政談月の鏡

三遊亭圓朝

鈴木行三校訂





 政談月の鏡と申す外題げだいを置きまして申しあぐるお話は、宝暦ほうれき年間の町奉行で依田豐前守よだぶぜんのかみ様の御勤役中に長く掛りました裁判でありますが、其の頃は町人と武家ぶげ公事くじに成りますと町奉行は余程むずヶしい事で有りましたが、只今と違いまして旗下はたもとは八万騎、二百六十有余かしらの大名が有って、往来は侍で目をつく様です。其の時の江戸の名物は、武士、鰹、大名小路、広小路、茶見世、紫、火消、錦絵と申して、今の消防方は四十八組有って、火事の時は道路が狭いから大騒ぎです、焼出やけだされが荷をかついで逃げ様とする、むこうからお町奉行が出馬に成る、此方こっちの曲角からお使番が馬で来る、彼方あちらから弥次馬が来る、馬だらけに成りますが、只今は道路の幅が広くなりずーッと見通せますが、以前は見通しの附かんように通路とおりみち迂曲うねって居りましたもので、スワと云うと木戸を打ち路次を締める、少しやかましい事が有るとぎりで締切ります、此の木戸の脇に番太郎がございまして、町内には自身番が有り、それへ皆町内から町内の家主いえぬし(差配人さん)がお勤めに成って、自身番のうしろの処が屹度きっと番太郎に成って居たもので、番太郎は拍子木を打って夜廻りを致すだけの事でスワ狼藉者だと云っても間に合う事はない、ふるえて逃げて仕舞い、拍子木をどぶの中へ放り出して番屋へ這込はいこむなどと云う弱い事で、冬になると焼芋や夏は心太ところてんを売りますが、其の草履草鞋をく売ったもので、番太郎は皆金持で、番太郎は越前から出る者が多かったようで、それに湯屋の三助は能登国のとのくにから出て来ます、米搗こめつきは越後と信濃からと極って居ました、江戸ッ子の番太郎は無い中に、長谷川町はせがわちょうの木戸のわきに居た番太郎は江戸ッ子でございます、名を喜助きすけと云って誠に酒喰さけくらいですが、妙な男で夜番よばんをする時には堅い男だから鐘が鳴るとすぐに拍子木を持って出ます、向うの突当つきあたりまでちゃんと行って帰って来ます。大概の横着者は、チョン/\チョン/\と四つ打って町内を八分程行くと、音さえ聞えればいんで帰って来ますが此の男は突当りまで見廻って来ないと気が済まないと云う堅い人で、ボンチョン番太と綽名あだなが有る位でう云う訳かと聞いて見ると、ボーンと云う鐘とチョンと打出す拍子木と同じだからボンチョン番太と云う、余程堅い男だが酒がきでさえあれば酒を飲みます、女房をお梅と云って年齢としは二十三で、亭主とは年齢が違って若うございますが、亭主思いで能く生酔なまえい看護もりを致しますので、近所の評判にあの内儀かみさんはい女だ喜助の女房には不釣合だと云われる位ですが、誠に貞節な者で一体情の深い女でございますから、本当に能く亭主の看護を致して、すきな物を買って置き、
 梅「寒いから一杯おべかえ、沢山飲むといけないよ、二合にしてお置よ、三合に成ると少し舌が廻らなくなる、身体にさわるだろうと思って案じられるから」
 喜「うむ寒いな、霜月に這入ってからグッと寒く成ったうしても寒くなると飲まずにゃ居られねえな」
 梅「寒いたって、寒い訳だよ、朝から飲んでるからもう酔いざめのする時分だからさ、町代まちだい總助そうすけさんが来て余り酒を飲ましちゃアいけない、あれでは身体がたまるまいと被仰おっしゃって案じておいでだよ、皆様みなさん御贔屓ごひいきだからう云って下さるんだよ」
 喜「もう是れり飲まねえから、よういからもう一本けなよ」
 梅「燗けなってお酒が無いんだよ」
 喜「無けりゃア買って来ねえな、おい」
 梅「もう今日はこれだけにしてお置きな」
 喜「熱い時分ならそれで宜いが、寒い時分には二合じゃア足りねえ、ようおめえ能くおれの面倒を見て可愛がって呉んな、其の代り己がお前を可愛がってる事もあらア」
 梅「おふざけでないよあのおたなから酒の下物さかなにしろって台所の金藏きんぞうさんが持って来た物があるよ」
 喜「彼奴あいつめ下物だって鮭の頭位だろう、あゝ有難い持つべきものは女房か、有難いな、うしたってもい酒は四方よもへ行かなければえな」
 とクビーリ/\飲んで居る、其の時店先へ立止りました武士さむらいは、ドッシリした羅紗らしゃ脊割羽織せわりばおりちゃくし、仙台平せんだいひらはかま黒手くろて黄八丈きはちじょう小袖こそで、四分一ごしらえの大小、寒いから黒縮緬の頭巾をかぶり、紺足袋こんたび日勤草履にっきんぞうりと云う行装こしらえの立派なお武士、番太郎の店へ立ち、
 武「これ此処こゝに有る紙を一帖いちじょう呉れんか」
 喜「へいお入来いでなさいまし是は何うも御免なさいまし、誠に有難う、其処そこに札が附いてます、一帖幾らとして有りますへい半紙は二十四文で、駿河するが半紙は十六文、メンチは十個とおで八文でげす、藁草履はわっちの処が一番安いのでございます、有難う誠に何うも、其処へ行くんですが、ちょいと銭を箱の中へ放り込んで一帖持って行って下さいまし、札が附いてますから間違えは有りません」
 武「なに貴様は余程酒がきだな、わし此処こゝを通るたびに飲んでらん事はないが、貴様は余程よっぽど酒家しゅかだのう」
 喜「ヘイ嗜きです、お寒くなると朝から酒を飲まねえと気が済みませんな」
 武「酒家さけのみは妙なものだな、酒屋の前を通ってぷーんと酒のにおいが致すと飲みくなる、わしも同じくごくすきだが、貴様が飲んでる処を見ると何となくうらやましくなる」
 喜「え、殿様もお嗜きで、ごくい酒が有ります、わっちゃア番太郎ですが江戸ッ子の番太郎は余りえんです、極好い酒が有りますから、誠に失礼ですが一つ召上れ」
 武「それはかたじけないなア」
 梅「あらまア御免遊ばせ酔って居りますから、お前さん何と云う事だよ、お武家様を番太郎のうちなどへお上げ申す事が出来ますものかね」
 喜「いや嗜きじゃア堪らねえ、ねエ殿様、此方こちらへおあがんなさい、長いものを一本半分差してういううちに上ると身体を横にしなければ這入れませんよ」
 武「是は御家内か、わしも酒が嗜きでな、此処を通る度に御亭主が飲んで居る、今一寸ちょっと買物をして見ると矢張やっぱり飲んで居て羨しくついやる気になりました」
 梅「でも汚ない此んな狭い処へ」
 喜「いから黙ってろ、殿様此女これの里は白銀町しろかねちょう白旗稲荷しらはたいなりの神主の娘ですが、何うしたんだか、亭主思いで、わたくしが酒を飲んでは世話を焼かせますが、能く面倒を見ます」
 梅「おしよ」
 武「では一盃いっぱい戴こうか」
 喜「お酌をして上げな、大きいもので」
 武「これは御内儀ごないぎ痛み入りますな、お酌で」
 梅「誠に何うも召上る物が有りませんで」
 武「いや心配してはいかん、かえって是が宜しい成程是は何うも余程い酒を飲むな」
 喜「えゝ四方よもで、彼家あすこでは好い酒を売ります、和泉町いずみちょうでは彼家ばかりで、番頭がわっちを知ってるので、私が買いにくと長谷川町の番太が来たって別に調合を仕ないで、一本生いっぽんぎの鬼殺しを呉れますが、酒は自慢で」
 武「うむ是は堪らん、では近附ちかづきの為に一盃いっぱい
 と喜助に差しました。喜助はかしらを下げ。
 喜「へー有難う、おいお梅此処こゝへ来い酌をして呉れ手前てめえは己に能く酒を飲むな/\てえが立派なお武家様がこんな汚いうちへ這入って来て番太郎と酒を飲合のみあい、殿様のおさかずきわしが飲んで其の猪口ちょくそゝぐのは水臭いって殿様がすぐに召上ると云うのは酒の徳だ」
 武「酒には上下の差別をしてはいけない」
 喜「洒落しゃれた好い殿様だ、何卒どうぞ毎日来て下さいまし、殿様わっちの為めには大切のお店の番頭が私を贔屓で去年の暮に塩辛を呉れましたが、好い鯛の塩辛で、それと一緒に雲丹うにを貰ったんですが、女房かゝあは雲丹をしらねえもんだから、鬼を喰うと間違えました、是は※(「魚+鑞のつくり」、第4水準2-93-92)からすみ
 武「是は何うもみんな酒家さけのみの喰う物ばかりで」
 梅「何かお肴を」
 喜「鰻でもう云って来ねえよ」
 梅「あがるかえ」
 喜「上っても上らなくってもい、どじょうの抜きを、大急ぎで然う云って来や、冷飯草履を穿いてけ殿様あれは年は二十三ですが、器量がうございましょう、幾ら器量が好くたって了簡が悪くっちゃア仕様がえが、良い了簡でわっちを可愛がりますよ」
 武「是は恐入った、馳走に成るからお前のうけも聞かなければならんが、貴様は酒が嗜きだと云う処から初めてわしが来て馳走に成りばなしでは済まんから、少し譲り難い物をろうか、是は容易に得難い酩酒で有る、いずれで出来るか其処そこは聞かんが、是は何か京都の大内から将軍家へ参って、将軍家から御三家御三卿方へ下されに成って、たしない事で有るから其の又家来共に少しずつ之を頂戴致させるんだが、何うも利き目が違って、其の酒の中へぽっちり、たらりと落して、一合の中へ猪口ちょくに四半分もポタリと落してやるとなんとも云えんあじわいのものだ、飲む気が有るなら遣ろうか」
 喜「是は何うも、なんですかえ…それは有難うございます…此盃これ何卒どうぞ…是は何うも頂く物は、えへゝゝ大きな物へ」
 武「余り大きな物へ入れちゃア困る、徳利が小さいから、これへ入れてやろう」
 風呂敷を解いて小さい徳利を取出とりいだして、くちの堅いのを抜きまして、首を横にしてタラ/\/\と彼是かれこれ茶椀に半分程入れて、
 武「実はわしも親類共へちっと遣りいと思ってげて来たのだが、馳走に成って何も礼に遣る物がないから」
 喜「有難う存じます、おゝお梅、行って来たか」
 梅「あゝ行って来たよ」
 喜「今な、禁裏さまや公方様がくらって、丁寧なこたア云えねえが、御三家御三卿がくらう酒で番太郎風情が戴ける物じゃねえんだが、殿様が遣ると仰しゃって戴いた」
 梅「それはまア有難い事で、何もございませんが、召上るか召上らないか存じませんが、只今鰌のぬきを云い付けて参りましたから」
 武「何も構って呉れちゃア困る」
 喜「いから彼方あっちへ行ってろ、それから香物こう/\の好いのを出しな」
 武「それ直接じかに飲んではいけない、んな酒家さけのみでも直接にはやれない」
 喜「なに旦那わしは泡盛でも焼酎でもやります」
 とグイと一口飲みました。
 武「此奴こいつ気強きつい」
 喜「ムヽ、是は何うもひどいな、此奴ア、ムヽ、脳天迄みるような塩梅あんばいで」
 武「なか/\えらいな、それを二タ口と飲む者はないよ」
 喜「なに二タ口、訳アございません、薩摩の泡盛だってんでもない、ムム」
 梅「何う仕たんだよ」
 喜「なにいよ、ム、ム大変だ、頭が割れるような酷いもので、此奴こいつを公方様がくらうかね」
 武「酒を割ってやらんければいかん、残りは大切だいじに取って置きな」
 喜「ヘエお梅是を何処どっかへ入れて置きな」
 武「ポッチリ酒に割って飲むのだ、わしは少し取急ぐで、是を親類共に持って行ってやらんければならん、又此の頃に来る」
 喜「只今抜きがきに参りますが…左様ですか…御迷惑で、誠に失礼を致して恐入ります」
 武「大きに厄介で有った、御家内誠に世話に成りました」
 と丁寧にお武家が家内にも挨拶をして落着き払って、チャラリ/\雪駄せったを穿いて後影うしろかげを木戸の処を曲るまで見送って、
 喜「有難うございました、どうぞ殿様此ののちも寄ってお呉んなさい、へえへえ有難う、おいかゝア、大切たいせつに取って置きな、御三家御三卿がくらうてえんだが、旨くも何共なんともねえものを飲むんだな、香の物のいのを出して呉れ、酒家しゅか沢山たんとの肴は要らない、香の物の好いのが有ればそれで沢山だ、しかひどい酒をのませやアがったなあゝいてえ、変な酒だな、おいお梅一寸ちょっと来て呉んな、ウ、ウ、腹が痛えから一寸来て呉れ」
 梅「極りを云ってるよ、お前飲みすぎだよ、疝癪せんしゃくに障るんだよ」
 喜「ン畜生変な物を飲ましやアがって、横ッぱらえぐるように、鳩尾骨みぞおち穿ほじるような、ウヽ、あゝ痛え」
 梅「何うしたんだよ」
 喜「アヽ痛え、ア痛たゝゝ、お、お梅、脊中を押して呉れ、脊中じゃアねえ、肩の処を横ッ腹を」
 梅「何処どこだよ」
 喜「其処そこじゃアねえ、此方こっちの足の爪先だ、膝だ、あゝ肩だ」
 ともがいて居ます、恐ろしいもので、節々ふし/″\の痛みがおびたゞしく毛穴が弥立よだって、五臓六腑悩乱のうらん致し、ウーンと立上るから女房は驚いて居ると、喜助は苦しみながら台所へ這い出してガーと血の塊を吐いて身を震わして居る。お梅はびっくりして、
 梅「うち良人ひとが何うかましたから誰方どなたか来て下さいよう、總助さん/\」
 總「何うした/\、きまりだ、吐血だ、だから酒を飲んじゃアかねえと云うのだ、何う云うものだこれ喜助しっかりしろ、喜助/\」
 喜「ウーン」
 それなりに相成りました。
 總「何う云う訳だ」
 と云うとお梅は涙ながら、これ/\う云う訳で御酒ごしゅを割って飲まなければけないと云うのをうち良人ひと直接じかに飲みましたから身体に障ったのでございましょう。
 總「それしからん事だ、何しても御検視を願わなければならん」
 と云うので、御検視到来に相成りお医者も立会って調べると、是は全く酒の毒だが、尋常たゞの死にようではない、余程効能きゝめの強い毒酒ではないかと、依田豊前守様の白洲へ持出したが御奉行が其の酒を段々お調べに成り、医者を立会たちあわして見ると、一ト通りならん処の毒薬で、何でも是は大名旗下はたもとうち謀叛むほんれ有る者、お家をくつがえさんとする者が、毒酒を試しに来たに相違ないと云うので、女房に其の武家の顔を知ってるかと尋ねると、これ/\う云う姿の武家ていと申し上げたので、人相書を作り八方十方へお手配てくばりに成り箱根の前まで手が廻る事に成ったが、知れません。お梅は貞節な婦人ゆえ泣いてばかり居ります。里方で引取ろうと云うと、
 梅「わたくしはお願いだから、あの武士さむらいが毒を試しに来て、始めから何うも様子がおかしいと思ったが、顔を知って居るのはわたしばかり、此の長谷川町を再び通る気遣いは有るまいから、人のさかる処へ行ってあの侍を見付けて、亭主のかたきを強いおかみに取って貰わなければならないから、何うぞわたくしを吉原へ女郎に売って下さい、格子先へ立つ人の中にあの武家に似た人が有ったらだまして捕まえて亭主の敵を討つ」
 と云い張り、幾ら留めてもかず遂に江戸町えどちょう一丁目辨天屋べんてんやの抱えと成って名を紅梅こうばいと改め、武士さむらいの行方を探すと云う亭主の敵討かたきうちの端緒でございます。


