童貞記

北條民雄




部屋の中で


 はかなくうら悲しい日が続く。万象を浮せる一切の光線は湿つて仄暗い。夕闇のやうに沈んだ少年の眼は空間にゆらぐ幽かな光線を視つめる。空気に映つた光線は静かに一つの映像を刻んで行く。光線は盛り上り広まり伸びて鮮明な像を少年の眼に映す。少年の眼はやがて閉されて心に映つた幻像の動きに見惚れる。じつと、じいつと視つめる少年の心が宙に浮き上つて空間をさまよふ。われを忘れんとした間髪、少年の眼はうるんで、ほろりと落ちる。数葉の枯葉のひとつひとつが、きらりと光つた露となつて眼に映る。切なげな溜息の一つが不意に出る。溜息が薄白く丸まつて又しても新しき像を築く。首を振つて幻を消さんとする努力も空しい。溜息は再び少年の口中にせり上つて来る。三度の溜息が口に上つた時少年は立ちあがつて歩き始める。

月光を浴びたる森の下で


 月光を浴びたる森の下に少年は佇む。蒼白く動かぬ少年の下駄先に森を割いた光りの一條が影を宿す。内に映つた椎の葉影が微風にゆれる。葉影は生を装つて地面を這ふ。腕を伸ばして少年は葉影の一枚を拾ひ取らうとする。影は巧みに少年の指にもつれて逃れる。逃してならぬと腰を及ばせて再び掴む。影は奇怪な敏捷さを有つて少年の拳の上に乗る。拳は蒼い陰影の中に空しく顫へる。刹那少年は不安を覚えて凡ての動作を中止して息を殺す。淵のやうに深い闇を作つた森の神秘に呑まれる感じが不安を募らせる。不安は少年の心に孤独の寂しさを教へる。何かを掴まねばならぬ。何かを。あるに違ひない。あるに違ひない。それを掴まねば自分は消える。風のやうに空しく自分は空間に浮き上る。早く早く、何かを――。少年ははつきり影のやうにはかない自分を知る。瞬間少年は自分の掴まねばならぬものを心に描く。力強く、力強く、しつかり抱擁せねばならぬものを少年は識る。

月光を浴びたる歩道で


 まるくうるんだ眼とかはいい唇が少年の心に映る。その小柄な肢体を自分は掴まねばならぬ。白い歩道は坦々と続く。小柄なS子は歩いて行く。一切の空間は何故に消失せぬか。処女と童貞は深くたわんだ二本の平行線を歩んで行く。たわんだ平行線は切断されることなく二人の重量を支へてゐる。少年は空を仰ぐ。月が光つてゐる。感情の嵐は月光の彼方で煙つてゐる。平和は少年の敵である。何よりも平行線を切断せねばならぬ。Sさん、この一語によつて平行線は切断されるに違ひない。言はねばならぬ。心を決して少年はSさんと心の中で言つて見る。Sさん。深い決意を口辺に沈めて言ふ。言葉は空間を無視してS子に響く。鮮かなるべきSさんといふ音響は悲しく意志の喪失した一個の咳としてのみS子の耳朶を顫はせる。少年の遠心性神経は中枢神経を無視してゐる。少年の口辺に上り来るものは深い溜息と咳に過ぎぬ。心臓は徒らに波を打つ。自ら破つた平和に自ら少年は苦しまねばならぬ。募つた嵐は秒一秒少年を虐げるに過ぎぬ。――依然として処女と童貞は平行線上を走る。平行線を破る武器は二つである。空間の消滅とSさんといふ言葉である。空間の消滅を願つても及ばぬとするなら、残された手段は一つである。Sさん、この言葉のみが二線の相交はる一点となるであらう。けれど少年の有つ感情の嵐は針路を失つてゐる。今や少年にとつて、Sさんの一語は鉄のやうに重くなつてゐる。
――一九三四・五・一三――





底本:「定本 北條民雄全集 上巻」東京創元社
   1980(昭和55)年10月20日初版
初出:「山桜」
   1934(昭和9)年7月号
※初出時の署名は「秩父晃一」です。
入力:Nana ohbe
校正:富田晶子
2016年12月9日作成
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