迷信と宗教

井上円了




序言


 わが国は今日なお迷信盛んにして、宗教もその雲におおわれ、精神界はこれがために暗黒なるありさまなれば、余は人文のため、国家のために、迷信と宗教との別を明らかにし、有害なる迷信を除きて、正しき信仰の下に宗教の光明を発揮せしむるの必要を感じ、一片報国の微衷より本書を講述するに至れり。
 本書の目的は、高等教育を受けたる人士を相手とするにあらず、中等以下の社会、あるいは小学卒業の程度の人にして、迷信の海に漂いつつある人に示さんとするにあれば、高尚の学説を加えず、煩雑の論理を避け、平易にして了解しやすきを主とせり。
 本書は家庭教育の教訓材料、社会教育の講話材料に供給せんとの予想にて、できうるだけ例話、事実談を多く引用することとし、また、なるべく興味に富めるものを選抜することとなせり。しかして、その談話は古人の書より抄録するよりも、余が内外各国の実地を踏査して、直接に見聞せしものを多く掲記したり。ゆえに、教育家および宗教家はもちろん、いやしくも家庭の父兄たるものは、いかなる社会を問わず、本書を一読して、教訓、講話の資料に採用せられんことを望む。

大正五年二月
著者 しるす
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第一段 迷信の定義


 ここに迷信と宗教との関係を述ぶるに当たり、まず、迷信とはなんぞやの定義を知らなければならぬ。しかるに、迷信はその範囲はなはだ広く、かつその種類すこぶる多くして、精確なる定義を与うることは困難である。ただ普通の見解によれば、道理なきことまたは道理に背きたることを、道理あるがごとく、または道理にかなうがごとくに誤って信ずることであろう。そのほかに、なし得べからざることをなし得べしと信じ、これによって己の私情を満たし、僥倖ぎょうこうを望む意味も加わっておるように思う。
 先年、文部省にて編纂へんさんせられし『国定小学修身書』に迷信の課題が掲げてあり、また迷信の種類も列してあったから、これによって、およそ迷信とはかかるものかというを知ることがよろしかろう。まず、尋常科の注意の下に、
 迷信は地方により種々雑多にて、四国地方の犬神いぬがみのごとき、出雲いずも地方の人狐にんこのごとき、信濃しなの地方のオサキのごときは、特にその著しきものなり。
とあり、またそのつぎに左の八項を掲げて、これを諭すべしと書いてある。
(一)狐狸こりなどの人をたぶらかし、または人につくということのなきこと。
(二)天狗てんぐというもののなきこと。
(三)たたりということのなきこと。
(四)怪しげなる加持祈祷かじきとうをなすものを信ぜぬこと。
(五)まじない、神水じんずい等の効の信頼すべからざること。
(六)卜筮ぼくぜい御鬮みくじ、人相、家相、鬼門、方位、九星きゅうせい墨色すみいろ等を信ぜぬこと。
(七)縁起、日柄等にかかわることのあしきこと。
(八)その他、すべてこれらに類するものを信ぜぬこと。
 つぎに、高等の方には本文中に、
 世には種々の迷信あり。幽霊ありといい、天狗ありといい、狐狸の人をたぶらかし、または人につくことありしというがごとき、いずれも信ずるに足らず。また、怪しげなる加持祈祷をなし、卜筮、御鬮の判断をなすものあれども、たのむに足らず。およそ人は、知識をみがき道理を究め、これによりて加持祈祷、神水等に依頼するがごとき難儀の起こりしとき、道理をわきまえずして、みだりに卜筮、御鬮等によるがごときは、いずれも極めて愚なることというべし。
と説いてある。これらによりて、迷信のいかなるものかを知ることができる。
 迷信を述ぶるには、ぜひとも妖怪の話を交えざるを得ない。なぜなれば、この二者はほとんど同一の関係を有し、妖怪はすなわち迷信、迷信はすなわち妖怪といってよいほどである。世間多くの人は、妖怪ならざるものを妖怪と信じている。これすでに迷信である。また、その迷信にさらに種々の迷信を付会して、妖怪を解釈するありさまなれば、ここに迷信の題下に各種の妖怪をも併記することにする。
 これより、まず西洋の迷信より説き起こし、わが内地の迷信に及ぼし、終わりに迷信の説明を結ぶに当たって、宗教と迷信との相違を述べたいと思う。

第二段 西洋の迷信


「心灯をかかげきたりて天地の活書を読め」とは、余が『妖怪学講義』の巻頭に題したる語である。これと同時に、「迷信の妄雲を払い去って、宗教の真月をみよ」とは、余が世人に警告するところである。西洋はいかに文明が進んでいるといっても、今日なお宗教中に迷信の加わりいることが決してすくなくない。なかんずく、ヤソ旧教に至っては、迷信というよりは妄信といいたいことが多い。スペイン国の首府マドリッドの人民は、その地位が欧州各国の首府より海抜最も高いという点より、「天国に最も近いから、天帝より愛護を受くること一層大なるに相違なし」と申しているなどは、笑うべきの至りではないか。イタリア地方の寺院を見るに、信者群れをなして堂内のマリアの像の足にキスしている。乞食こじきも紳士も令嬢も、打ちまじり互いに前後してキスするありさまは、衛生もなにもあったものではない。普通の僧侶の指までも、争ってキスしているようなありさまである。
 ひとり旧教国のみならず、新教国にも迷信がたくさんある。キリストが金曜日に十字架上で殺されたというより、一般に金曜日を不吉の日として、今でもその日に人を招くことを避け、旅立ちもなるべく見合わすようになっている。また、西洋では一般に十三の数をはなはだしく嫌う。これも、ヤソ教から起こった迷信であると聞いている。十三日、十三番地、十三番室などは大いに嫌われものである。なかんずく、十三人同時に食卓について食事するのを最も不吉としてある。余が先年、英国滞在中、避寒のために南海岸のボーンマスという地に移り、一カ月ばかり下宿していたことがある。その下宿屋の客が、ちょうど十三人であった。そこで、食事ごとにその家の娘が一人お客に加わりて、食室へ列席することに定めてある。もし、客中の一人が、あるいは病気、あるいは外出して食堂へ出席せぬ場合には、急に娘を食卓より退席させる騒ぎが起こる。しかも、その家は新教信者であった。
 その他、ヤソ教には関係のないことで、しかも一般に避け嫌う迷信がある。例えば、食卓の上に塩をこぼすを不吉とし、ガラス窓の中より新月を望むを不吉とし、朝起きて上靴の右と左とを間違えてはくを不吉とするの類が多々ある。これと同時に、吉兆として喜ぶ迷信もすくなくない。例えば、路上にて落ちたる蹄鉄ていてつを拾うのを吉事とし、これを持ち帰って大切に保存しておく。それゆえに西洋人の居宅には、ときどき室の入口やストーブの上などに、蹄鉄を掲げて置くのを見る。この類の迷信中、最も福運があるとして喜ばれるのは、出産のときに、赤子の頭が薄い膜にて包まれて生まるる場合である。その子には将来非常の福が来ると信ぜられている。余が先年、アイルランドのベルファスト市にて新教の牧師の家に寄留したときに、その家の娘が膜に包まれて生まれた福人の自慢話を聞かされたことがある。その由来は、第一世ナポレオンが、この吉相をもって生まれてきたりしより起こった迷信であると伝えている。また、この膜そのものがいろいろのマジナイの効力があるとて、高く売ることができるそうだ。
 かくのごとく西洋にも種々の迷信があり、また、その迷信が宗教中にも混じているけれど、これを東洋に比するに大なる相違がある。双方対照して見ると、西洋の方は迷信がないも同様であって、東洋にはすこぶる多く、宗教そのものがほとんど迷信によって成り立っているほどである。

第三段 露国の迷信


 西洋といえば、もとより露国もそのうちに含まれているわけだが、その実、露国は西洋と東洋とのあいの子のようなもので、よほど東洋に近いところがある。なかんずく、迷信の状態は東洋と格別違っておらぬ。余は先年、露国漫遊の際、人民の信仰の程度を見るに、過半は迷信であると思った。地獄極楽の図は、英国や米国にて見ることができぬけれども、露国にては数回これを見た。また、眼病を医し、歯痛を治するに、一心をこめて偶像を礼拝するなどもなかなか多い。近ごろ『東京朝日新聞』に露国の迷信を掲げてあったから、参考として左に転載しておく。
 信仰と迷信とは正反対でなければならぬが、実は仲のよい隣人である。ロシアはお寺の多い国である。宗教上の祭日のばかばかしく多い国柄である。したがって、国民はそれだけ宗教心の強い人民である。宗教心が強いにもかかわらず、迷信に至ってはなおさらに強い。日露戦争後に革命の気運が一時にあがった時分なども、ガボンなどという坊主がなにか一つ怪しげなことを唱えると、民心がそれへ響応するといった風で、今度の戦争に際しても、フランスのマダム・テップの予言などというものがすぐに露訳されて、飛ぶがごとくに売れたものである。ロシアにはツイガンという一人種がいるが、この人種に限って、女性は卜者ぼくしゃで運勢見と定まっておる。ちょうど日本の巫女みこという風で、ツイガン人特有の黒い髪を打ちさばいて、金銀貨や玉石の類で幾条となく首飾りを巻き付け、たいがいは赤の着物をまとって、街の辻に立ったり、または家の裏口から入ってきて売卜ばいぼくを強うるのであるが、ロシアの無知な民衆の間には、なかなかにツイガンの占いが歓迎されるのである。また、私がこれまで実験したところによると、露人はなかなか盛んに御幣ごへいをかつぐ連中である。しかもそれは、有識者と無識者を通じての習俗である。私は露国では一流の記者数人と露軍の戦線へ従軍中、ある日晩餐ばんさんの食卓で、隣席の『ノーウオエ・ウレーミヤ』のK君が、ちょっと手の届きかぬる所にある塩を取ろうとしておるのを見たから、なにげなく私はそれを取ってやろうとしたら、突然非常な剣幕で手を振って「いけない、いけない」と拒絶した。理由が全く分からずしてあきれていると、ほかの人が微笑しながら、「ロシアでは、食卓の上で塩の取りやりは非常に忌むことになっておる」と話されてはじめて合点がいったが、その忌むわけだけは一向に分からずにしまった。
 また、露都に有名な日本好きの寡婦がいるが、私も平素非常に世話になっておったので、その年の復活祭になにか贈り物をしようと思って種々案じた末、デンマークの陶器を選んだ。これは北欧の一名物で、多くはいろいろな動物の置物であるが、その細工の精巧なると、薬のかけぐあいのおもしろいので有名である。さて、私はなにげなく象と駝鳥だちょうの置物二つを買って、マダムのもとへ持って行ったところが、はじめは大喜びでうれしそうに早速その紙包みを解いたが、中から最初に駝鳥が出るやいなや、マダムは一目見たばかりで、これはとばかりにオッたまげた。私もなにごとかと驚いた。たまげながらマダムの語るところを聞くと、「わたしは寡婦である。駝鳥は子供を持ちきたすものである。これは大変だ、アー大変だ」というので、暫時は泣かんばかりだ。贈り物の主は呆然ぼうぜん自失せざるを得なかった。迷信はおおむねかかる程度にまで、有識者、無識者を通じて露人の頭へ染み込んでおる。日本でもいたちの道切りを忌むように、ロシア人もまた、黒猫が道を横切れば、非常に悪い兆しであるといって大騒ぎをやる。この種類のもので、私の知っておるうちの興味のある若干を、左に書きつけてみよう。
一、寝台から起きたときは右足をさきに床に下ろせ。
一、鳥が室に入ったのは死魂が来たしるし。
一、黒い油虫の夢を見たときは許嫁いいなずけができる。
一、ろうそくは三本立ててはならぬ。必ず二本か四本立てよ。
一、熟した果実の夢を見れば恋文が来る。熟せぬ果実を夢みれば涙の種。
一、牛の群れが夕方家に帰るとき、赤牛がさきに立てば翌日は好天気。
一、旅立ちの前刻には、家人すべていったん椅子に着け。
一、新月を見たとき、すぐ財布を握れば金が手に入る。
一、えくぼは誕生の際、愛の女神がキスした跡ゆえ、えくぼのある人は永久に愛をうく。
一、右の目がかゆきときは泣くことあり、左の目がかゆければうれしいことあり。
一、十三の数は不しあわせ。
 かぞえ立てれば数限りがないが、これらはみな真剣に受け取られておるので、百も二百もあるこの種の迷信は、常にロシア人のために悲喜の種を作っておる。
 露暦四月一日は、うそをつくことの公許された日としてある。楽天的で子供らしいところのあるロシア人のことであるから、二、三日前から趣向を凝らしておいて、当日になるとさかんにだまし合いをやる。親戚、知己ちきの間はもちろん、遠隔な土地にいる者をすら電報でかつぐことがある。まだ床の中にいる時分に、電話で「だれそれが急病で危篤だ」などとくると、ふと四月一日であることは忘れてしまって、自動車ぐらいで駆けつけてみると、危篤の病人が真っ先に出てきて握手をして、家族一同でお客を笑い倒すなどということは、この日、露人がよくやる悪戯いたずらである。「大人たいじんには赤子せきしの心あり」と唐人も言っておるから、ロシア人は大人または哲人であるに相違ない。
 右の記事にて、露国の迷信がいかに東洋に似ているかを知ることができる。

第四段 インドの迷信


 東洋の迷信としては、第一にインドを挙げなければならぬ。インドには種々の宗教あるも、バラモン教が八、九分どおりの多数を支配しておるから、おもにバラモンの迷信を述べておこうと思う。この教派にては、牛を神様の動物として貴んでおる。あたかも、わが国にてきつね稲荷いなり様のお使いとして貴ぶと同様である。なんぴともインドへ行き、土人の室内を見て驚かぬものはなかろう。かの室内には、壁や天井や柱に牛のふんをベタベタ塗りつけてある。これはなんのためかというに、牛は神様の動物であるから、その糞までが病気、災難を防ぐにもっとも効力があると信じ、魔よけのために塗りつけるのである。あるいは牛の糞を乾かして、炉中にいぶしておることもある。実に不潔の迷信といわねばならぬ。あるいはまた、ガンジスの河には神が住んでおるから神川なりと称し、その水中にて溺死できしするはめでたいように思い、ひとたびその水にて手足を洗えば六根清浄ろっこんしょうじょうとなり、身心のけがれが一時になくなると信じておる。バラモン教にて神都といわるるベナレス市には、毎年大祭の際に信者が四方より集まり、その傍らを流るるガンジス川にて沐浴もくよくするのは名高い話である。また、その川の水を携え帰って水瓶みずがめにたくわえ、年中いつでも不浄と感じた場合には、たといその水が腐敗していても構わず、これをすすぎかけて穢れを払うことになっておる。
 余がインド漫遊中に実見したことだが、インド人は己の影が食中に入れば、その食をすてて決して食べぬ。これは彼らの迷信であるそうだ。また、インド人が己のひげ毛抜器けぬきをもっていちいち抜き取るのを見た。これも彼らの迷信で、顔面にかみそりをあてることを嫌うとのことだ。
 インドにてはバラモン教が最多数を占めているけれども、そのほかにマホメット教、火教等が並び行われておる。この異なりたる宗教の間は、ただに結婚を交えぬどころではない。全く受けず施さずであって、茶一杯、水一わんでも施すものでない。また受けることもできぬ。もしこれを受ければ先方の魔がついて、病気、災難を招くと信じておる。それゆえに、旅館も茶屋も病院も学校も、みな全く別置してある。
 バラモン教にては、だれも聞いて知っておることだが、四民の階級がわかれ、第一階級をバラモン種と申し、一般より非常に敬い貴ばれ、食物を献ずればかくかくの福徳利益りやくがある、金銭を差し上ぐれば天国に至ることができるなどの迷信は、すこぶる盛んなものである。これを要するに、インドの宗教は迷信の結晶体と申してよい。

第五段 シナの迷信


 つぎに、シナの迷信はいかんというに、これまた驚くべきもので、決してインドに負けぬほどである。かの国にては罪人を死刑に処するに、市街の四つ辻のごとき、人の最も輻湊ふくそうする場所において行うことになっておる。これは衆人に示して、なんびとも罪悪を犯せば、みなかくのごとき運命にあうことを知らしめ、かつ戒むるためである。しかるに、シナ人は婦女子に至るまで、平気で死刑執行を見に行く。そのときには罪人を座せしめ、首を垂れさせて背部より刀を下し、後頭部をなぐって殺すことになっておるが、罪人が倒るると同時に生血淋漓りんりとして地上に流れだす。このとき見物の人々が、やがて携帯しきたれる饅頭を出してその血に染めるそうで、ことに婦人が、われさきにと争って血染めを行うということである。これはもとより彼らの迷信にして、その血染め饅頭は万病の良薬と信じ、大切に保存し、たまたま家族中に腹痛を起こすものあらば、たちまちその饅頭の一端をちぎって服用させるそうである。
 わが国の狐狸こりの迷信はシナ伝来であるが、さすが本家だけあって、狐狸談もたくさんある。最近の大連発行『遼東新報りょうとうしんぽう』に「白狐の怪異」と題し、左のとおり記載してあった。
 日本人にはずいぶんばかげた話だが、数日前、南山の裏山で銅子児トンズルのやり取りに余念のない苦力クーリー六名の傍らに、どこから来たか全身白毛の子狐が飛び出した。それ生けどれと追い回った末、狐はとある岩陰の穴に逃げ込んだ。即座の頓知に、苦力らは付近の枯れ松を折って穴の前でくすべると、子狐は煙にむせて四苦八苦の折柄、アアアラ不思議やいぶかしや、真上の岩上にスックと立った年経し白狐、恨めしき形相ものすごく苦力らをにらめた。元来、白狐を神とあがめているシナ人の迷信が急におじけを呼び起こして、苦力らは雲を霞と老虎灘ろうこたんに逃げ帰ったが、そのうちの一人は家に帰り着くや大熱を起こし、阿修羅のごとく荒れ狂って、「憎き者ども、わが子のかたき、七しょうまでたたりくれん」など囈言たわごとを吐くより、五人は生きたる心地もなく再び南山にとって返し、狐の穴に叩頭百拝こうとうひゃくはいび言よろしくあり。帰れば大熱の苦力はケロリとなおりおるに、一同申し合わせて村内にこれを伝え、十二日には狐のほこらを建てんと協議を凝らし、前祝いとして爆竹一万発を大連より買いきたり、狐明神社きつねみょうじんじゃの地鎮をなしたりとは、うそのようでまことの話なり。
 その他、八卦はっけ、方位もシナが本元であるからなかなか盛んだが、縁起、御幣ごへいかつぎもシナが本場といってよい。余が先年欧州より帰る際、仏国に在勤せしシナ公使館書記官の帰国するのと同船したことがある。書記官は妻子をつれて乗船していた。その子供は二、三歳ぐらいで、ときどき甲板の上を歩いておる。そのとき、同船せるローマ教の尼僧がその子供を抱こうとすると、子守が大急ぎで奪い取って去ってしまう。そのわけを聞くと、子供に尼僧の手が触れると縁起が悪いとの迷信があるそうだ。
 右はシナ人の迷信の一例を示したまでである。

第六段 朝鮮の迷信


 余が先年朝鮮に漫遊したとき、京城市外およそ一里ばかり隔たりたる所に、開運寺と名づくる寺院があるが、これをたずねて意外の感を起こしたことがある。余がその寺の門に近づかんとするときに、朝鮮の一紳士が威儀堂々として門より出できたるを見た。そのときに案内者に、かの紳士はなんの用あってこの寺に来たりしやをたずねしに、彼は官吏にならんために祈祷きとうを願いに来たのであると聞いて驚いた。このときは、朝鮮がまだ日本に併合せられぬときであった。役人になることまで神仏に祈願して助力を請うなどは、おそらくは他国になかろうと思う。その後平壌へいじょうに参り、日清にっしん戦役の古戦場たる牡丹台ぼたんだいをたずね、さらにその山麓の大同江に面する永明寺を訪問した。そのとき、日本の禅僧旭某氏が住職然として出でて応接したから、「あなたはこの寺の住職になったか」とたずねたれば、「イヤ住職ではないが、住職以上である」との答えである。そのわけはと問えば、曰く、「この寺は実に風景に富みたる名刹めいさつであるが、住職は極めて愚物で、余は(旭氏自らいう)初めてこの寺に来たり、住職に毎日酒代を恵むことを約し、自らこの寺に入り、住職を小使いの代わりに使っておる」とのことを聞いた。その住職は、酒をのむよりほかに芸もなく欲もないそうである。
 はじめて朝鮮に入るものの目に、第一に触るるものは墓地である。すべて山がかりたる小高い所は、一面に饅頭まんじゅう形の墓場をもって満たされておる。かく墓場の多くなる原因は、一人ごとに別々に墓を設くるためである。一家族中において一人の死者あれば、そのたびごとに売卜者ばいぼくしゃに方位をうらなわせ、吉方を聞き、その方角に向かって墓地を定むるから、一家の墓地が四方に散在しておる。これも朝鮮人の迷信より起こったものである。
 日露戦争の後、日本人が続々渡韓するようになり、その翌年、梅雨の期節に雨天が平年よりも長く続いた。そうすると朝鮮人が申すには、「日本は雨の多い国であるから、日本人がその雨を持ち込んできたに相違ない」とて、大いに不平を訴えたことも聞いておる。これも迷信の一例である。
 また、朝鮮にては売卜、予言の類が大いに行われておるが、ちょうどわが国の市子いちこ口寄せのごときものありて、一切の占法を引き受け、方位、運気、家相、縁談等の吉凶を予言することになっておる。これすなわち朝鮮の巫女みこである。まず朝鮮の迷信はこのくらいにとどめて、台湾に移ることにしよう。

第七段 台湾の迷信 一(生蕃人)


 台湾に居住するものには、内地人、本島人、生蕃人せいばんじんの三とおりの別がある。そのうちにてまず生蕃人の迷信を述ぶるに、その種族が幾とおりにもわかれ、したがってその各種が風俗習慣を異にせるゆえ、一括して論ずること難きも、もとより大同小異なれば、余が台湾客中伝聞したる点のみを掲げておこうと思う。
 蕃人の宗教は祖先崇拝の方である。彼らは、人死するも霊は滅せぬものと信じ、祖先の霊は山林に集まりて今現に存しておると信じ、蕃地には神山神林があって、その樹木は一枝たりとも伐採することを禁じてある。また、大樹の老いたるものにも神霊が宿っておると申して崇拝しておる。また、彼らの口碑こうひに伝うるところによれば、先祖は山上の岩窟がんくつの間より生まれ出でたりとも、あるいは天より降りきたれりとも申しておる。
 祖先の霊につき右のごとく信じておるはよけれども、これを祭るには必ず他人種の生首なまくびを切ってそなえなければならぬとて、祭りの前には必ず首狩りに出かけることになっておる。彼らは夜中ときどき幽霊に出くわし、また非常に幽霊を恐るるそうだが、その幽霊が日本内地の幽霊と全く反対しておるのはおもしろい。内地の幽霊は頭があって足がないが、生蕃の幽霊は足があって頭がないそうだ。これはつまり、首を切ったときの形が、幻覚の上に現るるゆえである。
 蕃人は父母の死したるときにその死骸を床の下に埋め、目印に石を建てて去り、その家は自然にくずるるに任せ、他家に移住するとのことである。葬式には神詞のごときものあって読み上ぐるそうだ。あるいはまた、死者あれば家人相集まりて哭泣こっきゅうの礼を挙げ、死体に新衣を着け、これを鹿の皮か布に包みて土中に埋め、その地には決して近づかず、また死者のことを語るを嫌う種族もあるそうだ。
 彼らの平常生活における迷信の風俗について伝聞するところによると、夜中、犬の遠ぼえするを聞くときは、家族中に必ず死するものあるべしとの迷信より、祈祷きとうして厄払やくはらいをすること。また、旅行中くしゃみすれば大凶事ありとして、急ぎて帰宅すること。また、自宅にて一人くしゃみすれば、他の者が祈祷を行うこと。また、婦人は幽霊をおそれて夜間外出をなさざること。隣人の食物に触るることあれば、眼病をうれうるの兆しありとすること。また、牡鶏の日の暮るるときに鳴くを不吉の兆しとし、ただちにその鶏を殺すことなどが生蕃の迷信である。ある一種族は、妻が懐妊するとその夫が謹慎し、いよいよ臨月に近づけば、妻は外へ出でて働くも、夫は家内に閉じこもって決して外出せぬそうだ。これはおもしろき迷信と申さねばならぬ。
 また、ある種族は出産のときに自宅にて子を産むを不吉とし、村外に産室を設けて産婦を入れ、家人一切これに近づかぬ風習もある由。また、ある種族には巫女みこありて、すべて病気の祈祷を引き受くるとのことである。また、ある種族は鳥声を聞いて吉凶を判じ、猟のあるとなしとは神助の力なりと信じておるそうだ。

第八段 台湾の迷信 二(本島人)


 台湾にて本島人と称するは、シナ系統の人種のことである。これに福建省系統と広東省系統との別があるが、ここには二者を合して論ずることにしよう。
 本島人の宗教は、シナなかんずく南清なんしんの宗教である。都会の地には文武両廟ぶんぶりょうびょうがありて、文廟には孔子を祭り、武廟には関帝を祭っておる。また仏教の寺もあるが、その本尊には奇々怪々のもののあるうち、観音が一般に信仰されておる。民家にても必ず仏壇のごときものがある。これを正庁と名づけておるが、その上には親、祖先の位牌のほかに観音の像を掛けてある。さなければ関羽の像を祭っておる。また、最も多数の崇信を得ておるのは媽祖ぼそと名づくる女神である。あるいはまた、街路の四つ辻に当たれる場所に小なる石室が建ててあり、その中にわが国の大黒に似たる福神が入れてある。しかして、これらを崇拝信念するのは、全く現世目前の福利を得んとする欲望にほかならぬ。
 本島人の死後についての観念はやはり霊魂不滅説にして、その魂に三個ありと申しておる。その第一魂は幽界に入り、第二は墓下にとどまり、第三は家中に住するものと信じ、幽界の魂は僧侶をして慰めさせ、墓下と家中の魂は子孫がこれを慰むべきものと定めてある。しかし、彼らの神仏崇拝は、全く一身一家の冥福めいふくにあらずして現福を祈るのである。
 神仏に祈願するときには、竹紙ちくしを焼くことが盛んに行われておる。竹紙とは、名のごとく竹にて製したる黄色の紙にして、これに金を塗りつけたるものと銀を塗りつけたるものとがある。しかして、手軽の祈願には銀紙を焼き、重大の祈願には金紙を焼くことになっておる。これを焼くとその金銀が神仏の方へ届くから、こちらの祈願をかなわせていただけると信じておる。すなわち、天国へ贈る郵税為替かわせに当たるわけで、すこぶるおもしろい考えである。この金紙、銀紙はみな南清より輸入するそうだが、その年額五十万円以上に達すとは驚かざるを得ない。
 彼らの迷信を利用し、これによりて生活しておるものがまたたくさんおる。その名称に法師、道士、生仏せいぶつ、僧侶、乱童の五種がある。この中にはわが国の修験しゅげん巫女みこ卜者うらないの類がことごとく含まれておる。これみな祈祷きとう、除災、予言の専業者である。そのうち僧侶だけは仏教に属し、他は仏教にあらず。生仏も仏教と関係なく、彼は経を知らず字を解せざる愚物にして、ただ予言をなすのみである。乱童は童子にして、種々のマジナイをするものである。その行うところの方法中に、わが国の修験に似たことが多い。彼は火渡りも行っておる。これを過火と申すそうだ。
 その他、人の名にとかふんとかいう実名がある。これまた迷信より起こっておる。鬼には病魔が恐れて近づかぬ、糞は不潔なるがゆえに、同じく来たり侵さぬと信ずる結果であるとのことだ。
 今一つばかばかしい迷信話は、昨年台湾に暴徒の起こった原因である。そのときの主謀者が愚民を扇動するに最も力ありしは、某地に耳の長く垂れて肩に掛かれる子供生まれたるが、これぞ日本を駆逐して台湾の王たるべき人なりと、五百年以上存在すと称する予言者の語りしによれる由、台湾よりの通信中に見えた。まず、台湾人の迷信の程度はこれらの諸例によって、十分測り知ることができる。

第九段 琉球の迷信


 台湾のつぎには琉球りゅうきゅうの迷信を述べなければならぬ。まず琉球の宗教を見るに、祭天教と祭祖教である。祭天としては、ときどき天祠てんしの祭りを行うことになっている。毎年旧暦十二月末には、天に報告するために大祭を行う。また随時、迷魂を天に送り込むために祭りをする。例えば、災難のある場合にこれを迷魂の所為に帰し、天に祭り込むことになっている。また、各間切り(村のこと)にヌンドンチと名づくるものがある。これはやしろに当たる。これに奉事しているものをノロという。神官のことである。その社内の本尊は三個の石にして、かまどの形をとり、火の神を代表したものと申しておる。
 つぎに、祖先崇拝としては琉球ほど墓場に金を掛ける所はない。一つの墓場でも安くて二、三百円、高いのは五、六千円といわれている。しかして、その祭りが実に頻繁である。そのほか、各戸には必ず霊位と称して位牌いはいを安置する一室が設けられ、毎日礼拝をすることになっている。
 以上の、天を祭り祖を拝するは決して迷信というわけではないが、これに付帯していろいろの迷信がある。まず、琉球名物のユタを述べておきたい。ユタは内地の巫女みこに当たり、死人の消息を語り、運命の吉凶を告ぐるものである。その仕方は米をつかんで占うとのことだ。一家に病人のあるときにユタに占わせ、何代目の祖先のタタリと知りたらば、盛んにその霊に対して、お祭りをすることになっている。また、死人のあるときには、四十九日目にユタを呼んで亡者の消息を語らしめ、犬や鶏の鳴き声のしきときにも、ユタを雇っておはらいをなさしむるなどは琉球の迷信である。
 台湾にては金紙、銀紙を用うるが、琉球にては紙銭を用いている。紙銭は白紙に銭の形を印したものである。琉球人は、墓場において祖先の祭りをするときにはこの紙を焼く。そうすると、その銭が冥途へ届くと信じている。
 死人の魂が火になって現るるということは、琉球にても伝えられている。毎年旧暦八月八日より十五日までの間に、タマガリを見ると称して幽霊火を見に出かける。これを見るために山上に台を造り、その上にて望む。もし、死人や災難のある家には、必ずこの火が見ゆると信じている。
 人が水中に入りて溺死できしするときには、前に死んだものの霊が引きつけるのであると解している。人が家を出でて山の中や林の間でさまよっているのを、物が持つという。物とは妖怪のことである。また、妖怪を除く法として、食物の中へわらを結んで入るることがある。また、子供が途中にてたおるるときには、魂を地から拾うまねをして、これを懐に入れることがある。これを「マブイをコメル」と申している。マブイとは守りの義にして、身を守る魂の意味である。
 火事は付け火を除くのほかは、すべて天火と称して、天より罪を受けたるものと定めている。家が焼けかかって幸いに消しとめたる場合には、仮に小さき茅屋ぼうおくの形を造ってこれを焼く。そのことを火返しと申している。また、屋根瓦の中に獅子しし面貌めんぼうをなせるものがある。これは防火のマジナイであるそうだ。路傍の樹木にしめなわを張り、その上に豚や牛の骨をかけておくことがあるが、これは疫病よけのマジナイである。

第一〇段 離島の迷信 一(伊豆七島)


 つぎは伊豆七島の迷信談に移る。七島の宗教は御倉島を除くのほかは概して仏教なるも、信仰は皆無である。ただ、祖先崇拝は盛んに行われている。それゆえに、墓場を大切にする風がある。例えば、七島中の新島や神津島は墓場を清潔にすることはなはだしく、毎朝、嫁の仕事は墓場の掃除である。女子が嫁に行くとき持参する第一の要具は、墓掃除の手桶ておけであるそうだ。
 また、七島中に神社もあって島民はこれに参拝するが、賽銭さいせんの代わりに大島では米を投げ、八丈島では海浜より清浄なる砂を取りきたって投げる。しかして、神や仏に祈願するのは、冥福めいふくを祈るのではなく、現福を願う目的にほかならぬ。
 七島には巫女みこを信ずるもの多く、なかんずく八丈の付属島の青島は、巫女の多いという点をもって名高い。その島には約八十人の巫女あって、病気はすべてこれに祈祷きとうを行わしむるきまりである。もっとも、この島には一人の医師なく一戸の薬店もないから、巫女がその代用をしているそうだ。
 大島の神社の境内に、御幣ごへいを木の下に立て、かやをもってこれを囲んであるものがある。これは島内の安全を祈るためのほこら代用であるとの話だ。また、立ち木にくぎを打ちつけてあるを見たが、これは人を呪うのであるとのことだ。
 七島にはきつねがおらぬから、狐惑こわくや狐きの話はない。その代わりに大島ではいたちにだまさるると申しておる。また、八丈では山猫にだまさるるとの説がある。しかして、つきものとしては死霊の話が伝わっている。そのほか「かざオリ」と名づくる怪事がある。例えば、婦人が急に発熱して夢語を発し、なにがしの死したるは、なになにのたたりなどと言外することがある。これを風オリという。すなわち内地の狐つきである。
 大島の迷信談中に、日忌みのことを忘れてはならぬ。毎年一月二十四日より二十五日を日忌みと唱え、その夕は船幽霊が襲いきたると信じ、昼間より戸を閉じ、決して屋外へ出でぬ。また、牛を戸内におくことを忌み、必ずこれを海の見えざる山の陰へつなぎおく。その由来については、あるいは、むかし人民を虐待せし代官を殺して、海に流したることありとも、また、豊臣時代にヤソ教を信じたる婦人を殺して流せしことありとも、種々の俗説伝わりおるも、はっきりした原因は分からぬ。この風習はただいまにては、大島中の泉津だけに残っているそうだ。
 また、新島にては海上に魔女が現るるとの迷信がある。伝説によると、ときどき海上にはかまを着けた美人が現れて、漁船に妨害を加うるとのことである。漁夫は大いにこれをおそれている。その由来を聞くに、むかし藤原時代にこの島へ漂泊した船があったが、その船には食物が尽きて、船中の人々は餓死せんとするありさまで、男の連中は一人の女子を船中に残し、食物を探りに出たまま帰ってこなかった。ついに、その女子は恨みをのんで餓死した。これよりその霊魂が海上に現れ、男子を苦しめて復讐をするのであると信ぜられている。ただし、この談は新島中の合浦に限るとのことだ。

第一一段 離島の迷信 二(壱岐、対馬五島)


 伊豆七島は絶海の孤島にして、内地と交通すること少なく、古代未開の遺風を存しているから、これまた迷信の多いはやむをえない。しかし、日本内地は文化の程度も高く、知識もよく普及しているから、右ようの迷信はないと申したいが、残念ながら内地の迷信も孤島に負けぬ、あるいはかえってそれ以上のことがある。これより内地における迷信を述べる順序として、西南の離島たる壱岐いき対馬つしま五島より始め、次第に東北に及ぼしたいと思う。
 壱岐と対馬は朝鮮、シナに接近しているから、かの風俗が入りまじっている。同時に迷信も似ているようである。しかし、今ここには、なるべく特殊の迷信を掲げたいと思う。さて、この二州は風俗習慣とも大同小異にして、双方共通の迷信が多い。余は、もっぱら壱州において聞き込みたる迷信を述ぶるつもりである。
 この両州の宗教は仏教なれども、その実、祖先教である。人が寺へ参詣さんけいしても、本尊に礼拝せずして、己の祖先の位牌いはいだけに礼拝して帰る。また各戸に仏壇があっても、位牌を入れておくためで、そのいわゆる仏とは死んだ人の霊を指すのである。ゆえに、仏寺あっても仏教はないと申してよい。五島もややこれに類している。
 壱州の民家には、必ず神棚と仏壇と荒神こうじんとを設けておく。しかして、その荒神は家中の土間の所にかけてあり、家を出でて旅行をするときに、必ずこれを礼拝し、これと同時に鍋釜なべかまふたを頭上にいただく風習がある。これは、旅中の病災を除くマジナイだということだ。また、家をあけて出ずるときに、戸口の外に※[#丸鬼、150-15]の字を張りつくる。これは盗難よけのマジナイであるそうだ。その他、北と西との方位を避くる迷信あって、着物をさらすにも枕をするにも、その方角を避くることになっている。
 壱州にはきつねがおらぬから、狐つきはないわけだ。その代わりに河童かっぱつきがある。また、田川村には狸将りしょうの怪がある。村内に病人あれば、この狸将に悩まさるると申している。これが狐つきに当たると思わる。また野狐がつくという風説もある。しかるに、対州には野狐も狸将もない。ただ、つきものは河童のみであるが、死霊しりょう生霊いきりょうがつくということは申さぬではない。
 五島には狐もたぬきもないが、河童については名高い話がある。方言でこれをガッパという。すなわち、富江村の海岸に、河童の築きたる城が今もって存在している。むかし、その村の大工に河童がつきて、一夜のうちに造り上げたものとの伝説である。また、五島には山ウロと申すものがいる。その形は目に見えねど、夜中に石を落とす音や、木をきる声をさせ、また雪中にその足跡を見ることがあると申している。これは、他の地方のいわゆる天狗てんぐの所為に当たるかと思う。
 また五島にては、船幽霊の説が一般に信ぜられている。海上、船なき所に船の形を見、あるいはの声や人の呼び声を聞くことがあるそうだ。これをすべて船幽霊と申している。

第一二段 九州の迷信


 対壱たいいつ両州および五島の迷信を述べたる以上は、九州内地の迷信を説かなければならぬ。まず、九州特殊の迷信としては河童かっぱであろうと思う。河童、一名河太郎は、水中に住する怪物にして、人の尻を抜いて殺すものなりとは、いずれの国にても唱うるところである。その形などもに描いて伝えてあるが、十歳ぐらいの小児の形を成し、頭上に凹所あり、これに水を蓄えておる。その水尽くれば力もまた尽き、その水存すれば、いかなる力士といえども、これに勝つことできず。よく人を水中に引き込んで殺すものなりとは、なんぴとも聞いておるが、九州の河童はそれ以上に人を惑わし、あるいは人につく作用ありと信ぜられておる。そのことは、前に五島の下にて述べたる一例にても分かるであろう。かかる話は、九州中にても肥前ひぜん肥後ひご方面に多い。佐賀の方言にては河童をカワソーという。これを川僧と書いておるけれども、かわうそから転化したる語かと思わる。
 また日州にては、河童をガクラと呼んでおる(四国、山陽などでは河童をエンコウといい猿猴と書く)。熊本辺りでも、狐は人を惑わし、河童は人につくもののごとくに申しておる所がある。また熊本県下の葦北郡辺りにては、河童と山童さんどうとは同種にして、春の彼岸より秋の彼岸までは川に入って河童となり、秋の彼岸より春の彼岸までは山に入って山童となると信じておる。その地の方言にて山童を山ワロウという、あるいはガゴともいう。ただし、ガゴはむしろ妖怪の総称に用いられておる。山童の挙動をたずぬるに、形を見ることなく、音声と足跡に触るるのみ。足跡には三そうの跡をとどめ、音声はのこぎりを引くがごとき響きであると申しておる。あるいはまた、樵夫きこりが樹木を背負わんとするに重くしてあがらぬ場合には、山童を呼んで頼むと軽く上がるといい、運搬するにもその手伝いによれば軽く動くとの風説である。これは他府県の天狗てんぐ談と同じように思わる。筑前ちくぜんにては山より帰って熱を起こし、あるいは痛みを感ずるときに、これを風と唱えておるが、これと同様である。また鹿児島にては、夜中河童の鳴き声を聞くと申しておる。あるいはこれを野狐やこの声ともいうが、水上における千鳥の声らしい。また天草あまくさにては、河童の災いを除く法として、十五社に祈願を掛ければよいと信じておる。この十五社は天草の各村に祭ってある。
 河童のほかにきつねあるいは野狐の迷信も九州各所にあるが、略することにし、余が旅行中見聞せしマジナイを列挙してみたいと思う。熊本市中に、戸口に「鎮西八郎為朝宿ちんぜいはちろうためともやど」の張り紙あるを見て、その理由を問えば、天然痘をのがるるマジナイであった。また筑後旅行の際、道路の四つ辻に当たる所に、木の杓子しゃくしへ人の顔をえがいて立ててあるのを見たが、これは百日ぜきにかかったとき、その顔を千人の人より見てもらえば治するとの迷信であるそうだ。百日咳を方言にて千コヅキと申す。また肥後にて、いも畑に人の手を印したる板を立ててあるを見たが、これは、芋を盗むものの手が腐るという迷信にもとづいておる盗難よけのマジナイである。また筑前にて、柱に「今年より卯月うづき八日は吉日ぞ髪長虫を成敗ぞする」の歌をさかさまに張りつけおきたるを見たが、これは九州に限らず、虫よけのマジナイとしていずれの国にも行われておる。また薩摩さつま大隅おおすみでは、道路のつき当たりに「石敢当」と刻したる建て石がある。これは琉球にことに多く立てられておるが、シナより伝来せし魔よけ法である。
 筑後の善導寺といえば、浄土宗の一本山として名高い寺である。その寺へ産婦が参詣さんけいして祈祷きとうを請うことになっておる。もし、門内に入りて初めて男子に会すれば、胎児は男と判じ、女子にえば女と判ずとのことだ。また、堂の戸を開くときに、その戸重ければ難産、軽ければ安産と判ずるそうである。
 佐賀県三養基郡綾部八幡社に、毎年風神の祭りを行う例がある。旧暦六月十五日にはたを上げ、秋期彼岸にこれを下ろすに、その幡の巻き方によって風災の有無を判定することになっておる。また、北茂安村千栗八幡社にては、正月初めにかゆをたき、旧二月初卯はつうの日にその粥の状態を検して、豊凶を判知することにきまっておる。かくのごとき例は全国いたるところにある儀式にして、決して珍しくなけれども、九州旅行中に聞いた話であるからここに紹介しておく。
 大分県方面にては犬神の迷信が多いが、これは四国より伝来せしものなれば、後に述ぶることにしたい。また、外道げどうと唱うる迷信もあるが、これは犬神の種類である。また、余が豊後ぶんごにて聞くに、座頭ざとう、物知りなどと唱うる、吉凶禍福の予言するものが多いとのことである。

第一三段 四国の迷信 一(犬神)


 つぎに、四国の迷信として第一に犬神の話をせなければならぬ。実に四国は犬神の本家本元である。元来、四国にはきつねがいないから、狐についての迷信が全くない。その代わりに犬神というものがある。その起源は極めて不明なるも、民間に伝うるところによれば、一頭の犬を縄にて柱につなぎ、その前に食物を盛りたる器物を置き、犬は首をのばしてこれを食せんとするも、縄のたけ短くして口これに達せず、彼のまさに餓死せんとするところを見てその頭をり、これを家に秘蔵しておけば、犬の一念がその中にこもっておるから、もしその家にて他人の所有せるものをホシイと思うのに、他人これにそのものを与えざるときは、犬の執念が他人を悩ますに至るという話である。その家は子々孫々血統を追って伝わり、他人より擯斥ひんせきせられて、他家と婚縁を交うることできず、社交上孤立の境遇に陥ることになる。そのくわしい話は、余が『妖怪学講義』の「心理学部門」に書いておいたが、念のために、先ごろ伊予いよの『海南新聞』に掲げてあった一項を左に転載することにしよう。
 犬神の濫觴おこりはいつのころであったか。ある残忍の人が一匹の犬を土中に埋め、首だけ出し、口の届かぬ所へ飯をうまそうに盛って置いたところが、飢えに飢えて腹の中にはもうなにものも残さなくなった。犬は舌をうち、よだれを流してそれに食いつこうとした。けれども情けないことには、美味は口さきを離るること尺あまり、見るには近く食うには遠い。もがいてももがいても、埋没の身ははかない食欲をみたすことができなかった。あくまで残忍な悪戯者いたずらものは、その身悶えするさまを快げに打ち眺めていたが、時分はよしと、やにわに抜く手も見せず、犬の頭をねてしまった。バッと立ち上がる血煙の下に、犬の首はコロリと落ちたかと思うと、さにあらず。恐るべきは犬の執念で、首はそのまま飛んで、くだんの飯に食いついた。周囲に見ていた人々は、あたら炊きたての飯を畜生ごときに食わせるは惜しいと、首を突きのけあさましくも、みなみな寄ってたかって飯を平らげてしまった。けれども、飯にこもって彼らの体内に収められたる犬の妄執は、ついにその人々に乗り移って、彼らはついに人間ながらの犬と化し去った、などと伝説に伝わっている。
 伊予の犬神の由来については、いまだ伝説にも口碑こうひにもこれを聞かぬが、その発作する動機の多くは耳目の欲にひかさるるので、他人の衣服もしくは食物に一念動けば、たちまちその一念、われとも知らず先方に通ずるのである。これは南予のさる家の出来事であるが、ある日一人の来客があった。折から家内一同なんの祝いか、重箱に詰められた赤飯を茶碗ちゃわんに移しつつ、しきりに舌鼓したつづみを打ってる最中、不意の客来にみなみな慌てて食具を背後に隠した。座に招ぜられた客は、チラとこの体を見たが、さあらぬ体でよもやまの話をし始めたが、どうも重箱に気がかかると見えて、物言ううちにも、しきりに主人の背後へ卑しい視線を送るのであった。それを知るや知らずや、主人は別段重箱を取り出す気色もなく、ただお茶などくんで待遇していた。すると客はにわかに腹を抱えて「ア痛たたたた」と苦しみ出した。サァ大変というので、家内の者みな寄ってきて介抱したが、発熱さえして油断ならぬ重態、ウンウンうなって虚空をつかむという騒ぎ。ソレ、医者というので、小僧が尻まくりして飛んで行く。迎えられた医者は、しばらく脈を見たり胸をたたいたり、形のごとく診察したが、小首打ち傾けて不審の体、「あまりといえばとっさの病気、全体何病でおざりまする?」と主人が医者の顔をのぞきこんだ。「さっぱりわかりませぬ。愚老もこれまで種々の病気をましたが、このような病気は、ついぞ診たこともおざらぬ」と、じっと病人をみつめながらしばらく考えていたが、ハタと膝を打って「どうも様子のおかしきところ……もしや、これが世にいう犬神ではおざるまいか」という言葉も終わらぬうち、病人はにわかに顔色を変え、慌てて拇指おやゆびの爪を隠した。早くもそれに目をつけた娘の一人はいちはやく「アレ爪を……拇指……」と大声をあげたので、みなみな気味悪げに顔と顔とを見合わせた。主人はすかさず枕頭ににじり寄り、「さては、お前は犬神だったのじゃな。ゼ、全体どこの犬神じゃ、どこに住んでけつかるのじゃ。サ、それからぬかせ……」と、ことのほかの立腹。「それから目的はなんじゃ、おおかた台所でも荒しに来たのじゃろう」と畳みかけて問い詰める。(以下これを略す)
 右は伊予いよの話であるが、土佐とさ阿波あわはことに犬神の迷信が強い。余がかつて土佐にて聞きたる話に、「犬神を使うものは人の美食を見て、われも食わんと欲すれば、たちまち犬神がかの食する人に取りつき、『その食をわれに与えよ』と口ばしる。そのときに食物を犬神の家に贈れば、取りつきたる犬神が離れて正気にかえる。この犬神を有する家とは、他人結婚を避け、交わりを結ばず、云云うんぬん」と申しておる。また、阿波よりの報告は左のとおりである。
 わが阿波の国には従来犬神と称するものありて、一種の国産のごとく世人に伝えられしが、元来、犬神なるものは代々家に伝わり、血統相続するものとして、社交上擯斥ひんせきせらるることはなはだしく、往々結婚の妨害となることあり。ゆえに、その家に生まれたるものは、たといいまだ狂態を示さずといえども、人すでにこれを犬神と称し、ともに社交を結ぶを恥ず。あに不幸といわざるべけんや。思うに、犬神は一種の精神病にして、狐憑きつねつき、たぬき憑き等とさらに異なるところなきがごとし。ただここに注意すべきは、犬神となりて狂態を演ずるものは、たいてい女子にして、男子は千人中わずかに一、二人あるに過ぎず。ゆえに、犬神の血族中にても、妻子はみな犬神と呼ばれて擯斥せらるるにかかわらず、男子はおおむねこの称を受けざることと、犬神の人に忌まるるは主として食物に関せざるはなく、したがってみな貧困者にして、士族または富裕の家に犬神ありしを聞かざることとの二事なり、云云うんぬん
 阿波の池田町は四国中の犬神の本場と唱えられておるが、余は両度までこの町に遊び、犬神の実況についてくわしく聞いたことがある。昔は毎年犬神つきがたくさん生じたが、近年は次第に減じ、ことに小学校卒業者についた話を聞かぬと申している。

