おばけの正体

井上円了




緒言


 明治三十一年のむかし、『妖怪百談』を著し、つぎにその「続編」を作りしが、望外にも世間より歓迎せられ、再三再四、版を重ぬるに至りたるも、数年前に残本全く尽き、久しく購読を謝絶しきたれり。その後さらに再版せんと思いしも、本書の内容が古人の書を引き、古代の話を伝えたるもの多ければ、そのまま再版するもおもしろからずと考え、絶版のまま今日に至れり。
 しかるに、この最近二十年間、全国周遊中、各所において妖怪の実験談を直接に聞知せるもの、または研究会員より妖怪の新事実を報告せるもの、または地方の有志者より新聞雑報の切り抜きを寄送せるもの、および自ら実地につき探知せるもの等、数百項の多きに達したれば、これを収集選択し、また旧著中、明治維新後に起こりし妖怪事件十余項を抜粋し、合わせて百三十項を得、新たに『おばけの正体』の書名の下に上梓じょうしするに至る。その期するところは、家庭および小学にありて、妖怪に迷える児童に読ましめんとするにあれば、文章は言文一致を用い、事項は児童の了解し得る程度を計り、平易簡明を主とせり。つまり、家庭の御伽話おとぎばなしに資せんとするの微意なり。読者、願わくはその意を了せられんことを。
 妖怪と迷信とは密接の関係を有し、ほとんど妖怪の八、九分どおりは、迷信より起こると断定して可なるほどなり。ゆえに、本書中に迷信を併記せるも、そのほかになお迷信に関する事項はすこぶる多ければ、他日、さらに「迷信集」を編述する心算なり。
 また、今日の学理をもって解説し難き、いわゆる真の不思議と称すべき事項も夥多かたあれば、他日、別にこれを集成して「真怪論」を発行する予定なり。そのこともあわせてここに予告す。

大正三年六月
演述者自ら記す
[#改丁]

おばけの正体


第一項 妖怪はあるかないかについて

 世間には妖怪があるともいい、ないとも申して、議論が一定しておらぬ。妖怪ありの論者は、なにもかもみな妖怪ときめて、ごうも疑いを起こさぬ。これに反して妖怪なしの論者は、ただいちずに、神経である、妄覚である、誤伝である、詐偽である、迷信であると速断してしまう。余の考えにては、いずれも極端にして信ずるに足らぬ論と思う。どうしても実際上、十分に探検して後に、その有無を判定せなければならぬ。そこで余は、数十年前より妖怪研究会を設け、現在世間にある妖怪を実地について調査したのである。
 すべてむかし話に伝わり、あるいは古き書物にかいてある怪談は、もとより信ずることができぬのみならず、今日調査する手掛かりがないから、それよりも、今日世間に起これる実例について研究する方が確実である。その中に原因の不明なるものも多いが、また明瞭になったのもたくさんある。今、ここに妖怪の有無を判定する前に、原因の分かりたる事実談を集めて、世の中へ紹介しようと思う。しかしてその事項は、なるべく明治維新後に起こった出来事に限りたい考えである。

第二項 余の実験せる障子の幽霊

 他人のことを紹介する前に、余の自身に実験せし一例を挙ぐるに、およそ今より四十五、六年前、余の十歳前後のころと記憶しておる。ある夜眠りに就き、夜半すぎにフト目がさめたが、あかりは消えて真っ暗である。そのとき枕をつけたまま眺むるに、隣室の障子の戸骨ほねの間より、なにものか室内をのぞき込んでいる顔が見ゆる。いかにも不審にたえずして、起き直して見れども、やはり同様である。しかるに、少時の間にその顔を引っ込まして見えなくなるかと思うと、すぐにまたのぞき込む。そのときの考えでは世のいわゆる幽霊であろうと思い、急に怖くなり、続けて見ることもいやになり、布団を頭からかぶり、縮み上がって寝ていた。翌朝夜が明けてから、その幽霊が気にかかり、早速起きて隣の室に行き、この辺りなりと思った障子を探り見れば、あに計らんや、戸骨の間に紙の破れた所があって、その切れ口が風のために内の方へ吹き込まれたのを横より眺めて、人の顔と誤りたることが分かった。そこで、世の中の幽霊はみなこのようなものであろう、今後、幽霊を見ても紙切れと思えば、恐ろしくも怖くもないという決心を起こしたことがあった。

第三項 幽霊の足音

 今一つ、余の幼少のときに実験したる話がある。年齢十五、六歳のころ、ある寺の座敷に寝たが、深夜になって目がさめ、四隣寂寥せきりょうとして草木も眠れるほどのうちに、本堂の方に当たりて、人の板敷きの場所を歩く音がハッキリ聞こえておる。その音はガタンガタンという響きだ。最初は盗賊が入り来たったのかと思ったけれども、盗賊ならばあのように足音を高くして歩くはずはない。その音が近くなるかと思えばまた遠くなり、いつまでもやまぬ。そこで、これは幽霊の寺参りであろうかとの想像を浮かべた。かつて檀家の者が死ぬときに、その亡者が寺へ参ると聞いていたが、これこそ亡者に相違ないと思った。しかし、翌朝になってみれば、半信半疑であるから、早々起きて本堂の方へ行ってたずねたれば、堂側に別室があって、その内に大なるボンボン時計がかかっていた。この時計のガタンガタンという音であったことがすぐ分かった。これは時計の幽霊と申すべきものであろう。

第四項 空き小屋の光り物

 今一つの実験談を申さば、これは二十歳以後の話である。ある年、夏の休暇に勉強したいと思って、二カ月間、箱根山上の元箱根村と名づくる所に農家の座敷を借りていた。元箱根は箱根町をさること八丁、権現神社の下に三十戸ばかり並んでいる小村である。ある夜、晩食をすまし、町の方へ散歩に出かけ、あちらこちら歩き回りて、ハヤ時は十時過ぎになった。いよいよ帰ろうとすると、にわかに大夕立がかかってきた。あたかもそのときは暗夜やみよであるのに、提灯ちょうちんも雨具も持たぬから、町の出口の茶屋に入って休息し、雨の晴るるのを待っていたが、十一時を過ぎてもなかなか晴れそうでない。そこで、茶屋から提灯とからかさとを借りて、真っ暗の所を深林の中に向かい、ソロソロ歩いて来たが、二、三丁過ぐると、さきの方にたきぎの小屋がある。人はもとより住んでいる家ではない。その空き屋の片隅から火光が発している。たちまちピカリと光るかと思うと、すぐ消えてしまい、また光ってくる。かくのごとくすること三、四回に及んだ。余は歩きながらいかに考えてみても、その原因が知れぬ。よって、しばらく足をとどめておったが、そのとき光は全く発せぬようになり、ただ小屋の片隅に黒き物が動いているのを認めた。かつて狐火きつねび天狗火てんぐびや幽霊火のことは聞いておれども、今見たる火はそのようの怪火かいかではなかろうと知りつつ、なんとなく疑懼ぎくの念が起こり、ことに真っ黒の物の見ゆるのは、どうしても化け物であろうと思った。あるいは、高山のことなれば熊でもいるのではあるまいか、もし熊ならば一層恐ろしいと思い、かれこれしているうちに、その黒き怪物が余の方へ向かって歩き出して来たから、これはたまらぬ、四十八手逃げるにしかずと心得、駆け出そうとする途端、先方より余に向かって呼びかけた。そのときようやく正体が分かったが、分かってみれば、枯れ尾花にあらずして普通の人間である。その次第は、箱根町の電信局の脚夫が、電報を近在へ配達したるその帰途に、大雨風のために提灯を消され、空き小屋にたたずみてマッチをつけていたのであった。余が怪火と思ったのはその光であって、風のためにマッチをつければすぐに消え、またつければ消えるので、再三してもよくつかぬ。そこへ余の提灯が見えたから、彼はその火をもらおうと思って待っていた。しかるに、余の方では気味悪く思って足を進めぬから、彼は待ちかねて余の方へ向けて歩き出したので、そのとき、「ドウゾ提灯の火をいただきたい」と申したので、はじめて正体が分かって安心した。って見れば、彼は真っ黒の油紙を頭より全身へかけ着ていた。これが余の目に熊のように見えたわけである。よってそのとき、「化け物の正体見れば脚夫かな」とよみたるも滑稽こっけいであった。

第五項 夜中の大怪物

 自分の実験談のほかに他人の話を紹介したいと思う。余が先年、ある学校に寄宿せしに、同窓の一人土肥某が、夜十二時過ぎ室を出でて便所に行く途中、廊下のそばに大怪物の無言にて立ちいるを見た。なにぶん暗黒にして、その状態をつまびらかに認むることできず怪しんで、これに向かい「なんじ、なにものか」と問いかけたるも、一言の答えがない。さりとて、逃げ去らんとする様子もない。よって大いに志を決し、これと勇ましく格闘する覚悟にて、あらん限りの腕力をふるい、大喝叱咤だいかつしったしてその怪物に取り掛かり、一突きつき飛ばしたれば、ガサンと音がしてすぐたおれた。よく見れば鬼にもあらず賊にもあらずして、炭俵の二俵相重なり、廊下の一隅に高くなっていたことが分かり、図らずも自ら吹き出したという話がある。

第六項 亡者の泣き声

 先年の『読売新聞』に、東京両国回向院の墓場の間に、亡者の泣き声を聞きたる話が出ておった。ここにその一節を読み上げてみよう。
 近来、回向院卵塔場らんとうば辺りへ、白衣をまといたる年若き女の亡霊姿を現出することありとて、近傍の居住者、尾にひれをつけて風説するにぞ、夜更けには同院境内を通行するもの一人もなかりしが、境内居住者、掛け茶屋の主人某なるもの、一両日前の夜、二ツ目辺りよりの帰途、いまだようやく九時半ごろなりければ、かの幽霊の出ずる時刻にはよほど早し、表門へ迂回うかいするも面倒なれば近道をとらんと、松坂町一丁目横町裏門を入り、今しも本堂側を横切らんとしたるとき、ねずみ小僧墓所石構えの裏手に当たり、女の泣く声聞こえけるに、不審を起こし恐る恐る星の光にすかしてうかがい見れば、このごろの人のうわさにたがわぬ幽霊なりしかば、さては十万八千の焼死人中、今に成仏せぬやからありと見えたりなど考えつつ、身を縮めてその場を逃げ去り、観音堂際なる同業者某方へ駆け込みて、ありし次第を告げ、幽霊なれば別に子細もなきことながら、万一自殺者などにもあらんには、明日の厄介面倒なり、いかがはせんとためらうところへ、同院台所男、足音高く通り掛かるを呼び止め、今みてきたれることを語りたるに、寺男はなにげなくうなずきつつ提灯ちょうちん携え、本堂南方、鼠小僧の墓所辺りを見回り、ほどなく某方に立ち戻り、「みなさん御安心なさい、幽霊は幽霊なるが、生きた、しかも年若の男女二人にて、連れの女が酒に酔い過ぎて歩行もできぬ始末に、男が介抱しておったのだ。二人とも、ツイ近所で見かける顔です」と告げ、大笑いにて済みたりと。
 いかに恐ろしき幽霊も、正体が分かれば笑い草となる。

第七項 幽霊の足跡

 去るころ、奈良県の某新聞にも、「妖怪変化へんげ」と題して幽霊談が掲げてあった。その場所は同県磯城しき郡桜井町、某寺の境内である。この寺の墓地に毎夜十一過ぎになると、ハイカラ的丸髷まるまげの亡者が徘徊はいかいするとの噂が町内に広がり、物好きの男が第一番に正体を見あらわしてやらんと、しようもないところに力瘤ちからこぶを入れ、一夜、堂の裏に身をひそめて様子をうかがっていたそうだ。初秋の夜も沈々しんしんと更けた十二時すぎになると、アーラ不思議や、忽然こつぜんとして一人の女に化けた妖怪が現れ、累々るいるいと並んでいる石碑の間を歩いて行くのを見届けたから、翌朝再びその場へ行ってみると、大正の化け物は違ったもので、足跡が点々と墓の間に残っている。そこで、その足跡は狐狸こりか幽霊かと思ってだんだん取り調べたところが、その近辺に一人の好男子が住んでいる。そこへほかより毎夜、これを慕っている婦人が通ってくるのであったそうだ。

第八項 勝海舟先生の実験談

 事柄は維新前の出来事なれども、勝海舟先生より直接に聞いた話がある。むかし先生の書生時代、夜半過ぎに東京牛込区市ヶ谷の谷町を通られたことがある。この場所は、近年は人家相並んで市街をなせども、むかしは真に深山幽谷の趣があった。ことに夜十二時後となっては、全く人影もない場所である。しかるに、深林の間に青白い婦人が、無提灯ちょうちんにて立ち止まっているのが見ゆる。これを認めたる勝先生は、血気最もさかんなる青年時代なれば、定めて狐狸か魔物の変化ならんと思い、一刀の下に打ち倒さんと決心し、刀に手をかけつつ近づきたれば、先方より声をかけ、「恐れ入りまするが、ドウゾ道を教えて下され」というから、よく事情をただしてみれば、その怪物は新宿遊郭の娼妓しょうぎにして、楼主の虐待にたえかね、夜中ひそかに逃げ出したのであったとの話を聞いた。

第九項 怪物、火光を発す

 夜中の光り物につき種々の怪談があるから、その二、三をここに紹介しましょう。福島県のある郡役所に奉職せるものの話に、友人とともに夜中旅行せしことがあった。そのとき野外に、数丁を隔ててはるかに火光を発している所がある。その中に、人の横臥おうがしているがごとき姿が並んで見ゆる。その夜は真の暗夜やみよで、しかも一時ごろの深夜であった。同行の友人は、これは全く怪物が人を驚かさんと欲し、かかる戯れをして見せるのに相違ない。不埒ふらち千万のやつであるとて、大声を発し、「なんじ知らずや、われは万物の長たる人間であるぞ。早く正体を現して逃げ去れよ」と呼ぶも、怪光は依然として滅せず。とにかく近づいて見ようと申し合わせ、両人恐れ恐れ徐行して現場に至り見れば、土橋の改修工事中にて、橋上の土を取り払いたるために、橋台の木が朽ちて光り木となり、その間に立ちたる橋杭はしぐいの黒く見ゆるのを、人の横臥せるがごとく認めたることが判然と相分かり、世の妖怪はみなかくのごときものならんと、互いに笑ったことある由。

第一〇項 横浜の人魂騒ぎ

 すでに数年前のことなるが、横浜市内にて人魂ひとだまの出ずるというについて大騒ぎをしたことがある。その顛末てんまつは、『時事新報』の記事を抜抄して掲げることにしよう。
 横浜市常盤町に、紙商小駒支店松井某方の軒端より、毎夜人魂出ずとの評判高く、市内の者はもちろん、その近在近郷辺りより草鞋わらじばきにて見物に押し掛くる者、毎夜何百人より千人以上に達し、その筋の取り締まりも、なにぶん行き届きかぬるほどの雑踏なるよし。その事の起こりは、去る七月中、松井の女房がことのほかの難産にて、いまだ分娩ぶんべんをおえざるさきに死去したるに、この女房は生前、松井に内々にて愛国生命保険会社と千円の保険契約をなしおりしかば、松井は妻の死後、あたかも拾い物したる思いにて、早速これを受け取りながら、尋常はずれて葬儀を薄くしたるより、死者の遺恨はさこそならめと近所にての風評に続きて、たちまち同家より人魂の飛び出ずるよし言い出せる者あり。近隣の子供三、四人、および菓子屋の職人某、向かい側なる印版屋の主人、同町の生け花師匠某ら、いずれも夜を異にして見たりといい、それより大騒ぎとなりて、米吉の屋前には毎夜人の山を築き、雨戸をずるもの、戸をたたくもの、石を投げ込む者さえあり。その極み、同家の本店の方にては、これも畢竟ひっきょう、松井が平素の仕打ちのよろしからざるためなりと、本支店の縁を絶ち、また市中のならずものは松井の弱味に付け入りて同家へ押し掛け、穏やかならぬ挙動に及ぶ者も多しとぞ。さて、人魂の正体はもとよりなんでもなきことにて、女房の死後、幼女が母の来たりたるを夢み、ある夜不意に泣き出したると、またある夜、同家表二階の座敷の格子に白地浴衣ゆかたをかけ、その上のくぎに黒き帽子をかけ置きたるを、外方より見たるものありて幽霊なりと吹聴したる間もなく、同家の欄間にはめあるガラスに、筋向こうの印版屋方照り返しランプの反射したるを認めて、人魂なりと迷信したるならんといえり。松井の迷惑はいうまでもなけれど、かかることに立ち騒ぎて、心あるものの笑いを招く人々こそ気の毒なれ。
 世間の幽霊談は、大抵この一例によりて推測するを得べしと思う。

第一一項 長崎の火の玉騒ぎ

 先年、余が長崎市に滞在せしとき、市内の一覧橋に深夜、一怪物の火光を発するものが現出するとの評判が起こり、われも彼も争ってその火の玉を見んとて橋上に集まる騒ぎが起こった。そのとき実地に探検したるものありて、トウトウ原因を発見するに至った。橋上より望むに、毎夜十一時後に、およそ十余町離れたる所に火光を発するものが見ゆるも、橋の前後にては見ることができぬ。これは、その橋が平地よりも高くかかっているからである。探検者はあらかじめ、その方角と距離とをシッカリ見定めておいて、その場所に至れば、桶屋おけや町の呉服店の軒灯のガラスに、その向かい側の家にともしてある楼上の灯光が、反射して起こりたるものなることが明らかに分かった。呉服店の軒灯をともしてある間は怪しき光とは見えざれども、十一時ごろにこれを消し止めた後に、前家の灯より反射したる光が、橋上の人の目に奇怪に映じきたるために、妖怪騒ぎを起こすに至ったのである。

第一二項 白色の怪物

 先年、余の自宅に一大怪事の起こったことがある。夜十一時過ぎ、下女が便所に行かんとて廊下に出ずると、庭内に白色の怪物の横臥おうがせるを認め、「化け物がいる」と叫んで逃げ込んだ。その夜は極めて暗黒にして、咫尺しせきも弁ぜざるほどであった。その叫び声を聞いてほかの者が出て見るに、なるほど白き化け物が寝ているというから、余はすでに就褥しゅうじょくしたれどもわざわざ起きて見れば、真っ黒の中に一尺四方くらいの間、白色を呈し、なにものか横臥しているようなる形である。声を出して呼んでも動かず、灯光をもって照らせば消えてしまう。よって怪物でないことは分かるも、いまだその原因が知れぬから、余は庭へ下りてその白き場所を探るに、なんらの手に触るるものなく、顔をここに当てて見れば、明らかにその光のよってきたる原因が知れる。つまりランプの怪物であった。今、これを略図によって示さば、イは余の宅である。ロは便所へ行く廊下、ハは便所、ニは白色の怪物、ホは書斎のランプである。ロの廊下は、右の方一面は土台石の所まで壁にてふさいであり、左の方は全く開いておる。そこで、ロの廊下にあって右手の庭を見るに、ニの点に白色を認むるものである。もし、このニの点に至りそこに顔をつけて見ると、ホのランプの光が見ゆる。すなわち、ホ点のランプの光が書斎のガラス窓をとおし、ロの廊下の縁の下をくぐりて二点に落ちたるために、白く見ゆるに至ったのである。そのときに、ロの廊下の左壁の下に五、六寸の間、壁土が落ちて穴があいておった。右の次第にて、即夜に妖怪の正体を見破ることができた。
余の自宅の略図の図

第一三項 蠅よけ玉の怪

 十五、六年前の『読売新聞』に見えた記事のように記憶しておるが、ある人の茶話中に、己の妖怪と思って驚いた実例を述べてあった。その人はある年の夏逗子ずしに出かけ、一人にて荒れ果てたる農家の座敷を借りていたそうだ。その家は寺と境を接し、一面に墓所と竹藪たけやぶに取り囲まれて、白昼でもさびしいほどである。一夜、月明に対し一酌を傾け、戸も開け放しのまま寝込んでしまい、真夜中に目が覚めて四隣を見渡せば、月は雲間に隠れ、風はサワサワと草木を響かせ、なんとなく気味悪き心地する所、ランプは消え室内は暗黒なるに、枕上より二間ばかり離れて、ピカリピカリと光るものが見ゆる。しばらくにらみつけていたる後、これこそ怪物なりと思い、急に枕を取って投げ付けると、カラカラと音がして転げ出したものがある。こはなにものかと、よくよくただして見れば、昼間にはえよけ玉がおちたるのを机の上に載せて置きながら、自ら忘れてしまったのであったそうだ。

第一四項 備後の火の玉探検

 備後びんご福山近在にて夏の夜、数日間つづきて火の玉が出るという評判が伝わり、福山の教育家連が誘い合って、一夜探検に出かけたが、果たして評判のごとく、数十丁隔たりたる山の半腹に火の玉がかかっている。これ、実に妖怪である。狐狸こりの所業か天狗てんぐの仕事か見届けてやらんと、大意気込みにてその方をたどりて進み行き、現場まで達して見れば、百姓が野外にて夜業をせんとて、大木の枝に大提灯ちょうちんをつるし、その下にて家族相集まり働きおるのであった。すなわち、化け物の正体は提灯であるを見て、せっかくの探検も気抜けしてしまったと、その一行に加わった人の直話じきわ

第一五項 鬼火の正体

 これに類したる話であるが、四、五年前、北海道札幌発行の『北門ほくもん新報』に鬼火探検談が掲げてあった。その大略を申さば、ある地方にて山腹に怪火が現れて、深夜衆人の目に入り、いかにも不思議なれば、鬼火であるか天狗火であるかの風評であったが、これを探検せんとて出かけたる壮士連は、だんだん近づきて木陰より山腹をうかがえば、その火は周囲三尺くらいの焚火たきびらしく見ゆるほどに、なにものならんと抜き足差し足にていよいよ近寄って見れば、こはいかに、乞食体こじきていの老人がこもをまとい、秋の夜寒にたえやらで、枯れ木を集めて火を点じ、心地よげに目を閉じて当たりいたるのであったとのこと。

第一六項 蜘蛛の火

 野火、狐火きつねび、鬼火、天狗火てんぐび等、種々の怪火かいかある中に、大和国磯城しき郡纏向村近傍に蜘蛛火くもびと名づくる怪火ある由。その地方の俗説に、数百の蜘蛛が一塊の火となって虚空を飛行し、もし人がこれに近づくときは、たちまちその火に当たって一命を取らるるといいて、大いに恐れているとか聞いているが、妖怪研究会員豊原氏の実視せし結果を、左のごとく報じきた。
 ある夏の夕、数名相伴い野外に納涼に出かけたるに、突然南の空より一塊の火の玉、尾を引き声をなして、非常の速力にてこちらを指して飛びきたるにぞ、一同大いに驚き、これがいわゆる蜘蛛火ならんと、急ぎて内に入り雨戸を閉じたるに、その火はやがて庭の大樹にあたりて落ちたるごとく思われしより、戸のすきよりうかがい見るに、火の影絶えてなし。よって一同庭へ下り、月光をかりてここかしことさがし見るに、その形、橙実だいだいほどの焼け土の一塊が、大樹の根より三、四尺離れたる所に落ちてありしを見いだしたり、云云うんぬん
 この報告によれば、蜘蛛火は隕星いんせいなること明らかである。世間のいわゆる怪火は、隕星、電気、燐火りんか等を見て、これに種々の名を下すのが多い。

第一七項 怪火の巨魁

 筑紫つくし不知火しらぬいといえば、なにびとも知らざるなく妖怪中の巨魁きょかいであるが、先年、熊本高等学校の教員は海中の虫ならんと思い、海水をくんで試験を施してみたれども原因不明であった。ある人の説には漁火であるといい、その証拠を記載したものがある。その記事によれば、不知火といえるは、かたもなきいつわりごとである。昔よりその名は高く伝わり、実地見た人も多かれども、みないつわりに欺かれてその実を知らぬのである。これは熊本県八代郡の海辺鏡村などより、漁猟に出でたるものの漁火に相違ない。彼らは旧暦八月朔日ついたちのもうけ魚を取らんために出かけるから、七月の晦日みそかの夜に見ゆるのである。その夜は、かの村人もこれを竜灯と唱えて、イザ竜灯に出かけんと申し合わせて漁業に出るということだ。それを遠くより見る人が不知火と名づけたるのである。この説は、その郡のことを知れる某氏が、村民より聞きたる事実談なれば疑うところはない。されば、いにしえの天皇のみそなわして岸につきたまいしも、この漁火ならんかと思う。古人は深くその原因を正さずして、不知火と語り伝え、かつ、史にも記せしならんと説明している。
 この説明いまだ全く信許し難いけれども、わが国にて古来、海上に竜灯が上がるといい伝うる中には、このように漁火を誤り認めたるもあるであろう。

