詩人も計算する

堀辰雄




「吾人の賞美する建築は、その建築家が目的によく副ふやうな手段を用ひて、その柱が、エレクションの麗はしき人像柱の如く、上にかかる重みを苦もなく輕々と支へてゐるやうな建築である。」
アンリ・ポアンカレ

 さて、いま僕らの努力してゐるのは、詩を文學から引離すことである。文學はもはや手品師がクリストに似てるやうにしか詩に似てゐない。多くの人々は文學によつて手品によつての如くにだまされる。それが人々には面白いのである。しかしそれはもはや僕らをだまし得ない。だから僕にはすこしも興味がない。それに反して、詩は、その宗教的精神に酷似した詩的精神によつてクリストの行爲のやうに僕らを感動させる。今日の詩人の價値は、彼がクリストの如き神聖の無氣力と信仰とを持つてゐるか否かによつて決定されるといつてよい。
 詩的精神とは如何なるものであるか。それは僕らに電流のやうにしか作用しないものである。(詩の非電導體の何と多いことか。)それが僕らに作用するや否や、僕らの感じだすものは、よき詩人も、よき科學者も、よき宗教家も、實にそれらの精神がその根本において一致してゐることである。この一致はどこからくるか。
 科學者は何よりもまづ計算をする。そのやうに詩人も計算する。たとへば、一つの建築が僕らを感動させるのは、その外貌――それがいかに奇拔であつても――によつてではない。しかしその「重々しい輕さ」の感じ、それを組立てる骨格、その計算等によつてである。一つの奇蹟が、一つの詩が、僕らを感動させるのも、それとすこしも異らないことを解しなければならぬ。
 詩人は夢なんか見てゐてはいけないのだ。
(初出時の表題は「詩的精神」。)

          ※(アステリズム、1-12-94)

 二つの計算法。その一つはスタンダアルの「赤と黒」のそれであり、他はドストエフスキイの「白痴」のそれである。
「赤と黒」の場合、僕がジュリアン・ソレルによつて感動されるのは、それはスタンダアル自身の意向によるものだ。しかし「白痴」の場合は、それと異つて、僕を感動させるものは、ドストエフスキイ自身の意向であるか誰の意向であるかはつきり分らない。それは何か超人間的な力によるもののごとくである。ジィドの所謂「作品における神の部分」が後者にはより多くあるらしい。
 スタンダアルは自分の計算の結果に相當の見通しを以つて「煙草をすぱすぱやりながら」仕事をしたかのように思はれる。ところが、ドストエフスキイは全然その計算がどんな結果になるか分らずに「しどろもどろになつて」仕事をしたごとくである。しかし二人とも遂に同じ合計に達してゐるのである。
 もし僕がそれらの精神の中のどれか一つを選ばねばならぬとしたら、僕はむしろスタンダアルの方を選ぶ。
 勿論、詩人の計算法の神祕は誰にも分るものではない。僕は以上のことを唯それらの外見から言ふよりほかはなかつた。だから僕は斷定的には言へなかつたのである。唯次のやうなことだけは斷言できるかも知れない。スタンダアルの方法はより意識的であり、ドストエフスキイの方法はより無意識的であつたと。といふのはジィドも言ふやうに、後者は他のいかなる人間との交渉よりも神との交渉においてより密接であつたと言ふことである。神との交渉の苦痛は、ごく僅かな人々にしか耐へられないのだ。それを僕のやうに拒絶することはそれから逃げ出すことを意味する。
附記 同じやうな意味で、僕のやうな精神は、ランボオの「地獄の季節」よりもラジゲの「ドルジェル伯爵の舞踏會」の方を選ぶであらう。

 自分の先生の仕事を模倣しないで、その仕事の終つたところから出發するもののみが、眞の弟子であるだらう。
 芥川龍之介は僕の最もいい先生だつた。そしてここに、僕の前に、彼が最後に殘して行つた言葉があるのである。
「何よりもボオドレエルの一行を!」
 僕は此の言葉の終るところから僕の一切の仕事を始めなければならない。
 僕はこの言葉にブレエキをかける。それからそれを再び出發させる。全く別の言葉のやうに。「あらゆる作品の中で我々がよき涙を流すのは悲しい數頁のためではなく、適當な場所に置かれた一行の奇蹟のためである。」
 奇蹟的な一行、それはもほや單なる一行ではない。そしてそれは、それを生かすために百の事件、千の細部が大きな背景になつてゐるところの一行だ。
 芥川龍之介がボオドレエルの一行を欲した氣持は悲痛であつた。しかし何が彼をあんな絶望の中にまで落ち込ませたか。それは、一つは彼が詩人の一行と小説家の一行とを混同したためであるかも知れぬ。詩人の一行と小説家の一行とはおのづから異るものである。芥川龍之介はドストエフスキイの一行をこそ欲すべきではなかつたか。
(初出時の表題は「芸術のための芸術について」。抄。)

          ※(アステリズム、1-12-94)