 今日こんにちの処は、長谷川町の番人喜助の続きとお話が二途ふたみちに分れますが、のちに一つ道に成る其の前文でありますからお聴きにくい事でございましょう、さて築地つきじ本郷町ほんごうちょう小田原町おだわらちょう柳原町やなぎはらちょうと町内がつながって居りますが、小田原町の家主やぬしに金兵衞と申す者がございまして、其の頃は家号いえなを申して近江屋おうみやの金兵衞と云う処から近金ちかきんと云われます、年齢としは四十二に成りますが、真実な人で、女房をおれんと云って三十八に成ります、家主いえぬし内儀かみさんは随分権式けんしきぶったものでございますが至って気さくなお喋りのお内儀さんで、夫婦寄ると子が無いので其の噂ばかりして居ります。
 蓮「旦那え/\、もううもんですね、夫婦の中に子の無い位心細いものは無いと思って居ます、お互に年齢としを取って、来年はお前さんは四十三だよ」
 金「年齢としの事を云うと心細くなるから其んな事を云うな」
 蓮「だってさ、夫婦養子をしても気心の知れない者に気兼きがねをするのもいやだし、五人組の安兵衞やすべえさんなどは、無い子では泣きを見ないからいっそ子の無い方がいと云う側から子が出来て、今度ので十二人だてえます」
 金「あの人は子福者こぶくしゃだのう」
 蓮「其の癖お内儀さんは痩ぎすで子は無さそうだのに」
 金「おめえなどはポッチャリ肥満ふとってゝお尻も大きいから子は出来そうだが」
 蓮「授かりものですね、子がなければ夫婦養子を仕なければ成りませんが、夫婦養子と云うよりも私の考えじゃア一人娘を貰って置いて、お前さんにはおいだが竹次郎たけじろううちへ入れる積りですが、当人が厭だと云うかも知れませんが、お前様の血統ちすじだから是非此のつがせるより仕方は無いが、嫁が悪いといけないよ、それが本当の子で無いから私が心細いよ、お前さんには身内だから竹はいが嫁の根性が悪いと竹さんまで嫁にまかれて仕舞って、おかしな了簡に成って親不孝をされた日にア大変だよ、お前さんが長生きをしてお呉んなされば宜いがし眼でも眠ったあとは大変だよ、だから嫁の宜いのが欲しいね」
 金「欲しいたって無いよ、縁ずくだから」
 蓮「裏に居る売卜者うらないしゃの浪人の娘はい器量だね」
 金「うむ、あれうも無いのう、品格と云い、親孝行でな、味噌漉みそこしを提げさせるのは惜しいものだ、おとっさんはヨボ/\してえるがまだ其んなに取る年でもないようだが、寒さばしの側へ占いに出るのだが可哀想だのう」
 蓮「あのを貰いいもんだね」
 金「貰い度いたって先方むこうも一人娘だから」
 蓮「其処そこを工夫してさ」
 金「工夫たって一人子ひとりっこだから呉れないよ」
 蓮「私にい工夫が有るんです、先方さきは大変に困って居る様子だから、可愛がって店賃たなちんを負けておやんなさいよ」
 金「店賃を負けるてえ訳にはいかない、地主へらなくっちゃアならないから」
 蓮「成るけ催促をしないようにおしなさい」
 金「催促するのも、少しは遠慮をして居るのよ」
 蓮「んな親孝行なは有りませんね、浪人ぐるみ引取っても構やアしない」
 金「親付きでか」
 蓮「親付きだって、あの浪人者なら宜いよ、あの浪人者を呼んで、お前さんね、親一人子一人だが、良い子を持ってお仕合せだ、どうせうちへ養子をするのだが、甥の竹と云う者が奉公先からさがって来れば宅の養子に成る身の上だが、あれに添わしたいように思うが、お前さん一人子ひとりごだからほかへ呉れる理由わけにもくまいから、一緒こたにお成んなさいと云って御覧なさい」
 金「馬鹿ア云え、そんな事が云えるものか、あの浪人は堅い男だ、毎朝板の間へ手を突いて、お早うと丁寧に厳格こつ/\した人だが、そんな篦棒べらぼうな事を頭を禿はげらかして云えるものか」
 蓮「じゃアう仕ましょううちへみいちゃんだのおしげさんだのが綿わた摘みの稽古に来ますから、あのにも綿を摘む内職を成さいと云って呼寄せ様じゃアありませんか、幸いすうちゃんが休んで桶が明いてるから」
 金「あゝ云う遠慮深い人だから身装なりがあの通りだからって寄越すめえ」
 蓮「それは此方こちらで貸して手間で差引くといって悉皆そっくり私の物を貸して遣って習いに来ればもう占めたもので、内職が出来ても出来なくても、あののは光沢つやくって評判がい、是丈これだけあがったって手習丈の物はなくても宜いから無闇に手間賃を出してお遣んなさいよ」
 金「それは大変な散財だな」
 蓮「夫から段々覚えて来たから前貸だと気を附けてお金子かねを貸してやって、ホイ/\云って子の様に可愛がって遣っておとっさんが留守の内は私の側に置いてのようにして可愛がって、段々馴染なじみが深く成るうち一年が二年と年月としつきがたつ内に、三年経つと竹が年期が明いて来ますから、丁度宜いねえ二人差向いに成ったら気を利かしておはずしなさいよ、私はお参りにくよ、二人置いてけば、冬なら炬燵こたつが有るから当人同志で旨く成って仕舞い、当人が来たいと云えば宜いじゃアないか」
 金「夫じゃア無理無体にか、しかしあの浪人は堅いから寄越すか知らん、おゝ噂をすれば影だ、ピー/\風でさむさ橋に出て居ても、見て貰いもないかしてもう帰って来た、帰り際に早いから屹度きっと寄るぜ」
 浪「えゝ御免を」
 金「はい」
 浪「留守中誠に有難う存じました、えゝ只今帰りました、清左衞門で」
 金「まア一寸おあがんなさいよ」
 蓮「ちょいとお這入んなさい」
 浪「はい御免を、誠にうも両三日さんにちは引続いてお寒い事で、併しながら何日いつ御壮健おたっしゃな事で」
 金「其んな堅い事を云わないでもよろしい、お茶をれて羊羹ようかんでも切んなさい、なに無く成ったえ、何か切んなよ」
 蓮「切んなって切るものは無いよ」
 金「じゃア最中もなかでも出しなよ」
 浪「えゝ御内室ごないしつわたくしが出ますると娘一人を残しまして一日留守に致し何かと御厄介勝で、それにお隣の麹屋のお内儀かみさんが誠に御真実になすって一通りならんお目をお懸け下され誠に有難い事でございます、お礼にも都度つど/\あがう存じますが何分貧乏暇なしで遂々つい/\御無沙汰勝に相成って済みません」
 金「其んな堅い事には及びません、裏の方の屋根が少し損じたから其の内に修繕なおさせます、お前さんは能く毎日寒さ橋へおなさる、此の寒いのに名さえ寒さ橋てえんだからぞお寒かろう、ピュー/\風で、貴公あなたはお幾歳いくつです」
 清「いえうも誠に多病の人間で、大きに病魔やまいめに老けて見られますんですが、未だ四十六歳で」
 金「御壮ごさかんですな」
 浪「いえひどく弱むしに成りまして困ります、貴方あなた何日いつも御壮健ですな」
 金「マお茶をおあがんなさい」
 清「是は有難う存じます、頂戴致します、結構なお茶で、手前は茶がすきもとより酒が嫌いだから、い菓子も買えません、くの如く困窮零落しては菓子もべられません、斯様かような結構なお茶、結構なお菓子を、イエ/\是は戴きますまい是は娘に持って行ってつかわしましょう」
 金「今お前さんとこのお嬢さんのお噂をして居たのだが、実に私は鼻が高い、私の長屋にあゝ云う親孝行の娘が居れば私はの位鼻が高いか知れない、お前さんはお仕合せだと云ってお噂ばかりして居ます、お前さんが留守でも隙間ひまなく働いて、長屋の評判もし、ちょいとうちへ来ても水を汲みましょうか、買い物はありませんかといって気を附けてお呉れで、御品格と云い、御器量と云い実に申し分が有りませんね」
 清「イエ何う致しまして誠に不束者ふつゝかもので、屋敷育ちでとん町家まちや住居すまいを致した事がないので様子あいを一向に心得ませんから皆様に不行届勝ちで、それに一体無口で」
 金「イエ余りペラ/\喋るのはけません、年のかん娘などがお世辞を云うのはいかんもので、今ね其の家内がお噂をして居ましたので、お宅で何か内職でもおさせですかえ」
 清「イエ恥入ります、ろくな事も出来ませんが少々ばかり鼻緒を縫ったり致して居ります」
 金「鼻緒もうございましょうが、家内が綿をむことを覚えて近所の娘子むすめこに教えるので、惠比壽屋えびすやだの、布袋屋ほていやだの、通り四丁目の棒大ぼうだいや何かから頼まれましておたなの仕事ばかりますが余程い手間で、立派な男の手間位には成ります、処が此の節おすみと云うが休んでて桶が明いてますから、教えて上げいが、はなはだ失礼で何うしたら宜かろうなんて、家内これが云いますから、なに失礼な訳は無い、覚えておとっさんのお手助けに成れば結構だ、鼻緒を縫っておでのようだが、それも時々休みが有るようだ、夫から見れば是は毎日の仕事だから少しはお父さんのお手助けに成るかも知れんと考えたんで」
 清「夫は御親切に有難い事で、実は娘もい内職を皆さんが御当家へ来て成さるが、何うかしてわたくしもあゝいう内職を覚えいと申して居りますが、何分立派なお嬢さん方の入らっしゃる中へ」
 蓮「いえそんな事を心配してはいけません、もっとうちへ参る娘達むすめたちは可なりの処のですから其ん中へ這入るのだからとお思いなさるのは御尤ですが、私の着物が明いてますから、碌なのじゃアありません私が若い時分に着たので、今は入りませんから上げちまってもいが、失礼ですからお貸し申します、其の内に手間が取れゝば又こしらえて上げるようにますが、是は若い時分に締めた帯で、宅には娘はなし、親類にも女のがないから取って置いても仕様が有りませんから」
 金「何か上げなよ、失礼だが半纒はんてんを、誠に失礼で御立腹か知らんが襦袢じゅばんなども上げなよ」
 蓮「どうぞ不用なのですから、赤いのも今は土器色かわらけいろに成ったんです」
 金「細帯も附けて上げなよ」
 清「是はうも恐れ入ります、残らず拝借致しても他の物と違いまして、瀬戸物や塗物はきずを付けた位で済みますが、着類きるいは着れば切れるもので」
 金「宜しい切れても、仕舞って置いたって折切おりきれます、たれにも遣る者はなし詰らんわけだから着せて下さい、綺麗な身装なりをして出入ではいりをして下されば私も鼻が高い、今だって汚くもなんともない、私の綿入羽織が有ったろう、お前さんの身装を軽蔑けなすんじゃアございませんが是は古くって一旦そめたんで、一寸ちょっと余所よそく時に之を着て出て下さるとわたくしは鼻が高い、うしてねえさんは是非寄越して下さいよ」
 清「是は何共なんともうも御親切千万有難う、親子の者が窮して居りまするのを蔭ながら御心配下され、着物がなければ貸して遣ろうと仰しゃる思召おぼしめし、千万かたじけない事で、御親切は無にいたしません、しからば拝借を願います」
 蓮「姉さんを屹度きっとお寄越しなさいよ」
 清「のようにも是は願わなければ成りません、筆もぞ悦びましょう」
 金「お筆さんと云いますか、私は始めてお名を覚えました宜しく」
 清「左様なら拝借を致します」
 と清左衞門こと/″\く悦んで、ニコ/\しながらうちに帰って来ました、娘お筆は、寒さの取附とっつきだと云うにまだ綿の入った着物が思うように質受しちうけが出来ず、あわせに前掛だけで短い半纒に幅の狭い帯を締てお筆はしきりに働いて居ります。
 筆「おやお帰り遊ばせ」
 清「今日は風が吹くんで往来も繁くないから早く帰って来た」
 筆「私がお迎いに出ようと思って居りました処で、大層にこ/\笑っていらっしゃいますね」
 清「お家主いえぬしさんが御親切に色々仰しゃって下さり、それにあのお内儀さんは綿を紡む内職が名人だそうで近所の娘達も稽古に来るからお前もよこしたら宜かろうと、色々と御親切に仰しゃって衣類まで貸して下さり、此の通りわしに綿入羽織にしろと被仰おっしゃってこれを貸して下すった実に御親切な事で恐入った訳で、あだに思っては成りませんぞ、実に仕合せな事で、うか一生懸命に覚えて呉れるかね」
 筆「お父様とうさまわたくしは一生懸命に神信心をして上手に成ってお父様のお手助けをいたしうございますから御心配なく、来年の夏迄には屹度きっと一人前に成りますから」
 清「う早くも覚えられまいが其の心得で居ればい」
 とすぐに貰った着物を着せて礼に遣ると此方こちらは嫁に仕様と思うのでございますから、ちやほや致し是から綿紡みを教えまして出来ても出来なくても、あゝ能く出来た、お前のはおたなの受けがい是は光沢つやが別だと云うので手間を先へ貸して呉れるように致して万事に気をつけて呉れるから大仕合おおじあわせで、其の内暮になると何か手伝いをして遣りいと思って居る処へ清左衞門が礼に参りました。
 清「エヽ御免をこうむります」
 金「おやおいでなさいうなって近々ちか/″\お出でになるに、うお前さんの様に窮屈で悪固わるがたくっては困る」
 清「何うも私は武骨者で困ります、段々とお世話様に相成り何共なにともお礼の申し上げようが有りません、先達せんだっては又出来もせんものに、前以まえもってお給金を頂戴致し、中々今からお手間などを戴けるわけのものでは有りません」
 蓮「なアにお前さん何日いつでも旦那と噂をして居るの、大層おたなの受けがい事、ちょいとお前さん早くお出しなさいよ」
 金「あれはね其のどうせ来年の三月迄の手間賃で、私が上げる訳じゃアない、たなから来たんだから遠慮をしてはいけない、是はね私の心許こゝろばかりのお歳暮でお筆さんに上げます、家内がお年玉をって、今から年玉を上げるのも可笑おかしいが、どうせ上げる物だからお歳暮と一緒に預かって置いて下さい」
 清「是は何うも暮の二十八日にお年玉を、是は千万かたじけない事で」
 蓮「それから正月のうちはね、女子供はみんな身装なりをして来るから、貴方もお筆さんに着せくお思いでしょう、また追々おい/\春の手間で差引きますが、年頃の娘の事ですから皆の身装を見たらうらやましくも思いなさろう、仮令よし其様そんな気がないにもせよ、お筆さんばかり悪い身装をして来る訳にもいきますまい、是は台なしに成って今は不粋ぶいきですが、荒っぽい小紋が有るんです、いンじゃアないんですが、お筆さんは人柄だけに小紋の紋付はお似合いだろうと思って、仕立屋へ遣ったんではないので、うちで縫ったんですよ、それに帯は紫繻子むらさきじゅすが宜かろうと、う云う訳で、赤い物がまじって気に入らないかも知らないが、しゅ紋縮緬もんちりめんと腹合せにしてほんのチョク/\着るように、此の前掛は古いのですが、二度ばかりっきゃア締めないんで、此のかんざしは私が若い時分に買ったんですが、丸髷まるまげには差せないから、不粋やぼなもんですが…」
 金「貴方にお歳暮に羽織を上げましょう」
 清「是は何うも斯うは戴けません、其んなに無闇とう下さる訳のものではない、又人様に無闇と戴くべき道理がない、然う御贔屓下さいますとかえってめるもので、何うか末長く幾久しく」
 金「其んな堅い事を云わずに取ってお置きなさい、只上げやアしません、後で差引きますよ」
 清「こんなに何うも何共なんともハヤ千万有難う、親子の者が助かります、あれは誠に孝行致して呉れ、親思いでワク/\致して呉れますが、才覚はたらきの無い親を持って不便ふびんとは思いながら、何一つ買って与える事も出来ませんが御当家こちらへ内職にあがるように成ってから、結構な櫛を戴いたり、食物たべものまで贈って下さり、なんたる御真実の事か実にうも此の御恩は決して忘却は致しません、千万辱ない事で有難う、折角の思召ゆえ当季拝借致しましょう」
 と悦んで包みに致し小脇に抱えてたくへ帰って話すと娘は飛立つ程の嬉しさ、是からわずかな物を持って娘が礼に参るような事で、其の年も果てゝ宝暦三年となりましたが、職を致す者は大概正月廿日はつか迄は休みますので、此の金兵衞のうちの内職も十七日迄休みでございます、丁度六日お年越しの朝早く起きて金兵衞は近辺に年始に出ました、此方こちらはお筆が昼飯ひるめしべましたから、かねて近金から貰った小紋の紋付に紫繻子の帯を締めて出ると一際目立つ別嬪べっぴんでございます、時々金兵衞の家内とお湯にきますから誘いました。
 筆「お内儀かみさんお湯にいらっしゃるならお供を致しましょう」
 蓮「私は今御年始客が有るから先へ行ってお呉れ、すぐに後からくから、柳原町のお湯だろうね」
 筆「はい」
 娘は一人でお湯に参りましたのが一つのお話になりますことで、お筆がそこ/\に湯から上りましたがまだお内儀さんが来るようすがない、何か御用が出来てお手間が取れるのか、お迎いにこうかと、手拭を小桶で絞って居ると、最前から板の間で身体を洗って居た婆さんは、年の頃六十四五で、頭の中央まんなかが皿のように禿げて居り、本郷町の桂庵けいあんのお虎と云うもので、
 虎「ちょいとねえさん、待ってお呉れよ……おい姉さん」
 筆「はい」
 虎「お前ね、今此処こゝに居る人は一人か二人しか居ないよ、小紋の紋付に紫繻子の帯を締めてとこのお嬢さんのふりをして、大胆な女じゃアないか人の金入かねいれを取りやアがって、あの巾着にゃア金は沢山たんと入ってやアしないよ、三両一歩入ってるの、此方こっちへ返えせ、此のめえも此方ア銘仙の半纒がなくなってらア、うから眼をけて居たんだ、近所で毎度顔を見て知ってるぞ、左のたもとに入ってるから出しなよ、なんだ利いた風な阿魔女あまっちょだ」
 と口穢くちぎたなくのゝしるのを此方こちらは何を云われても只おど/\して居ると、お虎婆アは無闇に来てお筆の袂から巾着を引出して、
 虎「それ見やアがれ此の通りだ、此の阿魔女め」
 と小桶を取ってほうり付けると小鬢こびんあたって血が出る。娘だけにはたが大騒ぎで、
 番「外へ立っちゃアいけません、板の間稼ぎでも何でもない物の間違でげす」
 と云って居る所へ、人を掻分けて近江屋金兵衞が参り、
 金「何だ/\」
 番「是は大屋さん入らっしゃいまし、相手は帰りましたが、本郷町の桂庵ばゞあのお虎てえいけない奴で」
 金「何か取ったのか」
 番「婆アが取ったんじゃア有りませんが、貴方の店子たなこで、それ浪人で売卜うらないに出る人が有りましょう」
 金「ア、ア」
 番「あの綺麗な娘が有りますな」
 金「ア、お筆さんと云うのだが、なんだえ、う云う間違いなんです」
 番「婆アが云いますには嬢さんが巾着を取ったって、嬢さんが着物を着てしまい、手拭を絞ってる所へ婆アが板の間から飛んで来て嬢さんの袂へ手を入れると、すべり込んだのでゞも有りますか巾着が出ましたお嬢さま他人ひとの物を取るようなお子様じゃア有りませんが」
 金「なにー、篦棒めえ、貴様は何だ」
 番「湯屋の番頭で」
 金「何だって番をして居るのだよ」
 番「番はして居ましたが、袂から巾着が出たので」
 金「出たって他人ひとの物を取るようなお筆さんじゃアねえのに、そんな悪名あくみょうを付けられてたまるものか、己の店子に間違いが有っちゃア此の儘に捨置かれねえ、何処どこまでも詮議をなけりゃアならねえ、ほかの事とは違う、婆アは何処に居る、姉さんは何処に居る」
 番「お虎婆アは先刻さっき帰りましたが、なんでも是は姉さんにうらみが有って仕た事でしょう、姉さんは間が悪いとでも思ったか、裏口から駈け出したり行方が知れません」
 金「それは大変だ」
 と汗をダク/\かいてたくへ帰って参り、
 金「おい/\何故おめえお筆さんと一緒に湯にかねえんだ」
 蓮「だって尾張町の夫婦が子供を連れて来てようやく帰して仕舞うと又彌兵衞やへえさんが来たのだもの」
 金「今本郷町の桂庵婆アがお筆さんに泥棒をしたって悪名あくみょうを附けやアがった」
 蓮「お前さん黙って居たかえ」
 金「己は跡から行ったのだから様子が分らねえ」
 蓮「お前さんなんの為に行ったんだねえ」
 金「知らずに行ったのよ、板の間だと云う騒ぎなんだがお前さえ附いてけば其んな事ア有りアしねえんだ」
 蓮「私はうちの片付け物をして居らアねお前さんこそブラ/\遊んでばかり居る癖に」
 金「遊んでやアしない、己が今湯屋の前を通り掛ると人が立って居るから、何うしたんだてえと、浪人者の姉さんがなコレ/\てえから慌てゝけえって来た…おゝ清左衞門さんか、此方こっちへお這入り、大変な事が出来た」
 清「へえー何う云うお間違いで」
 金「今家内に小言を云ってる処ですが、お筆さんと湯へく約束をしてお筆さんが誘って下さると、丁度客が来て居たもんですから、お筆さん一人で柳原町やなぎはらまちの湯へ行くと、本郷町の桂庵の婆ア、意地の悪そうな奴で妾の周旋しゅうせんをしたりなにかしていけない奴です、其奴そいつがお筆さんに己の巾着を取ったって、板の間からすぐあがって来てお筆さんの袂へ手を突ッ込んでお筆さんの袂から巾着を引出すと、僅かな金でも……腹アたっちゃアいけない、取ったと云うのではない、是には何か理由いりわけの有る事だろうと思うが、今帰って、家内これやかましく小言を申して居る処で、お筆さんを奥へ連れてってなだめて居る内に、お筆さんが居なくなったのだが、桂庵婆アに突合つきあわして掛合えば何うでもなるが、何ういう理由わけだか薩張さっぱり理由が分らねえ、恨を受けるような事は有りゃアしませんか、姉さんは他人ひとに憎まれるような事は有るまいと思うが何か有りませんか」
 清「何処どこへ参りました」
 金「何処へ行ったか分りません、世間へ対して面目なくお前さんに叱られると思って何処どっかへ行ったのでしょう」
 清「はいわたくしく零落を致して裏家うらや住いはして居っても人様の物を一厘一毛でもかすめるような根性は有りません、ことに御当家様から多分に此の春は戴き物をして何一つ不足なく餅も明日あすは七草粥でも祝おうと存じて居ましたに、人様の物を取りますなんて」
 金「取ったか取らないか未だ分らない、なにお筆さんが人の物を取る訳はないが、お前さん何か本郷町の桂庵の婆アに恨を受けるような覚えは有りませんか」
 清「桂庵の婆ア、あのなんですか、色の黒い肥満ふとりました…」
 金「左様」
 清「あの豊胖でっぷり肥満ました、頭の禿はげた」
 金「左様」
 清「うゝむ、あの婆ア」
 金「ほら何か有るにちげえねえんだ」
 清「昨年の十月頃から再度参り、お前の処の娘をわきで欲しがる番頭とか旦那とか有るから世話を致そうと申しますが、てまえ取合いませんでした、すると昨年の暮廿九日に又てまえ方へ参りまして、三十金並べまして、お前さんはお堅いけれ共三十金は容易たやすい金じゃアない、殊に暮ゆえ百金にも向うじゃアないか、此のきんを取ってお嬢さんを他家わきの妾にしなさればお前さんの為めになる、悪い事は勧めないと申しますから、わたくしは立腹致して、不埓至極なばゞあだ、仮令たとい浪人しても武士だ、一人の娘を見苦しい目掛手掛に遣れるものか、なんと心得て居る、そんな事を云わずにと申して又金を出しましたから、わたくしは立腹の余り婆の胸倉をって戸外おもてへ突出して、二度と再び参る事はならんと云って、つばきを横ッ面へ吐ッ掛けてつかわしました」
 金「それだ、何しろ嬢さんのきそうな処は有りませんか」
 清「左様、何処どこと云って尋ねて参る処も有りませんが、小日向こびなた水道町に今井玄秀いまいげんしゅうと申す医者が有ります、其の娘と手習朋輩で前々まえ/\懇意に致した事が有りますが、手紙の贈答やりとりを致すと云う事を聴いて居ましたがそれへは多分参りますまいと思います」
 金「だから何処か行きそうな処は有りませんか」
 清「中番町なかばんちょう外村金右衞門とのむらきんえもんと云う是はその直参じきさんと申しても小普請こぶしんで居ります、母方の縁類と云う訳でもなんでも有りませんがごく別懇に致しまして、両度程連れてきましたが夫へは多分参りますまい」
 金「だから何処か行きそうな処は有りませんか」
 清「谷中やなか日暮ひぐらし瑞応山ずいおうざん南泉寺なんせんじと云う寺が有ります、夫に宮内健次郎みやのうちけんじろうと云う者が居ますが、夫へは多分参りますまい」
 金「行かない処ばかり云っては困る」
 清左衞門は唯おど/\して何処を探そうと云う目途めあてもなく心配致して居ります。翌朝よくちょうに成って、
 金「清左衞門さんわしうちへおいでなさい、一緒に七草粥を祝おうじゃアないか」
 と云うので是から諸方へ手分けをして迷子を捜し大川筋を尋ねさせましたが知れません、今七草粥を祝おうと箸を取って、たべに掛ると表をバラバラ人が通り、
 ○「うした/\」
 □「浪除杭なみよけぐい打付ぶっつかった溺死人どざえもんは娘の土左衛門で小紋の紋付を着て紫繻子の腹合せの帯を締めて居る、い女だがこも船子ふなこが掛けてやった」
 △「行って見ろ/\」
 金兵衞も清左衞門も之を聞くと等しく慌てゝ茶椀と箸をもったなりで戸外おもてへ飛出したから見物人は驚きました。
 ○「何を丼鉢どんぶりばちを振廻すのだ」
 清「そ其の土左衛門は何処に居ります」
 金「旦那土左衛門は何処に居ります」
 ○「何をやアがるんだ、見ねえ、どうも気違きちげえだ、人に飯を打掛ぶっかけて」
 金「なんと心得て居る、町役人ちょうやくにんだぞ、ど何処だ/\」
 ○「土左衛門へは船子が菰を掛けてやって、ブッカリ/\彼方あっちへ流れて行きました」
 と云われて両人は気脱きぬけのした様になり箸と茶椀を持ったなりで帰って来て、
 清「はあー娘は面目ないので身を投げたか」
 金「いや昨夜ゆうべ飛込んだものがう急に浮く訳のものじゃアない、似た人は世間に幾らも有る、お筆さんはよもや死んなさりゃアしまい、心配なさんな」
 清左衞門は実に呆然ぼんやりして、娘は盗賊どろぼうの汚名を受けこれを恥かしいと心得て入水じゅすい致した上は最早世にたのしみはないと遺書かきおきしたゝめ、家主いえぬしへ重ね/″\の礼状でございます、其の儘浪宅をさまよいで諸方を探したが知れん。不図ふと気附いたは高奈部たかなべの家のめいは放蕩無頼の女で、十六位から浮気心が有って、只今は女郎に成って居ると云う事だが、折々先方から手紙が来て、わしに知らさんように手紙の贈答やりとりをして居ったが、万一ひょっとしたらいから左様な処へでも行きはしまいかと、是から吉原へ這入って彼処此処あちこちを探して歩行あるいたが分りません。店先をのぞきながら段々来て、江戸町一丁目の辨天屋の前まで来ました。
 娼「ちょいと喜助きすけどん、あの格子先に立って居るお客さんに会いたいから、そら覗いて居る人だよ」
 喜「えへゝ旦那/\」
 清「はい」
 喜「華魁おいらんが貴方にお目に掛りたいと仰しゃいますんで」
 清「左様でございますか、何処どれへ出ます」
 喜「何うかまがきの方へおいでを願います」
 其の内華魁が上草履うわぞうり穿いて跡尻あとじりから廻って参りますのを見て。
 清「お前さんかえ、すっかり忘れてしまった、ごく年の行かん時分に会ったのだから」
 娼妓はいきなり清左衞門の胸倉を固くり、声を振立て、
 娼「此の武家さむらいだよ、私の亭主に毒を飲まして殺した奴は」
 清「何をする………」
 其のうち若者わかいもの多勢おおぜいにて清左衞門を取押えて大門おおもんの番所へ引く事に成りました。是れからすぐに町奉行所へ出て、依田豊前守のお調べに成りましたが、此の下河原しもがわら清左衞門は人違いか、全くの毒を盛った武家さむらいか、是れは後篇に申し上げることにいたします。


