芸術と数学及び科学

三上義夫




 われらは今この表題を掲げて少しばかり見るところを説きたい。人あるいはいうであろう。数学ないし諸科学と芸術とは全く相反し、その相互の関係はかつて存するところはない。全然無関係なものであろうと。あるいはそうかもしれない。大体においては、そういう傾向もあるであろう。
 現にわが国には美術界に竹内栖鳳等を初め多くの有力な巨匠があるが、これらの美術大家が数学なり、他の科学なりに通じているという事実はない。九条武子、柳原白蓮等の女流歌人にしても、同時に科学者ではない。普通に芸術家たると同時にまた数学者、科学者たる者を求めるならば、全然絶無ではあるまいけれども、おそらく絶無に近いであろう。
 この種の関係から論ずるときは、数学、科学と芸術との間に直接の関係はないといってよい。これにはわれらも異論はない、何人といえどもすべて同感であろう。
 事情かくのごとくなるにかかわらず、われらはあえてその関係を論題に掲ぐることをした。無謀といえば無謀であろう。いかに無謀であろうとも、われらはこれを明らかにしなければならぬ。われらは歴史的発展の上において、すこぶる密接な関係あるべきことを思う。これを了解して初めて溌溂たる意義の流れていることが見られるのである。これをもし[「しも」、あるいは「すら」]了解し得ないでは、歴史の流れの真の意義はつかみ得られぬのである。われらはあえてこの点に向かい論歩を進める。

〈一 和歌と俳句〉

 わが国では江戸時代に多くの数学者が輩出した。多数の人物があるから、委細にこれを論ずるときは、種々雑多の分子が存したであろう。けれども江戸時代の算家について、芸術的の要素が多大に見られることはおおわれぬ。そのことについてはかつて「文化史上より見たる日本の数学」の篇中にも説き及ぶところがあった。
 中につきて、著しく目につくのは、江戸時代の算家には和歌や俳句の嗜みがすこぶる行き渡っていたことである。今村知商の『因帰算歌』(一六四〇)のごとく歌によって算術を記そうという企ても早くから見えている。
 一部の書物全体を通じてかくのごとき企てをしたものは、他に多く類例を求め難いけれども、書中に若干の詩歌を記したもののごときは、幾らも見られるのである。これらは初期以来の刊行算書中に、往々その例がある。
 関孝和、建部兄弟、松永良弼等のごとき諸大家がこの種のことに関係が有ったか無かったかについては、今ほとんどその証拠を得ることができない。それというのは年代がやや古く、多く史料の伝わらないからであったろう。幕末の諸算家になると、大概は和歌か俳句に、関係の無いものは無いというような有り様となる。山口和は越後水原すいばらの人で、広く諸国を遊歴したのであるが、その旅行の記事を見るときは、諸方で見聞した算題をも記しているが、また歌や俳句などをも盛んに記入している。これによりその人の趣味を見ることができる。奥州三春の算家佐久間※(「糸+贊」、第4水準2-84-63)つづくが諸国を遊歴した時にも、諸方で書画や詩歌を書いてもらった冊子を作ったのであった。この人の作に『千代見草』と題する歌集もある。
『社盟算譜』などの著者白石長忠も和歌を記したものが幾らも残っている。馬場正督、正統の父子は俳諧では其日庵と称して、宗匠であった。日光清瀧にその俳諧の碑が建てられている。
 川北朝鄰は内田五観門人として、関流宗統の算家であったが、俳諧においては馬場氏の伝を受け、晩年富士山下に隠棲して、多く富士の景色を詠んでいる。上州の萩原禎助は最も緻密な数学の研究家であり、風流気などありそうもない人であったけれど、それでも俳諧は盛んにやったものであった。和算家には詩を作った人はまれであるが、和歌や俳諧をやった人はすこぶる多い。もとより、ことごとくこれを網羅することはできない。

〈二 算額の現状〉

 諸国の神社仏閣に絵馬が多く奉納されていることは、人の皆知るところである。その絵馬には数学の題術を記し、円や三角など色彩を施して美装し、他の絵馬と同じような形式に仕立てて拝殿などに奉納したものも幾らもあった。明治初年の頃にはその数もずいぶん多かったというが、今では次第に廃滅して新しく奉納する者もなく、その数はなはだしく減少した。しかも今でもなお諸所で見られるものがある。ここにその例を述べてみよう。
 東京付近では府中の六所明神、大宮の氷川神社などがその例であり、少し離れては千葉の千葉寺、成田の不動、芝山の閻魔、それから上総の鹿野山、上州前橋の八幡宮、上信国境の碓氷峠における熊野神社等を数えることができる。上州の妙義神社にもまたこれを見る。一の宮にも数面が現存する。これらは私の実見したものである。塩釜の御宮にも大きな額がある。
 京阪地方になると、京都の北野天満宮、安井神社、伏見の御香宮などに残ったものがあり、京都の祇園すなわち八坂神社には現存最古の算額がある、すなわち元禄年中のものである。これらは京都であるが、大阪には住吉に大きなのがある。
 少し西して播州に入ると、尾上神社、龍野の八幡宮等で見られる。姫路の八幡宮にもまた存している。安芸の宮島にも一面の算額あり、広島の鶴羽根神社にも現存のものがある。伊予の道後の八幡宮には算額が多数に存在し、おそらく今日において、かくも多数に残ったところは他に一つも無いのである。
 さらに西に向かい九州に入ると、福岡の箱崎及び住吉両神社にあり、筑後の秋月にもあり、柳河にもあり、また長崎の諏訪神社でも見られる。
 これらはすべて現存のものであるが、近年まで存在したということであったのが、すでに見られなくなったのもある。例えば羽前羽黒山のごときはそれであり、播州石の宝殿でも近年見たという人があるけれども、現に行って見ても見当たらないし、神官に聞いても知らぬというのである。こういうわけであるから、私が実見した算額でもあるいは数年内に廃滅したり、取りおろされたりしたものが無いともいわれない。
 東京でも湯島明神に震災前まではあったというが、もちろん焼失したのである。震災前においても東京市内のものは、芝の愛宕などのごとく元来は多数に存したものといえども、一面だも見ることができず、神官に尋ねてもさらに分からなかったのである。東京市内は最も早く算額が影を潜めたらしく見える。
 幕末の頃にはこの種の絵馬を見に来る人も相当に多く、注意に上っていたので大切にもされたけれど、維新後になると、まれには新たに奉納したものもあり、京都の北野天満宮、成田及び大宮のものなどがその例であるが、しかし従前に比すれば、はるかに減少したことはいうまでもなく、奉納の新額は次第にその数を減少し、そうして一方には焼失したり、破壊したり、風雨に曝されて磨滅し、取り払われるという風で、今でこそ未だ若干の遺物があるというものの、将来においては益々減少し珍奇のものとなるであろうこと、当然の勢いである。

