精神のへど

――手帳より――

北條民雄




「兄弟よ。汝は軽蔑といふ言葉を知つてゐるか? 汝を軽蔑する者に対しても公正であれといふ、公正さの苦悩を知つてゐるか?」
 諸君よ、諸君にこのニイチェの苦悩が判るか?

 過去幾千年の屈辱の歴史が、諸君の心臓を掻きむしりはしないか。諸君の心臓は破れはしないのか。諸君はまだ青空が見えるものと信じてゐるのか? 何処にも青空などありはしないのだ。

 兄弟諸君よ、君は君の足下に底知れぬ深淵が口を開いて待つてゐるのに気づいたことがあるか。そして諸君を救ふものが(おお決して青空にありはしないのだ)、その深淵に飛び込む以外にないとまだ悟らぬのか!

「昨夜北條氏の『いのちの初夜』を読んだ。(中略)これらの作者がもし私であつたら、書かずに胸中に畳み込んでおいたであらう。……最悪の場合の心理は誰にでもあるものだが、それをそのまま飛びついて書くといふことは、科学にならず感傷になる。」
 これは横光利一氏の言葉である。だが、横光氏よ、最悪の場合の心理のみが死ぬまで続いてゐる人間が存在するといふことを考へたことがありますか? いのちの初夜は私にとつて最悪の場合の心理でなく、実に最良の場合の心理であつた。

 私は次の言葉を引用しよう。悲劇の哲学――レオ・シェストフの言葉だ。
「――足場を失ふことが懐疑の始まりなのである。理想主義が現実の攻撃に対して無力であり、又、運命の意志のままに人が現実にぶつかり、美しい『先天的なもの』がすべて虚偽に過ぎないことを発見して驚いたときに、その時初めて懐疑の心が彼の内に湧き、古い空中楼閣の壁を一挙にして破壊するのである。ソクラテス、プラトン、善、人類愛、観念、――懐疑主義や厭世主義の悪魔から純な魂を守つてくれた聖人や天使の一群は跡形もなく消え失せ、人は地上の敵兵に直面して恐しい孤独を感じ、己に最も忠実な、親しいものも決して自分を救つてくれることが出来ないことを知るのである。
 悲劇の哲学が始まるのは此処からである。希望は永久に消え失せた。然も生きてゆかねばならず、生命はまだまだ長い――。」
 そして彼はドミトリイ・カラマゾフの言葉を引いて絶叫する。
「私はその夜沢山のことが判つた。私は汚辱の中に生きることが不可能なばかりでなく、かく死ぬことも出来ないのが判つた。」
 此の言葉が諸君に判るか? と、シェストフは激しい身振で叫ぶのだ。
 諸君は自然といふものを考へたことがあるか? と質問すれば、直ちに、考へたことがあると答へるだらう。だが、しかし私はまだ自然を真に見た者を一人も知らぬ。諸君はこの個我の宿中に穴を穿けたいとは思はぬのか、自然の向う側を見たいとは思はぬのか! 自然とは、調和とは、一体何か。私は私の周囲に押し寄せて来る敵を見た。おお何といふ敵の武装の美しいことよ。

 何か言ふといふことが、何か誤ることだと考へてみるがいい。自分の言つたことが絶対に他者には伝はり得ないと意識してみるがいい。ああ、あるものは意識ばかりだ。見えるものは心理ばかりだ。孤独の苦悩が諸君の頭を打つ時はないのか?
 それなら私は何のためにこれを書いたのか? 何のためでもない、私はただ書いたのだ。だが、かういふ場合にごまかしといふものは大変役立つ。私も今ごまかしの言葉を吐かう――白紙といふものはそれ自体はただ白つぽいばかりのものだ。活字が乗つて初めて読むことが出来るのだ。活字を乗せるといふ人間の動作は、他の凡ての動作と同じやうに一つの遊びだ。お芝居だ。うまい言葉で言へば、厳かな儀式なのだ。

「詭弁は哀しきオナニーである。」
 と言つて詭弁を吐いた佐藤並太郎氏の皮肉に歪んだ顔のあはれさを見るがいい。

 クリストの教義によれば神の「義」を行ふもののみ救はれるといふ。だが何をもつて、これこそ義であると断定し得るのか? 更にまた例をもつて、これこそ悪だと断定し得るのか、理想主義の亡んだ今にして――。クリスト教にとつて第一義のものは「信」の一字であるといふ。だが諸君はかういふことを考へはしないか、つまり、神様はちつとも信じて欲しくはないかも知れない、と。ひよつとしたら、神様は信じられることに嫌悪を催していられるかも知れぬ。あまり信じられるので有難迷惑に困つていられるかも知れぬ――。これは決して冗談ぢやない。何故なら、さうでないと断言し得る支柱はどこにもないのだから。実際ドルゴルウキイの言ひ草ぢやないが「ねえ、一体諸君は僕を自分の後からついて来させるために、何をもつて誘惑しようといふんです? 一体諸君の道を歩いた方がいいといふことを、何で証明しようといふんです? 諸君の共同宿舎に於ける僕の個性のプロテストを、どう始末するつもりなんですか。」である。全く、どうにも証明の仕様はないのである。判るかね? どうにも証明の仕様がないといふことが――。

「私にとつて重要なことは、私自身が天国に行くことではない、御身を天国に連れて行くことなのだ。独りで楽しむ幸福など我慢がならぬ……。」
 とジイドは日記抄の中で言つた。実にそれは我慢のならないことではあらう。いや全く我慢のならぬことだ。これは本当のことだ。しかし、御身を天国に連れて行くことが可能であらうか? この我慢のならぬことも、やはり我慢せねばならぬ。これはつらいことだがどうやら人間の宿命であるらしい。連れて行くなどといふことは誰にだつて出来はしない。人々は勝手に歩いて行くだけだ。おまけに、独りで楽しむ幸福すらありはしない。

「伯爵を除いてはこの小説の総ての人物は皆有徳の人物で、また異常な美徳さへもつてゐます。しかし貴女はこれが確かに真実だと思つておいでなのですか? (中略)貴方はア・プリオリから、理論から、理想から出発なさる。そこから貴女の人生に対する温和な態度、貴女の清澄、即ち貴女の偉大さが生れるのです。――哀れな私は、まるで鉛の靴をはいたやうに地上に釘づけにされてゐるのです。すべてが私を掻き乱し、引き裂き、荒廃させます――。」
 一八七八年、六十歳を越えたギュスタフ・フロオベルが、ジョルジュ・サンドへあてた書簡の一節である。何もいはずに書き取つて置く。

 ほんとを言ふと、私は近頃だんだん夜と昼との区別がつかなくなつて行くので困つてゐるんだ。ことわつて置くが、これは少しも譬へごとではない。いつたい夜と昼との区別が、諸君につくのか? 誰だつてこの区別をつけることは出来ないのだ。諸君のうち、一人でも、俺は気狂ひぢやない、と言ひ切ることの出来る者がゐるか? ゐないぢやないか。それなら夜と昼との区別がどうしてつくのだ? はははは! ふざけちやいかん!





底本:「定本 北條民雄全集 下巻」東京創元社
   1980(昭和55)年12月20日初版
入力:Nana Ohbe
校正:伊藤時也
2010年9月12日作成
2011年4月15日修正
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