 えゝ引続きの依田政談で依田豊前守御勤役中には少しおむずヶしい事があると吟味与力に任して置かず直々じき/\の御裁断がありまして、ず重罪なるものは罪をかろくいたすようなお情深いお奉行で余程お調べに仁恵じんけいがありました事でございます、其の中でも吉田監物よしだけんもつの家の事に付いて豊前守様から曲淵甲斐守まがりぶちかいのかみ様へお引継になり、両奉行のほまれになったというお話でございます。宝暦の三年下河原清左衞門という浪人者が築地小田原町に裏家住いを致して居るうちに、家主いえぬし金兵衞が、娘の孝心から誠に気の毒だというので、目を掛けましたから大きに親子の者も貧苦をまぬかさいわいを得て喜んで居る甲斐もなく、翌年宝暦四年正月の六日年越しの晩に娘の行方が知れなくなったので、父の下河原清左衞門が娘を探しに吉原に懇意に致す婦人が遊女になって居ると云う話だから、相談をしようと云うので、事によったら娘が懇意に致した婦人があるから、其の遊女の所へ尋ねてきはしないかと、吉原へ参って格子先を覗いて歩くと、辨天屋祐三郎ゆうざぶろうという江戸町一丁目の大籬おおまがきの次位大町だいまち小見世こみせというべき店で、此のの紅梅という女が籬まで廻って呉れというので、娘が居た事と心得て籬へ廻ると、紅梅がおりて来まして突然だしぬけに清左衞門の胸倉を取って、私の亭主に毒酒をもった侍が通ったらば知らせて呉れ、と若い者にも頼んであるから、四五人の若い者が来て左右を取巻き会所へ連行つれゆくというので、清左衞門は会所へ引かれて、是から田町たまちの番屋へ廻され、一通り調べがあって依田豐前守役宅の砂利の上に坐る様な事になったから、人という者は災難のあるもので、此の毒酒の事について依田様は余程心配をなすって居たと見えて、すぐに白洲へお呼出よびいだしに相成り、辨天屋の遊女紅梅、祐三郎だいかや、附添の者が皆出て居ります、清左衞門縄に掛って御町おまち奉行へ呼出される、依田様は八ツ時の御下城から直に御出席に相成りまして、じっと下河原清左衞門の顔を見て居りましたが、人は見掛けに依らんものと見えて柔和温順の人に悪人があったり、あるいは人殺しでもしそうなこわ顔色がんしょくの者にかえって誠の善人がある、解らんものでございますから名御奉行は皆向うの云う事を聞きますに、心にわだかまりがあると言葉に濁りがあるから、目を眠って裁判を致されたと申しますが、依田様も吟味中は目を眠って先の云う事を聞かれました。
 豐「新吉原町江戸町一丁目辨天屋祐三郎抱え紅梅、祐三郎代かや附添の者まかでたか」
 かや「皆出でましてございます」
 豐「うむ、紅梅何歳に相成る」
 紅「はい二十七なんです」
 豐「うむ、其の方昨年十一月三日亭主番人喜助に毒酒を盛ったる侍を取押えた由、是なる浪人清左衞門は其の方の夫喜助に毒を盛ったる者に相違ないか」
 紅「はい、間違いやアしません、何も女郎になりたい事はありませんので、一生懸命にうかして亭主のかたきが討ちたいと思って親類の止るのも聞かずに泥水の中に這入り、苦海くがいうちに居ても万一ひょっとして敵を尋ぬる手掛りにもなろうと思ったから、此んな処へ這入って居るので、察してお呉んなさいよ」
 なんと云う。お奉行様は少しお考えで、
 豐「それに相違ないな」
 かや「かやが申し上げますが、もう紅梅が勤めて居りましてみんな是々これ/\だと打明けて話しました、店の若い者や何かにみんな頼んでありますから、網を張って待って居た処へ、あの侍が来たというので一時いちどきに取押えましたから、まア容易たやすく縄に掛けて会所へ廻し、此のたび御奉行様の御厄介に成りましたどうか何分宜しくお願い申します」
 豊「うむ、浪人下河原清左衞門」
 清「はゝア」
 と残念そうな顔をしてずっと首をげました。
 豐「其の方は何歳だ」
 清「四十九歳に相成ります、へえ…」
 豐「昨年十一月三日八ツ半どきと申す事じゃが、番人喜助方へ参って小さい徳利とくりを持ち銘酒だと云って喜助に毒を飲ませたに相違あるまい、真直まっすぐに白状致せ」
 清「恐れながら手前毛頭覚えがございません、はい何故なにゆえに毒を盛りましょうか、何等なんらの人違いか、頓と解りません、侍でござる、仮令たとえ浪人しても汚名はいといます事で、如何にも残念に心得まする、何故斯様かような事を申すか頓と相解りません、神に誓い決して人を毒殺いたすなどゝいうは毛頭覚えのない事、御推察下さるように」
 豐「其の方何様いかように陳じても、是なる遊女紅梅は貞節なる心から致しておっとの敵が討ちたいばかりで遊女になり、其の侍を取押えてかみに厄介を掛けても亭主のあだを討ちたいという精神から致して漸く尋ね当てた事である、とてのがれる道はない、さア何方いずかたおいて毒薬調合致したか、それを申せ」
 清「はい、どうも思い掛けない事で、毒薬調合などというは容易ならん事で、医者としては、仮令たとい君父くんぷの命たりとも毒薬調合はせぬのがおきて夫故それゆえ医者に相成る時は、其の師匠へ証文を差出さしいだすとる医に承りて承知致して居ります、何故なにゆえに拙者が毒を盛りましょう、毛頭覚えない事、拙者に能く似た者が有って必ず人間違いでござろう、毛頭覚えはございません」
 豐「亭主の敵を討ちたいという心掛の女が、毒を盛った者との者と取り違えようか、如何に陳ずるとも迚ものがれん処、其の方天命は心得てるだろうな」
 清「存じて居ります、存じては居りますが、決して覚えはございません」
 豊「かみを欺くな」
 清「いえ欺きません、殺して置いて殺さんと云えば上を欺き、殺しませんものを殺したというも上を欺く事でございます、どのような強いせめに遭いましても覚えない事は白状いたされません、はい如何にも残念な事で、御推察下され」
 とどうも言葉の様子に曇りもなく、毒を盛るような侍ではないなと云う事がお目に触れたから、
 豊「しかれば其の方は前々ぜん/\何処いずくの藩中である、主名しゅめいを申せ」
 清「主名は申されません、主家しゅか恥辱はじに相成る事、どのようなお尋ねがあっても主人の名前は申されません、仮令たとい身体が砕けましょうとも、骨が折れましても主名を明かしましては武士道が立たんから決して申し上げられません」
 豐「其の方出生しゅっしょう何処いずくだ」
 清「天地の間でございます」
 豐「黙れ、其の方奉行を嘲弄ちょうろういたすな」
 清「いえ/\、ういたして、天下のお役人様、殊に御名奉行と承り承知致して居ります、はなはだ恐れ多い事で、決して嘲弄は致しませんが、主名を申すとしゅう恥辱はじに相成るから申し上げられんと云うので、又々生れ処をお問がありましても是を申し上げればおのずから主名を明すような事で、故に天地の間と申し上げましたが、何はやお上を軽蔑いたすような申し分で重々恐れ入ります、だがのように仰せられ肉がたゞれ骨を砕かれても決して申し上げられません、毛頭覚えはございません」
 と更に恐るゝ気色けしきなきに御奉行も言い様がない。主名は明されん、武士道が立たんというに、
 豐「吟味中入牢じゅろう申し付ける」
 と此の下河原清左衞門が入牢を申し付けられたのは実に災難な事で、なれども斯ういう柔和の人があるいは毒を盛ったか解りません、是からいずれも念に念を入れ、吟味与力も骨を折って調べたがいっかな云わん、誠に薄命の事で。是からお話が二つに分れまして、又娘のお筆は、どうも身に覚えのない濡衣ぬれぎぬたもとから巾着が出て板の間の悪名あくみょうを付けられたからは、おとっさんが物堅いから言訳を申しても立たない、たれにも顔を合されないからいっその事一と思いに死のうというので、湯屋の裏口から駈出して小日向に参りましたのは、祖父じゞ祖母ばゞの葬ってある寺は小日向台町だいまち清巌寺せいがんじで有りますから参詣を致し、それから又廻り道をして両国へ掛って深川霊岸れいがん寺中じちゅう永久寺えいきゅうじへ参り、母の墓所へ香華こうげ手向たむけて涙ながら、
 筆「もしお母様っかさん、誠にわたくしは不孝者でございます、おっかさんには早くお別れ申して何一つ御恩も送らず小さい時から御養育をうけました大恩のある一人のおとっさんをすてて、先立つ不孝は済まぬ事ではございますが、どうもお父さんの前へ面目なくってお顔が合わせられませんから、お父さんに先立って今晩入水じゅすい致し相果てます、草葉の蔭においでなさるお母様にお目に掛りまして不孝のお詫を致しますから、どうぞおゆるし下さい」
 といきたる母にもの云う如く袖を絞って泣き伏して居ますのがやゝ暫くの間で、其のうちう日が暮れかゝりましたから霊岸を出て、深川の木場を廻りふけるをまっ永代橋えいたいばしへ掛りました。其の時空は少し雪模様になってひゅう/\と風が吹き往来ゆきゝも止った様子、当今なれば巡査がポカアリ/\廻られて居るから飛込む事は出来ませんが、人通りのないのをさいわい欄干に手を掛けて、
 ふで「南無阿弥陀仏/\」
 と唱えながら覚悟を極めましてぽかり飛込みました。するとすーッと浮くもので、飛込むと丁度足が下へ着くとずっと浮く、それから又沈んでまた浮く、其のうちにがぶ/\水を飲んで苦しむので断末間だんまつまくるしみをして死ぬのだと云う事で、沈着おちついた人は水へ落ちても死なぬと申します、あれあわてると身体がたて[#「竪に」は底本では「堅に」]なるので沈みますので身体が横になると浮上るものです、心のしずかな人は川へ落ちても、あー落ちたなと少しも騒がないで腕を組んで下迄すーっと沈むと又ずっと浮いて来る、処で水をかけば助かるというのですが、う旨くはかん者で、お筆は二度目にずッと浮上った処へ、永代の橋杭はしぐいの処へずッと港板みよしが出てなんだか知りませんがそれと云って船頭が島田髷を取って引上げました。
 船頭「まだうござえやす息があります」
 客「まだ事は切れない、もう少し此方こちらへ入れてくんな、ぬれてゝもい、大方うだろうと思ったが全く死後しにおくれたに違いない、彌助やすけお前其処そこ退きな、何か薬があったろう、水を吐かせなければならん」
 と大騒ぎ、大勢寄ってたかって介抱したから、お筆はやっと気が付いて見ると屋根船のうちでございます、それに皆知らん人ばかりでござりました、見ると其の儘泣伏しますを見て共に涙を拭います客は、夫婦連れと見えて、
 主「やア是はおとみじゃアない」
 妻「おや/\私は着物や帯の模様が似て居たから必然てっきりおとみだと思ったら、着物の紋が違って居る」
 主「おゝうだ、誠にうも…まあ気が付いて宜かった、何しろ気の毒な事だ、もしねえさんお前何ういう訳だえ」
 筆「はい、何うぞお見逃しなすって下さい」
 主「見逃せたって何う見殺しになるものか、船の港板端みよしばたへ、どぶんと音を聞いたから船頭に引揚げて貰って介抱した処が気が付いたので安心致しましたが、もし姉さんまアお聞きよ、そりゃ能々よく/\の事だから身を投げたのであろうが、見逃すという訳にはかん、まア私のうちは浅草の福井町ふくいちょうだから…何う云う事か家へ帰ってゆるりと事柄を聞きましょう…あれさんな事を云っても姉さん打捨うっちゃって置く訳にはいかぬ」
 筆「それでもどうぞお見逃しなすって」
 主「そんな事を云わずに姉さんまア心を落着けなさい」
 筆「はい、是には種々いろ/\訳があって死なねばなりませんので」
 主「それは種々訳もあろうけれど兎に角、そんな事を云っても誰でもそんなら死ぬが宜いと手を放して見す/\飛込ませる訳にはいかん」
 妻「まア一旦私のうちへお出でなさい、気を沈めて此のお薬をんで」
 と夫婦の介抱で漸く気は落着きましたが、
 筆「何うも生きてられません深い訳の有ります事ゆえ何卒どうぞ助けると思召おぼしめして殺さして下さいまし」
 主「助けると思って殺させる者はない、其の訳はゆっくり聞こうから兎も角わしと一緒にお出でなさい」
 と漸くに船を急がせ石切いしきり河岸へ船を附けて、浅草福井町の米倉屋孫右衞門よねくらやまごえもんと申して奉公人の二三人も使って居ります可なりの身代の人でございますが、自分のうちへ連れて参りました。
 孫「これ何を呼びなよ、あの金太きんたをそうして表へ錠をおろすのだよ」
 奉「へいそれでも駈出すといけませんから」
 孫「駈出す気遣きづかいはない、大丈夫だよ、さア姉さん此処こゝへお出で…あのおよしや御仏前へ線香を上げてなアもうお線香が立たない様だから、香炉の灰を灰振はいふるいでふるってお呉れ…見れば誠にお人柄の容姿みめ形も賤しからん姉さんだがお屋敷さんか、どういう処におでゞ、何ういう訳があって身を投げたか、それを聞かせて下さい、親御もさぞ案じて居ましょう、能く考えて見なさい、両親を残してお前さん、先立って死ぬというのは無分別と申す者で、同胞きょうだい衆も御親類でもんなに心配するか知れん、何ういう事があるかは知らんが、なんの死なゝいでもい事と人に笑われる事の有るもの、歳のかん内は分別なしで困るものさ、実にそれはあとに残る御両親のお心根をお察し申します、其のなげきはの位だか知れませんよ」
 筆「はい、何うも御親切に有難う存じますが是には種々深い訳がありまして、名前住所ところは申し上げられません、どうぞお慈悲と思召してお見逃しなすって下さい」
 妻「まアんな事を云わずに何うか其の訳を聞かせて下さい、私も娘の行方が知れなくなって、それがまア実はうちに居た手代の金次郎きんじろうという者と、まア誠にお恥かしい事だけれども悪い事をして、親にも申し訳がないというので死ぬ気になったと見え、二人共家を出で昨日きのうまで行方が知れません、処が金次郎の死骸だけは分って鉄砲洲てっぽうずで引揚げましたから金次郎の親の家がしば田町たまちで有りますから旦那と私と行って是々と話すと先方むこうでも一方ひとかたならんなげきではありましたが、まだ私の娘の死骸が分りませんので諸方へ手分てわけをして捜している内、何処其処どこそこういう死骸が流れて来たなどゝ人の噂を聞き、船で彼方此方あちらこちら捜して永代の橋の処まで来ると、今飛込んだ娘があるというから、実は自分の娘と思って慌てゝ船頭に頼んで引揚げて貰った処が、お前さんまア歳頃といい私共の娘と同じなりの小紋の紋附帯も矢張やっぱり紫繻子必定てっきり我子わがこと思いましたが、顔を見れば違っているから、実は落胆がっかりしましたが、娘を持つ親の心持は同じ事で、さぞお前さんの親御も案じておでだろうから、何事も打明けて仰しゃいまし」
 と親切に言われて、お筆は唯泣いて居りました。