第一八項 不知火の探検

 先年、筑後ちくごの柳河にて、ある小学校長より聞いた話がある。その校長が不知火しらぬいを探検せんとて、火の出ずる季節に漁舟を雇い、夕刻より海上へこぎ出だしたれど、なかなか火が見えぬ。せっかく探検に出てなにも得るところなしに帰るは残念と思い、海上数里の先に舟を漂わせて四方を見渡すうちに、はるかに火の出ずるを認め、しばらくの間にだんだんとその数が多くなってきた。これこそ不知火に相違ないと思い、その方へ船を進めよと命ずれども、船頭恐れている気色であるから、いろいろ説諭して近づかせたるに、その火が上がったり下がったり動きつつあるほかに、黒き形のものが点々その火の間に見えている。そこで、探検者もなんとなく薄気味悪く感じたれども、大いに勇気を鼓してその方に向かううちに人の話し声が聞こえ、その黒き色は全く人であることが分かり、現場に入ってたずねてみれば、この海中に浅き所ありて、引き潮のときに犬井道の村より多数の漁人、男女ともここに来たりて海蕈うみたけを採拾するのであった(海蕈は海草の一種にして海中の州に生ずるもの)。かくして、トウトウ探検を遂げて帰ったという実験談を聞いたことがある。そればかりが不知火でもあるまいけれども、かかる火も不知火として伝えているに違いないと思う。

第一九項 不知火の説明

 先年、熊本県漫遊の際、八代郡長が不知火について話されたことを記憶している。郡長はたびたび不知火を実見したことがある。その後、八代の海浜にて夕日の沈まんとするとき、海中の州をなせる浅き所に双方より潮が来たりて打ち合い、これに日光が斜めに照らし込み、その波の光るありさまは不知火の状態とよく似ていた。このことより推測するに、天草洋と有明沖には海中に浅き所がある。そこへ満潮のときに双方より潮が押し寄せ来たり、互いに打ち合って光を発するのが、不知火の起こる原因であるとの説であった。
 余は先年、不知火の出ずる季節に島原半島に滞在したから、一夜見物に出かけたこともあったが、そのときは見ることができなかった。しかし他人の実見談を聞くに、暗夜にして満潮の時刻に限るとのことである。これを八代郡長の説にあわせ考うるに、高潮の節、海水の互いに打ち合うときに、塩分の摩擦によりて起こる光を望んで、不知火と名づけたるものであろう。暗夜舟をこぐときに、海水が光を発すると同一の道理である。余は、この説をとって、不知火の正体としたいと思う。

第二〇項 海上の幻影

 上総かずさの九十九里の海浜にて、一夜海上に怪物の現れたることがある。そのときは暗夜であって、提灯ちょうちんを携えなければ歩くことができぬ。そのとき、海浜を往来するものが驚いて帰り、「海上に大入道が現出している、必ず海亡魂うみぼうこんであろう」と申すから、その村の小学校長が事実をたしかめんために出かけて見たが、なるほど大坊主が海上に現れておる。決して神経より発する妄像ではない。しかしてその大坊主は、われが歩けば同時に歩き、止まれば同時に止まり、手をあぐれば彼もまたあぐ。そこでようやく考えがつき、己の身体の幻影ということが分かった。そのときは海面に濃霧がかかり、提灯の光でわが姿がその濃霧に映り、あたかも鏡のごときありさまになっていた。「世に、自分の影にだまされるとはこのことであろう、云云うんぬん」と校長が話であった。この、霧に姿が映るということは深山に往々あることで、昔の人はその原因をたださずに、ただちに海坊主とか山男とか名づけ、妖怪にしてしまったのである。

第二一項 汽笛にだまされた話

 東海線にも三陽線にも起こった出来事にて、一時新聞に見えていたが、夜半過ぎに汽車が進行している間に、向かいの方よりしきりに汽笛を鳴らす音がする(そのときは鉄道がすべて単線であった)。今、汽車の来る時刻でないが、なんの汽笛であるか分からぬけれども、もしや臨時汽車の来たらぬとも限らぬから、衝突を恐れて途中停車した。しかるに、先方より汽車の来る気色さらにない。そこで再び進行して、無事につぎの駅に達したことがある。そのときの評には、「狐が汽笛を鳴らしてだましたのだ。その証拠には、翌朝その線路に、狐が汽車に圧せられて死んでいた」と申した。余の説にては、先方より汽笛の聞こえたのは、決して怪しむに足らぬ。深更になって世間の静まりたるときには風の都合にて、他線路あるいは遠方の汽車より発する汽笛が、わずか数丁離れた所のごとくに聞こゆるものであるから、これを他の汽車の向こうより来たるのと聞き違えたのであろう。その話は西洋にもたびたびあるように聞いている。
 ただし、狐が死んでいたなどは話に尾を付けたので当てにならぬ。もし、狐が人をだますために汽笛を鳴らしたものとせんか。進行を継続する場合に、なにゆえに線路を逃げ出さぬか、それこそ奇怪千万である。もし、果たして翌日狐が倒れていたとすれば、それは偶然の出来事というものであって、汽笛には関係のない事柄と見なければならぬ。

第二二項 妖怪の本性

 明治三十八年発行の『電報新聞』に、羽後うご人某の報告を掲げてあった。妖怪の本性を知るの一例となるべしと思い、ここにその一節を摘載することにした。
 本年八月、学友と旅行を企て、北河村という所を過ぎた。この村の端を流るる玉川に千丈ヶ淵というのがある。ここにあまたの人々群集して、なにごとか協議していたからたずねたところが、「昔、ある僧がこの淵の主なる女竜を退治しようと思って身を投じ、僧が代わって主となり、ここを通るときは必ず悪魔に襲わると伝えている。しかるに、今朝その僧の遺骸が浮き上がったために、たたりが恐ろしさにほこらを建ててまつろうと思って、今、協議中である」と語った。かく聞いて学友は、平素冒険的の気性のある男だから黙止していられない。よし、その本性をあらわしくれんとて、村人のとどむるも聞かず、強いていかだに乗り込み漸々進んで行った。こっちにては村人ら、いかなることかと手に汗を握って、まばたきもしないで見つめていた。やがて学友は、ぬしの浮き上がっているそばに進んで、その頭のようなものを力限り引き上げた。こはいかに、大なる瓢箪ひょうたんであった。中には大きいどじょう五、六匹入りて口をふさいであるために、あたかも生きているように動くのである。川上の村落で子供らの玩具とせし物が流れてこの淵にとどまりしことと分かり、村人らもはじめて迷信を知り、大いに喜んで主退治の労を感謝した。
 世間の人は全く探検せずに、はじめより妖怪の所為と断定するために、化け物談が多くなるのである。

第二三項 書生、幽霊に悩まさる

 函館発行の『北海新聞』に、およそ十年前、幽霊に関する滑稽こっけい談が載せてあった。それは一書生の幽霊に悩まされたるはなしである。
 一書生、東都に留学中、郷里にて未来の妻君と定めたる一少女の訃音ふいんに接せり。時たまたま転居して、別に新たなる下宿屋に行けり。その翌朝、机上に女の髪の毛一筋落ち散りてありたれば、その端をつまみて戸外にすてたり。けれども、その明くる朝も明くる朝も、必ず一筋の女の髪の毛、あるいは机上に、あるいは書函の上に、またあるいは障子や唐紙に、いつもこれを発見するより神経を起こして、必ずかの少女が毎夜来たって残しゆくものに相違なしと青くなって、別懇にしている友人をとまりに来てもらいたれど、毎朝、髪の毛の机や障子、唐紙になしというなし。
 学生はますます青くなり、食事もろくに食えずなりたれば、下宿屋中にて、だれの部屋に幽霊が来ると大評判になり、なかには短刀や棍棒こんぼうひっさげて、夜中ひそかにその室外をうかがう者さえあるに至りたれば、下宿屋にても、もしや書生に怪我けがでもありてはと、戸籍調べの巡査にこのことを話すと、「それは捨ておかれず。しかして髪は油がついているかどうか」とたずねられて、ナールとばかり女将おかみが気が付いたから、女部屋に掛けてありしほうきをあらためて見て大笑い。書生が毎朝起きて洗面に行った後に、下女が女部屋の箒を持って行ってすぐと掃除しおったから、いつの朝でも、その不潔下女の髪の毛が箒から落ちていたのであるとわかり、巡査も居合わしたる客も書生も腹を抱えて、下女ばかりがしたたかに戒められたということであるという。
 書生すら神経を起こすとこのようであるから、婦人や無教育の人の、妖怪に迷わさるるは無理ならぬことである。

第二四項 銀杏の化け物

 先年夏の夜、東京神田区東福田町、倉本某方の左手にある銀杏いちょうの大樹の下に毎夜年若き幽霊立ち現れて、なにごとか怨詛えんそするさまものすごく、だれも見たり彼も出逢えりと言い触らし一時大評判となった。これを探検したる話を聞くに、この木の両側に古土蔵あって、その間わずか六尺ばかりの空地に枝葉おおい茂り、なんとなく陰気に見ゆる所へ、その樹下のごみ箱の上に、なにものか毎夜怪しげなる食物を置き去る。ときによっては麦蕎粉そばこ菓子に丸麦二合を紙に包んで置き、あるいは小団子百二十個ずつ二包みとなし置くなどのことありし由。その原因は、古き銀杏に願を掛くると、その願が成就すという迷信が民間に伝わっているために、毎夜食物をそなうるものがあるので、それと誤り認めて幽霊沙汰ざたが起こったとのことである。かく聞いてみれば一場の滑稽こっけいである。

第二五項 妖怪屋敷の実験談

 都会には妖怪屋敷と申すものが多く、その家に住居すると病者や死人ができるから、避け嫌う風がことにはなはだしい。日本中にては東京に最も多いように思わる。余のこれまで取り調べたる妖怪屋敷を見るに、家屋の光線の取り方がよろしくなく、空気の流通が悪くして、室内は薄暗く、陰気に感ずる家に多い。しからざれば低地湿地の家に多いが、その他にも種々の事情あって、妖怪屋敷の評判が立ってくる。その一例として、ある人の実験談を話しましょうが、その人は東京の化け物屋敷と唱えらるる家に住せしことがある。その家にては深夜になるに従い、カチャンカチャンという一種の奇怪なる声が絶えず聞こえてくる。いかにも妖怪の音らしく感ぜらるる。しかし、これには必ずしかるべき原因あるべしと思い、よくよく取り調べてみれば、その家の井戸の中に、途中よりサシ水の穴ありて、これより落ち込む水の滴る音なることが知れた。多分、これまで、かかる雑水のまじれる井水を飲むために、病人も出でたるに相違ないとの説であった。妖怪屋敷も原因をただしてみれば、こんなもの。

第二六項 狐狸の拍子木

 余がむかし越後えちごにいて、ある田舎の妖怪屋敷を探検したことがある。その家は大なる茅屋ぼうおくにして、裏には深林と墓場とがあるのみだ。越後は雪の多く積もる所で、三、四カ月の間は屋上に雪が絶えぬありさまである。その雪のようやく消えんとするころ、毎夜、屋後に拍子木ひょうしぎをうつ音がするとの大評判になり、ここに来たり集まるもの、みなその声を聞いて恐れて帰り、これはたぬきの拍子木であるとの公評であった。つまり、越後の深林中に住する狸の所業ということにきまった。余も一度探検に出かけその音を聞いたが、狸の仕業でないと思い、よくその方角、位置を聞き定め、翌日再びここに至り、屋後を探り見るに、大いなる竹の筒(筆立てのごときもの)が雨滴あまだれの落つる所に立ちおり、これに屋根の雪がとけて落つるときに、その一滴一滴がこの筒の中に落ち込み、ために発したる音なることが分かった。昼間は世間の騒がしさに奪われて聞こえぬけれど、夜間になるとその音がよく響くのである。これを狸の拍子木などとは、実に滑稽こっけいではないか。

第二七項 屋内の怪音

 宮崎県宮崎郡田野村にて、村長より直接に聞いた話に、その村のある民家に、二階の人のおらざる所に、毎夜キー、キー、キーと鳴る音がするので、妖怪の仕業に相違なかろうとて、たちまち大評判となり、わざわざ探検に出かけるものも、みなその音を聞いて、驚きかつ恐れて帰って来る。そこである夜、村長が出かけ、二階の片隅にひそんで静かにうかがっていたるに、一頭のねずみが出で来たり、ここにある糸取り車に乗り、おもしろそうに車を回しはじめた。その音がまさしく妖怪の声となり、キー、キーと響くから、早速その鼠を追い払いたれば、すぐにやんでしまい、そののち糸車を階下へおろしたるに、全く怪音がなくなったとのこと。

第二八項 鼠の曲芸

 これと同様の事実が『青森新報』に出ていたことがある。その話は左のとおり。
 なんとやらいう土地の百姓家で、夜になると雪隠せっちんのそばへ妖怪が出る。もっとも姿は見えないが、ときどきギーギーという怪しい声が聞こえるので、家内中の恐怖はもちろん、近隣の者まで驚き怪しんで評判となったが、その原因がおかしい。糸車の古いのを、雪隠の天井へ投げ込んで置いたまま、久しくなって忘れていたのを、鼠めが車の輪へつかまって、南京なんきん鼠のように曲芸をやっておもしろがっていたのだ。その都度、油の切れた車がギーギーと音がするのを妖怪と思ったので、ずいぶんばかげたことだが、妖怪などというものはみなこの類であろう。
 人は万物の長といいながら、鼠の曲芸に驚かされるなどは笑止千万である。

第二九項 老樹の怒鳴

 大樹の老いさらばえたるものには、往々怒鳴どめいをなすことがある。世間にてはこれを奇怪として、その原因を狐狸こり天狗てんぐに帰するが、しからざればその木に精神がありて、村内に災難のあるを予告してくれるのであると申せども、これもとより樹そのものの怒鳴するのでなく、その樹幹の内部に禽獣動物のみ込んで発する音である。明治二十八年、尾州丹羽郡青木村字天摩なる神社の境内に、古杉の大木があったが、その木が毎夜怒鳴してやまぬから、たちまち近郷近在に知れ渡り、その声聞かんと、毎夜遠近より集まり来たりて山を築くほどであった。かくて、ついに警察の耳に入り、その力によってようやく原因が明らかに知れた。この樹の体内に空洞があって、その口が外に開いているから、この口よりいろいろの方法をもって洞内を探ってみたれば、ついにその内部にふくろうの巣を作って住めるを発見し、数日間の怒鳴は、狐狸にあらず、樹魂にあらず、全くこのふくろうなることが分かったことがある。

第三〇項 怪音の正体

 これと同様の話が先年、仙台の新聞にも見えていた。ころは明治二十六年五月ごろ、福島県石川郡石川町字下泉、鎮守の古びたるけやきがうなり出だせしことあって、やはり妖怪沙汰ざたとなり、人々その声に驚かされ、種々の俗説が起こってきた。しかるにあるものが、その木に朽ちたる穴があるから、この穴の中になにか動物が住んでいるのではあるまいかと思い、もちを塗り置きしところ、案のごとく、やがてみみずく二羽捕らわれたという話が、『東北新聞』にて報じてあった。

第三一項 化け物欅

 近ごろ新潟市にて発行せる新聞中にも、右同様の怪談を載せてある。その大略を抜記すれば、
 村松町より一里をへだつる中蒲原なかかんばら郡橋田村大字おおあざ西四つ屋、曹洞宗泉蔵寺大門先なる関谷安次宅地内に、数百年を経たる高さ五間、幹の周囲約一丈の大欅おおけやきあり。去る二十三日の夜九時ごろ、同字関谷清一郎の弟清次が、大沢なる地蔵尊の祭典に赴きたる帰途、くだんの場所に差しかかるや、携えたる提灯ちょうちんふと消ゆるとひとしく、病人のうめくがごとき一種のうめき、大欅の根元より発したるため、清次は身の毛をよだててふるい上がり、踏む足しどろに逃げ帰り、家人にも告げず寝込んでしまう。
 越えて一日、同字若もの三名、午後十時ごろ同じ場所を通行する折、例の怪しきうめき聞こゆるにぞ、これまた青くなって逃げ帰り、かくと村内へ告げ回る。伝え聞ける人々五十余名、二日夜、各自提灯を携え赴きたるところ、九時までなんともなきより、一同不平だらだら、引き返さんとする折、例の怪しきうなり、盛んに起こる。一同恐ろしさを通り越し、不審の感に打たれ、翌日同所を探検すべく申し合わせて引き上ぐ。
 翌朝、村民一同大欅の根元に至り、幹から枝を探り見たれど、老樹にあるべき洞穴さえなく、少しも怪しき筋なく、一同不審の念に打たれながら手を引く。これを聞ける同村軍人分会長ならびに青年会員は、われこそ究めくれんずと、三日の夜、一行二百余名および巡査、区長、そのほか村のおもだち二十余名、おのおのくだんの場所に至り、今か今かと待つうち怪しのうめき聞こゆ。声の発する箇所は根元なりといい、樹上なりといい、十数間はなれて群がる婦女子の耳へは、あたかも木魚のごとく聞こゆという。
 一同、どれが本当やらわけがわからず、あっけに取らる。かくて、怪物は九時ごろより午前二時ごろまで盛んにうめき立て、一回二、三百もうなりては二十分ぐらい休み、さらにうめき出す。今は人々恐ろしさも忘れておもしろがり、毎夜数百人押しかけ行きはやしたつれば、怪物また図に乗りてか、盛んにうめき立つ。ために、泉蔵寺大門先には大道店さえ一、二軒できたる始末。村民は原因不明なるため、金甕かなかめのうなりなりとか、昔の墓地跡なれば亡霊の仕業なりなど、うわさとりどりなりとぞ。
 右のとおりであるが、新聞の方ではその原因不明なれども、余が熊本県来民くたみ町に至りしときにも、同所の大木が夜分になるとうめき出すとの評判があったから、その木を見に行った。別に洞穴の口も見えぬけれども、聞くところにては、数間高い所の大枝が分かれている間に朽ち穴があるとのことなれば、そこより鳥が入り来たりて、巣を作っているに相違ないと判決したことがある。これによって考うれば、新潟県の怪事も人の目には見えぬとも、その木の上の方に隠れたる朽ち穴があるに相違ないと思わる。よく樹の全部を調べてみたならば、必ず朽ち穴があって、ふくろうかみみずくがその中に住んでおったのであろう。

第三二項 経をよむ古木

 今より十年前発行の『電報新聞』に、けやきの怪音を発覚せし実験談を報告してあったから、これも参考のために一節だけを転載しておこう。
 神奈川県中郡秦野地方の習慣として、盆の十三日の晩より三日間、毎夜祖先のお墓へ参詣さんけいし、碑前にて麦からを燃やす例あり。今を去る五年前、例の墓参をなし、碑前にて麦わらを燃やし始めしに、不思議や、墓所の後ろなる大きさ二抱えに余る古木の欅、高らかに経をよみ始めたり。されば、あまたの墓参人にわかに騒ぎ立ちて、世には不思議なこともあるものかな、欅が経をよむとはいかにも不審なることぞと寄り集まり、さらに耳をそばだてて聞きしに、なるほど経をよむ声聞こゆ。しかして、麦藁のますます盛んに燃え、パチパチとはぜるに従い、いよいよ大音を発してよみけるに、たちまち人の噂ひろまり、欅が経を唱うるぞと、われもわれもと来たり聴くもの、あたかも縁日のごとし。また、小店を張るものもあるに至れり。ようやく盆も過ぎければ、早速世話人ら集会をなし、相談のうえ欅をきることに決議ととのいたり。さて、そまをしてきらしめしに、その切り口より血潮は滴々と流れ出でたり。ますます不思議に不思議を重ねて、しきりに樹のきれるを待ちおりしに、やがて倒れたるを急ぎ見れば、欅のうしろに縞蛇しまへびの腹部より切断したると、熊蜂くまばちの大いなる巣とありたり。
 つまりその原因は、欅の空洞に熊蜂が巣を作りし所へ、蛇が蜂の子を取らんとてその巣にさわり、無数の蜂が一時に鳴り出だしたる出来事である。ふくろう、みみずくのほかに、かかる樹鳴の正体もあることを注意せねばならぬ。

第三三項 壁間の怪音

 右に類似せる話が今一つある。先年、水戸市の士族屋敷の古屋を借りて住んだものがあった。その家は久しく空き家になっておったということだ。この家に引っ越して以来、深夜になると、座敷の床の間の裏に当たりて一種奇怪なる音がする。その音はモーンという声である。もし家の裏手へ回ってみると、座敷の中の方に聞こゆ。よって、家の内か外か分からぬ。いかにも不思議であって、なにか化け物の仕業であろうということになった。その話を聞いて、親類や友達が集まり通夜したことがあるも、みなその音の奇怪なるに驚かぬものはない。しかるに、そのうちの一人が申すには、床の間の壁の中に相違ないから、この壁を破って見ようというも、他の人は恐ろしがりて賛成するものがない。しかし、当人はドウしても見届けたいと思い、その音のする場所を目がけて一刀を差し込んだ。翌日この穴からのぞいて見たれば、床の間の壁と外の壁との間に、一尺ばかりの空所があった。その空所へ蜂が大いなる巣を作っていたことが知れ、夜分のモーンという怪音は、その巣に数百の蜂がやどっている所へ、ねずみが蜂の子を取らんとてこれに触るると、その蜂がモーンと鳴いて騒ぎ立つる声であった。かく探検をきわめてみれば、なにも不思議でないが、世間普通の人は深く原因をたださずに、化け物の所業とするから妖怪が多くなるのだ。

第三四項 社林の化け物

 信州諏訪すわ神社の境内には杉の古木が茂っておる。そのうち、最も古き大木が神木としてあがめてある。この木が夏の夜不意に声を発し、夜中境内を通行する人あれば、その木が「オーイ、オーイ」と声をかけて呼び出だす。これを聞くものは化け物なりと思い、恐れて逃げ出すことが、毎夜つづいた。しかるに数日の後、ふとその原因が発覚してみれば、樹の霊でもなく、化け物の所業でもなく、その近傍に住する物ずきものの仕業であった。この者は毎夜暗くなると、その木のほらの中に入りて隠れている。その洞は木の根より四、五尺高い所に口を開き、それより下は全く空所ができているゆえ、その中に入ってかがんでいると、外から全く姿を見ることができぬ。かくして、人の通る足音を聞くごとに「オーイ」と呼びかけて驚かし、十時後になって通行なきようになれば、コッソリ洞中より出でて自宅に帰り、知らぬ顔して寝てしまう。しかしてその発覚したのは、ある夜当人、洞の中にて眠り込んで、自宅に帰ることを忘れ、目をさましてみれば、夜明けになっていた。そこで、ウッカリ出ると人に見つけらるるから、ドウしようかとタバコを吸いながら考えていたあたかもそのとき、境内を掃除している社僕が、神木の洞中より煙の上がるを認め、これは大変である、あの大切の木が焼けている、すぐに大手桶ておけに水をくんでその洞口へ注ぎ込んだ。そうすると、樹の中にいるものはビックリして飛び出てきたので、はじめて化け物の正体が分かったという話を信州客中に聞いた。

