思へばここ数年来、年あらたまる毎に私の生活は苦痛を増すばかりであつた。十七の春、小林多喜二氏の「不在地主」を読んで初めて現実への夢を破られた私は、それ以来愚劣な人生と醜悪な現実を友として過して来た。夢は遠く消え失せ、残つたものは冷い鉄くづや、何の役にも立たない石ころばかりであつた。そしてエントロピーが極大限に達した瞬間を想像しては、にやにやと笑ふのであつた。それ故に癩の発病は私に対して大した力を持たなかつた。お前の病気は癩だと医者に言はれたとき、私はなんとなく滑稽になつてにやりと笑つたのを覚えてゐる。あれは四国の私の田舎の皮膚科病院の一室であつたが、その時私の体内の熱は平衡に達してゐたらしい。私は自分の体内に新しく癩菌といふ友人を発見して、恐しいといふよりも奇妙な楽しさを覚えてをかしかつたのである。しかし、この新しい友人のなんと執拗な力を持つてゐることか。私の熱平衡は徐々にくづれ、それまで私の理性の圧迫下で黙々と耐へてゐた「苦痛」といふやつが、少しづつ頭を抬げて、やがて理性に対決する力を持ち始めたのだ。そしてこれは必然私にペンを持たせた。私は文学といふものが初めて必要になつたのである。
「私は文学者、筆あるが故に筆を通じ、筆と共にゐるからこそ、ものを感じて来たのです。」
と、ギュスタフ・フロオベルは書簡に言ふ。筆と共にゐるからこそものを感じて来た――もし小説を書かなかつたら、私は今持つてゐる唯ひとつの夢をすら持ち得なかつたであらう。さう、苦痛は私に夢を与へた。そして夢あるが故に、苦痛はますます激しさを加へて行くであらう。
また新しい年をひとつ迎へた。二十四度目の正月である。二十三度目の正月よりも苦痛は深い。しかし苦痛が私を救つたのではないか。それなら苦痛とは何ものなのか。それは説明など出来ないものだ。ただ小説といふ武器をもつて追求して行くだけだ。これが年頭に際し、先づ私の頭に来る感想である。
「同情ほど愛情から遠いものはありませんからね。」
と私は佐柄木に言はせて置いた。同情と愛情とを混同するなかれ。私が欲しいものは愛情。同情など断じて私は求めはしない。
(未完?)