[#「四」は底本では「三」]


 お筆は漸々よう/\顔を上げまして、
 筆「御親切は有難う存じますが、是には深い訳がございまして、親共に顔向の出来ない事で、何卒どうぞお見逃し下さい、親共は堅い気性でございまして、此の儘帰れば手打に相成ります、それもいといませんがかえってなまじい立腹をさせるよりは今一思ひとおもいに死んだ方が宜いと存じますから……」
 孫「そんな解らん事を云って困るよ、おとっさんが手打にするというのはそれはほんのおどしで、能くんな事をいう者だが、私共のような者でも一人娘が時々心得違いの事でもあると、たった一人の娘でも叩き出すというが、お侍が手打にするというのと同じ事で、決して本当に手打にしたり、叩き出したり出来る訳の者ではない……これ時藏ときぞう[#「時藏ときぞうは」は底本では「由藏よしぞう」は]帰ったか何うも知れないか」
 時「へえ、王子あちらの方でも、何うも彼方あちらいらっしゃいませんそうで彼方でもお驚きで、いず此方こちらからお訪ね申すという事で」
 孫「夫は困ったなア、あの瀧二郎たきじろうは帰って来たか」
 瀧「へえ、只今帰りました」
 孫「何をマゴ/\して居るのだ早く此方こっちへ来て知らせて呉れないでは困るなア、何うだのう、知れないか」
 瀧「へえ、伊皿子台いさらこだいの方へもお出でがないって、何うもお驚きで誠に飛んだ事でお仕合せな事でとう申しました」
 孫「何がお仕合せだ、なんだか解らん口上ばかり云って……まアも一度本気になって迷児まいごを尋ねに出て貰いたい」
 瀧「迷児どころではない、もう十八になった娘でございますから迷親まいおやで」
 孫「誰だ、そんな悪口わるくちをいうのは」
 御主人は立腹致す、大騒ぎで、是から八方へ手を分けて尋ねまするうちに、築地の方へ流れて来た死骸は是々だというからすぐに行って見ると全く娘の死骸でございますから、直に検視を願って漸くうちへ引取って、野辺の送りを致すやら実に転覆ひっくりかえるような騒ぎ、それで段々延々のび/\になっての娘の事をきくもないほどの実に一通りならん愁傷で、まず初七日しょなぬかの寺詣りも済みましたが、娘は駈出そうと思っても人が附いて居るから、又駈出して愁傷の処を騒がせて厄介を掛けては気の毒と思ったから、奥の狭い処へ這入って只此処こゝの親達の心を察しは[#「察しは」はママ]泣き、自分の親もさぞ案じて居るだろうと心配しては泣き、見るにつけ聞くにつけても涙ばかり、漸く二七日にしちにちも済みましたから、
 孫「どうも大きに御苦労だった、今度は変死の事だから寺詣りも何も派手にはかず、碌々他に何も致さんが、いずれ仏の為には功徳をする積りだ……あのなになんとか云った、あのの名よ」
 妻「まだ申しませんよ」
 孫「困るのう、何とか云って呉れゝばいに、何うしても云わんかえ、是へ呼んでおくれ、婆さんお前に昨夜ゆうべ云った事を得心するだろうか、まア姉さん此処こゝへお出で、泣かなくってもい、実に私が泣きたい位だ、少し察しておくれ」
 筆「はい嘸段々おさむしゅうございましょう」
 孫「いやもうたった一人の娘をなくしてまるきり暗夜やみになったようで、お前さんを見ると思い出します、しかしまア私の娘の方は事が分って、うやって二七日ふたなぬかも済ましたが、遂々つい/\娘の事ばかり思って居て、お前さんの事を聞くのも段々延びたが、何うかお前さんの身の上を打明けて呉れないと困る、ねえ二十日も三十日も人の娘を只預かってお前様の親御に申訳ない、只駈出した訳でない、いずれ仔細あって出た事であろうから親御の心配と云う者は一方ならん事で、お前が明らさまに云って呉れないと何うも困るねえ」
 筆「はい」
 孫「何卒どうぞ云って下さい、ねえ私もうやって愁傷の中だから心配を掛けて下さるな」
 妻「本当に旦那の云う通り、して若いうちから余り丈夫でないから今年五十四になって、殊におとみがアいう訳になってから、なお/\ヨボ/\して来てねえ、うしてお前のおとっさんの処へ送り届けなければならないと心配して居ますが、たった一人の娘をなくしたからなんならお前さんをうちの娘に貰いたい位で、何しろ話して下さいな」
 とだん/\親切に夫婦が尋ねますからお筆は、胸に迫り、繻絆じゅばんの袖で涙を拭きながら、
 筆「はい、はい、誠に御心配を掛けて済みません、それでは申上げますがわたくしは築地小田原町に居りまする下河原清左衞門と申す浪人ものゝ娘でございます」
 孫「なに下河原、フム御浪人だね、築地小田原町で……おっかさんもお達者かえ」
 筆「いえ、わたくしが四つの時に亡なりまして、親父の丹精で是までに成長致しました」
 孫「おゝそれでは尚更案じて居ましょう、早くお知らせ申さなければいけない、これよ時藏や」
 時「へえ」
 孫「えー築地小田原町でなんとか云ったのう、うむ下河原清左衞門と云うお方だ、其の娘でな……お名前は何とお云いだね」
 筆「ふでと申します」
 孫「まアおふでさんかえ……お前一つ下河原さんへ行って、実はお娘子むすめごのおふでさんが永代橋から身を投げた処を助けた処が、うしても名前を云わないでお届け申す事が出来ず、其のうちわたくしの方でも愁傷のなかで取紛れて、存じながらお訪ね申さなかったが、段々とお尋ね申した末に、漸くお名前も知れたから早速お知らせ申すが、御無事でおいでだから御心配をなさるな、明日みょうにち此方こちらからお娘子を連れて参るから前以てお知らせ申すと早く行って来な、あゝ申しお家主の名はなんと申しますえ」
 筆「はい金兵衞さんと申します」
 孫「町役人ちょうやくにんは金兵衞さんというのだよ、大急ぎでなア」
 時「へえー」
 奉公人は駈出して参りましたが暫らく経ってって帰って参りました。
 時「へえ只今行って参りました」
 孫「あゝ御苦労だった、分ったかえ」
 時「へえ解りました」
 孫「親御さんさぞ案じて居たろう」
 時「それが其の親御がお娘子を捜しに出たきり行方が知れませんというので」
 妻「此の姉さんのおとっさんが」
 時「へえ、家主おおやさんが大変に案じておでゞ、其のお父さんが、たった一人の娘をなくし今まで知れないのは全く死んだに違いない、最早楽しみもないから頭を剃って廻国かいこくするという置手紙を残して居なくなって仕舞い、諸道具も置形見にして行きましたと云って家主様おおやさんも大変心配して居た処へ、此方こちらから知らせたので夫婦共に大喜びで、どうも有難い、決してお出でには及びません、わたくしの方から引取に出でます、今晩遅くともあがりますという事でございます」
 孫「それは/\親切の家主いえぬしさんだ」
 筆「えゝれではお父様とっさまは剃髪して廻国にでもおいでになりましたか」
 と泣倒れます。
 孫「それだから早くお前さんがう云えばいのに、今になってんな事を云っても仕方がない、家主が引取に来ると云うから、御酒ごしゅ一盞ひとつも上げなければならないから其の支度をして置きなさい、肴も何かい物を取って置くがい…、なに然う泣いて居てはいけない、お父様とっさんが頭を剃って廻国をすると云って行方知れずになり、お母様っかさんも親類もなくお前さん一人に成って、他に兄弟衆もなく心細くもあろうから、私の処へ居て、是もなんぞの因縁と思ってうちの娘に成って下さい、まア然んな不自由もさせないから、お前を貰って堅い養子を貰いたいが、私の子に成って何うか死水しにみずとって貰いたい、築地のお家主にも話を仕ようが、どうか得心して下さいな」
 妻「わたくしも然う思って居ますよ、ねえ姉さん此の儘にずるずるベッタリうちの娘に成ってお呉れなら養子をして安心を致しますから、何卒どうぞ然うして貰いうございます」
 孫「まア女は女どしだからお前の処へ連れて行ってゆっくり話をしなさい」
 妻「はい、さアお前此方こちらへお出で」
 と孫右衞門の妻が是から次の間へ連れて行って種々いろ/\娘に迫るから義理にもやとは言われません。
 筆「はい、いずれ考えまして御挨拶を申しましょう」
 と云う内に参りましたのは築地の家主金兵衞で、
 家「御免下さい」
 奉公人「誰方どなただえ」
 家「築地小田原町の町役人山田金兵衞と申す者で」
 奉「いらっしゃいまし、此方こちらへおあがりなすって何うか、旦那小田原町のお家主金兵衞さんが入っしゃいました」
 孫「おゝそれはまア、此方へどうか」
 家「へい始めまして、えゝ家主山田金兵衞で至って不調法者で不思議な御縁でお目に掛ります、幾久しくお心安く願います」
 孫「はい、始めまして米倉孫右衞門と申す疎忽者そこつものでお心安う願います、これ布団を出しな、烟草盆にお茶を早く…さア何卒どうか此方へ/\」
 金「もうお構い下さいますな、誠に此のたびはどうも御親切に有難う存じます、わたくしも心配致して居りましたが店子たなこの者で親子二人暮して居りますが、其の娘が至って孝行者で寝る目も寝ないで孝行をして居るを気の毒に存じ他の店子と違って私も丹精を致して居りました処でまア詰らん事の災難で……全く其のお筆と云う者が桂庵のばゞアの巾着をった訳では有りません、実はその婆が妾奉公に世話をしてやると云ったのを、お筆の親が侍の事で物堅いから、しからん不礼ぶれいな婆だと悪口あっこうを申して帰しましたのを遺恨に思って、たくんでされたと云う事もすぐに分って、決して人様の物を取る様な娘ではないので誠にどうも飛んだ災難で、お筆は一途いちずに残念に思いました処から、駈出して入水致したを、お助け下さいましたおもむきで有難う存じます、それにまたお宅の嬢様も御逝去おなくなりと承りましたがさぞ御愁傷で、七日なぬかの朝築地の波除杭なみよけぐいの処へ土左衛門が揚ったと云うので、わたしも思わずお筆の死骸と存じまして跣足はだしで箸と茶碗を持って駈出す様な事で、行って見ると小紋の紋附に紫繻子の帯を締めまして赤いきれを頭へ掛けて居りまして、お筆ではないかと存じましたが、それが此方のお嬢様の御死骸と只今承る様な事で」
 孫「成程それは/\誠にどうも」
 金「えゝ其のお筆が居りますなればわたくしが逢いいもので、是へ何卒なにとぞお呼びなすって」
 孫「誠に間が悪がって、貴方にお目には掛れないと云って居ります」
 家「なにんな事は有りません、これお筆さんやなんでお前どうも困るじゃアないか」
 孫「まア其様そんなに大きな声をなすっては却っていけません、これ婆ア此処こゝへ連れてお出で/\」
 妻「さア此処へお出で」
 と孫右衞門の妻に連れられてお筆は面目なげに泣きながら出て参りまして、顔も上げ得ませんで泣伏して居ります。
 家「お前まア、ういう訳でそんな軽率かるはずみな事をしたのだえ、無分別の事ではないかえ、私に言いにくければ家内にでも云って呉れゝば此様こんな事にはならないものを、親父さんは一人の娘が入水を致したからは此の世に何一つたのしみはないと置手紙をして世帯道具も其の儘置去りにして行方知れず、だが又帰る事もありましょうから親御の帰るまで私のうちへお帰り、面目ない事は少しもありませんよ、何時迄も此方こちらにお世話になって居ては済まん事で、さア、わしと一緒に帰んなさい」
 筆「はい」
 孫「あゝ申し、就きまして貴方に折入っておねがいがございますが、此のお筆さんは今は親の無い身の上で何処どこへ参ると云う見当あてもない事で、親御の御得心の無い者を私の娘に貰いいとも申されませんが、お前さんが御承知下さればうも此のを私のむすめにし度いと思いますが、是が深い縁があって助けたのだと家内も申して居りますので、私は他に子供がないから、何卒どうか此のを貰って養子を仕様と云う積りで、親の承知の無い者をお貰い申すと云う訳ではないが、貴方から下さる様にこゝは貴方が親御に成って下さればいが、手前てまい此の娘子むすめごに決して不自由はさせません積りで、へい奉公人も大勢使って居りますが其の中にい心掛の者がありますから是を養子に貰おうと存じて居りました処、一人の娘がアいう事に成りましたので此のを助けて連れて帰りましたが、わずか内に居ります間も誠に親切にしてまことの親子の様にして呉れまして、なんだか可愛かわゆくてなりませんで、是もなんぞの縁でございましょうから、どうか貴方が親御に成って此の娘を下さる様な訳にはきませんか」
 家「成程至極御尤ごもっともの儀ではございますが、別段わたくしが其の親から頼みを受けたということもなし、世帯道具を残らず置いて娘の行方を尋ねに参った事で又帰る様な事に成りましょうから、うもわたしが得心の上で差上げる訳にも成りません、手前の方でも又少しそれはねえ、もしお筆さん、夫もあるものだからすぐ此方こちらの娘と云う訳にもきますまいと存じます、是はどうもう参りませんなア」
 孫「左様ではござりましょうが、ねえお筆さん私が折入ってお願だがどうかね、是も何かの約束と思ってまア、私の娘に成って下さいなね、夫婦とも子のない身の上でどうか願いたいが、のう婆さん」
 妻「どうかねえ貴方が御得心で親御の行方が分る迄も此方こちらへ居て貰うよう願いいものでね」
 と夫婦が種々いろ/\に折入って頼みますが、金兵衞は其の実はお筆を連れて帰り、自分の甥の嫁に致したい心底ですから困りまして、
 金「でもございましょうがなんでございます、其の事に付いて種々訳のある事で、私も一通りならん心配を致しましたから一旦連れて帰って家内に面会させまして其ののちの事に致しましょう」
 孫「夫は至極御尤の事でございます、がうかまア御無理だが是非願い度い、せめて親御のお帰り迄お預け置き下さい、此の子も御縁あって私の処へお出でに成ったのですから親父さんがお帰りになりましてから其の時お帰し申しても又御承知の上で此方こちらあらためて戴くと云う様な事に致し度いもので、どうかなア其処そこは貴方が御承知を願い度いものでございます」
 金「その一体其のどうも私共が兎や角と云う訳ではないが、私の店子でございまして店子と申せば子も同様の者でございますから実は其の私の方で引取るのが当然の訳で清左衞門の文面の様子でも帰る様な事で見れば、又帰りました上で清左衞門へ話も致しますが今晩の処は連れて帰ります」
 孫「さようでは有りましょうが兎も角親御のお帰りまで貴方御得心でお預け下さいます様に願い度いもので」
 金「それうもねえ、お筆さん其処そこは当人の了簡も聞かなければなりませんが、私が兎や角拒む訳はないが、へえお筆さん、どうしたもので」
 孫「もう夫は家内としっかり相談して見ると親兄弟もない身の上だからう云う事にして呉れゝば私も命を助けられた恩返しに孝行を致したいと此のも申します」
 金「それは然うあるべき訳でございますけれども、私も随分お筆さんを丹精致した事は中/\貧苦のなに貧乏と申す訳ではありませんが、まア困って居る処を私が余程肩を入れて内職を教えたり種々いろ/\にして、まアう云う訳に成ったので、どうも私一人が得心する訳にもかんからお筆様、お前が是をしっかりして此の挨拶をしてお呉れ、私の家内にも一旦相談して見なければならないがお前さんはまアどう云う心持だえ」
 筆「誠にもうなんとも申訳はございません、貴方のおうちへも済みませんが、此方様こなたさまでも命をお助け下さったのみならず種々しゅ/″\御心配を掛け、殊には私と同じ様なお嬢さんも入水を成さって相果て、此方こちらの御両親のお心持をお察し申しますと誠にお気の毒様で、どうも是程に不束ふつゝかな私を、あゝ仰しゃって下さりますものを無にも致されませんから、それに大恩のあるお両人ふたり様でございますから親父の帰る迄此方様こちらさまの御厄介に成って私も居ります積りでござりますから左様思召して下されまし、いずれ其のうち御家内様へお目に掛ってお詫を致しますから、どうか貴方から宜しゅう仰しゃって下さいまし」
 と涙を拭きながら申しますから
 金「どうもう云う訳ですかなア、じゃア、まアおいとま致しましょう」
 と金兵衞もお筆が申すので仕様がないから、ブツ/\云いながら立帰りました。是が縁で此のお筆が此のいえの娘になりましたが、誠に不幸の人で再び大難にくだり一寸ちょっと一息つきまして。

