアね」
作「なにいやどころではない、貴様の心底を看抜みぬいての上だから、人は容貌みめよりたゞ心じゃ、何しろ命を助けてくれた恩人だから、否応なしで」
權「しかし夫婦に成って見れば、仕方なしにでもわしを大事にしますよ」
作「今此処こゝのろけんでもい兎に角夫婦仲がければ、それ程結構な事はない、時に權六段々善い事が重なるなア」
權「うでございます」
作「知っているかい」
權「はい、あのくらい運のい男はねえてね、民右衞門たみえもんさまでございましょう、無尽むじんが当ってすぐに村の年寄役を言付かったって」
作「いや左様そうじゃアない、お前だ」
權「え」
作「お前が倖倖しあわせ[#「倖倖」は「僥倖」の誤記か]だと云うは粂野美作守様からお抱えになりますよ、お召しだとよ」
權「へえ有難うごぜえます」
作「なにを」
權「まだ腹もきませんが」
作「なに」
權「おめしを喰わせるというので」
作「アハ……お飯ではない、お召抱えだよ」
權「えゝうでござえますか、藁の中へ包んで脊負しょって歩くのかえ」
作「なにを云うんだ、勝山の御城主二万三千石の粂野美作守さまが小皿山の一件を御重役方から聞いて、貴様を是非召抱えると云うのだが、人足頭がるというので、貴様なら地理もわきまえて居って適当で有ろうというのだ、初めは棒を持って見廻って歩くのだが、江戸屋敷の侍じゃアいかないというので、お召抱えになると、今からすぐに貴様は侍に成るんだよ」
權「はゝゝそりゃア真平まっぴら御免だよ」
作「真平御免という訳にはいかん、是非」
權「是非だって侍には成れませんよ、第一侍は字い知んねえば出来ますめえ、また剣術も知らなくっちゃア出来ず、それにわしゃア馬が誠にきれえだ、たまには随分小荷駄こにだのっかって、草臥くたびれ休めに一里や二里乗る事もあるが、それでせえ嫌えだ、矢張やっぱり自分で歩く方がいだ、其の上いろはのいの字も書くことを知らねえ者がさむれえに成っても無駄だ」
作「それは皆先方むこうさまへ申し上げてある、山川廣様というお方に貴様の身の上を話して、学問もいたしません、剣術も心得ませんが、膂力ちからは有ります、人が綽名あだなして立臼たてうすの權六と申し、両手で臼を持って片附けますから、あれで力は知れますと云ってあるが、其の山川廣と云うのはえらい方だ」
權「へえ、白酒屋しろざけやかえ」
作「山川廣(口のうちにて)山川白酒と聞違えているな」
權「へえー其の方が得心で、粂野さまの御家来になるだね」
作「うん、下役したやくのお方だが、今度の事に就いては其の上役うわやくお作事奉行が来て居ますよ、有難い事だのう」
權「有難い事は有難いけんども、わしゃア無一国むいっこくな人間で、いやにおさむれえへ上手をつかったり、窮屈におっつわる事が出来ねえから、矢張やっぱり胡坐あぐらをかいて草臥くたびれゝば寝転び、腹がったら胡坐を掻いて、塩引のしゃけで茶漬を掻込かっこむのがうめえからね」
作「其様そんなことを云っては困る、是非承知して貰いたい」
權「兎に角母にも相談しましょう、お千代はいやと云いますめえが、おふくろも有りますし、年いっているから、貴方あんたから安心のくように話さんじゃア承知をしません、だから其の前にわしがお役人さまにも会って、是れだけの者だがそれで勤まる訳なら勤めますとお前さまも立会って証人に成って、三人鼎足みつがなわゆっくら話しをした上にしましょう」
作「鼎足という事はありませんよ、宜しい、それではおふくろにはわしが話そうから、すぐに呼んだら宜かろう」
 とこれから母を呼んで段々話をしましたが、もと遠山龜右衛門という立派な侍の御新造に娘ゆえ大いに悦び、
母「お屋敷へお抱えに成るとは此の上ない結構な事で」
 と早速承知を致しましたので、是れからお抱えに成りましたが、わたくしは頓と心得ませんが、棒を持って見廻って歩き、大した高ではございません、十石三人扶持、御作事方まかない役と申し、少禄では有りますが、段々それから昇進致す事になるので、わずかでも高持たかもちに成りました事で、毎日棒を持って歩きますが、一体勉強家でございまして、少しも役目に怠りはございません、誠に宜く働き、人足へも手当をして、骨の折れる仕事は自分が手伝いを致して居りました。此の事が御重役秋月喜一郎あきづききいちろうというお方の耳に入りどうか權六を江戸屋敷へ差出して、江戸詰の者に見せて、なまけ者の見手本みでほんにしたいとひそかに心配をいたして居ります。

        九

 粂野美作守さまの御舎弟に紋之丞前次もんのじょうちかつぐさまと云うが有りまして、当時そのころ美作守さまは御病身ゆえ御控えに成って入らっしゃるが、ぜん殿さまの御秘蔵の若様でありましたから、御次男でも中々羽振りは宜うございますが、誠に武張ったお方ゆえ武芸に達しておられますので、馬をく乗るとか、槍を能く使うとか云う者があると、近付けてお側を放しません。所でくだんの權六の事がお耳に入りますと、其の者を予がそばへ置きたいとの御意ゆえ、お附の衆から老臣へ申し立て、かみへも言上ごんじょうになると、苦しゅうないとの御沙汰ごさたで、至急に江戸詰を仰付けられたから、母もお千代も悦びましたが、悦ばんのは遠山權六でございます。窮屈でいやだと思いましたが、致し方がありませんから、江戸谷中やなか三崎さんさき下屋敷しもやしきへ引移ります。只今は開けまして綺麗に成りましたが、其の頃梅を大層植込み、梅の御殿と申して新らしく御普請が出来て、誠にお立派な事でございます。前次様は權六が江戸着という事をお聞きになると、至急に会いたいから早々呼出せという御沙汰でございます。是れから物頭ものがしらがまいりまして、段々下話したばなしをいたし、權六は着慣れもいたさん麻上下あさがみしもを着て、紋附とは云え木綿もので、差図さしずに任せお次までまかで控えて居ります。外村惣江とのむらそうえと申すお附頭つきがしら納戸役なんどやく川添富彌かわぞいとみや山田金吾やまだきんごという者、其のほか御小姓が二人居ります。侍分さむらいぶんの子で十三四歳ぐらいのが附いて居り、殿様はきっと固くびん引詰ひッつめて、芝居でいたす忠臣蔵の若狭之助わかさのすけのように眼がつるし上っているのは、疳癪持かんしゃくもちというのではありません。髪を引詰めて結うからであります、誠に活溌な良い御気象の御舎弟さまで、
小姓「えゝ、お召によりまして權六お次まで控えさせました」
前「あゝ富彌、早速其の者を見たいな、ずっと連れてまいって予に見せてくれ、余程勇義なもので、重宝じゅうほうの皿を一時いちじに打砕いた気象は実に英雄じゃ、感服いたした早々此処これへ」
富「えゝ、田舎育ちの武骨者ゆえ、何とお言葉をおかけ遊ばしても御挨拶を申し上ぐるすべも心得ません無作法者で、実に手前どもが会いましても、はっと思います事ばかりで、何分にも御前体ごぜんてい罷出まかりいでましたらかえって御無礼の義を……」
前「いや苦しゅうない、無礼が有っても宜しい、早く会いたいから呼んでくれ、無礼講じゃ、呼べ/\」
富「はっ/\權六/\」
權「はい」
富「お召しだ」
權「はい、おめしと云うのは御飯おまんまを喰うのではない、呼ばれる事だと此の頃覚えました」
富「其様そんな事を云ってはいかん、ごく御疳癖が強くいらっしゃる、其の代り御意にれば仕合せだよ」
權「詰り気に入られるようにと思ってやる仕事は出来ましねえ」
富「其様なことを云ってはいかん、何でも物事を慇懃いんぎんに云わんければなりませんよ」
權「えゝ彼処あすこ隠元小角豆いんげんさゝぎを喰うとえ」
富「丁寧に云わんければならんと云うのだ」
權「そりゃア出来ねえ、此の儘にやらして下せえ」
富「此の儘、困りましたなア、上下かみしもの肩が曲ってるから此方こっちへ寄せたら宜かろう」
權「之れを寄せると又此方へ寄るだ、懐へこれをれると格好がいと、お千代が云いましたが、何にもへいっては居ません」
富「此の頃は別して手へ毛が生えたようだな」
權「なにせんから斯ういう手で、毛が一杯いっぺいだね、足から胸から、わしの胸の毛を見たら殿様ア魂消たまげるだろう」
富「其様な大きな声をするな、是から縁側づたいにまいるのだ、間違えてはいかんよ、彼処あれへ出るとすぐにお目見え仰せ付けられるが、不躾ぶしつけに殿様のお顔を見ちゃアなりませんよ」
權「えゝ」
富「いやさ、お顔を見てはなりませんよ、かしらあげろと仰しゃった時に始めて首を上げて、殿様のお顔をしげ/″\見るのだが、※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)ぞんざいにしてはなりませんよ」
權「そんならばわしを呼ばねえばいんだ」
富「さ、わしの尻に尾付くッついてまいるのだよ曲ったら構わずに……其方そっちをきょと/\見て居ちゃアいかん、あ痛い、何だって私の尻へ咬付くいついたんだ」
權「だっておめえさん尻へ咬付くッつけって」
富「困りますなア」
 と小声にて小言を云いながら御前へ出ました。富彌は慇懃に両手を突き、一礼して、
富「へい、お召に依って權六罷出まかりでました、お目見え仰付けられ、權六身に取りまして此の上なく大悦たいえつつかまつり、有難く御礼おんれい申上げ奉ります」
殿「うん權六、もっと進め/\」
 と云いながら見ると、肩巾の広い、筋骨のたくましい、色が真黒まっくろで、毛むくじゃらでございます。実に鍾馗しょうきさまか北海道のアイノじんが出たような様子で有ります。前次公は見たばかりで大層御意に入りました。
殿「どうも骨格が違うの、是は妙だ、權六其の方は国で衆人の為めに宝物たからものを打砕いた事を予も聞いておるが、感服だのう、かしらげよ、おもてを上げよ、これ權六、權六、如何いかゞ致した、何も申さん、返答をせんの」
富「はっ、これ御挨拶を/\」
權「えゝ」
富「御挨拶だよ、お言葉をくだし置かれたから御挨拶を」
權「御挨拶だって……」
 と只きょと/\して物が云えません。
殿「もっと前へ進め、遠くては話が分らん、ずっと前へ来て、大声で遠慮なく云え、かしらを上げよ」
權「上げろたって顔を見ちゃアなんねえと云うから誠に困りますなア、何うか此の儘で前の方へ押出してもれいてえ」
小姓「此の儘押出せと、尋常なみの人間より大きいから一人の手際てぎわにはいかん、貴方あなたそら尻を押し給え」
權「さアもっと力を入れて押出すのだ」
殿「これ/\何を致す其様そんなことをせんでも宜しいよ、つか/\歩いてまいれ、成程立派じゃなア」
權「えゝ、まだかしらを上げる事はなんねえか」
殿「富彌、余りやかましく云わんがい、窮屈にさせるとかえって話が出来ん、成程立派じゃなア、昔の勇士のようであるな」
權「へえー、なんですと」
殿「いにしえの英雄加藤清正とも黒田長政とも云うべき人物じゃ、どうも顔が違うのう」
權「へえーどうも誠に違います」
富「誠に違いますなんて、自分の事を其様な事を云うもんじゃア有りませんよ」
殿「これ/\小声でうぐず/\云わんがい」
權「衆人みんなが然う云います、へえかゝあは誠に器量がいって」
富「これ/\家内の事はお尋ねがないから云わんでもい」
權「だって話のついでだから云いました」
富「話の序という事がありますか」
殿「其の方生国しょうこく何処どこじゃ、美作ではないという事を聞いたが、左様さようか」
權「何でごぜえます」
殿「生国」
權「はてな……何ですか、あの勝山在にいる医者の木村章國きむらしょうこくでがすか」
殿「左様ではない、生れは何処だと申すのじゃ」
權「生れは忍の行田でごぜえますが、ちいせえ時分に両親が死んだゞね、それから仕様がなくって親戚みより頼りもえもんでがすが、懇意な者が引張ひっぱってくれべえと、引張られて美作国みまさかのくにめえりまして、十八年のなげえ間えかくお世話さまでごぜえました」
富「これ/\お世話さまなんぞと云う事は有りませんよ」
權「だってお世話になったからよ」
殿「これ富彌控えて居れ、一々咎めるといかん、うん成程、武州の者で、長らく国許くにもとへ参って居ったか、其の方は余程力は勝れてるそうじゃの」
權「わしが力はの位あるか自分でも分りませんよ、何なら相撲でも取りましょうか」
富「これ/\かみと相撲を取るなんて」
權「だって、力が分らんと云うからさ」
殿「誠にうい奴だ、予が近くにいてくれ、予が側近くへ置け」
富「いえ、それは余りなんで、此の通りの我雑がさつものを」
殿「苦しゅうない、誠に正直潔白でい、予がそばに居れ」
權「それは御免を願いてえもんで、わしには出来ませんよ、へえ、此様こんな窮屈な思いをするのは御免だと初手から断ったら、白酒屋さんの、えゝ……」
殿「山川廣か」
權「あの人よ」
富「あの人よと云う事が有るかえ、かみのお言葉に背く事は出来ませんよ」
權「背くたってられませんよ」
富「られんという事は有りません、御無礼至極じゃアないか」
權「御無礼至極だってられませんよ」
殿「マ富彌控えて居れ、然う一々小言を申すな、面白い奴じゃ」
權「わしもと米搗こめつきなんも知んねえ人間で、剣術も知んねえし、学問もした事アねえから何うにも斯うにもおさむれえには成れねえ人間さ、力はえらく有りますが、何でも召抱えてえと御領主さまが云うのを、無理に断れば親や女房に難儀が掛るというから、そりゃア困るが、これ/\で宜くばとおらがいうと、それでいから来いと云われ、それからめえっただねおめえさま…」
 富彌ははら/\いたしまして、
富「おめえさまということは有りませんよ、御前様ごぜんさまと云いなさい」
權「なに御前と云うのだえ、飯だの御膳だのって何方どっちでもいじゃアないか」
殿「これ富彌止めるな、宜しいよ、おまえも御前も同じことじゃのう」
權「然うかね、其様な事は存じませんよ、それからわし此処こゝ家来けれえになっただね、して見るとお前様めえさま、私のためには大事でえじなお人で、私は家来けらいでござえますから、永らく居る内にはおたげえに心安立こゝろやすだてが出て来るだ」
富「これ/\心安立てという事がありますか」
權「するとお大名でえみょうは誠に疳癪持だ」
富「これ/\」
殿「富彌又口を出すか、宜しい、控えよ、実に大名は疳癪持だ、疳癪がある、それから」
權「殿様に我儘がおこれば、わしにも疳癪が有りますから、主人に間違った事を云われると、ついそれから仲が悪くなります、時々逢うようにすれば、人は何となく懐かしいもので、あゝ会いたかった、宜く来たとたげえに大騒ぎをやるが、毎日めえにち傍にいると、私が殿様の疳癪をうん/\と気に障らねえように聞いていると、私が胡麻摺になり、※(「言+滔のつくり」、第4水準2-88-72)へつれえになっていけねえ、此処にいる人にたまにはちっとぐれえ腹の立つ事があっても、主人だから仕方がねえと諦め、御前さまとか御飯おまんまとかいう事になって、実の所をいうと然ういう人は横着者だね」
殿「成程左様じゃ、至極左様じゃ、正道せいどう潔白な事じゃ、これ權六、以来予に悪いことが有ったら其の方諫言かんげんを致せ、是が君臣の道じゃ、宜しい、許すから居てくれ」
權「尊公あんたがそれせえ御承知なら居ります」
殿「早速の承知で過分に思う、併し其の方は剣道も心得ず、文字もんじも知らんで、予の側にるのは、何を以て君臣の道を立て奉公を致す心得じゃ」
權「他に心得はねえが、夜夜中よるよなか乱暴な奴がへえるとなりませんから、わしゃア寝ずに御殿の周囲まわり内証ないしょうで見廻っていますよ、もし狐でも出れば打殺ぶっころそうと思ってます」
殿「うん、じゃが戦国の世になって戦争の起った時に、し味方の者が追々敗走して敵兵が旗下はたもとまで切込んでまいり、敵兵が予に槍でも向けた時は何う致す」
權「然うさね、其処そこが大切だ」
殿「さ何う致して予を助ける」
權「そりゃア尊公あんたどうも此処に一つ」
 と權六は胸をたゝき、
「忠義という刄物が有るから、剣術は知らねえでも義という鎧を着ているから、敵が槍で尊公に突掛つきかけてめえれば、わしで受けるだ、一本脇腹へ突込まして、敵をひねり倒して打殺ぶちころしてやるだ、其の内に尊公を助けて逃がすだけの仕事よ」
殿「うん成程、立派な事だ、しかし然ううまく口でいう通りにくかな」
權「屹度きっとります、其処はしゅう家来の情合だからね」
殿「うん面白い奴じゃ、しからば敵が若し斯様に致したら何うする」
 とすっと立ち上って、欄間に掛けて有りました九尺大身おおみの槍を取って、スッ/\と二三度しごいて、
「斯様に突き掛けたら何う致す」
 と真に突いてかゝった時に權六が、
權「然うすれば斯う致します」
 と少しも動かずに、ジリ/\と殿様の前へ進むという正直律義の人でございます。

        十

 粂野紋之丞前次と仰しゃる方は、未だお部屋住では有りますが、勇気の優れた方で、活溌なり学問もあり、実に文武兼備と講釈師ならほめる立派な殿様でございますなれども、そこはお大名の疳癪で、ひどく逆らって参ると、すぐ抜打ぬきうちに御家来の首がコロリなどゝいう事が有るもので、只今の華族さまはひらけていらっしゃいますから、其様そんな野蛮な刄物三昧はものざんまいなどはございませんが、前次様は御勇気のお方だけあって、九尺柄の大身の槍をすっと繰出した時に、權六は不意を打たれ、受くるものが有りませんから左ので、
權「むゝ」
 と受けましたがひどい奴で、中指と無名指くすりゆびの間をすっと貫かれたが、其の掌で槍の柄を捕まえて、ぐッと全身の力で引きました。前次公はよろめいて前へ膝を突く処を、權六が血だらけの手でおさえ付け、
權「其の時は斯う捻り倒して敵をひどえ目にわして、尊公あんたを助けるより他はねえ、何うだ、敵も魂消たまげるか」
 と大力だいりきでグックとすから前次公もえかねまして、
殿「權六ゆるせ、宥せ」
 と云うは余程苦しかったと見えます。これを見るとお側に居りました川添富彌、山田金吾も驚きましたが、御側小姓の外村惣江が次の間に至り、一刀をって立上り、
惣「棄置かれん奴」
 とバラ/\/\と二人きたって權六へ組付こうとするをにらみ付け、
權「寄付くと打殺ぶっころすぞ」
惣「斬ってしまえ、無礼至極な奴だ、御前を何と心得る、如何いかに物を心得んとは申しながら、余りと申せば乱暴狼藉」
 と立ちかゝるを、殿様は押されながら、
殿「いやなに惣江、手出しをする事は必ずならんぞ、權六放してくれ、あ痛い、放せ、予が悪かった、宥せ/\」
權「宥せと云って敵じゃア許せねえけれども、ず仕方話だから許します、さ何うだね」
殿「ハッ/\」
 と殿様はようやく起上りましたが、血だらけでございます。是は權六の血だらけの手で押付けられたから、顔から胸から血だらけで、これを見ると御家来が驚きまして、呆れて口が利けません。
殿「ハッ/\、至極道理もっともだ」
權「道理だって、わしが何も手出し仕たじゃアねえのに、おせえるの斬るのと此処にいる人が云うなア分んねえ、とがも報いもえものを殿様が手出しいして、槍で突殺つッころすと云うだから、敵が然うしたら斯うだと仕方話いしてお目に掛けたゞ、敵なら捻り殺すだが、仕方話で、ちょっくら此のくれえなものさ」
殿「至極正道しょうどう潔白な奴じゃ、勇気なものじゃ、何と申しても宜しい、予に悪い事があったら一々諫言をしてくれ、今日きょうより意見番じゃ、予が側を放さんぞ」
 と有難い御意で、それからいよ/\医者を呼び、疵の手当を致してつかわせと、殿様も急に血だらけですからお召替になる。大騒ぎでござります。御褒美として其の時の槍を戴きましたから、是ばかりでも槍一筋の侍で、五十石に取立てられ、頭取下役とうどりしたやくという事に成りましたが、更に※(「言+滔のつくり」、第4水準2-88-72)へつらいを致しませんが、堅い気象ゆえ、毎夜人知れず刀を差し、棒を提げてっと殿様のお居間の周囲まわりを三度ずつ不寝ねずに廻るという忠実なる事は、他の者に真似は出来ません立派な行いでございます。又お供の時は駕籠に附いてまいりません。
權「わし突張つッぱったものを着て、お駕籠の側へ付いてまいっても無駄でごぜえます、お側には剣術を知ってる立派なお役人が附いているだから、狼藉者がまいっても脇差を引抜いて防ぎましょうが、私ア其の警衛けいえいの方々に狼藉者が斬付けるとなんねえから、し怪しい奴が来るといかねえから私ア他の人のふりで先へめえりましょう、はかまなどア穿くのはしてもれえましょう、刀は差せと云わば仕方がねえから差しますが、私だけはお駕籠の先へぶら/\きます」
 と我儘を云うてなりませんが、左様な我儘なお供はござりませんから、權六も袴を付け、大小を差し、紺足袋こんたび福草履ふくぞうりでお前駆さきともで見廻って歩きます、お中屋敷は小梅で、此処これへお出でのおりも、未だお部屋住ゆえ大したお供ではございませんが、權六がお供をして上野の袴腰はかまごしを通りかゝりました時に、明和三年正月も過ぎて二月になり、追々梅も咲きました頃ですから、人もちら/\出掛けます。只今權六が殿様のお供をして山下の浜田と申す料理屋(今の山城屋)の前を通りかゝり、山のかた観物小屋みせものごやに引張る者が出て居りますが、其方そちらへ顔も向けず四辺あたりに気を附けてまいると、向うから来ました男は、年頃二十七八にて、かっきりと色の白い、眼のきょろ/\大きい、鼻梁はなすじの通った口元の締った、眉毛の濃いい男で、無地の羽織をちゃくし、一本短い刀を差し、紺足袋雪駄穿せったばきでチャラ/\やって参りました。不図ふと出会うと中国もので、矢張と松平越後様のい役柄を勤めました松蔭大之進まつかげだいのしんの忰、同苗どうみょう大藏だいぞうというもので、浪々中互いに知って居りますから、
權「大藏さん/\」
 と呼びますから大藏は振向いて、
大「いや是れは誠に暫らく、一別已来いらい[#「已来」は底本では「己来」]……」
權「うっかり会ったって知んねえ、むお変りがなくって……此処こゝで逢おうとは思いませんだったが、何うして出て来たえ」
 と立止って話をして居りますから、他の若侍が、
若「これ/\權六殿/\」
權「えゝ」
若「お供先だから、余り知る人に会ったって無闇に声などを掛けてはなりませんよ」
權「はい、だがね国者くにものに逢って懐かしいからね、少し先へ往っておくんなせえ、直ぐに往くと殿様に然う申しておくんなせえ、まおめえ達者でい、何処どこにいるだ」
大「お前も達者で何処にらるゝか、実に立派な事で、お抱えになったことは聞いたが、立派な姿なりで、此の上もない事で、拙者に於ても悦ばしい[#「悦ばしい」は底本では「悦しばい」]
權「ま悦んでくんろ、今じゃア奉公大切に勤めているだが、おめえさんは何処にいるだ」
大「拙者は根岸の日暮ひぐれヶ岡おかる、あの芋坂いもざかを下りた処に」
權「わしの処へはちけえからちっと遊びに来なよ、其の内私も往くから」
若「これ/\其様そんなことを云っては成りません」
權「今日は大将がいるから此処で別れるとしよう、泣く子と地頭にゃアかたれねえ」
 と他の家来衆も心配して彼是云いますので、其の日は別れ、翌日大藏は權六のうちへまいりましたから、權六悦びました。此の大藏はもと越後守様の御家来で、遠山龜右衞門とは同じ屋敷にいた者ゆえ、母もお千代も見知りの事なれば、
「お互いに是は思い掛けない、縁と云うものは妙だ、国を出たのは昨年の秋で、貴方も国においでのないという事は人の噂で聞きました」
大「お前も御無事で、ことに御夫婦仲も宜し、結構で」
權「まアね、おふくろも誠に安心したし、殿様も贔屓にしてくれるだが、扶持も沢山たんとらない、親子三人喰うだけ有ればいてえに、其様な事を云わずに取って置くが宜いって、種々いろ/\な物をくれるだ、貰わねえと悪いと云うから、仕方なしに貰うけれども、何でも山盛り呉れるだ、喰物くいものなどは切溜きりだめを持ってって脊負しょってねえばなんねえだ、誠にはア有難ありがてえ事になって、勿体ねえが、他に恩返おんげえしの仕様がねえから、旦那様を大切でえじに思って、不寝ねずに奉公する心得だが、貴方あんたは今の若さで遊んでいずに、何処かへ奉公でもしたら宜かろう」
大「拙者もう思ってる、とても国へ往ったっていけんから、何処ぞへ取付こうと思うが、御当家でお羽振のいお方は何というお方だね」
權「わしア其様な事は知んねえ、お国家老の福原數馬ふくはらかずま様、寺島兵庫てらじまひょうご様、お側御用神原五郎治かんばらごろうじ様とかいう奴があるよ」
大「奴とはひどいね」
權「それに此間こねえだちょっくら聞いたが、御当家には智仁勇の三人の家来があるとよ、渡邊織江わたなべおりえさんという方は慈悲深い人だから是が仁で、秋月喜一郎あきづききいちろうかな是はえらきつい人で勇よ、えゝ何とか云いッけ……戸村主水とむらもんどとかいう人は智慧があると云いやした、此者これが羽振のい処だ、其の人らの云う事は殿様も聴くだ、御家来に失策しくじりが有っても、渡邊さんや秋月さんが取做とりなすと殿様もゆるすだ、秋月さんは槍奉行を勤めているが、成程つよそうだ、身丈せいが高くってよ」
 と手真似をして物語る内、大藏はてのひらの底に目を附けました。

        十一

大「足下そっかを何うした、穴が開いているようだが」
權「これか、是は殿様が槍を突掛つッかけてで受けるか何うだと云うから、受けなくってというので、掌で受けたゞ」
大「むゝ、そうか、そして御家来のうち仁は渡邊織江、勇は秋月、智は戸村、成程斯ういう事は珍らしいから書付けてきましょう」
 と細かに書いて暇乞いとまごいを致し、帰る時に權六が門まで送り出してまいりますと、お役所から帰る渡邊に出会いましたから、權六も挨拶する事ぐらいのことは心得て居りますから、丁寧に挨拶する。渡邊も答礼して行過ゆきすぎるを見済みすまして、
大「あれは」
權「あれが渡邊織江様よ、慈悲深い方で、家来に難儀いする者が有ると命懸で殿様に詫言をしてくれるだ、困るなら銭い持って行けと助けてくれると云うだ、どうもの人にはかなわねえ」
大「成程寛仁大度かんじんたいど、見上げれば立派な人だね」
權「なにい、韓信かんしんが股アくゞりだと」
大「いえ中々お立派なお方だ、う五十五六にもなろうか……拙者も近い所にいるから、また度々たび/\お尋ね下さい、拙者もまたお尋ね申します」
權「お前辛抱しなよ、お女郎買におっぱまってはいかねえよ、国と違ってお女郎が方々にるから、随分身体を大事でえじにしねば成んねえ」
大「誠にかたじけない、左様なら」
 と松蔭大藏は帰りました。其の渡邊織江が同年の三月五日に一人の娘を連れて、喜六きろくという老僕じゞいに供をさせて、飛鳥山あすかやまへまいりました。もっとも花見ではない、初桜はつざくら故余り人は出ません、其の頃には海老屋えびや扇屋おうぎやの他にい料理茶屋がありまして、柏屋かしわやというは可なり小綺麗にして居りました。織江殿は娘を連れて此の茶屋の二階へあがり、御酒ごしゅは飲みませんから御飯ごぜんを上っていました。此の娘は年頃十八九になりましょうか、色のくっきり白い、鼻筋の通った、口元の可愛らしい、眼のきょろりとした……と云うと大きな眼付で、少し眼に怖味こわみはありますが、もっと巾着切きんちゃくきりのような眼付では有りません、堅いお屋敷でございますから服装なりは出来ません、小紋の変り裏ぐらいのことで、厚板の帯などを締めたもので、おとっさまは小紋の野掛装束のがけしょうぞくで、お供は看板を着て、真鍮巻しんちゅうまきの木刀を差して上端あがりばなに腰をかけ、お膳に酒が一合附いたのを有難く頂戴して居ります。二階の梯子段の下に三人車座になって御酒を飲んでいる侍は、其の頃流行はやった玉紬たまつむぎあい小弁慶こべんけいの袖口がぼつ/\いったのを着て、砂糖のすけない切山椒きりざんしょで、焦茶色の一本独鈷いっぽんどっこの帯を締め、木刀を差して居るものが有ります。火の燃え付きそうなあたまをして居るものも有り、大小を差した者も有り、大髷おおたぶさ連中れんじゅうがそろ/\花見に出る者もあるが、金がないのでかれないのを残念に思いまして、少しばかり散財ざんざいを仕ようと、味噌吸物みそずいものに菜のひたし物香物こう/\沢山だくさんという酷いあつらえもので、グビーリ/\と大盃おおもので酒を飲んで居ります。二階では渡邊織江が娘お竹と御飯ごぜんが済んで、
織「これ/\女中」
下婢「はい」
織「下に従者ともるから小包を持って来いと云えば分るから、う云ってくれ」
下婢「はいかしこまりました」
 とん/\/\と階下したへ下りまして、
下婢「あの、お供さん、旦那があの小さい風呂敷包を持って二階へあがれと仰しゃいましたよ」
喜「はい畏まりました」
 と喜六と云う六十四才になる爺さんが、よぼ/\して片手に小包を提げ、正直な人ゆえ下足番が有るのに、わきに置いた主人の雪踏せったとお嬢様の雪踏と自分の福草履三足一緒に懐中ふところへ入れたから、飴細工の狸見たようになって、梯子をあがろうとする時、微酔機嫌ほろよいきげんで少し身体がよこになる途端に、懐の雪踏がすべっておちると、間の悪い時には悪いもので、の喧嘩でも吹掛ふっかけて、此の勘定を持たせようと思っている悪浪人わるろうにんの一人が、手に持っていた吸物椀の中へ雪踏がぼちゃりと入ったから驚いて顔を上げ、
甲「これしからん奴だ、やいおりろ、二階へあがる奴下ろ」
 と云いながら喜六の裾を取ってぐいと引いたから、ドヽトンと落ち、
喜「あ痛いやい……」
甲「不礼至極ぶれいしごくな奴だ、人が酒を飲んでいる所へ、屎草履くそぞうりを投込むとは何の事だ」
 と云いながら二つつ喜六の頭を打つ喜六は頭を押えながら、
喜「あ痛い……誠に済みませんが、懐から落ちたゞから御勘弁をねげえます」
甲「これ彼処あすこに下足をあずかる番人があって、銘々下足を預けてあがるのに、懐へ入れて上る奴があるものか、是には何か此の方に意趣遺恨があるに相違ない」
喜「いえ意趣も遺恨もある訳じゃねえ、お前様めえさまには始めてお目に懸って意趣遺恨のある理由わけがござえません、わしなんにも知んねえ田舎漢いなかもので、年も取ってるし、御馳走の酒を戴き、酔払いになったもんだから、身体が横になるはずみに懐から雪踏が落ちただから、どうか御勘弁を」
 と詫びましたが、浪人は肩を怒らせまして、
甲「勘弁まかりならん、能く考えて見ろ、人の吸物の中へ斯様に屎草履を投込んで、泥だらけにして、これを何うして喰うのだ」
喜「誠に御道理ごもっとも……しかし屎草履と仰しゃるが、米でも麦でも大概たいげえ土から出来ねえものはねえ、それには肥料こやしいしねえものは有りますめえ、あ痛い、又打ったね」
甲「なに肥料こやしをしないものはないが、直接じかに肥料を喰物くいものぶっかけて喰う奴があるか、しからん理由わけの分らん奴じゃアないか」
乙「これ/\其様そんな者に何を云ったって、痛いもかゆいも分るものじゃアない、家来の不調法は主人の粗相だから、主人が此処こゝへ来て詫るならば勘弁してろう、それまで其の小包を此方こちらへ取上げて置け、なに娘を連れて年をっている奴だと、それ/\今も云う通り家来の不調法は主人の不調法だから、主人が此処へ来て、手前に成り代って詫るなれば勘弁を仕まいものでもないが、それ迄包を此方こっちへ預かる、一体家来の不調法を主人が詫んという事は無い」
喜「詫ん事は無いたって、わしが不調法をして、旦那様を詫に出しては済みません、それに包を取上げられてしまっては旦那様に申訳がないから、どうか堪忍しておくんなせえましな、私が不調法をたんだから、二つも三つも打叩ぶちたゝかれても黙って居やすんだ、人間の頭には神様が附いて居ますぞ、其処そこを叩くてえ事はねえ」
甲「なに……」
 と又つ。
喜「あ痛い、又ったな」
甲「なにを云う、其様な小理窟ばかり云っても仕様がねえ、もっと分る奴を出せ」
喜「あ痛い……だからま一つ堪忍しておくんなせえましよ」
甲「勘弁罷りならん」
喜「勘弁ならんて、此の包を取られゝばわしがしくじるだ」
甲「手前が不調法をしてしくじるのは当然あたりまえだ、手前が門前払いになったて己の知った事かえ、さ此方こっちへ出さんか」
喜「あ……あれ……取っちまった、其の包を取られちゃアわしが済まねえと云うに、あのまア慈悲知らずの野郎め」
甲「なに野郎だ……」
 とお事が大きくなって、見ちゃア居られませんから茶屋の女中が、
下婢「かまどんをっておくれな」
鎌「なに斯ういう事は矢張やッぱり女がいよ」
下婢「其様なことを云わずに往っておくれよ」
鎌「客種きゃくだねが悪い筋だ、なんかごたつこうとして居るはずみだから、どうも仕様がない」
 下婢おんなどもがそれへ参り、
下婢「ね、あなた方」
甲「何だ、何だ手前は」
下婢「貴方あなた申しお供さん、お気を附けなさらないといけませんよ、貴方ね、此方こちらは下足番の有るのを御存じないものですから、履物はきものを懐へ入れて梯子段をあがろうとした処を、つい酔っていらっしゃるもんですから、不調法で落ちたのでしょう、実にお気の毒さま、何卒どうぞね、ま斯ういうお花見時分で、お客さまが立込んで居りますから、御機嫌を直していらっしゃいよ、何ですよう、ちょいと貴方ア」
甲「なんだ不礼至極な奴め、愛敬が有るとか器量がいとか云うならまだしも、手前の面を見ろい、手前じゃア分らんから分る人間を出せ」
下婢「誠にどうも、あのちょいと清次せいじどん」
清「そら、己の方へ来た」
下婢「取っても附けないよ、変な奴だよ」
清「女でもいのに、仕様がないね」
 と若い者が悪浪人わるろうにんの前へ来て、額へ手を当て、
若「えへゝゝ」
甲「変な奴が出て来た、手前は何だ」
若「今日こんにち生憎あいにく主人が下町までまいって居りませんから、手前は帳場に坐っている番頭で、御立腹の処は重々御尤ごもっともさまでございますが、何分にもへえ、全体お前さんが逆らっては悪い、此方こなたで御立腹なさるのは御尤もで仕方がない謝まんなさい、えへ……誠に此の通り何も御存じないお方で相済みませんが…」
甲「只相済まん/\と云って何う致すのだ」
若「どうか旦那さま」
甲「うん何だと、何が何うしたと、此椀これを何う致すよ、只勘弁しろたって、泥ぽっけにした物が喰えるかい」
清「左様なら旦那さま、斯様致しましょう、お料理を取換えましょう、ちょいとおよしどん、是をずっと下げて、何かおつな、ちょいとさっぱりとしたお刺身と云ったような[#「ような」は底本では「なうな」]もので、えへゝゝ」
甲「いやな奴だな、空笑そらわらいをしやアがって」
清「ずっとお料理を取換え、お燗のい処を召上り、お心持を直してお帰りを願います」
 それより他に致し方がないので、酒肴さけさかなを出しまして、
清「是は手前の方の不調法から出来ました事でげすから、其のお代は戴きません、皆様へ御馳走の心得で」
乙「黙れ、不礼至極なことを云うな、御馳走なんて、てまえ酒肴しゅこうを振舞って貰いたいから立腹致したと心得てるか、振舞って貰いたい下心でおこってる次第じゃアなえぞ」
清「いえその最初はじまりは上げて置いて、あとで代を戴きます」
甲「てまえでは分らんもっと分る者をよこせ」
 二階では織江殿も心配して居りますところへ、喜六が泣きながらあがってまいりました。

        十二

 喜六は力無げに二階へあがってまいり、
喜「はい御免下せえまし」
織「おゝ喜六か、是へ来い/\」
喜「はい、誠に何ともはア申訳のねえ事をしました、悪い奴にお包をられて」
織「困ったものじゃアないか、何故なぜ草履を懐へ入れて二階へ上ったのだよ、草履を懐へ入れて上へあがるなどという事があるかえ」
喜「はい、田舎者で何も心得ませんから」
織「何も心得んとて、先方で立腹するところはもっともじゃアないか、喰物くいものの中へ泥草履を投入れゝば、誰だって立腹致すのは当然あたりまえのことじゃ、それから何う致した」
喜「へえ、三人ながら意地の悪い奴が揃ってゝ、家来の不調法は主人の不調法だから、余所目よそめに見て二階に居ることはねえ、此処これへまいり、成り代って詫をしたら堪忍してくれると云いまして、お包を取上げましたから、渡すめえとしっかり押えると、あんた傍に居た奴がわしの頭を叩いて、無理やりに引奪ひったくられましたから、大切な物でもへえってろうかと心配して居ります」
織「何も入って居らん空風呂敷からぶろしきではあるが、不調法をして詫をせずに置く訳にもいかん、手前の事から己が出ると、拙者は粂野美作守家来渡邊織江と申す者でござると、斯う姓名を明かさんければならん、己の名前は兎も角も御主人の名をけがす事になっちゃア誠に済まん訳じゃアないか、手前は長く奉公しても山出しの習慣しぐせけん男だ、誠に困ったもんだの」
喜「へえ、誠に困りました、うしてわしが頭ア五つくらしました」
織「たれながら勘定などをする奴が有りますか」
喜「余り口惜くやしゅうございます、中央まんなかにいた奴の叩くのが一番痛うござえました」
織「誠に困るの」
竹「おとっさま、斯う致しましょうか、かえって先方が食酔たべよって居りますところへ貴方が入らっしゃいますより、わたくしは女のことで取上げもいたすまいから、私が出て見ましょうか」
織「いや、己がいなければいが、己がいて其の方を出しては宜しくない」
[#「竹」は底本では「喜」]「いゝえ、喜六とわたくしと二人で此処こゝへまいりました積りで、誠に不調法を致しましたと一言申したら宜かろうと存じます、のう喜六」
喜「はい、お嬢様が出れば屹度きっと勘弁します、みんな助平そうなものばかりで」
[#「織」は底本では「竹」]「こら、其様そんなことを云うから物の間違になるんだ」
竹「じゃア二人の積りでいかえ、わたくしは手前を連れてお寺参りに来た積りで」
喜「どうか何分にも願います」
 とお竹のあとに附いて悄々しお/\と二階を下りる。此方こちらは益々たけり立って、
甲「さア何時までべん/\と棄置くのだ、二階へ折助おりすけあがったり下りて来んが、さ、これを何う致すのだ」
 と申してるところへお竹がまいり、しとやかに、
竹「御免遊ばしませ」
甲「へえお出でなさい、何方どなたさまで」
竹「只今は家来共が不調法をいたして申訳もない事で、何も存じません田舎者ゆえ、られるとわるいと存じまして、草履を懐へ入れてって、つい不調法をいたし、御立腹をかけて何とも恐入ります、少し遅く成りましたから早く帰りませんと両親が案じますから、何卒なにとぞ御勘弁遊ばしまして、それは詰らん包ではございますが、これに成り代りましてわたくしからお詫を致します事で」
甲「どうも是は恐入りましたね、是はどうも御自身におでは恐入りましたね、誠にどうもおうるわしい事でありますな、へゝゝ、なに腹の立つ訳ではないが、ちょっと三人で花見という訳でもなく、ふらりと洗湯せんとうの帰り掛けに一口やっておる処で、へゝゝ」
竹「家来どもが不調法をいたし、さぞ御立腹ではございましょうが……」
甲「いや貴方のおいでまでの事はないが、おで下されば千万有難いことで、何とも恐入りました、へゝゝ、ま一盃ひとつ召上れ」
 と眼を細くしてお竹を見詰めて居りますから、一人が気をもみ、
乙「何だえ、仕方がないな、貴公ぐらい女を見るとのろい人間はないよ、女を見ると勘弁なり難い事でもすぐにでれ/\と許してしまう、それもいが、あとの勘定を何うする、勘定をよ、前に親娘連おやこづれであがった立派な侍が二階にるじゃアないか、しかるを女を詫によこすてえ次第があるかえ、其のかどを押したら宜かろう、勘定を何うするよ」
甲「うん成程、気が付かんだったが、さきあがっていたか、至極どうも御尤ごもっともだからう致そうじゃアないか」
丙「何だか分らんことを云ってる、兎に角御主人がお詫に来たから、それでいじゃアないか、斯様な人ざかしい処で兎や斯う云えば貴公の恥お嬢様のはじになるから、甚だ見苦しいが拙宅へお招ぎ申して、一口差上げ、にっこり笑ってお別れにしたらかろう」
甲「これは至極よろしい、たくは手狭だが、是なる者は拙者の朋友ともだちで、可なりうちも広いから、ちょっと一献いっこん飲直してお別れと致しましょう」
 とやさしい真白な手を真黒なきたない手で引張ひっぱったから、喜六は驚き、
喜「なにをする、お嬢様の手を引張って此の助平野郎」
甲「なに、此ん畜生」
 と又騒動が大きくなりましたから、流石さすがの渡邊も弱って何うする事も出来ません。打棄うっちゃってそっと逃げるなどというは武家の法にないから、困却を致して居りました。すると次の間に居りました客が出て参りました。黒の羽織に藍微塵あいみじんの小袖を大小を差し、料理の入った折を提げて来まして、
浪人「えゝ卒爾そつじながら手前は此の隣席りんせきに食事を致して、只今帰ろうと存じてると、何か御家来の少しの不調法をかどに取りまして、暴々あら/\しき事を申掛け、御迷惑の御様子、実は彼処あれにて聞兼きゝかねて居りましたが、如何にも相手が悪いから、お嬢様をお連れ遊ばしてさぞかし御迷惑でござろうとお察し申します、入らざる事と思召おぼしめすかしらんが、尊公の代りに手前が出ましたら如何いかゞで」
織「これはなんともはや、折角の思召ではござるが、先方ではのない所へ柄をすげて申掛けを致すのだから、貴殿へ御迷惑が掛っては相済まん折角の御親切ではござるが、ひらにお捨置きを願いたい」
浪人「いえ/\、手前は無禄無住むろくむじゅうの者で、浪々の身の上、決して御心配には及びません、御主名ごしゅめいあかすのをひどく御心配の御様子、誠に御無礼な事を申すようでござるが、お嬢様を手前の妹の積りにして、手前は不加減で二階に寝ていたとして詫入れゝば宜しい」
織「何ともそれでは恐入ります事で、しかし御迷惑だ……」
浪「その御心配には及びませんから手前にお任せなされ」
 とひっさげ刀で下へおりると、三人の悪浪人わるろうにんはいよ/\たけり立って、吸物椀を投付けなど乱暴をして居ります所へ、
浪人「御免を……」
甲「何だ」
浪人「手前家来が不調法をいたしまして、妹がお詫に出ましたよししからん事で、女の身でお詫をいたし、かえって御立腹を増すばかり、手前少々腹痛が致しまして、横になって居りまする内に、妹がまかり出て重々恐入りますが、何卒なにとぞ御勘弁を願います」
甲「むゝ、尊公は先刻さっき此の方の吸物椀の中へ雪踏を投込んだ奴の御主人かえ」
浪「左様家来の粗相は主人が届かんゆえで有りますから、手前成り代ってお詫を致します、どうか御勘弁を願います、かくの如く両手を突いてお詫を……」
甲「此奴こいつかえ/\」
乙「此者これじゃアなえよ、其奴そいつさきあがっていた奴だ、もっと年をってる奴だア、此奴はの娘へ※(「言+滔のつくり」、第4水準2-88-72)おべっかに入って来たんだ、其様そんな奴をなじらなくっちゃア仕様がねえ、えゝ始めて御意得ます、御尊名を承わりたいね……手前は谷山藤十郎たにやまとうじゅうろうと申す至って武骨なのんだくれで、御家来の不調法にもせよ、主人が成代って詫をいたせば勘弁いたさんでもないが、かくの如く泥だらけになった物が喰えますかよ、此の汁が吸えるかえ」
 と半分残っていた吸物椀を打掛ぶっかけましたから、すっと味噌汁が流れました。流石さすが温和の仁もたちまち疳癖が高ぶりましたが、じっとこらえ、
浪「どうか御勘弁を願います、それゆえ身不肖ながら主人たる手前が成代ってお詫をいたすので、幾重にも此の通り……手を突く」
甲「手を突いたって不礼を働いた家来を此方こっちへ申し受けよう、うして此方の存じ寄にいたそう」
浪「それは貴方御無理と申すもの、何も心得ん山出しの老人ゆえ、相手になすった処がお恥辱になればとて誉れにもなりますまい、斬ったところがいぬを斬るも同様、御勘弁下さる訳には相成りませんか」
乙「ならんければ何ういたした」
浪「ならんければ致し方がない」
甲「斯う致そう、当家こゝでも迷惑をいたそうから、表へ出て、広々した飛鳥山の上にて果合はたしあいに及ぼう」
浪「何も果合いをする程の無礼を致した訳ではござらん」
甲「無いたって食物くいものの中へ泥草履を投込んで置きながら」
浪「手前は此の通り病身でとてもお相手が出来ません」
甲「出来んなら尚宜しい、さ出ろ、病身結構だ、広々した飛鳥山へ出て華々しく果合いをしなせえ、う了簡まかりならん、篦棒べらぼうめ」
 と侍の面部へ唾を吐掛はきかけました。

        十三

 斯うなると幾ら柔和でも腹が立ちます、唾を吐き掛けられた時には物も云わず半手拭はんてぬぐいを出して顔を拭く内に、眼がきりゝと吊し上りました。相手の三人は酔っているから気が附きませんが、傍の人はじき気が附きまして、
○「やすさん出掛けよう、んな処で酒を呑んでも身になりませんよ、の位妹が出て謝って、御主人が塩梅あんばいの悪いのに出て来て詫びているのに、ひどい事をするじゃアないか、汁を打掛ぶっかけたばかりで誰でも大概おこっちまう、我慢してえるが今に始まるよ、怪我でも仕ねえうちに出掛けよう、他に逃げ処がないからこう/\」
△「おりう云ったっけが間に合わねえから、此の玉子焼にさわらの照焼は紙を敷いて、手拭に包み、猪口ちょこを二つばかりごまかしてこう」
 と皆逃支度にげじたくをいたします。此方こちらの浪人は屹度きっと身を構えまして、
浪「いよ/\御勘弁相成あいならんとあれば止むを得ざる事で、表へ出てお相手になろう」
 とずいとひっさがたなで立つと、他の者が之を見て。
○「泥棒ッ」
△「人殺しい/\」
 と自分が斬られる訳ではないが、あわてゝ逃出すから、煙草盆を蹴散けちらかす、土瓶を踏毀ふみこわすものがあり、料理代を払ってく者は一人もありません、中に素早い者は料理番へ駈込んで鰆を三本かつぎ出す奴があります。の三人は真赤な顔をして、
甲「さ来い」
浪「しからばお相手は致しますが、宜くお心を静めて御覧ごろうじろ、さして御立腹のあるべき程の粗相でもないに、果合はたしあいに及んでは双方の恥辱になるが宜しいか」
乙「えゝ、やれ/\」
 と何うしてもきません、酒の上で気が立って居ります、一人が握拳にぎりこぶしを振って打掛るを早くも身をかわし、
浪「えい」
 と逆に捻倒ねじたおした手練てなみを見ると、あとの二人がばら/\/\と逃げました。前に倒れた奴が口惜くやしいから又起上って組附いて来る処を、こぶしを固めて脇腹の三枚目(芝居でいたす当身あてみをくわせるので)余り食ったって旨いものでは有りません。
甲「うゝーん」
 と倒れた、詰らんものを食ったので、見物の弥次馬が、
△「其方そっちへ二人逃げた、威張った野郎の癖にざまア見やアがれ、殴れ/\」
 と何だか知りもしないのに無茶苦茶に草履ぞうり草鞋わらじを投付ける。
織「これ喜六、よくお礼を申せ」
喜「へえ、誠に有難ありがてえことで、はじまりは心配して居りました、し貴方に怪我でもあらば仕様がねえから飛出そうと思ってやしたが、此の通りおっぬまで威張りアがって野郎」
 二つ三つ打つを押止おしとめ、
浪「いや打ったって致し方がありません罪も報いもない此奴こやつを殺しても仕様がないから、御家来はゞかりだが彼方あっちで手桶を借り水を汲んで来て下さい」
喜「はいかしこまりました」
 の侍は其処そこに倒れた浪人の双方の脇の下へ手を入れ、脇肋きょうろく一活いっかつ入れる。
甲「あっ……」
 と息を吹反ふきかえす処へ水を打掛ぶっかける。
甲「あっ/\/\……」
浪「其様そんな弱い事じゃアいけません、果合いをなさるなら立上って尋常に華々しく」
甲「いえ/\誠に恐入りました、よいに乗じはなはだ詰らん事を申して、お気に障ったら幾重にもおわびを致します、どうか御勘弁を願います」
喜「今度は詫るか、詫るというなら堪忍してやるが、弱え奴だな、おらような年いった弱えもんだと馬鹿にして、三つも四つも殴りアがって、斯う云う旦那につかまると魂消たまげてやアがる、我身をつねって他人ひとの痛さが分るだろう、初まりの二つは我慢が出来なかったぞ、己も殴るからう思え」
 と握拳を固めてこん/\と続けて二つ打つ。
甲「誠に先程は御無礼で」
 と這々ほう/\ていで逃げてくと、弥次馬に追掛おっかけられて又打たれる、意気地いくじのない事。
織「どうか一寸ちょっともとの席へ、まア/\何卒どうぞ…」
浪「いえ、ちっと取急ぎますから」
織「でもござろうが」
 と無理にもとの茶屋へ連戻り、上座じょうざへ直し、慇懃いんぎんに両手を突き、
織「ようの中ゆえ拙者の姓名等も申上げず、恐入りましたが、拙者は粂野美作守くめのみまさか家来渡邊織江と申す者、今日こんにち仏参ぶっさん帰途かえりみち、是なる娘が飛鳥山の花を見たいと申すので連れまいり、図らず貴殿の御助力ごじょりきを得て無事に相納まり、何ともお礼の申上げようもござりません、しかしどうも起倒流きとうりゅうのお腕前お立派な事で感服いたしました、いずれよしあるお方と心得ます、御尊名をどうか」
浪「手前てまいは名もなき浪人でございます、いえ恐入ります、左様でございますか、実は拙者は松蔭大藏と申して、根岸の日暮が岡の脇の、乞食坂をりまして左へ折れた処に、見る蔭もない茅屋ぼうおく佗住居わびずまいを致して居ります、此のとも幾久しく……」
織「左様で、あゝ惜しいお方さまで、只今のお身の上は」
大「誠に恥入りました儀でござるが、浪人の生計たつき致し方なく売卜ばいぼくを致して居ります」
織「売卜を……易を……成程惜しい事で」
喜「お前さまは売卜者うらないしゃか、どうもえらいもんだね、売卜者ばいぼくしゃだから負けるか負けねえかをて置いて掛るから大丈夫だ、誠に有難うござえました」
織「いずれ御尊宅へお礼に出ます」
 と宿所しゅくしょ姓名を書付けて別れて帰ったのが縁となり、渡邊織江方へ松蔭大藏が入込いりこみ、遂に粂野美作守様へ取入って、どうか侍に成りたい念があってたくんで致した罠にかゝり、渡邊織江の大難に成ります所のお話でございます。此の松蔭大藏と申す者は前に述べました通り、従前美作国津山の御城主松平越後様の家来で、い役柄を勤めた人の子でありますが、浪人して図らず江戸表へ出てまいりましたが、の權六とも馴染の事でございますゆえ、權六方へも再三訪れ、權六もまた大藏方へまいりまして、大藏は織江を存じておりますから喧嘩の仲裁なかへ入りました事でございます。屋敷へ帰っても物堅い渡邊織江ですから早く礼にかんければ気が済みませんので、お竹と喜六をれ、結構な進物をたずさえまして日暮ヶ岡へまいって見ると、売卜ばいぼくの看板が出て居りますから、
織「あ此家これだ、喜六一寸ちょっと其の玄関口で訪れて、松蔭大藏様というのは此方こなたかと云って伺ってみろ」
喜「はいかしこまりました、えゝお頼み申します/\」
大「ドーレ有助ゆうすけ何方どなたか取次があるぜ」
有「はい畏りました」
 つか/\/\と出て来ました男は、少し小侠こいなせな男でございます。子持縞こもちじま布子ぬのこを着て、無地小倉の帯を締め、千住の河原の煙草入を提げ、不粋ぶすい打扮こしらえのようだが、もと江戸子えどっこだから何処どっか気が利いて居ります。
有「え、おいでなさえまし、何でござえます」
喜「えゝ松蔭大藏様と仰しゃるは此方こちらさまで」
有「え、松蔭は手前でござえますが、何か当用とうようか身の上を御覧なさるなれば丁度今余り人も居ねえ処で宜しゅうござえます、ま、おあがんなせえまし」
喜「いや、うじゃアござえません、旦那さまア此方こちらさまですと」
織「あい、御免くだされ」
 と立派な侍が入って来ましたから、有助も少しかたちを正して、
有「へえ、おいでなせえまし」
織「えゝ拙者は粂野美作守家来渡邊織江と申す者、えゝ早々お礼にまかずべきでござったが、主用しゅよう繁多にき存じながら大きにお礼が延引いたしました、ようや今日こんにち番退ばんびきの帰りに罷出まかりでました儀で、先生御在宅なれば目通りを致しとうござる」
有「はい畏りました……えゝ先生」
大「何だ」
有「んだか飛鳥山でお前さんがお助けなすった粂野美作守の御家来の渡邊織江とかいう人がお嬢さんを連れて礼に来ましたよ」
大「左様かすぐに茶の良いのを入れて莨盆たばこぼん、に火をけて、いか己が出迎うから……いや是は/\どうか見苦しい処へ何とも恐入りました、どうか直にお通りを……」
織「今日こんにちは宜く御在宅で」
大「宜うこそ……是れはお嬢様も御一緒で、此の通りの手狭てぜまで何とも恥入りましたことで、さ何卒なにとぞお通りを……」
織「えゝ御家来誠に恐入りましたが、一寸ちょっとお台を……何でも宜しい、いえ/\其様そんな大きな物でなくとも宜しい、これ/\其の包の大きな方を此処これへ」
 と風呂敷をひらきまして、中から取出したは白羽二重しろはぶたえ一匹に金子が十両と云っては、其の頃では大した進物で、これを大藏の前へ差出しました。