 僕らが超現實主義を方向してゐるかのやうに、いまだに考へてゐる人々のあることは甚だ遺憾だ。
 僕らの方向してきたものは新しい現實主義にほかならない。本當の現實主義は、僕らが毎日觸れてゐるためにもはや機械的にしか見なくなつてゐる事物を、あたかもそれを始めて見るかのやうな、新しい角度と速度とをもつて示すことにあるのだ。僕らの作品は一見すると、見知らぬもののごとくに奇異に見えるかも知れない。が、すぐ、それが僕らの日常生活の主題に過ぎないことを發見するに違ひないのだ。そしてそれのみが僕らになし得るところの唯一の創造だ。僕らの現實主義と世間のいはゆる現實主義とを混同してはならぬ。
 僕らの作品が超現實主義の作品と混同されるのは、おそらく外見上の類似によるのだらう。それは兩方ともから多くのものを借りてゐるからだ。が、超現實主義者らがを絶對的なるものと考へるに反し、僕らは裏返しにされた現實としか考へないのだ。僕らによれば、は現實に何物をも附け加へるものではない。そしてただそれを攪拌するだけだ。僕らがから多くのものを借りてくるのは、ただ現實を新しい角度と速度とをもつて見るために過ぎないのである。
(初出時の表題は「超現実主義」。)

          ※(アステリズム、1-12-94)

 最近、僕はある雜誌からこんな質問を受けた。
 超現實主義は沒落するか? といふのである。
 これで見ると、どうやら、去年の最新流行品だつた超現實主義も、そろそろもう流行遲れになつて來たものらしい。
 もし超現實主義といふものがさういふ流行にのみ生命を託してゐるものならば、勝手に沒落するがいいのだ。そんなことは僕の知るところではない。
 だが僕は思ふに、眞の超現實主義は、恐らく二三の眞面目な詩人らによつて死守されて行くに違ひないのだ。
 そしてそれらの詩人のみが、超現實主義の超現實主義たる役目を完全に果すであらう。
 ではそれはどんな役目か?
 といふに僕一個の見地から見れば、超現實主義がわれわれに與へたもつとも大きな影響は、われわれの藝術の見方を一變させたことにあるといつてよい。
 ここで特に注意したいのは、藝術そのものをではなく、藝術の見方を一變させたといふことだ。
 アンドレ・ブルトンはボオドレエルに「道徳における超現實主義者」といふ名稱を與へた。そんな風にして、彼は、在來のあらゆるよき藝術家を、その獨自の領域において、すべて超現實主義者なりと斷言しようとしてゐる。彼にいはせると、あるひはレエニンも政治における超現實主義者だといふことになるかも知れない位だ。
 僕はいたづらに彼の獨斷を責めまい。むしろ僕は、彼の獨斷に贊成してもいいと思つてゐる位なのである。
 何故なら、あらゆるすぐれた藝術家が、世間のいはゆる「現實」のみには滿足できずに、「現實よりもつと現實なもの」を捕まへようとしてゐることを、彼はよく見拔いて、それをばはつきり我々に示さうとしてゐるからだ。
「現實よりもつと現實なもの。」それがどれだけ確實に、しつかりと捕まへられてゐるかによつて、藝術の作品の價値は決定されるといつてよい。そしてさういふ「現實を超えたもの」には、我々はただ、それらのよい作品を通してしか、觸れることが出來ないのだ。
 そのやうに僕には、超現實主義は少くとも藝術の見方を一歩進ませるやうに見えるが、それにも拘らず、それを藝術の一方法として取りあげようとするなら、僕は躊躇しない訣にはいかない。
 僕は、超現實主義的方法によつて、どこまで新しい詩が創造されるかどうか、疑問に思つてゐるからだ。
 僕はたとへば、フロイドの學説は確に夢の註釋としては面白く思つてゐる。しかしその學説によつて新しい夢が創造されようとは思はないのである。僕は超現實主義の場合もそのやうに考へる。それは確に藝術の新解釋としては面白い。しかしそれによつて新しい詩が創造されるか否かは疑問だ。
 僕は超現實主義の作品をいかに多く讀んで見ても、その理論ほど面白いものにぶつからないのは、さういふためではないだらうか。
 しかし超現實主義は、藝術の千古の謎を解くべき重大なる鍵を僕らに與へたには相違ない。
(初出時の表題は「すこし独断的に――超現実主義は疑問だ」。)

          ※(アステリズム、1-12-94)