[#「五」は底本では「四」]


 えゝ、米倉屋孫右衞門の家では、二月の十日が娘の三十五日で谷中静雲寺せいうんじおいて、水死致した娘の事で有りますから、猶更ねんごろに法事供養を致しました。すると其の年の八月此の米倉屋孫右衞門の家内おゆうが四十七歳で死去みまかりました、重ね/″\の不幸のみならず、娘の入水致した時などは、余程入費もついやしました事で、引続いて種々いろ/\物入ものいりのございましたので、身代も余程衰えて来た処へ、其の年の十一月二十九日の籾倉もみぐらの脇から出火で福井町から茅町かやちょう二丁目を焼き払った時に土蔵を落して丸焼に成り、米倉孫右衞門、神田三河町に立退きまして商売替を致し、米商売を始めました処、案外の損を致しました、しかるに又宝暦の六年は御案内の年代記にも出て居りますが、江戸の大火で再び焼失致しましたから遂に身代限りを致し、うも致方いたしかたがないからわずかの金を借りて京橋の鍛冶町かじちょうへ二間間口の家を借り、娘に小間物を商なわせ、小商こあきないを致して居りますうちに、余り心配を致したのが原因もとに成って孫右衞門は病の床にきました、娘のお筆は大切に看病を致して居りますが、誠に不幸な人でございまして、死ぬ処を助けられてい処へ行ったと思うと其の家が零落を致し養母には間も無く死別しにわかれ、親父は病気に成って其の看病を致しますが、一体孝心の娘でございますから、店で商いを致しながら父の看病をおこたりなく致しまする故か、孫右衞門の病気も怠った様でございますが、頓と身体が利きません、先ず中気の様に成りました、仕方がないから家主藤兵衞とうべえへ相談の上、店を仕舞って裏屋住いに成り、お筆が僅の内職を致しますが居立いたちの悪い親を介抱致しながらでございますから、内職を致すも碌々ございません、親父が寝付いたに内職を致すのだから何程の工銭こうせんも取れません、売り喰いに致して居りましたが、末には、何うも致方がない、読者あなたがたは御存じがありますまいが、貧乏人の身にある事で米薪が切れる、着物が切れる畳が切れる、其のぼろを隠すのはくるしいもので有ります。お筆はお米を買う事が出来ないから、自分が喰べずに米櫃こめびつを払ってお粥にして父に喰べさせても、おのれはおなかが空いた顔を父に見せません、近処でも是を知って可哀想に思って居りますがき其の裏に五斗俵市ごとびょういちと云う人がございます。茶舟ちゃぶねの船頭で五斗俵ごとびょうかつぐと云う程の力の人でございます、其処そこ姐御あねごは至極情け深い人で、う云う強い人の女房でございますから鬼の女房にょうぼ鬼神きじんたとえ、ものゝ道理の分った婦人で有りますから、お筆を可愛がって居ります。
 女房「おい、勘次かんじや、お前あの奥のお筆さんの処へついでに水を汲んでやんなよ、病人があるから定めし不自由だろう、何かおかずこしらえてやろうと思うが、手一つで親の看病をしながら内職をして居るので、何もする事が出来ないとよ、可哀想だから目をかけてんなよ」
 勘「えゝ姐さん目をかけるどころじゃアない、何時いつでも井戸端へ行くたア、水を汲んでやります」
 女「焼豆腐を煮てやりたいと思うが、勘次、お前出来るかえ」
 勘「えゝ出来ますともわっちが煮て上げましょう」
 女「お前に煮られる者か」
 勘「煮られなくって、七輪を此処こゝへ持って来やしょう」
 女「そうだねえ、まア火をおこしてお呉れ……消炭けしずみを下へ入れて堅い炭を上へ入れるのだよ、あら、鍋が空じゃアないか、湯を入れて掛けるのだアね、旨くやんねえよ」
 勘「うげす…それ七輪の火が煽って来た…徐々そろ/\湯が沸立にたって来たぞ御覧ごろうじろ今に旨く煮てやるから一寸ちょっと塩梅あんばいをしよう」
 女「おい、お前が何も塩梅しなくってもい、うバタ/\七輪の下をあおがないでも宜いよ、お前のは他見わきみばかりして居るから、上の方で灰ばかり立って火がおこりゃアしない」
 勘「なに、大丈夫だ今旨く煮て見せやす、ねえ姐さん/\」
 女「なんだい」
 勘「裏のお筆さん位い女は沢山たんとはありませんねえ」
 女「あゝ美いだねえ、人柄がいゝねえ」
 勘「女がくって人柄がい上に、一寸気が利いて、親孝行で、あんない娘はありませんぜ」
 女「可哀想にあの位の器量をもって…」
 勘「ありゃア姐さん、親父おとっさんが死んで仕舞うと却って助かりますぜ」
 女「そんな事を云いなさんなよ」
 勘「あの親父おやじは堅いからやかましいが親父が死んで仕舞えば旦那でもなんでも取れます、あれで軟かい着物でも着せてお化粧しまいをさせて置いて御覧なせえ、そりゃア素敵なもんだ、親父はもう、じきに死にますぜ」
 女「馬鹿な事をお云いでない、たった一人のおとっさんが逝去なくなった日には本当に可哀そうだ」
 勘「なに死ねばいや、兎も角もですねえ」
 女「真実まことに宜いのう、愛らしいこと、※(「てへん+丙」、第4水準2-13-2)ひとがらまるでお屋敷さんのお嬢さん見たようで、実に女でも惚れ/″\するのう」
 勘「姐さんでも惚れますかえ」
 女「お前水を汲んでやんなよ」
 勘「汲んでやる処じゃアない、お筆さんが井戸端へ行くと跡から飛んで行って汲んでやるので、此間こないだ佐吉さきちの野郎が水を汲んで喧嘩をしやした、恰でお筆さんは手をおろす事もないが、佐吉の野郎が助倍すけべいな奴で、お筆さんだと大騒ぎやって汲んでやりやアがって井戸端へ洗濯屋の婆さんが来て私にも汲んでお呉れというとね、佐吉が井戸を覗き込んでいゝ塩梅に中に水があればいが、と井戸に水のねえ訳はねえが現金な野郎で…何しろい女だ、親父が死んで仕舞うと旦那を取るよ、親父が死ぬと彼方此方あっちこっちで世話をする者があると死んだ親父に済まないから旦那なんぞを取るのは厭だと云うねえ、それをたって勧めるから旦那を取るけれども若いい男は取らないねえ、なんでも六十三四位の金のある奴を勧めると屹度旦那に取りますぜ」
 女「どうだか知れやアしない」
 勘「なアに取りますよ、取るけれどもア云う気性だから旦那に金を遣わせないね、大きなうちへも這入らない、新道しんみちで一寸八畳に六畳位の小さな土蔵でもある位な家を借りて居るね、下女は成丈なりたけ遣わない、自分でおまんまを焚いたり何かますそれで綺麗好だから毎朝表の格子を拭きますよ、其の時其の前をわっちが通り掛ったら、うだろう」
 女「れが」
 勘「わっちさ、扮装なりこしらえるね此様こん扮装いでたちじゃアいけないが結城紬ゆうきつむぎの茶の万筋まんすじの着物に上へ唐桟とうざんらんたつの通し襟の半※はんてん[#「ころもへん+纒のつくり」、535-10]引掛ひっかけて白木しろきの三尺でもない、それよりの子は温和おとなしい方が好きですかねえ、草履より駒下駄を履いて前を通りましょうお筆さんが見ると屹度声をかけますよ、おや勘次さん、おやねえさんお宅は此処こゝですかえ、はアんな処へ来ました、まアおよんなさいよお茶をあがって行ってお呉んなさいよと先方むこうで云うに違いない、義理堅いだから、水や何か汲んでもらったかどがあるからおあがんなさいましよと云うねえ、此処でわっちが旦那でもおでだとお邪魔に成るからと云うと、いゝえ誰も居ませんから、まアお上んなさいましよと手を取って引張るね、寄りたいけれども其の時ゃア私は我慢して、いずれ又というので無理に振り払って帰るね、二度目に通る時に又おつな扮装なりをして今度は此方こっちから声を掛けると、まア上ってお呉んなさいと引張り込んでお茶を入れる、うちに酒も附いて居るから一寸お一つ召し上れと私の酒好きを知っているから、気が付く子だから酒を出す、これは済みませんねえ、旦那は毎晩お出でなさるかと聞くと、いゝえ毎晩は来ません通い番頭で年をって居ますから、月に漸く三度位しきゃア来ません、時々遊びに参っても宜うございますか、宜いどころじゃアありません、どうぞ始終遊びに来て下さい、ねえさんはお壮健たっしゃですかとお前さんを聞くよ、情愛があるから……それから屡々ちょく/\遊びに行って何時も御馳走に成って済まないとたまには何か奢ってやるね、度々たび/\行く様に成るとそこは阿漕あこぎの浦に引網ひくあみとやらであらわれずには居ない、其の番頭が愚図/\云うに違いない、うすると私が依怙地えこじに成って何を云やアがる此方こっちじゃア元より一つ長屋に居たんだ、確乎ちゃんと約束がある女だ、たれに断って此の女を慰み者にして居ると威張るね…いやんな事を云うとが驚いて愛想をつかすといけねえから…なに構わない向うは歳をって居るからおどして先のうちへねじ込んで仕舞えばんならばと云うので、手切れに成る」
 女「なんだえお前、何でも無いのに手切れが取れるものかね」
 勘「今はまだ何でもありませんが今に成るねえ、しかし然うやかましく掛合ってもあの子が心配をするから、其処そこは旨く話合いにして百両取るよ、然うしたらわっちは質から出したい着物がある、そうなるとお前さんに芝居を奢りますね」
 女「勘次お前気が違ったのかよ」
 勘「だって本気です、七輪の火がおこらねえが」
 女「其の筈よ猫の尻をあおいでるぜ」
 勘「シヽヽ猫め彼方あっちけ、是れは恐れ入った、ねえさん今に煮えたらすぐに持って行きましょう」
 と交々かわる/″\近所の者がおさいを持ってきますから、喰物たべものに不自由はないが肝心のお米と炭薪などは買わなければなりません、段々に冬に成る程詰って参り、遂には明日あすのお米を買って親父にたべさせる事も出来なくなりました。

[#「六」は底本では「五」]


 お筆は何うしたら宜かろうと種々いろ/\考えましたが、うなってはとても致し方がないから、能く人が切羽に詰った時には往来の人の袖にすがる事も有ると聞いた事もあるから、袖乞そでごいに出る気に成りましたが、あゝ恥かしい事では有るが親の為にはいとう処でないが袖乞をする事がお父さんに知れたら猶御心配をかけるようなものだと種々に考えまして親父の寝付いた時分にそっと抜け出して数寄屋河岸すきやがしの柳番屋の脇の処に立って居りました。寒くなると人の往来ゆきゝは少のうなります、酒臭き人の往逢ゆきあう寒さかなという句がありますが、たま/\通る人を見てもめぐみを受けようと思う様な人はさっぱり通りません。お筆は手拭をかぶって顔を隠し焼け穴だらけの前掛に結びっ玉だらけの細帯を締めて肌着が無いからふるえて柳の蔭に立って居ると、丁度此処こゝへ小田原提灯を点けて二人連れで通り掛った者がありますから、
 筆「もし貴方」
 と言掛けましたが是は中々云えんそうでございますが実に慣れないでは云えるものではない、乞食が慣れて来ると段々貰いが多くなるそうで、只今では無いが浪人者が親子連れで「永々の浪人御憐愍ごれんみんを」と扇へ受けまして、有難う存じます、と扇を左の手に受けて一文貰うと右の手に取ってたもとへ入れる、其の間に余程手間が取れるから往々貰いそこないます、少しなれて来ると、有難う存じますとすぐに扇からてのひらへおあしを取る様に成る、もう一歩慣れたらうなりますか、しかし乞食などは余り慣れないでもいが、有難う存じますと扇を持って居る掌へ辷込すべりこませると申しますが、慣れない事は仕様のない者で中々その初めのうちは云えん者だが明日みょうにち御飯おまんまを喰べる事が出来ないと云う境界きょうがいでございますから一生懸命であります、殊に命を助けて呉れた大恩のあるおとっさんに御心配をかけては御病気にも障る事で何分にも他に何を致そうと思っても手放す事が出来ず、暗夜やみよの事だから人に顔を見られなければ親の恥にも成るまいと思い、もう一生懸命で怖いも何も忘れて仕舞い、
 筆「貴方お願いでございます」
 ○「アヽ、なんだい突然だしぬけびっくりした、どうも此処等こゝらへはかわうそが出るから……」
 筆「永々親父が煩いまして難渋致します、何卒どうぞ親子の者を助けると思召して御憐愍ごれんみんを願います」
 ○「んなら早くう云えばいのに吉田さん/\、袖乞だ一寸御覧」
 と小田原提灯の火影ほかげで見ると
 「中々い女だ繻絆を着ないで薄いあわせ見た様な物を着てうも気の毒な事だの」
 △「成程是は美い素敵だねえさん親父おとっさんは余程悪いかえ」
 筆「はい永い間病気で」
 ○「困るだろうねえ無尽むじんを取って来たから……取って来たって割返しだよ、当れば沢山たんと上げるがたった六十四文ほきゃアないが是をお前にわしが志しで」
 筆「有難う存じます」
 と金を貰ってしくしくないて居りました、此の為体ていたらくを見て一座の男が、
 甲「アヽ、泣くよ本当に嬉しいのだ、真に喜んで泣くよ偽乞食にせこじきでないから、お遣りお前は小花こばなくじが当ったからみんなお遣りよ何を愚図/\して居るのだ」
 一人の男が不承/″\に出すを受取って、
 甲「さア此の人のだ二朱と二百上げるよ」
 筆「有難う存じます/\」
 男「何うしても二朱と二百の方が礼が多い、だがね、姉さん此の男のは小花が当って余計ものですが、私のはたった六十四文でも割返しだから、丁度二十両の内に這入って居る者だから私の方は親切が深い」
 乙「そう自分ばかりいゝ子になりたがらなくってもいゝぜ」
 と銭を恵んで呉れましたのは天の助けで、それから又翌晩も出て是が三日四日続くと、もう幾らか様子を覚えましたから通り掛った人の袖にすがりましてお願いでございますというと、其の人は恟りして、
 男「なんだい、恟りさせやがる」
 筆「親父が永々の病気で、難渋致しますから何卒どうぞお恵みを……」
 男「アヽ、い女だ美いだねえ、五百やるから材木の蔭へ這入らないか」
 などという悪い奴が中には有ります、お筆は驚いて御免遊ばせと云って逃出しましたが、段々寒くなるに従って人通りがなくなり、十二月の月に這入ってヒュウ/\と云う風が烈しいからると犬の吠えるばかり、往来は絶えて一人も通らんから、もう仕方がない私の様な者でも人様の云う事を聞けば五百文でもやると仰しゃるが、身を売ってもおとっさんを助けたいけれども、私が居なければ介抱をしてもなし、お父さんに御飯おまんまをたべさせる事も出来ないから、身を売る訳にもかず、進退きわまりましてたれにも知れる気遣いないから、思い切って、身をけがしてもおあしを貰ってお父さんに薬も飲ませ、旨い物を喰べさせて上げたいと可哀想にわずか五百か六百のぜにの為に此の孝行の美婦人が身を穢しても親を助けようという了簡になりましたのは実に不幸の娘であります。九ツも過ぎ、芝の大鐘おおがねは八ツ時でちらり/\と雪の花が顔に当る処へ、向うから白張しらはりの小田原提灯を点けて、ドッシリした黒羅紗くろらしゃの羽織に黒縮緬の宗十郎頭巾そうじゅうろうずきん紺甲斐絹こんがいきのパッチ尻端折しりはしおり、紺足袋に雪駄穿せったば蝋色鞘ろいろざやの茶柄の大小を落差おとしざしにしてチャラリチャラリとやって参りました、此の武家にお筆が頼み入る処、是が又一つの災難に相成るのお話。

[#「七」は底本では「六」]