〈三 算額の風習〉

 日本の算家が数学の題術を絵馬に仕立てて、お宮やお寺に奉納したというのは、ずいぶん古くからのことであった。
 前にもいうごとく、京都の祇園に現存するものは元禄四年(一六九一)に長谷川鄰完なるものの奉納であり、天和三年(一六八三)に同門山本宗信が伏見御香宮に奉額して二つの問題を提出したものの答術であった。伏見御香宮の山本宗信算額なるものは、もちろん今は残っておらぬ。
 この祇園の算額につき『増修日本数学史』には東海坊なる人の奉納なるごとくいい、

元禄四年……東海坊、山本宗信ノ奉額題ヲ解シテコレヲ京ノ祇園神社ニ掲グ……東海坊、其姓名ヲ知ラズ、蓋シ逸号ナラム……

と見えているが、これは誤りであって、明らかに署名されている通りに長谷川鄰完の奉額である。そうして東海坊と記しているのは、その奉額の取り次ぎをした坊名にほかならず、しかも東海坊とあるは東梅坊の見違いである。この算額は現存中の最古のものであるが、この算額あるによりて天和から元禄の頃にかけ、算額奉納の風のあったことは明らかに知られる。
 けれどもこの風習はさらに古くから行われたのである。そのてとは『算法勿憚改』に見える。『勿憚改』は延宝元年(一六七三)村瀬義益の作であるが、中に武州目黒村の不動堂に算額を奉納した者があって、片岡豊忠の『算法直解じきげ』にもその答術があり、『勿憚改』もまた別に答術を作ったのであることを記す。
『算法直解』は寛文十年(一六七〇)の作にて、不動堂の算額はその以前のものと知られる。
『勿憚改』にいうところによれば、なお以前より算額の奉掲が行われていたらしい。このことは『増修日本数学史』にその記載がある。従って寛文年中の頃から算額奉納の風のあったことは明らかであり、算学発達上の早い時代からのものであることが知られるのである。
 岩本梧友の『勾股泝原』は安永八年(一七七九)の作であるが、この書中には算法の額を云々したということも見える。
 この時代になるとかなり算額奉納の風が盛んに行われたらしい。
 藤田貞資は『神壁算法』及び『続神壁算法』を作り、諸神社に奉納したる算額を集めて公刊したのである。この両書は寛政元年(一七八九)及び文化三年(一八〇六)の作であり、貞資の閲にしてその子嘉言編という名義になっているが、貞資の碑文には貞資自身の編纂といっているから、実際そうであったろうと思う。藤田貞資は初め定資の字を用い、晩年に至りて貞資と改めたのである。
 この『神壁算法』の正続二篇が作られたことから見ても、藤田貞資の時代に算額奉納の風習が盛行したことが知られる。
 会田安明が藤田貞資と抗争して自ら最上流の一派を立て、盛んに論争を続け、関流の向こうを張ったのは有名な話であるが、その事件の起こりは会田が藤田の門人で親交の間柄であったところの神谷定令の紹介で藤田を訪い、教えを請うたところ、会田がかつて浅草観音に奉納した算額中に不適当な個所があるから、改竄せよといわれて受け入れず、それで争いになったといわれている。
 これはおそらく表面のことであろう。内実は学閥外の天才者流たる会田安明が関流の学閥に反抗した真剣の争いであったと見たい。それはともかく、二十年近くも会田、藤田の両雄が互いにしのぎを削って相争ったという数学史上の大事件が、算額上の文句のことから引き起こされたと伝えられていることでも、いかに算額が当時の数学者にとって重視されたものであったかが知られよう。『神壁算法』のごとき書物が作られ刊行されるというのも当然のことであった。
 藤田派以外においても同様に、多数の算額が奉納されたこともいうまでもない。
『神壁算法』という書名も、神社の壁間に奉納した算題集というほどの意味であった。後に白石長忠は『社盟算譜』を作ったが、これもまた神社の前にちかったところの算題集ということであり、『神壁算法』というのと同じい。内田五観の『古今算鑑』などいう書物も同じく奉納の算題を集めた刊本である。この種の刊行物は少なくなかった。
 写本類では諸所の算額を集めて編纂したものが幾らもある。『額題輯録』などいうものがそれであり、今一々これを列挙することは、もとよりその煩にたえない。その数すこぶる多いのである。
 これらの刊本や写本類に記載された算額の数も、ずいぶんおびただしいものであるが、現在の算額中にもこれら書類に見えないものがあるから、実際奉納された算額の数は、予想外に多かったのであろう。そうして記録なしに廃れて行ったのであろう。
 算額流行の盛んなものであったことは、充分に思われる。
 数学の問題を額面に仕立てて、宮や寺の壁間に掲げたというごとき例は、おそらくわが日本をおいては他に全く見られぬ図であったろう。西洋の数学史家の著書を見ても、日本の算額のことは記しながらも、他国での例をあげたものはさらに見当たらぬのである。
 大小の算家が皆相率いて和歌や俳諧を学んだという詩趣豊かな国において、算題が盛んに絵馬に仕立てられ彩色などを加えて、一種の美術品に作られたというのも、決して偶然のことではなかったろうと見たい。
 私はかく見るのであるが、これは私一人の僻目ひがめであろうか。読者の判断を望むのである。