第一四段 四国の迷信 二(他種)


 四国には、犬神のほかにたぬきつきと天狗てんぐつきとがある。例えば、讃岐さぬきのごときは犬神もあるが、むしろ狸つきが多い。しかし狐つきは全くない。むかしは、四国には弘法大師が封じたと称して、狐がいなかったそうだから、狐つきのないのは当然である。ただし、近年は狐もいるとのことなれども、まだ狐つきがないのは、古来の伝説のないためである。つぎに、天狗に至っては四カ国に共通して信ぜられている。余の四国巡遊中にも、たびたび天狗話を聞いたことがある。ただここに奇なるは、四国にて平民は犬神に苦しめられ、士族は天狗に悩まさると申して、士族の家には古来犬神の入りたるためしなく、平民の人には天狗のつきたる例がないそうだ。要するに、犬神は無学のものに限り、天狗は知識あるものに限るというのである。
 高知県にては柴天しばてんと名づくる妖怪談がある。その形、子供に似て野外に現る。非常の強力を有し、なんぴともこれと相撲を試みるに、たおすことできず。他地方の河童かっぱに似て同じからざるものである。大抵、そのときには、立ち木などを相手にして相撲を取っているそうだが、自身はそのことを覚えぬとのことである。
 その他の迷信としては、愛媛県道後近在を通過せしとき、田間に石地蔵が立っているが、これに通行の人が泥を打ちかける。それゆえに、全身泥をもって満たされている。その意味をたずぬれば、「この地蔵は泥打どろうち地蔵と称して、人より泥を打ちかけらるるのが地蔵の本望なれば、泥を打ちかくれば地蔵は満足して、その者に幸福を与えて下さる」とのことである。また、道後村にもこれに類したる粉付こづき地蔵というのがある。参詣さんけいするものが、みなオシロイの粉をふりかくることになっている。かくするときは、子なきものに子を授けて下さると信じている。一説に粉付とは、子好き、すなわち子を愛するという語より転じたとも申している。
 伊予いよの宇和島には和霊社われいしゃという名高いやしろがある。関西の佐倉宗五郎と呼ばるる山辺清兵衛の霊を祭った所だ。この清兵衛の芝居をするときには、必ず雨が降ると一般に信じている。ちょうど東京にて、毎月五日の水天宮の縁日には、必ず雨がふるといい伝えていると同様だ。
 伊予にて、大人が子供をおどすときに「ガンゴウが来る」というそうだが、ガンゴウとは恐ろしい化け物のことらしい。また、地震のときに「カーカーカーカー」と呼ぶということも聞いている。「カーカー」は雷のときにおける「桑原」と同じく、地震よけのマジナイらしい。これに反して、岡山県にては地震のときに「トートートートー」と呼ぶそうだが、わずかに海を隔てて、その呼び声に父母の相違あるはすこぶるおもしろい。
 また愛媛県にて聞いたが、人の死することを、温泉郡では「広島へ綿買いにゆく」といい、越智郡では「広島へ茶買いにゆく」といい、新居郡では「広島へタバコ買いにゆく」というそうだ。これは死ということを嫌って、遠方へ行くという意味であろうけれども、広島と限ったのはおかしい。しかるに、広島県の方面にて聞けば、人の死するを「長崎へ茶買いにゆく」というそうだ。

第一五段 山陽の迷信


 四国のつぎには、その対岸なる山陽の迷信を説くのが順序であるから、これより山陽における特有の迷信を探るに、まず山口県には犬神説大いに行われ、食物が腐敗したり、料理が出来損なうと、ただちにその原因を犬神に帰することになっている。これは四国より伝来したる迷信なること明らかである。つぎに安芸あきのトウビョウ、備後びんご外道げどう備前びぜんのチュウコなどは山陽独特に相違ない。安芸のトウビョウは、一般の説では蛇であると申している。すなわち蛇つきである。すでにトウビョウの正体と唱えられているものは、蛇の卵であるそうだ。つぎに備後の外道は、その実物としては犬神のごとく不明であって、なにものか分からぬけれども、民間にてこれが外道だと称している実物は、一種の変形動物である。すなわち小鼬こいたちに似ている獣類である。そのものが人について精神を狂わせてしまう。また、外道の住んでいる家がきまっている。余の備後巡回中に起こった出来事を話そうが、ある家の嫁が急病にかかり、一昼夜非常に苦しんで絶命した。そうすると、その親父が「これは病死ではない。某家の外道が来たってみ殺したのであるから、葬式を行うことはできぬ」と言い張っていたということを聞いた。その話によれば、全く悪魔のごとくに思っているらしい。
 備前のチュウコとは空中に見る怪火にして、他地方の狐火きつねびたまなどを総称した名称である。その原因は狐に帰するからチュウコという。チュウコとは宙狐とも中狐ともかくが、空中に狐が火を点ずるの意から起こった名に相違ない。あるいは天狐てんこ、中狐ともいって、その火の高く飛ぶ方を天狐と称し、低く動く方を中狐とも申している。
 つぎに、岡山県の名物はカンバラである。カンバラは他地方のいわゆる巫女みこのことで、人の依頼に応じて種々の予言をなすものだが、そのカンバラが非常に信仰せられている。また、ヘイツキ(幣付)と名づくるものがある。これは神前に立ってへいを持つの意味で、他地方の中座ちゅうぎと称するものに当たる。これまた相応に信用せられている。
 神社に関しては、安芸の宮島の七不思議というものがある。竜灯りゅうとう拍子木ひょうしぎ松明たいまつ潮穴しおあな等、いずれもむかしは神力の霊妙作用によって起こりしように考えられたが、今日も同様の信仰を持っているものが多い。また岡山県にては、古来、三大不思議と唱えられているものがある。第一は備中びっちゅうかま鳴り、第二は備前の田植え、第三は美作みまさかの夜桜にして、この三者はおのおのその国の一の宮にある奇瑞きずいといわれている。夜桜は、一夜のうちに自然に桜が開くのである。田植えは、一夜の間に自然に田植えができるのである。余はこの二者を実見せざれども、今一つの釜鳴りは現場を拝観した。これは備中の吉備津きびつ神社の境内にあって、家族に病人あるもの、ここに来たって祈祷きとうを請えば、その癒ゆるやいなやを、釜の鳴る声のいかんによって判断するのである。釜の鳴るの理は物理学上の研究に属することと思うが、もし、その声が真に神の命令である、神は口なきために釜をして言わしむると信ずれば、迷信といわねばならぬ。
 その他、播州ばんしゅうには明石あかし人丸ひとまる神社がある。この神社より古来、火よけと安産の守り札が出ることになっている。もとより守り札そのものは迷信というわけではないが、その社は柿本人丸かきのもとのひとまるを歌神として祭っている所で、火よけ、安産と全く関係がない。なにゆえにかかる御札を出すかとたずねてみると、俗人は、神社の名が「ヒトマル」だから、「火が止まる」に相違ない、またヒトマルは「人生まる」と音相近きより、安産に効あるべしと信じていると聞いたことがある。果たしてかかる理由より起こったとすれば、滑稽こっけい的迷信といわねばなるまい。

第一六段 山陰の迷信 一(人狐)


 山陰の迷信としては、第一に出雲いずも名物の人狐にんこのことを話さねばならぬ。この怪物の住する家が必ず定まってい、その家は血統を追って相続するという点は、四国の犬神いぬがみに同じきも、犬神が平民の家に限るに反し、人狐は士族や富豪の家に多いという点は全く相違している。今ここに、余が『妖怪学講義』中に引用せし、出雲人よりの報道の一節を掲ぐることにしよう。
 いずれの地方にても、結婚の際には双方互いにその血統をただすを通例とす。島根県地方には、他国にいまだかつて見聞せざる一種の家系ありて、結婚の妨害をなすことはなはだし。そは、すなわち人狐持ちと称するものにして、人狐を使役する家系なり。すなわち、この家系に属する人は、よくこれをして厭忌えんきするところの人にかしむという。かくのごとき狐に憑かれたる人の言行は、すこぶる奇怪なるものあり。今その一例を示さば、人もし「なんじはいずこより来たりしか」と問わば、彼はまさに、「前日、某件にてわが主人を苦しめしゆえ、主命に従い、そのかたきを報ぜんため来たりしなり」と答うるなるべし。また、もし「汝ここに来たるとも、なんの要もなかるべし。速やかに帰れ」といわば、彼は「君の意に従って帰る代わりに、君もまたわが意に従うことをがえんずるか」と反問せん。よって、その欲するところを問わば、「願わくは、小豆飯、豆腐汁、およびたい味噌みそ漬けを得ん」というを通例とす。ゆえに、これを与うれば喜び食らう。その状全く狐に異ならず。暴食し終わりて、かついわん、「われ、いまだ満足せず、さらに当家所有の土地一カ所を与えよ。しからずんば、この人(被憑者)の命を奪わん」と。このとき、「われ、まず鍼灸しんきゅうをもって汝を殺さん」といいて狐憑き者を捕らえ、その腹をあんじて塊あらば、そこに鍼灸せんに、彼は必ず「う、ゆるせ、今まさに去らんとす。ただし、しばし、君ここを去れ」といわん。よってその言のごとくせば、狐憑き者窓を開け、苦しき声を発して倒れ、はじめて平気に復するを得べし、云云うんぬん
 右の報告のごとく、人狐にんこの住する家がある。これを人狐持ちという。その人狐は己の住する家の恨みを晴らさんために、他の家人に取りつくものと信じ、または人狐持ちの家では人狐をつかって、己の欲望を満たさしむると信ぜられている。もしその形態に至っては、犬神や外道げどうと同じく判明せぬけれども、普通、人狐の正体と定められおるものはいたちの一種である。あるいは鼬という説もある。そのことにつき、『人狐弁惑談じんこべんわくだん』の書中の一節を転載しておこう。
 伯州はくしゅう雲州うんしゅう、人狐と呼ぶもの、漢名いまだつまびらかならず。先年、松江侯この獣を京師けいしに上せ、漢名をたずねさせたまえども、知る者なかりしと伝え聞く。またある人、小野蘭山おのらんざん先生にたずねければ、「黄県志こうけんし」の皮狐ひこにちかしと答えられしとなり。雲伯うんぱく俚俗りぞく、このものの人を悩ますことをいえども、人を悩ますものにあらず。その弁、下につまびらかなり。和名、人狐と呼ぶべからず。名正しからざれば、人の惑いとなる。雲州には山みさき、またやぶいたちというもののよし、御触れありしとなり。本藩まま、小いたちと呼ぶ者あり。予が辺りにては、水辺の石垣などの内に住みて、山にはすくなし。また、藪におること多しというにあらず。形、いたちに似て鼬より小さく、尾、ねずみより短くして毛あり。形状をもっていわば、小鼬と呼ぶところ相応せり。色、おおむね鼠色にして黄色を帯べり。あるいは鼠色より黒色濃くして黄色なきものもあり。その黒色こきうちにもまた濃淡あり。また、黄色をおぶるにもまた濃淡あり。あるいは、まれにまだらなるものもありと聞けども、予いまだこれを見ず。あるとき、親四子をつれあそぶを見しに、子はみな鼠色より黒色こくして黄色なし。愚案するに、子はみな黒色こくして黄色なく、長ずるに従って黒色うすくして黄色をおび、老ゆるに従って黄色こきがごとし。
 さて、諸国のことを伝え聞くに、九州には河太郎かわたろうというものあり、四国には猿神さるがみというものあり、備前びぜんには犬神というものあり。また備前、備中びっちゅう日御碕ひのみさきというものあり、備中、備後びんごにトウビョウというものあり。いずれも人について人を悩ますことをいえり。その人を悩ますというところを通考するに、その名異なりといえども、その実は一なり。人を悩ますといえども、いずれもその形見えざれば、人狐といえば人狐なり、河太郎といえば河太郎なり、猿神といえば猿神なり。犬神、日御碕、トウビョウもみなしかり。国々の俚俗、その実をしらず、その呼ぶところを異にす。いずれもその名目あたらず。予をもってこれをみるに、みなこのものの所為にあらず、その実は病症なり。しかるに国々の俗、これに迷いてわざわいとなること少なからず。雲伯二州は迷うことはなはだしく、わざわいとなること最も多し、云云うんぬん
 この人狐談は、出雲にて今より百五、六十年前に始まったと伝えられている。今日にてもこの弊害すこぶる多く、ひとたび人狐持ちをもって目せられたる家は、その女子を他に嫁せんとするも謝断せられ、田地を売却せんとするも買い手がないというほどに、社会から排斥はいせきされている。一般の迷信にては、人狐持ちの家には七十五頭の人狐が同棲してい、もしこれと結婚し、またはその家の田地を買い入るると、その人狐が移住して来ると申している。

第一七段 山陰の迷信 二(他種)


 人狐の迷信は出雲いずもに限るが、その余波が隠岐おきに及ぼし、隠岐の前後二島中、島前には盛んに行われ、その影響が政党にまで関係するに至るとのことである。すなわち、選挙競争などに人狐派、非人狐派があるとの風評を聞いた。しかし、島後の方には、人狐つきの代わりに猫つきというものがある。その地には古来野狐が多くいて、人に妨害を加えたことが原因となって、猫つきの迷信を起こすに至ったとの説だ。
 石州せきしゅうには人狐はないが、山口県に隣接しているために犬神の迷信が伝わっている。また、広島県にも接近しているから、トウビョウや外道げどうの迷信もいくぶんかある。また、浜田辺りではかわうそつきの迷信もあるそうだ。その他、海浜には船幽霊の話がたくさんある。その話に、難船の後には海上に呼び声を聞き、また光を見ると申している。また、舟夫は梅干しのさねを水中に投ずることと、船中に柿の核を焼くことを嫌う迷信がある。また、市子いちこ口寄せもあるが、これを「教え」と呼んでいる。
 因幡いなばの迷信としてはトウビョウである。そのトウビョウは芸州げいしゅうのとは違い、人狐に近い方で、手の爪が二重になって、一手に十ついている。また耳も二重になり、胸に白き斑文を有する妖怪的動物と申している。むかしはトウビョウつきを政府へ呼び出だし、裁判所にて、「その方は畜生の分際として人につくなどは不埒千万ふらちせんばんである。早く出て行け」といってしかりつけたものだそうだ。これも人狐持ちと同じく一定の家があって、その家に七十五匹すんでいるとの説である。
 伯州にては、西部は出雲いずもの影響にて人狐の迷信行われ、東部は因幡の関係にてトウビョウの迷信がある。ここに、伯州にて狐つきを退治するマジナイを聞いたが、大章魚おおたこをほし、これを当人に抱かしむるか、もしくは敷き布団の下に入れ置くそうだ。しかるに、出雲にては梅の木のむちを狐つきの室に置き、あるいはその鞭にて室を打つということである。
 天狗てんぐの話も山陰方面にすくなくない。因州には天狗いわというものがある。その場所は網代浦である。奇石怪巌海中に突出屏立へいりつして、山陰第一の勝地なるも、なんぴともいまだこれに雅名をつけたるものなしと聞き、余は仙巌浦と名づけしが、その巌の中に断崖百丈の所がある。この巌頭より誤りて海中に落下したものが、なんらの負傷もせず、全く無事であった。これは天狗が助けたのであると信じて、その巌を天狗巌と呼ぶことになったそうだ。
 つぎに神社については、出雲の松江市をさること一里半ばかりの所に八重垣神社がある。神代の「出雲八重垣妻籠つまごめに」の旧跡としてあるが、婚姻を求むるもの、遠近よりここに来たりて祈願をすることになっている。その社畔しゃはんに小池があるが、そのほとりの木に紙をひねって結びつけたものが無数ある。聞くところによれば、己の思っている相手の名をかいて結びつけるとのことだ。かくすれば心願がかなうと信じている。そのほか、銭一文を紙に封じて池中に投じ、ただちに沈めば願いごとかなうとも信じている。また、境港の対岸に美保神社というがある。その社より穀物の種子を出だすことになっている。農家は諸穀を植うる前にここに参詣さんけいして、その種を受けて帰る。これを田畑にまけば、必ずそのみのりがよいと信じている。しかのみならず、その一種類の種が、何種類でも望むところの植物に変化すると信じている。
 また寺院の方にては、伯州東伯郡の山間のある寺より金を借りて商法すれば、必ず大当たりであるとて、諸方よりこの寺に参詣して金を借り、一年の後にこれを二倍にして返納する所があると聞いている。ただし、一人に対して貸す金高は五十銭のきまりだそうである。

第一八段 京畿の迷信


 わが国の三都といえば、文明の程度最も高く、迷信などは少なかるべき道理なるに、実際はその反対で、けだし、三都ぐらい迷信の強い所はない。京都はわが国の宗教の中心であるにもかかわらず、神社仏閣の参詣者は、一身一家の目前の福利を授かりたいとの志望が多い。大阪ももとより同様である。
 ここに京都の迷信の一例を挙げんに、余が明治三十九年の春、大和やまと地方を一巡せしことがある。この年は丙午ひのえうまに当たり、丙は十干の方にて陽火である。すなわち火気の強い方である。午は十二支の火の気の盛んなる方である。正南を午の方角とし、昼十二時を午の刻とするのも、火の気の強い意味から起こっている。しかるに、年の回りが丙午となっては、干支ともに火の気の最も強いものが重なったわけであるから、その年は必ず大火事があるであろうとの評判が、一般に京都中に行われた。一体は火事の少ない土地であるから、したがって火事を恐るることもはなはだしい。ゆえに、年が丙午で大火事があると聞いて市中大いに騒ぎ、各戸みな寝ずの番をするありさまである。そこで、京都の有志者が余の巡回先へたずね来たり、「大和よりの帰路にぜひ京都に立ち寄り、市民に向かい、丙午は恐るるに及ばぬという意味の演説をしてくれよ」との依頼を受けたことがある。かくのごときは京都人ばかりではなかろうけれども、思いついたから迷信の一例として話すのである。
 また、大阪、神戸地方についてもいろいろ聞いたことがあるが、その一つを挙ぐれば、先年この地方に天然痘が流行しかかったことがある。ちょうどそのとき、余は摂津せっつ地方を巡回していたが、天然痘を免るるには種痘すればよいのに、これを行わずして敦盛あつもり様の墓へ参詣さんけいするものが日夜たえぬということを聞いた。京阪地方にては、敦盛様に願えば天然痘にかからぬという迷信が伝わっているらしい。しかして、その参詣者が団子を持って行くとかいうことであった。
 京阪の迷信とともに、畿内きないの迷信もあわせて述べておこうと思う。まず、泉州せんしゅう堺市の南宗寺という寺に利休の碑があるそうだ。その形は雪見灯籠ゆきみどうろうのごとくにして、その火袋に直径六寸余の円き穴がある。人、もしその穴に耳をつけて聞けば、たちまちせみの声のごとく、松風の音に似たる響きがする。これを、利休が茶の水を沸かしている音だといっている。このことは京都の大徳寺にもあるそうだ。
 摂州せっしゅう有馬の鳥地獄や、同じく川辺郡昆陽池の片目魚のごときは、むかしは迷信をもって説明したけれども、今日は格別これを怪しむものがないようになった。また、奈良の猿沢池の不思議もあまり喋々ちょうちょうする人もないが、大和の大峰山上には今もって迷信談が伝えられている。この山に登る途中の急坂の上に平坦の場所がある。登山者は、その坂を登りきわまりて平坦部に出ずると、数十間の間は立行することを禁じてあって、だれにてもみな匍匐ほふくして進むそうだ。そのわけは、ここに盲天狗が手を出して、人の携帯品を探っている。もし立行して彼の手に触れたらば、所持品を奪い取らるるを恐るるためであるとのことだ。おもしろい説を伝えたものではないか。
 河州かしゅう富田林の近在に灯明松と名づくる妖怪松がある。毎年正月元日には、その松の枝上に灯明が自然に点ぜらるるとの口碑こうひなるも、古来高徳の人にあらざれば、その光を見ることができぬとの説を伝えてあるもおもしろい。
 また、大和やまとの吉野の桜木明神社に、林中の樹木の幹枝ともに、疱瘡ほうそうを発せしがごとき小瘤しょうりゅうが見えている。ゆえに、古来、この木に信願すれば、疱瘡を免るるといい伝えている。これにひとしき迷信が関東にもある。すなわち、相州そうしゅう三浦郡大津村に、信誠寺という真宗の寺院があるが、その境内に蓮如上人れんにょしょうにんの杖を地にはさまれたのが生育して、銀杏いちょうの大木となったという古木がある。その枝の節々に、乳の形をなせるものが現れている。民間にては、この木を信念すれば、乳がよく出ると申して、乳の少なき婦人は、この木に参拝するとのことだ。
 また、大和国大峰山の麓に洞川どうせん弥勒堂みろくどうがある。その境内に直径五寸ばかりの卵形の石があって、これをなでさすりたる上にて持てば軽く上がり、打ちたたきてのち上げんとすれば急に重くなって容易にあがらず、その石に神霊が宿りて、かくなすがごとくに信じられているとのことだ。これはもとより精神作用だが、豆州ずしゅう修善寺の御伺おうかがいの石もその一例である。修善寺には源頼家みなもとのよりいえの墓があって、その上石うわいしが一般に人の吉凶禍福をぼくすることになっている。もし一家に病人があれば、まずここに至ってその石をあげ、軽ければ病がなおり、重ければなおらぬと信じている。これは、頼家の霊が知らせてくるるものと思っているものが多い。畿内きないの話が東海道に移ったから、東海の迷信談をすることにする。

第一九段 東海の迷信 一(東京以西)


 東海道には三河の豊川稲荷、小田原の道了山をはじめ、三尺坊や半僧坊などの祈祷きとう専門寺院が多く、かつ、いずれも大繁昌であって、しかもその信者は、己の欲を満たし利を得んとする祈願が多いのを見て、およそ迷信の程度を推測することができる。余がある祈祷専門の寺について聞いたが、近来は昔にない一種変わりたる祈祷の依頼がある。勧業銀行にて債券の応募者にくじを引かせ、その一等に当たりたるものには千円ずつ与うることになっている。そこで、どうか千円の鬮のあたるように祈祷して下さいというのがあるそうだ。かかる願いには、神も仏も閉口せらるるであろう。
 つきものとしては東海道特殊のものはないが、まずきつねがつくというのが普通である。しかして、四国の犬神いぬがみ出雲いずも人狐にんこのように家系を有するということは全くない。そのうち三遠地方にては蛇の話がある。つきものは必ず狐、たたるものは必ず蛇などと申している。
 奇異の迷信としては、ここに二、三を挙げてみよう。志州ししゅうの波切に霊汗地蔵というものがある。その体は石地蔵なるが、村内に変事のある場合には、必ず全身に発汗して予告なさるといわれている。石仏は死物であるから発汗する理由なけれども、石の質により、気候の変化する場合には、水蒸気がその体に触れて凝結するのに相違ない。ちょうど、ガラス戸や水差しの外面に水蒸気の凝結すると同様だ。しかるに、これを地蔵の予告と思うのは迷信である。
 三州さんしゅう八名郡内にては古来、牛村ぎゅうそん馬村ばそんと称する迷信がある。甲の村は牛村であるから馬を飼うことはできぬ、乙の村は馬村であるから牛を飼うことはできぬ。もしこのきまりを破ったならば、必ずその村に災害あるべしと信じている。なんと奇体なる迷信ではないか。
 相州鎌倉の某寺に裸体はだか地蔵がある。家族に病人あるものは衣類を携えきたり、その地蔵の前に供え、かつ祈願していうには、「病気をなおして下さらば、この着物をきせてあげます。もし願いをかなわして下されぬならば、着物を取って帰ります」と申すそうだ。これもおもしろい迷信である。
 今一つ鎌倉の迷信を申さば、銭洗ぜにあらい弁天の一話である。鎌倉の山の手の方に佐助稲荷があるが、その手前の巌窟がんくつの中に小さき石像の弁天を安置している。その前に清水の満ちたる小さき井戸がある。なんぴともここに来たりて弁天を拝し、その水にて銭を洗えば金がたまるといわれている。余も鎌倉客中にたずねて見たが、すこぶる幽邃ゆうすいな巌窟である。たえず信者が来て参拝するとみえて、ろうそくがたくさんあがっていた。余も金がたまるようにと思って、懐中より銅貨を出して洗ってみたが、とてもその願いはかないそうもない。
 右のごとき話は各所にあるから、いちいち挙げることはできぬ。まず、東京以西の迷信談はこのくらいに切り上げて、以東に移ることにしよう。

第二〇段 東海の迷信 二(東京以東)


 東京以東にきつねについての話はいたるところにあるが、ただここに一つ特に紹介せなければならぬのは、埼玉県下におけるオサキの迷信である。この迷信は埼玉県のみならず、群馬県、長野県などにもひろまっている。オサキとは俗説によると、尾のさけた小さき狐であるとのことだ。やはり人狐にんこのごとく一種の変形動物と見て、これがオサキであると言い触らしたらしい。これはある家にて特に養いおかるるものと信じ、その家にてこれを使って、己の欲するものを他の家より持ちきたらせるという話である。しかし、出雲いずもほどにはなはだしき社会制裁を受けておらぬらしいが、大体においてはよく似ている。この迷信のある地方は養蚕ようさんの最も盛んなる所なれば、オサキが蚕を盗むという騒ぎがときどき起こる。ときによって、一夜のうちに蚕棚の蚕児かいこがいくぶんか失せることがある。そうすると、すぐにオサキが盗んだということになる。その場合には、どこのオサキが盗んだかとの詮議せんぎが始まる。たいてい一カ村に四、五軒ぐらい、オサキを使う家と目されている家があるから、なにがしの家で、オサキを使って持ち去ったに相違ないなどという判断を下す。たといねずみの盗み去ったのでも、みなオサキに帰してしまう。この迷信は今もってなくならぬ。
 その他の迷信については別段著しいものはないが、余が千葉県巡回中に出逢ったおもしろい出来事がある。時は明治四十二年の春であった。千葉県にて東京方面より伝わってきたと申しているが、今年は婦人の厄年やくどしに当たり、若い婦人は必ず病気にかかる。その厄払いをするには、赤飯を携えて石の鳥居を七カ所くぐり、各所へ赤飯を差し上げねばならぬというところから、若い婦人は毎日誘い合わせて、石の鳥居をたずね回る騒ぎの最中であった。その原因は不明なれども、その年の初めに彗星すいせいが見えたことがある。多分これについて、右ようの俗説を生み出したかと思わる。いずれにしても、迷信家の多いのには驚かざるを得ない。
 これに類したる話は、余が近年埼玉県秩父郡内を巡講するとき、その地方の村々にて、熊谷方面より化け物が襲ってくるとの伝説が盛んに伝わっていた。これは後に聞くと、余は世間にて妖怪博士と呼ばれているから、妖怪博士が入り来るとの風説が誤伝したのであったそうだ。実に抱腹の至りである。
 ついでに、今一つおもしろい迷信談を申しておこう。埼玉県大里郡内に妻沼という村がある。この村に聖天しょうでんを祭っている名高い寺があって、信者もすこぶる多い。その氏子に属する村落にては、雉子きじを崇敬することと松の木を忌み嫌うことがはなはだしい。その原因は明らかならざれども、俗説によると、雉子は聖天様の愛する鳥ということだ。
 また松に至っては、むかし聖天様が松の葉によって目をつかれ、御悩みになったことがあるといい、あるいは聖天様は願を掛くれば、すぐに福を与えて下さるから、待つには及ばぬということより、松を嫌うようになったとも申している。とにかく、この村にては松の木は一本もなく、もし他より持ちきたったならば、早速これをすてて御禳おはらいをするというありさまである。
 東京以東の迷信談はこのくらいにとどめて、これより東京市中の迷信に話を移そうと思う。

第二一段 東京の迷信


 東京の迷信はなかなか盛んなもので、縁起ということが最もやかましい。まずその一例を挙ぐれば、スルという語を嫌ってアタリという。例えば、すずり箱をアタリ箱といい、すりこぎをアタリギといい、すりばちをアタリバチといい、するめをアタリメというの類である。また、ハタキをサイワイといい、梨をアリノミといい、猿をエテというも、みな縁起のよきを望むためである。また、東京人は茶を嫌うことはなはだしい。年始の贈り物に茶をやったならば、縁起が悪いとて御禳いをするほどである。これは、茶は葬式の贈り物ということから嫌うのである。今一つは、人を茶にするということからも嫌われる。そこで茶のことをデバナという。
 また、東京にては電話の番号までに縁起がやかましい。その中に一般に嫌われるのは四九八九、これは四苦八苦、三七八六、これはみな病む、三七四二、これはみな死に、四二七九、これは死に泣くというので、嫌われるそうだ。むかし哲学館で電話を願い出たときに、ほかの番号は他に取られた後で、ただ残っているのは四四四であった。この番号はだれも嫌って断るとのことで、哲学館は縁起を構わぬからその番号を取ることにした。
 人相、家相、八卦はっけ、方位、日の吉凶なども、東京人が最も信仰しているようだ。また、御鬮みくじなどもなかなか滑稽こっけいである。もっとも、この話は下等の無教育のものではあるが、神社仏閣の御鬮を探るに、はじめに賽銭さいせん一銭を投じて大凶という鬮が出ると、さらに二銭を投じて再び探る。もし、なお凶が出るとさらに三銭を投ず。次第次第に金高を多くして、大吉の出るまで御鬮を探るそうである。
 先年、某新聞に見えたが、ある商店の小僧が主人の金を盗み、自ら発覚せんことを恐れ、深川の成田山に参詣さんけいして、一心に発覚せぬようにと祈っていたそうだが、神仏を愚弄するもここに至って極まれりといわねばならぬ。
 さらに、東京下等社会の迷信を挙ぐると、本所業平橋の南蔵院という寺に石地蔵がある。心願あるものがここに来たり、縄をもってその地蔵を縛り、「もしわが願いをかなわせて下されば、この縄を解いてあげます」と申すそうである。また、疾瘡しっそうをうれうるものが両国橋の中央に至り、飛騨ひだの国きり大明神と念じて北の方へむかい、きり三本ずつ川中に投じつつ礼拝すれば、平癒するとのマジナイもあるそうだ。また、京橋の欄干にて北側の中央なるギボシを荒縄をもってくくり、頭痛の願掛けをすれば、必ず治すること疑いなしとのことも聞いている。ただし、これらは維新前の話である。今一例を挙ぐれば、小児の頭髪をそるに、目黒不動の滝の水をくんできて髪を浸せば、小児は頭を動かさずしてそりやすいと申している。そのわけを聞けば、本尊が不動様であるから動かぬというも滑稽こっけいである。東京は実に文明の中心であると同時に、迷信の中心といわなければならぬ。

第二二段 東山の迷信


 東山道の迷信は順序として江州ごうしゅうより始めんに、家相について聞いた話がある。その地方にては、「四六畳、三ヘッツイ、家相構わず」と申す由。すなわち、四畳と六畳と三個のヘッツイが備わっておれば、いかなる建て方でもその家には災難なしとの意である。もし、これを欠かば災難があるから、御祈祷ごきとうを願わなければならぬことになる。また江州のかわら屋根に、煉瓦れんがの所をわざわざ二つに割っておく家がある。これはやはり、家相の悪い災難よけであるとのことだ。
 つぎに美濃みのの迷信としては、石地蔵の吉凶判断を挙げなければなるまい。さきに洞川どうせんの石、修善寺の墓について申せしと同様に、石地蔵の目方の軽重によって、病気、災難等の可否、有無を前知する迷信である。その地蔵が稲葉郡鏡島村にあり、同郡北長森村にもあり、揖斐いび郡谷汲村にも、同郡大和村にもあって、すこぶる多いのは、その地方の特色と見てよい。もし美濃の山間部に入れば、犬神いぬがみ人狐にんこ同様の取りつき病と名づくるものがある。その家は取りつき筋と称して他人これを遠ざけ、結婚することを嫌うことなど、出雲いずもと同様である。
 飛騨ひだの国にもこの取りつき筋があるが、飛騨では牛蒡種ごぼうだねとの異名をつけておくのはおもしろい。かの家は牛蒡種だといえば、狐つきの家柄ということになる。その異名の意味は、牛蒡の種子はちょっとさわってもすぐにつくもので、取りつき筋の家も「さわればつく」というのであるそうだ。
 つぎに、信州しんしゅう木曾地にては管狐くだぎつねの住する家ありと申して、美濃の取りつき筋と同体異名である。しかも、その家には七十五匹住すと信じている。余が巡講中に聞いたが、尾州人にて木曾地に来たり成功したものが、都合上その地を引き払い、郷里に帰住せんとしたが、その家屋、田地を買い受くるものがない。なぜなれば、その家には管狐が住んでいるとの風評がある故である。ちょうど出雲の人狐持ちと同様だ。また伊那郡にても、ある天理教信者の家にて管狐を使うとの評判が立って、その家を八分はちぶにするとの騒ぎが起こった。八分とは、その地方の方言にて絶交する意味である。信州は地方地方により、管狐とも白狐しろぎつねとも飯綱いづなともオサキともいうが、いずれも同体異名に過ぎぬ。
 つぎに、上野こうずけ下野しもつけ方面にてはオサキの迷信があるが、そのありさまは、さきに述べたる埼玉県と同様である。ただ一つ、群馬県の特色としては達磨だるま市である。毎年、養蚕の始まる前に目なし達磨の市が開かる。その市場より達磨を買いきたり、これを棚に上げ置き、あらかじめ、「もし蚕がよくできれば、目を入れてあげます」と達磨に申し上げておくことになっている。つまり養蚕のマジナイである。
 栃木県にはワカを信ずるものが多いそうだ。ワカとは他府県の市子いちこ口寄せのことで、種々の予言をするものである。また、天狗てんぐについては名高い古峰こぶはらがあるも、ここには略しておく。

第二三段 北陸の迷信


 北陸は概して真宗の盛んなるだけあって、迷信が比較的少ない。しかし、全くないではない。むかしは本願寺の御門跡様ごもんぜきさまといえば、活仏いきぼとけといわれておったが、北陸御巡化ごじゅんげのときには、信者が浴水をもらい受けて帰ったことは事実である。ときにより御門跡様は入浴を見合わせなされ、従者が代わって入浴することがあるそうだ。信者はそのことを知らぬから、やはり浴水をくんで帰るとのことだ。この迷信だけは近年はなくなったらしい。余は備後びんごにて、大社教の管長についても、これと同じ話を聞いている。
 越前国池田地方は山間の僻郷へききょうであるが、先年、日清戦役後、浮塵子うんかが発生して、ほとんど収穫皆無のことがあった。そのときの風説に、戦争中は山々の天狗がみな満、韓へ渡って日本軍の応援をしたおかげで、百戦百勝の大勝利を得たのに、そののち天狗に対してなんらの礼祭を行わぬから、天狗が大いに立腹して浮塵子を放ったのであるとの妄説が伝わったとの話もある。
 伊豆の妻良港めらのみなとは、市街の形が自然に「水」字状をなしているから、古来、火災の起こったことがないと申している。その反対で、越中の氷見ひみ町はむかし火見と書いたそうだが、あまり火災が頻繁に起こることより、みなみな申すには、「これは町名が悪いからである。もし氷見に改むれば必ず火事がなくなるだろう」との衆説で、氷見町と改称することになった。また、越中の井波町は街路の形が自然に「風」の字に似ているそうだが、実際、非常に風の強い町である。その原因は、市街そのものが「風」字に似ているからだと申している。これらはおもしろい迷信の一つである。
 越後えちごの直江津の海岸に五智如来と称する名高い寺がある。ある期節において、海上にたくさんのイルカが群れをなして、五智の方へ押し寄せて来ることがある。その地方にてはイルカの五智参りと唱え、かの魚が如来様へ参詣さんけいに来るのであると申している。また、越後の南魚沼郡に八海山と名づくる高山がある。旧暦八月一日はその山神の祭日にて、多数の信者が山上に登って通夜することになっている。そのとき山上より望むと、無数の火光が谷間より上りくるを見るそうだ。これを、各戸に山神に献ずる灯明が伝わってくるのだと申している。
 古来、不可解として伝えられたる越後の七不思議は、今日ではもはや不思議ではないと知られたが、ただ、今日なお妖怪の作用に帰せられているのは鎌鼬かまいたちである。この怪事が越後地方に最も多い。例えば、道路を歩いているとき突然、あたかも鎌にて切られたと同様のきずができることがある。その疵口ひらけども血は流れぬ。これを鎌鼬に切られたと申す。その道理は、今日にては理学上より説明せられてあるから妖怪ではないが、多くの人は、空中に人目にて見えざる一種の怪物がいる故だと申している。今一つの妖怪は蓑火みのびである。これも越後に多い。暗夜、雨をおかし無提灯ちょうちんにて旅行するときに、蓑より滴る雨が火に見えることがある。これを蓑火とも蓑虫ともいう。俗説にてはきつねの所為と申している。
 余が越後の北魚沼地方に巡講せしときに、珍しい雷よけのマジナイを見たことがある。そのマジナイは、旅行者が菅笠すげがさの上に「大道寺孫九郎」と大書しておく。この文字を書いておけば、途中にて雷が頭上に落ちくることがないと申している。これは余がいまだ他地方にて見ざる迷信なれば、ここに掲げておく。

第二四段 佐渡の迷信


 北陸道といえば佐渡さどもそのうちに含まれているわけなれども、佐渡には一種特別の迷信があるから、項目を別置して掲ぐることにした。
 そのいわゆる特殊とはむじなつきの妖怪である。これは家系を有するのではないが、各所にこれに関する有名なる旧跡がある。そのうちにて最も評判の知れ渡っているのは二岩団三郎にのいわだんざぶろうである。すでに二岩神社として祭られている。余も佐州さしゅう客居中これを訪問して見たが、相川より半里ばかり隔つる山頂に天然の岩窟がんくつがある。その中に二岩団三郎と称する貉の巨魁きょかいが住んでいるとの伝説である。これに関する歴史的怪談多々あるうちその一つを挙ぐれば、明和年中、仁木与三と申す人、遠方より帰りきたり、たまたま月夜その嶺を越えかかりしに、はるかに鼓の音が聞こゆる。ようやく近づき見れば、一頭の老貉ろうかくが月に向かって腹鼓はらつづみを鳴らしている。与三はたちまち一石を拾って投げたれば、その石まさしく貉の背部にあたった。そうすると貉大いに驚き、一声叫んで逃げ去った。与三は一大快事とし、得意然として帰宅した。その家は相川市中にあったとのことだ。いよいよ宅に着してみると、家内のもの出できたって、「主人は先刻すでに帰って、ただいま座敷に食事しておらるるが、今また主人が帰られた。いずれが真の主人であるか」といって惑っている。そこで与三は座敷へ行って見ると、果たして己と寸分変わらぬものが食事をしている。与三はこれを見て妖魔の変化に相違ないと思い、刀を抜いて一打ちにり殺さんとせしに、その魔物の申すには、「われは二岩団三郎である。先刻石を打ちつけられた復讐ふくしゅうに来て、食事を賜ったのである。すでに御馳走をたくさんいただいたから、もうこれでたくさん」といいながら、たちまちその形が消えてしまったとのことだ。佐渡には貉について、かかる怪談がたくさんある。ひとり二岩のみならず、加茂湖畔の湖鏡庵、赤泊町の東光寺にも有名なる貉の話がある。
 佐渡は従来、きつねたぬきも一頭もおらぬ。ただ鉱山があるので、昔はふいごに貉の皮を用うるために、わざわざ内地より貉をつれて来たり、これを山林に放ちて繁殖せしめた。そののち貉がたくさんいるようになり、内地の狐にだまされ、またはつかれたという話の代わりに、貉の迷信が流行するようになったのである。したがって、種々の怪談を産み出したに相違ない。
 二岩団三郎は神社として祭られてあり、かつ、その所住と称せらるる岩窟がんくつにはたえず参詣さんけい者があって、赤飯やもちなどを供えて置く。あるとき、相川の青年二、三人づれにてこの岩窟へたずねて来たときに、きたての柔らかな餅が石の上に供えてあった。これを見た青年は、団三郎がいるなどとは全く迷信であるといいつつ、その餅を食べ尽くし、なおその上に穴の中へ小便を放ち込み、「もし真に団三郎がいるならば、早速われわれに罰を与えて下さい」といって、有無をためしたものがあったということを聞いた。いかに団三郎の怪談は迷信より起こるとしても、小便を放ち込んで試むるとは、あまり乱暴の挙動である。

第二五段 奥羽の迷信


 福島県にて聞くに、毎年二月初午はつうまの日に茶をのむことを嫌うとのことだ。その由来は、むかし、この日に茶をのんだために大火がありし故だと申している。また、信夫しのぶ郡の仙郷といわるる土湯村に、聖徳太子を祭れる堂がある。その像の腹の辺りに斑文はんもんがあるそうだ。よって村内の人々に、必ず腰より上の所に、この斑文に類したるアザのごときものがあるとのことだ。これを聖徳太子より授かりたりとて、みなみな喜んでいるという話を聞いた。余はいまだこれを実視せざれども、もとより迷信である。
 福島県にても市子いちこ口寄せを信ずるものが多いとのことなるが、その種類に、ワカと名づくるものと、アガタと名づくるものと、シンメイと名づくるものと三とおりあって、そのやり方もおのおのいくぶんか違うと申している。
 山形県米沢地方にては、人の旅立ちするときに、そのたもとの中に茄子なすを入れさする由。これは病気、災難を免るるマジナイとのことなるも、その意味は分からぬ。
 余が羽前うぜんの上の山温泉に行きたるとき、旅館の下女の案内にて名高い稲荷いなり参詣さんけいしてみた。その堂内に、油揚げを山のごとく積み立てて神前に供えてある。いずれも参詣者が持ちきたって祈願するのである。そのとき、余は下女に、「かのたくさんの油揚げは、社守りの食用になるのであろう」と問えば、下女は、「かの油揚げはみな、稲荷様が一夜のうちに召し上がってしまいます」と申すから、余が、「マサカ、そうではあるまい」といえば、下女は、「ホントウであります」と答えた。かかる知識の程度では迷信も多くなるはずである。
 つぎに秋田県の迷信としては、第一にタマシイの話を挙げなければならぬ。他県にて死霊しりょう生霊いきりょうの話は一般にあるが、秋田県のタマシイは生霊に似てしかも違っている。その伝うるところによれば、幽霊とタマシイの二とおりを分かち、人の死したる後に形をあらわす方を幽霊といい、いまだ死せずしてまさに死なんとする場合に、親類、友達の家に、あるいは音が聞こえ、あるいは姿が見ゆるのをタマシイと申している。相当の知識あるものまでが、死ぬ前にはタマシイが現れてくると信じている。その中には、タマシイの形のみならず、臭気を感ずることがあると信じているものがある。これは秋田県の名物の一つであろう。
 同県にて、地震のときにむかしから「万歳万歳」と呼ぶそうだ。これは、雷のときは「桑原桑原」というと同じく、地震よけのマジナイらしい。
 陸中の国でありながら秋田県に加わっている鹿角かづの郡では、狐つきのことをモスケヅキというそうだ。また、巫女みこのことをイタコという。ともにその地方の方言なるが、この二者ともに一般より信ぜられている。
 本邦中のスイスと呼ばるる十和田湖畔の十和田神社に、ぜに占いの淵がある。参詣さんけい者はこの淵の上より銭を投げ下ろし、その沈み方を見て運命の吉凶を判断することになっている。ときどき神社の方で水底をさらえると、なかなかたくさんの銭が集まっておるそうだ。この場所は青森県の方に属している。
 その他、先年、青森県、岩手県、宮城県を一巡せしとき、いろいろの迷信談を聞いたことがあるけれども、その多くは失念したからここに述べぬ。

第二六段 北海の迷信


 北海道は全国各方面よりあらゆる階級の人が集まっているから、迷信もあらゆる種類が集まっているはずなるが、案外迷信が少ない。これは新開地にして、その土地に古来の伝説がない故であること明らかである。他府県では狐狸こり天狗てんぐ、化け物屋敷などの伝説があって、なんぴとも子供のときよりその迷信を吹き込まれているために、妖怪、迷信が多くなる。しかるに、北海道は子供のときにかかる伝説を聞かぬから、成長の後、格別迷信を起こさぬようである。
 内地にて一般に恐れらるる、天狗か狐のつくとかたたるとかいう話は、余が北海道にいる間、一回も聞いたことがない。すでに千島のある島のごときは、年中狐の猟をして生活しているとのことだが、狐にだまされ、またはばかされたという話がないそうだ。ただ、北海道でおそるるものは熊ばかりである。
 内地にては諸方に化け物屋敷がある。東京などはことに多い方であるが、これまた北海道にない。ただ一度聞いたことがあるのは、日高の国、沙流さる山道の駅亭が化け物屋敷にて、ここに宿泊せしものが妖怪を実視したとの話を聞いたのみである。また、マジナイなどもいたってすくなく、病気はすべて医者に見せて薬を与えてもらうようになっている。かく申すものの、人相、家相、卜筮ぼくぜいなどを信ずるものが全くないではない。また、淫祀いんしの類もいくぶんかあり、迷信的祈願も多少ある。ことに北海道は漁業地が諸方にあるから、これに関する迷信は相応に多い。すでに山形県庄内の大山善宝寺などは祈祷きとう盛昌の寺であるが、その得意場は北海道であると申されている。ただ、内地に比して比較的迷信がすくないというだけである。
 しかるに、北海道に住するアイヌに至っては、ことに死を忌み嫌うこと最もはなはだしく、もし一家に死人があれば、その家を焼き去りて他に移住し、死人のことは決して人に話さず、人より問われても、決して答えぬと聞いている。そのように、死んだ人の話をせぬきまりであるから、アイヌには昔の出来事の歴史談が伝わっておらぬということだ。余が十勝にてアイヌの茅屋ぼうおくをたずねたときに、中央の炉の中に、木を削りて造りたる御幣ごへいのごときものを立ててあった。彼らはこれを神として崇拝しているらしい。また、彼らは熊を神と申している。熊を捕るときには神と戦うのであるから、己が殺されても不名誉でないといって、死を決して取り掛かるとのことだ。また、毎年盛んなる熊祭りを行うことは、なんぴとも聞いている。

