今朝も七時ごろに目が覺める。
それから一時間ばかり、私は寢床の上で、新聞を讀みながら、日光浴をやる。この頃は、丁度おあつらへ向きに、その時分になるともう朝日が一ぱい寢床の上にあたりだす。
八時頃やつと起きる。自分でパンをあぶり、チイズを切り、紅茶をいれる。無精な私なのだが、これだけは自分でしないと氣にいらない。
郵便物がくる。その中に雜誌が二三册と、江川書房からの小包がひとつある。眞先きにその小包を開けて見ると、小林の今度譯した「テスト氏」。――何だか、かう、すらりと脊の高い人を見たやうな感じの、美しい小册子である。
私はそれをそのまま、飮みさしの紅茶と一しよに、自分の部屋へ持つて行つて、早速ペーヂを切りながら、ところどころを拾ひ讀みする。――ヴァレリイの筆の難解なせゐもあらうが、もう頭がすこしぼんやりしだす。へんに眠い。これがこの頃の私の病氣なんだ。一種の神經衰弱ださうだけれど。……私は氣分を一變させようと、今度は、この頃日課のやうに讀んでゐるプルウストの本を取りあげる。小さな
「……私はエルスティル(小説中の畫家の名)の水彩畫の中でこれらのものを見てからといふもの、私はこれらのものを現實の中に再び見出したく思ひもしたし、又、何か詩的なるものとしてこれらのものを愛するやうにもなつたのである――まだ横に置かれてあるナイフのでこぼこな面、日光がその上に黄色い
印象派の、まるでモネエか何ぞの繪そのものを見てゐるやうな感じ。――こんな一幅の靜物畫などはプルウストにはお手のもの、私が今までに讀んだ箇所だけでも、もつと大がかりな、もつと素晴らしい人物畫や風景畫には、何遍もお目にかかつた。だから今さらこの精妙な描寫には驚かぬ。――ただ私はますます痛切に感じる。かういふプルウストの筆の綿密さといふものは、彼の視力の生れながらに微密なことはおくとして、ひとつは彼の筆の投げやりなところから來てゐるのではないか、と。彼の近親者の語るところによれば、彼はこの大部の小説の多くを病床に横になつたまま、興のままに筆をとり、興去ればすなはち筆をおくといふ風に、ごく氣ままに、ノン・シャランスに書いたのではないかと思はれる節がある。かういふ彼のほとんど投げやりといつていい筆つかひは、――あの見るからに苦心慘たんとした「ユリシイズ」の作者とは良い
晝飯。この頃は
それから私はいつも、晝寢用の特別に小さい蒲團をひいて、その上に一時間ばかり眠れても眠れなくともごろりと横になつてゐる。ちよつと眠れさうもない時は、私は床の間に亂雜に積んである本の中からいい加減に一册引つこ拔いて、それを讀む。私はこの頃かういふ時間を利用しては、日本の古典を讀んでゐる。最近讀んだものは「竹取物語」「伊勢物語」「春雨物語」それから「更級日記」等……皆讀んでいい事をしたと思つてゐるがその中でも私は「更級日記」を大層好む。私はこの夢見心地になることの好きな、そしてすこしばかり薄倖な作者について一喋りしたいのだが……
今日はその晝寢の時間に、すこし眠いのを我慢しながら、この日記を書いてゐる。もう散歩の時間だから、止めよう……