 僕らの古典主義はまた別の問題である。
 ここで僕らの古典主義といふものを誤解されないやうに、僕は一つの比喩を語らう。
 一個の風船。それを一本の絲が地上に結びつけてゐる。その間、それはわれわれをあんまり感動させない。しかし、その絲が切られる。すると風船は、ひとり、美しく、空に上昇する。その時、われわれは深く感動する。
 そこに僕らの古典主義の原理がある。一つの作品が現實に絲によつて結びつけられてゐる間は、そんなに美しくない。もつと美しくなるためには、その絲が切られなければならないのだ。
 あらゆる浪漫主義は、作品と現實とを混同させることから出發する。そしてだんだんその關係を深めて行くのだ。その結果、作品は作家の告白コンフエシヨンとなる。告白コンフエシヨンの文學はもつとも素朴の文學だ。苦しい人間が苦しいと書くのは、小鳥が歌を歌ふのと何等變りはない。彼の苦痛が我々を打つためには、それが彼の心臟から切離されてゐればゐるほどいいのである。
 アンドレ・ジィドなども、その點はまだ、ロマンチストである。彼の作品にはあんまり告白が多過ぎる。
 それがコクトオやラジゲの作品になると、ほとんど告白らしいものが見出されない。作品が現實から完全に切離されてしまつてゐるのである。さういふものに僕らはもつとも深く感動される。
(初出時の表題は「すこし独断的に――超現実主義は疑問だ」。)

          ※(アステリズム、1-12-94)

 小説の危機――さういふものを僕は痛切に感じてゐる。
 たとへば、今日ぐらゐ、詩が小説の中に割込んできてゐる時代はあるまい。そしてこの混合は近頃ますます、ひどくなつてきたやうだ。しかし、小説を小説であらしめるためには、さういふ混合をも出來るだけ避けて行かなければならない。もし我々がまだ小説といふ獨自の形式を信用してゐるならば。
 詩が生れるのは、一種の發汗作用だ。あらゆる精神上の散歩、スポオツ、格鬪などがさういふ汗をかかせる。詩とは汗だ。
 だが、小説を書くには、それだけでは充分でない。それにはもつと複雜な精神作用が、百パアセントの虚構フイクシヨンが必要だ。よい小説とは言はば「嘘から出た眞實まこと」だ。本當の小説家は、いつも眞實を語るため虚僞を使用する。反對に、虚僞を眞實のやうに見せかけて言ふ奴は、もつとも惡い小説家だ。「小説家は命がけで嘘をつくべし。」
 ところで、小説を小説であらしめるためには、たださういふ詩との混合を避けるばかりでなく、「小説に特有でないあらゆる要素を、小説から取除く」(ジィド)必要がある。一例をあげると、筋とか、事件とか、風景などは、すでにシネマの領分に入つてゐる。それらのすべてはシネマに任せてしまふがよい。等、等。……

 今日の多くの小説の中で、僕がこれこそ本當の小説だと思つたのは、若いレエモン・ラジゲの書いた「舞踏會」だ。此の小説が一番僕を打つたのは、作者の異常な手腕によつて虚構された人間社會の生きたカラクリだ。スタンダアルの小説が僕を打つのと全く同一のものだ。
 小説を書く以上は、かかる傳統的な法則に從ふより他はない。
 だが、かかる法則を破壞して、新しい小説(?)の型を創り出さうとしてゐるものも、無いのではない。その一人はジェムス・ジョイスだ。彼の「ユリシイズ」は單純に小説と呼んでいいものであるかどうか。これは恐らく、バルザックが今日の小説といふものを當時の物語類から獨立させたごとくに今日の小説からジョイスによつて新しく獨立させられた未知の型式だ、と云つた方がいいだらう。「ユリシイズ」が今日の讀者を當惑させてゐることは非常なものだ。しかしこれは、小説とは別種のものであるが、それなりに完成した新しい一個の文學であることは、疑ふべくもない。そしてこれを理解するためには、まづ第一に、ジョイス流の新しい文學上の見地に立つことが出來なければ駄目だ。
 このやうに、我々の時代は、傳統的な「舞踏會」と革命的な「ユリシイズ」との間に板挾みになつてゐる。そして、そのいづれに行くべきか、我々は躊躇してゐる。――ところで、かかる不安な雰圍氣によつて、ここに、一種獨特な小説が創り出されつつあるのだ。
 そこにジャン・コクトオの小説がある。彼は自分の小説に「ポエジイ・ド・ロマン」(小説詩)といふ獨自な型式を與へてはゐるが、それは彼の苦しまぎれに過ぎない。彼の小説は、ジョイスほどではないが、すこぶる我々を當惑させる思ひがけない、新しいスタイルによつて、一個のフィクション(それはラジゲと同樣に傳統的な)にアンダアラインしたものである。そして恐らくは、もつと現代的な小説がそこに、あるだらう。いや、あるより他に仕方がないだらう。
(初出時の表題は「小説の危機」。)





底本:「堀辰雄作品集第五卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年9月30日初版第1刷発行
初出:詩的精神「帝国大学新聞 第二百九十六号」
   1929(昭和4)年5月13日
   芸術のための芸術について「新潮 第二十七巻第二号」
   1930(昭和5)年2月号
   超現実主義「文学 第三号」第一書房
   1929(昭和4)年12月1日
   すこし独断的に――超現実主義は疑問だ「帝国大学新聞 第三百三十七号」
   1930(昭和5)年4月28日
   小説の危機「時事新報」
   1930(昭和5)年5月20日
初収単行本:「堀辰雄全集 第五巻」新潮社
   1955(昭和30)年3月10日
※初出時の表題を、各章の末尾に補いました。
入力:tatsuki
校正:岡村和彦
2013年1月9日作成
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