七月二十五日、信濃追分にて
この前の土曜日にこちらに來るかと思つてゐたが、とうとう來られなかつたね。君のゐる大森の室生さんの留守宅の方へ手紙を出すと、どうも郵便物はみんな輕井澤の別莊の方へ送されてしまふらしいから、君の働いてゐる建築事務所宛にこの手紙を出すことにした。が、どうも輕井澤に建てるヒュッテの設計を頼む手紙ででもあるのならいいが、君に詩集を貰つたお禮を書くんぢやあ、なんだか少し變な氣がするね。君の詩集(「萱草に寄す」)、なかなか上出來也。かういふものとしては先づ申分があるまい。何はあれ、我々の裡に遠い少年時代を蘇らせてくれるやうな、靜かな田舍暮らしなどで、一夏ぢゆうは十分に愉しめさうな本だ。しかしそれからすぐにまた我々に、その田舍暮らしそのものとともに、忘られてしまふ……そんな空しいやうな美しさのあるところが、かへつて僕などには arrire-got がいい。
まあ、君の詩集のことは今はこの位にして置いて、そのうちゆつくり批評をしよう。ただ一ことだけ言つて置きたい。君は好んで、君をいつも一ぱいにしてゐる云ひ知れぬ悲しみを歌つてゐるが、君にあつて最もいいのは、その云ひ知れぬ悲しみそのものではなくして、寧ろそれ自身としては他愛もないやうなそんな悲しみをも、それこそ大事に大事にしてゐる君の珍らしい心ばへなのだ。さういふ君の純金の心をいつまでも大切にして置きたまへ。
この頃君の寄こす手紙は、そんな詩をいい氣持で書いてゐた學生の頃とはだいぶ異つて、すこし不安で苦しさうだが、さういふ粗野な現實に辛抱づよく耐へてゐる君の姿が手紙のうちにもだんだんしつかりして來るやうに見えるので、大へん嬉しい。詩作などのことについてだつたら、ともかくも、そんな生活の上の助言などは僕にはとても出來さうもないからね。又、さういふものは、それ自身としてどんなに立派な助言だらうと、いかに空しいものか! ――僕はこなひだ京都に滯在してゐたとき、或日、獨逸文化研究所にO君を訪ねて行つたことがある。O君はまだ來てゐられなかつたので、僕はしばらく大きな應接間で一人きり待たされてゐた。――僕はそこでぼんやりと煙草を二三服したのち、何氣なく傍らの卓子の上に置いてあつた獨逸の新聞の束を手にとつて、ばらばらとめくつてゐると、それへ毎號繪入小説を連載してゐる作者の名前がどこかで見覺えのあるやうな氣がしてきたが、そのうちその小説の第一囘の冒頭にその作者のことが寫眞と共に小さく紹介してあるのを見ると、それはリルケがあの有名な手紙を書いて與へた往年の若き詩人――フランツ・クサヴェア・カプスなんだ。あのカプスがいまはこんな繪入小説を書いてゐるのか、と僕はしばらく自分自身の眼を疑つた。が、まさしくカプスだ。もつとも、あの「若き詩人への手紙」の序文のなかで、カプス自身、生活のためにリルケが彼に踏みこませまいと氣づかつてゐたやうな領域へいつか追ひやられてしまつてゐるのを嘆いてゐたことを讀んで知つてはゐたが、――そのカプスのその後の消息については僕は何も知らず、又何も知らうとはせず、それきり世に知られぬ生活の中に埋もれてしまつたのだらう位に想像してゐた。そんな方がかへつて、リルケにあんなに好い手紙を貰つた若い詩人の悲劇らしく奧床しいと考へてゐたが、そのカプスがいまはこんな仕事をしてゐるのか、と思ふと、僕はそれを拾ひ讀みして見ようなんていふ好奇心すら起らず、ただなんだか胸の痛くなるやうな氣がしたばかりだつた。
そのうちにO君が漸く來たので、それを見せるとO君もそれを知らずにゐて、一驚して讀んでゐたが、そんなカプスのことから僕達の話はいつかリルケの方に移つていつた。僕なんぞよりもずつとよくリルケを讀んでゐるO君にいろいろな話を聞いてゐるうちに、自分のリルケの本といへば殆ど全部其處に置きつ放しにしてある山里の方が變になつかしくなつて、僕はなんだかかうやつて京都や奈良をぶらぶら歩きまはつてゐるのに一種の悔いに似た氣もちさへ感ぜられてきて仕方がなかつた……