        十四

 尚も織江は慇懃いんぎんに、
織「先ず御機嫌宜しゅう、えゝ過日は図らずも飛鳥山で何とも御迷惑をかけ、おりはあゝいう場所でござって、碌々お礼も申上げることが出来んで、屋敷へ帰っても此娘これが又どうか早うお礼に出たいと申しまして、実に容易ならん御恩で、実にかたじけない事で、彼の折は主名を明すことも出来ず、怖い事も恐ろしい事もござらんが、女連おんなづれゆえ大きに心配いたし居りました、実に其の折は意外の御迷惑をかけまして誠に相済みません事で」
大「いえ/\何う致しまして、再度お礼ではかえって恐入ります、こと御親子ごしんしお揃いで斯様な処へおいでは何とも痛入いたみいりましてござる」
織「えゝ此品これは(と盆へ載せた品を前へ出し)[#「)」は底本では脱落]なんぞと存じましたが、御案内の通りで、下屋敷しもやしきから是までまいる間には何か調とゝのえます処もなく、殊に番退ばんひけからを見て抜けて参りましたことで、広小路へでも出たら何ぞ有りましょうが、是は誠にほんの到来物で、粗末ではござるが、どうか御受納下さらば……」
大「いや是は恐入ったことで……斯様な御心配を戴く理由わけもなし、おことばのお礼で十分、どうか品物の所は御免をこうむりとう、思召おぼしめしだけ頂戴致す」
織「いえ、それは貴方の御気象、誠に御無礼な次第ではあるけれども、ほんのお礼のしるしまでゞございますから、どうかお受け下さるように……はなはなんでござるが御意ぎょいかなった色にでもお染めなすって、お召し下されば有難いことで、甚だ御無礼ではござるが……」
大「なんともどうも恐入りました訳でござるしからば折角の思召おぼしめしゆえ此の羽二重だけは頂戴致しますが、只今の身の上では斯様な結構な品をるわけにはとてもまいりません、しかし此のお肴料さかなりょうとおしるしの包は戴く訳にはまいりません」
織「左様でもござろうが、貴方がなんでございますなら御奉公人にでもおつかわしなすって下さるように」
大「それは誠に恐入ります、嬢さま誠に何とも……」
竹「いえ親共と早くお礼にあがりたいと申し暮し、わたくし種々いろ/\心ならず居りましたが、何分にも番がせわしく、それ故大きに遅れました、の節は何ともお礼の申そうようもございません、喜六やお前一寸ちょっと此方こちらへ出て、宜くお礼を」
喜「はい旦那さま、おりは何ともはアお礼の云うようもござえません、わしなんざアこれもう六十四になりますから、何もこれ彼奴等あいつら打殺ぶちころされても命のおしいわけはなし、只私の不調法から旦那様の御名義ばかりじゃアねえ、お屋敷のお名前まで出るような事があっちゃア済まねえと覚悟を極めて、私一人打殺ぶっころされたら事が済もうと思ってる所へ、旦那様が出て何ともはアお礼のもうしようはありません、見掛けは綺麗な優しげな、力も何もねえようなお前様が、大の野郎を打殺うちころしただから、お侍はちがったものだと噂をして居りました」
大「う云われてはかえって困る、これは御奉公人で」
喜「はいわしなんでござえます、お嬢さまが五才いつゝの時から御奉公をして居り、ながえ間これ十五年もお附き申していますからお馴染なじみでがす、の時お酒が一口出たもんだから、お供だで少し加減をすれば宜かったが、急いでっつけたで、えら腹がったから、二合出たのを酌飲くんのんじまい、酔ぱらいになって、つい身体が横になったところから不調法をして、旦那様に御迷惑をかけましたが、先生さまのお蔭さまで助かりましたは、何ともお礼の申上げようはござえません」
織「えゝ今日こんにちすぐにおいとまを」
大「何はなくとも折角の御入来ごじゅうらいもとより斯様な茅屋ぼうおくなれば別に差上さしあげるようなお下物さかなもありませんが、一寸ちょっと詰らん支度を申し付けて置きましたから、一口上ってお帰りを」
織「いや思召おぼしめしかたじけないが、今日こんにちは少々急ぎますから、しかし貴方様はお品格といい、先達せんだって三人を相手になすったお腕前は余程武芸の道もお心懸け、御熟練と御無礼ながら存じました、どうか承わりますれば新規お抱えに相成った權六と申す者と前々から知るお間柄ということを一寸屋敷で聞きましたが、御生国ごしょうこく矢張やはり美作で」
大「はい、手前は津山の越後守家来で、父は松蔭大之進と申して、いさゝか高も取りました者でござるが、父に少し届かん所がありまして、おいとまになりまして、しばらくの間黒戸くろとの方へまいって居り又は權六の居りました村方にも居りました、それゆえにあれとは知る仲でございます」
織「実にどうも貴方はおしいことで、大概忠臣二君につかえずと云う堅い御気象であらっしゃるから、立派な処から抱えられても、再びしゅうは持たんというところの御決心でござるか」
大「いえ/\二君につかえんなどと申すは立派な武士の申すことで、どうか斯うやって店借たながりを致して、売卜者ばいぼくしゃで生涯朽果くちはてるも心外なことで、仮令たとえ何様どんな下役小禄でも主取しゅうとりをして家名を立てたい心懸こゝろがけもござりますが、これという知己しるべもなく、手蔓等てづるとうもないことで、先達せんだって權六に会いまして、これ/\だと承わり、お前はうらやましい事で、遠山の苗字を継いでもと米搗こめつきをしていた身の上の者が大禄たいろくを取るようになったも、全くお前の心懸こゝろがけが良いので自然に左様な事になったので、拙者などは早く親に別れるくらいな不幸の生れゆえ、とてもういう身の上には成れんが、何様どんな処でも宜しいから再び武家になりたい、口が有ったら世話をしてくれんかと權六にも頼んで置きましたくらいで、の様な小禄の旗下はたもとでも宜しいが、お手蔓があるならば、どうか御推挙を願いたい、此の儀は權六にも頼んでおきましたが、御重役の尊公定めしお交際つきあいもお広いことゝ心得ますから」
織「承知致しました、えゝ宜しい、いや実に昔は何か貞女両夫にまみえずの教訓を守って居りましたが、かえってそれでは御先祖へ対しても不孝にも相成ること、拙者主人美作守みまさかは小禄でござるけれども、拙者これから屋敷へ立帰って主人へも話をいたしましょう、貴方の御器量は拙者は宜く承知しておるが、家老共はだ知らんことゆえ、始めから貴方が越後様においでの時のように大禄という訳にはまいりません、小禄でも宜しくば心配をして御推挙いたしましょう」
大「どうもそれはかたじけない事で」
 と是から互に酒を飲合って、快く其の日は別れましたが、妙な物で、助けられた恩が有るゆえ、織江が種々いろ/\周旋いたしたところから、丁度十日目に松蔭大藏のもとへお召状めしじょうが到来致しましたことで、大藏ひらいて見ると。
御面談申度もうしたき有之候これありそうろうみょう十一日朝五つ時当屋敷へ御入来ごじゅらい有之候よう美作守みまさかのかみ申付候此段得御意ぎょいをえ候以上
美作守内[#地付き、地より8字アキ]
    三月十日
寺島兵庫
        松蔭大藏殿
 という文面で、文箱ふばこに入って参りましたから、当人の悦びは一通りでございません、先ず請書うけしょをいたし、是から急に支度にかゝり、小清潔こざっぱりした紋付の着物が無ければなりません、紋が少しちがっていても宜い、昌平しょうへいかせてもじきに出来るだろうが、今日一日のことだからと有助を駈けさせて買いにつかわし、大小はもとより用意たしなみがありますから之をして、翌朝よくあさの五つ時に虎の門のお上屋敷かみやしきへまいりますと、御門番にはかねて其の筋から通知がしてありますから、大藏を中の口へ通し中の口から書院へ通しました。

        十五

 御書院の正面には家老寺嶋兵庫、お留守居渡邊織江其の外お目附列座で新規お抱えのことを言渡し、拾俵五人扶持をくだし置かるゝ旨のお書付を渡されました。其のお書付にはたか拾俵五人扶持と筆太に書いて、宛名は隅の方へ小さく記してござります。織江からきたる十五日御登城の節お通り掛けお目見え仰付おおせつけらるゝ旨、かつ上屋敷に於てお長家ながやを下し置かるゝ旨をもあわせて達しましたので、大藏は有難きよしのおうけをして拝領の長家へさがりました。織江が飛鳥山で世話になった恩返しの心で、御不自由だろうから是もお持ちなさい、あれもお持ちなさいと種々いろ/\な品物を送ってくれたので、大藏は有難く心得て居りました。其のうち十五日がまいると、朝五つ時の御登城で、其の日大藏は麻上下あさがみしもでお廊下に控えていると、やがてごそり/\と申す麻上下と足の音がいたす、平伏をする、というのでお目見えというから読んで字の如く目で見るのかと存じますと、足音を聞くばかり、むしろお足音拝聴と申す方が適当であるかと存じます。しか当時そのころでは是すら容易に出来ませんことで、先ずとゞこおりなくお目見えも済み、是から重役の宅を廻勤かいきんいたすことで、是等これらすべて渡邊織江の指図でございますが、羽振のい渡邊織江の引力でございますから、おのずから人の用いも宜しゅうございますが、新参のことで、谷中のお下屋敷詰しもやしきづめを申付けられました。はじまりはお屋敷そとを槍持六尺棒持を連れて見廻らんければなりません、槍持は仲間部屋ちゅうげんべやから出ます、棒持の方は足軽部屋から[#「て」は底本では「で」]甃石いしの処をとん/\とん/\たゝいてるく、余りい役ではありません、芝居で演じましても上等役者は致しません所の役で、それでも拾俵の高持たかもちになりました。所が大藏如才ない人で、品格があって弁舌愛敬がありまして、一寸ちょっという一言ひとことに人を感心させるのが得意でございますから、家中かちゅう一般の評判が宜しく、
甲「流石さすがは渡邊うじ見立みたてだ、あれは拾俵では安い、百石がものはあるよ」
乙「いゝえなんでげす、家老や用人よりは中々腕前が良いそうだが、全体あれを家老にしたら宜かろう」
 などと種々いろ/\なことを云います。大藏はもとより気が利いて居りますから、雨でも降るとか雪でも降ります時には、部屋へ来まして
大「一盃いっぱい飲むがい、今日こんにちは雪が降って寒いから巡検おまわりわし一人で廻ろう、なに槍持ばかりで宜しい、此の雪では誰も通るまいから咎める者も無かろう、私一人で宜しい、これで一盃飲んでくれ」
 とかねびらを切りまして、誠に手当が届くから、寄ると触ると大藏の評判で、
甲「野上のがみイ」
乙「えゝ」
甲「今度新規お抱えになった松蔭様はえらいお方だね」
乙「あれは別だね一寸ちょっと来ても寒かろう、一盃飲んだら宜かろうと、仮令たとえ二百でも三百でも銭を投出して目鼻の明く処は、どうも苦労した人は違うな、一体御当家様よりは立派な大名の御家来で立派なお方が貧乏して困って苦労した人だから、物が届いている、感心な事だ、は寒いから止せ/\と御自分ばかりで見廻りをして勤めに怠りはない、それから見ると此方等こちとらは寝たがってばかりいてて仕様がないの」
甲「本当にどうも……おゝ噂をすれば影とやらで、おいでなすった」
 と仲間共ちゅうげんどもは大藏を見まして、
「えゝどうもお寒うございます」
大「あゝ大きに御苦労だが、又廻りの刻限が来たから往ってもらわなければならん、昼間お客来きゃくらい遺失物おとしものでもあるといかんから、仁助にすけわしが一人で見廻ろう、雪がちらちらと来たようだから」
仁「成程降って来ましたね」
大「よほど降って来たな、提灯ちょうちんも別にるまい、廻りさえすればいのだ、わしは新役だからこれがつとめで、貴様達は私に連れられる身の上だ、ことに一人や二人狼藉者が出ても取って押えるだけの力はある、といって何も誇るわけではないが、此の雪の降るに、連れてかれるのも迷惑だろうから」
仁「面目次第もありませんが、此方等こちとらは狼藉者でも出ると、真先まっさきに逃出し、悪くすると石へ蹴つまずいて膝アこわすたちでありますよ、恐入りますな」
大「御家中ごかちゅうで万事に心附こゝろづきのある方は渡邊殿と秋月殿である、寒かろうから寒さしのぎに酒を用いたら宜かろうと云って、御酒ごしゅを下すったが、斯様な結構な酒はお下屋敷にはないから、此の通り徳利とくりを提げて来た、一升ばかり分けてやろう別に下物さかなはないから、此銭これで何ぞすきな物を買って、夜蕎麦売よそばうりが来たら窓から買え」
仁「恐れ入りましたな、何ともお礼の申そうようはございません、いつもお噂ばかり申しております実に余り十分過ぎまして……」
大「雪がひどく降るので手前達も難儀だろう、わし一人で宜しい提灯と赤合羽を貸せ/\」
 と竹の饅頭笠をかぶり、提灯を提げ、一人でひそかに廻りましたがかえってどか/\多勢おおぜいで廻ると盗賊は逃げますが、窃かに廻ると盗賊も油断して居りますから、却って取押えることがあります。無提灯でのそ/\一人で歩くのは結句用心になります。或日お客来で御殿の方は混雑致しています時、大藏が長局ながつぼねの塀の外を一人で窃かに廻ってまいりますと、沢山ではありませんが、ちら/\と雪が顔へ当り、なか/\寒うござります、雪も降止みそうで、風がフッと吹込む途端、提灯の火が消えましたから、
大「あゝ困ったもの」
 とあと退さがると、長局の板塀の外に立って居る人があります。無地の頭巾ずきん目深まぶかに被りまして、塀に身を寄せて、小長い刀を一本差し、小刀しょうとうは付けているかいないか判然はっきり分りませんが、鞘の光りが見えます。
大「はてな」
 と大藏はあと退さがって様子を見ていました。すると三尺の開口ひらきぐちがギイーとき、内から出て来ました女はお小姓姿、文金ぶんきん高髷たかまげ、模様はしかと分りませんが、華美はでな振袖で、大和錦やまとにしきの帯を締め、はこせこと云うものを帯へ挟んで居ります。器量も判然はっきり分りませんが、只色の真白まっしろいだけは分ります。大藏は心のうちで、ヤア女が出たな、お客来の時分に芸人を呼ぶと、いつも下屋敷のお女中方が附いて来るが、是は上屋敷の女中かしらん、はてな何うして出たろう、此の掟の厳しいのに、今日こんにちのお客来で御蔵おくらから道具を出入だしいれするお掃除番が、粗忽そこつで此の締りを開けて置いたかしらん、何にしろしからん事だと、段々側へ来て見ますと、塀外へいそとに今の男が立って居りますからハヽア、さてはお側近く勤むる侍と奥を勤めるお女中と密通をいたしてるのではないかと存じましたから、あと退さがって息をころして、そっと見て居りますと、の女は四辺あたりをきょろ/\見廻しまして声を潜め、
女「春部はるべさま、春部さま」
春「シッ/\、声を出してはなりません」
 と制しました。

        十六

 お小姓姿の美しい者が眼に涙をうかめまして、
女「貴方まアわたくしから幾許いくらふみを上げましても一度もお返辞のないのはあんまりだと存じます、貴方はもう亀井戸かめいどの事をお忘れ遊ばしたか、私はそればっかり存じて居りますけれども、掟が厳しいのでお目通りを致すことも出来ませんでしたが、今晩はにお目に懸れました」
春「ひとに知れてはならんが、今夜は雪が降って来たので、廻りの者も自然役目を怠って、余りちょん/\叩いて廻らんようだが、先刻さっきちょいと合図をしたから、ひょっと出て来ようと存じてまいったが、此の事が伯父に知れた日にア実に困るから、ひとに知れんようにしてわしも会いたいと思うから、来年三月宿下やどさがりの折に、又例の亀井戸の巴屋ともえやゆっくり話を致しましょう」
女「宿下やどさがりの時と仰しゃっても、本当に七夕様のようでございますね、一年に一度しきゃアお目通りが出来ないのかと思いますと、此の頃では貴方の夢ばかり見て居りますよ、わたくしは思いの儘なことを書いて置きましたから、これをとっくり見て下されば分りましょう、私の身にかゝる事がございますからお持ち遊ばせ」
 と渡す途端にうしろから突然だしぬけに大声で、
大「火の廻り」
 という。二人はびっくり致しまして、あと退き、女はあわてゝ開き戸を締めて奥へく。の春部という若侍も同じく慌てゝお馬場口の方へげて行く。大藏はそっあとへ廻って、三尺の開戸ひらきどを見ますと、慌てゝ締めずにまいったから、戸がばた/\あおるが、外から締りは附けられませんから石をって置きまして、独言ひとりごとに、
大「困ったな、女が手紙を出したようだが、男の方で取ろうという処を、己が大きな声で呶鳴どなったから、驚いたものか文を落して行った、これはい物が手にった」
 と懐へ入れて詰所へ帰り、是から同役と交代になります。
大「此の手紙をいつぞは用に立てよう」
 と待ちに待って居りました。の春部というものは、お小姓頭を勤め十五石三人扶持を領し、秋月のおいで、梅三郎うめさぶろうという者でございます。お目附の甥だけに羽振が宜しく、おとっさまは平馬へいまという。梅三郎は評判の美男びなんで、婀娜あだな、ひんなりとした、芝居でいたせば家橘かきつのぼりの菊の助でも致しそうな好男いゝおとこで、丁度其の月の二十八日、春部梅三郎は非番のことだから、用達ようた旁々かた/″\というので、根津の下屋敷を出まして、上野の広小路で買物をいたし、今山下の袴腰はかまごしの方へ掛ろうとするうしろから、松蔭大藏が声をかけ
大「もし/\春部さま/\」
梅「あい、これは大藏殿かえ」
大「へえ、今日こんにちいお天気になりました、お非番でげすか」
梅「あゝ幸い非番ゆえ浅草へでもまいろうかと思う」
大「へえわたくし今日こんにちは非番で、ま別に知己しるべもありませんし、だ当地の様子も不慣ふなれでございますから、道を覚えて置かなければなりません、めて小梅のお中屋敷へまいる道だけでも覚えようと存じて、浅草から小梅の方へまいろうと存じまして、実は頼合たのみあわせてまいりました」
梅「うかえ、三作さんさくはお前の相役あいやくだね」
大「へえ左様でござります、えゝ春部さま、貴方少々伺いたい儀がござりますが、決してお手間は取らせませんから、あの無極庵むきょくあん(有名の蕎麦店そばや)まで、えへ貴方少々御馳走に差上げるというははなはだ御無礼な儀でござりますが、一寸ちょっと伺いたい儀がござりますから、お急ぎでなければ無極の二階までおいでを願います」
梅「別に急ぎも致さんが、何か馳走をされては困ります、お前は大分だいぶ下役の者へ馳走をして振舞うという噂があるが余り新役中に華美はでな事をせんがいと伯父も心配しています」
大「へえ、毎度秋月さま渡邊さまのお引立にりまして、不肖のわたくしが身に余る重役を仰付けられ、誠に有難いことで決してお手間は取らせませんから」
梅「いや又にいたそう」
大「どうか甚だ御無礼ごむれいでございますが何卒どうぞ願います、少々お屋敷の御家風の事について伺いたい儀がございます」
梅「左様か」
 ともとより温厚の人でございますから、ってと云うので、是から無極の二階へ通りました。追々誂物あつらえものの肴が出てまいりましたから、
大「女中今少しお話し申す事があるから、誰も此処こゝへ参らんようにしてくれ、用があれば手をって呼ぶから」
女中「はい、左様なれば此処を閉めましょうか」
大「いや、それは宜しい……えゝお急ぎの処をお引留め申して何とも恐入りました」
梅「あい何だえ、わしに聞きたい事というのは」
大「えゝ、外でもござりませんが、お屋敷の御家風に就て伺いたい儀がござる、それと申すも拙者は何事も御家風を心得ません不慣ふなれの身の上にて、斯様な役向やくむきを仰付けられ、身に余りてかたじけない事と存じながら、慾には限りのないもので、の様にも拙者身体の続くだけは御奉公致します了簡なれども、上役のお引立が無ければとて新参者しんざんものなどは出世が出来ません、渡邊殿は別段御贔屓を下さいますが、貴方の伯父御さまの秋月さまは未だ染々しみ/″\お言葉を戴きました事もないゆえ、大藏とうより心懸けて居りますが、手蔓はなし、よんどころなく今日こんにち迄打過ぎましたが、春部様からお声がゝりを願い、秋月様へお目通りを願いまして、おかみへ宜しくお執成とりなしを願いますれば拙者も慾ばかりではござらん、先祖へ対して此の上ない孝道かと存じますで、どうぞ伯父上へ貴方様から宜しく御推挙を願いたい」
梅「いや、それはお前無理だ、よく考えて見なさいお前は何か腕前がいとか文道ぶんどうにも達してるとか、又品格といい応対といい、立派な侍のたねだけあって流石さすがだと家中の評も宜しいが、何ぞ功がなければ出世は出来ん、其の功と云うはひとすぐれた事があるとか、あるいは屋敷に狼藉でも忍入しのびいった時に取押えたとか何かなければとてもいかんが、如何に伯父甥の間柄でも、伯父に頼んで無理にあゝしてくれ、斯うしてくれと云っては依怙えこの沙汰になって、それでは伯父も済まん訳だから、ういう事でわし此処これへ呼び寄せて、お前が馳走をして引立ひきたてを願うと云って、酒などを飲ましてくれちゃ誠に困る、斯様な事が伯父に知れると叱られますから御免……」
 と云い棄てゝ立上る袖を押えて、
大「暫くお待ちを……此の身の出世ばかりでなく、く申す大藏もいさゝかお屋敷へ対して功がござる、それゆえいて願いますわけで」
梅「功が有れば宜しい、何ういう功だ」
大「愚昧ぐまいの者にて何事も分りませんが、お屋敷の御家風は何ういう事でござろうか、罪の軽重けいじゅうを心得ませんが、先ず御家中内に罪あるものがござります時に、重き罪を軽く計らう方が宜しいか、罪は罪だから其の悪事だけの罪に罰するが宜しいか、わたくし心得のために承知をして置きとうござる」
梅「それは罪を犯したる者の次第にもりましょうけれども、かみたる者はしたの者の罪は減じ得られるだけ軽くして、命を助けんければならん」
大「それはうあるべき事で、し貴方の御家来が貴方に対して不忠な事を致しまして、手討に致すべき奴を手討にせんければならん時、手討に致した方が宜しいか、但しお助けなすって門前払いにいたし、ながのおいとまを出された方がお宜しいか」
梅「其様そんな事は云わんでも知れて居る、斬る程の罪を犯し、斬るべきところを助け、永の暇と云っていさゝか手当をいたして暇をつかわす、是が主従しゅうじゅうの情というもので、云うに云われん処が有るのじゃ」

        十七

 大藏は感心したふうをして聞きおわり、
大「成程甚だ恐入りますが、殿様も誠に御仁慈ごじんじ厚く、また御重役方も皆しん智仁ちじんのお方々だという事を承わって居りますが、拙者はな、お屋敷ないに罪あるもので、既にお手討にもなるべき者を助けました事が一廉ひとかどございます、此の廉を以てお執成とりなしを願います」
梅「むゝ、何ういう理由わけで、人は誰だね」
大「えゝとうより此の密書が拙者の手に入って居りますが、余人よじんに見せては相成らんと、貴方の御心中を看破みやぶって申し上げます、どうか罪に陥らんようにお取計いを願いとうござる」
梅「何だ、密書と云えば容易ならん事だ」
 と手に取って見て驚きましたも道理で、いつぞや若江から自分へ贈った艶書であるから、かっと赤面致しましたが、色の白い人があかくなったので、そりアどうも牡丹ぼたんへ電灯をけたように、どうも美しいい男で、暫く下を向いて何も云えません。大藏少し膝を進ませまして、
大「是はわたくしの功かと存じます、此の功によってお引立を願いとう存じます、只出世を致したいばかりではないが、拙者ぜんに津山において親父は二百四十石りました、松蔭大之進の家に生れた侍のたね、唯今ではお目見得已上いじょうと申しても、お通り掛けお目見えで、拙者かたでは尊顔を見上ぐる事も出来ませんから、折々お側へ罷出まかりいでお目通りをし尊顔を見覚えるように相成りたいで」
梅「いや伯父にう云いましょう、秋月に宜く云えば心配有りません、屹度きっと伯父に話をします、貴公の心掛けを誠に感心したから」
大「それは千万かたじけない、其のお言葉は決して反故ほごには相成りますまい」
梅「武士に二言はありません」
大「へえ辱けない」
 春部梅三郎は真っ赤に成って、の文を懐に入れ其の儘表へ駈出すを送り出し、広小路の方へ後姿うしろすがたを見送って、にやりと苦笑いをしたは、松蔭大藏という奴、余程横着者でございます。さて其の歳の暮に春部梅三郎が何ういう執成とりなしを致しましたか、伯父秋月へ話し込むと、秋月が渡邊織江の処へまいりまして相談致すと、もとより推挙致したのは渡邊でございますが、自分は飛鳥山で大藏に恩になって居りますから、片贔屓かたびいきになるようでかえって当人のためにならんからと云って、ひかえ目にして居りますと、秋月の引立で御前体ごぜんてい執成とりなしを致しましたから、急に其の暮松蔭大藏は五十石取になり、御近習ごきんじゅう小納戸こなんど兼勤を仰付けられました。御部屋住おへやずみの前次様のお附き元締兼勤を仰付けられました。此の前次様はぜん申し述べました通り、武張ったお方で武芸に達した者を手許に置きたいというので、御当主へお願いたてでお貰い受けになりましたので、お上邸かみやしきと違ってお長家ながやも広いのを頂戴致す事になり、重役の気受けも宜しく、男がよくって程がいから老女や中老までもめそやし、
○「本当にえらいお人で、手もく書く、力も強く、ひといやへつらうなどと申すが、うでない、真実愛敬のある人で、わたくしが此の間会った時にこれ/\云って、彼は誠の侍でどうも忠義一途いちずの人であります」
 と勤務が堅いからたちまち評判が高くなりました。そこで有助という、根岸にいた時分に使った者を下男に致しまして、新規に林藏りんぞうという男を置きました。これは屋敷奉公に慣れた者を若党に致しましたので、また男ばかりでは不自由だから、何ぞ手許使てもとづかい勝手許かってもとを働く者がなければなりませんから、方々へ周旋を頼んで置きますと、渡邊織江の家来船上忠助ふながみちゅうすけという者の妹おきくというて、もと駒込こまごめ片町かたまちに居り、当時本郷ほんごう春木町はるきちょうにいる木具屋岩吉きぐやいわきちの娘がありました。今年十八で器量はよし柔和ではあり、恩人織江の口入くちいれでありますから、早速其の者を召抱えて使いました。大藏は物事が行届ゆきとゞき、優しくって言葉の内に愛敬があって、家来の麁相そそうなどは知ってもとがめませんから、家来になった者は誠に幸いで、屋敷中の評判が段々高くなって来ました。折しも殿様が御病気で、次第に重くなりました。只今で申しますと心臓病とでも申しますか、どうも宜しくない事がございます。只今ならば空気のい処とか、樹木の沢山あります処を御覧なすったら宜かろうというので、大磯とか箱根とかへおでが出来ますが、其の頃ではうはまいりません。しかるに奥様は松平和泉守まつだいらいずみのかみさまからお輿入こしいれになりましたが、四五年ぜんにお逝去かくれになり、其のまえから居りましたのはおあきという側室めかけで、これは駒込白山はくさんに住む山路宗庵やまじそうあんと申す町医の娘を奥方から勧めて進ぜられたので、其の頃諸侯の側室めかけは奥様から進ぜらるゝ事でございますが、今はういう事はないことで、旦那様が妾を抱えようと仰しゃると、少しつんと遊ばしまして、わたくしは箱根へ湯治にきますとか何とか仰しゃいますが其の頃は固いもので、奥様の方から無理に勧めて置いたお秋様がもうけました若様が、お三歳みっつという時に奥様がお逝去かくれになりましたから、お秋様はお上通かみどおりと成り、お秋の方という。側室めかけが出世をいたしますと、お上通りと成り、方名かたなが附きます。よく殿方が腹は借物かりものだ良いたねおろす、只胤を取るためだと軍鶏しゃもじゃア有るまいし、胤を取るという事はありません造化機論ぞうかきろんを拝見しても解って居りますが、お秋の方は羽振が宜しいから、御家来のうち二派ふたはに分れ、若様の方を贔屓ひいきいたすものと、御舎弟前次様を贔屓いたす者とが出来て、お屋敷に騒動の起ることは本にもあれば義太夫にも作って有ります。前次様は通称を紋之丞さまと仰せられ、武張った方で、少しも色気などは無く、疳癖かんぺきが起るとつか/\/\と物を仰しゃいます。お秋の方も時としてはひどく何か云われる事があり、御家来衆もひどく云われるところから、
甲「紋之丞様を御相続としては御勇気に過ぎて実に困る、あの疳癖ではとても治らん、勇ばかりで治まるわけのものではない、殿様は御病身なれば、万一お逝去かくれになったらお秋殿のお胤の若様を御相続とすればお屋敷は安泰な事である」
 とこそ/\若様附の御家来は相談をいたすとは悪いことでございますが、紋之丞様を無い者に仕ようという、ない者というのは殺してしまうと云うので、昔はよく毒薬を盛るという事がありました。随分お大名にありました話で、只今なればモルヒネなどという劇剤もありますが、其の時分には何か鴆毒ちんどくとか、あるいは舶来の※(「譽」の「言」に代えて「石」、第3水準1-89-15)よせきぐらいのところが、毒のはげしいところです。の松蔭大藏は智慧が有って、一家中の羽振が宜くって、物の決断はよいし、彼を抱込めばいと寺島兵庫と申す重役が、松蔭大藏を抱込むと、松蔭は得たりと請合って、
大「十分事を仕遂しおおせました時には、どうか拙者にこれ/\ののぞみがございますが、おかなえ下さいますか」
寺「委細承知致した、しからば血判を」
大「宜しい」
 と是から血を出し、わが姓名の下へすとはひどい事をしたもので、ちょいと切って、えゝとるので、いやな事であります。只今は血を見る事をお嫌いなさるが、其の頃はやゝともすれば血判だの、とて立行たちゆきが出来んから切腹致すの、武士道が相立たん自殺致すなどと申したもので、寺島松蔭の反逆も悉皆すっぱり下組したぐみの相談が出来て、明和の四年に相成りました。其の年の秋までに謀策たくみ仕遂しおおせるのに一番むずかしいものは、浮舟うきふねという老女で年は五十四で、男優おとこまさりの尋常ひとゝおりならんものがいて居ります。此者これを手に入れんければなりません。此者と物堅い渡邊織江の両人を何うかして手に入れんけりゃアならんが、これ/\と渡邊に打明けていう訳にはいかずと、云えばすぐに殺されるか、刺違えて死兼しにかねぬ忠義無類むるいごく頑固かたくな老爺おやじでございますから、これをいものにせんけりアなりません。

        十八

 老女も中々の才物ではございますが、女だけに遂に大藏の弁舌に説附ときつけられました。此の説附けました事は猥褻わいせつわたりますから、唯説附けたと致しておきましょう。て此の一味の者がいよ/\毒殺という事に決しまして、毒薬調合の工夫は有るまいかと考えて居りますと御案内の通り明和の三年は関東洪水でございまして、四年には山陽道に大水が出て、二年洪水が続き、何処どことなく湿気ますので、季候が不順のところから、流行感冐はやりかぜインフルエンザと申すような悪い病が流行はやって、人が大層死にましたところが、おひかえの前次様も矢張流行感冐にかゝられました処、段々重くなるので、お医者方が種々いろ/\心配して居りますが、勇気のお方ゆえ我慢をなすって押しておいでので[#「おいでなので」の誤記か]いけません、風邪を押損おしそこなったら仕方がない、九段坂を昇ろうとする荷車見たようにあとへもさきへもけません。とうとう藤本の寄席へ材木を押込むような事が出来ます。こゝで大藏がお秋の方の実父山路宗庵は町医でこそあれ、古方家こほうかの上手でありますから、手に手を尽して山路をお抱えになすったら如何いかゞと申す評議になりますと、秋月は忠義な人でございますから、それはしからん事、他から医を入れる事は容易ならん事にて、お薬を一々毒味をして差上げる故に、医は従来のお医者かも無くばさじでも願うが宜いと申して承知致しませんから、如何いかゞ致したら宜かろうと思っていました。すると九月十日に、駒込白山前に小金屋源兵衞こがねやげんべえという飴屋があります、若様のおちいさい時分お咳が出ますと水飴を上げ、又はお風邪でこん/\お咳が出ると水飴を上ります。こゝで神原五郎治かんばらごろうじ神原四郎治かんばらしろうじ兄弟の者と大藏と三人打寄り、ひたえを集め鼎足みつがなわはなしを致しました時に、人を遠ざけ、立聞きを致さんように襖障子を開広あけひろげて、向うから来る人の見えるようにして、飴屋の亭主を呼出しました。
源「えゝ今日こんにちお召によって取敢とりあえまかり出ました、御殿へ出ます心得でありましたが、御当家さまへ出ました」
大「いや/\御殿ではかえって話が出来ん、其の方いつもの係り役人にっても、必らず当家へ来たことを云わんように」
源「へえかしこまりました、此のたびは悪いやまい流行はやり、殿様には続いてお加減がお悪いとか申すことを承わりましたが、如何いかゞで」
大「うん、どうもお咳が出てならん」
源「へえ、へい/\、それははや何とも御心配な儀で……今日召しましたのは何ういう事ですか、何うか飴の御用向でも仰付けられますのでございますか[#「ございますか」は底本では「こざいますか」]
大「神原うじ貴公から発言はつごんされたら宜しゅうござろう」
神「いや拙者は斯ういう事を云い出すははなはだいかん、どうか貴公から願いたい、斯う云う事は松蔭氏に限るね」
大「拙者は誠に困る、えゝ源兵衞、其の方は御当家へ長らく出入でいりをするが、御当家さまを大切に心得ますかえ」
源「へえ決して粗略には心得ません、大切に心得て居ります」
大「ムヽウ、御当家のためを深く其の方が思うなら、江戸表の御家老さま、又此の神原五郎治さま、渡邊さま、此の四郎治さま、拙者は新役の事ではあるが此の事についてはお家のためじゃからと云うので、種々いろ/\御相談があった、始めは拙者にも分りません所があったが、だん/\重役衆の意見を承わって成程と合点がってんがゆき、是はお家のためという事を承知いたしたのだ」
源「へえ、どうもういう事は町人などは何もわきまえのありません事でございまして、へえ何ういう事が御当家さまのお為になりますので」
大「他でもないがかみが長らく御不例でな、お医者も種々いろ/\手を尽されたが、遠からずと云う程の御重症である」
源「へえ何でげすか、余程お悪くいらっしゃいますんで」
大「大きな声をしては云えんが、来月中旬なかばまでは保つまいと医者が申すのじゃ」
源「へえ、どうもそれはおいとしい事で、お目通りは致しませんが、誠に手前も長らく親の代からお出入りを致しまして居りますから、誠に残念な事で」
大「うむ、ついてはかみがお逝去かくれになれば、貴様も知っての通り奥方もお逝去で、御順ごじゅんにまいれば若様をというのだが、まだ御幼年、取ってお四歳よっつである、余りおちいさ過ぎる、しかしおたねだから御家督御相続も仔細はないが、此の事に就て其の方に頼む事があるのだ、お家のためかつ容易ならん事であるから、必ず他言をせん、の様な事でもお家のためには御意ぎょいそむきますまい、という決心を承知せんうちは話も出来ん、此の事に就いては御家老を始め、こゝにござる神原氏我々に至るまで皆血判がしてある、其の方も何ういう事があっても他言はせん、御意に背くまいというしかとした証拠に、是へ血判をいたせ」
源「へえ血判と申しますは何ういたしますので」
大「血で判をするから血判だ」
源「えゝ、それは御免をこうむります、中々町人に腹などが切れるものではございません」
大「いや、腹を切ってくれろというのではない」
源「でもわたくしは見た事がございます、早野勘平はやのかんぺいが血判をいたす時、臓腑を引出しましたが、あれは中々町人には」
大「いや/\腹を切る血判ではない、爪の間をちょいと切って、血がにじんだのを手前の姓名なまえの下へすだけで、痛くもかゆくもない」
源「へえ何うかしてさゝくれや何かをくと血が染みますことが……ちょいと捺せば宜しいので、わたくしは驚きました、勘平の血判かと思いまして、ういう事がお家のおために成ればの様な事でもいたします」
大「手前は小金屋と申すが、苗字は何と申す」
源「へえ、矢張小金と申します」
 と云うを神原四郎治が筆を執りて、料紙へ小金源兵衞と記し、
大「さア、これへ血判をするのだ、血判をした以上は御家老さま始め此のほうと其の方とは親類の間柄じゃのう」
源「へえ恐入ります、誠に有難いことで」
大「のう、何事も打解けた話でなければならん、其の代り事成就なせば向後こうご御出入頭おでいりがしらに取立てお扶持も下さる、ついてはあゝいう処へ置きたくないから、広小路あたりへ五間々口ごけんまぐちぐらいの立派な店を出し、奉公人を多人数たにんず使って、立派な飴屋になるよう、御家老職に願って、金子きんすは多分にりよう、千両までは受合って宜しい」
源「へえ……有難いことで、夢のようでございますな、お家のためと申しても、わたくし風情がなんのお役にも立ちませんが、それでは恐入ります、いえ何様どんな事でも致します、へえ手や指ぐらいは幾許いくら切っても薬さえ附ければじきなおりますから宜しゅうございます、なんの指ぐらいを切りますのは」
 とちょいと其の頃千両からの金子かねを貰って、立派な飴屋になるというので嬉しいから、指の先を切って血判をいたし、
源「何ういう御用で」
大「さ、こゝに薬がある」
源「へえ/\/\」
大「貴様は、水飴を煮るのは余程手間のかゝったものかのう」
源「いえ、それは商売ですからじきに出来ますことで」
大「どうか職人の手に掛けず、貴様一人でかみの召上るものだかられようか」
源「いえ何ういたしまして、年をった職人などは攪廻かきまわしながら水涕みずッぱなたらすこともありますから、決して左様なことは致させません、わたくし如何いかようにも工夫をいたします」
大「それでは此の薬を練込むことは出来るか」
源「へえ是はなんのお薬で」
大「最早血判致したから、何も遠慮をいたすには及ばんが、一大事で、お控えの前次様は御疳癖が強く、やゝもすれば御家来をお手討になさるような事が度々たび/\ある、斯様な方がお世取よとりに成れば、お家の大害だいがい惹出ひきいだすであろう、しかる処幸い前次様は御病気、ことにお咳が出るから、水飴の中へ此の毒薬を入れて毒殺をするので」
源「え……それは御免をこうむります」
大「なんだ、御免を蒙るとは……」
源「何だって、お忍びで王子へ入らっしゃる時にお立寄がありまして、お十三の頃からお目通りを致しました前次様を、何かは存じませんが、わたくしの手からお毒を差上げますことはとても出来ません」
 というと、神原四郎治がキリヽとまなじりつるし上げて膝を進めました。

        十九

神原「これ源兵衞、手前は何のために血判をいたした、容易ならんことだぞ、お家のためで、紋之丞[#「紋之丞」は底本では「紋之亟」]様が御家督に成れば必らずお家の害になることを存じているから、一家中の者が心配して、此の通り役柄をいたす侍が頼むのに、今となっていやだなどと申しても、一大事を聞かせた上は手討にいたすから覚悟いたせ」
源「ど、何卒どうぞ御免を……お手討だけは御勘弁を……」
大「勘弁まかりならん、神原殿がお頼みによって、其の方に申聞もうしきけた、だが今になって違背いはいされては此の儘に差置さしおけんから、只今手討に致す」
源「へえ大変な事で、わたくしは斯様な事とは存じませんでしたが、大変な事になりましたな、一体水飴は私の処では致しませんへえ不得手なんで」
大「其様そんな事を申してもいかん」
源「へえ宜しゅうございます」
 と斬られるくらいならと思って、不承/\に承知致しました。
大「一時遁いっときのがれに請合うけあって、し此の事を御舎弟附の方々かた/\へ内通でもいたすと、貴様のたくへ踏込んで必ず打斬うちきるぞ」
源「へえ/\御念のった事で、是がお薬でございますか、へえ宜しゅうございます」
 とうちへ帰っての毒薬を水飴の中へ入れてって見たが、思うようにいけません、どうしても粉が浮きます、綺麗な処へ※(「譽」の「言」に代えて「石」、第3水準1-89-15)よせきの粉が浮いて居りますので、
源「幾らねってもいけません」
 と此の事を松蔭大藏に申しますから、大藏もどうしたら宜かろうと云うので、大藏のうちへ山路という医者を呼び飴屋と三人打寄って相談をいたしますと、山路の申すには、是は斑猫はんみょうという毒を煮込んだら知れない、しかし是はわしのような町医の手にははいりません、なにより効験きゝめの強いのは和蘭陀おらんだでカンタリスという脊中せなかに縞のある虫で、是は豆の葉に得て居るが、田舎でエゾ虫と申し、斑猫のことで、効験が強いのは煎じ詰めるのがよかろうと申しましたので、なる程それが宜かろうと相談が一決いたし、飴屋の源兵衞と医者の山路を玄関まで送り出そうとする時衝立ついたての蔭に立っていましたのは召使の菊という女中で、これは松蔭が平生へいぜい目を掛けて、行々ゆく/\は貴様の力になってつかわし、親父も年をっているから、何時いつまでも箱屋(芸妓げいしゃの箱屋じゃアありません、木具屋と申して指物さしものを致します)をさせて置きたくない、貴様にはこれ/\手当をしてろうという真実にほだされて、表向ではないが、内々ない/\大藏に身を任して居ります。是は本当に惚れた訳でもなし、金ずくでもなし、変な義理になったので、大藏も好男子いゝおとこでありますが、此の菊は至って堅い性質ゆえ、常々神原や山路が来ては何か大藏と話をしては帰るのを、案じられたものだと苦にしていたのが顔に出ます。今大藏が衝立の蔭に菊のいたのを認めてびっくり致したが、さあらぬていにて、
大「源兵衞、少し待ちな」
 と連戻って、庭口から飴屋を送り出そうとすると、林藏という若党が同じく立って聞いていましたので、再び驚いたが、仕方がないと思い、飴屋を帰してしまったが、大藏は腹のうちで菊は船上忠助のいもとだから、此の事を渡邊に内通をされてはならん、船上は古く渡邊に仕えた家来で、彼奴あいつの妹だから、こりゃア油断がならん、なれども林藏は愚者おろかものだから、林藏から先へ当って調べてみよう。と是から支度を仕替えて、羽織大小での林藏という若党を連れ、買物に出ると云って屋敷を立出たちいで、根津の或る料理茶屋へあがりましたが、其の頃はしゅう家来のけじめが正しく、中々若党が旦那さまの側などへはまいられませんのを、大藏はおれの側へ来いと呼び附けました。
大「林藏、大きに御苦労/\」
林「へえ、何か御用で」
大「いや独酌ひとりで飲んでもうまくないから、貴様と打解けて話をしようと思って」
林「恐入りましてございます、何ともはや御同席では……」
大「いや、席をへだてゝは酒が旨くない」
林「こゝではかえって気が詰りますから、階下したで戴きとう存じます」
大「いや、酒を飲んだり遊ぶ時にはしゅうも家来も共々にせんければいかん、己の苦労する時には手前にも共々に苦労して貰う、これを主従苦楽をともにするというのだ」
林「へえ、恐入ります、手前などは誠に仕合せで、御当家さまへあがりまして、旦那さまは誠に何から何までお慈悲深く、何様どんな不調法が有りましても、お小言もおっしゃらず、斯ういう旦那さまは又とは有りません、手前が仕合しあわせで、此の間も吉村さまの仁介ねすけもおうらやましがっていましたが、わたくしのような不行届ほよきとゞきの者をえ懸けて下さり何ともはや恐入りやす」
大「いや、うでない、貴様ア感心な事には正直律義なり、誠にしゅう思いだのう」
林「いえ、旦那様がえ懸けて下せえますから、お互に思えば思わろゝで、そりゃア尊公あんた当然あたりめえこって」
大「いや/\然うでない、一体貴様の気象を感服している、これ女中、下物さかな此処これへ、又あとで酌をして貰うが、早く家来共の膳を持って来んければならん」
 と林藏の前へも同じような御馳走が出ました。
大「のう林藏、是迄しみ/″\話も出来んであったが、今日きょうは差向いでゆっくり飲もう、まア一盃いっぱいいでやろう」
林「へえ恐入りました、誠ね有難い事で、旦那さまのおさく恐入おそれえります」
大「今日は遠慮せずにやれよ」
林「へえ恐入おそれえりました、ヒエ/\こぼれます/\……有難い事で、お左様なれば頂戴いたします、折角しっかくの事だアから誠にはや有難い事で」
大「今日はいよ、打解けて飲んでくれ、何かの事に遠慮はあっちゃアいかん、心の儘に飲めよ」
林「ヒエ/\有難い事で」
大「さ己が一盃ひとつあいをする」
 とグーと一盃いっぱい飲み、又向うへ差し、林藏を酔わせないと話が出来ません。もっとおろかだからだますには造作もない、お菊は船上忠助の妹ゆえ、渡邊織江へ内通を致しはせんかと、松蔭大藏も実に心配な事でございますから、林藏から先へあざむく趣向でござります。林藏は段々い心持に酔って来ましたので仮名違いの言語ことばで喋ります。
大「遠慮なしに沢山れ」
林「ヒエ有難い事で、大層酩酊めんてい致しやした」
大「いや/\まだ酩酊めいていという程飲みやアせん、貴様は国にも余り親戚みより頼りのないという事を聞いたが、全く左様かえ」
林「ヒエ一人従弟えとこがありやすが、是は死んでしまエたか、生きているかきやたゝんので、今迄何とも音ずれのない処を見ると、死んでしもうたかと思いやす、ぜつにはやから落ちた何とか同様で、心細い身の上でがす」
大「左様か、何うだ別に国に帰りたくもないかえ、御府内へすまって生涯果てたいという志なら、また其の様に目を懸けてやるがのう」
林「ヒエじつこにというたところで、えまになって帰りましたところが、親戚めよりもなし、びつに何う仕ようという目途みあてもないものですから願わくば此の繁盛さかる御府内でまア生涯朽果こちはてれば、おまえ物をべ、面白おもしろえ物を見て暮しますだけ人間ねんげんの徳だと思えやす、ぜつに旦那さまア御当地こちら朽果こちはてたい心は充分えっぱいあります」
大「それは宜しい、それじゃア何うだえ己は親戚みより頼り兄弟も何も無い、誠に心細い身の上だが、まア幸い重役の引立を以て、不相応な大禄を取るようになって、誠にかたじけないが、人は出世をして歓楽のきわまる時は憂いの端緒いとぐちで、何か間違いのあった時には、それ/″\力になる者がなければならない、己が増長をして何か心得違いのあった時には異見を云ってくれる者が無ければならん、そこで中々家来という者は主従の隔てがあって、どうも主人のこゝろに背いて意見をする勇気のないものだが、貴様は何でもずか/\云ってくれる所の気象を看抜みぬいているから、己は貴様と親類になりたいと思うが、何うだ」
林「ヒエ/\恐入おそれえります、勿体至極も……」
大「いや、うでない、只しゅう家来で居ちゃアいかん、己は百石頂戴致す身の上だから、己が生家さとになって貴様を一人前の侍に取立ってやろう、仮令たとえ当家の内でなくとも、の藩中でもあるいは御家人旗下はたもとのような処へでも養子にって、一廉ひとかどの武士に成れば、貴様も己に向って前々まえ/\御高恩を得たから申上ぐるが、それはお宜しくない、斯うなすったら宜かろうと云えるような武士に取立って、多分の持参は附けられんが、相当の支度をしてやるが、何うだ侍になる気はないか」
林「いや、是はどうも勿体ない事でござえます、是はどうもはや、わしの様な者はとてもはや武士ぼしには成れません」
大「そりゃア何ういう訳か」
林「第一でいいち剣術きんじつを知りませんから武士ぼしにはなれましねえ」
大「剣術けんじゅつを知らんでも、文字を心得んでも立派な身分に成れば、それだけの家来を使って、それだけの者に手紙を書かせなどしたら、何も仔細はなかろう」
林「でござえますが、武士ぼしは窮屈ではありませんか、ぜつわしは町人になって商いをして見たいので」
大「町人になりたい、それは造作もない、二三百両もかければ立派に店が出せるだろう」
林「なに、其様そんなにはりませんよ、三拾両一資本ひともとでで、三拾両も有れば立派に店が出せますからな」
大「それは造作ない事じゃ、手前が一軒の主人になって、己が時々往って、林藏一盃いっぱい飲ませろよ、雨が降って来たから傘ア貸せよと我儘を云いたい訳ではないが、年来使った家来が出世をして、其の者から僅かな物でも馳走になるは嬉しいものだ、うまべられるものだ」
林「誠に有難い事で」
大「ま、もう一盃飲め/\」
林「ヒエ大層嬉しいお話で、大分だいぶいました、へえ頂戴いたします、これははや有難いことで……」
大「そこでな、どうも手前と己は主家来の間柄だから別に遠慮はないが、心懸けの悪い女房でも持たれて、いやな顔でもされると己もきにくゝなる、うするとついには主従しゅうじゅうの隔てが出来、不和ふなかになるから、女房の良いのを貴様に持たせたいのう」
林「へえ、女房の良いのは少ねえものでござえます、あの通り立派なお方様でござえますが、森山様でも秋月様でも、お品格といい御器量といい、悪い事はねえが、わし目下めしたの者がめえりますとつんとして馬鹿にする訳もありやしねえが、届かねえ、お茶も下さらんで」
大「それだから云うのだ、此の間から打明けて云おうと思っていたが、うちにいる菊な」
林「ヒエ」
大「あれは手前も知っているだろうが、内々ない/\己が手を附けて、妾同様にして置く者だ」
林「えへゝゝゝ、それは旦那さまア、わしも知らん振でいやすけれども、じつは心得てます」
大「そうだろう、あれはそれ渡邊のうちに勤めている船上のいもとで、己とは年も違っているから、とても己の御新造ごしんぞにする訳にはいかん、不器量ふきりょうでも同役の娘を貰わなければならん、ついてはの菊を手前の女房にろうと思うが、気に入りませんかえ、随分器量もく、心立こゝろだても至極宜しく、髪も結い、裁縫しごとくするよ」
林「ヒエ……冗談ばっかり仰しゃいますな、旦那さまアおからかいなすっちゃア困ります、おけくさんならいのくないのって、から理窟は有りましねえ、彼様あんな優しげなこっぽりとした方は少ねえもんでごぜえますな」
大「あはゝゝ、何だえ、こっぽりと云うのは」
林「頬の処や手や何かの処がこっぽりとして、尻なぞはちま/\としてなあ」
大「ちま/\というのは小さいのか」
林「ヒエ誠にいらいお方さまでごぜえますよ」
大「手前が嫌いなれば仕方がない、気に入ったら手前の女房に遣りたいのう」
林「ひへゝゝゝ御冗談ばかし」
大「冗談ではない、菊が手前をめているよ」
林「もっとも旦那様のお声がゝりで、林藏に世帯しょたいを持たせるが、女房がなくって不自由だから往ってやれと仰しゃって下さればなア……」
大「己が云やアいやというのに極っている何故ならばふすまともにする妾だから、義理にも彼様あんな人はいやでございますと云わなければならん、是は当然だ、手前の処へ幾らきたいと思ってもういうに極ってるわ」

        二十

 林藏はにこ/\いたしまして、
林「成程むゝう」
大「だから、手前さえいときまれば、直接じかに掛合って見ろい、菊に」
林「是は云えません、が悪うてとてもはや冗談は云えませんなうして中々ちま/\としてえて、かてえ気性でござえますから、冗談は云えましねえよ、旦那様がお留主るすの時などは、とっともうねがえ顔をして居なせえまして、うっかり冗談も云えませんよ」
大「云えない事があるものか、じゃア云える工夫をしてやろう、こゝで余った肴を折へ詰めて先へ帰れ、己は神原の小屋に用があるから、手前先へ帰って、旦那さまは神原さまのお小屋で御酒ごしゅが始まって、わしだけ先へ帰りました、これはお土産みやげでございますと云って、折を出して、菊と二人で一盃いっぱい飲めと旦那さまが仰しゃったから、一盃頂戴と斯う云え」
林「成程どうも…しかしおけくさんはわし二人ほたり差向さしもかいでは酒を飲まねえと思いやすよ」
大「それは飲むまい、わたしは酒を飲まんからお部屋へ往って飲めというだろうから、もしう云ったら、旦那様が此処こゝで飲めと仰しゃったのを戴きませんでは、折角のお志を無にするようなものだから、わしは頂戴いたしますと云って、茶の間の菊がいる側の戸棚の下の方を開けると、酒の道具が入っているから、出して小さな徳利とくりへ酒を入れて燗を附け、戸棚に種々いろ/\食物たべものがある、※(「魚+獵のつくり」、第4水準2-93-92)からすみ又は雲丹うにのようなものもあるから、悉皆みんな出してずん/\と飲んで、菊が止めてもくな、然うして無理に菊にあいをしてくれろと云えば、仮令たとえいやでも一盃ぐらいは合をするだろう、飲んだら手前酔ったまぎれに、わしは身を固める事がある、わしは近日の内商人あきんどに成るが、独身ひとりみでは不自由だから、女房になってくれるかと手か何か押えて見ろ」
林「ひえへゝゝ是はどうも面白おもしろえ、やりたいようだが、何分間が悪うて側へ寄附よりつかれません」
大「寄附けようが寄附けまいが、菊が何と云うとも構ったことはない、己は四つの廻りを合図に、庭口からそっと忍び込んで、裏手に待っているから、四つの廻りの拍子木を聞いたら、構わず菊の首玉くびッたまへかじり附け、己が突然だしぬけにがらりと障子を開けて、不義者ぶぎもの見附けた、不義ふぎをいたした者は手討に致さねばならぬのが御家法だ、さ両人ふたりとも手討にいたす」
林「いや、それは御免を……」
大「いやさ本当に斬るのじゃアない、斬るべき奴だが、今迄真実につかえてくれたから、内聞ないぶんにしてつかわし、表向にすれば面倒だによって、ながいとまを遣わす、また菊もそれ程までに思っているなら、町人になれ、侍になることはならんと三十両の他に二十両菊に手当をして、頭のかざり身の廻り残らずる」
林「成程、有難い、どうも是ははや……しかしそれでもいけませんよ、おけくさんが貴方飛んでもない事を仰しゃる、何うしても林藏とわたくしと不義をした覚えはありません、神かけてありません、夫婦に成れと仰しゃっても私はえやでござえます、んなえやな人の女房にはなりませんと云切いいきったら何う致します」
大「うは云わせん、深夜に及んで男女なんにょ差向いでれば、不義でないと云わせんって強情を張れば表向にいたすが何うだ、それとも内聞に致せば命は助けて遣るといえば、命が欲しいから女房になりますと云うだろう」
林「成程、これは恐入おそれえりましたな、成程承知しなければ斬ってしまうか、えのちが惜しいから、そんなればか、どうも是は面白い」
大「これ/\うかれて手を叩くな、下から下婢おんなが来る」
林「ヒエ有難い事で、成程やります」
大「いか、其の積りでいろ」
林「ヒエ、そろ/\帰りましょうか」
大「そんなにせかなくってもい」
林「ヒエ有難い事で」
 と是からそこ/\に致して、余った下物さかなを折に入れて、松蔭大藏は神原の小屋へ参り、此方こちらい心持に折をぶらさげて自分の部屋へ帰ってまいりまして、にこ/\しながら、
林「えゝい、人間ねんげん何処どこで何うおんるか分らねえもんだな、畜生彼方あっちけ、己が折を下げてるもんだから跡をいてやアがる、もこ彼方へけ、もこ/\あはゝゝゝ尻尾しりっぽを振って来やアがる」
下男「いや林藏れんぞう何処へく、なに旦那と一緒えっしょに、うかえ、一盃えっぺいったなア」
林「然うよ」
下男「それははや、左様なら」
林「あはゝゝゝ何だか田舎漢えなかっぺえのいう事はちゃっとも解らねえものだなア、えゝお菊さん只今帰りました」
菊「おや、お帰りかえ、大層お遅いからお案じ申したが、旦那さまは」
林「旦那さまは神原様のお小屋で御酒ごしゅが始まって、手前は先へ帰れと云いましたから、わしだけ帰ってめえりました」
菊「大きに御苦労よ」
林「えゝ、此のお折の中のお肴は旦那様が手前に遣る、けくも不断骨を折ってるから、けくと二人で茶の間で一盃いっぱい飲めよと云うて、此のお肴をこだせえました、どうか此処こゝで旦那さまがいつも召上る御酒をえたゞきてえもんで」
菊「神原さまのお小屋で御酒が始まったら、またお帰りは遅かろうねえ」
林「えゝ、どうもそれは子刻こゝのつになりますか丑刻やつになりますか、様子が分らねえと斯ういう訳で、へえ」
菊「其の折のお肴はお前に上げるから、部屋へて往って、お酒もい程出してゆっくりおたべ」
林「ヒエ……それがうでねえ訳なので」
菊「何をえ」
林「旦那さまの云うにア、手前は茶の間で酒を飲んだ事はあるめえ、料理茶屋で飲ませるのは当然あたりめえの話だが、茶の間で飲ませろのは別段の馳走じゃ、へえ有難い事でござえますと、斯う礼を云ったような理由わけで」
菊「如何いかに旦那さまが然う仰しゃっても、お前がそれをに受けて、お茶の間でお酒を戴いては悪いよ、私は悪いことは云わないからお部屋でおべよ」
林「然うでござえますか、おめえさん此処こゝで飲まねえと折角しっかくの旦那のお心を無にするようなものだ、此の戸棚に何か有りやしょう、お膳や徳利とくりも……」
菊「お前、そんな物を出してはいけないよ」
林「こゝに※(「魚+獵のつくり」、第4水準2-93-92)からすみ雲丹おにがあるだ」
菊「何だよ、其様そんなものを出してはいけないよ、あらまア困るよ、お鉄瓶へお燗徳利を入れてはいけないよ」
林「心配しんぺいしねえでもえ、大丈夫だよ、少し理由わけがあるだ、おけくさん、ま一盃えっぺい飲めなせえ、おまえ今日は平日いつもより別段におつこしいように思われるだね」
菊「何だよ、詰らんお世辞なんぞを云って、早くお部屋へ往って寝ておくれ、お願いだから、跡を片附けて置かなければならないから」
林「ま一盃えっぺい飲めなアよ」
菊「私は飲みたくはないよ」
林「じゃアさくだけして下せえ」
[#「菊」は底本では「林」]「おしゃくかえ、私にかえ、困るねえ、それじゃア一盃切いっぱいぎりだよ、さ……」
林「へえ有難ありがてえ是れは……ひえ頂戴えたしやす……有難え、まアまるで夢見たような話だという事さ、おけくさん本当にお前さん、私が此処こゝへ奉公に来た時から、ほんに思って居るよ」
菊「其様そんなことを云わずに早く彼方あっちへおでよ」
林「う邪魔にせなえでもえが、是でちゃんと縁附えんづくけまっているからね、知らず/\して縁はな物味な物といって、ちゃんときまっているからね」
菊「なんが縁だよ」
林「何でもい、本当ねわし此方こっちゃへ奉公に来た時始めておめえさんのお姿を見て、あゝおつこしい女中しゅだと思えました、斯ういうおつこしい人は何家どけ嫁付かたづいてくか、何ういう人を亭主に持ちおると思ってる内に、旦那さまのお妾さまだと聞きやしたから、よんどころねえと諦らめてるようなものゝ、てもさめてもおまえさんの事を忘れたことアないよ」
菊「冗談をお云いでない、いやらしい、彼方あっちへ往ってお寝よ」
林「きアしない、亥刻よつまではかないよ」
菊「困るよ、其様そんなに何時いつまでもいちゃア、後生だからよ、明日あした又旨い物を上げるから」
林「何うしてお前さんの喰欠こいかけを半分うて見てえと思ってゝも、喰欠こいかけを残した事がねえから、そっ台所だいどこにお膳が洗わずにある時は、洗った振りをしてめて、拭いてしまって置くだよ」
菊「きたないね、私ア嫌だよ」
林「それからね、何うかしてお前さんの肌を見てえと思っても見る事が出来ねえ、すると先達せんだっ前町まえまち風呂屋ほろばが休みで、行水をつかった事がありましたろう、此の時ばかり白い肌が見られると思ってると、悉皆すっかり戸で囲ってのぞく事が出来でけねえ、何うかしてと思ってると、節穴が有ったから覗くと、意地えじの悪い穴よ、はすに上の方へ向いて、戸に大きな釘が出ていて頬辺ほゝぺた掻裂かぎざきイした」
菊「オホヽヽいやだよ」
林「其の時使ったのかって置きたいと思って糠袋のかぶくろをあけて、ちゃんと天日てんぴにかけて、乾かして紙袋かんぶくろに入れて貯っておいて、炊立たきたての飯の上へかけてうだ」
菊「忌だよ、穢い」
林「それからつかった湯を飲もうと思ったが、飲切れなくなって、どうも勿体ねえと思ったが、半分程飲めねえ、三日目から腹アくだした」
菊「冗談を云うにも程がある、彼方あちらへお出でよ、忌らしい」
林「おけくさん、もう亥刻よつ[#「亥刻」は底本では「戌刻」]かな」
菊「もうじきに亥刻[#「亥刻」は底本では「戌刻」]だよ」
林「亥刻[#「亥刻」は底本では「戌刻」]ならそろ/\始めねえばなんねえ」
 とだん/\お菊の側へ摺寄すりよりました。