〈四 日本の美〉

 日本の算書には絵入りのものもずいぶんあった。最も早く作られた一つである『塵劫記』のごときも大きな絵を入れたものであった。『塵劫記』の図には色刷も試みられ、日本の色刷版画の先駆をなしたというのは、日本の数学書は芸術史上においても馬鹿にできないのである。
『改算記』や『算法闕疑抄』などいう諸算書にも絵はずいぶんたくさんに記されている。後の時代になっても教科用の算書には絵入りのものがはなはだ多い。
『絵本工夫之錦』という算書もあるが、その表題を見ただけで内容が察せられよう。この点にも芸術味の豊かなことが思われる。
 なおこの外にも数学遊戯に関するものなども多く論述せられ、数学が、はなはだ芸術的に取り扱われたことの例証は幾らもあげられるのである。
 私は日本の数学には、かく芸術的の要素が豊富に見られることを主張する。その要素は江戸時代に数学が発達した時に及んで、初めて現われたのでない。前からその傾向が著しく見えていたことも、またわれらはこれを認める。
 中世の頃においては、数学らしい数学はほとんど無いのであるが、しかるにもかかわらず、その時代において家の紋章が著しい発達を遂げたのは、すこぶる顕著なことであったろうと思う。紋章の発達については沼田頼輔氏の有益な研究があって、はなはだ明らかであるが、幾何学的の図形を用いて家のしるしとしたこと、ずいぶん芸術的な仕方であった。中国にも紋章類似のものはあったであろうけれど、日本の紋章ほど鮮やかなものは、もちろん無かったのである。紋付が礼服になったというのも、日本独特のことであろう。継子立などの遊戯が平安朝末期から行われたというのも、数学的の事項が遊戯に用いられたのであり、ここにも数学の芸術化が見られるのである。
 数学的の事項が数学の未だ発達せざる前に芸術化された国柄において、数学の発達すべき時期に到来して芸術的の数学が行われ、そうして多大の進歩を見たというのは決して不思議ではあるまい。
 われらは田舎を旅行して、山麓や森の間に草葺の農家が散在するのを見るとき、その閑寂優雅なのに見とれるのである。近頃流行の文化住宅などいうものの無格好な、無趣味なものの比ではないのである。
 老木の森に囲まれた苔むすお宮に参詣して見ても、はなはだ森厳な霊気に打たれる。たとい一坪か半坪の小社といえども、前を通れば自然に頭も下げたくなる。その社殿の構造、樹木の配置等に何となく霊妙なものがあるかに感ぜられる。
 私は日本の建築美は決して他国のものに劣っていないと思う。石造の大宮殿や、派手やかな摩天楼などいうものはもちろん日本にはない。仏教の寺院といえども、かの国とは違い、すべて木造であり、雄大の点においては欠けるであろう。しかしながら優美であり、鑑賞の価値に富む。
 エジプトやインドの古建築や、またギリシア、西洋の有名な美術的建築などは、もとより悪くはない。私は日本の建築がそれに優るとはいわない。その世界的建築の中に伍して、さまで遜色なきものがあるかを感ずるのである。
 近頃、文学士藤田元春氏は『日本民家史』なる一書を刊行した。わが国に如何なる種類の民家が存在するかを列挙し、その発達の由来を明らかにしたのである。その着眼は鋭敏であり、観察は正鵠に当たっていると思われるが、屋根の形状にしても広く世界にありとあらゆるものが、ことごとく一国内に集められたかの観があり、すこぶる優美なのが特色だといっている。その優美なわが国の民家の建築様式を今後に維持して行くことは、あるいはむずかしいであろう。悲しいといえば悲しい。
 けれども民家の建築においてさえも、過去において誰がしたということもなしに、自然にかくも優美な優秀なものが作られたというのは、趣味性に富んだ民族性からきた結果であり、今後も外来の様式を採り入れて、たとい一時は堕落趣味に堕することがあろうとも、遠からずして再び特殊な優雅なものに変造し、別様の趣味を発揮するであろうことは、容易に期待される。
 絵画や彫刻にしても、もちろんその初めは多く支那やインドのものを学んだのであろうけれど、明らかに支那、インド等に見ざる特殊な立派なものが数限りなく造り出されている。雪舟が支那に遊んで、その師事するところよりも、はるかに超越したとは世に名高いことであるが、多く支那の絵画に接し、そして後に雪舟の絵を見るとき、素人目にも如何にもと思われる。
 中世以来発達した大和絵は支那式によったものでなく、特殊の構成をなしたものであった。
 江戸時代に浮世絵版画の盛んに作られたのも、全く固有の発達であり、色刷版画の発達において他国に類例の求められぬものであった。この故に一たび西洋に知られて以来、非常に珍重されることとなったのも道理である。
 江戸時代の絵画の名匠の作品を見ても、西洋の諸名家の名高い逸品に比し、単に画風や手法の異同を感ずるばかりで、彼のみひとり価値あり、われははるかに劣るというような感じは少しも起こらぬ。独特の妙味に感慨はなはだ深きものがなくてはならぬ。
 日本の絵画は確かに優秀なあるものを有する。