第三五項 無縁仏の涙雨

 先年発行の『みやこ新聞』の雑報欄内に、左の一項を掲げてあった。
 府下南千住町の法華庵は、昔の刑場なる小塚原通りにて、境内および近所には、千人塚、無縁仏など、囚人の亡魂を祭りし墳墓あり。もちかし、その他の雑木生い茂りて、すこぶる薄さびしき所なるが、四、五日前より天気快晴なるにもかかわらず、この境内の樹木より、ポツリポツリと雨雫あましずくが落ちきたるを近所の者が認め、「不思議だ、不思議だ」と言い触らせしより、たちまち大評判となり、毎日黒山のごとき人だかりにて、「むかし、この所にて首をはねられた囚人が、無縁仏となり得道解脱とくどうげだつができずして、地獄の中に泣き叫ぶ、その涙雨が降るものならん」とうわさし合う、云云うんぬん
 その原因は、この場所が日本鉄道隅田川線荷物列車踏切の南に隣りいるゆえ、汽車が通行の際、汽罐きかんより吹き上ぐる湯気が木の葉に掛かって凝結し、雫となって落つるのであったそうだ。しかるに、愚民はよくその原因をたださずに、己の迷信より種々の妄想を付会して、仏の涙などと申せし由。

第三六項 井筒の陰火

 世間には狐火きつねび、鬼火と同じく、古井の中より青火を発することがある。その例は、先年発行の『毎日新聞』に出ていた。
 東京府下南葛飾郡葛西村字大島の共同井戸より、フトこのごろの五月雨さみだれ続く夜ごとのさびしさにつれて、青白き一団の陰火立ちのぼり、四、五尺の高さにてパッとかき消さるるを見たり。彼も見たりわれも見たりとて、おいおいうわさ広まりゆき、昨今はわざわざこれを見物せんとて近村より出かくる者もあるより、かかる場合の習慣にて種々の浮説これに伴って起こり、「かの井戸は何年前、これこれの女が恨みをのんで入水せしかば、その亡魂の夜な夜な不思議を現ずるものなるべし」など、真実らしく語り伝えて、夜に入れば、井筒の辺りは人山を築くばかりに集まれる由。
 これ、燐火りんかなることは明らかである。

第三七項 金貨の幽霊

 余は先年、某新聞にて読んだことを記憶している。その事柄は、東京新橋尾張町辺りに、夜ふけ、人ね四隣静まりたる後、ある屋敷より、毎夜サラサラと紙ずれの音と、チャリンチャリンと金貨の響きの漏るるより、こは金銭に恨みを残して死したるものの亡霊でもあって、この音を発するものであろうとの評であったが、その実はしからず。その屋敷の中に、非常の締まり屋にて、金銭を貴ぶこと一方ならず、毎夜人の寝るころより夜明けまで必ず起きて、金庫の前に座し、その積もりし金をいちいち数えるのがなによりの楽しみにしているものがあって、夜半後にその当人の手にて数える音が、戸外に漏るるに至ったのであった。幽霊にも奇体の幽霊もあるものだ。

第三八項 投石の怪事

 世間には、夜中、石を投げて人を驚かす怪事が昔から伝わっている。これを狐狸こりの所業に帰し、狐が後足にて石をけとばすのであるといい、また天狗礫てんぐつぶてとも申して、天狗が石を投げるのであるとの説であるが、今日にては全く人の所業なることが分かってきた。その一例として、京都に起こった事件を、その当時の新聞の雑報より抄録してみよう。
 京都上京区元六六組北町、織物職藪田やぶた喜七郎方にて、ある夜十一時ごろより、にわかに小石の雨が降りきたり、毎夜同じ時刻に降ってくる。その所業者をたずぬるも一向見当たらぬにぞ、さては天狗か狐狸の所業かとて、近所近辺の一問題となりたるより、警官がわざわざ出張のうえ取り調べたるに、ただ疑わしきは同家の雇い女おしながその時刻に見えなくなりたるより、もしやと思いて跡をつけゆくと、果たしてその女はほど近き竹藪の内に入り、小石を拾いては投げはじめるにぞ。さてこそ正体見届けたりと、ただちに引き捕らえて取り調ぶるに、元来このおしなは、丹波国南桑田郡吉川村、平民菊島市松の妹にて、二年前より右の藪田方に雇われいたるが、ちょうど同家に寄留しいる荒木常太郎に通じいるゆえ、主人喜七郎はこのことをかぎつけてそれとなく小言をいうより、わが身の淫奔いんぽんを思わず、主人の小言を恨んでいたところ、去る二日のこととか、仕事の不出来より、またまた厳しくしかられたを根に持ち、去る五日の夕方、喜七郎が行水している折、そっと藪陰から小石を投げしも、喜七郎はおしなの所為と気づかず、狐狸の悪戯いたずらといいおるに、グッと乗りがきて、それより毎夜そっと抜け出しては、小石をばらばら投げつけて、ひそかに鬱憤うっぷんを晴らせし由、包まず白状に及びたるにぞ。なお、その不心得を説諭のうえ、主人喜七郎へ下げ渡されしとは、女に似合わぬ悪いたずらなり。
 この一例に考えて人為的なることが分かる。

第三九項 仙台の投石事件

 明治二十七年ごろの『奥羽日日新聞』にも、投石の探検始末を掲げてあった。その大要は左のとおりである。
 仙台市内良覚院町の石投げ怪聞について、ある夜、某氏の探検談を聞くに、同夜は暑熱のはなはだしきにもかかわらず、納涼かたがた見物に来たるものおびただしく、ために良覚院の細横町は通り切れぬほどなりし。さて、今や怪石の降りくるかと待つほどもなく、九時三十分ごろに至り同町の地先にて、突然降下せしとて拾い上げたる石塊いしころを見るに、あたかも数年間土中に埋まりいたりとおぼしく、十分水気を含蓄せる、縦四寸ばかりの円石なり。探検者はその拾い上げたる人に目星をつけ、それとはなしに始終その人に尾行するに、彼はこれを気づきたる風なり。東西南北と群集の中を駆け回る様子なれば、なおも尾行するに、三十分ほどをへだてその人の右手に当たり、ドシリという音せしが、彼はまたここにも降りたりと、自ら拾い上げて、さも珍しそうに諸人に示しおれり。探検者はますますこれを怪しみて、なにげなく群集に押されたる風を装い、突然彼と衝突せしに、彼が左たもとには確かになにやらん堅きもの二、三個入れおけり。よって探検者は、怪聞の原因を左のごとく説明せりと。
一、降下せる石塊はいつも同一の人間に拾い上げらるること。
一、拾い上げたる人の袂には石塊を入れあること。
 この探検談によって、一層人為なることが明瞭である。

第四〇項 鹿児島の怪談

 近く大正年間になって鹿児島に起こった一怪事も、ややこれに類似している。ここに『鹿児島朝日新聞』を抜粋しようと思う。
 市内永田町、山下虎之助氏宅に過般来怪奇の出来事あり。春の日の吹く風生温なまぬるく、人の気も変になろうとする真っ昼間、机の上の絵の具がスーッと消えて、井戸の中に血のごとく溶けていたり、化粧瓶がひとりでに走り出したり、ハッと思うと大きな石が音もなくコロコロと座敷に転がり込んでくるという、誠に物騒千万な話。家族はとうとういたたまらず、去る八日、冷水町へ移転してヤレヤレと安心の胸なでおろし、その日ばかりは事もなく過ぎた。近隣の人も、さては家屋敷に因縁があったのだろうとうわさしていたが、中には行くさきざきまで気遣って、人の疝気せんきに気をもむ連中も少なくなかった。
 果然果然、やはり魔がさしていたのであろう。九日になると、金魚が一匹姿を消してしまった。その翌日は、下駄げたが一足どこへか消えた。そのまた翌十一日には、朝から茶盆大の石が縁側にコロコロッ、砂がバラバラ、障子がスー、雨戸がガタリと開く。また、石が飛び込むという物騒さ。細君が念のため記しておいたところによると、石が十一回、砂の舞い込んだことは数知れなかったという。
 この風説が伝わるや、当警察署では、いかにも奇怪千万のことなるが、とにかくなにものかの悪戯に相違なしと見当をつけ、十一日午前九時より、巡査部長ほか一名の署員、私服にて現場へ出張し、同家の内外を警戒したるが、その間も例のとおり盆大の石がコロコロ、砂がバラバラ、障子がスーッという始末に、業を煮やすこと一方ならず。種々苦心の結果、下女西桜島村武、当時市内池之上町講道学舎付近居住、新助長女坂上ツルの挙動いかにも不審の点あるを発見し、細君に計り下女に命じて台所にて湯を沸かさせ、台所口の六畳の障子をしめて、部長は畳に体をすりつけて障子の穴よりうかがい、巡査は屋外に潜みて厳重に監視しいたり。時まさに三時四十分、下女のツルはイソイソとしてやかんをさげ、戸外に出でたり。見張りの巡査いずれも目を皿のごとくにして見つむれば、こはそもいかに、ツルは赤黒きチヂレ毛を逆立て、目は異様に輝き、あたかも一寸ばかりも飛び出したごとく、口をキリリと結んで庭の片隅に赴き、飛鳥のごとく砂をつかむやいなや、屋内目掛けてバラバラッと投げ込んだ。アトはケロリとしてニヤリと破顔一笑、やかんをさげて台所に入り来たり、そこにそろえてあった巡査の表付きの下駄ヒョッとつかんだ形相のものすごさ、さすがの巡査も、ゾッと身の毛が立ったという。
 かくして、ツル女をきびしく取り調べの結果、ついに化け物の正体を現し、手品の種が分かったということだ。前に掲げた方は、恨みを晴らすとか悪戯の心から出た所業であるが、この鹿児島の出来事は、一種の発狂的に属するものである。余はこれを投石狂と名づけておいた。すなわち病的作用である。

第四一項 和歌山市の怪事

 今より二十三、四年前のことなるが、和歌山市外のある民家で種々の怪事起こり、あるいは石を降らせ、あるいは物がなくなる等ありて、和歌山市のものにて現場へ探検に出かけしところ、本人の頭へ灰をかぶせられ、驚きおそれて帰り、余にその説明を頼んできた。余はこれを聞いて、「ほかより狐狸こり天狗てんぐのなす所業でなく、家族中に原因あるべし。よく家の内に注意して取り調ぶるがよろしい」と申しておいたが、その後の報告によれば、「同家に住する十三歳になる娘の所業なることが発覚せし」と申してきた。これは、やはり一種の病的の方であった。

第四二項 佐賀の怪事

 和歌山市の事件より二、三年も前、佐賀市のある家に、薪木まきの天より降りてきたことがあった。これはその家に奉公せる下男が、おもしろ半分に悪戯をなしたことがすぐ分かった。下男が自ら薪木を天に向けて投げ出だし、人に告げて曰く、「今、天から薪木が降った」という。あるときに、人にその投げるところを発見されたために、当人の所為なることが分かったのである。かくのごとき例はたくさんあるから、今少しその例を挙げておこう。

第四三項 高崎の投石事件

 投石の怪事にして、原因を発見せし例は前に掲げしほかに多々あるが、そのうちの一例は先年、群馬県高崎市檜物ひもの町に起こった出来事である。同町成田某の所有せる半建ての別荘は、その敷地がむかし高崎藩の断頭場の跡とて、ときどき妖怪出没のうわさありし所へ別荘を建てかけたれば、ある夜より、そのトタン屋根へどこよりとなく石が降り、カチーンカチーンと鳴る音はすこぶるものすごく聞こゆるより、隣家の人々まず騒ぎ立て、おいおい大評判となって化け物の仕業ときまった。これを警察署にて聞き込み、種々取り調べたる結果、同町内青柳某の女房が少々精神に異状を起こし、石を自宅の庭より例の別荘へ投げ、トタン屋根に落ちて音のするのがおもしろく、また人々の立ち騒ぐのが愉快さに、家人のすきをうかがって盛んに投げたることが知れ、果ては大笑いとなったとのこと、当時の新聞に見えていた。

第四四項 浅虫の怪談

 先年、青森県浅虫村に一大怪事の現出せしことがあって、その当時、全国の新聞に報道してあった。今ここにその大略を記すれば、浅虫の山手に当たる所に貸家がある。その家に突然、神棚にありし鈴が落ちきたり、そこに載せてあるろうそく立てが落ちきたり、その飛ぶや別に音なく、ただ落つる際に大いなる響きを発するのみである。これより引き続き種々の物品が飛び出し、茶碗ちゃわんが飛び、徳利が飛び、盆が飛び、はなはだしきは仏壇が飛び去ったという騒ぎである。この怪事を聞いて警察より出張して取り調べたるに、その借家に住する三人の女の仕事なることが発覚した。そのうちの一女がそでの下にはしを隠し持って、今しも投げ出さんとするところを見つけ、ほかの二女も詰問の結果、ついに白状するに至り、ツマリ、病的にあらずして、故意に出でたる悪戯なることが分かった。もしこの際、警察の探偵なかりせば発覚せずして、必ず狐狸こり天狗てんぐの所為となって後世に伝わるであろう。

第四五項 福島県の妖怪事件

 今一つ、投石事件につき紹介したい件がある。明治四十一年に福島県に起こった一大怪事につき、余の方へ、「出張して取り調べてもらいたい」と申し込んできたが、その詳細のありさまを聞けば、いずれのところに原因があるかを推測することができる。よって、出張せずに注意を与えておいたところが、果たして予想どおり事実が発覚した。その顛末てんまつが各県の新聞に掲げてあったが、今、左に『山形日報』の記事を抜粋しておこう。
 福島県岩瀬郡白江村の農、西脇荘八方では、昨年春いずこともなく突然、屋敷へバラバラと木の実の降ってきたのをはじめとして、払暁の四時五時、夜の六時ごろから十時ごろまでの間、毎朝毎夜こぶし大の石が降ったり、台所道具が自然と座敷へ転がり出したり、種々の怪異が打ち続いて、いかに研究しても到底、人為の所為とは思われぬで、たちまち界隈かいわいの評判となり、隣村からわざわざ見物に出かける者ある始末となったが、土地の故老の語るところによると、同村の山中にはその昔、年経し老猿がすんでおって、村内の農家に種々の悪戯をしたことがあって、その当時も最初はなにものの所業ともわからなかったが、そのうち老猿の姿を発見したものがあって、村民こぞって山狩りをして、ついにこの猿を射殺したことがあるというので、今度も猿の悪戯ではあるまいかと種々研究してみたが、いかに注意しても、怪異のあるときとその前後に、猿らしい姿さえ認め得たものもない。
 ところが、怪異は夏を過ぎ秋となっても継続して、ことに人語を鋭敏に聞き分けて、化け物の悪口でもいえば不思議は一層激しくなるので、評判はいよいよ高くなるばかりであるから、所轄の須賀川警察署長もすててはおけず、同家に出張して一夜研究に夜を明かしたが、この夜もやはり署長のおる座敷へバラバラと二回ほど木の実を降らしたが、その正体はついに発見されなんだ。こんな始末で、同家の家人の心痛はひととおりでなく、神のたたりであろうかと加持祈祷かじきとうに手を尽くしたが、それも一向効顕ききめがなく、怪異は相変わらず継続するので、主人の荘八はそれがために、いたく神経を悩まして病臥びょうがする仕儀となった。
 そこで同村の渡辺某がすこぶる同家に同情を表して、この上は井上円了博士の研究を煩わすより道はあるまいと、旧臘きゅうろうことの次第を詳細博士のもとへ書き送りて、博士の出張を求めてきたが、博士は、前例によれば家人の内にこの妖怪が潜んでおるのであろうと鑑定して、まず家族一同の年齢とその性質を報道するように返事をした。それに対する先方の返答は、同家は荘八のほか、妻ふぢ、長男捨重、同人妻みな、次女よし、次男寛次郎、三男健次、孫要一、下女の九人暮らしで、病床にある主人の荘八は多く人の言を信ぜず、人が是といえば非という変人である。その他、すべて普通の田舎風の質朴な人たちで、ただ一人下女のおこうだけは、ふとりじしのどこか間の抜けた、いつでも眠っておるような女で、人が呼んでも、とき経ねば返事をせぬという風な女であるということであった。年齢は十五歳とのこと。
 そこで博士は、「それでは出張するまでもない。その女の動作に注意を払え」と再びいい送ったところで、それに基づいて渡辺某がその女について研究してみると、それと手もとは見届けられぬが、怪異の起こるごとに真っ先に騒ぎ出すのはこの女で、昼間の戸外でも、この女が連れ立っておるときは、どこともなくバラバラと石の降ってくる不思議がある。そのうえ、同家に一泊した翌暁、前夜かまで煮て食い尽くしたはずの甘藷かんしょが押し丸められて、渡辺の座っているわきへゴロゴロと転がって来たときなど、どうやらこの女のいた方面から来たらしいので、いよいよこれはこの女が怪しいと注目して、この女だけを他家へ預けたところが、不思議はそれ限りはたとやんだので、もはや出張を煩わすまでもないと、このほど再応、博士のもとへ通知があった。
 これで妖怪の正体も見あらわされたわけであるが、博士の言によると、石が降ったり、突然屋敷に怪火の燃え出すなどは、従来多く類例のあることで、研究した結果、その発頭人は、多く十五、六から二十歳前後の、少し間の抜けたような女であることが例であるが、これをやる当人は、多く利害得失の関係以外に精神上に異状を起こし、そのために生ずる一種の病的作用でかかる所業をするので、たびたびやるうちにその方面に著しく精神が活動して、その手段はいよいよ巧妙になり、その間にはおもしろ半分、妖怪の手伝いする酔狂人もできてくる。こうなるとおおげさになって、平生なればしまいなくしたですむものさえ、妖怪が隠したということになるもので、この病的発作の激しい女になると、不思議に行いをやった後で、自分は全くなにをしたか記憶しておらぬものさえあるが、かかる女でも二、三年、かかる所業を継続した後、全く発作前の普通の女となって一生を暮らすこともあって、畢竟ひっきょうこれは、一時性の一種の精神病とも認めることができるのである。
 これに類したる怪事が、それより数年前に山形県関山村に起こったことがあって、出張を申し込んできた。そのときも余の指示せしとおり、家族中に十九歳の白痴の者あって、その者の所為なることが発覚された。

第四六項 霊符、天より降る

 明治維新のはじめに、京阪地方より東海道筋へかけ、神様の御札の降ったことがあった。一時、世間の大評判となって騒ぎ立てたことがある。当時、御札の降りきたりたる家にては、神の御下おくだりになりたるものと思い、この上なきめでたきことに考え、毎日その祝いに来たる人々へ、だれかれの別なく、酒を出して饗応することが流行した。その御札の原因につきては、当時はもちろん、今日に至るまで、実に奇怪、不思議に思っておるものがある。余、かつてこれを実視せる人に聞くに、「これみな人為に出でたるものなれば、ごうも奇怪とするに足らず。その証跡は、第一に、御札は決して士族の邸や貧民の家に落ちたることなく、富有の家に限りて降れり。これ、富人は御札の降るを祝して酒食を衆人に施すも、貧民はなしあたわざるによる。すなわち、酒食の饗応を得んと欲して、人の故意になしたるものなり」と申しておる。その後、同じく右の実況を目撃せる人に会し、さらにその原因をたずねしに、「これ全く人為なる証拠には、拙者らも二、三申し合わせ、おもしろ半分に、夜分御札を降らせに出かけたることあり」と答えた。果たしてしからば、人間の狡知こうちよく神を欺くといわねばならぬ。

第四七項 神木の祟

 三州のある村にて社内の古墓を発掘したところが、村内一般に必ず神のたたりあるべしと大いに恐れおりしが、その後間もなく、白昼風もなきに、境内の神木と称せし老大松が、突然一間以上の所よりたおれた。人々これを見て、神のたたりに相違なしとて神前においてはらいをなし、神様に御びをするなど大いに騒ぎ立てたが、その中に一人ありて疑いを抱き、いかに神の祟とはいえ、風なきにたおるるはずなしと思い、その木を調べてみると、自然にたおれたのでないことが知れ、結局、村内の若いものが、夜中その木の空洞の中に忍び入り、五、六尺の高き所の内側をのみをもってほり込み、たおるるようにしておいたことが分かったそうだ。なかなか油断のならぬ世の中である。

第四八項 稲荷の祟

 先年、ばん州神崎郡を巡回せしときに聞いた話がある。郡内のある村にて稲荷いなり社の山林を伐木ばつぼくした。そのときに村中の迷信家が、必ず稲荷様の祟あるべしとて大いに恐れていたが、なんらの災害も起こらず、無事にて過ぎしが、一カ年の後に火災が起こり、ほとんど全村焼失するに至った。そうすると人々みな、山林をきり払った祟であると申したそうだ。表向きは失火の原因不明になっているけれども、内実は神の祟を実現して見せんために、迷信家が暴風の夜に乗じて火を付けたのであるとの風評であった。余はひそかにこのことを聞いて、神様もさぞ人間をもてあましておらるるであろうかと思った。

第四九項 稲荷下ろしの拘引

 先年『神戸又新日報こうべゆうしんにっぽう』に、「稲荷下ろしの拘引」と題して、神に託して金円を詐取したりし話を掲げてあったが、ここに抜記しておく。
 石州者の田中太七というは、俗にいう稲荷下ろしにて、女房おきぬとともに神戸へ来たり。みなと村の内石井村の島田平四郎が稲荷の信者なるを聞き込み、夫婦して同家へ出かけ、「私には諏訪すわ稲荷が乗り移りおれば、私がいうとおりを守るときは、いかなる望みといえどもかなわざることなし。それが嘘と思うなら、この白紙に金を包みて稲荷に捧げ、一月ないし二月と一心に祈祷きとうせしうえ開いて見れば、五円の金は必ず十円となり、百円のものはきっと二百円になりおること、さらに疑いあるべからず」と、まことしやかに述べ立てて、ついに平四郎を欺き、四十円の紙幣をくだんの白紙に包み、神前に供えさせ、それより太七夫婦は毎日同家に通いて、しきりに祈祷をなしおるうち、いつの間にか中なる四十円を抜き取りて、古新聞紙とすりかえ、知らぬ顔でおりしも、夫婦の金遣い近来メッキリ荒くなりしところから、その筋の目に止まり、一日、古港通りの木賃宿に酒を飲んでいる夫婦を拘引して取り調べると、平四郎方の四十円はもとより、このほか同じ手段すなわち稲荷をダシに使って、明石郡新保村の西田より十五円、津名郡江崎より二十円、明石郡前田村某より二十三円八十銭をせしめ込み、その他各地の数十カ所において欺き取りしものを集むれば、数千円の金高に上りおりしという。
 この事実の真偽は余輩のあずかり知るところにあらざれども、世間にはこの種の妖怪もすくなからざれば、深く注意せざるを得ない。

第五〇項 人間の狐業

 前の所業とよく似ている話を、余が先年芸州漫遊中に聞いたことがある。呉市のある豆腐屋へ、毎夜続いて油揚げ一枚だけ買いに来るものがある。その家にてはいかにも奇怪に思い、一夜主人が「あなたはどちらのお方ですか」とたずねたれば、「今夜は実を明かして申さん。われは当市外に住する古狐ふるぎつねである」と答えた。主人は平素稲荷いなり信仰なれば大いに喜び、座敷へ通して饗応したれば、その者は、「今夜の御礼として、この裏通りに稲荷堂がある。そこへワシは毎夜出張するから、その堂内へ金を包みてお上げなさるれば、必ず二倍にしてお返しいたそう」と申して立ち去った。主人これを信じ、翌日十銭を包みて供えたれば、その翌日には二十銭となり、五十銭を供うれば一円となっている。そこで、そのつぎには数十円を供えたれば、包みの中に一銭もなく、全く取られてしまったということだ。後に調べてもらったれば、盗賊の奸策かんさくであったそうだ。野にすむ狐よりも、人の狐がいちばん恐ろしい。

第五一項 跛者の偽造

 伊予の国にて讃州境に接近せる某村に、ある教会の出張所があって、一切万病、ひとたびここに至って祈願すれば、全癒せざるはないと吹聴しておった。たまたま門前に一人の跛者があって、毎日匍匐ほふくして参詣さんけいし、「ドウゾ神様、この足をなおして下され」と一心をこめて祈願している。ある日、跛者の参詣の途中、馬が逃げ来たって、当人をけたおさんとしたれば、跛者たちまち立ち上がって走り出した。これを巡査が認めて糾問せしに、当人自白して偽りの跛者なることを告げ、かつ、「かく跛者を装いしはほかではない。教会の方と密約して、祈願の力によって全癒せる証拠を人に示さんためである」と打ち明けたる由。その事実のいかんは自ら探知せしにあらざれども、余が四国巡遊中に聞き込みたるままを紹介したまでである。