        二十一

 其の時お菊は驚いてかたちを正し、
菊「何をする」
 と云いながら、側にりました烟管きせるにて林藏の頭をちました。
林「あゝいてえ、なんった、呆れて物が云われねえ」
菊「早くお前の部屋へおいでなんぼ私が年がかないと云って、あんまり人を馬鹿にして、さ、出て行っておくれよ、本当に呆れてしまうよ」
林「出てくもかねえもらねえ、えやならえやで訳は分ってる、突然えきなり頭部あたまにやして、本当に呆れてしまう、何だってったよ」
菊「たなくてさ、旦那様のお留守に冗談も程がある、よく考えて御覧、私は旦那さまに別段御贔屓になることも知っていながら、気違じみた真似をして、すぐに出て往っておくれ、お前のような薄穢うすぎたない者の女房にょうぼうに誰がなるものか」
林「薄穢けりアそれでえよ、本当に呆れて物が云われねえ、いやなら何も無理もりに女房になれとは云わねえ、わしの身代が立派れっぱになれば、お前さんよりもっと立派れっぱ女房にょうぼを貰うから、えやならえやで分ってるのに、突然いきなり烟管でにやすてえことがあるか、頭へけずが附いたぞ」
菊「ったって当然あたりまえだ、さっさと部屋へおいで、旦那さまがお帰りになったら申上げるから」
林「旦那様がお帰りになりア此方こっちで云うてひまア出させるぞ」
菊「おや、何で私が……」
林「何もこそらねえ、さっさと暇ア出させるようにわしが云うから、う思って居るがえ」
 と云い放って立上る袖をとらえて引止め、
菊「何ういう理由わけで、まおまちよ」
林「何だねたもとを押えて何うするだ」
菊「私が何でおいとまが出るんだえ、お暇が出るといえば其の理由わけを聞きましょう」
林「エヽイ、くもかねえもらねえ、放さねえかよ、これ放さねえかてえにあれ着物けものが裂けてしまうじゃアねえか、裂けるよ、放さねえか、放しやがれ」
 と林藏はプップと腹を立って庭の方へ出る途端に、チョン/\チョン/\、
○「四ツでござアい」
 と云う廻りの声を合図に、松蔭大藏は裏手の花壇の方からそっ抜足ぬきあしをいたし、此方こちらへまいるに出会いました。
大「林藏じゃアねえか」
林「おや旦那様」
大「林藏出て来ちゃアいかんなア」
林「いかんたってわしにはられませんよ、旦那様、頭へけず出来でけました、こんなににやして何うにも斯うにも、其様そんな薄穢い田舎者えなかものえやだよッて、突然いきなり烟管で殴しました」
大「ウフヽヽヽ菊が……菊が立腹して、ウフヽヽヽったか、それで手前腹を立てゝ出て来たのか」
林「ヒエ左様でござえます」
大「ウム至極もっともだ、少しの間己が呼ぶまで来るな、しかし菊もまだ年がいかないから、死んでもいやだと一度ひとたび断るは女子おなごじょうだ、ま部屋に往って寝ていろ」
林「部屋へってもられませんよ」
大「ま、兎も角彼方あちらけ/\、悪いようにはしないから」
林「ヒエ左様なら御機嫌宜しゅう」
 と林藏がおのれの部屋へ後姿うしろすがたを見送って、
大「えゝーい」
 と大藏はわざと酔った真似をして、雪駄をチャラ/\鳴らして、井筒のうたいを唄いながら玄関へかゝる。お菊は其の足音を存じていますから、すぐに駈出して両手を突き、
菊「お帰り遊ばせ」
大「あい、あゝーどうも誠に酔った」
菊「大層お帰りがお遅うございますから、また神原様でお引留ひきとめで、御迷惑を遊ばしていらっしゃることゝ存じて、先程からお帰りをお待ち申して居りました」
大「いや、どうも無理に酒をしいられ、神原も中々の酒家のみかで、飲まんというのをかずに勧めるには実に困ったが、飯もべずに帰って来たが、さぞ待遠まちどおであったろう」
菊「さ、此方こちらへ入らしってお召換めしかえを遊ばしまし[#「遊ばしまし」は底本では「遊ぱしまし」]
大「あい、衣類きものを着替ようかの」
菊「はい」
 とお菊はすぐ乱箱みだればこの中に入って居ります黄八丈の袷小袖あわせこそでを出して着換させる、しとねが出る、烟草盆が出ます。松蔭大藏は自分の居間へ坐りました。
菊「御酒ごしゅは召上っていらっしゃいましたろうが、御飯ごはんを召上りますか」
大「いや勧めの酒はの幾許いくら飲んでもうまくないので、宅へ帰ると矢張また飲みたくなる、一寸ちょっと一盃いっぱいけんか」
菊「はい、お湯も沸いて居りますし、支度もして置きました」
大「じゃア此処これへ持って来てくれ」
菊「はい畏まりました」
 と勝手を存じていますから、たしなみの物を並べて膳立ぜんだてをいたし、大藏の前へ盃盤はいばんが出ました。お菊は側へまいりまして酌をいたす。大藏はさかずきって飲んでお菊に差す。お菊はあいに半分ぐらいずついやでも飲まなければなりません。
大「はあー……お菊先程林藏が先へ帰ったろう」
菊「はい、何だかも大層飲酔たべよってまいりまして、大変な機嫌でございましたが、もようやだまして部屋へりましたが、あれには余り酒をつかわされますといけませんから、加減をしておつかわし下さいまし」
大「ウム左様か、何か肴の土産を持って参ったか」
菊「はい、種々いろ/\頂戴致しましたが、わたくしいからお前持ってくが宜い、折角下すったのだからと申して皆あれつかわしました」
大「あゝうか、あゝーい心持だ、何処どこで酒を飲むより宅へ帰って気儘に座を崩して、菊の酌で一盃飲むのが一番旨いのう」
菊「貴方また其様そん御容子ごようすいことばかり御意遊ばします、わたくしのような此様こんなはしたない者がお酌をしては、御酒ごしゅもお旨くなかろうかと存じます」
大「いや/\どうも実に旨い、はアー……だがの、菊、酔って云うのではないが表向おもてむき、ま手前は小間使こまづかいの奉公に来た時から、器量と云い、物の云いよう裾捌すそさばき、他々ほか/\の奉公人と違い、自然に備わるひんというものは別だ、実に物堅い屋敷にいながら、仮令たとい己が昇進して、身に余る大禄を頂戴するようなことになれば、尚更慎まねばならん、所がどうも慎み難く、己が酔った紛れに無理を頼んだ時は、手前はいやであったろう、否だろうけれども性来せいらい怜悧りこうの生れ付ゆえ、否だと云ったらば奉公も出来難できにくい、辛く当られるだろうと云うので、ま手前も否々いや/\ながら己の云うことを聞いてくれた処は、りア己も嬉しゅう思うてるぞよ」
菊「貴方また其様そんな事を御意遊ばしまして、あのお話だけは……」
大「いゝえさ誰にも聞かする話ではない、表向でないから、もう一つ役替やくがえでも致したら、内々ない/\は若竹の方でも己が手前に手を付けた事も知っているが、己が若竹へ恩を着せた事が有るから、あれも承知して居り、織江の方でも知って居ながらいさゝかでも申した事はない、手前と己だけの話だが手前はさぞいやだろうと思って可愛相だ」
菊「あなた、なんぞと云うと其様な厭味なことばかり御意遊ばします、これが貴方身を切られる程厭で其様なことが出来ますものではございません」
大「だが手前は己に物を隠すの」
菊「なにわたくしは何も隠した事はございません」
大「いんにゃ隠す、物を隠すというのも畢竟ひっきょう主従しゅうじゅうというへだてがあって、己は旦那様と云われる身分だから、手前の方でも己を主人と思えば、軽卒けいそつ[#「軽卒」は「軽率」の誤記か]の取扱いも出来ず、斯う云ったら悪かろうかと己に物を隠す処が見えると云うのは、船上忠平は手前の兄だ、それが渡邊織江のうちに奉公をしている、其処そこに云うに云われん処があろう」
菊「何を御意遊ばすんだかわたくしには少しも分りません、是迄私は何でも貴方にお隠し申した事はございません」
大「そんなら己から頼みがある、しかし笑ってくれるな、己がくまで手前に迷ったと云うのは真実惚れたからじゃ、己も新役でおかゝえになって間のない身の上で、内妾ないしょう手許てもとへ置いては同役のきこえもあるから、慎まなければならんのだが、其の慎みが出来んという程惚れたせつなるじょうを話すのだが、己は何も御新造ごしんぞのある身の上でないから、行々ゆく/\は話をして表向手前を女房にしたいと思っている」
菊「どうも誠にお嬉しゅうございます」
大「なに嬉しくはあるまい……なに……真に手前嬉しいと思うなら、己に起請きしょうを書いてくれ」
菊「貴方、御冗談ばかり御意遊ばします、起請なんてえ物をわたくしは書いた事はございませんから、何う書くものか存じません」
大「いやさ己の気休めと思って書いてくれ、いやでもあろうがれを持っておれば、菊は斯ういう心である、末々すえ/″\まで己のものと安心をするような姿で、それが情だの、迷ったの、笑ってくれるな」
菊「いゝえ、笑うどころではございませんが、起請などはお止し遊ばせ」
大「ウヽム書けんと云うのか、それじゃア手前の心が疑われるの」
菊「だってわたくしは何もお隠し申すことはありませんし、起請などを書かんでも……」
大「いや反古ほごになっても心嬉しいから書いてくれ、硯箱すゞりばこをこれへ……それ書いてくれ、文面は教えてやる……書かんというと手前の心がうたぐられる、何か手前の心に隠している事が有ろう、うでなければ早く書いてくれ」
菊「はい……」
 とお菊は最前大藏が飴屋の亭主を呼んで、神原四郎治との密談を立聞たちぎゝをしたが、其の事でこれを書かせるのだな、今こゝで書かなければ尚疑われる、兄の勤めている主人方へお屋敷の一大事を内通をする事も出来ん、先方の心の休まるように書いた方が宜かろうと、はずかしそうに筆を執りまして、大藏が教ゆる通りの文面をすら/\書いてやりました。
大「まア待て、待て/\、名を書くのに松蔭と書かれちゃア主人のようだ、何処までも恋の情でいかんければならん、矢張ぷっつけに[#「ぷっつけに」は「ぶっつけに」の誤記か]大藏殿と書け」
菊「貴方のお名を……」
大「ま書け/\、字配りは此処こゝから書け」
 と指を差された処へ筆を当てゝ、ちゃんと書いたのち、自分の名を羞かしそうにきくと書き終り、
菊「あの、起請は神に誓いまして書きますもので、血か何か附けますのですか」
大「なに血は宜しい、手前の自筆なれば別に疑うところもない、あゝ有難い」
 押戴おしいたゞいて巻納まきおさめもう一盃いっぱい。と酒を飲みながら如何いかなることをかたくむらん、続けて三盃さんばいばかり飲みました。
大「あゝ酔った」
菊「大層お色に出ました」
大「殺して居た酒が一時いちじに出ましたが、あの花壇の菊は余程咲いたかの」
菊「余程咲きました、咲乱れて居ります」
大「一寸ちょっと見たいもんだの」
菊「じゃアお雪洞ぼんぼりけましょう」
大「うしてくれ」
菊「お路地のお草履ぞうり此処これにあります、飛石とびいしへおつまずき遊ばすとあぶのうございますよ」
大「おゝい/\/\」
 とよろけながらぶらり/\くのを、危いからお菊もあとから雪洞を提げて外の方へ出ると花壇があります。此の裏手はずっと崖になって、くだると谷中新幡随院しんばんずいいんの墓場此方こちらはお馬場口になって居りますから、人の往来ゆきゝは有りません。
大「菊々」
菊「はい」
大「其処そこへ雪洞を置けよ」
菊「はい置きます」
大「灯火あかりがあっては間が悪いのう」
菊「何を御意あそばします」
大「これ菊、少ししゃがんでくれ」
菊「はい」
 左の手を出して……おふくろ二歳ふたつ三歳みッつの子供を愛するようにお菊の肩の処へ手をかけて、お菊の顔を視詰みつめて居りますから、
菊「あなた、何を遊ばしますの、わたくしは間が悪うございますもの……」
 大藏は四辺あたりを見て油断を見透みすかし、片足げてポーンと雪洞を蹴上けあげましたから転がって、灯火あかりの消えるのを合図にお菊の胸倉をって懐にかくし持ったる合口あいくちを抜く手も見せず、喉笛へプツリーと力に任せて突込つきこむ。
菊「キャー」
 と叫びながら合口のつかを右の手で押え片手で大藏の左の手を押えに掛りまするのを、力に任せて捻倒ねじたおし、乗掛って、
大「ウヽー」
 とこじったから、
菊「ウーン」
 パタリとそれなり息は絶えてしまい、大藏はのりだらけになりました手をお菊の衣類きもので拭きながら、そっと庭伝いに来まして、三尺のしまりのある所を開けて、密っと廻って林藏という若党のいる部屋へまいりました。

        二十二

大「林藏や、林藏寝たか林藏……」
林「誰だえ」
大「己だ、一寸ちょっと開けてくれ」
林「誰だ」
大「己だ、開けてくれ、己だ」
林「いやー旦那さまア」
大「これ/\」
林「何うして此様こんな処へ」
大「静かに/\」
林「ど何ういう事で」
大「静かに……」
林「はい、只今開けます、灯火あかりが消えて居りますから、只今……先刻さっきから種々いろ/\考えて居て一寸ちょっとられません、へえ開けます」
 がら/\/\。
林「先刻の事が気になってねむられませんよ」
大「一緒に来い/\」
林「ひえ/\」
大「手前の手許てもとに小短い脇差で少し切れるのがあるか」
林「ひえ、ござえます」
大「それを差して来い、静かに/\」
 と是れから林藏の手を引いて、足音のしないように花壇のもとまで連れて来まして、
大「これ」
林「ひえ/\」
大「菊は此の通りにして仕舞った」
林「おゝ……これは……どうもお菊さん」
大「これさ、しッ/\……主人の言葉をそむく奴だから捨置き難い、どうか始終は林藏と添わしてやりたいから、段々話をしても肯入きゝいれんから、むを得ずかくの通り致した」
林「ひえゝ、したがまア、殺すと云うはえれえことになりました、可愛相な事をしましたな」
大「いや可愛相てえ事はない、手前は菊の肩を持って未練があるの」
林「未練めれんはありませんが」
大「なアに未練みれんがある」
 と云いながら、やっと突然いきなり林藏の胸倉をとらえますから、
林「何をなさいます」
 と云う所を、押倒しざま林藏が差して居ました小脇差を引抜いて咽笛のどぶえへプツーリ突通つきとおす。
林「ウワー」
 と悶掻もがく所を乗掛って、
大「ウヽーン」
 と突貫つきつらぬく、林藏は苦紛くるしまぎれに柄元つかもとへ手を掛けたなり、
林「ウヽーン」
 と息が止りました。是から大藏は伸上って庭外そとを見ましたが人も来ない様子ゆえ、
大「しめた」
 と大藏は跡へ帰って硯箱を取出して手紙をしたゝめ、是から菊が書いた起請文を取出して、大藏とある大の字の中央まんなかへ(ぼう)を通してね、右方こちらへ木の字を加えて、大藏を林藏と改書なおして、血をべっとりと塗附けて之を懐中し、又々庭へ出て、お菊の懐中を探して見たが、別に掛守かけまもりもない、帯止おびどめほどいて見ますと中にまもりが入っておりますから、其の中へ右の起請をれ、元のように致して置き、が明けるとすぐに之をかしらへ届けました。た有助と云う男に手紙を持たせて、本郷春木町三丁目の指物屋さしものや岩吉方へつかわしましたが、中々大騒おおさわぎで、其の内に検使けんしが到来致しまして、段々死人をあらためますと、自ら死んだように、匕首あいくちを握り詰めたなりで死んで居ります。林藏も刀の柄元を握詰め喉をいておりますから、如何どういう事かと調べになると、大藏の申立もうしたてに、平素つねからおかしいように思って居りましたが、かねて密通を致し居り、痴情のやる方なく情死を致したのかも知れん、何か証拠が有ろうと云うので、懐中ふところから守袋まもりぶくろを取出して見ると、起請文が有りましたから、大藏は小膝をはたうちまして、
大「訝しいと存じて、とがめた時に、露顕したと心得情死を致しましたと見ゆる、不憫ふびんな事を致した、なに死なんでもいものを、あれまでに目を懸けて使うてやったものを」
 などゝ、まことしやかにべて、検使の方は済みましたが、今年五十八になります、指物屋の岩吉が飛んでまいり、船上忠平という二十三になる若党も、織江方から飛んでまいりました。
大「これ/\此処こゝへ通せ、老爺じゞい此処へ入れ」
岩「はい、急にお使つかいでございましたから飛んでめえりました、どうも飛んだことで」
大「誠に何ともはやお気の毒な事で、斯ういう始末じゃ」
岩「はい、どうも此のたびの事ばかりは何ういう事だかわしには一向訳が分りません、貴方様あんたさまへ御奉公に上げましてから、旦那様がお目をかけて下さり、斯ういう着物を、やれ斯ういう帯をとこしらえて戴き、其の上お小遣いまで下さり、それからくしかんざしから足の爪先まで貴方が御心配下さるてえますから、彼様あんな結構な旦那さまをしくじっちゃアならんよ、己は職人の我雑者がさつもので、人の前で碌に口もきかれない人間だが、行々ゆく/\お前をい処へ嫁付かたづけてやると仰しゃったというから、私はそれをたのしんで居りましたが、何ういうわけで林藏殿と悪い事をすると云うは……のう忠平、一つ屋敷にいるから手前は他の仲間衆ちゅうげんしゅうの噂でも聞いていそうなものだったのう」
忠「噂にも聞いた事がございません、そんなれば林藏という男が美男びなんという訳でもなし、の通りの醜男子ぶおとこ、それと斯ういう訳になろうとは合点がまいりません、おとっさん、ねえちいさいうちから妹は其様そんな了簡の女ではないのです、何か是には深い訳があるだろうと思います」
 と互に顔を見合せましたが、親父の岩吉には理由わけが分りませんから、
岩「訳だってわしにはどうも分らん、林藏さんと斯ういう事になろう筈がないと申すは、旦那さま、此の間菊へ一寸ちょっとお暇を下さいました時に、宅へまいりましたから、早く帰んなよ、うしないと旦那様に済まねえよ、親元に何時いつまでもぐず/\して居てはならないと申したら、おとっさん、私はと何か云いにくい事がある様子で、ぐず/\して居ましたが、何方どなたもいらっしゃいませんからお話を致しますが、お父さん、私は浮気じゃアないが、私のような者でも旦那様が別段お目をかけて下さいますよと云いますから、お前を奉公人の内で一番目をかけて下さるのか、然うじゃアないよ、別段に目をかけて下さるの、何ういう事でと聞きましたら、私ア旦那さまのお手が附いたけれども、此の事が知れては旦那様のお身の上にさわるから、お前一人得心で居てくれろと申しますから手前は冥加至極な奴だ、彼様あんい男の殿様のお手が附いて……道理でお屋敷へあがる時から、やれこれ目を掛けて下さると思った、しかほかの奉公人のそねみを受けやアしないかと申しましたが、結構な事だ有難いことだと実は悦んで安心していました、菊も悦んで親へ吹聴致すくらいで、何うして林藏さんと……」
大「こら/\大きな声をしては困りますな、併し岩や恋は思案のほかという諺もあって、是ばかりは解りませんよ、そんならばうちにいて気振けぶりでも有りそうなものだったが、少しも気振を見せない、もっとしゅう家来だから気をつめるところもあり、同じ朋輩同志人目を忍んで密会あいびきをする方が又たのしみと見えて、林藏という者が来た時から、菊がかれに優しくいたす様子、林藏の方でもお菊さん/\としたし工合ぐあいだから、結構な事だと思って居たが、起請まで取交とりかわして心中を仕ようとは思いません、実に憎い奴とは思いながら、誠に不憫な事をして、お前の心になって見れば、立腹するかどはない、お前には誠に気の毒で、忠平どんも未だ年若としわかではあるし、他に兄弟もなく、さぞと察する、斯うして一つ屋敷内やしきうちに居るから、恥入ることだろうと思う、実に気の毒だが、の道ばかりは別だからのう」
忠「へえ、(泣声にて)おとっさんなんたる事になりましたろう、わたくしは旦那様の処へ奉公をして居りましても、他の足軽や仲間共に対して誠に顔向けが出来ません、一人の妹が此様こんな不始末を致し、御当家様へ申訳がありません」
大「いや、仕方がないから、屍体したいのところはすぐに引取ってくれるように」
岩「へえかしこまりました」
 と岩吉も忠平も本当らしいから、仕方がない、お菊の屍骸を引取って、木具屋の岩吉方から野辺の送りをいたしました。九月十三に、渡邊織江は小梅の御中屋敷おなかやしきにて、お客来がござりまして、お召によって出張いたし、お饗応もてなしをいたしましたので、余程も更けましたが、お客の帰った跡の取片付けを下役に申付けまして、自分は御前をさがり、小梅のお屋敷を出ますと、浅草寺あさくさ亥刻よつの鐘が聞えます。全体此の日は船上忠平も供をして参っておったところが、急に渡邊のたくから手紙で、嬢様が少しお癪気しゃくけだと申してまいりました。嬢様の御病気を看病致すには、慣れたものがらんければ不都合ゆえ、織江が忠平に其の手紙を見せまして、先へ忠平を帰しましたから、米藏よねぞうという老僕おやじに提灯を持たして小梅の御中屋敷を立出たちいで、吾妻橋あずまばしを渡って田原町たわらまちから東本願寺へ突当つきあたって右に曲り、それから裏手へまいり、反圃たんぼ海禅寺かいぜんじの前を通りまして山崎町やまざきちょうへ出まして、上野の山内さんないを抜け、谷中門へ出て、直ぐ左へ曲って是から只今角に石屋のあります処から又あとへ少し戻って、細い横町よこちょうを入ると、谷中の瑞林寺ずいりんじという法華寺ほっけでらがあります、今三浦の屋敷へ程近い処まで来ると、突然だしぬけに飛出した怪しげなる奴が、米藏の持った提灯をばっさり切って落す。
米「あっ」
 と驚く、
織「何者だ、うぬ、狼藉ろうぜき……」
 とあと退さがるところを藪蔭からプツーリ繰出した槍先にて、渡邊のひばらを深く突く
織「ムヽーン」
 と倒れて起上ろうとする所を、早く大刀のつかに手をかけると見えましたが抜打ぬきうちに織江の肩先深く切付けたから堪りません。
織「ウヽーム」
 と残念ながら大刀の柄へ手を掛けたまゝ息は絶えました。

        二十三

 渡邊織江が殺されましたのは、子刻こゝのつ少々前で、丁度同じ時刻にの春部梅三郎が若江というお小姓の手をひいて屋敷を駈落致しました。昔は不義はお家の御法度ごはっとなどと云ってお手打になるような事がございました。そんならと申して殿様がお堅いかと思いますと、殿様の方にはお召使が幾人いくたりもあって、何か月に六斎ろくさいずつかわる/″\お勤めがあるなどという権妻ごんさい置散おきちらかして居ながら、家来が不義を致しますと手打にいたさんければならんとは、ちと無理なお話でございますが、其の時分の君臣の権識けんしきたいして違っておりましたもので、若江が懐妊したようだというから、何うしてもこと露顕を致します、ことには春部梅三郎の父が御舎弟様から拝領いたしました小柄こづか紛失ふんじつ致しました。これも表向に届けてはやかましい事であります、此方こなたも心配致している処へ、若江が懐妊したから連れて逃げて下さいというと、そんなら……、と是から両人共身支度をして、小包を抱え、若気の至りとは云いながら、たかも家も捨てゝ、春部梅三郎は二十三歳で、其の時分の二十三は当今のお方のように智慧分別も進んでは居りませんから、落着く先の目途あてもなく、お馬場口から曲って来ると崖のふち柵矢来さくやらいが有りまして、此方こちらは幡随院の崖になって居りまして、此方に細流ながれがあります。此処こゝ川端かわばたと申します。お寺が幾らも並んで居ります。清元の浄瑠璃に、あの川端へ祖師そしさんへなどと申す文句のござりますのは、此の川端にある祖師堂で、此の境内には俳優岩井家代々の墓がございます。っては別に往来ゆきゝもない処で、人目にかゝる気遣いはないからというので、是から合図をして藪蔭へくゞり込み、
若「春部さま」
梅「あい、わしは誠に心配で」
若「わたくしも一生懸命に信心をいたしまして、貴方と御一緒に此の外へ出てしまえば、何様どんな事でも宜しゅうございますけれども、お屋敷にいる内に私がつかまりますと、貴方のお身に及ぶと存じて、本当に私は心配いたしましたが、く入らしって下さいました」
梅「まだ廻りの来る刻限にはちっと早い、さ、これを下りると川端である、柵が古くなっているから、じきに折れるよ、すそをもっと端折はしょらにゃアいかん、危いよ」
若「はい、かしこまりました、貴方宜しゅうございますか」
梅「わしは大丈夫だ、此方こちらへおでなさい」
 と是から二人ともになだれの崖縁がけべりりにかゝると、手拭ですっぽり顔を包み、紺の看板に真鍮巻しんちゅうまきの木刀を差した仲間体ちゅうげんていの男が、手に何か持って立ってる様子、其所そこへ又一人顔を包んだ侍が出て来る。若江春部の両人は忍ぶ身の上ゆえ、怖い恐ろしいも忘れてひのき植込うえごみ一叢ひとむら茂る藪の中へ身を縮め、息をこらしてかくれて居りますと、顔を包んだ侍が大小を落差おとしざしにいたして、尻からげに草履ぞうり穿いたなり、つか/\/\と参り、
大「これ有助」
有「へえ、これをの人に上げてくれと仰しゃるので、へい/\首尾は十分でございましたな」
大「うん、手前は之を持って、かねての通り道灌山どうかんやまくのだ」
有「へい宜しゅうございます、文箱ふばこで」
大「うん、取落さんように致せ、此の柵をけて川を渡るのだ、水の中へ落してはならんぞ」
有「へえ/\大丈夫で」
大「仕損ずるといけんよ」
有「宜しゅうございます」
 と低声こゞえでいうから判然はっきりは分りませんが、怪しい奴と思って居ります内に、の侍はすっといずれへか往ってしまいました。チョンチョン/\/\。
廻「丑刻やつでございます」
 と云う廻りの声にて、先の仲間体の男は驚き慌てゝ柵をくゞって出る。春部は浮気をして情婦おんなを連れ逃げる身の上ではありますが、一体忠義の人でございますから、屋敷内に怪しい奴が忍び込むは盗賊か何だか分りませんから、
梅「曲者くせもの待て」
 と云いながら領上えりがみとらえる。曲者は無理に振払おうとするはずみに文箱ふばこの太い紐に手をかけ、此方こなたは取ろうとする、の者は取られまいとする、引合うはずみにぶつりと封じは切れて、文箱のふたもろともに落たる密書、曲者はこれを取られてはならんと一生懸命に取返しにかゝる、るまいと争う機みに、何ういう拍子か手紙のなかば引裂ひっさいて、ずんと力足ちからあしを踏むと、男はころ/\/\とーんと幡随院の崖縁がけべりへ転がり落ちました。其の時耳近く。
廻「つでございまアす」
 と云う廻りの声に驚き引裂ひきさいた手紙を懐中して、春部梅三郎は若江の手を取って柵を押分け、身体を横にいたし、ようようの事で此処こゝを出て、川を渡り、一生懸命にとっとゝ団子坂だんござかの方へ逃げて、それから白山通はくさんどおりへ出まして、駕籠かごを雇い板橋いたばしへ一泊して、翌日出立しゅったつを致そうと思いますと、秋雨あきさめ大降おおぶりに降り出してまいって、出立をいたす事が出来ませんから、仕方なしに正午過ひるすぎまで待って居りまして、午飯ひるはんたべるとたちまちに空が晴れて来ましたから、
梅「どうか此宿こゝを出る所だけは駕籠に仕よう」
 と駕籠で大宮までまいりますと、もう人に顔を見られても気遣いはないと、駕籠をよして互に手を引合い、漸々だん/\大宮の宿しゅくを離れて、桶川おけがわを通り過ぎ、こうの手前の左は桑畠で、右手の方は杉山の林になって居ります処までまいりました。御案内の通り大宮から鴻の巣までの道程みちのりは六里ばかりでございます。此処こゝまで来ると若江はしゃがんだまゝ立ちません。
梅「何うした、足を痛めたのか」
若「いえ痛めやア致しませんが、只一体に痛くなりました、一体に草臥くたびれたので、もゝがすくんでちっとも歩けません」
梅「歩けないと云われては誠に困るね、急いでかんければなりません」
若「もけません、ようよう此処まで我慢して歩いて来ましたので、わたくし此様こんなに歩いた事はないものですから、う何うしてもけません」
梅「けませんたって…誠に子供のようなことを云っているから困りますな、是からわしの家来のうちへでも往くならまだしも、お前の親のもとへ往って、詫言わびごとをして、しばらく置いて貰わなければなりません、それだのにお前が其処そこで草臥れたと云ってかゞんで、気楽な事を云ってる場合ではありません」
若「わたくしも実に心配ですが、どうも歩けませんもの、もう少しお駕籠をお雇い遊ばすと宜しゅうございましたのに」
梅「其様そんなことを云ったって、今時分こゝらに駕籠はありませんよ、それでなくともなりはすっかり変えても、頭髪あたまふうが悪いから、頭巾を被っても自然と知れます、誠に困りました」
若「困るたって、どうも歩けませんもの」
梅「歩けんと云って、そうして居ては……」
若「少しおぶって下さいませんか」
梅「何うしてわしも草臥れています」
 先の方へぽく/\く人が、うしろ振反ふりかえって見るようだが、暗いので分らん。
梅「えゝもし……其処そこにおいでのお方」
男「はっ……あーびっくりした、はあーえら魂消たまげやした、あゝおっかねえ……何かぽく/\くれえ物が居ると思ったが、こけえらはむじなの出る処だから」
若「あれまア、いやな、怖いこと……」
男「まだ誰か居るかの……」
梅「いえ決して心配な者ではありません、拙者は旅の者でござるが、足弱連あしよわづれで難儀致してるので、駕籠を雇いたいと存ずるが、此の辺に駕籠はありますまいか、うして鴻の巣まではまだの位ありましょう、それに其方そなたは御近辺のお方か、但し御道中のお人か」
男「わしは鴻の巣までけえるものでござえますが、駕籠を雇ってあとけえっても、十四五丁へいらねえばなんねえが、う少しけば鴻の巣だ、五丁半べえの処だアから、同伴つれでもえて、まアね少しはまぎれるだ、私もおっかねえと思って、年いってるが臆病でありやすから、追剥おいはぎでも出るか、狸でも出たら何うしべえかと考え/\来たから、実に魂消たね、飛上ったね、いまだにどう/\胸が鳴ってるだ……見れば大小を差しているようだ、お侍さんだな、どうか一緒に連れて歩いてくだせえ、私も鴻の巣までめえるもので」
梅「それは幸いな事で、しからば御同伴ごどうはんを願いたい」
男「えゝ…こゝでまんまア喰う訳にはまいりやせん、お飯を喰えって」
梅「いえ、御同道ごどうどうをしたいので」
男「アハヽヽヽ一緒にくという事か、じゃア、御一緒にめえりますべえ……草臥れて歩けねえというのは此のねえさんかね、それは困ったんべえ、江戸者ちゅう者は歩きつけねえから旅へ出ると意気地いくじはねえ、わしも宿屋にいますが、時々客人が肉刺まめエ踏出して、吹売ふきがら糊付板のりつけいたを持ってうてえから、いつでも糊板を持って行くだが、足の皮がやっこいだからね、お待ちなせえ、私ア独り歩くと怖えから、提灯をけねえで此の通りぶらさげているだ。同伴つれが殖えたから点けやすべえ」
梅「お提灯は拙者が持ちましょう」
男「わし此処こゝ懐中附木かいちゅうつけぎを持ってる、江戸見物に行った時に山下で買ったゞが、赤い長太郎玉ちょうたろうだまあれと一緒に買っただが、附木だって紙っきれだよ、火絮ほくちがあるから造作もねえ、松の蔭へはいらねえじゃア風がえら来るから」
 と幾度もかち/\やったが付きません。
男「これは中々点かねえもんだね、いしが丸くなってしまって、それに火絮が湿ってるだから……やっとの事で点いただ、これでこの紙の附木に付けるだ、それ能く点くべい、えら硫黄臭いが、硫黄でこしれえた紙だと見える、南風でも北風でも消えねえって自慢して売るだ、点けてしまったあとは、手でおせえて置けば何日いつでも御重宝ごちょうほうだって」
梅「じゃア拙者が持ちましょう、誠にお提灯は幸いの事で、さ我慢して、五町ばかりだと云うから」
若「はい、有難う存じます」
男「お草臥れかね、えへゝゝゝゝ顔を其方そっちへ向けねえでもい」
 若江は頭巾を被って居りますから田舎者の方では分りませんが、若江の方で見ると、旧来我家わがやに勤めている清藏せいぞうという者ゆえ、嬉しさの余り草臥れも忘れて前へすさり出まして、
若「あれまア清爺せいじいや」
清「へえ……誰だ……誰だ」
若「誰だってまア本当に、頭巾を被っているから分るまいけれども私だよ」
 と云いながらお高祖頭巾こそずきんをとるを見て、
清「こりゃア何とまア魂消たね、何うして……やアこれ阿魔ア……」
梅「何だ阿魔とはしからん、知る人かえ」
若「はい、わたくしの処の親父の存生中ぞんしょうちゅうから奉公して居ります老僕じいやですが、こゝで逢いましたのは誠に幸いな事で」
清「ま、どうして来ただアね、宿下やどさがりの時にアわしは高崎まで行ってゝ留守で逢わなかったが、でかくなったね、今年で十八だって、今日もわれが噂アしてえた処だ、見違みちげえるようになって、何とはア立派な姿だアな、何うして来た、宿下りか」
若「いゝえ、私はまたお前に叱られる事が出来たのだけれども、お母様っかさま詫言わびごとをして、どうか此のお方と一緒にうちへ置いて戴くようにしておくれな」
清「此のお方様てえのは」
 と梅三郎を見まして、
「此のお方様が……貴方は岡田さまか」
梅「えゝ拙者は春部梅三郎と申す者で、以後別懇べっこんに願います」
清「へえ、余り固く云っちゃア己がに分りやせん、ま何ういう訳で、あゝ是は失策しくじりでもして出て、貴方あんたいて参ったか」
梅「いや別にかみへ対して失策しくじりもござらんが、両人とも心得違いをいたし、昨夜屋敷を駈落いたしました」
清「え屋敷を出たア…」
若「此のお方様もお屋敷にられず、わたくし矢張やっぱりられない理由わけになったが、おっかさんは物堅い御気性だから、屹度きっと置かないと仰しゃるだろうが、此のお方も、何処どこへもき所のないお方で、後生だから何日いつまでもうちられるようにしておくれな」
清「むゝう……此の人とわれがと二人ながら屋敷にられねえ事を出来でかして仕様がなく、駈落をして来たな」
若「あゝ」
清「あ……それじゃア何か二人ともにまア不義わるさアして居ただアな、いゝや隠さねえでもい、不義わるさアしたってい、い/\/\能くした、かくなるもんだアな、此間こねえだまで頭ア蝶々見たように結って、まさきやわらっこい葉でピイ/\をこしらえて吹いてたのが、此様こんでかくなって、綺麗な情夫おとこを連れて突走つッぱしって来たか、自分の年いったのは分んねえが、われえかくなったで知れらア、心配しんぺえせねえでもい、おふくろさまが置くも置かねえもねえ、何うしても男と女はわるさアするわけのものだ、心配しんぺえせねえでもい、どうせ聟養子むこようしをせねえばなんねえ、われが死んだとっさまの達者の時分からの馴染なじみで、己が脊中でたり、脊中で小便はり垂れたりした娘子あまっこが、でかくなったゞが、お前さんもまんざらいやならば此様こんな処まで手を引張ふっぱって逃げてめえる気遣きづけえもねえが、宿屋の婿むこになったら何うだ、屎草履くそぞうりを直さねえでもいから」
梅「それは有難い事で、ような事でもいたしますが、拙者は屋敷育ちでとん知己しるべもござらず、前町まえまちに出入町人はございますが、前町の町人どものかたへも参られず、他人ひとの娘をそゝのかしたとお腹立もございましょうが、お手前様から宜しくお詫びを願いたい、し寺へまいるような子供でもあれば、四書五経ぐらいは教えましてもし、何うしても困る時には御厄介にならんよう、人家ひとかどに立ち、うたいを唄い、いさゝかの合力ごうりょくを受けましても自分のたべるだけの事は致す心得」
清「其様そんな事をしねえでもえ、見っともねえ、聟になっておふくろの厄介になりたくねえたって、歌ア唄って表え歩いて合力てえ物を売って歩いて、飴屋見たような事はさせたくねえ、あの頭の上へかごか何かのっけて売って歩くのだろう」
梅「いえ、左様な訳ではございません」
清「うでえにしても其様そんな事は仕ねえがい、そろ/\めえりましょう、提灯を持っておくんなせえ、先へ立って」
若「お前ね、私は嬉しいと思ったら草臥れがけたからいよ」
清「まアぶっされよ」
若「宜いよ」
清「いたってえかくなっていやらしく成ったもんだから、間ア悪がって……早くっされよ、ちいさえうちは大概ていげえわしおぶったんだ、情夫おとこが居るもんだから見えして、われが友達の奥田おくだかね野郎なア立派なわけしゅになったよ、われがと同年おねえどしだが、此の頃じゃア肥手桶こいたごも新しいんでなけりゃかつぎやアがんねえ、其様そんなに世話ア焼かさずにぶっされよ」

        二十四

 鴻の巣の宿屋では女主人おんなあるじが清藏の帰りの遅いのを心配いたして、
母「あの清藏はまだけえりませんかな……何うしたかながえ、他の者を使いにやれば、今までにゃアかえるだに……こら、清藏がけえったようじゃアねえか、けえったらすぐ此処こゝうといえ」
清「へえ、只今往ってめえりました……もし、此の人は何とか云っけ、名は……」
若「春部さま」
清「うん春部梅か成程……梅さん、そこな客座敷は六畳しかないが、客のえらある時にゃア此処へも入れるだが常にア誰も来ねえから、其処そこへいって居な、一旦わびをしねえ内は仕方がねえから……へえ往ってめえりました」
母「あんまなげえじゃアねえか」
清「長えって先方むこうで引留めるだ、まア一盃いっぱい飲んでけと云って、どうか船の利かないところを、おめえの馬に積んで二三けえり廻してくれと云っていたが、まき百把ひゃっぱに二十二三把安いよ」
主「それはかっけな」
清「何よ、それなんに逢いやした、それ…」
母「誰だ」
清「誰だってえかくなって見違みちげえたね、屋敷姿は又別だね、此処こゝを斯ういう塩梅あんばいに曲げて、馬糞受まぐそうけ見たように此処にぺら/\下げて来たっけね、今日のあたまア違って、着物も何だか知んねえ物を着て来たんだ、年い十八じゃアなりでけえな、それ娘のおわかよ、とっさまに似てえるだ」
母「あれまア何処どけえ」
清「六畳に居るだ」
母「あれまア早くそう云えばいじゃアねえか」
清「遅く屋敷を出たゞよ」
母「何か塩梅でも悪くてさがって来たんじゃアあんめえか、それとも朋輩なかま同士揉めでも出来たか、宿下やどさがりか」
清「それがね、お屋敷うちでね、一つ所で働くわッけさむれえがあって、え男よ、其方そっちを掃いてくんろ、わしイ拭くべえていった様な事から手が触り足が触りして、ふと私通くッついたんだ、だん/\聞けば腹アでかくなって赤児ねゝこが出来てみれば、奉公は出来ねえ、そんならばとって男を誘い出して、済みませんから老僕じいや詫言をしてくんろってよ、どうかまアね、本当にいおさむれえだよ」
母「むゝう……じゃア何か情夫いろおとこを連れやアがって駈落いして来たか」
清「うん突走つッぱしって来ただ」
母「それからわれ何処どこへ入れた」
清「何処だって別に入れどこがねえから、新家しんやの六畳の方へ入れてまんまア喰わして置いただ」
母「馬鹿野郎、呆れた奴だよ、何故うちへ引入れた、何故敷居をまたがしたよ、屋敷奉公をしていながら、不義わるさアして走って来るような心得違こころえちがえな奴は、此処こゝから勝手次第に何処どこへでもくがえと小言を云って、何故追出してやらねえ、敷居を跨がして内へ入れる事はねえよ」
清「それはう云ったって仕様がねえ、どうせ年頃の者に固くべえ云ったっていかねえ、おめえだって此処こけえ縁付いて来るのに見合から仕て、婚礼したじゃアねえ、あれを知ってるのはわしばかりだ、十七の時だね、十夜じゅうやの帰りがけにそれ芋畠ずいきばたけに二人立ってたろう」
母「止せ……われまで其様そんなことをいうからあまがいう事をかねえ、宜くかんげえて見ろよ、くまヶ谷石原いしはらの忰をうちへよばる都合になって居るじゃアねえか、親父のいた時から決っているわけじゃアねえか、それが今情夫おとこを連れて逃げて来やアがって、親が得心でかくまって置いたら、石原の舎弟や親達に済むかよ」
清「おゝちげえねえ、是は済まねえ」
母「済まねえだって、われは何もかも知っていながら、あまを連れて来て、足踏みをさせて済むかよ、たった今追出おんだしてしめえ、われ幾歳いくつになる、頭ア禿はげらかしてよ、女親だけに子に甘く、義理人情を考えねえで入れたと、石原へきこえて済むか、汝も一緒に出てけ」
清「わしが色事をしやアしめえし、出される訳はねえ、実ア私もうちへ入れめえとは考えたけれども、おさむれえさんが如何いかにも優しげな人で、色が白いたって彼様あんなのはねえ、私アしろかと思えやした、一体おさむれえなんてえ者は田舎へ来れば、こら百姓……なんて威張るだが、私のような者に手を下げて、心得違こゝろえちげえをして屋敷を出ましたが、他に知って居る者もねえ、かゝさまア腹も立とうが、厄介やっけえにはなりません、稼ぎがあります、何だっけ、えゝ歌ア唄って合力ごうりょくとかいう菓子を売って歩いても世話にならねえから、置いてやって下せえな」
母「だめだよ、さっさと追出せよ」
清「そうおこったって仕様がねえ、出せばどこがねえが、娘子あまっこ情夫おとこおらうちうって連れて来たものを追出おんだすような事になれば、誠に義理も悪い、他にどこはねえ、仕様がねえから男女ふたりで身い投げておっんでしまおうとか、林の中へ入って首でもくゝるべえというような、途方もねえかんげえを起して、とんでもねえ間違まちげえが出来るかも知んねえ、追出おんだせなら追出おんだしもするが、ひょっとおめえらの娘が身い投げても、首を縊ってもわしうらんではなんねえよ、たった今追出おんだすから…」
母「まア、ちょっくら待てよ」
清「なに……」
母「己を連れてって若に逢わせろよ」
清「逢わねえでもかんべえ」
母「いよ、おらたゞ追出おんだす心はねえから、彼奴あいつに逢って頭の二つ三つ殴返はりけえして、小鬢こびんでもむしゃぐって、云うだけの事を云って出すから、連れてって逢わせろよ」
清「それはくねえ、ちっせえ子供じゃアねえし、十七八にもなったものゝ横ぞっぽを打殴ぶんなぐったりしねえで、それより出すは造作もねえ」
母「まア待てよ…打叩うちたゝきは兎も角も、むすめは憎くて置かれねえ奴だが、附いて来たおさむれえさんに義理があるから、己が会って、云うだけの事を云って聞かした其の上で、其の人へ義理だ、あまには草鞋銭わらじせんの少しもくれべえ」
清「うむ、それは沢山たんとるがえ、新家にいるだよ」
 と清藏が先へ駈出してまいり、
清「今此処こけへおふくろが来るよ」
若「おっかさんがおこって何とか仰しゃったかえ」
清「怒るたって怒らねえたって訳が分らねえ、彼様あんなはアかてえ義理を立てる人はねえ、此の前彌次郎やじろううちとり喜八きはちめたっけ、あの時おふくろが義理が立たねえって其の通りの鶏を買ってねえばなんねえと、幾ら探しても、あゝいう毛がねえで困ったよ、あゝいう気象だから、おめえさまも其の積りで、田舎者が分らねえ事をいうと思って、きもいらしちゃアいけねえよ、腹立紛れに何を云うか知んねえ、来た/\、さ此方こっちへお母」
母「あゝ薄暗い座敷だな、行灯あんどんを持って来な……お若/\、此方こっちへ出ろよ、此処こけへ出ろ、う少し出てよ」
 お若は間が悪いから、畳へぴったり手を突いて顔を上げ得ません。附いて来た侍は何様どんな人だか。と横目でじろりと見ながら、自分の方より段々前へ進み出まして
母「お若、今清藏に聞きまして魂消たまげましたぞ、われ情夫おとこを連れて此処こけへ走って来たではねえか、何ともはア云様いいようのねえ親不孝なア奴だ、これ屋敷奉公に出すは何のためだよ、斯ういう田舎にいては行儀作法も覚えられねえ、なれども鴻の巣では家柄の岡本の娘だアから屋敷奉公に上げ、行儀作法も覚えさせたらで、金をかけて奉公に遣ったのに、い事は覚えねえで不義わるさアして、此処こけへ走って来ると云うは何たる心得違こゝろえちげえなア親不孝の阿魔だか、呆れ果てた、われの根性を見限って勘当してくれるから、何処どけへでも出てけ、石原の舎弟に合わす顔がえ、あれが汝の婿だ、去年宿下やどさがりに来た時、石原へ連れて往くのに、先方むこうは田舎育ちの人ゆえ、汝が屋敷奉公をして立派な姿で往くが、先方が木綿ものでいても見下げるな、汝が亭主になる人だよと、何度も云って聞かせ、お父様とっさんが約束して固く極めた処を承知していながら、情夫を連れてめえっちゃア石原へ済まねえ事を知っていながら来るとは、何ともはア魂消てしまった、汝より他に子はねえけれども、義理という二字があって何うしても汝をうちへ置く事は出来ねえ、見限って勘当をするから何処どこへでも出て往くがい、汝は此のお方様に見棄てられて乞食になるとも、首いくゝって死ぬとも、身を投げるとも汝が心がらで、自業自得だ、子のない昔と諦めますから」
 と両眼には一杯涙をうかめて泣いて居りました。

        二十五

 母は心のうちでは不憫でならんが、義理にからんで是非もなく/\わざと声をあらゝげまして、
母「これ若、もう物を云わずさっさと出て往け」
 と云いながら梅三郎に向いまして、
「お前様には始めてお目にかゝりましたが、お立派なお侍さんがんなきたねえ処へお出でなすったくれえだから、どうか此のあまを可愛がって下せえまし、折角此処こゝまで連れて逃げて来たものを、若い内には有りうちの事だ、田舎気質かたぎとは云いながら、頑固かたくなばゞアだ、何の勘弁したってえにとお前様には思うか知んねえけれども、只今申します通り義理があって、どうも此の娘をうちへ置かれませんたった今追出します、名主へも届け、九離きゅうりって勘当します、往処ゆきどこもなし、親戚みより頼りもねえ奴でごぜえますから、見棄てずに女房にして下せえまし、貴方あんたが見棄てゝもわしゃア恨みとも思いませんが、どうかお頼み申します、何や清藏、あのお若を屋敷奉公させてうちへ帰らば、やあらけえ物も着られめえと思って、紬縞つむぎじま手織ておりがえらく出来ている、あんな物が家に残ってるとあとで見てきもれてくねえから、帯もくしこうがいのようなものまで悉皆みんならねえからわれ一風呂敷ひとふろしき引纒ひんまとめて、表へ打棄うっちゃっちまえ」
清「打棄らねえでもかんべい、のう腹ア立とうけれども打棄ったって仕様がねえ」
母「チョッ、分らねえ奴だな、石原の親達へていしても此娘これがに何一つ着せる事ア出来ねえ、そんならと云ってうちに置けばくねえ、憎い親不孝なアあまの着物を見るのはいやだから、打棄うっちゃっちまえと云うだ」
清「打棄らずに取って置いたらかんべい」
母「雨も降りそうになって居るから、合羽に傘に下駄でも何でも、われが心で附けて、此娘これがに遣ることは出来ねえ、憎くって、しかうちに置くことが出来ねえから打棄れというのだ、雨が降りそうになって居るから」
清「うーむうか、打棄るべえ、箪笥たんすごと打棄ってもい、どっちり打棄るだから、誰でも拾ってくが宜い、はアーどうも義理という二字は仕様のねえものだ」
 と立ちにかゝるを引止めて、
梅「ましばらく……清藏どんとやら暫くお待ち下さい、只今親御おやごの仰せられるところ、重々御尤ごもっともの次第で、御尊父御存生ごぞんしょうの時分からお約束の許嫁いいなずけの亭主あることを存ぜず、無理に拙者が若江を連れてまいりましたは、あなたに対しては何とも相済みません、若江はなくなられた親御の恩命にそむき、不孝の上の不孝の上塗うわぬりをせんければならず、拙者は何処どこへもどころはないが、男一人の身の上だから、何処いずくの山の中へまいりましても喰うだけの事は出来ます、お前は此処こゝとゞまって聟を取り、家名相続をせんければならんから、拙者一人できます」
清「ま、お待ちなせえ……そんな義理立ぎりだてえして無闇に往ったっていけねえ、二人で出て来たものが、一人置いておめえさんが往ったらあまくねえ訳だア、く相談してくがい、今草鞋銭をくれると云うから待てよ、えゝぐず/\云っちゃア分らねえ、判然はっきり云えよ、泣きながらでなく……の人ばかり追返おっけえしちゃア義理が済むめえ、色事だって親の方にも義理があるから追返すくれえなら首でもるか、身い投げておっぬというだ」
母「篦棒べらぼう……死ぬなんておどごとを云ったら、母親おふくろが魂消て置くべいかと思って、死ぬなんてえだ、死ぬと云った奴に是迄死んだためしはねえ、さたった今死ね、おれは義理さえ立てばい、われより他に子はねえが、死ぬなんて逆らやアがって、死ぬなら死ね、さ此処こゝに庖丁があるから」
清「止せよー、困ったなア……うむ何うした/\」
 若江は身のあやまりでございますから、一言もないが、心底可愛い梅三郎と別れる気がない、女の狭い心から差込んでまいる癪気しゃくきに閉じられ、
若「ウヽーン」
 と仰向けさまに反返そりかえる。清藏は驚いて抱き起しまして、
清「お前さま帰るなんて云わねえがい、さゝ冷たくなって、歯をくいしばっておっんだ、お前様めえさまあんまり小言を云うからだ……アいたえ、己の頭へ石頭を打附ぶッつけて」
 と若江を抱え起しながら、
清「お若やー……」
母「少しぐらい小言を云われて絶息ひきつけるような根性で、何故んな訳になったんだかなア、いてえ……此方こっちへ顔を出すなよ」
清「おめえだって邪魔だよ、何か薬でもあるか、なに、おめえさま持ってる……むゝう是は巻いてあって仕様がねえ、何だ印籠いんろうか……可笑おかしなものだな、おめえさん此の薬をあまの口んなけっぺし込んで……半分噛んで飲ませろよ、なに間がわりい……横着野郎め」
 梅三郎は間が悪そうに薬をくゝんで飲ませますと、若江はようやくうゝんと気が付きました。
清「気が付いたか」
母「しっかりしろ」
清「大丈夫でえじょうぶだ、あゝゝ魂消たあんまり小言を云わねえがえよ、義理立をして見す/\子を殺すようなことが出来る、もう其様そんなに心配しねえが宜えよ」
若「あのじいや、私はんなわるさをしたから、おっかさまの御立腹は重々御道理ごもっともだが、春部さまを一人でお帰し申しては済まないから、私も一緒に此のお方と出して下さるように、またほとぼりが冷めて、石原の方の片が附いたら、お母さまの処へお詫をする時節もあろうから、一旦御勘当の身となって、一度は私も出して下さるように願っておくれよ」
清「困ったね、往処ゆきどこのねえ人を、お若がうちまで誘い出して来て置かないと云うなら、の人を何うかしてやらなければなんねえ、時節を待って詫言わびごとをするてえが、何うする」
母「われと違ってお義理堅ぎりがてえ殿さまで、とこのねえ者を一人で出てくと仰しゃるは、己がへの義理で仰しゃるだ、憎くて置かれねえ奴だが、此の旦那さまもこんなにお義理堅ぎりがてえから、此の旦那様に免じて当分うちへ置いてくれるから、此処こゝに隠れて[#「隠れて」は底本では「隠ねて」]いるがい」
清「そんなれば早くう云えばいに、あとでそんな事を云うだから駄目だ、石原の子息むすこがぐず/\して居て困る事ができたら、わし殴殺ぶっころしても構わねえ」
 と是から二人は此の六畳の座敷へ足を止める事になりますと、お屋敷の方は打って変って、渡邊織江は非業に死し翌日になって其の旨を届けると、ぐさま検視もり、遂に屍骸しがいを引取って野辺の送りも内証ないしょにて済ませ、是から悪人穿鑿せんさくになり、渡邊織江の長男渡邊祖五郎そごろうが伝記に移ります。

