これは三
題噺でございます。○「ひどく
降るな、
久しいあとに
親父が
身延山へ
参詣に
行つた時にやつぱり雪の
為めに
難渋して木の下で
夜を
明したとのことだがお
祖師様の
罰でもあたつてゐるのかしら、
斯う
降られては
野宿でもしなければなるまい、
宿屋は
此近所にはなし、うム
向うに
灯が
見えるが
人家があるのだらう。雪を
踏み
分け/\それに
近よりまして○「
御免なさいまし。女「どなたです。○「
私は
身延山へ
参詣に
参つた者ですが、雪の
為めに
難渋して
宿屋もなにもないやうでございますが、まことに
何うも
御厄介でございませうが
今晩たゞ
夜を
明す
丈けでよろしうございます、
何うか
御厄介になりたいものでございますが、
如何でございませう。女「それはお気の毒さまですねえ、お
入んなさいまし、別に
御馳走と
云ふものはありませんが、そこは
開きますからお
入んなさい。○「はい
有難うございます。
笠を
脱つて雪を
払ひ
内に
入ると、女「
囲炉裡に
焚火をしてお
当んなさいまし、お
困んなすつたらう
此雪では、もう
此近は
辺僻でございまして
御馳走するものもございません。○「
何ういたしましてお
蔭様で助かりましてございます。女「そこに
木の
葉がありますよ、
焚付がありますから。
囲炉裡の
中に
枯木を
入れフーツと
吹くとどつと
燃え
上りました。その火の光りでこゝに
居ります女を見ると、
年頃は三十二三
服装は
茶弁慶の
上田の
薄い
褞袍を
被て
居りまして、
頭髪は
結髪でございまして、
目もとに
愛嬌のある
仇めいた女ですが、
何うしたことか
咽喉から
頬へかけて
突いた
様な
傷がございます。女「そこへ
草鞋を
踏込んでお
当んなさいまし。○「
有難うございます……お
内儀さんえ、
間違つたら
御免なすつて下さいまし、
人違ひと
云ふことはございますから、あなたはお言葉の
御様子では
此の
鰍沢のお
生れではないやうでございますな。女「さうですよ、
江戸で
生れたんですよ。○「
江戸は
何の
辺でございますか。女「
生れは
日本橋の近所ですが
観音様のうしろに長い間ゐたことがありますよ。○「へえ
観音様のうしろに……あなたは
吉原の
熊蔵丸屋の月の
戸華魁ぢやアございませんか。女「おや
何うしてわたしを
御存知です。男「
華魁ですかどうもまことにお
見受け
申したお
方だと
存じましたが、
只今はお一人ですか。女「いえ
配偶者があるんですよ。男「
左様でございますか、
私は
久しい
以前二の
酉の時に
一人伴があつて
丸屋に
上り、あなたが出て
下すつて親切にして
下すつた、
翌年のやはり二の
酉の時に
久し
振りで
丸屋へ
上ると、あなたは
情死なすつたと
云ふことで、あゝ飛んだことをした、いゝ
華魁であつたが
惜しいことをしてしまつた、それからあなたの
俗名月の
戸華魁と書いて毎日
線香を
上げて
居りますが夢の
様でございます。女「
実はね
情死を
為そこなひました、
相手は
本町の
薬屋の息子さんで、二人とも助かりまして
品川溜へ
預けられて、すんでに
女太夫に出る
処をいゝあんばいに
切り
抜けてこゝに
来てゐますが。男「
左様でございますか、
今日は
旦那は。女「
商ひに
行つて
留守でございます。男「
何んの
御商売でございます。女「
是と
云ふ
職はありませんが
薬屋の息子でございますから、
熊の
膏薬を
練ることを知つて
居りますから、
膏薬を
拵へて
山越をしてあつち
此方を
売つてゐるのでございます。男「へえー
芝居にありさうですな、
河竹新七さんでも書きさうな
狂言だ、
亀裂皹を
隠さう
為めに
亭主は
熊の
膏薬売り、イヤもう
何処で
何う
云ふ
方にお目にかゝるか知れません。いくらか
遣らうとしたが
小出しの
財布にお
銭がありませんから
紺縮緬の
胴巻の中から出したは三
両、○「お
内儀さんまことに
失礼でございますが、
何かお
土産と
云つた
処で
斯う
云ふ
仕儀でございますから、
御主人がお
帰りになつたら
一口何うぞ
上げて下さいまし。女「すみませんねこんな御心配をなすつては、あなたお
酒は
上りますか。○「
些し
位はいたゞきます。女「こゝは
田舎でいやな
香がありますが
玉子酒にするとその
香を消すさうでございます、それに
暖つて
宜うございます。
燗鍋を
囲炉裡にかけて玉子を二ツ三ツポン/\と中に入れましたが
早速玉子酒が
出来ました。女「
此湯呑でお
上んなさいまし、お
酌をしませう。○「
久し
振りであなたにお目にかゝつてそのお
酌で
頂くのはお
祖師様の
引き
合せでございませう、イエたんとは
頂きません。女「さぞくたびれたでございませう、
此次の
座敷はきたなくつて
狭うございますが、
蒲団の
皮も
取り
替へたばかりでまだ
垢もたんと
附きませんから、
緩くりお休みなさいまし、それに
以前吉原で
一遍でもあなたの所へ出たことがあるんですから、
良人に知れると
悋気ではありませんが、
厭な顔でもされるとあなたも