〈五 西洋伝来〉

 かくのごとき絵画を生み出した日本人の趣味性には必ず浅からざる根底があるに違いない。
 運慶の彫刻というようなものを見ても、まことに優れたものがある。私はかつて上野の博物館において、その模造品であったけれど、極めて優れた作であることを感歎し止まなかったことがあった。その頃には私はまだ彫刻について何等の眼識もなかった。しかも真に迫り、神韻のあふれているのに、覚えず感じ入ったのである。日本にはかくのごとき名作がある。あるいはギリシア彫刻の影響を受けたことがあるのであろう。しかもギリシアの古彫刻の写真など見るのとは、すこぶる感じが同じくない。支那やインドを経て学んだのであるが、要するに日本の古い彫刻は極めて優れたものであると思ったのであった。
 その後、諸方においてあるいは行基菩薩、あるいは弘法大師の作などいう、古い仏像をも多く見るの機会を得た。
 実際に行基や弘法の作であるかは知らないけれども、ずいぶん彫刻として立派なもののあることは事実である。奈良の博物館に陳列された幾多の作品のごときも、実に優秀なものが多く、日本の彫刻は早くからよほどの手腕が発揮されていること、われらは実際に見て感慨がはなはだ深い。
 新進の美術史家団伊能氏の談話によるに、わが国の古彫刻はもとよりギリシアの影響を受けている。その影響は受けているけれども、源泉をいうときは、インドの建陀羅ガンダラ芸術から来たものであって、仏教の拡布とともに中央アジアに伝わり、それから支那に入り、さらにわが国に伝わったのである。その伝来の道筋はすこぶる明らかにせられ、疑うべきものはない。
 建陀羅の仏教芸術がギリシアから学ぶところのあったのはもちろんであるが、その当時においてはギリシアの芸術はもとより末期であった。ほとんど多くの力を持たぬ。いわんや中央アジアにおいてギリシアの植民地であり、ギリシア人の勢力が最も長く維持されたバクトリア、すなわち支那でいう大夏の国のごときはその歴史から考えて多くギリシアの文化を東方へ伝播したであろう、と思われようけれども、その実この国のギリシア人は人数も少なかったらしく、ギリシアの美術や文化を、はたして如何なる程度まで開発し維持したであろうかも、はなはだ問題であり、近年その国都の遺跡を発掘した成果にしても、何等得るところはなかったということである。
 こういうわけであるから、建陀羅の仏教芸術が起きた時は、ギリシアの彫刻などの影響を受けた程度も、おそらく知れたものであったろう。
 しからば中央アジアや支那、朝鮮へ伝えたその関係もまた大概察することができる。
 建陀羅の遺跡を始め中央アジアや支那等に存するところの遺物は幾らもあるし、試みにこれを見るがよい。実のところさまで優秀な作品はないのである。もちろんギリシア盛期の彫刻に比してはすこぶる劣っているし、日本へ来てからできたのに比しても比較にならない。日本の彫刻は建陀羅の仏教芸術を仲介として明らかにギリシアの彫刻から影響され、教えられているところはあるが、しかし一旦日本人の手に移ると、これを伝えた先生よりも、ずっと立派なものを作り出したのである。他から学びはしたけれども、単にこれを学んだというだけではなくして、一層優秀な成績をあげたのであった。
 これは日本人の芸術能力がギリシアに次いで有力なものであるからのことにほかならぬ。その能力が欠けていては、かくのごとき事実は到底あり得ないのである。
 団君は新しい研究の結果として、かくのごとく語る。私が日本の古彫刻を多く目撃し、その妙味に打たれたゆえんのものは、ここに全くそのよって来たるところを解決されたのである。

〈六 法隆寺〉

 大和の法隆寺は推古天皇の時の古建築であるが、一説には天智天皇の時に焼失して再建されたという。しかもその再建非再建の両説は、はなはだ錯雑して容易に決定されぬ。
 それはしばらくおき、法隆寺の建築は韓人がその任に当たりもしたであろうけれども、建設者たる聖徳太子の希望が加わっていることももちろんであり、堂塔の配置などは支那や朝鮮における仏寺の建築に見ざる形式のものであるという。
 これは東洋建築史の泰斗伊東忠太博士の意見であるから、もちろん安んじて信憑すべきである。わが祖先は法隆寺建築の古代において、すでに外国文化の単なる模倣者ではなかったのである。
 法隆寺の円柱は上下が細く、中央部が徳利形にふくらんだものがある。これはまことに著しいことであり、ギリシアの古建築においても、また見られるのであって、これをエンタシス(entasis)というのであるが、円柱にエンタシスを施したものは見た目がまことに気持よく、ギリシア美術の天来の神韻の一つだといわれ、ギリシアの芸術心があって、初めて考案されたと見なされたものであるから、ギリシア以外にて法隆寺の建築中に、この同じエンタシスのある円柱が見いだされたので、これは定めてギリシア建築の様式が伝わったのであったろうとは、ほとんど定説であった。
 しかるに団伊能君はこれらについても、また疑問をはさんだ。ギリシアで同様にエンタシスを施したのはギリシア芸術の盛大期でのことであった。その衰退期に及ぶと次第にエンタシスは見られなくなる。インドの建陀羅芸術はギリシアの影響を受けたものであるけれども、しかもその盛大期の影響を受けたのではない。衰退期の芸術を伝えたのである。そうして建陀羅の建築を見るに、同様のエンタシスは一つも発見することができない。中央アジアや支那、朝鮮の仏教建築においても皆同様である。
 事情かくのごとくなるにかかわらず、その仏教建築がわが国に来て法隆寺の建築になると、ここに再び円柱のエンタシスが現われた。これはまことに怪しい。
 この事実から見るときは、ギリシアの手法が伝わったものであると認めるのは、あまりに無理である。
 法隆寺の円柱のふくらみは、外来の関係からできたのではなく、他に事情があってのことと認めなければならぬ。
 ギリシアの円柱にエンタシスのあるのは、元来ギリシアでは木造の建築が行われ、それから石造に進んだのであるが、木造の円柱では上下の寸法は決定しておかなければならないが、かんなのない時代のことで、斧でけずるのであるから、中間はふくらみのあるようなものになるのも自然のことでもあったろう。そう成り勝ちであったろうとも見られる。そういう風にして木造の円柱にエンタシスが発生して、石造になってもその形式が伝わったのではないかと思われる。
 日本でもやはり同じことで、全く木造建築であるから、同様の事情でエンタシスのある円柱が作られたのであろうと見ることができる。しからば必ずしも、ギリシアの様式を学んで円柱のエンタシスを作ったのではない。
 かく見るのは団氏の新見解である。この新見解は旧来のほとんど定説であったものを破壊するのであるが、旧説ではギリシアから伝わったろうという、道筋における状態を考えずして、みだりにギリシアと日本の東西両端における、実物の単なる類似から漫然とその説を立てたものに比するときは、われらはこの新見解をもってすこぶる首肯すべきであろうと考える。これについては、なお諸大家から賛否の論を聞くことであろうけれど、われらはしばらくこれに聴従する。
 円柱のエンタシスが、かくギリシアと日本とで別々に作られたものであり、そうして他の国々には見られぬものであって、かつこのエンタシスはすこぶる見た目に好感を与えるものとすれば、ギリシアと並んでこれを用いたわが祖先の美感覚の鋭、かつ敏であったことの一証とするに足るであろう。