        二十六

 さて其の頃はお屋敷は堅いもので、当主が他人ひとに殺された時には、不憫ふびんだからたかを増してやろうという訳にはまいりません、不束ふつゝかだとか不覚悟だとか申して、おいとまになります。の渡邊織江が切害せつがいされましたのは、明和の四年亥歳いどし九月十三に、谷中瑞林寺の門前で非業な死を遂げました、屍骸を引取って、浅草の田島山たじまさん誓願寺せいがんじへ内葬を致しました。其の時検使に立ちました役人の評議にも、誰が殺したか、織江も手者てしゃだから容易な者に討たれる訳はないが、たくんでした事か、どうも様子が分らん。死屍しがいわきに落ちてありましたのは、春部梅三郎がお小姓若江と密通をいたし、若江から梅三郎へ贈りました文と、小柄こづかが落ちてありましたが、春部梅三郎は人を殺すような性質の者ではない、是も変な訳、何ういう訳で斯様かような文が落ちてあったか頓と手掛りもなく、詰り分らず仕舞でござりました。織江には姉娘あねむすめのお竹と祖五郎という今年十七になるせがれがあって、家督人かとくにんでございます。此者これ愁傷しゅうしょういたしまして、昼は流石さすがに人もまいりますが、夜分はう者もござりませんから、位牌に向って泣いてばかり居りますと、同月どうげつ二十五日の日に、お上屋敷からお呼出しでありますから、祖五郎は早速麻上下あさがみしもで役所へ出ますと、家老寺島兵庫差添さしそえの役人も控えて居り、祖五郎は恐入って平伏して居りますと、
寺島「祖五郎も少し進みますように」
祖「へえ」
寺島「此のたびは織江儀不束の至りである」
祖「はっ」
寺島「仰せ渡されをそれ…」
 差添のお役人が懐から仰せ渡されがき取出とりいだして読上げます。
一其の方父織江儀御用に付き小梅中屋敷へまかり越し帰宅の途中何者とも不知しれず切害被致候段いたされそろだん不覚悟の至りに被思召おぼしめされ無余儀よぎなくなが御暇おいとま差出候さしだしそうろう上は向後こうご江戸お屋敷は不及申もうすにおよばず御領分迄立廻り申さゞる旨被仰出候事おおせいでられそろこと
家老名判
 祖五郎は
「はっ」
 とかしらを下げましたが、心のうちでは、父は殺され、其の上に又此のお屋敷をおいとまになることかと思いますと、年がきませんから、只畳へひたえを摺付けまして、残念の余りこらえかねて男泣きにはら/\/\となみだを落す。御家老は膝を進めて言葉を和らげ、
寺「マヽ役目は是だけじゃが、祖五郎如何いかにもお気の毒なことで、おかゝさまには確か早く別れたから、大概織江殿の手一つで育てられた、其の父が何者かに討たれあまつさえ急にお暇になって見れば、差向さしむき何処どこと云って落着く先に困ろうとお察し申すが、まゝ又其のうちに御帰参のかなう時節もあろうから、余りきな/\思っては宜しくない、心を大きく持って父のあだを報い、本意ほんいを遂げれば、其のかどによって再び帰参を取計らう時節もあろう、いては事を仕損ずるという語を守らんければいかん、年来御懇意にもいたした間、お屋敷近い処にもいまいが、遠く離れた処にいても御不自由な事があったら、内々ない/\で書面をおよこしなさい」
祖「千万せんばん有難う存じます……志摩しま殿、幸五郎こうごろう殿御苦労さまで」
志摩「誠にどうも此のたびは何とも申そうようもない次第で、実にえゝ御尊父さまには一方ひとかたならぬ御懇命ごこんめいを受けました、志摩などは誠にあゝいうお方様がと存じましたくらいで、へえどうか又何ぞ御用に立つ事がありましたら御遠慮なく……此処こゝは役所の事ですから、小屋へ帰りまして仰せ聞けられますように」
祖「千万有難う」
 と仕方なく/\祖五郎はわが小屋へ立帰って、急に諸道具を売払い、奉公人にいとまを出して、弥々いよ/\此処こゝ立退たちのかんければなりません。何処どこと云って便たよって目途あてもございませんが、の若江から春部の処へ送った文が残っていて、春部は家出をしたかどはあるが、春部が父を殺す道理はない、はて分らん事で……確か梅三郎の乳母と云う者は信州の善光寺にいるという事を聞いたが、梅三郎に逢ったら少しは手掛りになる事もあろうと考えまして、前々ぜん/\勤めていた喜六という山出し男は、信州上田の在で、なか条村じょうむらにいるというから、それを訪ねてまいろうと心を決しまして、忠平という名の如く忠実な若党を呼びまして、
祖「忠平手前はちっとも寝ないのう、ちょいと寝なよ」
忠「いえ眠くも何ともございません」
祖「姉様あねさま昨夜ゆうべのう種々いろ/\お話をしたが、屋敷に長くいる訳にもいかんから、此の通り諸道具を引払ってしまった、しかし又再び帰る時節もあろうからと思い、大切な品はごく別懇にいたす出入町人の家へ預けて置いたが、姉様とともに喜六を便たよって信州へ立越たちこえる積りだ、手前も長く奉公してくれたが、親父もの通り追々る年だし、菊はあゝ云う訳になったし、手前だけは別の事だから、こりゃア何の足しにもなるまいが、おとっさまの御不断召ごふだんめしだ、いさゝか心ばかりの品、受けて下さい、是まで段々手前にも宜く勤めて貰い、お父さまがのちも種々骨を折ってくれ、わしは年がかんのに、姉様は何事もお心得がないから何うしていかと誠に心配していたが、万事手前が取仕切ってしてくれ、誠にかたじけない、此品これはほんの志ばかりだ……また時が来て屋敷へ帰ることもあったら、相変らず屋敷へ来て貰いたい、此品これだけを納めて下さい」
忠「へえ誠に有難う……」
竹「手前どうぞ岩吉にも会いたいけれども、立つ時はこっそりと立ちたいと思うから、よく親父にそう云っておくれよ」
 と云われて、忠平は祖五郎とお竹の顔を視詰みつめて居りました。忠平は思い込んだ容子ようすで、
忠「へえ……お嬢さま、わたくしだけはどうかお供仰付け下さいますように願いたいもので、まア斯うやって私も五ヶ年御奉公をいたして居ります、成程親父はる年ですが、まだ中々達者でございます、旦那様には別段に私も御贔屓を戴きましたから、忠平だけはお供をいたし、御道中と申しても若旦那様もお年若、又お嬢様だって旅慣れんでいらっしゃいますから、私がお供をしてまいりませんと、誠にお案じ申します、うちで案じて居りますくらいなら、かえってお供にまいった方が宜しいので、どうかお供を」
竹「それは私も手前に供をして貰えば安心だけれども、親父も得心しまいし、また跡でも困るだろう」
忠「いえ困ると申しても職人も居りますから、何うぞ斯うぞ致して居ります、なまじ親父に会いますと又かく申しますから、立前たちまえに手紙でくわしく云ってやります、どうかわたくしだけはお邪魔でもお供を」
竹「誠に手前の心掛感心なことで……私もって貰いたいというは、祖五郎も此の通りまだ年はかず……しかしそれも気の毒で」
忠「何う致しまして、わたくしの方から願っても、此のたびは是非お供を致そうと存じてるので、どうか願います」
竹「そんなら岩吉を呼んで、く相談ずくの上にしましょう」
忠「いえ相談を致しますと、訳の分らんことを申してとても相談にはなりません、それより立つ前に書面を一本出して、ずっとお供をしてまいっても宜しゅうございます、心配ございません」
 そんならばと申すので、是から段々旅支度をして、いよ/\翌日あした立つという前晩まえばんに、忠平が親父のもとへ手紙をりました。親父の岩吉は碌に読めませんから、他人ひとに読んで貰いましたが、驚いて渡邊の小屋へ飛んでまいりました。
岩「お頼ん申します」
忠「どうれ……おやお出でかえ」
岩「うん……手紙が来たからすぐに来た」
忠「ま此方こっちへお出で」
岩「手前てめえ何かお嬢様方のお供をして信州とかへくてえが飛んだ話だ、え飛んだ話じゃアねえか、そんなら其の様にちゃんと己に斯ういう訳でお供を仕なければならぬがと、宜く己に得心させてからくがい、ふいと黙って立っちまっては大変だと思ったから、遅くなりましてもと御門番へ断って来たんだ、えゝおい」
忠「お供してまいらなければならないんだよ、お嬢様は脾弱ひよわいお体、若旦那さまは未だお年がいかないから、信州までお送り申さなければなりません、お屋敷へ帰る時節があれば結構だが、容易に御帰参は叶うまいと思うが、長々なが/\留守になりますから、お前さんも身をおいといなすって御大切ごたいせつに」
岩「其様そんなことを云ったって仕様がない、己は他に子供はない、お菊と手前てめえばかりだ、ところが菊はんな訳になっちまって、おらアもう五十八だよ」
忠「それは知ってます」
岩「知ってるたって、おれを置いて何処どこかへ行ってしまうと云うじゃアねえか、前の金太きんたの野郎でも達者でいればいが、己も此の頃じゃア眼が悪くなって、思うように難かしい物は指せなくなって居るから困る」
忠「困るって、是非お供をしなくっちゃアなりません」
岩「成らねえたって己を何うする」
忠「私がって来るうち、お前は年をったって丈夫な身体だから死ぬ気遣いはありません」
岩「其様そんな事を云ったって人は老少不定ろうしょうふじょうだ、それもちけえ処ではなし、信州とか何とか五十里も百里もある処へ行くのだ、人間てえものは明日あすも知れねえ、其の己を置いて行くようにく相談してから行け、手紙一本投込んで黙って行っちまっては親不孝じゃアねえか」
忠「それは重々私が悪うございましたが、相談をして又お前に止めたり何かされると困るから……これは武家奉公をすれば当然あたりまえのことで」
岩「なに、武家奉公をすれば当然あたりまえだと、旦那さまが教えたのか」
忠「お教えがなくっても当然あたりまえだよ」
岩「ういうことを手前てめえは云うけれども、親父を棄てゝ田舎へ一緒に行けと若旦那やお嬢様は仰しゃる訳はあるめえ」
忠「それは送れとは仰しゃらんのさ、若旦那様や嬢様の仰しゃるには、る年の親父もあるから、跡に残った方が宜かろう、と云って下すったが、多分にお手当も戴き、形見分けも頂戴し、ことに五ヶ年も奉公した御主人様が零落おちぶれて出るのを見棄てゝはられません、何処どこまでもお供をして、ともに苦労をするのが主従の間だから、悪く思って下さるな」
 と説付ときつけました。

        二十七

 段々訳を聞いても岩吉はまだ腑に落ちんので、
岩「主従はそれで宜かろうが、己を何うする」
忠「屋敷奉公をすりゃア斯ういう場合にはお供をするが当然あたりまえさ、お前さんには済まないが忠義と孝行と両方は出来ません、忠孝まったからずというは此の事さ」
 岩吉にはまだ言葉の意味が分りませんから、怪訝けゞんな顔をして、
岩「なんだア、いやに理窟を云やアがって、手前てめえちけえ処じゃアなし、えおう五十里も百里もある処へ行くものを、まったからずって待たずにられるか」
忠「うじゃアありません、忠義をすれば孝行が出来ないという事です」
岩「それは親に孝行主人に忠義をしろてえ事は己も知っている、講釈や何かで聞いたよ」
忠「それですから孝行と忠義と両方は出来ませんよ」
岩「出来ねえって……骨を折ってやんなよ」
忠「うふゝゝ骨を折ってやれと云ったって出来ませんよ」
岩「手前てめえは生意気に変なことを云って人を困らせるが、己は他に子供が無し、手前たった一人だ、年をった親父を置いて一緒に行けと旦那様が仰しゃりアしめえし、跡へ残れ、可愛相だからと仰しゃるのに、手前の了簡で己を棄てゝ行く気になったんだ、親不孝な野郎め」
忠「なに親不孝ではありませんがね、私は御当家様へ奉公に来て、一文不通いちもんふつうの木具屋のせがれが、今では何うやら斯うやら手紙の一本も書け、十露盤そろばんも覚え、少しは剣術も覚えたのは、皆大旦那のお蔭、今日こんにちの場合にのぞんで年のいかない若旦那様やお嬢様のお供をして行かないと、忠義の道が立ちませんよ」
岩「それは分っているよ」
忠「分っているならって下さいな」
岩「分ってはいるが、己を何うするよ」
忠「其様そんな分らないことを云っては困りますな、何うするたって私が帰るまで待って下さい」
岩「待てねえ、おれア待てねえ(さめ/″\と泣きながら)婆さんが死んでから己ア職人の事で、思うように育てることが出来ねえからってんで、御当家様へ願ったんだ、それは御恩にはなったけれども、旦那様が何も手前てめえを連れてって下さる事アねえ、何うかんげえても」
忠「分らん事をいうね、自分の御恩になった御主人様が斯ういう訳になったからだよ」
岩「何ういう訳に」
忠「他人ひとに殺されておいとまになったんだよ」
岩「お暇……てえのは……お屋敷を出るんだろう」
忠「うさ」
岩「出て……」
忠「分らんね、零落おちぶれてしまうんだよ、御浪人になるんだよ、それだから私がいて行かなければならない、仮令たとえ私が御免をこうむると云ってもお前が己が若ければお供をしてくとこだが、手前てめえ何処どこまでもお供申して御先途ごせんどを見届けなければならんとうのが[#「うのが」は底本では「のが」]当然あたりまえな話だ、其のくらいな覚悟が無ければ、あたまで武家奉公をさせんければいや、うじゃアありませんか、お前さんは屹度きっと野暮やぼに止めるに違いないと思ったから、手紙を上げたんだ、分りませんかえ」
岩「むゝ……分った、むゝう成程さむらいてえものは其様そんなものか……だから最初てんで武家奉公は止そうと思った」
祖「忠平、親父が来たのじゃアないか」
忠「へい、親父がまいりました」
祖「おや/\宜くおいでだ、岩吉はいんな」
岩「御免なせえまし、誠にお力落しさまで……今度急に忰を連れてお出でなさる事になったんで、まゝ是はどうも武家奉公をすれば当然あたりまえのことで、へえわたくしも五十八で」
祖「貴様もる年で親父も困ろうから跡へ残っているがいにと云っても、あれが真実に何処までもいて行ってくれるという、その志を止められもせず、貴様には誠に気の毒でね」
岩「どうも是もまア武家奉公で、へゝゝゝわたくしは五十八でげす」
忠「おとっさん、一つ事ばかり云ってゝ困るね其様そんな事を云うものではない、明日あしたお立だからお餞別はなむけをしなければなりませんよ」
岩「え」
忠「お餞別はなむけをしなさいよ」
岩「なんだ……お花……はげて来たよ」
忠「分らないよ、お餞別せんべつ
岩「え……煎餅せんべいを……なんだ」
忠「旅へ入らっしゃるお土産みやげをよ」
岩「うん/\……なんぞ上げましょう、烟草盆のあつらえがありますから彼品あれを」
忠「其様そんな大きなものはいけない」
岩「じゃア火鉢を一つ」
忠「いけないよ」
岩「それでは何か途中であが金米糖こんぺいとうでも上げましょう、じゃア明日あしたわしが板橋までお送り申しましょう」
祖「そんな事をしないでも宜しい、忙がしい身体だから構わずに」
岩「へえ、忰を何卒どうぞ何分お頼み申します、へゝゝ誠にもうわしは五十八でごぜえます」
 と一つ事ばかり云って、人のい、理由わけの分りません人だから仕方がない。翌朝よくあさ板橋まで送る。下役の銘々めい/\多勢おおぜいぞろ/\と渡邊織江の世話になった者が、祖五郎お竹を送り立派な侍も愛別離苦あいべつりくで別れをおしんで、互に袖を絞り、縁切榎えんきりえのきの手前から別れて岩吉は帰りました。祖五郎お竹等は先ず信州上田の在で中の条村という処へ尋ねてかんければなりません。こゝで話二つに分れまして、の春部梅三郎は、奥の六畳の座敷に小匿こがくれをいたして居り、お屋敷の方へは若江病気について急においとまを戴きたいというねがいを出し、老女のはからいで事なく若江はお暇の事になりましたは御慈悲ごじひでござります。さて此の若江のうち宗桂そうけいというごく感の悪い旅按摩たびあんまがまいりまして、わたくしは中年で眼がつぶれ、誠に難渋いたしますから、どうぞ、御当家様はお客さまが多いことゆえ、療治をさせて戴きたいと頼みますと、慈悲深なさけぶかい母だから、
母「療治は下手だが、うちにいたら追々得意もえるだろう、清藏丹誠をしてやれ」
清「へえ」
 と清藏も根が情深い男だから丹誠をしてやります所から、療治は下手だが、やすいのを売物うりものに客へ頼んで療治をさせるような事になりました。其の歳の十一月二十二日の晩に、母が娘のお若を連れまして、少々用事があって本庄宿ほんじょうじゅくまで参りました。春部梅三郎はくだん隠家かくれがに一人で寝て居り、行灯あんどうを側へ引寄せて、いつぞややしきを出る時に引裂ひきさいたふみは、何事が書いてあったか、事に取紛れて碌々読まなかったが、と取出してなぐさみ半分に繰披くりひらき、なに/\「かねて申合せ候一儀大半成就致し候え共、絹と木綿の綾は取悪とりにくき物ゆえ今晩の内に引裂き、其の代りに此の文を取落しおき候えば、此の花はたちま散果ちりはて可申もうすべくじく其許そこもとさまへつぼみのまゝ差送さしおくり候」はて…分らん…「差送候間御安意ごあんい為め申上候、好文木こうぶんぼくは遠からず枯れ秋の芽出しに相成候事、ことに安心つかまつり候、余は拝面之上※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そう/″\已上いじょう[#「已上」は底本では「己上」]、別して申上候は」…という所から破れて分らんが、これは何の手紙だろう、少しも訳が分らん……どうも此の程から重役の者の内、殊に神原五郎治、四郎治の両人ふたりの者は、どうも心良からん奴だ、御舎弟様のお為にもならん事が毎度ある、伯父秋月は容易に油断をしないから、神原の方へ引込まれるような事もあるまいが、何の文だろう、何者の手跡しゅせきだか頓と分らん、はてな。と何う考えても分りませんから、又巻納めて紙入の間へ挟んで寝ましたが、寝付かれません。其の内に離れて居りますけれども、宿泊人とまりゅうどいびきがぐう/\、往来も大分だいぶ静かになりますと、ボンボーン、ばら/\/\とのきへ当るのはみぞれでも降って来たように寒くなり、襟元から風が入りますので、仰臥あおむけに寝て居りますと、廊下をみしり/\抜足ぬきあしをして来る者があります。廊下伝いになっては居るが、締りが附いていて、別に人の来られないようになって居りますから、
梅「誰が来たろう、清藏ではあるまいか、何だろう」
 とわざねむった振で、ぐう/\と空鼾そらいびきをかいて居りますと、廊下の障子をそっと音のしないように開けて這込はいこむ者を梅三郎が細目をひらいて見ますると、面部を深く包んで、しり端折ぱしょりを致しまして、廊下を這って来て、だん/″\行灯あんどうもとへ近づき、下からふっとあかりを消しました。漸々だん/″\探り寄って春部が仰臥あおむけざまに寝ている鼻の上へ斯う手を当てゝ寝息を伺いました。
梅「す……はてな……何だろうか知ら、気味の悪い奴だ、どうして賊が入ったか、るものもない訳だが……己を殺しにでも来た奴か知らん」
 とそこは若いけれども武家ぶげのことだから頓と油断はしません。眼を細目にいて様子を見て居りますと、布団ふとんの間に挟んであった梅三郎の紙入を取出し、中から引出した一封の破れた手紙をすかして、ひろげて見て押戴おしいたゞ懐中ふところへ入れて、仕すましたり…ときにかゝるすそを、梅三郎うゝんと押えました。

        二十八

 姿は優しゅうございますが、柔術やわらに達した梅三郎に押えられたからたまりません。
曲者「御免なさい」
梅「黙れ……賊だな、さ何処どっから忍び込んだ」
曲者「何卒どうぞ御免なすって」
梅「相成らん……何だ逃げようとして」
 と逆に手を取って押付おさえつけ。
梅「怪しい奴だ、清藏どん、泥坊が入りました。清藏どん/\聞えんか、困ったものだ、清藏どん」
 少し離れた処に寝て居りました清藏が此の声を聞付け、
清「あい、はアー……あい/\……何だとえ、泥坊がへいったとえあれま何うもはア油断のなんねえ、庭伝えにへえったか、なんにしろ暗くって仕様がねえ、店の方へってあかりけて来るから、逃してはなんねえ」
梅「何だ此奴こいつ……動かすものか、これ……灯を早く持って来んかえ」
 清藏は店から雪洞ぼんぼりを点けて参り。
清「泥坊は何処どこに/\」
梅「清藏どん、取押えた、なか/\勝手を知った奴と見えて、廊下伝いに入った、力のある奴だが、柔術やわらの手で押えたら動けん、今暴れそうにしたからうんと一当ひとあてあてたから縛って下さい」
清「よし、此奴こいつ細っこい紐じゃア駄目だ、なに麻縄ほそびきい」
 とぐる/\巻に縛ってしまいました。
曲者「何卒どうぞ御免なすって……実はなんでございます、へえ全くひんの盗みでございますから、何卒御免なすって」
清「貧の盗みなんてえ横着野郎め」
 此のうち下女などが泥坊と聞いて裸蝋燭はだかろうそくなどを持ってまいりました。
清「これもっと此方こっちあかりを出せ、あゝ熱いな、頭の上へ裸蝋燭を出す奴があるかえ、行灯あんどん其方そっち片附かたしちめえ、此の野郎頬被ほっかぶりいしやアがって、何処どこからへいった」
 と手拭をとって曲者の顔を見て驚き、
清「おや、此の按摩ア……われは先月からおらうちへ来て、俄盲にわかめくらで感が悪くって療治が出来ねえと云うから、可愛相だと思って己ア家へ置いてやった宗桂だ、よく見りゃア虚盲そらめくらで眼が明いてるだ、此の狸按摩うぬ、よく人を盲だってだましアがった、感が悪くって泥坊が出来るかえ、此のはッつけめえ」
 と二つばかり続けてちました。
曲「御免なさい、誠にどうも番頭ばんつさん、実ア盲じゃアごぜえません、けれども旅で災難に遭いまして、あとへは帰れず、先へもかれず、仕様が有りませんから、実は喰方くいかたに困って此方こちらはお客が多いから、按摩になってと思いまして入ったんでございますが、漸々だん/\銭が無くなっちまいましたから、江戸へ帰っても借金はあり、と云って故郷こきょうぼうがたく、何うかして帰りてえが、借金方の附くようにと思いまして、ついふら/\と出来心で、へえ、沢山たんと金えるという了簡じゃアごぜえません、貧の盗みでございますから、お見遁みのがしを願います」
清「此の野郎……此奴こいつのいう事ア迂濶うっかり本当にア出来ねえ、嘘をく奴は泥坊のはじまり、う泥坊に成ってるだ此の野郎」
曲「どうか御免なすって」
梅「いや/\手前は貧の盗みと云わせん事がある、貧の盗みなれば何故なぜ紙入れの中の金入れか銭入れを持ってかぬ、何で其の方は書付ばかり盗んだ」
曲「え……これはそのなんでございます、あゝあわてましたから、貧の盗みで一途いちずにそのわたくしは、へえ慌てまして」
梅「黙れ、手前はどうも見たような奴だ、此奴こいつしっかり縛って置き、たゝくじいても其の訳を白状させなければならん、さ何ういう理由わけで此の文をった、手前は屋敷奉公をした奴だろう、谷中の屋敷にいた時分、どうも見掛けたような顔だ……手前は三崎の屋敷にいた事があったろうな」
曲「いえ……どう致しまして、わたくしは麻布十番の者でごぜえます、古河こがに伯父がごぜえまして、道具屋に奉公して居りましたが、つい道楽だもんでげすから、おふくろが死ぬとぐれ出し、伯父の金え持逃げをしたのが始まりで、信州小室こむろぜえに友達が行って居りますから無心を云おうと思いまして参ったのでごぜえますが、途中で災難に遭い、金子かねを……」
梅「いや/\幾ら手前が陳じても、書付を取るというは何か仔細があるに相違ない、清藏どんって御覧、云わなければ了簡がある、真実に貧の盗みなれば金を取らなければならん、書付を取るというはどうも理由わけが分らんから、責めなければならん」
清「さ云えよ、云わねえといてえめをさせるぞ、誰か太っけえ棒を持って来い、かどのそれ六角に削った棒があったっけ、なになげえ…切ってう……うむし…さ野郎、これでつが何うだ」
 と続けちに打ちますと、曲者は泣声を致しまして、
曲「御免なすって、貧の盗みで」
清「貧の盗みなんて生虚なまそらきやアがって、うちへ来た時にわれ何と云った、ちいせえ時に親父が死んで、おふくろの手にかゝっている内に、眼が潰れたって、言うことがみん[#「みんな」は底本では「みなな」]出たらめばかりだ、此の野郎(つ)」
曲「あいた/\/\いとうごぜえやす、どうか御勘弁を…悪い事はふッつりめますから」
清「やめるたって止めねえたって、何で手紙を盗んだ(又つ)」
曲「あ痛うごぜえやす、何う云う訳だって、全く覚えがねえんでごぜえやす、只慌てゝわっしが……」
梅「黙れ、何処までも云わんといえば殺してしまうぞ、此方こっちが先程から此の手紙が分らんと、幾度も読んで考えていたところだ、これは何かかくぶみで、お屋敷の大事と思えば棄置かれん、五分試ごぶだめしにしても云わせるから左様心得ろ…」
 と
「脇差を取って来る間逃げるとならんから」
清「なに縛ってあるから大丈夫だよ」
梅「五分だめしにするが何うだ、云わんければ斯うだ」
 とすっと曲者の眼の先へ短刀みじかいのを突付ける。
曲「あゝあぶのうごぜえやす、鼻の先へ刀を突付けちゃア……どうぞ御勘弁を」
梅「これ、手前が幾ら隠してもいかん事がある、手前は谷中三崎の屋敷で松蔭の宅に居た奴であろうな」
曲「へえ」
梅「もういけん、此書これは松蔭から何者へ送るところの手紙か、又わきから送った手紙か、手前は心得てるか」
曲「へえ」
梅「いやさ、云わんければ手前はなぶごろしにしても云わせなければならん、其の代り云いさえすれば小遣こづかいの少しぐらいは持たしてゆるしてやる」
清「そうだ、早く正直に云って、小遣を貰え、云わなければ殺されるぞ、さ云えてえば(又つ)」
曲「あゝ痛うごぜえます、ああぶのうございます、鼻の先へ……えゝ仕方がないから申上げますが、実はなんでごぜえます、わたくしが主人に頼まれてほかへ持っていく手紙でごぜえます」
梅「むゝ何処どこへ持ってく」
曲「へえ先方さきは分りませんけれども持ってくので」
梅「これ/\先方さきの分らんということがあるか、何処へ……なに、先方が分っている、種々いろ/\な事を云いるの、先方が分ってれば云え」
曲「へえ、そのなんでごぜえます、王子の在におりょうがあるので、その庵室あんしつ見たような所のわきの、ちっとばかりの地面へうちを建てゝ、楽に暮していた風流の隠居さんが有りまして、王子の在へ行って聞きゃアすぐに分るてえますから、実は其処そこいけはた仲町なかちょう光明堂こうみょうどうという筆屋の隠居所だそうで、其家そこにおいでなさる方へ上げればいと云付いいつかって、わたくしが状箱を持ってお馬場口から出ようとすると、今考えれば旦那様で、貴方につかまったので、状箱をられちゃアならんと思いやして一生懸命に引張ひっぱる途端、落ちた手紙を取ろうとする、奪られちゃア大変と争うはずみに引裂ひっさかれたから、屋敷へ帰ることも出来ず、貴方の跡をけて此方こちらへ入ったり影も形も見えず、だん/\聞けば、あのお小姓のおうちだとの事ですから、俄盲にわかめくらだと云って入り込んだのも只其の手紙せえ持ってけばいんで、是を落すとわたくしが殺されたかも知れねえんで」
梅「うん、わかった、いや大略あら/\分りました」
清「大略あら/\ってお前さんの心に大概分ったかえ」
梅「少し屋敷に心当りの者もある、此の書面は其の方の主人松蔭が書いたのか」
曲「いえ……誰が書いたか存じませんが、大切に持ってけよ、落したりなくしたりする事があると斬っちまうと云われてびっくりしたんで、其の代り首尾好く持ってけば、金を二十両貰う約束で」
梅「むゝう……清藏どん、今にが明けてから一詮議ひとせんぎしましょうから、冷飯ひやめしでも喰わして物置へ棒縛りにして入れて置いて下さい」

        二十九

 清藏は曲者を引立ひったてまして、
清「これ野郎立たねえか、今冷飯まんま喰わしてやる、棒縛り程楽なものはねえぞ」
 と是から到頭棒縛りにして物置へ入れて置きました。翌日梅三郎は曲者から取返した書面を出して見ると、再び今一つの裂端きれはしも一緒になっていたので、これ幸いと曲者の持っていた書面と継合つぎあわせて見まして、
梅「中田千早なかだちはや様へ常磐ときわよりと……常磐の二字は松蔭の匿名かくしなに相違ないが、千早と云うが分らん、の下男を縛ってお上屋敷へ連れてこう、それにしても八州の手に掛け、縛って連れてかなければならん」
 と是から物置へまいり、曲者を曳出ひきだそうと思いますと、何時いつ縄脱なわぬけをして、の曲者は逐電致してしまいました。そこで八州の手を頼み、手分てわけをいたして調べましたが、何うしても知れません、なか/\な奴でございます。さて明和の五年のお話で……此の年は余り良い年ではないと見えまして、三月十四に大阪曾根崎新地そねざきしんちの大火で、山城は洪水でございました。続いて鳥羽辺が五月朔日ついたちからの大洪水であった、などという事で、其の年の六月十一日にはお竹橋たけばしらいが落ちて火事が出ました、などと云う余り良い事はございません。二月五日いつか、粂野のお下屋敷では午祭うまゝつり宵祭よみやで大層にぎやかでございます。なれども御舎弟様御不例にきまして、小梅のお中屋敷にいらしって、お下屋敷はひっそり致して居りますが、例年の事で、大して賑かな祭と申す方ではないが、ちら/\町人どもがお庭拝見にまいります。松蔭大藏の家来有助は姿を変え、谷中あたりの職人ていこしらえ、印半纏しるしばんてんを着まして、日の暮々くれ/″\に屋敷へ入込いりこんで、灯火あかりかん前にお稲荷様のそばに設けた囃子屋台はやしやたいの下に隠れている内に、段々日が暮れましたから、町の者は亥刻よつ[#「亥刻」は底本では「戌刻」]になると屋敷内へ入れんように致します。灯火あかりたちまち消しまして静かになりました。是から人の引込ひっこむまでと有助は身をかゞめて居りますと、上野の丑刻やつの鐘がボーン/\と聞える、そっと脱出ぬけだして四辺あたりを見廻すと、仲間衆ちゅうげんしゅうの歩いている様子も無いから、
有「めた」
 とつぶやきながらお馬場口へかゝって、裏手へ廻り、勝手は宜く存じている有助、主人松蔭大藏方へ忍び込んで、縁側の方へ廻って来ると、烟草盆を烟管きせるでぽん/\と叩く音。
有「占めた」
 と云うので有助が雨戸の所を指先でとん/\とん/\と叩きますと、大藏が、
大「今開けるぞ、誰も居らんから心配せんでもい、有助今開けるぞ」
 と云われて有助は驚きました。
有「去年の九月屋敷を出てしまい、それっきり帰らない此の有助が戸を叩いたばかりで、有助とは実に旦那は智慧者ちえしゃだなア…これだから悪い事も善い事も出来るんだ」
 松蔭大藏は寐衣姿ねまきすがたで縁側へまいり、音をさせんように雨戸を開け、雪洞ぼんぼりを差出してすかし見まして、
大「此方こっちへ入れ」
有「へえ、旦那様其のうちは、面もかぶらずのめ/\あがられた義理じゃアごぜえませんが、何うにも斯うにも仕方なしに又お屋敷へけえってまいりました、誠に面目次第もありません」
大「さ、誰も居らんから此方へ入れ/\」
有「へえ/\」
大「構わず入れ」
有「へえ、足が泥ぼっけえで」
大「手拭をやろう、さ、これで拭け」
有「此様こんな綺麗な手拭で足を拭いては勿体ねえようで……さてわたくしも、ぬっとけえられた義理じゃアごぜえませんが、けえらずにもられませんから、一通りお話をして、貴方に斬られるとも追出されるとも、何うでも御了簡に任せようと、斯う思いやして帰ってまいりましたので」
大「彼限あれきりで音沙汰が無いから、何うしたかと実は心配致していた、手前はの手紙を何者かにられたな」
有「へえ、春部に奪られたので、春部の彼奴あいつが若江という小姓と不義いたずらをして逃げたんで、其の逃げる時にお馬場口から柵矢来さくやらいの隙間の巾の広い処から、身体を横にしてわたくしが出ようと思います途端に出会でっくわして、実にどうも困りました」
大「手紙を何うした奪られたか」
有「それがお前さん、鼻をつままれるのも知れねえ深更よふけで、突然いきなり状箱へ手を掛けやアがッたから、奪られちゃアならねえと思いやして、引張ると紐が切れて、手紙がおっこちる、とうとう半分引裂ひっさかれたから、だん/\春部の跡をいてくと、鴻の巣の宿屋へ入りやしたから、感が悪い俄盲ッてんで、按摩に化けて宿屋に入込いりこみ一度は旨く春部の持っていた手紙のきれったが、まんまとそこなって、物置へ棒縛りにして投込まれた、所でようや縄脱なわぬけえして逃出しましたが、近辺にもられやせんから、久しく下総しもふさの方へ隠れていやしたが、春部にあれを奪られて何う致すことも出来やせんので、へえ」
大「いや、それは宜しい、心配致すな、手前は己の家来ということを知るまい」
有「ところが知ってます/\、済まねえけれどもお前さん、ギラ/\するやつをひっこ抜いてわっしの鼻っ先へ突付け云わねえけりゃア五分だめしにしちまう、松蔭の家来だろう、三崎の屋敷に居たろう、顔を知ってるぞ、さア何うだと責められて、つい左様でごぜえますと申しやした」
大「なにそれは云ってもい、の晩には実ア神原もひどい目に遭った、何事も是程の事になったら幾らも失策しくじりはある、丸切まるッきりしくじって、此の屋敷を出てしまったところが、有助貴様も己と根岸に佗住居わびずまいをしていた時を思えば、元々じゃアないか」
有「それはうでごぜえます」
大「彼処あすこに浪人している時分一つ鍋で軍鶏しゃもつッつき合っていたんだからのう」
有「旦那のように然う小言を云わずにおくんなさるだけ、一倍面目無めんぼくのうござえます」
大「だによってる処までやれ、今までの失策しくじりも許し、何もかも許してやる、それに手前此処こゝに居ては都合が悪い、ついては金子かねが二十両有るからこれをやろう」
有「へえ、是は有難うごぜえます」
大「其の代り少し頼みがある、手前小梅のお中屋敷へ忍び込んで、お居間ぢかく踏込み……いや是は手前にア出来ん、夜詰よづめの者も多いが、何かに付けて邪魔になる奴は、の遠山權六だ、あれがどうも邪魔になるて」
有「へえー、あの国にいて米搗こめつきをしてえた、滅法界めっぽうかいに力のある……」
大「うん、彼奴あいつ終夜よどおし廻るというので、何うも邪魔だ」
有「へえー」
大「あれを手前殺して、ふいと家出をしてしまえ、何処どこへでもいから身を隠してくれ」
有「あれは殺せやせん、それはお前さん御無理で、からどうものくれえ無法に力のある奴ア沢山たんと有りません、植木屋が十人もよって動かせねえ石を、ころ/\動かします、天狗見たような奴で、それじゃアお前さんわっしを見殺しにするようなもので」
大「いや、通常たゞじゃアかなわない、だますに手なしだ、あゝいう剛力ごうりきな奴は智慧の足りないもので、それに一体彼奴あいつ侠客気きょうかくぎが有ってのう、人を助けることが好きだ、手前何うかして田圃伝たんぼづたいに行って、田圃の中へ入らなければならんが、彼所あすこにも柵があるから、其の柵矢来の裏手から入って、藪の中にうん/\うなっていろ」
有「わっしがですかえ」
大「うん、藪の中に泥だらけになって呻っていろ」
有「へえ」
大「すると忍び廻りで權六がやって来て何だととがめるから、構わずうん/\呻れ」
有「気味の悪い、そいつア御免をこうむりやす、お金は欲しいが、彼奴あいつの側へ無闇に行くのは危険けんのんです、おのれは何だと押え付けられ、えゝとたれりゃア一打ひとうちで死にやすから」
大「そこが欺すに手なしだ、私は去年の九月松蔭をいとまになりまして、どこがございません、何うかして詫にまいりたいが中々主人は一旦言出すときません、あなたはお国からのお馴染だそうでございますが、貴方が詫言わびごとをして下すったらいやとは云いますまいから、何分お頼み申しますと、斯う手前泣付け」
有「うすりゃア殺しませんか」
大「うん、只手前が悪い事をしたと云って、うん/\呻っていろ、何うして此処こゝへ来たと聞いたら、実はお下屋敷の方へ参られませんから、此方こちらへ参ったのでございます、旅で種々いろ/\難行苦行をして、川をわたり雪にい、みぞれに遭い風にくしけずり、実に難儀を致しましたのが身体へ当って、疝癪せんしゃくが起り、少しも歩けませんからお助け下さいましと云え、すると彼奴あいつは正直だから本当に思って自分のうちへ連れて行って、粥ぐらいは喰わしてくれるから、大きに有難う、お蔭さまで助かりましたと云うと、彼奴が屹度きっと己の処へ詫に来る、もし詫に来たら、あれは使わん、しからん奴だ、これ/\の奴だと手前の悪作妄作あくざもくざを云ってぴったり断る」
有「へえ、それはつまらねえ話で、其様そんな奴なら打殺ぶっころしてしまうってんで…」
大「いや/\大丈夫だ、まア聞け、とてもいかん/\といううちに、段々あじわいを附けて手前の善い所を云うんだ」
有「成程」
大「正直の人間……とも云えないが、働くことは宜く働き、口も八丁手も八丁ぐらいな事は云う、手前を殺さないように、そんなら己のうちへ置くと云ったら幸い、し世話が出来ん出て行けと云ったら仕方が有りませんと泣く/\出れば、小遣いの一分や二分はくれる、それを貰って出てしまった所が元々じゃアないか、もし又首尾好く權六の方へ手前を置いてくれたら、深更よふけに權六の寝間へ踏込んで權六を殺してくれ、また其の前にも己の処へ詫びに来る時にも、すきが有ったら、藪に倒れてゝ歩けない、かついでやろうとか手を引いてやろうとか云った時にも隙があったら、懐から合口あいくちを出してやっちまえ、首尾好く仕遂しおおせれば、神原に話をして手前を士分さむらいに取立てゝやろう、首尾好く殺して、ポンと逃げてしまえ、十分に事成った時には手前を呼戻して三百石のものは有るのう。手前が三百石の侍になれる事だが、どうか工夫をしてって見ろ、もし己のいう事を胡乱うろんと思うなら、書附をやって置いても宜しい、お互に一つ鍋の飯を食い、燗徳利が一本限いっぽんぎりで茶碗酒を半分ずつ飲んだ事もある仲だ、しくじらせる事も出来ずよ、旨くけば此の上なしだ、出来損ねたところが元々じゃアないか」
有「成程……って見ましょうが、の野郎をるのには何か刄物が無ければいけませんな」
大「待てよ、人の目に立たん証拠にならん手前の持ちそうな短刀がある、さ、これをやろう、見掛は悪くっても中々切れる、せき兼吉かねよしだ、やりそくなってはいかんぞ」
有「へえ宜しゅうごぜえます」
大「闇の晩がいの」
有「闇の晩、へえ/\」
大「小遣をやるから手前今晩のうち屋敷を出てしまえ」
有「へえ」
 と金と短刀を受取って、お馬場口から出てきました。

        三十

 さて二のうまも済みまして、二月の末になりまして、大きに暖気に相成りました。御舎弟紋之丞様は大した御病気ではないが、如何いかにも癇がたかぶって居ります。夜詰よづめの御家来も多勢おおぜい附いて居ります、其の中には悪い家来が、くば毒殺をしようか、あるいは縁の下から忍び込んで、殺してしまう目論見もくろみがあると知って、忠義な御家来の注意で、お畳の中へ銅板あかゞねいたを入れて置く事があります。是は将軍様のお居間にはくあることで、これは間違いの無いようにというのと、今一つは湿しっけて宜しくないから、二重に遊ばした方が宜しいと二重畳にして御寝ぎょしんなる事になる。屏風を建廻たてまわして、武張ったお方ゆえ近臣に勇ましい話をさせ昔の太閤たいこうとか、又眞田さなだは斯う云う計略はかりごとを致しました、くすのきは斯うだというようなお話をすると、少しはまぎれておいでゞございます。悪い奴が多いから、庭前にわさきの忍び廻りは遠山權六で、雨が降っても風が吹いても、嵐でも巡廻みまわるのでございます。天気のい時にも草鞋わらじ穿いて、お馬場口や藪の中を歩きます。はかますそ端折はしょって脊割羽織せわりばおりちゃくし、短かいのを差して手頃の棒を持って無提灯むぢょうちんで、だん/\御花壇の方から廻りまして、畠岸はたけぎしの方へついて参りますと、森の一叢ひとむらある一方かた/\業平竹なりひらだけが一杯生えて居ります処で、
男「ウーン、ウーン」
 とうなる声がしますから、權六は怪しんですかして見て、
權「なんだ……呻ってるのは誰だ」
男「へえ、御免下さい、どうかお助けなすって下さいまし」
權「誰だ……暗い藪の中で……」
男「へえ、疝癪せんしゃくが起りまして歩くことが出来ません者で…」
權「誰だ……誰だ」
男「へえ、あなたは遠山様でございますか」
權「何うして己を……われは屋敷の者か」
男「へえ、お屋敷の者でごぜえます」
權「誰だ、判然はっきり分らん、待て/\」
 と懐から手丸提灯てまるぢょうちんを取出し、懐中附木かいちゅうつけぎへ火を移して、蝋燭へ火をともして前へ差出し、
權「誰だ」
男「誠に暫く、御機嫌宜しゅう……だん/″\御出世でお目出度うござえます」
權「誰だ」
有「えゝ、お下屋敷の松蔭大藏様の所に奉公して居りました、有助と申す中間ちゅうげんでござえます」
權「ウンうか、碌に会った事もない、それとも一度か二度会った事があるかも知れんが、忘れた、それにしても何うしたんだ」
有「へえ、あなたはくわしい事を御存じありますめえが、去年の九月少し不首尾な事がありまして、うちへは置かねえとって追出され、中々詫言をしてもかねえと存じまして、友達を頼って田舎へめえりましたところが、間の悪い時にはいけねえもんで、其の友達が災難で牢へ行くことになり、留守居をしながら家内を種々いろ/\世話をしてやりましたが、借金もあるうちですから漸々だん/\行立ゆきたたなくなって、居候どころじゃアごぜえませんから、出てくれろと云われるのは道理もっともと思って出ましたが、ほかに親類身寄もありませんから、詫言をして帰りてえと思いましても、主人はの気象だから、詫びたところが置く気遣きづかいは有りません、種々考えましたが、あなたは確か美作のお国からのお馴染でいらっしゃいますな」
權「うよ」
有「あなたに詫言をして戴こうと斯う思いやして、旅から考えて参りましたところが、中々入れませんで、此の田の中をずぶ/\入って此処こゝ這込はいこみやしたが、久しく喰わずにいたんで腹がいてたまりません、雪に当ったり雨に遭ったりしたのが打って出て、疝癪が起って、つい呻りました、何分にも恐入りますが何うか主人に詫言をお願い申します」
權「むう、余程悪い事をしたな、ゆるすめえ、困ったなア、なに物を喰わねえ」
有「へえ、実は昨日きのう正午ひるから喰いません」
權「じゃア、まくか肯かねえか分らんけれど、話しても見ようし、おまんまは喰わしてやろう」
有「有難うござえます」
權「屋敷へつか/\無沙汰むさたに入って呻ったりしないで、門から入ればいに……何しろう泥だらけじゃア仕方がねえから小屋へ来い」
有「有難うごぜえます」
權「さ行け」
有「貴方ね、疝癪で腰がって歩けません」
權「困った奴だ、何うかして歩け、此の棒をけ」
有「へえ、有難うごぜえます」
權「それしっかりしろ」
有「へえ」
權「提灯を持て」
有「へえ」
 と提灯の光ですかし見ると、去年見たよりもふとりまして立派になり、肩幅が張ってゝ何うも凛々りゝしい男で、怖いから、
有「へえ参ります」
權「さけ」
有「旦那さま、誠に恐入りますが、片方かた/\に杖を突いても、此方こっちの腰が何分ちませんから、左の手をお持ちなすって」
權「世話アやかす奴だな、それつらまれ」
 と右の手を出して、
有「へえ有難う」
 とひょろ/\よろけながら肩へつらまる。
權「しっかりしろい」
有「へえ」
 と云いながら懐よりすらりと短刀を抜いて權六のあばらを目懸けてプツーり突掛けると、早くも身をかわして、
權「此の野郎」
 と其の手を押えました。手首を押えられて有助は身体がしびれて動けません力のある人はひどいもので。しかすぐに役所へ引いてかずに、權六が自分のたくへ引いて来たは、何か深い了簡あってのことゝ見えます。此のお話はしばらきまして、是から信濃国しなのゝくにの上田ざい中の条に居ります、渡邊祖五郎と姉の娘お竹で、お竹は大病たいびょうで、田舎へ来ては勝手が変り、何かにつけて心配勝ち、なきだに病身のお竹、遂に癪の病を引出しました。大した病気ではないが、キヤキヤと始終痛みます。祖五郎も心配致しています所へ手紙が届きました。ひらいて見ますと、神原四郎治からの書状でございます。渡邊祖五郎殿という表書うわがき、只今のように二日目に来るなどという訳にはまいりません。飛脚屋へ出しても十日とおか二十日はつかぐらいずつかゝります。読下よみくだして見ると、
一簡いっかん奉啓上候けいじょうそうろう余寒よかん未難去候得共いまださりがたくそうらえども益々御壮健恐悦至極きょうえつしごく奉存候ぞんじそうろう然者しかれば当屋敷御上おかみ始め重役の銘々少しも異状かわり無之これなく御安意可被下候ごあんいくださるべくそうろうついては昨年九月只今思いだし候ても誠に御気の毒に心得候御尊父を切害せつがい致し候者は春部梅三郎と若江とこれ/\にて目下鴻ノ巣の宿屋にひそよし確かに聞込み候間早々の者を討果うちはたされ候えば親のあだを討たれ候かどを以て御帰参相叶あいかない候様共に尽力可仕候じんりょくつかまつるべくそうろう右の者早々御取押おんとりおさえ有って可然候しかるべくそろ云々しか/\
 と読了よみおわり、飛立つ程の悦び、年若でありますから忠平や姉とも相談して出立する事になりましたが、姉は病気で立つことが出来ません。
祖「もし逃げられてはならん、あなたはあとから続いて、わたくし一人ひとりでまいります」
 と忠平にも姉の事を呉々くれ/″\頼んで、鴻の巣を指して出立致しました。五日目に鴻の巣の岡本に着きましたが、一人旅ではございますが、お武家のことだから宿屋でも大切にして、床の間のある座敷へ通しました。段々様子を見たが、手掛りもありません、宿屋の下婢おんなに聞いたが頓と分りません、
祖「はてな……こゝに隠れていると云うが、まさか人出入ひとではいりの多い座敷に隠れている気遣いはあるまい、此処こゝにいるに相違ない」
 と便所へ行って様子を見廻したが、更に訳が分りません。

        三十一

 渡邊祖五郎はしきりに様子を探りますが、少しも分りません、夜半よなかに客が寝静ねしずまってから廊下で小用こようしながら見ますと、垣根の向うに小家こやが一軒ありました。
祖「はてな……一つ庭のようだが」
 と折戸おりどを開けて、
祖「の家に隠れて居りはしないか」
 と手水場ちょうずば上草履うわぞうりいて庭へり、開戸ひらきを開け、折戸のもとたゝずんで様子を見ますと、本を読んでいる声が聞える。何処どこから手を出して掛金を外すのか、たゞ栓張しんばりを取っていか訳が分りません、脊伸せいのびをして上からさぐって見ると、かんぬきがあるようだが、手が届きません。やがて庭石をわきから持ってまいりまして、手を伸べて閂を右の方へ寄せて、ぐいと開けて中へ入り、まるで泥坊の始末でございます。縁側からそっのぞいて見ますると、障子に人の影が映って居ります。
祖「はてな、此方こっちにいるのは女のような声柄こえがらがいたす」
 と密と障子の腰へ手をかけて細目に明けて、横手から覗いて見ますると、見違える気遣いはない春部梅三郎なれば、
祖「あゝ有難い、神仏かみほとけのお引合せで、はからず親のかたきめぐり逢った」
 と心得ましたから、飛上って障子を引開け、中へ踏込んで身構えに及び、声をあららげ、
祖「実父のかたき覚悟をしろ」
 と叫びましたが、梅三郎の方では祖五郎が来ようとは思いませんから驚きました。
梅「いやこれは/\思い掛ない……斯様かような処でお目にかゝり面目次第もない、まア何ういう事で此方こっちへ」
祖「なんじも立派な武士さむらいだから逃隠にげかくれはいたすまい、なんの遺恨あって父織江を殺害せつがいして屋敷を出た、ことに当家の娘と不義をいたせしは確かに証拠あって知る、汝のもとへ若江から送った艶書が其の場に取落してあったが、よもや汝は人を殺すような人間でないと心得て居ったる処、屋敷から通知によって、確かに汝が父織江を討って立退たちのいたる事を承知致した、くなる上は逃隠れはいたすまいから、届ける処へ届けて尋常に勝負を致せ」
 とつめかけました。
梅「御尤ごもっともでござる、まア/\お心を静められよ、決して拙者逃隠れはいたしません、何も拙者が織江殿に意趣遺恨のある理由わけもなし、何で殺害せつがいをいたしましょうか、其の辺の処をお考え下さい、何者が左様な事を申したか、実に貴方へお目にかゝるのは面目次第もない心得違い、此処こゝへ逃げてまいりまして、当家の世話になって居ります程の身上みのうえの宜しくない拙者ゆえ、何と仰せられても、斯様な事もいたすであろうと、さ人をも殺すかと思召おぼしめしましょうが、何者が……」
祖「エーイ黙れ、確かの証拠あって知る事だ、天命※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)のがれ難い、さすぐにまいれ」
梅「と何ういう事の……」
祖「何ういう事も何もない、父の屍骸しがいかたわらに汝の艶書てがみおとしてあったのが、汝の天命である」
梅「左様なれば拙者打明けて恥を申上げなければ成りませんが、お笑い下さるな、小姓若江と若気の至りとは申しながら、二人ともに家出を致しましたは、昨年の九月十一日ので、あゝ済まん事、旧来御恩を受けながら其のお屋敷を出るとは、誠に不忠不義のことゝ存じたなれども、御拝領の品を失い、ことに若江も妊娠いたし奉公が出来んと申すので、心得違いの至りではあるが、拙者若江を連出し、当家へまいって隠れて居りましたなれども、不義淫奔いたずらをして主家しゅか立退たちのくくらいの不埓者ふらちものでは有りますけれども、お屋敷に対しては忠義を尽したい心得、拙者がお屋敷を逃去にげさる時に……手にりました一封の密書、それを御覧に入れますから、少々お控えを願います、決して逃隠れは致しません、拙者も厄介人やっかいびとのこと、当家を騒がしては母が心配いたしますから、何卒どうぞお静かに此の密書を……如何いかにも若江から拙者へつかわしましたところのふみを其の場所に落して置き、此の梅三郎に其の罪を負わするたくみの密書、織江殿を殺害せつがいいたした者はお屋敷うち他にある考えであります」
祖「ムヽー証拠とあらば見せろ」
梅「御覧下さい」
 と例の手紙を出して祖五郎に渡しました。祖五郎はこれを受取り、ひらいて見ましたところ、頓と文意が分りませんから、祖五郎は威丈高いたけだかになって、
祖「黙れ、何だ斯様かようのものを以て何の云訳いいわけになる、これは何たることだ、綾が取悪とりにくいとか絹を破るとか、あるいは綿を何うとかするとちっとも分らん」
梅「いえ、拙者にも匿名書かくしぶみで其の意味が更に分りませんが、拙者の判断いたしまする所では、お屋敷の一大事と心得ます」
祖「それは何ういう訳」
梅「左様、絹木綿は綾操あやどりにくきものゆえ、今晩のうち引裂ひきさくという事は、御尊父様のお名をかくしたのかと心得ます、渡邊織江のおりというところの縁によって、斯様かような事をいたのでも有りましょうか、此の花と申すは拙者を差した事で、今を春辺はるべと咲くや此の花、という古歌に引掛ひっかけて、梅三郎の名を匿したので、拙者の文を其処そこへ取落して置けば、春部に罪を負わしてのちは、若江に心を懸ける者がお屋敷うちにあると見えます、それを青茎あおじくつぼみまゝ貴殿のもとへ送るというのは若江を取持とりもちいたす約束をいたした事か、好文木こうぶんぼくとは若殿様を指した言葉ではないかと存じますと申すは、お下屋敷を梅の御殿と申しますからの事で、梅の異名いみょうを好文木と申せば、若殿紋之丞様の事ではないかと存じます、お秋の方のお腹の菊之助様をお世嗣よとりに仕ようと申す計策たくみではないかと存ずる、其の際此の密書ふみを中ば引裂ひっさいて逃げましたところの松蔭大藏の下人げにん有助と申す者が、此の密書をられてはと先頃按摩に姿をやつし、当家へ入込いりこみ、一夜あるよ拙者の寝室ねまへ忍び込み、此の密書を盗まんと致しましたところを取押えて棒縛りになし翌朝よくあさ取調ぶる所存にて、物置へ打込んで置きましたら、いつか縄脱なわぬけをして逃去りましたから、しかと調べようもござらんが、常磐ときわというのは全く松蔭の匿名かくしなで大藏の家来有助が頼まれて尾久在おうございへ持ってまいるとまでは調べました、またそれに千早殿としたゝめてあるのは、頓と分りませんが、多分神原の事ではござらんかと拙者考えます、お屋敷の内に斯様な悪人があって御舎弟紋之丞様をうしない、妾腹めかけばらの菊之助様を世に出そうというたくみと知っては棄置すておかれん事、是は拙者の考えで容易に他人ひとに話すべき事ではござらんが、御再考下さるよう……拙者は決して逃隠れはいたしませんが、お互に年来御高恩をこうむった主家しゅかの大事、証拠にもならんような事なれども、お国家老へ是からまいって相談をして見とう存じます、是は貴方一人でも拙者一人でもならんから、両人でまいり、御城代へお話をして御意見を伺おうと存じますが如何いかゞでござる」
 と段々云われると、かねて神原や松蔭はお妾腹附めかけばらづきで、どうも心懸こゝろがけくない奴と、父もしきりに心配いたしていたが、成程うかも知れぬ、それでは棄置かれんと、それから二人が手紙を志すかたへ送りました。祖五郎は又信州上田在中の条にいる姉のもとへも手紙を送る。一度お国表くにおもてへ行って来るとのみしたゝめ、別段細かい事は書きません。さて両人は美作の国を指して発足ほっそくいたしました。此方こちら入違いりちがって祖五郎の跡を追掛おいかけて、姉のお竹が忠平を連れてまいるという、行違ゆきちがいに相成り、お竹が大難だいなんに出合いまするお話に移ります。