第二七段 全国共通の迷信 一(怪火


 以上は、およそ余が各府県巡講の際、直接に見聞せし談話中、多少その地方の特色とすべきものを掲げたが、なかなかこのくらいで尽きたわけではない。また、かかる特種のほかに全国共通の迷信がたくさんある。これより、共通の方を話すことにしよう。
 東西ともに怪火の種類すこぶる多く、狐火きつねび、鬼火、火の玉、竜灯りゅうとう、火柱、火車等、いちいち列挙することはできぬ。なかんずく、わが国において古来最も名高きは肥後ひご不知火しらぬいである。愚俗はかかる火を見るとたちまち迷信を起こし、狐の所為とか天狗てんぐの作用とか、あるいは亡者の霊魂であると思い、海上にあれば海亡魂うみぼうこんといい、陸上にあれば幽霊火、怨霊おんりょう火等の名をつけ、種々の妄説を付会するようになる。もし怪火の原因に至っては、燐火もあり電気もあり隕星いんせいもあり、動物性もあり植物性もあろうが、要するに物的妖怪にして、理化、博物の研究に属することは明らかである。余はその説明をする代わりに、近年『時事新報』に掲載してあった西洋専門家の説を引用したい。すなわち、左に転載するとおりである。
 鬼火については古来種々の迷信があって、それも日本のみに限らず、諸外国にわたっておる。例えば、英語のウィラザウィスプおよびドイツ語のイルリヒトなど、いずれもこれと同様の現象を意味し、少なからず迷信が付帯しておる。しかし、理科学的知識の普及に従い、かく迷信は次第に除去せられ、いやしくも不思議と考えらるることは、大部分、理科学的に研究せらるるようになった。左に、鬼火に関する従来の理科学者の研究結果の概要を記してみよう。ただし、確かに鬼火という中には、狐火、人魂ひとだま、不知火等、すべて夜間に光り、俗に不思議とみなさるる現象を含んでおる。
 鬼火に関する理科学的研究結果が、はじめて世に発表されたのは、西暦一七二六年のことで、研究者はドイツの物理学者ムッシェンブレウグであった。この記事によると、ムッシェンブレウグは、鬼火が実際夜間に見ゆることについて、少しの疑いも置かない。しかして、自身これを捕らえて見たら、かえるの卵に類似した粘着性の物質で、多分これは燐素であろうと述べている。一八〇〇年の初めに至っては、鬼火の原因は沼気しょうき、燐化水素、あるいは双方の燃焼にありとの学説が起こったが、由来、鬼火を見たという人々の言がまちまちで、したがってその種類も非常に多く、中にはずいぶん荒唐無稽の語も付随しておるため、学者はその原因についてだいぶ疑いを抱くようになり、ドイツの雑誌『アナーレン・デル・フィジーク・ウント・ケミー』の主筆ポッゲンドルフのごときは、特に鬼火を見たという人々の談を募集し、各方面より来たあまたの報告を世間に発表したが、これが鬼火なるものは実際あることの証となり、かつその原因を理科学的に研究する好材料となった。これらの報告中にて最も信をおくに足るものは、有名の天文学者フリードリヒ・ウィルヘルム・ベッセルの報告である。この報告によるに、かつてベッセルは夜間エルベ河に舟を浮かべる際、一部分水が氾濫はんらんした傍らの低地において、淡藍たんらん色を帯ぶるあまた小形の炎を見た。しかして、その炎は絶えず消えたり現れたりし、位置を変ずるものもあり、変じないものもあった。前者は一群をなして横に動き、ベッセルの伴侶つれはこれを見て鳥の群れが動くようだといい、舟子は同所において、その以前にも、かかる火をたびたび見たことがあるといった。
 ポッゲンドルフの例にならい、ドイツ、ハノーバー市の学者シュタインフォルトは、学術および通俗雑誌を機関として、鬼火に関するあまたの報告を広くドイツ国内に募集し、各報告についていちいち論評を下し、なお鬼火に関する種々の学説を集め、これを一八九三年より一九〇一年にわたって世間に発表した。その中にはポッゲンドルフの鬼火に関する研究をも包含し、全部を合すれば大著述である。要するに、シュタインフォルトの意見は大体において疑惑的だが、決して鬼火の原因を神秘的不可思議のものとはしておらない。これにはもちろん物質的の原因があると信じている。しかしてたいがいの場合、蛍がその原因をなすとの意見のようだ。なお、ドイツ、リューベックのヘルマン・フォルナルシオンおよびエルツバリのミュラーなどいう学者も、鬼火の研究上大いに貢献しておる。
 これまでに鬼火を見たという人々の話を総合して考うると、いわゆる鬼火なるものには非常に種類が多いようだ。したがって、その原因とみなすべきものも非常に多く、中にはいまだ明瞭に原因を説明し得ない現象もあるが、これにはもちろん観察者の錯感さくかん(すなわちイルージョンあるいはハルシネーション)もしくは、なにかいまだ人に知れざる物質的のことが原因をなしているので、神秘的不可思議のことが原因であるなどいう説は、理科学者の全然非認するところだ。前記諸研究家の説に従えば、およそ左に掲ぐるようなものが、多くの場合鬼火の原因となるのである。
(一)腐朽した木およびその他の植物が発光する原因は、これ発光性の菌が繁殖するがためで、直接、木およびその他の植物が発光するのではない。モリシウという学者の説に従えば、約四十五種の発光性菌がある。しかして、腐朽して湿った木の葉などには、往々この種の菌が付着しているから、夜間白き光を発することがある。
(二)蛍と土蛍(羽なき蛍の雌および幼虫)より発する光。
(三)鳥から光の発するは、鳥に発光性菌が付着しているのが原因であろう。
(四)隕石いんせきあるいはガスの燃焼による球形の光。
(五)船舶の帆柱およびその他突出した物体(人体をも含む)より発する、エルモスファイアーと名づくるブラシようの電気放射。
(六)人に持ち運ばるる灯火、遠方にある人家中の灯火、およびその他人工的の火。
(七)沼、ため池、およびこれに類する場所より昇騰するガスには、沼気をはじめ種々燃焼しやすきガスがある。しかして、これに点火すれば、光を放って燃焼するが、その燃焼を自然に起こす原因とみなすべきことがたくさんある。
(八)揮発油泉の燃焼。
 ポッゲンドルフ、シュタインフォルト、フォルナルシオン、ミュラーらの鬼火研究家が募集した報告中にある鬼火の原因は、たいがい前記のようなものであるが、なおこのほか夜間現るる光のうちで、最近まで原因不明であったものがある。しかして一部の鬼火研究家は、これこそリアル・ウィラザウィスプすなわち真の鬼火だといっておる。この、いわゆる真の鬼火を見たという人々の談によると、その大きさは拳固げんこあるいはろうそくの光ほどで、地面より二、三フィート上を徘徊はいかいする。しかして、沼地、ため池等に限らず乾燥した地面の上にも現るる。静止することもあり、風に従って動くこともあり、全く風に関係せずに動くように見ゆることもある。しかし、物体に触れてもこれを焼くことなく、ほとんど感じ得るほどの熱をだにもたぬようだ。色は通常淡藍たんらんだが、黄、紫、青等のものもあり、まれには純白のものもある。においはなく、なんの煙もこれに伴わず、少しも音響を発しない。従来この種の鬼火は、もっぱら墓地に現るるもののように考えられておったが、ドイツにおけるあまたの目撃者の言によれば、墓地に現るることはかえってまれのようだ。また、人がこの種の鬼火を追えば逃げ、人が逃ぐれば鬼火がその後を追うとの俗説も、一般に事実とはいえない。
 前記のいわゆる真の鬼火の原因は、両三年前まで明瞭でなかったが、ついにベルギーの化学者レオンデュマは、人工的にこの種の鬼火をつくることを発明し、今や鬼火に関する不思議のことは、ほとんど全部解決せられた。レオンデュマは最初より他の多くの学者と同様、沼気すなわちメセインは空気中において速やかに散布し、かつ自然に燃焼を始めないから、いわゆる真の鬼火は沼気の燃焼ではないとの意見を持っておった。また、燐化水素(フォスフィン)は自然空気中において燃焼するが、その場合濃き煙を生じ、強き大蒜ガーリックのにおいを発する硫化水素は、自然夜間に光を発するガスの泡沫ほうまつをつくり得るが、卵の腐敗したような強きにおいを発するゆえに、いわゆる真の鬼火は、単にこれらのガスのいずれかの燃焼であるともいえない。これをもってか、レオンデュマは燐化水素と硫化水素が相互に働いて、いわゆる真の鬼火を生ずるのであろうとの考えを起こし、試みに自分の庭園において硫化鉄(フェラムサルファイド)に硫酸を注ぎ、これに燐化カルシウムの小片を少しずつ投じた。そうすると、これより発する燐化水素と硫化水素が相働き、自然に淡藍色の光を放って燃焼し、いわゆる真の鬼火と同様の現象を呈した。しかして、これにはにおいも煙も伴わず、また少しも音響を発しなかった。ゆえに、いわゆる真の鬼火は、動物身体が腐敗する際、脳、脊髄等にある燐と硫黄とが自然に分解して水に触れ、燐化水素と硫化水素とを生じ、それが相働いてできるのであろう、云云うんぬん
 右の説明に照らすに、すべての怪火は理化、博物に属する問題という点は疑いない。

第二八段 全国共通の迷信 二(天変)


 天変地異に関する迷信は日本のみならず、世界中いずれの国にも存するが、近年学術の進歩によって、ようやくその度を減ずるようになった。むかしは彗星すいせいはもちろん、日蝕、月蝕までに種々の妄説を付会したものであった。しかるに今日にては、日蝕、月蝕を妖怪視するものはない。ただ彗星に至っては、西洋にも今もって俗説紛々ふんぷんたるありさまである。
 最近の戦争に関しての西洋迷信を、左に『大勢新聞たいせいしんぶん』より抄録しておく。
 戦争と迷信とは昔からの付き物であるともいえる。ことに迷信のうちで、天体に起こる怪異は最も人々の恐怖を誘うものである。今度の未曾有みぞうの大戦乱の今までに、天体の不思議な怪異が各軍の迷信を誘った例も決して少なくない。このほど、パリの測候所の技師フランメリオン博士が、開戦このかた起こった天体の怪異を調べたところによると、最近のもので怪異といえば、五月十三日の夜に西南の空に現れた不思議な彗星である。この彗星の発見者は独軍であるが、怪しいことには、この彗星の尾は明らかに赤色、青色、白色の三色をなしている。この三色の怪しい彗星は西南から飛んで東北に向け、フランスの国をかすめて消えたように独軍から見えたのである。この彗星の尾の三色は仏国の三色旗の色である。この星を親しく見たのは独軍ばかりでない。独軍の占領している仏国の北部一帯の仏国人も見たことを、異口同音に証しているところをみると事実に違いないので、また単に一人が見たというのならば目の錯覚ともいえるが、多くの人が同じ三色を見たというのだから決して偽りとはいえない。この星を見た独軍はたちまち仏軍の勝利を迷信しだして、カイゼルの軍はもはや仏軍を敗ることができないといっている。
 この種の例を古い戦争で求めると、その最も有名な例は、一四五六年にモハメッド二世と法王カリストゥス三世の両軍の戦いで、ハレー彗星が異常な長い尾を引いて法王軍の空に怪現したそうである。このとき、モハメッド軍はこの彗星の長い尾のうちに、ありありと十字架を見、法王軍はその尾のうちに、ありありとモハメッドの剣を見たそうである。
 それから、この戦争が始まってから間もない、昨年の七月二十一日の太陽のうえに起こった不思議な幻である。この幻の色は赤く、ちょうど太陽はなにかこう、水のようなものに溶かされたごとく見えたのみならず、この光を受けた地のすべてのものは真っ赤に見えたそうである。怪しい現象を眺めた露国の全農民は、すべて戦争の起こることを信じていたが、果たして八月に入って大戦乱となった。
 つぎに、独軍のパリ進撃を連合軍がマルヌ河に食い止め、一方、パリの危急を救うとともに独軍を敗走せしめた折のことで、すなわち昨年の九月上旬のことであるが、秋に近い澄み渡った晴夜に約七夜の間、なんともいえない美しい星が南の空、地平線に近く出現したが、この美しい星はパリでも見えたそうで、なにさま、珍しく美しく高く光る小さな星だった。人々がいつか、この星に「戦争星」と名をつけたそうである。しかし、ラ・プラタの天文台のデラビン博士の説によると、この戦争星は一昨年十二月十七日夜から、天空に現れて仏国の上を回っていたが、人々の肉眼で見えたのはその九月上旬であるといっている。つぎに、去年の十二月七日の白昼の二時に、太陽の面をかすめて飛んだ一つの怪しい星がある。これはよくパリから見えたが、この星が不思議にも英国に落ちたので、重さが三十五ポンドあったそうである。
 つぎに、戦線での怪異は、この四月のラインの西北のベリオパック一帯に、黒色の雨が降ったのである。同時にアルゴンヌの方面で、五月に入っては赤色の雪が三十分ばかり降った。この不思議な雨と雪とはただちに消えて、今その原因を調査するよしもないが、親しくこの雨なり雪なりを見た各兵士の言によると、黒色の雨の場合は、空に降っている間は黒色だったが、地に落ちると普通の雨であったというので、おそらく天候か光線かなにかの結果であろうといっている。赤い雪は地に落ちても依然として赤かったそうであるが、原因は捕捉ほそくするよしもない。あるいは砲煙中のなにものかが、天候の突然の厳寒のために、なにかの結果を雪の上に与えたのではあるまいかといわれている。
 かかる迷信は、わが国よりも西洋の方がかえって多いかと思う。

第二九段 全国共通の迷信 三(天狗)


 怪火に次ぎて全国に共通せるものは狐狸こり天狗てんぐである。狐狸のことは前すでに掲記したとおり各地方特殊のものがあるが、天狗は全国に通じて同一である。決して九州天狗と東北天狗との間になんらの相違はない。それゆえに、天狗がいかなるものかを説明するに及ばぬ。ただここに、天狗が人につきたるおもしろい話が『静岡民友新聞』に載せてあったから、左に抜抄しておく。
 東海道米原駅機関庫の有志三十五名は、一日、御殿場口から富士に登り、その夜は山上に一泊して、翌二日、須走口に下山することとなって、午前十時ごろ太郎坊まで来て休憩中、強力ごうりきが、「この辺りは昔から天狗のすみかで、折々登山者を苦しめることがあったゆえ、地方の有志がいつのころか、ここに古御嶽こみたけ神社を建立して天狗を祭った。それ以来、あまり天狗も悪戯いたずらをしないようになった」と、古御嶽神社の説明をして同所を発足すると間もなく、一行中の機関士高橋等なる者が突然歩みをとどめ、「われは富士浅間木花咲耶姫ふじせんげんこのはなさくやひめに長く仕えおる大天狗である。なんじらのごとく心にもろもろの不浄ある者は、残らず食い殺してやる」と、ものすごきけんまくで金剛杖を振るって暴れ出したる騒ぎに、一同あれよあれよと呆然ぼうぜんとしている間に、姿はかき消すごとくになくなってしまった。それっというので同人の跡を追ったが、どうしても見当たらぬ。仕方がないので須走駐在所に急訴し、警鐘を打って消防の出動を請い、裾野すその一帯の森林を、あたかも往年の富士巻狩りのような騒ぎで大捜査を行った。その結果、夕刻になって天狗先生、数十丈の大木の頂上にチョコンと座っているのを発見し、一行中の頓知とんちのいい男が大声で、「天狗様は木登りも上手だが、木からおりるのも速かろう。一つ、われらにその妖術を見せてくれまいか」といえば、天狗は得意の鼻(ただし高からず)をうごめかしつつ、スルスルとおりて来たところを一同で取り押さえ、ひもをもって高手小手にいましめ、馬車の中に放り込んで御殿場まで運搬し、同夜帰米きまいしたが、汽車中でも絶えず、「天狗に向かって無礼をするな」といばっていた。
 右はただ天狗きの一話に過ぎぬ。いったい、天狗が実在しているという想像がドウして起こったかというについては、余が先年の著述にかかる『天狗論』のうちに書いてある。この怪物は、西洋はもちろん、インドにもシナにもない、日本固有の妖怪にして、物理にも心理にも関係している。
 左に、『天狗論』の一節を再録しておく。
 天狗は複雑なる妖怪現象にして、外界の事情と内界の事情と複合して成りたるものなれば、まず物理的説明によりて外界の事情を述ぶべし。第一に、外界の境遇いかんを考えざるべからず。世に天狗の住する所は深山に限るとするが、深山は風雨晴雨の状態大いに平地と異なり、奇異の現象を見るものなり。水の音や風の響きすらも、人をして恐怖の念を起こさしむることあり。雲の影、人の跡を見ても奇怪に感ずることあり。これに加うるに、動物、植物も平地とその類を異にし、奇鳥、異獣を見ることあり。かくのごとき事情は、大いに妖怪思想を起こさしむる誘因となる。第二に、外界の対象を考うるに、鳥獣および人その主因となるがごとし。山中にて、天狗の羽翼、長嘴ちょうしを有して飛行せるを見たりというは、わしたかのごときものを見しならん。俗にいう木の葉天狗は、まさしくこれなり。また、怪獣の天狗に似たるものなしというべからず。東インド諸島に住する猿に、鼻の高く出でて、その色赤く、わが国の天狗とごうも異ならざるものあり。昔時、かくのごとき猿の、わが国西南地方の山中に住せしことありたるも計り難し。すでに『唐土訓蒙図彙とうどくんもうずい』に示せる羽民うみん国の人のごとき、また『仏像図彙ぶつぞうずい』に見るところの迦楼羅王かるらおうの形のごときは、全くわが国の天狗に類するものなれば、これらの想像のよって起こるところなかるべからず。また古代にありては、深山中に一種の蛮民の住せしことあり。世に山男というものは、おそらくはこの類ならん。また蛮民の住するなきも、深山幽谷、人跡を見ざる所に樵夫しょうふ、行者のごときものに遭遇すれば、たちまち人間以外の一大怪物ならんと思うは、無理ならぬことなり。わが国にありては、古代より修験のごときは深山無人の境に入り、果実を食して生を送りしものあれば、たまたま山路に迷いたるものが、かかる行者にうことあるべし。その人、家に帰りてこれを他人に語れば、相伝えて天狗談となるは、あえて怪しむに足らず。
 余は、アメリカインディアンのトーテムポール(Totem Pole)なるものを見るに、わが国の天狗に類するもの多し。しかして、このインディアンは、アジア地方よりベーリング海峡を渡り、アラスカ地方に転住せしとのことなれば、その像の起源は、わが国の天狗に関係あるやも知り難し。そは別問題とするも、かかる想像をえがきたる由来を考うるに、古代にありては、日本あるいはその近海の諸島に、これに似たる獣類または異人の住せしことあらんか。
 これを要するに、深山に住する鳥獣および人類が、天狗怪の対象となりたるは疑うべからず。もし高山にありて、夜中、天狗が樹木を倒し、大石を投ずる音を聞くというがごときは、風音、瀑声ばくせい、または走獣の音を誤り認めたるものなるべし。
 わが国にひとり天狗の怪談ありて他邦になきは、しかるべき事情なかるべからず。その第一は、わが国に高山が比較的多き一事なり。シナ、インドのごときは平原広野多くして、旅人の深山を跋渉ばっしょうすること少なきも、わが国は全国いたるところ山深く樹茂り、人のこれに入りて道を失うもの多し。その第二は、わが国の諸山には必ず神仏を祭り、祠堂しどうを建つることある一事なり。これまた他国に見ざるところなり。ゆえに、いかなる高山にても、信者の跋渉せざるはなし。その人、もし神仏の霊験を信じてかかる山に登らば、耳目に触るるもの、必ず奇怪の念を誘起するに至るべし。これ、わが国に天狗談の多きゆえんなり。その他は、よろしく前に述べきたれるものとあわせ考うべし。
 つぎに心理的説明を述ぶるに、その第一は、恐怖、予期、想像等によりて妄覚を生ずることこれなり。なんぴとも深山無人の境に入れば、自然に恐怖の念を生じ、ことわざにいわゆる「疑心暗鬼を生ずる」がごとく、風声を聞くも雲影を見るも、その心たちまち動き、種々の妄想を起こすは、我人の免れ難きところなり。これに加うるに、日本人は小児のときより、高山に天狗の住するを聞き、その奇異なる図画を見、その挙動その作用の不思議なるを知りおれば、深山に入ると同時に、たちまちかかる記憶を再現し、意をもって種々の奇怪を迎うるに至る。これ、すなわち予期作用なり。これに加うるに、連想上種々の想像を誘起し、その結果、ついに音なきに音を聞き、物なきに物を見るに至る。これを幻視、幻聴という。すなわち妄覚これなり。今日伝わるところの天狗の図は、画工の作意に出でて、古来の天狗談を総合して、さらにこれに潤色を加えたるものにほかならず。されど、ひとたびその図を見たるものが深山に入れば、たちまち妄覚を起こし、高鼻肉翅にくしの怪物を幻視することあるは、決して怪しむに足らず。その適例は『古今妖魅考ここんようみこう』に、「下総国しもうさのくに香取郡万歳の後山うしろやまへ、村の者ども五人連れ立って木こりに行きけるに、少しかたえなる山の端に、常のよりは汚気きたなげに見ゆるとび一つ羽を休めいたり。それを見て中なる一人が、恐ろしげな山伏の立ちいたるという。しかるに、四人の者の目には鵄とのみ見ゆればいいあらそうに、彼一人のみ、まさしく山伏なる者をといいて、さらに四人の言を聞き入れず、云云うんぬん」とあり。これ、全くその一人が妄覚、幻視を起こせしなり。古来の天狗談の中には、かかる妄覚に出でたるもの必ず多からん。
 第二には、精神作用の専制、すなわち一方に専注するによりて、妄覚よりさらに一歩を進め幻境に入ることあり。今日民間に見るところの、天狗憑てんぐつきのごときこれなり。例えば、ある寺の小僧が和尚の叱責しっせきをこうむりて、夕刻家より追い出だされ、自ら行く所を知らず。野外に出でて彷徨ほうこうせる間に、忽然こつぜん天狗の来たるに会し、これとともに高山に遊び、諸所を跋渉ばっしょうして家に帰れりという。これ、苦心の余り精神の異状を呼び起こし、自ら真に諸方を遊歴せるがごとく夢見したるなり。(下略)
 余の天狗の起源説は大略かくのごとくである。しかるに、これを崇拝して冥護めいごを得んとし、これに祈願して現福を授からんとするもののごときは、迷信の大なるものである。

第三〇段 全国共通の迷信 四(幽霊)


 つぎに、幽霊談はひとり日本国に共通せるのみならず、世界に共通せるものである。すでに日本の幽霊は珍しくないから、シナの幽霊について、『京都日出ひので新聞』に出でたる投書の一欄を転載しておく。
 日本の幽霊を研究する傍らに、お隣りのシナの幽霊について研究するもおもしろかろう。『春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん』「昭公七年」の条に、鄭子産ていしさんが「匹夫匹婦強死すれば、その魂魄こんぱくなおよく人に憑依ひょういして、もって※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)いんれいをなす」といっているのは、シナには古くから幽霊を認めていた証拠で、※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)れいきのことは『春秋左氏伝』の諸所に出ているが、「成公十年」の条に、「晋侯しんこうの夢に※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)たいれい被髪地ひはつちに及ぶ。胸をって踊って曰く、『余が孫を殺す不義なり。余、天に請うことを得たり』と。大門および寝門をやぶって入る。公おそれて室に入る。また戸をやぶる。公、覚めて桑田そうでんを召す、云云うんぬん」とあるも※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)鬼の一例である。
 しかしこれは現実でなく、夢に現れた※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)鬼であるが、晋侯は間もなくんで、二豎子にじゅし(疾病の神)を夢み、所もあろうにかわやにおちてしゅつしたのを見ると、夢中の※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)鬼がたたりをなしたと解するのほかはない。またシナで、数百年の古塚を人が犯せば、鬼魂あって祟をなすのは、人に三魂あって、一魂をとどめて墓を守るのであるといっている。仏教と似て非なるところがおもしろい。近世となっては、幽冥ゆうめいに関しては青衣の者多く、死神なども青衣婦人のように書いてあるが、紅衣女子の幽霊、白衣婦人の幽霊なぞもある。そうかと思うと、神様の方面には幽霊と同様、青衣の神もあるが、上帝の使いに緋衣ひいの神あり。わが国の福の神、シナでいえば守蔵神が緋衣を着ている。天符を持ち来たれる神が同じく朱衣である。大体からいえば、天上の神は緋衣にして陽気に、幽冥の鬼は青衣にして陰気なものと区別することができる。
 それからシナの幽霊には、反魂香はんごんこうに現れ来たる李夫人の幽霊、環形しょくに照らさるる楊貴妃ようきひの幽霊、『牡丹灯記ぼたんとうき』の幽霊のごとき美麗なのもあるが、近世となっては残酷な幽霊多く、『夜譚随録やたんずいろく』にて見るも、「ただ見る。一無首婦人の裸身にして血を浴び、双手自らその頭を捧げ、口眼天に向かって頸血碧光けいけつへきこうをなし、蛍火のごとく小鏡のごときを」とか、あるいは「ひそかに門隙もんげきよりこれをうかがえば、すなわち灯下に座せる一無頭婦人、一手は首を膝の上にあんじ、一手はくしを持ってその髪をけずる。二目炯々けいけいとしてただちに門隙を見る」といったように、首のない女の幽霊が、自分の首をもてあそんでいるのがたくさんある。少年の幽霊にも、自分の首を取ってつくえの上に置いているのがある。ひざの上に置いた自分の首の髪をいている幽霊は、お岩の髪梳きよりも一層ものすごいであろう。シナの幽霊についてなお述べたいこともあるが、さらに稿を改めることとして、前記の『春秋左氏伝』にある「※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)鬼の被髪地に及ぶ」は、日本の幽霊の髪振り乱せるとよく一致せることを付記しておく。
 右はシナ古代の幽霊談であるが、今日も大同小異にして、幽霊の迷信すこぶる多い。また、西洋にも幽霊談はいたるところにたくさんある。さて、その正体いかんというに、もとより心理的妖怪にして、人の精神作用より産み出だせしには相違なく、またいくぶんかは物理的原因も加わっている。
 最近の『大阪新報』に、「幽霊の正体」と題して、西洋の説明を掲げてあったから、参考のために抄録しておく。
 幽霊といえば、人類がすでに太古蛮族の時代から、今に人々の心にこびりついている事柄で、真個にあるという人もあれば、ばかな、そんな化け物があってたまるものかと鼻のさきで笑ってかかる人もあるが、いずれにしろ、実際これらの人が、真っ暗な、雨などのしぼしぼ降る墓場などにゆくと、ないとは思っていながら、あるような気がして、身の毛をよだつことは実際である。近ごろといっても昨年であるが、米国のボストン市で、この幽霊について大騒動が持ちあがった。それは毎夜更けて丑三うしみつごろになると、ボストンの市街の暗い空に、ほの白いこわげな姿をして、奇妙なものが無数に飛び回り、うようよと動き、日中でも雨のじめつくうっとうしい日などは、必ず怪しげな無数の変化へんげがありありと虚空に動くのが見える。同時に、ボストン市のいたるところに病人ができた。中には不意に死ぬ者さえ現れた。サァ大変、ボストン市民は恐ろしさと気味悪さに縮み上がった。それに市民中、たいてい夜は就眠中、階段に奇妙な音を聞いたり、青白い人の影を壁の一方に見たりする奇怪な事柄は、毎夜のように、あなたもか、私もそうですといったように、幽霊をひんぴんと見るという始末であるから、マサチューセッツ州庁では打ち捨てておけない。ついに衛生課主任のフランツ・シュナイダー氏を派遣して、その原因を種々調査したところがようやくわかって、この幽霊騒ぎの原因は、全く同市に充満している悪ガスの作用であることが判明した。その悪ガス発生の原因は、当時厳寒のころであったために、各家々にたく暖炉から発生する炭酸ガスが、大空に発散せずに密集した結果、このガスが一方、市民の健康を害し、ことに就眠中にその呼吸に混じってその神経を疲労させ、さらに一方、空中に奇妙な幻影を映出したのである。如上の実例のとおり、今日幽霊として奇怪な幻影を見たり、また奇怪な音響を耳にするというのは、全くその場合その場所に発生したある種の有毒ガスのために、その人が襲わるるからだという説は、一般科学者が幽霊の正体と認むるものである。
 しかし、世間の幽霊問題は、ことごとく今日の学理をもって説明し得るとは断言することはできぬ。もとより、そのうちには不可思議の事実も加わっているだろうが、民間にて唱うるところの幽霊談は十中七八まで、迷信と断定して差し支えなかろうと思う。

第三一段 全国共通の迷信 五(妖屋)


 世にいわゆる妖怪屋敷は全国各地にある。これ、ただわが国に限るにあらず、世界各国にある話だ。余が豪州漫遊中、シドニー市にてその話を聞き、ひとたび実見に行くことを約したれど、時日なきために果たさなかった。ただ、その家の写真だけをおくってもらったことがある。また、南米ペルーにても同様の話を聞いたが、今はわが国の妖屋談ようおくだんを紹介しよう。
 およそ妖怪屋敷の出来事としてはいろいろあるが、最も普通の現象は、偶然室内に石が降り、茶碗ちゃわんが飛び、物品が位置を転じ、衣類が切断さるることが起こり、または幽霊の姿があらわれ、奇怪の音響を聴き、あるいは生首が壁にかかり、怪物が窓よりのぞき込み、あるいは枕の位置がかわる等の妖事である。今ここに最近の報道として、『大勢新聞』の一記事を紹介する。
 東京浅草区駒形町六番地に、船板塀に見越しの松という瀟洒しょうしゃな二階家がある。間取りは下が二畳六畳に四畳半、上が六畳に三畳で、小ぢんまりした至極住み心地のよさそうな家であるが、どうしたものか永続きせず、半月もしくは一カ月で越して行ってしまう。ところが先々月の上旬、小林トメという未亡人が、娘ナミと女中二人を連れて引き移った。はじめの二、三日はなにごともなかったが、ちょうど四日目の夜十二時ごろ、トメが「覚えてろ、覚えてろ」という声に目を覚まして見ると、六畳の座敷の廊下に、後ろ手に縛された十七、八の女が、島田に結った髪を振り乱してもだえているので、一時はぎょっとしたが、元来気丈夫なトメが蚊帳かやを抜け出して行って見ると、そこには影も形もない。その夜は気の迷いぐらいに眠ってしまった。ところがその翌晩もまたその翌晩も、十二時といえば「覚えてろ」の声を合図に姿を現し、ついには娘や女中の目にも止まるようになったので、十日あまりで匆々そうそう越してしまった。その後はだれも住むものなく、固く戸は閉ざされたまま、近所近辺から「気味悪き家よ」と噂の中心となっている。
 今一つ、『名古屋毎日新聞』の報道を転載しておく。
 名古屋西区俵町一丁目、俵小学校の前に広々とした邸宅がある。豪壮な石門をくぐると表は泉栽で、昼なお暗いばかりに樹木が鬱蒼うっそうと生い繁り、ただ見てさえなんとなくものすごい陰惨な気が漂って、見るからよほど年数の経っているような一構えである。これは西区塩町山田某という人の持ち家であるが、この屋敷に十数年以前から、だれいうとなく妖怪変化へんげが出没するとの噂が伝えられた。はじめその噂の立ったころは、騎兵連隊長の某少佐がここに住んでいたが、少佐は養鶏が好きで、屋敷にはいつも多数の鶏を飼っていたが、それがちょっと油断している間に、一羽二羽とだんだん減ってゆく。別に屋敷に犬や猫が入って来てさらって逃げるような形跡もないのに、知らぬ間にその羽数が減ってゆくので、早くも迷信高い近所の人々は、古い屋敷だからおおかた古狸こりきつねの類が住んでいて、夜間ばけて出て鶏をさらってゆくのだろうと言い出した。最初のほどは少佐も全然取り上げなかったが、考えれば考えるほど不思議なので、あるいはそうかと疑い出した。そこで隣人の勧めにより、裏の林の中に小さなほこらを建てて妖怪退散の祈祷きとうを行ったが、不思議にもそれ以来は、言い合わしたように鶏の数が減らぬようになった。さてこそ古狸の類の仕業に違いないとの評判は、ますます高く伝えらるるに至った。その後、少佐は他へ転任の命令に接して、自然この家を明け渡すこととなった。ところが、化け物屋敷の噂が高くなっているときなので、だれもその後を進んで借りようとする者がない。さァ、そうなると妖怪はますます跋扈ばっこするわけで、ガランとした空き家に夜な夜な、さまざまな不可思議な現象が繰り返された。ところがこんなときにも、ものずき連は、「ばかな、今の世の中にそんな不思議があってたまるものか、おれが一つ探検に出かけてやろう」と、ことにさびしそうな夜を選んで、二人ぐらい申し合わせて実地探検に出かける。広い八畳の室にツクネンと待っていると、夜が更けるにつれて陰鬱いんうつな気が室内を襲ってくる。どんな剛胆な者でもそぞろに気味悪さを感じていると、やがて風もないのに傍らのふすまがバタッと倒れる。すると、縁側の障子が音もせずにまた倒れる。天井でガタガタとものすごい音が聞こえるかと思うと、やがてなにかしら気味の悪いものが、ポタリポタリと天井から垂れる。見れば生々しい血潮がベッタリ、畳の上を彩っているというありさま。(以下これを略す)
 妖怪屋敷の一例は右ようのものである。その原因は種々あって一言にて尽くし難きも、第一に家屋の構造が悪く、光線、空気の流通も悪く、あるいは湿地にて、衛生に害ある場所が原因の一つとなっている。また、その家にひとたび変死したものがあると、ただちに化け物が出る、幽霊があらわれるとの評判が起こり、疑心暗鬼を生ずるわけにて、いろいろの幻覚、妄想を浮かべるようになる。しかるに、これを狐狸こり天狗てんぐ、亡霊、怨鬼えんきの所為と思うは迷信である。
 余は地方巡講中、数回妖怪屋敷に宿泊したことがある。越中新湊しんみなと町の寺院、美濃神淵村の寺院、豊後ぶんご玖珠郡内の一寺院、淡路市村の一旅館などは、夜中妖怪が出現すとの評判ありしが、余は終夜ここに試宿したるも全く無事であった。

第三二段 全国共通の迷信 六(鬼門)


 わが国は全国東西を通じて、鬼門きもん金神こんじんを恐るることが最もはなはだしい。なかんずく、鬼門は大禁物としてある。家を建つるにも、引っ越しするにも、かまどを築くにもその方位を忌み、もしこれを犯すときは、その一家に病気、災難が必ず起こると信じているものが、今でもなかなか多い。余が先年、信州佐久郡内巡講の際、某村の小学校の移転につき、すでに地所を定め、設計も出来上がったときに、村会において、鬼門に触れているから見合わすべしとの議題が起こったとのことだ。かくのごとく、鬼門問題が学校の建築にまで影響するほどである。
 ここに鬼門の起源をたずぬるに、シナの俗説より起こったことは明らかである。そのことは、かの国の古書の数カ所に見えているが、多分『海外経かいがいきょう』がその根元であるかと思う。その経中に、「東海の中に山あり。その上に大なる桃樹あって、その枝が横にはびこり、三千里の間にわたる。その東北に門あり。これを鬼門と名づく。万鬼の集まる所なり」と書いてある。他書中に見るところも大同小異に過ぎぬ。かかる妄説がシナより日本に伝わり、上下一般にその方位を忌み恐るるようになった。昔日は大いに酌量しゃくりょうすべき事情あるも、今日なおその方角に向かって、家屋はもちろん、便所を設け塵塚ちりづかを置くことを固く禁じているは、笑うべきの至りである。陰陽家おんみょうかはこれを弁解して、「その方角は陰悪の気の集まる所なれば、極めて凶方なり」といい、あるいは、「その方角は万物の極まりてまた生ずる方にして、天地の苦しむ所なれば、これを避くる」との説明あれども、いやしくも多少の知識を有するものは、いかに信ぜんと欲するも信ずることはできぬ。
 まず、これを地球上に考うるに、東北隅の方位の不吉なる理は決してないはずである。たとい地球上には東西南北があるにしても、これは仮に定めたるものに過ぎぬ。もし出でて地球外に至らば、宇宙そのものの上には東西もなければ南北もない。また、地球上にても北極の中心に至らば、方角を立つることができぬ。されば、どうして鬼門の方角を立つるか。むかしは海外に鬼の住んでいる島があるとの妄説もあったが、今日は地球上いずれの方位にも、鬼の住んでいる島もなければ国もないことが明らかになっている。すでに鬼がない以上は、その方角を犯しても、なにものがたたるであろうか。かかる迷信が今日なお盛んなるは、文明の体面を汚すと申さねばならぬ。
 東西の[#「東西の」はママ]方角が鬼門に当たっているから、もしこれを犯して災害があるならば、日本ほどに鬼門を犯している国はない。むかし、神武天皇の当時は日向ひゅうがより東北に向かって発展し、明治時代になっても北海道から千島へ向け、または樺太からふとへ向け発展しているのは、みな鬼門を破っているわけである。かかる鬼門破りの国が誠にめでたく、ますます天祐てんゆうを得て隆盛に向かうのは、鬼門を破っても災害がないということを証明しているではないか。鬼門の妄説は、大抵これにて分かるであろう。

第三三段 全国共通の迷信 七(方位)


 鬼門のほかに方位の迷信はたくさんある。その一つは金神こんじんであろう。金神とは、日本より南の方、海上三万里を離れて鬼の国がある、その国の王様のことである。これまたシナの俗説を伝えたもので、今日これを信ずれば、もとより迷信といわねばならぬ。なぜなれば、南方の極点まで探ってみても、鬼の国がないことがすでに証拠だてられている。
 古来、シナの五行説にもとづき、十干、十二支を方位、月日に配当することになり、人と年とによって、方位の吉凶を占う法が幾とおりもある。この迷信が民間には非常の勢力がある。余が東京地方を巡講せし際、某富豪が壮麗なる家屋を新築して、座敷の便所を造りかけたるに、ある方位家が来て、この方角に便所を設くるときは、方位のたたりから主人が殺さるると鑑定したために、座敷便所を見合わすることになり、庭の外へ棟を離して造り、不便きわまることになっている。
 東京の本郷区内に住する商業家にして、すこぶる迷信の強きものがあった。ある年、近傍に古土蔵の売り物あれば、これをわずかに数百金にて買い入れ、取り崩して見たれば、木材といい石材といい、いずれも今日にては得難きほどの品なれば、主人大いに喜び、早速これを運んで己の邸内に建てんとするに当たり、まずこれを方位専門の卜者ぼくしゃにたずねたれば、「この土蔵は三年の後に建つるにあらざれば、必ず戸主の身上に災害を招くべし」といわれ、余儀なく三年間そのままに捨て置き、いよいよその期限が過ぎ、建築に取り掛かろうとして木材を検するに、永い間雨ざらしになりしために、大抵みな朽ちて用をなさず、ついに土蔵建築の計画も水泡に帰し、数百金を迷信の谷底へ葬り去った話がある。
 従来の暦書の上には、方位についていろいろの名目が挙げてある。前に述べた金神もその一つだが、このほかに歳徳としとくと申すものがある。これは年中第一の有徳うとくの方角にして、万徳の集まる吉方といわれている。その方角は十干の異なるに従い、年々変ずることに定めてある。また、八将神はっしょうじんと申すものが暦中に掲げてある。その縁起をたずぬるに、歳徳神は南海の竜王の娘にして、天下第一の美人なるゆえに、牛頭天王ごずてんのうこれをもらい受けてきさきとした。その后に八人の王子ができた。この王子を八将軍と申している。かかる話は小学校の教育を受けたならば、到底信ずることができぬはずである。しかるに、今日なおこれを信ずるものの多きは、奇怪千万といわねばならぬ。
 仏教中に、なんぴとの作りしか知らざれども、古来伝うるところの偈文げもんには、「迷うがゆえに三界さんがい常あり、悟るがゆえに十方空なり。本来東西なし、いずれの所にか南北あらん」とあるは、方位の迷信を諭すに最も適切の格言と思う。

第三四段 全国共通の迷信 八(卜筮)


 つぎに卜筮ぼくぜいの迷信について一言する必要があるが、余が先年書いた『迷信解』の中に説明してあるから、その文を再録することにする。
 人事の吉凶禍福を前知する法は東西ともに行わるるも、シナ、日本にことに多いように思わる。その中にて最も古く、より広く用いらるるはえきの筮法である。これを八卦はっけの占いという。そのほかにシナにては亀卜きぼくの法があるも、わが国にては今日これを用うるものはない。ぜに占い、歌占い、夢占い等をかぞえきたらば、その種類はすこぶる多きも、今まず易筮えきぜいを挙げてほかを略すつもりである。
 易筮は陰陽二元の道理に基づき、『易経』の所説によるものなれば、その原理はずいぶん高尚のものに相違なきも、これをすべての吉凶禍福に当てはめ、未来を前知して百発百中となすに至りては、不道理のはなはだしきものである。なかんずく、人の寿命を判断し、何年何月何日に死することを確定するがごときは、実に驚き入りたる次第である。その一例を挙ぐるに、「ある迷信家が卜筮者ぼくぜいしゃにつきて自己の生命を予知せられんことを請いたれば、筮者判断して曰く、『今より幾年の後、某月某日に必ず死すべし』と。迷信家かたくこれを信じて、某年某月までに財産を消費し、当日に至りて一銭の余財なく、ただ自らその身を棺中におさめて絶命を待ちおれり。しかるに、その日の夜に至るもなお死せず、翌日に至るも依然として存命せり。ときに飲食を欲するも、これを購入するの余銭なく、ほとんど飢渇に迫らんとせり。ここにおいて、はじめて自ら卜筮家に欺かれたるを知り、にわかにその家に至り、『なにゆえにわれを欺きしや』と詰問しければ、筮者曰く、『決して欺きたることなし。足下そっかは某月某日に必ず死すべきはずなることは天運の定まりなり。しかるにその日に死せざりしは、けだしほかに原因あるべし。足下は人を救助せしことなきや』と。迷信家曰く、『すでに死の定まれるを聞きたれば、財産を残すの必要なきを悟り、これをことごとく人に施与して貧民の救助に用いたり』と。筮者曰く、『その一言にて疑いを解けり。足下は人を救助せし積善の余慶をもって、天はことにそのひとたび必定ひつじょうせる寿命を延長したるなり』」との一話のごときは、なにものかの作説なるべきも、筮者の遁辞とんじにはこれに類すること往々聞くところである。
 ことわざに、「当たるも八卦はっけ、当たらぬも八卦」と申しておるが、十中にて五分はあたり、五分は外れるのが当たり前である。しかし、筮者の経験と熟練とによりて、十中七八分くらいはあたることもあろうと思わる。ただし、そのあたるというも、ある制限内のことにて、何年何月何日に死するなどに至りては、千百中に一もあたることは難い。つまり、易筮にて吉凶を判ずるも、銅銭の表裏にて判ずるも、そのあたる理は同一なるべきも、簡単なる銅銭にては、信仰が薄くなる。これに反して、易筮のごとき複雑なるものならば、あらかじめあたるものと信仰をおくようになる。これに加うるに、易の文句は比喩ひゆにわたり、多様の意義を含んでおるから、臨機応変の解釈を付けることができる。それゆえに、筮者の方が経験に富み、識見に長ずる人ならば、その判断のあたる割合が多くなるわけじゃ。よって、たとえよくあたりたりとも、これを全く易筮の力に帰するはずはない。つまり、その多くは筮者の判断力に帰せなければならぬ。ゆえに、易筮そのものにつきては、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と申すよりほかはない。
 元来易筮の用は、その右をとるべきか左をとるべきか猶予して決せざる場合に、その判断を天に聴く心得にて、筮竹ぜいちくの上に考うるにあるのじゃ。しかして、そのことも一国一家の大事に関する場合に行うべきことと思う。決して今日民間にて行うがごときものではない。病気、災難の予防に用い、物価相場を前知するの具となすなどは、卜筮の濫用もまたはなはだしといわねばならぬ。また、今日にありては国家の大事のごときは、これを国会にたずね、輿論よろんに問うて決する道あれば、易筮によりて天に聴くの必要のなきことは明らかである。その他のことは自己の力の及ぶ限りを尽くして、もしなお力の及ばざるところあれば、これを自然の運命に任ずるがよろしい。決して易筮などの力をかるに及ばぬ。諺に「陰陽師おんみょうじ身の上知らず」といい、また「陰陽家は鬼のためにねたまる」というが、八卦を業とするもの、およびこれを妄信するもの、多くは貧困にして、しかもその家に災害が比較的に多いように見ゆ。もし、八卦によりて吉凶禍福を前知するを得というならば、陰陽家の窮鬼に苦しめらるる理は解し難い。これ畢竟ひっきょう、八卦の信ずるに足らざることを自ら証明すると同様である。ある書物に卜筮に関したる一話が出ておる。すなわち、「ある家の主人が、夢に足に毛の生じたるを見て、売卜者に占わしめたれば、『必ず増給の沙汰さたあるべし』といい、その家僕も足に毛の生じたる夢を見て占わしめたるに、『長病なるべし』といえり。よって家僕大いに怒りて、『同一の夢に対し、主人へは増給といい、われには長病といいたるはいかん』となじりたれば、売卜者曰く、『臨機応変なり』と答えたり」とのことじゃが、すべて卜筮には臨機応変の判断が多いように考えらるる。されば、かかる判断を信ずるはむろん迷信といわなければならぬ。
 わが国の神社仏閣に御鬮みくじを備え、人をしてこれを探りて吉凶を判知せしむることがある。その種類も幾とおりもあるが、帰するところは易筮えきぜいのごとく人の決心を定むるに過ぎぬ。その中にて最も多く行わるるは、元三大師がんざんだいし百籤ひゃくせんである。余がかつてその鬮を入れたる箱を見しに、寸法に一定のきまりがありて、その中に百本のミクジ竹を入れ、その各本に大吉、吉、半吉、小吉、末小吉、凶の文字を記入してあり、これに対する判語は五言四句の詩をもって示してある。その他の御鬮は一層単純のものである。かくのごときは、つまり愚民の迷信を定むるまでのものなれば、愚民にとりては多少の効験なきにあらざるも、これと同時に弊害も決して少なくない。また今日にありては、かかる方法によりて疑いを決する必要はなかろうと思う。夢占いと称して、夢の情態につきて吉凶を判ずることがあるが、これらはもとより論ずるに足らぬ。また、辻占つじうらのごときは一種の戯れにひとしきものである。よって、ここにいちいち説明するほどの必要はない。
 世間にて卜筮のよく事実に適合したる話ありて、事実に適合せざりし話の比較的少なきは、大いに事情のあることと思う。その一例として、駱駝らくだの見せ物の話を引用せんに、「ある地方の夏時の祭礼に、駱駝の看板を掲げたる見せ物が出たことがある。これを見るもの真の駱駝と思い、争って木戸銭を払いてその内に入れば、獣類の駱駝にあらずして、一人の肥大の男が、炎天焼くがごとき気候なれば、高き所へ裸体となりて手に団扇うちわを握り、これをつかいながら、『ああラクダ(楽だ)、ああラクダ』といいつつ横臥おうがしていた」と申すことじゃ。これを見物したるものは、あまりばかばかしくして、その実を人に告ぐるも不面目と思い、出でて人に語りて曰く、「これは実におもしろき見せ物である。一度これを見ざるものは大ばかである。けだし、世間にこの見せ物ほど奇怪なるものはなし」などと言い触らせるゆえ、われもわれもと争って木戸に入ったそうじゃ。その前、わが国にて豚を養えるものなきときに、「ブタ」の見せ物の看板を掲げておいた。これを見るもの、その内部に入れば、鍋蓋なべぶた一枚を置いてあったという話も同じことじゃ。今、筮者に請うて卜筮の判断をなさしむるに、あたらざりし方は、これを人に伝うるのかえって己の不面目と心得、秘して他言せず、これに反して適中したる方は、大いにそのことを吹聴ふいちょうするようになる。これ、適中せる卜筮談の世に多きゆえんである。『視聴雑録しちょうざつろく』と題する書中に、「昔、江戸浅草に住める商人某が黄金こがねを失い、筮者を招きて占わしめしに、筮者曰く、『この金は必ず外に求むべからず。おそらくは一家中にあらん。もし一家を探りて見当たらざるときは、家の外に求むべし』」との話があるが、これこそ百発百中に相違ない。卜筮のよく当たるというのは、この話の類であろうと思う。
 かくして、卜筮は識者の目より見れば、もとより信ずるに足らぬものなるが、愚者にとりては狐疑こぎして決せざる場合にいくぶんの用ありとするも、余は古き『易経』などによるに及ばず、むしろ近世の学術上に考えて新法を作るがよいと考え、この主義より近世の論理学に基づき、『哲学うらない』と題する筮法を工夫した。されど、その法は未来の吉凶禍福を前知するにあらずして、一事を決するに当たり、天運にたずねて可否を知らんとするのみである。もし、吉凶を予定し得るというがごときは、愚民の意を引くまでにして、人を迷信の淵に導くものといわねばならぬ。