〈七 芸術と科学(一)〉

 日本は上述のごとく種々の方面から見て芸術の優れた国であり、芸術においては決して凡庸ではなかったのである。建築でも絵画でも彫刻でも、すべて支那やインドのものを学び、その仲介によってギリシアの流れにも接していることは事実である。このことは決して否定することができないし、また否定しようという必要もない。支那、インド、ギリシア、それから朝鮮に対しても、諸般の芸術なり、科学なり、また一般に文化事項を豊富に多大に供給せられ、深く教えられるところのあったことは、感謝をもってこれを記念する。この諸国は皆わが師長であった。その師恩は決して忘れてはならないのである。また決して忘れもせぬ。
 けれどもわが祖先はすべてのことにおいて、その師授のままに単なる模倣として受けていたのではない。必ず改造し、同化し、新味を出していないものはない。そうして学ぶところよりも、優秀な結果を産みだしたのである。
 かくのごとくして王朝時代から中世の武家時代にかけて、わが国の特段な芸術が造られ、まことに立派なものができたのである。
 前にはいわなかったけれども、わが国では刀剣鍛冶の技術が他国に類例のない優秀な発展を遂げたのも、またこの時代のことである。
 けれどもこの時代において数学でも他の科学でも、学問らしい形式に発達することは、さらに見られなかった。単に技術として存在したのみにすぎぬ。
 しかるに江戸時代になると、数学も発達した。諸科学も発達した。これらの発達は全く江戸時代の産物といってよろしい。
 しからばわが日本においてはまず芸術が発展して、しかるに[しかる]後に数学並びに諸科学が発達したのである。芸術が長い期間の発達をしてから後に初めて科学の発達を見たのである。その期間が余りに長いために、すこぶる注意に触れる。
 ここにおいてわれらは思う。優秀な芸術を造りだすことを得た民族は、機会さえあれば優秀な科学をも造りだすだけの素質を具備するのである、といい得られるのではあるまいか。私はそういう考えがやたらに浮いてきてならない。
 反面からいえば、芸術なき国に立派な科学は成り立ち得ないのではないのであろうか。
 優秀な技術を有するわが日本は、数学及び科学においてもまた優秀なのであった。
 以上私はわが日本では、まず建築、絵画、彫刻等の諸芸術が開け、芸術においてはその学ぶところの師長をも凌駕して優秀な成績をあげ、芸術能力が必ずしも凡なるもので無かったことを示し、そうしてその芸術の発達した後に、数学並びに他の科学が発達したのであり、芸術なきところには科学の発達は望まれないのではないかを論じたのである。
 しかし一方から考えると、数学だの科学だのを深く学ぶと、人はとかくに理屈っぽくなる。人間味が弱少する。人間味が弱少すれば、従って芸術味もまた失われよう。美術を見ても、形や色が自然に類するや否やは益々識別するの能力も発達しようが、単に形似の鑑別に止まり、芸術的の真価が那辺にありやはおいて問わなくなる。科学的の知識が進むだけ、益々芸術の鑑賞限を失う。
 こういう傾向はおそらくあるであろう。科学と芸術とは両立せぬ、また両立し得ぬともいいたくなる。
 私はかつて二本松に遊んだ。二本松に発句が好きで、しきりにやっている人があった。二本松辺の旧和算家も例に漏れず、ずいぶん発句など詠んでいたもので、その短冊なども遺っているのであるが、発句の先生はこれらの遺篇を見て一向に感服しない。発句はこういう風に理屈っぽく詠んではいかぬ。今少し平明に感情が流露しなくては駄目だというのであった。算家はやっぱり算家で、たとい発句を詠んでも、算家らしい発句しかできないというのであった。
 これはもちろん二、三の人々の詠を見て評したもので、全般の議論ではない。しかしながら一般にこの非難はあるいは、まぬがれないかも知れぬ。たといまれに例外の人物はあるにしても、この種の弊害に罹ることもおそらく一般の習いであろう。
 私はもとより、この種のことがあるのを否定せぬ。そうあってよいことと思う。しかしながら前に述べたところが、これがために変動を生ずるであろうとは思わぬ。全く別事である。

〈八 芸術と科学(二)〉

 諸外国ではどうであろうか、少しばかり説いて見たい。
 ペルシアの有名な詩人にオマール・カイヤム(Omar Khayyam)がある。ペルシアの詩人としてこれほど名高い人はない。ササン朝時代のペルシアにはフィルドオシー(Firdawsi)のごとき史詩をもって顕われた人もあるが、回教時代になってからのペルシアの詩人としてオマール・カイヤムと肩を並べ得る人は、他に求められない。この人の詩についてはわが国でも時折り推称される。
 このオマール・カイヤムは如何なる人物であったかというに、もちろん単なる詩人ではないのである。彼は代数学者としてもすこぶるその名を知られている。
 カジョリ(Cajori)の数学史にはこの人のことにつき、

代数方程式を円錐曲線の交わりによりて解くことを、一種の方法として成り立たせるために最も功労のあった一人は、コラッサン(Chorassan)の詩人オマール・カイヤム(約一〇四五―一一二三)であった。この人は三次方程式を三項式と四項式との二種に区別し、その各種をそれぞれファミリーに別ち、各族をスペーシスに別けた。その各属は別々に論じたのであるが、しかし一種の一般方式プランに拠ったのである。三次方程式は計算にては解くことができず、四次方程式は幾何学を用いても解き得られぬと信じた。負根を採ることはしなかった。また正根もことごとく求めることは、しばしば成功しておらぬ。