第五二項 鬼子の鑑定

 豊後ぶんご大分町にて、ある者の妻が懐妊して某教会に至ったところが、「その懐妊せる子は鬼の形をしているから、今より神に祈祷きとうせなければ恐ろしき鬼子を産み出だすべし。早く祈祷を頼むがよい」と勧められた。妻は自宅へ帰ってそのことを亭主に告げたるに、亭主は「よろしく祈祷を請うべし」と申し、妻をして参社せしめ、さらに自らもちを作り、その中にあんの代わりに馬糞ばふんを包み込み、祈祷の御礼に出かけ、「ただ今、妻の胎児が鬼子なりとて御祈祷下され、ありがとうござります。これは手製の餅であるから御礼に差し上げます」と申したれば、教会の方では喜んで受け取り、二、三の者相寄って食せんとするに、中に馬糞が入っているに驚き、不都合千万なりとて当人を詰責したれば、亭主答えて申すには、「わが妻の胎内に鬼の子のいることが分かるなら、この餅の中に馬糞のあることの知れぬはずはない。もし餅の中ですらも見透かすことができぬなら、胎児の分かるべき道理がない。その鑑定の当否をためさんと思って、この餅を差し上げたのである」といって、大争論をしたそうだ。このことは大分県滞在中に聞き込みたる話。

第五三項 亡者の偽物
 広島にて、ある家に幽霊の姿を現し、髪を乱し白衣を着たるものが忍び込み、「ワシはこの家の亡者である。死したれど行くべき所へ行けぬから、このとおり迷っているのだ。ドーゾ、十円の金を墓場へ埋めてもらいたい。さなければ、毎夜幽霊になって出てくる」と申す。そこでその家では、金は惜しいけれども、幽霊のおそろしさにはかえられぬと思い、明日墓場へ埋めて置こうと約束をして、翌朝そのことを親類に相談したれば、「よろしい。われわれが引き受け、果たして幽霊かどうかを見届けてやろう」と申し、その夜二、三人、墓場の近くに隠れていた。間もなく幽霊が墓場に金を埋めてあろうと思い、掘り出しに出かけて来た。いよいよ幽霊の正体を見届けんと待ち構えたる人々、急に飛び出して捕らえてみれば、全くの盗賊であったとの話も、広島県客中に聞いたことである。

第五四項 幽霊の変形

 これに類したる話を、越後えちご高田に滞在中にも聞いている。同所の春日町にてかなりの財産ある家で、一人の娘と母親のみにて暮らしていたものがある。その娘が病死した後、夜ふけて全身に白衣を被り、亡者の形を装い、その家へ忍び入り、老母の枕頭に立ち、「われはこのごろ死んだ娘である。大切の衣類を残しておいたために、冥土めいどへ行くことができぬ。ぜひ一枚渡して下さい」と申すから、老母は「それは気の毒であるから」といって、紋付き一枚渡してやった。そのつぎの夜、また同様の姿にて忍び込んで、「帯がなくては行くところへ行けぬ」と申すから、それも渡してやった。翌日親類の者がたずねて来たから、その次第を話したれば、「今夜はわれわれが泊まり込んで見届けてやる」ということになり、待ち構えていたところ、その夜も幽霊が忍び込んで来た。これを捕らえてやろうとしたれば逃げ出したから、いよいよ怪しいと思い、後を追って行ったれば、その亡霊は墓場へ逃げ込み、石碑の陰に身を隠したけれども、そこへ踏み込んで捕らえて見れば、同町に住める貧家の女房であった。幽霊にもいろいろの種類がある。

第五五項 怪物、天井より出ず

 鹿児島県遊寓ゆうぐう中に聞いたが、その地名は覚えておらぬ。ある村にて、神社の祭りにおのおの酒肴しゅこうを持参して、深夜までその堂内で宴会を開く慣例がある。ある年の祭りに宴会最中、天井の間より突然髪を垂れ、恐ろしい顔をしたる怪物が首を出してにらんでいるのを見受け、一同「化け物が出た」と呼びつつ大いそぎに逃げ出して、おのおの自宅へ帰った。その翌年、やはり同様の怪物が首を出したから、そのときはこの化け物を退治してやれという相談になり、総掛かりで退治に取り掛かって見たれば、その村内に乞食をしておる寡婦があって、前日より天井の中に身を隠し、髪を乱し、顔をえどりて、化け物のように装い、人の驚いて逃げ出したる後に、残せる食物を盗み取るためであったそうだ。もし、その事実が発覚せなかったなら、永く大怪物談となって後世に伝わるに相違ない。

第五六項 怪物、大道に立つ

 滋賀県愛知郡某村の小学校長が、夜半後に村外の大道を歩いておる間に、恐ろしき大きな顔したる大怪物がその道の真ん中に立ちおるを認め、恐れ恐れ近づき来たるに、ますますその顔が大きく見え、後には手も足も備わっているように見受け、そのときにはもはや恐ろしいこわいの度は通り過ぎて、到底逃るる道なしと考え、このうえはこれと奮闘して死生を決するよりほかなしと思い、奮進して二、三間の所に至れば、怪物の正体はじめて分かって安心したという。その正体は大八車に松の大木を一本載せて引き来たり、夜に入りしために大道にそのまま車をとめおきたるのであった。その大顔と見しは、木の切り口であったとのこと。

第五七項 白提灯の化け物

 福島県田村郡某町長の話に、「かつて警察に在勤中、深夜、人家なき所を独行せしに、道に白き体のものが転々としてころげており、だんだん己の方に近づき来たるを見て大いに驚き、真に大怪物と信じ、これを一撃のもとに退治せんと決し、一刀をふるってつきとめて見れば、なんぞ計らん、墓場に葬式のあったときにかかげたる白提灯ちょうちんが、風に吹き落とされて、道にころげいたのであった。そのときはひとりで吹き出した」という話を聞いた。

第五八項 白衣の幽霊

 むかし、余が駒込蓬莱ほうらい町に寓居ぐうきょせしとき、門前に寺の墓地があって、その間を通過せざれば出入ができぬ。ある夕べ、下婢かひが食品を買いに出かけ、宅に帰る途中、墓間を通行せるに、白衣を着たる幽霊が現出しいたりとて、驚き走ってほとんど気絶せんばかりになって帰って来た。余はそのことを聞き、「己の臆病より呼び起こせるものならん」というも、当人は「ホントーの幽霊である」と申すから、念のために車夫に命じて実地を検せしめしに、その日、昼間に葬式があって、墓前に白き提灯をつるし置きたるのが、風のためにゆられていたのであった。下女のみならず、世間多くの人の幽霊談はこのようのものであろう。

第五九項 ランプの幽霊

 これに類したる幽霊談は、先年発行の『みやこ新聞』に「下谷怪談」と題して掲載してあった。今、その要を摘載するに、「下谷区下車坂町、日蓮宗蓮華寺の裏手にある墓場へ、火の玉が出る、幽霊が現れるといい出だしたるより、同寺の住職が、その正体を見届けんとて、下僕を従え、午前二時ごろ墓場へ行き見しに、無縁塚よりボンヤリ光の現れしに、さてはと題目唱えながらよくよく見れば、ランプらしきように見ゆるにぞ、いよいよ近よれば、果たしてランプに紙を覆いありしのであった」これは何者かの悪戯より出でたるに相違ない。

第六〇項 西瓜の幽霊

 世間にときどき奇を好むものあって、化け物や幽霊を偽造し、人を驚かすをもって愉快とするやつがある。数年前、諸新聞に見えたる西瓜すいかの悪戯もその一例である。
 四谷区南伊賀町、法華宗法蔵寺の墓地内にけやきの大樹あり。毎夜、絶頂に青赤の火の玉現るると近傍の取り沙汰ざたに、いずれも恐れおののき、評判高くなりしに、四谷署より一夜、午前三時ごろ両名の刑事、実否をたださんとて現場へ出張せしに、深更に及びて何者か欅をねらいて瓦石がせきを投じおるにぞ。こやつ胡乱うろんと引っとらえ、本署へ引致のうえ取り調べしに、この者は赤坂区青山南町に住する無職業鈴木正司という無頼漢にして、欅にじ登り、西瓜に火を点じて竿さお先に縛り、悪戯をなしたるよし白状したれば、説諭のうえ放免さる。

第六一項 顔を振っている幽霊

 某小学教員が己の経験談として話されたことがある。場所は美濃みの国高須郡内の山間にして、夜中旅行の出来事である。途中、火葬場を通りかかりしに、青色の火が燃え上がっておる。これは身体を焼いておるのであると知った。だんだん近づくに従い、その火を隔てて若き婦人の顔が見えておる。かかる深夜に婦人のおるべきはずはない。その顔が青色に見ゆるのみならず、しきりに左右にふりつつある。このときこそ真に幽霊の現れたるものと思い、大声をあげて、「なんじ、なんの怪ぞ」とどなりたれば、幽霊と見し若き婦人が答えて、「ワシは明日嫁に行くものである。今日歯を染めんとするも、ドウしても鉄漿おはぐろが付かぬ。しかるに、死人を焼きたる火にて鉄漿をとかせばよく染まると聞いて、昼は人目をはばかり、夜中ここに来たって歯を染めているのである」と申したので、ようやく化け物でないことが分かり安心したと当人の直話じきわ

第六二項 白昼の幽霊

 先年、越後『長岡日報』に妖怪に関する人々の実験談を掲げ、その中に埼玉県下の幽霊談の一項が載せてあった。
 埼玉県榛沢はんざわ郡新会という村で、白昼幽霊が出るとの評判が起こったことがある。その幽霊は白衣を着て頭がなく、身体ばかりで宙宇を舞い行くので、出る刻限は午後一時ごろより四時ごろまで、快晴の日に限るという、わがままな幽霊であった。最初、畑中へ農事にいったものが二、三人で見つけたのが、農具を打ちすてて一散ににげかえり、青くなって飯もろくろく食べずに、二、三日病気づいたという騒ぎ。それから話がだんだんひろまって、五、六里四方の大評判。中には弁当持参で幽霊見物に出かけて来る人もあった。さて、その幽霊の正体を調べてみると、そこに白壁の倉がある。西は松原のつづきで、松の木陰をもるる太陽の光線が白壁へ映って、ちょうど首なしの人形のようで、それが颯々そよそよ風の吹くたびに動くので、飛び回るように見えるのだ。二、三丁隔ててこれを見ると、いかにも評判どおりの妖怪だが、そばへ近づくと見えなくなって、全くそれと気が付かないのであった。
 かかるつまらない幽霊が、世の中には堂々たる大幽霊となって伝わるのが多い。

第六三項 大根の化け物

 かつて妖怪研究会員の一人、高橋某氏より自身の実験談を報知してきたことがある。その全文を左に。
 去る明治二十五年十月ごろなるが、私方にて同村なる某家へ差し置き難き用向きのため、日暮れごろなりしもその家に行き用を果たして帰りけるが、内に乳児のあることなればとて(主婦でありました)、急ぎ足にて案内知れる近道なる畑道をぞ来たりける折しも、日はすでに西山に落ちて四面薄暗く、ことに小雨の降りければ、ひとしおものすごく覚えけるが、わが家よりその家までは道程みちのりも遠からず、この畑道の間には別段さびしき所もなけれども、ただ日蓮宗の宝塔塚およびその近傍に当たり、「ばんげ」の地蔵と通称する所ありき。そのころには、ここに幽霊が出るとか青火がもゆるなどと言い合えりけるが、しかるに二、三町行きしと思うころ、二、三間ほどの前面に当たりて、人の形のごとく六、七尺もあらんと思うほどのものが、長き髪を垂れ、中段以下はおぼろにて分明ならざりしも、少しずつ動きいるがごとくに見えければ、思わずハッと驚き、二、三歩引き下がりしまま見向きもやらず。身震いして引き返し、さきに行きし家に行き、右の由を語りければ、先方にもいと不思議に思い、「しからばその宅まで送り行かん」と言われしも、これを辞して提灯ちょうちんを借り、本道を回りて帰宅し、右の次第を語りつつ翌朝さらに該所に至り見しも、さる物とては見当たらざりしが、その場と思う所より四、五間ほどへだたりたる所の木の枝にて、千葉(大根の菜)の二、三連かかりありけるを認めたりと。これ、日ごろ聞き覚えたる怪談のことなどを思い出でて、ものすごく思いし折なるに、かかる物の目に触れければ、恐怖の情一時に激発して、かかる幻覚を起こししなるべし。余輩愚俗の妖怪とするは、おおかたこの類ならんか。
 この報告を読まば、「幽霊の正体見たり菜大根」といわねばならぬ。

第六四項 紙幡の誤覚

 昔の話に、瓢箪ひょうたんを幽霊と誤って、刀を抜いて切ったものがあるというが、幽霊の誤覚の例は実にたくさんある。ある人の記するところによるに、今より四、五十年前に、東京と横浜との間に六郷川がある。その川筋に郷地と名づくる地名がある。ある夜、その村のもの二、三人づれにて、その日に葬式のあった寺の前を通りかかったところ、その門側に白衣を着たるものにて、腰より下は地より離れ、左右に動きつつある姿を見た。これ、世にいうところの幽霊に相違なしと思い、一同恐ろしく感じ、その近傍の酒屋へ逃げ込み、戸をたたいて寝入りたるものを起こしたれば、酒屋の若いものども、六尺棒を手に持ち、イザござれ、世に化け物のあらんやとの勢いにて、さきに立って行き、よくよく見れば、葬礼のときに紙にて造りたるはたが、木の枝に掛かりたるのであったとのこと。

第六五項 紙鳶および浴衣の誤覚

 右とよく似たる話は、江州ごうしゅう犬上郡客中に聞いたことである。同郡内のもの二、三人にて夜行せしに、林間に幽霊の空中に漂える姿を見、一人まず認めて幽霊と叫ぶに、他の者もみな幽霊といい、驚き恐れて一走りして過ぎ去ったが、翌朝再びその場所に至れば、紙鳶たこが樹の枝に掛かり、風のために動かされていたことが知れたそうだ。また甲州にて聞いた話には、ある家にて樹の枝に浴衣ゆかたをほし、晩方に取り入れることを忘れておいたのを、夜中この下を通る人が幽霊と見て大いに驚き、その家へ逃げ込んだということもある。かくのごとき例話はあまり多過ぎて、いちいち挙げることはできぬ。

第六六項 幽霊の油をすする音

 ここにまた、江州甲賀郡信楽しがらき郷にて聞いた幽霊談がある。某教員が深夜墓畔ぼはんを通行せしに、白き形の怪物がピシャピシャと音を発して動きつつあるを認め、これ幽霊に相違なしと思い、満身冷汗を浮かべ、ゾッとして身震いするほど恐ろしく感じた。そのときはほとんど夢中になり、かえって最後の勇気を生じ、死を決して奮闘する覚悟を起こして突進したれば、たちまちその正体を発見するに至った。墓場に灯を点じたる後に、カワラケの油が残っていた。しかるに、これは白犬がここに至り、その油をすすっていたのであったそうだ。

第六七項 劇場跡の幽霊

 今より十四、五年前、横浜伊勢崎町の劇場が焼失したことがある。その跡へ横浜館と名づくる勧工場かんこうば[#「勧工場が」はママ]できた。さて火災の節、その場所にて両三人焼死したりしゆえ、とかくに世間の風評には、横浜館内に幽霊が出ずるとのことなれば、館内に従事する老爺、ある夜当直にて夜番をなし、なんとなく薄気味わるく思い、恐れ恐れ夜回りをするところ、上図のごとく亡霊の姿、突然として目前に現れた。老爺ビックリ仰天し、そのまま倒れて気絶したという話がある。
 これは、己の影がガラスに映りたるを幽霊と見誤ったのである。世間普通の幽霊は、大抵この類であろうと思う。
横浜館内に出ずる幽霊の図

第六八項 天井の怪痕

 先年茨城県より、天井の怪物につき報道しきたりしことがあった。すなわち、水戸上市小学校教室の天井が白壁にて塗ってあるに、手六本、足六本の怪物の姿が黒々と現れているより、児童らがいずれも恐怖して、あるいは泣き出すもあり、あるいは飛び出すもありて、混雑を起こし、一時は世間の大評判となりたる由なるが、よく取り調べてみれば、手足の跡形のように見ゆるも、その実、新築の際、左官が壁を塗るときに、偶然汚点しみを天井にとどめたるものにして、化け物の所業でないことが、少しく心をとめて見ればすぐに分かる。しかるに、児童らは家庭において化け物話ばかり聞かされているから、怪物の跡のごとくに誤認して言い触らし、「一犬虚を吠えて万犬じつを伝うる」の騒ぎとなりたる由。

第六九項 本所の怪火騒ぎ

 今より十四、五年前、東京本所に怪火かいかを現出せしことがあり、その当時の諸新聞にも掲げてあった。今『万朝報よろずちょうほう』の雑報の一節を抜粋せんに、
 本所には七不思議の名物ありて、とにかく昔は薄気味わるき土地なりしが、ここにまたある日の午後四時ごろ、深川区森下町より本所林町二丁目に架かりおる伊予橋上手の水面へ、突然青白き炎の二、三カ所チョロチョロと燃えあがり、風につれて前後左右へうごくさまに人々はきもをつぶし、ただ不思議不思議と騒ぎおるうち、たちまちこのうわさは四方へ伝わり、われもわれもと伊予橋付近へ集まりしが、なんにしても開け放し木戸銭なしのことなれば、正直者の遠慮なしにドシドシと押し寄せ、見る見るうちこの界隈かいわいは人の山を築きて、途方もなき山水のパノラマを描き出し、人々この怪し火について種々なる評を下すうち、「これは全く深川の元木橋下にて、凶漢のため非業の最期を遂げたる二巡査の亡魂ならん」などと好きなことをいっているうち、午後六時半ごろに至り、同所につなぎおる肥船こえぶね、南葛飾郡葛西村の船頭音吉といえるが、実否をたださんとて船をこぎ寄せ、水竿にて水面をかき回したれば、そのまま火は消え失せ、これとともに人々四方へ散じて、またもとの伊予橋の光景となりし、云云うんぬん
 右の怪火は、石油船の油が流れ出したるを、何者か戯れに火を点じたのであろう。さなければ、近傍のどぶより腐敗せる水が流れ出して、水素ガスを発したのであろうとの説である。

第七〇項 高山の妖怪病

 世間にて高山に登るときに、神経麻痺して手足も動かぬようになり、気絶してたおるることがある。これを天狗てんぐに襲われたとか、魔に触れたとか、地方によっていろいろの名称を与え妖怪の所業に帰するも、その実、平地と高山とは気象も気圧も異なるために、その影響を神経に及ぼして起こるに相違ない。ここに長崎県下の温泉うんぜん山の実験談を、『読売新聞』の記事を借りて紹介しよう。長崎県にては、この状態にかかることを「だらし」と呼ぶ由。
 古来、温泉山に登るときは、必ず搏飯むすびと梅干しとを携うべし。梅干しは霧を払うの妙薬にして、搏飯は「だらし」を予防するがためなりとの言い習わしあり。「だらし」とは一種の妖怪的飢餓病とのみあって、いまだこれを明白に実験したる者あらざりしが、長崎高等学校医学部生徒某氏は自らこれを実験し、また他人がこの怪病にかかるを見たりという。今その話を聞くに、右の学生はこのころ暑中休暇を得て帰村せんとする途次、右の村と小浜村との間なる山中あざ小田山の頂上、矢筈やはずの下手辻と称する坂道において、一人の男、野に倒れおるを見たり。その男、学生を見るよりかすかな声にて、「『だらし』にかかりて困りおるゆえ、搏飯あらば賜れ」という。学生はかねて「だらし」のことを聞きおるをもって、用意の搏飯を与えけるに、男は喜びてこれを食し終われば、間もなく力付きてせ下れり。さて、右の学生が実験したるは、その後のことにて、冬季休業のため帰村せんとて、右の山道に来かかりしに、たちまち空腹となり、ひもじさいや増して、身体の疲労尋常ならず。手足しびれてすくみたるがごとく、ちょっとも動けず。強いて足をあぐれば、その重さ千きんをひくがごとく、手を動かせば、縛られたるに似たり。こうじ果てて石に腰打ちかくれば別に苦痛も感ぜざるが、立てば身の重さ少しも減ぜず。進退ここにきわまりながら叫べども応ずる人なきに、ぜひなくはうがごとく坂をじ登りはじめたるが、たちまち昏絶倒臥こんぜつとうがして死生を弁ぜざるもの十数分、その前は時候にも似ず全身すこぶる熱暖なりしが、このときに至り、はじめて野嵐の冷え渡るを覚えて目をさまし、それより千辛万苦して、わずかばかり離れたる横道の茶店にたどりつき、蕎麦そばわん食したれば、身心はじめてわれにかえり、寒さも相応に感ずるごとくなりて、まずつつがなく郷里に帰着したり。これすなわち「だらし」に取りつかれたるものなるが、里俗には、なにか食物を携えおればこの魔にかからずといえど、実際においては、いわし売りの男が鰯の傍らに昏倒こんとうしたる例あり。その他、数人の同行者が一時におかされたるの例あり。結局は空腹に乗じて、人体内に一種強力の麻痺まひを与うる空気のためなるべし、云云うんぬん
 この実験談に照らすに、空腹のときに多く起こるは、高山の空気の人身に影響せること明らかである。これ温泉山に限るにあらず、諸国の高山には往々聞くことである。

第七一項 川亡魂

 世に海亡魂うみぼうこん川亡魂かわぼうこんと唱え、海や川にて死したるものの霊魂が、水中に現出することありと申しておるが、武州秩父郷にて夜、網を携えて荒川の漁に出たものがあった。しかるところ、水中より光りたるものが網にかかって出てきた。当人は川亡魂に相違なしと思い、網をすてて逃げて帰り、翌日再びここに至って検すれば、そのいわゆる川亡魂なるものは光り木であった。その地方にて聞いたる事実談。

第七二項 川天狗

 今一つ、秩父にて聞いたる奇談がある。ある夜、同じ荒川にて網漁に出かけ、ずいぶん多く魚を捕らえたる後に、川上より黒き頭だけ水面に出して流れ来たるものがあったが、非常なる強力にてその網を引き取らんとしている。猟師は思うに、これは川天狗かわてんぐに相違ないと信じ、急に恐ろしくなり、せっかく捕らえたる魚類をそのまま見すてて自宅へ帰って来て、翌朝出でてその場所に至れば、網は残してあれども魚類は一尾もない。これは天狗に取られたのであるとばかり思っていた。他県ならば河童かっぱというであろうが、秩父辺りでは、川の中に天狗が住んでいるということを一般に信じている。かくして、漁者は翌晩再びその場所に至り網漁を始めたるに、前夜同様に黒き頭が流れきたりて網を引き取ろうとするから、今夜は川天狗を捕らえてやれと決心し、身を水中に投じたれば、その天狗が逃げ出した。これを追っかけて捕らえて見れば近辺の者であった。魚を盗み取るために川天狗のまねをしたのである。実に人間は油断のならぬものだ。

第七三項 幽霊の寺参り

 寺院に住するものは、檀家だんかに死者のあるごとに幽霊の寺参りがあるといい、深夜、本堂の戸があいたり、鐘がなったり、足音がしたりするときには、必ず檀家より死人の知らせが来るというが、幽霊には姿も形もなく、足も手もないものであるから、戸をあけたり足音のするはずはない。ある田舎の寺で、深夜に本堂の戸があき、足音が伝わったけれども、幽霊の寺参りと思い安心して寝ていたるが、翌朝になってみれば、そのとき盗賊の入り来たったのであったという話がある。盗賊のためには最も都合のよい迷信と申さねばならぬ。