第三五段 全国共通の迷信 九(人相)


 人相も全国共通の迷信にして、今日なお依然として存しておる。西洋においても、人相は一部分において信ぜられておる。しかし、西洋は頭部の骨相を鑑定する方が主である。米国には手相判断が流行しておる。余が先年、ニューヨークのコニーアイランドの遊覧場を一見せしとき、手相見が店を開き、しきりに効能を説き、客を引き入れんとするところを見た。そのありさまは、わが国の売卜ばいぼくごうも変わらぬ。この手相は掌中の紋様を鑑定するので、わが手筋占いと大同小異である。しかるに、わが国の人相は面相が主にして、その原理はシナ伝来の俗説にもとづいておる。
 人の面相と精神とは密接の関係を有し、いわゆる「思い内にあれば、色外にあらわる」の道理なれば、人相術はただ一概に迷信とはいわれぬ。余輩のごときも、初面接の人に対しては、その面貌めんぼうによって精神のいくぶんかを察知することができる。いわんや、年来その一事を専業として経験を重ねたるものにおいてをや、精神内部を洞視することのできるは当然である。しかし、これには程度がある。ある制限内においてできうるまでに過ぎぬ。しかるに、今日の人相を見るものも、見らるるものも、制限なしに人間一生の吉凶禍福、何年何月何日に火難あり、盗難あり、病気ありということまでを、知り得るものと信じておる。これは全く迷信といわなければならぬ。
 余が浅草公園を散歩せしとき、人相見が往来の人に向かって、人相の効能を説きつつあるを聞いたことがある。「学者は働きさえすれば金がたまるというけれども、ただむやみに働くばかりで福の授かるものではない。その証拠は九段坂下の立ちン坊を見よ。昼夜をわかたず車の後押しをして働いておるけれども、生涯貧乏ではないか。これは、人には生まれながら備わっておる運というものがある。その運の吉凶を知って働かねば金もたまらぬ。しかして、これを知るには人相術について聞かねばならぬ」と、さももっともらしく述べていた。なるほど、人には天運があるに相違なきも、人相によって生涯の運命が鏡にかけて見るごとく分かる道理はない。
 人相に付属せるものに墨色すみいろ判断というものがある。その仕方は人に一定の文字を書かせ、その筆跡を見てその人の運命を判断するのである。人の精神作用が面相にあらわるるがごとく、人の性質が筆跡の上にあらわるることは否定するわけにはゆかぬ。われわれは一面識なき人より書翰しょかんをおくられた場合には、その筆跡によって多少の判断を与うるに、往々適中することがある。しかし今日、墨色判断者の行うところを見ると、たいてい人に「一」の字を書かせ、その周辺を年に割りつけ、月に割り当て、何年何月に吉事がある、凶事があるというやり方である。もし、その人が参らぬときは、他人が代筆してよいことになっている。われわれ人間の複雑なる運命が、かかる単純の仕方で分かるはずはない。もし、これを分かるものと信ずれば迷信である。

第三六段 全国共通の迷信 一〇(家相)


 人相と同じく全国一般に行われておるものは家相である。余も、家相には一分の真理ありと思っておる。これまで妖怪屋敷と称せられ、病気、災難の多い家屋を検せしに、たいてい低地にして湿気多く、日光と空気との流通あしき邸宅である。これ、地相と家相とが悪いといわねばならぬ。畢竟ひっきょう、家相の起こりきたりしは古来の経験により、自然の統計上、いかなる邸宅には病人が多く、いかなる住家すみかには災難が少ないという事実が、土台をなせしに相違ない。しかるに、今日民間にて行われておる家相は、さきに述べたる鬼門、金神こんじん等の方位説を土台とし、これにシナ伝来の五行説を加え、その他、種々の妄説を混入して吉凶禍福を判断することになっておる。ここに至っては、家相も迷信といわざるを得ない。
 余の創立せる哲学館が火災にかかって全焼せしことがある。それに、哲学館の建築が鬼門に触れていたから火災にあったとの評判が伝わり、家相家はこれを好材料として家相の効能を述べ立てたかに聞いておる。この評判は事実と全く相違し、焼失せし哲学館は鬼門には触れておらぬ。余の昔の居宅(哲学館内の住宅)が、鬼門に触れていたのである。しかるに、鬼門に触れておる住宅は焼けずして、触れざる哲学館が焼けたのは、家相と火災とは、なんらの関係なきことを証明しておるわけである。しかし、家相家は必ずこれに対して、哲学館は余の所有なれば、住宅に起こるべき災害が哲学館に発したのであるというのであろう。それなれば、そのとき同時に郁文館いくぶんかんの全焼せしはなんの原因によるか、これ実に疑問である。
 ある日、家相家が余の宅に来たり、家相の吉凶判断が百発百中するとの効能を述べたるに対し、余が詰問したことがある。「仏教には『自信教人信じしんきょうにんしん』という語があるが、これは人をして仏法を信ぜしめんと欲せば、まず自ら信ずるを要することを戒めた語である。これと同じく、家相が真に福を得、富を作る道ならば、家相家自ら己の家を富まし、しかして後に人に及ぼすが順序である。しかるに、余のみるところにては、家相家に富有のものなく、その多くは日々の餬口ここうに追われておるありさまであるが、これでは人に説いても人が心服せぬ。高島呑象どんしょう翁は、筮竹ぜいちくによって財産ができたというのが、大いに人の注意を引いておる。ゆえに家相家も、まず己を富まして後に人に及ぼすべし」といいたれば、その人、閉口して帰ったことがある。
 たとえ家相中にいくぶんの道理あるにせよ、今日民間にて家相を説き、またこれを信ずるものは、たいがい迷信と断言して不都合なかろうと思う。

第三七段 全国共通の迷信 一一(縁起)


 縁起についての迷信は、さきに東京および他地方の迷信談に付帯して述べたが、そのほかにもたくさんある。古来、民間に厄年やくどしと称して一般に忌み嫌うとしがある。例えば十九歳、三十三歳、四十二歳、四十九歳などを厄年と唱えて、厄払いをすることになっておる。その原因には多少積年の経験により、生理上、身体の一変する時期にて、その年齢ごろに病死するものが多いより起こったらしいけれども、これにいろいろの俗解が伴って、迷信を呼び起こすようになっておる。十九は「重苦」に通じ、四十九は「始終苦」に通じ、四十二は十を略せば「四二」となる。四二は「死に」に通じ、三十三は「惨々さんさん」に通ずるから縁起が悪いといわれておる。むかし、消防組の番号には四と七とを除いたということである。四は死と通じ、七は質と通ずる故だそうだ。
 正月の御祝い物は、みな縁起の迷信が土台となっておる。例えば、もちは金持ちになるを祝し、数の子は子供の多くなるを祝し、昆布は子の産まるを祝し、豆は人のマメヤカすなわち健全を祝する縁起と申しておる。大晦日おおみそか蕎麦そばを食するは、長く続く、または身代がのびるを祝する縁起であるそうだ。
 ある地方にて元日にいもかしらを食するは、人の頭になるを祝する意である。また、他の地方にて除夜に菊の茎または茄子なすの茎を焼くのは、きこときく、または善きことをなすの祝意である。その他、ある地方にて節分の豆まきのときには、必ずイワシの頭を豆の茎にさして戸口にかけるというが、やはり同様の縁起であろう。
 また、正月の飾りに松竹を用うるは、松も竹も四時不変の色を有し、松は千歳を契り、竹は万代をちぎるの縁起より起こっておる。屠蘇酒とそしゅはその中に七種の薬品を混じ、万病の邪気を払うためである。えびは海老とも書きて、人の年寄って腰のかがみたる形に似ておるより、長寿の祝意を表したのである。
 結婚のときは、ことさら縁起をやかましく申すものである。例えば結納の目録に、昆布を「懇婦」または「子生婦」と書し、柳樽やなぎだるを「屋内喜多留」と書し、するめを「寿留女」と書し、たいを「多居」と書するは、みな縁起のよきを祝するのである。また、可被下くださるべくを「下被可」と書くは、返るを嫌うためである。婚礼の吸い物にはまぐりを用うるは、蛤の貝は幾百個集めてみても、一つも他の貝と合うものがない。すなわち、貞女は両夫にまみえずとの意である。これに反してあわびを嫌うのは、貝が対になっておらぬからである。客の帰るを「開く」といい、贈り物の水引きは結びきりにするなどはみな、ひとたび嫁したものは帰らぬの意である。
 また、普通の食事に香の物は二切れか四切れかに付けることになっており、一切れと三切れとを嫌うのは、一切れは「人れ」に通じ、三切れは「身斬れ」に通ずる故である。また、他から物を贈られたときに、付け木を入れて返すは、付け木の先に硫黄がついておるから、サキイワウすなわち先を祝うの意味であるとのことだ。また、一膳飯いちぜんめしと北枕とは一般に縁起が悪いといわれておる。そのわけは、死んだ仏に差し上げる飯は盛り切りであるのと、死人を横臥おうがさするときに北枕にするからである。
 すべて民間にては縁起を祝するために、人の実名や屋号にめでたき文字が多い。また、商人の値段の符丁までがめでたき語を用いておる。例えば、米穀商は一二三四……の代わりに「アキナイタカラブネ」の九字を用い、古着商は「フクハキタリメデタヤ」の十字を用いておる。その他、かくのごとき縁起はいちいち掲げ尽くすことはできぬ。
 要するに、縁起は一種の迷信に相違なきも、人情自然の性として吉事を連想することを喜び、凶事を喚起するを嫌うものなれば、縁起のよきを好みあしきを嫌うは、勢いの免れ難きところである。

第三八段 全国共通の迷信 一二(日柄)


 全国一般に、日の吉凶を信ずるものが今日なお非常に多い。暦日の上には七曜、九曜、六曜について吉凶を占うことになっておる。なかんずく、六曜は最も人の注意する日である。六曜とは、先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口しゃっこうの六曜を日に配当して吉凶を判断するのである。例えば、友引に当たる日には葬式を行わぬ。なぜなれば、その日に葬式を行わば引き続き六人死んでしまう。すなわち、友を引くといって、その日を避けることになっておる。しかし、万やむをえざる場合には、土人形六個を棺桶かんおけの中に入れて葬式すれば、友を引かぬと信ぜられておる。実に滑稽こっけい的迷信である。
 近来、九星きゅうせいが大流行で、新聞にまで毎日掲げてあるくらいだ。その起源は、シナ『河図洛書かとらくしょ』といううちの「洛書」にもとづいておるといわれている。その他、天源てんげん陶宮とうきゅう等も行われておるが、いずれもシナの俗説より出でたるものなれば、迷信たるを免れぬ。あるいは、これによって疑心を解き決断を強くするの益なきにあらざるも、これと同時に人心を臆病に導き、断行すべきことも猶予することがある。たとい一害あるとともに一利ありとするも、差し引き上れいになるわけなれば、むしろ、かかる判断はなき方がよいということになる。
 民間にて、婚礼、葬式、引っ越し、新築等、日柄を選定すること、なかなかやかましい。ある人が一年中最上の吉日を選ばんと思い、諸方の日柄を見る人に相談したる結果、三百六十日の間で本当のよき日は一日もないようになったとの話を聞いておる。されば、日柄の詮議せんぎもばかばかしいものである。ことわざに「知らぬが仏」というが、日柄などは知らぬ方がはるかにましだ。
 家を建つるに三輪方さんりんぼうというものがある。この日にたてまえした家は必ず倒れるとて、大工などは大いに嫌う。その繰り方は知らざれども、とらうしについての配合の規則があるそうだ。つまり十二支にもとづいたもので、迷信なることはもちろんである。
 きゅうをするまでにも日によって吉凶ありと申すが、これについて一例を挙ぐれば、むかし大阪に名高い名医があって、人のもとめに応じて灸も行ったそうだ。ある人が、「灸をするに凶日と禁所ありというが、果たしてしかるやいかん」と問いたれば、その医師は「たしかにあり」と答えた。さらに、「いずれの日、いずれの場所」とたずねたれば、「灸すまじき日は正月元日、灸すまじき場所は目玉である。その他はすこしも構わぬ」と答えたそうだが、さすが名医だけに言うところも人に卓絶しておる。
 余が、縁起、日柄などについて詠んだ歌がある。
方角や家相日柄のよしあしを
   知らぬが仏知るは大馬鹿
 その結局、はじめより全く知らぬ方が、なによりのしあわせとなるわけだ。

第三九段 全国共通の迷信 一三(禁厭)


 つぎに、禁厭きんようすなわちマジナイについては、全国を通じておびただしき迷信がある。先年『人類学会雑誌』に、各地方におけるマジナイの種類を一束して掲げられてあった。左にこれを抜粋してみよう。
 旅行せんとする人はその出発にさきだち、新草鞋わらじをうがちて一度わが家の便所へ行き、しかるのち旅程につくときは無難に帰宅すべし。
 新下駄げたをうがちしとき、まず便所の前まで行きて置くときは、後にその下駄の歯の破るる恐れなし。
 家畜の猫逃走して帰らざるときに、細紙に「立ちわかれ稲葉の山の峰におふる、まつとし聞かば今かへりこむ」の歌を書して貼付しおくときは、必ず帰り来るべし。
 足袋をうがちながら寝るときは、親の死に目を見ることあたわずして、これを脱して寝るをよしとす。
 東方に枕してねし際、猿の夢を見るときは、その人死すべしとて東枕を忌む。
 左方の耳かゆきを覚ゆれば、吉事あるの兆しとしてこれを喜ぶ。
 喫茶の際、わん中に茶柱(茶葉の茎)の直立することあれば、これを吉事の兆しとす。
 僻地へきちの人は、写真をとれば寿命を短縮すという。
 婦人の通行する際、もし砥石といしをまたぎて過ぐるときは、その石破壊すべしとなす。
 一家にて一、二旬中に二人の死亡者あるときは、棺中にわら人形一個を入れて葬る。これは、二度あることは三度あるということより、第三回目を防ぐマジナイなり。
 小児両脚を張り、体を前方に屈して股間こかんより後方を望むときは、該児の次子出生する前兆とす。
 朝時早起きするのマジナイは、「ほのぼのと明石の浦」の歌を、一呼吸のうちに三回唱えて寝に就けばその効ありとす。
 猛犬にあいたるとき、右手の拇指おやゆびより、うしとらと唱えつつ順次に指を屈し、小指を口にてかみ、「寅の尾を踏んだ」と言うときは、いかなる猛犬も尾を巻きて遁走とんそうするという。
 蛇を見しとき、「アビラウンケンソワカ」と唱うれば、ただちに逃れ去るという。
 その中には縁起もマジナイも混同しているが、マジナイの一斑いっぱんを知ることができる。その他、客の早く帰るを祈るには、ほうきをさかさに立てるマジナイのごとき、貸家の張り紙を斜めに張りおくマジナイのごとき、いちいち掲げきたらば、際限あるべからずである。
 房州鋸山のこぎりやまに、石にて刻んだ五百羅漢があるが、首は大抵なくなっている。むかし博徒ばくとが、羅漢の首を懐中しておれば、必ず博変ばくちに勝つというマジナイのために盗み取ったとのことだ。鎌倉に百地蔵といってたくさんの地蔵があるが、これもなにかのマジナイと見えて、首の取られているのが多い。
 人の家にては、盗賊を防ぐマジナイがあるが、盗賊の方にては、盗んで発覚されぬマジナイがある。つまり、マジナイとマジナイとの衝突が起こることになる。かの窃盗が、忍び入る前にたらいの中に放糞ほうふんするも、マジナイであるそうだ。
 守り札は神仏の名を掲げたるものなれば、崇敬の意をもって保存すべきに、民間にては多くマジナイに用い、往々不潔不浄の所へ張りつけておくのを見る。これは注意すべきことと思う。

第四〇段 全国共通の迷信 一四(奇方)


 つぎに、禁厭きんようにて病気を治する方法について一言せなければならぬ。これをここに「奇方」と題せしも、実際は迷信療方のことである。わが国の民間にては、今日なお迷信療方がすこぶる多い。余が巡回中直接に見聞せしうち、埼玉県北埼玉郡新郷村、漆原亮太郎氏の門は数百年前の建築なるが、麻疹はしか流行の際には、夜中ひそかに来たってその柱を削り去るとのことだ。長州大津郡大寧寺内に、すりこぎのその長さ五、六尺余の古木がある。これを削り、そのくずをマジナイに用うる由。また、福島県信夫郡平野村、医王寺境内にある信夫荘司の墓石が、おこりを治するに特効ありとて、これを砕きて持ち去るそうである。この瘧を治するマジナイについては、先年全国より報告を集めてみたが、そのうちおもしろそうな分だけを挙げておく。
 鳥取市よりの報知に、「瘧にかかるものは早朝未明に家を出でて、新草履をうがちて氏神を参詣さんけいし、境内にその草履を捨て置き帰るなり。もし他人その社に詣し、草履の新しきを喜び、これをうがち帰れば、瘧疾ぎゃくしつその人に移りて、前に病めるものは快復すべし」という。
 前橋市よりの報知に、「瘧にかかりたるときは、他人の墓所へ行き、三体の石碑に一本ずつ線香を供すればよし」という。
 肥前北高来郡の報知に、「笠をかぶりて水中に入り、身を潜めてくぐり抜け、笠の頭を離れたるや、後をも見ずして帰家すれば治す」という。
 信州東筑摩郡の報知に、「病者に着物を逆さまに着せ、しかして一人は菅笠すげがさをもって団扇うちわのごとくあおぎつつ追い行き、病者の転倒するまで追い行けば治す」という。
 大阪府下よりの報知に、「大木に鎌を打ち立て、『なんじ、余の瘧を落とさば鎌を去るべし、治せざれば切り倒すべし』と命令すれば治す」という。
 古来、わが国にて瘧を治するに、大抵みな、かかるマジナイを用いたものである。昔日のみならず今日にても、なおこれを用うるものが多い。その他の病気に至っては、意外の療法が今なお行われている。昨年『大阪新報』に、動物園の象と獅子しし等に関する記事を掲げてあった。これ、もとより迷信療法である。
 天王寺公園の市立動物園へ象のふんをもらいに行く男があれば、獅子の尿を四合びんを提げて取りに行く女もある。ずいぶんときたない話。鼻をつまむ前に迷信の力を思わせらるるというのは、象の糞が淋病りんびょうの薬と信ぜられておればこそ、動物園へお百度踏む男もできる。それがシナ人の間に最も信ぜられていて、南京なんきん町の住人たちは、くれぬなら買って行こうと現金主義をさらけ出して、係員をてこずらせる。それで、このごろでは別に手間のかかることでもないから、動物園でも園丁にその象の糞をためさせて、南京子のもとめに応じている。象については別につめをもらいに行く人もある。これは、解熱剤にもっぱらせんじてのまるるそうだ。
 獅子の小便がなににきくかは、動物園の人たちにもわかっていない。それに獅子は子宮内膜炎を患っているから、一切くれてやらないが、おかしいのは狂犬病のはやったときなど、幾人となく獅子のたてがみの毛をもらいに来た。獅子は百獣の王、その毛を持っていれば、さすがの狂犬も慴伏しゅうふくして寄りつかぬというのだ。てのひらに虎の字を書く往昔むかしの落語を思い出される。その他、猩々しょうじょうの鼻やひょうの爪、翡翠かわせみの死体、鶴の抜け羽と種々のものをもらいに行くが、翡翠の死体を黒焼きにして飲むと肺病がなおるとか、動物園でも死にしだい塩漬けにしておくそうだ。豹の爪、猩々の鼻の望みばかりは全くわからぬが、これも迷信の一例として、飼養のきつねに夕暮れごろ、看守の男の目を盗んで赤飯、油揚げを供えに行く者もある。この始末がずいぶん厄介で、往々にしてお稲荷いなり様が胃腸病にかかられる。そして、おかしいことには、油揚げはあまり好かれぬそうな。この類の迷信として、飼養している白蛇にこんな話もあったと。あの白蛇は山口県の吉川藩のお米倉にできる本統の「みいさん」で、名古屋辺りの人造白蛇でない、目の赤い純白のもの。同地方ではだれ一人、この蛇を捕らえるものもなければ、殺すものもないが、ただ一人、酒五升と金子十円の謝礼でこの「巳さん」を捕らえる男がある。広島市の藤岡某。この男に頼んで五匹だけとってもらい、地方を巡業して一家生計の資本としていた。それを動物園で買い取ったのだが、そのとき先方は、まつってくれるなら譲るといって、ずいぶんと動物園に手を焼かせたという。
 大阪の大都会すらかくのごとしとすれば、他は推して知るべしである。
 マジナイ療法にはずいぶん滑稽こっけいに類するものがある。例えば、子供の頭上にデキモノのできた場合に、その上へ「馬」の字を書いておけば治するとのマジナイを聞いているが、そのわけは、頭上のデキモノを俗にクサという、よって、馬が草を食らうから治するのであるとの説だ。足にマメのできたときにも「馬」の字を書くマジナイがあるが、そのわけも右同様である。
 また民間にて、おこりにかかるものは茄子なすを食するを忌む。その意味に、茄子は熟して落ちぬものなれば、落ちぬを嫌う故であるとのことだ。また、薬をのむに十一口にのめば効験があるというが、十一口は吉の字に当たる故とのことだ。これも滑稽にもとづいている。
 今一つマジナイについておもしろい話があるから、つけ加えておく。近ごろ余が栃木県の旧奥羽街道を巡講せしに、その辺りでは御維新前、秋田佐竹侯の通行せらるる際は、近在より子供が多く集まり来たり、群れをなして随従したとのことだ。そのわけは、佐竹侯の御供をすれば、天然痘を免れらるるという風説が伝わっていたためだそうだ。その佐竹侯は非常のアバタ顔であって、愚民は天然痘の神様のごとくに思ったらしい。実に抱腹の至りである。

第四一段 全国共通の迷信 一五(呪願)


 わが国の有名なる神社仏閣中、祈祷きとう専門のもの多く、しかもその祈祷が、病気、災難の魔よけをするものが多数を占めている。また、一身一家の福利を祈請し、商売繁昌、不景気回復、相場に当たるようなどの祈願が少なくない。その実例は前すでに地方の迷信談中に掲げたが、そのほかにも、ほとんど枚挙するにいとまなきほどにたくさんある。
 東京浅草におおとり神社があって、毎年十一月のとりの日にその社の祭礼がある。ここに参詣さんけいするものは、おのおのクマデを買って帰ることになっている。その意は、クマデをもって人の金をさらい取るの望みである。しかして、その神社のはやるのも、鷲の神様なれば、その力をかりて金をつかみ取るの意味である。世間にて不景気のときほど御祈祷が多いとのことだ。これは、神仏に頼んで金もうけさせてもらいたいの迷信があるからだ。
 ただ、金もうけのみならず、言語道断の祈願がある。今より二十余年前の某新聞に掲げてあった。その話は左のとおりである。
 このごろある人、用事ありて駿州すんしゅう興津おきつに赴きけるに、線路の傍らに当たれる庵原郡倉沢村の天神社に、無数の燭火ともしびともりて石段に人影の見えたるより、この深更になにごとならんと、興津に下りて次第に同村の方に近寄り見るに、村内の若者がおよそ二、三十人も真っ裸になって、いずれも潮水に身体をきよめ、石段の両側に百余の提灯ちょうちんをつるし、社前には皎々こうこうたる篝火かがりびをたき、石段の上より下に至るまで、右の若者まっすぐに連なり、最下段にあるもの、まず五百目ないし一貫目ばかりの丸石を取りて、これを上の段の者へ手渡しすれば、上の段のもの、またこれをつぎの段の者へ渡し、かく順々に送り上げたる後、最上段にある礼服を着せし一人の男、これをいただきて千個の石を社前にそなえ、さて一同合掌して祈願を凝らすなり。なにごとを祈願するにやと、よくよく近寄りてこれを聞くに、図らざりき、いずれも一心不乱に徴兵のがれの祈願をなすなりと。
 こんな祈願もあるほどで、今もなお田畑の豊作、海上の大漁、一家の安全を祈るもの、全国いたるところ、みなしかりというありさまである。ことに病気、災難に関しては、神仏をマジナイの道具に使用しているものが多い。例えば、秋田県由利郡院内村、陽山寺山門の仁王尊は、全身泥土をもってけがされている。さきに話せし愛媛県の石地蔵が泥土を打ちつけられていると同様、迷信上のマジナイより起こったのである。また、岡山県都窪郡清音村の題目石は、参詣さんけい者のために摩擦せられて、角がなくなっている。これは病者がその石をさすっては、その手を己の病所につけるためとのことだ。かくのごとき例は、全国の神社仏閣には充満している。
 浄土宗は比較的呪願じゅがんを行わぬ方なれども、ある地に狐落きつねおとしの祈祷きとうする寺がある。そのときは狐つき病者を仏前に座せしめ、『阿弥陀経あみだきょう』を一誦いちじゅするそうだ。この経中に「六方の段」と称して、東西南北上下の六方の諸仏を賛嘆せる一段がある。これを一読する際にその一方を飛び越して読めば、狐が落つるということにきまっている。その意味は、一方を落とすということより起こっている。また、越後蒲原えちごかんばら郡のある地方にては、おこりを落とすマジナイに、『浄土三部経』を風呂敷に包んで背の上に負わしむる所がある。いずれも滑稽こっけいといわねばならぬ。

第四二段 迷信の利害 一(無害有利)


 上来、地方特殊の迷信と全国共通の迷信との二大段に分けて述べきたったが、日本は世界中、最も迷信に富んだ国であることが明らかである。インドやシナは迷信の多いに相違ないけれども、日本は決してこれにまさるとも劣りはせぬと思わる。まず、その迷信について利があるか害があるかを考えておきたい。もし、教育上より論断を下さば、利なくして害あるのみといいたきも、実際上、一分の利あることを許さねばならぬ。よって余は、迷信の利害を四段に分けて逐次論述してみたいと思う。
第一は害なくして利あるもの
第二は害なくして利なきもの
第三は利あって害あるもの
第四は利なくして害あるもの
 迷信の種類を利害上、この四種に分かつことができる。しかし、その利害はもとより比較的にして、かつ、時と場合とによって異なることを断りおかなければならぬ。その上に知識の程度にもよる。知識なきものに利あっても、知識あるものには無効のことがある。
 今、第一項の害なくして利あるものとは、さきに縁起の下に掲げたる、正月や婚礼に連帯せる迷信のごときは、なんらの害もない。しかして、古風を保存し儀式を修飾する点において効がある。また、たといその起こりは迷信なりとも、すでに変形して別格の意味を具するようになっておれば、迷信ともいい難い。とにかく、儀式には多少の迷信が加わっていても、古風を維持する点において、自然と崇高尊厳の感想を起こさしむるに有効の場合が多い。
 民間にては、神社仏閣へ百度参りすることがある。例えば、慢性胃病のものが神仏に百度参りすれば、その御力にて全癒すと信ずるは迷信なるべきも、毎日一心になって百度参りを継続すれば、自然に全治するに至るわけである。四国遍路や三十三番巡礼なども、これによって仏様より一家の息災延命を与えてもらうものと信ずるは迷信なるべきも、身体を健全にし、見聞を広くし、精神を修養する点において利益することすくなくない。これらはみな有利無害と申さねばならぬ。
 いずれの地方にても、毎年盆には庭前に篝火かがりびをたく。あるいは迎え火、あるいは送り火と称して、亡者の霊が自宅を見舞いに来るのを送迎するのであると信ずれば、迷信となるけれども、その当時は田に害虫の生ずるときにして、この迎え火、送り火、または墓場に火を点ずるのは、自然に害虫駆除の効ありとの説がある。されば、これまた無害有利と申してよろしい。
 夏時、晴天が続き旱魃かんばつが起こり、苗が枯死せんとする場合に、農村にては雨ごいをする。その雨ごいに村中多人数相伴い、高山に登り山霊に祈願することが多い。もし、山の神が雨を授け下さると信ずれば、迷信なるべきも、今日の学説にては、多人数群参して高山をかけまわるときは、気象に変化を起こし、降雨を招くに至るべき道理であるという。されば、これも無害有利とみなしてよろしい。

第四三段 迷信の利害 二(無害無利)


 迷信中に、薬にもならず毒にもならざることがある。その一例は竜灯であろう。竜灯は海中より怪火かいかが現出して陸上に移り来たるのであるが、これを民間にては竜宮より灯明があがると申している。その火の最も名高きは宮島七不思議の第一にかぞえられている竜灯なるが、その他にも諸方にある奇観である。磐城いわきの国、平の赤井岳の竜灯も、東北ではずいぶん広く知られている。これを実見せしものの話に、深夜十二時ごろに、海中より忽然こつぜん、一怪火が現出する。その色白くして、光輝は大星を欺くくらいである。その位置は水面上数丈の空中にかかり、たちまち滅してまたたちまち現じ、あるいは集まりて一つとなり、あるいは散じて数十となる。かくして、ようやく陸に近づき来たり、川に沿って山麓さんろくに達し、さらに渓間をさかのぼりて、山上の薬師堂の前なる林中を往来するとのことである。また、隠岐おきの知夫郡内に焼火山と名づくる山がある。その頂上に神社あって、毎年、旧暦大晦日おおみそかには千人ぐらいの登山者ある由なるが、その夜は海上より灯明が山上に向かって登り来るとのことだ。その他、越後えちごの米山、越中の眼目山、土佐の蹉陀さだ岬等にも竜灯の話がある。これらは珍しい、不思議だと申すだけで、利もなければ害もない迷信である。
 肥後ひご不知火しらぬい、越中の蜃気楼しんきろうなども、民間にていろいろ妄説を付会しているが、これという害もなければ利もない。先年、余が肥前ひぜんの島原に滞在せしとき、不知火の期節で、人に誘われて夜半過ぎに海岸へ出でて、天明まで海上を望んで見たが、その夜は不知火の現出がなかった。この地方にてはおもしろ半分に見に出かけるが、別に恐ろしいとも怖いとも思わぬ。また、越中の魚津は蜃気楼の名所にて、毎年四、五月ごろに現出するそうだが、古来、はまぐりが気を吹き出すのであるなどの迷信あれども、別に災難が起こるとか、飢饉ききんの前兆などと申すものもなく、無事平穏である。
 信州上田町に山口の一つ火と称するものがある。毎夜十一時過ぎに、山口村の方角に当たって一つの火の玉が現れる。これを狐狸こり天狗てんぐの所為のごとく思っておれども、格別恐怖心を起こすでもない。また、各地方にある狐火きつねびのごときも、毎年期節を定めて現出する所にては、これを見ても平気である。右らはみな、無害無利の迷信と申さねばならぬ。
 岡山市中の妖怪にアズキアライと名づくるものがある。深夜にアズキを洗うがごとき響きを聞くのだが、これを妖怪の所為と申している。多分、川の水の流るる音であろうと思わる。紀州牟婁むろ郡の某村にては、深更になると、はるかに鼓声の響きがする。これをその地のものはたぬき腹鼓はらつづみと称し、狸の遊戯のごとくに思い、別に怪しみもせず、また恐れもせぬ。かくのごとき迷信は、害もなく利もないと申してよろしい。

第四四段 迷信の利害 三(有利有害)


 つぎに、迷信中の利あり害あるものを挙ぐれば、卜筮ぼくぜい、人相、家相のごときものであろう。およそ人が大事をなすに当たり、自ら決断することのできぬ場合に、卜筮に考えて可否を一決するのが、卜筮の起こった原因である。かかる場合に疑いを解き意を決する点においては、多少の利益がないではない。昔は往々、これを政策に使用したことがある。例えば、秀吉が朝鮮征伐のときに、厳島にて銭を投じて吉凶を判じたという話のあるごとくに、卜筮によりて大吉を得たといえば、士気を励ます点において多少益するところがあるに相違ない。縁談などにもこれを利用するという話がある。もし、他より縁談を申し込まれて、断りたくも口実に困る場合には、卜筮、方位に託する方がよろしいそうである。これらの点において、卜筮は多少の利あると同時に、これがために害を招くことも多い。
 余は地方巡遊中、ときどき、卜筮はあたるものかあたらぬものかとの質問を受ける。そのときに「あたるも八卦はっけ、あたらぬも八卦」と答えておる。これについて余の実験したことがある。先年五月ごろ、著述の草案を作るために、相州大磯松林館に滞在していたが、急に東京より用事を申しきたったから、その日になって「今晩東京へ帰る」と告げたれば、旅館の主婦は、「どうして、そんなににわかに帰京なさるか」とたずねた。余はこれに答えて、「近ごろ妖怪研究のために卜筮を試用しておるが、先刻筮竹ぜいちくを取って卜してみたところが、今晩多人数の来賓がこの旅館へ押し込むことが分かり、やかましくなって勉強ができぬと思い、帰京することにきめたのである」と申した。そうすると主婦は、「何人の入客があるか」とたずねたから、「十三人」と答えておいた。しかるに、その晩は予言のごとく、十三人の客が東京より押し込んで大層騒ぎ立てたそうだ。これは「あたるも八卦」の方である。その後、同じ年の暑中に伊豆の熱海に入浴し、いつも常宿にきめてある露木旅館に滞在したことがある。露木は代々女の子ばかりで男の子がない。それゆえに代々養子である。ちょうど滞在中、その家の婦人が、「近日に出産をするが、今度はぜひ男子の生まれるようにしたい」と申しておるから、余は大磯で筮竹を取り大当たりしたから、ここでも筮竹で男女を当ててやろうと思い、早速八卦を見たところが、男子が生まれる卦が出てきた。よって、「今度はたしかに男なり」と申したれば、一家大喜びであった。それより四、五日過ぎて、いよいよ出産になったところ、案外にも余の八卦が外れて、女子であった。これは「あたらぬも八卦」の方である。この実例に照らして、古来伝うるところの「あたるも八卦、あたらぬも八卦」とは、よくいったものだと自ら感心したことがある。
 すでにあたるとあたらぬと相半ばし、五分五分であるとすれば、あたる方には利があるが、あたらぬときには不利とみなければなるまい。すなわち、利害相半ばすと申してよろしい。その上に卜筮などを信じ始めると、一から十まで卜筮に照らさなければなにごとも決心がつかず、臆病神がとっつき、戦々恐々として世の中を渡るようになるから、利の方よりも害の方が多いと申してよかろう。
 人相、家相、方位等についても、右同様の断案を下すことができる。さきに述べしがごとく、人相も家相もいくぶんの真理を含み、決して全部を否定すべきではない。そのうちには大いに採用すべき点もあるが、これと同時にシナ伝来の妄説が加わっておる。この点から眺めても、利害相半ばすと申してよろしい。その上に、これを信ずる人はみだりに妄信を起こし、案外の不利を招くことがある。余が先年、家相家に向かい、「西洋にては家相の吉凶を問うことはない。しかるにその家富み、その国盛んなるはいかん。東洋は家相の吉凶をたずね、吉相を見てこれに住するけれども、家も国も、ともに貧弱なるはいかん」と詰問したれば、家相家が申すには、「わが国内にても、家相に頓着とんじゃくせざる人にてその家の栄ゆるところがある。かかる家について取り調べてみるに、知らずして自然に家相の道理にかない、吉相を得ておる。それゆえに、西洋にても家相を知らずして、自然に吉相を得ておる家が多いに相違なかろう」との答えであった。もし、果たして家相に頓着せざる西洋の方に、自然に家相にかなった家が多いとすれば、むしろ家相はなくてもよいということに帰着するであろう。要するに、人相、家相の類は利害相半ばするも、これを信じて、かえって惑いを起こし不安を抱くようになる。されば、利よりも害が多いといわねばならぬ。

第四五段 迷信の利害 四(無利有害)


 さきに断りおけるがごとく、迷信の利害はもとより比較的にして、有害無利と称するものにも、時と場合と人とにより、多少の利の存することもあるが、その中にて普通、有害無利と断定してよろしきは、四国の犬神、出雲いずも人狐にんこの迷信である。あるいは論者あって、これを一種の社会制裁であるといい、吝嗇りんしょく一方にて金をたくわえ、公共慈善等には一銭も出金せぬものに対し、他よりその行為を擯斥ひんせきして、かの家は犬神の系統である、人狐の住家すみかであると称し、暗に社交をたたるるがごとき制裁を加えらるるのであるから、いくぶんの利もあると主張せんも、古代にあってはかかる迷信的制裁の必要ありとするも、今日にては全く無用であるから、有害無利の迷信たること明らかである。
 つぎに、害あって利なきものはマジナイ療法である。もっとも、その中には薬にもならず、毒にもならぬものもある。また、「いわしの頭も信心から」のことわざのごとく、人の方より信仰をもって迎うれば、マジナイにも多少の効験をあらわすことがある。しかし、これらの効験を見て、マジナイにも利益があるということはできぬ。むしろ、かかる効験は除外しておかねばならぬ。
 格別害にもならず、むしろ滑稽こっけいに近いマジナイは、頭痛のマジナイに、すり鉢をかぶりて、その上に灸を点ずれば治するというのがある。盗難を防ぐマジナイに、手洗い鉢を家の中に伏せて置けばよいというのがある。猫の逃げたるを呼び戻すマジナイに、暦を取ってその逃げ出せし日の所を、墨にて消しおけば必ず帰るというのもある。女児の心得をよくするマジナイに、いぬの肝を取って土にまぜ、かまどを塗るときは必ず孝順のものになるというのもある。船に酔わぬマジナイに、船の中に「賦」の字をかき、「武」の右肩の点を人の額にうちおかば、少しも酔わぬというのもある。記憶をよくするマジナイに、五月五日にすっぽんつめを衣類のえりの中に置けば効能があるというのもある。これらは薬にも毒にもなるまいけれども、それならばむしろ、はじめよりマジナイをせぬがよいということになる。これを行うだけがヤハリ不利益である。
 たといつまらぬマジナイでも、多少人に安心させて慰安の効があるという人もあるけれども、一方に慰安を与うると同時に、他方に不安を与うることが起こる。一度マジナイを信じ始むれば、なにごとも疑心が起こり、いちいちマジナイせなければ安心ができぬことになるから、差し引き上、全く無益の手数ということになる。
 守田宝丹という人は、なかなかマジナイ信仰家で、家を出ずるたびごとにマジナイをするほどの人であった。ある日の午前、余が同氏をたずね、座敷で話を交えておる間に、肥やし屋が大便をくみ取りに来て、臭気座に満つるありさまであった。そのとき奥より女中来たり、「香でもたきましょうか」とたずねたれば、宝丹翁曰く、「香よりもマジナイの方がよい」といいつつ、自ら立って湯のみ茶わんを縁側のさきに、なにか唱えながら伏せた。しかして翁は、「これで、さらに臭気がせなくなった」といわれたが、余にはごうも臭気の減じたるを感ぜぬ。そのとき余は、マジナイは実に厄介のものだと思ったことがある。これを信ずる当人に利があっても、信ぜぬ他人に迷惑をかけるから、やはり害あって利なしといわねばならぬ。
 民間にてきつねつきを落とす法として、ぶったりたたいたり、松葉の煙にて苦しめたりするなどは、大害あることもちろんであるが、伝染病にかかりたるとき、医者にも見せず医薬も用いず、つまらぬマジナイを信用しておるなどは、実に寸益なくして大害あるものといわねばならぬ。

第四六段 迷信の利害 五(利少害多)


 以上四段にわけて論ずるところを差し引き勘定すれば、有利有害五分五分のようなれども、実際上、利よりも害が多いということは争われぬ結論である。
 世人が迷信を有するために、種々の悪影響を引き起こすことは大いに注意すべきである。その一例として、『荘内可成談しょうないなるべしだん』の中に出でたる、妖怪を偽造せし話を転載しておく。
 妖怪の家に出ずるというも、十に八九は虚言談なり。先年、近きあたりの寺にもこのことありし。よくよくたずぬれば、実は住持のめかけを置き、日暮れよりは人の来たらざらんために妖怪出ずるといいしとなり。また、白昼に妖怪出でしという家あり。これも、その家の乳母うばが幼子を炉にてヤケドさせて言い訳なく、妖怪出でしゆえ、驚きてかく怪我しはべると、病にしたる年寄りの主人を欺きしとぞ。また、朝に妖怪出ずるといいし家あり。これは、その家の主人幼稚なるゆえ、奴僕ぬぼくが塩、味噌みそ、薪炭等を盗み取るに、下女、はしためども妨げになりしゆえ、早く起きざらんため、かくのごとくいいしとぞ。
 先年発行の『神戸又新ゆうしん日報』に、「稲荷いなり下ろしの拘引」と題して、左の記事が掲げてあった。
 石州せきしゅう者の田中太七というは、俗にいう稲荷下ろしにて、女房おきぬとともに、本年の四月ごろより神戸へ来たり。みなと村のうち、石井村の島田平四郎が稲荷の信者なるを聞き込み、夫婦して同家へ出かけ、「私には諏訪すわ稲荷が乗り移りおれば、私がいうとおりを守るときは、いかなる望みといえどもかなわざることなし。これがうそと思うなら、この白紙に金を包みて稲荷に捧げ、一月ないし二月と一心に祈祷きとうせしうえ開いて見れば、五円の金は必ず十円となり、百円のものはきっと二百円になりおること、さらに疑いあるべからず」と、まことしやかに述べ立てて、ついに平四郎を欺き、四十円の紙幣をくだんの白紙に包み、神前に供えさせ、それより太七夫婦は毎日同家に通いて、しきりに祈祷をなしおるうち、いつの間にか中なる四十円を抜き取りて、古新聞紙とすりかえ、知らぬ顔でおりしも、夫婦の金遣い近来メッキリ荒くなりしところから、その筋の目に止まり、一昨日、古港通りの木賃宿に酒を飲んでいる夫婦を拘引して取り調べると、平四郎方の四十円はもとより、このほか同じ手段すなわち稲荷をダシに使って、明石郡新保村の西田順蔵より十五円、津名郡江崎清七より二十円、明石郡前田村姓不詳梅吉より二十三円八十銭をせしめ込み、その他、各地の数十カ所において欺き取りしものを集むれば、数千円の金高に上りおりしという。
 今、一例を挙げんに、むかし維新前の出来事だが、山城の国伏見町に市郎兵衛と申すものがあった。平素深く仏教に帰依きえして、仏前の勤め怠ることなく、暇さえあれば御寺に参詣さんけいして説教を聴聞し、殺生戒をたもちて、のみまでも殺さぬほどの信者でありしゆえ、近所近辺にては、市郎兵衛殿と呼ばずに、仏様と名づけていた。その仏様がある夜の夢に、阿弥陀あみだ様の来現ありて御告げあらせらるるには、「われはなんじが隣家の門口の土中に埋められて、年久しく隠れておるが、汝が信心の厚きに感じ、特にそのことを頼むから、早く土を掘りてわれを出してくれ」と仰せられしと覚ゆるや、間もなく夢がさめ、いかにも不思議に思い、翌朝早速、隣家の主人にその夢知らせの次第を語りけるに、主人これを信ぜずして土を掘ることを承知してくれぬ。しかるに、その後、毎晩続きて七日の間、同じ夢知らせがあった。そこで隣家の主人もヤット承知して、門口の土を掘り五尺までに達したれど、なにも見当たらぬ。よって、主人は夢の妄なるを言い張りて、再び掘ることを許さざりしも、市郎兵衛は強いて請うて、さらに一尺余掘り下げたれば、仏身の銅像が出てきた。そこで隣家の主人も大いに感服し、たちまち近所近辺の大評判となり、みなこれを聞きて感得の妙であると申した。そののち地頭の役人が、右両人の挙動に疑わしきところあるを怪しみ、これを捕らえて吟味せしに、両人大いに恐れ、白状して申すには、その前年、互いに相談の上、ひそかに仏像を土中に埋め置き、夢に託して利を得ようと企て、かく奸計かんけいをめぐらしたる由をくわしく述べ、かつ、罪をゆるされんことを願ったそうだ。その話は『怪談弁妄録かいだんべんもうろく』と題する書中に書いてある。
 右のごとく、世人の迷信に付け込んで悪事を企つるものが起こってくる。その上に迷信が盛んになると、人が己の努力によって立身成功しようという気力を減ずる傾向がある。また、迷信が流行すると、倫理の鏡を曇らし、宗教の月を隠して、精神界を暗黒にすることは勢いの免れぬところである。その理由は後に述ぶることとし、結局、迷信は比較上、害あって益なしという断案を結ばざるを得ない。しかし、格別害なき点だけは、そのままに任せておいても差し支えなかろう。

第四七段 迷信の原因 一(道理と運命)


 すでに迷信を有害と断定したる以上は、これを除去する方法を講じなければならぬ。また、その方法を講ずるには、まず迷信の起こる原因を知ることが肝要である。
 迷信の種類に多様あるがごとく、その原因にも多様あって、精細の説明は一朝一夕になし難いから、ただここには、大体について主要なる原因だけを挙示したいと思う。もし、これを一括していわば、
(一)道理に暗きより生ず。
(二)運命に迷うより生ず。
 この二項目に帰するであろう。しかして、道理に暗き方は知識の乏しきためであって、知識の乏しきは教育の足らざるためと申してよろしい。よって、その方の受け持ちは教育である。つぎに、運命に迷う方は信仰の程度が低く、意志が薄弱なるに原因している。この意志を強くし、信仰を進める方は宗教の受け持ちである。しかるに、わが国には教育もあり宗教もありながら、なお迷信の依然たるは、教育、宗教に不十分の点がある故といわねばならぬ。
 およそ迷信の人心中に生ずるは、決して学校で教え込むのではない。学校にては迷信に惑うなかれと教えている。しかるに、家庭においては迷信をもって教育している。いまだなんらの思想もできておらぬ純白の子供の心中へ、暗い所には化け物が出るぞ、墓場には幽霊が出るぞ、きつねは人につくものだ、たぬきは人をだますものだということを吹き込む。これは迷信の種子をまきつくるのである。その種子は後に学校へ入れて教育しても、決して消滅するものでない。そのほかに、周囲の社会より種々の迷信を吹き込まれる。例えば、一家に病人あれば、家の建て方が鬼門に触れているとか、今年は生まれ歳のあい性が悪いというように、迷信の話を持ち込まれる。これは肥料を与うるようなものだ。かくのごとく家庭で種子をまき、社会で肥料を与うるから、どうしても迷信が増長するわけになる。
 右の次第であるから、今より後は学校教育のほかに、家庭教育と社会教育の改良を実行せねばならぬ。まず、家庭教育の改良としては、婦人会を起こし、婦人講話を開くを要し、社会教育の改良としては、青年会、大人会、老人会等を設け、あるいは通俗講話、通俗教育会を開くを要することになる。なにぶん、これまでの教育が学校だけに限られたのは、教育上の欠点といわなければならぬ。
 つぎに、宗教方面にては、宗教の教理を説き、信仰の程度を高めるということなく、宗教家の仕事はほとんど葬式法事に限られているようなありさまで、たまたま説法して聞かしても、冥福めいふくを祈らせるか、現福を願わせるようにのみ導いて、宗教がかえって迷信を増長さする手伝いをするありさまである。かかる状態では決して迷信がなくなるものではない。