        三十二

 祖五郎は前席ぜんせきに述べました通り、春部梅三郎を親のかたきと思い詰めた疑いが晴れたのみならず、悪者わるものの密書の意味で、ぼお家を押領おうりょうするものが有るに相違ないと分り、わたくしの遺恨どころでない、実に主家しゅうかの大事だから、早くお国表へまいろうと云うので、急に二人ふたり梅三郎と共にお国へ出立いたしましたが、其の時姉のお竹の方へは、これ/\で梅三郎は全く父を殺害せつがいいたしたものではない、お屋敷の一大事があって、細かい事は申上げられんが、一度お国表へまいり、家老に面会して、どうかおうち安堵あんどになるようと、梅三郎も同道してお国表へ出立致しますが、事さえきまれば遠からず帰宅いたします、それまで落着いて中の条に待っていて下さい、必らずお案じ下さらぬようにとの手紙がまいりました。なれどもお竹は案じられる事で、
竹「何卒どうぞしておとゝに会いたい、年歯としはもいかない事であるから、また梅三郎にあざむかれて、途中で不慮の事でも有ってはならん」
 と種々いろ/\心配いたしても、病中でございますから立つことも出来ず、忠平に介抱されまして、段々と月日がつばかり、其の内に病気も全快いたしましたが其ののち国表から一度便りがござりまして、秋までには帰る事になるから、落着いて居てくれという文面ではありますが、其の内に六月も過ぎて七月になりました時に、身体も達者になり、こんな山の中に居たくもない、江戸へ帰って出入でいり町人の世話に成りたい、忠平の親父も案じているであろうから、岩吉の処へ行って厄介になりたいと、常々喜六という家来に云って居りました。しかるに此の喜六がくなった跡は、親戚みよりばかりで、別に恩をせた人ではないから、気詰りで中の条にもられませんので、忠平と相談して中の条を出立し、追分おいわけ沓掛くつがけ軽井沢かるいざわ碓氷うすいの峠もようやく越して、松枝まつえだ宿しゅくに泊りました、其の頃お大名のお着きがございますと、いゝ宿屋は充満いっぱいでございます。お大名がお一方ひとかたもお泊りが有りますと、小さい宿屋までふさがるようなことで、お竹は甲州屋こうしゅうやという小さい宿屋へ泊りまして、翌朝あくるあさ立とうと思いますと、大雨で立つことも出来ず、其の内追々山水が出たので、道も悪し、板鼻いたはな渡船わたしも止り、其のほか何処どこの渡船も止ったろうと云われ、仕方がなしに足を止めて居ります内に、心配致すのはいかんもので、船上忠平が風を引いたと云って寝たのが始りで、ついに病が重くなりまして、どっと寝るような事になりました。お医者と云っても良いのはございません、ひらけん時分の事で、此の宿しゅくでは第一等の医者だというのを宿やど主人あるじが頼んでくれましたが、まるで虚空蔵様こくうぞうさま化物ばけもの見たようなお医者さまで、みゃくって薬と云っても、漢家かんかの事だから、草をむしったような誠に効能きゝめの薄いようなものを呑ませるうちに、ついに息も絶え/″\になり、八月上旬はじめには声もしゃがれて思うように口も利けんようになりました。親のあだでも討とうという志のお竹でありますから、家来にもはなはだ慈悲のあることで、
竹「あの忠平や」
忠「はい」
竹「お薬の二番が出来たから、お前我慢して嫌でもおべ、しっかりして居ておくれでないと困るよ」
忠「有難う存じますが、お嬢様わたくしの病気も此のたびは死病と自分も諦めました、とても御丹誠の甲斐はございませんから、どうぞもお薬もまして下さいますな、もう二三の内にむずかしいかと思います」
竹「お前そんなことを云っておくれじゃア私が困るじゃアないか、祖五郎はお国へき、喜六は死に、お前より他に頼みに思う者はなし、一人ひとりではお屋敷へ帰ることも出来ず、江戸へ行ってもお屋敷ぢかい処へ落着けない身の上になって、お前を私は家来とは思わない、伯父とも親とも力に思う其のお前に死なれ、私一人此処こゝに残ってはお前何うする事も出来ませんよ」
忠「有難う……勿体ないお言葉でございます、わずか御奉公致しまして、何程の勤めも致しませんのに、家来のわたくしを親とも伯父とも思うという其のお言葉は、唯今目を眠りまして冥土へ参るにもい土産でございます、しか以前もととちがって御零落なすって、今斯う云うお身の上におなり遊ばしたかと存じますと、私は貴方のお身の上が案じられます、どうぞ私ののちは、他にいらっしゃるとこもございません故、昨夜ゆうべ貴方が御看病疲れでく眠っていらっしゃる内に、私がいて置きました手紙が此処こゝにございます、親父は無筆でございますから、仮名で細かに書いて置きましたから、あなたが江戸へ入らっしゃいまして、春木町の私のうちへ行って、親父にお会いなさいましたら、親父が貴方だけの事はどうかまア年はっても達者な奴でございますから、お力になろうと存じます、此処から私が死ぬと云う手紙を出しますと、驚いて飛んで来ると云うような奴ゆえ、かえって親父に知らせない方がいと存じますから、何卒どうぞお嬢さん、はッはッ、私が死にましたら此処の寺へ投込みになすって道中も物騒ぶっそうでございますから、お気をお付けなすって、あなたは江戸へいらっしゃいまして親父の岩吉にお頼みなすって下さいまし」
竹「あい、それやア承知をしましたが、もし其様そんなことでもあると私はまア何うしたら宜かろう、お前が死んでは何うする事も出来ませんよ、何うかなおるようにね、病は気だというから、忠平しっかりしておくれよ」
忠「いえ何うも此度こんどはむずかしゅうございます」
 と是が主従しゅうじゅうの別れと思いましたからお竹の手をって、
忠「長らく御恩になりました」
 と見上げる眼になみだめて居りますから、こらえかねてお竹も、
竹「わア」
 と枕元へ泣伏しました。此のうちの息子が誠に親切に時々諸方ほう/″\っちゃア、旨い物と云って田舎の事だから碌な物もありませんが、喰物くいものを見附けて来ては病人にります。宿屋の親父は五平ごへいと云って、年五十九で、江戸を喰詰くいつめ、甲州あたりへ行って放蕩ばかをやった人間でございます。せがれは此の地で生立おいたった者ゆえ質朴なところがあります。
忰「とっさま、今帰ったよ」
五「何処どこへ行ってた」
忰「なに医者の処へ薬を取りに行って聞いたが、医者殿どんの病人はむずかしいと云っただ」
五「困ったのう、二人旅だから泊めたけれども、男の方は亭主だか何だか分らねえが、あれがおめえ死んでしまえば、跡へ残るのはの小娘だ、なげえ間これ泊めて置いたから、病人の中へ宿賃の催促もされねえから、仕方なしに遠慮していたけんど、医者様の薬礼やくれいから宿賃や何かまで、の男が亡くなってしまった日にゃア、誠に困る、身ぐるみぬいだって、碌な荷物もえようだから、宿賃の出所でどこがあるめえと思って、誠に心配しんぷえだ、とんだ厄介者に泊られて、死なれちゃア困るなア」
忰「それについちゃんに相談とうと思っていたが、わしだって今年二十五に成るで、何日いつまで早四郎はやしろう独身ひとりで居ては宜くねえ何様どんな者でも破鍋われなべ綴葢とじぶたというから、早く女房を持てと友達が云ってくれるだ、そこで女房を貰おうと思うが、媒妁なこうどが入って他家ほかから娘子あまっこを貰うというと、事が臆劫おっくうになっていかねえから、段々話い聞けば、あの男が死んでしまうと、わしは年が行かないで頼る処もない身の上だ、浪人者で誠に心細いだと云っちゃア、の娘子が泣くだね」
五「浪人者だと…うん」
早「どうせ何処どっから貰うのも同じ事だから、の男がおっんだら、彼の娘をわしの女房にもれえてえだ、裸じゃアあろうけれども、他人頼ひとだのみの世話がねえので、すぐにずる/\べったりに嫁っ子にようかと思う、あれを貰ってくんねえかちゃん
五「馬鹿野郎、だから仕様がねえと云うのだ、これ、ちゃんはな、江戸の深川で生れて、腹一杯はらいっぺえ悪い事をして喰詰くいつめっちまい、甲州へ行って、何うやら斯うやら金が出来る様になったが、詰り悪い足が有ったんで、此処こゝへ逃げて来た時に、縁があって手前てめえの死んだ母親おふくろと夫婦になって、手前と云う子も出来て、甲州屋という、ま看板を掛けて半旅籠はんはたご木賃宿きちんやど同様な事をして、何うやら斯うやら暮している事はみんなも知っている、手前は此方こっち生立おいたって何も世間の事は知らねえが、うち財産かねは無くとも、旅籠という看板で是だけの構えをしているから、それ程貧乏だと思う人はねえ何処どっから嫁を貰っても箪笥たんす一個ひとつや長持の一棹ひとさおぐらい附属くッついて来る、器量の悪いのを貰えば田地でんじぐらい持って来るのは当然あたりまえだ、つらがのっぺりくっぺりして居るったって、あんな素性わけも分らねえ者を無闇に引張込ひっぱりこんでしまって何うするだ、医者様の薬礼まで己がしょわなければなんねえ」
早「それはうよ、それは然うだけれど、他家ほかから嫁子よめっこを貰やア田地が附いて来る、金が附いて来るたって、まうちへ呼ばって、あとで己が気にらねえば仕様がねえ訳だ、だから己が気にったのを貰やアうちも治まって行くと、夫婦仲せえくばいじゃアねえか、貰ってくんろよ」
五「何を馬鹿アいう手前てめえが近頃種々いろ/\な物を買って詰らねえ無駄銭むだぜにを使うと思った、あんな者が貰えるか」
早「何もそんなに腹ア立てねえでもい相談つだ」
五「相談だって手前てめえは二十四五にも成りやアがって、ぶら/\あすんでて、親のすねばかりかじっていやアがる、親の脛を咬っている内は親の自由だ、手前の勝手に気にった女が貰えるか」
早「何ぞというと脛え咬る/\てえが、ちゃんの脛ばかりは咬っていねえ、是でもお客がえら有れば種々いろんな手伝をして、洗足すゝぎ持ってこ、草鞋わらじを脱がして、きたねえ物を手に受けて、湯うわかして脊中を流してやったり、みんなうちの為と思ってしているだ、脛咬りだ/\てえのはしてくんろえ」
五「えゝいやかましいやい」
 と流石さすがに鶴の一声ひとこえで早四郎も黙ってしまいました。此の甲州屋には始終きまった奉公人と申す者は居りません、其の晩の都合によって、客が多ければ村の婆さんだの、宿外しゅくはずれの女などを雇います。七十ばかりになる腰の曲った婆さんが
婆「はい、御免なせえまし」
五「おい婆さん大きに御苦労よ、おまえ又晩に来てくんろよ、客の泊りも無いが、又晩にはあすんで居るだろうから、ま来なよ」
婆「はい、あの只今ね彼処あすこのそれ二人連ふたりづれの病人のとこへめえりました」
五「おゝ、おめえが行ってくれねえと、先方むこうでも困るんだ」
婆「それが年のいかない娘子あまっこ一人で看病するだから、病人は男だし、手水ちょうずに行くたって大騒ぎで、誠に可愛想でがんすが、たった今おっにましたよ」
五「え、死んだと……困ったなアそれ見ろ、だから云わねえ事じゃアねえ、何様どんな様子だ」
婆「何様どんなにもなんにも娘子あまっこが声をあげて泣いてるだよ、あんたあんまり泣きなすって身体へさわるとなんねえから、泣かねえがうがんすよ、諦めねえば仕様がねえと云うと、わしあれに死なれると、年もいかないでく処もえ、誠に心細うがんす、あゝ何うすべいと泣くだね、誠に気の毒な訳で」
五「はアー困ったもんだな」
早「わしえ、ちょっくら行って来よう」
五「なに手前てめえは行かなくってもい」
早「行かなくってもいたって、くやみぐらいに行ったってかんべい」
五「えゝい、何ぞというとの娘のとこばかきたがりやアがる、勝手にしろ」
 とおおかすでございましたから早四郎は頬をふくらせてってく。五平はたゞちにお竹の座敷へ参りまして。
五「はい、御免下せえ」
 と破れ障子を開けて縁側から声を掛けます。
竹「此方こっちへおはいんなさいまし、おや/\宿やどの御亭主さん」
五「はい、只今婆アから承わりまして、誠にびっくりいたしましたが、おつれさまは御丹誠甲斐もない事で、お死去かくれになりましたと申す事で」
竹「有難う、長い間種々いろ/\お世話になりました、ことに御子息が朝晩見舞っておくれで、親切にして下さるから何ぞお礼をしたいと思って居ります、病人も誠に真実なお方だと悦んで居りました、わたくしも丹誠が届くならばと思いましたが、定まる命数めいすうでございまする、只今亡くなりまして、誠に不憫ふびんな事を致しました」
五「いやどうも、さぞお力落しでございましょう、誠にお気の毒な事でございます、時に、あゝそれでもって伺いますが、お死去なくなりなすった此の死骸は、江戸へおいでなさるにしても、信州へお送りになるにしても、死骸を脊負しょって行く訳にもいかないから此の村へ葬るより他に仕方はございますまいが、火葬にでもなすって、骨を持って入らっしゃいますか、其の辺の処を伺って置きたいもので」
竹「はい、何処どこと云って知己しるべもございませんから、どうか火葬にして此の村へ葬り、こつだけを持ってまいりとう存じますが、御覧の通り是からはわたくし一人でございますから、何かと世話のないように髪の毛だけでも江戸の親元へ参れば宜しゅうございますから、ことに当人は火葬でも土葬でもいと遺言をして死去なくなりましたから、どうぞ御近処ごきんじょのお寺へお葬り下さるように願いたいもので」
五「左様でございますか、お泊りがけのお方で、何処どこなんというしっかりとした何かしょうがないと、お寺も中々やかましくって請取うけとりませんが、わたくしどもの親類か縁類えんるいの人が此方こっちへ来て、死んだような話にして、どうか頼んで見ましょう」
 と此の話のうちにいつか忰の早四郎がうしろへまいりまして、
早「なにうしねえでもい、此の裏手の洪願寺こうがんじさまの和尚様は心安くするから頼んで上げよう、まことに手軽な和尚様で、中々道楽坊主だよ、以前もと叩鉦ちゃんぎりを叩いて飴を売ってた道楽者さ、銭が無ければい、たゞ埋めてんべえなどゝいうさばけた坊様だ、其の代りお経なんどは読めねえ様子だが、銭金ぜにかねの少しぐれえるような事があって困るなら、沢山はねえがちっとべいなら己が出して遣るべえ」
五「何だ、これ、お客様に失礼な、おまえがお客さまに金を出して上げるとは何だ、そんな馬鹿な事をいうな」
早「ちゃんは何ぞというと小言をいうが、無ければ出してくれべえと云うだからかっぺえじゃアねえか」
五「其様そんな事ア何うでもいから、早く洪願寺へ行って願って来い」
 是から息子がお寺へ行って和尚に頼みました。早速得心でございますから、急に人を頼んで、早四郎も手伝って穴を掘り、真実にくれ/\働いて居ります。丁度其の晩の事でございますが、宿屋の主人あるじが、
五「へえねえさん、えゝ今晩の内にお葬りになりますように」
竹「はい、少し早いようでございますが、何分宜しゅう……多分に手のかゝりませんように」
五「宜しゅうございます、其の積りに致しました、何も多勢おおぜい和尚様方を頼むじゃアなし、お手軽になすった方が、御道中ゆえ宜しゅうございましょう」
 と親切らしく主人あるじが其の晩のうちに、自分もいて行って野辺送りを致してしまいました。

        三十三

 其の晩に脱出ぬけだして、の早四郎という宿屋の忰が、馬子まご久藏きゅうぞうという者の処へ訪ねて参り、
早「おい、トン/\/\久藏ねぶったかな、トン/\/\眠ったかえ。トン/\/\」
 余りひどく表をたゝくから、側の馬小屋につないでありました馬が驚いて、ヒイーン、バタ/\/\と羽目をる。
早「あれまア、馬めえ暴れやアがる、久藏ねぶったかえ……あれまア締りのねえ戸だ、叩いてるより開けてへいる方がい、よっぱれえになって仰向あおむけにぶっくりけえってそべっていやアがる、おゝ/\顔にあぶ附着くッついて居るのに痛くねえか、おきろ/\」
久「あはー……ねぶったいに、まどうもアハー(あくび)むにゃ/\/\、や、こりゃア甲州屋の早四郎か、大層ていそう遅く来たなア」
早「うん、少し相談ちに来たアだから目えさませや」
久「今日は沓掛くつがけまで行って峠え越して、帰りに友達に逢って、坂本さかもと宿しゅくはずれで一盃いっぺいやって、よっぱれえになってけえって来たが、むま下湯そゝゆつかわねえで転輾ぶっくりけえって寝ちまった、ねむたくってなんねえ、何だって今時分出掛けて来た」
早「ま、眼えさませや、覚せてえに」
久「アハー」
早「でけ欠伸あくびいするなア」
久「何だ」
早「他のことでもねえが、此間こねえだわれがに話をしたが、おらうちの客人が病気になって、娘子あまっこが一人附いているだ、女子おなごよ」
久「話い聞いたっけ、女子おなごで、われがねらってるって、それが何うしただ」
早「そのつれの病人が死んだだ」
久「フーム気の毒だのう」
早「ついてはあまおらの嫁に貰えてえと思って、段々手なずけた処が、当人もまんざらでもえようで、謎をかけるだ、此の病人が死んでしまえば、行処ゆきどころもねえ心細い身の上でございますと云うから、親父に話をした処が、親父は慾張ってるから其様そんな者を貰って何うすると、とんと相手になんねえから、われおらア親父に会って話をって、あまを貰うようにしちゃアくんめえか」
久「うさなア、どうもこれはおめいとことっさまという人は中々道楽をぶって、他人ひとのいう事アかねえ人だよ、此のめえ荷い馬へ打積ぶっつんで、おめえとこ居先みせさき[#「居先」は「店先」の誤記か]で話をしていると、父さまがはえぐち駄荷だにい置いて気の利かねえ馬方むまかただって、突転つッころばして打転ぶっころばされたが、中々強い人で、話いしたところが父さまの気に入らねえば駄目だよ、アハー」
早「欠伸い止せよ……これは少しだがの、われえ何ぞ買って来るだが、夜更よふけで何にもねえから、此銭これ一盃いっぺい飲んでくんろ」
久「気の毒だのう、こんなに差しつるべたのを一本くれたか、気の毒だな、こんなに心配しんぺいされちゃア済まねえ、此間こねえだあの馬十ばじゅうに聞いたゞが、どうも全体ぜんてえ父さまが宜くねえ、息子が今これさかんで、丁度嫁をってい時分だに、男振も何処どこからでも嫁は来るだが、何故嫁を娶ってくれねえかと、父さまを悪く云って、おめえの方をみんめている、男がいから女の方から来るだろう」
早「来るだろうって……どうも……親父が相談ぶたねえから駄目だ」
久「相談ぶたねえからって、おめえは男がいからむすめ引張込ひっぱりこんで、優しげに話をして、色事になっちまえ、色事になって何処どこかへ突走つッぱしれ……おらうちへ逃げてう、其の上で己が行って、父さまに会ってよ、お前も気に入るめえが、わけえ同志で斯ういう訳になって、女子おなごを連れて己の家へ来て見れば、家もおさまらねえ訳で、是もさきの世に定まった縁だと思って、あんまやかましく云わねえで、己が媒妁なこうどをするから、あれ※(「女+息」、第4水準2-5-70)よめっこにしてってくんろえ、家に置くのがいやだなら、別に世帯しょたいを持たしてもいじゃアねえかという話になれば、仕方がねえと親父も諦めべえ、色事になれや」
早「成れたって……成る手がゝりがねえ」
久「女に何とか云って見ろ」
早「が悪くって云えねえ、客人だから、それに真面目な人だ、おらが座敷へへいると起上って、誠に長く厄介になって、お前には分けて世話になって、はア気の毒だなんて、中々おさむらえさんの娘だけにおっかねえように、凛々りゝしい人だよ」
久「口で云いにくければふみを書いてやれ、文をよ、たもとの中へ放り込むとか、枕の間へはさむとかして置けい、娘子あまっこが読んで見て、宿屋の息子さんがういう心なれば嬉しいじゃアないか、どうせ行処ゆきどこがないから、の人と夫婦になりてえと、先方さきで望んでいたら何うする」
早「何だか知んねえが、それはむずかしそうだ」
久「そんな事を云わずにやって見ろ」
早「ところがわしふみいた事がねえから、われ書いてくんろ、汝は鎮守様の地口行灯じぐちあんどうこしれえたがうめえよ、それ何とかいう地口が有ったっけ、そう/\、案山子かゝしのところに何かるのよ」
久「うよ、おらがやったっけ、何かおれえ……然うさ通常たゞの文をやっても、これ面白くねえから、何かづくもんでやりてえもんだなア」
早「尽し文てえのは」
久「尽しもんてえのは、ま花の時なれば花尽しよ、それからま山尽しだとか、獣類尽けだものづくしだとかいう尽しもんでりてえなア」
早「それアいな、何ういう塩梅あんべいに」
久「今時だからどうだえ虫尽しかなんかでやればいな」
早「一つこしれえてくんろよ」
久「紙があるけえ」
早「紙は持っている」
久「其処そこに帳面を付ける矢立のでけえのがあるから、茶でもたらして書けよ、まだ茶ア汲んで上げねえが、其処に茶碗があるから勝手に汲んで飲めよ、虫尽しだな、その女子おなごが此のふみを見て、あゝ斯ういう文句をこしらえる人かえ、それじゃアと惚れるように書かねえばなんねえな」
早「だから何ういう塩梅あんべいだ」
久「ま其処へ一つおぼえと書け」
早「覚……おかしいな」
久「おかしい事があるものか、覚えさせるのだから、一つ虫尽しにて書記かきしるまいらせそろ[#「まいらせそろ」の草書体、344-6]よ」
早「ひとつ虫尽しにて書記かきしるし※[#「まいらせそろ」の草書体、344-6]
久「えゝ女子おんな綺麗きれえな所を見せなくちゃアなんねえ……綺麗な虫は……ア玉虫がい、女の美しいのを女郎屋じょろやなどではい玉だてえから、玉虫のようなお前様をと目見るより、いなご、ばったではないが、とびっかえるほどに思いそうろうと書け」
早「成程いなご、ばったではないが、飛っかえるように思いそろ
久「親父のやかましいところを入れてえな、親父はガチャ/″\虫にてやかましく、と」
早「成程……やかましく」
久「お前のそばに芋虫のごろ/″\してはいられねえが、えゝ……簑虫みのむし草鞋虫わらじむし穿き、と」
早「何の事だえ」
久「われが野らへ行く時にア、簑を着たり草鞋を穿いたりするだから」
早「成程……草鞋虫を穿きい」
久「かまぎっちょを腰に差し、野らへ出てもお前様の事は片時忘れるしま蛇もなく」
早「成程……しま蛇もなく」
久「えゝ、お前様の姿が赤蜻蛉あかとんぼの眼の先へちら/\いたしそろ
早「何ういう訳だ」
久「蜻蛉とんぼうの出る時分に野良のらへ出て見ろ、赤蜻蛉あかとんぼ彼方あっちったり此方こっちへ往ったり、目まぐらしくって歩けねえからよ」
早「成程……ちら/\いたしそろ
久「えゝと、待てよ……お前と夫婦みょうとになるなれば、わしは表で馬追むまおい虫、お前は内で機織虫はたおりむしよ」
早「成程……わしうまいて、女子おなごが機を織るだな」

久「えゝ…股へひるの吸付いたと同様お前の側を離れ申さずそろ、と情合じょうあいだから書けよ」
早「成程……お前の側を離れ申さずそろか、成程情合だね」
久「えゝ、あぶ馬蠅むまばえ屁放虫へっぴりむし
早「虻蚊馬蠅屁放虫」
久「取着かれたら因果、晩げえわしを松虫なら」
早「……晩げえわしを松虫なら」
久「藪蚊やぶかのように寝床まで飛んでめえり」
早「藪蚊のように寝床まで飛んでめえり」
久「直様すぐさま思いのうおっぱらそろ巴蛇あおだいしょうの長文句蠅々はい/\[#かしく」の草書体、345-9]
早「成程りゃアいなア」
久「これじゃア屹度きっと女子おなごがおめえに惚れるだ、これを知れねえようにたもとの中へでもほうり込むだよ」
 と云われ、早四郎は馬鹿な奴ですから、右の手紙を書いて貰ってうちへ帰り、そっとお竹の袂へ投込なげこんで置きましたが、開けて見たって色文いろぶみと思う気遣きづかいはない。翌朝よくあさになりますと宿屋の主人あるじが、
五「お早うございます」
竹「はい、昨夜は段々有難う」
五「えゝ段々お疲れさま……続いてお淋しい事でございましょう」
竹「有難う」
五「えゝ、お嬢さん、誠に一国いっこくな事を申すようですが、わたくしは一体斯ういう正直な性質うまれつきで、私どもはこれ本陣だとか脇本陣だとか名の有る宿屋ではございませんで、ほんの木賃宿の毛の生えた半旅籠同様で、あなた方が泊ったところが、さしてお荷物も無し、お連の男衆は御亭主かお兄様あにいさまか存じませんが、お死去かくれになってあなた一人残り、一人旅はごくやかましゅうございまして、え、横川よこかわの関所のとこも貴方はお手形が有りましょう、越えて入らっしゃいましたから、私どもでも安心はして居りますが、何しろ御病気の中だから、毎朝宿賃を頂戴いたす筈ですが、それも御遠慮申して、医者の薬礼お買物の立替え、何ややの御勘定ごかんじょうが余程たまって居ります、それも長旅の事で、無いと仰しゃれば仕方が無いから、へえと云うだけの事で、宿屋も一晩泊れば安いもので、長く泊れば此んな高いものはありません、ついては一国なことを申すようですが、泊って入らっしゃるよりお立ちになった方がお徳だろうし、私も其の方が仕合せで、どうか一先ひとまず立って戴きたいもので」
竹「はい、わたくしはさっぱり何事も家来どもに任して置きました内に病気附きましたので、つい宿賃も差上げることを失念致した理由わけでもございませんが、病人にかまけて大きに遅うなりました、さぞかし御心配で、胡乱うろんの者と思召おぼしめすかは知りませんが、宿賃ぐらいな金子は有るかも知れません、じきに出立いたしますから、早々御勘定ごかんじょうをして下さい、の位あればいか取って下さいまし」
 とお屋敷育ちで可なりの高を取りました人のお嬢さんで、宿屋の亭主風情ふぜいに見くびられたと思っての腹立ちか、懐中からずる/″\と納戸縮緬なんどちりめんの少し汚れた胴巻を取出し、汚れた紙に包んだかたまりを見ると、おおよそ七八十両も有りはしないかと思うくらいな大きさだから、五平は驚きました。泊った時の身装みなりも余りくなし、さして、着換きがえの着物もないようでありました、是れは忠平が、年のいかない娘を連れて歩くのだから、目立たんようにわざと汚れた衣類に致しまして、旅※たびやつ[#「宀/婁」、347-6]れの姿で、町人ていにして泊り込みましたので、五平は案外ですから驚きました。
竹「どうか此の位あれば大概払いは出来ようかと思いますが、書付を持って来て下さい」
 と云われたので、流石さすがの五平も少し気の毒になりましたが、
五「はい/\、えゝ、お嬢さま、誠にわたくしはどうも申訳のない事をいたしました、あなた御立腹でございましょうが、あなたを私が見くびった訳でもなんでもない、実はその貴方におかゝりのかゝらんように種々いろ/\と心配致しまして、馬子や舁夫かごかきを雇いましても宿屋の方で値切って、なるたけやすくいたさせるのが宿屋の亭主の当然あたりまえでへえ見下げたと思召おぼしめしては恐入ります、只今御勘定を致します、へい/\どうぞ御免なすって」
 と帳場へまいりまして、
五「あゝ大層金子かねを持っている、あれは何者か知らん」
 としばらくお竹の身の上を考えて居りましたが、別に考えも附きません。医者の薬礼から旅籠料、何ややを残らず書付にいたして持って来ましたが、一ヶ月居ったところで僅かな事でございます。お竹は例の胴巻から金を出して勘定をいたし、そこ/\手廻りを取片附け、明日あすは早く立とうと舁夫かごやや何かを頼んで置きました。其の晩にそっと例の早四郎が忍んで来まして、
早「お客さん……お客さん……ねぶったかね、お客さん眠ったかね」
竹「はい、何方どなた
早「へえわしでがすよ」
竹「おや/\御子息さん、さ此方こちらへ……まだねむりはいたしませんが、蚊帳かやの中へ入りましたよ」
早「えゝさぞまア力に思う人がおっんで、あんたはさみしかろうと思ってね、わしも誠に案じられて心配しんぺえしてえますよ」
竹「段々お前さんのお世話になって、なんぞお礼がしたいと思ってもお礼をする事も出来ません」
早「先刻さっき親父がとけ貴方あんたが金え包んで種々いろ/\厄介になってるからって、別にわしが方へも金をくれたが、そんなに心配しんぺいしねえでもえ、何も金が貰いてえって世話アしたんでねえから」
竹「それはお前の御親切は存じて居ります誠に有難う」
早「あのー昨夜よんべねえ、わし貴方あんたたもとの中へ打投ぶっぽり込んだものを貴方ひらいて見たかねえ」
竹「何を…お前さんが…」
早「あんたの袂のなけえたものをわしほうり込んだ事があるだ」
竹「何様どんな書いたもの」
早「何様どんなたって、丹誠して心のたけを書いただが、あんたの袂に書いたものが有ったんべい」
竹「私は少しも知らないので、何か無駄書むだがき流行唄はやりうたかと思いましたから、丸めて打棄うっちゃってしまいました」
早「あれ駄目だね、流行唄じゃアねえ、づくしもんだよ、艶書いろぶみだよ、丸めて打棄っては仕様がねえ、人が種々いろ/\丹誠したのによ」
 と大きに失望をいたしてふさいでいます。

        三十四

 お竹は漸々よう/\に其の様子を察して、可笑おかしゅうは思いましたが、また気の毒でもありますからにっこり笑って、
竹「それは誠にお気の毒な事をしましたね」
早「お気の毒ったって、まア困ったな、どうもわしはな……実アな、まア貴方あんたも斯うやって独身ひとりで跡へ残ってさびしかろうと思い私も独身ひとりみでいるもんだから、友達がわれえ早く女房を貰ったらかろうなんてってなぶられるだ、それにいては優気やさしげなお嬢さんは、身寄頼りもねえ人だから、病人が死なばおらがの女房に貰いてえと友達にしゃべっただ、馬十ばじゅうてえ奴と久藏てえ奴が、ぱっ/\と此れを方々ほう/″\へ触れたんだから、たちま宿中しゅくじゅうへ広まっただね」
竹「そんな事お前さん云立いいたてをしておくれじゃア誠に困ります」
早「困るたってわしもしたくねえが、冗談を云ったのが広まったのだから、今じゃア是非ともおめえさんを私の女房にしねえば、世間へてえして顔向が出来ねえから、友達に話をしたら、親父がやかましくって仕様がねえけんども、貴方あんたおれおかしな仲になっちまえば、友達が何うでも話をして、親父に得心のうさせる、どうせ親父は年いってるから先へおっんでしまう、うすれば此のうちみんな己のもんだ、貴方が私の女房に成ってくれゝば、誠に嬉しいだが、今夜同志に此の座敷でねぶってもかんべえ」
竹「しからん事をお云いだね、お前はま私を何だとお思いだ、優しいことを云っていればい気になって、お前私が此処こゝへ泊っていれば、うちの客じゃアないか、其の客に対して宿屋の忰がんな無礼なことを云って済みますか、浪人して今は見る影もない尾羽打枯おはうちからした身の上でも、お前たちのようなはしたない下郎げろうを亭主に持つような身の上ではありません、無礼なことをお云いでない、彼方あっちへ行きなさい」
早「魂消たまげたね……下郎え……此の狸女たぬきあまめ……そんだらえ、そうお前の方で云やア是まで親父の眼顔めかおを忍んで銭を使って、おめえの死んだ仏の事を丹誠した、またつくしものを書いて貰うにも四百しひゃくと五百の銭を持ってって書いて貰ったわけだ、それを下郎だ、身分が違うと云えば、わしも是までになって、あんたに其んなことを云われゝば友達へ顔向が出来ねえから、意気張いきはりずくになりゃアかたき同志だ、可愛さ余って憎さが百倍、お前のけえりを待伏まちぶせして、跡をおっかけて鉄砲で打殺ぶッころす気になった時には、とても仕様がねえ、うなったら是までの命だと諦めてくんろ」
竹「あらまア、そんな事を云って困るじゃアないか、敵同志だの鉄砲でつのと云って」
早「わしは下郎さ、おまえはおさむれえむすめだろう、しか口穢くちぎたなく云われゝば、私だって快くねえから、遺恨に思っておめえを鉄砲で打殺ぶちころす心になったら何うするだえ」
竹「困るね、だけども私はお前に身を任せる事は何うしても出来ない身分だもの」
早「出来ないたって、病人が死んでしまえば便りのない者で困るというから、うちへ置くべいと思って、人に話をしたのが始まりだよ、どうも話が出来ねえば出来ねえでいから覚悟をしろ、親父がやかましくってうちにいたって駄目だから、やるだけの事をやっちまう、棒鼻ぼうばなあたりへ待伏せて鉄砲でってしまうからう思いなせえ」
竹「まアお待ちなさい」
 と止めましたのは、此様こんな馬鹿な奴にっては仕様がない、鉄砲でちかねない奴なれど、かゝる下郎に身を任せる事は勿論出来ず、しかし世に馬鹿程怖い者はありませんから、是はだますにくはない、今のうちは心をなだめて、ほとぼりのけた時分に立とうと心を決しました。
竹「あの斯うしておくれな私のようなものをそれ程思ってくれて、誠に嬉しいけれども、考えても御覧、たとえ家来でも、あゝやって死去なくなってまだ七日もたん内に、仏へ対して其んな事の出来るものでもないじゃアないか」
早「うん、それはうだね、七日の間は陰服いんぷくと云って田舎などではえらやかましくって、蜻蛉一つ鳥一つ捕ることが出来ねえ訳だから、然ういう事がある」
竹「だからさ七日でも済めば、親御も得心のうえでお話になるまいものでもないから、今夜だけの処は帰っておくれ」
早「うおまえが得心なれば帰る、田舎の女子おなごのようにぐ挨拶をする訳にはくめえが、お前のようにいやだというから腹ア立っただい、そんなら七日が済んで、七日の晩げえに来るから、其の積りで得心して下さいよ」
 とにこ/\して、自分一人承知して帰ってしまいました。斯様かような始末ですからお竹は翌朝よくあさ立つことが出来ません、既に頼んで置いた舁夫かごかきも何も断って、荷物も他所わきへ隠してしまいました。主人の五平は、
五「お早うございます、お嬢さま、えゝ只今洪願寺の和尚様が前をお通りになりましたから、今日お立ちになると申しましたら、和尚様の言いなさるには、それはなさけない事だ、遠い国へ来て、御兄弟だか御親類だか知らないが、死人を葬りぱなしにしてお立ちなさるのは情ない、せめて七日の逮夜たいやでも済ましてお立ちになったらかろうに、余りと云えば情ない、それでは仏もうかまれまいとおっしゃるから、わしも気になってまいりました、長くいらっしゃったお客様だ、何は無くとも精進物で御膳でもこしらえ、へゝゝゝ、うちへ働きにまいります媼達ばゞあたちへおまんまア喰わして、和尚様を呼んで、お経でも上げてお寺めえりでもして、それから貴方あなた七日を済まして立って下されば、わたくしも誠にこゝろようございます、また貴方様も仏様のおためにもなりましょうから、どうか七日を済ましてお立ちを」
竹「成程わたくしも其の辺は少しも心附きませんでした、大きに左様で、それじゃア御厄介ついでに七日まで置いて下さいますか」
 というので七日の間泊ることになりました。他に用は無いから、毎日洪願寺へまいり、夜は回向えこうをしては寝ます。よいうちに早四郎が来て種々いろ/\なことをいう。いやだが仕方がないからだまかしては帰してしまう。七日まで/\と云い延べているうちに早く六日経ちました。丁度六日目に美濃の南泉寺なんせんじ末寺まつじで、谷中の随応山ずいおうざん南泉寺の徒弟で、名を宗達そうたつと申し、十六才の時に京都の東福寺とうふくじへまいり、修業をして段々行脚あんぎゃをして、美濃路あたりへ廻って帰って来たので、まだ年は三十四五にて色白にして大柄で、眉毛のふっさりと濃い、鼻筋の通りました品のい、鼠無地に麻の衣を着、鼠の頭陀ずだを掛け、白の甲掛脚半こうがけきゃはん網代あじろの深い三度笠を手に提げ、小さな鋼鉄くろがねの如意を持ちまして隣座敷へ泊った和尚様が、お湯に入り、夕飯ゆうはんべてりますと、禅宗坊主だからちゃんと勤めだけの看経かんきんを致し、それから平生へいぜい信心をいたす神さまを拝んでいる。何と思ったかお竹はふすまを開けて、
竹「御免なさいまし」
僧「はい、何方どなたじゃ」
竹「わたくしはお相宿あいやどになりまして、き隣に居りますが、あなた様は最前おつきの御様子で」
僧「はい、お隣座敷へ泊ってな、坊主は経をむのが役で、おやかましいことですが、夜更よふけまで誦みはいたしません、貴方も先刻さっきから御回向をしていらっしったな」
竹「わたくしは長らく泊って居りますが、供の者が死去なくなりまして、此の宿外しゅくはずれのお寺へ葬りました、今日こんにちは丁度七日の逮夜に当ります、幸いお泊り合せの御出家様をお見掛け申して御回向を願いたく存じます」
僧「はい/\、いや/\それはお気の毒な話ですな、うん/\成程此の宿屋に泊って居るうちわずろうてお供さんが…おう/\それはお心細いことで、此の村方へ御送葬ごそう/\になりましたかえ、それは御看経ごかんきんをいたしましょう、お頼みはなくとも知ればいたす訳で、何処どこへ参りますか」
竹「はい、こゝに机がありまして、戒名もございます」
僧「あゝ成程左様ならば」
 と是から衣を着換え、袈裟けさを掛けて隣座敷へまいり、机の前へ直りますと、新しい位牌があります、白木の小さいので戒名が書いてあります。
僧「あゝ、是ですか、えゝ、むう八月廿四にお死去かくれになったな、うむ、お気の毒な事で南無阿弥陀仏々々々々々々、宜しい、えゝ、お線香はわしが別にいのを持って居りますから、これをきましょう」
 と頭陀ずたの中から結構な香を取出し、火入ひいれの中へ入れまして、是から香を薫き始め、禅宗の和尚様の事だから、ねんごろに御回向がありまして、
僧「えゝ、お戒名は如何いかさまいお戒名で、うゝ光岸浄達信士こうがんじょうたつしんし
竹「えゝ、是は只心ばかりで、おねんごろの御回向を戴きまして、ほんのお布施で」
僧「いや多分に貴方、旅の事だから布施物ふせもつを出さんでも宜しい、それやア一文ずつ貰って歩く旅僧たびそうですから、一文でも二文でも御回向をいたすのは当然あたりまえで、しかし布施のない経は功徳にならんと云うから、これは戴きます、左様ならばわしは旅疲れゆえぐに寝ます、ま御免なさい」
 と立ちかけるをめて、
竹「あなた少々お願いがございます」
僧「はい、なんじゃな」
 と又すわる。お竹はもじ/\して居りましたが、やがて、
竹「おつな事を申上げるようでございますが、当家の忰がわたくしを女とあなどりまして、毎晩私の寝床へまいって、しからん事を申しかけまして、し云うことをかなければ殺してしまうの、鉄砲で打つのと申します、馬鹿な奴と存じますから、私もい加減に致して、七日でも済んだら心に従うと云い延べて置きましたが、今晩が丁度七日の逮夜で、明朝みょうあさ早く此の宿やどを立とうと存じますから、屹度きっと今晩まいって兎や角申し、又理不尽な事を致すまいものでもあるまいと存じますで、誠に困りますが、幸い隣へお相宿になりましたから、事に寄ると私が貴方の方へ逃込んでまいりますかも知れません、其の時には何卒どうぞお助け遊ばして下さるように」
僧「いや、それはしからん、それは飛んだ事じゃわしにお知らせなさい、押えて宿の主人あるじを呼んで談じます、ういう事はない、自分のうちの客人に対して、女旅とあなどり、恋慕れんぼを仕掛けるとはもってのほかの事じゃ、実に馬鹿程怖い者はない、宜しい/\、来たらお知らせなさい」
竹「何卒どうか願います」
 と少しいきどおった気味で受合いましたから、大きにお竹も力に思って、床をってふせりました、和尚さまは枕にくと其の儘旅疲れと見え、ぐう/\と高鼾たかいびきで正体なく寝てしまいました。お竹は鼾の音が耳に附いて、どうもられません、夜半よなかそっと起きて便所ようばへまいり、三尺のひらきを開けて手を洗いながら庭を見ると、生垣いけがきになっている外は片方かた/\は畠で片方は一杯の草原くさはらで、村の人が通るほんの百姓道でございます。秋のことだから尾花おばなはぎ女郎花おみなえしのような草花が咲き、露が一杯に下りて居ります。秋の景色は誠に淋しいもので、裏手は碓氷の根方ねがたでございますから小山こやま続きになって居ります。所々ところ/\ちら/\と農家の灯火あかりが見えます、追々戸を締めてた処もある様子。お竹が心のうちで。向うにかすかに見えるあの森は洪願寺様であるが、彼処あすこへ葬り放しで此処こゝを立つのは不本意とは存じながら、長く泊っていれば、宿屋の忰が来て無理無体に恋慕を云い掛けられるのもいやな事であると、庭の処から洪願寺の森を見ますと、生垣の外にぬうと立っている人があります。男か女か分りませんが、しきりと手を出しておいで/\をしてお竹を招く様子、腰をかゞめて辞儀をいたし、また立上って手招ぎをいたします。
竹「はてな、私を手招ぎをして呼ぶ人はない訳だが……男の様子だな、事によったらかたきの手係りが知れて、人に知れんようにおとゝが忍んで私に会いに来たことか、それとも屋敷から内々ない/\音信たよりでもあった事か」
 と思わずつまを取りまして、其処そこに有合せた庭草履を穿いての生垣の処へ出て見ると、十間ばかり先の草原くさばらに立って居りまして、頻りと招く様子ゆえお竹は、はてな……と怪しみながら又跡を慕ってまいりますと、又男があと退さがって手招きをするので、思わず知らずお竹は畠続きに洪願寺の墓場まで参りますと、新墓しんばかには光岸浄達信士という卒塔婆そとばが立ってしきみあがって、茶碗に手向たむけの水がありますから、あゝ私ゃア何うして此処こゝまで来たことか、私の事を案じて忠平が迷って私を救い出すことか、ひょっとしたら私が気を落している所へ附込んで、きつねたぬきばかすのではないか、もし化されて此様こんな処へ来やアしないかと、茫然として墓場へ立止って居りました。

        三十五

 此方こなたは例の早四郎が待ちに待った今宵こよいと、人の寝静ねしずまるをうかごうてお竹の座敷へやって参り、
早「ねぶったかね/\、お客さん眠ったかえ……居ねえか……約束だから来ただ、※(「巾+廚」、第4水準2-12-1)かやの中へひえってもいかえひえるよ、入っても宜いかえ」
 と理不尽に※(「巾+廚」、第4水準2-12-1)かやまくって中へ入り。
早「ねぶったか……あれやア居ねえわ、何処どけえ行っただな、わしが来る事を知っているから逃げたか、それとも小便垂れえ行ったかな、ア小便垂れえ行ったんだ、逃げたって女一人で淋しい道中は出来ねえからな、わしア此の床の中へひえって頭から掻巻けえまきかぶって、ウフヽヽつくなんでると、女子おなごは知んねえからこけえ来る、中へおひえんなさいましと云ったところで、男が先へひえっていりゃアを悪がってひえれめえから、ちっさくなってると、誰もいねえと思ってすっとひえって来ると、おらアこゝにいたよって手をつかめえて引入れると、おめえ来ねえかと思ったよ、なに己ア本当に是まで苦労をしたゞもの、だからなけひえるがい、ひえってもいかえと引張込ふっぱりこめば、其の心があってもだ年い行かないから間を悪がるだ、屹度きっとうだ、こりゃア息いこらしてねぶった真似えしてくれべえ」
 と止せばいのに早四郎はお竹の寝床の中で息をこらして居りました。しばらつとそっ抜足ぬきあしをして廊下をみしり/\と来る者があります。古いうちだからどんなに密と歩いても足音が聞えます、早四郎は床の内で来たなと思っていますと、密と障子を開け、スウー。早四郎は障子を開けたなと思っていますと、ぷつり/\と、吊ってありました※(「巾+廚」、第4水準2-12-1)かや吊手つりてを切落し、寝ている上へフワリと乗ったようだから、
早「何だこれははてな」
 と考えて居りますと、片方かたっぽでは片手でさぐり、此処こゝあたり喉笛のどぶえと思う処を探り当てゝ、懐から取出したぎらつく刄物を、逆手さかてに取って、ウヽーンと上から力に任せて頸窩骨ぼんのくぼ突込つッこんだ。
早「あゝ」
 と悲鳴を上げるのを、ウヽーンと※(「宛+りっとう」、第4水準2-3-26)えぐりました。苦しいから足をばた/\やる拍子にふすまが外れたので、和尚が眼を覚して、
僧「はゝ、夜這よばいが来たな」
 と思いましたから起きて来て見ると、灯火あかりが消えている。
僧「困ったな」
 とあわてゝ手探りに枕元にある小さな鋼鉄くろがね如意にょいを取ってすかして見ると、判然はっきりは分りませんが、頬被ほうかぶりをした奴が上へしかゝっている様子。
僧「泥坊」
 と声をかける大喝一声だいかついっせい、ピイーンと曲者のきもへ響きます。
曲者「あっ」
 と云って逃げにかゝる所へ如意で打ってかゝったからたまらんと存じまして、刄物で切ってかゝるのを、たんすわった坊さんだから少しも驚かず、刄物の光が眼の先へ見えたから引外ひっぱずし、如意で刄物を打落し、猿臂えんぴのばして逆におさえ付け、片膝を曲者の脊中へ乗掛のっかけ、
僧「やい太い奴だ、これかりそめにも旅籠はたごを取れば客だぞ、其の客へ対して恋慕を仕掛けるのみならず、刄物などを以て脅して情慾をげんとは不埓至極の奴だ、これ宿屋の亭主は居らんか、灯火あかりを早く……」
 という処へ帰って来ましたのはお竹で。
竹「おや何で」
僧「む、お怪我はないか」
竹「はい、わたくしは怪我はございませんが、何でございます」
僧「恋慕を仕掛けた宿屋の忰が、刄物を持って来て貴方に迫り、わっという声に驚いて眼をさまして来ました、早く灯火あかりを……廊下へ出れば手水場ちょうずばに灯火がある」
 といううち雇婆やといばあさんが火をとぼして来ましたから、見ると大の男が乗掛のッかゝってとこが血みどりになって居ります。
僧「此奴こいつかぶものれ」
 と被っている手拭を取ると、早四郎ではありませんで、此処こゝ主人あるじ胡麻塩交ごましおまじりのぶっつり切ったようなまげ髪先はけさきちらばった天窓あたまで、お竹の無事な姿を見て、えゝと驚いてしかみつらをして居ります。
僧「お前は此の宿屋の亭主か」
五「はい」
竹「何うしてお前は刄物を持って私の部屋へ来て此様こんな事をおしだか」
五「はい/\」
 とお竹に向って、
五「あ…貴方はお達者でいらっしゃいますか、そうして此の床の中には誰がいますの」
 と布団を引剥ひっぱいで見ますと、今年二十五になります現在おのれの実子早四郎が俯伏うつぷしになり、のりに染って息が絶えているのを見ますと、五平は驚いたのなんのではございません、真蒼まっさおになって、
五「あゝ是は忰でございます、わしの忰が何うして此の床の中に居りましたろう」
僧「何うして居たもないものだ、お前が殺して置きながら、お前はまア此者これような悪い事をしたか知らんが、本当の子か、仮令たとえ義理の子でも無闇に殺して済む理由わけではない、何ういう理由じゃ」
五「はい/\、お嬢さま、あなたは今晩こゝにお休みはございませんのですか」
竹「私はこゝに寝ていたのだが、不図ふと起きて洪願寺様へ墓参りに行って、今帰って来ましたので」
五「何うして忰が此処こゝへ参って居りましたろう」
僧「いや、お前の忰は此のねえさんのとこへ毎晩来てしからんことを云掛け、云う事をきかんければ、鉄砲で打つの、刄物で斬るのと云うので、娘さんも誠に困ってわしへお頼みじゃ、娘さんが墓参りに行ったあとへお前の子息むすこが来て、床の中に入ってるとも知らずお前が殺したのじゃ」
五「へえ、あゝー、お嬢さま真平まっぴら御免なすって下さいまし、実は悪い事は出来ないもんでございます、たちまちのうちに悪事が我子わがこに報いました、斯う覿面てきめんばちの当るというのは実に恐ろしい事でございます、わたくしは他に子供はございません、此様こん[#「此様こんの」は「此様こんな」の誤記か]田舎育ちの野郎でも、たっ一粒者ひとつぶものでございます、人間は馬鹿でございますが、私の死水しにみずを取る奴ゆえ、母がなくなりましてから私の丹誠で是までにした唯た一人の忰を殺すというのは、みんな私の心の迷い、強慾非道の罰でございます」
僧「土台呆れた話じゃが、何ういう訳でお前は我子を殺した」
五「はい、申上げにくい事でございますが、此の甲州屋も二十年前までは可なりな宿屋でございました処が、わたくしは年をりましても、酒や博奕ばくちが好きでございまして、身代を遂に痛め、此者これの母も苦労して亡りました、斯うやって表をはっては居りますが、実は苦しい身代でございます、ところが此のお嬢様が先達せんだって宿賃をお払いなさる時に、懐から出した胴巻には、金が七八十両あろうと見た時は、面皰にきびの出る程欲しくなりました、あゝ此の金があったら又一山ひとやまおこして取附く事もあろうかと存じまして、無理に七日までお泊め申しましたが、愈々いよ/\明日みょうにちお立ちと聞きましたゆえ、思い切って今晩そっと此のお嬢様を殺して金をろうとたくみました、死骸は田圃伝えに背負出しょいだして、墓場へ人知れず埋めてしまえば、誰にも知れる気遣きづかいないと存じまして、忍んで参りました、道ならぬ事をいたした悪事は、たちまち報い、一人の忰を殺しますとは此の上もない業曝ごうさらしで、実に悪い事は出来ないと知りました、わたくしう五十九でございます、お嬢さま何とも申し訳がございませんから、私は死んでしまい、貴方に申訳をいたします」
 と云切るが早いか、出刄庖丁を取って我がのどに突立てんとするから、
僧「あゝ暫く待ちなさい、まア待ちなさい、お前がこれ死んだからって言訳が立つじゃアなし、命を棄てたって何の足しにもなりゃアせん、嬢さんの御迷惑にこそなれ、いか先非せんぴを悔い、あゝ悪い事をした、たった一人の子を殺したお前の心の苦しみというものは一通りならん事じゃ、是もみなばちだ、一念の迷いから我子を殺し、其の心の苦しみを受け、一旦の懺悔ざんげによって其の罪は消えている、見なさいお嬢様の一命は助かり、お前の子はお嬢様の身代りになったんじゃ、誠に気の毒なは此の息子さん、嬢さん何事も此の息子さんに免じてお前さんも堪弁かんべんなさい、何日いつまでもあだに思っているとかえってお前さんの死んだ御家来さんの為にもならん、いか、又御亭主は客に対して無礼をしたとか、道楽をして棄置すておかれん、親に苦労をかけてたまらんから殺しましたと云って尋常に八州へ名告なのって出なさい、なれども一人の子をわたくしに殺すのは悪い事じゃから髪の毛を切って役所へ持ってけば、是には何か能々よく/\の訳があって殺したというかどで、お前さんにひどく難儀もかゝるまいと思う、うして出家をげ、息子さんの為に四国西国を遍歴して、其の罪滅つみほろぼしをせんければ、ても尋常なみの人に成れんぞ」
五「はい/\」
僧「是から陰徳を施し、善事を行うが肝心、今までの悪業を消すは陰徳を積むより他に道はないぞ」
五「有難うございます」
僧「あゝ何うも気の毒な事じゃなア、お嬢さん」

        三十六

 お竹は不思議な事と心の内で忠平の霊に回向をしながら、
竹「ま、わたくしは助かりましたが、誠に思い掛けない事で」
僧「いや/\世間は無常のもので、実に夢幻泡沫でじつなきものと云って、実はまことに無いものじゃ、世の人は此のらんによって諸々もろ/\貪慾執心どんよくしゅうしんが深くなって名聞利養みょうもんりように心をいらってむさぼらんとする、是らは只今生こんじょうの事のみをおもんぱかり、旦暮あけくれ妻子眷属さいしけんぞく衣食財宝にのみ心を尽して自ら病を求める、人には病は無いものじゃ、思う念慮ねんりょが重なるによって胸に詰って来ると毛孔けあなひらいて風邪を引くような事になる、人間元来もと病なく、薬石やくせきこと/″\く無用、自ら病を求めて病がおこるのじゃ、其の病を自分手にこしらえ、遂に煩悩という苦悩なやみも出る、これを知らずに居って、今死ぬという間際の時に、あゝ悪いことをした、あゝせつない何う仕よう、此の苦痛を助かりたいと、始めて其の時に驚いて助からんと思っても、それはても何の甲斐もない事じゃ、此のを知らずして破戒無慚むざん邪見じゃけん放逸ほういつの者を人中じんちゅうの鬼畜といって、鬼の畜生という事じゃ、それ故に大梅和尚たいばいおしょう馬祖大師ばそだいしに問うて如何いかなるかれ仏、馬祖答えて即心即仏という、大梅が其の言下ごんか大悟だいごしたという、其の時に悟ったじゃ、此の世は実に仮のものじゃ、只四縁しえんの和合しておるのだ、幾らお前が食物たべものが欲しい著物きものが欲しい、金が欲しい、斯ういう田地が欲しいと云った処が、ぴたりと息が絶えれば、何一つ持ってくことは出来やアしまい、四縁とは地水火風ちすいかふう、此の四つで自然に出来ておる身体じゃ、仮に四大(地水火風)が和合して出来てるものなれば、自分の身体も有りはせん、実は無いものじゃ、自然に是は斯うする物じゃという処へ心が附かんによって、わが心があると思われ、わが身体を愛し、自分に従うて来る人のみを可愛がって、う訪ねて来てくれたと悦び、自分にそむく者は憎い奴じゃ、彼奴あいつはいかんと云うようになる、人を憎む悪い心が別にあるかというに、別にあるものでもない、即仏じゃ、親父が娘を殺して金子をろうとした時の心は実に此の上もない極重悪人なれども、たちま輪回応報りんえおうほうして可愛い我子を殺し、あゝ悪い事をしたと悔悟かいごして出家になるも、即ち即心即仏じゃ、えゝ他人を自分の身体と二つあるものと思わずに、欲しい惜しいの念を棄てゝしまえば、争いもなければおこる事もない、自他の別を生ずるによって隔意かくいが出来る、隔意のある所から、物の争いが出来るものじゃ、先方むこうに金があるから取ってやろうとすると、先方むこうではわしの物じゃかららん用を勤めたら金を遣るぞ、勤めをして貰うのは当然あたりまえだから、先方さきへくれろ、それを此方こっちゃで只取ろうとする、先方さきでは渡さんとする、是が大きゅうなると戦争いくさじゃ、実に仏も心配なされて西方極楽世界阿弥陀仏を念じ、称名しょうみょうして感想をこらせば、臨終の時に必ず浄土へ往生すと説給ときたまえり、南無阿弥陀仏/\」
 圓朝が此様こんなことを云ってもお賽銭さいせんには及びません、悪くすると投げる方があります。段々と有難い事をの宗達という和尚さんが説示ときしめしたからお竹も五平を恨む念は毛頭ありません。
竹「お前此の金が欲しければみんな上げよう」
五「いえ/\金はりません、わたくし剃髪ていはつして罪滅しの為に廻国かいこくします」
 というので剃刀かみそりを取寄せて宗達が五平をくり/\坊主にいたしました。早四郎の死骸は届ける所へ届けて野辺の送りをいたし、あとは他人へ譲り、五平は罪滅しのため四国西国へ遍歴に出ることになり、お竹は是より深い事は話しませんが、
わたくしは粂野美作守の家来渡邊という者の娘で、弟は祖五郎と申して、只今は美作国みまさかのくにへまいって居ります、弟にも逢いたいと存じますし、江戸屋敷の様子も聞きたし、弟もお国表へまいって家老に面会いたし、事の仔細が分りますれば江戸屋敷へまいるはずで、の道便りをするとは申して居りましたが、案じられてなりませんから、家来の忠平という者を連れてまいるみちで長く煩いました上、遂に死別しにわかれになりまして、心細い身の上で、旅慣れぬ女のこと、どうか御出家様私を助けると思召おぼしめし、江戸までお送り遊ばして下さいますれば、ようにもお礼をいたしましょう、お忙しいお身の上でもございましょうが、お連れ遊ばして下さいまし」
 と頼まれて見ると宗達も今更見棄てる事も出来ず、
宗「それは気の毒なことで、それならばわしと一緒に江戸まできなさるがわしは江戸には別に便たよる処もないが、谷中の南泉寺へ寄って已前いぜん共に行脚あんぎゃをした玄道げんどうという和尚がおるから、それでも尋ねたいと思う、ま兎も角もお前さんを江戸屋敷まで送って上げます」
 と云うのでようようの事にて江戸表へまいりましたが、上屋敷へも下屋敷へもまいる事が出来んのは、かねてお屋敷近い処へ立寄る事はならんと仰せ渡されて、おいとまになった身の上ゆえ、本郷春木町の指物屋岩吉方へまいり、様子を聞くと、岩吉は故人になり、職人が家督あとを相続して仕事を受取って居りますことゆえ、とて此処こゝの厄介になる事は出来ません。仕方がないので、どうか様子を下屋敷の者に聞きたいと谷中へ参りますと、い塩梅に佐藤平馬さとうへいまという者に会って、様子を聞くと、平馬の申すには、
平「弟御おとゝご此方こっちへおいでがないから、此の辺にうろ/\しておいでになるはお宜しくない、全体お屋敷近い処へ入らっしゃるのは、そりゃアお心得違いな事で、ま貴方は信州においでゞ、時節を待ってござったら御帰参のかなう事もありましょう、御舎弟も春部殿も未だ江戸へはおいでがない、仮令たとえ御家老にんなお頼みがありましても無駄な話でございます」
 と撥付はねつけられ、
竹「左様なら弟は此方こちらへまいっては居りませんか」
平「左様、御舎弟はたしかにお国においでだという話は聞きましたが、多分お国へ行って、お国家老へ何かお頼みでもある事でございましょう、しか大殿様おおとのさまは御病気の事であるが、事に寄ったら御家老の福原様ふくはらさま御出府ごしゅっぷになる時も、お暇になった者を連れておいでになる筈がないから、是は音信たよりを待ってお国においででございましょう、殿様は御不快で、中々御重症だという事でございまして、私共わたくしどもは下役ゆえ深い事は分りませんが、此のお屋敷近い処へ立廻るはお宜しくない事で」
 という。此の佐藤平馬という奴は、内々ない/\神原五郎治四郎治の二人から鼻薬をかわれて下に使われる奴、提灯持ちょうちんもちの方の悪い仲間でございますから、く訳の分らんように云いましたのは、お竹にお屋敷の様子が聞かしたくないから、真実まことしやかに云ってお屋敷近辺へ置かんように追払おっぱらいましたので、お竹はどうも致方いたしかたがない、旧来馴染の出入町人の処へまいりましても、長く泊ってもられません、又一緒にまいった宗達も、長くはられません理由わけがあって、或時お竹に向い、
宗「わしは何うしても美濃の南泉寺へ帰らんければならず、それに又私はと懇意なものが有って、田舎寺に住職をしている其の者を尋ねたいと思うが、貴方は是から何処どこへ参らるゝ積りじゃ」
竹「何処へも別にまいる処もありませんが、お国へまいれば弟が居ります、成程御家老も弟を連れて、おいでは出来ますまい、御帰参の叶う吉左右きっそうを聞くそれまではお国表にいる事でございましょうから、わたくしもどうかお国へ参りとうございます」
宗「しかしどうも女一人ではかれんことで、何ともお気の毒な事だ、じゃアまア美作の国といえばれ百七八十里へだった処、わしが送る訳にはいかんが、今更見棄てることも出来ないが、美濃の南泉寺までは是非かんければならん、東海道筋も御婦人の事ゆえ面倒じゃ、手形がなければならんが、何うか工風くふうをして私がお送り申したいが、困った事で、兎に角南泉寺まで一緒にきなさい、彼方あっちの者は真実があって、随分俗の者にも仏心ぶっしんがあってな、寺へ来て用やなんかするからそいらに頼んだら美作の方へ用事があってまいる者があるまいとも云えぬ、其の折に貴方を頼んでお国へかれるようだと私も安心をします、私は坊主の身の上で、婦人と一緒に歩くのは誠に困る、衆人ひとにも見られて、いやな事でも云われると困る、けれども是も仕方がないから、まきなさるがい、私は本庄宿ほんじょうじゅく海禅寺かいぜんじへ寄って一寸ちょっと玄道という者に会って、それから又美濃まで是非きますから御一緒にまいろう、それには木曾路の方が銭が要らん」
 と御出家はおごらんから、寒くなってから木曾路を引返し本庄宿へまいりまして、婦人ではあるけれどもこれ/\の理由わけだ、と役僧にお竹の身の上話をして、其の寺に一泊いたし、段々日数ひかずを経てまいりましたが、元より貯え金は所持している事で、ようやく碓氷を越して軽井沢かるいざわと申す宿しゅくへまいり、中島屋なかじまやという宿屋へ宿やどを取りましたは、十一月の五日でござります。