第七四項 幽霊の代理

 先年、青森県某氏より、幽霊の代理をつとめた話を報道してきたことがある。
 十五、六年も昔の話であるが、ある寺院にしばらくの間滞在していたとき、ある夜十二時過ぎ、他所から帰ってきた。和尚をたたき起こそうと思ったが、待てしばし、この夜ふけに気の毒だと思ったから、本堂の方へ回り、案内の分かっている所の戸締まりを外してやろうと思って、まず按摩あんまが水泳ぎをするような身振りで、縁側をはい上がり、ここだなと戸へ手をかけてガタガタやっていたところ、どうした拍子か縁を踏み外し、ガタガタドシンと素敵滅法な音をさせて、はいていた高足駄げたが脱げて戸へ当たる、身体はころころと庭へ転がり出す。その途端、広縁の角で腰骨を打って痛いことおびただしい。あまり外見のよいものでもないから、声も出されず、そっと起き上がって手探りで下駄をたずねて、一度で懲りたから、仕方がない、和尚をたたき起こせと、再び勝手元へ回り、戸のすきまからのぞくと中は大騒ぎ。和尚は手槍てやりを小脇にかい込んで、忍び足に本堂の方へ行く。後には比丘尼びくに梵妻ぼんさい手燭てしょくそでにおおいながらついている。納所なっしょ二人も尻はしょり、一人は麺棒めんぼう、一人は鉄火箸かなひばしを得物に代えて、威風凜々りんりんというありさま。隅々を見回ってから四人額をあつめひそひそささやき合い、また立ち分かれて見回り歩く。その様子のあまりおかしさに、咽喉のど元まで吹き出す笑いを、奥歯でみ殺していることおよそ三十分、僕は不思議そうな顔をして「なにかあったのですか」とたずねると、和尚はまゆをひそめて、「ナニ、別になんでもないが、三十分ばかり前に、本堂の方で非常な音がしたから、賊でも入りはせんかと思って、今見回ったが、なにも不思議はないようだ。しかし、あの音はなんであったろうか」というと、比丘尼や納所もよほど驚いたものと見えて、まだふるえが止まらない。ここで、その音の原因は僕だともいいにくいから、それは不思議だなどとお茶を濁して寝てしまったが、あに図らんや、これがすなわち幽霊の代理をつとめたこととなったのであった、云云うんぬん
 寺に幽霊が参るというのも、この一例によっておよそ推測することができる。

第七五項 読経の功徳

 余が書生時代、群馬県旅行中同郷の者に会したが、その者は余の隣村に生まれた人である。明治元年すなわち戊辰ぼしんの越後戦争の際、人夫となって家を出で、軍隊に従って会津に至ったところが、会津は落城し、戦争はやんでしまった。そののち関東に流浪し、五、六年の久しき、なんらの書信も父母に寄せたることがなかった。七年目になってフト思い立ち、郷里へ帰って父兄、親戚に面会したいと考え、にわかに帰郷した。しかるに郷里の方にては、家を出でてより一回も音信がないから、戦場にて砲丸か病気で倒れたに相違ないと信じ、その出発の日を命日と定め、葬式を行い墓場を設け、法事も営み、全く亡者となっておる。かくして、本人が帰宅せしときは夕刻であって、まさしく七年忌の法事を営んでおるときである。自宅の前にてうかがうに読経どきょうの声がする、御客が集まっている。なにごとがありしか分からぬから、隣家をうてその次第をたずね、はじめて己が亡者になっていることが知れた。いよいよ自宅へ踏み込んで、「ただ今帰着した」と申したれば、家族の者はビックリし、彼の幽霊であるという。「今日は法事を営み読経を願った功徳で、幽霊が出てきた」と申して、だれも恐れて近づかぬ。本人は幽霊ではないといい、いろいろそのわけを話してようやく生きたるものと分かり、父兄、親戚一同大喜びしたということを、本人から直接に聞いた。もし、その晩に姿だけ見せて、関東へ向け立ち去ったならば、永く幽霊話となって伝わるに相違ない。昔時はかかる間違いの幽霊が、ほかにも必ずあるであろうと思わる。

第七六項 死体の鑑定違い

 古来伝うるところの幽霊談中には、往々死体の鑑定違いより起こりたる奇談がある。その一例は、横浜桜木町の幽霊沙汰ざたである。今より十四年前夏ごろの出来事にて、諸新聞に報道せる大要は左のとおり。
 去月六日午前三時ごろ、横浜桜木町七丁目第十七号鉄道線路踏切において、無惨の轢死れきしをなしたる男のたもとに、千葉印旛いんば郡成田町仲の町三百八十九番地、庄司見新吉と記せし紙片ありしをもって、同署は原籍地へ照会せしに、親戚の者三人来たり、仮埋めとなしおりしを火葬とし、原籍に持ち帰り葬儀を営みたるが、不思議はその後、真正の新吉ひょっこりと故郷に帰り来たれるに、一時は幽霊が来たりしものと家内より村内の騒ぎとなりしが、しょせん轢死者は違った人と分かり、同人は自身横浜に来たり戸部署へ右の由を訴え出でしに、以前の礫死者は何者とも知れずなりしという。
 もし、これが五、六十年の昔ならば、立派な幽霊談を組み立つるであろう。

第七七項 狂人の化け物

 余の郷里に一狂人ありて、性質、挙動ともに極めて温和で、ただニコニコとたえず笑ってばかりいるが、狂人だけに昼眠って、夜になると終夜出かけて歩き回っている。その村のものはよく知っているから、夜中ってもなんとも思わぬが、他地方からはじめて来たものは、夜中この狂人に遇うと、いずれも驚かさるるのである。ある夜、乞食こじきが村内の森の中にある空き堂に泊まろうと思い、その中に入れば、堂内の隅に髪を乱し、青い顔してニコニコ笑っている。これを見て乞食はビックリし、化け物がいると叫び、近辺の民家へ逃げ込んだことがある。ほかにも、狂人を化け物と見誤った例があろうと思う。

第七八項 乞食の化け物

 今一つ、余の郷里の化け物話をすれば、村外に火葬場がある。夜ふけてそのそばを通りたる人が、火が燃え上がっていると見、最初は燐火りんかならんと思いたるも、だんだん近づくに従い、青白き顔の形が火の中に見ゆるのでビックリし、これは亡者の幽霊ならんと考え、ふるえ上がるほど怖くなったけれども、そのそばを通らなければ自宅に帰ることができぬ。コワゴワその場所に至れば、乞食がそこに泊まり込み、寒さを防ぐために焚火たきびをしてあたっていたのであったとのこと。

第七九項 古榎の怪光

 京都の相国寺境内は、昔は大やぶであったが、今は開墾せられて学校の敷地などになっている。三、四年前、その境内に怪物出現すとのうわさ付近に高くなり、これを見届けんとて探検に出かけたものの話には、てのひらの大きさくらいの怪しき光を放つ、数個の眼球を有する怪物を見定めたりとの評判である。この近傍に住する教育家が、文明の今日、怪物などとは片腹痛しとてこれが調査に出かけしに、果たせるかな、お化けにあらず、えのきの古株の多年地中にうずもれしが、このごろ掘り出だされしために、燐光りんこうを放ちしものなることが判明せりとぞ。

第八〇項 哲学堂の青火

 余が二、三年前、野外の一軒家たる和田山哲学堂に宿し、夜十二時ごろまで書物の取り調べをなし、まさに寝に就かんとして出でて庭前に立てば、一丁あまりも隔たりたる梅林の間に、青色の火がトロトロと燃え上がり、また消え、明滅数回なるを認めた。そのときは暗夜にして、しかも星影も見えぬ曇天で、またその辺りは墓場の跡でもなければ、燐光の出るはずもない。あるいは乞食がそこにやどって火をたくのとも考えられず、とにかく実際を見届けるにしかずと思い、ソロソロ歩いて梅林の中へ行ってみたところが、すぐに正体が知れた。その正体は亡霊の火にあらずして、昼の間、番人が枯れ草を刈り取り、梅林の中に穴を掘り、ここにその草を入れて焼き、上より土を載せておいたのが、夜半まで火が全く滅せずして、土の間より少しずつ燃え上がっていたのである。そのとき、世間の幽霊火も大抵このようのものであろうかと思った。

第八一項 傘の自動

 群馬県のある小学校において、生徒がさしてきた雨傘を開いたまま運動場に置いて教場へ出て、放課時間に再び運動場に至れば、その傘が風もなにもないのに、ひとりで右へころげ左へ転じ、コロコロと自動している。生徒は不思議に思い、化け物の所業と考え、驚き恐れて一人もこれに近づくものがない。たちまちそのことを教員が聞き込み、出て見ればいかにも不思議で、傘が生きているか、狐狸こりの仕業かと考うるよりほかに考えようがない。よってそのことを校長に告げたれば、校長はそんなことのあるはずはないとは申したものの、出て見れば校長にもその理由が分からぬ。どこにかきつねでもいて生気を吹きかけるのではないかとの説あれども、狐も見当たらず、さりとて天狗てんぐの業とも考えられず、だれもみな遠くに離れ茫然ぼうぜんとして見ているばかりである。そのとき校長が、「近寄って見届けるがよい」と申して、自身でその裏手に回り、近くのぞけば、傘の内側の骨の中に蛇が入って動いているために、傘が左右に自動していることが分かった。もしそのままに捨て置き、翌日動かぬようになって見たならば、蛇はすでに逃げ出しておらぬから、必ず化け物沙汰ざたになるであろうと、校長当人の直話じきわ

第八二項 車輪の怪痕

 愛知県葉栗郡浅井村に数十年前、一輪車の怪と名づくるもの現れたことがある。その怪たるや、一夜のうちに村内いたるところに、一輪の車轍しゃてつが道についている。かくのごときことが一夜ならず再三に及びたれば、村民大いに変災の来たらんことを恐れ、神仏に祈請してこれを除かんとするに至った。今日ならば自転車の跡と判断するであろうも、そのときは自転車のない時代である。その後、日ならずして、ある家の猫の夜遊びを防がんために、毎夜その足に鉄棒を結びつけおきしに、猫はよくこれを引きながら街上を歩き回りしことを聞き込み、さきの一輪の車轍は、全く鉄棒の跡なることを知るに至り、ようやくその原因が明らかになったという話もある。

第八三項 怪獣を生け捕る

 古来、古寺や古屋に妖怪沙汰ざたあるは、てんいたちの古びたるものが住み、夜中恐ろしき響きを伝え、あるいは暗き所に光りたる目を見せたりするのを見聞し、これに神経が加わり想像が手伝い、風評が高まりして、大怪物談となる。その一例として、先年の『万朝報よろずちょうほう』雑報に見えたる一節を転載しよう。
 徳島県板野郡長岸の観音寺といえるは名代の古寺にて、堂宇は撫養むや川にのぞみ、これまで本院には大黄鼬おおてん棲息せいそくして、まれには人の目にもかかり、また川には大鼇おおがめの住み、陸に上がって鳴きしことありしとの怪談などもありしが、このごろに至り、折々堂宇の天井の落つるかと疑うほどの物音の響き、あるいは方丈裏にあたり人の走りしごとき物音のあるなど、不思議のことのみなれば、去る九日の夜、同地にて興行の東京力士、緑川、小岬、小緑、若岬などいえる力自慢の者どもが、妖怪退治に出かけ、庫裏くりにて回り話に妖怪物語などをなしおりしにぞ。同夜の十二時ごろともおぼしきころ、方丈裏に当たり果たして怪音ありたれば、一同得物を携え本堂の方に至りしに、本堂前の金網戸に眼光炯々けいけい、人を射るものあるより、緑川らは妖怪なにほどのことやあると、得物をもって打ちてかかり、本堂の中を追い回しいるうち、ほかに若者数名も駆け集まり、ようようにして生け捕り見れば、その妖怪は一種の獣類にして、目まるく口とがり、牙の鋭きこと狼虎ろうこのごとく、爪は長くして熊に類し、全身黒色に灰色を帯び、胸のあたり少しく薄黄色なり。これを見て、黄鼬の年経たるものなりというあり、またはコヒと名づくるものなりという者ありて、ともかくも珍しき怪獣なりという。かかる怪獣ありて怪を現すは事実なるがごとし。
 この一例を見て、ほかの古寺、古屋の怪談の原因を推測することができる。

第八四項 老猫の怪談

 隠岐島おきのしまにてはきつねがおらぬから狐きの話はないが、その代わりに猫憑きということがある。余はその地に遊んだとき、実際聞くところによるに、猫憑き談の多きは島後と申す方である。この地方は古来、野猫多くして、往々夜中人を驚かすことあれば、かかる原因より猫憑き談の起こるに至ったに相違ない。猫も年を経て古猫になると、ずいぶん人に抵抗するようになる。その一例として、十年前発行の『静岡民友新聞』の雑報を抜載しておきたい。
 駿東すんとう郡大岡村あざ中沢田の佐藤長右衛門方に、今より十一年前より飼いおる熊猫あり。先月下旬のこととか、この猫、同家の芋畑に遊びいたるを長右衛門ふと見ると、不思議なる腰つきして立ち上がり、芋の葉を取り、しばらくなめつつありしが、間もなくこれを頭にかぶりてチンチンをきめこみ、おどり戯れおり。長右衛門に心づき、そのまま逃げ去りて近寄らず。長右衛門も底気味あしく、屋敷の隅々から近辺をたずね、ようやく四日目に引っ捕らえ、麻袋に入れ、黒瀬橋より狩野川に投げ込み立ちかえりしところ、不思議や去る三日の夜、同人の嫁某が生後二カ月の小児を抱きて寝につき、翌朝二時ごろに床の内湿りおるに目をさまし、暗きまま小便と思いなで回してみると、しっかと抱き寝せし子供の影も形もなし。驚いて家内のものを呼び起こし灯を点して見ると、小便と思いしは紅の血潮なり。小児はと見ると、二間ほどさきに声をも立てず、打ち伏しおり。早速に抱き起こして見ると、へそのまわりに径二寸くらいの円形に噛み取られしあとあり。いかにも不思議と家中くまなくさがすと、はりの上にぎらぎらと目を光らし、にらみおるものあり。よくよく見れば、先日狩野川へ投げ込みたる熊猫なり。畜生、逃がしはやらじと家内中総掛かりになり、打ち殺さんと争いしが、出没自由に逃げ回り、親指をかまれたるものさえありてついに取り逃がせしが、その後というものは毎夜のごとくに熊猫姿をあらわし、さまざまの悪戯をなすに、落とし穴やらわなやらを作り捕らえんとせしが、少しもかからず。昨今はいかんとも手段尽き、本年十歳になる小児をば同郡長泉村の親戚に預け、血気の家内総掛かりになり、毎夜怪猫退治の工夫を凝らしおるとは、近ごろの怪談というべし。
 家にかいたる猫すらこのとおりであるとすれば、野猫、山猫の恐るべきは推想することができる。

第八五項 老鼬の怪事

 猫の老いたるものすら怪をなすなら、いたちの老いたるのは一層怪事を働くべきである。仙台発行の『河北新報』に報ずるところを抄記して、その一例としよう。
 石城郡磐崎村岩ヶ岡という岩で固めた片山里に、御代茂という人住みけり。去りつる日の夜も宵暗よいやみの七時半ごろ、所用ありて篠原という医師のもとまでゆかんものと、権現山の麓へ差し掛かりし折から、二歩、三歩前に身の丈六尺以上、顔の長さ一尺五寸、目は百練の鏡をかけしごとく、真っ白き歯をむき出してニタニタと笑い出だせる気味悪さに、茂は思わず提灯ちょうちん投げ出し、両手を広げてむんずと組みつきしに、ピカリ怪光一閃いっせん、耳辺をかすめてキュウと叫ぶとともに左手の母指へかみつきたれば、さてこそ妖怪御参なれと、えいえい声にて組み合いけれども、到底一人の力では捕らえきれねば、声を限りに救助を呼びしにぞ。最寄りの青年ら、なにごとぞと手に手に得物を押っ取りてせ集まり、くだんの怪物を打ち倒し、草刈り鎌にて目をえぐられしかば、さすがの妖怪も力弱りてその場に倒れしゆえ、よくよくあらため見しに、年経し黒色の老鼬なりしに、人々アッと驚きしとぞ。
 世間の妖怪中にて、真の怪物とすべきはこのくらいのものであろう。その他は多く偽怪か誤怪である。

第八六項 怪獣の退治

 古寺に老いたるてんが住んで人を驚かせし例は、先年の『新潟東北日報』の雑報にても読んだことがある。
 越後えちご三島郡出雲崎なる不動山西方院とて、いと古代じみたる木彫地蔵尊を本尊となす、真言宗の古伽藍がらんあり。のき傾き壁くずるというほどならねど、位置が位置とて古木森々として昼さえ人足まれなれば、夜は一層もの寂しさ言わん方なきに、このほどよりその堂の後方にて、夜な夜な異様のなき声すとて大評判となり、住職渡辺某はじめ、必定ひつじょう世にいう化け物とやらんいう怪物ならんと、宵よりふすまを打ちかぶりてすほどなりしが、ツイ四、五日前の夜のことなりとか、たまたま近所の若者十四、五名、一杯機嫌のおもしろ半分、今夜こそは西方院の化け物を退治しやらんと、手に手におのまさかり棍棒こんぼうなどを取りつつ、台所なる炉に榾柮ほた折りくべて団欒だんらんし、イザござんなれと待ち構うるとは知るや知らずや、夜も深々と更けわたる真夜中ごろ、果たして堂後に化け物の声すと聞くやいなや、一同スワこそと左右前後より滅多打ちにうちたたきたるに、なにものか手ごたえせるより、「手燭てしょくよ、松明たいまつよ」と灯をよび照らし見れば、これなん、年久しく伽藍にすみし一老大貂にして、背中のみ黒くほかの三分の二は白く、一見ゾッとするばかりの怪獣なりしに、さすがは血気の若者ども、そのまま料理して下物さかなとなし、酒は住職のおごりとなし、舌鼓して食い尽くせしとはなかなかの快談にこそ。
 世の天狗沙汰てんぐざたも、かかる話の増大したるのが多かろうと思わる。

第八七項 幽霊の写真

 幽霊が写真に写ったという話は全国諸方にて聞いている。その最も古きは西南戦争の翌年、熊本鎮台の一兵卒が写真をとったときに、朦朧もうろうとしたる他人の姿が一緒に写っていたことがある。そののち二、三カ所で幽霊の写真を見たが、ここに先年、仙台の『東北新聞』の雑報に出でたる一項を抜載すれば、
 青森県上北郡三沢村、石場寅次郎の母は、同県八戸はちのへ町石場亀吉の母とともに、写真師を招き相並びて撮影せしに、不思議なるかな、二人の姿の間にありありと現れたる姿あり。なにものにやと熟視すれば、これぞ数年前、コレラにて没せし寅次郎が母の夫なるにぞ。一同、写真を眺めてひたすら怪しみおる由。
と見えていた。余はかつて、そのことを写真師にたずねてみたるに、写真師が申すには、「一度写したるガラスをよくみがかずして再び写しとるときは、先影の朦朧として形をとどむることがある。これ、もとより偶然の出来事なれども、あり得べきことなれば、決して不思議とするに足らぬ」と申しておる。その後また、ほかの写真師にたずねたれば、「写真師の技術にて、かかるボンヤリしたる影をたやすくこしらえることができるから、決して奇怪とするに足らぬ」と答えておる。

第八八項 写真上の幻影

 先年、東京深川区富川町、中村某方にて撮影せる写真に怪しの姿が写れるより、死したる人の霊が仮に現世へ現れたるものなりと評判立ちしために、実地探検した人がある。その写真は素人の手際で、光線のぐあいはなはだつたなく、かつその場所は南方より強き光線の来たる日本室であった。その室内に神棚があって、その棚の上に厨子ずしがあり、その中に五十銭銀貨大の霊鏡をかけ、その前に相馬焼の湯飲みと真鍮しんちゅう製の灯明台がある。この三個の物体が、あたかも人の形をなしておるように見ゆ。すなわち、霊鏡が頭となり、湯飲みが胴となり、灯明台の正中まんなかの光線が手先となって、南方より入る光線がこれに反射して、朦朧もうろうたる人体ようの影が写真中に現れたのであることが分かったそうだ。

第八九項 火柱の話

 妖怪中に火柱と申すものがある。余はいまだ実視したことはないが、その名のごとく、火の形が柱のごとくなって空中に立つのである。世間にて、火柱のたつときには必ず火災が起こるといい、しかもその柱のたおれたる方位において起こると申すが、余は気候、晴雨の関係によって、地気が上って火柱のごとく見ゆるのであろうと信じている。しかるに、ときによっては訛言かげんに出ずる火柱もある。余はかつて聞いているが、某町にて火柱立つとの評判が起こり、間もなく火災があった。その評判のもとをただしてみたるに、その近辺に放火の賊があって、自ら放火せんために、あらかじめ火柱が立つと言い触らしたのであったと聞いておる。

第九〇項 御札の話

 また世間にては、人の水中に溺死できしせるときに、その死体の沈んでいる所を知るには、水天宮の御札を流せば必ず分かると信じている。先年、余が大分県を巡回せしとき、ある人がそのことについて実験せし話をしたことがある。その当人は、「水天宮の御札に限って知れるはずはない。これはほかに理由のあることと考え、普通の紙を御札の形に切ってためしてみた。果たして、その沈んだ所に死体があった。この実験によって、水天宮の御札に限らぬということが分かると同時に、その紙の沈む所は必ず水が渦を巻いている所である。かかる場所に死体も沈むべきであるという道理が知れた」と申したが、実にもっともの話と思い、ここに参考として掲げおく。

第九一項 衄血の話

 わが国の民間にては、人の死したる場合に、その親戚もしくは縁故あるもの来たって死体に触るるときには、必ず鼻孔より出血するを見る。これは、死体に霊あってしかるのであるかのごとくに信じておるものが多い。この実例は水中にて溺死できしせるものに毎度ある出来事なれば、余が地方巡遊中にもたびたびこれについて質問を受けることがある。よって、ここに一言しておこうと思う。余も実際、溺死せる死体について実視せしことあるが、これは決して親類に対してのみ出血するのではない。いかなる他人にても、もし来たってその死体を動かすならば、同様の現象を見るはずなるも、溺死者のごときは水中より引き上げ、そのまま死体を平臥へいがせしめ、親類の者の来たるまでは決して他人をして触れしめず、いよいよ親類の来たったときに、急にその体を動かし、あるいは位置を移さしむるものである。かかる動揺を与うるために衄血じくけつの流出を見るのである。すべて溺死の場合のごときは、鼻孔内の血管が破裂して内部に出血しておるから、たとい他人でも、その体を動かせば必ず出血するわけである。これを親類に限ると思うは、愚俗の迷信と申さねばならぬ。

第九二項 魔鏡の話

 わが国の神社仏閣に保存せらるるものに、魔鏡と名づくる鏡がある。その鏡たるや、光線のこれに触るるときに、その面より種々の影像や文字が反射して現出する不思議の鏡で、あるいは観音の像を反射し、あるいは六字名号ろくじみょうごうを反射するの類である。余も実視したことがあるが、近来は新しくこの鏡を作りて、田舎の人に高く売りつけるものがいる。余が先年、豊後ぶんご玖珠くす郡の山間にて、ある農家が高価に買い入れたのを見たことがある。田舎にいて理学の道理を知らぬものは、実に不思議に思うに相違ない。今その原因を申さば、鏡面より反射するところの幻影は、全くその裏面に仏像あるいは名号が凸形に打ち出されてあるからだ。もし裏面に多少の凹凸あるときは、その鏡面を研ぐ際に、自然に表面に分子の密なる所と疎なる所とができるわけだ。裏面の凸所に当たる所をみがけば、その点だけは密になる道理である。もし分子の密度に相違を生ずれば、光線を屈折する度が違うようになるから、反射の上に明暗の度を異にするようになる。そこで、鏡面を肉眼で見ただけでは分からぬけれども、光線を反射させてみると、裏面の模様が外に現出するに至ることになる。また、裏面に打ち出したる模様なくとも、鋳造のときに、鏡面に多少の凹凸または分子の密度の異なる点を生ずるように工夫すれば、魔鏡の作用を現出せしむることができる。ゆえに、今日にては魔鏡が魔鏡でなくて、常鏡であるといわねばならぬ。

第九三項 鶏の変性する原因

 神社仏閣の境内に、信者より鶏を献納する所がある。そこでは雌鳥を献納しても、みな雄鳥に化すると申すが、実際これを見るに、雄のみにして雌はおらぬ。よって、信者はこれを神仏の妙力によって変性するものと信じておれども、いかに神仏の力にても雌を雄に変化せしめ得るはずはない。余が、かつてある地方の神社に参拝し、鶏の雄のみたくさん集まりいるを見て、「雌鳥もこの境内に入れば、神力によってみな雄に化するというが、事実いかん」とたずねたれば、その地の紳士が答うるに、「神力にあらずして人力である」と申した。その、いわゆる人力とは、ほかより信者が雌鳥を献納しても、その近傍に住する民家にては雄鳥より雌鳥を好むために、ひそかに己の有する雄鳥と引き替えをするのであるそうだ。さすれば、なにも不思議のことはない。