その山里に、かうして又、漸つと歸つてきた訣だ。毎夏のはじめに此處の原野に群がつて咲く、君の好きなユフスゲの花はぽつぽつと吹き出してゐるけれども、いつもそれに食ひ入るやうに見入つてゐた君の靜かな姿のそれと共に見えないのが何處やら物足りない。……すこし病氣の野村英夫君はもう僕よりも先きに來てゐて、僕を待ち佗びてゐた。しかし思つたより元氣がよささうだ。夕方、よく二人きりで、村はづれまで散歩に行く。この冬、わざわざ僕の頼んだ空氣銃を自分で持つて來てくれて、一しよに雪の深い林のなかを兎の足跡を追つたり、此處の村はづれで偶然僕達の頭上に落ちてきた傷いた雉子をつかまへて、それをその晩二人で面白半分食べてしまつたことなど、そこいらの草の中に坐りながら、話し合つたりする。あれから間もなく病氣になつたので、その祟りだらうと僕がからかふと、獲つたのはいいんだけれど、あれを食べなければよかつたんだと、野村君はすこし氣まり惡さうに笑ふ。――その夕方も、又雉子の祟りか、野村君だけ
それから去年レムブラントの論文を書きに來てゐたK君の友達で、M君といふのが、今年はドラクロワの論文を書きに來てゐる。やつぱり立派な畫集をどつさり持つて來てゐる。去年の夏はK君の持つてきてゐたレムブラントの畫集を片つ端から自分の部屋へまで持つて來て樂しんだが、この夏もひとつその流儀でドラクロワを樂しんでやらうかと、蟲の好いことを考へてゐる。
こんなことを書いてゐたら、あの去年の夏ぢゆう見て暮らしたレムブラントのさまざまな繪がはつきりと心に蘇つてきた。よく君たちが、の木蔭にねころんで喋舌り合つてゐた傍らに、僕だけ一人すこし離れて、やはり同じやうに寢ころびながら讀んでゐたモオリアックの「蝮のとぐろ」の幾つかの情景が、そのレムブラントの繪と混んがらかり合ひながら。……さう云へば、僕はまだ覺てゐる、シャルル・デュ・ボスがモオリアック論の中でその「蝮のとぐろ」の結末の美しさを説くために引用してゐたフロマンタンのレムブラントの「善良なるサマリア人」についての批評を。――「もう日暮れだ。すべてのものは影の中にあつて、ただ、黄昏の單一な靜謐に領せられてゐる畫面の上をあちらこちらにと移動してゐるやうに見えるほど、いかにも移り易く、氣まぐれに、輕くそつと置かれてある、二三の微光が搖曳してゐるのみである。……」
さういつた内部より發して、外部にまで輝やき出づるところのレムブラント光線、さういつた「搖曳する微光」を、僕はそのモオリアックの小説の中にもいかに愛してゐたか? その「蝮のとぐろ」の恐ろしい主人公は、いつも自分自身の外にばかりゐて、彼の家族を苦しめ、憎惡によつてのみ生き、その憎惡の裡にのみ自分の存在の意義を見出しながら老年に達する。――しかし、彼は遂にその憎惡にも死に遲れるほどいたく年老いて、或日、目ざめる、彼が誤つて自分はそんな人間だと信じ切つてゐたものから本當の自分自身に目ざめる。……
その最後の三章ほどの、レムブラントの或種の繪にそつくりなやうな、何とも云へず莊嚴な美しさ! その夏ぢゆう、僕はそれにすつかり魅せられて、身の程知らずとは漸つとあとになつて氣がついたが、自分もさういつた何とも云へず美しいレムブラント光線をもつたやうな、小説が書きたくて、毎日々々、この村で自分の見聞する乏しい材料を土臺にして、いままでの僕の小説には似ても似つかぬやうな物語の筋を立てては、やがて力及ばざることを知つて、自分から壞してゐた……
が、今の僕にはすぐにそんな小説が書けさうもなくても、まだすつかり諦め切つた訣ぢやないんだよ。そのうちにきつとそんなのも書いて見せる。どんなものを描くかはまだ一向見當がつかないが(しかしその小説の基調となるべき雰圍氣はいま言つたやうなものさ、――さういつたやうなものから一つの小説が次第に形をとりだすのを辛抱強く待つてゐるのが僕の小説作法だ。これだけは君に白状してしまふ)その物語の舞臺は、誰に何と言はれようとも、いま僕の住んでゐるこのへんの山麓の小さな村、何度も何度もこれまで僕が自分の小説に使つたのと同じ村にするつもりだ。