        三十七

 木曾街道でも追分おいわけ沓掛くつがけ軽井沢などは最も寒い所で、たれやらの狂歌に、着て見れば綿がうすい(碓氷)か軽井沢ゆきたけ(雪竹)あってすその寒さよ、丁度碓氷の山のふもとで、片方かた/\は浅間山の裾になって、ピイーという雪風で、暑中にまいりましても砂をとばし、随分半纒はんてんでも着たいような日のある処で、恐ろしい寒い処へ泊りました。もう十一月になるとの辺は雪でございます、初雪でも沢山降りますから、出立をすることが出来ません、詮方せんかたがないから逗留とうりゅうという事になると、お竹は種々いろ/\心配いたしている。それを宗達という和尚さまが真実にしてくれても何とのう気詰り、便りに思う忠平には別れ、おとゝ祖五郎の行方は知れず、お国にいる事やら、たゞしは途中でわずらってゞもいやアしまいか、などと心細い身の上で何卒どうぞして音信たよりをしたいと思っても何処どこにいるか分らず、御家老様の方へ手紙を出していか分りませんが、心配のあまり手紙を出して見ました。只今の郵便のようではないから容易には届かず、返事も碌に分らんような不都合の世の中でございます。お竹は過越すぎこし方を種々思うにつけ心細くなりました、これが胸に詰ってしゃくとなり、折々差込みますのを宗達が介抱いたします、相宿あいやどの者も雪のために出立する事が出来ませんから、多勢おおぜい囲炉裡いろり周囲まわりかたまって茫然ぼんやりして居ります。中には江戸子えどっこで土地を食詰くいつめまして、旅稼ぎに出て来たというような職人なども居ります。
○「おいてつう」
鐵「えゝ」
○「からまア毎日めいにち/\降込められて立つことが出来ねえ、江戸子が山の雪を見ると驚いちまうが、飯を喰う時にずうと並んで膳が出ても、誰も碌に口をきかねえな」
鐵「そうよ、黙っていちゃア仕様がないから挨拶えゝさつをして見よう」
○「えゝ」
鐵「挨拶えゝさつをして見ようか」
○「してもいが、きまりが悪いな」
鐵「えゝ御免ねえ……へえ……どうも何でごぜえやすな、お寒いことで」
△「はア」
鐵「おめえさん方は何ですかえ、相宿のお方でげすな」
△「はア」
鐵「何を云やアがる……がア/\って」
○「手前てめえが何か云うからはアというのだ、いじゃアねえか」
鐵「変だな、えゝゝ毎日めえにち膳が並ぶとおたげえに顔を見合せて、御飯おまんまを喰ってしまうと部屋へへいってごろ/\寝るくれえの事で仕様がごぜえやせんな、夜になると退屈てえくつで仕様が有りませんが、なんですかえおまえさん方は何処どこかえお出でなすったんでげすかえ」
△「わしはその大和路の者であるが、少し仔細あって、えゝ長らく江戸表にいたが、故郷こきょうぼうがたく又帰りたくなって帰って来ました」
鐵「へえーうで……其方そちらのお方はお三人連で何方どちらへ」
□「わし常陸ひたちりゅうヶ崎さきで」
鐵「へえ」
□「常陸の竜ヶ崎です」
鐵「へえー何ういう訳で此様こんな寒い処へ常陸からおいでなさったんで」
□「種々いろ/\信心がありまして、全体毎年まいねん講中こうじゅうがありまして、五六人ぐらいで木曾の御獄様おんたけさま参詣さんけいをいたしますが、村の者の申し合せで、先達せんだつさんもおいでになったもんだから、同道してまいりやした、実は御獄さんへ参るにも、雪を踏んで難儀をしてくのが信心だね」
鐵「へえー大変でげすな、御獄さんてえのは滅法けえたけえ山だってね」
□「高いたって、それは富士より高いと云いますよ、あなた方も信心をなすって二度もお登りになれば、少しは曲った心も直りますが」
鐵「えへゝゝゝわっちどもは曲った心が直っても、側から曲ってしまうから、旨く真直まっすぐにならねえので……えゝ其方そちらにおいでなさる方は何方どちらで」
 此の客は言葉が余程鼻にかゝり、
×「わしは奥州仙台しんでい
鐵「へえ…仙台しんでいてえのは」
×「奥州で」
鐵「左様でがすか、えゝ衣を着ておつむりが丸いから坊さんでげしょう」
×「いしやでがす」
鐵「へ何ですと」
×「医者いしやでがす」
鐵「石工いしやだえ」
×「いゝや医道いどうでがす」
鐵「へえー井戸掘にア見えませんね」
×「井戸掘ではない、医者いしゃでがす」
鐵「へえーお医者で、わっちどもはいけぞんぜえだもんだから、お医者と相宿になってると皆も気丈夫でごぜえます、ちっとばかり薄荷はっかがあるならめたいもんで」
×「左様な薬は所持しない、なれども相宿の方に御病気でお困りの方があって、薬をくれろと仰しゃれば、なおる癒らないは、それはまた薬がしょうに合うと合わん事があるけれども、盛るだけは盛って上げるて」
鐵「へえー、斯う皆さんが大勢寄って只茫然ぼんやりしていても面白くねえから、何か面白おもしれえ百物語でもして遊ぼうじゃアありやせんか、大勢寄っているのですから」
医「それも宜うがすが、まく大勢寄ると阿弥陀の光りという事を致します、鬮引くじびきをして其の鬮に当った者が何か買って来るので、夜中でもいといなく菓子をけえくとか、酒をけえくとかして、客の鬮を引いた者は坐ってゝ少しも動かずに人の買って来る物をしょくして楽しむという遊びがあるのです」
鐵「へえーそれは面白おもしれえが、珍らしい話か何かありませんかな」
医「左様でげす、別に面白い話もありませんですな」
鐵「気のねえ人だな何か他に」
○「手前てめえ出て先へしゃべるがいゝ」
鐵「喋るたっておれア喋る訳にはかねえ、何かありませんかな、お医者さまは奥州仙台だてえが、面白おもしろおっかねえ化物ばけものが出たてえような事はありませんかな」
医「左様で別に化物が出たという話もないが、奥州は不思議のあるところでな」
鐵「へえー左様でござえやすかな」
医「貴方は何ですかえ、松島見物においでになった事がありますかえ」
鐵「いや何処どこへも行ったことはねえ」
医「松島は日本三景の内でな、随分江戸のお方が見物に来られるが此のくらい景色のい所はないと云ってな、船で八百八島を巡り、歌をえいじ詩を作りに来る風流人が幾許いくらもあるな」
鐵「へえー松島に何か心中でもありましたかえ」
医「情死などのあるところじゃアないが、差当さしあたって別にどうも面白い話もないが、医者は此様こんきたな身装みなりをして居てはいけません、医者はなりと云うて、玄関が立派で、身装がよくって立派に見えるよう、風俗が正しく見えるようでなければ病者びょうしゃが信じません、随って薬もおのずから利かんような事になるですが、医者は頓知頓才と云ってず其の薬より病人の気をはかる処が第一と心得ますな」
鐵「へえー何ういう……気を料る処がありますな」
医「先年乞食が難産にかゝって苦しんでいるのを、所の者が何うかして助けて遣りたいと立派な医者を頼んでて貰うと、是はどうも助からん、片足出ていなければいが、片手片足出て首が出ないから身体が横になってつかえてゝ仕様がない、細かに切って出せば命がないと途方に暮れ、立合った者もな可愛そうだと云っている処へ通りかゝったのが愚老でな」
鐵「へえ……それからお前さんがうましたのかえ」
医「それから療治にかゝろうとしたが、道具をたくへ置いて来たので困ったが、此処こゝが頓智頓才で、出ている片手を段々と斯う撫でましたな」
鐵「へえ」
医「撫でているうちを開けました」
鐵「成程」
医「それから愚老が懐中から四文銭を出して、赤児あかごの手へ握らせますと、すうと手を引込ひっこまして頭の方から安々やす/\と産れて出て、お辞儀をしました」
鐵「へえまじないでげすか」
医「いや乞食のだから悦んで」
鐵「ふゝゝ人を馬鹿にしちゃアいけねえ、本当だと思ってたのに洒落者しゃれもんだね、田舎者だって迂濶うっかりした事は云えねい……えゝ其方そちらの隅においでなさるお方、あなたは何ですかえ、矢張お医者さまでごぜえやすか」
僧「いや、わしは斯ういう姿で諸方を歩く出家でござる」
鐵「えゝ御出家さんで、御出家なら幽霊なぞを御覧なすった事がありましょう」
僧「幽霊は二十四五たび見ました」
鐵「へえ、此奴こいつ面白おもしれえ話だ、二十四五度……どんなのが出ました」
僧「種々いろ/\なのが出ましたな、嫉妬やきもちの怨霊は不実な男に殺された女が、口惜くちおしいと思った念がって出るのじゃが、世の中には幽霊は無いという者もある、じゃが是はある」
鐵「へえ、ど何んな塩梅あんばいに出るもんですな」
僧「形は絵にいたようなものだ、朦朧ぼんやりとして判然はっきり其の形は見えず、只ぼうと障子やからかみへ映ったり、上の方だけ見えて下の方はけむのようで、どうも不気味なものじゃて」
鐵「へえー貴方の見たうちで一番怖いと思ったのはどういう幽霊で」
僧「えゝ、左様さ先年美濃国みののくにから信州の福島在の知己しるべの所へ参った時の事で、此の知己はなりの身代で、山も持っている者で、其処そこしばらく厄介になっていた、其の村に蓮光寺れんこうじという寺がある、其の寺の和尚が道楽をしていかんあれは放逐せねばならんと村中が騒いで、急に其の和尚を追出すことになったから、お前さん住職になってくれないかと頼まれましたが、わしは住職になる訳にはゆかん、行脚あんぎゃの身の上で、しかし葬式でもあった時には困ろうから、後住ごじゅうきまるまで暫くいて上げようと云うんで、其の寺に居りました」
鐵「へえー」
僧「するとわし知己しるべの山持の妾が難産をして死んだな」
鐵「へえー」
僧「それがそれ、ま主人あるじが女房に隠して、うちにいた若い女に手を附け、それがま懐妊したによって何時いつか家内の耳に入ると、悋気深りんきぶかい本妻が騒ぐから、知れぬうちに堕胎おろしてしまおうと薬を飲ますと、まい塩梅にりましたが、其の薬の余毒よどくのため妾は七転八倒の苦しみをして、うーんうんと夜中にうなるじゃげな」
鐵「へえー此奴こいつこわえなア」
僧「怨みだな、斯う云う事になったのも、わたしは奉公人の身の上相対あいたいずくだから是非もないが、内儀おかみさんが悋気深いためにわしに斯ういう薬を飲ましたのじゃ、内儀さんさえ悋気せずば此の苦しみは受けまい、あゝ口惜くやしい、わたしは死に切れん、初めて出来た子は堕胎おろされ、私も死に、親子諸共に死ぬような事になるも、内儀さんのお蔭じゃ、口惜くやしい残念と十一日の間云い続けて到頭死にました、その死ぬ時な、うーんと云って主人の手を握ってな」
鐵「へえ」
僧「目を半眼にして歯をむき出し、旦那さまわたくしは死に切れませんよ」
○「やア鐵う、もっと此方こっちへ寄れ……気味が悪い、どうもへえー成程……そこを閉めねえ、風がぴゅー/\入るから……へえー」
僧「気の毒な事じゃが、仕方がない、そこでわしがいた蓮光寺へ葬りました、他に誰も寺参りをするものがないから、主人が七日までは墓参りに来たが、七日後は打棄うっちゃりぱなしで、花一本げず、寺へ附届つけとゞけもせんという随分不人情な人でな」
○「へえーひどい奴だね、其奴そいつア怨まア、すぐ幽的ゆうてきが出ましたかえ」
僧「わしも可愛そうじゃアと思うた、斯ういう仏は血盆地獄けっぽんじごくおちるじゃ、早く云えば血の池地獄へ落るんじゃ」
○「へえー」
僧「斯ういう亡者もうじゃには血盆経けっぽんきょうを上げてやらんと……」
○「へえー……けつ……なんて……けつを……棒で」
僧「いや血盆経というお経がある、七日目になア其の亥刻こゝのつ[#「亥刻こゝのつ」はママ、「子刻こゝのつ」か「亥刻よつ」であるかの判別付かず]前じゃったか、下駄をいて墓場へき、線香を上げ、其処そこりんならし、長らく血盆経を読んでしもうて、わしがすうと立って帰ろうとすると」
○「うん、うん」
僧「前が一面乱塔場らんとうばで、裏はずうと山じゃな」
○「うん/\」
僧「其の山の藪の所が石坂の様になってるじゃ、其の坂をりに掛ると、うしろでぼーずと呼ぶじゃて」
○「ふーん、これはこわえな、鐵もっと此方こっちへ寄れ、成程お前さんを呼んだ」
僧「何もわしに怨みのある訳はない、縁無き衆生しゅじょうがたしというが、わしは此の寺へ腰掛ながら住職の代りに回向えこうをしてやる者じゃ、それを怨んで坊主とは失敬な奴じゃと振向いて見た、此方こちらいきおいが強いのでう声がせんな」
○「へえー度胸が宜うごぜえやすな、強いもんだね、始終死人の側にばかりいるから怖くねえんだ、うーん」
僧「それから又きにかゝると、また皺枯しわがれた声での底の方でぼーずと云うじゃて」
○「早桶はやおけうめちまった奴が桶の中でお前さんを呼んだのかね」
僧「誰だと振向いた」
○「へえ……先方せんぽうで驚いて出ましたか、穴の中から」
僧「振向いて見たがんにも居ないから、墓原はかはらへ立帰って見たが、墓には何も変りがない、はて何じゃろうと段々探すと、山の根方の藪ん中に大きな薯蕷やまいもが一本あったのじゃ、これが世に所謂いわゆる坊主/\山のいもじゃて」
○「何のこった、人を馬鹿にして、しか面白おもしれえ、何か他に、あゝ其方そっちにいらっしゃるお侍さん、えへゝゝ、旦那何か面白おもしろえお話はありませんか」
侍「いや最前から各々方おの/\がたのお話を聞いていると、可笑おかしくてたまらんの、拙者も長旅で表向おもてむき紫縮緬むらさきちりめん服紗包ふくさづゝみはす脊負しょい、裁着たッつけ穿いて頭を結髪むすびがみにして歩く身の上ではない、形はかくの如く襤褸袴ぼろばかまを穿いている剣道修行の身の上、早く云うと武者修行で」
○「これはどうも、左様ですか、武者修行で、へえーう聞けばお前さんの顔に似てえる」
侍「何が」
○「いえ、そら久しい以前あと絵に出た芳年よしとしいたんで、鰐鮫わにざめを竹槍で突殺つッころしている、鼻が柘榴鼻ざくろッぱなで口が鰐口で、眼が金壺眼かなつぼまなこで、えへゝゝ御免ねえ」
侍「しからん事をいう、人の顔を讒訴ざんそをして無礼至極」
○「なに、お前さんは左様そんなでもねえけれども、ちっと似てえるという話だ」
侍「貴公らは江戸のものか、職人か」
○「へえ」
侍「成程」
○「旦那、みんなは嘘っぺいばかしでいけませんが、なん面白おもしろえ話はありませんかね」
侍「貴公あんた先にやったら宜かろう」
○「わっちどもはい話がえんで、火事のあった時に屋根屋のとくの野郎め、路地を飛越しそくなやアがって、どんと下へ落ると持出した荷の上へ尻餅をき、睾丸きんたまを打ち、目をまわし、ふくろほころびて中からたまが飛出して」
侍「ういう尾籠びろうの話はいけんなア」
○「それから乱暴勝らんぼうかつてえ野郎が焚火たきび※(「火+共」、第3水準1-87-42)あたって、金太きんたという奴を殴るはずみにぽっぽと燃えてる燼木杭やけぼっくいを殴ったからたまらねえ、其の火が飛んで金太の腹掛の間へへいって、苦しがって転がりやアがったが、余程よっぽど面白うござえました」
侍「其様そんな事は面白くない」
○「そんなら旦那何ぞ面白え話を」
侍「先刻せんこくから空話そらばなしばかり出たので、拙者の話を信じて聞くまいから、どうもやりにくい」

        三十八

 向座敷むこうざしきにてぽん/\と手を打ち、
宗「たれも居ぬかな」
下婢「はい」
 此の座敷に寝ているのは渡邊お竹で、宗達が看病を致して居りますので、
婢「お呼びなさいましたかえ」
宗「一寸ちょっとこゝへ入ってくれ」
婢「はい」
宗「ついでに水を持って来ておくれ、病人がうと/\眠附ねつくかと思うと向座敷で時々大勢がわアと笑うので誠に困る」
婢「誠におやかましゅうござりやしょう」
宗「其処そこをぴったり閉めておくれ」
婢「かしこまりやした」
 と立って行って大勢の所へ顔を出しまして、
「どうかあの皆さん相宿の方に病人がありやすから、あんまでけえ声をして、わア/\笑わないように、喧しいと病人が眠り付かねえで困るだから、しずかになさえましよ」
侍「はい/\宜しい……病人がいるなら止しましょう」
○「小声でやってくだせえ、みんなそらっぺえばなしで面白くねえ、旦那が武者修行をした時の、蟒蛇うわばみ退治たいじたとか何とかいうきついのを聞きたいね」
侍「左様さ拙者は是迄恐ろしい怖いというものに出会った事はないが、※(「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2-94-68)のぶすまに両三度出会った時は怖いと思ったね」
○「ど何処どこで」
侍「南部なんぶ恐山おそれざんから地獄谷のむこうへ抜ける時だ」
○「へえー名からしておっかねえね恐山地獄谷なんて」
侍「此処こゝ一騎打いっきうち難所なんじょで、右手めてほうを見ると一筋ひとすじの小川が山のふもとめぐって、どうどうと小さい石を転がすようにすさまじく流れ、左手ゆんでかたを見ると高山こうざん峨々がゞとして実に屏風を建てたる如く、誠に恐ろしい山で、生茂おいしげり、熊笹が地をおおうている、道なき所を踏分け/\段々りて来たところが、人家はたえてなし、雨は降ってくる、困ったことだと思い、暫く考えたがみちは知らず、深更しんこうに及んで狼にでも出られちゃア猶更と大きに心配した、時は丁度秋のすえさ、すると向うにちら/\と見える」
○「へえー、出たんでござえやすか、狼の眼は鏡のように光るてえから、貴方がうんと立止って小便ちょうずをなすったろう」
侍「なに、小便ちょうずなどをやアせん」
○「それから」
侍「これは困ったものじゃ、彼処あすこに誰か焚火たきびでもして居るのじゃアないかと思った」
○「成程山賊が居て身ぐるみ脱いでけてえと、お前さんひっこぬいて斬ったんで」
侍「まゝ黙ってお聞き、そう先走られると何方どっちが話すのだか分らん、山賊が団楽坐くるまざになっていたのではない、一軒の白屋くずやがあった」
○「へえー山ん中に……問屋といやでしょう」
侍「なに茅屋あばらや
○「え、油屋あぶらや
侍「油屋じゃアない、壊れた家をあばらやという」
○「しっかりした家は脊骨屋せぼねやで」
侍「そう先走っては困る、其家そこへ行って拙者は武辺修行ぶへんしゅぎょうの者でござる、かる山中さんちゅうみちに踏み迷い、かつ此の通り雨天になり、日は暮れ、誠に難渋を致します、一樹いちじゅの蔭を頼むと云って音ずれると、奥から出て来た」
○「へえー肋骨あばらぼねが出て、歯のまばらな白髪頭しらがあたまばゞあが、片手になた見たような物を持って出たんだね、一つの婆で、上から石が落ちたんでげしょう」
侍「うじゃアない、二八余りの賤女しずのめが出たね」
○「それじゃア気がえ、雀が二三羽飛出したのかえ」
侍「賤女しずのめ
○「えゝ味噌汁おつけの中へ入れる汁の実」
侍「汁の実じゃアない、二八余り十六七になる娘が出たと思いなさい」
○「へえーうちに居たんだね、容貌おんなうごぜえやしたろうね、容貌おんなは」
侍「そんな事は何うでも宜しいが、く見るとおつな女さ」
○「へえー、おい鐵、此方こっちへ寄れ、ちょいと見るとい女だが、能く見ると眇目めっかちで横っつらばかり見た、あゝいう事があるが、矢張やっぱり其のたちなんでしょう」
侍「足下そっかが喋ってばかり居っては拙者は話が出来ぬ」
○「じゃア黙ってますから一つやって下せえ」
侍「それから紙燭しそくけて出て来て、お武家さま斯様な人も通らん山中やまなかへ何うしてお出でなさいました、拙者は武術修業の身の上ゆえ、あえて淋しい処を恐れはせぬが如何にも追々は更けるし、雨は降って来る、誠に難渋いたすによって一泊願いたいと云うと、何事も行届ゆきとゞきません、召上る物も何もございませんし、着せておかし申す物もございません、それが御承知なれば見苦しけれども御遠慮なくお泊り遊ばせと、親切な女で汚いたらいへ谷水を汲んで来て、足をお洗いなさいというので足を洗いました」
○「へえー其の娘の親父か何かいましたろう」
侍「親父もいない、娘一人で」
○「へえー……母親おふくろもいませんか」
侍「そう喋っては困りますな」
○「もう云いません、それから」
侍「ところが段々聞くと両親もなく、只一人かゝる山の中に居って、みずか自然薯じねんじょを掘って来るとか、あるいきのこるとか、たきゞを採るとか、女ながら随分荒い稼ぎをしてかすかに暮しておるという独身者ひとりものさ、見れば器量もなか/\い、色が白くて目は少し小さいが、眉毛が濃い、口元が可愛らしく、髪の毛の光艶つやし、山家やまがまれな美人で」
○「へえー、ふう成程」
侍「何とも云やアしない、まア黙ってお聞き」
○「へえ」
侍「拙者は修業の身の上で、好い女だとは思いましたけれど、いやらしい事を云い掛けるなどの念は毛頭ない」
○「それは何年頃いつごろの事ですか」
侍「丁度五年以前あとの事で」
○「あなたは幾歳いくつだえ」
侍「其様そんな事を聞かなくともい、三十九才じゃ」
○「老けているね……五年以前あと、じゃアだアさかりな時でごぜえやすな」
侍「左様」
○「へえ、それから何うしました」
侍「拙者の枕元へ水などを持って来て、のどが渇いたら召上れと種々いろ/\手当をしてくれる、蕎麦掻そばがきこしらえて出したが、不味まずかったけれども、親切の志有難く旨く喰いました」
○「蕎麦粉は宜うごぜえやしたろうが、醤油したじが悪かったにちげえねえ、ぷんと来るやつで、此方こっち醤油したじを持ってきたいね」
侍「何を云っている」
○「へえ、それから」
侍「娘は向うの方へ一人で寝る、時は丁度秋の末の事、山冷やまびえでどうも寒い、雨はばら/\降る」
○「成程/\うん/\」
侍「娘は何うしたか何時いつまでも寝ないようで」
○「うん(膝へ手を突き前へ乗出し)それから」
侍「拙者に夜具を貸してしまい、娘は夜具無しで其処そこへごろりと寝ているから、どうも其方そなたの着る物を貸して、此の寒いのに其方が夜具無しで寝るような事じゃア気の毒じゃ、風でも引かしては宜しくないというと、いえ宜しゅうございます、なに宜しい事はない、掛蒲団かけぶとんだけ持って行ってください、拙者は敷蒲団をかけて寝るから、いゝえ何う致しまして、それならば旦那さま恐入りますが、貴方のおすその方へでも入れて寝かしてくださいませんかと云った」
○「へえー、ふう鐵もっと此方こっちへ出ろ、面白い話になって来た、旦那は真面目になってるが、く見ると助平そうな顔付だ、目尻がさがってて、旨く女をごまかしたね、中々油断は出来ねえ、白状おしなさい」
侍「ま、黙ってお聞きなさい、かりそめにも男女なんにょ七才にして席を同じゅうせずで、一つ寝床へ女と一緒に寝て、ひとに悪い評でも立てられると、修行の身の上なれば甚だ困ると断ると、左様ならば御足おみあしでもさすらして下さいましと云った」
○「へえー、女の方で、えへ/\、矢張やっぱり山の中で男珍らしいんで、えへ/\/\成程うん」
侍「どうも様子がおかしい、変だと思った」
○「なに先で思っていたんでしょう」
侍「それから拙者は此方こっちの小さい座敷に寝ていると、改めて又枕元へ来てぴたりとひざまずいて」
○「其の女が蹴躓けつまずきやアがったんで」
侍「蹴躓いたのではない、丁寧に手を突いて、先生わたくしは何をお隠し申しましょう、親のかたきを尋ねる身の上でございます」
○「うん、其の女が…成程」
侍「敵は此の一村ひとむらいて隣村に居ります、わずかに八里山を越すと、現に敵が居りながら、女の細腕で討つことが出来ません、先方は浪人者で、わたくしの父はそまをいたして居りましたが、山界やまざかいの争い事から其の浪人者が仲裁なかに入り、掛合かけあいに来ましたのをはずかしめて帰した事があります、其の争いに先方さき山主やまぬしが負けたので、礼も貰えぬ所から、それを遺恨に思いまして、其の浪人が私の父を殺害せつがいいたしたに相違ないという事は、世間の人も申せば、私も左様に存じます、其のそば扇子せんすが落ちてありました、黒骨の渋扇しぶせんへ金で山水がいて有って、たしかに其の浪人が持って居りました扇子おうぎで見覚えが有ります、どうか先生を武術修行のお方とお見受け申して、お頼み申しますが、助太刀をなすってかたきを討たして下さいませんか、始めてお泊め申したお方に何とも恐入りますが、助太刀をなすって本意を遂げさせて下されば、の様な事でも貴方のお言葉は背きません、不束ふつゝかな者で、とてもお側にいるという訳には参りませんが、御飯焚ごはんたきでもお小間使いでも、お寝間のとぎでも仕ようという訳だ」
○「へえー、此奴こいつ矢張やっぱりういう事があるんでげしょう、へえー、なア……鐵やい、左官のまつの野郎が火事の時に手伝って、それから御家様ごけさまとけ出入でへえりをし、何日いつか深い訳になったが、成程然ういう事がありましょう、それから何うしました」
侍「ういう訳なれば宜しい、助太刀をしてたしかに本意を遂げさせて遣ろうと受合うと、女は悦んで、あゝ有難う草葉の蔭において両親もさぞ悦びましょうと、綺麗な顔で真に随喜の涙を流した」
○「へえー芋売いもがら見たような涙を」
侍「なに有難涙ありがたなみだを」
○「へえ成程それから何うしました」
侍「ところで同衾ひとつに寝たんだ」
○「へえーひどいなア……成程、鐵ウもっと前へ出ろ、大変な話になって来た」
 向座敷で手をぽん/\と打つと、又候またぞろ下女がまいって、
下婢「皆さんお静かになすって、なるたけわア/\云わねえように願います」
○「へえ/\……それから何うしました、先生」
侍「いや止そう」
○「其処そこまで遣って止すてえ事はありません、おねげえだからあとを話しておくんなせえ」
侍「病人があると云うから止そう」
○「だって先生、こゝでめちゃア罪です」
侍「こゝらで止める方が宜かろう」
○「落話家はなしかや講釈師たアちげえます」
侍「此処こゝが丁度段落きりどこだ」
○「おい、よ話しておくんねえな/\」
侍「困るな…すると其の女にこう□□[#底本2字伏字]められた時には、身体しんたいしびれるような大力だいりきであった」
○「へえー、それは化物だ、面白い話だね、それから」
侍「もう止そう」
○「冗談じゃアない、これでめられてたまるものか……皆さん誰か一つ旦那に頼んでおくんなせえな、是から面白おもしろえ処なんで、今止められちゃア寝てからうなされらア」
侍「やるかなア」
○「うん成程、其の女が貴方の顔をペロ/\めたんで」
侍「なに甜めるものか、うーんと振解ふりほぐして、枕元にあった無反むそりの一刀を引抜いて、斬付けようとすると、がら/\/\と家鳴やなり震動がした」
○「ふうん」
侍「ばら/\/\表へ逃げる様子、なお追掛けて出ると、は如何に、拙者がばかされていたのじゃ、茅屋あばらやがあったと思う処が、矢張やっぱり野原で、片方かた/\はどうどうと渓間たにまに水の流れる音が聞え、片方は恐ろしい巌石がんせき峨々がゞたる山にして、ずうっと裏手は杉やもみなどの大樹だいじゅばかりの林で、其の中へばら/\/\と追込んだな」
○「へえー成程、きつねたぬきけつを出して何かに見せると云うが、貴方それから何うしました」
侍「追掛けて行って、すうと一刀あびせると、ばたり前へ倒れた…化物が…拙者も疲れてどたーり其処そこへ尻餅をいた」
○「成程是はもっともです、いとうござえましたろう、其処に大きな石があったんで」
侍「なに石も何もありゃアせん、余計な事を云わずに聞きなさい」
○「な何の化物でげす」
侍「く善く其の姿を見ると、それが伸餅のしもちの石にしたのさ」
○「へえ、何故だろうなア」
侍「だから何うしてもちぎる訳にいかん」
○「冗談じゃアない、真面目な顔をして嘘ばっかりいてる、みんそらっぺいばなしでいけねえ、おれのは本当だ、此のうちに聞いた人もあるだろう、なんの話さ、大変だな、己ア江戸の者だ、谷中の久米野美作守様の屋敷へ出入の職人だったが、其処そこに大変な悪人がいて、渡邊様てえ人を斬って、其の上に女を連れて逃げたは、えゝ何とかいう奴だっけ、うよ、春部梅三郎よ、其奴そいつひどい奴で、重役の渡邊織江様を斬殺きりころしたんで、其の子が跡を追掛おっかけて行くと、旨く言いくろめて、だまして到頭連出して、何とかいう所だっけ、然う/\、新町河原しんまちがわらわきだまうちに渡邊様の子を殺して逃げたというんだが、大騒ぎよ、八州が八方へ手配りをしたが、山越やまごしをして甲府へへいったという噂で」
鐵「止しねえ/\、うっかり喋るな、冗談じゃアねえぜ、し八州のお役人が、れは何う云う訳だ、他人に聞いたんでと云っても追付おッつくめえ」
 と一人が止めるのを、一人の男がしきりに知ったふりで喋って居ります。

        三十九

 別座敷に寝て居りましたお竹が、此の話をれ聞き大きに驚き、
竹「もし/\宗達様/\/\(揺起ゆりおこす)」
宗「あい/\/\、つい看病疲れで少しました、はあー」
竹「よく御寝ぎょしんなっていらっしゃいますから、おおこし申しましては誠に恐入りますが、少し気になることを向座敷で噂をしております、ほかの者の話はうそのように存じますが、中に江戸屋敷へ出入でいる職人とか申す者の話は、少し心配になりますから、お目をさましてくださいまし」
宗「あい……はア……つい何うも……はア大分まだ降ってる様子で、ばら/\雨が戸へ当りますな」
竹「何卒どうぞあなた」
宗「はい/\……はア……何じゃ」
竹「其の話に春部と申す者がわたくしおとゝを新町河原で欺討だましうちにして甲府へ逃げたと云う事でございますが、何卒どうぞくわしく尋ねて下さいまし、都合に寄っては又江戸へ帰るような事にもなろうと思いますから」
宗「それはしからん、図らず此処こゝで聞くというは妙なことじゃ、江戸の、うん/\職人ていの下屋敷へ出入る者、宜しい……えゝ御免ください」
 と宗達和尚が向座敷のふすまを開けて、大勢の中に入りました。見ると矢立を持って鼠無地の衣服に、綿の沢山入っております半纒を着て居り、月代さかやき蓬々ぼう/\として看病疲れで顔色の悪い坊さんでございますから、一座の人々が驚きました。
○「はい、おいでなさい」
宗「あゝ江戸のお方は何方どなたで」
○「江戸の者はわっちで、奥州仙台や常陸の竜ヶ崎や何か集ってるんで、へえ」
宗「只今向座敷で聞いておった処が、その江戸に久米野殿の屋敷へ出入りをなさる職人というはあなた方か」
○「えゝわっちでござえやす」
鐵「えおい、だから余計なことを言うなって云うんだ、詰らねえ事を喋るからおたげえに掛合かゝりあいになるよ」
宗「で、その久米野殿の御家来に渡邊織江と申す者があって人手にかゝり、其の子が親のかたきを尋ねに歩いた処、春部梅三郎と申す者に欺かれて、新町とかで殺されたと云う話、八州が何うとかしたとの事じゃが、それをくわしく話してください」
鐵「だから云わねえ事じゃアねえ、先方むこうあんな姿で来たって八州の隠密だよ」
 と一人のつれの者に云われ、一人は真蒼まっさおになり、ぶる/\とふるえ出し、碌々口もきけません様子。
○「なに本当に知っている訳じゃアごぜえやせん、朦朧ぼんやりと知ってるんで、へえ一寸ちょっと人に聞いたんで」
宗「聞いたら聞いたゞけの事を告げなさい、新町河原で渡邊祖五郎を殺害せつがいした春部梅三郎という者はいずれへ逃げた」
○「あ彼方あっちへ逃げて……それから秩父ちゝぶへ出たんで」
宗「うん成程、秩父へ出て」
○「それからこ甲府へ逃げたんで」
宗「秩父越しをいたして甲府の方へ八州が追掛おっかけたのか」
鐵「おゝおゝ仕様がねえな、本当に手前てめえ饒舌おしゃべりだな」
○「饒舌だって剣術の先生や何かもみんな喋ったじゃアねえか………なんでごぜえやす……えゝ其の八州が追掛おっかけて何したんで、当りを付けたんで」
宗「何ういう処に当りが付きましたな」
○「そりゃア何でごぜえやす、鴻の巣の宿屋でごぜえやす」
宗「はゝー鴻の巣の宿屋……(紙の端へ書留め)それは何という宿屋じゃ」
○「わっちア知りやせん、其の宿屋へ女を連れて逃げたんで、其の宿屋が春部とかいう奴が勤めていた屋敷に奉公していて、私通くっついて連れて逃げた女の親里とかいう事で」
宗「うん…それから」
○「それっ切り知りやせん」
宗「知らん事は無かろう、知らんと云っても知らんでは通さん」
○「へえ……(泣声)御免なせえ、真平まっぴら御免下さい」
宗「あなた方は江戸は何処どこだ」
○「真平御免…」
宗「御免も何もない、言わんければなりませんよ」
○「へえ外神田そとかんだ金沢町かなざわちょうで」
宗「うん外神田金沢町…名前は」
○「甚太じんたっ子」
宗「甚太っ子という名前がありますか、甚太郎じんたろうかえ」
○「たしうで」
宗「甚太郎……其方そっちにいるお方は」
鐵「わっちは喋ったんでもねえんで」
宗「言わんでもい、名前が宿帳と違うとなりませんぞ、宜いかえ」
鐵「へえ、下谷したや茅町かやちょう二丁目で」
宗「お名前は」
鐵「ガラ鐵てえんで」
宗「ガラ鐵という名はない、鐵五郎てつごろうかえ」
鐵「へえ」
宗「宜しい」
鐵「御免なさい」
 と驚いてすぐに其の晩の内此処こゝを逃出して、夜通し高崎まで逃げたという。其様そんなに逃げなくとも宜しいのに。此方こっちはお竹が病苦の中にて此の話を聞き、どうか直に此処を立ちたいと云う。
宗「何うして今から立たれるものか、碓氷を越さなければならん」
 とようやくの事で止めました。翌朝よくあさになると、お竹は尚更癪気しゃくきが起って、病気は益々重体だが当人が何分にもきませんから、駕籠をやとい、碓氷を越して松井田まついだから安中宿あんなかじゅくへ掛り、安中から新町河原まで来ますと、とっぷり日は暮れ、往来の人は途絶えた処で、駕籠から下りてがっかり致し、お竹はまたキヤ/\差込んで来ました。宗達は驚いて抱起したが、舁夫かごや此処こゝまでの約束だというので不人情にも病人を見棄てゝ、其の儘ずん/\往ってしまいました。宗達は持合せた薬をませ、水を汲んで来ようと致しましたが、他に仕方がないから、ろはつという禅宗坊主の持つわんを出して、一杯流れの水を汲んで持って来ました。ようやくお竹に水を飲ませ、しきりと介抱を致しましたが、中々はげしい事で、
竹「ウヽーン」
 と河原の中へ其の儘そりかえりました。
宗「あゝ困ったものじゃ、何うか助けたいものじゃ」
 と又薬を飲まし、口移しに水をふくませ、お竹を□□[#底本2字伏字]めてわが肌のあたゝかみで暖めて居ります内に、雪はぱったり止み、雲が切れて十四の月が段々と差昇ってまいる内に、雪明りと月光つきあかりとで熟々つく/″\お竹の顔を見ますと、出家でも木竹きたけの身では無い、たちまち起る煩悩に春情しゅんじょうが発動いたしました。御出家の方では飲酒戒おんしゅかいと云って酒を戒め、邪淫戒と申して不義の淫事を戒めてあります。つまり守り難いのは此のかいでございます。此の念を断切たちきる事は何うもかたい事です、修業中の行脚を致しましても、よく宿場女郎を買い、あるいは宿屋の下婢おんなに戯れ、酒のためについ堕落して、折角積上げた修業も水の泡に致してしまう事があります、さかんな宗達和尚、お竹の器量と云い、不断の心懸こゝろがけといい、実に惚れ/″\するような女、其の上侍の娘ゆえ中々凛々りゝしい気象なれども、またやさしい処のあるは真に是が本当の女で、かる娘は容易に無いととうから惚込んで、看病をする内にも度々たび/\起る煩悩を断切り/\公案をしては此の念を払って居りましたが、今はまよいの道に踏入ふみいって、我ながら魔界へ落ちたと、ぐっとお竹を□□[#底本2字伏字]める途端に、あたゝかみでふと気が附いたお竹が、眼をいて見ますと、力に思う宗達和尚が、常にもない不行跡ふぎょうせきひげだらけのほおを我が顔へ当てゝ、肌を開いて□□[#底本2字伏字]めて居りますから、驚いて、
竹「アレー、何を遊ばします」
 と宗達和尚を突退つきのけて向うへ駆出しにかゝる袖をしっかり押えて、
宗「お竹さん御道理ごもっともじゃ、どうも迷うた、もうとても出家は遂げられん、わしはお前の看病をして枕元に附添い、次の間にていても、此の程はお前の身体からだが利かんによって、便所へくにも手を引いて連れて行き、足や腰をなでてあげると云うのも、実は私が迷いを起したからじゃ、とても此の煩悩が起きては私は出家が遂げられん、真に私はお前に惚れた、□□□□[#底本4字伏字]私の云う事をいてくだされば、衣も棄て珠数じゅずを切り、生えかゝった月代さかやきを幸いに一つべッついとやらに前をそりこぼって、お前の供をして美作国みまさかのくにまで送って上げ、かたきを討つような話も聞いたが、ような事か理由わけは知らんが、助太刀も仕ようし、又何の様な事でも御舎弟とともに力を添える、誠に面目ない恥入った次第じゃが、何うぞ私の言う事を肯いてくだされ」
 と云われ、呆れてお竹は宗達の顔を見ますと、宗達の顔色は変り、眼の色も変り、少し狂気している容子ようすで、つかみ付きにかゝるのを突退つきのけて、お竹は腹立紛れに懐へ手を入れて、母の形見の合口のつかを握って、寄らば突殺すと云うけんまくゆえ、此方こちらも顔の色が違いました。
竹「宗達さん、あなたはしからぬお方で、御出家のお身上みのうえで……御幼年の時分から御修業なすって、何年の間行脚をなすって、わしは斯う云う修業をした、仏法は有難いものじゃ、斯ういうものじゃによって、お前も迷いを起してはならないと、宿に泊って居りましても臥床ふせる迄は貴方の御教導、あゝ有難いお話で、大きに悟ることもありました、美作まで送って遣ろうとおっしゃっても、他の方なれば断る処なれど、御出家様ゆえ安心して願いました甲斐もなく、貴方がう云うお心になってはなりません、何卒どうぞ迷いを晴らして……おこりはしませんから、元々通り道連れの女と思召して、美作までお送り遊ばしてくださいまし、是迄の御真実はわたくしが存じて居りますから」
宗「むゝう、是程に云ってもお聞済きゝずみはありませんか」
竹「どうして貴方大事を抱えている身の上で其様そんな事が出来ますものか」
宗「うか……そうお前に強う云われたらもう是までじゃ、わしもどうせ迷いを起し魔界にちたれば、あくまでもよこしまく、私はこれで別れる、あなたはわずろうている身体で鴻の巣まできなさい、それもいが、道の勝手を知ってるまい、夜道にかゝって、女の一人旅はような難儀があろうも知れぬ、さ、これで別れましょう」
竹「お別れ申しても仕方がございませんけれども、貴方の迷いの心をひるがえしてさえくだされば、私においてはお恨みとも何とも存じませんから」
宗「いや、お前は何ともあるまいが、此方こちらに有るのじゃ、わし還俗げんぞくしてお前のためには力を添えて、何の様にも仕よう、長旅をして、お前を美作まで送って上げようとは、今迄した修業を水の泡にしてしまうのもみんなお前のためじゃ、何うぞ私のねがいかなえてください、それともかんければ詮方せんかたがない、もう此の上は鬼になって、何の様な事をしても此の念を晴さずには置かん、仕儀によっては手込てごめにもせずばならん」
 と飛付きに掛りますから、お竹はあわてゝ跡へ飛退とびさがって、
竹「迷うたか御出家、寄ると只は置きませんぞ」
 と合口をすらりと引抜いて振上げ、けんまくを変えたから、
宗「おまえはわしを斬る気になったのじゃな、う此の上は可愛さ余って憎さが百倍、さ斬っておくれ」
 と云いながら身をかわして飛付きにかゝる。
竹「そんなれば最う是迄」
 と引払ひっぱらって突きにかゝる途端に、ころり足がすべって雪の中へ転ぶと一杯ののりで、
宗「おゝ何処どこか怪我アせんか」
竹「私を斬ったな、法衣ころもを着るお身で貴方は恐しい殺生戒を破って、ハッ/\、お前さんは鬼になったどころじゃアないじゃになった、あゝ宗達という御出家は人殺しイ」
 と云うが、ピーンと川へ響けます。
宗「あゝ悪い事をした、お竹さんが此様こんな怪我をする事になったのも畢竟ひっきょう我が迷い、実に仏罰は恐ろしいものである」
 と思ったので宗達はカアーと取逆上とりのぼせて、お竹が持っていた合口を捻取ねじとって、
「お前一人は殺しはせん、わしも一緒に死んで、地獄の道案内をしましょう」
 と云いながらわが腹へプツリ。
宗「ウヽーン/\」
竹「もし/\……宗達さま」
宗「あい/\……あい……はアー」
竹「あなたは大層うなされていらっしゃいました」
宗「あい/\、あゝ……おゝ、お竹さま」
竹「はい」
[#「宗」は底本では「竹」]「あなたはお達者で」
竹「あなた怖い夢でも御覧なすったか、大層魘されて、お額へ汗が大変に」
宗「はい/\……お前は何うしたえ」
竹「はい、私は大きに熱が退れましたかして少し落着きました」
宗「左様か、ウヽン……煩悩経にある睡眠、あゝ夢中むちゅうゆめじゃ、実に怖いものじゃの、あゝ悪い夢をました、悪い夢を視ました」
 と心のうちに公案を二十ばかり重ねて云いながら、手拭を出して額と胸のあたりの汗を拭いて、ホッと息をき、
宗「あゝ迷いというものはひどいものじゃ」