第九四項 鴉声と人死にとの関係

 地方各所において、からすは人の死期を予知する力ありやいかんの質問を持ち出し、その解決を請求せらるるにつき、ここに余のこれに対する意見を述べておきたいと思う。鴉の鳴き声がわるいから死ぬ人があるであろうと予期せらるるときに、果たして死人あるに会するのは、鴉が人の死を知って予告するものでなく、天気が両者を紹介するのであるとの説は、余が三十年前、『哲学雑誌』発行当初に唱えたことがある。その説の要領は、鴉は気象にわかに変じて白昼急に薄暗くなり、なんとなく陰鬱いんうつとして不快を感ずるがごとき場合に鳴き出すものにして、長く病床に吟呻しんぎんせる病人も、かかる天候激変のときに絶命するものである。ツマリ、鴉は天気に向かいて鳴き、病人は天気によって死し、鴉鳴きと病死と偶然相合するのに過ぎぬというのが余の意見である。

第九五項 釜鳴りの説明

 民間にて伝うるところによれば、飯を炊くかまが偶然鳴り出すことがある。しかるときは、その家に凶事ありとて大いに恐るることになっている。その由来はシナに始まりて日本に伝わり、民間にて往々聞くことである。その起こる原因を知らざるものはいかにも不思議に思い、凶事の前兆予告のごとく考うるけれども、これ物理的自然の現象にして、決して怪しむに及ばぬ。もしその専門学者の説明によれば、蒸し物を釜の上に置くときは、その蒸し物が冷ややかなるために、釜中ふちゅうの湯よりのぼる蒸気が急に凝結して消えうするにより、その場所をみたさんために、空気が外より蒸し物の中に流れ込む。しかるときは、水蒸気の凝結が減ずるようになり、したがって空気の流入もやみ、ついで水蒸気が下より蒸し物の中に流通し来たり、再び水蒸気は急に凝結して、外より空気の流入を招くに至る。かくのごとく順次繰り返して、間断ある水蒸気の消失が波動を起こし、釜内の気体をして振起せしむるために、釜鳴りを生ずるに至るとのことである。さすれば、不意に釜鳴りが起こっても、決して恐るるに及ばぬ。

第九六項 二十六夜待ちの説明

 俗に二十六夜待ちと称して、陰暦七月二十六日夜、月の出ずるに三体同時に上ると申し、これを三尊の来迎らいごうと名づけ、ものずきの人はわざわざ海上へ舟を浮かべて拝みに出ずるが、一個の月が三体に見ゆるとは実に不思議である。余は数十年前、伊豆熱海客中試みしことあるも、雲のために妨げられて実視することはできなかった。しかし友人の話を聞くに、二十六夜ごろは月の形が弓のごとくになり、しかもその両端が上へ向かい、あたかもつのの立ちたるがごとき形を現している。その初めて海面に出ずるときには、角の両端まず見え、両体並び立つがごとくに感ぜらるるが、瞬間にて両体合して一体となる。そこで、最初の両体とつぎの一体とを合算して、三体同時に上ると伝えたるのであるとのことだ。されば、これまた少しも不思議ではない。

第九七項 蜃気楼の説明

 日本全国中、蜃気楼しんきろうの名所は越中魚津なるが、ほかにも往々その出現する所がある。伊予宇摩郡金生村、星川宇四郎氏の実験談なりというを聞くに、同氏が夜中、隣村川之江あざ井地某方より帰路、数十歩前において人語がする。近づき見るに人影だもない。その近傍に瓢山ひさごやまと名づくる小山がある。古来その山に老狸ろうり住して、夜中、舟を空中に現出するといい伝えておる。よって氏はこれをたぬきの所為なりと考え、二、三歩を進むる間に、およそ一丁ばかり離れて空中に突然蒸気船が現出し、その船、南方に向かい進行しつつあるうちに間もなく光明を放ち、甲板に二人のてすりによりて下を眺めおるを明らかに認むるを得た。これより船に近づかんと欲し、その方に歩みを進むる途中、知人の来たるに会し、ただちにその船を指示せしに、知人も現にこれを目撃した。かくして暫時の後、船影は消失せしという話である。夜中の時刻と夜分の状況いかんを知らざれども、その談だけにつきて考うれば、蜃気楼と判断せざるを得ない。蜃気楼は気候の激変によって、空気の上層と下層と非常に密度を異にするに至り、光線の屈折によって、通常は視線に入らざるところの実景が浮かび上がって見ゆるのである。昔はこれを真の不思議と思いしも、今日は妖怪でないことになった。

第九八項 おばけ谷の怪象

 飛騨ひだの国より越中へ行く途中の峠道から二里ほど奥に、おばけ谷という所がある。これは、ほかからこの谷へ入って行くと、人の顔が四角に見えたり、円く見えたり、または細長くなったり、鬼面のようになって、まるでお化けのごとくに見ゆるということだ。この地方の人は、もはや常に見慣れているから少しも驚かないけれども、そのことを全く知らぬ他方の人がここを通りかかり、同行者の顔が異様に見ゆるから、互いに認め誤って化け物に出会ったと思い、大いに驚くことがある由。この谷を通り過ぐれば、もとどおり普通の顔になるというところより推すに、山の地形と太陽の光線の作用より起こるに相違なかろう。

第九九項 化け物屋敷の解釈

 四、五年前、『山形新聞』に「怪物の研究」と題して連日にわたれる記事の中に、化け物屋敷の解釈を掲げてあった。多少参考すべき点あれば、その一節を抜記しておく。
 化け物屋敷の原因は、多く地気の作用であると思う。火山の噴煙地などは別だが、その他どの土地を見ても、表面はなんの変わりもないようであるけれども、その土地によって地質の違うごとく、地気の上昇の加減も、時と所とによって大いに違う。地気というのは地層の下から立ちのぼる気体で、地層の下には気道縦横に通じて、二六時中やむときなく上昇している。この気中に含む悪気すなわちガスの種類によって、これに触れると知らず知らず逆上する。化け物屋敷に夭死ようしするものが続出したり、変死者が出たりするのはこれがためで、不吉の家には必ずこの悪気が満ちている。現に化け物屋敷といわれるような家に入ると、ただちに陰惨の気に打たれて、なんだか変な心持ちになる。あるいはいくぶん神経作用が手伝うかも知れないが、とにかく一種いうべからざる不快の気に触れることは事実であるが、これは単に地気の作用のみでなくして、家屋の構造により気流の悪い所から起こる作用もある。総じて人間に貧相、福相のあるごとく、土地、家屋にて吉凶がおのずからあらわれておる。凶相の家、すなわち光線のとおらない、気流の悪い、かわやと井戸の接近したような家に夭死する人が続出したり、逆上して変死する者の続出するのは当然で、この中に一人でも脳の加減が悪くて奇異な幻覚を見るものがあると、すぐその家は化け物屋敷になってしまう、云云うんぬん
 その他、種々論じてあれどもこれを略すが、この地気作用ばかりが化け物屋敷の原因ではないけれども、その一因となることは疑いない。

第一〇〇項 壁上の怪影

 世に偶然妖怪の幻影を生ずることあるが、その一例に府下駒込の無名氏より、ある夜、室内の灯光が柱にかけたる着物に触れ、上図のごとき幻影を現出せることを報告し来たった。これ、もとより偶然の出来事にして、なんらの意味あるにあらざれども、世の迷信家がこれを見るときは、亡者が姿を現したのであるように申し立て、その話にだんだん尾がついて、ついに一大怪談となるであろう。
室内の灯光による柱にかけたる着物の幻影の図

第一〇一項 ランプの怪影

 壁上の怪影のみならず、ランプのホヤに幻影を実験せし場合もある。そのことは明治三十二年、尾州葉栗郡宮田村、織物業栗本福太郎方にて起こった。ある夜、工場につるしてあるランプが、十一時ごろにわかに薄暗くなり、たちまち図のごとき人面が火屋の裏面にあらわれ、一同図らずも大声を発して叫んだ。その声に応じて大勢駆けつけ、これを熟視するに、眉、目、鼻、口等、確かに描きしごとくそなわって、その頭部には毛髪乱れたるなど、いかにも奇怪に現れた。よって近辺の評判には、なにがしの怨霊おんりょうならんとて祈祷きとう読経どきょうを請うに至った。これ、偶然に出でたるものにして、ランプの油炎が時あって、自然にかかる現象を生じたに過ぎぬけども、世間多くの人はなんとなく気味悪く思い、迷信を呼び起こすようになる。
ランプのホヤの幻影の図

第一〇二項 霊汗地蔵

 志州波切村に霊汗地蔵と名づくる石地蔵がある。村内に変事ある場合には、必ず全身に発汗して予告すと伝えている。先年、余がここに遊びしときその説明をもとめられたが、元来、石地蔵は死物なれば発汗する道理なけれども、空気中の温度の急変によって、その中に含める水蒸気がその体に触れて凝結する故である。そのときには空気の方は暖かにすぎ、石の方は冷ややかにすぎ、寒暖に非常の相違ができるから、あたかも水差しの外面に水蒸気の凝結すると同様の現象を生ずるのであると答えておいた。越中魚津のある寺の柱が汗を発すとて一度見物したことがあるが、これも同じ道理である。

第一〇三項 幽霊灯台

 明治の初年に、越後えちご出雲崎の海岸にはじめて灯台を設け、毎夕点火することになった。当時は遠方にてその火を望むものは、海上にて死せし亡者の霊魂が出現せりと思い、一時海亡魂うみぼうこんの評判が立ち、わざわざ海岸へ亡魂見物に出かける騒ぎとなったことがある。これ、火の玉が幽霊であるといえる迷信より、かくのごとき妄説を唱え起こすに至ったのである。すでに亡魂の原因が知れたる後に、その灯台を呼んで幽霊灯台と申したそうだ。

第一〇四項 鳥が魚に化したる話

 武州八王子の人にて田中某と名づくるもの、母の病気をわんために魚類を買い求め、これを携えて山路に入れば、鳥網にきじのかかりたるを見つけ、魚肉よりも鳥肉が勝っておるから取り替えておこうと思い、網の中へ魚を入れ雉を取って、なにびとにも断らずに去った後に猟夫が来たり見るに、鳥を取る網に魚のかかっているは実に奇怪である、もしや神の所為ではなかろうかと思い、これをあるみこにたずねたれば、「これ、神の所為に相違なし。よろしくほこらを建ててこの魚を祭らねばならぬ。しからざれば、神の怒りに触れん」という。田中氏、そのことを聞いてたずね来たって曰く、「巫、なんぞ妄言をなすのはなはだしきや。これ神の所業にあらず、われ自らこれをなしたるなり。神は決してかくのごときことをするはずなし」と、そのわけを話して聞かせりと、ある人より伝聞せし話。

第一〇五項 倒木の再起

 東山道のいずれの地方にて聞きしか地名は忘れたが、ある村社の松の大木が暴風のためにたおれてしまったから、材木屋に売り渡す約束を結び、何日にその木をきることにきめておいた。しかるに当日、材木屋来たってこれをきらんとするに、前夜のうちに、たおれたる木が自然に起き上がり、もとのままに立っていた。これを見たる人々はみな神の所業と信じ、大いに神徳に感銘したが、後になって聞くところによれば、村内の若い者が四、五人申し合わせ、深夜人の知らざる間に、もとのままに起こしておいたのだそうだ。

第一〇六項 地蔵尊の変位

 この話と好一対なるは、新潟県のある村にて地蔵尊について起こった出来事である。その村外れの路傍に、石造りの大地蔵が立っている。これを動かすには四、五人の力を要するほどである。ある年、一夜のうちにその地蔵が向きを変じ、道路の方へ背を向けていた。翌朝、村民らこれを見て不思議に思い、相集まりてもとのとおりに向け直せば、その夜また背向きになっている。かくのごときこと数回に及びたれば、村民らは、なにか本村の所業が地蔵尊の意に適せざることあるためであろうか、または村内に天災のあることを予告せらるるためではないかなどといろいろ申し立て、大いに戒慎していたが、その後取り調べの結果ようやく事実が分かり、その村内に腕力の非常に強きものあって、早朝、夜のいまだ明けざる間に、独力にて地蔵尊の向きを変じておいたのであったそうだ。これは、人の驚くのがおもしろいという、ものずきの心より起こった所業である。

第一〇七項 井中の仏像

 愛知県のある村にて井戸を掘りたるところが、地中より仏像出現せりとて、これこそ霊仏なり活仏なりとの評判立ち、遠近よりこれを参拝せんために日々群集をなせしことがあった。そのことが警察の耳に入り、なにやら疑わしき不思議なりとて、その家の主人を呼び立て、吟味の結果、その当人が、掘る前に古仏像を埋め置いたことを白状せりとの話を、先年同県下にて聞いたことがある。

第一〇八項 邪神の祟

 ある大地主が、己の所有地内に小さきほこらがあるが、なんの神を祭りしものか知れぬ。とにかくその地は不潔なれば、祠をほかの清潔の地にうつすことに定めた。その後、地主が眼疾を起こし、その痛み忍び難いほどである。出入りの者みな申すには、「神のたたりなれば、祠をうつすことはやめさせたし」という。これを聞いて地主大いに怒り、「不潔の所より清潔の所に移すに、祟をなすがごとき神は邪神に相違ない。邪神ならば恐るるに足らず」といい、急に命じてその祠をこぼち、その神をやかしめたれば、眼疾たちまち全快せりとの話がある。眼疾と遷祠せんしとはもとよりなんらの関係のないのに、神の祟などというは愚民の迷信である。かかる迷信を医する手段としては、時によりこのようなる荒療治も必要である。

第一〇九項 狸の腹鼓

 世にたぬき腹鼓はらつづみと伝うる怪談があるも、深更になると遠方の物音が手近く聞こゆるから、山寺の木魚の音などを誤って狸の腹鼓とすることが多い。少し古い話なれども、山形県庄内にて起こった出来事を紹介しよう。ある年の秋、天気快晴の夜三時ごろより五時ごろまで、トントンと響く音が聞こえ、あるいは遠くなり、あるいは近くなりする。人はみなこれを狸の腹鼓であると申していた。しかるに、町内に住するものにて磯釣りに行かんと思い、午前二時に起き、支度して門を出ずれば、風評のごとく東南の方にて、はるかにトントンの声が聞こゆ。これなん狸の腹鼓である、その正体を見届けんものと思い、その方角をたどって静かに歩み行くに、行けば行くほど遠くなる。だんだん近づいて見れば、鍛冶屋かじやふいごの音であった。毎朝二時半ごろより吹きはじめ、五時ごろになれば人々みな起きて、世間の物音が騒がしくなるためにその音が聞こえぬ。遠くなり近くなるのは、その日の風の都合によるのである。また、快晴の夜に限るのは他にあらず、天気のあしきときには、雨風の音に紛れて聞こえぬのである。この一例についても、狸の腹鼓の原因が知れると思う。

第一一〇項 衣類の切断

 明治三十年夏のころ、東京市内京橋采女うねめ町に一怪事起こり、一時新聞上の問題ともなった。こは活版業大村某の居宅の出来事である。箪笥たんす葛籠つづら等に納めおきし衣類が、いつの間にか怪しの穴あきて着ることのできぬようになり、柱に掛けておきたる衣類が、故なくして中央より切断してるなど、実に不思議にたえぬとて、主人自ら来たりて余に相談せられた。余、その顛末てんまつを聞くに、この家に奉公せる下女の身の上に疑わしき点あるを認め、一案を授けて、「速やかに下女を親戚に託してその家より遠ざけ、しかしてのち怪事の有無を試むべし」と申せば、主人諾して去り、余が告ぐるとおりを実行したれば、その翌日より怪事全くやんだそうだ。俗間にては、かくのごとき怪事あれば、ただちに狐狸こりの所為となすも、前に投石の怪事のもとに述べしがごとく、その多くは人為にして、婦人、児童、もしくは愚鈍者の所為に出ずることが多い。

第一一一項 栃木県の狐狸談

 古来伝わる狐狸談はもちろん、現在聞くところの狐狸談も針小棒大が多いが、その中には全く無根虚構に出ずるものがある。その一例として、先年栃木町に起こりし出来事を掲げてみよう。この話は今より二十年前のことで、当時全国各新聞に報道してあった。その大要は左のとおりである。
 栃木県下栃木町、開業医某のもとに、真夜中急使来たりて請いらく、「産者、今まさに産せんとしてすこぶる苦悩せり。急ぎ来たりて一診せられたし」と。某請いに応じ車を命じて、急使とともにその家にせてみれば、家は誠に立派なる大家なり。至りしときはすでに産み落とせし後なりしかば、某は事後の薬など与え、うどんの馳走を受け、かつ謝金をも受け取りて帰宅せり。翌朝、所用ありて紙入れの金を出ださんとして開きみれば、なんぞ図らん、謝金はことごとく木の葉ならんとは。怪しみて前夜の道をたどりてその家に至りみれば、車輪の跡は歴々存すれども、家屋はあらずして茶園のみ。しかして、その茶園に狐の赤子が死していたりという。ここにおいて、某は前夜のうどんを思い出だし、家にかえりて吐剤を服し、もってその吐出物を検するに、まさしくうどんなりしに相違なし。もっとも、その前日とか、その近傍に婚礼ありて、打ち置きのうどんが紛失せしことありし由なれば、けだし、このうどんなるべし。当時この話遠近に伝わりて、人はみな「某はきつねばかされたり」と称せり。
 この雑報を読みたる人より、余に質問を寄せられたれば、余はその開業医の方へ照会してみた。その書面および往復の大要は、左のとおりである。
 このことにつき寄書者は疑問を掲げて曰く、「狐は果たして人を魅するの術を知るや。果たして狐に人を魅するの術ありとせば、いかなる術にそうろうや。心意にいかなる変化を受くれば、かく狐を人と見、茶園を立派なる大家と見受くるに至るものに候や。魅術の心意上に及ぼす変化のぐあいを承りたし」
 余、この報に接して大いにこれを怪しみ、速やかに栃木町に問い合わせしに、その返書に、御照会の件は全く事実無根につき、御取り消し相成りたき旨申し来たれり。ここにおいて、そのことの全く訛伝かでん、虚構に出でたることを知り、その由を寄書者に答えおけり。
 この一事項に照らして、ほかの妖怪談の信拠し難きを知るべしである。

第一一二項 茨城県の狐狸談

 昨年の四月ごろ、『常総じょうそう新聞』に前の出来事とよく似ている雑報が掲げてあった。二十年を隔てて、隣県なる茨城県にかく似たることの起こるは珍しく感じたから、ここに抄録することにした。
 事はこの月の初め、月のない夜、那珂なか瓜連うりづら村、相田酒造店に、ツイに見なれぬ、年のころ三十一、二の男が入り来たり、「お酒を三円下さい」と十円札を一枚投げ出したゆえ、店の者が早速八升樽に入れ、釣り銭七円とを渡したところが、くだんの男はいそいそ喜び、いずこともなく立ち去った。これもちょうど同じ夜のこと、同村の医院に迎えの車とともに、「私はこの在の者ですが、妻が難産で困っております。なにとぞ御来診を願います」とやって来た。「それはお気の毒な、承知しました」と支度もそこそこ乗り込めば、車はやみをついて大宮町の方へ一直線。
 車上の医師は春の朧夜おぼろよ、揺られながらにトロトロとまどろむとき、小道に分け入るより、ハッとわれに返りしころは、すでに梶棒かじぼうはトンと玄関に突かれてあった。「これは御苦労様でした。どうぞこちらへ」と導かるるままに幾間かの座敷を通り抜くれば、結構を極めし間に、産婦は絹布の夜具によりかかり呻吟しんぎんしおるより、早速医師はそれぞれ手を尽くしようやく産ますれば、後よりまた産まるる双嬰ふたご
「どうもお骨折りでした。ヤレヤレ、これで安心でした」と一同がかわるがわるの礼言葉に、医師はくれぐれも産後の注意を与えたるが、まずなにはなくとも一口とて別間に招じ、酒よさかなと善美を尽くした饗応きょうおうの数々、座に連なる人々はひなにはまれなる気高き男女、往診料とて紙に包みし謝礼を納めて帰りしは、遠寺の鐘の音、余韻を引いてさびしく響く一時ごろであった。翌朝に至りて医師は、どう思っても、昨夜の産婦は普通の女とちがう。身体といいなんといい、それに座敷も立派だったが、上を見るとお星様が出ておったわ。オオ、そうだそうだ、昨夜もらった包み金、まことうそか、と開いて見れば、まがう方なき五円紙幣。
 相田酒造店にては、前夜の客が置いていった十円札、確かにここに置いたのに、あの家からいくら取り、この家からいくら持ってきた、そうすると十円たりないが、ハテどうしたことだろうと金庫の中をくまなく探せば、十円札の代わりに木の葉一枚! この話がだれ言うとなく広まるや、変に思った同士の医師と酒屋が寄り集まって、医師が五円札を見せると、その札は確かに私の所で昨晩釣りにやった五円札、これはただごとじゃないと、医師と酒屋が相談して昨夜の所をたずねた。
 うろ覚えの道を、医師がさきだちにて車のわだちを慕って来たのが、昼さえ人の足跡なき上野村大字おおあざ宇留野の山奥にて、宇留野原と称する所に一枚のむしろあり。その上にはコハいかに、生まれたばかりのきつねの子二匹! このことを聞き伝えたる付近の村々にては、「お稲荷いなり様が御難産のときは人間も難産するそうな。狐供養をしましょう」と寄り集まって、昨今もちをつき供養をしている由なるが、まずまずまゆつばをして聞く話なり。
 これも後に聞けば、やはり虚説、訛伝かでんであったそうだ。

第一一三項 狐の偽物

 ある人の書いたものの中に見えていたが、尾州名古屋、某氏の別荘に奇樹、怪石相連なり、園中に広き池ありて魚鳥ここに集まり、楼広くして高く、風景絶佳の仙境である。ここに老僕住みてこれを守り、来客あればもとめに応じて席を貸すことに定めてある。ある日、紳士五、六人、酒肴しゅこうを携えてここに遊び、終日歓を尽くし、帰るに臨んでしもべに一包みを与え、借料の礼なりといい、「そのほか階上にさかなの折り詰めを残しておいたが、これは貴方に与うるから晩食のときに食せよ」といいつつ立ち去った。僕はその受け取ったる紙包みを開いて見れば、木の葉のみである。また、折り詰めを開けば馬糞ばふんが詰めてある。そこで僕は、「さきに紳士と思いしは狐であった。狐のためにだまされしは残念である」と申したそうだ。しかるにその出来事は、世の好事者こうずしゃが老僕をだまするために、悪戯をしたのであるとのことだ。世には狐が人をだますにあらずして、人が人をだますことが多い。油断大敵。

第一一四項 酒狐の誑惑

 かつて『宮崎新報』に、同県東諸県郡内にて、光村某と西岡某との両人が、金円調達のため瓜生野うりゅうの村に赴き、やがてその用事も済み、焼酎の馳走ちそう酩酊めいていして己の村へ帰る途中、光村がきつねに誘われてやぶの中に入り、その挙動の怪しかりし顛末てんまつを記してあった。これ、狐きにあらずして酒憑きというべきものである。ずいぶん世間には、狐の人をだますにあらずして、酒の人をだますことが多い。されば、酒もまた狐の一種であるゆえに、余はこれを酒狐しゅこと名づけたいと思う。