 えゝ引続きまする依田政談も、久しゅう大火にいて筆記を休んで居りましたが、跡も切目きれめになりましたから一席弁じます事で、昨日さくじつ火事見舞ながら講釈師の放牛舎桃林ほうぎゅうしゃとうりんの宅へ参りました処同子どうしの宅は焼残やけのこりまして誠に僥倖しあわせだと云って悦んで居りましたが、桃林のうちに町奉行の調べの本が有りまして、講釈師だけに能く調べが届いて居る、本が有るから貸して遣ろうと云うので、わたくしは借りて参りまして段々調べて読んで見ますると、依田豐前守は、依田和泉守といい町奉行の時分はわずかな間でございます、延享えんきょう元年の六月十一日御目附おめつけから致して町奉行役を仰付けられ宝暦ほうれき三年の三月廿八日にはもう西丸にしまる御槍奉行おやりぶぎょうに転じました事でございます。して見ると調べの間は長い事ではございません、其の次は曲淵甲斐守という是も名奉行で、宝暦三年四月の八日御作事奉行おさくじぶぎょうより転じて依田豊前守と御交代になり明和めいわの六年八月十五日までお勤めに成ったという。大岡越前守、依田豊前守、曲淵甲斐守、根岸肥前守ねぎしひぜんのかみなどいうはいずれも御名奉行と云われた方で、申し続きましたお筆のおさばきは依田豊州ほうしゅう公から曲淵甲州公へ御引続おんひきつぎになりました一件で、錯雑こみいりましてお聴悪きゝにくい事でございましょう左様御承知を願います、さてお筆は数寄屋河岸の柳番屋の蔭へ一夜ひとよ置き位に出て袖乞を致しまするも唯養父を助けたい一心で、恥しいのも寒いのも打忘れて極月ごくげつヒュー/\風の吹きまするのをもいとわず深更しんこうになる迄往来なかたゝずんで居て、人の袖にすがるというは誠に気の毒な事で、人も善い時には善い事ばかり有りますが、間が悪くなると引続いて悪い事許り来るものでお筆などは至って親孝行にして為人ひとゝなりも善し屋敷育ちでは有り、行儀作法も心得てるから誰に会ってもめられる様な誠に柔和な娘で有りますけれ共、板の間を働いたという濡衣を着て、親父に面目ないと思う処から入水致しました処を、助けられたは仕合せで有ったが、その又己れを助けて呉れた米倉屋孫右衞門が零落を致して、京橋鍛冶町の裏家住いかてて加えてながの病気というので、今はう何もも売尽した処から袖乞いに出る様な始末、
 筆「今日も夜更けて人も通らず、したが今夜百文でも二百文でも貰って帰らなければ私の命を助けて呉れた大事なお父様とっさん明日あした喰べさせるものをあてがう事も出来ず、と云っておなかすかさせては済まない、私は喰べなくてもいから何卒どうぞお父様丈にはお粥でも炊いて上げなければ成らないから、もう詮方しかたがない、いやらしい事を云う人でも有ったら誠に道ならん事では有るがいっそ此の身を任しても親の為めには替えられない」
 と、覚悟を致し、ヒューという寒風かぜしのいで柳番屋の蔭に立って居ると、向うからぜん申し上げた黒縮緬の頭巾を被り大小を落差しに致して黒無地の羽織、紺足袋という扮装こしらえで通りました、白張しらはりの小田原提灯が見えましたから、
 筆「アヽお武家で有るか、万一ひょっとしたら少しはお恵みが有ろう」
 と思いツカ/\/\ときたり、もう怖いも恥かしいも打忘れ武家のたもとすがり、
 筆「お願いでございます」
 武家「ア…はアヽ……たれも居らんかと思ったので大きにびっくり致したが、なんだえ、女子おなごかえ」
 筆「はい…おとっさんが長々煩いまして其の日に追われ、何もも売尽しましてもう明日あしたは親どもにお米を買って喰べさせる事が出来ません、それ故誠にお恥かしい事でございますが、毎日此処これへ参りましては人様のお袖へ縋っていさゝかの御合力ごごうりょくを受けまして親子の者が露命いのちつないで居る者でございます、けれ共今晩斯様かように風が吹きますので薩張さっぱり人通りがございませんから、是迄立って居ましたが少しのお恵みも受けませず、今晩此の儘帰りましては親を見殺しに致す様なものと存じまして誠に御無理ではございますが百文でも二百文でもお恵み下さいますれば親子の者が助かります、何卒どうぞ殿様お願いでございます」
 武家「はい…はい、それはお気の毒な事じゃ、むー…」
 小田原提灯をこう持上げて見ますると、下を向いて袖を顔に押当て、ポロ/\泣いて居ります。じっとその様子を見て居りましたが、やがて一掴みの金子を小菊に包んで、
 武「これを遣わすから、早う帰って親御に孝行を致せ、したが女子おなごの身の夜中やちゅうと云い、いかなる災難に遇わんとも限らんから向後きょうこう袖乞はめに致すがよい」
 とお筆に渡すと其の儘往って仕舞いました。お筆は嬉し涙にくれて見送って居りましたがうちへ帰って包を明けて見ますと古金こきんで四五十両、お筆はびっくりして四辺あたりを見廻し、
 筆「はア…うしたんだろう、心の迷いじゃアないか知ら、先刻さっき彼所あすこを通り掛ったのは武士さむらいと思ったのが狐か何かで私をばかしたのじゃアないか知らん、私がお鳥目を欲しいと思う其の気を知ってつままれたのか知らん」
 と足をギイーッとつねったが痛いから、
 筆「夢じゃアないが、ハテ何うしたんだろう、向後袖乞に出るなと仰しゃったから、御親切な殿様で私の戸外おもてへ出ない様に多分にお金を下すった事か、あゝー……私の為には神さま……」
 と手を合せて伏拝み何所どこの人だか知りませんから心のうちしきりと礼を云い、翌日あしたに成りますると此金これでお米を買うんだと云う、其のお米を買うたって一時いちじ沢山たんと買って知れては悪いと思いましたから、狐鼠こっそり少し買い、一朱もお金を出せば薪も買えれば炭も買える、又金を一つ処へ仕舞って置いて知れると悪いと思いましたから、彼方此方あっちこっちへお金を片附けて仕舞って置きまして、ちっとずつ出して使い、
 筆「おとっさまはお寒かろうからあったかい夜具を着せたい」
 と夜見店よみせへ参りまして古着屋から小僧さんに麻風呂敷に掻巻かいまき三布蒲団みのぶとん背負せおい込ませ、長家の者に知れない様にお父さんに半纏を着せたいと云うので段々と狐鼠こそ/\買物をして参りますが、世間じゃアすぐに目が着きます、或る時例の姐子あねごが、
 姐「おい勘次や」
 勘「えゝ」
 姐「奥のお筆さんはい旦那でも附いたのじゃアねえか」
 勘「うでげすね、此の頃は大変様子がいから、ね、お父さんなどは何うも少し顔色が違えやして、此の頃じゃアにこ/\して居やす、わっちにも此の間手拭を呉れたね」
 姐「手拭を貰ったと、んで貰ったんだい」
 勘「何んだって度々水を汲んでやったりなんかするんで大きに色々お世話に成るって呉れましたがあんまい心持だから匂いを嗅いだが、っとも好い香気においはしませんね、矢張やっぱり手拭の臭いがした」
 姐「あのなんぞに何か貰いなさんなよ、なんでも旦那が附いたにちげえねえノ」
 勘「えゝ、んだか知りませんが、其の旦那てえのがちっとも来るのを見た事がねえ、何でも夜中よなかに来るんでげしょうよ何処どこかへ参詣おまいりくって時々出え/\したが、何処か知れない処で逢ってお金を貰って来るんでげしょう、あの親父が此の間ひげを剃りましたよ白髪交りの胡麻塩頭をゆって新しい半纏を引掛ひっかけて坐って居ますが大きに様子がくなって病人らしく無く成ったが、ねえさんも襦袢に新しい襟を掛けたぜ、いもんじゃア有りやせんが銘仙かなんかの着物が出来ておつな帯をしめましたよ、なりをすると結髪むすびがみで働いて居る時よりゃア又く見えるね、内々ない/\魚などを買って喰う様子でげすぜ、此の間も魚屋が来たら何が有る、鱈……それじゃア鱈をお呉れって鱈を買いやしたが病人に鱈は宜うごぜえますのかね」
 姐「そんな事を気にしなくっても宜いが何うも様子がおかしい」
 勘「わっちねえさんの顔が見てえから時々くんです」
 此の勘次が毎日の様に来ては手伝いますから気の毒だと思って居ます処へ又来て、
 勘「お筆さん水を汲んで上げやしょう」
 筆「おや勘次さん毎度有難う」
 勘「なにどうせ幾度も汲みにくんで、うちの姐さんは清潔家きれいずきでもってかめの水を日に三度ずつも替えねえと孑孑ぼうふらが湧くなんてえ位で、小便にでも行くとひじの処から水をかけて手を洗うてえ大変なものでえへゝゝどうせついででげすから遠慮するにア及びやせんよ」
 筆「誠に毎度有難う」
 勘「お父さん今日は……えへゝゝ、いえ何う致しやしてどうせ序が有りやすから、んでげすねお筆さんは親孝行でお前さんはお仕合せで本当に御運が好いんで、えへゝゝ」
 孫「なにうでも有りませんのさ」
 勘「此んな好い子を持ったのは貴方の御運がいのでさア」
 孫「なに運がい事も有りアしません、今じゃア腰がけて仕舞ってなんの役にも立たなく成ってますから、しかし毎度有難うございます、これ一人で何事も手廻りません処を貴方が水を汲んで下さったり、其の上御親切に姐さんが又度々気をけて下物おかずを下さり、誠に有難う存じますお蔭で親子の者が助かります、貴方姐さんに宜しく仰しゃって下さいまし」
 勘「じゃア姉さん汲んで上げよう」
 と井戸端へ行って水を手桶に三杯も汲んで遣りました。
 筆「ちょいと/\勘次さん少し待って下さい」
 勘「えなんです」
 筆「少し上げたいものが有りますから、手拭の貰ったのがあるんです」
 勘「又手拭をかえ……此の間も貰ったのに…」
 筆「いえ詰らんのですが持って行って下さいよ」
 是から千代紙ではって有る可笑おかしな箱の蓋を取って、中から手拭を出そうとする時、巾着の紐が指に引懸って横になるとパラ/\/\と中から金子かね散乱ちらばったから慌てゝお筆が之を隠し手拭を一筋ひとつに一朱銀を一個ひとつ出して、
 筆「誠に少しばかりでございますけれども、毎度御厄介に成りますから」
 勘「何う致しまして、是は何うも、えへゝゝ何うもお気の毒で、誠に有難う」
 と礼を云いながら心のうちで大層金子かねもって居やアがるとう思いました。口々に分けては有りますが下へ落ちたが二十両許りザラ/\/\と云うのを慾張た眼で見ると五六十両も有ろうと思いました「此奴こいつア成程姐さんの云う通りなんでも彼奴あいつい旦那どりをしてこっそり金を呉れる奴が有るにちげえねえ、彼様あんなけちな千代紙で貼った糸屑を入れて置く箱ん中の巾着からザクリと金が出るんだからね」と此の勘次と云う奴は流山ながれやま無宿むしゅく悪漢わるいやつでございますから、心のうちで親父は病気疲れで能く眠るだろうし、娘も看病疲れで寝るだろうし、能く寝付いた処へ忍込んであの金子かねさえ取れば、又西河岸の桔梗屋ききょうやへ行って繁岡しげおかの顔でも見て楽しむ事が出来るという謀叛むほんが起り、其の深更に及んでお筆のうちの水口を開け忍込んで見ると親子とも能く寝付いて居る様子、勘次はもとより勝手を知って居りますから、例の千代紙で貼った針箱同様の糸屑の這入って居る箱の中から巾着を盗み出し、戸外そとへ出るとすぐに駕籠に乗って飛ばして廓内なかへ這入り西河岸の桔梗屋という遊女屋へあがりました。
 勘「久しく様子が悪かったので来なかった」
 馴染の娼妓か、
 △「おやいたちの道や」
 勘「なにー篦棒めえ、鼬の道だって、あのなア繁岡さんと喜瀬川きせがわさんを呼んで呉んな、揚女郎てえ訳ではねえが、わっちは少し義理が有るから、うめえ物を沢山たんとあがれ、なにー、愚図/\云うな、大台おおでえを……大台をよ、内芸者うちげいしゃを二人揚げて呉んな」
 と金の遣い振りがあらい。
 亭主「勘次さんは大層金の遣い振りが暴いじゃアねえかのう、喜助」
 喜「へえ、なんだか博奕ばくちに勝ったと被仰おっしゃいます」
 と聞いて内証ではうも様子がおかしい、知ってる人だから朝勘定でもいんだが、金の遣振りが訝しいから宵勘定に下げて貰え。とさがった金を見ますると三星みつぼしの刻印が打って有る、是はかね巡達じゅんたつに成ってる処の不正金でございますから、
 亭主「是は打棄うっちゃっちゃアおかれない、ぐに……」
 と云うので、是から其の頃の御用聞を呼びまして此の事を話すと石子伴作いしこばんさく様と云う定巡じょうまわりの旦那が、
 伴「それは手附かずに出すがい」
 と云うので、二日流連いつゞけをさせてゆっくり遊興をさせ、充分金を遣わせて御用聞と話合いの上で、ズッと出る処を大門そとで、
 ○「御用」
 勘「ハッ……」
 と云ってびっくりする、大抵な者は御用聞が御用と云う声を掛けるとペタペタとなるといいます。すぐに縛られて田町の番屋へ引かれる、仕様の無いものでございます。
 ○「勘次てめえの身分にしちゃア金遣いが滅法にあらえが、桔梗屋で使用つかった金はありゃア何処どこから持って来た金だ」
 勘「むゝ、あれア、…バ……」
 伴「何を愚図/\言って居やアがるんだえ」
 勘「へい、んで、賭博ばくちに勝ちましたので」
 伴「なにー、博賭ばくちに勝ったと、馬鹿ア云え、てめえの様なケチな一文賭博をする奴が古金こきん授受とりやりをするかえ、有体ありていに申上げろ」
 勘「マ、全く博賭に勝ったにちげえござえません」
 伴「何処どこの博賭場で勝ったんだ」
 勘「ムヽ、カ、カ、神田のまき様の部屋でんしまして、小川町おがわまち土屋つちやの……」
 伴「黙れ、尋常に申し上げろい、幾ら隠したって役にア立たねえから、何処で盗んだか云えよ」
 勘「いえ全く其のカ、カ、勝ったんで」
 伴[#「伴」は底本では「勘」]「これ勘次、てめえ其様そんな事を愚図/\云ったって役にゃア立たねえ早く云っちめえ」
 勘「いえ……その…全く勝ったんで」
 伴「云わねえな、何うしても此奴こいつア云わねえからて/\」
 ○「お慈悲深い旦那だから本当の事を喋って其の上でお慈悲を願え、おめえだって万更まんざら素人しろうとじゃアなし、い道楽者じゃアねえか」
 伴「ええや、しめろ/\」
 とピシーリ/\叩かれるからすぐに口がいて、実は五斗兵衞市の処に食客いそうろうに居るうちに裏に小間物屋孫兵衞と云う者が居て、孫兵衞の娘のお筆が私に礼をすると云って巾着をすべらし、金の出たのを見て不図した出来心から全く盗んだに相違ございません。と白状を致しましたから直に京橋鍛冶町の小間物屋孫兵衞方へ踏込ふみこみ娘お筆が縄に掛って引かれたはなんとも云えぬ災難でございます。う云う事やら訳が分らず腰の抜けて居る孫兵衞は大屋さん何う云うもんで。と泣いてばかり居りますから長屋の者が来ては色々になだめますけれども中々愚痴が止みません。五斗兵衞市の姐御は気の毒でなりませんから、
 ○「私の処へ無頼やくざ食客いそうろうを置いたばかりでう云う事に成ったんだが、決してお筆さんに其様そん理由わけはない不正金だというが」
 孫「イエ金子かねなどがうちに有る気遣いは有りません、何う云う災難ですか、大屋さんお筆を返して下さいませんとわたくしは小便にく事もおまんまを喰う事も出来ません、お願いでございますから」
 とワイ/\ないて居ったのはもあるべき事でございます。

[#「八」は底本では「七」]


