尖端人は語る
堀辰雄
私は書かうと思つてもどうしても書けないやうな時がある。
さういふとき私はへとへとに疲れ、そして書くことは何と馬鹿馬鹿しいことだらうなどと考へながら、私は公園へ散歩に出かけてしまふのである。すると公園の中で、私は子供たちが長いモチ竿をもつて蜻蛉を追ひかけてゐるのを見る。私には彼等の姿が羨しくてならない。もし出來たら、私も書くのなんか廢めてしまつて、彼等の仲間入りがしたい。それほど書くことは私には苦痛なのである。それなのに何故私は書くのを廢めないか? 私が一昔前の詩人だつたら、私は苦しいから書かずにゐられないのだと言つたかも知れない。だが今日の詩人は知つてゐるのだ、苦しい人間が苦しいと書くのは小鳥が歌を歌ふのとすこしも異らないことを。そして今日、誰がそんな小鳥の歌などを聞いてゐるものか。
ロマンチシズムの時代はもう過ぎたのである。今日を支配してゐるのはレアリズムだ。我々の苦痛が人々を打つためには、それが我々の心臟から出來るだけ切離されてゐなければならないのだ。
今日、我々は苦痛に乘じてものを書くことを禁じられてゐる。我々は平靜さの中でのみ書かなければならない。そしてその平靜さを手に入れることがいかに困難であることか。私がこのやうに書かうとしても書けないのは全くその平靜さを手に入れることの出來ないためだ。私は何度も何度も、子供たちが蜻蛉をねらふやうに、それをねらつたのだ。だが、私は駄目だつた。
それだのに、いま私の目の前で無心に遊んでゐるこれらの子供たちは何と蜻蛉をねらふことが上手なことか! おお、私の天使たちよ!
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