第一一五項 自己催眠的狐惑

 東海道箱根山上にて狐惑こわくの一事を聞きしことがある。それは今より三十四、五年前の出来事で、余が箱根滞在中に起こった事実談である。元箱根村より箱根町の間は、樹木茂りて昼もなお暗きほどなるが、そのころここにしき狐が住んでいて、日の暮れた後に通行人を誑惑きょうわくするという評判があった。ある日、箱根町の油屋が近在へ油売りに出かけ、日暮れて薄暗くなったときにその場所を通りかかり、己は油を持っているから狐が邪魔するかも知れぬと思い、四方を見回している間に、藪の中より数十頭の狐が飛び出しきたり、大道をふさぎて進むことができぬ。油屋は己の所持せる油がほしいためであろうと思い、かつぎたる油おけを地に置き、ひしゃくにてくみ出して油の尽くるに至るも、狐は道を開いてくれぬ。そこで油屋も当惑し、この上は平身低頭して頼むよりほかに仕方なしと思い、頭を地につけ三拝九拝して、道を開かれんことを狐に願っていた。チョウドこのとき、町内の二、三の者が通りかかり、油屋の挙動の奇怪なるを見、近づきて大声を発し「油屋、油屋」と呼びかくれば、油屋は、はじめて目がさめた心地にて、再び見上ぐれば一頭の狐もおらず、道路は平常のままにて自由に通行ができるありさまである。ただ、所持せる油はことごとく地上にまき散らしてあるには、自分ながら意外なるに驚いたという話を聞いた。これは、油屋が狐を恐れたるために幻覚を起こし、狐のおらざるに狐を見るに至ったので、あたかも夢を見たと同様である。あるいは催眠状態に入ったと同じありさまである。これを自己催眠の一種とするが、世間の狐惑談は多く自己催眠である。

第一一六項 青年、漁夫をだます

 福岡県筑後ちくごにて聞いた狐話があるが、夏の夜、一人の漁夫が筑後川の岸にてあゆの釣りをしていた。その背面にあしが茂っており、その薦を隔てて小道が川に並んでついている。たまたま夜ふけてこの道を通行する青年ありて、戯れに石を拾って釣りの場所へ投げたるに、漁夫はただいちずに狐が邪魔をするのとばかり心得、「ほしいなら一匹やろう」といいつつ、釣りたる鮎を背部へ向けて投げた。そうすると青年はこれはありがたいと思い、また石を投げたれば、漁夫は「まだほしいか」といいながら、今一尾投げて与えた。ここにおいて、青年はその鮎を拾い取り、なおその上に欲を起こし、さらに重ねて石を投げたるために、漁夫は疑いを抱き、後部をふりかえりて検したれば、狐の偽物であったことが分かり、その青年を追い払ったとの一奇談。

第一一七項 婦人を狐と誤る

 茨城県水戸市外に、狐が住んでいると伝えられたる森林がある。ある人、他に招かれ、その帰路御馳走ちそうを携え、この林の中を通過せるに、後ろより婦人が声をかけて「旦那だんな様」と呼ぶを聞き、いちずに狐なりと思い込み、所持のさかなを後ろの方へ投げ、足を早めて行くに、また後ろより「旦那様」と呼びながら追いかけて来る。当人さらに肴を投じ、かくすること数回、ほとんど所持せる御馳走を投げ尽くせしころ、ようやく人家ある所に着いた。ここにてふりかえって見れば、その呼びかけたる婦人は狐にあらずして近所に住める婦人にて、よく懇意にしているものであった。婦人の方では、ひとり森林の中を通行するは気味悪しと思うところへ、幸いに懇意の旦那が歩いて行かるるのを見て、これに付き従えば安心と考え追いかけたりしに、旦那の方にては狐が婦人にばけて邪魔をするのとのみ思い込み、御馳走を与えたならば彼満足するであろうと考え、投げながら足を早め、追いつかれぬようにしたのである。これも後日の笑話。

第一一八項 老僕、頭巾にだまさる

 余が郷里にて人家を離れた所に、一帯の森林がある。古来その中に老狐ろうこ住すと伝え、その傍らを通過せるもの往々誑惑きょうわくせられて、家に帰らざることがある。一日、ある老僕、隣村に使いして帰路、この森林の傍らを通過せしとき、日いまだ暮れざるに忽然こつぜんとして四面暗黒となり、目前咫尺しせきを弁ぜずして、一歩も進むことあたわず。よって自ら思えらく、これ全く老狐の所為なり。しかず、老狐に謝してそのゆるしを得んにはと考え、地に座して三拝九拝するも、依然として暗夜のごとくである。老僕、当惑してなさんところを知らぬ。すでにして一人その道に来たり会するありて、はるかに一老体の地に座して頓首とんしゅ再拝するを見て大いに怪しみ、近づきてこれを検するに、頭巾ずきん前に垂れて両眼を隠している。よってその頭巾を取り去れば、老僕驚きて不審にたえざるありさまなれば、これにその次第をたずねしに、老狐のために誑惑せられしと信じたりと答えた。しかしてその実、老狐の所為にあらずして、自らこれをおそるるのあまり、頭巾の前に垂れて両眼をおおうに至れるを知らざるのであった。ここにおいて、両人大いに笑って相別れたりとの話。世に狐惑こわく談多き中には、かくのごときの類もすくなくなかろうと思う。

第一一九項 白狐、蚕児を盗む

 埼玉県および群馬県にては、もっぱらきつね蚕児かいこを盗むと伝えている。その狐は一種異なりたる獣にして、通常オサキというが、信州にては白狐または管狐くだぎつねと名づけておく。その形、狐に似て色白く、尾は裂けていると申す。つまり四国の犬神、出雲いずも人狐にんこ因幡いなばのトウビョウと同一の迷信である。聞くところによるに、一夜のうちに蚕児がなくなっていることがある。そのときには、オサキが盗んだと申している。ある人の実験談を聞くに、己の家にて夜中蚕児のうせたことがあったから、その翌日、室内を隅から隅まで探ってみたれば、ねずみが驚き走って逃げ出した。それゆえに、鼠の所業に相違ないという話をした。また、ほかの家にて蚕児を盗まれたとの届け出に対し、警官が出張して検閲せしときに、そのうせたる場所に鼠くその残れるを発見したことも聞いている。よって、その所業は狐にあらずして鼠であろうと思う。

第一二〇項 オサキの実物

 右のオサキ事件につき、数十年前『国会』新聞に出でたる報告を、参考のために左に抜抄しておこう。
 目にみるべからずして、この害を被るもの世に多しと聞くは、オサキきつねなり。果たして、幻妙、不可思議の通力を有する動物中にオサキ狐なるものありやいなやは、われ得て知らずといえども、狡黠鼠こうかつねずみのごとき、狐のごとき、まれに見るところの動物なしとはいうべからず。前橋市の北岩神村にては、近年養蚕の時期に際し、一夜のうちに蚕児の夜な夜な減少すること前に異ならざるより、ある家にては断じて養蚕を廃するに至れり。その害を被るは、岩神の一部落通じてしかるにはあらずして、ただ松本長吉方二、三軒に過ぎず。しかして、松本方にては本年も相変わらずその害にかかるより、ある人の勧めにまかせ、野州コブガ原より天狗てんぐを請ぜんとて、先方に至りてこれを祈りしに、その効ありてや、同夜のうちに一匹の小動物、屋外にかみ殺されいたるを発見せり。その大きさは通常の鼠より小さく、鼻はいのこのごとく、目を縦にして、さながら土竜もぐらのごとく、軟毛全身に密生して、尾さき二つに裂けたる奇獣にて、顕微鏡にてこれを検すれば、毛さきに一種の異彩を放てり、云云うんぬん。オサキ狐とは果たしてかかるものかいなやを知らねど、天狗がこれをかみ殺せしと信ずるなどは笑うにたえたり。
 この奇獣は余も信州佐久郡にて、アルコールに漬けてあるのを実視したことがあるが、動物学者の説には、いたちの一種であるということだ。つまり変形動物に相違ない。

第一二一項 天狗の呼び声

 かつて余が、石州巡講中に聞き込みたる一奇談がある。太田町近在のある寺の住職が、容貌魁偉かいいにして、大和尚の風采ふうさいをそなえている。ある夏、邇摩にま郡の山間二里余り、村落のなき山路を夜十二時過ぎに通行し、途中路傍に大石が横たわってあるから、ここにて一休みすべしと思い、盤石の上に大アグラをかき休息していた。そこへ若いものが三人相伴って通りかかり、住職の前を過ぐるや互いに低声にて、「アノ大入道はなにものか、天狗てんぐではなかろうか」という話がかすかに聞こえたれば、住職はこれはおもしろい、ひとつ彼らを驚かしてやろうと思い、大声にて「オー、オー、オー」と叫んだ。これを聞いて、かの若い連中は大いに恐れ、「天狗に違いない、早く逃げよ」とて、尻に帆で駆け出した。その後このことが天狗沙汰ざたとなり、一時その地方の大評判になったと住職の直話じきわである。

第一二二項 天狗の筆跡

 伊豆国天城山南、湯ヶ野温泉旅館に数年前、白髪長髯ちょうぜんの一老翁来たり宿して、一夜のうちにふすまに文字を書して去った。その文字はなにびとも読み下すことできず、昔の天狗文字に似たる筆法である。旅宿帳には薩州さっしゅう人と記してある由。もし、維新前にかかることあらば、必ず天狗の文字と定められ、その老人は天狗とみなされたであろう。伊東温泉の日蓮宗の寺に天狗の詫証文わびしょうもんがあるが、これは梵字ぼんじに似ておる。その他にも天狗の書を秘蔵せるものがある。余も一枚所持せるも、みな天狗の所為にあらずして、人為に出ずることは疑いないと思う。

第一二三項 箱根の天狗

 天狗談は全国いたるところにあるが、その多くは自然に起こりたる現象を誤り認めたのである。その他は人が故意にこしらえたる話である。余がかつて箱根において聞いた事実談を挙ぐれば、今より三、四十年の昔の出来事なれども、一月の寒中、青年輩十人余り相伴い、鉄砲を携え、獣猟に出かけたことがある。箱根では最も高い峰を駒ヶ岳と申す。この峰へ登りたるに、絶頂に近き所に大盤石がある。その上に大なる男が立ちながらにらんでいる。一行の青年の方では、この寒中、かの山頂に人間のいるべきはずはない、これ必ず天狗てんぐであろう。従来、駒ヶ岳には天狗が住んでいると聞いていたが、彼がまさしくその天狗であると衆説一致し、互いに恐怖心を起こし、今日は猟をやめて帰ろうということになった。かく相談している間に、天狗の方では赤き毛布を広げ、これを両手に取って青年らに向かい、しきりに振りつつにらんでいる。これを見て、青年らは天狗が魔術を使うものと信じ、大急ぎで下山し、その日は恐れ入って戸外にも出るものなきほどであった。この話たちまち近郷近在にまで伝わり、尾に尾がついて、駒ヶ岳の天狗にだまされたとの大評判となった。そののち四、五日過ぎて、ようやく事の真相が明瞭になり、山上の大男は天狗にあらずして強盗であったことが知れた。その強盗は前夜小田原の資産家の内に入り、夜中逃げ出して箱根の山間に入り、駒ヶ岳の絶頂にて休息していたのであった。その毛布を振り立てたのは、盗賊の方では、自分が小田原にて強盗せしことが知れて、捕縛に出かけたのとばかり考え、鉄砲をうたれては大変と思い、あわてて敷いていたるケットを取り出だし、砲丸たまよけをしたのであった。かくと知れてからは一大笑話となったそうだ。

第一二四項 筑波山の天狗

 先年、『東京日日新聞』に千葉県の天狗話の一件を載せてあった。今、その要を抄録しようと思う。
 明治十八年ごろのことなりしが、千葉県下某村の海浜に、貝を拾わんとて出で来たりし一人の壮漢あり。これすなわち同村の柏木某と称する柔術家にして、薄暮に至るまで貝を拾いて楽しみおりしが、夕刻に至り、近村の青年四、五名相伴いて来たり。これも同じく貝を拾わんと衣をかかげて水中に入り、かしこここと探りもとむるうち、いかにしたりけん、柏木氏過ちてある青年の足を踏めり。よって柏木氏はその粗忽そこつを謝せしに、青年らその柏木氏なるを知らざりしにや、大いに怒りていかほど謝するも聞き入れず。かれこれするうち、青年ら相ともに柏木氏にうってかかりければ、柏木氏も今は是非に及ばずとて、日ごろ熟練の柔術にて、みごとに数人の者どもをなげつけたるに、青年どもはじめの大言にも似ず、一目散に逃げうせたり。その後、その辺りにては、某村の海浜にて数名の青年を苦しめしは、筑波つくば山の天狗なりと風聞せり。
 このようの話が、後に天狗となって伝わるのであろう。

第一二五項 天狗祭りの起因

 今より数年前、『岐阜日日新聞』に「愚民の妄信」と題して、天狗祭りの記事を掲げてあった。その前年は、害虫のために稲作皆無になったことがある。
 飛騨ひだ国大野郡辺りにてこのごろ流行する天狗祭りの起由おこりを聞くに、越中国東礪波ひがしとなみ郡の増太郎といえるもの、一日天狗にさらわれたりしが、このほどふと帰村していえるよう、「二十七、八年の日清戦争に、わが国が首尾よく勝利を得しは、ひとえに天狗の助けなり。さるを、国民は少しも天狗を祭りて謝意を表せざるにより非常に憤怒し、現に昨年のごときは、種々の害虫を下してこれを罰したまえり。本年も再び、同様害虫を下したまうべし」といいたりとの訛言かげん、飛騨一円に伝わり、同国各町村は競いて天狗祭りを執行し、神楽かぐらを担ぎ出して踊り回りおる由。目下、大野郡清見村小鳥地方にては、例の天狗祭りに狂いおるありさま、狐つきならで天狗つきとはこれらのことならん。
 世の天狗談は多くこの類であろう。ここに天狗にさらわれしとあるが、このことは一時の狂態であって、山林の中にさまよい、正気を失って夢の境界にいるのである。

第一二六項 夢中、三里を往復したる話

 ここに、余が出雲いずも巡遊中に聞いた話を紹介しよう。簸川ひのかわ郡某村に釣魚をもってなによりの娯楽とし、休日ごとに必ず釣りに出かけることにきめているものがある。ある休日に、快晴なれば早朝家を出でて山坂を越え、三里隔たりたる海岸に至り、終日釣りを垂れ、日暮れて帰宅した。ときに、己の最も貴重せる大切の釣り竿ざお一本を海岸に忘れて帰りしを発覚し、その紛失せんことを恐れしも、夜中のことなれば海岸までたずねに行くこともできず、そのまま臥床がしょうした。しかるに、少時にして夢中に起き上がり、だれにも告げずして家を出でて、やみをおかして三里の山坂を越え、ついに海岸に至り遺失せる釣り竿を得て、即夜帰宅して再び寝に就き、翌朝目をさまして、さらに夜行せしことを覚えず。海岸に忘れたる竿の自宅にあるを見て自ら大いに驚き、不思議の念にたえざりしも、種々の事情を総合しきたるに、夢中にて海岸まで往復せしことが知れたということだ。もし、このことが五十年前に起こったならば、必ず天狗沙汰ざたとなり、あるいは天狗がその竿を持ち来たったとか、あるいは天狗が当人をつれて海岸へ往復したとかという評判が伝わるに相違なかろう。

第一二七項 夢中、鐘楼の屋上にのぼりたる話

 前の話に類似の出来事が徳島県勝浦郡にもあった。いったい四国の怪談は、ほとんど犬神と天狗てんぐの二種に限られているくらいで、平民は犬神に悩まされ、士族は天狗につかるるものと信じられている。そのうち天狗について一奇談を紹介すれば、勝浦郡小松島町滞在中に聞いたが、ある寺の僧が夜中室を出でて、梯子はしごを用いずして鐘楼の屋上にのぼり、自らどうしてここに至りしを覚えず。夜が明けてみれば、己はまさしくその屋上にある。これ天狗の所為なりと、自分も人もともに信じたとのことである。さてその屋上へは、梯子なくてのぼれるはずはないが、ただその傍らに大樹があって、もしその木にのぼり枝づたえに渡り行かば、屋上に達することができるとの話だ。されば、本人夢中に起きてその樹にのぼり、枝をつたって屋上に移りたるに相違ない。これを心理学にては睡遊すいゆうと名づけておく。つまり、夢中の動作にほかならぬ。前の三里を往復したる話もやはり睡遊である。子供などがときどき夢中に起き上がって室内を歩き回り、再び眠りに就きて、翌朝自ら全く覚えざる作用を睡遊と名づくるが、これとかれとは、ただ、事の大小と時間の長短との相違に過ぎぬ。それゆえに、天狗の作用にあらざることは明らかである。

第一二八項 真怪の有無

 以上述べたる妖怪談は、たいてい明治維新後に起こりたる出来事中、原因の発覚せしもののみを掲げたのである。その他に原因未詳の怪事はたくさんあれども、すでに知れたるものより推測すれば、およそ妖怪の正体はなんであるを知らすること、決して困難でない。つまり、世間普通にいうところの妖怪は真の妖怪でなく、むしろ妖怪の偽物である。しかるに、世人ははじめより妖怪ありとの予想をもって自ら迎え、さらに疑念を起こして探検することなきために、偽物が真物となって後世に伝わるのである。余の研究するところによれば、少なくとも怪談の七、八分は、人為的偽怪と偶然的誤怪であると思う。人為的とは人の故意に造り出だせるもの、偶然的とは故意にあらざるも偶然誤って妖怪と認むるものをいうのである。よって、妖怪の大部分は天狗てんぐにもあらず、狐狸こりにもあらず、幽霊にもあらず、悪魔にもあらず、人なりと断言することができる。
 果たしてしからば、世に妖怪、不思議は絶無かとの問いが起こるであろう。余はこれに対して、真の妖怪、真の不思議は、かえって世人の妖怪とも不思議ともせざるところに存すとの持論である。しかして、この真怪は偽怪を打破するにあらざれば、立証することができぬ。あたかも、暗雲を払わざれば明月を開現することのできぬと同様である。余はこの点について、さらに一言しておきたい。
 ある人、余にたずねていうには、「君の妖怪を論ずるや、一も偽怪、二も偽怪として排斥はいせきし、世に妖怪なきがごとく唱うるようなれども、また真怪あるがごとく談じ、前後矛盾するようではないか。また、妖怪あるかと問えばないといい、ないかと問えばありと告ぐるは、アマノジャクのように考えらるる」と申すから、余はこれに答えて、「世間一般の妖怪とするものは妖怪にあらずして、世間一般の非妖怪視するところにおいて、かえって妖怪ありとの論なれば、あるいは矛盾の評を招き、あるいはアマノジャクの名を与えらるるかも知れぬ。しかし老子は、『愚者は道を聞きて大いに笑う。笑わざれば道にあらず』といい、また『言うものは知らず、知るものは言わず』とも説いている。この言も一応聞いただけでは矛盾、アマノジャクのようなれども、深くせんじきたらばそのしからざることが分かる。また、ある人の狂歌に、仏と凡夫との相違を挙げて、『釈迦阿弥陀しゃかあみだうそいへばこそ仏なり、まことをいはば凡夫なりけり』と詠みたるものがある。これ、矛盾またはアマノジャクのようなれども、凡夫と仏とは真偽の標準を異にすることを知らば、その歌の道理あることが分かる。凡夫の心より真と思うことは仏の目にては偽と見、凡夫の偽は仏の真なりとすれば、釈迦、阿弥陀がうそを言うとは、凡夫の所見より定めたるものに過ぎぬ。よって、その嘘は真の嘘ではない。凡夫の愚かな目より見て嘘と思うくらいのところに、かえって真のまことがあるわけだ。これと同じく、世間の妖怪とするものを余は妖怪にあらずとし、世間の非妖怪とするものを余は妖怪とするのも、決して矛盾なるにもあらず、アマノジャクでもなく、当然の断案である。もし、世間の人も研究眼をもって詮議せんぎを尽くしたならば、必ず余と同一の結論に達するであろうと信じている」

第一二九項 妖怪と宗教との関係

 余が、かく世間の妖怪を打破して赤裸々にするに対して、必ず「その結局、宗教そのものを破壊し、神仏の信仰までを根絶するに至らん」と詰問する者あらんも、余はこの点について、世間の論者と意見を異にするものである。世論往々、宗教そのものを迷信とするも、余は宗教の信仰と迷信とは雲泥氷炭の相違ありと信じている。しかし、民間にていわゆる宗教信者と称するものの信仰は多く迷信である。その故いかんというに、世の神仏に祈請するものの中には、全く神仏を誤解して、己の私利私欲をほしいままにする道具に使用せんとするやからがある。例えば、平生なんらの善根を積みたることなく、功徳くどくを施したることもなくして、不幸、災難、病気等に際会するときに限り、にわかに思い立って神仏に祈願をかくるがごときは、神仏を愚弄ぐろうするものといわねばならぬ。かかる人を神仏の保護するはずなく、むしろ必ず厳罰を与えらるるであろう。よって余は浅学ながら、宗教門内に迷信的信仰を打ち払って、正しき信仰の起こるようにしたいと思うの一念より、妖怪研究に取りかかった次第である。
 今日、民間には正信教もあるけれども、迷信教がかえって勢力を有しているように見ゆ。かかる迷信教が行われ、妄説、詐術をもって愚民を誑惑きょうわくするため、愚民はますます迷信に迷信を重ぬるに至り、教育、道徳の進路を妨げ、社会に害毒を流すようになるを免れぬ。これ、余が妖怪の真相を明らかにして、迷信の害を除かんことをつとめたるゆえんである。すでに妖怪の偽物を退治し終われば、真怪の実在を明示し、これと同時に宗教の正しき信仰を証立したいと思う。この目的に向かって、他日さらに真怪論を発表するつもりである。