 さてお筆を段々調べて見ますと、親父が大病で商売も出来ず、衣類道具も売尽うりつくして仕様のない所から、毎晩柳番屋の蔭へ袖乞に出て居りますると、これ/\う云うお武士さむらいが可哀想だと仰しゃって紙に包んで下さいましたのを、お鳥目あしかと存じてたくへ帰り開けて見ると金子きんすでございました、親に御飯を喰べさせる事も出来ん様な難渋な中ゆえ、つい大屋さんに黙って使いました段は誠に恐入りますという所が、口不調法ではございますが、曲淵甲斐守様が一目見れば孝心な者で有るか無いかはお分りにも成りましょう、殊に勘次の申立もうしたてと符合致して居りますからさすがの名奉行にも少し分りかねました。
 甲「全く其の侍に貰ったに相違有るまいが、是は芝赤羽根あかばねの勝手ヶ原の中根兵藏なかねひょうぞうという家持いえもち町人の所へ忍入り家尻やじりを切って盗取ぬすみとった八百両の内の古金で、皆此の通り三星の刻印の有る古金で有るによって、其方そちが唯貰ったでは言訳が立たぬ、全く親の為めに其方は其の日に困るに依て一時凌いちじしのぎに使い、翌日町役人ちょうやくにんとも相談の上訴え出ようと思う折柄、勘次に盗取られたに相違有るまいな」
 と云うお慈悲のお言葉。
 筆「へえ恐入りました、それに相違ございません」
 甲「うむ、吟味中入牢じゅろう申し付ける」
 とピッタリ入牢と相成りました。さアうも近所では大騒ぎ、寄るとさわると此のお筆の評判ばかりでございます、或る人はしきりに不承知を唱えまして何しろおかみはお慈悲だってえが大違いだ、彼様あんな親孝行な娘を引張ってって牢へ入れちまって、金を呉れた奴が盗人ぬすびとだか、武家だてえが何うしたんだか訳が分らねえ、物を人に呉れるなら名でも明して呉れるがいんだ、何うしてお筆さんが泥坊などをする様なでない事は誰でも知ってる、それ此様こんな事になるというのはわしにはちっとも訳が分らねえ、お上は盲目めくらだ。というと又一人が、
 △「其様そんな事を云うなよ/\」
 と近所では色々噂をして居る。吉原帰りは田町のはまぐりへ行って一盃いっぱいやろうと皆其のうちへ参ります。
 ×「もう是で飯を喰おう」
 △「もう一本やろう」
 ×「あんまおそくなるから、丁場ちょうばの仕事がよ」
 △「丁場へはかねが先に行ってるからもう一本やろう」
 ×「兄いは酔っちまってる、グッと思切って続けてやんなもう充分酔ってるから飯を喰おうじゃアねえか」
 △「いからもう一本交際つきあいねえな、てめえ二猪口ふたちょこばかりアイをすれば、残余あとみんな己が飲んで仕舞わア…長い浮世に短い命だ…人は…篦棒めえ正直にしたってしなくたって同じ事だ京橋鍛冶町の小間物屋のお筆さんの事を見ても知れたもんだ」
 ×「兄いあれを云いなさんなよ、あんまりパッパと云ってつかまって困った者が有るから」
 △「困ったって癪に障らア、余り理由わけが分らねえじゃアねえか、親父が病気で困ってるから毎晩数寄屋河岸の柳番屋の蔭へ袖乞に出て居る処へ通り掛った武家さむらいが金を呉れたんだてえが、其の位の親切が有るならよ、己は何処どこの何う云う武家ぶけし咎められた時にゃア己が遣ったと云えって名前でもあかしておけいのに、無闇に金を呉れやアがったって、なさけにも何もなりアしねえ、あのなんとか云ったっけともえの紋じゃアねえ、三星とか何とか云ういんが押して有る古金かねを八百両何家どこかで家尻を切って盗んだ泥坊が廻り廻って来てそれでまア、の親孝行な…」
 ×「おい/\悪いよ、其様そんな事を云って京橋あたりでも係合かゝりあいに成ったものが有るから止しなよ」
 △「だってよ、お上では親孝行の者に御褒美を呉れて、親に不孝をする奴は磔刑はりつけに上げるてえじゃアねえか、其の親孝行の者を牢ん中へ押込んで、腰の抜けた親父一人残して置くてえ家主いえぬしの根性が分らねえ、お救米すくいまいでも願って遣るが宜いんだ、此間こないだ甚公じんこうの野郎が涙をこぼながら、あのは泥坊なぞをする様な者じゃアねえ彼様あんな娘はねえってう云ってた」
 ×「おー其んなことを云いなさんなよ、係合になるとけねえぜ」
 と制しても中々聞きません。すると他の一人が、
 △「係合いになるってあんまり癪に障らア今度奉行が替ったか、一体奉行が理由わけが分らねえ」
 ×「おい止せてえのに」
 △「云ったって宜い、なッてえ、糞放くそったれめ、罪もねえ者を無闇に牢の中へ放り込んで、金を呉れた盗人ぬすっとがふんづかまるまで、牢の中へ入れときやアがって面白くもねえ、本当に癪に障って堪らねえや、っと風が吹くと路次は六ツかぎりに木戸をしめっちまうんで湯が早く抜けちまっても困らア職人は、の親父は腰が抜けてるてえからおらア可哀想でならねえ」
 とシク/\泣出しました、
 ×「泣上戸なきじょうごだな、泣きなさんなよ、涙をこぼして見っともねえ鬼の眼に涙だ」
 △「鬼でもじゃでも構ア事アねえ、あんま口惜くやしいから云うんだ」
 ×「おい、止せてえ事よ」
 話をして居ますると衝立ついたてかげからずいと出た武家さむらいは黒無地の羽織、四分一拵しぶいちごしらえの大小、胸高むなだかに帯を締めて品格ひんい男、年頃は廿七八でもありましょう、色白で眉毛の濃い口許くちもとに愛敬の有る人物が、
 武家「是は何うも大分だいぶ機嫌だのう」
 △「えへゝゝ是は殿様………御免なさい、隣席となりにおでとも存じやせんで」
 武「いや衝立の陰で先刻さっきから一盃やって居た、職人のお前達の話は又別段で」
 △「えへゝゝ旨く云ってらっしゃるね」
 ×「殿様御免なすってから大きな声をして、此奴こいつア少しくらい酔ってるもんですから詰らん事を云って、何卒どうぞお構いなく彼方あちらへお出でなすって」
 武家「あはゝゝ馳走になろう、あいをしよう、もう一銚子附けさせろ、身共も一盃馳走に成ろう」
 △「えへゝゝ旨く云ってらア、殿様は如才じょさいねえや、うめえや」
 武「酌を仕様」
 ×「いえ殿様、此方こっちでします」
 武「いや酌をしよう」
 △「えへゝゝ是は有難うございます、いずれお浮れでございますな、昨夜ゆうべ廓内なかへ行って」
 武「うむ、廓内へ行って来た」
 △「えへゝゝ殿様なんざア男がくって扮装なりだからもてやすが、わっちどもはもてた事はなく振られてばかり居ても行きえから別段で」
 武「何うだ猪口ちょくを貰おう」
 △「御免なせえまし、水を貰いましょう、おい女中茶漬茶碗へ水をよう、なッてえ、宜いから黙って居ろい」
 武「水などでそゝいでは水臭い、其んな事をせんでも宜しい」
 ×「兄い止しなよ」
 △「宜いよ黙って居ろえ」
 武「是は何うも、酒のきな者は妙なものだ、が今聞いて居たが、何か其の京橋へんの数寄屋河岸の柳番屋の陰で金子きんすを貰ったむすめが有るとか云う話だが、それは何う云う訳だ」
 と云われた時は両人は驚きわな/\しながら。
 △「へえ」
 ×「だから止しねえと云ったんだ大きな声をしてパッパと云うからけないんだ」
 武「何も心配な事はない何かえれは」
 △「へえ………誠にどうも、くれえ酔って居まして大きに不調法を致しました、真平まっぴら御免なさいまし」
 武「いや不調法な事はちっともない、柳番屋の処へ袖乞いに出る娘に武家さむらいが金子を遣ったんだな」
 △「へえ、何うも明瞭はっきり分りませんので」
 武「いや分らん事はない、今お前が話をしたではないか、なんと云う者の娘だえれア」
 ×「殿様此者これくらい酔って居まして唯詰らねえことを云ってたんで出鱈まえで、唯茫然ぼんやり、変な話なんで、嘘を云ったんで」
 武「なに嘘のことはない、何も心配になる事はないから、わしに聞かすれば宜いのだ、京橋の何処どこの者だえ……」
 △「へえ」
 武「云わんか、いま貴様が云った事は衝立の蔭で聞いて居ったが、少し調べる事が有るから聞くのだ」
 ×「だから己が先刻さっきから、う云うことを云って係合に成ったものが有るから大きな声をして云うなと云うのだ」
 △「本当に殿様ア……わっちア明瞭り知らないんで」
 武「知らんたって只今云ったじゃアないか、なんとか娘の名前まで云ったぞ」
 ×「へえ……」
 武「云わんか、云わんと云えばゆるさんよ、隠立てを致せば捨置かれんから両人共近所に自身番が有ろうから夫れへ連れてく」
 ×「真平御免なさい」
 △「何うぞ真平御免を」
 武「謝罪あやまらんでも宜い、貴様達の罪じゃアない、云いさえすればよろしいのだ」
 ×「へえ、京橋……鍛冶町」
 武「うむ、京橋鍛冶町、少し待って呉れ」
 と腰から矢立を出し懐中から小菊をいだして、
 武「京橋鍛冶町で、なんと云う者の娘だえ」
 「孫右衞門娘で筆でございます」
 武「孫右衞門の娘の筆か、此の月の幾日いくかの晩だ、うむ、成程六日の晩数寄屋河岸の柳番屋の蔭に於いて金子を貰ったのか、其の金子は幾ら有った」
 △「何だか其処そこの処は明瞭はっきり分りません」
 武「それを何者が盗んだと云ったな」
 △「へえ、それは五斗兵衞市のうちの居候で勘次てえ奴が」
 武「五斗兵衞市てえのは名か、可笑しいな、其のいえ食客しょっかくに居るものだな」
 △「いえ、なに居候で」
 武「だからよ、勘次と云う者が盗み取ってそれが露見をして目下其の娘は牢に居るんだな」
 △「へえ牢に這入っちまいました」
 武「それは可哀想な事で、町役人は何と云う」
 △「町役人と云うとう云う事で」
 武「いえさ家主いえぬしだよ」
 ×「家主と云うのは何んで」
 武「其の長屋の差配を致す者よ」
 △「大屋でげす」
 武「大屋てえ事はないが、まア大屋でもいその大屋は」
 △「へえ、と藤兵衞」
 武「藤兵衞か、宜しい、貴様の名を一寸書いて置こう、貴様は何と云う名だ」
 △「へえ御免なすって」
 武「謝罪あやまらんでもい」
 ×「えゝ殿様、此者これは全くくらい酔って迂濶うっかり云ったんで」
 武「喰い酔うも何もない名前を云え、云わんか」
 △「へえ大変だな、熊ッ子てえます」
 武「熊ッ子と云う名前はない、熊吉か熊五郎か何うだ」
 ×「へえたしか熊五郎」
 武「慥か熊五郎と云う奴があるか、貴様は何んと云う名だ」
 ×「わっちも……わっちは何も云やアしません」
 武「何も云わなくとも連れだから云えよ」
 ×「何うぞ御免なすって」
 武「ゆるせと申したって連れだから貴様の名も書かなければならんよ」
 ×「へえ……わっちア、ガチャとめと申します」
 武「ガチャ留と云う名が有るか」
 留「なんだか知りませんが子供の時分から、ガチャ留ッてえます」
 武「留吉か留次郎か」
 留「其処そこの処はわっちどもの事ですからガチャ留でお負けなすって」
 武「負けると云う事はない、留吉か全く」
 留「えへゝゝ忘れました」
 武「自分の名をわすれる奴があるか貴様達はう宜しい」
 両人「有難う存じます」
 と両人はすぐに駈出して小田原迄逃げたと云うが、其様そんなに逃げなくっても宜しい。此の武家ぶけ莞爾にっこり笑って直其の足で京橋鍛冶町へ参りました。又、親父の孫兵衞は只おろ/\泣いてばかり居ます、家主も誠に気の毒でが有れば時々見舞いに来ます。
 家「はい御免よ孫兵衞さんお前う泣いてばかり居ちゃアいけないよ、其様そんなにくよ/\したって仕方がない、是はお前何うもその、悪い事は悪いこと、善悪よしあし共におかみは明らかにお調べなさる処だから、全体お前大金を貰った時にねえ、ちょいと私にでも話をすればすぐに訴えて仕舞えば何も仔細ないのだ、は他人の物を取る様な娘じゃアないが、私の長家から縄付きに成って引かれる者が有っては家主の恥辱はじだが、なに彼の娘はお前を大切にして親孝行な子だから、んなそれア穏密方おんみつがたが来て調べたって長い間のお前の煩いを介抱した様子からみんな世間で知って居るから早晩いまに彼の子も罪がりて帰れようから然う泣いてばかり居ちゃアいけない、身体に障ると悪いからあんまり心配をせぬがいゝ」

[#「九」は底本では「八」]


 親父は涙をこぼしまして、
 孫「はい、有難う、わたくし此様こん業病ごうびょうに成りましたもんだから、あれが私を介抱するので内職も出来ませんゆえ追々其の日に追われ、何もも売尽して仕方がない処から、彼が私に内証で袖乞に出る様な事に成ったので、う云う災難に出会ったかと思いますと、わたしが彼を牢へ遣った様なものでございます、うして此の寒いのに牢の中へ這入りましては貴方彼は助かる気遣いはございません、繊細かぼそい身体ですから、其の上今迄引続いて苦労ばかりして居りますので、身体が大概いたんで居ります処へ又牢へ這入り寒い思いをして、彼に万一もしもの事でも有りますと、私は此の通り腰が抜けて居る、他に身寄たよりはなし死ぬより他に仕方がございません、お家主さん貴方何卒どうぞ筆がおゆるしに成って帰れる様にお願いなすって下さいまし」
 家「願うと云う訳にゃアいけない、もとより家尻を切って取った八百両の内の金子かねだと云うから、いず其金それを呉れた奴が有るんだろうが、其奴そいつが出さえすればいんだが、お調べが容易に届けばいが、調べが届きさえすればは帰るんだからね、是も災難だ」
 孫「災難だって此様こんな災難が有る訳のものじゃア有りません」
 家「お前が困るならうちの奴も来るし、又長家の者も世話をして呉れるからう泣いてばかり居ちゃア身体が堪らねえ」
 孫「えゝ、神も仏もないんで、此様な災難にかゝるてえのは、あゝ私は死にたい」
 家「其様そんな気の弱い事を言ってはいけない、いか程死度しにたいからって死なれる訳のものではない」
 としきりになだめて居る処へ、門口から立派な扮装なりをして、色白な眉毛の濃い、品格ひんと云い容子ようすと云いずお旗下はたもとなら千石以上取りの若隠居とか、次三男とか云う扮装こしらえの武家がずっと這入って参り、
 武「御免小間物屋孫兵衞さんのおうち当家こっちかえ」
 家「はい、是は入らっしゃいまし、是は入らっしゃいまし」
 武家「はい、御免を」
 家「其処そこは濡れて居りまして誠に汚のうございますが、サ、うぞ此方こちらへ入らっしゃいまして……奥の喜兵衞きへえさんが願って呉れたのだから…誠に有難う存じまして、ういう貧乏人の処へお出でを願いまして恐入りますが、能く来て下さいました、貴方は奥の喜兵衞さんから願いました、番町のお医者様で」
 武「なにわしは医者じゃアないが、貴方は何かえ、此の長屋を支配なさる藤兵衞殿と仰しゃるかたかえ」
 藤「ヘエ/\、ヘエ」
 武「今御尊家ごそんかへ出たよ」
 藤「わたくしうちへ入っしゃいました、左様ですか、えゝ此者これがその孫兵衞と申す者」
 武「はい始めまして、えゝ承れば当家とうけでもとんだ災難で、何かその数寄屋河岸の柳番屋の蔭へ袖乞いに出た娘に、通り掛った侍が金子かねを呉れて、それが不正金で親子の者が、図らざる災難を受けたというは気の毒な事で、お前はさぞかし御心配な事で」
 藤「へえ誠に心配致して居りますので、何うか分りますればいと思って居ります」
 武「いやそれは心配には及ばん、明日あしたわしが其のお筆さんと云うを町奉行所へ訴え出て帰れるようにして遣る、其の金はわしが遣ったんだ」
 藤「へえー、左様で、それなれば何も仔細無い事で、何かお上でもお疑いがございまして、不正金とか何とか云う事を申すので困りましたが、誠にどうも殿様が下さいましたのなら何も仔細は有りません、孫兵衞さんお前さん一寸ちょっと御挨拶を」
 武「はいおとっさんかはじめてお目に懸ったが実は日外いつぞやわしが数寄屋河岸を通り掛るとお前の娘子がわたくしも親の病中其の日に困り親共には内々ない/\斯様かような処へ出て袖乞をすると言って涙をこぼして袖に縋られ、誠に孝行な事と感服していさゝか恵みをしたのがかえって害に成って、不図とんだ災難をせて気の毒で有ったが、明日あす私が訴えて娘子は屹度きっと帰れる様にして上げるが、名前も明さずに金子かねを遣った処は誠に済まんが、明日は早々にお筆さんの帰れる様にして上げるから、金子を遣って苦労をかけた段はゆるして下さい」
 藤「何う致しまして、有難い事で、お礼を云いなよ、殿様が下さったんだから心配はない」
 孫「はい、誠に有難う、心のうちわたくしは一生懸命に観音を信心致しました、どうも昨夜ゆうべ貴方少しうと/\致しまして夢を見て、観音様が私の枕辺まくらべに立って、助けて遣るぞ助けて遣るぞと仰しゃいました、目が覚めますと矢張りうちに寝て居ったので、不断其の事ばかり思って居るから観音様の夢を見たのだ、あゝ観音様も分らねえと神や仏を恨む様な愚痴を云って居ましたが殿様が出ておれが遣ったと云って下さいますればお上に於いてもお疑いは無い事で、お筆は免されて帰れますが、少しも早く、成ろう事なら今晩帰る様に」
 武「今日はちっと遅いから明日あした屹度帰す、是は誠に心ばかりだが……娘は明日屹度取戻してお前のうちへ帰るようにして上げるが、此金これほんの心ばかりだ、是は決して不正金でもなんでもない仔細の無い金子かねだから、どうか心置きなく使って下さい、わしが遣ったに違いない」
 藤「誠に恐入ります、是は何うも娘を帰して下さるのみならず多分の金子かねを……」
 武「いや沢山たんとはないたった十金だから、なんあったかい物でも買っておあがり」
 藤「是は恐入ります、おい孫兵衞さん旦那様が十両下すったよ」
 孫「十両よりはお筆を早く帰して下さい」
 藤「そんな事を云うものじゃアない親父は少し取逆上とりのぼせて居ますので」
 武「えゝお家主一寸自身番まで一緒に行って貰いたい」
 藤「へえ、自身番はすぐ其処そこで」
 武「少し御相談が有るから、じゃアおとっさんわしは帰る、明日あした屹度お筆さんを帰すよ心配しちゃアいかん、心をしっかり持っておいで、大丈夫だから」
 藤「はい有難う存じます、た多分のどうもお恵みで有り難う存じます」
 武「さ、行きましょう」
 藤「へえ、じゃアいかえ孫兵衞さん、今たくの何をよこすから、旦那と一緒に自身番まで往って来るから、此方こちらいらっしゃいまし、板ががた付いて居ます、なおそうと存じて居ますが、つい大金が掛りますので、何卒どうぞ此方へ」
 武「はい/\」
 是から路地を出て町内の角の自身番まで参り、
 藤「誠に爺嗅い処で、何うか此方へ」
 武「いやもう構ってお呉れでない心配をせんがろしい、え明日あしたわしが奉行所へ出て私が金子かねを遣ったに相違ない事を訴えれば、仔細はない、が長屋に事の有る時は支配を致してる処のお家主の御迷惑はお察し申して居る」
 藤「へえ実はわたくしも心配致して居ましたが、殿様が遣ったと仰しゃって下さいますれば何も仔細ない事で」
 武「明日は少し早く四ツ時分から腰掛へ出て居て貰いい」
 藤「へえ/\四ツ時分からへえ成程」
 武「えゝ此の近辺でなんですかえ、金満家かねもち何処どこですな」
 藤「えゝ金満家と申しますと」
 武「いえさ、町内で金満家の聞えの有るうちは」
 藤「左様でございますなどうも太刀伊勢屋たちいせやなどは大層お金持だそうで」
 武「他には」
 藤「質屋で伊勢銀いせぎんと云うが有ります」
 武「じゃア伊勢銀の方に仕様」
 藤「是からお出でに成りますなら御一緒に参りましょうか」
 武「いや一緒に行かんでも宜しい、エ、明日お筆さんをお前が引取に来なければならんから、組合を連れて印形いんぎょう持参でおいでを願いい」
 藤「宜しゅうございます、承知致しました」
 武「あれは天正金てんしょうきんで有るか無いかは明日出れば分ります、大きに御厄介で有った」
 藤「まアお茶を」
 武「いえ宜しい、左様なら」
 すうっと帰って仕舞いましたからなんだか家主にも薩張さっぱり分りません。家主の藤兵衞はあれ程の殿様だから嘘もくまい、しかしよもやあの人が盗賊では有るまい、それにしてもう云う事であの金がの人の手に這入ったか、と考えて見たが少しも分りません、まさか彼奴あいつが盗賊ならわたくしが泥坊でござると云って奉行所へ出る気遣いは無いが何うしよう。と町代ちょうだい與兵衞よへえという者と相談の上で四ツ時に町奉行の茶屋に詰めて居ります。四ツ半に成っても来ません。
 與「藤兵衞さん」
 藤「えゝ」
 與「なんだかお前の云う事はあてにならねえ、だ来やアしねえ、んだか変だぜ」
 藤「だって誠に品格ひんい、色白な眉毛の濃い、目のさえ/″\した笑うと愛敬の有る好い男の身丈せいのスラリとした」
 與「男振や何かは何うでもいが是は来ないぜ」
 藤「うですな、おやお隣町内の伊勢銀さん何うです」
 芳[#「芳」は底本では「若」]「なに盗賊が這入りまして金を二百両盗まれましたから訴えるんで、うちは大騒ぎです」
 藤「昨夜ゆうべ盗賊が、へえー、何処どこから這入りました、家尻を切ったって、へーえ何うもそれはとんだ事でしたな、おだい芳造よしぞうさんですか、それはまア不図とんだ御災難で」
 芳「へえ、ひどい目に遭いました」
 藤「少しも知りませんでげした」
 芳「土蔵や何かは余程気をけますんですが」
 藤「へえー」
 と話をして居ります処へくだん武家さむらいが雪駄でチャラリ/\腰掛へ這入って来ました。
 藤「おや是は入らっしゃいましそれ見なせえ嘘う吐くものか入らしった、さどうぞ此方こちらへ」
 武「昨日さくじつは色々お世話に……今日こんにちは早くから出ようと思ったが少々余儀ない事で友達に逢って暇乞いとまごいなどをして居たんで少々時刻が遅れてお待たせ申して済みません」
 武「えゝ此のお方は」
 藤「えゝ組合の名主代で」
 武「大きに御苦労」
 與「えへゝゝ町内の小間物屋の娘をお助け下さり有難う存じます」
 武「はい御奉行のお退出さがりまでは未だ余程あいだが有ります」
 藤「えゝ殿様一体あの一件はう云う事なんで、へゝゝ附かん事を伺います様だが、何ういう理由わけかあの金子きんすをお上では不正金だって、三星の刻印が打って有るなどと申しますが」
 武「うむ、彼金あれは芝赤羽根の中根兵藏方の家尻を切って盗んだのが丁度十二月十二日の晩でね、八百両取ったんだ」
 藤「へえー、其の盗賊が知れませんので」
 武「いや其金それを取った賊は拙者だ」
 藤「えへゝゝ御冗談を、えへゝゝ」
 武「いや全くだ、何うも、悪い事を誰も知らん者は無い、賊を働くは悪い事で天道に背くとは思いながら、知りつゝ此の賊になるもねお家主、是は皆前生ぜんせいの約束事かと思う、悪いからめようとしても止められんね、これは妙なもので、十四の時からわしは盗賊をます」
 藤「えへゝゝ御冗談ばかり」
 武「いや冗談じゃアない、実は中国の浪士で両親共逝去なくなって伯母の手許に厄介に成ってったが十四歳から賊心をおこして家出をなし長い間賊を働いて居ったが是まで知れずに居ったのだがね」
 藤「へえー全く殿様が」
 武「あい、何うも止めようと思っても止められんものだね、わしが取った金を遣ったんだとう云って出れば、お筆さんの助からん事は有るまい、私も長らく他人ひとの物を盗み取って旨い物を喰いい着物も着たが、金子かねを沢山取った割合には夫程それほど栄耀えようはせんよ、みんな困る者に恵んだ方が多い、可哀想だと思っては恵み、おのれの罪を重ねる道理だから止そうとは思い/\止められんと云う処が是が因果じゃな、前世の約束事で有ろう、もう天命を知りこゝらが丁度宜い死に処だ、私は廿九に成りますよ」
 藤「へえー、えへゝゝ、へえー」
 武「名乗って出てお上の御処刑を受けた跡でお題目の一遍もげてお呉れ」
 藤「へえ、途方もない御冗談ばかり」
 武「いや冗談じゃア無い全くだ、其方そちらのお方は」
 藤「是は伊勢銀と申す町内の質屋の手代でげすが、昨晩盗賊が家尻を切りましたので今日こんにちお訴えに参って居りますので」
 というと武士さむらいは平気で、
 武「左様かすぐに分りますよ、昨夜お前さんの処の家尻を切ったのはわしだよ」
 芳[#「芳」は底本では「若」]「え、貴方、へえー」
 武「それは気の毒千万な、お手数をかけて、全くはお家主が彼家あすこは金持だとのお指図で……」
 藤「わたくしは其んな事は云やアしません、驚いたなア」
 何うも沈着おちついたもので、是から八ツの御退出おさがりから一同曲淵甲斐守公のお白洲へ出ました、孫兵衞の娘お筆も引出ひきいだされ、訴えの趣きを目安方が読上げますると甲斐守様がお膝を進められまして、
 甲「備前岡山無宿月岡幸十郎つきおかこうじゅうろう
 幸「へえ」
 甲「其の方が訴え出でたる趣きは十一月廿二日の芝赤羽根勝手ヶ原中根兵藏方へ忍び入り、家尻を切って八百両盗み取ったる金子の内を、数寄屋河岸の柳番屋の蔭に於て是なる筆に恵み与えたるに相違なく、筆には毛頭罪なき事であればおゆるしを願いたき趣を訴え出でたるが全く其の方が盗み取ったる金子を是なる筆に遣わしたに相違ないか」
 幸「えゝ先夜はわたくしが柳番屋の蔭を通り掛りますると、是なる筆が私の袖に縋って涙をこぼしながら頼みます故、何故なにゆえ袖乞をするかと尋ねましたら、父が長らくの患い、腰が抜けて起居たちいも自由ならず商売も出来ませんので其の日に追われ、わずかな物も売尽して仕方がなく明日あした米を買って与える事が出来ませんと、真に袖を絞って泣いての頼み、真実おもてあらわれましたから、あゝ感心な事じゃと存じまして、つい刻印金とは存じて居ながら、是なる娘に恵み与えました金子がかえって娘の害と成りまして、長らく病んで居ります処の親を一人残して入牢仰付おおせつけられたは如何にも筆へ対して手前気の毒な思いを致しました、筆には決してとがのない事でございますからうか町役人共へお引渡しに相成りますれば有難い事に存じます」
 甲「うむ、是れなる筆に何両の金子を遣わした」
 幸「えゝ其の勘定はしかと心得ませんが五十金足らずかと心得ます、唯小菊の上へ掴み出して与えました事ゆえ勘定は確とは心得ませんが、残余あとの使い高に依って考えますと五十金足らずかと心得ます」
 甲「うむ、此の者に貰ったに相違ないか、面体めんていを覚えて居るか」
 筆「其のは頭巾を被っていらっしゃいましたからお顔は覚えませんがお声で存じて居ります、頂いたに相違ございません」
 甲「うむ、町役人」
 藤「へえ」
 甲「此の筆なるものゝ父は長らく病中夜分よるもおち/\眠りもせずに看病を致して、何もも売尽し、其の日に迫って袖乞に迄出る事を支配をも致しながら知らん事は有るまい、全く存ぜずに居ったか」
 藤「つい心附かずに…」
 甲「たわけ、其の方支配を致す身の上で有りながら、其の店子たなこと云えば子も同様と下世話で申すではないか、其の子たる者のかゝる難儀をも知らんでるという事は無い、殊には近辺の評も孝心な者で有ると皆々が申す程の孝心の娘なれば、其の方心に掛けて筆を助けて遣らんければならぬ、それが手前の役じゃ、貧に迫って難渋なれば難渋の由を上へ訴えておすくいを乞うとか何とか訴出れば上に於て御褒美もくだし置かれる、しかるを打捨て置いて袖乞に出る迄の難渋をかけると云うは、其の方不取締ふとりしまりで有るぞ」
 藤「お……恐れ入りました」
 甲「筆其の方は見ず知らずの者より大金を貰い受け、紙をひらいて見たら多分の金子が有ったなら、早々町役人同道にて上へ訴え出なければならん処を、隠し置いて其の金を使いしは不届至極で有る、けれども其の日/\に差迫って、明日みょうにちは父に米を買って与える事も出来ぬ処から、其の金子を以て米薪に代えて父を救った其の孝心によって父を思う処から、悪い事とも心附かず迂濶うっかり其の金を使い是から家主と相談の上で訴え出ようと云う心得で有ったが、其のうちに勘次郎という者が其の方の手許に金子の有る事を知って盗み取ったが、全く訴え出ようと心得てる内に其の金を取られたので有ろうな」
 とお慈悲な事でございます。