 かくいえば、オマール・カイヤムが成就し得なかったことをもあげてあるので、あまり実力のあった人らしくも思われないかも知れぬ。しかしその当時において、かくのごとき成功を収めたのは、もとより特筆すべきであった。
 オマール・カイヤムのごとき回教国の代数学者が方程式解法について幾何学的方法を用いたのが、中国でホルナーの方法に比すべき近似解法を立てたのとは、全く様子の異なることは、注意しておかねばならぬところであろう。
 オマール・カイヤムの出身地コラッサンはペルシアの一地方である。この地方からは回教治下の暦算家が多く輩出したのであった。
 カジョリの書にもオマール・カイヤム等の著書は回教国の数学の最高潮に達した時であり、これからは退潮に向かったといっている。
 回教国の科学がオマール・カイヤムの時に発達の絶頂に達し、これから下り坂になることはサートン博士の『科学史概論』にその事情を巧みに説いている。
 オマール・カイヤムほどの大数学者が兼ねてペルシア第一流の詩人であり、ペルシアだけでなく詩人としては古今を通じて偉大なものの一人であったというのは、数学者必ずしも大詩人たり得べからずとの見解を根底から打ち砕くものでなければならぬ。
 オマール・カイヤムは数学者でありながら、この人の詩は理屈っぽくて困るなどという非難がない。
 レオナルド・ダ・ヴィンチはオマール・カイヤムとともに、最もこれらのために有力な実例を供する人であった。
 ダ・ヴィンチが有名な画家であり、有名な彫刻家であり、有名な建築家であったことは、人よくこれを知る。
 ダ・ヴィンチはまた同時に科学史上に抜くべからざる地歩を成した人であった。そうして数学にも通じた。数学においては、もとより第一流の人ではない。しかし数学史上の記載に漏れぬ人であった。
『カジョリ初等数学史』には、ダ・ヴィンチが内接正多角形の作図に注意したことをいい、その説くところの方法中の若干のものは単に近似的の作図であって、実用上の価値はあるが、理論的の興味には乏しい。円内に正七辺形を内接したもののごときは、正確であると考えたけれども、もちろん近似的に過ぎなかった。またダ・ヴィンチはコンパスの唯一つの開きによりて作図することを試みたが、この試みはギリシアのパッポス(Pappos)もかつて説いたことがあり、回教時代はアブール・ウェフア(Abul Wefa)もまた試みているし、降ってダ・ヴィンチ等がさらに試みるに至ってついに有名なものとなったのである。
 また定規とコンパス以外の手段によって作図を行うことも、またダ・ヴィンチはこれを行うところがあった。円柱を用いて円積問題を取り扱ったごときがそれである。
 大美術家、大建築家たるダ・ヴィンチが数学においてこの種の業績を遺したのは、あるいは物足りないほど少ないかも知れぬ。しかしながら数学上の業績が美術大家たることと同時に成立し得た実例としては、全く教訓的であろう。
 レオナルド・ダ・ヴィンチは美術の大家であり、また同時に科学の大家でもあるから、その伝記のごときもこれを述べたものがはなはだ多い。あるいはこれをあげる必要はないかも知れぬ。けれども一通り記さなければ、事情が分からぬ。
 今『カジョリ初等数学史』の脚注を引きて、これを記することとしよう。補訳者諸君に敬意を表せんがためにこれを仮用したのである。
 レオナルド・ダ・ヴィンチはイタリアの人、フィレンツェ近在のヴィンチの村に生まれた。その父は公証人であり、私生児として生まれたのであった。父には正妻があったけれど、その家に引き取られて、幼少時代は淋しく送られたのであった。十歳の頃には父の事務所の所在地フィレンツェに出て、有名な画家ウェロッキオに弟子入りした。画家の天才が発揮されたのは、これからである。後年科学事項に興味を感ずるようになったのも、この師の感化によるという。一四八二年三十歳の時にミラーノ公に仕えて、銅像の設計、壁画の描写等をしたが、ミラーノの陥落後にはフランスにおもむき、国王の知遇を受けた。
 ダ・ヴィンチは幾何学を実際に応用したのが著しく、「数学の応用のみが知識を正確にする」と考えたのである。「神の光の学」として透視法を研究した。力学上で力の平行四辺形、鳥の飛行の力学的研究などがあるし、飛行機の発明にも腐心し、物理学に関する発見も多く、ガリレオなどの研究の先駆者となっている。しかしながら、その研究の多くは未成品のままに遺されたのである。
 またダ・ヴィンチが地質学上において山岳の構成のことなど説いたのも、はなはだ傾聴すべきものがあった。
 ダ・ヴィンチは解剖学者のために解剖図を作ったので、解剖のことについても造詣が深かったという。
 ダ・ヴィンチは芸術といい、科学といい、いたるところにその天才の跡を深く刻み付けないでは止まなかった。
 われらはレオナルド・ダ・ヴィンチの人物を想うとき、芸術と科学とが完全に結び付いている最良の適例を見るのである。科学と芸術とが両立し得ずと思うものあらば、よろしくこの偉人の伝記を委細に学ぶがよい。その疑問はこれがためにただちに霧散するであろう。
 ドイツの画家アルブレヒト・デューレル(Albrecht D※(ダイエレシス付きU小文字)rer 一四七一―一五二八)はイタリアのダ・ヴィンチとおよそ同時に出た人で、画家として有名な者であるが、この人もまたダ・ヴィンチと同じく円に正多角形を内接する作図など試みた。ダ・ヴィンチは近似的の作図をも正確だと思ったようなこともあるが、デューレルはこの作図は近似的であり、彼の作図は正確であると、常に明瞭に述べたものであった。そういうことをしたのはこの人をもって嚆矢とする。
 デューレルもまたダ・ヴィンチと同じくコンパスの唯一つの開きで作図をすることをした。
 デューレルはハンガリー生まれの一鍛工の子にして、ドイツのニュールンベルクに生まれた。木彫と絵画を学び、イタリアのヴェネチァに行って大いに得るところがあった。絵画においても木彫においても、はなはだ成功を収め、多くの傑作を作った。宗教改革家として名高いマルチン・ルーテル(Martin Luther)の心からなる友であった。
 デューレルが数学上の著述として最も重要なものは、一五二五年の作であるが、その中には透視画法、図的解法などをも説いたのであった。
 デューレルは紙上に正多面体及び半正多面体の側面をなすところの諸多角形を接続して描き、その縁に沿うて紙を折り、その多面体を作ることを考えたが、これはデューレルが初めて試みたことであった。
 デューレルはまた外擺線(epicycloid)のことをも説き、その作図をもしたのであるが、この種の曲線のことはギリシアの数学に多少の痕跡はあるが、デューレルが説いたものは全くこの時から始まる。またその後においてもフランスのデザルグ(Desargues)及びド・ラ・ヒール(De La Hire)がこれを説くまでは、再び論ずる者がなかった。二人ともに十七世紀に属する。
 西洋で方陣(magic square)を説いたものも、またデューレルが初めであり、その作るところの名画「メランコリア」の中に見えている。この画は一五一四年の描写であった。
 デューレルは美術との関係からして、高次平面曲線をも論じたのであった。
 ドイツの画家であり彫刻家であったアルブレヒト・デューレルが、イタリアの大美術家レオナルド・ダ・ヴィンチとほぼ同じ時代に出て、数学史上に今いうごとき業績を遺したことは、芸術と科学との交渉を思うとき、決して見のがされない一つの重要事となる。
 次にわれらはイギリスのクリストファー・レン(Christopher Wren 一六三二―一七二三)をあげる。レンはロンドンのセントポール寺院の建築をもって有名な建築家であるが、数学においてもまた造詣の深い人であった。
 ロンドンの大火災は一六六六年のできごとであるが、この頃にレンはオックスフォード大学の天文学教授であったけれども、ロンドンの復興工事のために建築技師として活躍し、セント・ポール寺院を初めとして五十個以上の寺院や官公衙、大建築物などの再建に尽力したのであった。
 クリストファー・レンの姓名が大建築家として著聞するのは、畢竟これがためである。レンはロンドンの大火災の時に際会しなかったならば、おそらく数学者、天文学者として終始したであろうといわれているが、あるいはそうであったろう。けれども建築に関する素養も識見もなくして、あの大事業が遂行されるわけはなかったであろう。
 レンは初めウェストミンスターの学校で教育を受け、十七、八歳の頃にオックスフォード大学に入り、次いで得業生となり、一六五三年二十一歳で学士(M.A.)となり、これから研究員として四年間を過ごし、ロンドン大学の星学教授にあげられ、またオックスフォードの星学教授に転じたのは一六六一年のことで、一六七三年までその職にいた。一六八〇年から八二年までイギリス学士院長になったこともあった。
