この二三日、咽喉が痛くてしかたがない。どうも煙草の飮み過ぎらしいのだ。
それで、愛用のパイプを口にくはへることも我慢してゐる。
――だからといふのではないがひとつ、僕の古馴染みのパイプの惡口でも書いてやらうかと思ふ。
僕の愛用のパイプといつたつて、普通のブライヤアのやつで、ちつとも自慢するほどのものぢやない。
何しろ、これを買つたのは、まだ僕が一高の學生だつた時分のことだ。その頃、僕のほかにもう一人、僕と同じやうに怠惰な學生が居て、そいつがある日、僕に向つて非衞生的な化學實驗室から逃出して草の上に寢ころびながら、パイプをふかふか吹かすことの樂しさを、教へたものだ。早速、僕はそいつの弟子になつた。そしてそのためには、つまり、パイプを手にいれるためには、讀みもしない原書を四五册賣り飛ばしさへすればよかつたのだ。思へば、僕もあの頃はひどく怠け暮らしてゐたものと見える。あの頃のことを思ひ出さうとすれば、いつもその友人と、草の上でパイプを吹かしてゐる光景しか浮んでこないのだから……
それから、その翌年だつたか(僕はもう大學生だつた)、僕たちの仲間のあひだにパイプが急に流行し出した。
そしてそれは、毎月二三囘、「パイプの會」といふものをやり、大いに酒も飮み、パイプも吹かさうといふ程度にまでなつたのだ。そしてその會場に選ばれたのは、上野のとあるレストランの二階であつた。名前は、故あつて、いはない。……實はそこにひとりの可哀らしいウエイトレスが居て、その人を僕はひそかに好きになつた。好きになつてはならない人だつたのに。なぜかつてまア、それも、故あつていはれぬ。――さうして僕は一人でやきもきしてゐた。あの時の僕の馬鹿げた姿が、濛々たるパイプの煙にさへぎられて、僕自身にさへぼんやりとしか思ひだされぬことは、せめてもの仕合せといふべきか。
といつても、僕は年がら年中、パイプを吹かしてゐるのではない。ときどき思ひだしたやうにこれを取りだして、そしてそれに倦きるまで吹かしてゐるのだが、よく氣をつけて見ると、パイプを吹かしたくなるのはいくぶん季節と關係があるらしい。はじめてパイプを買つたのは確か九月の末であつたし、例の「パイプの會」の創立も、多分秋だつたと記憶する。
どうして秋になると吸ひたくなるのだらうと考へたのだが、それは、あの火のついたパイプを掌のなかに握つてゐる感じ、――しばらくそれを握つてゐると自分の掌が小鳥でも握つてゐるやうに温まつてくる感じ、あれがさういふ季節にもつとも適するのではないかしらと思はれる。まア、理窟はどうでもいい。……
ところで、ある年、僕がある山の中の温泉宿に滯在してゐて、そこに一人の友人が訪ねてきたときも、まだ八月だつたけれど、山の中なので、丁度もう(東京では)九月の末に近い氣候だつた。そのせゐばかりではないだらうが、二人はパイプばかり吹かしながら、さかんに議論をし合つた。――さうしてたうとうその擧句、二人は喧嘩別れをした。翌日、友人は僕が止めるのも聞かずに怒つて東京へ歸つてしまふし、僕もすこしその友人に腹を立ててゐたので、もしそれがそのままだつたら二人の間もそれきり氣まづくなつたかも知れなかつた。……が、その友人が歸つたあとで、ふと僕が氣がつくと、僕のほとんどからつぽになつてゐた刻煙草いれ(これは護謨皮製の)の中に、いつのまにかサン・キュアドの葉がぎつしり詰まつてゐるのだ。あんなに怒つて歸りながら、その友人が、かういふ細かな心づかひをして行つてくれたのかと思ふと、――僕はいささかセンチメンタルな氣持にさへなつて、ひとり河鹿の聲を聞きながら、しみじみとそのサン・キュアド・ミキスチュアを味はひだした、といふわけだ。
サン・キュアド・ミキスチュアといへば、今度こんなに咽喉をこはしてしまつたのも、やはり、こいつのおかげだ。よほど僕には祟るのかな。