第一三〇項 妖怪研究の結果

 余は今より二十三、四年前、妖怪研究の結果を編纂へんさんして、『妖怪学講義』の題目にて世間に発表したるも、その書はあまり大部にして容易に通読し難きを知り、数年前に自らごくごく簡単に結論の大要を書きつづったものがある。ここにその全文を掲げておくから、願わくはこれを一読して、余の研究の結果と本意のあるところとを了察せられんことを。これ、余が世間に向かって懇望するところである。
 諸君よ、余が最初妖怪研究に着手しましたは、明治十七年のことにして、爾来、材料を拾集するに十年の星霜を重ね、二十六年に至って、はじめてその研究の結果を世に公にするようになりました。すなわち『妖怪学講義』と題するものが、まさしくその結果であります。この「講義録」は元来四十八号二十四冊より成りたるも、昨年これを合綴がってつして六大冊にいたしました。その中には四百余種の妖怪事項を集めて、これにいちいち学術上の説明を与え、古今民間に伝われる妖怪は、たいてい網羅し尽くしたつもりであります。しかるに、その全部の紙数二千六百ページに余るほどのすこぶる浩瀚こうかんの大書籍なれば、世間よくこれを通読するものいたって少ない。よって余は、ここにその研究結果の一端を摘み出だして、世人に紹介することに定めました。
 世人多く、余が妖怪研究をもって、ものずきか慰みか道楽のように申すものがありますが、決してかかる次第ではありませぬ。畢竟ひっきょう、この一事に貴き光陰を十年以上費やせしは、深く思うところありてのことであります。かくいうと、なにやら御釈迦しゃか様を気取るようでおかしく感ずる人がありましょうけれども、余は幼少のころより、死はなにものぞ、生はなにものぞ、天災はなんのために起こり、病患はなんのために生ずるや等の問題が常に心にかかり、早晩これを研究してみたいとの念より、妖怪研究の志を起こすようになりました。人間は生きているに衣食住が一番大切であると申すけれども、衣食住よりモット大切のものは、安心するということであります。犬や猫は動物であるから、飲んだり食ったりすれば、そのほかになんらの望みもありませぬけれども、人間は動物より一段階級が進んでおりますから、飲み食いばかりでは満足いたしませぬ。必ず衣食住のほかに安心したいとの一念が、常に動き出して止めることがむずかしい。いかに貧困にして毎日の糊口ここうに追わるるような身分でも、一日として安心を願わざる者はありませぬ。されば、犬や猫は飲食的動物、人間は安心的動物と異名を付けてもよろしからんか。とにかく人間と獣類との別は、安心を願うことを知ると知らざるとによりて定むることができます。
 諸君は、かの道に太鼓をたたきて題目を唱え、手に御幣ごへいを握りてトオカミを叫び、観音参詣さんけいの老婆が一文ずつためたる金子を中店の売卜ばいぼくに費やし、天理信仰の病人が祖先伝来の財産を天輪王の御水に傾け、あるいは成田の不動に断食の願をかけ、あるいは川崎の大師に日参の誓いを立て、あるいは炎天をおかして高山をじ、あるいは厳冬に際して冷水に浴し、あるいは伊勢参宮、四国巡礼、あるいは京参り、大和めぐり等はなんのためであると考えますか。みな安心したいためではありませぬか。人間に安心する道を求むる念の切なること、このとおりであります。今、余が妖怪研究はかかる切要なる安心の道を講ずるものなれば、全く無用と申すことはできますまい。
 民間にて一般に用いきたれる御水や御札やあるいは禁厭きんようの類までも、みな人をして安心せしむるを目的とするに相違なけれども、訳も道理も分からずに盲目的にこれを用うるからして、一時の後はたちまち心が動き出して、さらに大いに迷うようになります。ゆえに、かくのごときは真の安心とは申しかねます。しかして真の安心は、必ず訳や道理の分かった方法によるよりほかはありませぬ。ことに今より後は、民間の教育、学問が一体に進んできますから、訳、道理の分からぬことを聞かしても、だれも信ずるものがありますまい。それゆえに、今後の安心は必ず道理に基づき、学問に考えて説明したるものでなければ、役に立たぬと思います。これが、余が妖怪事項を集めてその説明に着手したる次第でありますから、あらかじめ御承知おきを願います。
 だんだんたくさんなる妖怪の種類を集めて研究してみると、いろいろおもしろいことが出て参ります。社会の内幕や人情の秘密が、みな分かるようになりてきます。言葉を換えて申せば、人の心を解剖して見ることができます。表には玉のごとく月のごとく、立派に紳士然たる顔を装っている人が、その心の中を探り見るに、土のごとくあくたのごとく、いたって不潔なる魂情が隠れていることが分かります。実におかしくもあり、気の毒でもあり、憎らしくもあり、かわいそうでもあります。されば、妖怪研究はいかにも不思議なものであると考えます。これは、人心の秘蔵を開く唯一の鍵と申してよろしい。局外の者にとっては、妖怪などは社会現象中の一小事のように見ゆれども、間口は狭くても奥は千畳万畳敷きでありて、実に広大無辺の研究であります。なんと申しても、人間の心全体が、妖怪の幻灯仕掛けにできておりますから、ちょっと心の灯を点じても、ただちにいろいろの妖怪があらわれてきます。ゆえに、社会万般の現象は、大抵みな妖怪の現象と申しても差し支えありますまい。諸君よ、ナント妖怪の学問は滅法界もない広大の研究でありて、実に驚くばかりではありませぬか。
 さて、妖怪の種類を挙げて申さば、四百、五百ないし千以上もありて、おびただしきことでありますが、余はこれを実怪じっかい虚怪きょかいとの二大類に分けました。さらにこれを細別すれば、実怪の方には真怪しんかい仮怪かかいとの二種あり、虚怪の方には偽怪ぎかい誤怪ごかいとの二種ありて、偽怪は一名人為的妖怪といい、誤怪は一名偶然的妖怪といい、仮怪は一名自然的妖怪といい、真怪は一名超理的妖怪といいます。もし超理的妖怪より論ずれば、ひとり人間社会のみならず、宇宙間の事々物々、一として妖怪ならざるなきほどに至ります。天地すでに一大妖怪なれば、その間に現ずる森羅の諸象はもとより妖怪の現象にして、一滴の水も一片の雲も、みな妖怪なりと申してよろしい。なぜなれば、超理的妖怪とは不可思議、不可知的の異名でありて、事々物々もしその根元を窮むれば、みな不可知的に帰するようになります。諸君は、かの笑うがごとき春山の景中に不可思議の霊光を浮かべ、歌うがごとき秋水の声裏に不可知的の妙味を含むを知りませぬか。たれびともその心中にひとたび哲眼を開ききたらば、見るもの聞くもの、みな超理的真怪となりて現るるようになります。妖怪研究もこの点まで窮め尽くさなければ、真のおもしろ味は知れませぬ。しかし、世間の者にこのような話をして聞かせても、いわゆる馬耳東風の類にて、サッパリ感じませぬは実に困ったものであります。もし強いて聞かすれば、ビックリ仰天して逃げ出すばかりであります。それはそのわけでありて、世間の者の妖怪と思っている事柄は、余がいわゆる偽怪、誤怪もしくは仮怪に過ぎませぬから、仰天するのはあながち無理とは申されませぬ。よって、しばらく真怪の話はさしおき、もっぱら世間普通の偽怪、誤怪に関する話をいたしましょう。
 偽怪、誤怪の話をする前に、一応その説明を与えなければなりますまい。まず偽怪とは、人の工夫よりいろいろ作り出したる妖怪にして、あるいは利欲のため、あるいは政略のため、あるいは虚名のために、なき妖怪をあるように言い触らし、針小の妖怪を棒大に述べ立て、「一犬虚をえて万犬じつを伝うる」などの類は、みな偽怪と申すものであります。世の中にはこの種類最も多けれども、あまり巧みにできたる分は、偽怪の化けの皮を現さずに、真物ほんものとなりて伝わりております。つぎに誤怪とは、妖怪にあらざるものを誤り認めて妖怪となせるの類にして、暗夜に木骨を鬼と認め、路上に縄を蛇と誤るも、その一例であります。つぎに仮怪とは、これに物理的妖怪と心理的妖怪の二種ありて、物理的妖怪とは狐火きつねび、鬼火の類をいい、心理的妖怪とは幽霊、狐きの類を申します。つぎに真怪のことはすでに説明したから、再び述ぶるに及びませぬ。以上四種のうち、偽怪、仮怪、真怪をもって世界の三大怪といたします。そのときは、誤怪は偽怪のうちに合して別に立てませぬ。学問上より世界を見るときは、人間界、自然界、絶対界の三種に分けますが、この三種はまさしく余がいわゆる三大怪と合する分類であります。すなわち、偽怪は人間界の妖怪、仮怪は自然界の妖怪、真怪は絶対界の妖怪であります。ゆえに、偽怪を研究するときは、社会、人情の秘密を知ることを得、仮怪を研究するときは、万有自然の秘密を解くことを得、真怪を研究するときは、宇宙絶対の秘密を悟ることを得るわけであります。諸君がもし政治家にならんと欲せば、必ずまず偽怪を研究し、教育家にならんと欲せば、必ずまず仮怪を研究し、宗教家にならんと欲せば、必ずまず真怪を研究せられよ。これ、余が諸君に忠告するところであります。
 余は先年来、日本国内を巡視して、いたるところ民間の妖怪を聞くがままに集め記し、ここにその起源を考うるに、総体の七分はシナ伝来、二分はインド伝来、残りの一分は日本固有の妖怪のように見えます。また、その種類を考うるに、十中の五は偽怪、十中の三は誤怪、残りの二分だけは仮怪の割合となります。ただし、世間には仮怪最も多きようでありますけれども、その中には偽怪、誤怪の混入せる例がたくさんでありますから、ウッカリ信ずることはできませぬ。要するに数種の妖怪中、偽怪、誤怪の類が最も多いに相違ありませぬ。果たしてしからば、世間の者は妖怪の贋物にせものばかりをかつぎ出し、真物はかえって知らずにおります。ことわざに「盲者千人に明者一人」とは、もっともの格言ではありませぬか。
 かように、世の中には妖怪に贋物ばかり流行している原因をたずぬるに、全く人の奇情と迷心との二つが製造場となりて、不断たえず種々の妖怪を造り出す故であります。奇情とはたれびとも有する好奇心のことにして、なににても見慣れず聞き慣れぬ珍しきことあれば、これを大層らしくいい立てて、人を驚かそうとする一種の癖心のことであります。迷心とは安心の反対にして、物事の道理に暗く、自分の思うようにゆかないときに、いろいろの妄想を起こして迷い出すことであります。人にこの迷心があるから、安心することができず、安心ができぬから、ますます迷うようになります。奇情の方はやや狂気じみているけれども、さほど害にはならず、かつ、おもに偽怪のみに関係しているから、やかましく論ずるにも及びませぬが、迷心の方は偽怪にも誤怪にも仮怪にも関係し、一人の利害はもちろん、国家の盛衰にも関係していることなれば、こればかりはそのままに見捨て置くわけには参りませぬ。むしろ、重箱のすみを楊子ようじでほじくるように、隅から隅まで迷心の大掃除をいたし、もって人をして安心させてやりたいものであります。余はこれを迷信退治と名づけます。
 諸君よ、今日は文明日新とか教育普及とか唱えながら、迷信の雲が依然として愚民の心天をとざしているのは、なんと申してよろしかろうか。世の天狗てんぐを気取っている学者や教育者に、おたずね申してみたいではありませぬか。麻疹はしかの流行に際し、入り口に「鎮西八郎為朝宿ちんぜいはちろうためともやど」と題して、わが家には病気入ることできぬものと信じおるがごとき、隣家の失火に際し、主人自ら鎮火の祈祷きとうを行い、ついにその家とともに焼け死ぬに至りたるがごとき、学校建築に際し、村会の第一問題は、鬼門方位の吉凶を議するがごとき、実にあきれ果てたる次第ではありませぬか。故なくして医師を取り換え、故なくして奉公を見合わせ、故なくして結婚を断り、故なくして親戚と絶交し、故なくして妻と離縁し、故なくして住居を転じ、故なくして家屋をこぼち、故なくして旅行をやめ、故なくして約束を破る等、多くはこれ迷信より起こりております。諸君よ、ナント迷信の害はここに至りて極まれりといわなければなりますまい。これを黙々に付しおきて、学者や教育者の本分が立つでありましょうか。人はとにあれかくにあれ、余はあくまで迷信退治を一身に任じて、人心の妄雲をはらい去り、真怪の明月を開きあらわし、もって光明の新天地を作り出さんことを日ごろ熱望のあまり、はからずも妖怪研究に着手することになりました。
 かくして多年研究の結果、迷信は一片の迷心より起こるは申すまでもなく、迷心は畢竟ひっきょうするに、吉凶禍福の道理に暗きと、世態人情の意のごとくならざるとの二者より起こると考えます。言葉を換えて申さば、知識に乏しきと、意力の弱きとに起因すということであります。すでに迷心は知と意との二者の、不具もしくは病体より起こると知る以上は、これに相応の薬を与えて治療を施さば、たちまち知徳健全の人となりて、安楽の心地に至ることができるに相違ありませぬ。およそ人、ひとたび迷えば必ずその心を苦しめ、いよいよ迷えばますます苦しむは人情の常則なれば、安心の要道はその迷いを去るよりほかにはありませぬ。もし、ひとたびその迷いを去れば、苦境は一変して至楽の天国となり、百難は四散して無憂の世界となる。仏教のいわゆる娑婆しゃば即寂光とは、このことならんと思わるるほどであります。もし、さらに進んでその心地に真怪の別天地を開ききたらば、上は日月星辰より下は山川草木に至るまで、みな不可思議の光明を放ち、春花秋月はもちろん、雨夕風晨うせきふうしんなおよく最妙極楽の光景を現し、一望たちまち快哉かいさいを叫び、手の舞い足の踏むを知らざるの妙境に達することを得るは、実に不思議中の不思議ではありませぬか。世にかかる不思議のあるを知らずして、いたずらに生死の門に迷い禍福の道に惑うは、これを評して愚中の愚と申さなければなりませぬ。あに、かなしき次第ではありませぬか。
 今日、愚民の知と意との不具を療する方法は、宗教と教育との二道ありて、教育は知識を進むるを目的とし、宗教は惑情を定むるを本意とするゆえ、この二道並び行わるれば、自然に迷信を一掃することができる道理でありますけれども、その方法は内科の治療のごとく、漸々徐々にその結果を示すものなれば、あたかも靴を隔てて足をくがごとくに思われ、なんとなくまわり遠きように感じられます。今、迷信の弊害は旦夕たんせきに迫るありさまなれば、外科の治療のごとく、即時直接にかゆきところに手を届かするような方法がありそうに考えます。世間の学者はとかく高きを見てひくきを忘れ、近きを捨てて遠きを取るの風ありて、迷信、妖怪のごときは大いに実際上の利害あるにもかかわらず、かかる卑近のことに心を用うるは、学者の体面を汚すように思っております。また、一般の教育者は読本、算術の日課を授くるに汲々きゅうきゅうとして、他を顧みるのいとまなきがごとく、たまたま閑隙かんげきありて講学に志すものは、さほど実際に急切の関係もなきヘルバルト氏の学理を探求するをもって、教育家の能事終われりと信じ、愚民迷信の熱度四十度以上に超過せるも、さらに知らざるもののごとくに気楽を構えております。また、普通の宗教家は木魚を鳴らして伽藍がらんを守り、死人を迎えて引導を渡すをもって、僧家の本分を尽くせりと思い、はなはだしきに至りては、檀家だんかの機嫌を取りて、受納をふやさんことのみに心を用うるがごとき、あさましきものもあります。たまたま学事に篤志のものあれば、三界唯心とか一心三観とか、高尚の理屈ばかりを唱え、「唯識ゆいしき三年倶舎くしゃ八年」などと気長のことばかりをいい立てて、さらに時弊に応じて教義を調合するさじ加減を知らざる風情であります。ゆえに近年、教学ともに振起勃興ぼっこうせるにもかかわらず、民間に下りて見れば、積年の迷信依然としてその勢力をたくましくし、もって教育の進路を遮り、宗教の改良を妨ぐること、日一日よりはなはだしくなるように感じます。これ、ひとり国家のためのみならず、教学のために残念至極のことであります。余はかつて古人の詩を思い出し、
尽日尋春不春、芒鞋蹈遍隴頭雲、帰来笑撚梅花嗅、春在枝頭已十分。
尽日じんじつ、春をたずねて春を見ず、芒鞋ぼうあい踏みあまねし隴頭ろうとうの雲、帰り来たりて笑って梅花をひねりてかげば、春は枝頭しとうにありてすでに十分)
とあるように、今日の学者、教育家、宗教家は大抵みな、近く枝頭の春に背きて、遠く隴頭の雲を踏むの類にあらざるかを疑い、ひとり自ら嘆息している次第であります。今日の教育、宗教の状態は、ただ今述ぶるとおりの事情でありますから、この二道によって迷信を退治するは、容易のことにあらずと考え、余は自ら一工夫をめぐらし、むしろ外科的医法によりて即席療治を施さんと欲し、妖怪研究の看板を掲げ、『妖怪講義』を発行して世に公にすることにいたしました。今、その要点を一口につまんで申せば、余おもえらく、世人が迷心、惑情を去り難きは、全く天運といえる一大怪物が目前にかかりて、なにほど己の心をたずねてみても、サッパリ分からぬ故であります。けだし、天運とは生死常ならず、禍福定まりなく、世事意のごとくならざる一事にして、これぞ宇宙の最大怪物と申してよろしい。この怪物が実に迷信のバクテリアにして、これに消毒法を施すにあらざれば、到底、世に迷信の痕跡を絶つことはむずかしいと考えます。妖怪研究の必要は全くこの点にあることは、諸君もすでにお分かりでありましょう。たとえて申せば、妖怪学は迷信のバクテリアを殺す消毒剤でありて、余はこれを専売する薬店でありますから、この病にかかりたる人は、一服用いてその効験を試みられたきものであります。
 老いて子に別れ、幼にして父を失い、妻は乳児をすてて去り、夫は家産を破りて死し、昨年は天災にくるしめられ、本年は病患に悩まされ、盗難火難、水災風災、相ついで至るときは、非凡の豪傑、賢人にあらざるよりは、迷いを起こさざるもの、けだし一人もなかるべしと思います。生死、禍福の門に迷わざることは、実に難中の至難であります。しかしながら、迷いやすきものはまた悟りやすきものにして、もしその人の病に相応せる薬法をもってこれを投ずれば、積年固結せる惑病迷疾も、一朝にして雲のごとく散じ、煙のごとく消ゆることができます。ぎゃくを医するにはキニーネ剤にしくものなく、迷信を医するには妖怪学にしくものなしとは、余が証券印紙付きにて保証するところであります。畢竟ひっきょうするに、人をしてひとたび天運のなんたるを明らかに了解せしむれば、生死の迷門も、禍福の暗路も、たやすく通過し得る道理でありますから、余はここにちょっと一口、天運のなんたるを述べようと考えます。
 天運は規則なきがごとくにして規則あり、定まりなきがごとくにして定まりありて、あたかも夏は暑く、冬は寒いと同じき道理でありますから、決して迷うにも、怪しむにも、嘆くにも、悲しむにも及びませぬ。およそ天の道は公平無私にして、人間のごとく偏頗へんぱの私心あるものではありませぬから、人の方で自分勝手に願った祈りだとて、天はそれがために規則をまげるようなことは決していたしませぬ。すでに公平無私なれば、なにごとも権衡平均を保つように傾くが、天道の常性であります。高きものはこれをおさえ、ひくきものはこれをあげ、弱きものはこれを助け、強きものはこれをしりぞけ、張るものはこれを屈し、縮むものはこれを伸ばすが、いわゆる天道の平均主義であります。あたかも鉄道の敷設ふせつに、高き所はこれを削り、低き所はこれをうずめ、なるべく地平を保たんとすることに似ております。ゆえに余は、天道はなお鉄道のごときかと申しています。
 古来のことわざにも「人間万事塞翁さいおうが馬」とあるがごとく、天道は決して一人の者に幸福のみを与うることなく、また不幸のみを下すことなく、幸福の後には不幸あり、不幸の後には幸福ありて、その循環の次第は、風雨の後には晴天あり、晴天の後には風雨あるがごとく、豊年の後には凶年あり、凶年の後には豊年あるがごとく、誠に天道の公平無私にして、しかも平均権衡を失わざるは感服するばかりであります。われわれなどの、あるときは晨起はやおきし、あるときは朝寝し、あるいは忽然こつぜんとして怒り、あるいは卒爾そつじとして喜び、気ままに規則を犯し、勝手に約束を破るものとは、実に天地の相違ではありませぬか。この道理をよくよく推し極めてみれば、世に真の不幸者なく、真の罹災りさい者なく、長き年月の間に吉凶禍福の差し引きを立つれば、さほどの損もなければ、得もないことが分かります。しかるに、ひとたび不幸にあえば、再三これを重ねんとし、一人天災にかかれば、一家ことごとくこれにかからんとする傾向あるは、これ多くは天のしからしむるところにあらずして、自ら招くところであります。およそ天災、不幸は弱点に付け込むものなれば、あまり災難を恐れて迷心を増長せしむれば、ますます種々の災難が四方よりおしかけて来るものであります。諺にも「疑心暗鬼を生ず」といえるがごとく、多くの災難、不幸は、これを疑懼ぎくするより起こるに相違ありませぬ。軽症の病が重患となり、くべき病人がにわかに死するがごときは、多くは自分の迷心より招くところであります。一家の衰微滅亡も、やはり天のしからしむるところにあらずして、自ら招くところなるは、これに準じて知ることができます。
 世に不幸の種類いたって多きも、不幸中の不幸は死の一事であります。死は天道の常則にして、我人の免るべからざるところなれども、天寿を全うすることあたわざるは、多くその人自ら招くところなることは、実際に照らして明瞭であります。死すでにしからば、他はいわずとも分かりましょう。かかる道理でありますから、いやしくも人たるものは、天道、天運の規則を明らかにし、生死、禍福の門路を究め、百難、千死をおかしても、決して迷情を動かさず、疑念を起こさず、泰然として一心を不動の地に置き、ふたたび生死路頭の迷子とならざるように平素研究しおくは、この世の浮き橋を渡るに、肝要中の肝要なる心得であります。
 一家の建築には小刀細工では間に合わず、大店の商法には目の子勘定では役に立たず、生死の迷心を定むるには、人相、方位のごとき小刀細工や、売卜ばいぼく禁厭きんようのごとき目の子勘定では到底むずかしい。必ずや天地の大道に基づき、道理の根元を明らかにせなければなりませぬ。だれも富士山に登りて、はじめて箱根の低きを知り、地球図を見て、はじめて日本の小なるを覚ゆるがごとく、天地の大道を究めて、はじめて迷信のたのむに足らざるを了解するようになります。ゆえに、我人のたのむべくよるべく安心すべきものは、天地の大道を離れて、決してそのほかに求むることはできませぬ。諸君、もしいやしくも迷信のたのむに足らざるを知らば、速やかに去りて妖怪の学林に遊び、もって天地の大道を講究せよ。諸君、もしいやしくも安心の求むべきを知らば、たちまち来たりて余が門庭に入り、もって生死の迷路を看破せよ。天堂近きにあり楽園遠きにあらず、ただ生死、禍福の迷雲妄霧を一掃して、心天高き所に真月を仰ぐの一事、よく眼前咫尺しせきに天堂、楽園を開くことができます。諸君、決してこのことを疑うなかれ。もしこれを疑わば、請う、これを神仏に問え。神仏もし答えずんば、これを先聖に問え。先聖なお告げずんば、これを後人に問え。諸君は必ず先聖後聖、その一なることを知らん。ただ、余が諸君に誓うところは、古人われを欺かず、われまた他人を欺かざることであります。
 一人の安逸は一国の安逸であり、一家の快楽は一社会の快楽であります。妖怪の研究よく生死路頭の迷人、禍福院内の病客をして最楽至安の天地に遊ばしむるを得ば、その社会国家を益することは申すまでもありませぬ。古来、英雄の事跡を見るに、みな生死、禍福に痴情を起こさず、方寸城中一点の迷塵めいじんをとどめざるものに限ります。非凡と凡人との別、英雄と愚俗との差は、迷心を有すると有せざるとによりて分かります。ゆえに、人もし英雄とならんと欲せば、必ずまず迷信を一定する道を講じなければなりませぬ。いかに平々凡々の人物にても、ひとたび迷信を翻して精神を安定するを得ば、意外の事業を大成し得るは必然の道理であります。よし政治家になるにも実業家になるにも、軍人になるにも役人になるにも、この大決心が欠けていて、些々ささたる吉凶禍福に心を奪わるるようでは、平々凡々の輩となりて果つるよりほかはありませぬ。果たしてしからば、妖怪学の研究は一人一家の幸福のみならず、国家社会の繁盛をきたすもととなることは、諸君においても十分わかりましたであろうと考えます。
 以上はあまり妖怪学の効能を述べ過ぎるように見えて、売薬屋の効能書のように思う人もありましょうけれども、余が目的は、最初よりいたずらに閑人の道楽のつもりで始めたるわけではなく、全く愚民の迷心を安定せんとする本心より出でたるものなれば、世人にその趣意を誤解せざるように注意を願いたき一念より、かくのごとく効能を述べたる次第であります。その効能の果たして名実相応するやいなやは、自分免許の保証では人の承知せざる恐れあれば、諸君の研究の結果をまちて決定することにいたしましょう。
 余はこの一事につき、多年焦慮苦心の結果むなしからず。去るころ、宮内大臣より陛下の御前へ奉呈せりとの御沙汰さたをこうむり、不肖の光栄満身に余り、感泣おくところを知らざるほどでありました。また、引き続きて文部大臣より過分の賛辞を賜るの栄を得、その喜びまた、まさにあふれんとするばかりでありました。かかる栄誉に対しては、今より一層精を励まし、しんを凝らし、もってますます妖怪の蘊奥うんおうを究め、宇宙の玄門を開き、天地の大道を明らかにし、生死の迷雲を払い、広く世人をして歓天楽地の間に逍遥しょうようせしめ、永く国家をして金城鉄壁の上に安座せしむることを、かつ祈りかつ誓うところであります。諸君にして、もしよくこの微衷を知らば、余にとりては誠に願うところの幸いであります。
 右は自分で書いたるものを自分で引用したものであるから、なんとなく自画自賛のようなれども、その意、ただ先年の所述なることを示さんためにほかならぬ。





底本:「井上円了 妖怪学全集 第5巻」柏書房
   2000(平成12)年5月10日第1刷発行
底本の親本:「おばけの正體」丙午出版社
   1914(大正3)年7月5日発行
   1917(大正6)年2月20日6版
※図は、底本の親本からとりました。
※〔〕内の編者による補記は省略しました。
入力:門田裕志
校正:岡村和彦
2016年3月4日作成
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