 数学上においては剛体の衝突に関する法則、放物線体形の鏡面の磨き方、透視のこと、曲線の弧長を求めることなどの研究があり、一張双曲面の二組の母線をも発見した。擺線(Cycloid)の長さを求め、その重心をも見いだした。重力則のことに関してもニュートン以前に多少研究するところがあったという。
 われらが今あげたところの二、三の例は、美術家、建築家にして、数学並びに科学の大家であった人物を例示したのであるが、西洋で透視画法などの発達したのは、絵画と数学との結び付いたものといわなければならぬ。
 このことにつきレオナルド・ダ・ヴィンチ及びデューレルの業績のあったことは前に述べた。
 その他にも画家乃至彫刻家あるいは印版師にこの種の研究のあったものは往々に見られた。
 ピートロ・フランチェスキ(Pietro Franceschi)のごときもその一人であった。一四九二年に没したというから、ダ・ヴィンチよりも先輩であったろう。この人も透視法に関する稿本著述があった。ダ・ヴィンチにしても視学についての研究があり、影絵のことなどもいっているが、たしかに前代よりも進境を見せている。
 この頃から画法のことに関して視学(あるいは光学)の研究も開け、あるいはデカルトが虹の理を発見することとなったり、またその他、投影画法が工夫されたりするようなことにもなった。
 要するに近世の西洋では大美術家にして同時に数学者、科学者たる者もいるので、数学上から画法の原理など、著しく進むことにもなったのであり、一方には数学、科学の正確な眼光をもって絵画や彫刻を試みる者もあって、これがために元来の神韻を保ちつつ、同時に形似のところを発揮することもできたのであった。西洋の絵画に遠近法だの比例の取れることだのいうことが、やかましく、自然に即したもののできたのは、畢竟これがためであったであろう。単に芸術的に見た場合において、その関係の利害優劣がどうであったかは、しばらく別とし、かくのごとき事情が実現されたのは、すなわち西洋で科学的文化が異常に発展すべき有力な基礎をなしている。
 西洋についてはあまりに芸術と科学との直接の交渉をのみ説いたのは、如何にもその関係が密接であったからにほかならぬ。これを大体の事情から見たらどうであったろう。
 西洋の中世には科学らしい科学はなかった。数学のごときもほとんど見るに足るものはない。
 芸術からいっても、やはりさまで発達は見られない。西洋の芸術が大いに起きたのは、文芸復興の時代であった。前にいうところのレオナルド・ダ・ヴィンチが出たのもこの時であり、ドイツのデューレルが出たのもまたこの時に属する。
 文芸復興時代のイタリアにはラファエル、ミケランジェロ、チントレットなどいう大画家も輩出した。その後に至り幾多の名匠が出て、多くの傑作を作り出したことはいうまでもないが、しかし復興期においてほど華々しい諸大家の出た時はない。あたかも大天才を一時に集中したかの観があった。
 これよりさき西洋の中世において、丘陵の上に巍峨たる石造の山城が構築されたものや、諸都市における教会の建造物など、ゴシック式の建築がしきりに造られ、ずいぶん美観の称すべきものがある。
 文学においてもダンテの『神曲』などいう神韻を伝えたものが作られたのである。ダンテは近年の研究によれば、アラビア文学から、著しく教えられているということであり、美人ベアトリーチェとの恋愛様式までも、回教文学上に先例があるというけれども、しかもダンテの詩が稀世の傑作であったことに変わりはない。
 今委細に詳論することはできないが、中世時代の未だ文化の開けない時代からして、科学の発達に先だち芸術の方面において、着々有力な作物が出たことはいうまでもなく、西洋でも、まず芸術が作り出されて、それから科学の発達が長足に歩み出したものに外ならぬ。
 西洋のこの事情は、日本の中世紀に長い間通じてひとり芸術のみ栄え、江戸時代になって、初めて科学の発達を持ち来たしたというごとく、その時期において顕著な対照は見られぬのである。これはすこぶる事情が同じくない。しかしながらあらかじめ芸術が大飛躍を試みて、引き続き数学や科学の発展となり、その発展は益々進んで停止するところを知らざるがごとき有り様となったのである。
 西洋には大芸術が生まれて、それとともに大なる科学の発生をも見たのである。
 ギリシアで数学が、はなはだ論理的の組織を成したことは、著しいものであった。天文暦術においても同様に、はなはだ顕著な発展を遂げた。医学や博物学などいうものも、ギリシアで皆一通り成り立たないものはない。ギリシアの科学開発が大天才の発揮であったことは、十目の見るところ、十指の指さすところである。ギリシアでも単に科学や数学のみが開発されたのではない。ギリシアの建築でも、彫刻でもまことに立派なものであった。
 ギリシア文化の歴史は詩聖ホメロスの詩篇をもって始まる。その詩篇の如何に優美であるかは、人皆これを知る。ギリシアの神話が巧みに構成されたことを見よ。後には悲劇の作もはなはだ優れたるものができる。
 ギリシアの諸神殿の石造建築は、円柱を建て連らね、ゆるやかな直線形の屋根を葺き、その屋根を重ねた所が淡白であって、少しも嫌味がない。エジプトの石造の大建築に学んだところはもちろんあるのであろうが、エジプト建築の粗大なところはないけれども、またエジプトで見られなかった優雅の観に富む。
 ギリシアの大理石彫刻は、古代美術の大成であり、全く他に比類がない。形似においても優れているし、優雅の中に力があり、われらはその石彫の写真に対してさえも、深く敬虔の念に打たれる。芸術におけるギリシアの天才は、はるかに先進諸国を凌駕したのである。
 芸術において他の先進諸国を凌駕したギリシアは、数学や科学においてもまた同じく、はるかに先進諸国を凌駕した。
 ギリシアで文学芸術の最も栄えたのは、ペルシア戦争後にアテナイが勢力を伸長した時のことであった。哲学の繁栄したのもまたこの頃であった。この時には数学ないし諸科学も見るべきものがあることはあるが、未だ最盛期に到来したものでない。
 この時たちまち絶世の英雄アレクサンドロス大帝が出現する。ギリシアはペルシアに対し、東方に対し、大発展の手を広げる。けれども新たに造り出された、さすがの大帝国も大帝不慮の崩御とともに瓦解したのであるが、従来文化の中心であったアテナイの勢力は一旦失われて、再び振るうことができなかった。哲学の最盛期はこれで終わるのであるが、文学においても、また芸術においても、アテナイの国勢伸長期とともに全く地に堕ち、これからは次第に衰退の時期となる。これ以後の作品といえども、もちろん優秀なものがあるにはあるが、しかも全盛期のものに比肩し得べくもないのである。
 しかるに数学にしても、科学にしても、かえってその後に最も優秀な発展を遂げることとなった。エウクレイデスが『幾何学原本』を作ったのも、アルキメデスやアポッロニオスが出たのも、また星学者のエウドクソスやアリスタルコスなどが出たのも、大算術家ディオパントスの出たのも皆これ以後のことであった。
 大芸術の作られたギリシアにおいて数学科学も異常の発展を遂げたのではあるが、芸術がまず成り、数学や科学はその後に続いたのである。
 この順序を取ったのは、全く自然なのであろうと思う。
 ローマはギリシアが国家としては不統一であったのとは違い、一大帝国を建てて、政治軍事の勢力は勢い並ぶものなく、ギリシアもこれがために威圧され、統御されたのであるが、ローマはギリシアとは違い、独自の文化を作り出さなかったといってもよい。ローマでは文学といい、建築といい、彫刻といい、哲学といい、科学といい、皆ギリシアのものを襲用した。
 けれどもローマ哲学に見るべきものがなかったことは、世に定説がある。彫刻などもギリシアから学んで、しかもギリシアのごとき神韻はついに得られなかった。
 ローマでは数学のごときは、ギリシアの数学を受け入れることさえできなかった。全く見る影もなかったといえば、それで足るのである。
 もちろん、ローマで軍事関係の学問など進んだのはいうまでもないし、道路や水道の築造に優れていたこともいうまでもないが、数学及び諸科学においては、単に実用的に少しばかり知っていたというに止まり全く開拓するところはなかった。
 ギリシアの優秀な芸術を学んで、ギリシアに及ぶことのできなかったローマで数学や諸科学がかくのごとき有り様であったというのも、またけだし、当然のことであったであろう。
 ここにも芸術と科学と何か内存的に関係があることを暗示するようにわれらは感ずる。
 この問題については、なお説きたいことは幾らもある。しかしながらあまりに紙数を重ねた。これくらいで割愛するのも、やむを得ないであろう。