第四八段 迷信の原因 二(経験)


 知識の方面にては、なんぴとにも知識欲がある。目にみ、耳に聴くと、ただちにそのなにものたるを知りたいという欲を起こすものである。しかるに、知識の程度が低いために、その道理を究め尽くすことができぬ。ここにおいて迷信に陥ってしまう。これについて三とおりの原因がある。
(一)経験に乏しいために迷信に陥る。
(二)論理に暗いために迷信を起こす。
(三)学理に通ぜざるために迷信を作る。
 例えば、墓所を通り過ぎて怪火かいかを見ると、すぐに迷信を起こす。すべて怪火は、死体や腐木や枯れ草の埋まっている場所に起こるもので、かかる場所には燐火りんか水素が地下より発生して怪火を現出するものなるも、その方の経験がないために、墓場に限って怪火の発するものと思い、墓場は死骸を埋めてあるということから、亡者の霊魂に相違ないという考えを起こす。これは、ある意味において、経験に乏しいということに帰するであろう。
 経験に乏しいために、格別不思議でないことを速断して不思議とし、種々の迷信を付会するようになる。その一例は先年、信州佐久郡相木村の森林中に、その地の氏神として祭れる社殿があるが、ある夜より奇怪の音が起こり、その響きはあたかも日蓮宗の太鼓のごとくであるということから、たぬき腹鼓はらつづみであると断定した話がある。また、尾州丹羽郡の青木村にも社林中に怪音が起こり、福島県石川郡石川町にもこれと同一のことがあった。かくのごときことがときどき起こるが、その原因は、神社の境内には古木のあるもので、古木には空洞ができているものだ。しかるに、ふくろう角鴟みみずくはかかる空洞の中に住んで子を産むものである。その声をたちまち妖怪と誤認してしまう。
 また、ランプのホヤに人面が現れたとて、亡者の霊などといって騒ぎ立つることもときどきある。先年、信州松本近在にその怪事が起こり、そののち尾州葉栗郡宮本村にも起こり、またその後、大和国やまとのくに山辺郡朝和村にも起こったことがある。これはランプの心から油炎が上がって、ホヤを曇らせることがたびたびあるうち、まれにその形が人面をえがいたごとくに現るることがあって、全く偶然の出来事なれども、経験の範囲が狭いために、ただちに妖怪的説明を与えるようになる。
 よく起こる出来事中に天井の怪物という一事がある。先年、水戸市上市小学校教場の天井の白壁に、手六本、足六本ある妖怪の姿が、黒々と現出しているのを児童らが認め、化け物沙汰ざたとなったことがある。左官が壁塗りの際、偶然手足の跡に類したる汚点を天井にとどめたものらしい。また、京都市の病院の解剖室に、あるとき一夜のうちに、天井板に手の形を血にて印したるもの数カ所に見えしより、妖怪の所為のごとく申せしも、なにびとかの所為に相違ない。昨年、栃木県大田原小学校の天井に、蛇のごとく竜のごとき怪物のごとき斑痕はんこんがあるを見たが、生徒が雑巾ぞうきん掛けするときに、おもしろ半分にその雑巾を天井に投げつけた所が、かくのごとく怪物の形を印出するようになったそうだ。
 その他、庭内や野外に巨人の足跡があるのを見て、妖怪沙汰を起こしたことも諸方にある。また、越後えちご出雲崎に初めて灯明台のできたときに、遠方より望んで竜灯とみなし、佐渡にて日露戦役のとき、軍艦より探海灯を放ちたるに驚かされて、大怪物と誤りしの類、実に枚挙にいとまないほどである。もし、見聞を広くし、経験を重ねたる人ならば、そんなに妖怪が瑣細ささいのことにまであるべき道理なく、なにか他にしかるべき原因のあることと思っておればよいのである。たといその原因が判然せぬにしても、なにもかも妖怪の所為に帰するには及ばぬわけである。

第四九段 迷信の原因 三(論理)


 経験に乏しきものは、妖怪にあらざるものをただちに妖怪と断定し、これに自己の妄説を付会して、種々の迷信を構成するに至るが、それには必ず論理に暗いということが伴っている。人もし論理に暗ければ、因果の理を誤認するようになる。すなわち、真の因にあらざるものを因と断定することが起こる。すべて甲の出来事と乙の出来事と、実際上同時または前後して現出するときには、たといその内部はなんらの連絡関係なきものにても、ただちに甲は乙の原因なりとの断定を下すようになる。
 よく民間にて、からすの鳴き声の悪いのは、鴉は人の死を前知する力があって、その死を知らするのである。また、火の玉の現出するときには、必ず死人があるから、火の玉は死人の魂が現出したのであると唱うることであるが、たとい鴉声あせいと人死にと同時に起こり、火の玉と人死にと前後して起こることがあっても、これをただちに乙は甲の原因と断定することはできぬ。余はこの出来事について毎度話すことだが、実際上においては、鴉の鳴き声と人の死と一致することがある。しかし、これは天気が二者の原因になっていると思う。鴉は人の死を知って鳴くのにあらざるも、天気がにわかに変わり、晴れたる空が急に曇って陰鬱いんうつとなり、寒暖、気圧ともに激変せる場合に鳴き出して騒ぐものである。これと同時に、長く病床にある病人も、かかる天候激変、天気陰鬱のときに絶命するものである。よって余は、鴉は天気に向かって鳴き、人は天気によって殺さるるのであると申している。火の玉と死人との場合もこれと同様にして、火の玉の現出するは、必ず長く晴天続きてまさに雨降らんとし、風なくして夜気沈静であり、低気圧を起こせるときに多いものである。人の死もかかるときに多く起こるものである。いずれもその間に天気が加わっているに相違なきも、その内容を問わず、表面だけを見て判断を下すために妖怪迷信が多くなる。これみな論理に暗く、因果の関係を知ることの疎なるより起こる迷信である。
 先年、丹後国たんごのくに中郡三重村あざ谷内、本城某は幼少のとき、かたつむりを多く捕らえて食せし由なるが、あるとき過って左手の人さし指を傷つけ、ついにそのつめぬけてしまった。その後、生え出でたる爪は一種奇怪なる形を有し、その両側にかたつむりの角のごとき二そうを見るに至った。人みなこれを見て、かたつむりのたたりなりと申せし由、あまり簡単過ぎたる判断であるが、つまり論理の力の幼稚なる結果であろう。
 一昨年、東京府下荏原えばら郡大井町小学校に奉職する教員が、六年間に五名まで肺病にかかったそうだ。しかも、そのうちの三名は教室にあって死亡したとかにて、たちまち幽霊教室の名が伝わり、安心して教鞭きょうべんをとるものがないとのことを聞いた。なにか不吉のことが二、三度続くと、たちまち妖怪騒ぎ、迷信沙汰ざたを起こすのは、やはり論理力の薄弱なるためである。

第五〇段 迷信の原因 四(偽怪)


 経験に乏しく論理に暗きために、妖怪中に偽怪、誤怪がすこぶる多い。偽怪とは偽造したる妖怪の意味で、人が故意に作る妖怪のことだ。その実例としては、拙著『妖怪百談』および『おばけの正体』中にいろいろの例証を掲げておいたが、そのほかにもたくさんある。左に二、三例を挙げておこう。
 数十年前、三河国みかわのくに渥美郡田原町の青年が、ある夜、その町はずれ数丁離れたる所の寺院に集まったことがある。その堂後に墓場がある。その中にて一種変わりたる異様の古墓が、最も奥の方に立っている。この墓には幽霊が出るという評判がある。ここに集まりし青年が座談に時を移し、夜も深更に及んだ。そのとき申し合わせて、今夜くじ引きを行い、あたったものは評判の幽霊墓を見届けてくることにいたそうという相談になり、一人そのくじにあたり、怖いながら行かざるをえんことになった。果たして見届けたかいなかをためさんため、縄を持参して墓を縛して帰る約束であった。ちょうどそのとき隣室に小僧がいて、そのことを聞くやいなや、前もってその墓の背部に隠れていたそうだ。しかるに、くじにあたりたる青年は恐る恐るその墓の前に至り、仰ぎ見れば幽霊も化け物もおらぬから、安心して持参せる縄をもって墓を縛せんとする途端に、背後に隠れていたる小僧が墓の上よりてぬぐいをおろした。そのてぬぐいが顔に触れると青年は大いに驚き、「幽霊が出た」と叫びつつ逃げ出したという話がある。論理の幼稚と意志の薄弱なるために、かかる人為的妖怪も起こるようになる。
 先年、大和国やまとのくに某村に悪戯いたずらにて人を驚かすことを好む児童があって、すいかにて灯を造り、または灯火にいもの葉をかぶせて偽人魂にせひとだまをつくり、これを墓場や森の中にかけて人を驚かせし話がある。また、岡山県阿哲郡の禅僧某が、むかし禅堂におりしとき、ちり紙を一枚顔に張りつけ、両眼と口の所だけ切り抜いて暗所に立ち、たびたび人を驚かせし話を聞いた。
 これらは好奇心より出でたる悪戯に過ぎぬが、実際、利欲心よりつくる偽怪がたくさんある。幸いに経験に富み論理に長じたものは、その偽怪たるを看破するけれども、しからざるものは全く欺かれてしまう。ここに看破された一例を挙ぐれば、大和国永浜某氏の報道に、
 某家の子息不快なりしが、その母たまたまこれを易者に問う。易者、筮竹ぜいちくをひねりて鑑定して曰く、「この子息の病は地主荒神こうじんたたりなり。よろしく宅地を清浄にし、ほこらを建ててまつるべし」と。主人笑って曰く、「なんぞ、この宅地に地主荒神のあらんや。地主とは予のことなり。予はこの宅地の所有権を有す。しかして、いまだかつて法律に触れ、公権を剥奪せられしことなく、堂々たる一個の公人なり。地主荒神は宅地所有権を有せず、租税を納めず、なんぞ地主といわんや、ひとり予は公然たる宅地の地主なり。もし地主を祭るならば請う、予を祭れ」と。易者一言も発せず、そのままいずくへか逃れ去れりと。
 また、愛知県にて聞きたる話に、ある淫祀いんしをなすものが医師に向かい、「われが神に祈れば、人を生かすことも殺すことも自在にできる」といいたれば、医師が、「それならば、互いにその力をためしてみよう。神の力が強いか、薬の力が勝つか、これを試むるには、あなたは神に祈って余を殺すようにせよ、余は毒薬を飲ませてあなたを殺してやろう」と申した。そうすると、淫祀家は閉口して逃げ出したとのことだ。

第五一段 迷信の原因 五(誤怪)


 つぎに、誤怪とは人為をもって偽造せるにあらずして、偶然、妖怪にあらざるものを誤って妖怪とみとめた場合をいうので、世間の妖怪中にはこの種類がことさら多い。その中に原因を発覚したのはいたって少なく、分からずに終わるのが非常に多い。その実例は『おばけの正体』の中にたくさん掲げておいたが、その書に漏らせるもの一、二を挙げることにしよう。
 ある民家にて夜中拍子木ひょうしぎの声が起こり、深更になるほど強く聞こえ、ことに雨の降る夜に多い。これを狐狸こりか化け物の所為と思ったために、妖怪沙汰ざたとなった。後に詮議せんぎの結果、その家の井戸に、井戸側の途中、横より雑水を漏らせる所あって、それが井中に落ち、かの音を生ずることが分かったという話がある。また、ある人が他家に宿りし際、深夜に「お頼み申します」の声が幾回となく聞こえてくるも、だれ一人起きて出ずるものがない。よって、自ら起きて戸外をうかがうに人の影だもない。再び寝に就けばまた同様の声がする。よって、また起きてうかがうに、さらに人の来たりし様子がない。これはいわゆる狐狸の所業と思いながら、そのそばの戸にすきまがあいているのを見て、シッカリ閉じて寝に就きたれば、「お頼み申す」の声がせなくなった。よくよく考えみれば、その夜の強風が戸のすきまへ強く吹き込む響きを誤認したことが分かったそうだ。
 栃木県那須郡那珂なか村にて聞くところによると、某家の庭前に、晴天にて一点の雲なきにもかかわらず、雨が降るとの評判が伝わり、妖怪の所為のごとくに申し立つるから、校長が取り調べに出かけたるに、その庭内にかしの木の茂りたるのがあって、その下に雨の降りたる跡が見えている。竿さおをもって枝を動かせば、雨のごときものが落ちてくる。よって、その枝を折り取って検せしに、葉に虫がついてい、その虫より排泄はいせつせるものなることが分かったそうだ。これと同様の話が他地方にも起こったことがある。
 江州ごうしゅう草津と大津との間に数年前、新たに石山駅というものができて間もなく、深更の汽車がいまだ停車場に達せざるうちに、数個の電灯が並立せるを見、すでに駅に達せしものと思って停車して見ると、全く湖畔の田間であったそうだ。その当時の風説には狐狸の所為に相違ないとの評なりしも、余はやはり湖面の方に濃霧があって、数丁隔たりたる停車場の電光が返射せる誤怪ならんと思っている。
 今日でも誤怪すこぶる多いから、昔時の多いのは当然だ。むかしの誤怪としては古い随筆などにたくさん見えているが、ここに『妖怪百談』の巻初に掲げた『雲楽見聞記うんらくけんもんき』の天狗てんぐ話はすこぶるおもしろいから、再録しておきたい。同書は文化年中の事実談を集めたる写本である。
 寛保の末つかたのことなりしが、江戸橋茅場町に有徳なる商人あきんど、手代、年季の者まで十二、三人も召し使い、なに暗からず暮らせしあり。子供三人まで持ちしが、二人は早世して、当時ひとり息子にて、利発の生まれつき、親たちの寵愛ちょうあいおおかたならず。月よ花よと楽しみありしときに、この息子いったい器用にて諸芸通達し、中にも平生囲碁を好み、ただこれにのみ心をゆだねけるが、あまりに心を労しけるゆえにや、ふとわずらいつき、※(「やまいだれ+亥」、第3水準1-88-46)ろうがいのごとく引きこもり、人に逢うことさえいといける。よって両親心遣いして、医療さまざまに尽くしけれども、さらにしるしなし。しかるに親類のうちより、この病体に妙を得し医師を伴いきたり、この薬力にてしあわせにだんだんと平癒して、今は常体のとおり全快せしかば、両親のよろこび、とびたつばかり。連らなりし人々、召使等まで万歳を唱えけり。
 この病体全く碁にこりかたまりてそれよりのことなれば、碁はまずやめにして、気を転ずることよしと、歌、三味線にかえしなり。息子の友達寄り集い申すよう、「われら二、三人申し合い、遊山がてら箱根へ湯治に赴く催しなり。貴所にも保養のため、連れはわれわれなれば、同道しかるべし」と勧めけり。なるほど、よろしかるべしと親たちへ達せしところ、行きたくば、ともかくも心任せにとあるゆえに、早速相談きまり、出立の用意とりどりにて、支度調い発足しけり。ほどなくかの地へ着せしところ、連れのうちに病人とてはなし。いずれも保養のことなれば、湯は付けたり、浄瑠璃じょうるり、三味線のみにて、毎日の楽しみいうばかりなし。連れのうちにて申し出だしけるは、「この土地に地獄という所ありと聞く、見たし」と言うより、しからばとて、おのおの連れ立ち行く。この節、かの息子をも勧めしが、なに思いけん、行くまじとのことなり。よって後へ残りける。地獄めぐりに行きし人々は、帰りてそのはなしなどして興じける。
 それより一両日過ぎて、息子ふと思いけるは、みなみな地獄を見物せしが、なんとかしてその節は行かざりしが、ここへ来て見ざるも残り多ければと思い、友だちにもはなさず、供をも連れず、ただ一人地獄をさして赴きしが、人にも問わず、心拍子に五七町のことなるべしと思い出でしところ、道を取り違え行きしが、問うべき人にも逢わざれば、これまで来たりむなしく帰らんもいかが、行きつかんことはよもあるまじと行くほどに、日は夕陽せきように及ぶ、空腹にはなる、こはいかにとはるかのおかに上り見渡せば、かすかに五七軒の家居の見ゆるさまなれば、なににもせよあの人家まで行きつくべしと、方角は分かたねども、もしくは三島の辺りにてもあるらんと思い、まずその方を心がけ行くほどに、しあわせとその里と見し所もほど近く、二、三町にも見えければ、道を急ぎてようやくにかしこに来たり。ここかしこと五七軒を見れども、もち、団子を売るていの家も見えず、いかにすべしと立ちたりしが、とある家に五、六人集まりて碁を打ちておる内へはいり、「御免下され、火を一つ借用」と、空腹にてタバコ機嫌はなけれども、寄りつくしおに言いければ、安きこととて差し出だす。かたじけなしと火をかり、腰打ちかけておれども、いずくにもある習い、碁に打ちかかりし人はもちろん、見物までも碁に見とれ、かの男に挨拶する者も、とがむる者もなし。
 しかるに、われも元来好きの道なれば、その盤面を見るに下手へたどもにて、心の内に腹を抱えるほどのことにてありしが、じっと押しひかえておりしが、碁を打ち終わりければ、かの者申すよう、「あなた方にはよき御慰みなり」と申しければ、みなみな申すよう、「そのもとはいずくの人にて、なにとてここへは来たられしとぞ」と問う。答えていうよう、「拙者は江戸表の者、箱根へ湯治に来たりしが、地獄を見物せんと出でしが、道に踏み迷い、かくのしあわせなり」と答う。「それは気の毒なり。はや暮れも近ければ湯本までは帰られまじ。あなたも碁好きと見えたり、一ばん打ちたまえ」とあるを、「仰せのとおり好きにはそうらえども、下手にてそうろう」と例の卑下の言葉に、「下手とありても江戸衆のことなれば、さはあるまじ。われらお相手つかまつるべし」と申すに、一人進み出でて打ちかかりしが、まず客なればとて白石を渡し、打ちけるところ二目の勝ちなり。どれどれわれら替わるべしと入りかわり打ちしところ、またこのたびも二目の勝ちとなり。中に気の付く者申すは、「御客は知らぬ道を迷いあるき、さぞ空腹にもあるべし」と、あり合わせのぜんを出だす。こなたにも望むところなれば、辞儀に及ばず。所望してまず腹内も丈夫になり、さてみなみな申すよう、「まず今宵こよいはここに止宿ありて打ちたまえ」とて、新手あらてを入れかえ、七人を相手として打ちしところ、甲乙なしにみな二目の勝ちとなり。この者どもきもを消し、「誠に希代の碁打ちかな。とてもわれらが相手にはならず、先生を招き打たすべし」とて、そのうちより一両人迎いに行く。
 この先生というは、ここより十町ほどわきに住み、業は医師を立て、近郷に続く方なき碁打ちと沙汰さたして、この者ども、みなかれが門弟なり。よって五里十里脇よりも聞き伝え、好きなる人は打ちに来たるとなり。かの者どもの告げによりて、先生は取るものも取りあえず、ここへ入りきたる。その形相、年のころは六十有余とも見えて、白頭の総髪そうがみひげも白く、眼中するどくして、衣類は絹太織、浅黄小紋の単物ひとえもの縮緬ちりめんの羽織を着し、朱鞘しゅざやの大小を横たえきたり、「珍客の御入来ごじゅらいとて、招きに応じ参りたり」と、座中へも挨拶あり、客人へも初対面のあいさつ終わりて、「さて囲碁をいたさるる由、お相手になり申すべし。承りしところ、ことのほか御能達のよし、まず初めてのことなれば、互いせんにて参るべし」と、口には言えど、心にはなんのへろへろ碁、ただ一番に打ちつぶしくれんずと思い、盤面に向かい始めしところ、さしたる好味こうみの手も見えねども、ややもすれば危うきことたびたびなり。負けてはすまずと一世の肺肝はいかんを砕き打ち上げしところ、先生のかた一目の負けとなり。よって、先生も途方に暮れて言葉なし。
 しかれども、碁の家筋というにもあらざれば、ぜひなく客の方へ白石を渡し、自身は黒石を取りて打ちけるが、また一目の負けとなり。それより、だんだん一目ずつ置き上げ打ちけるとかくして各一目ずつの負けとなり。ぜひなく聖目せいもく置き、これにてはいかないかな負けることあらじと、一生懸命と日ごろ念ずる神々へ心願こめて打ちけるに、相かわらず一目の負けとなり。先生はじめ有り合う人々興をさまし、口を閉じ互いに顔を見合わせ、なににたとえんかたもなく茫然ぼうぜんたるありさまなり。かくするうち九つ過ぎにもなりければ、「まず休みたまえ、明日湯本へおくるべし」とて、その夜は止宿いたさせ、翌日になって右の者ども四、五人にて道を送り行くほどに、とある所にて、「あの見ゆる所湯本なれば、この道筋をすぐに行けば出ずるなり」とよくよく教え、「御縁あらば重ねて」といとまごいして別れけり。
 それより湯本へ帰りしところ、旅宿にては大騒ぎ。大切の預り息子、昨日より出でて帰らざれば、手分けしてたずぬるといえども、地理をも知らぬ他国のこと、いずれを何国いずくとわかつべし。連れの者どもはみな立ちかかりて、かの息子をしかるやらよろこぶやら、泣くやら笑うやら。生死のほども知らず、江戸へ飛脚を立つべしや、なんと言ってよかろうと、とやかくとみな打ち寄りて辛労せしこといくばくぞや。「かようなる迷惑なる目にあいしこと、これまで覚えず」などと口々に言い立てられ、あやまりいりていたりしなり。しかれども、まず別儀なく帰られしとよろこび、後は笑いになりて事すみぬ。その後の言い合わせに、帰府してもこの沙汰さたは一向無言の申し合わせにて、湯治も相応していよいよ堅固にありしなり。
 ときにその翌年に至り、その時節になりければ、右の友達いきたり、「去年の入湯相応せしことなれば、今年もまた迎い湯に立ち越えんと思うなり。貴所にはおぼしめしこれなきや」と勧めければ、「それは望むところなり」と親たちへ申しければ、ともかくもとあるゆえに、去年のとおり出足せり。かの地に至り四、五日過ぎ、かのことを思い出だし、まかるべしとだれにも相談せず、ある日立ち出でしが、過ぎつるころは難儀せしことなれば、今度はよく覚悟して食物等を用意し、かの道に赴き、なるほどかようなる所もありしと心にうなずき、道の分かりのおぼつかなく思う所は枝折りし、または鼻紙取り出だし引き裂き結い付け、または矢立てをとりて石などへ書き記して行くほどに、去年の出でし刻限より早く出でて、ことに食事はたしかなり。道には見覚え等もあれば、前に三島にてもあるべしと見極めしところのおかへは、昼時分に至りぬ。それより、かの所へ行きしは昼過ぎにて、その辺りの家居いえいをのぞきおれども、碁を打ちておる家も見えず。
 そこかここかと見回るうち、一軒の家居ここらにてあるべしと思う家を見れば、まず取り付きに一間ありて、そのつぎに広き中庭の体にて土間あり。その所の真ん中に一間半四方ほどのかやぶきの東屋あずまやを建て、この内に四、五尺四方、高さ三、四尺ばかりに土をもて築き上げ、その上へ碁盤をおき、盤の上に碁器を二つならべ、軒には七五三しめ飾り、賽銭箱さいせんばこを置き、この家へはいり、「火を借用申したし」と言い入るうちに、六十ばかりの老人一人ありて、ほかに人も見えず。「心安きことなり、腰かけてゆるゆると休まるべし」と、茶など与えければ、言い寄るしおに時候の挨拶して、そのうえ申すよう、「昨今ながら承り申したきことのそうろう。向こうの方にかざり置かれしは碁盤、碁器と見えたり。自余と違い、神前のかざり付けのように見え候は、いかがのことなり」と不審しければ、あるじ答えて、「もっとものおたずねなり。これにこそ子細あり。この辺りに一人の碁打ちありて、名人の名を取り、近在近郷に並ぶ人なし。よってこの人、自賛に慢じて人を侮り、われならではと思う心絶えず。人々憎むほどなれども、だれあって足元へも寄り付くこともかなわねば、この道を好む者は門弟となりて指南をうけ、上見ぬわしの所業なりしが、去年今時分にもあらん、ちょうどあなたのようなる人、何国いずくよりともなく忽然こつぜんと来たって、かれと碁の勝負あり。続けて十番まで負けられ、それより後はぐうの音も出ず、その節人々申すよう、『これは全くただごとならず。先生あまり高慢なるゆえに、かれが鼻をひしがんと、天狗てんぐさまの人に化けて来られしものなるべし』との評判にてありし。それよりのち、所の者、ぜひとらねばならぬと思う無尽か、勝たねばならぬ相撲、なにによらず勝負の願いには、この碁盤へ向かい祈るに、勝たずということなし。はてさて、そのはずなり。目前、天狗さまの御手に触れられしことなれば、そのはずのことなり」と、勢いにかかって物語る。ゆえに、「その天狗はわれなり」とも言われず、口を閉じて帰りしとなり。
 右ようの誤怪は最も世間に多いけれども、その原因の発覚せられざるために、真の妖怪となって後世に伝わるようになる。

第五二段 迷信の原因 六(学理)


 世に偽怪、誤怪が非常に多いのは、経験が狭く論理が明らかでないによるというが、その実、学理に暗いということになる。人もし学理に暗ければ、必ず道理あることをただちに理外と思い、思議すべきことをすぐに不思議と信ずるようになりやすい。したがって誤怪が起こり、またこれにつけ込んで偽怪をつくるものも出てくるのである。ことに物理的妖怪、心理的妖怪に至っては、全く学理の不明なるより起こっている。ゆえに余は、この二者を仮怪かかいと名づけて真怪のうちへ加えぬ。例えば、墓場に夜中青色の火が燃え上がることがある。これは燐火りんかにして物理的妖怪と申すものだが、学理を知らざるものは真に幽霊が地上より現れたごとくに思い、幽霊火と申している。
 また民間にて、きつねが化して婦人になったという話があるが、これは人の幻覚よりかく見ゆるのであるから心理的妖怪なれども、学理を知らざるものは真に狐に霊妙の作用があると思っている。それゆえに、学理に通ぜざるのが迷信の原因なることは明らかである。
 余がかつて徳島県小松島町に至りしとき、その地に天狗てんぐ寺があることを聞いた。今より数十年前、その寺の住職が夜半過ぎに起き出して、境内の一隅に立っている鐘楼の屋根の上にあがっていた。家内の者、翌朝はじめてこれを知り、大騒ぎして住職を屋根の上からおろしたが、本人もドウしてそこへ上がったかを全く覚えぬ。この出来事より、住職は天狗につれ出されたとの評判になった。もし、これを学理に考うれば、心理的妖怪にして睡遊すいゆうの一種であろうと思う。睡遊とは、睡眠中起きて出遊しながら自ら覚えざる挙動をいう。かの住職は睡遊を現したのに相違ない。もっともその鐘楼の屋根は、梯子はしごなしにのぼることはできぬけれども、その傍らに樹木があって、この木より枝によって行けば、屋根に上がることができる由なれば、必ず夢中にてその方法を取ったに相違ない。この話は、学理を知れば怪しむに足らざる出来事も、学理を知らざるために妖怪不思議と速断し、種々の迷信を誘起するの一例を掲げたのである。
 心理的方面のみならず、物理的方面にもこれに類したる話が多々ある。その実例は前に再三掲げておいたけれども、さらに一例を挙ぐれば、水中にて溺死できしせるものを陸上へ上げて横臥おうがせしめた場合に、もし血族の者がたずね来れば、必ず鼻血を流出して無言の答えをなすという話はいずくにても申すことだが、これを死者の霊がかかる作用を起こすと迷信しているものが多い。しかし、もし生理学上より考うれば、水中にて苦悶せし間に、鼻孔の内部の血管が破裂し、陸上に横臥中にその血が蓄積されている。それゆえに、なんぴとが来てその体を動かしても流血するはずなるも、親戚の者の来るまではだれも触るるものがない。いよいよ血縁あるものの来たったときに死体を動かさしむるために流血を見るのである。その証拠は、先年佐渡の小木港に溺死したものがあって、海岸にそのまま横臥させておき、親戚の方へ通知を出したるもいまだ来たらざるうちに巡査が検死に来たり、その体を起こせと命じたるときに、鼻孔より流血したという話がある。しかるに、その巡査は全く溺死人とは親戚の関係なき人であったそうだ。これは物理上の学理を知らざるために起こる迷信の一例である。

第五三段 迷信の原因 七(好奇)


 われわれ人間には生来、奇を好み不思議を喜ぶという性質があって、そのために自然に妖怪を多くするようになる。すべて妖怪談は、一人より二人、二人より三人と伝われば伝わるほど、はなしが大きくなり、針小なることが棒大をなすに至るものだが、これは全く人に好奇心があるからだ。前に偽怪のはなしをしたが、偽怪中に、己に利益ないことを偽造して人を驚かすなどは、むろん好奇心があるから起こるのである。また、他人が偽怪に迷わさるるのも好奇心がある故である。
 昨年、岡山県巡講中に直接に聞いた妖怪事件がある。余はその当時のことを目撃せぬから、なんとも断言はできぬけれども、ただ余の想像にては、好奇より起こったものではないかと思う。その怪事の顛末てんまつは左の記事に書いてある。
 明治二十一年五月十五日、岡山県美作国みまさかのくに真島郡下方村、妹尾与一郎氏方にて一の牝猫を産す。これを名づけてしまという。同年十月二十四日、同県備前国びぜんのくに津高郡井原村、土井敬一これをもらい受け、常にこれを慈愛養育す。当三月下旬その大きさを計るに、頭より尾元に至るまで、長さ一尺二寸五分、高さ六寸、方言「ゴンボウ」と称し、尾の長さわずかに一寸三分、尾端びたん右方に曲がりてあたかもかぎのごとし。重量五百八十目、毛色黒く、光沢ありて美なり。ただ、口の辺りより腹部を貫き、後足内方および四肢ともに白色にして、いわゆる白黒二毛の猫なり。月を経ること、ここに十一カ月、その外貌、性質に至りては常猫じょうびょうに異なるところなきがごとく、遊戯、捕鼠ほそもまた常猫に異ならず。しかりしこうして、同人に一女あり登美という(この年十一歳九カ月)。愛撫あいぶ至らざることなし。縞また登美に馴従じゅんじゅうしてよくその号令をきき、登美の問いに答うるがごときに至りては、ひとり他猫に異なるところなり。しかして、縞はよく既往を察し、未来を知り、怜悧れいりにして、またよく教えを受く。字義を解し、数理をさとり、義を守り理を弁じ、また、よく人をして勧善懲悪の観念を起こさしむ。今、そのかくのごときに至りたる理由を、つまびらかにすることあたわずといえども、その履歴を序すること左のごとし。
 さて、登美はこの縞を愛撫すること怠らず。たまたま二十一年十二月三十一日、登美、縞に向かって戯れいう、「明朝は家族一同、改陽の祝辞をのぶべし。縞もまたともに祝せよ」と、これに教うるもののごとし。一月一日、例の祝辞をのぶるの際、縞ニャアニャア数声を発し、もって祝意を表するに似たり。これによって、暗に前日の教えに符合せるをもって、一場これを嘆賞し、愛情前日に倍せるがごとし。「なんじはよく教えを受くることかくのごとし。汝の敏知感ずるに余りあり。汝は今年は幾歳になりしや」と、縞、ニャアニャアニ声を発し、二歳なることを示すに似たり。登美はますます感じ、かつ驚き、かつ喜ぶ。「しからば、去年は幾歳なりしや」と問えば、一声これに応ず。「しからば、汝は旧暦にては幾歳なりしや」と問えば、一声これにこたう。「旧暦の正月来たれば幾歳となるや」と問えば、二声これに答え、そのよく新旧両暦の異なるところを察す。ここにおいて、「新暦にては汝は幾歳なりや、旧暦にては幾歳なりや、去年は幾歳なりしや、汝は去年生まれしや今年生まれしや」など、種々さまざまの問いを発するに、ただ一声のもとにこれに応じ、一つも誤り答うることなし(登美の問うにあらざれば応答せず。以下みなしかり)。「しからば汝は数を知るべし。これは幾本の指ありや」と手指を示せば、発声その数に応ず。「あの皿は幾枚ありや、この書物は幾冊ありや、この筆は幾本ありや、この扇子は幾本ありや」と問えば、十数あるいは数十をもって数うる多数を示すも、必ずこれに注目を要せずして発声これに応ず。あるいは、「前夜、ねずみ幾匹を捕らえしや」と問えば、声その数に応ず。たまたま紛失物あるときは、その物品所在の方位、遠近等を知り、あるいは病者ありてその病状を問うに、軽重を示し、幾日幾週を経ば全快すべし、または快癒の目的なし。あるいは、「某の実子、幾人ありて、某の年齢は幾歳なりや、だれには幾人の子あるや、なおこれよりのち出産ありや、その生まるる子は男なりや女なりや、今年あるや来年あるや、今年なれば二月か三月か何月なりや」と問うに、その恰当こうとうせる月にて発声す。あるいは、稚児の泣きをなせと命ぜば、すなわちこれをなし、歌えと命ぜば長声吟朗これに応じ、「犬はいかにほゆるや」と問えば、声その犬に擬し、読書の声に模し、唱歌の音にまねぶ。あるいはまた一書を翻して、ある文字を指示してこれは何々、これは何々とその字音あるいは訓読に問うに、誤り読むときは決して声を発することなしといえども、その正読するごとに発声してその正読たることを示す。また、文久銭数個を示し、「これが幾厘ありや」と問えば、声その数に応じ、天保銭一個を示し、「これは幾厘に通用するや」と問えば、八声これに応ず。あるいは、五厘、銅一銭、二銭、五銭、十銭、二十銭等の通貨を混合して、「総計幾銭ありや」といえば、また声これに応ず。数種の貨幣を千変万化取捨混淆こんこうし、これを手中にかくし、金員を問うに、あやまつことなし。われ、そのなんたるを知らざるなり。江湖の識者、請う、これを訂せよ、としかいう。(明治二十二年三月下旬、土井敬一しるす
 なんぴともこの記事を読みきたらば、真に霊猫と思うであろう。しかし、その猫は少女の膝の上に置かなければ答えを発せぬのである。もし、真に猫の心より応答するならば、膝を離しても応答しそうなものだ。よってこれは、少女の心にてかく答えさせたいと思うときに、膝の運動にてその思いが猫に伝わる。猫はなんらの心なく、ただその運動を感ずるごとに、声を発するように習慣が付いていると解釈せなければならぬ。ちょうど、むかし流行せしコックリ様と同様である。しかり、コックリ様は無意識的に運動が伝わることが多いが、この猫の場合は意識的であろうと思わる。されば、なんの目的あって少女が意識的に猫に運動を与うるかといえば、つまり好奇心より、人の驚きかつ不思議に思うのがおもしろいと感じたためであろう。しかし、確実なる論断は、実地につきて観察するにあらざれば下し難い。

第五四段 宗教の真相 一(運命)


 以上、すでに知識の方面より起こる原因を大略述べ終わりたれば、これより、運命に迷うより起こるという方を説きたいと思う。知識の方面は教育の受け持ちなれば、もし、その方面より迷信を減ぜんと思わば、学校教育を今一層普及して、理化、博物の知識を進め、かつ論理力を高むるようにせねばならぬ。そのほかに、前に一言せしがごとく、迷信の種子は家庭より授かり、肥料は社会より与えらるるから、教育の範囲を拡大して、家庭および社会に及ぼさねばならぬ。かくして、知識上より迷うところのないようにしても、決して迷信がなくなり尽くすものではない。なぜなれば、人には運命に迷うということがある。運命とはなんぞやというに、この世の中には己の利害に関して、意のごとくならざることが多い。なにほど知識が進み、学理が明らかになっても、己の思うとおりに人生の境遇を動かすわけにはゆかぬ。例えば、われわれは苦を避けて楽を得たい、わざわいを転じて福となしたい、病気、災難を逃れて無病息災でありたいと望んでいるけれども、決して己の力にて望みどおりにすることができない。また、善事をなせばしあわせを得、悪業を犯せば不幸にあうというけれども、これも決してわれわれが期するとおりにゆかぬ。かくのごとく、我意をもって自在に動かすべからざることを運命と名づけている。迷信は知識のほかにかかる運命に迷うより起こってくるというのは、わが身にはなにゆえに病気があるか、わが家にはなにゆえに不幸があるか、己に顧みてなんらの悪事をなせし覚えなきに、不幸、災難が続々起こってくる。これ、なんの原因によるか等の惑いを起こす。これより種々の妄想をえがくのが、たしかに迷信の原因となっている。
 教育家は必ず、知識が進み、道理が明らかになれば、迷信はなくなるに相違ないといわんも、いくぶんか迷信が減ずることはできても、全くなくなることは難い。また、世の中の人をしてことごとく高等教育を修めしめ、迷信の起こらぬ程度まで知識を向上せしむることは、決してできるものではない。また、世の中には順境と逆境とのあることを忘れてはならぬ。もし逆境に向かい、不幸ばかりが続いて起こるときは、知識の進みたるものでも運命に迷うことを免れない。あるいはまた、死活問題に関する一大事に遭遇する場合には、学者といえども多少の迷いを起こすに至る。かつて余が上州榛名はるな山に登ったとき、榛名神社を参拝した。そのとき聞くに、毎年法科大学卒業生が、文官試験の準備のためとて榛名の町に多数下宿するが、その中には、神社に試験の合格を祈願するものがずいぶんあるそうだ。試験に及第せんとする場合なおしかり、いよいよ一死一生の大事に至らば、人力の微弱を自覚し、運命に向かって訴うることになると同時に、多少の迷信を起こすものである。
 かかる運命に対して迷信の起こらぬようにするは、教育の受け持ちにあらずして宗教の受け持ちであるから、これより宗教について述ぶることにしよう。

第五五段 宗教の真相 二(絶対)


 迷信は運命に関係し、運命は宗教に関係すというときは、宗教と迷信との関係について一言せなければならぬ。世人、あるいは宗教そのものが迷信なりと主唱するものがあるが、余輩は今日の宗教中には迷信が混入することを知るも、宗教そのものをもって迷信となすことを許さぬ。まず、この二者の別を述べておこう。
 迷信は道理に背き学理に反する性質を有するものにして、宗教は道理以上、学理以外に根拠を有するものである。例えば、鬼門を侵せばたたりを受くるというは迷信である。なぜなれば、鬼門を侵せばその方位にいる鬼が禍害を与うるとの説なれども、今日の学問にては、鬼門の方位に鬼の住せざることを証明してある。もしまた、その鬼は無形無色にして、目に見るべからずとするも、なにゆえにかかる鬼が東北隅に限って住するや、全く道理なきことである。ゆえに、鬼門説のごときは、学術も論理もともに許さざるところである。
 民間にては丙午ひのえうまの年には大火がある、丙午に生まれたる女子は男を殺すと申すが、これは迷信である。丙も午も五行ごぎょうの方にては火気のさかんなる方なれども、五行そのものがシナの妄説であり、かつ、これを年月に配当するは、単に無意味の符丁に過ぎざるものである。しかるに、人生の禍福の運行がかかる無意味の干支によって支配さるるなどは、学説、論理ともに許さざるところである。また、友引の日に葬式を行えば死人が続くということも、無意味の妄説なること明らかである。
 神仏に対し迷信が混入している例は多々あるが、勧業銀行の千円のくじにあたるように神仏に祈るがごとき、米田の害虫を駆除せんことを神仏に願うがごとき、神仏の力によって伝染病を防がんとするがごときは、迷信の大なるものである。その他、愚民の神仏を崇拝する本心は、大抵みな息災、延命、無病、福利の祈願にほかならぬありさまである。よって、わが国現今の宗教は迷信をもって満たされていると申して不可なきも、宗教そのものが迷信ということはできぬ。
 果たしてしからば、宗教の根拠はいずれにあるかを説明せなければならぬ。迷信は道理に背きて非道理にもとづくものなれば、背理的性質を有すれども、宗教は道理以上に根拠を置くものなれば、超理的性質を有することになる。そのいわゆる超理的本体はすでに相対的現象を超絶せるものなれば、哲学上、これを絶対と申している。その本体すでに絶対なれば、われわれの経験も知識も論理も到底及ぶところではない。すなわち、真の不可思議である。かかる絶対の実在するやいなやを証明するは哲学にして、これを人界に応用して、人心を安逸ならしむるは宗教である。しかして、神仏そのものは宗教方面に現立せる絶対の本体に与うる名称であるから、もとより不可思議である、超理である。それゆえに、背理の迷信とは同日に論ずることはできぬ。

第五六段 宗教の真相 三(信仰)


 背理のものを道理あるがごとく誤って信ずるを迷信とするから、宗教のごとき超理的絶対を信ずる方は正信といわねばならぬ。ここにおいて、信仰に迷信、正信の二者あることが分かる。さて、この宗教上の信仰、すなわち正信と知識との関係も一言するの必要がある。およそわれわれ人類には、その中心に知識と信念との二者がそなわっている。知識はわが心が動的となって、相対より進んで絶対を知らんとする方の作用にして、信念はわが心が静的となって、絶対の消息を受けて感ずる方の心状である。よって、向上的知識は動的理性にして、論理上、絶対に接触する方にして、宗教的信念は静的理性にして、実行上、絶対と一致する方である。前者は理性の目にして、後者は理性の足と申してもよろしい。ゆえに、知識は動的にして、その結果はかえって静的である、信念は静的にして、その結果はかえって動的であると申さねばならぬ。しかして、学術は知識にもとづき、宗教は信念にもとづくの別がある。しかるに、迷信は知識の誤認にして、信念の誤用である。この点において、学術とも相違し宗教とも矛盾することになる。
 今日の諸学中、絶対の実在を論究するものは哲学に限る。ゆえに、哲学と宗教とは兄弟同様の間柄なるも、哲学は論理の上に空漠たる絶対を認識するにとどまり、これを掌握することができぬ。しかるに、宗教はわが心と絶対の融合一致することを説く。したがって、宗教の絶対は空漠にあらずして、具体的のものとなる。なにゆえに同一の絶対がかく状態を異にするかというに、余はこれを理門と信門との相違と申している。哲学は論理の窓より絶対をうかがうによって理門認識の絶対というべく、宗教は信念の手にて絶対に触るるによって、信門建立の絶対というべく、したがって両者の相違が起こるに至るのである。
 今日の倫理は科学の一つとなり、経験に重きをおくために、世界の本源、実体に訴えて絶対に接触することを説かざれども、人心中に経験を超絶せる至高至善の感想の起こることは許している。これを先天の命令と名づけておく。これ、たしかに宗教的絶対の端緒なるも、絶対の面目に接したるものではない。先天の命令は絶対の声に過ぎぬ。その声を聞いて、いまだその光を見ざるのが倫理の境遇である。これ、信門を開かず、心内の戸を隔てて絶対を感ずる故であろう。余はこれを盲目的絶対と名づけておく。しかるに、宗教は絶対の声を聞くのみならず、光を仰ぐことができる。すなわち、盲目にあらずして明眼を具したるものとなる。これ畢竟ひっきょう、信門を開きて絶対関内の光景に接触する故である。
 以上述ぶるところにより、哲学と宗教の相違、および倫理と宗教の異同の一端をうかがうことができるであろう。そのくわしい説明は今ここに論ずべき問題でもないから、他日起草せんとする『宗教新案』に譲っておく。

第五七段 宗教の真相 四(良心)


 さらに迷信と宗教との相異なる点は、迷信は背理なる上に利己的にして、かつ非倫理的である。なんとなれば、一身一家の貧苦、病患、災害を除いて、富貴、財宝、寿福を得んとする一念にほかならざるものである。一身の苦楽を捨てて社会の福利を求め、一家の利害を顧みずして一国の安寧を計るというがごとき道徳的観念は、ごうも迷信中に見ることができぬ。つまり、迷信は利己的、私情的のものである。しかるに、宗教は公益博愛をもととし、たとい自利を説くも、利他を目的とする自利にして、徹頭徹尾道徳的である。もし、これをわれわれの心情の上についていわば、迷信は私情にもとづき、宗教は良心にもとづくの相違がある。それゆえに、迷信は曇りたる塵心じんしんより生じ、宗教は明らかなる真性より起こり、一は煩悩の雲にして、他は真如しんにょの月との相違あることを知らねばならぬ。
 宗教が良心をもととする点については、倫理と同一に帰するようなれども、この二者の間にまた相違がある。倫理はわが心中にやどれる良心だけを説いて、そのほかに及ぼさぬ。しかるに宗教は、われわれの心中にのみ良心あるにあらず、世界にも良心がある、天地にも良心がある。われわれの有する良心は小なるものして、世界に備わる良心は大なるものである。人の良心は動きやすく変わりやすく、その力、微弱なるものにして、世界の良心は確固不抜、泰然不動、偉大なる勢力を有するものとし、吾人はわが微かつ小なる良心を、この偉大なる良心に一致結合せしむることを教うるのが宗教である。要するに、この点はまた倫理と宗教との異点にして、あわせて教育の修養法と宗教の修養法との異なるところである。
 もしさらに一歩を進め、いかなる論拠によって宗教にては世界的良心を立つるかというに、宗教の信門に現るるところの絶対は世界の本体にして、その本体はわが感覚にて触知するごとき物質的のものにあらずして、精神的のものであるべきはずである。かく考えきたらば、世界に大精神あることを知り、われわれの心は小精神なることを自覚するようになる。しかして、われわれの小精神中に雑念と良心とがある。雑念は物質的欲によって誘起せられたる塵心にして、良心は本来純良なる真性である。これと同じく、世界の大精神にも、不純良なるものと純良なるものとがある。その純良なる方が世界の大良心である。これを名づけて、あるいは神とも、あるいは仏ともいうのである。
 わが感覚に触るるところの世界は相対的なるも、その裏面には絶対を具有し、その絶対は死物にあらず活物であり、物質的にあらずして精神的であるとするは、宗教の所説にして、その大精神がわが良心の上に信門を通じて現出するものは、いわゆる世界の大良心である。この大良心と物質的世界との関係を説くに至っては、各宗教一ならざるも、神や仏はその大良心なりという点はたいてい一致することができる。しかして、かかる良心の実在は知識や論理にあるにあらずして、わが固有する良心の直覚、詳言すれば、良心が信門を開いてうかがい得たる光景ということになる。ゆえに、この点は百般の学術とは全く別途の法門にして、外界の経験を超絶せる境遇である。しかるに、今日の教育を受けたる人々は、学術上の道理をもって宗教問題を解決しようと思っている。これは全く方向違いであって、あたかも物差しをもって物の軽重を計り、目をもって物の味を知らんとするの類にして、実に笑うべきの至りである。
 世人、往々宗教をもって迷信となすは、経験や道理をもって証明することのできざる神仏の実在を信ずるという理由にもとづいている。しかし、宗教は全く別途の法門なることを知らば、疑団も氷解するであろうと思う。