御迷惑でございませうから
内々で。○「へえーいえもうやきもちを
焼かれる
雁首でもありませんが、
人情でございますから、まるつきり見ず知らずで
御厄介になります。女「お休みなさいまし。○「それでは
御免下さい。
次の
間に
行く。あとに
女は
亭主が
帰つて
来たならば
飲ませようと思つて買つて置いた酒をお客に
飲ましてしまつたのですから、買つて置かうと
糸立を
巻いて
手拭を
冠り、
藁雪沓を
穿きまして
徳利を
持つて出かけました。
入れ
替つて
帰つて
来たのは
熊の
膏薬の
伝次郎、やち
草で
編んだ
笠を
冠り
狸の
毛皮の
袖なしを
被て、
糧切は
藤づるで
鞘が
出来てゐる。これを腰にぶらさげ
熊の
膏薬の
入つた箱を
斜に
背負ひ
鉄雪沓を
穿いて、伝「オイおくま、オイお
熊どこへ
行つたんだな、おくま、
手水場か、めつぽふけえ
降りやアがる、
焚火をしたまゝ
居ねえが
今頃どこへ
行つたのだらう、
女房は
堅気にかぎると
云ふが、あんな
女を
嚊アにすると三年の
不作だ。
し
合羽に
笠を
脱いで
壁にかけ、伝「
何んだ
玉子酒をして
食ひやがつて、
亭主は
山越をして
方々商をしてゐるに、
嬶アは
玉子酒をして
食やアがる、まだあまつてゐるが
飲んでやれ、オイ
誰だおくまか、どこへ
行つたんだ。女「ちよつと
徳利を
取つておくれ
雪沓を
踏み
込んで……
紐が切れたんだよ。伝「いろんな事を
云つてやアがる、
待て/\、ウームアヽ痛いウム、オイお
熊躯中しびれて……こつちへ
入つて
背中を二ツ三ツ
叩いてくれ。女「
何うしたんだな、しやうがねえな、
方々へ
行つて
酒を
飲むからそんなことになるんだな。伝「
飲やアしねえ、
今日は
治衛門さんのところへ
行つても
酒は
飲まなかつた、
家に買つてあるのを知つてゐるから。女「それでも
酒くさいよ。伝「
燗鍋に
玉子酒があつたからそれを
飲んだ。女「エツ、
玉子酒を
飲んだの……しやうがねえな、これはいけねえんだよ、お
前が
拵らへた
痳痺薬が
入つてゐるんだよ。伝「ウム、おくまてめえは
己を殺す
了簡か。熊「
何を
云ふんだな、さつき
身延山へお
参りに
来た人が道に迷つて
此処に
来たが、それは
吉原にゐた時に出た客なんだよ、三
両包んで出したが
跡に
切餅(二十五
両包)二
俵位はある
様子、それで
玉子酒に
仕掛をして
飲ましたが、その
残をお
前が
飲んだのさ。これを
次の
間で聞いた客は
驚いて
逃げようとしたが毒がまはつて
躯が自由になりません。○「太い女だ、ひどい
奴があるもんだ、どうかしてもう一度
江戸の
土を
踏み、
女房子に
会つて死にたいものだ、お
祖師様の
罰でも
当つたのかしら。
逃げ
様として
躯を
戸に
当てたから
外れると
戸と
共に庭にころがり落ちたが、○「
南無妙法蓮華経、
妙法蓮華経。とお
題目を
唱へながら雪の中に
這ひました。その時つい気のついたは
小むろ
山から
頂いて
来た
毒消の
御封、これ
幸ひと
懐中に手を入れましたが
包みのまゝ口へ
入れて雪をつかんで
入れて
呑みましたが、
毒消の
御利益か、いゝあんばいに
躯が
利いて
来ました、
斯うなると
慾が出てまた
上つて
包を
斜に
背負ひ
道中差をさして
逃げ出しました。女「
野郎気がついたな、
鉄砲で
射殺してしまふ。これを聞いていよ/\
驚き
雪の
中を
逃げたがあとからおくまは
火縄筒を持つて追つて来ます。旅の人はうしろをふり向くとチラ/\火が見える。
前は
東海道岩淵へ
落す
急流、しかもこゝは
釜が
淵と
申す
難所でございます。お
祖師が
身延へ
参詣に
来ても
鰍沢の舟には乗るなとおつしやつた、しかしこゝより
外に
遁れるところはない
鉄砲で
射ち殺されるかそれとも助かるか一かばちか○「
南無妙法蓮華経」とお
題目をとなへながら流れをのぞんで飛び込みました。下につないであつた
山筏の上へ落ちると、
佩してゐた
道中差がスルリと
鞘走つて、それが
筏を
繋つた
綱にふれるとプツリと切れて
筏がこはれるとガラ/\/\と流れ出しました。○「
南無妙法蓮華経々々々々々々々」と
一心にお
題目をとなへてゐると
筏はだん/\くづれて自分の乗つてゐる一本になりました。そこへ追つて来たおくまは岩に片足をかけて
狙を
定めて
引きがねを引くとズドーンとこだまして
筒をはなれた
弾丸は
旅人の
髪をかすつて
向うの
岩角にポーンと
当りました。○「アツ
有難いたつた一本のお
材木で助つた。
(註。最初此話は芝居話でしたがおくまの弾丸をのがれての白を左に記して置きます、)
「思ひがけなき雪の夜に御封と祖師の利益にて、不思議と命助かりしは、妙法蓮華経の七字より、一時に落す釜ヶ淵、矢を射る水より鉄砲の肩を擦つてドツサリと、岩間に響く強薬、名も月の輪のおくまとは、食ひ詰者と白浪の深き企みに当りしは後の話の種ヶ島、危ないことで……(ドン/\/\/\激しき水音)あつたよなア――これでまづ今晩はこれぎり――。」
(一朝口演、浪上義三郎氏筆記)