        四十

 さて又粂野の屋敷では丁度八月の六日の事でございます。此の程は大殿様が余程御重症でございます。お医者も手に手を尽して種々いろ/\の妙薬を用いるが、どうも効能きゝめが薄いことで、大殿様はお加減の悪い中にまた御舎弟紋之丞様は、只今で云えば疳労かんろうとか肺労とかいうような症で、漸々だん/\お痩せになりまして、勇気のお方がおせきが出るようになり、お手当は十分でございますが、どうも思うように薬の効能が無い、唯今で申せば空気のかわった所へと申すのだが、其の頃では方位が悪いとか申す事で、小梅の中屋敷へいらっしゃるかと思うと、又お下屋敷へ入らっしゃいまして、谷中のお下屋敷で御養生中でありますと、若殿の御病気は変であるという噂が立って来ましたので、忠義の御家来などは心配して居られます。五百石取りの御家来秋月喜一郎というは、の春部梅三郎の伯父に当る人で、御内室はおなみと云って今年三十一で、色の浅黒い大柄でございますが、ごく柔和なお方でございます。或日良人おっとむかい、
浪「いつものばゞあがまいりました、あの大きなかご脊負しょってお芋だの大根だの、や何かを売りに来る婆でございます」
秋「あ、田端辺たばたへんからまいる老婆か、久しく来んで居ったが、なんぞ買ってやったら宜かろう」
浪「貴方がおあつらえだと申してごみだらけのふくべを持ってまいりましたが、あれはお花活はないけに遊ばしましても余りい姿ではございません」
秋「うか、それはどうも……わしが去年頼んで置いたのが出来たのだろう、それでも能く丹誠して……早速さっそく此処こゝへ呼ぶがい、庭へ通した方が宜かろう」
浪「はい」
 と是から下男が案内して庭口へ廻しますと、飛石とびいしを伝ってひょこ/\とばあさまが籠を脊負って入って来ました。縁先の敷物の上に座蒲団を敷き、前の処へ烟草盆が出ている、秋月殿は黒手の細かい縞の黄八丈の単衣ひとえに本献上の帯を締めて、下襦袢したじゅばんを着て居られました。誠にお堅い人でございます。目下の者にまで丁寧に、
秋「さア/\ばゞあこゝへ来い/\」
婆「はい、誠に御無沙汰をしましてま今日こんにちはお庭へ通れとおっしゃって、此様こんなはア結構なお庭を見ることは容易にア出来ねえ事だから、ま遠慮申さねえばなんねえが、御遠慮申さずに見て、※(「女+息」、第4水準2-5-70)よめっ子や忰に話して聞かせべいと思ってめえりました、皆様お変りもごぜえませんで」
秋「ばゞア丈夫だの、幾歳いくつになるの」
婆「はい、六十八になりますよ」
秋「六十八、左様か、アハヽヽヽいやどうも達者だな田端だっけな」
婆「はい、田端でごぜえます」
秋「名は何という」
婆「はい、おなわと申します」
秋「妙な名だな、お繩…フヽヽ余り聞かん名だの」
婆「はいあのわしの村の鎮守様は八幡様はちまんさまでごぜえます、其の別当は真言宗で東覚寺とうかくじと申します、其の脇に不動様のお堂がごぜえましてわたくし両親ふたおやが子がえって其の不動様へ心願しんがんを掛けました処が、不動様が出てござらっしゃって、左の手で母親おふくろの腹ア緊縛しっちばって、せつないと思って眼え覚めた、申子もうしごでゞもありますかえ、それから母親がおっぱらんで、だん/″\腹がでかくなって、当る十月とつきわしが生れたてえ話でごぜえます、縄で腹ア縛られたからお繩とけたらかんべえと云って附けたでごぜえますが、是でも生れた時にゃア此様こんな婆アじゃアごぜえません」
秋「アハヽヽ田舎の者は正直だな、手前は久しく来なかったのう」
婆「はい、ま、ね、秋は一番忙がしゅうごぜえまして、それになにわしなどは田地を沢山持って居ねえもんだから、他人ひとの田地を手伝をして、小畠こばた取上とりやげたものをちっとべえ売りにめえります、白山の駒込の市場へめえって、彼処あすこで自分の物を広げるだけの場所を借りれば商いが出来ます」
秋「成程左様か、娘が有るかえ」
婆「いえ嫁っ子でごぜえます、是が心懸のいもので、忰と二人で能く稼ぎます、わしうちにばかり居ちゃア小遣取こづけえどりが出来ましねえから、斯うやって小遣取りに出かけます」
秋「そうか、茶ア遣れ、さ菓子をやろう」
婆「有難う…おや/\まアれだけおくんなさいますか、まア此様こんな沢山えら結構なお菓子を」
秋「いよ、また来たら遣ろう」
婆「はい、此のめえめえりました時、でけえ御紋の附いたお菓子を戴きましたっけ、在所に居ちゃアとても見ることも出来ねえ、お屋敷様からいたゞえた、有りがたい事だって村中の子供のある処へちっとずつ遣りましたよ、毎度はや誠に有難い事でござえます」
秋「どうだ、暑中の田の草取りは中々辛いだろうのう」
婆「はい、熱いと思っちゃア兎ても出来ませんが、草が生えると稲が痩せますから、何うしてもってやらねえばなりませんが、此間こねえだもうけもんでござえまして、蝦夷虫えどむし一疋いっぴき取れば銭い六百ずつくれると云うから、大概の前栽物せんざいもの脊負しょい出すより其の方が楽だから、おまえさまとッつかめえて、毒なア虫でごぜえますから、かごへ入れてふたをしては持ってめえります」
秋「ムヽウ、それは何ういう虫だえ」
婆「あの斑猫はんみょうてえ虫で」
秋「ムヽウ斑猫……何か一疋で六百文ずつ……どんな処にいるものだえ」
婆「はい、豆の葉にたかって居ります、在所じゃア蝦夷虫えどむしと云っていやがりますよ」
秋「なんにいたすのだ」
婆「何だかお医者がいて来まして膏薬こうやくると、これがでけえ薬になる、毒と云うものも、使いようで薬に成るだてえました」
秋「ムヽウ、の位つかまった」
婆「左様でごぜえます、沢山たくさんでなければ利かねえって、なんにするんだか沢山たんとるって、えらつかめえましたっけ」
秋「そりゃア妙だ、医者は何処どこの者だ」
婆「何処の者だか知んねえで、一人男を連れて来て、其の虫をつかまって置きさえすれば六百ずつ置いては持ってきます、其の人は今日お前様白山へめえりますと、白山様の門の坂の途中のとこにある、小金屋という飴屋にいたゞよ、わし懇意ちかづきだからお前様のうち此処こゝかえと何気なしに聞くと、其の男が言っては悪いというように眼附をしましたっけ」
秋「はて、それから何う致した」
婆「わしも小声で、今日は虫が沢山たくさんれましねえと云うと、明日あした己が行くから今日は何も云うなって銭いたもとへ入れたから、幾許いくらだと思って見ると一貫呉れたから、あゝ是は内儀かみさんや奉公人に内証ないしょうで毒虫を捕るのだと勘づきましたよ」
秋「ムヽウ白山前の小金屋という飴屋か」
婆「はい」
秋「あれは御当家の出入でいりである……茶のいのを入れてください、婆ア飯を馳走をしようかな」
婆「はい、有難う存じます」
秋「婆アちっと頼みたい事があるが、明日あした手前のうちわしくがな、其の飴屋という者を内々ない/\で私に会わしてくれんか」
婆「はい、殿様はの飴屋の御亭主を御存じで」
秋「いや/\知らんが、少し思うことがある、それゆえ貴様のうちくんだが、貴様の家は二間ふたまあるか、失礼な事を云うようだが、広いかえ」
婆「店のとこは土間になって居りまして、折曲おりまがって内へ入るんでがすが、土間へは、まきを置いたり炭俵を積んどくですが、二間ぐれえはごぜえます、庭もちっとばかりあって、奥が六畳になって、縁側附でも切ってあって、都合が宜うごぜえます、其の奥の方も畳を敷けば八畳もありましょうか、すぐに折曲って台所になって居ります」
秋「そんなら六畳の方でも八畳の方でもいが、そのところに隠れていて、飴屋の亭主が来た時にわしに知らしてくれ、それまで私を奥の方へ隠して置くような工夫をしてくれゝばかたじけないが、隠れる処があるかえ」
婆「はい、せもうござえますし、それに殿様が入らっしたって、汚くって坐る処もないが、うえ藤右衞門とうえもんとこ屏風びょうぶが有りますから、それを立廻たてまわしてあげましょう」
秋「それは至極宜かろう、何でも宜しい、わしが弁当を持ってくから別に厄介にはならん」
婆「うめえものは有りませんが、在郷ざいごのことですから焚立たきたての御飯ぐらいは出来ます、畑物の茄子なすぐらい煮て上げましょうよ」
秋「うしてくれゝば千万かたじけないが、事に寄るとわし一人ひとりくがな、飴屋の亭主に知れちゃアならんのだが、何時なんどきぐらいに飴屋の亭主は来るな」
婆「左様さ、大概お昼をあがってから出て参りますが、あれでも未刻過やつすぎぐらいにはまいりましょうか、それとも早く来ますかも知れませんよ」
秋「そんならわし正午前ひるまえに弁当を持ってまいる、村方の者にも云っちゃアならん」
婆「ハア、それは何ういう理由わけで」
秋「此のほうに少し訳があるんだ、注文をして置いた瓢覃ひょうたんを持って来たとな」
婆「誠に妙ななりでお役に立つか知りませんが」
 と差出すを見て、
秋「斯ういうかたちじゃア不都合じゃが」
婆「其の代り無代たゞで宜うがんす、口を打欠ぶっけえて種子たねえ投込んで、のきへ釣下げて置きましたから、銭も何もらねえもんでごぜえますが、思召おぼしめしが有るなら十六文でも廿四文でも戴きたいもんで」
秋「是はほんの心ばかりだが、百ぴき遣る」
婆「いや何う致しまして、殿様此様こんなに戴いては済みません」
秋「いや、とっとけ/\、おまんまべさせてやろう」
 と是からおまんまを喫べさせて帰しました。さて秋月喜一郎は翌日野掛のがけ姿なりになり、弁当を持たせ、家来を一人召連れてばゞアの宅を尋ねてまいりました。の田端村から西の方へ深く切れてまいると、丁度東覚寺の裏手に当ります処で。
秋「此処こゝかの、……ばゞア在宅うちか、此処かの、婆はいないか」
婆「ホーイ、おやおいでなせえましよ、さ此処こゝでござえますよ、ままどうも…今朝けさっから忰も悦んで、殿様がおいでがあると云うので、まちに待って居りました処でござえます、何卒どうぞすぐにおあがんなすって……お供さん御苦労さまでごぜえました」
秋「其の様に大きな声をして構ってくれては困る、世間へ知れんように」
婆「心配ごぜえませんからお構えなく」
秋「左ようか……其の包を其の儘此方こっちへ出してくれ」
婆「はい」
秋「これ婆ア、是は詰らんものだが、ほんの土産みやげだ、れは御新造ごしんぞが婆アが寒い時分に江戸へ出て来る時に着る半纏はんてんにでもしたら宜かろう、綿は其方そっちにあろうと云って、有合せの裏をつけてよこしました」
婆「あれアまア……魂消たまげますなア、此様こんなに戴きましては済みませんでごぜえます、これやい此処こゝう忰や」
忰「へえ御免なせえまし……毎度めえどハヤばゞが出まして御贔屓になりまして、けえって来ましちゃア悦んで、何とハア有難ありがたえ事で、おれような身の上でお屋敷へ出て、立派なアお方さまの側で以てからにおまんまア戴いたり、直接じかにお言葉を掛けて下さるてえのは冥加みょうが至極だと云って、毎度めいどけえりますとお屋敷の噂ばかり致して居ります、へえ誠に有難い事で」
秋「いや/\ばゞアに碌に手当もせんが、今日は少し迷惑だろうが、少しの間座敷を貸してくれ、弁当は持参してまいったから、決して心配をしてくれるな、兎や角構ってくれてはかえって困る、これは貴様の妻か」
嘉「へえ、わしかゝあでごぜえます、ぞんぜえもので」
妻「お入来いでなせえまし、毎度おっかめえりましては種々いろ/\御厄介になります、何うかお支度を」
秋「いやもう構ってくれるな、早く屏風を立廻してくれ」
婆「かしこまりました、破けて居りますが、あれでも借りてめえりましょう、其処そこうちでは自慢でごぜえます、村へへい画工えかきいたんで、立派というわけにはめえりません、お屋敷様のようじゃアないが、丹誠して描いたんだてえます」
秋「成程是は妙なだ、福禄寿ふくろくじゅにしては形が変だな、成程大分だいぶんい画だ」
婆「うちこしらえた新茶でがんす、嘉八かはちや能くお礼を申上げろ」
嘉「誠に有難うごぜえます、貴方あんた飴屋がめえりますと、何かお尋ねなせえますで」
秋「其様そんなことを云っちゃアいけない」
嘉「実はその去年から頼まれて居りますが、ばアさまの云うにア、それはえがおかしいじゃアなえか、何ういう理由わけか知んねえ、毒な虫をって六百文貰ってえかえ、なに構ア事はなえが、黒い羽織を着て、立派なア人が来るです」
秋「まゝ其様そんなことを云っちゃアいけない」
嘉「へえ/\、なに此処こゝは別に通る人もごぜえませんけれども、梅の時分には店へ腰をかけて、草臥足くたびれあしを休める人もありますから、ちっとべえ駄菓子を置いて、草履ぞうり草鞋わらじ吊下つるさげて、商いをほんの片手間に致しますので、子供も滅多に遊びにもめえりません、手習てならいをしまって寺から帰って来ると、一文菓子をくれせえと云ってめえりますが、それまではたれめえりませんから、安心して何でもおっしゃいまし、お帰りに重とうござえましょうが、芋茎ずいきでかく成りましたから五六ひっこ抜いてお土産にお持ちなすって」
供「旦那さま、芋茎のお土産は御免をこうむりとうございます……御亭主旦那様は芋茎がお嫌いだからお土産は成るたけ軽いものがい」
嘉「軽いものと仰しゃっても今上げるものはごぜえません、南瓜とうなすがちっと残って居ますし、柿は未だ少し渋が切れないようですが、柿を」
供「柿のはお屋敷にもあります」
秋「今日こんにちは来ないかの」
嘉「いえ急度きっとめえるに相違ごぜえません」
 と云っている内に、只今の午後三時とおもう頃にってまいりましたのは、飴屋の源兵衞でございます。
源「あい御免よ」
婆「はい、お出でなせえまし、さ、おあがんなせえまし」
源「あゝ何うも草臥くたびれた、此処こゝまで来るとがっかりする、あい誠に御亭主此間こないだは」
嘉「へえ、是はいらっしゃいまし、久しくおいでがごぜえませんでしたな、漸々だん/″\秋も末になってめえりまして、毒虫も思うようにれねえで」
源「これ/\大きな声をするな、れは毒のを取って膏薬をこしらえるんだ、わしは前に薬種屋きぐすりやだと云ったが、昨日きのうばアさんに会った、隠し事は出来ねえもんだ、これは口止めだよ、少しばかりだが」
[#「嘉」は底本では「源」]「どうもこれは…」
源「其の代り他人ひとに云うといけないよ」
嘉「いえ申しませんでごぜえます」
源「わし十露盤そろばんを取って商いをする身だから、沢山たんとの礼も出来ないが、五両上げる」
嘉「えゝ、五両……魂消たまげますな、五両なんて戴く訳もなし、一疋つかまえて六百文ずつになれば立派な立前たちめえはあるのに、此様こんなに、でかく戴きますのは止しましょうよ」
源「いや/\其様そんなことを云わないで取ってお置き、事に寄るとめになる事もあるから、決して他人ひとに云っちゃア成りませんよ、わしが頼んだという事を」
婆「それは忰も嫁も心配しんぺえっていますが、他の者じゃアなし、毒な虫をお前様に六百ずつで売って、何ういう事で間違えでも出来やアしねえかと心配しんぺいしてえます」
源「其様そんな事は有りゃアしないよ、此の虫を沢山たんとつかまえて医者様がびんの中へ入れて製法すると、はげしい病もなおるというは、薬の毒と病の毒と衝突かちあうから癒るというので、ま其様なに心配しないでも宜い」
婆「お金は戴きませんよ、なア忰」
嘉「えゝ、これは戴けません、此間こねえだから一疋で六百ずつの立前たちめえになるんでせえ途方もえ事だと思ってるくれえで、これが玉虫とか皀角虫さいかちむしとかをるのなれば大変だが、豆の葉にたかってゝ誰にでも捕れるものを大金てえきんを出して下さるだもの、其様そんなに戴いちゃア済みません」
源「これ/\其様そんな大きな声を出しちゃアいけない」
嘉「これは何うしても戴けません」
源「そこに種々いろ/\理由わけがあるんだ、其様そんなことを云っては困る、これは取って置いてくれ」
嘉「へえ立前たちめえは戴きます、ま此方こっちへおあがんなすって、なに其処そこを締めろぴったり締めて置け、砂がへいっていかねえから……えゝゝ風がへいりますから、ま此方こっちへ……何もごぜえませんがおまんまでもべてっておくんなせえまし」
源「お飯はべたくないが、礼を受けてくれんと誠に困るがな、受けませんか」
嘉「へえ」
 と何う有っても受けない、百姓は堅いから何うしても受けません。源兵衞も困って、
源「そんなら茶代に」
 と云って二分にぶ出しますと、
嘉「お構い申しもしませんのに……お茶代と云うだけに戴きましょう、誠にどうも、へえ」
源「今日は帰ります、ばアさん又彼方あっちへ来たらお寄り、だが、私が此処こゝへ来たことは家内へ知れると悪いから、店へは寄らん方がい、店には奉公人もいるから」
婆「いえ、お寄り申しませんよ、はい左様なら、気を附けてお帰んなせえましよ」
源「あい」
 是から麻裏草履を穿いて小金屋源兵衞が出にかゝる屏風の中で。
秋月「源兵衞源兵衞」
 と呼ばれ、源兵衞は不審な顔をして振反ふりかえり、
源「誰だ……何方どなたでげす、私をお呼びなさるのは何方ですな」
秋「わしじゃ、一寸ちょっとあがれ、ま此方こっちへ入ってもい、思い掛ない処で会ったな」
源「何方どなたでげす」
 と屏風を開けて入り、其の人を見ると、秋月喜一郎という重役ゆえ、源兵衞はきもつぶし、胸にぎっくりとこたえたが、素知そしらぬていにて。
源「誠に思い掛ない処で、御機嫌宜しゅう」
秋「少し手前に尋ねたい事があって、急ぐか知らんが、同道しても宜しい、しばらく待ってくれ、少し問う事がある、源兵衞其の方は何ういう縁か、飴屋風情でお屋敷の出入町人となっている故、殿様の有難いかたじけないという事を思うなら、又此のほうが貴様を引廻してもつかわすが、しん以てかみを有難いと心得てお出入をするか、それから先へ聞いて、あとゆっくり話そう」
源「へえ誠にどうも細い商いでございますが、御用向を仰付けられて誠に有難いことだ、冥加至極と存じまして、へえ結構な菓子屋や其ののお出入もある中にて、飴屋風情がお出入とは実に冥加至極と存じて居ります、殿様が有難くないなどゝ誰が其様そんなことを申しました」
秋「いやうじゃアない、真に有難いと心得てるだろう」
源「それは仰しゃるまでもございません、此ののちともお引廻しを願いとう存じます」
秋「それでは源兵衞、手前がように隠しても隠されん処の此方こちらに確かな証拠がある、隠さずに云え、じゃが手前は何ういう訳で斑猫はんみょうという毒虫をばゝに頼んで一疋六百ずつで買うか、それを聞こう」
 と源兵衞の顔を見詰めているうちに、顔色がんしょくが変ってまいると、秋月喜一郎はわざとにや/\笑いかけました。

        四十一

 さて秋月喜一郎は、飴屋源兵衞を柔らかにだまして白状させようという了簡、其の頃お武家があらい事をいたすと、町人はかえって驚いて、云うことも前後致したり、言いたいことも言いかねて、それがために物の分らんような事が、毎度町奉行所でもあった事でございます。源兵衞は何うして知れたかと思って、顔色かおいろを変え、突いていた手がぶる/″\震える様子ゆえ、喜一郎はえみを含みまして、物柔らかに、
秋「いや源兵衞何か心配をして、これを言ってはならんとか、あれを言ってはほか役人の身の上にもかゝわるだろうと深く思いすぐして、隠し立てを致すと却って為にならんぞ、定めし上役うわやくの者が其の方に折入おりいって頼んだ事も有るであろうが、其の者の身分柄にもさわるような事があってはならんから、これは秋月に言っては悪かろうと、斯う手前が考えて物を隠すと、却って悪い、と云うのは元来もと/\お屋敷へ出入でいりを致すのには、殿様を大事と心得なければならん、そりゃアまた出入町人にはそれ/″\係りの者もあるから、係り役人を粗末にしろと云うのではないが、もとより手前はかみの召上り物の御用をす身の上ではないか、なア」
源「へえ誠にどうも其の、えゝ…何うもわたくしがその、事柄をわきまえませんものでございまして、唯飴屋風情の者がお屋敷へお出入を致しまして、お身柄のあります貴方様を始め、皆様に直々じき/\斯うってお目通りをいたし、誠に有難い事と心得まして、只私はえゝ何うも其の有難くばかり存じますので、へえ自然に申上げます事もその前後あとさきに相成ります」
秋「なに有難く心得て、言う事が前後ぜんごになるというのは可笑おかしい一体何ういう訳で手前は当家のばゞあ斑猫はんみょうってくれろと頼んだか、それを云えというんだ」
源「それはそのわたくしが懇意にいたします近辺に医者がございまして、その医者がどうも其の薬を……薬は一体毒なもので、※(「やまいだれ+難」、第3水準1-88-63)ようちょう根太ねぶと腫物はれもののようなものにけます、膏薬吸出しのようなものは、斑猫のような毒が入りませんければ、早く吹切ふっきりません、それゆえほしいと申されました事でございまして」
秋「其の人は何処どこの者か」
源「へえ実はその……わたくし平常ふだん心易こゝろやすくいたしますから、どうかお前頼んでくれまいかと云われて、私が其の医者を同道いたしてまいりまして、当家のばゞあに頼みましたのでございます」
秋「ムヽウ、其の医者は何処の者だえ、いやさ近辺にいるというが、よもやおかゝえの医者ではあるまい、町医か外療げりょうでもいたすものかえ」
源「へえ、その……大概その外療をいたしましたり、ま其のかぜきぐらいを治すような工合ぐあいで」
秋「何と申す医者だえ」
源「へい、その誠にその、ざっといたした医者で」
秋「雑と致した、そんな医者はありません、名前は何というのだえ」
源「名前はその、えゝ……実はその何でございます、山路と申します」
秋「山路……山路宗庵と云うか」
源「へえ、く御存じさまで」
秋「是は殿様のお部屋お秋のかたの父で、お屋敷へまいる事もあるで、存じてる、其の者に頼まれて、貴様が此処こゝの婆に斑猫をれと頼んだのか、薬に用いるなれば至極道理もっともの事だ……当家の主人はるの、一寸ちょっとこゝへ出てくれ」
嘉「はい」
秋「婆も一寸こゝへ」
婆「はい」
 と両人とも秋月喜一郎の前へまいりました。
秋「お前方は何かえ、此の飴屋の源兵衞は前から懇意にいたしてるものかえ、毎度此の飴屋方へもき、源兵衞も度々たび/\此方こちらへ参るような事があるかえ」
嘉「いえなにわしが処へお出でなすった事も何もない、私は御懇意にもなんにもしませんが、婆が商いに出ました先でお目にかゝったのがはじまり、それから頼まれましたんで、のうおっかあ
婆「はい、なに心易くも何ともえので、お得意廻りに歩き、商いをしべえと思って籠を脊負しょって出て、お前さま、谷中へかゝろうとするみちで会ったゞね、それから斯ういう理由わけだが婆、何うだかと云うから、ま詰らん小商こあきないをするよりもこれ、一疋虫をつかめえて六百ずつになれば、子供でも出来る事だから宜かろうと頼まれましたんで」
秋「左様か、源兵衞当家の嘉八という男も婆も手前は懇意じゃア無いと云うじゃアないか」
源「へえ、別に懇意という……なにもこれ親類というわけでも何でもないので」
[#「秋」は底本では「源」]「親類かと問やアせん、手前が当家の婆とは別懇だから、山路が手前に斑猫をる事を頼んだと只今申したが、しからば手前は当家の婆は別懇でも何でもなく、通りかゝりに頼んだか山路も何か入用いりようがあって毒虫を捕る事を手前に頼んだ事であろうと考えるが、これはたれか屋敷の者のうちで頼んだ者でもありはせんか」
源「へえ左様でございますかな」
秋「左様でございますかな、と申して此のほうが手前に聞くんだ」
源「へえ……どうか真平まっぴら御免遊ばして下さいまし、重々心得違で」
[#「秋」は底本では「喜」]「只心得違いでは分らん、白状をせんか、此の程御舎弟様が御病気について、大分だいぶ夜分おせきが出るから、水飴を上げたら宜かろうというのでお上屋敷からお勧めに相成ってる、その水飴を上げる処の出入町人は手前じゃから、手前の処で製造して水飴があがる、其の水飴を召上ってし御病気でもおもるような事があれば、手前が水飴の中へ毒を入れた訳ではあるまいけれども、手前が製した水飴を召上ったゝめに病気が重り、手前が頼んで斑猫をらしたという事実がある上は、左様な訳ではなくても、手前が水飴の中へ毒虫でも製し込んでかみへ上げはせんかと、手前に疑ぐりがかゝる、是は当然の事じゃアないか、なア、決して手前をとがにはせん、白状さえすれば素々もと/\通り出入もさせてやる、此の秋月が刀にかけても手前を罪に落さんで、相変らず出入をさせた上に、お家の大事なれば多分に手当をいたしてるように、此の秋月が重役と申合せて計らってつかわす、何も怖い事はないから有体ありていに言ってくれ、殿様のお為じゃ、殿様が有難いと心得たら是を隠してはなりませんよ、のう源兵衞」
源「へえ、わたくし愚昧ぐまいでございまして、それゆえ申上げますことも前後あとさきに相成ります事でございまして、何かとお疑ぐりを受けますことに相成りましたが、なか/\何う致しまして、水飴の中へ毒などは入れられません、いて見えます極製ごくせいでございますから、へえ、なか/\何う致しまして、其様そんなことは……御免遊ばして下さいまし」
 と泣声を出し涙をぬぐう。
秋「何故なぜ泣く」
源「わたくしは涙っぽろうございます」
秋「涙っぽろいと云っても何も泣くことはない、別段仔細は無いから……左様な事は致すまいなれども、また御舎弟様付とお上屋敷の者と心を合せて、段々手前も存じて居ろうが、どうも御舎弟さまを邪魔にする者があると云うのは、御癇癖ごかんぺきが強く、いさゝかな事にも暴々あら/\しくお高声こうせいを遊ばして、手打にするなどというはげしい御気性、そこでどうも御舎弟様にはつきが悪いので上屋敷へへつらう者も多いが、今大殿様もお加減の悪い処であるから、誠に心配で、万一もしもの事でもありはせんか、有った時には御順家督ごじゅんかとくで、何うしても御舎弟紋之丞様を直さねばならん、ところがその、此処こゝばゞあが居っては……他聞をはゞかることじゃ……婆が聞いてもくわしいことは分るまいが……、婆嘉八とも暫時ざんじ彼方あっち退いてくれ」
婆「はい」
 と立ってゆく。あと見送りて、
秋「手前も存じてる通り、只今其の方が申した医者の娘、お秋のかたもうけられた菊さまという若様がある、其のかたを御家督に立てたいという慾心から、菊様の重役やお附のものが皆心を合せて御舎弟様をき者にせんと……たくむのでは有りはすまいが、重役の者一統心配してる、御舎弟様は大切のお身の上、万一まんいち間違でもあっては公儀へ対しても相済まんことだが、そりゃア手前も心得てるだろう、只山路が頼んだというと、山路はお秋の方の実父だから、左様なこともありはせんかとわしは疑ぐる、しかうで有るか無いか知れんものに疑念を掛けては済まんけれども、大切のことゆえ有体ありていに云ってくれ、其のほう御舎弟様を大切に思うなれば云ってくれ、秋月が此の通り手を突いて頼む……な……決して手前の咎めにはせんよ、出入も元々どおりにさせ、また事に寄ったら三人扶持さんにんふちか五人扶持ぐらいは、若殿様の御世およになれば私から直々じき/\に申上げて、其の方一代ぐらいのお扶持は頂戴さしてやる」
 とやわらかに言わるゝ程気味が悪うございますから、源兵衞はおそる/\こうべを上げ、
源「へえ、有難う、恐入りますことで、貴方さまのような御重役が、わたくしごとき町人風情に手を突いてお頼みでございましては、誠に恐入ります、私も実はその、えゝ……始めは驚きましてございますが……実はその、へえ、お立派なお方さまのお頼みでございまして、斑猫てえ虫をって水飴の中へ入れてくれろというお頼みでございます、初めは山路というお医者が、何とかいう、えゝ、※(「譽」の「言」に代えて「石」、第3水準1-89-15)よせきとかいう薬を入れて練ったらと云うので練って見ましたが、これは水飴の中へ入れてもく分りますので、毒虫を煮てらんびきにいたして、その毒気どくきを水飴の中へ入れたら、やわらかになって宜かろうというお頼みで、迂濶うっかりお目通りをして其の事を伺い、これは意外な事と存じまして、お断りを申上げましたら、其の事が不承知と申すなら、一大事をあかしたによって手打に致すとおっしゃって、刀のつかへ手を掛けられたので、びっくり致しまして、いやと云えば殺され、うんと云えば是迄通り出入でいりをさせ、其の上多分のお手当を下さるとの事、お金がほしくはございませんでしたが、全く殺されますのが辛いので、はいとむを得ずお受けをいたしました、真平まっぴら御免下さいまし」
秋「うむ、宜く言ってくれた、わしうだろうと大概推察致して居った、宜く言ってくれた」
源「えゝわたくしが此の事を申上げましたことが知れますと、私は斬られます」
秋「いや/\手前が殺されるような事はせん、決して心配するな、あゝ誠に感心、宜く言ってくれた、これ当家の主人」
嘉「はい」
秋「今わしが源兵衞に云った事が逐一ちくいち分ったかえ、分ったら話して見るがい」
[#「嘉」は底本では「梅」]「なにか仰しゃったようでごぜえますが、むずかしくって少しも分りませんが、わけえ殿様に水飴をめさせて、それから殿様にも甜めさせて、それを何ですかえ両方へ甜めさせるような事にして御扶持ごふちをくれるんだって」
秋「あはゝゝ分らんか、宜しい、至極宜しい、分らんければ」
嘉「それで何ですかえ、飴屋さんが御扶持を両方から貰って」
秋「宜しい/\、分らん処が妙だ、どうぞなわしが貴様のうちへ来て、飴屋と話をした事だけはごく内々ない/\でいてくれ、いか、屋敷の者に……ばゞあが又かご脊負しょって、大根や菜などをうりに来た時に、秋月様がいらしったと長家の者に云ってくれちゃア困る、是だけはしっかと口留をいたして置く、いうとかんよ、云うとゆるさんよ、何処どこから知れても他に知る者は無いのだから、其の儘にしては置かんよ」
嘉「はい……どうか御免を」
秋「いや、云いさえしなければ宜しいのだ」
嘉「いう処じゃアありません、婆さんお前は口がうるせえから」
婆「云うって云わねえって何だか知んねえものそれじゃア誰が聞いても、殿様はおれうちへおいでなすった事はごぜえません、飴屋さんとお話などはなせえませんと」
秋「そんな事を云うにも及ばん、決して云ってはならんぞ」
婆「はい、かしこまりました」
秋「源兵衞、毒虫を入れた水飴は大概もう仕上げてあるかの」
源「へえ、明後日あさっては残らず出来ます」
喜「明後日あさって出来る……よし宜く知らせてくれたかたじけない、源兵衛手前になんぞ望みの物を取らしたく思う、持合せた金子も少ないが、是はほんの手前が宅への土産に何ぞ買って行ってくれ、わしが心ばかりだ」
源「何う致しまして、わたくしがこれを戴きましては」
秋「いや/\遠慮をせずに取って置いてくれ、ついてはの、源兵衞大概此のほうに心当りもある、手前に頼んだ侍の名前は、これ誰が頼んだえ」
源「へえ、是だけは、それを言えば斬ると仰しゃいました、へえ、何うかまア種々いろ/\そのお書物かきものの中へ、わたくしにその、血で爪印をしろと仰しゃいましたから、少し爪の先を切りました」
秋「左様か、云っては悪いか、しかし源兵衞う打明けてしまった事じゃから云っても宜かろう」
源「何卒どうぞそれだけは御勘弁を」
秋「云えんかえ」
源「へえ、何うもそれは御免をこうむります」
秋「併し源兵衞、是までに話を致して、依頼者の姓名が云えんと云うのはおかしい、まだ手前は悪人へみ致してるように思われる、手前が云わんならわしの方で云おうか」
源「へえ」
秋「神原五郎治兄弟か、新役の松蔭かな」
 源兵衞は仰天して、
源「よく御存じさまで」

        四十二

 喜一郎はわざえみを含みまして、
秋「何うも其辺そこらだろうと鑑定が附いていた、ま宜しいが、の松蔭並びに神原兄弟の者はなか/\悪才にけた奴ゆえ、種々いろ/\罠をかけて、わしが云ったことを手前に聞くまいものでもないが、手前決して云うな」
源「何う致しまして、云えばぐにわたくしが殺されます、貴方様も仰しゃいませんように」
秋「わしは決して云わん、首尾好しゅびよく悪人を見出みだして御当家安堵の想いを為すような事になれば、何うか願って手前に五人扶持もりたいの」
源「何う致しまして、悪人へみ致しました罪で、わたくしはお手打になりましても宜しいくらいで、私は命さえ助かりますれば、御扶持は戴きませんでも宜しゅうございます、お出入りだけは相変らず願います」
秋「うむ、承知いたした、一緒に帰ろうか、いや/\途中で他人ひとに見られると悪いから、早くけ/\」
源「有難うございます」
 ほっと息をいて、ぶる/\震えながら出て、あとを振返り/\二三丁行って、それからぷうと駈出して向うへく様子を見て、
秋「何も駈出さんでも宜さそうなものだ」
 と笑いながら心静かに身支度をいたし、供を呼んで、是から嘉八親子にもくれ/″\礼をべて帰られましたが、丁度八月九日のことで、川添富彌という若様附でございます、御舎弟様は夜分になりますとお咳が出て、お熱の差引さしひきがありますゆえ、お医者は側に附切りでございます。一統が一通りならん心配で、お夜詰よづめをいたし、明番あけばんになりますと丁度只今の午前十時頃お帰りになるのですが、御容態ごようだいが悪いと忠義の人は残っている事がありますので、富彌様はお留守勝だから、御新造はお留守を守って、どうかおかみの御病気御全快になるようにと、しきりに神信心などを致して居ります。御新造は年三十で名をおむらさんといい、大柄ない器量の方で、おさだという女中が居ります。
村「定や/\」
定「はい」
村「あの此処こゝだけを少し片附けておくれ、何だか今年のように用の遅れた事はない、おち/\土用干も出来ずにしまったが、そろ/\もう綿入近くなったので、早く綿入物を直しにらなければならない、それにあわせ大分だいぶ汚れたから、お襟を取換えて置かなければなるまい」
定「左様でございます、矢張やはり旦那様がおせわしくって、日々にち/\御出勤になりましたり、夜もお帰りは遅し、お留守勝ですから夜業よなべが出来ようかと存じますが、何だか矢張やっぱりせか/\致しまして、なんでございますよ、御用が段々遅れに遅れてまいりました」
村「あの今日はお明番あけばんだから、大概お帰りだろうとは思うが、一時いっときでも遅れると又案じられて、おかみがお悪いのではないかと、何だか私は気が落着かないよ、旦那のお帰り前に御飯を戴いてしまおうか」
定「何もございませんが、いつもの魚屋がかれいを持ってまいりました、珍らしい事で、鰈を取って置きました」
村「うかえ、それじゃアお昼の支度をしておくれ」
定「かしこまりました」
 と是から午飯ひるの支度を致して、午飯ひるはんべ終り、お定が台所で片附け物をして居ります処へ入って来ましたのは、茶屋町に居りますおぬいという仕立物をする人で、くは出来ないが、はかまぐらいの仕立が出来るのでお家中かちゅうへお出入りをいたしている、独り暮しの女で、
縫「御免遊ばして」
定「おや、お縫さん、よくお出掛け……さ、おあがんなさい」
縫「誠に御無沙汰をいたしました、此間こないだは有難う……今日こんにち御新ごしんさんはお宅に」
定「はア奥にいらっしゃるよ」
縫「実はたった一人のいもとで、わたくしが力に思っていました其の者が、随分丈夫なたちでございましたが、加減が悪くって、其方それへ泊りがけに参って居りまして、看病を致してやったり、種々いろ/\の事がありまして大分だいぶ遅くなりました、もっともお綿入でございますから、だ早いことは早いと存じまして」
定「出来ましたかえ」
縫「はい、左様でございます」
定「御新造様、あの茶屋町のお縫どんがまいりました」
村「さ、此方こっちへお入り」
縫「御免遊ばしまし……誠に御無沙汰をいたしました」
村「朝晩は余程加減が違ったの」
縫「誠に滅切めっきり御様子が違いました、お変りさまもございませんで」
村「有難う」
縫「御意にるか存じませんが、お悪ければ直します」
村「大層く出来ました、誠に結構……お前のは仕立屋よりかかえって着好きいいと旦那も仰しゃってゞ、誠に好く出来ました、大分色気も好くなったの」
縫「これは何でございます、お洗い張を遊ばしましたら滅切りお宜しくなりました、もっともお物が宜しいのでございますから、はい仕立栄したてばえがいたします」
村「久しく来なかったの」
縫「はいなんでございます、じきに大門町にいるいもとですが、平常ふだん丈夫でございましたが、長煩ながわずらいを致しましたので、手伝いにまいりまして、伯母が一人ございますが、其の伯母はわたくしのためには力になってくれました、長命ながいきで八十四で、此の間死去なくなりましたが、あなた其の歳まで眼鏡もかけず、歯もし、腰も曲りませんような丈夫でございましたが、月夜の晩に縁側で裁縫しごとを致して居りましたが、其処そこへ倒れたなり、ぽっくり死去なくなりましたので、それゆえ種々いろ/\取込んで……お小袖こそでですから間に合わん気遣いはないと存じまして、御無沙汰をいたしました、今年は悪い時候で、上方辺は大分水が出たという話を聞きました、お屋敷の大殿様も若殿様もお加減がお悪いそうで」
村「あゝ誠にお長引きで」
縫「わたくしいつう申しますので、伯母が死去なくなりましてもくやむことはない、これ/\のお屋敷の殿様が御病気で、お医者の五人も三人も附いて、結構なお薬を召上り、お手当は届いてもなおる時節にならなければ癒らんから、くよ/\思う事はないと申して、へえ」
村「何分だお宜しくないので、実に心配しているよ、夜分はお咳が出ての」
縫「うでございますか、それはまア御心配でございますね、しかしまだお若様でいらっしゃいますから、もう程無ほどのう御全快になりましょう」
村「御全快にならなくっちゃア大変なお方さまで、一時いっときも早くと心配しているのさ」
縫「えゝ御新造様え、こんな事をお勧め申すと、なんでございますが、わきから頼まれて、あんまりお安いと存じまして持って出ましたが、二枚小袖の払い物が出ましたので、ま此様こんな物を持って出たり何かして、済みませんが、出所でどこも確かな物ですから、お目にかけますが、それに八丈の唐手もろこしでの細いのが一枚入って居ります、あとは縞縮緬しまちりめんでお裏が宜しゅうございます、お平常着ふだんぎに遊ばしても、お下着に遊ばしても」
村「私は古着は嫌いだよ」
縫「左様でございましょうが、出所でどころが知れているものですから」
村「じゃア出してお見せ」
縫「かしこまりました」
 とおつぎから包を持ってまいり、取出して見せました。唐手の縞柄は端手はででもなく、縞縮緬は細格子ほそごうしで、色気も宜うございます。
村「大層い縞だの」
縫「誠に宜うございます」
村「これはの位というのだえ」
縫「これで先方むこうじゃアもう少し値売ねうりをしたいように申して居りますが、此の書付でと申すので」
村「二枚で此の値段書ねだんがきでは大層に安い物だの」
縫「へい、お安うございます、貴方お裏は新しいものでございます」
村「何ういう訳でれを払うというのだえ」
縫「先方むこうはよく/\困っているのでございます」
村「たけ身巾みはゞが違うと困るね」
縫「左様ならお置き遊ばしては何うでございます、一日ぐらいお置きあそばしても宜しゅうございます」
村「あんまり縞柄がいから、欲しいような心持もするから、置いてっておくれ」
縫「左様でございますか、じゃアわたくしが今日の暮方までに参りませんければ、明朝伺いに上ります」
村「ではあと※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)あらためて見よう」
 是をお世話いたせば幾許いくらか儲かるのだから先ず気に入ったようだとお縫は悦んで帰ってしまう、あとでお定を呼んで、
村「手伝っておくれ、ほどいて見よう、綿は何様どんなか」
 と段々解いて見ると。不思議なるかな襟筋えりすじに縫込んでありました一封の手紙が出ました。
村「おや、定や」
定「はい」
村「此様こんな手紙が出たよ」
定「おや/\襟ん中から奇態でございますね、何うして」
村「私にも分らんが、何ういう訳で襟の中へ……おかしいの」
定「女物の襟へ手紙を入れて置くのは訝しい訳でございますが、情夫いろおとこの処へでも遣るのでございましょう」
村「だってお前それにしても襟の中へ……訝しいじゃアないか」
定「左様でございますね、開けて御覧遊ばせよ、何と書いてあるか」
村「無闇に封を切っては悪かろう」
定「これを貴方の物にして、此の手紙を開けて御覧なすって、入用にゅうようの手紙なれば先方むこうへ返したっていじゃア有りませんか」
村「本当にうだね、封が固くしてあるよ、何と書いてあるだろう」
定「お禁厭まじないでございますか知らん、随分おまもりを襟へ縫込んで置く事がありますから、疫病除やくびょうよけに」
村「父上様まいる菊よりと書いてある、親の処へやったんで」
定「だって貴方親の処へ手紙をやるのに、封じを固くして襟の中へ縫付けて置くのはおかしゅうございますね、もっとも芸者などは自分の情郎いろおとこや何かを親の積りにして、世間へ知れないようにお父様とっさま/\とごまかすてえ事を聞いて居りますよ」
村「開けて見ようかの」
定「開けて御覧遊ばせよ」
村「面白いことが書いてあるだろうの」
定「屹度きっと惚気のろけ種々いろ/\書いてありましょうよ」
 悪いようだが封じが固いだけに、お開けて見たくなるは人情で、これから開封して見ますと、女の手で優しく書いてあります。
村「…ふみして申上もうしあげ[#「まいらせそろ」の草書体、426-5]…、きわっているの」
定「へえ、それから」
村「…益々御機嫌よく御暮おくら被成候なされそうろう御事おんこと蔭ながら御嬉おんうれしく存じあげ[#「まいらせそろ」の草書体、426-7]
定「定文句じょうもんくでございますね、しかし色男の処へ贈る手紙にしちゃアあらたまり過ぎてるように存じますね」
村「うだの、左候さそうらえばわたくし主人松蔭事ス……神原四郎治と申合せ渡邊様を殺そうとの悪だくみ……おや」
定「へえ……何ういう訳でございましょう」
村「黙っていなよ、……それのみならず水飴の中へ毒薬を仕込み、若殿様へ差上候よう両人の者しめし合せ居り候を、図らずわたくしが立聞致し驚き入り候」
定「呆れましたね、誰でございますえ」
村「大きな声をおしでないよ、世間へ知れるとわるいわ……一大事ゆえ文にしたゝめ差上候わんと取急ぎ認め候え共、し取落し候事も有れば、の者の手にっては尚々おかみのために相成らずと心配致し、あわせの襟[#「襟」は底本では「縫」]へ縫込み差上候間、添書そえしょの通りお宅にてこれを解き御覧の上渡邊様方に勤め居り候御兄様おあにさまへ此の文御見せ内々ない/\御重役様へ御知らせ下され候様願いあげ※尚[#「まいらせそろ」の草書体、427-1]申上度事もうしあげたきこと数々有之これあり候え共取急ぎ候まゝ書残し※[#「まいらせそろ」の草書体、427-2]おお目もじの上くわしく可申上候もうしあげべくそうろう芽出度めでたくかしく、父上様兄上様、菊…と、……菊というのは何かの、の新役の松蔭の処に奉公していた女中は菊と云ったっけかの」
定「わたくしは存じませんよ」
村「松蔭のうちにいた女中が殺されたような事を聞いたから、旦那様に聞いてもお前などは聞かんでもい事だと仰しゃるから、別段くわしくお聞き申しもしなかったが、是は容易な事ではないよ」
 と申している処へ一声ひとこえ高く、玄関にて、
僕「お帰りい」
村「旦那がお帰り遊ばした」
 とあわてゝお玄関へ出て両手をつかえ、
村「お帰り遊ばしまし」
定「お帰り遊ばせ」
富「あい、すぐ衣服きものを着換えよう」
村「お着換遊ばせ、定やお召換だよ、お湯をすぐに取って、さぞお疲れで」
富「いやもう大きに疲れました、ハアーどうも夜られんでな、大きに疲れました、ねむれんと云うのは誠にいかんものだ」
 是から衣服きものを着替えて座蒲団の上に坐ると、お烟草盆に火をけて出る、茶台に載せてお茶が出る。
村「毎日/\お夜詰よづめは誠にお苦労な事だと、蔭ながら申して居りますが、貴方までお加減がお悪くなると、かえっておかみのお為になりませんから、時々は外村とむら様とお替り遊ばす訳にはまいりませんので」
富「いや、外村と代っているよ」
村「今日こんにちの御様子は如何いかゞで」
富「少しはお宜しいように見受けたが、どうもお咳が出てお困り遊ばすようだ」
定「御機嫌宜しゅう、お上は如何でございます」
富「あい、大きに宜しい、定まで心配してるが、どうも困ったものじゃ」
村「早速貴方に申上げる事がございます、茶屋町の縫がまいりまして」
富「うん」
村「かれが払い物だと云って小袖こそでを二枚持ってまいりましたから、たけは何うかと存じまして、改める積りで解きましたところが、貴方えりの中から斯様こんな手紙が出ました、御覧遊ばせ」
 と差出すを受取り、
富「襟の中から、はて」
 とひらいて読み下し、にわかに顔色を変え、再び繰返し読直して居りまする内に、何と思ったか、
富「定」
定「はい」
富「茶屋町の裁縫しごとをいたす縫というものは何かえ、あれは亭主でも有るのか」
定「いえ、亭主はございません、四年已前あと死去なくなりまして、子供もなし、寡婦暮やもめぐらしで、只今はお屋敷やお寺方の仕事をいたして居りますので、お召縮緬めしちりめん半纒はんてんなどを着まして、芝居などへまいりますと、帰りには屹度きっとお茶屋で御膳や何かべますって」
富「其様そんな事は何うでもい、御新造松蔭のうちにいた下婢おんなは菊と云ったっけの」
村「わたくしは名を存じませんが、其の下女が下男と不義をいたして殺されたという話を聞きましたから、只今考えて居りますので」
富「只松蔭とのみで名が分らんと、ほかにない苗字でもなし、尤も神原四郎治は当家の御家来と確かに知れている、その四郎治と心を合せる者は大藏の外にはないが、先方さきの親の名が書いてあると調べるに都合も宜しいが、ス……これ定、其の茶屋町の縫という女を呼びにれ、すぐに……事を改めていうと胡乱うろんに思って、何処かへ隠れでもするといかんから、貴様一寸ちょっと行って来い、先刻さっき衣服きものの事について頼みたい事がある、他に仕立物もある、置いてまいった衣服二枚を買取るに都合もあるから、旦那様もお帰りになり、相談をするからと申してな、それに旨い物が出来たで、馳走をしてやる、早く来いと申して、すぐに呼んでまいれ」
定「じゃアわたくしがまいりましょうか」
富「かえって貴様の方が宜かろう、女は女同志で、此の事を決していうな」
定「何う致しまして、決して申しは致しません」
 と急いで出てまいりました。

        四十三

 お縫は迎いを受けて、衣服きものが売れて幾許いくらかの口銭になることゝ悦んで、お定と一緒にまいりました。
定「旦那さま、あのお縫どんを連れてまいりました」
富「おゝすぐに連れて来たか、此方こっちへ通せ」
縫「旦那様御機嫌宜しゅう」
富「其処そこでは話が出来ん、此方こっちへ這入れ構わずずうっと這入れ」
縫「はい……毎度御贔屓さまを有難う……毎度御新造様には種々いろ/\頂戴物を致しまして有難う存じます」
富「毎度面倒な事を頼んで、大分裁縫しごとうまいと云うので、大きにさいも悦んでいる、ついては忙しい中を態々わざ/\呼んだのは他の事じゃアないが、此の払物はらいものの事だ」
縫「はい/\、誠に只お安うございまして、古着屋などからお取り遊ばすのと違って、出所でどこも知れて居りますから上げました、途々みち/\もお定どんに伺いましたが、大層御意にって、黄八丈は旦那様がお召に遊ばすと伺いましたが、少しお端手はでかも知れませんが、誠にいお色気でございます」
富「それじゃア話が出来んから此方こっちへ這入れ」
縫「御免遊ばして……恐入ります」
富「茶をれよ」
縫「恐入ります……これは大層大きなお菓子でございますねえ」
富「それはかみからの下されたので」
縫「へえ中々下々しも/″\ではういう結構なお菓子を見る事は出来ません、頂戴致します、有難う存じます」
富「あゝ此の二枚の着物は何処どこから出たんだえ」
縫「そりゃアあの何でございます、わたくしごく心安い人でございまして、その少し都合が悪いので払いたいと申して、はい私の極心安い人なのでございます」
富「何ういう事で払うのだ」
縫「はい、その何でございます、誠に只もう出所でどこが分って居りまして、古着屋などからお取り遊ばしますと、それは分りません事で、もしやそれが何でございますね、ま随分お寺へ掛無垢かけむくや何かに成ってまいったのが、知らばっくれて払いに出ます事が幾許いくらもございます、左様な不祥ふしょうな品と違いまして、出所も分って居りますから何かと存じまして」
富「それは分っているが、何ういう訳で払いに出たのだえ」
縫「まことに困ります、急にその災難で」
富「むゝう災難……何ういう災難で」
縫「いえ、その別に災難と申す訳もございませんけれども、急に嫁にまいるつもりでこしらえました縁が破談になりまして、不用になった物で」
富「はゝア、これは何と申す婦人のだえ、何屋の娘か知らんけれども、何と申す人の着物だえ」
縫「そりゃアその何でございます、わたくしのような名でございますね」
富「手前のような……矢張縫という名かえ」
縫「いゝえ、縫という名じゃアございませんが、その心安くいたす間柄の者で」
富「心安い何という名だえ」
縫「それはどうも誠に何でございますね、その人は名を種々いろ/\取換とりかえる人なんで、最初はきんと申して、それからよしとなりましたり、またお梅となったりなんか致しました」
富「むゝう、今の名は何という」
縫「芳と申します」
富「隠しちゃアいかんぜ、少し此方こっちにも調べる事があるから、お前を呼んだのじゃ、此の着物を着た女の名は菊といやアせんか」
縫「はい」
富「左様だろうな」
 お縫揉手もみでをしながら、
縫「菊という名に一寸ちょっとなった事もあります」
富「一寸成ったとは可笑おかしい隠しちゃアいかん、その菊という者は此方こちらにも少し心当りがあるが、親のいえ何処どこだえ」
縫「はい」
富「隠しちゃアならん、お前に迷惑は掛けん、これは買入れるに相違ない、今代金を遣るが、菊という者なればそれで宜しいのだ、菊の親元は何処だえ」
縫「はい、誠にどうも恐入ります」
富「何も恐入る事はない、頼まれたのだから仔細はなかろう」
縫「親元は本郷春木町三丁目でございます、指物屋の岩吉と申します、其の娘の菊ですが、その菊が死去なくなりましたんで」
富「うん、菊は同家中に奉公していたが、少々仔細有って自害致した」
縫「でございますけれども、これはその自害した時に着ていた着物ではございません」
富「いや/\自害した女の衣類きものだから不縁起だというのではない、買ってもい」
縫「有難う存じます、その親も死去なくなりました、其の跡は職人が続いて法事をいたして、石塔やなんかを建てたいという心掛なので」
富「左様か、それで宜しい、もう帰れ/\……おゝ馳走をすると申したっけ、だましちゃアならん、わしすぐあがるから」
 と川添富彌は急に支度をして御殿へ出ることになりました。御殿ではお夜詰よづめの方々が次第/\にお疲れでございます。お医者は野村覺江のむらかくえ藤村養庵ふじむらようあんという二人が控えて居ります。お夜詰には佐藤平馬、外村惣衞とむらそうえと申しておちいさい時分からお附き申した御家来中田千股なかだちまた、老女の喜瀬川きせがわ、お小姓しげるなどが交々こも/″\お薬をあげる、なれどもどっとお悪いのではない、とこの上に坐っておいでゞ、庭の景色を御覧遊ばしたり、千股がお枕元で軍書を読んだり、するをお聞きなさる。お熱の工合ぐあいでお悪くなると、ころりと横になる。ひどく寒い、もそっと掛けろよと御意があると、綿の厚い夜着よぎを余計に掛けなければなりません。お大名様方は釣夜具だとか申しますが、それほど奢った訳ではない。お附の者も皆心配して居られます。いまだお年若で、今年二十四五という癇癖かんしゃくざかりでございます。老女喜瀬川が出まして、
喜「かみ……上」
紋「うむ」
喜「お上屋敷からお使者がまいりました」
紋「うむ、誰が来た」
喜「かみのお使いに神原五郎治がまいりまして、御病気伺いに出ました、お目通りを仰付けられたいと申します、御面倒でございましょうが、お使者ではお会いが無ければなりますまい、如何いかゞ致しましょうか」
紋「うむ、神原五郎治か……あれは嫌いな奴じゃが、此処こゝへ通せ」
喜「かしこまりましてございます……若殿がお会いが有りますから、これへすぐに」
 と中田千股という人が取次ぎますと、結構な蒔絵まきえのお台の上へ、錦手にしきでの結構な蓋物ふたものへ水飴を入れたのを、すうっと持って参り、
喜「お上屋敷からのおつかい物で」
 とお枕元に置く。お次のへだてを開けて両手をつかえ、
五「はア」
 と慇懃いんきんに辞儀をする。
五「神原五郎治で、長の御不快蔭ながら心配致して居りました、またかみに置かせられてもお聞き及びの通り御病中ゆえ、碌々ろく/\お訪ね申さんが、予の病気より梅の御殿の方が案じられると折々おり/\仰せられます、今日こんにちは御病気伺いとして御名代ごみょうだいまかり出ました、れは水飴でございますが、夜分になりますとお咳が出ますとのこと、其の咳を防ぎますのは水飴が宜しいとのことで、これは極製ごくせいの水飴で、これを召上れば宜くおられます、上がことほか御心配なされ、お心を入れさせられし御品おんしな早々そう/\召上られますように」
紋「うむ五郎治、あゝ予の病気は大した事はない、いまだ壮年の身で、少し位の病魔に負けるような事はない、い時は縁側ぐらいは歩くが、只お案じ申上げるのはお兄様あにいさまの御病気ばかり、誠に案じられる、お歳といい、此の程はお悪いようじゃが、何うじゃな」
五「はア一昨日いっさくじつは余程お悪いようでございましたが、昨日さくじつよりいたして段々御快気におもむき、今朝こんちょうなどはおかゆを三椀程召上りました、其の上お力になる魚類を召上りましたが、の分では遠からず御全快と心得ます」
紋「うむ悦ばしい、予が夜分咳の出るは余程せつないがの、其のせつないうちにもお兄様をお案じ申上げて、予の病気は兎も角、どうか早くお兄上様の御病気御全快を蔭ながら祈りると申せ」
五「はア、はア、そのお言葉をかみがお聞きでござったら、さぞお悦びでございましょう、御病苦を忘れ、只お上のことのみ思召おぼしめさるゝというのは、あゝ誠にお使者に参じました五郎治ともかたじけのう心得ます、只今の御一言早々帰りまして、上へ申上げるでございましょう、実に斯様な事を承わりますのは、誠に悦ばしい事で」
 紋之丞殿は急に気色けしきを変え、声をあららげ、
紋「五郎治、申さんでも宜しい、お兄様あにいさまに左様な事を申さんでも宜しい、弟が兄を思うは当前あたりまえの事じゃ、お兄様もまた予を思うて下さるのは何も珍らしい事はない、改めて左様申すには及ばん、しかるを事珍らしく左様の事を申伝えずとも、よも斯様の事は御存じで有ろう、左様に※(「言+滔のつくり」、第4水準2-88-72)こびへつらった事を云うな」
五「はア……誠にどうも」
老女「左様なお高声こうせいを遊ばすとかえって御病気に障ります、左様な心得で五郎治が申した訳ではありません」
紋「一体斯様な事をいう手前などはな主人をつね思わんからだ、主人を思わん奴が偶々たま/\胸に主人の為になる事をうかぶと、あゝ忠義な者じゃとみずから誇る、家来が主人を思うは当然あたりまえの事だ、常思わんからたまに主人を思う事があると、わしは忠義だなどと自慢を致す、不忠者の心と引較べて左様に申す、白痴者たわけものめ、早々帰れ」
 ともっての外不首尾でございますから、
五「ホヽ」
 と五郎治[#「五郎治」は底本では「五郎次」]は手持不沙汰で、
五「今日こんにちかみの御名代として罷出まかりでましたが、性来せいらい愚昧ぐまいでございまして、申上げる事もついにお気に障り、お腹立に相成ったるかは存じませんが、ひとえに御容赦の程を願います」
紋「退さがれ」
五「はっ」
老「五郎治殿御病気とは申しながら誠に御癇癖ごかんぺきが強く、時々斯ういうお高声があります事で、しからず……あなた、左様なことを御意遊ばすな、それがお悪い、お高声を遊ばすとお動悸が出まして、かえって、お悪いとお医者が申しました」
紋「うむ、今日きょうはお兄上様からお心入こゝろいれの物を下され、それを持参いたしたお使者で、平生つねの五郎治では無かった、誠に使者太儀たいぎ
 ごろりとすぐに横っ倒しになり、掻巻かいまきを鼻のあたりまでゆすり上げてしまう。仕方が無いから五郎治はそろり/\と跡へ退さがる。一同気の毒に思い、一座白け渡りました。
千「神原氏、余程の御癇癖お気にさゝえられん様に、我々はおちいさい時分からお附き申していてさえ、時々お鉄扇てっせんで打たれる様な事がある、御病中は誠に心配で、腫物はれものに障るような思いで、此の事は何卒どうぞかみへ仰せられんように」
五「宜しゅうございます」
老「五郎治殿、誠に今日きょう遠々とお/″\の処御苦労に存じます、只今の事はかみへ仰せ上げられんように、何もござりませんが一献いっこん差上げる支度になって居りますから、あの紅葉もみじへ」
 と言われて五郎治は是を機会しおに其の座を退しりぞきました。暫く経つと紋之丞様がばと起上って、
紋「惣衞/\」
惣衞「はア」
紋「惣衞、何は帰ったか五郎治は」
惣「えゝたしかお次にひかえ居りましょう、かみのお使つかいでございますから、紅葉の方へ案内致しまして、一献出しますように膳の支度をいたして居ります」
紋「じゃがなんじゃの、何故なぜ兄様あにいさまあんな奴を愛して側近く置くかの、あれはいかん奴じゃ」
惣「左様な事を今日こんにちは御意遊ばしません方が宜しゅうございます」
紋「云っても宜しい、あれ※(「言+滔のつくり」、第4水準2-88-72)へつらい武士じゃ、佞言ねいげん甘くして蜜の如しで、神原あるいは寺島をお愛しなさるのは、勧める者が有るからじゃの、惣衞」
惣「御意にござります」
紋「心配じゃ」
惣「御病中何かと御心配なされては相成りません、程無ほどのうお国表から福原數馬も出仕致しますから」
紋「あゝ數馬が来たら何うか成るか、あゝ逆上のぼせて来た、折角お兄様から下すった水飴、めて見ようか」
惣「召上りませ、お湯を是へ」
 是から蓋が附いて高台に載せてお湯が出ました。側にります銀のさじって水飴をすくおうとしたが、旨くいきません。
紋「これは思うようにいかんの」
惣「極製ごくせいの水飴ゆえ金属かなものではお取りにくうございます、矢張やっぱり木をいた箸が宜しいそうで」
紋「うかの、箸を持て」
 と箸を二本まとめて漸々よう/\沢山捲き上げ、老女がしきりに世話をいたして、
老「さア/\お口を」
紋「うむ」
 と今箸を取りにかゝる処へ駈込んで来たのは川添富彌、物をも云わず紋之丞様が持っていた箸を引奪ひったくって、突然庭へ棄てた時には老女も驚き、殿様もきもつぶしました。