第五八段 宗教の真相 五(宗教)


 そもそも宗教の人間界に起こった根源をたずぬるに、もとより原始の人心に固有せるものが次第に開発したに相違なきも、その経路としては、余の考うるところによるに、二様の道程があると思う。その一は、吾人が外界に対し耳目の感覚をもって満足せずして、現象以上に超出せんとする理想的欲望である。これと同時に不思議の霊感を浮かぶることである。例えば、原人が天体を望んで目に映ずるほかに、一種霊妙なるものがその上に伏在している感を有せしのが、外界における宗教の起源であろう。つぎに、内界においては固有の良心の要求により、われより以上に諸善の根本にして、しかも偉大なる勢力を有する大良心があるということを自覚せしのが、また宗教の起源であろう。この点において、宗教は哲学と倫理との二者と起源を同じくすることになる。しかして、この外界の欲望と内界の要求とが相合して、信念の上に建立するに至ったのが現在の宗教である。それゆえに、迷信と宗教とは全く別物なることはいうまでもない。ただし、宗教は古来、人文とともに発達進化しきたれることは事実にして、最初は迷信の形を帯びて世に現れしに相違ない。しかるに、その発達とともに迷信の旧衣を脱して、宗教の真面目を開発するに至ったのである。ゆえに、今日なおその旧衣の迷信を固守する輩に至っては、愚の至りといわざるを得ない。
 今日の宗教といえども、いまだ発達の最上に達せしにあらざるは、多少の迷信の付帯することは免れ難きも、これを信ずるものは、向上的精神をもって従来の宗教に迷信の付着せるを知らば、これを脱却することを努めなければならぬ。ただし、宗教上に用うる儀式、装飾のごときは、迷信に類することなきにあらざるも、正しき信仰を起こさしむる方法、手段なるにおいては、害なきのみならず多少の益あるものなれば、みだりに破壊すべきものではない。
 世人は宗教の霊魂不滅を説き、地獄極楽を談ずるを見て、ただちにこれを迷信とみなすも、これに付帯せる比喩ひゆ形容を見て、その真相と誤解するより起こると思う。かかる比喩形容は己の知識の程度によって、もとより取捨すべきものである。しかして、その原理に至っては決して排去すべきものでない。
 われわれの良心は、善事をなせば必ず善果あり、悪事をなせば必ず悪果あるべしということを、われわれに教えている。しかして、その要求より喚起せる世界の大精神は、もとよりこの善悪因果の規則を支配するものなることも、わが良心がわれわれに教えている。これを天の誠と名づけてもよろしい。古来、「天道は淫にわざわいし善にさいわいす」とはこのことを申すのである。しかるに、人間界は善人にして不幸にあい、悪人にしてしあわせを得ているものが多い。ここにおいて、変遷生滅ある人事界のほかに不滅界あることを要求す。世界の大精神は不滅であると同時に、われわれの精神中にも不滅なるものあって、必ず未来際みらいざいを尽くして善悪因果の規則を満たすものとの信念が起こる。すなわち、現界がこの規則をみたすあたわざるも、冥界めいかいにおいてこれをみたすべしとは、わが道徳的観念がわれを指導するところである。ここにおいて、霊魂不滅の信念と同時に、苦界楽界の実在を喚起するに至るのである。それゆえに、宗教は今日の学術の証明なきかどをもって、これを迷信と断定することはできぬ。これまた、宗教と学術とは別途の法門なることを知らなければならぬ。

第五九段 宗教と迷信


 すでに宗教の真相を簡短に述べ終わったから、さらに立ち戻って、迷信の起こる原因とこれを防ぐ方法とを述べて、余の説を結びたいと思う。
 およそ迷信の起こる原因は、知識に暗き方と運命に迷う方との二様あって、知識の方は学術教育の受け持ちなれば、なるべくその普及を計らねばならぬ。かつ、学校教育のみでは効力が少ないから、家庭教育、社会教育の改良を実行せねばならぬ。そのことは前すでに述べたるとおりである。
 つぎに、運命の方は学術教育の力にていかんともすることのでき難いものなれば、宗教の力をかりて迷信を減退する方針を取らねばならぬ。人情自然の性として、苦をいとい楽を欲するも、目前の世界はわれわれをして、この望みを満たさしめず、人事意のごとくならざることが多い。また、善を行っても、わが社会はこれに相当する福利を与えてくれない。また、逆境に陥るときは、なんぴとに請うても順境に転じてくれない。ここにおいて、人心の薄弱なる悲しさには、種々の迷いが起こってくる。これと同時に、生存競争より生ずる困難がその迷いを助くるようになる。これすなわち、運命に迷うというものである。この迷いが集まって、種々の迷信を重ぬるに至ることになる。かかる運命より起こる迷信を除去するは、宗教の受け持ちである。もし、間接の受け持ちを挙ぐれば教育もいくぶんの助けとなるべきも、今は直接の受け持ちだけを申すのである。
 最初より掲げたる妖怪迷信中には全く宗教に関係なきものあれども、世人が迷信の方に心を引かるるために、宗教の真面目を開現することができぬありさまである。また、世人が迷信をもって染められた心眼をもって宗教を眺むるから、迷信ならざる宗教が迷信の色を帯ぶるようになる。それゆえに、宗教の真相を開現するには、まず迷信を一掃せなければならぬ。余が、いわゆる迷信の妄雲を払わざれば、宗教の真月を仰ぐを得ずとは、このことをいうのである。
 さて、迷信は運命に迷うより起こる。もし、その迷いを除くには宗教の力をかりるを要するというについて、さらに説明しておかねばなるまい。世人は神仏の力によって運命を転ずることができると思っているも、なにほど一心を凝らして神仏に祈願を掛けても、凶年が豊年となり、逆境が順境となり、病災が無病息災となるはずはない。そのわけは、この世界には物質的方面と精神的方面との二様がある。物質界の変化は物理の規則によって支配せられている。天災や病患はもとよりその方の所属である。よって、もし天災、病患を免れんと思わば、学術上研究して得たる規則によるよりほかに道がない。もし、かかる場合に安心の道を求むるには、学術とは全くその道を異にする世界の大精神、大良心と、わが心との一致融合する道によらなければならぬ。すなわち、われわれが運命に迷ったる場合に、わが微弱なる心を世界の大精神の地盤の上に樹立せしめて、一点の迷いの起こらぬようにするのが宗教である。よって、神仏も宗教も物質界の規則を支配するにあらずして、精神界の帰所を指導するものと見なければならぬ。もし、宗教の正信によってわが心と神仏の大良心とを合体するに至らば、いかなる病気、災難、生死の運命に際会すとも、泰然自若、悠々自適の境に安住することを得、多苦多患の世にありながら、歓天楽地の境涯を送ることを得るようになる。この点は到底教育の力の及ばざるところにして、宗教の専売特許である。
 世間の迷信も、時と場合とによっては、多少の安心を得ることはできる。また、いくぶんか世界の運命をあきらめることができる。しかれども、これ、ただ一時の手段にして永久的のものではない。あたかも病原を探らずして、ただ風薬と膏薬こうやくとを用いて、万病を全治し得るものと安心していると同様だ。かつ、かかる迷信は、一方に安心を得ると同時に他方に不安心を招き、戦々恐々として世を渡るようになるから、決して真性の安心を得ることはできぬ。

第六〇段 帰結


 上来、段を重ねて述べきたれるところをここに一括して、その系統を表示すれば左のごとくになる。
迷信の系統の図
 右の順序にて論述しきたり、迷信に有害と無害とあり、有利と無利とあるけれども、差し引き上、有害が多いこと明らかなれば、なるべくこれを減退除去する方法を講じなければならぬ。その方法として、教育上より知識を進め、宗教上より信念を高むるの必要を論じた。
 最後に一言を付加しておきたいと思うのは、迷信と妖怪との関係は前すでに述べたるが、妖怪の究極するところは宗教と一致する点である。余はかつて『妖怪学講義』において、妖怪に仮怪と真怪との二者あることを説いておいた。しかるに、世人は仮怪を見て真怪と思っている。これは迷信である。しかし、真怪は真の不可思議に名づけたるものにして、その実在を信ずるのは迷信ではない。しかして、宗教にて立つるところの神仏もやはり真怪である。ここにおいて、妖怪と宗教との一致を見る。ゆえに、迷信が向上して真怪を信ずるに至らば、すでに迷信を脱して正信となるわけである。
 今一つ注意までに申しておきたきは、神仏に対する祈祷きとうの一事である。ある教育家が余にたずぬるに、「祈祷は迷信であるかないか、もし、これを迷信とすれば、先帝御危篤の際、国民が神仏に対して御快復を祈り奉ったのも、迷信ではないか」という疑問であった。余、これに答えて、「祈祷必ずしも迷信なるにあらず。己の私情をもって自利を祈るがごときは、非倫理なれば迷信である。しかるに、先帝の御快復を祈り奉るがごときは、ごうも利己私心あるにあらず、公明正大の至誠をもって天地の至誠に訴えたのである。換言すれば、わが良心の熱誠があふれて世界の大精神に奏達したのである。ゆえに、これは至誠の向上である。たとい神仏は物質界の規則を支配し、運命を転換することあたわずとするも、至誠の感発するところ、必ずこの点まで向上せなければならぬ。この点は、余がさきに、迷信は非倫理的にして、宗教は倫理なり、と述べたる条項をあわせて考えていただきたい」
 かくのごとく、迷信について説きさり述べきたりたる余の本志は、他にあらず。迷信の雲深きために宗教の月暗きはわが国のありさまなれば、かの雲を払ってこの月をめぐらし、これによって文運と国運の発展を助けんとする微衷にほかならぬ。これ、余が明治、大正の昭代より受けたる皇恩と国恩との万一に報答せんとする素志である。

第六一段 余論


 以上、すでに迷信と宗教との異同関係を述べ終わりたれば、その参考として、余が先年、妖怪学に関して起草せる短編小話を左に列記して、本論の余講とすることに定めた。

(一)妖怪学と諸学との関係

 ヤソ教者は神をもって全知全能の体となすも、余は妖怪学をもって全知全能の学となさんとす。なんとなれば、妖怪学は万学に関係し、これを研究するには万学に通ずるを要すればなり。まず、天文、地質、気象に関する妖怪は、天文学、地質学、気象学に関係し、禽獣、草木、人身に関する妖怪は、動物学、植物学、生理学に関係し、精神の変態を論ずるときは、精神病学、心理学に関係し、鬼神、霊魂の有無を論ずるときは、宗教学、純正哲学に関係し、知力の変態に関しては、教育学、論理学に関係することあり、偽怪、誤怪に関しては、政治、法律に関係するところあり。ゆえに、余は妖怪学をもって全知全能の学となす。
 ここに降石の怪あり。さきに長野市弁天町に起こり、のちに神奈川県川崎町に起こる。もし、これを人為に出ずるものとせんか。しかるときは精神の変態、すなわち一種の発狂より生ずるか、または復讐あるいは悪戯の故意に出ずるか、二者中の一におらざるべからず。これを一種の発狂とすれば、心理学および精神病学の問題となり、これを故意に出ずるとすれば、裁判上、警察上の一問題となるべし。もしまた、その原因を人力以外の神力に帰するときは、宗教学の問題となり、物理の作用に帰するときは、物理学の問題となるべし。一妖怪にして、諸学に関係することかくのごとし。他は推して知るべきなり。
 諸学に、事物の常態を論ずる部分と、変態を論ずる部分あり。その変態を論ずる部分は、みな妖怪学の範囲なり。しかして、常態は事物の表面にして、変態は裏面なり。常態は皮相にして、変態は蘊奥うんおうなり。前者は思議すべきものにして、後者は思議すべからざるものなり。ゆえに、妖怪学は宇宙の玄門を開き、事物の秘訣ひけつを究め、諸学の奥義を示す学なりと知るべし。換言すれば、不可思議の学なり。ゆえに、この学を研究しきたらば、自然に不可思議の妙趣妙味を感得するに至らん。もし人、この多苦多患の世界にありて、いやしくもその心中に快楽の別天地を見んと欲せば、妖怪学を研究するにしかざるなり。

(二)卜筮論

 未来の吉凶禍福をいちいち前知予定するは、人力のなしあたわざるところにして、古来、卜筮家ぼくぜいかの言うところ、決して信ずべからざるなり。たとえその予言の的中することあるも、これ、いわゆる「当たるも八卦、当たらぬも八卦」にして、その結果よく百発百中、千発千中を得るにあらざれば、卜筮そのものの上に信を置くことあたわざるなり。かつ、卜筮は易筮えきぜいにせよ亀卜きぼくにせよ、その種のなんたるを問わず、今日まで民間に伝わるものは、すべて非道理的のものにして、学術上、論ずべき価値あるものにあらず。そのうち、ひとり易学においては、シナ哲学中最も玄妙なるものにして、学術上、講究するに足るといえども、これを人事に応用して、即座に未来の吉凶禍福を予知せんとするに至っては、非道理的のはなはだしきものなり。ゆえに余は、卜筮排斥論者の一人なり。
 従来の卜筮は、その原理その応用ともに非道理的のものなるも、もし、今日の学理にもとづきて別に道理的の方法を考定するに至らば、卜筮そのもの必ずしも排斥するを要せんや。今日は百般のこと、みな旧を脱して新につく際なれば、卜筮そのものもまた一段の改新を要する時機なり。しかれども、未来の吉凶禍福は到底人力の予知しあたわざるものなれば、いかに卜筮を改新すとも、これによって運命の前定を望むべからず。ただ余は、人力の微弱なるために、往々取捨選択に迷うことあり、猶予※(「足へん+厨」、第3水準1-92-39)ちちゅうして決することあたわざることあり。かくのごとき場合に、卜筮の助けによりて己の意向を定むるは、今後人事の複雑なるに従い、いよいよその必要を感ずべし。ゆえに、今日以後の卜筮は単にこの一事を目的とし、従来の非道理的に代うるに道理的のものをもってせざるべからず。しかるときは、卜筮必ずしも排斥するに及ばざるなり。

(三)死論

 人の恐るるもの死よりはなはだしきはなし。病を恐れ、雷を恐れ、地震を恐れ、水災を恐れ、戦争を恐るるは、みな死を恐るるより起こる。少壮の徒も富貴の士も、安心して日を送ることあたわざるは、みな生死の常ならざるによる。縁起、禁厭きんよう、卜筮、相術そうじゅつの民間に行わるるは、みな生死の道に迷うが故なり。もし、人世に死なかりせば、人間ほど幸福のものはあらざるべし。もし、世に不死の薬ありて金銭にてあがない得らるるならば、世界中のあらゆる黄金を投ずるも、おしむに足らざるなり。
 死は人生の免るべからざるものたるは、宇宙万有の原則なり。この原則にして変ぜざる限りは、決して不死の道を求むべからず。しかるときは、死を免るる道を講ずるよりは、むしろ死を恐れざる法を講ずるにしかず。それ、人の死を恐るるは古今の通性なれば、仮にこれを名づけて恐死病といわんか。世に不死の薬なきも、恐死病を医する薬なきにあらず。余が家、幸いにこれを秘蔵するや久し。金満家は財を散じて貧民を救うべし、宗教家は法を説きて愚民を度すべし。前者、これを財施ざいせといい、後者、これを法施ほうせという。二者ともに慈善なり。医師は人命を救助するをもって、古来「医は仁術なり」と称するも、その実、人の死命を左右し得るにあらず。死命はもと天の定むるところにして、人力のいかんともすることあたわざるものなり。ただ、医師は一時の病苦を移すことを得るのみ。病苦を移すはもとより仁術なり。されば、恐死病を医するもまた仁術なり。恐死病は病苦の最大なるものなれば、これを医するは仁術の大なるものならざるべからず。余が家、貧にして財施をなすの力なし、また、身多忙にして法施をなすのいとまなし。しかれども、その家伝の秘法を施して恐死病を医するを得ば、財施ならびに法施に代用してなお余りありと信ず。ゆえに余は、これよりその秘法につきて講ずるところあらんとす。

(四)恐死病を治する法

 人間の諸病中、最も重きものは恐死病にして、諸療法中、最も大切なるものはまた恐死病の療法なり。その療法は余が『妖怪学講義』中に詳述するところにして、その講義の全部ことごとく恐死病の療法と見てもよきほどなれば、ここに重説するを要せずといえども、もしその一端を挙げて示さば、左の点に帰着すべし。
 今、これを理論の方面より論ずることは講義の方に譲り、実際上その治病の処方を約するに左の数条となる。
一、人を無意識化すること
二、来世を立つること
三、死の理を明らかにすること
 この各条につきて略解を下すに、第一条の意は、人の感覚を鈍くし、思想を虚にし、無神経、無意識に近づかしむるをいい、精神をして枯木死灰のごとく無知不覚ならしむるのいいなり、あるいは精神をして木石化せしむるの謂なり。草木には恐死病なし。禽獣にはこれあるも、人間のごとくはなはだしからず。ゆえに、人間の心をして禽獣草木のごとくならしめば、恐死病の苦を免るることを得べし。しかれども、これ到底実行し難し。つぎに第二の来世を立つる一法は、説明をまたずして知るべし。例えば、毎夜睡眠に就くも、だれも恐るることなきは、明日再び覚醒することあるを知ればなり。これと同じく、ひとたびここに死しても再びかれに生ずる望みあらば、あえて死を恐るるを要せんや。もし、来世は今世より一層幸福円満の世界なることを知らば、喜び勇みて死に就くに至るべし。これ、宗教信者の死をいとわざるゆえんなり。つぎに第三条の意は、道理をもって死の恐るるに足らざることを知らしむるをいう。
 例えば、余が『妖怪学講義』のごときこれなり。その講義は「総論」「理学部門」「医学部門」等の八大部門に分かるるうち、「宗教学部門」はまさしく「死はなんぞや」の問題を説明したるものにして、他の諸部門も多少この問題に関連せざるはなし。もし人、第一条、第二条の方法をもって満足することあたわざるものは、よろしく第三条の妖怪学研究の方法によりて、恐死病を医せんことを求むべし。余が一家相伝の秘法といいしは、この方法のことなり。

(五)戦争論

 およそ戦争に三種あり。曰く天争、曰く人争、曰く心争なり。天と相争う、これを天争といい、人と相争う、これを人争といい、心と相争う、これを心争という。その一敗一勝は実に死生の相分かるるところなれば、われわれの生存上、これより重かつ大なるものなしといいて可なり。まず天争につきていわば、われわれは己の生存を全うせんと欲せば、必ず風雨気候に向かって競争せざるを得ず。もし、その競争に敗を取らば、必ず己の健康を失い、疾病を起こし、ついに短折夭死ようしするに至る。つぎに人争につきては、これに有形的と無形的との二種ありて、有形的戦争とは、兵器干戈かんかをもって相争うものにして、普通にいわゆる戦争これなり。無形的とは、あるいは商業上、あるいは工業上、あるいは学問上、あるいは百般の事業上において、社会衆多の人とともに、体力、知力、意力等をもって競争するをいう。これすなわち社会間の生存競争にして、勝ちてはたちまち紳士となり、敗るればたちまち乞丐きっかいとなるのみならず、生計の困難より種々の病患を引き起こすに至る。国家の盛衰興廃もまた、みなこれより起こる。つぎに心争に至っては、わが心中の善心と悪心との戦争にして、日々夜々、精神の活動する間はほとんどやむときなし。その一勝一敗は直接にわれわれの生命に関することなきも、間接には一身および一国の死生に関す。また、悪心にしてよく善心に勝ちたる場合には、たとえ身体は依然たるも、その精神はすでに死せりといいて不可なることなし。ゆえに余は、この三種の戦争は、みな死生の相分かるるところなりという。しかして、国家の盛衰興廃に至っては三種の戦争のともに関するところにして、一国の隆盛を祈らんと欲せば、必ず三種の戦争に勝利を得ることを望まざるべからず。
 以上三種の戦争の妨害物を考うるに、人の迷いを第一とす。まず、天争に対して勝利を占むることあたわざるは、種々の迷雲わが心天をとざして、天地の道理を明らかにするを得ざるにより、また、人争、心争に対して敗を取るは迷心の妨害あるによる。しかして、この迷いを退治するもの三種ありて、おのおのその方面を異にす。
一、前面より退治するものは教育なり。
一、背面より退治するものは宗教なり。
一、側面より退治するものは妖怪学の研究なり。
 もし、仮に迷雲台と名づくる一砲台ありと定むれば、前面より攻撃するものは教育軍なり、背面よりするものは宗教軍なり、裏面よりするものは妖怪軍なり。今、東洋諸邦は、いずれの国も迷雲中に彷徨ほうこうし、迷雲台を固守するものなれば、教育、宗教、妖怪の三軍連合して、一斉攻撃に着手せざるべからず。

(六)運命論

 王公貴人は百事意のごとくならざるなきも、ひとり意のごとくならざるものは、運命なり。運命の前には、権力も金力もさらにその用をなさず。ことわざに「地獄の沙汰さたも金次第」というも、運命の沙汰はこの限りにあらず。ゆえに、王公貴人も運命に対しては大いに迷うところあり。死生の動かすべからざる、病患の避け難き、禍福の期し難き等は、みな運命なり。あるいは富貴の家に生まれて、生まれながら富貴なるものあり。あるいは貧賤の地に生まれて、生まれながら貧賤なるものあり。あるいは天性英傑の才を抱きながら、時の不遇のために終身その才を伸ぶることあたわざるものあり。あるいは凡庸の力をもって僥倖ぎょうこうを得るものあり。あるいは明治以前に生まれて尊王を唱え、その身もその名もともに湮滅いんめつして世にあらわれざるものあり。あるいは宗教革命の前に出でて革新主義をとり、ために身りくせられて名の伝わらざるものあり。
 かくのごときは、人力、人知のいかんともすることあたわざるところにして、これを総称して運命という。これ、実に諸迷のよって起こる根拠なり、本城なり。この本城を一掃するにあらざれば、到底迷苦の世界を変じて至安最楽の世界となすことあたわざるべし。しかして、その脱苦与楽の道は実に妖怪学の目的とするところにして、また諸学の終極の目的なり。換言すれば、この問題にして解説し得れば、宇宙間のあらゆる疑問はみな氷解するを得べしと信ず。
 今日、百科の学問が、いまだこの点につきてなんらの報告も説明も与えざれば、妖怪学が独力孤立にてこの最大至難の問題を解明すること難しといえども、諸学の研究より得たる結果を総合しきたりて、これを運命の上に応用すれば、いくぶんかその理を開示するを得べし。これ、余が『妖怪学講義』中、「純正哲学部門」において講述するところなり。

(七)天災論

 人の大いにおそれ、かつ最も意のごとくならざるものは天災なり。天災中、地震を第一とす。水災、風災、火災、疫病、飢饉ききん等、その種類はなはだ多し。近来、医術大いに進み、疫病のごときはまた恐るるに及ばずというも、世の開け交通の頻繁なるに従い、新奇の諸病ようやく入りきたり、疫病のために人命を損ずる割合の年一年より多きは、統計をまたずして知るべし。また、水災、風災は土木工事の進歩にかかわらず、年々その害の加わるは、わが近年の経験に照らして明らかなり。故をもって、下流社会はいうに及ばず、中等以上の人々まで大いに疑懼ぎくの念を抱き、百方これを避けんとするものがるるに道なく、ついに迷信の淵に沈むに至る。ここにおいて、天災のなんたるを講究して、これに対する決心を定むるを今日の急務となす。
 天災は人力の予知し難きものにして、また意のごとく左右すべからざるものなり。今後なにほど人知が進み理学が開くるも、今年にありて明年の天災を予知することあたわざるべし。しかるに、数百年間の歴史につきて考うるに、今後の天災はたいてい測定することを得る理なり。例えば、地震のごときは平均五十年ないし六十年に一回起こることあり、飢饉のごときも六十年一回の平均なり。大水災、大風災も五十年間一回の割合に当たる。ゆえに、もし、人間一生五十年ないし六十年を寿命とすれば、一生に地震一回、飢饅一回、大水災、大風災おのおの一回ずつ遭遇する割合なり。疫病、戦乱、火災等も、大略これに準じて予知するを得べし。もし、これを人間界の天税とし、先天の約束として人生の免るべからざるものと最初より覚悟しおらば、一切の苦心憂慮は全く無用なるを知るに足る。もし人、みなよくこの覚悟を有するにおいては、必ずやこの世すなわち極楽の境界を営むに至らん。

(八)安心税

 人のこの世にあるや、一日も安心なかるべからず。安心もし求め得ざるときは、生をすてて死に就かざるを得ず。故をもって、人の一生中、安心のために金財を投ずることすこぶる多し。これ、これを安心税という。いずれの国にても、宗教のために消費するところ莫大なるは、すなわち安心税なり。安心税はひとり宗教に限るにあらず。日々の生存上、その活計の多分はみな安心税ならざるはなし。あるいは縁起、あるいは禁厭きんよう、あるいは方位、あるいは時日の吉凶を知らんがために、多少の金銭を投ずるはやはり安心税なり。余かつてこれを聞く、「資産あるものが雷火を避けんために避雷針を屋上に立つるがごときは、その実、雷火を避くるというよりは、むしろ安心を助くるものというべし。実際、雷火にかかるがごときは、万一もなき特別の場合にして、毎年これを避くるために多少の計費を要するは、無益なるがごときも、もしこれを安心税として算入するときは、決して冗費じょうひにあらざるを知るべし」と。これによってこれをみるに、生命保険、あるいは火災保険、あるいは海上保険のごときは、その一部分みな安心税なることを知るべし。毎夕夜番を置きて、時間ごとにたくをうちて四隣を一巡せしむるがごときは、多少火災、盗難を防ぐの一助となるべきも、その実、安心税を払うものとなるべし。衛生費のごときも、その多くは安心税なること明らかなり。また、医療および医薬の代金のごときも、そのうちに安心税の加わることすくなからず。例えば、医師が病者を診断して、この病は別段服薬するに及ばずといわるるも、病者は決して安心せざるべし。故をもって、医師自ら無効と知りつつ、服薬せしむるがごときことあり。かくのごとき服薬は、安心税なること言をまたず。これによってこれを推すに、諸病の服薬は多少の安心税を含まざるはなし。これを要するに、人間一生中、安心のために費やすもの実に夥多かたなりとす。しかるに、その方法のいかんによりては、全く無効の安心税を消費することあり。そのはなはだしきに至っては、安心税のためにかえって迷心を増長するがごときものあり。これ、実に憫然びんぜんたらざるを得ず。ここにおいて、余は妖怪学を講じて世人の惑いを解き、愚民をして無益に安心税を支出するの憂いなからしめんと欲す。これまた、国家経済においても、多少裨益ひえきするところあるべしと信ずるなり。

(九)養神論

 人、生まれて心身を養う道を講ぜざれば、永くその生を保つあたわず。しかして、その身を養うには衛生法あれども、その心を養うにはなんらの方法あるを聞かざるは余の怪しむところにして、爾来、養神術を研究してもって今日に至れり。古来、和漢の書中には往々養生を論じたるあり。その中には養神の方法をも混説せるのみならず、身を養うに心を養うの方法を用いき。これに反して、今日の衛生法は生理学の理にもとづき、養身の一方に偏する風あり。この両者ともにその正を得ず。ゆえに余は、養身的衛生法のほかに、養心的衛生法を講ぜんとす。これをここに養神論という。その一端は、余が「医学部門」心理的治療法、および別著『失念術講義』中に略述したれば、よろしく本編につきて見るべし。ただしここに、養神術の第一は、余が妖怪学のいわゆる真怪を達観するにあることを一言せんのみ。
 それ、真怪は宇宙万有の内外を一貫して存するものなれば、これを外にしては宇宙の上にその相を現し、これを内にしては一心の上にその体を聞く。ゆえに、吾人もし活眼を放ちて宇宙を達観するの際、おのずから美妙の光景に接触することを得。これ、すなわち真怪の光輝なり。美術の美も風景の美も、みなこの光気の外に発散せるものにあらざるはなし。ゆえに、もし人、その心神を養わんと欲すれば、真怪を達観する方法を講ぜざるべからず。この達観法を分かちて、外観法および内観法の二種となす。外観法また分かれて人為的、自然的の二種となり、内観法また知力的、意志的の二種となる。今、そのいちいちを弁明するにいとまあらずといえども、外観法の第一は、天然の好風景を観じてその美妙を楽しむにあり。春花秋月、夏山の葱々そうそうたる、冬雪の皚々がいがいたる、これをみるものみな、その好風景に感ぜざるはなし。心神を養うの術、これをもって最も便なりとす。しかるに、風景は常に一様なるあたわず。もし暴風大雨のときにありては、かえって心神をいたましむるのみなれども、その中におのずから宇宙の勢力の発現するありて、人をして雄壮の情を動かさしむるものなれば、これまた達観の方法いかんによりて、心神を養うの一助となるものなり。かくして、すでに天気の不良なるも、なおこれに接見して快楽を感ずる以上は、平常、天気、風景の異状なきときも、これをみて好風景に接したると同一の愉快を感ずることを得べし。しかして、よくこの地位に達するには、必ず多少の練習を要するなり。内観法の一は禅学なるが、禅学を修むるにはまたすでに一定の方法、階梯かいていあり。果たしてしからば、外観法にも一定の練習法なかるべからず。これ、余がもっぱら講究せんと欲するところなり。

(一〇)妖怪学と美術との関係

 妖怪の研究は、仮怪の迷雲を払い去りて、真怪の明月を開きあらわすにほかならず。しかして、真怪を開顕するは、人をして歓天楽地の境遇に遊ばしむるにほかならず。それ真怪は、これを外にしては天地の実体、これを内にしては精神の本性にして、天地の美、精神の妙はすなわち真怪より発するところの光気なり。この光気を実際に応用し、人をしてただちにその風光に接触せしむるものは美術なり。ゆえに、美術は大いに妖怪学と関係し、真怪を開顕するに欠くべからざる用具なり。
 美術に種々あり。目に属するものあり、耳に属するものあり。音楽は聴覚上の美術にして、絵画は視覚上の美術なり。彫刻、彩色、縫箔ぬいはく、挿花、盆栽、庭作り、建築等、みな美術なり。詩文、和歌、謡曲、義太夫ぎだゆう、発句、俳諧はいかいも美術なり。わが国にありては、茶の湯、習字に至るまで美術に属す。もし人、これらの美術に接し高尚の理想を浮かべ、はなはだしきに至っては憂いを忘れ、食を忘れ、年を忘れ、眠りを忘れ、手の舞い足の踏むを知らざるに至る。これ、すなわち真怪の光景に接して、歓天楽地の境遇に遊ぶものなり。
 今やわが国、物質的の文明駸々しんしんとして進み、明治の天地は全く別世界の観を呈するに至りたると同時に、人民一般に物質的快楽あるを知りて、理想的快楽あるを知らざるの弊、日一日よりはなはだしきに至れり。元来、わが国民は理想上の趣味に富みたる人民にして、ややもすれば物質的快楽を厭忌えんきすること、その度に過ぐるがごとき弊なきにあらざりしも、高尚優美の風致を愛するに至っては、君子国の名に恥じざるところありき。しかるに、今や一般の人情、気風、日に月に卑劣に走り、まさに殺風景の極に陥らんとするの傾向あるは、実に慨嘆にたえざるなり。けだし、その弊を救うは、美術を奨励して、ただちに真怪に接触する方法を講ずるにあり。余が妖怪学研究の目的もまた、この意にほかならず。
 わが国の国体は、国民の高尚優美なる気風の上に存立することは、余が弁解をまたず。しかるに、もし人みな物質的快楽のみに走るに至らば、自利私欲に恋々として、国体の基礎なる大義名分を忘るるに至るの恐れあり。その結果、国体の上に及ぼすは必然なり。ゆえに、わが国民に理想上の快楽を知らしめ、もって自利私欲に偏する弊を防ぐは、実に今日の急務なりとす。これ、余がここに妖怪学と美術との関係を論じたるゆえんなり。

(一一)妖怪学上、宗教と哲学との位置

 妖怪学にて妖怪の道理を窮めていちいち説明するに至らば、今日世間に行わるるところの宗教は、ことごとく自滅の不幸を見るに至らんというものあれども、余がみるところにては、妖怪に仮怪と真怪との二種あるがごとく、宗教にも真仮の二種あり。仮怪の道理にもとづきて立つるところの宗教は、これを仮教と名づけ、真怪の道理にもとづきて立つるところの宗教は、これを真教と名づく。もし偽怪、誤怪のごとき、虚怪にもとづきて立つる宗教は妄教と名づくべし。このうち妄教および仮教は、妖怪学の解釈によりて自滅に帰するは勢いの免るべからざるところなるも、真教は全くこれに反して、ますます世に顕揚せらるるに至らん。
 もし、宗教をもって真怪の範囲内に入るるときは、純正哲学と同一の理論に帰し、世のいわゆる宗教、すなわち神仏の冥護めいご等を説くことあたわざるに至らんというものあり。ここにおいて、真怪に二種あることを知らざるべからず。その二種とは理怪と秘怪なり。理怪は真怪門中にありて、絶対の実在および絶対と相対との関係を論明する方をいい、秘怪は神仏と衆生との関係を説示する方をいう。ゆえに、理怪は哲学(純正哲学)の本領にして、秘怪は宗教の本領なり。理怪は道理の究極するところ、秘怪は信仰の淵源するところなり。かくのごとく分類しきたらば、妖怪学上における哲学と宗教との位置、および妖怪学の進歩に伴って、真正の宗教の世に興るべきゆえんを知るべし。

(一二)妖怪学の本尊説

 妖怪学と宗教との関係はすでに論明しおきたれば、ここにこれを略し、妖怪学にてはなにを本尊と立つるやにつきて一言せんと欲す。その本尊は、妖怪学の目的を明らかにすればおのずから知ることを得べし。しかして、その目的は仮怪の迷雲を開きて真怪の明月をあらわすにあれば、真怪そのものはまさしく妖怪学の本尊なり。これ、ひとり妖怪学の本尊たるのみならず、仏教にても、ヤソ教にても、儒教にても、神道にても、みなこれを本尊とするなり。かの哲学者スペンサー氏のいわゆる不可知的も、この真怪に与えし名称にほかならず。老子の無名も数論すろんの自性も、この真怪を指していうのみ。けだし、その真怪たるや、定まりたる形状なく、定まりたる位地なく、制限なく分量なく、いわゆる無限無量にして、時間をきわめて際涯なく、空間をきわめて限界なきものなり。ゆえに、これを絶対不可思議の体となす。これを不可思議とするも、その体、全然吾人の知識、思量の外にあるにあらず。吾人の言思は、たとえその全体を描きあらわすことあたわざるも、その一斑を開示することを得。ゆえにまた、これを相対可知的の体となす。もし、この前後の思想を総合していうときは、絶対にしてかつ相対なり、不可知的にしてかつ可知的なり。換言すれば、真怪そのものは一体両面の関係を具し、相絶両対すなわち一なるものなり。この道理は、到底一朝一夕のよく尽くすところにあらず。要するに、妖怪学の本尊たる真怪は、諸教、諸学の本尊にして、仏教信徒もヤソ教信徒も、儒者も神官も、ともに崇拝して不可なかるべし。ゆえに余は、これを諸教、諸学に通ぜしめんと欲し、「真」の一字をもってその体を表出す。
丸<真の図
 この「真」の字は、妖怪学にありては真怪を意味し、仏教にありては真如しんにょを意味し、ヤソ教にありては真神を意味し、儒教にありては真道を意味し、神道にありては真霊を意味し、老荘にありては真人を意味し、諸学にありては真理を意味し、あるいは真心、真体、真宗、真教等と解するも随意なり。ゆえに、この「真」の一字は諸学、諸教の本尊なること明らかなり。

(一三)哲学的守り札

 前項に妖怪学の本尊説を掲げて、妖怪の本尊は「真」の字にあることを示したるが、この「真」の字は宗教の何宗たるを問わず、学問の何学なるを論ぜず、一般に本尊として礼拝して差し支えなし。ゆえに余は、この文字を特に印刷して諸氏にわかち、もって哲学的守り札と定めんと欲す。およそ守り札は、その物もとより神にもあらず仏にもあらざれば、これを礼拝崇敬するも、別になんらの効験、霊能あるべき理なし。ただその用は、一つは安心慰安のためなり、一つは注意を呼び起こすためなり、一つは信仰を固むるためなり、一つは良心を想起せしむるためなり。例えば、子供に怪我よけの守り札を帯ばしむるは、一種の禁厭きんようと同じく、気安めに過ぎず。さなければ、子供をして怪我せざるよう注意を起こさしむるものなり。火難よけ、盗難よけ等の守り札を柱の上に張りつけおくも右同断なり。中にも天照皇大神てんしょうこうだいじんの神符を神棚に納めて、朝夕礼拝するがごときは、一つは崇敬の意を表し、一つは信仰の念を深くし、よってもって良心を喚起するに至るものなり。ゆえに、守り札必ずしも無用なるにあらずといえども、これによりて目前直接の霊験ありと思うは愚民の迷いなり。ただ、良心を集中するに多少の効験あるのみ。換言すれば、守り札は客観的の効験あるにあらずして、主観的の効験あるのみ。ゆえに余は、哲学的守り札を設けて守り札の改良を計らんと欲す。この守り札は、「真」の字をもって宇宙の本体、万有の実体、精神の本性、真理の本源等を代表するものとし、これに対して一向専念に礼拝すれば、わが精神中に宇宙の大観を喚起し、心性の帰向を一つにし、良心の集中を促し、たちまち「精神一到何事不成」(精神一到何事か成らざらん)の境遇に至らしむるを得べし。されば、朝夕その守り札を信念礼拝すれば、百魔ことごとく除くと解しても不可なかるべし。その百魔はわが心中の魔にして、心外に魔あらず。ゆえに、これによりて火難、盗難、天災を免るること難しといえども、もし、わが精神一到して諸事に当たるを得ば、百難ことごとく排して、天災もいくぶんか減ずるを得べし。すなわち、人盛んなれば天に勝つの理により、礼拝の力より天に勝つを得べし。かくのごとく解しきたらば、間接には外界の百魔もあとを絶つといいて可なり。これ、余がいわゆる守り札の効験なり。

(一四)幽霊談

 先年、国家学会例会のとき、谷子爵は「幽霊と国家との関係」と題して講演を試みられたり。予は当日、やむをえざる故障ありしため出席することを得ざりしをもって、親しくその説を聴かざりしが、その後、新聞紙上においてその大意なりというものを読み、よっていささか考え付きしことあれば、ここにこれを記して、もって江湖にたださんと欲す。予が数年来研究せる妖怪事実のうちにも、幽霊の一項ありて、その説明は先般発行したる『妖怪学講義』第六門第一項に掲載したれば、今、これを詳論することをなさず。ただこれを研究するに当たり、注意すべき二、三の要件を掲示するにとどめん。
 それ、幽霊の談は時の古今を問わず、洋の東西を論ぜず、あまねく世に伝われるところにして、真にこれありと信ずる者、現時にありてもなおすくなしとせず。しかも、実際これを見たりという人に至りては、はなはだまれなり。しからば、かの多数なる幽霊論者は、たいてい実際にこれを見し人にあらずして、古来の伝説、もしくは世人の風説に聞き、よってもって自己の信仰を固くしたる者なり。これをもって、真に幽霊ありと信ずる人に対しては、その論の真偽をたださんより、むしろ伝説、風説の果たして確実なるものなりやいなやをただすを要す。すなわち、幽霊有無の問題は事実真偽の問題に帰着するなり。今、幽霊ありと論ずる者の論拠とするところを考うるに、霊魂不滅の説にほかならず。すなわち、その説に曰く、「人の死するということは、ただその肉体が生活作用をやめしまでにして、霊魂そのものの滅せしにあらず。すでに霊魂にして滅せざる以上は、いったん肉体を離れし後といえども、いかにかして一種の形を現し、人にその存在をあらわすべき道理なり。ゆえに、死者が自家または社会のことにつき執念を残して、死後なお安んずることあたわざる場合には、幽霊となりてその形を生存せる人にあらわし、そのおもうところを告ぐることを得るは疑うべからず」と。
 しかれども、少しく考うるときは、世にいわゆる幽霊と、霊魂不滅論者のいわゆる霊魂とは、全く性質の異なれるものなることを発見するに難からざらん。なんとなれば、いわゆる幽霊には形あり、色あり、声もあり、重量もあり、しかしていわゆる霊魂は人の精神を指すものにして、これらの性質をそなえざればなり。もし、幽霊にして果たして霊魂と同一物ならんには、これすなわち精神そのものの体にして、いったん肉体を離れし後、形色をそなえて人の前に現ずべきいわれなければ、世にその形体を見しという人の眼前に現れし物は、実は幽霊にあらず、また霊魂にもあらずして、これを他物と仮定して可なり。かつ、幽とは不可見のいいならずや。しかもこれに形体ありとせば、論理上撞着どうちゃくのはなはだしきものといわざるべからず。されば、かの幽霊論者の説くところは、道理上すでに霊魂不滅説と全く関係なきものと知るべし。かつ実際上においても、全く自家の経験に基づけるにあらずして、多くは風説、伝説の類を根拠とせるものなれば、これを事実としてその論を承認することあたわざるなり。たとい一歩を譲りて、その事実を確実とし、その道理を精確なりと仮定するも、なお二、三の考究を要する問題ありて、決して軽々に論断を下すべからず。すなわちその問題の第一は、いったん肉体を去りたる無形質の精神すなわち霊魂が、いかにして再び形質をそなうるに至りしかということこれなり。また第二は、幽霊の現れし場合ならびに人のこれを見し場合を考うるに、種々の事情存せざるはなきことなるが、なにゆえに幽霊の現るるにはかかる事情を要するかの点これなり。その事情とはなんぞや。
 試みにこれを左に列挙せんに、まず、これを主観的と客観的とに分かつを便とす。その客観的には、第一に、幽霊の現ずるは薄暮あるいは夜中のごとき、事物の判明ならざるときに多き事情あり。第二に、寂々寥々せきせきりょうりょうたる場所に多き事情あり。第三に、死人ありし家、久しく人の住まざりし家、神社仏閣、墓畔ぼはん柳陰りゅういんのごとき場所に多き事情あり。その主観的には、第一に、幽霊はある一人に限りてその形を見ること多く、衆人同時にこれを見ることはなはだ少なき事情あり。第二に、疾病あるいは心痛、その他の事情によりて、身心上に衰弱または変動を生じたるか、もしくは、発狂したる場合かにおいて多く現るる事情あり。第三に、幽霊を見るは、その性質感動しやすく、恐怖しやすく、概して知に乏しく情に強き人に多き事情あり。第四に、自ら一事を専念沈思する場合に多き事情あり。例えば、寡婦がもっぱらその亡夫を追慕してやまざる場合において、その幽霊を見るがごとし。
 これを要するに、以上列挙せしがごとき種々の事情ありて、はじめて幽霊現るるとせば、なにゆえにこれらの事情が幽霊の現出に必要なるかは、決して研究を怠るべからざる要点ならずや。さはいえ、予は決して幽霊なしと断言せんとするにあらず。また、決して幽霊ありと信ずる論者を攻撃せんと欲するにあらず。ただ、世の幽霊論者が僅々きんきん二、三の事実によりて、ただちにこれありとの断定を下さんとする傾向なきにあらざれば、かくのごとき論者に向かいて、注意を請わんと欲するに過ぎず。ゆえに、予は幽霊ありと信ずる論者に向かいて、その断定に到達するにさきだち、予が上に列挙せし一、二の問題に対し、十分なる解釈を与えられんことを希望してやまざるなり。
 しかして、谷子爵の引証せられし二、三の実例は、予が上に掲げし種々の事情と異なり、その現るるや白昼においてし、一人に限りて見えしにあらずして、衆人に見えたりという。しかれども、かかることよりしては、なおいまだその存在を証明することあたわざるは、もとよりいうまでもなし。かつ、子爵もすでに幽霊に形体ありとせられたれば、予が第一の問題につきてはなお弁明を要するなり。また子爵は、生前に心純良にして事に熱心なる者、ある事業に対し、その一念を果たすことあたわずして死するときは、死後、幽霊となりて現るることを得べしと論決せられたり。しかれども古来、性質純良、事に熱心なること、子爵の引証せられし人々よりもはるかにまさり、しかも一念を残しし人にして、幽霊となりしことを聞かざるものすくなしとせず。かつ、古来、幽霊となりし人々につきての伝説を聞くに、必ずしも子爵のいわれしごとき性質をそなうる者に限らざるがごとし。果たしてしからば、子爵の説は事実に合したるものなるやは疑いなきあたわず。また、もし子爵のいわれしごとく、一念死後にとどまりて幽霊となり、よってその所思を果たすことを得とせば、宗教信者にして生前に極楽を信ずることあつき場合には、死後、その霊魂の上に極楽世界を開現しきたりて、自らそのうちに遊楽することを得べしと解して不可なきがごとし。
 これを要するに、予は子爵の説をばくせんと欲するにあらず。予はかえって、幽霊談の国家学会の論壇に上りたるについて、深く子爵に謝するところなり。子爵もまた自身の論断を論理に合したりと信じおられざるや明らかなりといえども、世の幽霊を説く者、ややもすれば古来の伝説にして真偽保証しがたき二、三の例証によりて、断案を下さんとする弊なきにあらざれば、これらの論者に向かい、事実のほかに論理に考うるの必要を説きて、予が希望するところをのべしまでなり。

第六二段 付録


 以上は迷信の方に重きを置いて説いたから、ここに、余のかつて起草せる宗教方面の説明を、付録として参考に備うることと定めた。すなわち左のごとくである。(この論文は『妖怪学講義』中「宗教学部門」の一編を抄録したるもの。再出の点なきにあらねど、便宜のためそのまま録す)