けふ偶然に屆いたモオリアックの日記を手にとつて見てゐると、彼がその大部分の小説の舞臺に使つたマラガアル地方の風景のことだの、それに對する彼の偏愛だの、又、その地方の實際の風景は小説のそれとはだいぶ異つてゐることだのを率直に語つてゐる頁に出合つた。さうしてその何處へいつても葡萄畑の果てしなく續いてゐるやうな田舍の風景を、いまこそ生地のまま描いて見せながら、何度自分はこの「夏がその熱を測量させる」平原を描いたか! とモオリアックは云ふ。ここかしこの屋根の上や葡萄畑の上の煌めき、麻痺したやうな沈默、それらすべてのものは「それ自身」存在してゐるのだらうか? 自分は自分の愛してゐた人達、自分の發明した人達を通してそれを見つめてばかりゐたので、この風景は自分にとつては人間的な、餘りにも人間的なものになつてしまつてゐる……。
「が、どうにもしやうがない! 私は敢へて自分の考へるところを言はう。――この風景こそは、自分の眼には世界中で一番美しいもの、生き生きとした、まるで同胞のやうなもの、私の知つてゐることは何でも知つてゐる唯一のもの、私がもう誰にも語らうとはせぬ滅びた顏をもまだ覺えてゐる唯一のもの、さうして夕方、酷熱の日の後などは、その風が神の被創造物の生氣のある、熱い呼吸ででもあつて、まるで母に抱かれてでもゐるかのやうだ。おお、息づいてゐる大地よ」
さういふフランスのマラガアル地方とは、凡そ風景が異ふが、この僕の(君はそれはまた私のですと言ひたいところだらうね?)山麓の小さな村々に就いて、前者におけるモオリアックの場合と同樣、それとそつくり同じやうなことを僕は(恐らくは君も亦)どんなに言ひたいだらう。
輕井澤へは數日前室生さん達を迎へに行つたとき一遍行つたきりだ。あちらに一泊してきたが、いつものやうに早朝に起きると僕は一人でぶらつと櫻の澤の林道の方へ散歩にいつた。さうして僕は今年の夏になつて始めて、例の、口笛の嫌ひな、すこし被害妄想狂の、しかし好人物らしいシュテルンベルク氏に出會つた。(君も知つてゐるだらう。)去年とそつくり同じ姿で、相愛らず毛の茶がかつた、小さな犬を引張つて、帽子もかぶらず、ステッキを突いて、すこし背中を曲げながら、とつとつと向うから歩いてきた。僕はなんだか氣輕にお辭儀でもしてちよつと好意を示したいやうな誘惑を感じながら、しかし默つてそのまま、彼とすれちがはうとした矢先き、ふいとその老外人の連れてゐる茶色の犬が頭に小さな怪我をしてゐるのを見つけて、思はず心持ち身をこごめながらその頭へ手をやつて、「怪我をしてゐますね?」と相手の顏を見上げながら、その言葉が通じようが通じまいが、構はずに口をきいた。はじめて口をきいたのである。
「…………?」シュテルンベルク氏は強さうな近視眼ごしに、しばらく怪訝さうに私の方を見つめてゐた。
「かあいさうに……」と私はそれから目をつとそらせて、今度はひとりごとのやうに言ひながら、そのまま二人の間には何事もなかつたやうな顏をして、その老外人と犬から離れて行つた。さうして、數歩行き過ぎてから、ひよいと後をふり向いて見ると、老人はまださつきの姿勢のまま、私の方を、いかにも好意に充ちたやうな眼つきで見送つてゐた。
さう、私は君に言ふのを忘れたが、シュテルンベルク先生は最近この櫻の澤のずつと奧になる、「幸福の谷」(!)に住んでゐるんだ。
それから僕はそのシュテルンベルク先生が昔住んでゐた、村のずつと西方にある「匈奴の森」のことを思ひ出して、つい遠いのでひさしくあの森の方へは行かなかつたが、今はどうなつてゐるかしらと思つて、朝食後、
さう、もうこのへんで筆を置いた方がよからう、詩集のお禮が、とんだものになつてしまつた。下らないことをいい氣になつて書いてしまつたが、最後の森のなかのヒュッテの空想は、本當に偶然だが、いい思ひつきだつたな。これで、どうやらまあ建築事務所宛にこの手紙を出す口實が見つかつたと云ふやうなもの。