[#「十」は底本では「九」]


 お筆は漸々よう/\顔を上げまして、
 筆「はい左様で」
 甲「うじゃ町役人まちやくにん
 藤「全くは是から訴えようと内々ない/\下話したばなしもございましたので、処を盗み取られましたんで」
 甲「これ下話が有ったら何故なぜ訴えぬ」
 藤「いえ是から下話を致そうかと考えて居りましたんで」
 甲「なんだ、筆なる者は罪もなく殊に孝心な者故助けいとて訴え出でたる幸十郎はと神妙の至りで有る、筆とがめも申し付けべき処なれども、其の親孝心にでゝ上に於ても格別の思召おぼしめしを以て此のまゝ免し遣わす、立ちませえ」
 筆「はい」
 と立とうとする途端にびいんという仮牢の錠の開く音が頭上に響いて、びっくりするうちに大戸をガラ/\と開けて仮牢から引出ひきいだされましたは、禿げた頭の月代さかやき斑白まだらになりまして胡麻塩交りの髭が蓬々ぼう/\生え頬骨が高く尖り小鼻は落ちて目も落凹おちくぼみ下を向いて心のうち或遭王難苦わくそうおうなんく臨刑慾寿終りんけいよくじゅしゅう念彼観音力ねんぴかんのんりき刀尋段々壊とうじんだん/\え或囚禁枷鎖わくしゅうきんかさ手足被※(「木+丑」、第3水準1-85-51)しゅそくぴちゅうかい念彼観音力ねんぴかんのんりき釈然得解脱しゃくねんとくげだつ、と牢のなかでも観音経かんのんぎょうんで居たが今ヒョロ/\と縄に掛って仮牢から引出ひきだされるを見ますると、三年以前に別れた実父の下河原清左衞門でございますから何う云う訳で此の有様はと、はッと思いまして、
 筆「おとっさん」
 と云い掛けると清左衞門が、むゝと眼で知らせますから、
 筆「はい」
 と泣きい程かなしいのをこらえて砂利の処へぺたぺたと坐りました。明奉行めいぶぎょうだから早くもそれと見て取って、
 甲「筆暫く控えろ」
 筆「はい/\」
 甲「是なる浪人者を其の方は見知りるか」
 筆「はい、い、え」
 甲「隠すな、隠すと為にならんぞ、是なる浪人下河原清左衞門は、長谷川町の番人喜助を毒殺致した罪に依って長らく入牢仰せ付けられ、再度の吟味に逢うといえども白状致さぬ、毛頭覚えはないとのみ、しかれば主名を明かせと云えば武士さむらいの道が立たん、士道が立ち難いに依って主家のお名前は仮令たとえ身体が砕けても白状を致さぬと申し張ってるが、是は其の方の伯父か」
 筆「いゝえ」
 甲「父か」
 筆「いゝえ」
 甲「何故なぜ隠す、主家の名前を申せば免して遣わす、其の方見知りの者で有れば申せ此の者が助かる事で有るぞ、其の方は元築地辺に居って何か災難に依って入水致した処を助けられたのが只今の孫右衞門で有る由上に於てとくと其の辺は調べが届いてる、孫右衞門は養父じゃな、是なる清左衞門は其の方の実父で有ろう」
 筆「はい、……いゝえ」
 云わんと致しますると清左衞門が目で知らせるから口をく事が出来ません。
 甲「何故言わぬ、此の者は其の方と面体恰好がう似てるぞ、其の方がしいて隠すと此の者は重き刑に行われるが、其の方の実父なれば、清左衞門の口から士道立ち難いによって申せまいが、其の方が申すに仔細はない、其の方の実父ならば実父だと申せば宜しい、実父と申すが悪いならば此の者の主家の名前を申せ、其の方が申すに仔細は無い事で有る、何処どこまでも云わんで居ると此の儘此の者を無実の罪にくるしむるは不孝で有ろうが」
 筆「はい/\申し上げます」
 側から藤兵衞が低い声で、
 藤「云いなよ/\、あゝやっておやわらかに仰しゃる事だから、云わないとけないよ、隠し立てをしちゃア彼方あっち盗賊どろぼう此方こっちも盗賊、う幾らも盗賊と心易こゝろやすくしちゃア困るから云いなよ」
 筆「はい、実はわたくしの血を分けました親共でございます」
 と白状を致しました。其の時御奉行は、
 甲「うむ、然うじゃろう、いずれの藩じゃ主名を申せ」
 筆「はい、巣鴨すがも傾城けいせいくぼ吉田監物よしだけんもつの家来下河原清左衞門と申す者でございます」
 甲「うむ、何故なにゆえ屋敷をいでて浪人致した、主人の不興でも受けて追放を仰せ付けられたか何う云う事じゃ」
 筆「少々御主人様の事に就きまして親共が諫言かんげんを申した事がございます、其の諫言が却って害に相成りまして不興を受けておいとまになりましたが、父は物堅い気性故、仮令たといしゅうでも家来でもお家の為を思う者を用いなければ止むを得んから主家しゅかを出る、飢死うえじにしても此の屋敷には居らんと、重役の者と争論いさかいを致しまして家出を致しまして四ヶ年程浪人致して居りました」
 甲「うむ、主家にようの事が有ったか其の方わきまえてるか」
 筆「深い事は存じませんが、御妾腹おめかけばらの」
 と云い掛けると清左衞門が顔でしきりに電光いなびかりをして居ります。
 甲「清左衞門控えろ、此の者が申すに仔細はない、其の方が口外致せば故主こしゅの非をあぐる事になるかもしれんが、筆の孝心より申すのじゃ仔細はない、控えて居れ、ふむ、主家の妾の腹に宿した子が有ったと」
 筆「はい、お妾の腹に出来ました鐵之丞てつのじょうと申します者を世にだそうというお妾の悪計たくみに附きました者もございまして、御本腹の金之丞きんのじょう様を毒害しようと云う悪計もございましたと云う事は薄々聞きました事で」
 甲「うむ、其の方に叔父が有るか」
 筆「はい、ございます」
 甲「是なる清左衞門の兄で有るか弟か」
 筆「弟でございます」
 甲「うむ、それはまだ監物の屋敷にるか」
 筆「未だるでございましょう」
 甲「吉田監物家来下河原清左衞門、其の方は武士道が立難いに依って身体のひしびしおになり骨が砕けても云わんと申したが娘が親を助けいと云う孝心から此の事を申したのじゃから其の方において武士道の立たんと申す事はいさゝかもない、筆、叔父の名は園八郎そのはちろうと申すで有ろうの」
 筆「はい園八郎と申します」
 甲「能く申した今日こんにちは此の儘下げ遣わす、こら町役人ちょうやくにん筆をしかと預け置くぞ、明日みょうにち改めて呼びいだすから左様心得ろ」
 ○「かしこまりましてございます」
 甲「双方立ちませえ」
 と云うので双方ともに起ち、下河原清左衞門は仮牢へ這入り、お筆は町役人が預かって帰りました。孫右衞門の悦びは一通りでありません。翌日になりますと、新吉原町辨天屋祐三郎抱え紅梅ならびに下河原園八郎という清左衞門の弟をお呼出しに相成るという一寸一息つきまして。さて其の次の日は、吉田監物家来下河原園八郎がお呼出しに相成り、縁側の処へ上下かみしも無刀で出て居ります。曲淵甲州公は御席ごせきに就きましたが、辨天屋の抱え紅梅は白洲迄は出て居ったがまだお呼び込みにはなりません。
 甲「吉田監物家来下河原園八郎」
 園「はっ、罷出まかりいでました」
 甲「其の方は三ヶ年以前の十一月三日、長谷川町の番人喜助に銘酒じゃと申して徳利とくりを持参致して毒酒を置いて帰り候由、番人喜助の女房梅なる者より訴えに相成ってるが、それに相違有るまい、うじゃ」
 之を聞くと園八郎は額へ青筋を出しまして顔色かおいろを変え、袴の間へギュッと手を入れて肩を張らし、曲淵甲州公の顔をじっと見詰めて居りましたが、
 園「是はしからん仰せにござります、長谷川町の番人に毒酒を与えましたなどと云うは毛頭覚えない事でございます、けしからんお尋ねを蒙るもので」
 甲「控えろ、其の方如何様いかように陳じても天命はのがれ難い事で有る、其の方は監物の妾むらと申す者と密通致し、村の腹へ宿したる鐵之丞を家督に直さんが為に、本腹の金之丞へ毒薬を授け金之丞を毒殺致して妾の腹に出来たる鐵之丞を家督に直さんというたくみを致した事は上に於て篤と調べが届いてるぞ」
 園「是は何うも思い掛けないお尋ねを蒙りますもので何故なにゆえに左様な事を」
 甲「黙れ、其の方如何様に陳じてももう遁れる道はないわ、辨天屋祐三郎抱え紅梅を呼出よびいだせ」
 是から紅梅が出て来ましたが娼妓などは立派に着飾って出るもので、お白洲に出るような姿ではない。ぜん申し上げます通り阿古屋あこや琴責ことぜめの様な姿でかんざしを後光の様にさしかざしてるから年を取って居ても若く見えます。ずいと出まして、御奉行の方をはすに向いて坐って居ります。
 甲「辨天屋祐三郎抱え紅梅、勇之助代かや、差添さしそうたか」
 かや「差添いましてございます」
 甲「其の方亭主喜助に毒酒を置いて参った侍は是なる侍で有ろう、篤と面体を見い。近う寄って面体を見い」
 ずいと来て、
 紅「あらまア何うもまア図々しいじゃア有りまへんか、あんな高い処にあがって真面目な顔をしてえて上下かみしもを着てえてさ、なんだッて此んな悪党に上下なんぞを着せて置くんですよ、牢の中へ入れたんじゃア有りまへんか」
 甲「いや前に取押えて入牢申し付けたは清左衞門と申す者じゃ」
 是から清左衞門をお呼出しに相成りまして、
 甲「兄弟で有るから能くるが、能く見ろ違うて居るだろう、篤と面体を見定めよ」
 という御沙汰で、紅梅は熟々つく/″\両方を見較べて清左衞門に向い、
 紅「まア何うも済まない、堪忍してお呉んなはいよ、てえるったって本当に能く肖て居るんだものを、成程貴方の方が少し老けて居りますがあんまり能く肖て居るからおはんだとばかり思って済まない事をしましたが、此ん畜生、うちの人に毒を盛って是はお上のおあがりの御酒だから惜しいんだなんぞと云やアがって、そんな高い処に上げて置かずに此処こゝおろしてお呉んなはいよ、私ゃアしがみ附くよ」
 甲「控えろ、仮令たとい三寸不爛ふらん舌頭ぜっとうを以て陳じても最早逃れられぬぞ、是なるは番人喜助の女房梅で有る、見覚えが有るかうじゃ」
 と云われ流石さすがの園八郎も差迫って紅梅を見てこう下を向いて居ります。
 甲「何うじゃ、是にても尚陳ずるか、相違有るまい何うじゃ」
 園「え、恐入りましてございます」
 甲「縄打てえ」
 と云うとトンと縁から下へ突落つきおとされるとすぐにバラ/\と来て縄を掛ける。最早のがれる道はない、毒薬を盛ったに相違ないと云う事がすみやかに分りましたから、此の者はしゅう殺しに当りますから、磔刑はりつけになるべき処を、吉田監物の家が断絶になるから家事不取締りで、此の園八郎もしょうのお村も斬罪に処せられ、吉田監物は半地はんちに残したはお上の慈悲でございます。又下河原清左衞門が助かると云うのは、全くお筆が孝行のしからしむる処で、親子諸共に罪を免されて出る。の月岡幸十郎は訴え出まして、残らず事柄が分りますと云うのは、彼の伊勢銀に這入りまして家尻を切って二百両の金子かねを取ったのも此の者で、幸十郎は後に相当のお仕置に相成りました。下河原清左衞門親子は立帰り、主家は半地にお取立てに成りましたが、奥方の耳へも此の事が這入りまして、清左衞門親子はお召返しに相成りましたから、大恩が有るというので、かの腰の抜けた孫右衞門をも屋敷へ引取り、十分介抱して之を見送り、後孫右衞門は死去みまかりましたが、下河原の家はお筆が養子を取って家督を致しまするというお芽出度いお話でございます。
(拠酒井昇造速記)





底本:「定本 圓朝全集 巻の一」近代文芸・資料複刻叢書、世界文庫
   1963(昭和38)年6月10日発行
底本の親本:「圓朝全集卷の一」春陽堂
   1926(大正15)年9月3日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
ただし、話芸の速記を元にした底本の特徴を残すために、繰り返し記号はそのまま用いました。
また、総ルビの底本から、振り仮名の一部を省きました。
底本中ではばらばらに用いられている、「其の」と「其」、「此の」と「此」、「の」と「あの」は、それぞれ「其の」「此の」「彼の」に統一しました。
また、底本中では改行されていませんが、会話文の前後で段落をあらため、会話文の終わりを示す句読点は、受けのかぎ括弧にかえました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「孫右衞門」と「孫兵衞」の混在は、底本通りです。
※表題は底本では、「政談せいだんつきかゞみ」となっています。
入力:小林 繁雄
校正:かとうかおり
2000年5月9日公開
2016年4月21日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「ころもへん+纒のつくり」    535-10


●図書カード