第一節 宗教上の妖怪

 これより宗教に入りて、幽霊、鬼神等のなにものなるやを説明すべし。そもそも幽霊、鬼神は、通俗の妖怪中の最大妖怪にして、実に怪物の巨魁きょかいというべし。宗教はすなわちその妖怪物の宿るところなれば、これを指して妖怪の本城となすも不可なし。ゆえに、そのよって起こる道理をつまびらかにせざれば、世の仮怪を一掃すること難し。往昔むかし、孔子は「怪力かいりょく乱神を語らず」といわれたるに、予がごとき浅学の者、天地間の大怪たる幽霊、鬼神を論ずるは、孔子もしましまさば、一声の下に呵責かしゃくし去るはもちろんなりといえども、時勢変遷の今日にありては、またやむをえざるなり。およそ世に幽霊、鬼神を信ずるものと、信ぜざるものあり。信ずるものは、古来の伝説、経験について実例を挙げ、もってその存在の確実なることを証し、信ぜざるものは、これ、人の精神神経作用より製造せるものにして、実体あるにあらずという。そのうち信ぜざるものの例証に引きたるものに、おもしろき談多ければ、今二、三を挙げて冒頭に掲げんとす。まず、司馬江漢が『春波楼筆記しゅんばろうひっき』に左のことを載せたり。
 今より四十年以前のことなり。六郷の川上に毬子まりこの渡りあり。すなわち、まりこ村なり。ここより二十町余り行きて、郷地という所の染物屋の亭主は、かねて予にを学びて弟子なり。九月の末、われを伴いて郷地に至る。翌日は雨降りて四、五日も滞留す。そのとき五、六町かたわらに、江戸より来たりおりける者とて手習いの師匠あり。主人と二人連れして、かの師匠の方へ行きける。夜に入りて帰る。その道、盥山かんざん洗足寺という寺あり。これはいにしえ、神祖源君公ここを御通行のとき、老婆の衣類を洗濯しけるを御覧じ、その寺号をおつけなされしとぞ、珍しき名の寺なり。その日の暮れ方、この寺に葬礼ありという。そのことも知らず夜半ごろ、染屋主人と二人通りかかりしに、その寺の門前とおぼしき所に、白き衣服を着たる者の、腰より下は地よりも離れ、あなたこなたと動くものあり。世にいうところの幽霊なり。われも若年にて、このようなるもの今まで見たることなし。はなはだ恐ろしく思いけるが、その近辺に酒屋あり。寝入りたるを戸をたたき起こしければ、酒屋、六尺棒を手に持ち、「イザござれ、世に化け物のあらんや」といいて、先に立ちて行く。あとよりオズオズしてつきてゆき見れば、葬礼のとき、紙にて造りたるはたの、木の枝に掛かりたるなり。葬礼のとき、幡の木に引き掛けたるを、そのままにして置きける。昼もこの寺の前は、樹木茂り薄ぐらき所なり。ことさら夜分ゆえ、はなはだ怪しく見えしも道理ことわりなり。
 また、東江楼とうこうろう主人の『珍奇物語ちんきものがたり』初編上に幽霊談を載せたり。
 往古むかしより日本にても、西洋にても、冤鬼えんきあるいは妖怪の説ありて、人も往々これを見しなどというものも最も多けれども、これはみな誑惑癖きょうわくへきをなすの妄念より出ずるか、あるいは夢か、あるいは戯造か、さもなければ暗夜に墓地などを経過とおるとき、恐怖のあまり一像を思い出だすかによるものにて、決して真の怪しきものあるべき理なし。ここに一つの奇談あり。某地の野外に土橋ありけるが、この辺りは人家もなく、いとすさまじき所ゆえ、往古よりこれを幽霊橋と唱え、雨夜には幽霊の出でしこと、往々ありしなどいい伝え、雨夜にはだれあってここをとおる者もなかりしが、ある人よんどころなき用事ありて、雨夜にこの橋を渡り、ものすさまじく思いし折から、たちまち向こうより頭長く、体には毛のごとき白衣を着たる奇怪物現れ出でて、急にわが方へ襲いきたるの様子ゆえ、もはやのがれんとするもかなうまじ、むなしく彼に食わるるより、むしろ力の及ぶ限り防ぐべし。にくき妖怪の所業なりやとひとりささやき、諸手を抜き、不意に躍りかかりてむずと組み付きければ、妖怪は驚きたる様子にて大いにさけび、互いに押し合いけるが、妖怪は誤って足を踏み外し、河中に落ちたり。ゆえに、人はく走りて家に帰り、大いに誇りていう、「われ今、かの幽霊橋にて妖怪に出あい、すでに食われんとせしが、われ、わが力に任せて河中に投げ込みたり」いまだはなしも終わらざるうちに、外より一人、びっしょりぬれて入りきたり、色青ざめ声震えていうに、「いま余、かの幽霊橋を通りかかりければ、妖怪不意に飛びかかりしゆえ、余も大いに驚きたれども、なんぞ恐るるに足らんと暫時は組み合いしが、なかなか敵し難く、ついに河中に投げ込まれ、危うき命を助かりたり」と物語りす。ここにおいて、初めてその妖怪にあらず、かえってわが朋友なることを知れり。もし、両人ここにてあわずんば、互いに鬼となし怪となして、人また人にこれを伝えん。
 また、ある臆病なる武士あり。夜中ものすごき道を帰りければ、傍らのかきの上より、首の長き頭の巨なる妖怪、人に向かって動揺する状なり。かの武士大いに驚き、ただちに長刀を引き抜き、躍りかかって切り付けたれば、巨頭は真っ二つにきれて地に落ちたり。ゆえにはしりて家に帰り、大いに誇っていう、「今われ、某地において妖怪をりしが、手に応えて倒れたり」と。翌日、朋友を伴いその地に至り見れば、瓢箪ひょうたんの二つにきれて地に落ち、半分はなお籠の上に掛かりいたり。これを見て、かの武士は大いにはじ、初めて妖怪にあらざることを知りたりと。これも、もし翌日行きて見ざれば、鬼となし怪となすこと疑いなし。およそ世の冤鬼えんき、妖怪というものも、その源を探究さぐれば、大抵みなこれらの類なるべし。この世界中に、かならず理外の事のあることなし。また実体なきものにして、わが耳目に触るるものなし。
 世に妖怪を信ぜざるものは、右らの例を引きて、幽霊、鬼神談を一陣の風とともに、雲消霧散に帰せしめんとするも、世のいわゆる妖怪は、みなこの種のごときものに限るにあらず。また、たとい幽霊なしとするも、その真に存せざる道理を証明せざるべからず。
 ゆえに、ここに論ずる幽霊談は、幽霊のよって起こる本源にさかのぼり、宗教そのものの大原理より説明を下さんとす。これ、余が左に宗教全体について述明するゆえんなり。

第二節 通俗の宗教論

 およそ通俗の信者が、宗教を解釈するに二派あり。一つは感情的に解釈するものにして、一つは神秘的に解釈するものこれなり。そのいわゆる感情的に解釈するものは、さらに道理のいかんを問わず、単に自己の感情に訴えて、自ら信ずるところ、必ず確実にして誤らずとなすものにして、神のごときは感情上なんとなくあるがごとく感ぜられ、道理のいかんを問わず、単に信仰の力によりて実際儼在げんざいするものと断定し、また未来世界の存否、霊魂の生滅のごとき問題に至りても、情の上に考うれば、霊魂は死せずして死後に別世界ありとなさざれば、自己の意を慰むることあたわざるがゆえに、情の満足するところをもって、ただちにかくのごときものなりと断定せり。ゆえに妄見、幻覚のごときも、すべてみな事実なりと信じて疑うことなし。かつ、この派の経典を解するや、ただ経中の文面を見て文字のごとくに解釈し、さらに裏面に蘊蓄うんちくする理をたずぬることなく、その結局、釈迦もしくはヤソのごとき千古に超絶せる大聖、大賢の言に、いやしくも虚妄あるべき道理なしと思い、徹頭徹尾固くこれを信じ、一言半語といえども、その文字のままに解し、未来世界も実に現時のごとき有形世界なるがごとくに思い、死後にも今日のごとき身体を具備し、肉体上の快楽、苦痛を受くるものと信じ、極楽も目前の世界の一層美麗なるもののごとく想像し、経文に極楽世界に蓮池れんちありと説けるがゆえに、実に吾人の現見する蓮池の、死後の世界にもまたあるべしと信じ、西方に仏土ありと説けるを見ては、この地球の上にて西方の極端に至らば、実に仏土あらんと考え、地下に地獄ありといえば、この地を掘ること深ければ、必ず地獄に達すべしと思う。かくのごときものは、実は宗教を信ずるといわんよりは、むしろ経文を信ずるというを適当なりとす。すなわち、いわゆる経の意を信ずるにあらずして、その文字を信ずるものなり。けだし、仏教のうちに、禅宗のごとき、不立文字ふりゅうもんじの宗を立つるに至りしゆえんは、畢竟ひっきょう、世の宗教者の感情上より文字を偏信するの弊を救わんとして出でたるものなること疑いなし。
 また、この感情派の宗教家は、すでに自ら妄見、幻覚せしところのものをもって、みな事実なりとなし、幽霊のごときも真に存在するものなりと唱うるをもって、幽霊には色あり、形あり、重量ありと信ずるなり。その幽霊の存在すというは、あるいは一理なきにあらざるも、色、形、重量ありというに至りては、ただ妄といわんのみ。かつて神原精二氏が、「幽霊とは見るべからざるものに名づけたる言葉にして、もし見るべくんば、これを幽霊にあらずして顕霊なり」といいしが、もって世の幽霊は見得べきもののごとく思う輩をして、その道理に反するゆえんを知らしむべし。しかるに、世に実際幽霊を現見したるものあるはいかんというに、こは種々の事情より妄見、幻覚するものにして、妄見、幻覚は精神作用より生ずるものなれば、外界に実在するものとはいうべからず。宗教を感情的に解するものは、往々かかる誤謬ごびゅうに陥るものあり。あに注意せざるべけんや。
 第二に神秘的解釈を挙ぐれば、この派の人は曰く、「宗教は不可知的の関門を開きて、その内部の風光を天啓顕示するものなり。ゆえに宗教の本境は、みな不可思議の玄林森々たる所にありて存し、実に心慮、言語の外に超絶する妙区なりとす。けだし不可思議なるもの、深く考索すれば、吾人の生息せるこの世界の万象万事、四方上下を囲繞いにょうするもの、一つとしてしからざるはなし。吾人は実に不可思議の空気中にありて、不可思議を呼吸して生存すといいて可なり。この世界すでにみな不可思議なれば、われ自身もまたついに一不可思議物たり。しかして、われの今かく生活し、動作しおるゆえんのもの、実に「南柯なんかの一夢」に等しく、他日忽然こつぜん夢覚めて今日を顧みば、唖然あぜんとしてその長夜の迷夢たりしさまを笑うことなきを期せず。宗教、実にこの理を示して、玄のまた玄なるゆえんを現す。これ理外の理、言外の言、慮外の慮にして、吾人の知力、思想の及ぶところにあらず」と。
 その一派にはまた奇跡、怪談を信じて、これをもって宗教の真面目となし、これすなわち神の不可思議なるゆえんなりといい、あるいは神通、感通を説き、これ宗教の不可思議なりという。ヤソ教の経典のごときは、実にこの種類の材料をもって充満されたり。仏教中にても、その一部には神秘、怪談を交え、弘法、日蓮等の諸高僧の伝記を読まば、全部ほとんどこれをもってみたさるるを見るべし。しかしてみなおもえらく、もって宗教の不可思議を証明すべしと。かかる不思議は、もってただ道理のなんたるを知らざる下等人民には感服せしむるの方便とならん。しかれども、いやしくも今日、中等以上に位するものは、だれかまたかかる不合理、不思議を首肯しゅこうする者あらん。これ、神秘的解釈の下等なるものなり。その他、神秘派中高等なる者は、ただ宗教の理たるや、すでに玄中の玄、理外の理なれば、吾人の知識とその理との間の海峡に架すべき橋梁きょうりょうなきをもって、吾人は言語道断、言亡慮絶の点において、自然にその理を感受するよりほかなしとなす。

第三節 感情論の批評

 以上に説きたるところの二論派は、これを局外より見るに、一は感情に偏し、他は神秘にへきし、ともに中正を得たるものというべからず。けだし、情と知とは一心上に互いに結合して存し、須臾しゅゆも離るべからざるものにして、情感のみにても論ずべからず、知力のみにても論ずべからず、二者必ず相伴わざるべからざるものとなす。しかるを情感論者は、単に情感のみによりて解釈を施さんと試み、自己の妄想、幻視までも実在のごとくに思惟し、幽霊なども形あり、色あり、重量ありとなすに至る。これ畢竟ひっきょう、いまだ有形、無形の区別を明らかにせざるより起こるところの謬見びゅうけんなり。思うに有形とは、わが五官に感触するところのものにして、五官に感触せざる、これ無形なり。しかるに、死後の世界すなわち未来世界の類は、わが精神が肉体を離れたるときの世界なり。すでに肉体を離れたる世界にして、五官の感触すべき世界と異なるがゆえに、これを無形世界あるいは精神世界というなり。しからば、この世界において、たとい形象を見ることありとするも、そは決して現在世界において、わが現感覚の覚知するところとは、もとより同一なりとなすべからず。例えば、吾人は夢中にありて、種々の形象を見ることありといえども、そは必ず吾人醒覚の場合において見るところの形象とは等しからずして、心面の精神性現象、もしくは観念性形象とも名づくべきものなり。ゆえに、これを無形上の現象とす。しかして、この無形世界に入るところの精神は、果たして一個人の性質をそなうるものなるやいなやは、哲学上の一問題なれば、後に至りて説明すべし。
 とにかくに、幽霊および未来世界と称するがごときものは、わが感覚上の肉眼にては見るべからざるものにして、精神の光すなわち心眼を用いざるべからず。しからば、幽霊は有形なりと信ずるの大迷誤たるはもちろんにして、もし強いて幽霊の人眼に現るるありといわば、これを解するに、そは霊魂そのものの現れたるにあらずして、霊魂が物質分子の上に作用を及ぼし、その物質分子をして人の感覚に触れしめたるなりと想像するか、あるいは霊魂そのものが人の心を動かして、その心に幻覚、妄象を生ぜしめ、もって幽霊の現象を起こさしめたるなりとの解釈を与うれば、いくぶんか幽霊有形説の道理ともなるべきなれども、それも到底一つの想像に過ぎずして、学術の許すところにあらざること言をまたず。また、この派の人の経典に対するや、もっぱらその文字のままを固執して、文字のほかに道理を求むることなきは、その妄説を笑わざるを得ず。ああ、彼らは文字の死物にして一種の器械に過ぎず、これを活動運転する精神の文外に存するを知らず。これ、いたずらに死物をとりて活物を認めず、器械に着して精神を忘るるものなり。かつそれ、吾人の用うるところの文字は、もとその人の思想に伴って発達しきたるものにして、思想単純なるときは、言語、文字もまたしたがって単純なりしが、世の進むに従い、思想とともに複雑なる意味をそなえ、ようやく今日の文章をなすに至る。また今後、人知の発達すべきこと疑いなし。
 しからば今日の文字は、ただ今日の思想に相応したる現象のみ。今日の思想とは有限の思想にして、決してなにもかも知り尽くしうべき力あるものにあらず。ゆえに、今日の言語、文字は、もちろん有限性のものにして、いかなることをも言いあらわしうべき性質のものにあらず。しかるに宗教思想は、これに反して無限性のものなり、不可思議性のものなり。この無限、不可思議の思想を、有限なる今日の言語、文字にて十分に言いあらわさんとするときは、必ずその勢い、無限の精神よりきたるものも、種々の制限を受けて、ついに有限的の形をとるに至るは免るあたわざるところなるべし。されば、宗教の開祖と呼ばるる、いわゆる釈迦しゃかのごとき人にありては、その思想もとより絶対の境にありて無限の性質を有するも、吾人の上に伝えらるるに当たりては、言語、文字のために常に有限の形をもって現るること、例えば大海の水は無量なりといえども、これを一杯の器にうつせば少量の水となるがごとし。一杯の水は少量なりといえども、大海の水は少量なるにあらず、吾人の上に現るる宗教の表面は有限的なれども、これを開きたる大聖人の思想有限なるにあらず。しかるに、いたずらに宗教の表面のみを見て、その内包の道理もまたかくのごときのみといわば、一杯の水を見て、大海の水もこれのみといわんがごとし。そもそも宗教の思想は、これを覚了したる教祖の心中にありては、実に大海の水のごとく深くしてかつ大なるも、言語、文字の上に現れたる宗教の形象は瑣々ささたる一杯の水なり。この理を知らずして経典を読むものは、文字あるを知りて精神あるを知らざるなり。このゆえに、通俗の人は文に極楽の快、地獄の苦を説けば、実に現在世界において、吾人五官の感覚するところの有限性苦楽のごとくに思惟し、その真意は絶対の快楽、絶対の苦痛を述べたるものあることを知らず。まことに哀れむべし。
 さらに今、他の一例を挙げんか。ここに五官のうち一官を欠きたる生物ありと仮定せよ。試みに視官なしとせんか。この場合において、いかにして色なる観念をこの生類に与うべきか。あるいは綿をもって示さんか、あるいは雪をもって示さんか。盲者、手を出だして綿に触るるときは、白色とは軟らかなるものなりといわん、雪に触るるときは、白色とは冷ややかなるものなりと思わん。しかれども、冷も軟もともに白色なるにはあらず。されば、色の感覚も視官なきもののためには、やむをえず視官以外の聴、触等の諸官によりて、その観念を与うるよりほかなし。これと同一理にして、今日の人類は五官を有すれども、さらに五官以上の感覚ありて、これを有するものは神仏に限ると想像せんか。その五官以上の状態、六官、七官のありさまは、いかにして吾人に知らしむべきかというに、また五官によりてこれを示すのほか、方法あるべからず。吾人もまた、五官以内にてこれを憶度おくたくするよりせんかたなし。しかれども、これをもって確かに六官、七官を知り得たりとなさば大誤にあらずや。地獄極楽の未来世界のことも、またこの例に準じて知らざるべからず。未来世界、もとより吾人の五官にて考え得べきものにあらざれども、すでに五官以上の感覚を有せざる人類に対しては、神仏の妙力といえども、やむをえず、これを五官内に示しきたりて了解せしめざるべからず。しかるに感情派の人のごときは、五官相応の文面のみに注意して、その文裏に無限の真味あるを感見することあたわざるは、あたかも無風流の人が、花の愛すべきを知らずして、団子をもって自ら足れりとするの類なり。その知識の浅薄なること、葛衣竹紙かついちくしの薄きよりもはなはだしと評せざるべからず。もし、宗教の真味は文字のほかにあるを知るものあらば、すべからく文字の裏面をうがちきたりて、高遠玄妙なる道理を開き出だすべし。

第四節 神秘論の批評

 つぎに、神秘派の理外に偏する不合理の次第を述べんに、神秘論者は全く人知を排して、宗教は不可思議関内のものなれば、人知をもって是非すべからずというも、およそこの世界のこと、一つも人知を中心とし起点として、これより万事万類を測定するのほか、他に知るべき方法あるものにあらず。しかして、人知のうちには第一に感覚、第二に論理の存するありて、地獄極楽の状態のごときは、吾人の五官上より推測するものなれば感覚に属し、この感覚を基礎として苦楽を想像するものなり。感覚以外のことに至りては、すべて論理によりて推量するよりほかなし。しかして、論理は思想に基づくものにして、いやしくも人の論議するところ、一つも思想を根拠としてこれより推理するにあらずということなし。ゆえに近世の初め、デカルトの哲学を唱うるや、第一に思想をもって哲学の起点とすべきことを主張してより以来、哲学界にありては思想をもって哲学の第一原理とし、諸論を統治する無比の大権を掌握せる帝王とするに至る。けだし、帝王は法律以外に独立し、法律の力よくその行為を抑制すべからざるがごとく、思想も諸論のほかに独立し、定義も解釈もそのものに与うることあたわず。ゆえに、思想そのものは疑うべからず、しりぞくべからず、はじめより真理として許さざるべからず。しかるに神秘派の人々は、神と人との関係は神秘なりとし、理外なり、不可思議なりと論ずるも、畢竟ひっきょう、みなこれ思想の判断によるものなり。古来、霊魂を排する唯物論者も、真理を排する懐疑学者も、一つとして論理によらざるものあるべからず、論理によらずんば議論を立つることあたわず。すでに議論によりて道理を排するは自家撞着じかどうちゃくにして、到底、論理思想を排し得るものにあらず。これ、懐疑学者の一大謬見びゅうけんなり。今、神秘論者も、ひたすら神秘の一方に偏して知力を排せんとするは、また一種の僻説へきせつたるのみ。

第五節 余の宗教論

 余は情感論、神秘論を拒否すといえども、しかも唯物論もしくは懐疑論に賛同するものにあらず。唯物論者は感覚上の物理実験をもととして、その以外に属するものはすべて空想に過ぎずとなし、神仏はもちろん、地獄極楽等、一切これを排斥していれず。その論たるや、感覚は完全なるものなり、物質は確実なるものなり、事実経験は決して疑うべからざるものなりと仮定せり。ゆえにこの論者は、まずこれらの仮定を土台として、その説を組織したるものにして、さらに進んで物質、経験、感覚そのものはなんぞと問わば、よく答うることあたわざるは必然なり。この説、その極端にはしりて懐疑論となる。この論者にありては、ひとり感覚以外、経験以外を排して取らざるのみにあらず、感覚、経験そのものもまた疑って信ずることなし。古代にありてはピュロン氏の懐疑論、近世にありてはヒューム氏の懐疑論のごとき、みな真理そのものを否定せり。畢竟、宇宙間一つとして確固信をおくに足るものなしというに至れるものなれば、地獄極楽の説を取らざるのみにあらず、今日自身のここに存在すること、国家社会の成立も、ことごとくこれを疑わずということなし。しかれども、懐疑学者もついに論理を疑うことあたわざるをいかんせん。もしその論者にして、少しも論ずるところなくんば可なり。いやしくも論ずることある以上は、論理の力によるや明らかなり。ゆえに曰く、「懐疑論もまた一種の偽論なるのみ」
 しかるに、ここに唯物、懐疑のほかに、唯理論と称するものあり。この説に従うときは、天地間のこと、一つも道理によりて探り得られざるものなく、もし道理に訴えて知るべからざるものあるときは、一切これを排拒せんとす。天堂、冥府めいふ等の問題に至りては、道理上不可知に属すべきものなれば、これを虚妄なりと断定す。これ、道理一辺に偏すること、神秘論者の神秘に偏すると同一理にして、そのいわゆる道理と称するものは、人間の知力上に属することなれども、人心の作用は決して知力のみにあらざれば、自余の作用を一も二もなく排拒すべき理由あることなし。かつ、それ人間の知識は有限性のものなり。有限は無限に対するがゆえに、有限性のものある以上は、また無限性の存在を許さざるべからず。しかるに、ひとり有限の知力を崇拝して無限の存在を否定するは、その僻論へきろんなること知るべきなり。
心体、心象、物界の図
 余の意見は以上の諸論に異にして、人心中の三大作用すなわち知、情、意の三者相待ちて、はじめて事物の真相を知り得べしというにあり。けだしこの知、情、意は、表面一方においては有限性のものなりといえども、裏面には無限の性質を帯びたるものにして、すなわち精神には有限、無限の表裏の二面を有するものなり。なんとなれば、人の心には心象と心体との別あり。心象は物界に関係して成立するものにて、その物界は有限性のものなれば、心象はこれと関係してまた有限性のものなりといえども、心体は本来無限性のものなるがゆえに、心象の心体に連接せる点よりいえば、すなわち無限性のものといわざるべからず。例えば、有限性の物界の風によりて心体の海面に起こしたる波は、すなわち心象なるがゆえに、心象は有限、無限の両面あることとなるなり。しかして、この吾人が外界に対して有するところの有限性の心象を変じて無限性を開き、すなわち無限性に同化すること、これ宗教の目的とするところなり。さらにこれをいえば、吾人相対性の心をして絶対世界に入らしむるの道を教うるもの、これを宗教となすなり。仏教に転迷開悟てんめいかいごというはすなわちこれにして、迷とは有限性を示し、悟とは無限性を指すものなり。しかして、その転迷開悟の方法に種々あるがゆえに、したがって多数の宗派を分かつに至る。しかるに、すでに人心に知、情、意の別ありて、三者おのおの有限、無限の両面に連なるとせば、情によりても、知によりても、意によりても、いずれよりするも、ともに無限に達し得るの道理あり。されば、哲学にも宗派にも知、情、意の三種を分かつに至る。例えば、ヘーゲルの理想学は無限性知力をもととし、シュライエルマッハーの宗教は無限性感情をもととし、ショーペンハウアーの哲学は無限性意志をもととす。予はまた仏教中、天台等をもって知宗とし、禅宗を意宗とし、浄土諸宗を情宗と名づけたることあるも、これをもってなり。
 これを要するに、知、情、意の諸作用において、有限性より無限性に入るをもって宗教の目的と立つるものは、余が説なり。

第六節 宗教の種類

 宗教上の説は、これを物理的、心理的の上に考うるに、もとよりそのいずれにも属すべきものにあらず。なんとなれば、宗教は相対を離れたる絶対を説くものなればなり。しかして、相対および絶対の関係は、道理および天啓によりて知ることを得。相対より絶対を知るは道理の力により、絶対より相対に及ぼすは天啓の力なり。ここにおいて、宗教に天啓教と道理教との二種を分かつに至る。あるいはまた、直覚教、自然教の二種に分かつことあり。そのうち天啓教とは、わが心の上に神あるいは無限性の体より啓示、感応あることを唱うる宗旨にして、あるいは一定の教祖あり、あるいは一定の経文ありて、その上に神の自ら啓示したることを信じて、その教祖の言または経典の文によりて宗教の理を示すものなり。これに反して、一定の教祖も経文もなく、人間自然の発達に応じて天地宇宙を観じて、自ら宗教思想を起こして、ついに宗教を成すに至りしもの、これを自然教という。ヤソ教のごときは天啓教にして、儒教はいわゆる自然教なり。また直覚教とは、天啓教の部類をいうものにして、わが知力にて推理するにあらずして、直接にその心に感知するものについて、宗教の啓示を信ずるものなり。道理教はこれに反して、わが知力にて推理するものをいう。
 道理教と自然教とは、ともに学術上の道理をもととして研究することを得れども、天啓教、直覚教は、理外の理、絶対の体をもととして説くものなれば、学術上より説明を与うることあたわず。しかれども、その神の作用あるいは宗教の効用の物心万有の上に及ぼせる点を論ずるときは、むろん物理的あるいは心理的の説明によりて考えざるべからず。今、宗教上のいわゆる奇跡、霊怪のごときものは、物心万有の上に発するところの現象上よりいうものなれば、これを説明せんがためには、物理的、心理的の上に解釈を求めざるべからず。およそ外界にありて神が万有の上に顕示するところの不思議は、これを名づけて霊怪といい、また内界にありて吾人の精神の上に神を感見するを神秘という。この二者はともに理外とす。
 左に表示するところを見るべし。
理外と理内の図
 しかして理外は、通常これを解して、万有の大法たる因果の規則に反するものとなす。すなわちおもえらく、因果自然の規律に反せざるものは、呼んで霊怪となすに足らず。ヤソの父なくして生まれ、あるいはひとたび死して再び蘇生せりというがごとき、その他、ヤソ一代あまたの奇跡こそ真に霊怪というべけれ。これ、神の不思議を人に示すゆえんなりと。かくのごとくんば、霊怪とは因果律に反するもののいいにして、これ現今、学術の許さざるところなり。もし、この説をして成立するを得せしめば、学術は成立すべからざるものとならん。たとい神は自在力を有するも、ひとたびその定めたる規律を故なくしてみだりに変更し、あるいは規律以外のものを示して、人に奇異の思いをなさしむることは決して道理にあらず。かのスピノザが、因果の理法のほか一理一法なきことを論定したるは、実に近世の卓見というべし。これに反してライプニッツは、万有の変化は神の予定あるによることを説きたるも、あえて全く因果律を排拒するにあらず。その説によるに、神は全知全能の体なり。この神が世界を創造するに当たり、自ら因果律をもって最上の法と信じてこの世界に付与せり。しかるに中ごろにして、この規律を破り因果以外のものを示さば、神が自らはじめに完全なりとみなしし規律を、後に不十分を感じたることとなる。これ、あに全知全能の神にしてあり得べき道理ならんや。
 これによりて考うるに、霊怪は決して因果に反したるものにあらず。因果に反したるものは、奇怪と呼ぶも霊怪と称すべからず。果たしてしからば、なにをか霊怪というべきや。万有の間に因果律の一貫して時と所とに関せず、毫釐ごうりの相違なく、秩序整然みだすべからず、動かすべからざるこそ、実に不思議、霊怪というべけれ。かくして、万有の上に現れたる霊怪は、物理的説明によりて多少解釈し得らるべき道理にして、決してこれを理外に放棄すべからず。また、神のわが精神内に交感する神秘も、全く道理外のものにてはあるべからず。わが心は有限なり、神は無限なり。その無限の有限の上に感ずるゆえんは、有限のわが心も、その実、無限と連絡を有するが故なり。もし、その連絡なきときは、到底無限をわが心に感ずるの理なかるべし。よしや心は有限性、神は無限性にして全く相反するものなりとするも、すでに神が人心の上にその作用を及ぼすに当たりては、一方の無限性も、心の有限性の形を取らざるべからざる理なることは、さきにいわゆる大海の水は無量なるも、一杯の器に移せば一杯の水となるがごとし。果たしてしからば、神秘なり、天啓なり、かくのごときはみな心理学より説明し得らるべき道理なり。あるいはその他の幽霊のごとき、冥界めいかいのごとき、鬼神のごとき、みな物心万象のほかに超絶せる問題なれば、物理、心理の上にて説明すべからずというも、世人のいわゆる幽霊、鬼神の類は、すべて物心の範囲内において説くものなれば、その真否もこの道理によりて論究せざるべからず。
 これを要するに、宗教の本体は無限絶対、不可思議の上にありとするも、その現象作用の物心有限の範囲内に発顕するときは、これすでに理内の理にして、物理的および心理的説明によりて考究し得べきものとす。もし、その本体に至りては理外の理なりとするも、我人の無限性の心力によるときは、また多少知了するを得べし。ゆえに余は、宇宙の問題たる、可知的なるがごとくにして不可知町なり、不可知的なるがごとくにして可知的なりといわんとす。かくして物心万有のほかに、絶対不可思議の体あることを証明するは、実に余が妖怪学の目的にして、「緒言」に、仮怪を払って真怪を開くとはこれ、これをいうなり。

第七節 霊魂生滅論

 霊魂そのものにつきて説明せんとするにさきだち、古来宗教上の一大問題たる、霊魂生滅論に関して述ぶるところなかるべからず。世人あるいは曰く、「霊魂は全く消滅すべし。なんとなれば、ひとたび死したるものの、再びかえりきたりしものあるを聞かず。だれありて、いまだ死後の霊魂の存在を実験したるものあらず。これ、霊魂の肉体とともに滅するによる」と。しかれども、かくのごときは浅見の最もはなはだしきものにして、熟睡せるものを見て、彼はすでに死せり、なんとなれば、その名を呼べども応ぜざればなりと論断する輩となんぞ選ばん。しかるに、霊魂の不滅を主張せんとするものは、またこれに対して説をなしていう、「たれがしは死後幽霊となりてその形を現したり、なんのなにがしは死後再生したることあり。みなもって霊魂の不滅を証するに足る」と。これもまた霊魂のなんたるを知らざるの妄説なれば、両者ともに信を置くに足らず。まず、霊魂消滅論者のいうところを見るに、ただ死後に霊魂なしというのみにして、さらに生時に霊魂あるやいなやを究むることなし。けだし、霊魂とは吾人の心性なれば、死後の消滅はしばらくおき、生時の存在はたれびとも必ず許すところならん。しかるに、生時すでに存在したるこの霊魂が、死に至りて忽然こつぜんとして消滅すという。物、あにかくのごとき理あらんや。およそ物、ときとして形を変ずることあるも、全く消滅することなし。一杯の水、熱すれば形を変じて蒸気となるも、その体全く消滅したるにあらず。もし、いったん存在したりし霊魂が、偶然消滅することあるを得ば、これぞ怪しむべきの最も大なるものにて、霊魂は不滅なりといわんよりは、一層の奇怪といわざるべからず。また、もし霊魂果たして生時にありとせば、そのよってきたるところはいかん。すなわち過去にさかのぼりて、その由来をも考えざるべからず。
 しかるに、通俗の霊魂消滅論者は、死後霊魂なしというのみにして、生前いずこよりきたりしかをたずぬることなきは、これまた見ることの狭きものといわざるべからず。しかれども、これに対して不滅論者の再生、幽霊等の説明のごときもまた、取るに足らざるは明らかなり。果たして再生、幽霊の証ありとするも、千万億万の死人中、わずかに一、二人にかかることあるのみ。そは一般の例とはならず。まず、なにゆえにこの多数の死人が、死後さらに通信も交通もなきものにやとの疑問を説明せざるべからず。畢竟ひっきょうするに、以上の二論は、ともに霊魂そのものの性質を明らかにせざるより起こるところの、不道理の迷見にほかならず。
 もし、霊魂そのものの性質を明らかにして推考するときは、死後の霊魂よりは、むしろ、まず生時の霊魂を究めざるべからず。悲喜哀楽うたた相生じ、ときとしては唖然あぜん口を開きて大笑し、ときとしては潸然さんぜん目をしばたたきて悲しむ。花を見ては美なりと呼び、音楽を聞きては快なりと感ず。この不可思議なる千態万状の変化、みなこれ霊魂の作用にあらずということなし。霊魂、果たしていかなる妙力ありて、この妙用を呈するか。現時の霊魂の不可思議なるゆえんを知らば、死後のことのごときは、また容易に知了すべきのみ。ひとり死後を論じて生時に及ばずんば、その見の狭隘きょうあいなる、いまだともに霊魂を談ずるに足らず。

第八節 霊魂不滅論

 今、学術上の道理に照らして、霊魂の不滅なる理由を述べんに、第一には、物質不滅、勢力恒存の理法に基づくものにして、およそ一物として偶然に生じ、一事として忽然こつぜん滅するものあることなきは、今日学術上の実験に照らして証明せられたる原理なり。物理学、化学等一切の科学は、実にこの理によりて成立することを得。すなわち、宇宙万有は不滅なりとの考えは、現時学術上、動かすべからざる原理なりというにあり。しかして、わが精神もまた現存して、すでに万有中の一たる以上は、万有を支配するところのこの原理に従わざるあたわず。もし、精神をもって、唯物論者のごとく、勢力の一種に過ぎずとせんか。もちろん勢力恒存の理法によりて、これを不滅とするよりほかなし。あるいは、これをもって物質にもあらず、勢力にもあらず、全く経験、感覚以外のものなりとせんか。霊魂ありというを得ると同時に、また霊魂なしというを得べし。この理をもって探るときは、到底精神は不滅なりというよりほかなし。
 第二には、潜勢力、顕勢力の関係によるものにして、生時に現にその作用を呈して、死後にはその作用をとどむといわば、生時にありしものの、死後には全く滅したるがごとく思うめれど、そはただ作用を現したるといなとの差別あるのみにして、いわゆる顕と潜との差異あるに過ぎず。例えば手を動かすがごとし。手を動かすときに発する力は、そのとき偶然生じたるにあらず。また、これをとどむるときには、その力たちまち滅して無に帰したるにはあらず。一つは顕勢力となりて外に発し、一つは潜勢力となりて内に存するのみ。また、内包外発ということあり。草木の種子、これを地にううれば芽を出だして草木の形を成し、これを筐中きょうちゅうにおさむれば依然として常に種子なり。しかれども筐中の種子は、草木となるべき力なきにあらず、地に入りし種子は、草木となるべき力をにわかに外より得たるにもあらず。筐中にては、その力内包的に存して外に見えざりしも、地に入るるに及び種々の外縁に催されて、外発して草木の形をなすものなれば、その有するところの力自身においては、彼此ひしの間、ごうも差異あることなし。この理によりて考うるに、生時に精神作用の外発して、死時に空寂くうじゃくに帰するがごとく思わるるは、その実、外発の勢力再び内包に帰し、顕勢力一変して潜勢力となりたるものに過ぎざるべし。
 以上の二条の理由によりて、精神の不滅なるゆえんを証すべし。しからば現在の霊魂と未来の霊魂とは、いかに異なるものなるか。そはまた別に論ぜざるべからず。

第九節 霊魂の状態

 霊魂果たして不滅とせば、死後の霊魂の状態はいかん。これまた一大問題なり。これを生時の霊魂に比較するに、生時には肉身のうちに包容され、肉体には五官あり。外物この五官の窓より心面に映じきたるといえども、死後の精神はすでに肉体を離れたる以上は、五官の窓より外界を見るがごときものにあらず。ゆえに、生時と死後との霊魂の差別は、第一に、生時には感覚性のものなれども、死後はしからざるの異点あり。つぎに、生時の精神作用は、意識に覚知して起こるところなれども、死後は不覚識の境遇に入る。例えば、昼間醒覚せいかくのときと夜間睡眠のときとは、精神に別あるにはあらざれども、一は覚識あり、他は不覚識の状態にいるがごとし。生死の精神の別、またこれに同じ。これを第二の異点となす。第三は、生時にはなんのだれと称する、いわゆる個体性の成立を有するも、死後には自己なる成立なく、すなわち無我平等の海に入るの異点あり。以上三点の区別より推測するに、死後の霊魂なるものは、実に空々くうくう漠々ばくばく渺々びょうびょう蕩々とうとう、苦もなくまた楽もなく、知もなくまた意もなきありさまならざるべからず。果たしてしからば、霊魂をもって不死とするも、死物となんぞ選ばん。かの死後の極楽地獄、成仏得道を説くがごときも、またただ方便に過ぎざるか。しかるに宗教上においては、ただに霊魂の不滅を説くのみならず、死後の状態に苦楽の両境あることを論じ、すでに仏教にては六道輪廻ろくどうりんね生死昇沈しょうじしょうちんを説くがごときは、いかなる理によるものなりや。これ、大いに学者の攻究を要するところなり。そもそもこの論は、唯物家よりみると唯心家より考うるとは、おのずから異なるも、今いちいちその論点を挙示するあたわざれば、左に、霊魂は死後なお個体性を継続すべき理由のみを述べんとす。
 およそ人の身心の関係は、一にして一ならず、二にして二ならず、いわゆる不一不二の関係を有するものなれば、その一生の間、日夜になすところの一挙一動は肉体上および感覚上に関するも、みなその精神に薫習くんじゅうして習慣性を構成し、反復数回にわたれば、ついに一種の固有性となるべし。しかるときは、死によりて肉体と霊魂と相分かれて、霊魂は平等の海に入るべきも、ひとたび薫習せられたる習慣のために、再び一個格段の差別的成立を有することとなるなり。されば生時の覚識は、絶息の後といえども習慣性の力によりて、さらに一種の世界を開現するに至るは、理のまさにしかるべきところなり。これをもってわが霊魂は、死後苦楽の境に昇沈せざるべからず。これ、仏教にて善悪因果を説くゆえん、六道輪廻を談ずるゆえんなり。しかれども、もし吾人、生涯に利己私愛の欲念を脱し、純然たる良心の光を開発し、もって死後超然として平等の理界に進入するを得るに至らば、これすなわち仏教の悟道なり。ゆえに霊魂がその固有の習慣性によりて、苦楽の両境に昇沈する間は、いわゆる迷の境遇にして、この迷を転じて平等海に入るを悟となす。しからば悟界に入りたる仏陀のごときは、平等無差別、空寂無覚くうじゃくむかくの体なるかというに、曰く、しからず。この点は各種の宗教のともに論ずるところなれども、今これを仏教にたずぬるに、仏菩薩ぶつぼさつをもって無上の快楽、無上の知恵を有するものなりという。これ果たしていかなる道理によるや、また一大疑問なり。かくのごときは、もとより今日の道理一辺をもって説くべきことにあらず。いわゆる絶対関内の風光なれば、宗教上、天啓顕示をまたざるべからざるも、今ここに論ずるところは、道理によりて説明するにあれば、いささか宗教学の理論に考えて、この疑団を氷釈せんと欲するなり。
 それ宇宙万有の本体、精神思想の本源は、儒教これを太極といい、仏教これを真如しんにょという。しかして真如は、これを平等一方の裏面よりみるときは、空寂無覚の体なるがごとくなるも、差別の表面よりみるときは、最上純全の覚知体となる。すなわち、真如に表裏両面あることを知らざるべからず。およそ天地間の生類は、宇宙進化の理法によるに、最初不覚の状態より、ようやく進んで覚知の光明を発顕し、いよいよ進んでますますその光輝を増し、人間に至りて大いに知光の赫々かくかくたるを見るに至れり。しかれどもこの光明は、決して人間にありて、すでにその全分を現し尽くしたるものにあらず。これよりますます進化せば、他日さらにいよいよ輝くのときあるべし。同一人類にしても、下等の蒙昧もうまいなるものはその光明なお薄く、知者、学者はこれに数倍せる知光を有す。これを推してこれを考うるに、これよりさらに進んで十倍、百倍、あるいは千万倍の光明を放つことあるに至らんも、決して想像し得られざるにあらず。しかして、このいわゆる光明とは知識精神の光明にして、肉体上より発するところにあらず。これ、実に心性の内部より放つところの光明ならざるべからず。ゆえに、これを霊魂固有の本性となすも不可なきを覚ゆ。しかるに、動物と人類との別あるは、その光明に差異あるにあらざれども、動物においては潜勢力となりて霊魂の内部に伏在して存し、人類はその内包の光明のいくぶんを外に発顕したりというに過ぎず。さりながら、人間もまた、いまだ内包の光明を全く発顕し尽くしたるものにあらざれば、その光明の量なるや、けだし無量なるべし。ゆえに、もしこの全量を外発するを得ば、実に無量の知、無量の徳、無量の快楽となりて開現せらるべし。この理を推して考うるに、完全なる覚知の境遇、すなわち神仏の位置に達するの日あるも、また決して疑うべからず。されば、仏教のいわゆる真如も、これを解するにおいて、二様の見解あることを記すべし。すなわち、一方より見れば、真如界は、空々寂々、不知不覚、不苦不楽の境のごとく見ゆれども、他方よりこれを考うるに、真如の体中に、完全なる無量の知識、無量の慈悲の光明を内包し、ようやく開発して、吾人の心中に知徳の光輝を放つに至る以上は、真如すなわち完全なる覚知の体なりというべし。
 換言すれば、真如そのものは消極と積極との二種の性質ありと知るべし。しからば、たとい霊魂の状態が、今日にては昼夜覚眠の別ありといえども、もしこれを積極的に考えきたらば、他日その内包の全分の知識を開発し、生死今昔一切のこと、みな一心の鏡面に映現しきたり、道徳光明の新天地に遊ぶことあるべき理なり。しかれども、現在世界にありては、この肉体の感覚にその心を奪われ、ために明々白々の心も迷雲妄霧のために覆われて、だれもその真相を見ることあたわず。この雲霧を宗教上にては、あるいは呼んで煩悩といい、あるいは名づけて罪悪という。今もしわが身に善因を養い、道徳を修め、もって愚昧の雲霧を一掃しきたらば、このときはじめて、無始以来内包せる光明の六合りくごうを照徹することあるべし。『起信論』のいわゆる本覚ほんがく始覚しかくの義は、ここに至りて了解すべし。しかるに、世人は一般に霊魂も真如も、これをひとり消極的に説ききたりて、さらに積極的に考うることなく、外見的に評し去りて、内包的に論ずることなし。故をもって、死後の霊魂は枯木死灰のごとく考え、未来の地獄極楽は愚民の迷夢に帰して、だれも怪しむものなし。しかして、自ら有するところの心魂の識覚を有するは、なにによりてしかるやをつまびらかにせず。これ、愚と呼ばずしてなんぞや。王充おうじゅうの『論衡ろんこう』論死編に曰く、「夫死人不能為鬼、則亦無知矣、何以験之、以生之時無一レ知也、人未生、在元気之中、既死、復帰元気、元気荒忽、人気在其中、人未生無知、其死帰無知之本、何能有知乎。」(それ死人、鬼となるあたわざれば、すなわちまた知るところなし。なにをもってこれを験する。いまだ生まれざるのとき、知るところなきをもってなり。人いまだ生まれざれば、元気のうちにあり。すでに死するや、また元気に帰る。元気は荒忽こうこつとして、人気じんきはそのうちにあり。人いまだ生まれざれば知るところなく、その死するや、無知のもとに帰れば、なんぞよく知るあらんや)と。これ畢竟ひっきょう、いまだ霊魂の内包的光明のなんたるを知らず、単に消極的の理のみを見て、積極的の理を知らざるによる。しかるに、仏教はかえってこの積極的道理によりて、成仏得道を説くものなり。さりながら、この点に至りては、もはや物理的説明も心理的説明もともにあずかり知らざるところにして、実に不可知的、不可思議の玄境に入りて考うるよりほかなし。余がいわゆる宗教は、不可思議の関門を開きて、絶対界内の風光を示すものなりとは、この霊魂内包の積極的道理にもとづくを知るべし。