        四十四

紋「何じゃ/\」
富「ハッ富彌で」
[#「紋」は底本では「富」]白痴たわけ……何をいたす」
富「ハア」
 と胸を撫下なでおろし、
富「誠に幸いな処へ駈付けました、どうか水飴を召上る事はおとゞまりを願います、決して召上る事は相成あいなりません」
老「はアどうもわたくしびっくりしました、これは何という事です、御無礼至極ではござりませんか、ことに只今お上屋敷からお見舞として下されになった水飴、お咳が出るから召上ろうとする所を、ってお庭へ棄てるとは何事です」
富「いえ、これは棄てます」
紋「富彌、此の水飴はお兄様あにいさまがな咳が出るからと云って養いにつかわされた水飴を、何故なぜ其の方は庭へ棄てた」
富「いえ仮令たといお上屋敷から参りましても、天子てんし将軍から参りましても此の水飴は富彌屹度きっと棄てます」
紋「何うか致したな此奴こやつは……これ其の方は予が口へ入れようとした水飴を庭へ棄てた上からは、取りも直さず予とお兄様を庭へ投出したも同様であるぞ、品物は構わんが、折角お心入れの品を投げ棄てたからは主人を投げたも同じ事じゃ」
富「へえ重々恐入ります、其の段は誠に恐入りましたが、水飴を召上る事は決して相成りません」
紋「何故ならん」
富「何でも相成りません」
紋「余程此奴こやつは何うかいたしてる、無礼至極の奴じゃ」
富「御無礼は承知して居ります、はなはだ相済みません事と存じながら、お毒でござるによって上げられません」
紋「何故毒になる、し毒になるなら、水飴を上げても咳の助けには相成らん、かえって悪いからせと何故止めん」
富「左様な事を口でぐず/\申している内には召上ってしまいます、召上っては大変と存じまして、お庭へ投棄てました」
紋「余程変じゃ…」
富「まずま外村氏安心致しました」
外「安心じゃアない、粗忽そこつ千万な事じゃないか、手前は只驚いて何とも申上げ様がない、お上屋敷から下すったものを無闇にお庭へ投棄てるというは何ういう心得違いで」
紋「外村彼是云うな、此奴は君臣の道をわきまえんからの事じゃ、予を嘲弄ちょうろう致すな、年若の主人とあなどような事を致しても宜しいと存じておるか、幼年の時から予の側近くるによって、いまだに予を子供のように思って馬鹿に致すな」
富「いえ、中々もちまして」
紋「いや容赦ようしゃは出来ん、棄置かれん、今日こんにち挙動ふるまいは容易ならんことじゃ」
富「お棄置きに成らんければお手打になさいますか」
紋「もっとも左様」
富「わたくしもとより覚悟の上、お手打になりましょう」
外「これ/\何だ、何を馬鹿を申す、少々逆上のぼせる様子、只今御酒を戴きましたので、惣衞かれ成代なりかわってお詫をいたします、富彌儀ひど逆上ぎゃくじょうをしてる様子で」
富「いゝえわたくしはお手打に成ります」
紋「おゝ手打にしてやる是へ出え」
富「いゝえお止めなすってもわたくしは出る」
 と大変騒々しくなって来た処へ、這入って来ましたのは秋月喜一郎という御重役で、お茶台の上へ水飴を載せてスーと這入って来ながら此のていを見て。
喜「何を遊ばすの、御病中お高声はお宜しく有りません、富彌如き者をお相手に遊ばしてお論じ遊ばすのはお宜しくない、富彌も控えよ」
富「へえ/\」
 と云ったが心のうちで、此の秋月は忠義な者と思ったから。
富「何分宜しく、しかし水飴はおとゞめ申します」
紋「えゝ喜一郎、今日きょうは富彌の罪はゆるさんぞ、幼年の折から側近くいて世話致しくれたとは申しながら、余りと云えば予を嘲弄いたす、予をないがしろにする富彌、免し難い、斬るぞ」
喜「これは又大した御立腹、全体何ういう事で」
紋「予が咳を治さんとて、上屋敷から遣わされたお心入れの別製の水飴を甜めようとする処へ、此奴が駈込んで参り突然いきなり予が持っていた箸を引奪ひったくって庭へ棄てた、これとりも直さず兄上を庭へ投げたも同じ事じゃから免さん、それへ直れ、しからん奴じゃ」
喜「これは怪しからん、富彌、何ういう心得だ、かみから下された水飴というものは一通りならんと、梅の御殿様の思召おぼしめすところは御情合ごじょうあいで、態々わざ/\仰附おおせつけられた水飴を何で左様な事をいたした」
富「お毒でございますから、お口にはいらん内にと口でおめ申す間合まあいがございませんから、無沙汰にお庭へ棄てました」
喜「それは又何ういう訳で」
富「何ういう訳と申して、只今申上げる訳にはまいりませんが、至ってお毒で」
喜「ムヽウ、是は初めて聞く水飴は周の世の末に始めて製したるを取って柳下惠りゅうかけいがこれを見てい物が出来た、歯のない老人や乳のない子供に甜めさせるには妙である、誠に結構なものが出来た、後の世の仕合しあわせであると申したという、お咳などには大妙薬である、かゝる結構な物を毒とは何ういう理由わけもっとも其の時に盜跖とうせきという大盗賊が手下に話すに、れはいものが出来た、戸のくろゝに塗る時は音がせずにひらく、盗みに忍びるには妙である至極い物であると申したそうだ、同じ水飴でも見る人によってはう違う、拙者もお見舞いに差上る積りで態々白山前の飴屋源兵衞方から持参いたした此の水飴」
富「これはしからん秋月の御老人に限って其様そんなことは無いと存じていたが、是は怪しからん、あなたは何うかなすったな」
喜「其の方こそ何うかしてる、お咳のお助けになり、お養いになる水飴を」
富「ス……はてな」
 と心のうちで川添富彌が忠義無二の秋月と思いのほか、上屋敷の家老寺島あるいは神原五郎治とくみして、水飴をかみへ勧めるかと思いましたから、顔色を変えてジリヽと膝を前へ進め。
富「相成りません」
紋「白痴たわけ……喜一郎あのような事を申す、余程おかしい変になった」
喜「余程変に相成りましたな」
富「御老臣が献ずる水飴でも決して相成りません、わたくしはお手打に成ります、かみのお手打は元より覚悟、お手打になってもいさゝいといはございませんが、水飴は毒なるものと思召おぼしめしまして此のも召上らんように願います、仮令たとい喜一郎が持って参りましょうとも、水飴を召上る事は相成りません」
紋「なんじゃ何の事じゃ、白痴たわけめ」
喜「拙者が持って参った水飴が毒じゃと申すのか、ムヽウ……それじゃア斯う致そう、拙者がお毒味を致そう。かみさじを拝借致します」
 と入物いれものの蓋を取りけて水飴を取りにかゝるから、川添富彌がはてなと見て居ります。秋月は富彌の顔を見ながら、水飴を箸のさきへ段々と巻揚まきあげるのを膝へ手を置いて御舎弟紋之丞殿が見詰めて居りましたが、口の処へ持って来るから。
紋「喜一郎、毒味には及ばん」
喜「はっ」
紋「もう宜しい、予は水飴は嫌いになった、毒味には及ばん、水飴は取棄てえ」
喜「はッ」
紋「喜一郎が勧めるのも忠義、富彌がとゞむるも忠義、二人して予を思うてくれる志かたじけなく思うぞ」
喜「ほう」
富「ほう」
 御懇ごこんの御意で喜一郎富彌は落涙らくるい致しました。
喜「富彌有難く御挨拶を申せ……有難うございます」
富「あゝ有難うございまする」
 と涙を払い
富「無礼至極の富彌、お手打になっても苦しからん処、格別のお言葉を頂戴いたし、富彌死んでもいさゝくやむ所はございません」
紋「いや喜一郎と富彌の両人へ何か馳走をしてれ、喜瀬川は料理の支度を」
老女「はい」
 と鶴の一声ひとこえで、たちまち結構なお料理が出ました。水飴をすてると、お手飼てがい梅鉢うめばちという犬が来てぺろ/\皆甜めてしまいました。それなりにりますとお庭先がしんと致しました。もっとも御案内の通り谷中三崎村のへんは淋しい処で、裏手はこう/\とした森でございます。所へ頭巾目深まぶかに大小を無地の羽織の下に落差おとしざしにして忍んで来る一人の侍、裏手の外庭の林の前へまいると、グックと云うものがある。はて何だろうと暗いから、すかして見ると、お手飼の白班しろぶちの犬がもがいて居ります。あやしの侍がしばらく視てる。最前から森下の植込うえごみの蔭に腕を組んで様子をうかごうて居るのはの遠山權六で、さきに松蔭の家来有助を取って押えたが、松蔭がお羽振がいので、事を問糺といたゞさず、無闇に人を引括ひっくゝり、かみへ手数を掛け、何もわきまえん奴だと權六は遠慮を申付けられました、遠慮というのは禁錮おしこめの事ですが、權六ちととも[#「ちととも」は「とも」「ちっとも」などの誤記か]遠慮をしません、相変らず夜々よな/\のそ/\出てお庭を見巡みまわって居りますので、今權六がかゞんで見て居りますと、犬がグック/\と苦しみ、ウーンワン/\といやな声でえる、暫くもがいて居りましたが、ガバ/\/\と泡のような物を吐いて土をむしり木の根方へ頭をこすり附けて横っ倒しにたおれるのを見て、怪しの侍が抜打ぬきうちにすうと犬の首を斬落きりおとして、懐から紙を取出し、すっかり血をぬぐい、鍔鳴つばなりをさせてさやに収め、血の附いた紙を藪蔭へ投込んで、すうときに掛るから權六は怪しんですうッと立上り、
權「いやア」
 と突然だしぬけの侍のうしろから組附いた時には、身体しんたいしびれ息もとまるようですから、侍は驚きまして、
曲者「放せ」
權「いや放さねえ、怪しい奴だ、何者だ、何故犬う斬った、さ何者だか名前を云え」
曲「手前たちに名前を申すような者じゃアねえ、其処そこ放せ」
權「放さねえ、さ役所へけ」
曲「役所へくようなもんじゃアえ」
權「黙れ、頭巾を深く被りやアがって、大小を差して怪しい奴だ、此のまア御寝所ごしんじょちけえ奥庭へ這入りやアがって、ことに大切な犬を斬ってしまやアがって、さわれ何故犬を斬った」
曲「何故斬った、此の犬はおれ咬付かみついたから、ムヽ咬付かれちゃアならんから斬ったが何うした」
權「黙れ、おれア見ていたぞ、咬付きもしねえ犬を斬るには何か理由わけがあるだろう、云わなければうぬ絞殺しめころすが何うだ」
曲「ムヽせつないから放せ」
權「放せたって容易にア放さねえ、さあゆべ、えかねえか」
 と大力無双だいりきむそうの權六にとらえられたのでございますから身動きが出来ません。引摺ひきずられるようにしてお役所へ参り、早々届けに成りました事ゆえ、此の者をくゝし上げまして、其の罪人とがにんを入れ置く処へ入れて置き、翌日お調べというのでお役所へ呼出しになりました時には、信樂豐前しがらきぶぜんというお方がお目付役を仰付けられて、掛りになりました。此の信樂という人はしたるい身分でもないが、理非明白な人でありますから、お目付になって、内々ない/\叛謀人むほんにん取調べの掛りを仰付けられました。差添さしぞえ別府新八べっぷしんぱちで、曲者は森山勘八もりやまかんぱちと申す者で、神原五郎治の家来であります。呼出しになりました時に、五郎治のおとゝ四郎治がまかり出ます事になりお縁側の処へ薄縁うすべりを敷き、其の上に遠山權六が坐って居ります。お目付は正面に居られます。また砂利の上にむしろを敷きまして、其の上に高手小手たかてこてくゝされて森山勘八が居りますお目付が席を進みて。
目付「神原五郎治だいおとゝ四郎治、遠山權六役目の儀ゆえ言葉を改めますが、左様に心得ませえ」
四「はっ」
權「ほう」
目付「權六其の方昨夜外庭見廻りのおり、内庭の檜木山ひのきやまの蔭へまいる折柄おりから、面部を包みし怪しき侍ていのものが、内庭から忍びで、お手飼の梅鉢を一刀に斬りたるゆえ、怪しい者と心得て組付き、引立て来たと申す事じゃがそれに相違ないか」
權「はい、それに相違ございません、どうも眼ばかり出して、なげえ物を突差つッさしまして、あの檜木山の間から出て来た……、怪しい奴と思えやして見ているうち、犬を斬りましたから、何でも怪しいと思えやしたから、ふんづかめえました」
目付「うん……神原五郎治家来勘八、かしらを上げえ」
勘「へえ」
目「何才になる」
勘「三十三でございます」
目「其の方陪臣ばいしんの身の上でありながら、何故なにゆえに御寝所近い内庭へ忍び込み、ことには面部を包み、刄物を提げ、忍び込みしは何故なにゆえの事じゃ、又お手飼の犬を斬ったと申すは如何いかなる次第じゃ、さ有体ありていに申せ」
 とめつけました。

        四十五

 勘八は図太い奴でございますから、わざ落著振おちつきはらいまして、
勘「へえ、誠に恐入りましてございます。お庭内へ参りましたのは、此の頃は若殿様御病気でございまして、皆さんが御看病なすっていらっしゃるので、どうもお内庭はお手薄でございましょうから、夜々よる/\見廻った方がいと主人から言いつかりました、それにお手飼の犬とは存じませんで、檜木山の脇へわたくしが参りましたら、此の節の陽気で病付やみついたと見えまして、私に咬付かみつきそうにしましたから、咬付かれちゃア大変だと一生懸命で思わず知らず刀を抜いて斬りましたが、お手飼の犬だそうで、誠にどうも心得んで、とんだ事を致しました、へえ重々恐入りましてございます」
目「そりゃアお手飼の犬と知らず、ほかの飼犬にも致せ、其の方陪臣の身をもっ夜中やちゅう大小をたいし、御寝所近い処へ忍び入ったるは怪しい事であるぞ、さ何者にか其の方頼まれたので有ろう、白状いたせ、拙者屹度きっと調しらべるぞ」
勘「へえ、何も怪しくも何ともないんでございます、全く気を付けて時々お庭を廻れと云われましたんでございます、それゆえ致しました、此処こゝにおいでなさいます主人の御舎弟四郎治様もう仰しゃったのでございます」
目「うむ、四郎治其の方は此の者に申付けたとの申立もうしたてじゃが、全く左様か」
四「えゝ、お目付へ申上げます、実は兄五郎治は此の程お上屋敷のお夜詰よづめに参って居ります、と申すは、大殿様御病気について、兄も心配いたしまして、えゝ、番でない時も折々は御病気伺いにまかで又御舎弟様も御病気にきお夜詰の衆、又御看護のお方々もお疲れでありましょう、又疲れて何事も怠り勝の処へ付入つけいって、狼藉者ろうぜきものが忍入るような事もあれば一大事じゃから、其の方おれがお上屋敷へまいってうちは、折々お内庭を見廻れ、御寝所近い処も見廻るようにと兄よりわたくし言付いいつかって居ります、しかる処昨日御家老より致しまして、火急のお呼出しで寅の門のお上屋敷へ罷出まかりでましたが、私は予々かね/″\兄より言付かって居りますから、是なる勘八に、其の方代ってお庭内を廻るがいと申付けたに相違ござらん、然るに彼がお手飼の犬とも心得んで、えられたに驚き、梅鉢を手打にいたしました段は全く彼何もわきまえん者ゆえ、斯様な事に相成ったので、兄五郎治においても迷惑いたします事でござる、しかし何も心得ん下人げにんの事と思召おぼしめしまして、幾重にも私が成代ってお詫を申上げます、御高免ごこうめんの程を願いとうござる、全く知らん事で」
目「むう、そりゃ其の方兄五郎治から言付けられて、其の方が見廻るべき所を其の方がお上屋敷へまいってる間、此の勘八に申付けたと申すのか、それはと心得んことじゃアないか、うん、これ申付けても外庭を見廻らせるか、又はお馬場口を見廻るが当然、陪臣の身分で御寝所近い奥庭まで夜廻りに這入れと申付けたるは、些とおかしいようだ、左様な事ぐらいはわきまえのない其の方でもあるまい、ことに又帯刀をさせ面部を包ませたるは何う云う次第か」
四「それは夜陰やいんの儀でござるで、誠にお馬場口や何か淋しくてならんから、彼に見廻りを申付けるおりに、大小を拝借致したいと申すから、それではおれつもりで廻るがいと申付けましたので、大小を差しましたる儀で、しかし頭巾を被りましたことはとんと心得ません……これ勘八、手前は何故なぜ目深めぶかい頭巾で面部を包んだ、それは何ういう仔細か、顔を見せん積りか」
勘「えゝ誠にどうもになりますと寒うございますんで、それゆえ頭巾を被りましたんで」
目「なに寒い……当月は八月である、いまだ残暑もうせせず、夜陰といえどもいきれて熱い事があるのに、手前は頭巾を被りたるは余程寒がりと見ゆるな」
勘「へえ、どうもよるは寒うございますので」
目「寒くば寒いにもせよ、一体何ういう心得で其の方が御寝所近くへ這入った、仔細があろう、如何様いかように陳じてものがれん処であるぞ、兎や角陳ずると厳しい処の責めにわんければならんぞ、よく考えて、とてのがれん道と心得て有体ありていに申せ」
勘「有体たって、わたくしは何も別に他から頼まれた訳はございませんで、へえ」
目「中々此奴こやつしぶとい奴だ、此の者を打ちませえ」
四「いや暫く……四郎治申し上げます、暫くどうぞ、彼は陪臣でござって、お内庭へ這入りました段は重々相済まん事なれども、五郎治からわたくしが言付けられますれば、すなわち私が、兄五郎治のだいを勤むべき処、御用あって御家老からお呼出しに相成りましたから、むを得ず家来勘八に申付けましたので、とりも直さず勘八は兄五郎治のたいでござる、何もいてこれを陪臣と仰せられては誠に夜廻りをいたし、かみを守ります所の甲斐もない事でございます、勘八のみおとがめが有りましては偏頗かたおとしのお調べかと心得ます」
目「それは何ういう事か」
四「えゝれなる遠山權六は、当春中とうはるじゅう松蔭大藏の家来有助と申す者を取押えましたが、有助は何分にも怪しい事がないのを取押えられたまかね逃所にげどころを失い、あわてゝ權六に斬付けたるを怪しいという処から、お調べが段々長く相成って、再度松蔭大藏もお役所へ罷出まかりでました。其のおりは御用多端の事で、御用のを欠き、不取調べをいたし、左様な者を引いてまいり、上役人かみやくにんの迷惑に相成る事を仕出しでかし、御用の間を欠き、不届ふとゞきの至りと有って、權六は百日の遠慮を申付かりました、いまだ其の遠慮中の身をもかえりみず、夜な/\お屋敷内を廻りまして宜しい儀でござるか、權六に何のお咎めもなく、わたくしの兄へお咎めのあると云うのは、更に其の意を得んことゝ心得ます、何ういう次第で遠慮の者がみだりに外出をいたして宜しいか、其の儀のお咎めも無くって宜しい儀でござるなれば、陪臣の勘八がお庭内を廻りましたのもお咎めはあるまいかと存じます」
目「うむ…權六其の方は百日遠慮を仰付けられていると、只今四郎治の申す所である、何故なにゆえに其の方は遠慮中妄りにお庭内へ出た」
權「えゝ」
目「何故に出た」
權「遠慮というのは何ういう訳だね」
目「何う云う訳だとは何だ、其の方は遠慮を仰付けられたであろう」
權「それは知っている、知っているが、遠慮と云うのは何を遠慮するだ、わしが有助を押えてお役所へ引いて出ました時は、お役人様が貴方と違って前の菊田きくた様てえ方で、悪人の有助ばかり贔屓いして私をはア何でもんでも、無理こじつけにり込めるだ、さっぱり訳が分らねえ、其のうちに御用の間を欠いた、やれなんのとかどを附けてなげえ間お役所へ私は引出されただ、二月にぎゃつから四月しがつまでかゝりましたよ、牢の中へへいってる有助には大層な手当があって、何だか御重役からお声がゝりがあるってらくうしている、私は押込められて遠慮だ/\と何を遠慮するだ私のかんがえでは遠慮というものは芽出度い事があっても、うちで祝う所は祝わねえようにし、又見物遊山非番の時に行きたくても、其様そんな事をして栄耀えようをしちゃアならんから、遠慮さ、又うめえ物を喰おうと思っても旨え物を喰って楽しんじゃアどうも済まねえと思って遠慮をして居ります、何も皆遠慮をしているが私が毎晩めえばん/\御寝所ぢけえお庭を歩いているは何の為だ、若殿様が御病気ゆえ大切に思えばこそだ、それに御家来の衆も毎晩めえばんのことだから看病疲れで眠りもすりゃア、明方あけがたには疲れて眠る方も有るまい者でもねえ、其の時怪しい者がへいっちゃアならねえと思うからだ、此の程は大分貴方あんた顔なんど隠しちゃア長い物を差した奴がうろつか/\して、御寝所の縁の下などへへいる奴があるだ、過般こねえだも私がすうと出たら魂消たまげやアがって、つらか横っ腹か何所どっか打ったら、犬う見たようにようよう這上ったから、とっつかめえて打ってやろうと思ううちに逃げちまったが、うして気を付けたら私はこれを忠義かと心得ます、ほかの事は遠慮を致しますが、忠義の遠慮は出来ねえ、忠義というものは誠だ誠の遠慮は何うしても出来ません、よるまわることは別段誰にも言付かったことはない、役目のほかだ、私も眠いからうちで眠れば楽だ、楽だが、それでは済みませんや、大恩のある御主人様の身辺あたりへ気を付けて、警護をしていることを遠慮は出来ませんよ、無理な話だ、まわったにちがえねえ、それでもまだ遠慮して外庭ばかり巡って居りました、すると勘八の野郎が……勘八とは知んねえだ初まりは……犬う斬ったから野郎と押えべいと出たわけさ、それにちげえねえでございますよ、はいそれとも忠義を遠慮をしますかな」
 と弁舌さわやかに淀みなく述立てる処は理の当然なれば、目付も少し困って、其の返答に差支さしつかえた様子であります。
目「むゝう、權六の申す所一応は道理じゃが、殿様より遠慮を仰せいだされた身分で見れば、それをそむいてはならん、最も外出致すを遠慮せんければならん」
權「外出がいしつだって我儘にうめえ物を喰いにくとか、面白いものを見にくのなれば遠慮ういたしますが、殿様のお側を守るなア遠慮は出来ねえ、外出がいしつするなって其様そんな殿様もえもんだ」
四「えゝ四郎治申上げますあの通り訳の分らん奴で、しかるをお目付は權六のみを贔屓いたされ、勘八一人唯悪い者と仰せられては甚だ迷惑をいたします事で、ことにお目付もかねてお心得でござろう、神原五郎治のいえぜん殿様よりお声掛りのこれ有る家柄、殊に遠山權六が如き軽輩と違って重きお役をも勤める兄でござる、權六と同一には相成りません、權六はかみの仰せいだされを破り、外出を致したをお咎めもなく、格別の思召おぼしめしのこれ有る所の神原五郎治へお咎めのあるとは、実に依怙えこの御沙汰かと心得ます、左様な依怙の事をなされては御裁許役とは申されません」
目「黙れ四郎治、不束ふつゝかなれども信樂豊前は目付役であるぞ、今日こんにち其の方らを調ぶるは深き故有っての事じゃ、此のたび御出府に成られた、御国家老福原殿より別段のお頼みあって目付職を勤めるところの豊前に対して無礼の一言であるぞ」
四「ではございますが、余り片手落のお調べかと心得ます」
目「其の方は部屋住へやずみの身の上で、兄の代りとはいえども、其の方から致して内庭へ這入るべき奴では無い、しかるをんだ、其の方が家来に申付けて内庭を廻れと申付けたるは心得違いの儀ではないか、ぜん殿様より格別のお声がゝりのある家柄、誠にかたじけない事と主恩しゅおんわきまえてるか、四郎治」
四「はい、心得居ります」
目「黙れ、新参の松蔭大藏と其の方兄五郎治兄弟の者は心を合せて、菊之助様をお世嗣よつぎにせんがめに御舎弟様を毒殺いたそうという計策たくみの段々は此の方心得てるぞ」
四「むゝ」
目「けれども格別のお声がゝりもこれ有る家柄ゆえ、目付の情をもって柔和に調べつかわすに、以てのほかの事を申す奴だ、とくに証拠あって取調べが届いてるぞ、最早のがれんぞ、兄弟共に今日こんにち物頭ものがしらへ預け置く、勘八其の方は不埓至極の奴、吟味中入牢じゅろう申付ける、權六」
權「はいわしも牢へへいりますかえ」
目「いや其の方は四月の二十八日から遠慮になったな」
權「えゝ」
目「二十八日から丁度昨夜が遠慮明けであった」
權「あゝうでございますか」
目「いや丁度左様に相成る、遠慮が明けたから、其の方がお庭内を相変らず御主君のお身の上を案じ、御当家を大切と思い、役目の外に夜廻りをいたす忠義無二のことと、かみにも御存じある事で、してはまた格別の御褒美もあろうから、有難く心得ませい」
權「有難うございます、なにイ呉れます」
目「何を下さるかそれは知れん」
權「なにわし種々いろ/\な物をもろうのはいやでございます、どうかまア悪い奴と見たら打殺ぶっころしても構わないくらいの許しをねげえてえもので、此の頃は余程悪い奴がぐる/\廻って歩きます、全体此の四郎治なんという奴は打殺してりてえのだ」
目「これこれ控えろ、追って吟味に及ぶ、今日こんにちは立ちませえ」
 とすぐに神原兄弟は頭預かしらあずけになって、宅番たくばんの附くような事に相成り、勘八という下男は牢へ入りました。權六は至急お呼出しになって百日の遠慮はりて、其の上お役が一つ進んで御加増となる。遠山權六は君恩のかたじけないことを寝ても覚めても忘れやらず、それから毎夜ぐる/\廻るの廻らないのと申すのではありません。徹夜よどおし寝ずに廻るというは、実に忠義なことでございます。此の事を聞いて松蔭大藏が不審をいだき、どうも神原兄弟が頭預けになって、宅番が附いたは何ういう調べになった事かはて困ったものだ、彼奴あいつらに聞きたくも聞くことも出来ん自分の身の上、あゝ案じられる、国家老の出たは容易ならん事、どうか国家老を抱込みたいものだと、もとより悪才にけた松蔭大藏種々いろ/\考えまして、濱名左傳次はまなさでんじにも相談をいたし、国家老を引出しましたのは市ヶ谷原町はらまちのお出入町人秋田屋清左衞門あきたやせいざえもんという者の別荘が橋場はしばにあります。庭が結構で、座敷もく出来て居ります。これへ連出し馳走というので川口から立派な仕出しを入れて、其の頃の深川の芸者を二十人ばかり呼んで、格別の饗応になると云うのであります。

        四十六

 時は八月十四日のことで、橋場の秋田屋の寮へ国家老の福原數馬という人を招きまして何ぞすきがあったらば……という松蔭がたくみ、濱名左傳次という者としめし合せ、けて遅く帰るようで有ったらば隙をうかゞって打果してしまうか、あるいは旨く此方こちらへ引入れて、家老ぐるみ抱込んでしまうかと申す目論見もくろみでございます。大藏は悪才にはけ弁もし愛敬のある男で、秋田屋に頼んで十分の手当でございます。此の寮も大して広いうちではございませんが客席が十五畳、次が十畳になって、入側いりかわも附いて居り誠に立派な住居すまいでございます。普請は木口きぐちを選んで贅沢ぜいたくなことで建てゝから五年もったろうというい時代で、落着いて、なか/\席の工合ぐあいも宜しく、とこは九尺床でございまして、探幽たんゆうの山水が懸り、唐物からものかご芙蓉ふよう桔梗ききょう刈萱かるかやなど秋草を十分にけまして、床脇の棚とうにも結構な飛び青磁の香炉こうろがございまして、左右に古代蒔絵こだいまきえの料紙箱があります。飾り付けも立派でございまして、庭からずうと見渡すと、潮入しおいりの泉水せんすいになって、模様を取って土橋どばしかゝり、紅白の萩其のの秋草が盛りで、何とも云えんい景色でございます。饗応を致しますに、丁度宜しい月のあがりを見せるという趣向。深川へ申付けました芸者は、ごくあたまだった処の福吉ふくきち、おかね、小芳こよし雛吉ひなきち延吉のぶきち小玉こたま、小さん、などという皆其の頃の有名の女ばかり、鳥羽屋五蝶とばやごちょう壽樂じゅらくと申します幇間たいこもちが二人、れは一寸ちょっと荻江節おぎえぶしもやります。荻江喜三郎おぎえきさぶろうの弟子だというので、皆美々びゞしく着飾って深川の芸者は只今の芸者と違いまして、長箱ながばこで入りましたもので、大概橋場あたりで言付ければ残らず船でまいりまして、着換えなど沢山着換えまして、髪は油気なし、つぶしという島田に致しまして、丈長たけなが新藁しんわらをかけまして、こうがいは長さ一尺で、厚み八も有ったという、長い物を差して歩いたもので、狭い路地などは通れませんような恐ろしい長い笄で、夏を着ましても皆肌襦袢はだじゅばんを着ませんで、深川の芸者ばかりは素肌へ着たのでございます。裾模様すそもようが付いて居ります、べにかけ花色、深川鼠、路考茶ろこうちゃなどが流行はやりまして、金緞子きんどんすの帯を締め、若い芸者は縞繻子しまじゅすの間に緋鹿ひがをたゝみ、畳み帯、はさみ帯などと申して華やかなこしらえ、大勢並んで、次の間にお客様のおいでを待って居ります。秋田屋清左衞門の番頭も、其の頃大名の御家老などが来るといえほま名聞みょうもんだというので、庭の掃除などを厳しく言付けぐる/\見廻って居ります。そらおいでだと云ってお出迎いをいたし、
番「えゝ、いらっしゃいまし」
數「あゝ、これは成程どうもい庭で、松蔭い庭だの」
大「はい誠にその、当家の亭主が至って茶人で、それゆえ此の庭や何かは、更に作りませんで、自然の様を見せました、実に天然のような工合で」
數「うん余程い庭である、むう、これは感心……岩越いわこし何うだえ」
岩「へえ、わたくし斯様かような処へ参ったのは始めてゞごすな、国にいてはとても斯ういう処は見られませんな、うゝん、これはどうも」
數「お前は何だ」
大「えゝ、これなるは当家の番頭、伊平いへいと申します不調法者で」
番「えゝ、今日こんにちうこそ御尊来ごそんらい有難い事で、貴所方あなたがたのお入来いでのございますのは実に主人も悦び居りまして、此の上ない冥加みょうが至極の儀で、土地の外聞で、わたくしにおいても、誠に有難いことで」
數「いや其様そんなに、大層に云わんでもい、土地の外聞なんて、亭主は余程好事家こうずかのようだな」
番「えゝ鬼灯ほおずきなどは植えんように致してございます」
數「うふゝゝ鬼灯じゃアない、風流人と申すことじゃ」
番「でございますか、なにほうずは出来ます」
數「何を申す」
番「へい、船の上をずる/\何時いつまでもいているような長いものをほうずと申しますそうで」
數「いや中々の博識ものしりじゃ、うふゝゝ面白い男だの、此の泉水せんすい潮入しおいりかえ」
番「へえ何と…」
數「いやさ此の泉水は潮がはいるかえ」
番「へえ、何と御意遊ばします」
數「潮入りかというのじゃ」
番「へえ/\只今差上げますあの誰かお盆へ塩を持って来て上げな、どうも御癇癖ごかんぺきだから、お手をお洗い遊ばすのだろう、へえお塩を」
數「何を持って来るのだ、此の泉水は潮入かと申すのだ」
番「へえ、左様でございます」
大「何卒どうぞこれへ入らっしゃいまし」
數「うん岩越、ひょろ/\歩くと危いぞ池へおっこちるといかん、あゝ妙だ、家根やね惣体そうたい葺屋ふきやだな、とんと在体ざいてい光景ありさまだの」
大「外面そとから見ますと田舎家いなかやのようで、中は木口を選んで、なか/\好事こうずに出来て居ります」
數「其のもとは斯ういう事も中々くわしい、わしはとんと知らんが、石灯籠いしどうろうは余りなく、木の灯籠が多いの」
大「えゝ、これはその、野原のような景色を見せました心得でございましょうか」
數「あ成程、これは面白い/\……此処こゝからあがるのか、成程玄関の様子が面白く出来たの、入口いりくちかえ」
大「これからおあがり遊ばしませ、お履物はきものわたくしがしまい置きます」
數「これはい席だ」
大「さゝ、是へどうぞ/\」
 と松蔭が段々案内をいたし、座敷の床の前へしとねを出し、烟草盆や何か手当が十分届いて居ります。
大「どうぞ此処これへお坐りを願います」
數「余りい月だによって、縁先で見るのが至極宜しい、これは妙だ、此の辺は一体隅田川の流れで……あれに見ゆるのは橋場の渡しの向うかえ、如何いかにも閑地かんちだから、斯ういう処は好いの、えゝ一寸ちょいと秋田屋をこれへ」
大「えゝ御家老これが当家の主人秋田屋清左衞門と申します、年来お屋敷へお出入を致すもので、染々しみ/″\いまだお目通りは致しませんが、日外いつぞやあの五六年以前、大夫たいふが御出府のおりにお目通りを致した事がありますと申し、斯様な見苦しい処ではござるが、一度御尊来を願いたいと申して居ったので、当人もこと/″\今日こんにちは悦び居ります、どうかお言葉を」
數「はゝあ、秋田屋か」
清「へえ、えゝ今日こんにちうこそ、御尊来で、誠に身に取りまして有難い事でございます、えゝ年来お屋敷さまへお出入をいたします不調法者で、此ののちとも何分御贔屓お引廻しを願います」
數「あい、秋田屋か、成程、貴公は知らんが、貴公の親父の時分であったか、江戸詰の時種々いろ/\世話になった事もあった、中々立派ないえだ、至極面白い」
清「いえ、見苦しゅうございまして、此の通り粗木そぼくを以てこしらえましたので、中々大夫さまなどがお入来いでと申すことは容易ならんことで、此のいえはくが付きます事ゆえ、誠に有難いことで」
數「いや/\、格別の手当でかたじけない、あい/\、成程、これは中々立派な茶碗だな、余程道具好きだと見えるな」
大「はい、い道具を沢山所持してる様子でございます、今日こんにちは御家老のお入来いでだと、何か大切な品を取出した様子で、なにろくなものもございますまいがほんの有合ありあいで」
數「いや中々い茶碗だ」
大「えゝ道具は麁末そまつでござるが、主人が心入れで、自ら隅田川の水底みずそこの水を汲上げ、砂漉すなごしにかけ、水をやわらかにしてい茶を入れましたそうで」
數「成程それは有難い、其処そこが親切というもので、茶はたとえ番茶でも水を柔かにして飲ませる積りで、自身に川中まで船で水を汲みにく志というものは、千万きんにも替えがたく好い茶を飲ませるより福原かたじけなく飲む」
大「えゝ恐入りました事で」
數「大藏、立派な菓子を取ったの」
大「いえ、どうもはなはだ何もございませんで、此の辺は誠にどうも……市ヶ谷から此処これ出張でばりますことで、い道具や何かは皆此方こちらの蔵へ入れ置きますという事で」
數「成程、火事がないから道具のいのを運んで置くか、それは宜かろう」
大「今日こんにちは何も御馳走は有りませんが、御家老へ此の向うから月のあがります景色を………これは御馳走でございます、求めず天然のたのしみで、幸い今宵は満月の前夜で」
數「おゝ成程な、いやかけ違って染々しみ/″\挨拶もしなかったが、段々と上屋敷の事も下屋敷の事も、貴公が大分に骨を折って大きに殿様にも格別に思召おぼしめし、新参でありながら、存外の昇進で、えらいものだ」
大「えへゝゝ、不束ふつゝかの大藏格別かみのお思召ぼしめしをもちまして、重きお役を仰付けられ、冥加至極の儀で、此の上とも何卒どうぞ御家老のお引立をこうむりたく存じます」
數「其様そんなに出世をしてはく処があるまい、中々どうして男はし、弁に愛敬を持ち、武芸も達しておるから自然と昇進をするたちだ」
大「えゝ、恐入りました事で」
數「手前も壮年の折柄おりからは一体虚弱だが、大きに老年に及んで丈夫になったが、どうも歯が悪くなって、旨い物をべても余り旨いとは思わん、楽しみと云っても別になし、国にれば田舎侍だから美食美服は出来んばかりでは無い、一体若い時分からそういう事は嫌いじゃ、斯ういう清々せい/\とした処を見るが何よりの楽しみじゃの」
 大藏は座を進ませまして、
大「えゝどうも今日こんにちは何もおなぐさみもなく、お叱りを受けるかは存じませんが、亭主が深川の芸者を呼び置きましたと申すことで、一寸ちょっとお酌を取りましても、武骨な松蔭や秋田屋がお酌をいたしましては、池田伊丹の銘酒も地酒程にも飲めんようなことで、甚だ御無礼ではございますが、お目通りへ其の深川の芸者どもを呼寄せることに致します」
數「おゝ成程その噂は聞いている、深川には大分美人もり、芸のいものもるという事だが、それはいの、手前は芸者に逢った事はない、武骨者でことに岩越という男が是非一緒にきたい、何でも連れてってくれ、いまだ碌に御府内を見たことが無いというから同道して来たが、起倒流きとうりゅうの奥儀をきわめあるだけあって、膂力ちからが強いばかりで、頓と風流気ふうりゅうぎのない武骨者じゃ」
岩越「えゝ拙者は岩越賢藏けんぞうと申す至って武骨者で此のともお見知り置かれて御別懇に」
大「今日こんにちは図らず御面会を致しました、手前は松蔭大藏で……い折柄、此の後とも御別懇に……御家老れは濱名左傳次と申す者で、小役人でございましたが、図らず以上に仰付けられ、今日こんにちは何うかお目通りを致しまして、何かのお話を承われば身の修行だと申して居ります、武骨ではござるが洒落しゃれた口もきゝ、皺枯しゃがれっ声で歌を唄い、面白い男ゆえお目をお掛け遊ばして、何分お引立を」
數「はい/\、中々様子のい男、なれども近い処だといがの、上屋敷までは遠いから、どうかちっと早く帰りたいがの」
大「いえ、今晩は小梅のお中屋敷へ御一泊遊ばしては如何いかゞ寺家田じけだの座敷が手広でござる、あれへ御一泊遊ばしますように、是から虎の門までお帰りになっては余り遅うなりますから」
數「それは宜かろう」
大「じゃア早く/\」
 と是からお吸物に結構な膳椀で、古赤絵ふるあかえ向付むこうづけに掻鯛かきだいのいりざけのようなものが出ました。続いて口取くちとり焼肴やきざかなが出る。数々料理が並ぶ。引続いて出て来ましたのは深川の別嬪べっぴんでございます。
大「さ、これへ」
芸「今日こんにちは」
數「いや/\大勢呼んだの」
大「さ、これへ来てお酌を、大夫様たいふさまから」
芸「へえ、大夫様お酌をいたしましょう」
數「いや成程これは綺麗、あい/\、成程松蔭年をっても酌はたぼと云って幾歳いくつになっても婦人は見て悪くないもんだの、むゝう、中々どうも……なんてえ名だなに、小玉か成程、どんずりやっこの男がいる、あれは何だ」
幇間「えゝ手前は鳥羽屋五蝶と申します幇間たいこで」
數「ほゝう、なに太鼓を叩くか」
五「いえ、只口で叩きます」
數「口で太鼓を…唇でかえ」
五「いえ、なに、太鼓持で、えへゝゝ」
數「うん成程、口軽くちがるなことをいう、幇間ほうかんか、成程聞いていた、中々面白い頭だの」
五「へゝゝ、どうもだどんずりやっこでございます」
數「太皷持の頭は、みな此様こんなかえ」
五「みんなお揃いと云う訳ではございませんが、自然と毛が薄くなりましたので」
數「いや形が変って妙だ、幇間たいこもちは口軽だというが、何か面白いことを云いなさい」
五「これは恐入りましたな、御家老さま、改まってこれを云えと仰せあられますと困りますが……喜三郎こゝへ出なよ、金公きんこう此処これへ出なよ」
喜「口軽なんぞとてもお目通りは出来ないというのは何うだ」
五「何だえ、それは」
喜「足軽という洒落しゃれだ」
五「縁が遠いの、口軽と足軽では」
數「わしは酒が頓といかん、岩越一盃いっぱいやれ」
岩「わたくしは斯ういう形のものは始めて見ました、余程違って居ります、云うことも中々面白いようで」
五「これから追々おい/\繰出します」

        四十七

 幇間ほうかんの五蝶が、
五「大夫様、此のお庭はいお庭でございますな」
數「なか/\好いの」
五「大きな緋鯉ひごいが居ります、更紗さらさや何か亀井戸もよろしく申すので」
數「何ういう訳で、誰が亀井戸でよろしくと申した」
五「いえなに、ういう訳ではありません、これはどうも恐入りましたな」
數「わしも一つ洒落ようかな」
五「これは恐入ります、みん此処こゝへ来て伺いな、大夫様がお洒落遊ばすと、お上屋敷の御家老様が」
數「貴公はうまい物で洒落るから、わしも一つ洒落よう」
五「改まって洒落ようというお声がかりは恐入ります」
數「わしが国は美作で」
五「へえ成程」
數「わしは城代家老じゃ」
五「へえ/\」
數「そこで洒落るのだ」
五「大層どうもお洒落の御玄関ごげんかんから大広間おおびろまは恐入りました、へえ、成程」
數「美作城代家老私みまさかじょうだいかろうわし、というのは何うだ」
五「へえ、恐入りましたな、それは何ういう訳なんで」
數「分らんの、いまさか羊羹ようかん鹿もち
五「へゝえ、成程気が付きません、美作城代家老私、いまさか羊羹鹿の子餅、これは恐入りました……どうも恐入ったね」
喜「恐入りました、御家老様からお洒落がお菓子で出たから、可笑おかしな洒落と云うのをやろうかね、さアと云うと一寸ちょいと出ないものでげすが」
みの吉「私がちょいと一つやるよ」
喜「や、これはみの吉さん感心」
みの「私が赤飯おこわべたんだよ」
喜「可笑しな洒落だね」
みの「汁粉屋で赤飯を出したのだよ」
喜「此の節は汁粉屋で赤飯を売るよ」
みの「だから白木屋しろきやこまというのを汁粉屋赤飯しるこやおこわさ」
喜「さき本文ほんもんことわってあとから云うのは可笑しい」
岩越「手前が一つ洒落ようかの」
五「岩越さま、あなた様のお洒落は」
岩「手前は考えたが余程むずかしいて、これはムヽウ…待ってくれ、えー阿部川餅あべかわもちというのが有るの」
五「へえ/\ございます」
岩「一つ八文で」
五「阿部川、へい、一つは八文で」
岩「あべ川の八銭では本当のだというのは何うだ」
五「へえー、変なお洒落で、それは何う云う訳なんで」
岩「姉川あねかわ合戦かっせん本多ほんだが出たというのだ」
五「それは余りお固いお洒落でげすな、わたくしが洒落ましょう、斯ういうのは何うでございます、大黒様が巨燵こたつ※(「火+共」、第3水準1-87-42)あたってるのでございます、大黒あったかいと」
數「うん、成程是は分った、大福あったかいか」
五「御家老様の御意にりましたか」
數「わしう一つ洒落ようか、是は何うだの、松風は固い岩おこしは柔らかいと云うのは」
五「へえ、それは何ういう訳で」
數「松蔭は堅い男、岩越は柔術家やわらとり
五「へえ成程中々ちょっくら分りませんが誠に恐入りました事で、早くお三味線を」
 とお座付ざつきが済み、あとは深川の端唄はうたにぎやかにやる大分興にった様子、御家老も六十ぢかいお年で、初めて斯ういう席に臨みましたので快く大分に召上りました。
數「お前のお蔭でわし斯様こんな面白い事に逢ったのは初めてだ、実にたまらんな、た其のうち来たいものだ」
大「何うか御在府中御遠慮なくおいで下されば、清左衞門は如何いかばかりの悦びか知れません、芸者はどれがお気に入りました」
數「皆いの、其のうちにもあれいの、小まんに雛吉か」
大「あれが御意に入りましたら、今度はお相手に前々ぜん/″\から頼み置きまして、呼寄せるように致しましょう」
數「それは誠にかたじけない、大きに酔うたな、殿様は御病気での」
大「へえ/\わたくしも大きに心配を致して居ります」
數「しかわしが顔を御覧があってから、大きにお力が附いて大分に宜しいと、ことほかお悦びでおしょくも余程進むような事で」
大「大夫、何ぞおなぐさみを」
數「いやわしは誠に武骨な男で、音曲おんぎょくや何かはとんと分らん、能が好きじゃ」
大「はア、左様でございますか、それでは能役者を」
數「いや連れて来たよ、二人次の間にるが、せめてつゞみぐらいはなければなるまいと思って、婦人で皷をく打つ者があって、幸いだから、わしが其の婦人おんなを連れてまいった」
大「それは少しも心得ませんでした、何時いつにまいりましたか」
數「芸者どもは少しはしへ寄って居れ」
 と是からあかりを増し折から月が皎々こう/\差上さしのぼりまして、前の泉水へ映じ、白萩しろはぎは露を含んで月の光りできら/\いたしてる中へあかりを置きまして、此方こちらには芸者が並んで居りますから、何方どちらを見ても目移りが致しますような有様、今ふすまを開けて出て来ましたは仙台平せんだいひらはかまに黒の紋付でございます。其の頃だから半髪青額はんはつせいてんでまだ若い十七八の男と、二十七八になる男と二人がすうと摺足すりあしをして出て来ました。脇を見ると隅の方に女が一人振袖ふりそでを着まして、調べを取ってポン/\という其の皷の音が裏皮へ抜けまして奥へ響き中々上手に打ちます。大藏は何うして何時の間に斯様かような能役者を連れて来たかと思って見ますと、どうも見た様な能役者であるとは思いましたが、松蔭にも分りません。少し前へ膝を進めて熟々よく/\見ますと若い方は先年おいとまが出て、お屋敷を追放になりました渡邊織江のせがれの祖五郎、今一人は春部梅三郎、両人共にお屋敷を出てって、二人が何うして此処こゝへ能役者に成って来たことかと、皷打つゞみうちを見ると祖五郎の姉のお竹ですから松蔭は驚きまして、是は何ういう訳かと濱名左傳次とたがいに顔を見合せて居ります内に、舞もしまいました。
數「大きに御苦労/\、さア/\こゝへ来て、ずうっとこゝへ来な、構わずに此処こゝへ来て一盃いっぱい……それから松蔭もこゝへ来て……えゝ、これは貴公も知ってる通り、渡邊織江の忰祖五郎で、あれは春部梅三郎じゃ、不調法があってお暇になり、浪人の活計たつきに迫り、自分も好きな所から能役者となりたいと、何うやら斯うやら今では能役者でやってるそうだ、これは祖五郎の姉だ、器量もいがお屋敷へ帰るまでは何処どこへも嫁付かたづくことはいやだと、皷を打ったり、下方したかたが出来る処から出入町人の亭主に心安い者があって、其処そこにいると云うが、今日こんにちは幸いな折柄で、どうか又贔屓にして斯ういう事が有ったら前々まえ/\屋敷にいた時の馴染もあるから呼んでやってくれ」
大「これは思掛けない事で、祖五郎殿にも春部氏にもしばらく……」
 と松蔭も腹の中では驚きました。
大「えゝ、只今は何処どこに」
數「いや、国へ尋ねて来た、それからま何うするにも仕方がないから、奈良あたりで稽古をして、此方こちらへ出て来たので、是からが本当の修業じゃ、さア/\一盃いっぱい/\」
梅「松蔭殿、面目次第もない、尾羽打枯した浪人の生計たつき、致し方なく斯様な営業なりわいをいたして居り、誠に恥入りました訳で、松蔭殿にお目通りを致しますのも間の悪い事でございますが、構わんから参れと、御家老の仰せを受けて罷出まかりでました、貴方様には追々おい/\御出世、蔭ながら悦び居ります」
祖「祖五郎も蔭ながら、貴方様の御出世は父織江がお世話致した甲斐がござると蔭ながら悦び居ります、今日こんにちは思掛けなく御面会を致しました、此の共御贔屓を願いとう……斯様な御酒宴のございます節には必ずお招きを願います」
竹「松蔭さま暫く、竹でございます」
大「これはお竹さま、これは実に妙でげすな」
數「いや実に妙だ、芸者は帰したら宜かろう、かえって此処こゝにいると屋敷の話も出来んから、取急いで秋田屋芸者共を早く帰せ/\」
番頭「へえ/\」
 と急に船に載せて帰しました、
數「さ、こゝへ来て昔の話をしよう、この祖五郎の父織江は福原別懇であった、忠義無二な男であったが、武運つたなくして谷中瑞麟寺の藪蔭で何者とも知れず殺害せつがいされ、不束ふつゝかの至りによってながのおいとまを仰付けられ、討ったるかたきが知れんというが、さぞ残念であろう」
祖「はっ、誠に残念至極で」
 と眼に涙をうかめてお竹と祖五郎が松蔭の顔をじろりと横目でめ上げるから、松蔭は気味悪くなり、下を向いている。
數「春部梅三郎は腰元の若江と密通して逃げたという事だったの」
梅「はい、誠に恥入った事でございます」
數「うん、それが露顕した訳でもなし、是まで勤めむきも堅く、ほんの若気わかげの至りで、女を連れて逐電いたしたのじゃが、いまだお暇の出たわけではなし、只家出をしたかどだから、お詫をして帰参のかなう時節もあろう、若江という小姓もちいさい時分から奉公をしていた者で、先年体好ていよくお暇になったとの事、是も出入りは出来ようかと思う、所でお前たちにわしが問うがな、大殿様は今年はもう五十五にお成りなさる、昨今の処では御病気も大きにいようじゃが、どうもお身上みじょうが悪いので、今度の御病気は數馬決して安心せん、もしお逝去かくれにでもなった時には御家督相続は誰が宜かろう、春部だの祖五郎はお暇になってゝも、代々の君恩のかたじけない事は忘却致すまい、君恩を有難いと考えるならば、御家督は何う致すが宜しいか少しは考えも有ろう」
祖「手前の考えでは若様はだお四才よっつかお五才いつゝ御頑是ごがんぜもなく、何わきまえない処のお子様でございますから、万々一まん/\いち大殿様がお逝去かくれに相成った時には、お下屋敷にならせられる紋之丞様より他に御家督御相続のお方は有るまいかと存じます」
數「それはと違うだろう、菊様はお血統ちすじだ、仮令たとえ四才よっつでも菊様が御家督にならなければなるまい、御舎弟を直すのは些と道理に違ってるように心得る」
梅「いや、それは違って居りましょう」
數「違っては居らん」
梅「しかしお四才よっつになる者を御家督になされば、矢張やっぱり御後見が附かなければなりません、それよりは矢張やっぱりお下屋敷の御舎弟紋之丞様が御家督御相続になって、菊様追々御成人ののち御順家督ごじゅんかとくに相成るが御当然ごとうぜんのことゝ存じます」
數「いや/\うでない、お血統ちすじは別だ、誰しも我子は可愛もので、御実子ごじっしもって御家督相続と云えば殿様にもお快くお臨終が出来る、御兄弟の御情合も深い、深いなれども御舎弟様が御家督と云えばお快くないから御臨終ごりんじゅうが悪かろうと思う、どうもお四才よっつでもお血統はお血統、若様を御家督にするが当然かと心得るな」
祖「是は御家老様にお似合いなさらんお言葉で、紋之丞様が御家督相続に相成れば、万事御都合が宜しい事で、お舎弟様は文武の道にひいで、お智慧も有り、ず大殿様が御秘蔵の御方おんかた度々たび/\めのお言葉も有りました事は、父から聞いて居ります」
數「それはお前たちの知らん事、何でも菊様に限る」
大「えゝ、松蔭横合より差出ました横槍を入れます、これは春部氏祖五郎殿の申さるゝが至極もっともかと存じます、菊様はいまだお四才よっつで、何のおわきまえもない頑是がんぜない方をお世嗣よとりに遊ばしますのも、と不都合かのように存じます、菊様御成人の後は兎も角こゝ十四五年の間は梅の御印様おしるしさまが御家督になるのが手前においては当然かと、はゞかりながら存じます」
數「うじゃアあるまい」
大「いや/\それは誰が何と申しても左様かと心得ます」
 福原數馬はにわか面色めんしょくを変え、かたちを正して声を張上げ。
數「黙れ……白々しい事を申すな、松蔭手前はそれ程御舎弟紋之丞様を大切に心得てるならば、何故なぜ飴屋の源兵衞を頼んだ」
大「はっ」
數「神原五郎治、四郎治と同意致して、殿をないがしろにする事をわしが知らんと思うてるか、白痴たわけめ、左様に人前ひとまえを作り忠義立を申してもな、其の方は大恩人の渡邊織江を谷中瑞麟寺脇の細道において、手槍をもって突殺した事を存じてるぞ、其のとがを梅三郎に負わそうと存じて、証拠の物を取置き、其の上ならず御舎弟様を害そうと致した事も存じてる、百八十余里へだった国にいても此の福原數馬はく心得てるぞ、人非人にんぴにんめ」
 と云い放たれ、びっくり致したが、そこは悪党でございますから、じりゝと前へ膝を進めて顔色がんしょくを変え。
大「御家老さましからん事を仰せられます、思い掛けない事を仰せられまする……手前が何で渡邊織江を殺害せつがいし、ことに御舎弟紋之丞さまを失おうとしたなどと誰が左様な事を申しました、手前においては毛頭覚えはございません、何を証拠に左様なことを仰しゃいますか、承わりとうござる」
數「これ、まだ其様そんなことを云うか、手前は五分試ごぶだめしにもせにアならん奴だ、うゝん……よく考えて見よ、まず奥方さま御死去になってから、お秋の方の気儘きまゝ気随きずい神原兄弟や手前達を引入れ、殿様をないがしろにいたす事もな存じてる。殊に其の方を世話いたした渡邊を殺害せつがい致したり、もと何処どこの者か訳も分らん者を渡邊が格別取做とりなしを申したから、お抱えになったのじゃ、かみへつらこびを献じて、とうとう寺島主水を説伏せ、江戸家老を欺きおわせて、菊様を世に出そうが為、御舎弟様をき者にしようと云う事は、うに忠心の者が一々国表へ知らせたゆえに、老体なれども此のたび態々わざ/\出て参ったのだ、其の方のような悪人は年をっても人指ひとさしゆび拇指おやゆびひねり殺すぐらいの事は心得てる、さアそれとも言訳があるか、忠義にった若者らは不忠不義の大罪人八裂やつざきにしても飽足あきたらんといきどおったのを、わしが止めた、いやそれは宜しくない、一人を殺すは何でもない、まして事を荒立る時には殿様のお眼識違めがねちがいになりお恥辱はじである、また死去致した渡邊織江の越度おちどにも相成る事、万一此の事が将軍家の上聞じょうぶんに達すれば、此の上もない御当家のお恥辱はじになるゆえ、事穏便おんびんが宜しいと理解をいたした、こりゃ最早ように陳じてものがれる道はないから、神原兄弟は国表へ禁錮おしこめ申し付け、家老役御免、跡役は秋月喜一郎に仰付けられるよう相定あいさだまってる、手前は不忠な事を致し、面目次第もない、不忠不義の大罪人御奉公も相成りかねるによってながいとま下されたしという書面を書け、これ祖五郎此の松蔭に父を討たれ、無念の至りであろう、手前はお暇をこうむってる身の上、仮令たとえ悪人でも殿様のお側近くへまいる役柄を勤める大藏を、かたきと云って無闇に討つことは出来んから、暇を取ったら、すぐに討て……梅三郎貴様は大藏のため既に罪におとされしかどもあり、祖五郎はいまだ年若じゃによって助太刀を致してやれ、これに岩越という柔術取やわらとりの名人がるから心配は無い、貴様力を添えてやれ、さ松蔭書付を書いてわしへ出せばそれで手前はお暇になったのだ…秋田屋の亭主気の毒だが此の庭で敵討かたきうちを致させるから少し貸せ」
清「へえ」
 と驚きました。
清「泉水がございますが」
數「いや、びちゃ/\おっこっても宜しい、急に一時いちじに片を附けなければならんのだ、さ書け書かんかえ」
大「はっ……しかようの証拠がござって、手前は神原兄弟と心を合せて御家老職をあざむき、あまつさえ御舎弟様を手前が毒害いたそうなどと、毛頭身に覚えない事で、殊に渡邊織江を殺害せつがいいたしたなどと」
梅「黙れ此の梅三郎が宜く心得てるぞ、手前は神原と心を合せて織江殿を殺害せつがい致した其の時に、此の梅三郎は其の場に居合せ、下男を取押えて密書を奪い現に所持いたしてる、最早のがれる道はないぞ」
 祖五郎は血眼ちまなこになって前へ進み、
祖「やい大藏、人非人恩知らず、狗畜生いぬちくしょう、やい手前はな父を討ったに相違ない、手前は召使めしつかいの菊を殺し、又家来林藏も斬殺きりころし、其の上ならず不義密通だと云って宿やどへ死骸を下げたが、其の前々まえ/\菊が悪事の段々を細かに書いて、小袖の襟へ縫附けて親元へ贈った菊の書付けを所持してる、最早のがれる道はないぞ、手前も武士じゃないか、尋常に立上って勝負いたせ」
大「はっ……不忠不義の大罪重々心に恥じ、恐入りましてござる」
數「さ、書け、もうとてもいかんから書け、松蔭手前も諦めの悪い男だ、最早にぐるも引くも出来やせん、書け」
大「はっ」
數「まだ恐れ入らんか」
大「はっ」
數「も一つ云おうか、白山前の飴屋小金屋源兵衞をだまし宗庵という医者を抱込んで、水飴の中へ斑猫を煮込み、紋之丞様へ差上げようと致したな、それはうに水飴屋の亭主が残らず白状致してある、のがれる道はない」
大「あゝ残念…是まで十分仕遂しおわせたる事が破れたか、あゝ」
 とふるえてはかまの間へ手を入れ、松蔭大藏は歯噛はがみをなして居りましたが、最早詮方せんかたがないと諦め、平伏して、
大「恐れ入ってござる」
數「おゝ、恐れ入ればそれで宜しい、お秋の方も剃髪ていはつさせ、国へ押込めるつもりだ、さ書け/\」
大「只今書きまする」
 と云いながらあと退さがるから、岩越という柔術家やわらとり万一もし逃げにかゝったら引倒して息の根を止めようと思って控えて居ります。後へ退って大藏がすゞりを引寄せてふるえながらしたゝめて差出す。
數「爪印を押せ、其処そこへ」
大「はっ」
 と爪印をして福原數馬の前へ差出し、
大「重々心得違い、れにて宜しゅうございますか、御披見ごひけん下さい」
數「其の方の手跡しゅせきだから宜しい、さ是から庭へ出て敵討かたきうちだ/\」
 と云うと大藏はこらえかねて小刀しょうとうを引抜くが早いか脇腹へ突込つきこんで引廻しました。
祖「おのれ切腹致したな」
 と祖五郎が飛掛って二打三打斬付け、ついあだ討遂うちおおせて、すぐにお屋敷へお届けに相成り、とうとう悪人は残らず国表へ押込められて、お上屋敷の御家来十七人切腹致し、渡邊祖五郎、春部梅三郎はお召帰めしかえしに相成り、渡邊祖五郎は二代目織江と成り、菊様の後見と相成って、お下屋敷にまいりました。また秋月は跡家老職あとかろうしょくを仰付けられ、こゝにおいて福原數馬は安心して国へ帰る。殿様は御病気全快し、其の大殿お逝去なくなりになって、紋之丞さまが乗出し、美作守に任ぜられ。又お竹を何くれ親切に世話をした雲水の宗達は、美作の国までお竹を送り届け、それより廻国を致し、遂に京都で大寺だいじの住職となり、鴻の巣の若江は旅籠屋はたごやを親族に相続させ、あらためて渡邊祖五郎が媒妁人なこうどで、梅三郎と夫婦になり、お竹も重役へ嫁入りました。大力だいりきの遠山權六は忠義無二との取沙汰とりざたにて百石の御加増に相成りましたという。お芽出たいお話でございますが、長物語でさぞ御退屈。
(拠酒井昇造筆記)





底本:「圓朝全集 巻の九」近代文芸・資料複刻叢書、世界文庫
   1964(昭和39)年2月10日発行
底本の親本:「圓朝全集巻の九」春陽堂
   1927(昭和2)年8月12日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
ただし、話芸の速記を元にした底本の特徴を残すために、くの字点(二倍の踊り字。「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)はそのまま用いました。二の字点(漢数字の「二」を一筆書きにしたような形の繰り返し記号)は、「々」「ゝ」「ヽ」にかえました。
総ルビの底本から、振り仮名の一部を省きました。
底本中ではばらばらに用いられている、「其の」と「其」、「此の」と「此」は、それぞれ「其の」と「此の」に統一しました。
底本中では改行されていませんが、会話文の前後で段落をあらため、会話文の終わりを示す句読点は、受けのかぎ括弧にかえました。
※本作品中には、人名などの固有名詞に一部不統一が見られますが、あきらかな誤植と思われる場合を除き、原則として統一はせず、底本のままとしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:小林繁雄
校正:かとうかおり
2001年1月6日公開
2004年7月21日修正
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●表記について