〈九 結論〉

 今翻ってわが国のことを回顧しよう。わが国は芸術において、常に学ぶところよりも優れたものを作り出し、科学においても数学においても常に同様であった。われらはすでに芸術と科学との間に存すべき内在的の関係あるべきことを学び、芸術なき国に科学は栄えぬことをも了解したのである。はたしてしからば、美術国と称せられ、芸術味のはなはだ豊かなわが国において、数学にせよ、諸科学にせよ、汪洋として旭日の天に冲するがごとく、進み進み、また進まんとする勢いあること、決してわれらが架空の妄談でないことは、賢明なる読者のすでに充分了解されたところであろうことを信ずる。
 わが国の数学の前途はこの点からいっても、多幸なりということができよう。
 われらは、しかく見ることにおいて誤っていないことを確信する。





底本:「文化史上より見たる日本の数学」岩波文庫、岩波書店
   1999(平成11)年4月16日第1刷発行
底本の親本:「文化史上より見たる日本の数学」創元社
   1947(昭和22年)
初出:「数学史叢話 第二十一章―二十二章」輓近初等数学講座、共立社
   1929(昭和4)年
※底本の凡例によれば、「〈〉」付きの見出しは、「文化史上より見たる日本の数学」(恒星社厚生閣、1984(昭和59)年)の編者、平山諦、大家真一、下平和夫によるものです。
※著者が親本に書き加えた修訂箇所を示す際、底本が用いた「〔〕」は、アクセント記号と重複するため、始め大括弧「[」(1-1-46)と終わり大括弧「]」(1-1-47)に代えて入力しました。
入力:tatsuki
校正:山本弘子
2010年10月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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