第一〇節 生霊、死霊、人魂、魂魄、遊魂の解

 以上述ぶるところは、全く霊魂不滅論なり。これより幽霊論そのものを結ばんとするに、まず魂魄こんぱく死霊しりょう生霊いきりょう等の語を解説するを要す。『左伝』に、子産しさんの言、「人生始化日魄、既生魄、陽曰魂。」(人、生まれてはじめて化するを魄といい、すでに魄を生ず。陽に魂という)とあり。杜預どよこれを注して「魄者形也」(魄は形なり)といい、また同書に「楽祁云、心之精爽是謂魂魄。」(楽祁がくきいわく、「心の精爽なる、これを魂魄という」)とあり。『准南子えなんじ』に、「天気為魂、地気為魄。」(天の気を魂となし、地の気を魄となす)、あるいは「魄者陰之神也」(魄は陰の神なり)とあり。『礼記』の「祭儀」に、孔子の語なりとて、「人生有気有魂有魄、気也者、神之盛也、魄也者、鬼之盛也、衆生必死、死必帰土、此謂鬼、魂気帰天、此謂神。」(人、生まれて気あり、魂あり、魄あり。気とは神の盛なるなり、魄とは鬼の盛なるなり。衆生必ず死す。死すれば必ず土に帰る、これをこれ鬼という。魂は天に帰る、これ神という)とあり。また『白虎通』に曰く、「魂者何謂也、魂猶伝伝也、行不休也、動於外、主於情、魄者白也、猶人者也、主於性。」(魂魄とはなんのいいぞや、魂はなお伝伝のごとし、行きてやまざるなり。外に動いて情をつかさどる。魄は白なり、なお人につくがごとし。性をつかさどる)とあり。また新井白石の『鬼神論』に、「されば、人の知覚は魂に属し、形体は魄に属す。陽は魂に属するがゆえに、陽を魂とし、陰を魄とす。いわゆる魂は陽の神にて、魄は陰の神なり。また気を魂とし、精を魄とす、云云うんぬん」とあり。これを要するに、シナにては、陰陽二気集まりて人を成すをもって、その気散ずればもとの陰陽に帰す。しかして、そのうち陽を魂といい、陰を魄といい、天に帰するものは魂にして、地に帰するものは鬼なりとするなり。
 わが国にては、霊魂に和御魂にきみたま荒御魂あらみたまの二種を分かち、和魂は善なり、慈なり、和なり、荒魂は悪なり、暴なり、勇なりとす。『日本書紀』神功じんぐう皇后の巻に、「神有誨曰、和魂服玉身而守寿命、荒魂為先鋒而導師船。」(神のおしうることありてのたまわく、「和魂にきみたま玉身みついでしたがいて寿命みいのちを守らん。荒魂あらみたま先鋒さきとして師船みいくさのふねを導かん」)とあり。もってその二魂の性質の異なるを知るべし。また『紀』の一書に、「吾是汝之幸魂奇魂也」(われはこれ、いまし幸魂さきみたま奇魂くしみたまなり)とあり。また『旧紀』に「吾是汝之幸魂奇魂術魂之神也」(われはこれ、汝の幸魂、奇魂、術魂ばけみたまの神なり)とあるを見れば、魂の種類は総じて和魂、荒魂、奇魂、幸魂、術魂の五ありと知るべし。しかして、この魂を授与するものは神なりとし、その体は不滅なるものとす。浦田氏の『大道本義』に曰く、「以幽為宅、以顕為寓者、魂也、魂出幽而来於顕、則身生、魂去顕而帰於幽、則身死、幽顕分域而一魂居之、生死殊途而一魂渉之。」(幽をもって宅となし、顕をもって寓となすものは魂なり。魂は幽を出でて顕にきたれば、すなわち身生ず。魂顕を去って幽に帰すれば、すなわち身死す。幽顕域を分かちて、一魂これにおり、生死、道をことにして、一魂これにわたる)と。これ純然たる霊魂不滅論なり。これに対するときは、儒教は霊魂消散説にして、天地の気相結んで人を生じ、人ひとたび死すれば、その心散じてそのもとに帰るとなす。ゆえに、貝原益軒の『自娯集』(巻七)に曰く、「天道流行、発育乎万物、陰陽之運、乃天之道也、二気聚散無窮、聚則生、散則死、二気之霊在人身者、謂之魂魄、人身所受、二気与魂魄、猶陰陽与鬼神、非二也、蓋魂魄者、其主而霊者而已矣、故二気消散、則魂魄亦随而亡矣、然則身死後、魂魄豈復可滞于天地之間乎。」(天道流行して、万物を発育す。陰陽の運は、すなわち天の道なり。二気集散してきわまりなく、集まれば、すなわち生じ、散ずれば、すなわち死す。二気の霊、人身にありては、これを魂魄という。人身の受くるところ、二気と魂魄とは、なお陰陽と鬼神とのごとし。二つあるにあらざるなり。けだし魂魄は、その主にして霊なるもののみ。ゆえに二気消散すれば、すなわち魂魄もまたしたがって亡す。しからばすなわち、身死してのち、魂魄あにまた天地の間に留滞すべけんや)と。これによりてこれをみるに、儒教は一般に霊魂消滅説なるがごときも、その実、不滅説なり。ただ、余がいわゆる消極的説明によりて、積極的に考えざるのみ。もしまた、人心の本性を論ずるに至りては、その不滅なること言をまたず。『惺窩文集せいかぶんしゅう』(続稿巻一)に、「夫天道者理也、此理在天、未於物天道、此理具於人心、未於事性、性亦理也。」(それ天道なるものは理なり。この理、天にあり、いまだ物に賦せざるを天道という。この理、人心にそなわり、いまだ事に応ぜざるを性という。性もまた理なり)と。
 また、『羅山文集らざんぶんしゅう』巻二十四に、「理之所主謂之帝也、理之所出謂之天也、理之所生謂之性也、理之所聚謂之心也。」(理の主とするところ、これを帝というなり。理の出ずるところ、これを天というなり。理の生ずるところ、これを性というなり。理の集まるところ、これを心というなり)と。
 また、大塩中斎の『洗心洞剳記せんしんどうさっき』に、「有形質者、雖大有限、而必滅矣、無形質者、雖微無涯、而亦伝矣。」(形質あるものは、大といえども限りあり、しかして必ず滅ぶ。形質なきものは、微といえどもかぎりなく、しかしてまた伝わる)これまた、心識の本性の不滅なることを推究すべし。かつまた儒教にては、陰陽の気の集まりて人の身心を成すや、その死に臨みて、久しくその気の散ぜざることありとなす。朱子の説にも、「人鬼之気、則消散而無余矣、其消散亦有久速之異、人有其死、所以既死而此気不散、為妖為一レ怪。」(人鬼の気は、すなわち消散して余りなし。その消散する、また久速の異なりあり。人その死に伏せざるものあり。すでに死してこの気散ぜず、妖となり怪となるゆえんなり)とあり。これ、『易』に「精気為物、遊魂為変。」(精気は物となり、遊魂は変となる)というゆえんなり。仏者は「遊魂為変」(遊魂は変となる)を解して、輪廻りんね説に比するも、儒者はそのいわゆる変とは、魂遊び魄散じて、ようやく消変を成すをいうも、前身人となり、後身畜となるの説にあらずとなす。しかして、古来幽霊のその形を現し、狐狸こりの人にるがごときは、みな遊魂の作用に帰せり。
 新井白石は、死後の境遇の一層神霊なることを示して曰く、「それ、水はいたりて清けれども、氷を結ぶときは明らかならず。神いたりて明らかなれども、形を結ぶときは明らかならず。氷解けては清にかえり、形散じては明にかえる。ゆえに、覚むるは霊ならずして、夢は霊に、生霊ならずして死せるは霊なり」と。これおもしろき言なり。この魂魄の説明は、新井氏『鬼神論』および平田氏『鬼神新論』を参見すべし。
 つぎに、仏教はもとより霊魂不滅論なれども、神儒二道とはやや異なるところあり。そのいわゆる霊魂は、これを識心と名づく。この識心は、因果の事情に従って生滅変遷して、しかしてよく相続するものとなす。『倶舎論くしゃろん』に、「譬如灯焔雖刹那滅、而能相続転至余方、諸蘊亦然。」(たとえば、灯焔とうえんは刹那に滅すといえども、しかもよく相続して余方に転じ至るがごとし。諸蘊しょうんもまたしかり)とあり。『成唯識論』に、「此識性無始時来、刹那刹那果生因滅、果生故非断、因滅故非常、非断、非常、是縁起理。」(この識性は、無始の時より来、刹那刹那に、果生ずれば因滅す。果生ずるがゆえには断にあらず、因滅するがゆえには常にあらず、断にもあらず常にもあらずといえること、これ縁起の理なり)とあり。この因果相続の理によりて、生前死後ながく浮沈昇降して、六道ろくどうの間に生滅輪廻りんねすることを説くもの、これ仏教なり。ゆえに弘法大師は、「生まれ生まれ生まれて、生まれのはじめを知らず、死に死に死んで、死の終わりを知らず」といえり。これ生滅門の上にてみるによる。もし、不生滅の辺りより論ずるときは、『起信論』のいわゆる「心性しんしょう不生不滅ふしょうふめつ」なり。「一切法従本已来、離言説相、離名字相、離心縁相、畢竟平等無変異、不破壊、唯是一心、故名真如。」(一切の法は、もとより已来このかた言説ごんぜつの相を離れ、名字の相を離れ、心縁の相を離れ、畢竟ひっきょう、平等にして変異あることなく、破壊はえすべからず、ただこれ一心なるのみなれば、ことさらに真如と名づく)とあるこれなり。
 これを要するに、神、儒、仏三道、おのおの霊魂不滅説を異にするも、人の死後に魂魄の作用をとどめうるを説くに至っては、互いに一致すといわざるべからず。また、その霊魂の状態を論ずるや、物質を離れて独立せるものとなし、生時にありても、人の心が他人に憑付ひょうふしうると考うるものあり。これをもって、死霊しりょう生霊いきりょうの人に憑付することを信ずる徒はなはだ多し。また、世間に人魂ひとだまというも、生霊、死霊と同一物たるべし。しかるに、一団の怪火の空中の飛行するを見て、呼んで人魂となすは、愚民の妄想より出ずるなり。遊魂につきては、さきにすでにこれを論ぜり。けだし、わが国の狐憑きつねつき、神憑かみがかり、魔憑き、その他たたりのごときはみな、以上述ぶる説によりて解釈しきたれり。

第一一節 霊魂論の帰結

 そもそも古来の霊魂談は、もとより一より十に至るまで、ことごとく取るべからずといえども、また一口に排斥すべからず。徂徠の『論語徴』に、「剖樹以求花於其中、烏能見之、謂之無一レ花可乎哉。」(樹をさいて、もって花をそのうちに求むるも、いずくんぞよくこれを見ん。これを花なしという可ならんや)とあるは名言なり。平田篤胤は怪談を主唱する人なれども、その言に、「奇怪あやしきこととてひたすらにおそれ惑うも愚かなり。よくそのうけべきとうけべからざるとをわきまえて惑わざるをこそ、真に知の大なる人というべけれ」と示せり。今、余はさらに西洋の霊魂不滅説に照らして、さきに挙ぐるところの霊魂論を結ばんとす。古代にも霊魂不滅論あり、今日にも同じく不滅論あれども、古代は物心二元並存論にもとづき、今日は物心二元一体論にもとづく。今、並存論によるに、左図の(甲)は、物心相合して生活現象を示すところの状態にして、(乙)は二元相離れて死したるときのありさまなり。
「物心二元並存論」のキャプション付きの図
物心二元並存論

 もしまた一体論によれば、左図のごとく、物心二元は、ともに一大元のうちに存立するなり。しかしてその一大元を、理想、真如もしくは太極と名づく。この図の(甲)(乙)との別は、生と死とを示したるにあらずして、物心と理想との関係の、異説を示したるのみ。西洋近世の哲学者にして、スピノザのごとき、フィヒテのごとき、ヘーゲルのごとき、みな物心一体論によりて、霊魂不滅を唱うるなり。ゆえに、今日はこの一体論によらざるべからず。しかしてまた、一体論において物心の関係を論ずるに、左のごとき説明を用うるは、論理上はなはだ難しとす。
「物心二元一体論」のキャプション付きの図
物心二元一体論

 これに反して、左の図式によらざるべからず。(甲)は生時にして、物質の内部より心性の一部分をその中心に開発し、(乙)は死したるときにして、心性はふたたび物質の内部に潜伏し、外面には物質のみを示すに至るなり。第一図は一体論中の物心並存論にして、第二図は心性内包論なり。この内包の心性は理想そのものと体を同じくするをもって、ひとり不滅なるのみならず、実に無限絶対なり。しかれどもその作用は、物質によるにあらざれば示すことあたわず。あたかも太陽の光線が、物に触るるにあらざれば、その色を示さざるがごとし。ゆえに余は、この内包論によりて霊魂不滅を唱えんとす。方今、哲学上種々の論派ありて互いに相争うも、ひとりこの論に至りては唯物論も、ともに一致せざるをえず。唯心論のこの説に合するはもちろんにして、唯物論も心性をもって物質固有の勢力に帰するときは、一種の内包論となるは明らかなり。この内包論によりて、霊魂に本来、覚知性を具有することを証すべし。なんとなれば、吾人の心はすでに覚知性を有する以上は、これを推して物質内包の心性の本源にも、覚知性の潜伏して存するを知るべきをもってなり。これ、余が霊魂論の帰結なり。
「一体論 第一図」のキャプション付きの図
一体論 第一図

「一体論 第二図」のキャプション付きの図
一体論 第二図

第一二節 幽霊の説

 すでに霊魂論を講述し終われば、これよりまさしく幽霊の問題に移りて、いささか説明を試みんと欲す。『桂林漫録けいりんまんろく』に幽霊のことを述べて曰く、
 唐山にて鬼といい、女の幽霊を女鬼という。『万葉集』(巻十六)「怕物歌」(ものをおそるる歌)
人魂仍佐青有公之但独相有之雨夜葉非左思所思ひとだまのさをなるきみがただひとりあひてしあまよはひさしとぞおもふ
と詠みたれば、和訓には、ひとだまのさをなるきみとぞいうべき、覆溺ふくできして死せる者の鬼を、覆舟鬼ふくしゅうきということ、『海外怪妖記』に見えたりと、櫟窓れきそう先生申されき。京師の画工丸山主水もんど(応挙)、女鬼をえがくに名あり。予が蔵する物すぐれて妙なり。なにより思いを構えてえがきはじめたりしや、見る人、毛髪竦然しょうぜんとしてたち、実に神画と称すべし。
 その他、俗にいわゆる舟幽霊ふなゆうれい、ウブメの幽霊、雪隠せっちんのバケモノ等あり。
 幽霊はもと霊魂不滅論にもとづき、純正哲学の問題にして、物理、心理の関係するところにあらざるも、世間のいわゆる幽霊は、物心の間にその形象作用を現示したるものをいうことなれば、その説明もまた物理、心理によらざるべからず。わが国従来の説明にては、多く儒教によりて前節に述ぶるがごとく、死したる者の魂魄いまだ消散せずして、その形を現ずるものとなす。先年、国家学会における谷子爵の幽霊談は、全く儒教の説にもとづくものなり。また、十返舎一九は『怪物輿論かいぶつよろん』に叙して曰く、
 無情にして有情に化するものは、腐草化して蛍となるの類、離形にして有形をなすものは、折れ枝を地にさすにおのずから根づくがごとし。いわんや、人の魂気存して異形をあらわし、霊をなすこと、おのおの物に着するの情、ひっするが故なり。けだし山谷幽陰の猿精狐怪、古家荒房の死鬼愁魂、ともに奇とすべく、また奇とすべからざるものや、云云うんぬん
 これみな想像説にして、決して学術説明とみなすべからず。余、このことにつき、かつて世人の注意を促したることあれば、左にその文を掲ぐべし。
 それ幽霊の談は、時の古今を問わず、洋の東西を論ぜず、あまねく世に伝われるところにして、真にこれありと信ずる者、現時にありてもなおすくなしとせず。しかも、実際これを見たりという人に至りては、はなはだまれなり。しからば、かの多数なる幽霊論者は、たいてい実際にこれを見し人にあらずして、古来の伝説、もしくは世人の風説に聞き、よってもって自己の信仰を固くしたる者なり。これをもって、真に幽霊ありと信ずる人に対しては、その論の真偽をたださんより、むしろ伝説、風説の果たして確実なるものなりやいなやをただすを要す。すなわち、幽霊有無の問題は、事実真偽の問題に帰着するなり。今、幽霊ありと論ずる者の論拠とするところを考うるに、霊魂不滅の説にほかならず。すなわちその説に曰く、「人の死するということは、ただその肉体が生活作用をやめしまでにして、霊魂そのものの滅せしにあらず。すでに霊魂にして滅せざる以上は、いったん肉体を離れし後といえども、いかにかして一種の形を現し、人にその存在をあらわすべき道理なり。ゆえに、死者が自家または社会のことにつき執念を残して、死後なお安んずることあたわざる場合には、幽霊となりてその形を生存せる人に現し、その思うところを告ぐることを得るは疑うべからず」と。
 しかれども、少しく考うるときは、世にいわゆる幽霊と、霊魂不滅論者のいわゆる霊魂とは、全く性質の異なれるものなることを発見するに難からざらん。なんとならば、いわゆる幽霊には形あり、色あり、声もあり、重量もあり、しかしていわゆる霊魂は人の精神を指すものにして、これらの性質をそなえざればなり。もし、幽霊にして果たして霊魂と同一物ならんには、これすなわち精神そのものの体にして、いったん肉体を離れし後、形色をそなえて人の前に現ずべきいわれなければ、世にその形体を見しという人の眼前に現れしものは、実に幽霊にあらず、また霊魂にもあらずして、これを他物と仮定して可なり。かつ、幽とは不可見のいいならずや。しかもこれに形体ありとせば、論理上撞着どうちゃくのはなはだしきものといわざるべからず。されば、かの幽霊論者の説くところは、道理上すでに霊魂不滅説と全く関係なきものと知るべし。かつ、実際上においても全く自家の経験を根拠とせるものなれば、これを事実として、その論を承認することあたわざるなり。たとい一歩を仮して、その事実を確実とし、その道理を精確なりと仮定するも、なお二、三の考究を要する問題ありて、決して軽々に論断を下すべからず。
 すなわち、その問題の第一は、いったん肉体を去りたる無形質の精神すなわち霊魂が、いかにして再び形質をそなうるに至りしかということこれなり。また第二は、幽霊の現れし場合ならびに人のこれを見し場合を考うるに、種々の事情存せざるはなきことなるが、なにゆえに幽霊の現るるには、かかる事情を要せるかの点これなり。その事情とはなんぞや。試みにこれを左に列挙せんに、まずこれを主観的と客観的とに分かつを便とす。その客観的には、第一に、幽霊の現ずるは薄暮あるいは夜中のごとき、事物の判明ならざるときに多き事情あり。第二に、寂々せきせき寥々りょうりょうたる場所に多き事情あり。第三に、死人ありたる家、久しく人の住まざりし家、神社仏閣、墓畔ぼはん柳陰りゅういんのごとき場所に多き事情あり。その主観的には、第一に、幽霊はある一人に限りてその形を見ること多く、衆人同時にこれを見ることはなはだ少なき事情あり。第二に、疾病あるいは心痛その他の事情によりて、身心上に衰弱変動を生じたるか、もしくは発狂したる場合かにおいて多く現るる事情あり。第三に、幽霊を見るは、その性質感動しやすく、恐怖しやすく、概して知に乏しくして情に強き人に多き事情あり。第四に、自ら一事を専念沈思する場合に多き事情あり。例えば、寡婦がもっぱらその亡夫を追慕してやまざる場合において、その幽霊を見るがごとし。
 これを要するに、以上列挙せしがごとき種々の事情ありてはじめて幽霊現るとせば、なにゆえにこれらの事情が幽霊の現出に必要なるかは、決して研究を怠るべからざる要点ならずや。さはいえ、予は決して幽霊なしと断言せんとするにあらず、また、決して幽霊ありと信ずる論者を攻撃せんと欲するにもあらず。ただ、世の幽霊論者が僅々きんきん二、三の事実によりて、ただちにこれありとの断定を下さんとする傾向なきにあらざれば、かくのごとき論者に向かいて注意を請わんと欲するに過ぎず。ゆえに予は、幽霊ありと信ずる論者に向かいて、その断定に到達するにさきだち、余が上に列挙せし一、二の問題に対し、十分なる解釈を与えられんことを希望してやまざるなり。
 王充の『論衡』に述ぶるところ、実に一理あり。その言に曰く、「朽則消亡、荒忽不見、故謂之鬼神、人見鬼神之形、故非死人之精也、何則鬼神荒忽不見之名也。」(朽つればすなわち消亡し、荒忽こうこつとして見えず。ゆえにこれを鬼神という。人、鬼神の形を見るゆえに死人の精にあらざるなり。なんとなれば、すなわち鬼神は荒忽として見えざるの名なり)と。これによりてこれをみるに、通俗のいわゆる幽霊の誤りあるを知るべし。もし、誠にその幽霊を説明せんと欲せば、物理的、心理的の二方によらざるべからず。もし物理的説明によらば、幽霊はもとより世に存在すべき道理あるものにあらず。強いてこれを説明せんとせんか。あるいは一種の電気または精気エーテルの作用に帰するよりほかなし。あるいは数学上、これを第三大以上のものとなす人あり。第一大とは、単線のごとき長さのみを有するものにして、第二大とは、平面性のもの、すなわち長さと幅とを有するものをいい、第三大とは、立方体にして長幅のほか厚さを有するものをいうなり。しかして今、吾人はただ耳官のみを有して、他の感覚なき者ありと仮定せんか。しかるときは、第一大以上を知るべからず。また、眼官のみにて他の感覚なき者ありと仮定せんか。第二大までを知るも、第三大には及ばざるべし。しかるに今日の人類は、五官によりて三大までを知るといえども、もしこの上に六官、七官を有しなば、なお四大、五大の知るべきものあるやも測るべからず。しかして、幽霊のごとき妖怪は、すなわちこの四大以上の性を有して、人間の五官にては知り得べからざるものと想像するものもあれども、これかえって憶説、空想のはなはだしきものなり。あるいはまた、人間にも五官以上の官能具備したらんには、幽霊もまた弁じ得べきものなりと考うるものあるも、これまた一つの想像にして、もとより取るに足らざるべし。
 要するに物理上にては、到底幽霊の実にありとの論には同意することあたわず。しかれども、心理上より考うるときは、幻覚、妄想、注意、信仰、予期、感情等によりて説明することを得べし。しかれどもこれらは、後にいちいち例を挙げて説明するところあるべし。

第一三節 幽霊の種類

 民間の幽霊には種々あること疑いなければ、左にその表を示すべし。
種々の幽霊の図
 人為的とは、虚言、訛伝かでん等によりてその実を誤るものをいう。偶然的とは、さきに第一節に掲げたる二、三の例のごときものをいう。この二者はともに事実にあらざるをもって、これを虚偽と名づく。この偶然的に属すべきものに物理的妖怪あり。すなわち、光線の反射、屈折等によりて人影を浮かぶるときに、これを幽霊と認むることあり。例えば、高山、幽谷などには虚影を見ることあり。また夜中、ランプの光線が偶然、物の影を人の形に現ぜしむることあり。これと等しき例に、信州小諸町、小山勝助氏より報道せられし一項あり。すなわち左のごとし。
 わが長野県北佐久郡御影新田村、若林時次郎のめかけ某、同村内に一家を借りて別居せしが、明治十九年九月某夜、便所にゆき、かえりて室に入らんとせしに、今まで明らかなりしランプの、なんとなく朦朧もうろうとして薄暗きをあやしみ、ふとそのホヤを見れば、ホヤは人面と化して、某をにらむもののごとし。某これを見て驚き叫び、出でて隣人に告ぐ。隣人、妄となし、一人もこれを信ずるものなし。ここにおいて、某やむをえず、再び室に入りてそのホヤを検せしに、ホヤの裏面に付着したる油煙、明らかに人面を現せり。その容貌、男女の区別明らかならざれども、眉、目、口、鼻みな備わりて、頭髪の生え際まで判然印現し、画工といえども及ばざるほど巧みに見ゆ。これ偶然、油煙の付きし所が人面のごとくに現れしに相違なかるべきも、かくのごとく巧みに現れしは奇といわざるべからず。ある人、これを御嶽講おんたけこう先達せんだつに占わしめしに、時次郎の亡妻たたりをなすなりといいし由。もっとも、そのホヤはそのまま同家に保存しある由なれば、なにびとにても、なお見ることを得べし。
 これ、偶然の出来事なることは問わずして明らかなり。また、反響が人を驚かすことあり。深山などにはことにはなはだしとす。要するに、光線と音響とは妖怪を作り出だす力を有するをもって、今後、幽霊の形を見、もしくは声を聞きたるときには、よほど注意に注意を重ねて、その原因を探究せざるべからず。
 また、虚偽にあらずして、一般に幽霊の事実として世人の伝うるものに、有形、無形の別ありて、有形の方には陰火の燃え上がり、あるいは怪火の空中に飛行するを幽霊となすものあれども、今ここに論ずるものは、人の形体を示すものをいう。その形体に手足五官を具備して、言語、挙動さらに生時に異ならざるものと、半身のみありて空中にかかり、あるいは頭のみを現し、あるいは運動のみありて言語を有せず、あるいは言語、運動ともに有せざるものとあり。これに反して無形の幽霊とは、目に形体を見ざるも、耳に語声をきき、あるいは足音を聞き、あるいは触覚上、亡者の体重を感ずるがごときをいう。世間の俗説には、幽霊が寺に参り、戸を開き、鐘をたたくなど種々の音を聞くも、その形を示さざることありと信ずるなり。また、これらの幽霊の、一人の感覚のみに現ずるものと、衆人の耳目に現ずるものとの二種あり。左に二、三の例を挙げて示すべし。まず有形的幽霊の、一人に限りて見たる例を挙ぐれば、
新著聞集しんちょもんじゅう』巻五に曰く、「江戸柳原の酒屋市兵衛という者の妻、天和三年の夏みまかりしに、そのころのある夕暮れに幽霊現れて下女がそでを引きしかば、あなかなしやと伏し倒れ呼びしに驚き、人寄りて見れば絶死せり。顔に水をそそぎ呼びけるに、辛うじてよみがえりし。しかるに、かれが片袖切れてなかりしかば、不審して翌の朝、亡妻の塚にもうで見れば、かの袖、石塔の上にかかりてありしとなり」
 群馬県、福地載五郎氏の報に曰く、「予が産地は上州前橋なるが、同地の縁家に予と同齢の男子某あり。予は父の四十二歳のとき生まれしより、仮に捨て子とせられ(俗に四十二の二つ子と称して、四十二歳の人の子はわざわいありというによる)、某の父を拾い親と定めしことあり。加うるに予が母、乳に乏しかりしため、某の母に乳養せられ、十二、三歳のころまでは常に相往来し、予と某とはあたかも真の兄弟のごとくに交われり。しかるに予、十三歳のとき入京し、某と相見ざること数年の後、一度帰郷せしことありしも、当時、某はある県立学校に入学してありたれば、ついに面会するを得ず。交情ようやく疎にして、今は他人と異なることなきほどまでになりたれば、某を思うことかつてなかりしが、明治十六年の暑中に、一日のひまを得て郊外を散歩せしに、途中にて図らずも某に邂逅かいこうし、種々笑談の後、某の著しく衰弱せるをあやしみ、その所由しょゆうを問いしに、某は過般来、脚気症の気味ありしが、夏期に至り病勢増進して、一時は歩行することあたわざるまでに至りしゆえ、湯治を兼ねて某所へ転地せり。その後ようやく軽快に向かい、一昨夜帰宅せしくらいなれば、病余の疾憊しっぱいなお全く癒えざるなりと語りしによりて、はじめて某の病気にてありしを知り、なお大切にすべしといいて別れ、午時家に帰りしに、某の家より信書至る。すなわち開きて見れば書中、『某、永々病気のところ、療養ついにその効なく、昨夜死去、云云うんぬん』の語あり。この訃音ふいんにしてまことならば、今朝、途中にて某にあうべきはずなければ、かつ驚きかつ怪しみ、一時呆然ぼうぜんとしてありしが、とにかく打ち捨ておくべきことにあらねば、ただちに某の家に至りたずねしに、久しく病床にありて一時転地せしことなどは、予が某にあいしとき聞きしところとごうもたがわず、しかして、その死せしは実に昨夜のことなりし由を聞き、さては、今朝あいしは某の幽魂なりしかと思わずはだあわを生じたり。よって思うに、予と某との交情、今日まで幼稚のときのごとく親密なりしならんには、かくのごときことなきにも限らざるべしといえども、当時は久しく相見しこともなく、ほとんど絶交のありさまにて、かつて脳中に浮かびしことすらなきに、しかもかく亡霊にあいしはいかなるゆえにやと、疑団凝りて解けず。しばらく記して後日の研究をまつ」
 また、衆人ともに見たる例を挙ぐれば、谷子爵の国家学会にて演述せられし幽霊談の中に、白昼出でたる幽霊の事実あり。今、『国民新聞』の雑報中よりその一節を転載すれば、
 ころは延宝二年のことなり。土佐の国においては浦々に浦奉行なるものありて、九十九浦よりあがる税はまず浦奉行に納めたり。この浦奉行に岡野源兵衛なる者あり。源兵衛の配下に浜田六之丞という者ありしが、この六之丞はおびただしく金を取り扱うゆえに、ついに不良の心を起こし、ただいまならば、監守盗ともいうべき罪を犯せり。そのころの刑罰は極めて重く、浜田六之丞これがため死刑の宣告を受けたるのみならず、一家三族ことごとく落首おちくびとなって相果てたり。六之丞の弟に吉兵衛という者あり。紀州へ行きて剣道を学びおりしが、性得しょうとくはなはだ誠実にして学業の進みも早く、師家にては彼に皆伝を許さんと思いおるうち、吉兵衛は国元の便りを聞き、大いに驚き、それとなしに師家を辞して土佐に帰り、城下より一里ばかり離れたる洲崎という所へ上陸して、村役人の所へ至り、「自らは、さきほど監守盗の罪を犯して刑せられたる六之丞の弟でござる。なにぶんのお仕置きを願い奉る」と届け出でたり。通常のものならば、一家の刑せられしを聞かば、逃げ去るこそ人情なるに、吉兵衛は他国より帰りきたりてお仕置きを願うにより、村役人も感心して、縄をもかけず、添書をつけて目付役の所に至らしめ、当時の目付役源兵衛はその旨を上申に及びたるところ、土佐の政府においても、その殊勝なる心に感じて種々の議論ありしが、ついに切腹を申し付け、吉兵衛は、「通常ならば打ち首にも処せらるべきところ、武士の面目を立ててくだされ切腹を仰せ付けられたるは、この上なきありがたきことなり」とお受けして、潔く割腹して相果てたり。その翌日の昼ごろなりき。源兵衛の家に案内を請う者あり。源兵衛立ち出でて見れば、昨日割腹したる浜田吉兵衛なり。「実は生前に申し残したることあり、よってご依頼のため推参いたしたり。そは余の儀にあらず、師家より伝書を贈りきたるはずなるが、拙者かくなり果てし上は、つまらぬ者の手に渡るは必定ひつじょうなり。さありては師家に対して信義の相立たざる次第なれば、なにとぞ足下そっかにおいてお焼きすて相なりたきものなり」と。源兵衛はこれを承知したる旨を告げ、浜田吉兵衛は喜んで立ち去れり。この幽霊は白日出できたりしのみならず、立派に足もありて、かつ水漬け二杯の馳走を受けて立ち去れり。その座に源兵衛のしもべ、平尾弥五郎、市田与平次の二人居合わせ、不思議に思いあと追いかけたれど、ついに影を見失えり。
 また、近江国おうみのくに、大菅吉太郎氏の報に曰く、「維新の前、彦根藩士に寺沢友雄(今なお生存せる人)といえる人ありしが、一夜同藩士某の邸辺りを通行せしとき、同邸のかきの辺りに人あり。胴より上をあらわし、しきりに頭を左右に振りて眄顧べんこするもののごとし。よって月の光に照らしその面を熟視すれば、その邸の主人某なり。当時、某は江戸詰めにしてここにあるべきはずなければ、これをあやしみ、翌日その家に至り、つぶさに見しところを告げしに、某の夫人もまた、その時刻に良人の影、紙障に映ぜしを見たりとて、ともに一驚せしが、その翌日江戸より急報あり、『某、熱病にかかり急に死す』と。しかしてその時日は、あたかも寺沢ならびに某の夫人が幻像を見し時日に合せり。これによりてこれをみれば、幽霊は形体あるものにや」
 また、保田守太郎氏の報に曰く、「余、本年四月、下総国しもうさのくに香取郡香取村に遊びし折、佐原小学校の教員数名と懇意になりしが、その人々より、同地近傍に隠れなき怪談なりとて、おもしろき一話を聞き得たり。今その要領を記さんに、香取郡小見川町に皆花楼とて、旅店と割烹かっぽう店とを兼ねたる一楼あり。今より七年ほど前の四月中旬のことなりとか、一日客あり(当時郡書記をつとめたる者なるが姓名ははばかりて言わず)、この楼に宿せしが、その夜十一時ごろまでも眠りに就くことあたわず。ふすまを打ちかずきながら書籍、雑誌など読みいたりしに、ようやく睡気ねむけづきて、やや華胥かしょに遊ばんとする折しも、枕辺の方に物音して、人の気配するままに驚きて目を開き見れば、こはいかに、今までかすかなりし燭火の光、煌々こうこうとあたりまばゆきばかり照り輝きて、あなたの壁際に年ごろ二十あまりともおぼしき女の、鮮血にまみれておどろの黒髪振り乱し、いとものうらめしげににらまえたる眼光のすさまじさ。見るより客の驚きはたとえんに物なく、たちまち五体打ちすくみて、覚えずひと声絶叫せしかば、楼下にしたる宿の主人、この物音に驚きて、いそぎくだんの客の間に走り行き見れば、客はすでに面色土のごとくなりて声もえ立てず、冷汗身を浸して打ち伏しいたりという。しかるに、このことありてより三年後、またたまたま一客あり、この楼に宿せしが、この人(これも当時郡書記をつとめいたる人)は、かつて前の怪事を耳にしたることなかりしなり。さてその夜、床に入りていまだ眠りに就かず、ほのぐらき灯火の光に、あたりの屏風、ふすまの絵など打ち眺めいたる折しも、立て切りある襖の間より、白く細長き女子の腕現れ出でたり。宿の下婢かひなどの戯れならんと思いければ、ただ黙して注視しいたるに少時して隠れたり。しかるに、これと同時に隣室に泊まり合わせたる客人(県会議員某)、たちまちひと声高ぐ叫びて急に人を呼ぶもののごとし。前なる客は驚きて声を掛け、ゆきてその故を問うに、隣客の答うるよう、『われ今、夢に墓場を過ぎしに、墓石の間より白く細長き女子の腕現れて、わがたもとを引くに驚きて振り放たまくすれども、五体すくみて動くことかなわねば、思わず声をあげて人の救いを求めたるなり』と。よって、前に実見したるありさまを語りて、互いにその奇におどろきたりという。
 さてその後、この二人のうちいずれにかありけん、たまたま、かの三年前に怪事に出あいたる人と相会したる折、ふと右の話を打ち出でたるに、前なる人、聞きていたく打ちおどろき、われもかつてかの楼にて怪異を見たることありしが、今思い出でて肌にあわする心地すとて、前の話をつぶさに語り出でて、なお互いにその月日を問い試みたるに、奇なるかな、前後の怪事あたかも同月同日に当たりたりければ、いずれも再びその奇におどろきたりという。かくて後、だんだんかの旅店の来歴をせんさくしたるに、その前代の主人、性すこぶる苛酷にして、かつて一婢を虐待し、ついに死にいたしたることありきとぞ」
 つぎに、無形的幽霊の、一人のみにて感ずるものを挙ぐれば、
『新著聞』に曰く、「下野国しもつけのくに那須の下蛭田村に助八という者あり。父は死し、継母ばかりなるを、常につらくあたりしかば、母うらみかこち、『なんじ、今かくのごとくからき目にあわするとも、ものにはむくいあり、やがて思い知らせんものを』とにらみし眼、いと恐ろしかりき。その後、母わずらいつきて死しけるが、その夜より怨霊おんりょう来たりて助八を悩ましければ、恐ろしさやるかたなく、身の毛よだちて覚えけるゆえ、妻子をすて、かみをそり、湯殿山行人にさまをかえ、諸国修行せしより後、怨霊またも見えずなりしとかや」
 また、某氏の報知に、「近江国おうみのくに愛知郡北蚊野村に宇野うめといえる者あり。その母春野すでに死して今は独り身なるに、ある夜のこと、隣人宇野茂兵衛といえる人、うめの家の門前を通行せし際、家の中にて春野とうめとがしきりに談話する声を聞き、立ちとどまりてなおよくこれを聞けば、母の春野がうめの将来につき案じわずらう物語りなりしより、ますます不審に思い戸隙こげきより内をうかがうに、ただ、うめのひとりしたるを見しのみ。しかれども、なお談話はやまざりし由」
 また、衆人ともに見たる無形的幽霊、あるいは衆人の夢中に現じたる幽霊を挙ぐれば、
『古事談』巻六に曰く、「むかし、比叡の山、千手院に広清という僧ありけり。常に法華経を読み奉りて極楽にもうでたるよし、人の夢に見えたる。没後に、かの墓所に夜ごとに経一部よむ声怠らざりけり。改葬してその墓所をよそに渡したりけるときも、なお経の声怠らざりけり。在生のときより執し奉れるゆえに、没後にもその行怠らぬなり。善悪につけて執心あることは、生を隔つれどもかかるにこそ」
 また、越中国、玄巣慶祥氏の報ずるところによるに、「予が村は僻陬へきすうにて、日用品すら急にあがなうことあたわざるくらいの土地なるが、明治十七年十月某夜、村内の某老爺ろうや来たり、予にいいて曰く、『われ、砂糖をなめんと欲すれども、たまたま蓄うるところ尽きたり。貴家もし蓄うるところあらば、願わくは少量を貸せ』と。予、もとより某爺の砂糖を好むを知る。かつ、その家貧しというにあらざれども、僻地のことなれば何心なくこれを与えしに、爺の喜ぶこと一方ならず、大声歓呼せしを聞くや、たちまちその影を失う。ここにおいてその夢なりしを知り、再び眠りしに、翌朝、人あり。某老爺、一昨夜来急病にかかり、昨夜ついに死せりと告ぐ。予、かつおどろきかつあやしみ、他事に託して臨終の状を問う。よって、死者まさに瞑せんとするに臨み、『わが年すでに七十に近し、またなにをか望まん。ただ一塊の砂糖をなむることあたわざるを遺憾となすのみ』と語りしを聞き、ひそかに夢の妄ならざりしに驚きしが、葬送終わりて後、老爺の子某来たり、話緒亡父のことに及ぶ。某すなわち曰く、『予、頃日けいじつ商用のため越後国えちごのくに高田に赴き、父の病を知らず。一夕、家父の砂糖をもとむる夢を見たりしが、その翌日、家父死亡の電報に接し、急に帰りきたりてこれをたずぬれば、家父終焉しゅうえんの際、に砂糖をもとめたりという』と。この二夢はともに事実に合するものにして、すこぶる奇怪ならずや」
 その他、幽霊の種類に、ウブメの幽霊、船幽霊等あれども、これ「雑部門」において論ずるはずなれば、ここに掲げず。
 以上の諸例は事実として掲げたるも、そのうちに寸分も虚偽なきを保すべからず。余が今日までの経験によるに、十中七八までは虚偽、虚構に出ずるを知る。果たしてしからば、真に事実として取るべきものは、わずかに二、三のみ。そのうち一人に限りて現ずるものは、幻覚、妄見、予期、専制等の種々の精神作用によること疑うべからず。また、無形的幽霊も同じく精神作用に帰せざるべからず。ひとり衆人共同して見るところの有形的幽霊に至りては、精神のみによりて説明し難しといえども、もし人の想像、予期するところ同じきときは、同一の幻象を感見することあれば、衆人ともに見るものも、精神作用に関係なしというべからず。しかして、精神作用の説明は心理学に属することなれば、「総論」説明編および「心理学」心象編に譲る。また、両人にて同一の夢を結び、あるいは同一のことを感じ、ことに同月同日に起こり、二者真に符合せりと伝うるがごときも、決して信許すべからず。だれも明らかに時日を記憶する者なきをもって、その一時の想像によりて時日を定むるを常とす。ゆえに、余が今日まで時日符合のことにつき取り調べたるうちに、いまだ一つとして確実なるものに接せず、大抵みな仮定、憶断によるものなれば、確実らしきものも決して確実にあらず。また、妖怪の原因のごときも、人々の予想によりて定むるものなれば、これまた真偽を知るべからず。例えば、ある家に一怪事あるときは、このことは必ず前に死したる人のうちに、怨恨えんこんを抱きし者あるより生ぜしならんと予想してその原因を求め、ついに数代前その家に殺されたる人ありしことを発覚し、ただちにかの怪事は怨霊おんりょうの作用なりと速断するがごときは、これ決して公平無私、虚心平気の判断にあらず。かつ、事物の上には必ず偶然の暗合はあるべきことにして、そのことはすでに「理学部門」第一講に述ぶるところなり。ゆえに、これありとて、なんぞあえて怪しむに足らんや。また、道に死したる友人に会し、互いに相語りしことありというも、人は幻覚によりて、実際虚無なることを、その実あるがごとく感覚することあるのみならず、人の記憶そのものも、時によりて信許すべからざることあり。例えば、四、五日前に面会したりしことを昨日のごとくに記憶し、甲の人に面会したりしことを乙のごとくに記憶し、夢中に想見したることを実際経験したるがごとく記憶しおることは、折々ある事柄なり。
 以上の事情を参考するときは、世の幽霊実験談は、いかに確実なるものにもせよ、絶対的にその実を得たるものと称するを得ざるなり。

第一四節 幽霊論の帰結

 上来論述するところ、これを要するに、余は幽霊有無論は霊魂不滅論にもとづくものにして、霊魂は不滅なりと断言して可なるをもって、幽霊も実在せりと許してしかるべきがごとしといえども、通俗のいわゆる幽霊は、霊魂論と大いにその性質を異にするをもって、余は幽霊現存説を信ずるあたわず。しかれども、余は世間の排斥論者のごとく、一言の下に排斥するにあらず。およそ今日民間に伝わる幽霊は、十中七八まで人為的および偶然的にして、残余の二、三は精神作用によるものとなす。ただ余は、従来世間にいい伝うる幽霊談について、事実と虚偽とを判別することあたわざるをもって、いちいち説明を与えざるのみ。ゆえに余が目的は、今後の幽霊につきて注意を与うるにあり。まず、世人の幽霊に遭遇したるときは、必ず種々の原因および事情あることを記せざるべからず。
種々の幽霊の原因の図
 ゆえに、もし今後幽霊に際会したるときは、必ず虚心平気をもって、右の原因、事情のほかに、真に幽霊と認めざるものあるかいなかを審定すべし。しかるに、もし幽霊がこれらの原因、事情によりてのみ成立するならば、余はこれを名づけて仮怪といわんとす。しかして真怪と名づくべきものは、余はひとり霊魂そのものの本性、実体あるのみと信ずるなり。これ、余がさきに霊魂不滅論を述べたるゆえんなり。しかして、この霊魂は玄々たる絶対関門のうちにありて存し、吾人の精神の上にその光輝を放つのみ。決して物質的形体を有するものにあらず。これを名づけて霊妙不可思議という。あに、世の物質的、奇怪的幽霊と同日に論ずべけんや。ただ余は、世人に哲学的知眼を開ききたりて、奇怪的幽霊を破り、霊妙的幽霊をあらわされんことを望んでやまざるなり。

第一五節 霊魂説の帰結

 かく幽霊論を結びきたれば、また霊魂論を結ばざるべからず。霊魂は吾人の生死の関するところにして、その生滅は生死の迷路の分かるるところなり。かの唯物論者のごとく本来心霊なしとするも、なお生死の道に迷いなきあたわず。未来の天堂も地獄もすべてなしと信ずるもの、なお死を恐れざるあたわず。シナにありても楊朱ようしゅのごときは唯物説なり。その言に曰く、「万物所異者生也、所同者死也、生則有賢愚貴賤、是所異也、死則有臭腐消滅、是所同也。」(万物の異なるところのものは生なり、同じくするところのものは死なり。生にはすなわち賢愚貴賤あり、これ異なるところなり。死にはすなわち臭腐消滅あり、これ同じくするところなり)と。また曰く、「十年亦死、百年亦死、仁聖亦死、凶愚亦死、生則尭舜、死則腐骨、生則桀紂、死則腐骨、腐骨一矣、孰知其異。」(十年もまた死し、百年もまた死し、仁聖また死し、凶愚もまた死す。生すればすなわち尭舜ぎょうしゅん、死すればすなわち腐骨、生すればすなわち桀紂けっちゅう、死すればすなわち腐骨。腐骨は一つのみ、いずれかその異なるを知らん)と。また晏平仲あんぺいちゅうの言に曰く、「既死豈在我哉、焚之亦可、沈之亦可。」(すでに死す、あにわれにあらんや。これをくもまた可、これを沈むるもまた可)と。人、よくこの言を信じて死を恐れざるを得るや。また、生死は自然に一定せるものにして、人力のよく動かすべきにあらず。儒者は曰く、「死生有命富貴在天」(死生命あり、富貴天にあり)と。仏家は曰く、「煩悩即菩提、生死即涅槃。」(煩悩ぼんのうはすなわち菩提ぼだい生死しょうじはすなわち涅槃ねはん)と。人みな、よくかくのごとく信じて死を恐れざるを得るや、余輩のはなはだ怪しむところなり。それ、人の恐るるもの、死よりはなはだしきはなし。雷震を恐れ、病患を恐れ、猛獣を恐れ、毒虫を恐れ、飢渇を恐るるは、みな死を恐るるより起こる。しかして人の迷いもまた、死を恐るるより生ぜざるはなし。迷いは実に苦のよりて起こるところなり。ゆえに、人もし苦を脱せんと欲せば、まず迷いを脱せざるべからず。
 余、かつて世の金満家に一言をすすめたることあり。その有するところの金はもと死物なるも、一種の力を有す。その力、実に強くしてかつ大なり。山も動かすべく、川もとどめしむべく、腕力もこれによりて生じ、知力もこれによりて進み、権力もこれによりて張り、威力もこれによりて高く、その力よく法律の権門を破り、禍福の冥路めいろをひらく。ことわざにいう、「地獄の道も金次第なり」と。実に金は一種不思議の神力を有すというべし。その力、またよく知者を愚にし、才子を鈍にし、人を欺き、事をうるも自在なり。実に金は一種奇怪の魔力を有すというべし。これ、世人一般に金を見て狂するゆえんなり。金満家はなんぞ多幸至福なるや。この不可思議の神力と、奇変妙怪の魔力とを有する金をその一身に具す。実に人世にありて、最大幸福の地位を占むる者というべし。余輩、その人に向かいて賀せざるを得ざると同時に、また他方に向かいて弔せざるを得ざるものあり。すなわち、無資無産の貧民窮生これなり。これ実に人世にありて、最大不幸の地位を占むる者というべし。だれか、一方にかくのごとき最大幸福の人をつくり、他方にかくのごとき最大不幸の人をつくりしや。上帝、もしいまさば、余輩、その法廷に向かいて不公平を訴えざるべからず。
 しかりしこうして、神力、魔力を兼備せる金力の動かすべからざるもの一つあり。金満家はなにほど最大幸福の地位にあるも、この一点に対しては最大不幸の人たるを免れず。これに反して、無資無産の貧民窮生も、この点に考えきたらば最大幸福の人たり。その点はなんぞや。曰く、「人の精神上の境遇なり。金満家は肉体上にありては快楽をほしいままにし、幸福をもっぱらにし、百事百物、意のごとくならざるなきも、精神上にありては、またすこぶる安楽の余地に乏しきを見る。しかして、よく精神界中に楽地を開くものは、学問と宗教なり。この二者は精神世界を照らす灯台にして、また精神境裏をうかがう眼鏡なり。金満家はたいてい学問に乏しく、また宗教に暗し。ゆえに、大事に当たりて迷い、病患にかかりて恐れ、老い去り、衰えきたりて、目よくみるべからず、耳よく聴くべからず、舌よく味わうべからざるに至れば、あたかも渓山深き所に、樵径しょうけいを失したるがごとく、茫然ぼうぜんとして四顧しこ向かうところを知らず。また、あたかも終身禁固の牢中にあるがごとく、呻吟しんぎんとしてただその心を苦しむるのみ。かくして、日一日より死期に近づき、いよいよ生死一別の境に臨み、無常の妄風吹ききたりて、心灯まさに滅せんとするに至らば、前途暗くして、いずれに向かいて去るを知るべからず。顧みて往時を追想すれば、百事こうとして夢のごとし。進退これきわまるも、またいかんともすべからず。いかなる金満家もここに至れば、その憂悶、実にいうに忍びざるものあり。金力特有の神力も魔力も、この境に臨みては、さらにその効力を見ず。しかして、よくこの際に大金、剛力を奮い、もって百憂千悶を一払し去るものは、ひとり学問と宗教あるのみ。この二者は人の精神に一種の高遠美妙、不可思議の幸福、快楽を与うるものにして、平常いやしくも学問に志し、宗教に意ある者は、多少この快楽をその心に感受せざるはなし。しかるに、金満家の欠点はこの二者の思想に乏しきにあり。故をもって、金満家は肉体世界にありて、最大幸福を専有する人となるも、精神世界にありては、最大不幸の人となる。これ、余輩が金満家のために、ただにその不幸を弔するのみならず、この不幸を転じて幸福となす方法を示さんと欲するゆえんなり」と。
 これ、余がかつて金満家に呈したる一言なり。しかるに、古来聖人君子と称せらるる者は、その心常に明らかにして生死の道に迷うことなく、精神界裏に日月を浮かべ、方寸城中に極楽を開き、安楽の別天地に遊ぶものなり。釈迦しゃか、孔子のごときは論をまたず、陽明、カントのごときもその心、実に日月より明らかなるものあり。陽明、ときに死せんとす、門人遺言を問う。陽明微哂びしんして曰く、「此心光明、亦復何言。」(この心光明、またまたなにをか言わん)と。頃刻けいこくありて瞑目めいもくして逝けり。カントは病中にありて自ら死の近きを知り、人に語りて曰く、「われは死を恐れず。なんとなれば、われはいかにして死するかを知ればなり」と。碩学せきがく、大家の生死に迷わざること、実にかくのごとし。しかるに、凡庸の輩は戦々恐々として死を恐れ、終身苦海に一生を送る。これすなわち、その心自ら地獄をつくり、煩悩の火中にありて苦しむものなり。誠に哀れむべきの至りならずや。けだし、宗教の世に起こりしは、この迷人を救わんためのみ。





底本:「井上円了 妖怪学全集 第5巻」柏書房
   2000(平成12)年5月10日第1刷発行
底本の親本:「迷信と宗教」大正名著文庫、至誠堂書店
   1916(大正5)年3月18日発行
   1918(大正7)年8月10日4版
※「なんぴと」と「なんびと」、「燐化水素」と「燐火水素」の混在は底本通りです。
※図は、入力者が作成しました。系統図は底本の親本からとり、文字は新字に改めました。
※〔〕内の編者が加えた補記は省略しました。
入力:門田裕志
校正:岡村和彦
2016年3月17日作成
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●表記について

丸鬼    150-15


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